縮刷版2016年2月下旬号


【2月29日】 ひでえ。真田昌幸ひでえ。上杉景勝の側について海津城を守り重用されていた春日信達に上杉を裏切って北条側に付けと誘いかけ、渋っていたのを甘言を弄して誘い北条氏直の花押が入った密書まで用意させては安心させたと思ったら、その場で弟の真田信伊に殺させ実は裏切っていたんですと上杉景勝に伝えて、それならと見せしめの張り付けにさせてそれを見た北条氏直がなんだ春日信達の寝返りがなければ勝てないかもしれないじゃないかと思わせ兵を引かせる一方で、上杉景勝も越後での反乱にちょっとこのままでは戦線を維持できないと引かせてそして信濃から、北条も上杉も排除してみせる。

 そのやり口は真っ当からはほど遠いけれどもそれが徳川も含めた大名たちに囲まれた信濃の国人衆たちの生き様って奴。そんな跳梁があったからこそ最後に真田信幸が大名として生き残っては徳川の世を最後まで、藩主で居続けられたんだろう。もちろん史実で信伊による暗殺はなかっただろうし、そこに信繁がくっついていったという話もなさそうだけれど、信達が寝返って処刑されたというのは実際みたいだし、信濃から逃げようとした森可成が撤退を邪魔され恨みに思ってその一族を根絶やしにしたほどだから、春日も春日でいろいろと自分の身を守ろうと考え、けれどもどこかで失敗してしまったのかもしれない。一寸先は闇。そこをどう生き抜いていくのかというドラマを、一流の役者たちの演技によって味わえる。最高だよ「真田丸」。次はどんな裏切りのドラマを見せてくれるかな。

 八重洲の地下街を歩いていたら、東京キャラクターストリートにカエルのぬいぐるみが積んであって、ああこれは黒川依さんによる漫画「ひとり暮らしのOLを描きました」でOLさんが部屋に置いて愛でているカエルに似ているなあと思ったら、何とコーナーで漫画とのコラボレーションを行っていた。見ると確かに首からキャンディーみたなのを下げたカエルが漫画にも描かれ、実際にも存在してる。その表情もまるで同じ。見ると名を「カエルのピクルス」というらしいそのカエルのキャラクターは、1994年に誕生してかれこれ20年くらい経っていて、すっとカエルをモチーフにしてぬいぐるみとかグッズなんかを展開していたそうな。

 そのカエルとしか言いようがない形の普遍性は、持っているとほっこりとして何か語りかけたくなってくる。ひとり暮らしのOLさんもそんなカエルに自分を寄り添わせながら、部屋に置いて嗜んでいるのかもしれない。漫画の中でもこのカエル、表情は変えないけれどもぽつんとおかれてその顔で、あの部屋に和みを与えひとり暮らしのOLに癒やしを与え、そんな漫画を読む人の心のより所となっている感じがあるからなあ。東京キャラクターターストリートの「カエルのピクルス」のコーナーには、そんな「ひとり暮らしのOLを描きました」の単行本の2刷が山と積まれて、買うと記念のポストカードももらえるみたい。だから漫画のファンも、家にピクルスを置いて愛でて食事して、寝て起きて挨拶をしたいひとり暮らしのOLさんも駆けつけるよう。3月1日まで開催中。

 電撃文庫から物草純平さんによる「超飽和セカンドブレイヴズ −勇者失格の少年−』が出たと思ったら、今度はダッシュエックス文庫から地本草子さんによる「夜明けのヴィラン 聖邪たちの行進」(集英社、620円)が登場してヒーローたちが現れ集い戦う世界の痛快さと、そんな世界に潜む裏側やら闇やらを描いていった、正義の味方って何だろうと問いかけられた気分。チャンバーなる器官が人に現れここから人智を越えた力が溢れて人をヒーローに変えるけれど、一部には悪に走ってヴィランになる者もいる。世界はヴィランを叩きヒーローを崇めて秩序を維持している。「夜明けのヴィラン」はそんな舞台設定。

 そして、主人公の少年ユウマにはとある過去があり、隠す秘密もあったけれど通う学校に転校してきた同級生の少女が、新しくヒーローとして登場してきた「ブレイザーガール」のアカリで、ユウマは彼女の目の前で子供を助けようとして、ヴィランのDr.デブリードマンが暴るのを止めようとしたブレイザーガールの攻撃の煽りを食らって大怪我をしなたはずなのに、翌日にケロリと治った姿で学校に来て疑念を抱かれる。ユウマの怪我の治りが早い理由は、ヒーローの裏側に位置するもの。だからアカリとは敵対関係になるんだけれど、ちょうどその街ではDr.デブリードマンがヒーローたちを根こそぎ排除。残ったアカリとトニー・スタ……ではなくトム・スタージェスがスーパースーツをまとって変身するワーニングマシーンが立ち向かう。

 けれども相手は、世界最高クラスのキャプテン・ペイトリオットも倒したほどの強敵。ブレイザーガールもワーニングマシーンも追い詰められ、絶体絶命となったときにユウマの力が発動してヴィランにも、ヒーローにも属さないその力で世界の危機に立ち向かう。正義はやがて腐敗し、反するものはすべて悪として虐げられる、そんな世界の闇を撃つ物語って言えそう。何かにつけて燃え上がって服まで焼いてしまうブレイザーガールがちょっと大変そうだけれど、燃えないスーツを着込んでいるのかな。ユウマの活躍によって暴かれたヒーローの偽善を受け、世界に散って闇に潜んだ奴らが悪の正義を振りかざし、挑んでくる続きに期待大。

 ここまでポン酢だったとはなあ。いやもうずっとポン酢だったけど、そういう批判が四方八方から浴びせかけられながら、まるで聞こえないふりをしているか、本当に甘言しか聞こえない耳を持っているらしく、相変わらずにポン酢な言説をまき散らしては落陽の紙価を海溝の底へと貶めてくれている。っていうかいったいどうやったら「東京京・渋谷の繁華街で安全保障関連法反対を叫びデモ行進する女子高生の制服がが<ヒトラー・ユーゲント>の若者が誇らしげに身を包んだ茶色の開襟シャツと重なった」だなんて認識が出来るんだろう。そこがそもそもズレている。

 権力がその権勢を盤石なものにするために、子供たちに甘言を弄しつつ逆らえないような空気を作って自分たちに従わせ、やがて本気で信奉しているように思わせていったヒトラー・ユーゲントと、権力に懸命に逆らっている子供たちを一緒にするとか眼鏡が曇っているとしか思えない。いやいや、眼鏡が曇っているなら拭けば良いけど眼そのものが歪んでいるから眼鏡を拭いたところで治らないだろう。加えて紅衛兵呼ばわりも。なるほど劉少奇という主流派に対するカウンターではったけれども、毛沢東という絶大な権力をバックに発動された甘言に、乗せられた子供たちが権力闘争の片棒を担いだだけで決して反体制でも反権力でもない紅衛兵を当てはめるとか、センスのカケラもない。

 というか、総理らのやり口をナチス呼ばわりされることに極端に反発するくせに若い人らを脈絡もなくナチス系呼ばわりするのは平気という二枚舌がどうにも見苦しい。それで堂々と論陣を張って、人として恥ずかしくないのかって世界中から突っ込まれているんだけれど、ただひとり筆者だけは我関せずと暴論にもならない論を振り回す。そして既にマイナス領域の紙価をさらに押し下げる。どうしうようもないけれど、どうにかしないとそろそろ学生たちに取り囲まれるかも。そうなると出入りが面倒なんで早く何とかしてください。取り囲む価値もないと思われているなら僥倖……じゃないか。それはそれで辛い話ではあるんだけれど。やれやれ。

 戦術がないなあ。いやあるのかもしれないけれど、ピッチ上で発現できなければそれは画餅であって戦術ではない。ディフェンスラインが下がって中盤からシンプルに前線へとボールを放り込まれてはかわされシュートへ、あるいは左右に振られてフリーの選手を作られシュートへと言った場面が連続すれば、どれだけ守っていてもいつか綻びがでる。そこと衝かれてのオーストラリア女子代表に先制を許す。2点目はちょっと不幸な部分もあったけれど、あれだって中盤でしっかりと周囲を見てパスを繋げないから審判のいる方向へと出して当たってしまった。ある意味で自分たちのミスでもあった。3点目の振られてどうしようもない中での失点。これをゴールキーパーに押しつけるのは無理だろう。

 中盤でキープするならラインを上げてサイドも張ってポゼッションで挑むしかないし、それができないなら走ってパスを?ぎながら素早く前線へと持って行くしかない。守備を固められないうちに間をすり抜けゴールへ。そういう意志が働いていないのか、チェックを厳しくしたオーストラリア女子代表にしてやられたのか。分析は必要だけれどやっぱり基本となる戦術が、固まっているようには見えないかなあ。男子もそれは同じだけれど、必殺の「戦術浅野」で乗り切った。サッカー女子日本代表にはその代わりになる戦術があるか。「戦術横山」「戦術岩渕」も突っかけるだけでは相手のディフェンスにひっかかって奪われることは過去が証明している。だからやっぱり感覚をつめてボールをもらい出して動いてもらうムーブを、繰り返すしかない。走れ。もっと走れ。勝利はその先へ。リオ五輪もその向こうへ。残る試合を頑張ってと心より祈念。


【2月28日】 アメリカのブブキ使いとロシアのブブキ使いがそろって出てきてはロシアはナチュラルハイなシリアルキラーっぷりを見せつつ男の2人は石蕗秋人につっかけ逃げつつ勝ったと思わせながらしっかりと首筋や額によくできましたとか、もう少し頑張りましょうとはんこを押して力の違いを見せつける。女の2人はそんな石蕗が天才と認める種臣静流を相手に突っかけ目覚めない静流を圧倒していたけれど、きっと気付けばこてんぱんにされるんだろうなあ。

 一方でアメリカの方は心臓なのに動かないものを持ったデブがナチュラルハイなおバカっぷりを見せつつ周囲が突っかけていたら一希東の心臓が動かなくなってしまった。唐突なギャグ回から唐突な展開。繋がりのまったく見えず先も分からないこの混沌が「ブブキ・ブランキ」の面白さであり、観てられなさでもあるんだよなあ。不思議なアニメ。目覚めた万流礼央子は子供になっていたけどまた復活するのかな。力を使う度に精神が若返る病か何かなのかな。そして東の妹はどこに行った? 先週の前振りは何だったんだ。そういう筋の通らなさもまた「ブブキ・ブランキ」の特徴ってことで。

