縮刷版2016年2月上旬号


【2月10日】 「ラノベは衰退しました」。え? とあるエンターテインメント系のサイトが無署名の記事とか載せているんだけれど、その見出しが「ラノベ市場はなぜ衰退した? メディアミックス事情の変化」とあってそうか衰退しているのかと思って読んだら「ここ最近は目立ったヒットもなく、勢いが衰えている感が否めない」しか論拠がなくてどうしたものかと思ったよ。なるほど「涼宮ハルヒの憂鬱」だとか「とある魔術の禁書目録」とかがヒットしていた時代はあったし、それが目立っていたことも事実だけれど、その後だって「ソードアート・オンライン」とか「アクセルワールド」が人気となって川原礫さんはとてつもない部数を売上げた。佐島勤さんの「魔法科高校の劣等生」も560万部とかいう数字を叩き出している。

 メディアミックス関連でも「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」とかが2015年あたりはアニメ化の影響もあって人気になったし、今は「灰と幻想のグリムガル」あたりがアニメの出来の良さもあって大きく伸びていってくれそうな予感。探せばヒット作はいくらもあるし、メディアミックスだってそこそこ成功している。それとパッケージが昔ほど売れないのは別の話。ライトノベルの衰退とは関係ないんだけれど、どうも記事は「ライトノベルは衰退しました」と言いたいがためにあらゆる要素をそっちのために引っ張り並べているから厄介。テンプレ気味の企画ばかりが刊行されてアニメ化されるのも世間の空気を読んでの話で、それに飽きが来たら次へと向かう。それが市場ってものだろうから、心配するよりこれからを探る方がよほど有意義。なのにネガティブな話の方がウケるからとそれに固執する。

 「『キャラクター文芸』『ライト文芸』を扱うレーベルを次々と創刊している」ってぁいているんだから、それをライトノベル市場の拡散と浸透と捉えてみればポジティブな意識も生まれるのに、そうしたことは除外して、狭義のラノベの定義に押し込めテンプレ化が進んでヒット作が生まれにくくなって衰退しているでしょと言ってみる。もちろん作り手が自分たちを狭義の定義におしこめ、そこで読者とキャッチボールしていたら感覚が狭まってしまったという状況は、いろいろと考えた方が良いと思っていて、昔だったらスニーカーから出てたって不思議はない作品が、「ノベル・ゼロ」なんてレーベルを新たに立ち上げないとそぐわないような雰囲気は、もったいない話だけれど、それも含めてラノベ市場はまだまだ元気を思えば良いだけのこと。なので不安になるよ読みたいものが出るかを読者としては考え、書きたいものがあるかを書き手としては貫きそのマッチングに編集者の人は腐心して、市場を盛り上げていってくれればと。うん。

 佇まいがよろしくない、とでも言うんだろうか最近の、もっぱら自由民主党に所属している国会議員や閣僚たちによる振る舞いなり言動が、妙にささくれ立って聞こえて来るのはそうした発言がこれまでの通説なり心情に対して棹を差すようなものであり、かつ自分たちの権勢を妙に誇ろうとしているように窺えるところがあるからで、ここでもうちょっと下手に出ながら、持論に根拠を添えつつ世間の意識を導くように発言していれば、これほどまでに問題は大きくならなかったんじゃなかろーか。つまりは奢りであり高ぶりがその佇まいから漂い出しているってことで、それがある意味で“正論”を発していたとしても、反発を招してしまうという、そんなシチュエーション。

 それで紛糾して時間がとられ真っ当な政策の議論が行われないまま、うやむやの中に埋もれていって“暴言”の垣根が切り下げられていった果て、何でもありの荒んだ政治的風景がそこに現れるといった未来を、想像するだけで気分が滅入る。どうしてもうちょっと佇まいを良くして世間受けを狙えるような雰囲気を、醸し出せる議員なり閣僚になってと党なり内閣も導いていかないんだろうかと思うけれど、トップからして特定の方向を向いてそこで受ければあとは大勢がそっぽを向いても、自分は注目されていると悦に入っているから改まるはずもない。その場でそこに集まった熱い支持者に受ければそれは全体に受けたという意識。

 例えば長野県であった環境相による1ミリシーベルトの基準がどうといった発言についても、下限に合わせすぎて政策的試作的な柔軟性を縛っているという意見は一方にある訳で、それを順々と説明して経済とのトレードオフの中で最善を探るよ宇努力していくことが必要だおt言えば良いのに短絡で民主党批判をしたいがあまりに彼らが定めた基準には科学的根拠がないとか言ってしまうから反発を招く。根拠があるからそういう数字が出て来たことくらい、当の環境省だって分かってやっているのに上に立つ人がひっくり返しちゃあ、たまらないだろうなあ。まあそこは言い過ぎたと改めれば良いんだけれど、総務相による放送局への停波命令云々は、どこかに確信があるだけに厄介度がもっと高い。

 報道や表現という、放送という憲法で保障されているものに対してある程度、縛りをかけるものとして設けられている放送法の規定ではあるけれど、それが憲法にある表現や報道を縛って良いというものではない。とはいえ何でもありという訳にはいかないので規定においてある程度、縛りを設けて一方的な批判とか根拠のない中傷はやってはいけないといっているのを捉えて、権力の側が上から目線で縛りをかけようとする。その口が言う中立だとか公正だとか言った言葉が意味するものは、すなわち権力の側にとって都合の悪いことが報じられたりすることへの批難であって、それを権力が法律によって縛ろうとしていることに、ヤバいと思うのが普通なんだけれども半ば当然といった顔で良い、一部もそれの何が悪いと言っていることに薄ら寒さが感じられる。

 権力なんていつ反対側に転ぶか分からないのに。そうなった時に弾圧されるのは自分たちなのに。だから反撃できるための論拠として、どっちにもとれるような余地を残しておくべきなのに、今が栄華とばかりに自分たちに都合の良い解釈をして、それで身内の喝采を浴びて悦に入る。視野が狭いというか。今しか考えていないというか。とはいえそんな狭い視野の連続でもって、今を勝ち続けているのも実際で、そうやって強固な基盤を作り上げ、今を悦に入ろうとして未来を考えないで突っ走った先に来るものの怖さを若い人たちは、もっと考えた方が良いんだけれど、いっしょになって短絡で狭窄の中に溺れているからなあ。それが気持ち良いんだろうけれど。政権の側にそういう層を刺激して、支持を獲得して伸びていくだけの巧みさもあるってことなのか。そういう政権に縋らざるを得ないくらい、他がだらしないってことなのか。いずれにしても、やれやれな話。

 「アリス・エクス・マキナ」シリーズの伊吹契さんによる新シリーズ「牢獄のセプテット 01」(星海社FICTIONS)は、いつの間にやらパリの市内にバスティーユあたりを中心にしてできていた閉鎖都市を舞台に、日本からの潜入者がいろいろと活躍するというサスペンス。“旋律”と呼ばれる音波を出して人心を左右することが可能な能力を持った人間が世界に何人か認められていて、日本の天皇なんかもそんな1人として力を行使し君臨しているんだけれど、なぜかバスティーユにはそんな旋律の能力を持った者が8人もいるというから世界はビックリ。日本もこれはナニゴトかとスパイを送り込んで調べようとしているんだけれど、人心を操る力だけに潜入したスパイが誰も戻ってこない。そこで“旋律”を聴き分けることができる探偵、碓井玲人郎に白羽の矢があたり、聴けるんなら逆らえるだろうということで元老・山県有朋の直々の命によってバスティーユに送り込まれることになる。

 単身ではなく英国から来た少女、元村アリサと共同での潜入となったのだけれどこのアリサ、プロのスパイとしての訓練も探偵としての技術もなく、フランス語すらしゃべれないというから困ったもの。それでどうして選ばれたというと、“旋律”が通用しないという“技能”があったからで、そんなアリサをもてあまし気味にしながらフランスへとたどり着いた玲人郎、入ったバスティーユでいきなる濡れ衣を着せられ捕らえられて奴隷工場へと送り込まれる。逃げたアリサは頼る者もなく彷徨っあた挙げ句、玲人郎が親の敵と狙いながらも逃亡し、バスティーユで支配者の1人になっていた日本人女性の外崎燈子を頼り、その伝手で同じ支配者のリリィという名の別の女性の助けを借りて玲人郎を救い出す。そして玲人郎はリリィが目論んでいた支配体制の転覆に協力することになる。

 “旋律”が一種の超音波というのはつまり人間は音によって左右される存在でもあるということで、ある程度の科学的な裏付けがあるのかもしれないけれども、大量の情報をコピーして“旋律”によってすり込ませるとかいったことが可能かどうかは不明。その意味ではSFの領域でもあるし、支配者たちが権力を維持するために目論むさまざまな謀略の中をかいくぐって1人、また1人と仲間を増やし味方に引き入れ支配の打倒を目指していく展開は、謎解きのミステリでもありサスペンスとも言えそう。ひとり支配者にあって心にいろいろとありそうなエリーという名の少年の“問題”を解決してあげる展開とか、ホッとするけどそうした可能性を玲人郎よりも直感的に気付いたアリサの察しの良さが気になるところ。もちろんアリサが“旋律”を退けられるというその理由めいたものも。そうして役者も揃った中で、次にどういう手管によってバスティーユが崩壊への道を歩むのか。その過程でアリサはどういう活躍を見せるのか。玲人郎の敵討ちの行方は。見極めたい。続きを追って。


【2月9日】 そして見た「おそ松さん」は、一般の人でも共感を持って楽しめるようなものではとうていなく、エロいしグロいしBLっぽいしスラップスティックだしと高度な思考能力と深いアニメの知識を要求される代物で、ああこれはこういう面白がり方をすれば面白がれるんだなあといった心の中での段取りを、幾重にも積み重ねた果てにようやく楽しめるんじゃないかといった感じ。評判になっているからと最近のアニメなんて見慣れていない人が見たら、いったいこれは何だと呆れるか、あるいはこれはどういうことだと怒り出すんじゃなかろーか。そもそも冒頭でどーしておそ松たちがじょし松になっているのかが分からないだろうし、チキチキマシン猛レース的な展開の中でもハタ坊が手にしたあの槍が、どういう傷みを誘うものなのかを考え面白がれないだろう。

 途中でデカパンとダヨーンが並んでどこかに向かおうとした展開とか、真夜中に放送されるアニメだから、そしてBL的なコンテクストが周知された中で、ある種の拡張された意識の中で妄想されるカップリングだからといった理解の上で、見てグフフと喜べるものだろー。もちろん真正面からそうした中年男たちの間に通う情愛といったものを理解し、真面目な意識でその成就を願うこともあり。どこか小馬鹿にされていると感じられるかもしれないけれど、それも含めてあらゆる差別やタブーを笑いの中に描いては、そういう状況が現実に存在していることを世に示している作品なんだと理解することで、納得できるといった状況もある。つまりはやっぱり相当に高度でハイスペックなことが行われているアニメを、ただ売れているからといって、一般に深夜アニメを広げる橋頭堡になり得ると紹介できるスポーツ紙の筆の軽さが何か辛い。それで食えてしまうメディア状況も。やれやれ。

 これはオタクには当たり前に“理解”できても、一般の人には何でだろうと首をかしげることがまだまだあるってことの裏返しでもあって、そうした状況を時にオタクな側の人も、それが当然だと思ってしまったことから起こる悲劇が、あるいは岐阜県の美濃加茂市で起こった「のうりん」キャラでもちょっと過激な女子をポスターに使ってしまって眉をひそめられた一件なんだろー。そして今回ちょっと話題になっている、ワンダーフェスティバル2016[冬]の一般向けパンフレットの表紙で、会場で売られたNEXTDOORのフィギュアの元絵が使われてしまっていたことに対して、入場者からこれはちょっとエロっちいんじゃないのといった声が上がったことも、どこかでオタクと一般の間にあった見境が、取り払われてしまっって起こった状況なのかもしれない。

