縮刷版2016年4月上旬号


【4月10日】 特に調べようとも思わないで新番組だからと見た「はいふり」が何かすごいことになっていた。いやストーリーは普通に女の子たちが船乗りになる学校にはいってさあこれから海洋訓練だ、なんて感じにハートフルシップストーリーだったけれども途中、主人公たちがのった不燃が故障とかあって遅刻していたところに共感の乗った船が攻撃をしかけて、交わしていたけど当たりそうになったんで反撃したら裏切りだって言われてしまった。そこで映し出される日本の光景は、平野部が墨に沈んで海上都市が幾つも気付かれているという未来的ビジョン。ここからあるいは話はハートフルシップストーリーががらりと変わって、子供たちだけが乗った単独の船で世界を相手に戦うような「スターシップ・オペレーターズ」とか「無限のリヴァイアス」みたいなシリアスな展開になっていくんだろうか。タイトルも「ハイスクール・フリート」って代わってホノボノ感も取り去られた。さてどうなる。猫のいそろくは何者だ。見ていこうしばらくは。

 どこに水玉があったんだ。それは落ちていく奴の目の中にあったのか。分からないけど分かったふりをするしかないところがちょっと寂し「キズナイーバー」は動きとか良いしキャラクターのデザインも好きな方だし眼鏡でツンケンしている女子とか可愛かったんでこれからもしばらくは見るけれど、でも誰かが感じた痛みが別の何人かに共有されることがいったい、どいういう状況をもたらして何かの解決につながるのか、って考えた時に今はまだそうした展開が描かれていない以上、面白くなるかどうかちょっと判断がつかない。というかどうして傷みだけなのか。くすぐったいとか気持ち良いって感覚は共有されないのか。そこが不明。それとも痛みを感じづらい主人公に特化した改造で、彼に痛みを感じさせるために1人では足りないと何人かをまとめて感覚を共有させたのか。そいういうあたりも含めてしばらく見ていくしかなさそう。伊勢うどんってそんなにコシがないのか。

 弘前に行きたい。行ってマンドレイクを引っこ抜きたいけれども、耳を塞いでないと死んでしまうから1人ではちょっと無理なので、引っこ抜いている間の僕の耳を塞いでいる人がいて欲しいけれどもその人の耳は誰が塞ぐんだと考えると夜、寝られなくなっちゃう。だからマンドレイクは見つけたら近所の魔女に頼もう。きっと一生懸命に引っこ抜いてくれるだろうから。でももらってもあんまり嬉しくないかなあ。「うううううううううううう」って声を出しながら手足、バタバタさせているし。そもそもどうやって毒を抜いたら良いか分からないし。ってなことで始まったアニメ「ふらいんぐうぃっち」がとても最高だった。

 まずは風景が良い。そしてテンポが良い。間合いも最高。魔女だからって「あぎゃー」とか「うわー」といった感じには大きく驚かず、「おいおい」とかいった具合に厳しい突っ込みもいれないで淡々と、それでもちゃんと事態に引きつつちょっぴり驚いているような雰囲気も出して、見ている人をその意外な出会いから受けるちょっとした驚きにいっしょに引っ張り込む。だからついつい見入ってしまう。ラスト、なおが引っこ抜かれたマンドレイクを真琴差し出された場面とか、「うううううううううううう」とうなっているマンドレイクを映して長回ししているのを見ているだけで笑えてくる。面白いなあ。弘前が舞台だけれどもそこを無理に売り込むようなこともない。静かに始まり淡々と繰り広げられる不思議ってのは、「夏目友人帳」の間合いにもどこか似ている。育てれば大きく育ちそうなコンテンツ。なので日本テレビには1クールといわずしっかりと、サポートしていって欲しいなあ。

 せっかくなんで「美少女戦士セーラームーン」の20周年を記念してスタートした企画のひとつ、公式ファンクラブの結成っといったイベントを見物に行って涙ぐむ。ミッチ。堀江美都子さんが登場してはあの「美少女戦士セーラームーン セーラースターズ」のオープニング「セーラースターソング」を唄ってくれた。しんと静まりかえった中に始まるサビの部分でのしっかりと、そして天空に届くように発せられる綺麗な声を耳にしただけでも心に突き刺さるけれど、それがかつて耳に親しんだ「セーラースターソング」ってことが感動に拍車をかける。前に唄っていた人は別の人だけれど、名曲である上に心に沁みた歌である上にミッチという、ある意味でレジェンドでありなおかつ現役というシンガーの声によって奏でられる。その至福に涙ぐまないでいられるか。そう感じた人も大勢いたみたいで、ネットには涙につけまつげが落ちたとか言ってる人もいた。まったく不思議なことではない。

 ミッチ自身はこの歌を、1月に出たトリビュートで唄っているそうで、そんなものが出ていたのかと思っていたら開場して開演までの間に前方のスクリーンに、そのアルバムの楽曲を紹介する映像が流れていた。ももいろクローバーZもいればやくしまるえつこさんもいて中川翔子さんも唄っていたりと豪華だけれど、個人的には桃井はるこさんにおyる「“らしく”いきましょ」が良かったかなあ、ポップに弾むような歌にあのモモーイのピチピチとした声がぴったりハマるんだ。やくしまるえつこさんの「乙女のポリシー」も捨てがたい。そしてミッチの「セーラースターズ」。名盤じゃん。できればオリジナルの歌声も含めた2枚組とか、また出してくれた嬉しいけれどそれはなさそうなんでとらえず、このトリビュートを買って聞こう。

 っていうとオールドな「美少女戦士セーラームーン」シリーズにかまけた懐古主義者扱いされそうだけれど、イベントで上映された「美少女戦士セーラームーンCrystal」の第3期「デス・バスターズ編」の第2話を見てこれはと考えを改めた。絵柄が昔のシリーズになんか似ているというか、ギャグとデフォルメの感じに前のシリーズのテイストがあるていうか。だから親しめる上に原作準拠で天王はるかがとてつもなく“男前”になって海王みちるもエロティックさが増して、2人が出ているだけで空間にバラが漂う。ユリだけれどバラ。そんな倒錯が味わえる。

 そしてこれは監督たっての要望で、今までとはまた違った手描きによる変身シーンを楽しめるといった具合に、前のファンも今のファンもともに懐かしさと新しさを感じられる作品に仕上がった。さすがは原作を曲げず伸ばすことにたけた今千秋さん。チーフディレクター(監督)として自分のセーラームーン好きを存分にたたき込んでいる。さすがはイベントにセーラームーンコスで出た人。安心して任せて良さそう。第2期までは飛び飛びといった感じだったけれど今回は毎週の放送をちゃんと見届けよう。天王はるかの時の男装と、セーラーウラヌスの時のミニスカートのギャップがまた、すばらしいんだよこのシリーズ。それだけで見る価値十分。もちろん堀江美都子さんが5月から唄うというオープニングも。今はやくしまるえつこさんが唄ってやくしまるさんらしさを感じさせている曲を、ステージ上で見事にミッチの歌として唄ってのけた。やっぱり凄いシンガーだ。

 でも「美少女戦士セーラームーンCrystal」といったらやっぱりももいろクローバーZがメーンに来る感じで、イベントもももクロ目当ての人がいっぱい来場してはももクロの時には立って声援を贈っていた。その数半数以上。ってことは美少女戦士セーラームーンのファンクラブというよりももクロのファンクラブってことにならないか、なんて不安もある心底からのセーラームーンファンが、そんなももクロ目当てのファンクラブ入りをどう思ったかんて心配もあるけれど、そこに繰り出されたミッチのあの歌声を聞けば、誰だって感涙して堀江美都子さんのファンになるだろうし、上映された今千秋さんによるギャグもあってコミカルさもあって、天王はるかと海王みちるのエロスもある映像を見ればファンにならざるを得ないだろう。なるはずだ。なって欲しい。そのあたり、願望も混じるけれどもももクロファンがセーラームーンの場を荒らす、なんてことを思われても心外だろうし、ここはどっちも好きを実践し、末永く応援していって欲しいもの。お願いしまうモノノフたちよ。

 なんかイギリスで日本映画の配給とかやっている人にインタビューした記事があって、今の日本映画はダメダメだって言わせていただけれどよんで一言。「くだらねえ」。だって具体的にどの映画の何が悪いのかを指摘している訳じゃないもん。「進撃の巨人」がアメリカのテレビドラマっぽいってあったけれど、そんなものが批評なものか。具体的にどこがどう悪くて世界じゃ受けないって言わせなきゃ意味がない。コミックが原作の恋愛映画に溜息をついてるって書いてあったけど、そうした映画のレベルがどう低いのかについて言葉で説明しなくちゃ世間は動かない。そんな中身のまるでないインタビューでも、日本映画のダメなところだけ見たい人にはひっかかる。そしてバズってアクセスが伸びる。釣り成功。くだらねえ。

 園子温監督の映画を見に行く人の9割以上に園子温監督の名前が知られてないって? そんなことあるわけないじゃないか。タイトルも含めて園子温だから見に行く人だって大勢いる。一方でいわゆる商業的な映画が誰の監督だからって見に行く必要なんてあるのか。スピルバーグとかルーカスならまだしもゴマンと制作されているヒーロー映画が誰の監督だからって見に行く人が、洋画だっていったい何割くらいいるっていうんだ。見て良ければ監督を見てああそうか、だったら次もこの監督なら嬉しいかってことになる。そうでなくてもやっぱり行って、つまらねれば監督が替わったのかと思う。それだけのことだろう。まずは映画。その面白さ。誰が出ているか。その素晴らしさ。監督名だけが先行したららむしろいけないだろう。監督名が出るようになったらとてつもない巨匠だと思え、なおかつそうなったら監督名でしか呼べない映画だと思え、そんあところ。

 けれども、商業作品なのか芸術系作品なのかブロックバスター的な作品なのか特撮映画なのかアニメーション映画なのかといった切り分けもしないで、同じ日本映画と括ってそれで面白くないものもあったことをさも全部が面白くないかのように相手に答えさせ、そういうイメージで世の中にアピールして日本映画イカガナモノカ病に罹っている人たちを呼び寄せて悦に入る。そこには日本映画の何がいけなくて、そしてどうしたら良いかなんて提言はない。お気楽で手軽。でもアクセスだけは稼げる記事。書いてて面白いのかなあ。良いのかアクセスさえ稼げれば。前にこの記者、前南京事件を扱った映画にハーケンクロイツが出てたって大馬鹿書いていたものなあ。全然違うのに。でも散々っぱら否定されてもそれを改めようとしなかった。。自分の書きたいことさえ書ければ、それで読者が連れればオッケー。そんなポン酢に映画を語られてたくないし、語らせちゃいけないのに平気の平左で書かせてる。媒体含めてポン酢ぞろい。先は長くないかもなあ。そりゃ困った。


