縮刷版2016年12月下旬号


【12月31日】 阿佐ヶ谷ロフトでのコバヤシオサムさんや磯光雄監督や湯浅政明監督らが登場してのイベントでは、凄い作画をする向田隆さんも来られてて、ちょうどコミケで販売されたらしい原画集なんかも買ってきた人から提供されてプロジェクターで投影されて、やっぱり凄い作画だなあと感心する一方で、こうした原画集だとか、やっぱりコミケで人気らしい平松禎史さんの画集だとかが日常的に売られるようになって、超絶的なアニメーターの素晴らしい仕事にダイレクトに触れる機会も存分に増えているにもかかわらず、どうしてスーパーアニメーターといった人たちが続々と世に生まれて来ていないのか、ってあたりがやっぱり気になって来る。

 それこそ昔だったら目を更にしてテレビの放送を見るしかなく、やがてビデオが出回るようになって録画したものをコマ送りで再生しながら、すごいアニメーターのすごい作画だどれだけ凄いかを確認し、写して覚えていった人たちが今のアニメーション界を支えていたりする。今はそうしなくたって、買ってきた原画集を見たり、開かれている原画展なんかに行ったりすれば労せずにすごい作画に出会える。写せばどこまでだって上達できそうで、そんな腕を持ってアニメーション界に入って若いながらも大活躍する人たちが、ばんばんと出てきそうなのにそうでもない。人手不足。早く描ける人が居ない。巧い人がいない。そんあ声ばかり。何でだろう。

 想像するならやっぱりアニメーション界に入ったところで、食べられるものではないってことが知れ渡っているのかもしれない。あるいはテレビの放送を食い入るようにでも見て覚えたい、そして倣いたいという人たちの強い情熱があってこそ、腕前も上達したんであって凄いアニメーターの凄い原画を一種のキャラクターグッズとして購入し、鑑賞している人たちの熱量では、そこからクリエイトする側へと転じることはなく、だから人材は情報量の増加に比して増えはしないってことなのかもしれない。何か寂しい。今の時代に大量に出回っている原画集だとかレイアウト週だとかを40年前のアニメファンに送りつけたら、いったいどれだけの凄いアニメーションが生まれて来たかなあ。やっぱり物量に溺れて鑑賞するだけに終わったのかなあ。

 そんなイベントを見て買える地下鉄の中で「鴨川ホルモー」の万城目学さんが何から苦衷のツイートをしているのを発見。どうやら映画の脚本を依頼されて脚本学校にも通って勉強しながら書いたものがあったけれど、出したら理由も分からないまま全ボツにされてしまい、それならアイデアは小説の方に行かそうと思っていたら、なぜか映画はそのまま別の脚本家を立てて作られていて、それはそれで構わないものの予告編を見たら自分が脚本として提示したものの、入れられずそれならと引き上げ小説に使用としてたアイデアが残されていたという。これでは小説を出しても映画のまんまと思われるからもう使えない。せっかく2年もかけてとられっぱなしは釈然としないと突っ込んだら、プロデューサーは聞いてないと答えてそしてそのまま映画は公開されるという。

 どんな映画化は書いてないけど想像するならアレかなあと誰もが浮かぶ映画がもうすぐ公開。それは万城目さんの原作を元に映画を作ったプロデューサーと監督が、俳優陣すらも含めて再結集した映画でどうしてそこに万城目さんの名前がないんだろうと、前々から誰もが思っていた作品だったりするからちょっとした騒ぎになっている。ここで万城目さんの言によれば、上層部はやっぱりこれは拙いと感じて謝罪なりをしようとしたとか。万城目さんは映画がそのまま公開されるのに謝ってもらってもしゃあないと断ったそうだけれど、本当にそういう動きがあったのだとしたら、やっぱり拙さを上が感じていて、けれども現場は知らん顔といった状況になる。ガバナンスが利いていないというか。そんな雰囲気。