 これが最初の試みだからと、ワンフェスのオフィシャルフィギュアを世間にアピールするべく主催者の側がわざわざ表紙絵に持ってきただけなのかもしれないけれど、一方で、長く水玉螢之丞さんの可愛らしいキャラクターを表紙絵に使って、一般にもまだなじめる雰囲気を作り出そうとしていただけに、やや過激に傾きすぎてこれはどういうことだと反発を招いたとも言えそう。一般向けではない関係者向けのガイドブックが、水玉さんの後を継いだあずまきよひこさんによる綺麗な女性のキャラクターだっただけに、どうしてこちらを使わないんだといった声も上がって、そこまでしてキャラクターフィギュアをアピールしたかったのかといった声も呼んでしまった。どういうジャッジがあったのか。どこでここまでという線引きが崩れたか。あるいはこれなら大丈夫といった判断が行われたのか。考えることになるんだろうなあ、次回の開催に向けて。

 折しもそんなワンフェスの会場でも売られ、販売元の復刊ドットコムからの発送も始まった水玉螢之丞さんの著書「こんなもんいかがっすかぁ まるごと!」の巻末に、ワンフェスを取り仕切っている海洋堂の宮脇修一さんが寄稿していて、そこでワンフェスのガイドブックに水玉さんを起用した経緯とか水玉さんへの評価なんかを書いている。「今さら言うまでもないことですが水玉作品の魅力といえば、オタクのツボをしっかり押さえてオタク層に受け入れられ、かつ一般向けのメディアに紹介されても好感を持って受け入れられる『ギリギリのバランス感覚』持っていることでしょう」。オタクがキュンとなって、一般もこれは良いねと思える線を守り維持し、それをあずまきよひこさんも続けて来たのが今回、ちょっとズレてしまった。

 だからこそやっぱり疑問の声も上がった訳で、そこへの解答めいたものを、次に示していくことになるんだろー。どうなるか。気になるところだけれどそれ以上に問題なのは、ワンフェスで買った後に実は復刊ドットコムに注文していて、わが家に「こんなもんいかがっすかぁ まるごと!」が2冊もあること。ただでさえ密度が濃いのに2冊も読んだら目が回るよ。ってことで誰かどこかで知り合いを見かけたら布教の為に押しつけようと思うんだけれど、問題は出不精で人見知りで知り合いが少なく、そして滅多に誰かと会わないこと。うーん。困った。友達少ないだけじゃんとか言わない。

 なんだかなあ。とある株式公開会社のとても偉い人が、ネットでもって会社への批判記事を書かれたとかで、それに対して反論をしているんだけれど、どこか引っかかるというか。「彼はブログで稼いでいて、有料メルマガで稼いでいて、コメンテーターとしてテレビなどに出ています。彼がそういう記事を書くこと自体がまず彼の収入に直結しています。これが彼のメリットです」って相手を批判しているみたいだけれど、それはそのまま「新聞は雑誌はテレビは販売部数で売上げで視聴率で稼いでいて、それらをより所とした広告で稼いでいて、ネットなどに転載されてさらに稼いでいます。新聞が雑誌がテレビがそういう記事を報道すること事態がまず新聞の雑誌のテレビの収入に直結しています。これが新聞の雑誌のテレビのメリットです」とも言い換えられる。

 それを理由にタカりだのユスりだのトリ屋だのどうのと言ってしまうと、報道の正義ってどこにあるんだって話になるんじゃないのかな。自分たちだってアプリの紹介をして稼いできた“メディア”な訳で、そのスタンスに金で左右されるものがあったと勘ぐられる可能性だって出てしまう。そうじゃないんだ、まずは紹介したい意識があって、それに読者が付いてきたというなら、それは新聞も雑誌にもテレビにも言えることだし、個人ブロガーにだって当てはまる。問題とされるのはだから報じられた内容が事実かどうか、起こっている状況が適切かどうかといったこと。そこが明らかにされない以上、あるいは明らかにしていない以上は反論で個人ブロガーがアフェリエイトで稼ぐため、とか言わない方が良いんじゃないのかなあ。と思ったけれど届く相手でもなし。ボソッとつぶやいてあとは成り行きを見守ろう。どっちにしたって何を書いたって、1銭にもなっていないしがないウェブ日記だし。泣かない。

 宮内悠介さんの「アメリカ最後の実験」(新潮社、1500円)を読むなら場所を選べ、時間を問え。読み始めれば本は手から離れず、目は釘付けとなってめくるページへと捕らえられ、あふれ出す音楽の耳には聞こえない音に心奪われ次へ、次へと読み進めていくことになるだろうから。そうせざるを得なくなるだろうから。西海岸にあるジャズの名門<グレッグ音楽院>なる音楽学校に入るには、繰り広げられている祭りのライブに飛び入りして観客を沸かせ、そして試験に招かれる必要がある。渡米しその<グレッグ音楽院>学校に入り、そして失踪した俊一という名の父を探して息子の脩は祭りへと赴き、マフィアの息子ザカリーと、巨漢のマッシモと知り合う。

 共に祭りの中から声をかけられ、参加した厄介な1次試験を突破して2次試験に進むことになった3人。それまでの間、脩は父の手がかりを探し、父が滞在中に知り合ったリューイという先住民の血を引く女性の元に残した<パンドラ>なる楽器の存在を知り手に入れる。弾いて謎めくその音色。もちろん音楽に賢いだけあって脩もマッシモも理屈にはすぐに気付き、そして脩はそれを使い誰かとセッションしてどちらかが勝ち残る連弾という2次試験に挑む。そして事件が起こる。脩と知り合いだったらしい男が試験会場で殺され、「アメリカ最初の事件」というメッセージが残される。

 再開された2次試験で脩は、音楽によって自在に人の心理状態を動かすことができる強敵リロイに挑み、突破するも今度は<パンドラ>を奪われる。そして最初の事件に刺激を受けたかのように「アメリカ第2の事件」「第3」「第4」と事件は続いていく。そうした展開の中から見えてきた俊一の父親の行方と、暗躍する資本家。いったい何が起こっているのか。そして俊一失踪の真相は? サスペンスのような探索の物語と平行して、脩の、ザカリーの、マッシモの、敗れたリロイの音楽への探求も描かれ、そこから音楽というものが持つ演奏する者を昂揚に縛り付け、賞賛に溺れさせ、聞く者を興奮に導き、退廃へも誘う麻薬のような魅力が全編に流れて、聞かずとも読むだけで音楽への強い欲望を惹起させられる。

 至福の音楽は奏でられるのか。最強の音楽は生み出せるのか。最愛の音楽とは何か。楽器の工夫。演奏の妙味。それらも含めて構成される音楽というものの魅力は逆に音楽なき世界の空虚さも浮かび上がらせる。「アメリカ最後の実験」という表題が示すそんな可能性を宮内悠介は指摘し、語る。音楽の凄みを。読むだけでジャズの凄みがページから浮かび上がる石塚真一の漫画「BLUE GIANT」にも感じる音楽への憧憬を誘ってくれる小説だと思った「アメリカ最後の実験」。ザカリーの天衣無縫な音楽をもう少し、その内面も含め感じたかったする気がするけど、本当の天才は言葉にしづらいのかも。だからあまり語られなかったのかも。異形の楽器<パンドラ>も現代はネットを介して解析し、データを転送してMakeできる時代なんだとも思わせてくれた。楽器が音楽を変えインフラが世界を変える。そんな事も思える話。何より傑作。改めて言うなら読み始めたら一気に時間を持って行かれるから要注意。


【2月8日】 ワンダーフェスティバル2016[冬]では前にデザインフェスタで見かけた、都市のビルとかを模型にしてそれを組み合わせていくことで、都市っぽいジオラマを作れる「GEOCRAPER」が大きなブースを出していたのに驚いたというか、元より模型と親和性の高いアイテムなだけにワンフェスこそが相応しい場所というか。来場者も近寄ってきては「GEOCRAPER」を使って作られた様々なジオラマを見てそうかこういう使い方があるんだってことを見いだしていた感じ。建築家の学生さんとかが都市の模型とかを作るのにも使えそうなアイテムだけれど、そこは造形家な人たちだけに隕石だか得体の知れない怪物の繭だかが落ちてきて、壊滅した中にぼわんと怪しげなかがやきを放つビジョンを見せたり、海面が上昇して都庁も半ばで水に浸かってしまったビジョンを見せたりしていた。

 ビル群をびっしりと作っておいてそのスキマみたいまおにサッカーグラウンドをいっぱい置いてサッカー好きなら毎日だて試合が見られそうな楽しげな都市も提案されていたけれど、ビルをチョコレート色にコーティングしてスイーツっぽくアレンジしたのにはとyっと驚いたというか、コンクリートの無機質なフォルムもそうやって甘くアレンジすることで不思議な味が出るものだなあと思わされた。東京タワーの先端を上下に重ねてそれを何本も組みあわせ、間から光をのぞかせるのはひとつのオブジェ的アレンジか。都市のジオラマとしてだけでなく、都市に存在するランドマークが持つ意匠性をアクセサリーとかに取り込むのもまた、造形家のお祭りとも言えるワンフェスならではのビジョンなのかも。ガスタンクがある工場群とか海岸に置かれたクレーン群とかも作られコンビナートも構築できそうな「GEOCRAPER」。ここに世界の都市のランドマークめいたものを加えると、どんなビジョンが見られるか、なんてことも思うと今後の展開が気になる。何を送り出してくれるかなあ。それを使って誰が何を作るかなあ。様子を見ていこう。

 せっかく会期中、会場内に芝居小屋を建てて演じて見せてくれるんだから、1度くらいは見ておかないとと国立新美術館へと出向いて文化庁メディア芸術祭のエンターテインメント部門で大賞を獲得した岸野雄一さんの作品「正しい数の数え方」を見る。平日だけれど整理券を求める人で行列もできて、始まったら芝居小屋は人でぎっしりとなかなの人気ぶり。どちらかといえばアンダーグラウンドなサブカルチャー的活動に、国立新美術館という場所でこれだけの来場者が集まるという状況がユニークだけれど、それだけポップカルチャーやサブカルチャーが芸術という分野において重要な要素と認められ、楽しむ人も増えたってことだろう。とはいえ平日なのに人が多いのは不明。学生ばかりって感じでもなかったし。それだけ見ておきたいと仕事を抜けて来た人が多かったってことなのかな。

 話に聞いていたように、パリ万博で川上音二郎がオッペケぺをやっていたらアクシデントが起こってそれを、会場内にいる人たちもいっしょに解決していくことで、正しい数の数え方が覚えられるという教育的な要素を含んだ演劇的なパフォーマンス。ただし舞台上でずっと演じているんじゃなく、背後に大きな液晶モニターを置いて、その前で飛び出す絵本を使って舞台を切り替えながら、手にしたハンドパペットを操作しストーリーを進めるのを、前面においたカメラで捉えそれをステージ上の背景部分に大きく投影して見せるシーンも。昔だったらブラウン管が干渉してざらざらな映像しか映せなかったようなものが、クリアな液晶パネルの背景もその手前で演じるハンドマペットも含め、クリアにカメラで捉えられ大きくスクリーンに映し出される。HDとか4Kとかってものの凄みを感じつつ、そういうテクノロジーが芝居も変えていく可能性を思わせてくれた。