【4月9日】 とりあえず最終回だったテレビアニメーション版の「亜人」を見たけれど、佐藤が製薬会社を隣のビルを倒すことで押しつぶし、囲んできた警察の特殊部隊を返り討ちにして大勢を殺した上に、第2ウエーブ、第3ウエーブといった具合にさらなるテロを宣言して世間を大慌てさせている一方で、田舎に潜伏していた永井圭に関する通報があって向かった戸崎優と下村泉だったけれども、捕らえいた別の亜人の中野功も加えて攪乱をして来た永井圭が、オグラ・イクヤですら想定できなかったI・B・Mの何度でも出しを繰り出し下村泉のクロちゃんを押し切って逃走に成功。相次ぐ失態にそろそろ戸崎優の立場も不安になって来た。

 これでクビになってしまったら、亜人だという正体を戸崎によって隠されながら付き従っている下村泉の立場がちょっと不安になりそう。美人で胸大きくて黒い幽霊をクロちゃんと呼ぶ可愛い娘さんが切り刻まれるのはなあ。かといって佐藤に靡くタイプでもなさそう。どうなるんだろうこの先。漫画版だと第2ウェーブへと入って日本の亜人利権に群がる奴らの殺害を佐藤が始めていて、それに永井圭やら中野功やら戸崎優やら下村泉やらオグラ・イクヤやらが立ちふさがろうとしてる感じ。でもあれだけの戦闘力と実行力のある佐藤相手に勝てるのか? そんなあたりの連載が、ある進んでから再度、アニメーション化ってことになるのかな。期待しながら待とう。

 ちょっと世の中に不安を抱えた若い人たちが、田舎に行っていろいろな人と触れあいながら成長し、心を開いていくハートフル田舎ぐらしストーリー、それが「迷家 −マヨイガ−」です、って言って信じる人なんていないだろうなあ、いくら「ガールズ&パンツァー」の水島努監督による新作テレビアニメーションでも。っていうかもともとが「Another」の監督な訳で今回の「迷家 −マヨイガ−」ではそっち方面のセンスを存分に発揮して、どこか知らない場所へと向かう陽気そうでどこか壊れている若い人たちの悲惨にして残酷な運命ってやつを、ネチネチと描いていくんだろう。「運の悪いヒポポタマス」とか拾ってきて唄わせるセンスを炸裂させて。ひゃあ。

 川上稔さんの「境界線上のホライゾン9<上>」(電撃文庫)が発売されたんで朝イチに本屋で拾ってこれを読みつつ長距離を電車で移動して吉祥寺にある武蔵野吉祥寺美術館へ。ここん家で今日から萩尾望都さんのSF関係の原画を集めた「萩尾望都SF原画展 宇宙にあそび、異世界にはばたく」が始まったんで早速見に行ったらすごい美少女が2人も立ってて腰をぬかした。ひとりは阿修羅王でもうひとりはレッド・星。それぞれに「百億の昼と千億の夜」「スター・レッド」に登場するヒロインっていうか、「百億の昼と千億の夜」ではシッタータを導き帝釈天の軍と戦う戦士だけれども、そんな2人の立て看板が並んで出迎えてくれる会場には、両作品の原稿がありカラーイラストがあって、連載で読んで単行本で見つめたその美貌に生で直接対面できる。

 同じ機会は以前も東京の西武百貨店池袋店で開かれた原画展でもあったし、その時は分量ももっと多くてなおかつ今回は除外されている「ポーの一族」「トーマの心臓」といった、萩尾望都さんの耽美な面を表した作品やバレエ関係の作品なんかもあって総花的に楽しめた。阿修羅王もレッド・星もいっぱいいたけど今回は会場がそれなりのスペースだから量については会場にしては、そして100円の入場料にしては十分と言えそう。なおかつSFということで野阿梓さんの「凶天使」や「花狩人」に寄せた表紙絵や挿絵、ジャック・ヴァンスの「魔王子」シリーズの表紙絵なんかもあってSF好きにはたまらない内容になっている。なつかしい少年チャンピオンとかも置いてあったりしたかな。あの時代のあのラインアップによくぞ萩尾望都さんを混ぜ込んだもの。おかげで僕も知れたんだけれど、その存在を。

 「マージナル」も単行本の表紙絵が並んでいたりして最高に美麗。緻密な線が特徴的なペンの原稿に複雑な塗りがすばらしいカラー原画といったアナログの技にも触れられる絶好のチャンスとして、萩尾望都さんのファンのみならず漫画を志す人は誰もが言って損はなく、むしろ絶体に行くべき展覧会になっているって言えそう。グッズも結構あって、クリアファイルとか絵はがきとかに混じって黒地に金色で阿修羅王が横向きで斜めに立った、何話かの表紙絵に描かれていたデザインが金色で描かれたTシャツがあって早速購入。もうちょっと温かくなったら着て歩こう。図録も出ていたけれども金欠なんで今回はパス。でもいつか絶体に買おう。「銀の三角」「スター・レッド」とか読み返したいけど、家のどこに仕舞ったかなあ。

 そして「境界線上のホライゾン9<上>」。ずっとその退場が気になっていた滝川・一益さんだったけれど、弱った体で故郷へと送り出された後にちゃんと、故郷にたどり着いて襲名を解除し普通に暮らしているのかそれとも、途中で力尽きたのかが仄めかされてはいながらはっきりとは分からなかった。それがようやく判明というか、分かっていたことが明確になったというか、送り出される時にはすでに体も冷たくなっていたという表現から、やっぱり松永・弾正と同じところに行ったってことになっていたみたい。改めて合掌。そんな物語はトーリとホライゾンの間にいろいろあったり、佐久間さんが大きく入らすとで登場したりと読みどころ見どころいっぱい。糟屋・武則が人狼女王の身内しか知らない歌を知っていたり、羽柴・秀吉の素顔がとんでもなかったりと、十本槍も含めた羽柴チームの正体にちょっと踏み込んでいて、種明かしが楽しみ。下巻でされるかその後か。あとは文系の不破・光治が戦闘系の可児・才蔵相手にどこまで戦えるのかってあたりか。次はいつ出るんだろう。

 あの騒動からいったいどれくらいの時間が経ったのか、覚えてないくらいに過去に置き去りにされてしまった前の2020年東京オリンピック/パラリンピックにエンブレムだかれど、今回発表された新しいエンブレムの候補を見るにつけ、前のまんまで良かったんじゃないかって思いがひしひしと。その選考の経緯において形がいじられていたり、それがベルギーの劇場のマークに似ていたりといった問題があって使いづらいことは分かるし、デザインしていた人があちらこちらの仕事で他からのパクリをやっていたことも露見してしまって起用できないことも分かっているけど、それでも今回並んだ4つのエンブレムの平凡過ぎるデザインなら、問題はあっても前の方がクールでスタイリッシュでいろいろと使い勝手も良かったんじゃなかろーか。

 4つある候補の1つはどうにもフレッドペリーみたいでシンプルな上にありきたり。もうひとつは円環の構図がどこか探せば出てきそう。3つめは人が躍動している感じがシドニー五輪とまるで同じで入れ替えても誰も気付かなそう。4つめの朝顔っぽい花だとかがモチーフになったのはそれが日本で東京である意味を感じさせない。これならもっと他に候補はなかったのか、いっそだったら前の選考会での次点も入れた方が良いんじゃないかとすら思えてくるけど、そういう声なんて届かずありきたりの中から選んで良しとしては、また何かと似ているとかセンスゼロとかいった罵倒を浴びることになるんだろうなあ、大会組織委員会。ご愁傷様。

 しかしこんなにケチがついてなお、日本のボロボロぶりを叩くより監督の2018年冬季五輪の施設や運営を誹る方に一生懸命な新聞があるからなあ。それが社是なのかそうすることでしかアクセスを稼げないのか。そういえばその新聞、前に韓国のプロ野球選手が合法的なカジノで遊んだことで非難を浴びていることを紹介しながら、そういったことが蔓延している韓国のスポーツ界を叩いてたっけ。っていうか日本でも野球賭博に関わったプロ野球選手が出ていることにかこつけての韓国叩き。好きだなあと思ったけれども今回、日本で明らかになったのは合法のカジノではなく違法な賭博。どこに資金が流れているか分からないヤバい話で明らかになった中では日本のプロ野球選手の賭博より韓国の野球選手の合法カジノへの出入りより問題の度合いは大きい。でもきっと、これにかこつけて韓国では…って話を持って行くんだろうなあ。それで日本の何が薄まる訳でもないのに。やれやれ。

 やれやれついでにとある新聞の1面下という、いわゆる朝日でいうなら「天声人語」で毎日新聞なら「余録」といった、看板であり知性の総本山ともいえるコラムにとある新聞が今日、載せていたのが東日本大震災の時の菅総理の振るまいに関する罵詈雑言。どうしてこのタイミングで、誰もが不思議に思うけれども、誰が書いたかを想像すればなるほど個人的な恨みをただただ晴らそうとしたもので、そんな読者とは無関係で読んでも何の知見も得られない、過去の事柄への個人的な中傷を1面コラムって場所で平気でやってのける神経がどうにも痛ましい。それを載せて平気な新聞のモラルも同様に。あるいは紙媒体を意識していたら、1面コラムだなんて場所に配慮し公器としての矜持もあって書かなかったことかもしれないけれど、転載されるネット上なら場所への矜持も畏敬も産まれない。フラットな場所に並んで目立てれば勝ちっていう神経が、そういう悲惨な言葉を平気で垂れ流させているのかもしれない。それで題字が安売りされて世間から莫迦にされ、腐っていけば商売にだって差し障るだろうに。今を食って未来を失うポン酢ぶり。参ったなあ。


【4月8日】 すれ違ったことがあるくらいで面識は特にない電撃文庫の編集者の三木一馬さんが、アスキー・メディアワークスから独立して会社を立ち上げたとかでちょっとした騒ぎになっている。でもすでに漫画の世界じゃ編集者の人がコルクって会社を立ち上げては、担当していた有名漫画家さんたちを顧客にして束ねて代理人として活動を始めているから、動きとしてはあまり珍しいことではないし、フリー編集者にはお抱えの作家さんを担いで売り込みとかをしている人もいるから、それを会社として組織だって行うだけと言えば言えそう。浦沢直樹さんなんかと組んでた長崎尚志さんとか、「金田一少年の事件簿」なんかを担当していた樹林伸さんなんかも、編集者兼エージェント的な存在として、活動していたような気がするから、動きとしては最先端といった訳でもない。