 今日も今日とて秋葉原UDXへと赴いては、東京工芸大学の卒業制作展から見逃していたアニメーション学科の細川研究室の上映を見物。チン ドウネンさんの「Travel」って作品にアマンダ・フォービス、ウェンディ・ティルビー監督による「ワイルド・ライフ」って作品の雰囲気を感じたり、大草美都さんの「moimoi」って作品にウサギと少女の繋がりを観てそして、そして最後に上映されたる狩野洋典さんという人の「ノアの□(ハコ)庭」という作品の凄まじいまでの素晴らしさに立ちすくむ。世界は空中に浮かんだ島状になってて、大陸のように広い島からちょい離れた島には小さい家があって、女の子がたったひとりで住んでいる。そこに空からロボットが落ちてくる。

 ドラム缶のような茶筒のような円筒形の顔をして、平べったい手足が伸びたロボットは、石田祐康さんの「rain town」に描かれたものをもうちょっと、縦に長くしてソリッドにしたような感じで、どこか温もりとユーモアさを持ったフォルムといった印象。そして雨が降りしきり水没した場所がある「rain town」と同様に、「ノアの□(ハコ)庭」の世界も決して明るい未来ではない。むしろより切実に危機に瀕しているとでも言うべきか。少女の住んでいる島も他の島たちも、端っこからブロックが落ちるようにだんだんと欠けてって、そしてだんだんと小さくなる。もしかしたら女の子が住んでいる島は、そうやって欠け落ちた部分があって、大陸から離れてしまったのかもしれない。下は底なしで上も見えず、飛ぶものもない状況で女の子はロボットと出会い、暮らし始めるけれども島はどんどんと欠けて行って、そして迫る最後の日…。そんなストーリー。

 そこでロボットが少女に対して見せる優しさに、涙がぶわっと出てきた。「rain town」にもあった叙情性がありSFっぽさも漂い、そして離別の切なさがいっぱいに漂う作品。ブロックを基本に設計された世界の描写、そして点在して島々が浮遊する空間の広さ、底なしの恐怖といったものが、がふわっとした色調の中に描かれているのも巧いし、切迫感がありながらも同時に不思議な温かみも感じさせてくれる絵柄もひとつの強み。そうやって積み重ねていった情感なり思い入れが、最後の瞬間の訪れとともに寂しさと悲しさに変わって観る人たちの涙を誘う。そんなストーリー性も抜群な作品。見終わった人たちが一様に泣いたよ泣けるよ泣いちゃうよって話してた。

 僕も1度、秋葉原UDXシアターでの上映で観たあとで、外にあったセレクションメニューを上映していたモニターでまた見てしまった。そしてやっぱり傑作だと思った。作った狩野洋典さんがどんな進路か知らないけれど、いつかどこかで何かを見せてくれるだろう。そんな才能だった。細川研究室では、あと「little light」って白井美帆さんの作品も、マッチを摺りたい子供とランプの関係をコンテ描画風の画面に淡々と描いていて良かったよ。粘土を動かしてオリンピック選手を描いた作品とか、竜の子供と少年との妙な友情話を描いたアニメっぽい作品とかいろいろあって、なかなかに多彩な細川研究室。でもやっぱり「ノアの□(ハコ)庭」がピカイチか。各研究室から選りすぐりの作品が集まったSプログラムの最終にもなっているってことだから、そういう評価なんだろう。いつかまた観られる時があれば観に行こう。どこにだって。

 まずフッと浮かんだのが一二三スイさんによる「世界の終わり、素晴らしき日々より」(電撃文庫)という作品で、なぜか世界から人が消えてしまって残った少女2人が出逢って軍人などがまだ少し残っている世界をどこへともなく進んでいくという話。切実なんだけれどもどこか明るい雰囲気があって、だからといって楽観できる世界ではなくバトルなんかも含まれていて滅び行く世界を生きていく大変さってものを感じさせてくれた。あと記憶から浮かんできたのが西村悠さん「ROOTER」(桜ノ杜ぶんこ)という作品で、人の願いを現実にしてしまう「幻想病」が流行初めて誰も彼もがとりつかれ混沌とした日本の中をこれは少女と男がいっしょに東京へと向かって歩いて行く話だった。

 世界の変容を前にうろたえる人、諦める人と様々な人の機微が見える、こうした作品たちと同様に、ツカサさんがハヤカワ文庫JAから初めて出した「ノノノ・ワールドエンド」(ハヤカワ文庫JA、720円)もやっぱり、危機と言うよりほとんど滅亡に貧した人間たちが社会の激変をどう受容し、その中でどう生きるべきかを感じさせるような設定を持った作品。突然に発生し始めた霧のようなものがだんだんと世界を見えづらくして、そして霧が濃くなった地域からは人が消えてしまうといった話も伝わり始める。薄い場所へ逃げれば助かるかもと、母親とその再婚相手とともに自動車に乗ったノノだったけれど、同じように脱出を目指す渋滞の中で義父はいらだち母を殴って怪我を負わせ、そこに霧がかかって母親が消えてしまう。

 普通だったら事件だけれど混乱にある世界でそれを問う者はおらず、父親はいらだちの矛先をノノへと向けて牙をむき、ノノはその手を逃げて山中を彷徨っていた時、何者かに追われている白衣の少女を見かけていっしょに逃げ出す。彼女の名前は加連。飛び級をして大学に進んだ天才で、そして世界が霧に覆われ滅びようとしているのは、自分のせいだと言い始める。どういうことか。それは何かの研究の結果らしい。とはいえ彼女が直接手を下した訳ではなく、霧が招く死んだ人の亡霊のようなものを求めた女がその発見を使って世界を脅かしていた。

 どうしてそんなことをしたのかと加連は女に会いに行こうとしていて、ノノはそんな加連に付き合って霧の濃くなる中を東京へと向かう。途中、スーパーの地下に批難しながら食糧を漁って生きる男たちと出会い、いっしょにいた青年が彼女がいなくなってしまったと探す場面に居あわせて、それが霧に巻かれたものかどうかを解き明かす一件。終末に優しい気持ちで臨む人間もいれば、欲情を剥き出しにして刹那に走る人間もいるといったことが浮かび上がる。どういう終わりを迎えたいのか。それともずっと居続けたいのか。いっしょにいる誰かがいるのといないのとでは、そんな思いも違うのかもしれない。

 刹那に追い込まれていたノノは加連と出会い歩き始めた。その先がたとえ終末でも、いっしょにいて歩き感じ合うことで未来を得た。人はひとりで生きるより、誰かと生きていく方が良いのかも。なんて思わせてくれる物語。SF的な理屈づけに異論も出そうだけれどそういうものだと思いつつ、そうなった世界でどう生きるかを思弁する物語だと思えばこれもSF。大原まり子さん「薄幸の町で」とか「有楽町のカフェーで」も思い出したなあ。昔はそれも読まれていた。設定ガチより雰囲気の上に組み立てられるドラマを楽しむための物語。百合ってよりも普通に人と人とが出会いわかり合って求め合う大切さが感じられる作品かなあ。次はどんなビジョンを繰り出してくれるか。期待して待とう。

 そして戻って最終上映となったSプログラムから三度目の狩野洋典さん「ノアの□(ハコ)庭」にやっぱり泣く。じわじわと関係性を描きそして最後へと引っ張っていくテンポも巧いなあ。傑作。そしてやっと見られた三森一葉さんの「老樹に住むトトルーポトラート」もまた傑作だった東京工芸大の卒展のアニメーション学科作品。動物のような人間のいうなキャラクターが朝に起きて食べて夜に寝るまでの暮らしを綴った絵物語のような作品でとにかく作画が上手い。イラストになりそうな独特の絵柄が高い品質で動くのだ。ベーコンエッグのような食事も独特なんだけどそう見えてなおかつ美味しそう。それだけの作画力で綴られる森の1日。身を委ねたくなった。この人も今後の活躍を期待したい。Sプログラムに入っていた向井円さん「サマーナイトタウン」も東京から関西に転向してきた少女と地元の男子との交流が良かった。ちょっとだけ東京弁になってた男子が可愛い。でもクラスの女子に突っ込まれると関西弁に戻るのだった。おませさんめ。


【2月27日】 まだスーツなんてものを来ていた頃には、船橋から1番近い場所にあるってことでポール・スミスあたりを買いに何度か通った錦糸町の丸井だけれど、最近はとんとご無沙汰していたら、何かセガゲームスが「戦場のヴァルキュリア」のコラボカフェを作るとかってんで見物に行った昨夜。スイーツパラダイスって各所でケーキのバイキング店を展開しつつ、「進撃の巨人」とか「龍が如く」なんかとのコラボを展開しているチェーン店のひとつが、丸井錦糸町の上にあってそこでなぜかスポット的に「戦場のヴァルキュリア」ってゲームのコラボを始めることになったとか。

 発売された当時は、その水彩画のような画面とシリアスな戦略シミュレーション要素が話題となったゲームで、その後テレビアニメーション化もされて賑わったけれど、最近のスマートフォン向けゲームアプリ全盛の中、沈滞しているんだろうかと思ったらこれだどうして、リマスター版なんかが出て続編も作られるみたいで、2008年の発売から8年が経ってもしっかりと存在感を保っている。登場から10年の「龍が如く」シリーズと同様、セガでもしっかりと残っているゲームプロパティ。それだけに大事に思っている人も多く、そんな人がせっせと通ってゲームの世界にひたれる場所だと喜びそう。

 料理も凝ってて、セルベリアっていう青い魔女の雰囲気を醸し出したシチューがあって、ポットパイみたいな蓋になったシートを破ると中から出てくるのは青いシチュー。なんだこの色は。でも食べると美味しい普通のシチューで、しっかりお腹もいっぱいになる。ハンバーガーとかサラダとかパフェとかケーキとかもあってスイーツパラダイスのバイキングにプラスアルファで楽しむ分には十分かと。ラテは上にキャラクターが描かれたシートが乗って出てくるんだけれど、そのキャラクターを選べないというのがまたユニーク。9種類あって誰が出てくるかはお楽しみ、ってトレーディングラテかよ。それはコースターなんかも同様だけれど、きっと「ヴァルキュリア」のファンは誰というよりゲームそのものをAIしているから、誰が出てきてもオッケーとなるのかな。どうなのかな。5月8日まで開催中。ご近所の方もそうでない方も是非。