 ここで分からないのは、万城目さんが脚本を書いて提出した段階でひとつ、何かしらの対価を得ているかどうかで、1稿が上がってそれを修めてひとつ契約は完了しつつ、2稿3稿と直してもらうよりもまた別の人にお願いしたいとなって、それでも捨てがたいアイデアがあったから契約に従って利用させてもらいます、ってことなら今さら万城目さんが言えることではない。どうしてそこで2稿3稿といった提案が成されなかったか気になるところではあるけれど、とりあえずアイデアを出して対価を受け取ったのならそこで相手に理があって、万城目さんは残念だけれど口は出しづらいことになってしまう。そういう契約があったのなら、だけど。

 その場合でも、原案なり企画協力に名前がクレジットされていて不思議はないけれど、そうではないってのも不思議。それも契約次第。ただそうではなく、1稿が拒絶されて2稿へと進ませてもらえず対価も受け取れなかったのだとしたら、万城目さんの言にも理が生まれて来る。結果としてアイデア出しだけに協力させられ、そしてパクられて自分では使えないうなったのならそれはクリエイターにとって大損に等しい。法律的にどうってことよりも、状況的に映画を作った側にネガティブは視線が向かうだろう。クリエイターを蔑ろにするところだって評判も立って、原作を寄せてもらえなくなる。

 実際にそこと推察される企業は、原作をいじりたおして原作者から不興を買うケースが多発している。万城目さんの作品だって主要人物の性別が入れ替えられるというトンデモが起こった。結果として綾瀬はるかさんの揺れる胸がスクリーンに乗って得をしたファンもいたし、今度もそれが見られそうなのは嬉しいけれど、でもやっぱり原作者にとっては不満もあっただろう。それでも長く付き合って、要求に応えようとして奮励努力して上げた企画をボツにされ、理由も説明されないまま放逐されたとあってはやっぱり憤りも浮かんで当然。後に入った脚本家は苦労して1から仕上げたそうだで、だったら誰が万城目さんのアイデアを乗せたかといえばプロデューサーなり監督ってことになって、そこへの怒りがこれから向けられていきそう。世間も事の次第に気づき始めているようだし、どこへ落ち着くか。とりあえず映画を見てどこがそれかを考えよう。って言いつつ見るのは綾瀬はるかさんの揺れる胸、だけど。だよね。

 暖かいんでコミケへ行って東7ホールというのを見物する。結構な広さがあって天井も高くてこれはいろいろなシーンで使えそう。そこだけでライブとか可能かなあ、やっぱり柱が立っているのが邪魔かなあ、幕張メッセはそうした柱がホール内にないものなあ。展示会にはまああって良いものと認識。あと掲示板があって場内のジャンル区分が紹介されていた。手にカタログが無い身には便利だけれど、そこだけはちょっと勿体ないかなあ。そんな東館(ひがし・やかた)へと行く前に寄った西館(にし・やかた)で企業ブースを見て回る。今回は1階にも企業ブースが出てきたようでおかげで通路は広くスムースに移動できた。これからも維持されるんだろうか。GENCOブースで「この世界の片隅に」のカレンダーを買い、小学館のブースで「BLACK LAGOON」のクリアファイルを買い地域とアニメのコラボを紹介していたブースで「鴨川エナジー」を買って終わり。長くとっておくものはもう、家に入らないのだった。そんなこんなで終わる2016年。普通だったなあ。来年も普通でありますように。


【12月30日】 政府ってのは莫迦の集まりなのかそれとも政府の中にあって莫迦がスポーツ行政の中枢に巣くっているのか。2020年の東京オリンピック/パラリンピックに向けて建設が進められている新国立競技場がオリンピックの後にいったいどれだけの稼働があるか怪しくて、赤字がいっぱいでるかもしれないってことでここにスポーツクラブを誘致して、常打ちの小屋として使ってもらってそれで収益をまかなおうとしているとか。んでもって候補に挙がっているのがサッカーのJリーグにに所属しているFC東京と鹿島アントラーズ。なるほど東京でも調布にある味の素スタジアムを本拠地にしているFC東京ならちょっとズレてもらって国立で、ってことも考えて考えられない話じゃないけれど、どうして茨城県は鹿島市に本拠を置く鹿島アントラーズがここで上がるのかが分からない。