 ただやっぱり、こうして相次いで起こってくるとなると、会社に所属して編集者として給料を食みながら作家を見つけ、育て世に送り出していくといった従来からの編集者としての役割が、いろいろと細分化しているのかもしれないなあ、といった思いは浮かぶ。変わってということはなくって、やっぱり作家の面倒を見る編集者はいるし、作家を発掘してくる編集者もいたりする。編集者を束ねて雑誌作り全体を見通すような編集者もいたりして、それは従来から変わらず同じないんだけれど、それを仕事としてすべてこなすってことができなくなって来たってことだろー。

 作家によっては育ててもらった編集者とずっと付き合っていきたいけれど、相手が出世して管理職になってしまったり、会社の都合で他の編集部に異動になっていなくなるってことも起こり得る。それでは困るからずっと気の合う編集者に面倒を見続けてもらおうと願い、答えて編集者もそうした作家の代理人として仕事をするような立場に、自分を留め置くためにも独立といった手段を取った。それが今回の三木一馬さんの会社立ち上げといったものに当てはまるんじゃなかろーか。鎌池和馬さんに高橋弥一郎さんに川原礫さんといった作家を束ね売り込んできた三木一馬さんだけれど、実績を上げれば出世もして電撃文庫の編集長だなんて立場になってしまった訳だし。

 そうなると従来の作家の面倒ばかりを見ている訳にはいかない。メディアミックスの話があってもそれを全部自分で仕切ることもできない。これは当人にとってフラストレーションだし、作家にとってもふあんだろう。だから独立してそうした業務を担うことにした。作家はそこと契約をして諸事を担ってもらい自分たちは執筆に時間を傾ける。かつて知ったる相手がパートナーになる訳だから不安も抱かずに済む。といったところ。なんかエージェントというよりは所属したアーティストの面倒を見て売り込み企画なんかに対応していく芸能プロダクションのような雰囲気がある。ただし、芸能プロダクションと違って売れないタレントを抱える必要がないのは強みで、作家を見つけて育て売り込んでも版元からこいつは売れそうもないから使わないとかいった拒否を受けることはない。だって売れっ子ばかりが所属している訳だから。

 でもこれって、版元にとっては抱えていた売れっ子がいなくなって、そうした人たちで稼いだお金でリスクをとって新しい作家を発掘し、育てて大きくしていくような投資がしづらくなる。それをだったらプロダクションであるところのエージェントが担うかというと、契約している作家の最大利益をめざしている以上、海の物ともしれない新人にお歴々の収益を削って売れないかもしれないリスクをとってお金を傾けるなんてことはできない。そんな状況になった時、誰がいったいリスクをとって新人を見つけ出して育てるのか。そこに、編集者が大挙して有名作家や漫画家を引き連れ、彼らの最大利益をめざすエージェントになりますと言って独立することの危惧がある。

 1人2人といった作家を担当しているフリー編集者なら、出版社が人件費代わりに編集経費を肩代わりして作品をもらいうけ、売れればその幾ばくかは作家に還元されてもだいたいは出版社が利益として得て、それを再投資に回していける。エージェントも同じように、編集経費程度で仕事をしてくれれば良いけれど、すべてを自分たちで担うから取り分は多めにとなって、売れすぎればその分も余計にもらうとなって出版社の取り分が減っていけば、そこがになっていた投資にお金が回らなくなる。高すぎる編集者の給料とか、当たらない映画への投資といった、ポン酢なお金の使い方ができなくなるのは良いことかもしれないえれど、未来の可能性を狭めるのは決して嬉しいことではない。

 今は売れっ子でもかつては別の売れっ子だった誰かの稼いだお金で、冒険をさせてもらっていたという、その連環を断ち切らないで成り立つエージェント制度はあり得るか。そこへの議論も進めていって欲しいけれど、すでに売れっ子になった作家の最大幸福にエージェントは貢献しているんだぜ、ヒャッハーっていった論調ばかりが前に出て、クリエーターは虐げられ編集者は搾取し過ぎだといった史観に染まりがちな世代の喝采を浴びているから話は厄介。そうした熱病を醒まさせつつ、最適の道を探っていって欲しいものだけれど。あるいは三木一馬さんの新会社が新人発掘にも熱意を見せて、次の1000万部プレーヤーを自分の手で作りだして欲しいけれど。ボイルドエッグズみたいに新人の発掘から売り込みまで手掛けることも、エージェントとして必要なことだっていった空気を作らないと、売れっ子を束ねるエージェントばかりが増えて、出版物から豊穣さは消え、読者からそっぽを向かれ全体が衰退へと向かいかねないぞ。

 さらに続く4月スタートの新作アニメの視聴は、「あんハピ♪」が始まって見たらこれがやっぱり面白かった。よく動くしテンポも良いし間合いもばっちり。どことなく不幸を抱えながらもそれを自覚しないで毎日を楽しく生きていこうとしている少女たちの日常って奴が、ユーモラスに描かれている感じで見ていて飽きない。とりあえず3人が友達になったよーだけれど、これに2人が加わった5人組による不幸だけれども楽しい学校生活って奴を、存分に味わっていきたいもの。普段は優しい先生が怒るとドスの利いた声になるのも良いなあ。それから「少年メイド」。こちらもちゃんと動くし話も段取りが整っているから見ていてグッと引き付けられる。少年とかお母さんとか人が歩いたりふり向いたり後ずさりしたりする場面の作画がすばらしく、こうした日常の芝居をしっかり描ける人がいるんだと驚いた。展開も含めてそうした部分に注目して見ていこう。田村ゆかりさんのお母さん役とか、そんな時代になったんだといった慨嘆も抱きつつ。

 すごいよなあ。安倍総理。2013年に記者会見で「私は選挙を通じて『聖域なき関税撤廃』を前提とするTPPには参加しないと国民の皆様にお約束をし、そして今回のオバマ大統領との会談により、TPPでは『聖域なき関税撤廃』が前提ではないことが明確になりました」としゃべり、記者からの質問に対して「私からは先の衆院議員選挙で聖域なき関税撤廃を前提とする限りTPP交渉に、交渉参加に反対するという公約を掲げ、また自民党はそれ以外にも5つの判断基準を示し政権に復帰をした、そのことを大統領に説明をいたしました」と喋ってTPPに反対している姿勢を訴えている。自民党のポスターにも「TPP断固反対」と書いて選挙でアピールしている。

 その口が、あるいは頭が今の国会で「私自身はTPP断固反対と言ったことは一回も、ただの一回もございませんから、まるで私が言ったかのごとくの発言は謹んで貰いたい」と言い出すんだから大丈夫なんだろうかという気がまずおこる。どこがってそれは人間の首の上にある部分的に。どこかユルんでいるかコワれているかクサっているんじゃないかって誰だって思うだろうけれど、それを周囲で指摘する人がいないのか、自身満々に言ってのけるからちょっと怖い。

 まあ以前から、自分のなりたい自分になったらほかのことはすべて頭から消えてしまう感じだったんで急な変化って感じはないけれど、それが明らかなウソであっても、当人にウソをついている自覚すらないのは一国を任せる上でちょっと拙いような気がする。世間は同人誌は非親告罪に当たらないと名言したことを喜んでいるけれ「私自身は同人誌が非親告罪にはならないと言ったことは一回も、ただの一回もございませんから、まるで私が言ったかのごとくの発言は謹んで貰いたい」と言い出す可能性だってないとは限らないぞ。そうなっても誰も止めない。メディアも咎めない。そして……。独裁とかいったちゃちなものじゃない怖さがあるなあ。


【4月7日】 やっぱりというかテレビとかメディアでのN高等学校の紹介は、全員がVRヘッドマウントディスプレイを装着して沖縄本校からの来賓あいさつを見聞きしている場面を画像や映像で抜いて、未来的ではあってもどこか異様な雰囲気を持った集団といったニュアンスを醸し出そうとしている感じ。もちろんそうした側面もあるんだけれど、でもこれからプレイステーションVRが発売されるって状況で、傍目には妙でもやってる当人には広い世界が見えるVRのプレーシーンを珍奇に見せるのは筋が違う。テレビ局だっていずれはそうしたVR番組をパーソナルなヘッドマウントディスプレイ向けに送信する時代が来るはずなのに、今の感性でもって珍奇さを煽っては未来の市場を潰してしまわないかと心配になる。

 そんな未来への種まきのような感性があれば、そもそもがネット時代の教育といったものを鋭く問おうとしたN高等学校をどこか時代のあだ花のように扱って、ひきこもりとかドロップアウトした通常とは違う感性の人たちが、駆け込み寺のように通う学校といったニュアンスに落とし込もうとはしないだろう。でも、学校という集団を尊ぶ古い感性を捨てきれないメディアは、そんなN高等学校の持つ可能性に触れることなく、トピック的に扱いそれもゴシップ的な雰囲気すらまとわせ報じてみせる。受けて世間もそこはヤバいといった印象を持つかというと、そういう人もいるにはいるけど若い人ほどN高等学校が持ってるさまざまな可能性とポテンシャルに感づいて、あれやこれやと使い方を探っていたりするからまだ安心か。

 アイドルユニットの「虹のコンキスタドール」からメンバーの2人がN高等学校に張っていたりして、そっちの方面からの関心を誘う一方で、RIZEってバンドで兄の金子ノブユキさんってドラマーとともに活動し、サポートメンバーとしてDRAGON ASHにも参加しているベーシストのKenKenさんも、30歳にしてN高等学校に入学をして高校卒業という資格を取ろうとしている。そんな姿に音楽という活動にのめりこみ、そして学校という場に身を投じようとしている本気ぶりを多くは感じて、そういう本気が発揮できる場所なんだと理解して選ぶようになるかどうか。そこも人それぞれだけれど、少なくとも選択肢から除外して良い場所にはならないだろう。

 ジョニー吉長さんと金子マリさんを両親に持ち、ベーシストとして名を轟かせているKenKenさんなんて、生徒でありながら講師として音楽を教えるとか。これは教わりたいよなあ。そんなユニークなことができるのも、N高等学校っていう可能性のバケモノのような学校だからだろう。今はまだお客さん的に、運営から与えられたものを云々しているけれど、慣れればコミュニケーションを広げ、自分たちで何か作り上げていこうとする動きも出てきそう。そんな集団がさまざまな分野で自己流を発揮していった果てに産まれる何かに今から胸が躍る。もちろん安穏と3年間を過ごして資格を取って世に出て行くだけでも良いけれど、使える物の多さでは現実の学校に負けてないN高等学校。入ったからには生徒諸君、目一杯に使い倒して自分の可能性を広げようではないか。うん。