 舞台前面に置かれたカメラからは、観客席をとらえてそれを水彩画風に粗くしてスクリーンに投影してストーリーに組み入れたりする観客席との“一体化”工作もあって、自分がそこに見えることに子供たちだったら大喜びしそう。そして子供だったらかけ声に対して答えて作品を進めていくことも平気でやる。そうやってあちらとこちらが渾然となった中から、自分自身が数の数え方を発見したような気持ちになれる。そんな舞台になている。ひらのりょうさんやらっパルさんやら朱彦潼さん西島大介さんといった、見知った名前が映像パートに参加していてアニメーションのファンとしても楽しめる舞台。あと音楽が楽しくて、犬の着ぐるみに入っている人がオルガン弾きながら歌う歌のアングラな感じに耳を引っ張られてしまう。どんな人が歌っているか、口の隙間からのぞいたけれども見えなかった。中の人なんていない! のかもしれない。たぶん。きっと。

 1時間近い舞台を歌いながら歩きながら人形劇もやりながら、観客席を煽りストーリーを進めていく岸野雄一さんのアグレッシブな姿も面白いし、繰り出される楽曲も映し出されるアニメーションもユニークで、そんな総合的な芸術として楽しめる「正しい数の数え方」。どちらかといえばゲームめいたものが多く集まるエンターテインメント部門にどうしてこれを応募しようと考えたのか、そしてこれをどうして大賞にしようと考えたのか、応募者も審査委員も不思議だけれどでも今、デジタルでバーチャルなインタラクティブがわんさかある中で、アナログでリアルな演劇という舞台でインタラクティブ性を再確認させる意味合いはあるのかもしれない。

 それとあと、使われているテクノロジーにはデジタルでバーチャルなものもあって、そういうものをアナログなリアルに引き寄せることで生まれる目新しさも感じられる。いまいちど、メディア芸術とは何かを考えさせるきっきかけになる作品。共にそう踏んでの応募であり、選考だったのかも。結果、あんなにいっぱいの人が集まって連日賑わっている。ひとつの快挙と言って良いんじゃないのかな。まだ残る公演はあるけれど、週末にかけさらに大勢で賑わいそう。僕は遠慮するけど行けるにんは行ってそして見よう、叫ぼう、踊ろう、歌おう。そして覚えて帰ろう「正しい数の数え方」を。アン、アン、アン。僕達はひとりひとりがひとりひとりなんだと知ろう。

 もしかしたら政府は、あるいは安倍総理はわざと北朝鮮のあれを「ミサイル」だなんて軽い言葉の中に押し込めて、その奥にある本当の恐怖って奴を包み隠して、日本人の心に“莫迦の壁”を立てさせ、安心の中に埋没させた挙げ句に本当の恐怖が立ち上がり、戦火が降り注ぐのを黙って見ているような国民へと、誘導しようとしているのかもしれない。そしてかの国を利そうとしているのかもしれない。なるほどミサイルはブワッと飛んで来てズドンと落ちてドカンと破裂し大勢の命を奪うものかもしれない。でもそんなミサイルなんて北朝鮮にはすでにあって、日本列島はすべてが射程に収まっている。今さら騒ぐ話でもない。飛んで来たら打ち落とすなりするし、できなければ破裂に任せるしかない。何よりそうさせないよう外交的に関係を保ち、しっかりと監視しておくしかない。

 でも、7日に打ち上がったあれは「ミサイル」なんて言葉に押し込めて、飛んで来て落ちて爆発するような軽い代物だと思わせてはいけないものだ。大陸間弾道ミサイル(ICBM)。成層圏のはるか上まで飛び上がって高高度へと弾頭を運んでは、地球をぐるりと回ってターゲットの上空までたどり着かせ、そして大気圏へと突入させて目的地に落とすという超長距離攻撃用兵器。それにつながる技術を得るためのロケット打ち上げであり衛星の軌道投入の実験をまさに行っていたのであって、その成功によってより遠く、そして広範囲を危険にさらすような代物が誕生する可能性って奴が示された。政府もメディアもだから今は、そうした可能性を広く訴えるために、適切な言葉を繰り出さなくてはいけないのに、政府は大陸間弾道ミサイルにつながるロケットの打ち上げを行ったとか、核弾頭を相手の上級まで運ぶ技術につながる衛星の軌道投入を実施とは言わないし、メディアも書かないで、ただブワッと上がってズドンと落ちてドカンと破裂するミサイルの実験が行われただけのように誘導する。

 やがてそれは日常の風景となって、また上げたよ怖いねえ、でも落ちてこなかったね、良かったねえといった心理の中でうやむやになっていった挙げ句、本当にICBMが作られ世界がターゲットになって独裁者の牙の下に置かれた時、騒いだって遅いのにそうなることをわざと政府が、そしてメディアが是認しているような節がある。だからもしかしたら政府は、わざと目先の事態から小さな不安を煽りつつ、それがだんだんと日常になっていくことを黙認することで、より大きな恐怖が公知なものとされることを避けているのかもしれない。かの国のために。なんて陰謀論すら浮かんでしまいくらいにみっともない政府とメディア。実際にはそこまでの頭もないだろうから、普通に目先の怖さに怯え、富士川の鳥の羽ばたきを軍勢の鬨の声と勘違いしてブルブル震えているだけなんだろう。困ったものだけれど、そういう人が総理大臣だから仕方が無い。そう指摘するメディアも存在しない。参ったなあ。

 えー。スポーツニッポンがアニメ「おそ松さん」のDVDが売れているって話から、「おそ松さん」がどうして受けたのか、なんてことを書こうとしているけれども売れているってことは広く一般大衆にも受けているって訳ではないことを、分かっていないからなのかそれとも肝心の作品を見ていないからなのか、書いていることがどこかズレてて読んであれれと首をひねる。曰く「最近のテレビアニメは、ライトノベルや漫画を原作にしたものが多く、アニメをあまり見ない人にはハードルが高い。おそ松さんは、過去の名作を現代風にアレンジした作品なので、普段、アニメに触れていない人でも親しみやすい作品だ」。いやいや、あんなものをいきなり見せられたら普通の人なら引くでしょう。尻に旗とか。部屋での自慰行為とか。女体化とか。イケメン化とか。

 アニメにおけるアブない表現とか、やったら差し障りが出そうなパロディとかをぶちこみまくって、これサイコーと思わせアニメを知っている人のゲラゲラとした笑いを誘って受けたような作品。でもってキャラクターから醸し出されるBL的な腐れスメルを受けて大勢が騒いで結構といったニュアンスで作られていることも、そうした企みにノって騒いでヒャッハーな女性たちをいっぱい引き寄せ盛り上がった。あとはギャグそのものがシュールでラディカルだってことも、アニメを普通に見ている人たちの感性を刺激し、今まで以上の爆発力を感じさせて枠品に向かわせたといった感じ。そんな各方面のアニメマニアが集合できる作品だったからこそ、マニア市場の最大値に近い数字を叩き出してあれだけの数になった。そういうことだろー。

 だから例えば「サザエさん」とか「ちびまる子ちゃん」なんかを見ている普通の日本の健全なアニメも見る層は、「おそ松さん」のDVDを買いイベントにも行きグッズも買ってアニメージュやPASHも買う層にはいないと思うんだけれど、スポーツニッポンはこうも書いてのける。「アニメは、日本が世界に誇れる文化と称される一方で、興味を持たない人も少なくない。おそ松さんのヒットが今後、より広い層をアニメに近づける予感がする」。しないって。売れているから広い層にも受けているという短絡。でも当のアニメを見ていたらとてもそうは書けないんだけれど、書いてしまうところにこの国のメディアの闇が見える。そう書くことで一般にも読んでもらえる記事にして、点数を稼ぎたかったとか? まあそういう企みによって「おそ松さん」が広く知られるようになれば、アニメ好きとしては市場が広がってうれしいんだけれど。でも真に受けて見てひっくり返って心臓を痛める普通の人とか出かねないしなあ。どうなることやら。


【2月7日】 歌って殺せるアイドルってのはつまりクウェンサーがかくまった貴族の娘さんで、それがクウェンサーのいる基地にまで来ているのにどうして見ていて分からなかったんだろうと思ったけれど、夜で戦闘の準備に勤しんでいて中継なんて見ておらず、そしてフローレイティアさんの指揮所にアイドルが入ってきた時はもう出撃していたからすれ違いで対面することもなかったってことになるのかな。そして再会したらどういう会話が繰り広げられるか。それが楽しみだけれど出先でいきなり黒軍服の眼鏡のお姉さんともども撃たれてた。大丈夫か? 大丈夫なのが物語って奴だけれどそこは緊張を感じるために原作には手を伸ばさずにアニメーションを見ていこう。「ヘヴィーオブジェクト」。

 こちらは原作がないからどこに進むか毎回楽しみな「ブブキ・ブランキ」。朝吹黄金ちゃんと的場井周作との個人戦が終わって次はヤンキーな扇木乃亜とヒャッハーな新走宗也との戦いになってどうやら2人には過去に因縁があったっぽいけど周囲にはまるで不明な模様。戦いの最中に過去を刺激するような宗也の指輪ビームだかでフラッシュバックしたそれは、まだ純朴でブブキなんて使いたくないと願っていた乙女な木乃亜が騒動に巻き込まれ、そして絶体絶命のピンチになって自分を助けてくれた宗也を助けるためにブブキを発動させたってものだったけれど、そうやって近づいた2人にどういう風に破局が訪れたかはちょっと不明。バレたのかいなくなって調べたらそうだと気付いたのか。分からないけれどもその時は万流礼央子の四天王の1人とは気付かなかったのかな。

 とはいえ過去は純情でも、今はヤンキーな木乃亜の本気であっさり退けられて宗也は敗退。これで2勝だけれども次に現れた四天王の紅一点がまさかそんなところからっての登場ぶり。そしていったいその服どうしたんだっていった変身ぶりだったけれど、きっと手品かあるいはブブキの力なんだと思うことにしよう。それにしてもどうして途中までしっかり味方して、準備万端整え東たちに渡したんだろう。単なる趣味か。それともやっぱりただの面白がりやなのか。そこも含めてキャラクターの掘り下げに注目。そんな彼女と対マン張るのは槍使いの野々柊で、普段からブブキをトモダチ扱いしないで道具として蹴り殴ってぞんざいに接しているからきっと戦闘でも敗れてブブキの大切さってのを思い知ることになるんだろう。

 続く種臣静流も相手が先生っぽい石蕗秋人ではちょっとかないそうもないとして、2勝2敗となって主将どうしの戦いだけれど万流礼央子と一希東が対マン張ったらそれこそクライマックスだからなあ。というかワイドな世界設定があるにも関わらず、戦っているのはこの5人対5人と何か狭い。ブブキが何でブランキがどう生まれ世界はそれをどう扱い、けれどもどうして宝島で汀がひとりで背負うことになって、けれどもはじけて世界が大混乱に陥ったのか。そうしたバックグラウンドを語ってくれないと箱庭の中で勢力争いが繰り広げられているだけの、小さな物語で終わってしまいそう。そうはならないと期待しながらこれからの展開を見ていこう。そういえば東の妹の薫子ってずっと出て来てないよなあ。何かの鍵になっているのかなあ。

 4枚重ねの毛布にくるまり電気毛布もちゃんとオンにしてありながらも寒さにガタガタ震えていたのが一転、明け方にかけて汗が噴き出るくらいの熱さにこれはもしかしたら風邪とか何かかと思ったものの、それで休んで寝ていられる身分でもないので起き出して、幕張メッセで開かれるワンダーフェスティバル2016[冬]へと向かう。AKB48のイベントとかも隣であったみたいだけれど、気にせず突入した会場でとりあえず水玉螢之丞さんによる「こんなもんいかがっすかあ」を復刊ドットコムでチェックし、それからグッドスマイルカンパニーのブースへと向かってユカイ工学が作ったというねんどろいど初音ミクをロボットにしたものを見物する。おおこれはちゃんとねんどろいどだ。そしてロボットだ。