 横浜駅前の有隣堂で「紅霞後宮物語」を書いた雪村花菜さんのサイン会があるっていうんで、朝から電車を乗り継ぎまずは横浜駅へと向かい、有隣堂のコミック王国へと出向いて当該の文庫本を確保。すでに買って読み終えてラストに泣きじゃくってはいるけれど、こういう新しい作家さんがどういう人で、そしてどういうファンが付いているかを確かめる意味でも、サイン会という場は行っておいて無駄はないのだ。そして整理券を手に入れたら、木曜日「CP+」を見に来た時には閉まっていた横浜美術館へと行っ、て村上隆さんのコレクションを展示する「村上隆のスーパーフラット・コレクション展」を見物する。

 まずは古代中世近代の壺やら陶器やらが並んでいて、それはきっと貴重なものなんだろうけれど、美術的にも考古的にも位置づけが分からないのでそれが骨董好きのおっさんが騙されて買った品々か、すごい目利きの結果なのかを判断するのにちょっと迷う。ただ続く展開で魯山人とかいった名だたる名人の作品が並んでいることから、きっとそれなりに造詣は合って目利きも出来る人だといった認識を持って捕らえ直すことはできるし、見て自分ならどう思うかといった知識を試されているとも言えそう。あと単純に見て凄いと思うか、美しいと思うかといった目を試されているとも。そういう意味ではユニークな展示ってことになる。

 現代美術のコレクションになれば、そこには作家の名前も制作年代も書かれているから、あとは現代美術のヒストリーに位置づけながらどういう役割を果たした作家か、そして作品かを後で調べることはできるし、そうでなくても見て凄ければ、これ誰と思って調べていくというインデックスにもなる。知っている人が見れば時代とか傾向とかお構いなしに興味の本流を突っ走っているとも思えそう。ヘンリー・ダーガーと荒木経惟さんが並んでいたりって、他のコレクションではあり得ないから。そして奈良美智さんと竹熊健太郎さんって取り合わせも。奈良さんは分かっても竹熊さんって誰? ってなるのが普通だけれど、不思議とそんな竹熊さんの絵の前に人がいっぱい溜まっていた。引き付けるものがあるのかなあ。きかんしゃトーマスには。あるいはそれが描かれた竹熊さんの絵には。

 タカノ綾さんとかもあったり現代美術家でまだ知らない人の名前もあったりで勉強になった展覧会。問題はあの展示室にいっぱいのコレクションを、村上さんはどこに持っているんだろうかってこと。価値だって凄まじそうだしサイズだって半端ない。補完しておくだけでコレクションの1つが変えてしまいそうなお金がとんでいきそうだけれど、それを集めて見て愛でて、一体村上さんは何をしようとしているのか。価値付けではないなら純粋の趣味か。別の何か思惑があるのか。いずれにしても売り払ったら個々にすごい作品になってしまうのを、村上隆という現代アーティストが持っていることでその思考と相まって、時代とジャンルを超えた美術のマトリックスとして機能する。ならばずっとそのコレクションとして保持されつつ、それをも村上隆さんの作品として保存し展示するのが良いのかもしれないなあ。コレクションって大なり小なり個人の作品だから。うん。

 戻って有隣堂横浜駅西口店のコミック王国での雪村花菜花さんサイン会。もしここれが初のサイン会なら、並んだ中では男性では先頭だった自分が最初にサインをもらった男性になるのかもしれないけれど、ほかにも後ろを向くと幾人か並んでいたので、シリーズのファン層は男性にも及んでいそう。でも圧倒的に女性が多くて年齢は学生も居れば高めの人もいたりと幅広い。コバルト文庫とかホワイトハートX文庫とかを読んで育った世代や今も読んでいる世代が目を向ける作家ってことなのかな。富士見L文庫というどちらかといえばファンタジア文庫の派生として生まれた文庫な感じだけれど、それがファンタジアとは違った女性ファンが付いているのは、版元の読者層を広げたいって狙いをちゃんと果たしていることの証明か。メディアワークス文庫も読者の6割7割女性とかいうし、なろう系異世界転生を求めたがる男性系ラノベ読者とは違った、女性のエンターテインメント性を求める気持ちに応えた小説ってのがあったってことなんだろう。少女小説の延長で、かといってBLではない小説群。そこに向けてこれから各社、舳先を向けていくのかな。

 横浜から秋葉原へと回って秋葉原UDXで開かれている東京工芸大の卒展より、アニメーション学科のプログラムを今日も幾つか。山中研究室から多分阿部玄暉さんの作品だった「rerun」は切り紙を動かして三白眼のキャラクターが立ち回る作品で、そのビジュアルは漫画っぽいけど手法や動きはアニメーション的。ハイブリッドな感じがちょっと良かった。あとはやっぱりキャラクターデザインか。同じ山中研究室では川上夏実さんという人の作品が舞台で歌う男性アイドルのユニットを描いた作品だけれどダンスとかせず歌っているポーズが続く感じ。でもちびっこいキャラに当てられた声が女の子でその合いの手が男性キャラに混じって響く感じが面白かった。

 続く三善研究室の上映では、多分韓国だろうソン ヒョンホさの「蜈蚣場伝説」が古い伝承を元にした作品っぽくって、少女の親が折らず虐められて気丈にしながら見えないところでは泣きはらし、お腹を空かしながらもヒキガエルを助け寄り添い合って暮らしていたところにムカデの生け贄にされそうになって、縛られ泣いていたらヒキガエルが現れムカデと戦い助けてもらったんだけれど、共倒れしたヒキガエルに少女が涙する展開にもらい泣き。絵はまだ拙くても感情が見える表情や仕草、そして展開が良かった。

 加島香さん「るすばん」は玄関先だけの女の子のドラマをよく描いてあった。室塚勇枝さん「空に近い場所」は屋上に見える少女が近寄ると消えて誰だと思案し見つけた少女のクラス写真から髪飾りを見てハッと気付く展開に子を思う心が見えた。そんな感じ。そしてセレクションと呼ばれる優秀作品に、あのの生パンツが散らばる堀田麻季さん「ぼくらのおパンツ戦争」も入っていたことに気付いて仰天。上映では時間の関係で外れたとか。何で? 最高なのに! 最高すぎて誤解も生まれるからなのかな。明日また行けたら見て来よう。


【2月27日】 難癖を付けることにかけては宇宙一かもしれない型抜きの店主に文句のひとつも言わせず賞賛すら浴びて5000円をゲットした枝垂ほたるの、その型抜きにかけた人生のいったいどれだけなのかを想像すると涙のひとつも出てくるけれど、そうやってゲットした金をあれやこれやに散財してしまうところがやっぱりただのボンクラお嬢様。そんなギャップがあるからサヤ氏もココノツを奪われるとは思わず友人として付き合っていけるんだろう。ほたるが欲しいのは父親のヨウの方であって息子は駄菓子屋を継げばそれで良いって感じだから。そんな「だがしかし」に出てきたお好み焼きやの玉井たまこさん、綺麗だったなあ。歳どれくらいなんだろう。ヨウと同じってことはないよなあ。また出てくるかな。夏じゃないと出てこないか。ってずと夏だよこのアニメ。

 えっと莫迦なの? としか言いようがない自民党から出たという新国立競技場の座席を木製にしろといった意見。スタジアムにせっかく木が使われているんだからとか、それが日本らしいといった発想らしいんだけれど莫迦も休み休み言えというか、下手の考え休むに似たりというか、自分たちが何を口にしているかをまったく理解していないところが傍から見ていてみっともなくて鬱陶しい。なるほど座席を木にしよう。それがちょっとだけ高いとしよう。でも美しいから良いじゃないか言うけれど、でも木は水に濡れればやっぱり傷むし腐りもする。金属やプラスティックと違って。

 ただでさえ屋根を着けるのどうのといった話からスタジアムを完全に塞ぐ屋根は作られそうもなく、従って風も雨も吹き込むだろう構造のスタジアムでは観客席の上に屋根があったところでやっぱり座席に風雨は届くだろう。そうやってだんだんと痛めつけられていく公園の木製のベンチが長持ちしないのと同様に、スタジアムの観客席だって木製ならやっぱり傷んでメンテナンスが必要になる。その費用はどれだけかかるのか。そして誰が出すのか。ちょっと考えればすぐにだって分かりそうなことに、気付かないのか気付いていないふりをしているのか。

 どっちにしたってすぐに突っ込まれそうなネタを開陳しては悦に入るその不遜さが、国民からの政治家への不審を読んでいると気付こうよ。そしてメディアもそんな莫迦を言ったら雨だと腐るし家事だと燃えると突っ込もうよ。1985年に英国で起こったブラッドフォード市サッカー場の火災とか、スタンドが燃えて56人が亡くなった。それと同じ構造に新国立競技場がなっている訳ではないけれど、屋根と言わずに天幕にして不燃材を使わないで済むような脚抜けをしかねない状況で、スタンドまで木製になったら仮に燃えだしていったいどこまで燃え広がるか。なんて考えると怖くてスタジアムに行けなくなてしまう。そういう可能性に言及もせず思索もしないで騒ぐ政治家と煽るメディア。日本はそういう人たちによって滅びへと導かれる。やれやれ。

 奇跡を見た。それも21世紀最大に近い奇跡を。あの書かない作家、そしていつしか存在そのものが疑われるという驚天動地の境地に至った作家の火浦功さんによる新刊が出た。それも過去の焼き直しではなくすべてが新作、ではないけれども単行本には集録されなかった幻の作品で、これによって初めて触れる人も結構いそうな作品が、1冊にまとまって毎日新聞出版のミューノベルから登場した。題して「昭和な街角 火浦功作品集」(毎日新聞出版、920円)を開けばそこには冒頭から火浦節ともいえる戯れ言が繰り出されは、読む者たちを火浦功さんが存命(今だって生きているけれど)で次々に作品を発表しては、読んだ者たちを脱力させていたあの時代へと引き戻してくれる。グッと。ググッと。