 スポーツをやると薬物に走るか賭博に浸るかするって言えるかというと、大多数は薬物なんか摂らないし賭博だってやらないんだけれど、でもこうして清原和博容疑者の覚醒剤問題だとか巨人の元選手たちによる野球賭博への関与が続き、そしてバドミントンの日本代表クラスの選手による違法カジノへの出入りといった問題が発覚すると、やっぱりスポーツをやっていると悪の道に染まりやすいかもっていった印象が、メディアによってガンガンと煽られ世間もそういう風に感じて、親が子供にスポーツなんてやっちゃいけませんって言うようになり、道をスポーツバッグを持ってあるけばあいつらはと後ろ指を指されるようになるかというと、まるでならないのは何でだろう。これが猟奇な犯罪を犯した人間だと、誰もが見ているアニメを見ただけでアニメおたく扱いされて、アニメが原因かのようにされる。何とも非対称的。スポーツを悪にさせないスポーツ帝国のドンがいて、メディアを操作してスポーツに影響が及ばないようにしているんだろうか。闇は深い。

 マエケンこと前田健太選手がロサンゼルス・ドジャースの選手としてメジャーデビューを果たしたようで、そのピッチングでもって6回まで無失点に抑えて勝利を獲得したのみならず、バッティングでも本塁打を放ってセリーグ出身ならではの打席に立つ投手の本領といったものを見せてくれた。世界で通じる投手かっていえば通じると分かってはいたものの、契約に際してちょっと信じられない年俸だったこともあってどこか体が悪いのかと言った憶測もとんでいた。でもこうして綺麗なデビューを飾って打棒も見せられてまずは一安心。かつて野茂英雄投手も立ったドジャースのマウンドを出発点にして、どこまでメジャーで名前を轟かせていけるのか。ダルビッシュ投手の復帰がまだ先なだけに、あとは田中将大投手の活躍にも期待がかかるけど、それ以上にマエケンには頑張ってもらって日本にはまだまだ凄い投手がいるってことを見せて欲しい。打者もいて欲しいけれど。青木選手どんな感じだろう。イチロー選手は記録を達成できるだろうか。そっちにも注目。

 始まったアニメーションを訥々と観ている中で「ばくおん!!」「ジョーカー・ゲーム」がこの4月期で双璧かと思ったらそこに「文豪ストレイドッグス」も割って入ってきた感じ。さすがはボンズの制作だけあって絵は完璧なまで再現されていてよく動く。出演している声優たちもゴージャスで、見ていて次に何が起こるんだろうとワクワクした気持ちが湧いてくる。もちろん漫画の方ではずっと昔に読んでいるんだけれど、ずっと向かしすぎて内容の方をほとんど覚えていないんで、次々に現れてくる文豪の名前が冠された武装探偵たちが、どういう立ち位置でどんな技を繰り出してくるかはうろ覚え。国木田独歩なんてどんな技があったっけ。そもそも代表作なんだっけってレベルで、それも含めてアニメで再確認していく楽しみができた。与謝野晶子は可愛いけれどもどんな異能使いだったっけ。君にしたまふことなかれだから回復系?

 東京ビッグサイトで開かれている「ファッションワールド東京」を見物に。ウェアラブルな衣装とかは流石になかったけれども内外から靴とかカバンとかファッションが集まりファッション好きには面白いイベント。着飾りたいけどそんなお金がない身が哀しい。会場では若手ののデザイナーが集まったエリアで見たR85 志磨佑平さんによる先端に違う素材を仕込んですり切れてくると現れるスニーカーが面白かった。安全靴の先端を切って見せたものとはまた違ったカジュアルでスタイリッシュな靴。そんなR85 志磨佑平さんのブースにエレキングがかかとについた靴が置いてあったので尋ねたら以前、2014 Tokyo新人デザイナーファッション大賞で、ユキヒーロープロレスが行ったウルトラマンコラボに提供した靴だった。確か現地でみていて写真とかひっくり返したら出てきたけれど、歩く途中にエレキングが外れてしまうシーンがちょうど撮れていた。そういうこともあったなあ。そのエレキングを後ろから来たゼットンが拾ってランウェイを戻っていったんだ。って何言っているか分からないけどファッションショーの話。ともあれ志磨佑平さんには活躍を期待。


【4月6日】 恐怖せよ夫婦。その文書の娘や息子への発覚に。名付けて「パパママ文書」はまだ若かったパパとママが交わした恋文の集合体。ダーリンと呼びマイハニーと綴った甘い言葉の連なりが、紙にペンでしたためられて積み重なって箱に仕舞われ押し入れの奥、机の引き出しの中に仕舞われているのを子供が見つけ、読んでいったい何を感じるか。それを知ってパパとママは何を思うか。恐ろしい。考えるだけで恐ろしい「パパママ文書」。人気のキャラにコスプレしたママをやっぱりコスプレしていたパパが撮った写真などもこれに含まれる。見つかったら最後だ。注意しろ。今のうちに銀行の貸金庫にしまい込め。とか「パナマ文書」と聞いて思った。ちなみに僕にはそんな甘い思い出はとりあえず存在しない。しないのだ! ちょっと泣く。

 カタカナのカドカワが立ち上げたネットの高校こと「N高等学校」の入学式があったんで見物にニコファーレまで。本校はおきなわけんにあってそっちがメインだけれどもなにせ通信制の高校なんで沖縄に住んでいるとは限らない。だからそっちに出席した人がいたかどれくらいだったのかはわからないけれど、東京の方は人口が多いってこともあって多分、入った人もいたんだろう。集まったのは100人くらいで結構な人数が志倉千代丸さんデザインの制服に身を包んで会場に入って並んで式を過ごしてた。ちなみに入学した人は1400人ちょっとかそんな感じ。無制限な割にはまずまずまとまった人数で、ちょっとしたマンモス校の1学年くらいは集まったんじゃなかろーか。

 名古屋の坪田塾と組んで立ち上げた東大を狙うN塾だとか、難関の大学進学を目的にした代々木ゼミナールとのコラボレーションとかが発表されて、そういう方面に特化した学校と思われ、生徒もしゃかりきに勉強だけする人が集まるかと思ったら、会場で流れた新入生の映像によれば声優を目指すアイドルを目指す理容師になりたい映像編集を極めたいプログラミングの腕を上げたい等々の、それぞれに目標があってそれに挑みつつ、それで高校卒業の資格も得られる自分にぴったりの学校って感じに選び、進んだ人が結構な数いて、目的にかなっているなあと思わされた。ベーシストって人もいたなあ。結構な年輩。そういう人も多かったのかな。

 作家になりたいという人もいて、課外授業にライトノベルの講座も当て川原礫さん時雨沢恵一さんらが講師を務める意味もちゃんとあった模様。それとも森村誠一さんの方が嬉しいかな。まさかの大物の登場は物珍しさで集まったマスコミにもこの学校がハンパでなくガチに子供たちを育てよう、彼ら彼女たちの関心を拾い伸ばしてあげようって意識を強く持っていることが伝わったんじゃなかろーか。もとよりリアルな学校になじめずドロップアウトしてしまう子供が多いことに心を痛めた角川歴彦さんの思いにまるで沿うかのように、志倉千代丸さんが構想して持ち込んだ企画。それがあれよあれよと実現して開校にまで至ってしまった。

 そこで行われる教育は決して進学だけが目的じゃなく、個性を伸ばしつつ資格も得られるような広い選択肢を持ったものになっている。自由には責任が伴うけれど、そんな責任も自分自身が選んで背負うもの。だから辞めずに学んでいける。そんな学校のような気がする。でも一般のメディアはそこまで突っ込んだ記事とか書いてないような気がするなあ。今日もVRを使った入学式が行われて今の時代にピッタリだねってトピック的な紹介が圧倒的。そこでどんな教育が行われたかんてまるで関心がなさそうだった。勿体ないけどそれが旧態依然としたメディアの限界。分かっている人はそんなものに流されず、煽られもしないで自分自身の意見で道を選び、やって来るだろう。そういう人が大人になって社会に出た先、どんな未来が訪れるかが今はちょっと楽しみだ。

 そう、VRってのはつまり、本校の沖縄で来賓が挨拶するときには、VRヘッドマウントディスプレイを着けて現地にいる感覚を体験させようってアイデアで、それはそれでなかなかユニーク。校旗掲揚の時とか上がっていく旗を見上げてVRヘッドマウントディスプレイを着けたまま、顔が上を向いていくのが見られて面白かった。けど途中で止まったりして幾人かが外していたのが残念というか、個々に機器を使うVRの難しさというか。装置の安定性が上がりコンテンツの安定化が図られないと普及は大変かもしれないなあ。あと面白かったのは校歌かな。作曲はあの田中公平さんで、作詞は理事で様々な楽曲を手掛けている志倉千代丸さんが担当していた。聞いてこれは1発では覚えられないと思ったけれど、ボカロに歌わせ広めることで誰もが普通に歌えるようになるのかも。それもまたネットの高校らしい展開。ミクバージョンとか、出て来ないかな。

 4月スタートのアニメをぼつぼつ。とりあえず見た「ジョーカー・ゲーム」が面白くってこれと「ばくおん!!」が今のところトップの双璧かもしれないなあと思っているけど、他にもいっぱい面白いのがありそうなんですべてがトップになるかもしれない。11トップとかどんなフォーメーションだよ。キーパーも上がるのかよ。それはそれとして「ジョーカー・ゲーム」は展開も分かるし不穏な雰囲気もちゃんと分かる。陸軍士官学校出の中尉が新しく作られたD機関ことスパイ養成組織に入ったものの他は大学出の得体の知れない者ばかり。国への忠誠心もなければ失敗すれば死とかいった潔さもない。

 こんな奴らとやってられるかと中尉とかは思うけれどもでも、スパイとは何かといった目的からすれば死んですべてを晒せば国が危険に陥るし、相手を信用させるには国への忠誠心とかないものとして扱わざるを得ないこともある。そういうスパイのスタンスを感じさせつつ、国だ何だと暑苦しいことを言う中尉の頑なさを見せることで、そんあ中尉がゴマンといた戦前の日本がどこに連れて行かれたかを思わせることで、今の右傾化しっぱなしの風潮を牽制していると取れば取れるかもしれない。原作についてはどうだったか覚えてないし実写版の映画も見ていないんで、オリジナルのままに進んでいるのか違うのかが判然としないけれど、とりあえずD機関に集う面々の声優は豪華で「おそ松さん」にも負けてないけど、そういう方面からの需要はあるのかな。イケメンたちの絡み合いもつれ合いとかいった。そこにも興味。