 サイズこそねんどろいど初音ミクよりひとまわりくらい大きいけれどもデフォルメされたあのディテールはしっかりと再現。そしてねんどろいどでは手で動かす部分がロボットだけに勝手に動いて歌い踊る、その仕草がもしもねんどろいどが動いたら、こうなるだろうなあってのを再現していて可愛らしさが放射される感じ。あるいはねんどろいどの初音ミクが着ぐるみになったダヨーさんの可愛らしさがロボットでも再現されているというか。話しかけると答えて歌ってくれるあたりのギミックは流石ユカイ工学といったところだけれど、動きまで再現できるあたりにその技術力ってものがうかがえる。家に1つあったら楽しいかも。気になるのはだから値段だけれど、幾らまでだったら出せるだろうか。コミュニケーションロボットってことで、1万5000円とかそんなあたりかなあ。

 こちらは8万円から9万円といったところだけれど、それでも購入希望の人で行列ができていたCerevoの「ドミネーター」レプリカ。前に代表の岩佐さんが持ってイベントに来ているのを見て、エリミネーターモードに変形する時にスムースに動いてこれはなかなかのものだと思ったけれど、商品化されたものも中に組み込まれたモーターの作用でしっかりと、そしてスムースに動いておもちゃっぽさを感じさせない。聞くとテレビアニメーションの「PSYCHO−PASS サイコパス」で動いているのと同じ速度で変形するとか。そういうところのこだわりと、前面のカメラを通して顔認識で犯罪係数を多分適当だけれど割り出して、それによって変形してみせるあたりのギミックの楽しさが、売れ行きに?がっているんだろうなあ。真面目に莫迦をやるのをワンフェスの住人たちは前向きに評価するから。

 それは12分の1スケールの4号戦車にも言えるのかな。グッドスマイルカンパニーが売り出していfigmaのあんこうチームが乗せられると評判の巨大な戦車の模型。それが2万円であんこうチームの5人セットが2万円で、合わせて4万円もするセットを抱えきれないほどの大きな箱に入れてもらい、手提げ袋もセットにしてもらって買って帰る人が結構いた。なるほど見てくれはちょっぴりのっぺりとしてプラスチックっぽさもある4号戦車だけれど、これはあくまで素材であってそこに汚しとかモールドへの墨入れとか行って、よりリアル感を出すのがワンフェスに来る模型な人の行動パターン。まあそこまで読んでいたかは別にして、誰もが気にせず買って帰って今頃手に筆やらエアブラシやらスプレーを持って、より完成度の高い、そして作品世界に近い4号戦車を作っていることだろう。どんな感じになったのか。特集でもやらないかなあ。

 個人的に欲しくなったのはメガハウスで展示されていたトラファルガー・ロウとモンキー・D・ルフィがすっかりグラマーになったフィギュア。つまりは2人の女性版ってことだけれど単行本の合間とかにそうしたトランスを描いていたりはしても、フィギュアとして出してくれるというのはちょっと意外で、これがヒットすれば他のキャラクターでもそういうバージョンは出るのかと考えて見たいなあと思えるキャラがいるかというとううん、エースとかなんかあばずれってそうだしサンジはやさぐれてそうだしゾロはスモーカーたしぎみたいな感じになりそうだし。それはそれで楽しそうだけれどもとりあえず、今はロウとルフィのバージョンがちゃんと商品化されること、それをちゃんと手に入れられることを願おう。発売はいつ頃になるんだろう。

 ポン酢だとは思っていたけどここまでポン酢だったとはなあ。安倍総理。言論弾圧があるんじゃないのと問われてそんなことはないよ日刊ゲンダイは自分への批判でいっぱいだよと国会の場でいったとか。おいおい日刊ゲンダイって新聞じゃなく日刊の雑誌って扱いでそしてスキャンダルでっも何でもござれのタブロイド誌って括りで、世界的に見て批判もあれば虚偽もあって当然の、メディアとしてはカテゴリーが違うものと認識されている。それがいくら批判を書こうと、世界もそれを真実とは見なさない。そういうメディアを上げてここだけは批判をしているといって、世界に日本は報道的に開かれた国だと認められると思っていたらポン酢を通り越してどこか、超越的な場所へと頭がたどり着いているんじゃないかと思われそう。

 問題はそんな当人だけじゃなく、日刊ゲンダイだけが批判を書いていると言われて他のメディアはそれを批判もせず、諾々と受け入れているっぽいところ。つまり自分たちは安倍政権を批判をしていないと言われたも同然の国会答弁に、そんなことはない、こうやって批判をしているんだと異論を唱えないってことは、世界に自分たちは御用メディアだと認めたに等しいし、そもそもそういう答弁を平気でしてしまう安倍総理を、いったい何だと言わないところに政権批判の存在の足りてない様が見て取れる。これってある意味で報道の自殺であり、メディアの自壊なんだけれど、そういう状況だと見なされると思い至るよりも、政権に慰撫されるほうを選ぶこの国のメディアがこの国をどこに導いていくか。考えると夜寝られなくなっちゃう。やれやれ。


【2月6日】 「我が名はレイラ・フォン・ブライスガウ、鉄血にして熱血にして冷血のwZERO司令官じゃ、アキト、リョウ、ユキヤ、うぬらの血をよこせ。アヤノ、うぬは乳をよこせ、はようよこすのぢゃ」。なんてセリフはやぱりなかった「コードギアス 亡国のアキト 最終章 愛シキモノタチへ」は空から落ちてどうして怪我だけで生きていたのか不思議なユキヤをアキトが助けてそれから城に籠もって籠城線。騎士さまが爆弾背負って突っ込み塀を壊して突入しても串刺しがあり、待ち伏せもあって進むのに苦労する中、現れたシン・ヒュウガ・シャイニングが ヴェルキンゲトリクスを操り突破し先陣を切って司令室に乱入するかと思いきや、兄弟喧嘩にうつつを抜かしてやがて自滅。そして城は落ちたのか戦闘が終わっただけなのか、分からないけれども一件は落着して面々は新たな暮らしを始めるという、そんな感じ。

 「ハンニバルの亡霊」と恐れられ高い戦闘力を誇っていた面々が、存命でありながらもその後の戦闘にどうして参画して来なかったのかが、分かったけれども一方であそこで戦争が続いてブリタニア帝国の覇権に揺らぎが出ていたら、その後の「コードギアス 反逆のルルーシュ R2」へと?がっていく展開の中で、存在が取りざたされないのはやっぱり妙。なのでいったんは歴史から退いてもらうしかなかったんだろう。でもギアスの存在は「反逆のルルーシュ」の時以上に拡大し、ギアス持ちも大勢現れる中で人類の進化に関わる存在だってことも見えてくる。そうした設定を使った物語が以後も紡がれていくのかどうか。せっかく立ち上がり復活した「コードギアス」の世界を店じまいするのも惜しいんで、ここはまた誰かが音頭を取って次の「コードギアス」を生み出して欲しいものだけれど、は多々して。

 KADOKAWAから新レーベルの「NOVEL ZERO」ってのがあと何日かで創刊されるとかで、創刊ラインアップも発表になっていて電撃から杉井光さんが来ていたり、MF文庫Jから「クリスマス上等」の三浦勇雄さんが来ていたり富士見ファンタジア文庫から師走トオルさんが来ていたりとレーベルの壁を越えての多国籍軍ぶりが見えるけれども、考えたら電撃もMFも富士見も今では企業としてもひとつの同じ会社な訳で、そこから選りすぐりなのかそれとも時流から外れ気味で不遇を託っていたのか、判断は諸々あるとしても書いて面白いものが書ける作家たちが結集し、新しいものを送り出してくれるならそれは読み手としてはうれしいところ。流行の四六版ではなく文庫ってのも貧乏にはうれしい。それでも700円から800円。文庫も高くなったなあ。

 思うのはただ、SFアクションにしたって法廷ミステリにしたって異世界ファンタジーに慕って、KADOKAWAなら老舗のスニーカー文庫あたりで十分に出せていたことで、名前もある棚だって取ってるレーベルから出した方が得策なんじゃないかってこと。とはいえ今やスニーカーはどちらかといえばエッチなラブコメとかコミカルな異世界ファンタジーとかが多めに出たりする文庫で、長谷敏司さんがデビューしたり十文字青さんが「薔薇のマリア」を出していたり吉田直さんが「トリニティ・ブラッド」で活躍していた時のような雰囲気は薄い。もちろんそれは読者がライトなコメディとか気分を満たしてくれる異世界転生ファンタジーを望んだからであって、それに編集も合わせているうちにそっちの濃度が高まって、他のを出しづらくなったし読者も文庫から離れてしまったってことがある。

 だったら改めてSFだって増やして「涼宮ハルヒの憂鬱」がバリバリと出ていた頃のような空気に戻せばってことになるけれど、それなら新しいレーベルを立ち上げその宣伝費も使って一気に関心を誘った方が、ズレた路線と薄れた印象を元に戻すよりは早いし効果もあるってことなんだろー。それは間違っていないし、作家だって他のレーベルで活躍していた人がスニーカーというレーベルに外様で入ったような印象をもたれるよりは、新レーベルの元に結集したって方が気持ちもスッキリする。だから「NOVEL ZERO」については正解として、一方でレーベルという枠にとらわれ自縄自縛に陥りジャンルを狭め読者を失っている老舗レーベルはどうすれば良いんだって問題も持ち上がる。電撃みたいにジャンルを問わず面白ければ出して試す余裕があるなら良いし、メディアワークス文庫というレーベルも立ち上げカテゴリーエラーな感じのものをそちらで試すってことも出来る。

 とはいえそのメディアワークス文庫ですらお仕事小説とかライトなミステリとか少し不思議な恋愛ストーリーみたいなのが目立ち始めて、破天荒さからは遠ざかりつつある。それもま世間がそれを求め編集がそれに合わせていった過程だから当然ではあっても、やがていつか来た道を辿って痩せて枯れ果てる将来を、思うと冒険して開拓して育てていく要と怠らないで欲しいとは思う。そはまだ電撃文庫が作用しているうちは大丈夫なのかどうなのか。ともあれ立ち上がる「NOVEL ZERO」がソノラマ文庫のように熱いバトルやスリリングなSFなんかを含みつつハイティーンを喜ばせ未来のSFファンとかミステリファンとかを育てるレーベルになってくれればうれしいけれど、そこに果たして読者はいるのか。そしてレーベルは続くのか。講談社タイガってそうえば…いやまだ続いているけれど…新潮文庫NEXって…。ともかく頑張って。

 そんなスニーカー文庫で「ばいおれんす☆まじかる!」から15年近く頑張り続ける林トモアキさんが「レイセン」に続くように紡ぎ始めた「ヒマワリ:unUtopial World」を刊行。甚大な被害を出しながらも組織の暗躍を抑え外国からの暴虐も退けた新ほたるを舞台に、薬で精霊の力を発動させられる若者たちが集い金券をかけバトルする中で過去、かつて新ほたるえ起こったテロで家族を失った空虚な少女がひとり、ひきこもりだった生活を抜け出しマジなステゴロで勝負を挑んでいくというバイオレンスでスリリングな物語になっている。女の子が主人公なのは今時じゃないとかいう話があったところで、「ばいおれんす☆まじかる!」も「お・り・が・み」も主人公は少女な訳で、つまりは林トモアキさんの本領発揮。そして主人公がおかれた異常なシチュエーションに、異常な奴らが絡んで話を転がしていくという展開もいつもどおりて楽しめる。

 なおかつ主人公が熱血でも前向きでも明るくもない、過去に縛られ自分を失いつつある暗めの眼鏡少女ってところがひとつの新境地。徹底的な暴力にすべてを粉砕されたあと、壊れてしまった心を埋めるというよりむしろ凍らせながら戦いの世界にやって来て、なぜか使える格闘術で屈強な男たちをぶちのめし粉砕していく姿は格好いいのと同時に恐ろしくもある。どうして彼女は、日向葵はそんなに強いのか。そして人間を平気で壊せるのか。彼女に4年前、何が起こったのかという謎がこれから示されるだろうと思うと読まずにはいられないし、学生4人組のひとりでサラマンダー使いのナイトが北大路美奈子と組んでレイセン、ではなくなった別の組織に属して、精霊を定着させるドラッグの謎を追っているのにも興味が及ぶ。