 夫かカエルになって娘が家でした「ただのバカ一代」に始まって、七面鳥について軍人が語りSF作家が聞く「聞いた話」に誰もがそうだと気付いた中で迎えるその日を描いた「終わる日」などなど、ナンセンスがあればシュールもあってリリカルもあるといった具合に短い中に火浦功さんという作家の筆の多彩さ、そして短いけれおも鋭い切れ味って奴を感じさせてくれる。中には「キャロル・ザ・ウェポン」だなんて交通課の婦人警官と現場に生きる刑事と定年間際の老刑事とボスと呼ばれたいキャリアの署長が出たり入ったりしていったいこの個性的な奴らにやよって何が始まるんだと期待させて、さらっとひっくり返して唖然とさせる必殺ちゃぶ台返しを見せてくれる作品もあるけれど、そんな楽屋落ち内輪受けも含めて火浦功さんの真骨頂。それがすべて味わえるこの本が奇跡でなくて何を言う。後書きめいた言葉は新品だぞ。それだけでも価値がある。国宝級の。

 帯がまたふるっている。「奇跡、起こしちゃいました」という言葉は自虐と自嘲と自尊の入り交じった韜晦だから良いとして、横に劇画村塾で火浦功さんを教えた漫画原作者の小池一夫さんが「火浦クンと同時発売、師弟対決だって!? 勝負には負けンぞ!! でも、ハンデくれ!!」とその才能を大いに買ったコメントを寄せている。同時発売とは前に小池さんが書いた伝奇小説「夢源氏剣祭文」がやはり劇画村塾出身の高橋留美子さんの表紙絵で復刊されているというもので、そんな2冊が積み重なった本屋の店頭は彼方から巨大隕石が落ちてきて人に当たらないというくらいに奇跡的な状況だと言えるだろう。もしかしたら今世紀で最後の光景になるかもしれない、火浦功さんの新刊が書店に並ぶという状況。これはやっぱり誰もが書店に走って確認しておく必要があるかも。そして8Kで撮影して未来に残すのだ。この日、芳林堂書店が潰れたことも添え書きして。やっぱり奇跡には異常がつきまとうのか。次の新刊が出たら地球が滅びるのか。怖いけど、でも待ち続ける、いつかその日がまた訪れるのを。

 次の仕事への間が合ったので、東京工芸大の卒業制作展をのぞいてアニメーション学科のプログラムを幾つか見る。Bプログラムの木船・城戸研究室〜2〜に入っている堀田麻季さん「ぼくらのおパンツ戦争」が、作画に画像のパンツをはめこみパンツに替えられてしまった妹や人間を、ふんどし締めた兄貴が取りもどそうと戦うストーリーで、って聞くほどにお莫迦なんだけれど語りと展開の勢いで押されて最後まで見てしまう。そしてやっぱり莫迦だなあと思って笑い転げる。そんな話。面白いのは作っているのは多分女性で、ナレーションはだから女性の声だったりするから、莫迦さ加減が増幅する。

 そして登場する写真のパンツの実在が気になってくる。あれは誰のものなのか。実際に使用されているものなのか。クワッ。そんな想像をかき立てられる作品。同様にトんでるっぷりでは木船・城戸研究室~〜2〜より今井純平さん「Taste bump」が学内美少女をトレカした男同士のバトルで絵が何といういうか、いまもえさん風味でつまりはレベルが遙か及んでないんだけれど、そのパワーで押しきっていた。福田壮二郎さん「骨抜きの女」も美女の声を男が当てていたりして展開も無茶でふるってた。これらはアウトデラックス的な番外編で、本格という意味では動きが楽しい橋本研究室の本田萌さん「無限エンドロール」があり、ホットケーキを食べる熊がかわいい紫田久留実さん「ホットケーキ」があり、ロボットが料理する手つきが良かった木船・城戸研究室の中谷謙吾さん・野口優輔さん「てりょうり」が見ていて良かったかも。

 見たプログラムがそうだからなのかもしれないけれど、アニメーションというよりいわゆるアニメ的作品が多かった中で、木船・城戸研究室の三浦琢光さん「煩悩」という作品は、アニメ絵的な少年と怪物化した少女との幻想のバトルがアニメ的にとても迫力があった。あと福田聡あん・山田真也さん「DOLL EAT」は画面設計のレイアウトとそれから作画に引き付けられた。そのままプロのアニメーターとしてやっていけそうな雰囲気。卒業してどこに進むんだろう。気になった。たぶん優秀と認められたSプログラムに挙がっている作品では、フル3DCGで猫と鳥との脱出劇を描いた木船・城戸研究室の須鎌良太さん「JUNGLE CAT」が頑張っていたし、実写にアニメを重ねてゴリラが街を突っ走るカメラワークに惹かれた山腰蒔さん「暴走猿人」も良かったかな。

 あと渡辺・小柳研究室の「Mephisto」という作品も。合場愛さんキム ミンジョンさんチン ホケンによる作品は、蝶の娘が悪魔に誘われ招かれる展開が手塚的ともディズニー的とも言えそうな絵で紡がれる。巧いなあと思った。一方で尾内麻里絵さん「予告編風 フカフカぬいぐるむぞんず」は歌が。歌が。歌が。歌が。笑えたので良し。そういえば古川タク研究室がもうなくなっていて、ちょっと寂しかった。東京工芸大のアニメーション学科卒業制作展ではいつも、いわゆるアニメーションとして凄いものを作る人たちを送り出してくれていたから。植草航さん久保雄太郎さん小谷野萌さんキム・ハケンさんさとうちひろさん等々。そういうテイストの作品が見られなかったのは古川タクさんが退官してしまったから? 他のプログラムにはいるかもしれないんで時間を作って見に行こう。秋葉原UDXで28日まで開催。


【2月25日】 NHKの番組「ためしてガッテン!」が終了という話にファンが驚き騒いでいたようだけれど実態は「ガッテン!」と名前を変えて海外取材なんかも混ぜながら進む世界お役立ち情報発見的展開になるという。それで「試す」部分は残るのか、ってな疑問もあるだろうけれども「浅草橋ヤング洋品店」が「アサヤン」になってパワーアップしたことも考えるならこういうリニューアルもあるってことで。もしも逆に人気番組をくっつけ視聴率3倍増だと言い出して「ためしてブラタモリ!」なんて番組にしたら登場するあらゆる謎にタモさんが「それは…」と正解をボソッと言って出演者や学者が「さすがですタモリさん」と讃えるだけの内容になってしまったところだから。「ブラタモリ」のあのタモリさんにすべて期待する雰囲気と、それがズレたときのいたたまれなさは観ていてチョット辛いのだった。

 さらに驚きの展開として「大河ドラマ ためしてブラヒストリアG」とかってタイトルで歴史ドラマを基本として放送しながら途中で歴史的な分水嶺なり登場人物の決断なんかを織り交ぜそこを若い歴史学者や考古学者の卵たちが集まりさまざまな仮説を提示、観て偉い歴史学者や考古学者や科学者政治学者経済学者がヒントを投げかけ再考を促しまとまった結論を元にドラマが続いて最後にkalafinaが綺麗なコーラスを聴かせてくれて45分間のドラマパートが終わり、その跡で大河の現場を尋ねるといった形でタモリさんが史跡をめぐいろいろ喋る番組が45分間、続いたら見ている方だって何が何だか分からなくなりそう。おっと「タイムスクープハンター」を混ぜるのを忘れていた。ドラマパートはすべて特殊な交渉術で入り込んだ時空ジャーナリストがリポートするという形で。観たいかな。観たいかも。

 誰が書いているんだろうという興味はもちろん浮かぶけれども版元が、そして今の書き手が「ヤマグチノボル」の名義での発表を望み認め許しているならそれはヤマグチノボルさんの筆になるものであって、今は誰だと類推するのは止めておきたい「ゼロの使い魔 21 六千年の真実」(MF文庫J)。といっても20巻まででどこまで進んで何が起こっているか、さっぱり忘れていたのでそれも思い出しつつ読み始めて、エルフの国の奥にあるという聖地に向かってハルケギニアから侵攻中、才人がティファニアとともにさらわれ逃げだし後にルイズたちが入ってエルフでも穏健派を味方に引き入れ和平を結びつつ急進派の台頭に挑むといった展開。

 そんな果て、見えてきたのはルイズたちの世界と才人の元いた世界との関係って奴。零戦が空を飛ぶ不思議が単なる“召喚”ではなさそうなところが見えてきて、どういう繋がりへと向かうのか、ってのが来たる最終22巻の読みどころになるんだろう。ルイズとかティファニアが“虚無”の力を使うほどに才人の命が削られている展開がこの先、何を意味するかも重要だろうけれどまさかね、主人公がいなくなって後を女子たちが泣くような、哀しい結末は用意していないだろう。アニメ版についてすっかり覚えていないけれども記憶だと?がった世界の間でルイズと才人がいちゃいちゃしてたっけ。そんな感じの結末を小説でも期待。ほかに何人か女子が増えても構わないから。

 CP+2016が始まったんで朝も午前7時に家を出て、総武線快速から横須賀線経由で桜木町まで行きそこから歩いてパシフィコ横浜へ。途中のマクドナルドで一服をしたけど朝なんで名前が決まったらしいバーガーはまだなく普通にメガマフィン。昼過ぎにマクドナルドに入る機会も乏しそうなんで食べずに終わりそうな気がしないでもない。ってそんなに早くなるなるメニューなのか。そして開場したCP+では何を置いてもPENTAXのK−1を見物。小さいなあ。そして思ったより後ろのモニターが出っ張っていなかった。高級コンパクトカメラのMX−1が出たときに、サブカメラとして良いかなと思ったんだけれど後ろのチルト式液晶モニターが出っ張りすぎていて、手に収まりが悪いと思って手を出すのを躊躇ったんだっけ。その二の舞になるんじゃないかとK−1もちょっと恐れてた。

 けどチルト式ながらも4本の脚で支えるような不思議な構造で、薄い液晶が本体から浮き上がって上向きにも下向きにも出来るようになっていて、収めればそんなに厚みもなくて1眼レフとして許容範囲内にあったってところ。もちろん手持ちのK−7に比べると1センチ以上は分厚くなっているけれど、それもまた一眼レフカメラの特徴なんで気になる程ではなかった。それにしても不思議なチルト機構。引っかけたらぶち切れるんじゃないかと心配したけど持ち上げて振っても切れたり伸びたりはしなさそう。そういうメカニカルな面へのこだわりはさすが、PENTAXといったところかなあ。質実剛健。でも使い勝手は今ひとつ。そこがまたPENTAXらしい、使う人にある程度の理解と苦労を強いるところに機械としての深みがあり、面白さがあるのだ。