 地元志向でチームを作って地域密着の中で収益を出していく、ってのがJリーグが発足した時の理念であって、それを受けて鹿島は住友金属という決して強くはない企業のチームを母体に発足しては、地道なチーム作りによって強豪となり地域の熱烈なサポートによって収益面でも安定している。それが東京に本拠地を移すなんて、考えること自体が間抜けというか阿呆というか、真っ当な神経を持っていたら絶対に浮かばない発想なんだけれどもそこは莫迦が巣くう政府ってところだけに、最近活躍しているあのチームなら客も来るんじゃないかといって名前を挙げたっぽい。

 いやいやまだスポーツ報知が書いているだけで、その記者に何か思惑があって名前を挙げては混乱を呼んで、やっぱり違うって話を出させてだったら東京ヴェルディを持ってこようって話になるのを期待してのことかもしれないけれど、報知の親会社の読売新聞社がヴェルディを持っていたのは昔の話で、今は遠く離れたどこかの企業が運営母体となっては地道に堅実な経営でもってJ2の中位を確保している。同じ味の素スタジアムを本拠地としているFC東京には動員力で劣り、ホームゲームでも観客が集まらないから新国立競技場なんてとても無理。だからやっぱりヴェルディの移転は現時点ではあり得ないんで、それの当て馬として鹿島を引き合いに出したってことではないだろー。

 だいたいが鹿島でもって盛り上がってファンも大勢居るチームが、東京に移転したからといって鹿島の人が毎試合、やって来るはずもない訳で、それならまだ浦和レッドダイヤモンズの方が近いけれども鹿島以上に地域密着のチームが東京移転なんてあり得ない。やっぱりFC東京? ってことになるけどそこだって、味の素スタジアムを常に満杯にしている訳ではなく、Jリーグで圧倒的な強豪って訳でもないから新国立競技場では運営に無理が出るだろう。むしろかつての本拠地だった深川に2万5000人とか3万人規模の専用スタジアムを建てて、そこに本拠地を移してくれた方が東東京にJリーグのチームが出来て町田ゼルビアにヴェルディがある西東京とのバランスがとれるってものだ。

 そもそもがかつての国立競技場を本拠地にしたいと当時の読売クラブが手を上げた時にJリーグはそれは出来ないと引き下がらせ、本拠地がない東京では参入できないと川崎の等々力競技場を本拠地にあせてヴェルディ川崎だなんて名前でもってスタートさせた。もともとが稲城市に本拠地のある読売クラブが川崎で熱心な活動ができるはずもなく、地元だって応援しづらい中で地元に工場がある富士通が川崎フロンターレを立ちあげ、そのまま川崎に密着したチームとなって今に至る。晴れて東京に戻ったヴェルディは低迷が続いてJ2暮らし。そんな惨状を見ていれば、安易にフランチャイズを映すなんてことは考えないだろう。だからやっぱり莫迦しかいないんだ、政府って。

 ただ現実問題、首都の直下にビッグクラブがないっていうのもサッカーにとって勿体ない話で、これを機会に1つチームを作るか或いは、地方でもてあましているチームを移転させてビッグクラブに育てるとかすれば面白いかも。ほら、江戸幕府を開いた徳川家が出た三河を発祥とする自動車メーカーが応援しているチームがあるじゃないか、あれを持ってきて江戸グランパスとしてもり立てつつ、水戸ホーリーホックとの葵ダービーなんてのを設定すればクールジャパン的に盛り上がるんじゃないかなあ。ならないか。だったら政府に媚びたいミキティが、お金を出したFCバルセロナも日本に本拠地を置くようにして試合の半分を持って来るとかすれば良いんじゃないか。良くないか。かといってヴィッセル神戸ではなあ。どっちにしたって無理過ぎ。誰が考えたんだろう。そしてどうなるんだろう。