 阿佐ヶ谷ロフトAでGENCOの真木太カさんが編集長を務めて刊行されているアニメ業界誌的な雑誌「アニメビジエンス」の第10号刊行を記念したイベントをのぞいて居並ぶ重鎮たちの話を聞く。今のアニメーション業界に感じていることについて、だいたい話してくれてほぼほぼ思っていることを裏打ちしてくれた感じ。人材にしても収益機会の拡大についても。そこから浮かぶ危機感に対して、どういう手段で突破していくかってあたりはまだ示されてはいないけど、考えている人たちばかりだからきっと何か次の一手があると思って良いんじゃないかな。具体的なテーマについては危険な話ばかりで何も言えないけれどひとつ、批評の要不要について話があって、そこでやっぱりまだ弱いメディアなので叩くより少しでも良いところを褒めていこうよというスタンスが示されて、それには割と共感した。でもこれは紆余曲折の時代を経てきた年寄りだからかもしれないなあ。普通にアニメがそこにあって選び放題よりどりみどりの世代には理解しづらいかもしれないものだから。そうした世代の差異も含めてこれからどう業界を作っていくか。問いたいけれどそんな立場にないから見物をしてあいさつもせずに引き上げる。炙りベーコンは分厚かった。


【4月5日】 面白いなあ「ばくおん!!」。スズキのバイクはマシンも乗り手も変態ぞろいって雰囲気は、GT380とかRG250Γとか見知ってる目にはむしろ逆でバイクの中でも硬派な線を突っ走っては、ヤンキー的雰囲気を醸し出すカワサキと対抗していたってイメージがあったんだけれど、GSX250カタナのように先進的過ぎるフォルムを持ったバイクで一山当てたのが残っているのか、どこかデザインに王道からちょいズレた線が最近は見えて、それが王道のホンダにスタイルのヤマハ、ヤンキーのカワサキとはちょっと違った個性となって、そのせいで変態的と受け取られているのかもしれない。

 GSX400XS Impulseだって時代の先端を行くデザインだけれど、インバウンドなんて言われていない時代に東京タワーとかモチーフにしたデザインは、やっぱり変態的だもんなあ。それだからこそ熱中する女子もいるってことで、「ばくおん!!」でひとり、スズキを愛する鈴乃木凜のツインテールでツンツンしている正確ながらも胸とか大きいアンバランスさがすばらしいし、ヘルメットを被ったままで何も言わずに佐倉羽音を導く来夢先輩がまた優しくてすばらしい。っていうかずっとあれで授業とか、免許の更新とかどうしているんだろうと。きっと脱ぐと美人なんだろうけれど、脱がないからこその来夢先輩ってことで。

 そんな先輩が駆るカワサキのバイクの後ろに乗って突っ走っていく時に、胸をわしづかみにするのが女性のバイク乗りを前において、タンデムする男子にも標準となるのかそれはやっぱりイケナイことなのか。気になるけれどもその一方で、リアルにバイクに楽しむ女子高生たちの姿を通して、バイクへの興味を喚起されるのも事実。危険さよりも楽しさを感じさせる作品だからこそ、変態と言われようと故障ばかりとdisられようともスズキやドゥカティが協力するんだろう。それだけ追い詰められているとも言えるけど。それにしても楽しそう。2輪免許、取りに行こうかなあ、クビになったら。

 紅玉いづきさんの「大正箱娘 見習い記者と謎解き姫」が登場したので読んでみたらうん、結構シリアスに女性の立場に関する問題ってものをえぐり出してて引き付けられる。タイトル通りに舞台は大正の東京でも帝都でもない“帝京”。そこにある新聞社に17歳で入って三面記事のオカルト話を主に書いている新米記者の英田紺だったけれど、田舎にある旧家で男が触れる死と言われている刀が見つかり、その通りに夫だった男が死んで、そして女が触れると女が死ぬと言われている箱も見つかって、どうにかして欲しいといった話が新聞社に持ち込まれる。

 受けて英田紺が田舎に行って合った女は、都会から金と引き替えに見知らぬ男に嫁いだという。それに不満はないとも。でもどこか気になった紺は、箱をその場では引き取らず、いったん戻って編集長に相談し、神楽坂にあるという箱のような家に赴く。そこには蚊帳に囲まれた中にひとりの少女がいて、「うちに開けぬ箱もありませんし、閉じれぬ箱も、ありませぬ」とうそぶくのだった。どうしてそんなところに閉じ込められているんだと、うららという名のその少女に抱いた英田紺の感情は、そのまま田舎の旧家に嫁いで夫と死に別れていても義母の下に縛られ続けている女性にも向いて、どうにかしてあげたいと思うようになる。

 箱を手にして再びうららのもとを訪れる際、英田紺は田舎から女性も連れ出し伴っていく。そこで暴かれた事件の真相から浮かぶのは、女性が家の良いなりになって嫁がされ、虐げられても戻れず自立すら許されない窮屈で残酷な時代の姿。それに英田紺が憤り、どうにかしたいと身を動かすのは自分の妹に同じような運命が降りかかり、そして悲惨な運命を辿ったからなのか、それとも。隠している英田紺の秘密とも相まって物語はあの時代、女性といったものが置かれた立場を鋭くえぐる。今際女優と呼ばれ死にざまが凄いと評判の女優が新たな演目に臨むに当たって脚本を手掛けていた男が死に、脚本の決定稿が行方不明になってしまう事件。女優が恋情なり憎悪なりを脚本家に抱いていたのかもといった想像も浮かぶけれど、その先に男の身勝手さが見え、モノに扱われがちな女性の苦衷が浮かんで来る。

 誰かの秘密を暴く怪盗が跋扈する帝京で、同時に相次ぐ心中事件を追ったエピソードも同様に、自分の意志とは無関係に翻弄される女性の諦めとも、嘆きともいった心情が描かれどうしてそんなことになっているのか、それはどうやったら変わっていくのかといった思考を迫る。時代だからといった言葉なら、今、すっかり様変わりしているかとうとそうでもなく、女性は家にいて子を産み育てるのが仕事といった観念にとらわれ、それをより所にして物を言う者が政治の世界に跋扈し始めている。保育園に入れないで困る女性の慟哭を、産んだお前の責任だとばかりに誹って恥じない与党議員候補生とかいるしなあ。それを非難し退けられない与党の体たらくも含めて、撃たれ叩かれるべき時期に来ている。そうしないと英田紺が慟哭に噎せ無力感に苛まれたあの時代に戻ってしまう。そうさせないためにも読まれ語られて欲しい物語。それにしても何者なんだろう、うららちゃん。

 何を言っているのか分からない日本野球機構。例の野球賭博に絡んで他にはいないか調査をしているんだけれど、いっこうに進まないその調査に業を煮やしたかもしも自分が賭博をやっていたと白状した人には、永久資格停止じゃなくって1年の資格停止に減免してやるから名乗り出ろって呼びかけている。でも今の今まで喋らなかったのって、言ってしまえば卑怯者の最たるものでそんな人間が最初に露見して永久資格停止になった人間よりも罪が軽くて良いのかって話になる。卑怯者が得する状況を正々堂々スポーツマンシップとか言ってる集団が平気で作る。そんな集団が公明正大を一応は売りにしているオリンピックの場に自分たちのスポーツを持っていこうとしている。許されるはずがないんだけれど、そうまでしないと調査が進まず内部に爆弾を抱えたまま、事態が進むかもしれないって危機感があるんだろうなあ。いっそだたら1年間、プロ野球自体を止めて徹底調査しつつ全員が謹慎ってことにすれば良いのに。まったくもう。

 何を言っているんだか分からない文部科学省。道徳の教材に悪名高い「江戸しぐさ」が使われ続けるらしいことに異論を抱いたジャーナリストが担当係長か誰かに問いただしに言っているんだけれど、なるほど江戸しぐさが虚々実々なことは認識していながらも、道徳である以上はその言説に道徳的な意味合いがあれば構わないんだってな論拠から、削除はしないといった方針を打ち出した。おいおい、ありもしなかった江戸しぐさをさも歴史的な事実かのように書いた上で、その振る舞いを尊ぼうって教えの根本で、そんな事実はなかったことが分かってなお、教えるってことじゃないか。

 それはつまり、良い話と考えるなら嘘があっても構わない、つまりは目的のためにはそこに嘘があっても良いんだって極めて道徳的に不健全なことを、道徳として堂々と教えて良いって言ってるようなもの。自分たちの主張のためなら虚実ですら平然と持ち出し、そして繰り返すことによって虚実を真実にすり替えてしまう。安倍ちゃん政権のやりそうなことだし、そんな安倍ちゃん政権大好きな新聞が常態としている振る舞い。つまりはあの界隈にはあたりまえの手段が、ここにこうして役所レベルにまで新党しているって状況を、世間はもっと怖がるべきなんじゃなかろうか。いつか本当にいらない差別意識を植え付けられ、敵対心を煽られて戦争に臨んだ挙げ句にこてんぱんにされて国ごと滅びるぞ。やれやれ。


【4月4日】 作品を意識したのはたぶん、テレビドラマ化されてその主題歌のサビの部分が耳に入ってきた時で、「何かありそうな、ワイルド7」という歌詞から「ワイルド7」という存在を知ったのか、それ以前から何となく知ってはいてもドラマ化による主題歌の横溢によって強く意識するようになったのか、そこは判然としないものの小学生の低学年だった僕にも「ワイルド7」の存在は知られ、バイクに乗って活躍する男たちがいると知り、そのバイクを収容するトレーラーがあるということをプラモデルから知った。

 やがて歳を重ねて中学に入ると、「超人ロック」を読みたさに本屋で眺めるようになった」「少年キング」とともに漫画そのものも意識するようになっていったけれど、その頃に連載されていたのは最終章「魔像の十字路」。おそらくは追い詰められたワイルドのメンバーたちが炎の壁を越えて敵がいる船へと乗り移る場面あたりを週刊連載の読み始めとして、そこから遡るように単行本を集めていったように記憶している。だから八百のあの哀しくも切ない最期は連載ではなく単行本で読んだものだけれど、その後も続くヘボピーにオヤブン、そして両国と続いていく離別に噎び、そうしたことを進める独裁者とその取り巻きの悪辣さに対する憤りを覚えたものだった。

 同時に、独裁を狙う者たちが実に公共に世論を操作して軍国への雰囲気を醸成し、そちらへと国民を誘導していく手段の巧妙さにも驚きつつ怒り、もしも現実にそんなことがおこったら、ワイルドならずとも世間が許さないだろうと思っていたけれども現実は、御用メディアを使って危機を煽っては、仕方なくといった風体で軍備を増やして軍国的な体制へと持って行こうとしている。それが成し遂げられて改憲も果たされた後に起こるのは、「魔像の十字路」にも描かれたように、本性を露わにして独裁への道を突っ走る権力者の横暴。既に「魔像の十字路」を呼んでいる僕らはそうはさせまいと思い疑問の声を挙げてきたのだけれど、世間になかなか声は届かなかった。