 普通の人が見るだろうニコンのD5だとかキヤノンのEOS 1D Mark2とかは気にもしないのがPENTAX党。それでも同じリコーイメージングのTHETAはちょっとだけのぞいて全天球の動画が撮れる時間が長くなっていたり、暗い場所でも撮れるようになっていたことに興味をそそられる。他に存在しないカメラはPENTAXブランドとリコーブランドが平行する会社内になっても、差別化に?がっている感じ。OptioとGRシリーズとの棲み分けもまあ、高級コンパクトとしてのGRと普及期のOptioって感じに分けられるのかな。GRシリーズみたいなシンプルな機能が高品質化するスマホのカメラに食われていく可能性もあるだけに、将来が気になるところ。ZTYLUSってところが出してたiPhoneのレンズを高画質化して超広角にするアタッチメントとか、本当に良く出来ていたものなあ。

 そんあZTYLUSから出ていたのでは円盤部分から3つのアタッチメントが飛び出してiPhoneのレンズを覆って魚眼と偏光、そしてワイドとマクロの両方という4つのレンズに変えられるというケースがとっても良く出来ていた。すでに国内で輸入し販売しているところがあるみたいだけれど、CP+にブースを出してすべての製品を並べていたからには本格的にこれから日本でも展開していくって考えか。これを使ってリオ五輪のすべての競技を撮影し、それを本格的なニュースサイトに掲載するようになれば話題になりそうだけれど。

 っていうかD5だのEOS 1Dだのって超高級機でいくら撮ったところで、五輪報道の大半はウェブへと回ってそこではそんな高級機の画質なんて載らないし求められていないんだよなあ。むしろシーンをもっと多様化する方に動くのが筋で、ドローンによる空撮とかスマホによるリアルタイムのアップなんてものがこれからのスポーツフォトにも求められるような気がするけれど、そこに日本のカメラメーカーはターゲッティングしていけるのか。いけなきゃドローンの会社とそれにカメラを供給する会社、そしてZTYLUSみたいなスマホをグレードアップする会社にとって変わられていくのかも。ある意味でひとつの分水嶺になっているかもしれないCP+2016は日曜日まで。あと1回くらい言って大桟橋の展覧会を見て来るか。横浜美術館での村上隆さんのコレクション展も休館で見られなかったし。

 菅澤優衣香選手が怪我で離脱したのは残念で、あの高さはポストプレーとなった時に横山久美選手のような走り込んで交わせる選手と組んで大いに力を発揮しそうだったけれども仕方が無い。一方で横山久美選手はしっかりと選ばれ岩渕真奈選手どなでしこマラドーナの称号をかけた戦いを繰り広げることになるのかどうか。ともに若い世代別で大活躍して将来を期待されながらも本家なでしこジャパンには絡めずここまで大きな実績を残せてこなかった。晴れ舞台に残って2人がどんな戦いを見せてくれるかが、美人なんとかなんてどうでも良い記事を書き飛ばすスポーツ新聞とは無縁の女子サッカーファンには大いに気になるところだろう。ゴールキーパー争いはとりあえず福元美穂選手がベテランとして使われるか、山根恵里奈選手に出番はあるか、そこがリオ五輪での出場も決めそう。一気に山下杏也加選手まで下がるかな。本番まであともう少し。


【2月24日】 20年のほとんどを取材に通っていながらも今にいたるまでただのライターとして通い続けている「東京ゲームショウ」に我ながら出世だとかからの縁遠さを噛みしめたりしているけれど、上に立って偉そうなことを言うよりもやっぱり行って現場に立ってあれこれ観るのが自分のためになる。何か後に役立つ事もあるかも知れないと信じて今年も行こう「東京ゲームショウ2016」に。発表だとVRコーナーとかAIコーナーなんかが設けられて、今が旬のVRヘッドマウントディスプレイを使ったゲームとか、AIが使われたプログラムなりロボットなりが間近に観られそう。インディゲームコーナーの熱も高そうだし、いろいろと未来に?がる発見をしてこよう。それを役立ててこれからの10年を食える道を見つけたいけれど。小説書くかエッセイストになるか。どっちも無理かなあ、ただの日記屋には。

 メディアなんかに情報が載って、時間が経つほどにだんだんと広がっていった村田和人さんの訃報に、まだTMネットワークでデビューする前にバンドに参加していた小室哲哉さんが弔意をツイートしていたり、Honey & B−Boysに参加していた平松愛里さんがやっぱり訃報を悼んでいたりと、ずらり並んだ名前の大きさに、決してシーンとしてはメジャーで活躍はしていなかったけれど、シンガーとして、そしてソングライターとしてしっかりと活躍して来た人なんだってことを改めて確認する。リスナーとしても少なくない著名人が言葉を贈っていたし。

 それだけのシンガーがいた、ってことを亡くなって再確認する辛さはあるけれど、でもこうやってまた聴かれる機会が来た。せめて残された作品たちを聞き継いで、未来にその素晴らしい歌声を繋いでいこうしかし声優の緒方恵美さんにも曲を提供していたいとは、ちょっと驚いた村田和人さん。1998年の3月リリースだらかもう18年も前だけれどもそのアルバム「MO」の中に村田さんは「vacation map」とそして「3月の雨」という曲を緒方さんの詞に対してつけて編曲も行っている。

 聴くと「vacation map」は緒方さんの男の子の声っぽさがニュアンスとして残った歌声で歌われたシティポップで、「3月の雨」は意外にも聞こえるキュートな女の子の声で歌われていて、それぞれに緒方恵美さんという声優さんの特質が出ていた。わざとそうしたのが話し合いの中でそうなったのか。分からないけれどもサウンドはどちらも村田さん的な西海岸風のシティポップ。デビューから変わらず貫いていたってことが見えて面白かった。アルバムもしどこかで手に入ったら聴いてみよう。その前にまだ聴いてない村田さん自身のアルバムを集めなきゃいけないんだけれど。

 見渡すと女性ばかりで自分を除くと男性は1人が2人といったところ。ご老体な人も入ってきたけれど、あるいは「女学生」みたいな太宰治的青春映画と間違えたんだろうかともいった考えがよぎった劇場アニメーション映画「同級生」。見て思ったのは、これが実写化されていた場合の空気感はいったいどうなったんだろうか、といったところで、たとえアイドル的な美しさを漂わせた役者であっても、というかむしろそういう役者であればあるほど、どこか違った印象になったような気がする。

 中村明日美子さんの漫画による原作が持つ、シンプルな戦で綴られるどこかふわりとしてそれでいてソリッドな部分も持った絵柄だからこそ漂う、日常にとけ込んでしまっている男の子同士のサラリとした関係を、アニメーションではよりカラリとした線で、時にコミカルな動きも混ぜて描いてあるから、見ていて粘性のセクシャルを感じさせられずに済んでいる。そして淡々と進む関係を、男女に問わずあり得る初恋の気恥ずかしさを覚えながら観ていくことができた。そんな映画だった。

 いわゆる男の子同士のホモセクシャルへと向かう関係を描いた作品ではあるけれど、そこに性的なニュアンスを持った淫靡さはなく、またそういったカテゴリーの作品を例える時の耽美といった言葉すら当てはめづらい。そんな空気感。BLだとかやおいだとかいった言葉を上に積んで、一種の様式として理解することとも違って、日常の延長線上に普通に存在することだと了解できる人と人との関係、それがこの場合は男の子どうしに過ぎないという関係を描いた青春ストーリー。だから、観て公序良俗だの道徳観念といったものからの突破に喝采するような感慨を覚えることはない。ああそうなの、そういうこともあるんじゃないのといった、淡々としたビジョンって奴が通り過ぎていくそんな感じだとも言えそう。

 とはいえ、そういう意識に至っていられるのも、過去から現在に至るまで、世にあふれる耽美に淫靡な諸々の作品を経て、BLといった様式なんかもくぐり抜けて至った中村明日美子さんという漫画家の境地だからであって、それが映画となって劇場にかかったとしても、慣れ親しんだ気分をちょっぴり、公然とした場で味わうむずがゆさはあっても、受容できる。これをもし、太宰治的純文学風世界観めいた認識で観た人がいたとしたら、たとえサラサラにカラカラとっした、爽やかで淑やかな関係であっても、なんだろうこれはといった感覚を抱くかもしれない。

 深夜のテレビで放送されるアニメーションだったら、自分には関係ないものだと観ないでいられるけれど、映画館だと街中に空間として開かれていることもあって、知らず観に行ってしまいおやといった感覚に至るかもしれない。そこはすでに慣れ親しんだ人間なんでちょっと分からないけれど、そうではなく、普通に友情の延長であり、あるいは稲垣足穂的な意味での“耽美”を今に描いた作品だと感じて気恥ずかしさを覚えつつ、普通に観てしまえるのだとしたら、それは作品が持つひとつの気質だと言えるかも。

 絡みとかなくセクシャルな描写も避け、それで浮かぶ人と人との心と心の関係。それがちゃんと描けている映画だと思われれば大成功。その上で、男性同士の恋というものへの感心を、ちょっとだけ積み上げ世間の認知をもう少しだけ押し広げられたら、世界はもっと愉快になるのだろうけれども、果たして。あとこれが一般にも受け入れられるかもしれないとうのは、やはり実写ではないということも大き気がする。

 たとえ漫画に似せたキャストを選んでも、そこに人が絡むと表情も仕草も人から出るものがやっぱりある。累々としてあるそうしたカテゴリーにたいする偏見にも似た見方が、人間が演技した場合だとよやっぱり出やすい気がするし、演じる側にも中村明日美子さんの描く漫画のキャラクターのような雰囲気は出せないだろうか。漫画で人気が出てくると、次は実写化だなんて動きがあるけれど、それは違うということをこのアニメーションが示していると言えそう。

 もちろんアニメーション化ですら漫画の雰囲気を壊して違うものになる可能性はある。「同級生」でも佐条利人という眼鏡の秀才の雰囲気が、漫画では三白眼気味で暗さが漂い手を触れるのも厳しそうな感じになっている。アニメだともう少し優しく、あるいは繊細な感じ。それは線の差があり色というものの力がある動きという要素があるからで、そうした差異をもしかしたら漫画のファンは気にしているかもしれない。ただ、実写になるよりは漫画に近く、それでいてアニメーションならではの動きが持つ切迫感なり躍動感があるし、息遣いなどからにじむ熱量めいたものもある。その意味でアニメーションになってこその作品だった、って言えるだろう。良い映画。そして多くの可能性を持った映画。続くかな。「卒業生」へと。