 牧野圭祐さんの「月とライカと吸血姫」(ガガガ文庫)を読んだ。旧ソ連みたいな国で、アメリカ相手に宇宙開発やらロケットやらの開発競争をしているようなシチュエーション。目下のところ旧ソ連みたいなところの方が優勢で、スプートニクならぬ人工衛星を打ち上げて成功し、今は人間を宇宙へと送り込み戻す競争をしていて、先に動物を飛ばし戻そうとするも巧くいかない。でも人間では実験は出来ない。さすがにそれは人道に反するから。だったらと、白羽の矢が当たったのが吸血鬼の姫。領土にした地域に古くから暮らしていたけど人間に虐げられ動物のような扱いをされていた。

 吸血鬼だからといって不死身ではなく不老でもなく、心臓に杭を打ち込まれれば死ぬし事故でもやっぱり死んでしまう。しかも暑さに弱い。寒さには強くて夜目も利くようだけれど。そんな吸血姫を宇宙に送り出して無事に戻せれば、人間でも成功するだろうということになった。とはいえ状況としてはやっぱり人間ではない動物扱いされている吸血鬼。だからもしも事故で死んでも構わないという不遇の中にあって、それでも高い自尊心を持ちつつ恐怖も覚えつつ実験に臨む姫の世話を、宇宙飛行士候補生ながら権力者の不興を買って末席に追いやられた青年がすることになった。

 どうして宇宙に行くのが吸血姫でなくちゃいけないんだろう、って設定に瞬間、迷うけけれども人間扱いされてないけれど、人間らしい見た目を持って知性もある存在を置くことで、その世界の感覚では一般に非道とされず、けれども意のある人には非道と見えるギャップを読者にも感じさせ、憤りを誘い成功を願わせることに成功している。コミュニケーションがとれれば情だって移る。それをどう踏まえるか、やっぱり動物だからと切り捨てるか。それが出来ないかところに人の情愛の根源といったものが窺える。実験がどうにかこうにか成功裏に終わったところで、吸血姫が動物扱いされている社会的状況がガラリと変わる訳ではない。実験の成否のその先に訪れるかもしれない悲劇を想像しつつ、そうならない道を考えつつ、そうなってしまう世界を今に置き換え、人間なのに状況として人間扱いされず、弾圧や差別に苦しむ者への理解と慈しみを誘う。そんな物語だ。

 ネットをうろついていたら阿佐ヶ谷ロフトでコバヤシオサムさんや磯光雄さんや湯浅政明さんらが登壇するイベントがあるて分かったんで見物に行く。その詳細については触れられないけれどもひとつ、やっぱり作り手の側が求めるものと作りたい側が求めるものとが変わっていて、そこに作って欲しいファンたちの思いなんかもあってすれ違いの中で多くの無駄が発生しているってことが分かってきた。もっとダイレクトに作りたい側の意識と、作って欲しい側の意識が結びついて作品として成立するようになれば現場が疲弊することもないんだけれど、ただそこでも作り手がこのあたりでと思っても、妙に賢しらなファンが追究した挙げ句に破綻することもあり得る訳で、そこはだから納得と理解も得つつ、作り手が追究したものを受け入れる度量ってのも必要なのかもしれない。でないと現場は破綻して、何も作られなくなるから。そんな感じ。面白かったなあ。また行こう。


【12月29日】 新入社員だった女性が1年目のクリスマスに自殺をして、それが労災と認定された上に労働基準監督署が摘発をして起訴までされたという辞退に電通も、知らぬ存ぜぬ現場の行き過ぎといった態度で受け流すことはやっぱり無理だと思ったか、あるいはよほど人道家で1人の社員が命を絶ったということに衝撃を受け、自分が率先をして身を引くことによってことの重大さを世間に分かってもらおうと考えたか、社長の人が会見をして辞任を発表。残された母親とも話したそうで、ひとまず状況は正常化へと向かっていってくれそうな感じ。