 「ワイルド7」を描いた望月三起也さんの訃報は、そんな空気に釘を刺して「魔像の十字路」への関心を高め、今がそこに描かれている状況そのままだってことを多くの人に気付いてもらえるきっかけになりそうだけれど、すでに権力に絡め取られているメディアには「ワイルド7」の作者だったとまであh伝えても、「魔像の十字路」を予言の書として取り上げ今が危険だということを世に問い直すようなことはしないだろうなあ。そこがちょっと悔しい。せめて書店は目に付く場所にシリーズを置いて読まれる機会を増やして欲しいけれど、版元品切れになっていない分って今、あったっけ。kindle化くらいされないものか。真夏にユキを振らせないためにもすべてをストップさせる、今がたぶん最後くらいのチャンスだから。

 歌舞伎町にあるTOHOシネマズ新宿の上に乗っているゴジラの頭が何やらうがい薬を抱えたそうで、記事とか読むとそれは「イソジン」ってなっているけど僕たちがずっと使ってきたイソジンとは違うものらしい。あの愛らしいカバのキャラクターがついていない。それはイソジンなのか? って話になるけどどうやら元々はイソジンというブランドでうがい薬を開発した製薬会社があって、それをカバくんを使って売り出してきた会社があった。

 それが発売から55年が経って元からの開発元が自分たちで売り出すことになってブランドを引き上げたことで、カバくんのうがい薬はイソジンが使えなくなってしまった。そこで「明治のうがい薬」としてカバのマークをそのまま使ったうがい薬を発売。一方で権利を取りもどした製薬会社が改めてブランドを浸透させるためにゴジラの頭だなんて目立つ場所に巨大な看板を置いて、満天下に「イソジン」をアピールし始めたといった感じ。これを見て店頭で「イソジン」を見れば人はやっぱりイソジンを買うものか、それともとなりに見慣れたカバくんが描かれた「明治のうがい薬」があればそっちを買うものなのか。

 ブランドかキャラクターか。人が製品をどこで判断するかを調べられそうな一件だけれど、でもやっぱりブランドに傾くのが人間なのかなあ。だとしたらそんなブランドを日本で広めて来たのに引き上げられてしまった会社はちょっと可愛そうかも。海外のファッションブランドを日本でライセンス生産して販売し、広めて来たアパレルメーカーが、直営店の進出でライセンスを引き上げられて困ってしまったのと同じ構図。それが契約だから仕方が無いとはいえ、やっぱりちょっと切ないものがある。その場合はやっぱり日本で海外に負けないブランドを育てられなかったことが問題でもあるけれど。頼らず縋らないで自分を貫く大切さ。学びたい噛みしめたい。

 「莫迦なの? 死ぬの?」といったジャーゴンめいた言葉が知らず口からついて出てしまったよ「真田丸」。徳川の軍勢を相手に真田昌幸が信州は上田城に籠もってこれを迎え撃ち、二の丸へと引き込んで隊列が伸びて分断された所に逐次攻撃を行う計略知略ですり潰していき、勝利したという第1次上田合戦をメーンに掲げたエピソード。その凄絶な戦いの最中にひとり、前線から城に戻ってそれからまた前線に行こうとして囲まれ戻ったもののまた前線に飛び出していこうとするお梅の行動に納得感が浮かばず、視線も散らされどうにも苛立つ。

 たとえ地侍の家に生まれた半農めいた女子とはいっても、城主の息子の妻となって娘を産んだ人間を、どうして容易に外に出すのか。止めるだろう普通。あるいは護衛くらい付けるだろう。でも半ば自由に動かせ護衛も着けずに戦線へと向かわせてはその命を奪ってみせる。なるほど史実でそこで戦死したという話があるのかもしれないけれど、そうした状況を形作る展開に無茶があると本筋の第1次上田合戦の見事な攻防戦で得られた感慨も削がれ、ささくれだった気持ちだけが残ってしまう。もうちょっと巧いやり方はなかったのか。とはいえ本丸で流れ矢に当てるわけにもいかないし、どこか策を弄して信繁の嫁に収まった勝ち気さが、出てしまっての突出、そして戦死だったと理解するしかないのかな。「真田丸」。そして舞台は大阪へ。面白い役者がまた出てくると良いなあ。

 良く聞いていた“君”なんていないし、ひとりでだってろくに聞いてないけどそれでも世界の音楽市場に残るトップクラスのビッグネームが日本に来るなら見ておかない手はないと、Bunkamuraオーチャードホールで開かれたボブ・ディランのホールツアー初日を見物に。2014年にも来ていてその時も見てはいるけど場所はZeppダイバーシティというライブハウスで平場に全員が総立ちになった後ろからではボブ・ディラン本人の声は聞こえても顔はまったく見えず、どこか残念な気持ちが残っていた。

 今回はホールツアーだから後ろでだって見えるだろうと、S席ではなくA席を買ったらこれがまずまずで、それほど広くもないオーチャードの3階席後段中央あたりからでもボブ・ディランの頭からつま先まで、全体をしっかり見ることができた。ってそれが普通は普通なんだけれど。ライブハウスはだから嫌いだ。さてオーチャードホール。演じられた楽曲も知らないものばかりで、それはZeppダイバーシティで観た時と同様。それでもしゃがれた声なのに張りがあって太さもあって、よく響き渡ってかすれもへたれもない歌を聞くのはやっぱり心地よく、最後まで飽きずに耳を傾けることができた。

 時にカントリーっぽくもあり、時にシャンソンっぽくもなりもちろんロックンロールでもあるんだけれど、それらが他の誰ともにずそうしたジャンルに陥らないで、ボブ・ディランというシンガーならではのジャンルでありカテゴリーであり、何より歌になっていた。日本にこれだけの独自性を持った存在感を出せるのって誰がいるだろう。森進一さんかなあ。1曲、耳慣れた楽曲はシャンソンの「枯葉」でこれを独特の声で、けれども音程はずらさずちゃんと「枯葉」と分かるように浪々と歌ってのけるところが凄かった。流石だなあ。もう1曲、まるで知らないけれども歌詞に聞き覚えがあったのでもしかしてと思ったらあの名曲「風に吹かれて」だった。そういうアレンジにするのか。でも格好良かった。過去に縋らず名曲メドレーにせず新しさを追求して自分の今現在をひたすらに見せ続ける。その格好良さにちょっと痺れた。真面目にディスコグラフィー、追ってみるかなあ。


【4月3日】 小田原城で天守閣が見えづらいからと樹齢100年になるというアカマツを伐採したとか。おいおい小田原城なんて1960年に再建されたものでいわゆるレプリカで、それよりも古くからそこに生えているアカマツを伐採したというのか。高くそびえた先で横に枝の伸びたとても見栄えの良い松が、背景に天守閣を置いてとてもすばらしい景観を誇っていたのに、ピカピカとは言えないまでもただのレプリカに過ぎない天守閣がこれで剥き出しになってしまった。富士山が単独でそびえているより手前に松林があった方が絶景なのが当然なら、城だって手前や背後に何かあってこそ引き立つもの。そういった風流をわきまえず、城が見えればそれで良しとか考えるポン酢な役人がいるようじゃあ、小田原が北条の頃の栄光を取りもどすなんて絶体に無理だろうなあ。

 そういえば名古屋城でも天守閣を木造で作り直すとか言った間抜けな施策が打ち出されたんだった。そんなお金があったら石垣を整備しお堀に水を張って城全体がかつての風情を取りもどすようにすれば良いのに、天守閣を別のレプリカにすげ替えて何か意味があるのか? それで日本の伝統的な木造建築の技術か承継されるとかいった目的があるならまだしも、それを狙った伊勢神宮の式年遷宮だって次にできるか資金的に分からなくなっているという。ましてや名古屋城だんあて巨大な建築物を作ったまでは良いものの、何十年かに1度は必要なメンテナンスの費用を出し続けられるのか。それが無理なら見てくれを保ちつつ全体を綺麗にしていこうよ。そう言っても聞く市長じゃないけれど。見栄ばっかり張ってて。

 お台場のテレビ局が入社式に親を連れてくるのが慣例で、そして芸能人を呼んでライブとか見せて喜ばせるって話はもう何十年も昔からの恒例行事になっているんだけれど、最近はそれをテレビ番組として収録して放送するとかって話にもなっていたりして、いよいよもって時代の見えて無さも際立ってきたって感じ。こういうノリは以前なら「楽しくなければテレビじゃない」ってスローガンを掲げて破天荒なことをやっては支持を集めてきたテレビ局としての「らしさ」を感じさせ、世間からもやんやの喝采を浴びてきた。でも今はそうした権力を使って自分たちだけが得をするようなスタンスは「なにさま」といった感情を惹起してネガティブに働く。面白いものも作れないテレビ局が何自分たちだけはしゃいでいるんだって非難を呼ぶ。だからせめて自社の番組関係者に留め説教でもしてもらえば良い者を、アイドルや人気歌手を呼んでのどんちゃん騒ぎ。そんな番組誰が見る? 分かってたらだれた止めるものだけれど、偉い人たちにそんな気配、なさそうだものなあ。今年も落ちるばかりかなあ。

 雨だったけれどこの時を逃すと見ることもなくなってしまうと起き出して、京成から都営浅草線に入って本所吾妻橋で降りて歩いて隅田川沿いの桜を見物。遠くに臨む東京スカイツリーも雲で煙って全体は見通せなかったけれど、それでもパラつく雨に耐えて桜もまだまだ満開で、見上げてその風情をとっぷりと味わう。雨中にシートを敷いて花見を目論んでいた人も大勢居たけどその時からしばらく経って雨も止んだみたいで、待っていた甲斐もあったんじゃなかろーか。周辺は相変わらず外国からの観光客が多く中国を中心に東洋西洋といったところから集まり桜を眺め写真を撮っていた。こんな日本のどこにでもある風景を、それでも見に遠くから来てくれる人がいる。嬉しい限り。僕からすれば中国の上から下まで回った方がよほど深い観光もできるって気がするけれど、国が変われば価値観も変わるもの。静かな国で桜を楽しみショッピングもして休息する。それが最高の価値を持っているなら日本はもっと、そうした価値を尊ぶ人たちを受け入れもてなし外貨を稼ぐべきだろうなあ。あれやこれや言わずに。

 浅草寺の境内でフランクフルトを囓って縁日気分を味わいそれから池袋へと回ってニコニコ本社でニコニコ超会議2016の「超まるなげひろば」に出展する人たちのごくごく一部の出展物を見物する。あったぞやっぱり今回もNHKだけを映らなくするアンテナが。ようはNHKに該当する部分だけの電波の信号をシャットダウンする装置で、それを挟み込むことによって完全にNHKが映らなくなるという。ただ取り外しが可能だと本当に見られないかを証明できないってこともあって完全埋め込みタイプのものとか開発するとかどうとか。あとは裁判をやっててそれの行方も気になるところで、詳細は「超まるなげひろば」にて紹介するらしいから気になる人は駆けつけよう。紙で作ったカメラや腕時計も凄かったなあ。あとは超マッスルタクシー。マッチョな人が抱いてあちこち回ってくれるらしい。何とも贅沢。テレビにらめっこを思い出す人もいそうだけれど、あんなボディビルマッチョじゃなくライザップもかくやの細マッチョのイケメンたちだった。大受けしそう。乗合馬車はライバルの出現に戦々恐々?