 それは新ほたる市のテロを経て一度、潰えたプロジェクトでありその後に裏で操る組織とやらに、ヒデオと鈴蘭が乗り込んでおそらくは壊滅させたはずなんだけれど、一方でヒデオのいないヒガシや美奈子の組織が追うそのドラッグに、市警にあってバトルをジャッジする役目を負っている魔人の少女が何か噛んでいそうな雰囲気。あるいは背後にあるのは魔殺商会で操るのは鈴蘭でさらに奥にヒデオがいて何か企んでいたりするのか。なんて想像も浮かぶけれどもとりあえず、次々に戦いを挑まれる可能性が生まれた日向葵がこの後も戦いを続け、それに連戦連勝しながら迫っていった先、何が見えるのかを今は気にして読んでいこう。この後世界はどうなって、そして大崩壊を経て「ミスマルカ興国物語」へとどう?がるかも興味があるし。「ミスマルカ」の第3部はいつかなあ。このシリーズがある限り、林トモアキさんがいる限りスニーカー文庫は安泰だ。たぶん。


【2月5日】 「ビンラムネ」も「すっぱいぶどうにご用心!」も見かけた記憶はあっても食べた覚えはなかったりする「だがしかし」。それでもしっかり蘊蓄を交えて「ビンラムネ」だったら食べ方であり食べたときのリアクション、そして「すっぱいぶどうにご用心!」は当たりがあるとかそれをどうやって見分けるとか、けれどもパッケージが代わって見分けられなくなっているとかそういう見分け方は都市伝説だとかいった話を盛り込んで、次に見かけたらこれは買って試さなくっちゃと思わせてくれる。その手で「きなこ棒」は食べてみることになったものなあ、セブンイレブンで買って。

 おやつカンパニーの「ベビースターラーメン」は有名すぎるから今さら蘊蓄も何もないけれど、それをネットでの動画配信と絡めて描いている当たりが現代か。駄菓子の試食実況ならたぶん現実にあるんだろうけれど、そこに熱さで乗り込みそれなりのアクセスを集めたことにする展開から、駄菓子への愛って奴が伝わってくる。ただどうせ語るなら今の「ベイちゃん」「ビーちゃん」ではなく昔の松田産業時代から使われていた「ベビーちゃん」に登場を願いたかったなあ、僕らの時代はやっぱりあのキャラが持った丼が透けて中身が見える「ベビースターラーメン」をこそ、それと信じて食べていたから。今は直射日光による劣化を避けるためにそうした透明部分はパッケージから消えて久しいけれど、キャラだけでも復活とか、あったらちょっと懐かしいかも。

 ニュースとか見ていたアース・ウィンド&ファイアーの創設者で、ボーカルでもあるモーリス・ホワイトが死去したとの報。しばらく前にパーキンソン病でライブ活動からは退き、1度くらい見てみたかった思いはもはやかなわなくなってしまっていたけれど、それでも存命なら音楽は生み出し続けてくれただけに、やっぱり訃報は寂しい限り。「September」とか「Fantasy」といったあたりを両翼にして、ブラスサウンドをバックにした弾むように楽しい曲からファンキーなリズムを持った曲からフィリップ・ベイリーのハイトーンボイスを駆使して形作られるメロディアスな曲まで、聴けて踊れて感動できる楽曲をいくつも送り出してくれた。耳に入ればすぐに思い出せる名曲たちを、やっぱり1度は生で聴いてみたかったなあ。

 長岡秀星さんという日本のアーティストの描く絵をアルバムのジャケットによく使って、日本にすごいアーティストがいるんだと驚かせてくれつつ、その未来的だったり原始的だったり世界遺産的だったりする世界観で音楽というものが持つ、ロックだフォークだ格好いいぜ渋いぜといった感性とはまた違った、荘厳で物語性があってスペクタクルでファッショナブルな音楽というものの意識を、アートワークからも感じさせてくれたバンドだった。その長岡さんが昨年7月に亡くなり、そしてモーリス・ホワイトも逝って1970年代から80年代にかけての音楽シーンがまた少し、遠くなってしまった印象。デヴィッド・ボウイも亡くなってなおいっそう。そういう歳にみんななって来ているし、自分だってなっている。そう意識して残る人生、過去の素晴らしいクリエーティブを味わいつつ、これから生まれるものも吸収して精一杯に音楽を、それを含んだ文化を楽しんで行こう。フィリップ・ベイリーだけでも良いから来たら今度こそ観に行くぞ。

 いやいやまだ早いでしょう、という訃報にちょっと驚いた韮沢靖さんの死去。ツイッターの報にぽつぽつと名前が並び始めて、何が起こったかと調べると亡くなったらしいという話で、その震源地を探していったら師匠にあたる小林誠さんのコメントに行き当たった。そこにあった「弟子」で「ニラ」という言葉から他にはいない韮沢靖さんの名前を浮かべた人の絶句混じりの呆然が、じわじわと広まっていったといった感じ。やがて韮沢さん自身のアカウントから訃報が流され確報となってしまった。

 腎不全というから長い闘病もあったんだろうけれど、去年にあったスーパーフェスティバルではあの風貌で歩いていらっしゃったし、1月のスーパーフェスティバルにも参加しておられたとか。そんなに急変するなんてと思った人も多いだろう。親しい人たちですら。竹谷隆之さんも含めて韮沢靖さんと3人で語られることも多かった寺田克也さんが、ブログに出会いからこれまでの関係を綴りつつ、1月末に倒れたと聞いた時もしぶといからと思っていたら逝ってしまったと書いている。会えたのはだから亡くなられた後。「オマエそんなかっこ悪い棺桶とかじゃねえだろうと思った。いますぐ起き上がって、いつものニラサワ節の禍々しいやつ、デザインしてから死んでくれよ。ぼんやりとそんなことを思いながら顔みてたんですが、気がつくと灰になっちゃてて」という言葉は、深い深い親しさもあり、仕事ぶりへの高い高い評価もあって心に沁みる。

 もしもそれがかなったら、どんなデザインになっただろうかという興味もかき立てられるけれど、実際にはかなわなかった。ただ残された仕事は多々あって、そこから世界に冠たるクリーチャーデザイナーの足跡はたどれるから、それらを追いながらこれは韮沢さんだったらどう描いたか、どう作ったかと想像しながら自分たちではどうするかを考え、これからを生きていくことにしよう。とはいえ僕と韮沢さんでは2歳しか違わない訳で、まだまだ決して高齢ではない現役バリバリのクリエイターが、病気で逝ってしまうのは哀しいのと同時に、自分にもいつ降りかかってくるか分からない事態だとも言えそう。やっぱり2歳上だった今敏監督も早くに、それも突然の病魔で亡くなられているし。気をつけよう健康に。

 ゲネプロに超感動してこれはやっぱりしっかり見ないとと思い、チケットを抑えて見てきた本公演の「ライブミュージカル『プリパラ』み〜んあにとどけ!プリズム☆ボイス」は、後方にやや空席はあったものの前目はほぼほぼいっぱいで、そして男もいるけど女性もいてもちろん親子連れもいたりと幅広い客層。ゲネプロでは写真を撮っていたこともあったし「プリパラ」への理解度も足りていなかったので学習をして改めて通して見るとこれはやっぱり面白かったというか。マジ泣けるというか。クライマックスとも言えるシーンは涙をぬぐっている人もいた。あそこで自分も含めてもっといっぱい声が出ていればなあ。「Make it!」を唄えていられればなあと思ったけれど、やっぱりいきなりは無理か。なので公演が進むに連れて観客もこなれフィナーレは全員が大合唱してZeppブルーシアター六本木を埋めるくらいの状況になって欲しいとこれから行く人に臥してお願い。

 周囲にあまり行こうっていう人がいないのが寂しいけれど、でも絶対に行った方がいいと思うよ。ミュージカルっていうより「プリパラ」をメインにしたi☆Risのライブで合間に劇が入るといった感じの内容だから。なおかつその誰もがしっかりと役になりきって、衣装や髪型もアニメから抜け出してきたような格好になって、そしてアニメのキャラクターとして声も出し歌ってくれるから、i☆Risとはまた違った姿を、そして歌声を見られる。今までにないしこれからもないかもしれない。そんなライブを見ないでおくのはもったいない。北条ソフィを演じた久保田未夢さんなんて、りりしくてそれでいてプシューと抜けてしまうところとか、本当に可愛かったものなあ。あとはレオナ役の若井友希さんかなあ。もしかしたらついているのかもって思えてくるから。本当はついていたりして。

 メンバー以外ではファルル役の澪乃せいらさんって元宝塚だけあってダンスが柔らかくって見ていて本当に美しいんだ。青井めが姉ぇ役の高柳明音さんもすっかり役が板について来た感じ。SKE48でどういう雰囲気か知らないけれど、これからちょっと気をつけてみていこう。小さいらぁらを演じたのは今日は石井心愛ちゃんだったのかな。久家心ちゃんとはまた違った幼いけれどもアヒルのような可愛さで演じて引っ張ってくれた。凄いなあ。そんな公演に特典付きのチケットで入ったら大判カードはみれいだったけど欲しがっている人がいたので交換してドロシーをもらって帰ってきた。そふぃだったら良かったけれどパンフレットに写真は載っているからそれでいいや。あとうちわも缶バッジも買ったし。8200円くらいで。ふはあ。そしてパンフレットのレオナを見てるとやっぱりついてるんじゃないかと思えて来た。そんな素晴らしいミュージカルにまた行きたいけれどさすがにお金も尽きたのでこれからの人に任せた。頑張って歌え、そして会場を満たせ、「Make it!」で。


【2月4日】 国会で質問する方も大概だけれど一応は、国民が注目する自体でもある清原容疑者による覚醒剤所持&使用に関して安倍総理の言葉がどうにもこうにもいただけない。報道によればだけれど、安倍総理が生まれてもないのに地元を自称する宇部商業が、清原選手桑田選手がいたPL学園に決勝で負けた話を引き合いに「子供のヒーローだっただけに残念」といったことをまず話しつつ、「薬物使用はダメ絶対!」って感じの順番で話したような感じになっている。でも国を率いる総理大臣という立場なら、真っ先に「薬物使用はダメ絶対!」ってことを訴え、そうした容疑で捕まった人間が存在することを批難しつつ、現時点では容疑者でしかない状況を踏まえて「解明が待たれる」と添え、それから個人の禍根威触れて「子供のヒーローだっただけに残念」ってもっていくべきじゃないのか。

 でも後者だと、人情味にかけて杓子定規な人間だと思われかねない。そして前者の方が英雄をいたわるフトコロの広さを見せつつ、自分も野球に興味があったんだと世間にふれ回って人間らしさをアピールできる。そんな打算でありロジックが漂うのが現状の政治状況であり言論状況だったりする。甘利前経済再生担当大臣があっせん利得にちかいことをやっても、部下のために腹を切ったとその人情味を持てはやされるこの国の雰囲気が、事態の本質から人の目をそらしてなあなあの中で悪事を流していっている。悪事は悪事とまず糾弾する姿勢を取りもどさないと、それを尊ぶ意識を醸成しないとこの国は、ちょっと拙い方向に流れていきかねないんだけれど、歯止めとなるメディアが率先して人情を尊び持てはやしているからどうしようもない。困ったものです。