 これで現場が午後10時の退勤では無理だから持ち帰ってそして朝も5時から出勤をしてこなすといった無茶を強要したり、下請けに丸投げをしてそこが夜を徹して働くようなことになったりしたらまったく意味がない。今までだったら泣き寝入りだったけれど、ここまでの重大事に無茶を通せばやっぱりどこかから漏れるだろう。それをやって被るダメージの半端の無さを思えば水面下で今まで以上な過重労働を強いパワハラを繰り出すなんてことは出来ないと考えたい。とはいえそれで改まるくらいなら前に1人が亡くなっている段階で改まっているか。仕事は変わらず逆に増え、それでいてコストを下げるために人が減るスパイラルの中で起こる悲劇を注意せよ。あとワタミ創業者。これを見ても何も思わないのかなあ。思えばとっくに動いているよなあ。

 どちらかといえば心根が暗めで劣等感があって猜疑心も強くて、巧かった姉が吹奏楽を止めて大学に行ってそれも辞めて美容師になるとか言い出して何て勝手なんだろうと思ったり、親切そうだけれど本音を見せない吹奏楽部の先輩を相手に嫌そうな空気を漂わせたりして、なおかつ口を開けば本音がずばずばと出て相手が嫌がりそうなところにも兵器で切り込んでいくヒロインなんてものが、今のこのアニメーションの世界に存在するとはなかなかに貴重だった「響け!ユーフォニアム2」の黄前久美子。最終回を迎えて卒業していくユーフォニアム吹きの田中あすか先輩に、最初は嫌いだったと行ってその理由を蕩々と語ったりして、聞いてなるほどそりゃそうだって田中あすかも思っただろうなあ、そのものズバリだったものなあ。

 でもそうやって切り込みつつ興味を持ってつきまとった結果、田中あすかは母親との諍いはそれとして自分がやりたかったことをとりあえず真っ当できた。結果は全日本吹奏楽コンクールの高校の部で全国大会銅賞だからあんまり良かったとは言えないけれど、長く離れていた父親にユーフォニアムを聞かせ頑張ったと言われたからには当人としては満足だろう。それだけの腕前がありながらも止めてしまうのは勿体ない限り。でもそれで食べていくには本格的に取り組み音大くらいに行かないとやっぱり無理な訳で、一般の大学の部活動レベルからプロになれる訳もなく、趣味で続ける以外はきっぱり、演奏から身を引くのも仕方が無いってことなんだろう。およそ全ての高校の部活動に言えること。運動も。文化であれ。そんな一瞬にかけて高校生活の数年間を潰して平気な心性が、欠点でもありまた美徳でもあるんだろうなあ、日本人の。

 そうか神山健治さんが初期の段階ではプロット作りに絡んでいたのか「シン・ゴジラ」。今さらネットで頼んで多忙な配達員さんの足を患わせるのも、待ち続けて家で寒い中を過ごすのも心が痛むんで、もしかしたらそこなら売っているかもと池袋のP’PARCOの中にあるエヴァンゲリオンストアに行ったら販売中だったんで買った「ジ・アート・オブ シン・ゴジラ」。ダンボール箱に入っていて中もクロス装の箱があってその中に台本とそして本編が入っていて、取り出して手に乗せるとずっしりと多く、そして開くとスチルからシミュレーションのCG画像からプロットからインタビューからぎっしりと詰まって読み応え十分。深く隅々まで読み込めば、どいういう着想からどういったプロセスを経てあの映画が出来上がったか、ってあたりが分かるようになっている。

 映画とかでよくあるキャストさんとかへの話はまるでなく、スタッフばかりの登場したこのインタビューは、現代において映画が1本、それもゴジラという特大級の作品がまったく新しい地平からどうやって生まれて来るあが分かるようになっていて、映画作りにおいて結構な資料となりそう。そんなインタビューではさっそく、総監督を務めた庵野秀明さんのものを読んだけれどもなるほどそこでポリティカルな要素を含んだ現代のストーリーならと神山健治さんに声がかかって、初期の段階でああいった“封じ込め”の要素が作られていたことを知る。ほかにどこまで神山健治さんが口を入れたかは不明ながらも、庵野秀明さんと作ったプロットのたたき台は、ゴジラが上がってきて核攻撃が起こりそうで自衛隊とも戦ってそして封じられるといったニュアンスがしっかり出来上がっている。