 唯一の暖房だった電気毛布が壊れて買い換えようとショップを探した物のビックカメラ系はだいたいが扇風機か冷風機かエアコンになって電気毛布も電気あんかも置いてなくて、この花冷えをどうにか乗り切るしかないのかなあと諦めながらのぞいた池袋のヤマダ電機にアウトレット価格で電気掛敷毛布が売っていたんで早速購入。春とは言ってもやっぱり4月下旬くらいまでは寒いから、着けてどうにかやり過ごそう。そんな電気毛布をかかえてようやく見られる時間もできた実写版「ちはやふる 上の句」。見る前は広瀬すずさんが漫画やアニメーションに描かれたスリムで美人だけれどポンコツな綾瀬千早とちょっと違うんじゃないか、真島太一もイケメンで天才でクールな感じの漫画やアニメと実写の野村周平さんでは差があるんじゃないかって不安もあった。でも。

 映画はまがう事なき「ちはやふる」であった。それは漫画の世界がそのまま飛び出してきたという意味ではないし、アニメーションの絵が実写に置き換わったという意味でもない。アニメについては漫画が動いて声が載って演出も加わり奥行きが出たといった感じの“変化”が感じられた。実写はそうした進化とか変化といったものとは違うベクトルで、漫画に描かれた競技かるたに挑む少女の真剣を、漫画に登場してきたキャラクターの配置も活かしつつ、けれども生身の人間であり個性を持った俳優たちが演じてぴったりの、実写だからこそ描ける「ちはやふる」になっていた。たとえ長身ではなくても綾瀬千早はかるたバカで直情的で周囲もみないで突っ走る。そんな情緒を広瀬すずさんはしっかりと見せてくれた。綾瀬千早という存在のコアをそこに現出してみせた。

 真島太一もただ天才でクールでほんのり綾瀬千早のことが気になる青年といった感じではなく、過去に負い目を感じつつ綾瀬千早に関心を抱き続けたナイーブな、そしてちょっぴりずるいところも持った完璧からは外れた若い男の子って奴をそこに見せてくれていた。そんな彼だからこそ千早が困っていれば手を差し伸べてかるた部を作り、仲間をHPパリ込んで存続させようとする。ちゃんと意志が感じされた。そして肉まんくん。チャラい感じで高校時代を過ごそうとしてもやっぱり忘れられないかるたに戻り、自分の力を溜めそうとする。大江奏さん。百人一首が大好きでそれに触れられるならとかるた部を選ぶ。漫画やアニメと同じ設定もあれば違う設定もあるけれど、そうしたことは気にせずそこにしっかりと西田優征であり大江奏での存在を感じることができた。

 すばらしい改編は机くんかなあ。漫画では真島太一に負けたくないガリ勉が、誘われ挑発されながら引っ張り込まれていく感じだったけれども、映画だとどこかプライドが高いというか自分の存在を孤独に追い込んでいて、そこに必要だといった言葉をかけられそれならとかるた部に入ってはみたものの、しょせんは数合わせなのかもと感じて居場所の無さを感じて思い悩む、奥手で繊細な少年といったところを見せていた。当初はどこかキッチュな雰囲気で薄気味悪さを醸し出していたけれど、その分析力を買われ、一山越えてその存在そのものを求められると感じてしゃんとなったその顔の何とすばらしいこと。和服が1番似合って1番強そうだった。そんなキャラクターの設定のし直しを経て、構成も簡略化されて描かれた東京大会優勝まで。この後に本来だったらもっと前に起こっていた綿谷新のかるたへの絶望と、そこからの復活を描きクイーンとの戦いを描いていく「下の句」が、どういう改編を得つつそれでも「ちはやふる」らしさを存分に放っては、「上の句」冒頭に描かれたクリーン戦の場面へと繋げるのか。そこが楽しみ。今度は公開されたらすぐに行こう。


【4月2日】 明けて秋葉原界隈を歩くと昨日の東京ドームでの「ラブライブ! μ’s Final LoveLive」で販売されてた白地にオレンジで文字とか書かれたウィンドブレーカーを着ている人とすれ違う率極めて高し。せっかくの週末だからとどこかに泊まって“聖地巡礼”とばかりに神田明神を詣でたり、秋葉原のショップでグッズを買ったりしていたみたいで、秋葉原ラジオ会館の1階にあるお土産屋さんで普段から売ってる「ラブライブ!」の饅頭とかTシャツなんかも売り切れていた。ほかにもフィギュアとか中古屋さんとかで売れたのかな。1番くじとかぶつけてくれば大売れに売れたかもしれないけれど、活動休止した翌日に新商品とかもないからこれは仕方が無い。

 こちらとしても何かしなくてはと「ラブライブ! The School Idol Movie」のブルーレイディスクをいよいよ買おうと、あちらこちらのショップを散策。残っているところではショップ別の特典がもらえるようで、それならと絢瀬絵里さん西木野真姫さん矢澤にこさんが描かれたタペストリーが特典となっているアニメイトでと思ったけれども見つからず。ソフマップはやや割引ながらもタペストリーが園田海未さん星空凛さん東條希さんで、嫌いじゃないけど求めるものとは違うしそれはゲーマーズでの高坂穂乃果さん南ことりさん小泉花陽さんにも言えること。1番の狙い目を外して選ぶのは心苦しいと、全員が入ったクリアポスターを配っているとらのあなに残っていた特装限定版を確保する。

 あとは観るだけ、なんだけれども家の21インチだかなテレビではやっぱり迫力が足りないんで、帰省をして50インチくらいはあるテレビで観る時をとりあえず楽しみにしよう。でも付録のファンミーティングの映像とかは観てしまうかもなあ、ライブでもμ’sの頑張りとかを改めて再確認したくなって。いや本当に凄かった。開催時間は実に5時間。途中に映像でデビューからのμ’sを振り返ってそれが5回くらいあってインターバルにはなっていたけど、その間も休むどころか衣装を変えて打ち合わせなんかもしれいただろうから、心も体もずっと張り詰めていたことだろう。そしてラストという状況に感情もきわまっていただろうけれど、崩れずしっかりと最後までやり遂げた。すばらしかった。

 そんな映像で振り返ってみて初期の頃、まだ雑誌の企画として立ち上がったμ’sを知っていたかというとまるで気付かなくて、CDとかを出したりライブ活動をしていることも知らないままで、テレビアニメが始まるくらいまでを過ごしていた。メンバー的には「探偵オペラ ミルキィホームズ」に出ていた三森すずこさんと徳井青空さんあたりは認知していたし、南條愛乃さんなら「frip side」として認識はしていた。新田恵海さんも結成から1年遅れて始まった「境界線上のホライゾン」でマルガ・ナルゼを演じてその声に関心を持ったけれども、相方のマルゴット・ナイトの東山奈央さんの可愛さとは対照的なクールな役で、今の高坂穂乃花の躍動感があって子供っぽさ炸裂の声とは結びつかず、だからアイドル的な活動への関心も向かなかった。

 そうしたほかでの活動をミルキィホームズやfripsideについては観て、新田恵海さんは「境界線上のホライゾン2」でマルゴットに連れて行ってもらえないことに泣き叫び、葵・喜美にトルネードびんたを食らわされて高速回転しながら舞い上がってそして引きずり下ろされた後、あによーといった声で文句を言いながら落ち着きを取りもどす声に関心を持った一方で、μ’sといったもののじわじわと膨らんでいた人気ぶりに目を向けることもなかったのは、ユニットとしての露出がまだまだ少なかったからなのか、それほど有名ではなかった声優さんたちがユニットを組んで歌い踊る状況に、やれやれまたかといった感覚を覚えていたからなのか。

 実際に声優ユニットって次から次へと生まれては流行もしたり消えたりもしていてどれを追いかけどれを見過ごすかといった判断を、勘と言うより気分でしていたりするところがある。ユニットとしてのミルキィホームズはテレビアニメが面白かったこともあって目を向けていたし、Wakeke up, Girls!もヤマカンこと山本寛さんが久々に監督をした劇場でのアニメーションの先行上映を観たこともあって、その活動にちょっとばかり関心が生まれていた。ただμ’sについては番組に触れる機会も得ないままアニサマあたりに出てきたのを観てアイマス? って思ったくらい。それがそうした先行なり後から出てきたユニットではまだ難しい東京ドームを満杯にしての2日間をやり遂げるくらい、巨大な上にとてつもない実力を持ったユニットになっていた。

 どうして? って問うのも愚問でそれだけ当人達が頑張ってきたからだし、周囲も良い楽曲を提供し歌う機会を提供し最高のアニメーションを作って架空と現実のキャラクターを重ね合わせてステップアップしていくドラマを描いて盛り上げたからに他ならない。その熱情を感じて応援せざるを得ないと思い集まったラブライバーが増えて広がり至ったのが今のこの熱狂。そこには画策もなければ持ち上げもない。いや、イラストなり設定なりアニメの世界を完璧になぞり架空のドラマを現実の物語に重ね感じさせるというストーリーはあったかもしれないけれど、そうした戦略をこなすには当人たちがダンサーの踊る姿をキャプチャして作られたアニメのPV並に踊りなおかつ唄える必要がある。それは並大抵のことではない。

 メンバーに歌の経験のある人が多かったのは、歌がテーマのプロジェクトだからって意図もあったかもしれないけれど、それでもアーティストとして名を挙げ始める前の彼女たちに期待はあっても実力はあったかというと難しいところ。ダンスという要素も乗せキャラクターになり切るという“枷”もはめられ、さらにはアニメが始まっていこうは声優という仕事も乗ってどこまでものめりこまないといけなくなった。売れてきて他に仕事もあるメンバーも出てくる中で、本格的に忙しくなっていくμ’sとして、ますます高まる要求をすべてこなして完璧以上を演じていく大変さ。それをこなしてみせたからこそ周りもこれは普通じゃない、有り体じゃないと分かり認め理解し支え応援するようになっていた。そんな印象を受けた。