 この程度の人だったのかというか、ガ島先生もお偉くなられたものだというか。とある相手に取材を取ってもらえなかった話を「ウソつき」とだけ言って、何が具体的にウソなのか、そのウソによっていったいどんな問題が発生したのかを言わないとただの恨み節になってしまうよ。ってかそんなに話が聞きたければ、そして表玄関を閉ざされたなら裏からでも空からでも会いに行けばよろしいし、そうやって出てきた言葉と担当者の言葉に違いもないなら結果としちゃあ変わらない訳で。一方で、そういう旧来メディアの社長至上主義に異論を唱えるのがこの人のスタンスだったんじゃないのとか思ったけれどもちょっと頭がカッカしているのかな。僕だって超絶弱小メディアの人間なんて取材相手の選別に文句の言いたいときはあるけどそういう時は嫌味だって笑いにしながらぶちかますのが健康にも良いってことで。でなきゃとっくに憤死しているよまったくもう。


【2月23日】 なんということだ。とても大好きなシンガーだった。山下達郎さんの側から現れその圧倒的な歌唱力とそしてアメリカの西海岸を思わせるカラリとした雰囲気で僕を虜にした。何枚もアルバムを聞き込んだっけ。最近もちゃんと活動していたのは知っていたから、いつか生で歌声を聞きたいと思っていた。けれど…。そんな村田和人さんが2月22日に転移性肝臓がんで亡くなった。62歳。まだまだ若い。コーラスで参加していた山下達郎さんが1歳上でまだまだ現役を誇っているのにどうしてなんだという思いが募る。

 ネットを繰ると2011年の東日本大震災を受け、チャリティライブなんかを開いてそこで歌を唄っているけど、その声は「一本の音楽」を始めあの頃に聞いていた楽曲そのままに澄んだ声。なおかつ年輪も載って艶も出ていた。だからこそやっぱりライブで観たかったけれどそれももうかなわない。思い返せば1985年の愛知県勤労会館での山下達朗さんのライブで、コーラスに立った村田さんを見て声も聞いているはずだし、1986年の達郎さんのツアーでも愛知県勤労会館での聞いている。その時にいっしょに歌っていたCindyさんも今は亡く、ドラムを叩いていた青山純さんも逝ってしまった。そして村田さん。早いよ。早すぎるよ。でもそれが運命なら受け入れるしかない。そして僕達は残された歌を聴き、口ずさんで語り続けよう。「一本の音楽が僕の旅のパスポート。昨日までのわずらわしさ破り捨ててしまえ」。音楽を傍らに、人生という旅を歩み続けよう。

 必死だなというか、そこまでやるのかというか。教科書の採択においていろいろな教科書会社が検定中の教科書を事前にいろいろな人に見せてはご足労願ったということで謝礼を出していた問題で、新聞なんかが騒いで中には「教科書業界はもちろん、教員の倫理観も疑われる。教育界全体の信頼を損ないかねないとの認識があるのだろうか」なんてことを書いて憤っていた新聞もあったけれど、その新聞と近い関係にあって支援もしている歴史教科書の採択にあたって、教員なんかではなく教育長という採択を左右しかねない人たちに、事前に接触しては検定中の教科書を見せていたなんて話が持ち上がった。

 謝礼は出していないって話だけれど、新聞によれば「検定中の教科書を見せること自体が、文科省の教科書検定の実施細則で禁じられている」訳だから問題という意味は変わらない。「子供に顔向けできるのか」と詰った言葉をその教科書会社に向けて当然だろう。あまつさえその教科書会社の歴史教科書が、実際に採択された自治体なんかでは教科書会社の働きかけなんかもあって、親派の会社が社員を動員しては採択に向けてアンケート用紙をかき集め、1人が何枚も同じ文言で推薦の言葉を書いては返していた事が発覚したらしく大騒ぎになっている。700ちょっとの賛成数のうちの600近くを占めるといった話もあって、つまりは特定企業の偉い人のご威光が数字に大きく影響しているってことになる。

 不思議なことに自治体では、そうしたアンケートの結果が採択を左右してはいないとか言っているらしいけれど、そういう数字を見せられ果たして選ぶ人たちはどう思うのか。それを考えた時に怪しい数字が存在していたこと自体が大いに問題になる。選ばなかった場合のプレッシャーだって感じただろう。そんな結果としての採択だとしたら、やっぱり何かしらの影響は考えておく方が蓋然性があるだろう。怪しいと思ったからこそ副読本として別のを選んでいたのかもしれないけれど、そういう勘案が起こること自体に何かしら不思議な裏が透けて見える。

 公表された用紙を見ると、もう同じ文言が同じ筆跡でずらりと並んでいる。一字一句違わないどころか改行する場所、句読点を打つ場所までピタリ同じでカーボンコピーでもしたかのよう。そこでちょっとは筆跡を変えるとか言葉を変えるとかするのが捏造する上でもひとつのモラルになるんだろうけれど、気が回らなかったのかそれとも一字一句違えずに書けなんてお達しが上から出ていたのか。おかげで怪しげなアンケート結果なんてものがいっぱい現れ、今になってこれはヤバいってことを世間に如実に示してくれる。受けてどうするかっていうところが目下の関心事だろうけれど、教育長は知らぬ存ぜぬで逃げそうで、けれども議会はこれはさすがにヤバいと誓願を精査する方向でまとまったみたい。あとは結果を市とか教育委員会がどう受け取るか、だけれどやっぱり逃げるんだろうなあ、それがこの国の景色って奴だから。正義も何もあったものではないなあ。

 グッと見入っていた訳ではないのだけれど、気にはなって時々は見ていた「機動戦士ガンダムSEED」という作品が、直前までの「機動新世紀ガンダムX」とか「ターンエーガンダム」であるとかいった作品とちょっと違うぞと感じたのは、C3という模型とかグッズのイベントに集まる人たちが、それまでの男子一辺倒からガラリと変わって女性が多くなっていたのを見たからで、それがどういう人気かは、さらに昔に放送された「新機動戦機ガンダムW」でもちょっとだけ盛り上がった、キャラクターたちへの女性たちの感心がさらに大きくなったものだと分かってはいたけれど、その時にも増してキャラクターのパネルとかに群がる女性の多さに、そういう層が「機動戦士ガンダムSEED」であり続編「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」を支えているんだと、強く認識させられた。

 もしもそんな盛り上がりがなかったら、果たして20世紀から21世紀へと「ガンダム」というプロパティは?がっただろうか、っていった思いも今になってちょっと浮かぶ。もちろん「機動戦士ガンダムユニコーン」のような宇宙世紀を土台にした作品は書かれたかもしれないし、同じように宇宙世紀を基盤にして「機動戦士ガンダム」以来のファンをギュッと引き寄せ、モビルスーツのプラモデルを売って稼ぐビジネスは回っていったかもしれないけれど、それだって規模はどこまで膨らんだだろうか。あるいは先細りになっていった挙げ句に、もう「ガンダム」では儲からないと新作は作られず、そして「ユニコーン」も生まれなければ「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」だって描かれなかったかもしれない。それをやるには市場があって、収益が見込めないといけないから。

 そこで「機動戦士ガンダムSEED」や「DESTINY」での盛り上がりがものを言う。キャラクター人気を持たせることによって従来の「ガンダム」ファン以外に市場は広げられると分かった。それによって稼いだ元手を使って、宇宙世紀のような濃いファンのためのものから、女性が好みそうなキャラクターたちがいっぱいでてくる「00」のようなものまで、いろいろと手掛けることで収益もさらに拡大していくんじゃないかという判断が立った。それが、今の「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」も含めて21世紀に入って多様化する「ガンダム」ビジネスへと至ったんじゃないか、なんて気がしてる。

 20世紀である程度カタがついた「ガンダム」というビジネスに、新しい要素を足して「ガンダム」を核に据えつつもいろいろと冒険が出来るんだと知らしめ、そして今のこの隆盛を生んだ原点。それが「機動戦士ガンダムSEED」であり「DESTINY」であり、それらの脚本を手掛けた両澤千晶さんだと言って言えるんじゃなかろうか。もちろん監督の福田巳津央さんも。亡くなられて毀誉褒貶あるけれど、今に続くキャラクター人気なんかも考えると女性のガンダムファン、むしろSEEDファンといった人たちにとっては大きな存在だったような気がするし、アニメーションの歴史においても重要な地位を占める人だと言えそう。

 その手法、女性に人気の男性キャラクターたちを大勢出してはそれぞれにファンを付かせて盛り上げて、キャラクターがグラビア的に登場するアニメ雑誌に手を伸ばさせたといった功績もある。そういうアニメを作れば、男性だけじゃない層にアニメが届くと思わせて、今にいたる美形男性キャラたちの大勢でてくるアニメへの道を開いた功績もある。目下大人気の「おそ松さん」の盛り上がりも、元を辿ればそこに行き着くかもしれない。多分にひねくれてはいるけれど、男性イケメンキャラの人気の裏返しみたいな作品な訳だから。ずっとご病気で表舞台に復帰することなく、逝ってしまわれたのが返す返すも残念。悼みつつその功績を忍びつつ。いつか全編を通して見返そう。「機動戦士ガンダムSEED」「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」という作品を。偽ラスクとか、可愛そうだったなあ。


【2月22日】 役者が見ていて飽きない「真田丸」。第7話では信濃を収める木曾義昌が何かとっても可愛らしく描かれていて面白かった。滝川一益から人質をもらい受けてこれで交渉カードを手に入れたと思ってガハハと笑って見渡すと、中に見知った真田昌幸の母親のおりくを見つけてシュンとする。そしてこっそりと会いに行っては過去をバラされ武田を裏切ったなとハタかれもしたけど、怒らず真面目に仕方なかったんすよと話をして、そして事情を分かってもらいつつおりくには孫にあたる真田信繁をちゃんと解放する。なんかとってもガキ大将っぽかった。上に持ち上げ下に落としながらその人柄を見せて引き付けた。

 脚本も巧ければそれに答える演技も素晴らしく、なにより役者としてそこにピタリとはまる。あれが例えば吉田剛太カさんでは大げさで重くなりすぎる。何せシェイクスピアの人だから。なので外連味たっぷりの織田信長役。そういうキャスティングの妙が良い。そんな木曾義昌を演じたのが劇団東京ヴォードビルショーから出た石井愃一さんで、ほかにも「真田丸」には板部岡江雪斎役で劇団そとばこまち出身の山西淳さんが出たりと、小劇団から出てきて今なお一線で活躍する芝居巧者がズラリ。前から出ている矢沢頼綱の綾田俊樹さんは劇団東京乾電池だし、室賀正武の西村雅彦さんは三谷幸喜さんのお膝元、東京サンシャインボーイズから出てきた人といった具合に、小劇団でも屈指も名人たちが並んで競って芝居を見せてくれる。