 そこにはチェルノブイリ原発を今なお封じ込めている石棺のイメージが重なっているみたいだけれども、やっぱり3・11で被害を受けた福島原発をもてあましている状況も重なっているんだろうなあ。まさしく現代性の風刺。そして政治が絡み世界が動くプロットは、ただしやっぱり人間ドラマめいたものが結構入っていた感じもしないでもないけれど、それ以上に東宝が作ってきたものがドラマに寄りすぎていたため、庵野秀明さんは降りるとまで言ったらしい。でもそこに止まり、樋口真嗣さんも監督として参加して動き始めた「シン・ゴジラ」は、原案を投げる感じでは止まらなかった庵野秀明さんが現場に出てきて役者を動かし、反発も浴びながらそれを樋口さんがなだめつつ、やがて柄本明さんにたいした奴だと言われるようになったとか。

 正しいことを信念を持ってやれば周囲の心ある人たちは必ず分かる。そして観る人にもちゃんと伝わるってことをこれの映画が証明出来たんじゃなかろうか。それは「映画 聲の形」でも「この世界の片隅に」でも言えること。売れ線の要素なんてなくテーマも決して明るくはないけれど、真摯に取り組んだ結果が成功を招いた。そういう映画が増えて行き、なおかつ成績もつていくるようになれば日本の映画も面白くなりそうなんだけれどなあ、テレビ局主導のキャスティング優先なドラマのスピンオフばかりが幅を利かせる時代は終わって、映画が映画らしい主題を持って送り出されてそれを観て、観客が納得の面白さを得る時代。来るかなあ。やっぱりキャスティングと話題性に流されれてしまいのかなあ。

 しかしインタビューに前後して掲げられた、ゴジラの監督を引き受けるってあたりで出した文書の草稿とか読むと、一時期本当に庵野秀明さん、参っていたんだなあってことが分かる。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」をやって空っぽになって、そこから会社にすら行けず1年間、ほとんど家にいたというから相当なもの。前にテレビシリーズの「新世紀エヴァンゲリオン」をギリギリの状況で仕上げて出してしばらく、精神的に参って飛び降りようとすら考えたってことを、放送が終わって数カ月後のSFセミナーに出てきて話していたことがあったけれど、それでもそうやって人前に出てきて喋り、また劇場版を作ることになって動き出して、さらには実写映画からアニメーションからいろいろと手がけるようになっていった。

 その時とはだからまるで比較にならない落ち込みようは、空っぽになってしまったということだけではなく、評判そのものにも何かダメージを食らうようなことがあったんだろうか。僕自身としては新劇場版では「Q」だけが何度も観るのに耐える作品で、前の2作はテレビシリーズを気持ちよくゴージャスに造り直したらこうなるってところが見えすぎていて、何度も足を運ぶ気にならなかった。「Q」はアスカがシンジに向かってにじり寄って窓ガラスをぶん殴るあたりのポーズとか、体のラインとかが観てグッと来るし他にもアスカがいっぱい出てきて嬉しいし、ストーリーも悲劇性が増して寂寥感の中に見終わりつつ、この先どうなるんだろうって期待も感じさせてくれた。だから何度も通ったんだけれど、その先をどう紡いでいいか分からなくなってしまったのかな。でも今は「シン・ゴジラ」を経て動き始めたみたいで、何時になるかは分からなくても動いているならそれは善哉、あとは出てくるのを待って待って待ち続けよう。「シン・ゴジラ」の続きはだからその後で。それも庵野秀明さんが作りたいと思うのなら。