 バンダイナムコゲームスが入っていたりした、京急の青物横丁から歩いて行った場所にある台形の建物が取り壊されるとかで、中に入っている会社の移転案内とかが届き始めているけれど、そもそもあれはパナソニックが何かの研究施設めいたものとして作った建物で、台形だけれど中は吹き抜けで滝とか川とかもあったゴージャスな雰囲気が、ひとつの時代を醸し出していた.。バブル的というか。でもって中にはシアターがあって上映なんかも可能で、まだDVDが出始めのころにIVSだっけ、古い洋画のDVDを淀川長治さんの解説付きで安くパッケージ化していく発表があって、それを観に行ったことがあったっけ。それが最初の訪問。でもって途中、青物横丁から歩いて行く道にパン屋さんがあって、パンダの形をしたパンが売られていたのが目に入った。

 以来、バンダイナムコゲームスが入居して新作ソフトの発表会とかをするようになって、何度も通うようになった駅からの道筋で、パンダのパンを見かけていつか買おう、いつか食べようと思いながらもそのたびにちょっと手が伸びず、通り過ぎるばかりだった。そしてバンダイナムコゲームスが出ていって、建物自体もなくなってしまうとあそこを通る用事もなくなり、パンダのパンを買うこともきっとなくなるんだなあと思うとちょっと寂しくなった。パン屋自体がなくなる訳じゃないから、行けば帰るんだけれどそうやってわざわざ買いに行くほどのものでもないんだよなあ。街で見かける不思議な名物。それは通りがかった時に買って食べるのが粋ってもので、わざわざ買いに行ったらそれは大名物になってしまう。なのでここは心に留めつつ、いつか何か機会があって近所を通ることがあったら、今度こそは買って食べてみようと思いつつ、多分食べないんだろう。そういうものだ。

 「思い出のマーニー」が受賞して欲しいなあ、って気はしているけれど、アカデミー賞の長編アニメーション部門はピクサーの「インサイド・ヘッド」になるんだろう。受賞すればピクサーとしては2012年の「メリダとおそろしの森」以来だし、親会社のウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオも入れれば2013年の「アナと雪の女王」と2014年の「ベイマックス」と続いて連覇を達成。いくら優れたアニメーションを製作し続けるとはいっても、ちょっと偏り過ぎてアニメーションって“そういうもの”だと思われかねない。だから今年はちょっと経路を変えて、ってことになったとしても2D作画アニメーション全開な「思い出のマーニー」が受賞するには全米的な知名度が今ひとつ。アードマン・アニメーションズの「羊のショーン 〜バック・トゥ・ザ・ホーム〜」が受賞して人形アニメーションふたたびな風潮が生まれてもうれしいけれど、インパクトで「インサイド・ヘッド」には及ばない。

 そうなると、思いっきりプリミティブに寄って手描きのアニメーションを尊びつつ、スタジオも欧米ではなく南米はブラジルから出て来たアレ・アヴレウ監督の「父を探して」なんかが受賞したりすると、インディペンデントでアニメーションを作り続けている人たちにひとつの光明をもたらすかもしれない。短編アニメーションでは当たり前なアートっぽさを持ったインディペンデントのアニメーション。でも長編だと製作の大変さもあり、ストーリーを保たせる李貴重の問題もあってなかなかピクサーに互するものが出てこなかった。その点で「父を探せば」は手描きだけれどアートというより絵本調。そしてストーリーには第三地域で第二次世界大戦後に相次いだ、農業国家が工業国家となり民主国家が軍事独裁国家となって起こった混乱、そして国民が受けた痛みが描かれていて、ノーベル文学賞じゃないけれど、そういったものを好む人にアピールしそう。

 ここで訴えたいのはそうした反開発、反権力といったことが「父を探して」はあからさまに語られている作品ではないっていうこと。田舎に暮らす父母と息子の3人がいて、そのうちの父がどこかに出稼ぎに行くことになって、残されて寂しくなった息子が父親を追って、スーツケースを手に家族の写真を入れて旅に出る、といった雰囲気の導入部。その旅先での経験が、例えば農場で人々が綿かを紡いで稼いでいたのが工業化されてお払い箱になったり、工場で手で持って糸を紡いでいたのがこれまたオートメーション化されてお払い箱になったりしてといった具合に、経済の発展と産業構造の変化に揉まれる人々といった形で描写される。当然に起こる不満の爆発を、今度は軍隊が出て来て鎮圧するといった展開は、ブラジルが辿ってきた歴史をそのまま写している。

 それを台詞とかなくアクションとかもなくただ淡々と、それも絵本のようなシンプルで可愛らしく時に煌びやかな絵でもって描いて繋げていく。15分くらいのアートっぽいインディペンデントでアニメーションで使われているような絵柄であり手法が、80分もの長編映画に使われていているからちょっぴり退屈もしてしまうし、スクリーンから目も葉離れてしまいがちになるけれど、それはつまり声高にメッセージを押しつけようとはしていないってことでもある。そうした淡々とした描写の中、息子が出会い世話になる、って見せかけている人たちとの交流めいたものを通して、ブラジルという国が歩んできた歴史が示され、そうした状況を懸命に生きてきた、そして今も生きている姿が浮かび上がってくる。見終わって思うだろう。これがブラジルだと。そして多くの国々の今でもあると。

 日本だってあてはまる。というよりまさに今の日本だとすら言いたくなる。高度成長期に資本の論理で虐げられた労働者たちがいて、反抗もあったけれど弾圧されつつ懐柔もされるなかで誰もが平均的に富んで空気は落ち着いた。政治は強権的というよりどこかまだ人情的な面も残して誰かが良くなればほかは沈んでも構わないといった態度は逆に忌避された。けれども今、政治は富める者をより富まそうとして動いている。美しかった国土はTPPへの参加によって経済の論理に押しつぶされ、荒れて閑散としていくことになるだろう。逆らえば強権を発動した政治が弾圧して排除し押しつぶす。まさに「父を探して」の中に描かれていることが、半世紀以上の時を経てこの日本という国土の上に起ころうとしていると、気付かせてくれる映画ってことになるのかも。その意味で今、日本で公開されることに意義はある。

 10館ほどと大きくない規模で3月下旬に公開だけれど、アカデミー賞を受賞すればさらに見る人も増えて、そう願いたいけれどもやっぱり「インサイド・ヘッド」が勝ちそう。それでも候補になっただけのことはある作品だと、見て多くの人の思って欲しい。ブラジルの過去と、この国の未来を。あと添えるなら、杉井ギサブロー監督が宮澤賢治を原作に描いた長編アニメーション映画「グスコーブドリの伝記」から、グスコーブドリの英雄性を抜いて淡々と人生を歩ませてみせた作品といった印象を僕は受けた。疲弊する農村から出稼ぎに出て経験したことには理不尽なこともあればうれしいこともある。そうした人生がグスコーブドリは英雄になって途切れてしまったけれど、何もなく平凡に歩んだらもしかしたら「父を探して」に似た変化を味わったこのなったかもしれない。見比べて欲しい。


【2月3日】 寝ようと思った矢先にタイムラインに流れた「元プロ野球選手の清原和博逮捕」の報。容疑は覚醒剤の使用ということでその報自体に驚きはなく意外性もまったくなかったのは、前々から清原容疑者がそういったことをやっているんじゃないかと言われていたこと、それを裏付けるかのように印象がそちらに寄り雰囲気もそちらといった感じであと、タトゥーなんかもいれて自分をそういう風に見せよう見せようといった態度もあらわになっていたから、ああやっぱりやっていたんだと自分も含めて皆が思ったんじゃなかろーか。仲間だったプロ野球界の面々がそんなはずはないとか言っているけど、近しい関係にいて気付かないはずがないから、そこは武士の情けというか、そう言うことによって野球界全体が汚染されているような見られ方をすることを、避けようとしているんだろう。多分。

 これが前にやっぱり覚醒剤で逮捕されたミュージシャンのASUKAの場合は、やっぱりやっているっぽさはあったものの、音楽というナイーブでクリエイティブな作業を必要とするフィールドで、気分を酩酊させる方面ではなくて頭をスカッとさせる方向に働く薬がはたして必要か? って思ったこともあって、清原容疑者よりもやっぱり感が薄かった気が今になってしてる。それでも9割はやっぱりな感じだったけど。清原容疑者の場合は9割9分9厘がやっぱり。それは当人も十分に分かっていた感じで、踏み込まれて注射器とかを見つけられて自分でやっていたのかと問われ、自分でやっていましたと即答したとか。他に誰がやっていたなんて言えない状況ではあったとしても、ズルければ逃げようとするから、観念はしていたんだろう。

 そうした殊勝な態度があるいは、今後の矯正につながるかというと逮捕はされても執行猶予で世に出たら、そのまま空気にながされまた何度も手を出してしまいそうな気がしないでもない。というかそれで治るくらいなら、誰かに見とがめらか仄めかされたかすればすぐ、やめて更正しただろー。敬愛する長渕剛さんが薬物疑惑を聞いて離れていった時に、これは改めなくてはと考えただろうけれど、そうはならず無罪をテレビ番組なんかで訴えた挙げ句、実はやっていたと露見してしまった。心境は極めてどっぷりと浸かっていたって言えそう。これはASUKAにも言えそうだけれど、出て来たASUKAは多分がっしりと周囲が固めて再び使わせないようにしている。復帰もこれなら期待できるし、期待したくもなってくる。あの才能はやっぱり惜しいから。

 清原容疑者の場合はそういう頼れる人がいるかどうか。ここで長渕剛が戻ってきて、囲い鍛え直せば格好いいんだけれど、そういうことをやる兄貴か、それとも不義理を咎めて捨てるタイプか。そこはちょっと分からないけど、これからきっと誰かが聞くだろうコメントに関心。願うなら同じ覚醒剤で捕まったことがある江夏豊さんのように、実刑で懲役を勤めた中で更正し、性格も改めて以後、真面目に野球に取り組むようになって「Number」なんかで書いていたような緻密な分析を行い、テレビかラジオでの解説も担当して冷静で理知的なコメントによって凄い選手だったんだと見直させ、抜けた名球会への復帰もかないような人間になっていって欲しいけれど、そこに至れるかどうかの分かれ目は、清原容疑者の場合どこにあるんだろう。そこが気になるし、知りたいところ。これからの公判を、そういう関心から追っていこう。

 つぶれかけた精密板金加工工場のおやじが危地を脱した人生を、自分のやりたいことをやろうと作ったジュラルミン製のカバンがスタイリッシュだと評判になってひとつのブランドにまで成長した「エアロコンセプト」を先に見て、日本の町工場の職人技がスタイルと結びついたときに生まれる格好良いアイテムの登場なんかを期待したくなっているし、そうしたものも少しずつ現れているといった感じ。鯖江の眼鏡の技術を使った耳かきなんてものもあったし、高岡の木地作りの技術を使って轆轤をまわして削った木製のワイングラスなんてものも見たことがある。そして今回のギフトショーに出ていたスチール製のカバンも、大阪にある東洋スチールっていう金属製の工具箱なんかで知られるメーカーが、スタイルとかデザインと結びついて何かできないかって挑戦したもの。そこには今までにない目新しさがあった。

 アルミニウム製の板を曲げて加工してカバンにした、って点では「エアロコンセプト」に重なるところもあるけれど、とてつもなく複雑な工程と加工を経て作られた「エアロコンセプト」がカバンだけで20万円とか30万円とかするのに対して、東洋スチールの「KONSTELLA」は4万円とか5万円とかまだまだお手頃な価格。それでいて平たいアルミニウムに革が貼られてハイブリッドな質感を醸し出しつつ、中にはしっかりとノートブックPCが入ってスマホやタブレットもはいって周辺機器も入って文房具なんかも入ったりする収納性を持っていて、ちょっとしたノマドワークをする人とか、本を持ち歩かないビジネスマンなら十分に要求を満たしそう。それでいて持って行けば何これ格好いいねと話の接ぎ穂にもなる。一石二鳥の効果があるだけに、買ってみても良いなと思う人は出て来そう。