 長崎家元の松田賢二さんは多くの人にとっては「仮面ライダー響鬼」のザンキだろうけど、僕には北村龍平監督の映画「VERSUS」のダンディーでサイコなナイフ使い。デビュー作から見せた演技巧者ぶりがなお生きて渋みを感じさせてくれる。そんな役者を見ているだけでも楽しいし、何よりストレスがたまらない。唯一、長澤まさみさんが演じるきりが鬱陶しいことこの上ないけど、あれは本人のせいって言うよりそう演じろって言われているんだろうから仕方が無い。それとも指示に輪をかけて鬱陶しさを放っているんだろうか。だとしたらやっぱり凄い役者だ長澤まさみさん。あれでどうして直接信繁を押し切り押し倒そうとしないんだろう。そこがまた、戦国の世の女の恥じらいって奴か。

 確約は出来ないし出来るはずもないけれど、だからといって約束はしたい気持ちが浮かぶくらいには評価はしているんだというメッセージだと、受け止めれば受け止められる感じもしないでもない、日本陸連からの福士加代子選手への名古屋国際女子マラソンには出ないでっていった言葉。マラソン女子のリオデジャネイロ五輪マラソン競技代表を狙っている福士選手が、大阪国際を制して記録も残してあとは選ばれるだけといった段階にあるのは間違いないんだろうけれど、これで名古屋国際女子マラソンで福士選手を上回る記録が幾つも出たときに、だったらそっちと選ばれない可能性はやっぱり皆無ではなかったりする。条件も違うマラソンで単純にタイムだけを評価の基準にしないことは分かっているだろうけれど、そういう気分でいたら足下をすくわれたケースが過去に皆無じゃないところに、選手側の疑心に暗鬼も生まれて、やっぱり出て確実にしたいって気持ちも出てしまう。

 自分は精一杯にやったし記録も出たしとりあえずはやり遂げた、あとはトレーニングを丹念に行い本番の五輪までに怪我なく過ごすことによって、そこでメダルという最高の結果をそこで得る方向に傾くのが、アスリートとしての本意ではあるのかもしれないけれど、それを狙っていたら肝心の本番に出られなかった、なんて話になったら目も当てられない。そういう不安を解消してあげる術を持たないところに日本陸連って組織の脆弱さというか、信頼の置かれて無さってものが透けて見えて来る。過去にもマラソンの選考をめぐってはいろいろあったからなあ。ともあれアスリートとしての最善を目指すっていうのが選手側にとって第一だとして、そのアスリートとしての最善は五輪に出ることか、五輪に出て記録を出すことか、選手として長く走り続けることなのか、ってスタンスが問われそうなこの一件。福士選手側がどういう反応を返すかにまずは注目。やっぱり出るのかなあ、名古屋。

 数学が尊ばれなくなった社会なんてものを想定し、そこに数学こそが至上と叫ぶ学者を筆頭とした犯罪組織をぶち込んでは、数学好きたちならではの数学が絡んだ事件を起こさせ、それを学校ではあまり学ばれてないけれども個人として数学が大好きな女子中学生を探偵役に据え、解決に当たらせるというともすればアクロバティックだけれど、どこか今の社会を諷刺したニュアンスも漂わせた世界観で小説を書いて、40万部とかいう大ヒットに至らせた青柳碧人さん。東京湾野の海中に高校があったらどんな感じだろう、そして社会はそれらをどう受容しているんだろうといった設定を創造したり、奇妙な建物がたくさんあってそこで発生する不思議な出来事に大学生たちが挑むという設定を作り上げたりと、とにかく奇抜だけれどもあり得る不思議なビジョンを見せてくれる作家が、今度挑んだのが玩具の街。それもAIを搭載して放逐された玩具たちが集うという。

 その名も「玩具都市弁護士 トイシティロイヤーズ」(講談社タイガ)は、知能を持った玩具たちが一時期世間で大流行しながらも、時の流れの中で古いものからうち捨てられていく中で、捨てられた玩具たちが廃墟のような街に集まることになり、そこに人間社会からつまはじきにされた人間たちも集まるようになって、生まれたちょっとした暗黒街、とはいっても殺人犯罪何でもござれというわけではなく、AIと搭載した玩具たちは人なんて殺せないようプログラミングされているし、人間だって玩具を破壊して回るようなことはしない。それは法律で禁じらているし、罪を犯せば摘発されて裁判にかけられる。だkら弁護士なんかも必要とされる。

 ってことで主人公のベイカーは、そんな玩具たちの街でパン屋を営みながら弁護士をしているというか、弁護士の仕事よりパン屋に力を傾けているというか、そんなどっちが本業か分からない暮らしをしているけれどもそこに依頼。キャプテン・メレンゲを筆頭にして、調理玩具たちが集まったギャング団みたいな所に関わりのある玩具が倉庫番をしていた時に、その中で別の玩具が破壊されて倉庫番の玩具にその罪が被せられた。やっていないというその玩具を助けるため、キャプテン・メレンゲはベイカーに弁護を依頼。受けたベイカーは直前に街に現れ絡まれていたところを助けた眼鏡の女子高生も連れだって、調査をして女子高生の着想なんかも借りて事件を解決する。弁護士ってよりは探偵だなあ。

 玩具の街だけあって倉庫も豚の貯金箱が巨大になった感じで、ドアが閉められても上にコインを投入するような形をした細いスリットは残っている。とはいえそこから普通の大きさの人間や玩具は進入は不可能。だったら小さい玩具はどうか。なんて試行錯誤の果てにたどり着いたある結論が、奇抜な状況を逆手にとって、それはありだと思わせる。以後、野球盤が巨大化したようなスタジアムで繰り広げられる、玩具たちによる野球の試合で2塁ベースにランナーが突っ込んだとたんに爆発が起こった事件とか、爆弾作りを営んでいた女性が毒殺された事件なんかに挑み、その都度、玩具の街ならではの玩具的な状況を鑑みつつ、玩具ならではの行動パターンも入れつつ事件を解決していく。

 条件を与えられた中で与えられたヒントから結論へとたどり着く、正統派の推理小説でおあり、また玩具たちが進化しつつうち捨てられた世界を描くSFでもありそうな作品。もしかしたらアシモフのロボットが街に溢れた世界で起こる殺人なんかを描いた「鋼鉄都市」に匹敵するSFミステリ? そこら辺はアシモフにくわしくないから分からないけれど、とにかく読んで驚き感心できる作品。結末はあっても続きはありそう。ベイカーと眼鏡の女子高生はずっとくみ続けるのか。検察側に相当する「天使」と呼ばれる女性たちの集団は2人にどう絡んで来るのか。続きが楽しみ。しかしやっぱり巧いなあ青柳さん。これだけの巧さを持った小説家であり推理作家でありエンターテインメント作家。もっと売れて良いはずなんだけれどなあ。「浜村渚の計算ノート」はどうしてどこも映像化に手を上げないんだろうなあ。

 東京国際ブックフェアの開催説明会をのぞいてみたけど、次は9月23日の金曜日から25日の日曜日までの週末開催にて完全完璧に読者向けブックフェアとしての開催になる模様。つまりは新刊本を版元が割引価格で売ったりサイン会を開いたり宣伝をしたりといった内容。それをドカンと東京ビッグサイトでやられて、書店さんとかいろいろ複雑な思いを抱くんだろうかとちょっと考えた。今までもブックフェアで人文書とか2割引くらいで売っていたけど、半分くらいはトレードショウの合間にやってる知る人ぞ知るイベントといった感じ。でも今度は大々的に読者向けのイベントとして仕掛ける。それをもって版元にも参加を呼びかけている。参加するところもありそうだけれど、どこかに書店飛ばしってな印象も漂う。

 11月にある神田神保町の古本祭りに関連しての新刊本の販売もあるけど、あれは定価販売だし神保町の書店組合あたりが本の街全体を盛り上げようとやってる仕掛けで、いわば集客の装置としてのブース展開。でも東京国際ブックフェアの読書向けイベント化は完全に本の販売と宣伝が目的化している。それはやっぱり書店的にどうなんだろうとちょっと思うのだった。20年近く昔の、幕張メッセで週末開催だった頃とも雰囲気が違うし。あとはやっぱりフランクフルト・ブックフェアとかボローニャ国際児童書ブックフェアとか台北国際ブックフェアのような本と著作権のトレードショウとしてのブックフェアが日本から消えてしまう意味ってものも考えてしまうのだった。

 なるほどドメスティックな日本じゃ翻訳書なんてブックフェアで来た海外からの出展者を見て、これ良いねと買い付け出すようなことはしないでエージェントが持ってきたのを見て、これ良いかもと選んで出す感じ。そして日本から世界へと持っていくような動きは小説についてはあまりなく、国がサポートするかライトノベルや漫画のようなエンタメをメディアミックスの延長として持って行く感じ。そうなると日本で著作物のトレードショウを開催する意味ないよねって出版社が思って、だったらリードさんそれは止めて読者向けの販売促進イベントにしちゃいましょうよと要請したってのも不思議じゃない。

 でもやっぱり日本にビジネスとしての著作物のトレードショウが必要だとリードの石積さんも頑張ったんだろうけれど、商習慣なのか商慣行なのか消極性なのか日本の出版社の出展が減ってイベントとして保たなくなった。ならばと転換したのが次からのセールス&プロモーション・イベントとしての東京国際ブックフェア。日本の出版社はそれで良いんだろうけれど、日本の出版文化的にそれで良いんだろうかという思いは募る。そもそもがあの出展料で出版社が出てどれだけ売れば元がとれるのか。それは本を売ることによって取りもどすのか。販促として何かPRできれば良しと考えるのか。手塚プロダクションのように元から著作権を扱う会社が自前の本を売るより手塚治虫という才能を今に伝わるものをアピールし続けるのとは違って、出版社は本が売れてなんぼ。だからしゃかりにきになって売ることになるんだろうけれど、そうやって売れた分は、街の本屋では売れなくなってしまう訳で……。やっぱりいろいろ難しい。