 そしてたどり着いた頂点で迎えたラスト。これで終わりかと思うと寂しいけれども高坂穂乃花役を演じた新田恵美さんは「わたしたちはずっとμ’sです」といってくれた。それは再び結成される時があるということではないし、いったん生まれて世に出たユニットはその歌が歌い継がれる限り、あるいはアニメが見続けられる限り存在は消えず、大勢の心に残り続けさらには新しいファンも得続けるといったことかもしれない。ザ・ビートルズだって解散をして後に大勢のファンを獲得し、再結成などされないままで今もその存在を至高のものとしている。ただそうした声が高くなり、強くなり大きくなっていった果て、まだいるメンバーのまだ残った心が動き、支える人たちが動かざるを得ないと感じた時、再びμ’sは姿を現すかも知れない。そうなる時を夢に見ながら、今はこの余韻を楽しもう。

 ポン酢じゃなかろか。毎日新聞のとても偉い編集委員サマが例の保育園に入れない日本の状況を訴えたブログに対して「『保育園落ちた』母親に同情はしても、話題の匿名ブログは感心しない。『名文』との評判もあるそうだ。乱暴なののしり方が、インターネット時代のくだけた言葉遣いとして、切実な感情を伝えているという。褒めすぎだ」と言っている。追い詰められた果ての断末魔の叫び声に名文も妥当性もあるものか。切実というより慟哭に近い感情が生で響いたからこそ同情する人たちが大勢現れ運動となって政治の世界に届いた。そして動かざるを得なかった。

 憤るならそうした声が出るまで状況を放って置いた政府の方なのに、編集委員氏は「個人発信の思わぬ波及力は、民主主義の可能性を広げたと言うべきか。むしろ政治を巡る社会の薄っぺらさを、あれこれ考えさせる」と容易に動く政治に苦言を呈している。薄っぺらいのは政治家の社会を見る目だろうに。政府なり自治体の支援の少なさを直裁的にお金で表現した言葉を挙げて「産むも育てるもソロバン次第」と非難し「国は交渉の相手と言わんばかり。これは政権批判だろうか。きつい言葉じりを除けば、政府に反抗的というより、寄りかかろうとしすぎている」とまで言って、足りなさを叫ぶ声を封じている。まずは親の責任だと言った元杉並区長と結局は同じってことなのか。

 「ヨーロッパに暮らして気づくのは、街に乳幼児への敬意がうかがえることだ。駅に昇降機がなくても、階段でベビーカーを運ぶのを近くの人が自然に手伝う」と言って社会の理解を紹介し、「子育ては家庭の責任という通念が強すぎる社会は、保育園を歓迎しない。政治が少子化や育児に本気でないのは、社会の無関心を映しているからだ。子供を尊重しない社会に保育園が増えても、子供の生きにくさは変わらない」とも書いて、社会の子育てに対する無理解に強く釘を刺している。その言説の真っ当さを思うと気、冒頭でその真っ当さが許されない社会で追い詰められた人の叫びを論い非難してみせる筆が本当に必要だったのか。

 それはたぶん書き方なんだろうけれど、そこには妙な公徳心というか、俗にいうなら上から目線があって、追い詰められた者の信条よりも体裁を重んじてしまう心理が透けてしまって、言いたかったことの真意が薄れてしまう。政治の無策へ筆の矛先を向けない態度も気に掛かる。世に何かを訴えられる立場にある人の筆が、世俗から乖離して自己満足に陥っているともいえるだけに勿体ない話。だからもうちょっと伝わる言葉を選んで欲しいけれど、かといってどこかの新聞みたいにインパクトしかない一方的な罵詈雑言を発し続けるのもやはり問題。優しくて、そして届く言葉とは何なのか。考えていきたい。書く場所なんてないけれど。


【4月1日】 佐藤オオキさんってて、今もっとも活躍が期待されているというか実際に活躍しまってくるデザイナーの人がいて、本職は建築なんだけれどもプロダクトデザインとかインテリアデザインで注目されてイタリアなんかからも引き合いがあったりしているんだけれど、そんな佐藤オオキさんが率いるnendoって会社が、かつて筒井康隆さんも務めていたことがあるディスプレーの乃村工藝社と組んで新しいチームを立ち上げた。それが「onndo」。何をやるかっていうと、乃村工藝社のインハウスデザイナーとそしてnendoの発想力を織り交ぜて、店舗デザインだとかあるいは建物の設計までも含めたハイセンスなトータルデザインを行うことになっているらしい。

 なるほど乃村工藝社はディスプレーの会社だけあって、表面を美しく飾ることで商売をしていた会社だけれど、最近はちゃんと裏側も構築されていなといけない建築の分野にも進出を果たしつつ、オフィスとか店舗なんかの設計もしているみたい。あるいはお台場に立っている機動戦士ガンダムの建造とか。そうした事業によりスタイリッシュなデザイン性を取り入れることで、今までにはない顧客を得てそして仕事内容が作り出せるんじゃないか、ってことで組んだらしい。社名は乃村工藝社とnendoがオフィスをデザインするっていう意味の頭文字を取っただけなんだけれお、そこに体温なり温度感のあるモノづくりを行いたい、って意味もこもっている。

 乃村工藝社にあって、大阪芸大卒っていう経歴も異色だし、仕事でも異色の活躍を見せている青野恵太さんって人がチーフデザイナーとして参画。すでにnendoとは過去に幾つも仕事をして見知った仲らしいんで、本格的に手を組んだことでいったいどんな新しいデザインを持った建物なりテンポが生まれてくるか。今から楽しみ。あるいはプロジェクションマッピングだとかIoTといったテクノロジーを持った企業なんかもパートナーに取り入れて、新時代に相応しいモノ作りって奴を見せてくれるかも。ネイキッドとかチームラボあたりと組むような展開もあるんだろうか。そのまま2020年の東京オリンピックもデザインしてしまえば良いのに。なんて思わされるくらい面白い発表会に来ている一般紙とかは見た目皆無。なるほど時代から取り残される訳だよなあ。

 特にドラマティックな別れがある訳でも無しに「だがしかし」はほたるが相変わらず駄菓子についてしゃべりココノツが受けたり突っ込んだりしながらホノボノとした夏が過ぎていくというか停滞したまんまとうか。12話くらいを消化していったいこの間に何日進んだんだろう。ココノツも豆もサヤも学校に行っている節はないし宿題だって急いでない。ってことはまだ新学期までには間があるってことだけれどそれでも10日以上は軽く経っていそうな雰囲気。ほたるが寝込んだ回とかあったから20日は経っているかもしれない。それだと夏も終盤だけどそうでもなさそうだしなあ。夏の終盤って同じ夏でもそれなりに変化、見られるし。

 あるいはもしかしたらそこは死後の世界とかいった場所で、駄菓子にとりつかれて死んでしまった人間の魂がココノツだったりサヤだったり豆だったりといった人の形をとって集落に暮らして、それぞれに役割を演じつつ駄菓子への執着を残しているところに、駄菓子を極めさせることでそんな魂を成仏させようと天使か悪魔か分からないけどほたるが送り込まれて来た……なんてことはないか。漫画によくある永遠の夏休みってことで。森永キャラメルとかサクマ式ドロップとか、今回は分かりやすかった。第2期とかあったらチロルチョコとか出して欲しいなあ。あとは謎めくフィリックススガム。駄菓子にあって生粋の洋ものキャラなんて他にないもの。その謂われとかちょっと気になる。

 泣いた。じわっと涙がにじんだ。「ラブライブ! The School Idol Movie」の中でえりちこと絢瀬絵里がセンターを務めて、あれはニューヨークのタイムズスクエアで披露した「Angelic Angel」という楽曲が流れて、そのセンターをえりちを演じる南條愛乃さんが、映画のまんまに動き踊りながら歌ってくれた姿に心がうち震えた。他にもいっぱい良い楽曲はあるんだけれど、テレビシリーズをほとんど見ないまま、この日のライブを意識してやっぱり映画くらいは見ておかなくちゃと、東京アニメアワードフェスティバル2016での上映で見た「ラブライブ! The School Idol Movie」で、耳に強く残りPVを探して聞き直してその楽曲の良さに改めて打ちのめされ、PVの格好良さに何度も見入ってしまった「Angelic Angel」が、個人的には1番好きなμ’sの歌かもしれない。

 それが当人たちによって披露された。もちろん最初の実物で、そして最後になるかもしれない実物たちによるダンスがこれまたPVのアニメキャラとしてのμ’sたちを同じで、他の楽曲ともども映像を完璧に自らのものとしてステージに出して来た彼女たちならではの凄さって奴を、まざまざと見せつけられた思いがした。センターのえりちが冒頭で首を振りながらウインクする場面も、ステップを踏みつつターンをする場面とかもちゃんと再現。格好良かったけれど席が遠い上にモニターの映像に見入ってしまって、それもアニメのえりちばかりが目に入ってしまったんで、南條さんのウインクとかダンスはいずれ発売されるだろうライブの映像パッケージを買って、繰り返し見入ることにしよう。

 膝が悪いためこの楽曲とか他の楽曲には出つつも途中、後ろに下がって8人だけのμ’sになっていた場面も多かった南條さん。当人も忸怩たる想いがあっただろうけれど、持てる体力を温存しつつ出る場面で最高のパフォーマンスを見せたいという想いを、観客たちは存分に感じ取った。だから文句の1つも出なかった。真剣に自分たちを見せれば相手も真剣に答えてくれる。そういうものだ。そんな「Angelic Angel」で、映画ではえりちも含めてメンバーが手にした扇を閉じて、その先端でハートマークを描くと、PVでは空中にハートマークが描かれるようになっているんだけれど、ライブでは生身の方のμ’sのメンバーが手にした扇の先端をハートの形に動かすと、彼女たちをとらえた映像に扇の先端をトレースするようにPVと同じハートマークが描かれた。

 おそらくは扇の先端をセンサーか何かでトレースして、その動きに合わせて映像にハートの線を合成する技術が使われているんだろうけれど、それによってアニメの世界が現実になってアニメの9人と現実の9人とがさらにグッと近づいた。そこまで懸命に重ね合わせようとして来たことが、キャラクターとして好きだった人たちを声優さんのユニットにも向かせ、声優さんのユニットのファンもアニメへと向かせて共に人気を高めていった。その成果が昨日今日と行われて超万人の観客を集めた東京ドームでの「ラブライブ! μ’s Final LoveLive」に結実したんだろう。でも同時に、極めたからこそのいったんの終局も訪れた。限りがある時間の中で最大限に輝くことをめざしたアニメのμ’sと同様に、現実のμ’sもこれでいったん終局。いつかまた……といった想いは当人たちにもあるだろうけれど、そこはまた時が求めファンが願った末にかなってこその物語って奴だから、今は静かに、そして熱い気持ちで彼女たちの新しい角出を祝おう。ここまでありがとう。そしてこれからもよろしく。


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