 せっかくだからと蒲田宝塚で「シン・ゴジラ」。たぶん4回目。これで「君の名は。」に追いついたのかどうなのか。「ジ・アート・オブ シン・ゴジラ」を読んだからといって新しい発見があった訳ではないけれど、石原さとみさんの配役にちゃんと意図をもって臨んでいたことも改めて確認されたんで、あのシーンの中で何をのぞまれそれを実行したかが見えたような気がした。ドキュメンタリー然とせず、かといって色気とかを出さずにドラマ性を保つのにはああいった役どころも必要だったんだろう。あとはやっぱりラストのヤシオリ作戦は盛り上がるなあ。蒲田宝塚はもう昔ながらの劇場でスクリーン横のカーテンにスポンサー名とか入ってた。本八幡の劇場にもそんなのがあったけど、もう10年以上も前に廃館となってしまった。シネコン然とせず近場で映画が観られる街の劇場。残って欲しいなあ。暗かったけど。

 「スター・ウォーズ」でレイア姫を演じてアメリカにおける神話の女神となったキャリー・フィッシャーさんが亡くなったと思ったら、その死を悼むコメントを出していた母親で女優で歌手でもあったデビー・レイノルズさんも亡くなられたというから何というかいたましいというか。もちろんご高齢ではあったけれども、コメントを出せるくらいにはしっかりとしていたようで、それでもやっぱり娘の急逝が応えたってことなんだろう。映画としてはやっぱりフレッド・アステアと共演した「雨に唄えば」が永遠に残るんだろうなあ。アニメーション好きからは「魔女の宅急便」の吹き替えで老婦人を演じたらしいってことで、日本ではこちらも大女優の加藤治子さんが演じた役。本職の声優でなくても長い芸歴からすれば演じて足りないところなんてない。「算法少女」の谷素外を演じた森章二さんでも感じたこと。声優アイドルだって今を謳歌している人が、未来を考えるならやっぱり舞台もやり実写にも出て場を広げて欲しいなあ。


【12月28日】 安倍晋三総理大臣がハワイに着いてアメリカのオバマ大統領と真珠湾にあるアリゾナ記念館を訪問したというニュースが流れ始めていたにもかかわらず、ニューヨーク・タイムズがサイトのトップに掲げていたのは女優のキャリー・フィッシャーさんが亡くなったというニュース。言わずと知れた「スター・ウォーズ」のレイア姫で、1977年制作で日本では1978年に公開された最初の「スター・ウォーズ」から「帝国の逆襲」「ジェダイの帰還」と続いた3部作でヒロイン役を演じて全世界の映画ファンの関心を惹いた。

 もっとも、超絶的な美人って訳ではなかったし、とてつもない名女優でアカデミー賞を総なめにしたって訳でもない。「スター・ウォーズ」以外の役は特に知られておらず、それこそ2015年公開の「スター・ウォーズ /フォースの覚醒」で壮年となったレイアを演じるまで、役者としての存在感を米国は別として日本なんかではまるで放ってはいなかった。脚本家として、あるいはテレビドラマの女優としては活躍していたそうだけれど、それでも全米でだって圧倒的な人気を誇っていた大女優っていった雰囲気ではなかっただろう。にも関わらずロサンゼルス・タイムズも一時トップで報じ、ニューヨーク・タイムズは安倍総理の真珠湾訪問よりも上に扱い報じていた。

 それだけキャリー・フィッシャーさん個人というより、「スター・ウォーズ」におけるレイア姫という存在が、それこそディズニープリンセスたちに比肩するか、あるいはもっと上の女神に近いプリンセスとしてアメリカの老若男女の心に存在していたんだろー。ネイティブアメリカンでなければ土地にまつわる神話を持たないアメリカ人にとって「スター・ウォーズ」はもはやひとつの神話であり、その世界に君臨した女神がレイア姫。「オズの魔法使い」のドロシーとか、ニューヨークに立つ自由の女神像に匹敵する伝説的存在の終焉だったからこそ、メディアも大きく取り上げたのかもしれない。