 もちろんスタイルだけではなくって、スチール製工具箱を長く手掛けて来た会社だけあって頑丈さはちゃんと維持。工具箱の底につけられた十字型のへこみが強度を高めるのに役立っているのをそのまま取り入れ、アルミの表面い十字型のへこみをいれたのがで残敵なアクセントにもなってのっぺらぼうな印象を変えている。クールでスタイリッシュ。それでいて革の温かみも感じられるこのカバンをさて、誰がどういう風に使うのか。気になるし自分でも使ってみたいけれどもノートブックがLenovoの古いX201では大きくて重くて分厚いんでちょっとこうしたカバンいは向かないんだよなあ。そういう意味ではMac Book Airな人向け? つまりはノマドワーカーか。最近はそうしたPCすら使わずタブレットで仕事をする人も多いし、スタイリッシュさと頑丈さを求めつつ大きいのは嫌って人に売れるかもしれないなあ。ちょっと様子見。

 「プリキュア」も見てないけれども「プリパラ」だって見ていないからどれくらいの人気が今、あるかは分かっていても誰が出ていてどんな内容かまでは詳細には把握していなかった。それも今日までだ。六本木ブルーシアターで4日から始まる「ライブミュージカル『プリパラ』み〜んなにとどけ! プリズム☆ボイス」のゲネプロを見てそこでアニメーション「プリパラ」のキャラクターたちと同じ衣装で歌い踊るキャラクターの声を担当している声優さんであり、そして実在のアイドルでもあるところのi☆Risを見れば、もうその歌の楽しさ踊りの素晴らしさと、そして何よりメンバーたちの可愛らしさにヤられてしまって、いったい彼女たちがその肉体でもって演じていたキャラクターはどういう感じでアニメーションに出ているのかを確認しないではいられなくなる。それくらいに素晴らしい歌であり踊りでありビジュアルだった。

 声優さんがキャラクターそのままに3次元化してくるユニットとしては話題になっているμ’sがあるけれども「プリパラ」の面々は元がi☆Risっていうアニソンシンガーでありながらもアイドルといったカテゴリーを募ったオーディションに合格した面々だけあってルックスはひとつアイドル寄り。そして2シーズンだかに渡って繰り広げられている「プリパラ」の声優として演技の面でも鍛えられたこともあってか舞台上で発する声に澱みはなく迷いもなくちゃんと舞台の演技になっていた。いやあ素晴らしい。そんな役者たちがまた、アニメのキャラクターになりきっているのもこのミュージカルの見どころで、主人公の間中らぁらを演じる茜屋日海夏さんやキツそうに見えてヘロヘロっぽい北条そひぃを演じる久保田未夢さんもともにキャラが画面から抜け出てきたかのような雰囲気を感じさせてくれる。なおかつ生身だからこそのオーラも放って迫ってくるか強烈。夢にまで見そうというか夢に見たくなるほどの美貌を向けてくれる。

 レオナ・ウェストを演じた若井友希さんなんてもしかしたらついているんじゃないかと思わせるレオナぶり。いやアニメではついているんだろうけれど、それを感じさせないレオナのそれでもついているっぽさをその肉体で演じるのってどういう感じだったんだろうか。ちょっと聞いてみたい気がする。そんあi☆Risとは違ってアニメとは違う俳優さんが演じた役では赤井ではなく青井めが姉ぇを演じた高柳明音さんとか、現役SKE48ながらも悪巧みをする役にハマった演技を見せてくれたし、美貌で目立っていた栄子役の小原春香さんはグラビアアイドルであり元SAK48なりSDN48といった佇まいを放っていた。でもやっぱり究極はちゃん子ちゃんを演じた桐木彩乃さんかなあ。その雰囲気はまるでアニメから抜け出てきたかのよう。

 あとでメンバーがこの舞台のために似せようと10キロ太ったと話していたから、舞台にかける情熱は半端じゃない。1人2役的な処も見せたその演技、そして巨体に似合わないダンスとかを目に焼き付けよう。そんな「ライブミュージカル『プリパラ』み〜んなにとどけ!プリズム☆ボイス」のチケットがまだまだ余っているのは気になるところ。なので早速1日分を予約して改めて遠目でも良いから舞台で踊る「プリパラ」メンバーを目に焼き付け、そのダンスをしっかりと心に刻み込んで来るとしよう。今度こそはいっしょい「Make it!」を歌うぞ。それまでに覚えておかなくちゃ。


【2月2日】 WHO世界保健機構がなにやら、映画とか映像とかで喫煙シーンがあるものは成人指定にしなさいとか言い始めていて、映画業界映像業界テレビ業界とそれから映画ファンとかドラマファンとかアニメファンに諸々の震撼が発生中。映画でいうならハンフリー・ボガートが紫煙をくゆらせ、マフィアのドンが葉巻を囓るシーンは劇場だと成人指定になるかもしれず、テレビだったら「探偵物語」で工藤ちゃんこと松田優作さんが、ぶわっと煙を吐き出し漂わせるシーンなんかが放送できなくなってしまう。アニメだと宮崎駿監督の「風立ちぬ」なんかは日本テレビがジブリアニメとして金曜ロードショーで放送するなら、堀越次郎が仕事しながらプカプカやってるシーンが御法度。あれがあの時代のひとつの仕事のスタイルで、人間のライフスタイルでもあったからこその描写なのにそっくり落ちて、時代の空気って奴が伝わらなくなってしまう。

 いやいや、時代の空気も結構だけれど、それが今という時代にも行われいたら空気に混じって煙草の煙も漂い出して、匂いも周囲にまき散らされては吸わない人への健康被害や気分の棄損につながるでしょうといった声も出そう。どちらかといえば格好良い人たちが格好を付けようとしてる場面でくゆらせる煙草を見て、そうか自分もああやれば格好良いんだと影響されて吸い出す若い人が現れるのを防ぐため、そうした場面を御法度にしたいというWHOの意見も分からないことはない。テレビCMなんかでスタイリッシュでクールでエレガントでドラマチックに煙草を吸うシーンなんかが排除され、煙草のCMそのものも見かけなくなてなおかつF1なんかのボディにペイントされてたマールボロなりキャメルなりといったカラーリングも、広告塔としての役割を果たしすぎるからと排除された。煙草にアクセスする窓口は狭まっている。

 そこに加わる映画ドラマアニメ等々からの煙草シーンの排除。効果はあるかもしれない。そして影響も。かつては格好いいものとして描かれた喫煙のシーンが、そうしたものを格好いいものとして触れることなく育ってしまった人たちによって構成された社会では、人前ではばかりもせずに煙草をふかす無礼者として映り、格好良さどころか無様さが漂って映画から当時、醸し出されたものでありまた映画の作り手が醸し出そうとした雰囲気が、伝わらなくなってしまうってことも考えられる。それは映画にとってひとつの死を招くものなのか、新しい生を呼び込むものなのか、難しいけれどもそういう格好良さがあったことを、口伝として伝えつつもやっぱり煙草は体に良くないから、格好良さとか関係無しにあんまり吸わず公共の場でも口にしないのがマナーだと、教えるような流れが出来ていくのかなあ。それとも口伝されずに煙草=悪のイメージが定着し、過去の煙草の格好良さが嘲笑と侮蔑に塗れる日が来るのか。100年後200年後の状況がちょっと知りたい。

 甘利前経済再生担当大臣の金銭授受問題に関連して週刊文春が火を着けてボウボウと燃やしている一方で、大手の新聞だとかテレビ局だとかはどこか甘利前経済再生担当大臣は悪徳業者にハメられそしてポン酢な地元秘書に食い物にされた“被害者”だってなニュアンスを醸し出そうとしている感じ。今日も今日とて毎日新聞なんかが「公表された面談内容には、文春報道と食い違いもある」って書いて甘利前経済再生担当大臣の責任を追及したのを緩めようとしているんだけれど、そんな記事を読むと「文春報道で、秘書らは『顔を立てろ』と言い口利きを迫ったとされるが、URの公表内容は『(UR本社で建設会社に対応して)事務所の顔を立ててほしい』という控えめな要望だったとしている」とある。

 いっしょじゃん。「いったとされるが」って逆接で結んでいるけど「顔を立てろ」っていっしょのことを言ってるじゃん。経済界に顔が利き、なにより現職の総理大臣とは仲良しだって立場にある現職の経済再生担当大臣様が雇い地元を任せている秘書殿が、その事務所に相手を呼びつけ「事務所の顔を立ててほしい」と言えばそれがどんな口調だろうと、たとえ顔は笑顔だろうと声音は優しかろうとも背後にとてつもなくビッグな権力が垣間見え、そんな立場を暗黙のうちに押しつけ言うことを聞けといわんばかりな態度だったと感じ、心理的な圧迫を受けるのが普通の人間。ましてや一般の企業というより権力側に近い公団の担当者が、それを聞けば自分の立場もあって内心はドキドキで心臓もバクバクだっただろう。

 それをそのまま、今という時期に話せないのも言わずもがな。そうした立場の差から浮かぶ状況を忖度もせず、甘利前経済再生担当大臣の側にも瑕疵はなく、URの方にも口を利かれた印象はなくひとり相手の総務担当者が悪いと誘導しがちなこの記事を、リベラルな雰囲気がある毎日新聞ですら載せてしまうんだから恐ろしい。そういう空気を作ってまで、守らなくてはならい存在なんだろうなあ、甘利前経済再生担当大臣は。あるいはその親玉の総理大臣は。3月末でどこか政権に批判的だと言われていたテレビのキャスターが揃って降板する事態もあって、それが事実かどうかは別にして、政権に逆らったから飛ばされたんだという雰囲気が、まことしやかに伝えられて公然の空気となっている状況が一方にあって、また政権に棹さすような報じ方はしたら拙いのかもという空気が漂って社会を満たした果て、言いたいことも言えないまま言わなくてはならないことが起こっても何も言われないまま進んでしまう可能性が、グッと増して来た。果てみ来る社会とは。怖いけどそれは夢じゃない。どうしたものか。

 始まったアメリカ大統領選挙に向けた民主党と共和党の予備選挙で共和党はアイオワ州でテッド・クルーズ候補が1番となって、世間的にはなぜか1位の支持率で突っ走っていたドナルド・トランプ候補を上回った。あれれ。って不思議に感じたものの威勢の良い言葉にやんやの喝采は贈って一時持てはやしても、マジな選挙でこれだけ他国と問題を起こしそうで国内的にも将来が不安なトランプ候補はちょっと避け、制作的にはタカ派ではあっても真っ当さに落ち着きそうなクールーズ候補をか、あるいはマルコ・ルビオ候補に票を持って行ったんだろう。だから3人が僅差でならぶと。その後はいったいどうなるか、やっぱり威勢の良いトランプ候補が票を奪って1人抜けるが、逆に票を話してクルーズ候補とルビオ候補に一騎打ちになっていくのか。

 そこで問われるのはトランプ候補が合衆国大統領として、マジな政治をマジにやっていってくれるかとマジに考えられるかってことか。これでアメリカ合衆国民、雰囲気にながされタレント候補が威勢で通ってしまう日本と違って、政治にはマジな国民だと思うんだけれど、果たして。トランプ候補の動静でそのあたり、見極められるかも。民主党候補の方はヒラリー・クリントン候補とバーニー・サンダース候補が一騎打ちの五分五分といったところ。アイオワ州ではクリントン候補がとりあえず勝利宣言をしたみたいだけれど僅差らしいので今後の言動とか仕草とかでガラリと状況が変わってひっくり返ることもあるのかな。でも年齢的に74歳のサンダース候補では68歳と決して若いとはいえないけれども一応は若いクリントン候補に票は傾きそうかな。そして戦う共和党の相手は……。今回は圧倒的な候補がいないだけに楽しめそう。どっちにしたって日本は変わりそうもないんだけれど。それが1番も問題。やれやれ。