【2月21日】 焦げただけなら良いんじゃないかと思うけれども、大事にして来た仲間なだけに万流礼央子に貸して炎帝の右手として使われ首無しのブブキ相手に礼央子が戦い勝った後、そのまま奪わずちゃんと帰していってもそれで、焦げてそして疲れたのか他のブブキたちともども目を閉じている姿に不安も抱けば心配もしたんだろう。それでちゃんとハンカチをかけてあげるところか朝吹黄金ちゃんの優しさ。他は気にせずほったらかしで喧嘩しているものなあ。そんな「ブブキ・ブランキ」は子供たちが勢いでもって戦おうとしたってしょせんは子供、何をどうすれば良いかを知り、そして覚悟を持って戦っている大人たちにはかなわないってところを見せつけられた。

 そこで開きなおってどうせ俺たちはガキだとうそぶく野々柊のセリフとか腹立つし、それ以前に4人が合体した王舞のコックピットに立ってさあ戦うぞって時に心ここにあらずな顔して呆然とし、そして肝心な場面で身を引き王舞敗北の原因を作った一希東のあの態度がどうにも解せない。というかどうしてああなったかが説明もないし、そういう東の無気力ぶりに周囲の誰も突っ込まないのが展開として妙。それとも最初はセリフなしで雰囲気だけで何か見せられると思ったけれど、絵を作ったらあまりに平板でそれでも3DCG作画なんでバンクからセル画をかき集めて演出し直すなんてことはできずに設計図通りに出して平板になってしまったのか、なんて疑いも浮かんでしまった。そういう無理が引っかかるんだよなあ。「フブキ・ブランキ」って。

 まあでも万流礼央子のチョーパンだけの戦いぶりとか本気が見えたし、礼央子を支える四天王たちも別に嫌がらせとか憎しみとかで東や柊たちを襲っている訳じゃなく、世界をブブキの侵略から守るために戦う、そのためには炎帝を強くしなくてはならずだから王舞の手足を自分たちのものにする必要がある、って筋道が見えて納得できた。良い奴じゃん。でもそれを超えて子供4人が結束してこそのストーリーって奴で、そういう風に理解から成長へと至る道をちゃんと脚本として描き、絵として見せられるかにこれからの面白さの度合いが左右されそう。まずはちゃんと4人が自分を知り世界を知ってどうするかを決めよう。それにしてもあの変態ファッションの少女。妹の一希薫子なんだろうけどどうしてああなったなろう。変態に育てられたのか。そこも含めて以下次回。

 竹岡美穂さんの愛らしい表紙絵に引かれて手に取った梨沙さんによる「神神神は、罪に三度愛される」(朝日エアロ文庫、600円)を、そんな表紙が感じさせるように学校が舞台の日常系ミステリかと思ったらぎっちょん、金属バットで顔面が潰され少女が嵐の中で濁流へと突き落とされ、弱者が虐められ不貞者が脅され副流煙に健康を襲われる中で主人公だけが愛され無事に生き残るというる、どうにもエグくてグロくてやりきれないストーリーを持った話だった。なるほど表紙にあるように青春ミステリーではあるけれど、清純なものではなくって憎悪と嫉妬と復讐に溢れた暗黒青春ミステリー。なのでこれから読む人はそういう覚悟をもって読もう。登場人物では寿祭さんの凶悪なボディを全身をイラストで見たかったけれど、朝日エアロ文庫には挿絵がないから仕方が無い。ドラマ化に期待、ってそれ無理だって。

 聖地巡礼の人が聖地巡礼について話すってんで赤坂へ。地下鉄千代田線の赤坂駅を乃木坂寄りの出口から出て挙がったところにあるドトールに電源があるのを見つけ、そこで読書感想文とか書いてしばらく休憩をしてから「双子のライオン堂書店」ってセレクト系書店へ。下北沢にあるB&Bにも似て人文系から社会系、科学系にいたるどちらかといえばハイブロウでハイエンドな書籍を集めて並べる本屋で、B&Bだと加えてサブカルに寄った漫画もあるけどここはスペースも狭いためか書籍に特化している感じ。Sfもあったけれど評論系とか伊藤計劃さん系が多かったかなあ。Sfマガジンも伊藤さん特集号があった。開けば自分の名前もあるけどライトノベルで伊藤計劃さんは関係ないのだった。

 ライトノベル寄りでは昨日聞いた電撃文庫の編集をやっている三木一馬さんの本があったんでここで購入。ようやく二刷りってもったいない話、6000万部を売った編集なんて他にいないんだから一般紙がこぞってインタビューに行くべきなのに。お偉い文化部の文芸記者には眼中にかすりもしないのかなあ。そういうものか。自分がサブカルやってたら絶対に話を聞きに行ったんだけれど。そういう機会もなさそうで。やれやれ。そして聖地巡礼に関する話を柿崎俊道さんから。大昔に「聖地巡礼 アニメ・マンガ12ヶ所めぐり」という本を出してアニメとか漫画と関わり合った地域をめぐる“聖地巡礼”を、書籍として世に提示した人だけれど最近はそうした動きを自らプロデュースする側に回ってそして「聖地会議」という同人誌も作っている。

 会合ではそうした活動を紹介しつつ各地の現状なんかをサラリと紹介してくれて、いろいろと勉強になった時間。ずっと1回目から通っている「文学フリマ」も取り上げられていたけれど、東京ベースの同人誌活動がどうしてと思ったら最近は、東京を出て各地で文学フリマを開こうとする動きを始めているらしい。どんな街でも文士はいて文学の跡はある。そうした動きをすくいとって形にしてみせ、それを全国でつなぐことによって恒久的な運動へと広げていける。さらには東京で頭打ちになっている文学フリマに地方で活性化して目覚めた同人作家の人たちを呼んでさらに膨らんでいけるといった可能性。コミケがどちらかといえば聖地化して甲子園化してしまってそこから地域に環流があるか、迷うところを文学なら地域に根ざした文士も文化もあるからそれを盛り上げつつ相互に交流していけるといった考えみたい。なるほどなあ。これなら2020年が終わっても続いていける。ちょっと楽しみ。

 あとは千葉県鴨川市で続く「輪廻のラグランジェ」への取り組みで、大洗と比べてどうとか言われがちなところはあるけれど、でもやっぱり今も地域への関心は続いているし、制作会社もパッケージ会社も「輪廻のラグランジェ」という作品を通して鴨川市とつながり、そこを訪れるファンの人と?がっている。その結果がジーベックからの「輪廻のラグランジェ」に関する素材一式の鴨川移転。それはアニメーション制作における過程のようなもので、終わってからしばらくたつと従来なら廃棄されていたけれどもそれを鴨川市が引き取って、見せるなり保存するなりする計画を立てている。制作会社にとっては捨てざるを得ない、けれども過去に手掛けた貴重な資料。鴨川にとっては自分たちを愛してくれた作品でありファンとつながれる貴重な素材。それらをどうにか受け継ぎたい、残していきたいという双方の思惑が一致したところに、こうした地域での保存という幸運が生まれた。

 多くのアニメに関する素材が散逸し、売却され廃棄もされて、それは拙いと国なんかが立ち上がろうとしたら国営マンガ喫茶呼ばわりされて潰され、ならばと明治大学とかKADOKAWAとかが頑張っていたら、やっとこさ国もどうにかしようと言い出し始めたけれども具体的な活動の見通しはないまま時間ばかりが過ぎていく。今は多くがデジタル化されて原画すら残らないような作品も生まれ始めている中で、セル画こそないものの手描きの原画や動画が残っているロボットアニメの素材がまるっと移設され、鴨川で代々受け継がれることで、それは世紀すら超えて貴重なロボットアニメの資料として、さらには芸術として残るかもしれない。そういう風に他の作品もなっていけば、それこそ一村一アニメカーカイブ構想とか生まれれば面白いけれど、そういうのが公然化するとお金の匂いをかぎつけ口を挟んでくる人も多くなって、計画が頓挫する可能性もあるから難しい。これをひとつの幸運としつつ絶対とはせず、可能な限り継続されるような道を探る、その必要性を感じさせてくれた会合だったってことで。

 ううん。原因も違えば過程も違いそして結果も違う様々な時代の幾つもの若者の“反乱”を並べてみせただけでそれがそれぞれにどうなったかを示さない投げっぱなしジャーマンな「新・映像の世紀 第5集 若者たちの反乱・NOの嵐が吹き荒れる」にしばし呆然。これでは成功に倣えず失敗から学べず一瞬の昂揚が残るだけじゃないか。文化大革命は毛沢東に利用され持ち上げられた果てに下放されてあの世代に傷を残した。過去も失われた。それは今に至る虚無感として漂う。六四天安門事件は理性の下での改革を潰して権力者の腐敗と一部の拝金を招いて格差を生んで火薬庫となり横たわる。そんな結果を見せずに何が反乱だ。何が嵐だ。

 チェコスロバキアで起こったプラハの春はどうして潰された。キューバ革命はどうして社会主義へと傾いてアメリカとの対立を招きキューバ危機を呼んだ。汎ヨーロッパ・ピクニックはなぜ見逃されて嵐となった。統一された旧東ドイツは今どうなっている。嵐の熱量を見せて誘うのは大いに結構。それで開かれた道はある。取り戻せた自由もある。そんな成功と失敗の差は語られない。テレビが世界をつないだ。それは結構。影響されて動く者たちも現れた。素晴らしい。そうやってもたらされた嵐を評価するのは当然だけれど、失われたものへの眼差しがなければ失敗はまた繰り返される。そして諦めを生んで嵐は限定され瞬間の快楽を得るための装置と堕す。都会では。そしてその外では…。

 本当の嵐が吹き荒れ、多くが虐げられながらそんな中東で、アフリカで、南米で、アジアのあちらこちらで起こっている嵐をネットの網越し、映像の窓越しに見て眺めつつ都会に暮らす人々は、日々を変わらず過ごすという、そんな分断をテレビの発達は引き起こした。かつてはそうした弱者のために起こした都会の嵐は、自らの安寧を守るための風となり権力は安心を与えて身を保つようになってしまった。そうした状況への提言もなく示唆も与えない番組は、つまりそういう世界を求めているのか? 誰のために? 権力者のために? なんて思った「新・映像の世紀 第5集 若者たちの反乱・NOの嵐が吹き荒れる」。もちろんアーカイブとしてのビートルズとデビッド・ボウイとボブ・ディランは良かったけれどそれだけに、それぞれが時々に果たした役割が平準化されて見えづらい。力にならない。どうしてこんな番組になってしまったか。やれやれ。


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