 第19回の文化庁メディア芸術祭が始まるってんで国立新美術館での内覧へ。第2回が初台で開かれた頃からほぼほぼ見てはいるけれど、年々メディアの数も増えて華やかさも増している感じで、それはそれで良い兆候かなあと思う。国だろうと何だろうとメディア芸術のアニメーションとか漫画とかゲームとかが褒められるのはファンとしてうれしいし、もらうクリエイターだって多分うれしいだろうし。会場にはマンガ部門を「かくかくしかじか」で大賞を受賞した東村アキコさんも来場して早速のライブペインティング。日高先生が「描け描け描け」と叱咤する横で書いている姿に遠巻きながらも涙が出て来た。きっと本人も聞こえない声を聞いていたに違いない、とか。エンターテインメント部門を「正しい数の数え方」で受賞した岸野雄一さんは袴に裃の出で立ちで見世物小屋に一行をご案内。あの場内に小屋まで作って上演してくるとあって、これは是非に観に行きたいけど時間はあるかなあ。まあでもせっかくの機会なんで見ておこう。ひらのりょうさんとか西島大介さんの手掛けたアニメーションも混じっているし。


【2月1日】 そういえばサッカーのU−23が集まったアジアの大会で日本代表が韓国代表に勝って優勝していた。リオデジャネイロ五輪の出場権もかけた大会で、すでに決勝に進んだ段階で出場枠確保という課題はクリアしていたけれど、こと戦いぶりに関しては中盤にボールが収まらず前線へと運べずサイドからも切り崩せないまま、相手のシンプルで素早い攻撃に振り回されてゴール前まで攻められるところを、ゴールキーパーのファインプレーによってどうにか切り抜けてきた日本代表が、決勝では韓国代表相手にどれだけやれるのか、もしかしたらこてんぱんにされるんじゃないかといった思惑も浮かんで注目を集めていた。そして結果は8割がこてんぱんだったけれど、残り2割を相手の油断かそれとも慢心につけ込む感じで得点を奪って0対2から大逆転での3対2での勝利。これはこれで快挙だけれど、戦いぶりはやっぱりダメダメだった。

 だって中盤が死んでるんだもん。ボールが持てない。そして持ったら囲まれかっさらわれる。パスを出そうにも前に人が走ってないし、後ろにも人がついてない。慌てて出しても敵の足下。そして食らう反撃を追いかけていくこともできないままディフェンスラインをあっさり突破され、素早いターンからシュートを撃たれて失点とかって感じで、守れていたはずのディフェンスまでもが中盤との連携を取れない中で自壊していった。コンパクトにして押し上げパスを交換しながらサイドに開いてパスを出し、前に走った誰かに出して素早くシュートまで持って行くような連携はなく、流動性も皆無。ベタっと出してボタっと受け取る繰り返し。こんなものがリオデジャネイロ五輪で欧州とか南米から来たチーム相手に通じるはずはない。

 そしてアジアでも通じるはずはなく、イラン代表とかイラク代表に手こずり、韓国代表にはまるで通じず2点を奪われほとんど負けってムードが漂っていたんだけれど、ここで繰り出された“戦術浅野”によって前線にスピードと攪乱が生まれたのを、韓国代表が見誤ったか油断をしたか、引いて守備を固めず囲んで奪うようなこともしないまま、落ちたスタミナの中で相手に言いようにされてしまってたちどころに3失点。結果、日本代表が大逆転の勝利を収めたようにスコア的には見える結果となったけれど、知っている人はやっぱり日本代表は課題がまるで克服されておらず、中盤を作れず決定機も作れないまま守備だけでどうにか勝ち上がる、面白さも楽しさもないチームのまま、優勝してしまって改善する機会すら失おうとしている。

 あるいはこれでは世界で戦えないと気付いている誰かが、五輪代表のために戦術コーチを置いて中盤からの組み立て方、そして前線での勝負の仕方を教授すればまだ救いはあるんだけれど、そういうことをするところじゃないからなあ、日本サッカー協会は。いじって失敗すれば責任を問われるなら、今のままで監督の責任にしてしまえ。そんな感じで臨むだろう夏のリオデジャネイロ五輪。果たしてメダルになんて手が届くのか。オーバーエイジで戦術浅野を極めるために、青山敏弘選手を中盤に入れて相手に良いようにさせないって手もありそうだけれど、果たして。前回は銀メダルだった女子代表のなでしこジャパンともども注目、ってそのなでしこジャパンもちゃんとリオデジャネイロ五輪に出られるのかなあ。6チームで争い上位2チームが出場という大会だけれど、北朝鮮は強いしオーストラリアも強豪だし。ちょっと心配になって来た。

 エロトークが炸裂していて、赤面しながらも薄目を開けて見てしまいたくなる「ギャル子ちゃん」と、それから石膏像たちが表情も変えないまま喋って楽しませてくれる「石膏ボーイズ」って超弩級の笑いをもたらすアニメーションが2本並んだ後に、ほんわかとしてほのぼのとするストーリーと、それから紙芝居とも言って良いくらいに動かない絵でもって繰り広げられて、果たして見てくれる人はいるんだろうか、その脚本に耳を傾けストーリーに聴きいってくれるんだろうかといった心配も浮かんだ「ウルトラスーパーアニメタイム」内の沼田友監督による「旅街レイトショー」。それが全4話を終わって評判の方はネガティブなものがあまり無く、良かった素晴らしかった泣いたといった激賞がネット上いっぱいにあふれかえった。

 アニソンシンガーの黒崎真音さんも「めっちゃよかったー」とツイートしていたりして、アクションだとかギャグだとか萌えとかいったアニメ作品がいっぱいの世の中にあって、こうした作品でも受け止められる余地があるんだってことを教えられた。沼田友さんという稀代の脚本書きであり異色のアニメーション作家の存在が、商業作品という場を経て一気に広がった感じもあってうれしいけれど、個人的にはもっと早くその才能が世に出ても不思議じゃないって気もしている。2012年に発表された第17回学生CGコンテンストで優秀賞を獲得した「雨ふらば風ふかば」なんかで見せた、30分間を会話で持たせるストーリーの中に死別の哀しみを描き、忘れられてしまうことへの怖さを描き、それでも人は前に向かって進んでいく必然を見せて心を引いた。

 沼田友さんのひとつの特質でもある決して美味いとはいえないCGの描画に邪魔されて、そのスクリプトの素晴らしさを噛みしめられない人もいただろうことを思うと、そのまんま誰か別の人が映像化すればいいなあって、2012年の2月に開かれた上映会で初めて作品を見たときに思い、書いたけれどもそれは今も変わってない。こうして「旅街レイトショー」が別の人の絵と演出で映像化されたからには、「雨ふらば風ふかば」も別の人が絵を描くなり、それこそ実写で映像化したって良いんじゃないか。例えば能年玲奈さん主演とか。かんぽ生命のCMが終わって、今、本当に仕事がまるでない状態に見えるし。あの天津欄間な雰囲気で、お墓にいる少女を演じてくれたらきっと泣くなあと思うけれど、そんな外野の声が届くテレビ業界映画業界芸能界でもないのが辛いところ。

 能年さんでなくても誰か気付いて実写ドラマ化とか、それこそ「世にも不思議な物語」の1つのエピソードに取り入れて欲しい作品だけれど、今回の「旅街レイトショー」の評判でちょっとだけ道筋が見えたって思いたい。過去のシナリオの映像化でなくても沼田友さん自身に新しい作品を作ってもらえば良い訳で、そのための場所をだから業界は与えて差し上げて欲しいもの。1月31日に東京ビッグサイトで開かれていたコミティアでお目にかかって、これまでの作品に使われた音楽が数録されたCDを買った時に尋ねると、次はまだ決まっていなかったようだけれどもなあに、企画を出せば通るところには来た。あるいは存在を知ってもらう名刺も大きなのが出来た。あとはだからそれを見て、次を作らせようとする動きが出ることを期待して待とう。「雨ふらば風ふかば」から4年待ったけど、次はもっと短い待ち時間で。

 「ブラッドハーレーの馬車」だとか、木村拓哉さんの主演で映画になる「無限の住人」だとかいったハードでシリアスな雰囲気の作品で人気の沙村広明さんだけれど、僕が好きなのは「ハルシオン・ランチ」といった何でも食らう宇宙人の少女を核にして起こるドタバタを描いたギャグ系の作品。その系統が果たして本流なのかは分からないけれど、というかむしろ亜流に見られがちだけれども「波よ聞いてくれ1」(講談社)を読むと、もしかしたら本当は、ギャグにこそ自身の資質を見いだしているって思えてくる。だって無茶苦茶面白いから。

 詐欺まがいで男に50万円もの金を持ち逃げされたカレー屋の店員のミナレって女性が飲み屋で酔っ払ってくだを巻いていた相手がラジオ局のチーフディレクター。その時に録音した男への罵倒を放送されてしまい、聞いたミナレは首になりかけているのも構わずカレー屋を抜け出しラジオ局へと駆けつけて、そこで録音を引き継ぐように生放送で良い訳をしつつ男への啖呵もしっかり切って場を取り繕う.もちろん素人の乱入に過ぎなかったんだけれど、その対応が良かったのかもとより録音した声に何かを感じたのか、チーフディレクターはミナレにラジオに出てみないかと誘いその場では自分には荷が重いと引き下がったもののチーフディレクターはカレー屋にも来て誘いをかける。

 カレー屋の店の雰囲気に合わない接客ぶりで店長から疎んじられ首になるのが確実なミナレは、ラジオ番組を引き受ける気を起こしたもののすぐに番組が始められるでもなく、お金も稼げないままアパートを引き払って番組のADの部屋に転がり込みつつ、カレー屋の同僚だった男の引き留めも浴びつつどうにか生きていこうとしていたら、カレー屋の店長が事故に遭って入院し、しばらくカレー屋も手伝ったりしながら深夜早朝の誰も聞いていなさそうな時間帯の番組を始めるかどうかといった思案を始める。

 ある意味でシンデレラストーリーだけれど、始まりが飲み屋で元彼への罵倒でカレー屋では仕事ぶりは認められても、性格が開けっぴろげでズレまくっていたりするミナレが主人公なだけに、酔っ払って階段で倒れて同じアパートの住人から助けられていたのを勘違いして自分が頑張って部屋までたどり着いて着替えて寝ていただけだと思い込んだりする当たり、才能を認められてのサクセスだとか熱血ぶりでひた走ってつかむ成功といった、一本道の展開とは違った寄り道がそこかしこにあって笑わせる。それらがあり得ないかというと人としてあり得る話。そうした現実に即した笑いを織り交ぜながらもしっかりと、ミナレがこれからラジオとどう向き合っていくかっていった本筋も混ぜるところが上手い。

 泊めてもらっているADが買っている亀の世話を安請け合いしたら、とんでもなく几帳面に世話する方法をメモに残され戸惑ったりする描写のぶち込み方も愉快。そんなフックを手がかりに進んでいった先で、謎めく女性が現れたり、ラジオが本決まりになりかけたりしてまずは第1巻。続く展開でミナレはどんな活躍を見せるのか、それともやっぱり粗忽ぶりを炸裂されては笑われながらもそれでしっかり自分を表現していくのか。居場所のなさに悩み個性の薄さに迷う人とか読めばきっと自分をもっと炸裂させていこうと思えるかも。いったいどういうしゃべりをするのかな。それはリスナーをどんな風に幸せにするのかな、っていった本筋の部分も気になる漫画。異世界でのバトルもないし大きなビジョンもないけれど、札幌でこぢんまりとしながらも幸せを探し夢を見つけて羽ばたこうとするその心意気。買って推したいマンガ大賞2016に。でも他が強そうだからなあ。どうなるか。


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