 気になるのはやっぱり“復活”を遂げた「スター・ウォーズ」シリーズでの出番で、すでに撮り終えられたという「スター・ウォーズ・ストーリー エピソード8」にはたぶんそのまま出演することになるだろうけれど、3部作ならその先となる「エピソード9」にはいったい誰がレイア役を演じるのか。そもそもレイアがエピソード9に出るかどうかも分からないし、シナリオに変更が加えられるかもしれないけれど、そのまま登場となるなら代わりに自分がと手を上げる大女優だっていたりするかもしれないなあ、メリル・ストリープとか、ジョディ・フォスターとか。ギャランティよりも「スター・ウォーズ」という神話の女神になることの方が、あるいは女優として名誉って思う人もいそうだし。でもそこはやっぱりCGでの出演になるのかなあ、誰かが演じて顔だけ差し替え。それでモフ・ターキンは蘇った。今度も……。それを寂しいと観るか、未来的と観るか。映画も変わろうとしている。

 そして安倍晋三総理大臣の真珠湾訪問。日本の総理大臣として初ではなく、それをどうやって盛り上げるかって意味合いからアメリカ合衆国と共に訪問するのは日本の総理大臣として初といった言い方を、民放各局が揃ったようにしていて誰かの入れ知恵でもあるんだろうかと浮かぶ勘ぐり。問題はそうやって喧伝する“初”にいったいどれだけの意味合いがあるかってことだけれど、すでに退任が決まっている大統領が横にいようとも、アメリカの人にとってはまた来たかって程度の認識だろうし、横に大統領がいたからって扱いは決して大きくはないところに、日本のメディアが叫ぶようなバリューはないような気がする。ある意味で同盟の確認であり、追悼の意識の継続といったところ。お盆やお彼岸のお墓参りとたいして違わない。むしろ意味合いとしては日本の総理大臣が中国の戦地を訪れるとかいった方が大きいけれど、それを屈辱ととらえる心理ではまずあり得ないだろうなあ。鎮魂だの追悼だのの透けてみえる裏側。だからいつまでも引き摺るんだと知ろう。

 まとめサイトのはちま起稿に大手企業が絡んでいたという話が出て炎上中で、売却されたネット企業のサイトに繋がらない状況も続いているけれど、そもそもにおいてネットを使う人たちが、はちま起稿だの何だのといったまとめさいとなんぞ見もせず触れもせず元記事にこそ価値があると思いネットに向かっていれば、問題が起こることもなく価値が見いだされて買収されて転売されることもない。そうではなく、あれはあれで何か価値があるものだと感じて読む人の多さが価値を支えているのであって、そういう人たちが今のネット利用者の大半であって、だから今まで運営がなされ、大手企業も買収しようという気になった。

 そういうサイトがステマだ何だと騒ぐ人たちが、だったら過去に一切はちまだとか何だとかいったまとめさいとを喧伝するようなことをしていなかったかというと、実はそうでもなくって何か面白そうな話があれば、はちま起稿に限らずアクセスをしてリツイートをして広めていたってことは皆無じゃないと思うのだった。そして今回、もしもどっかのまとめさいとがはちまを叩く記事をあげたとしたら、それをリツイートして喧伝するなら、結局南極まとめサイトが生き続けるという状況は変わらない。もし本当に問題で、息の根を止めたいと思うんだったらそうした反応も含め見ず触れないことだけれど、そうやって意識できる人はやっぱり少数派。大半は面白いから、そして何より便利だからとこれからもアクセスし続けるんだろう。そいういうものだ。誰か僕のサイトを20億円くらいで買ってくれないかなあ。

 三浦弘行九段のスマートフォン参照問題が無実ということになって、さてどうするかとなたった順位戦は三浦九段のこれからの対局は行わず、三浦九段はA級残留を決定として残る降級枠を1人とし、一方でB級からの昇格は2人のままで来期は11人での対局にするらしい。それだと1人余るし、その次の降級は3人になるんだろうかといった疑問も浮かぶけれど、それ以前に対局済みだった4棋士と、そうでない5棋士の間で星勘定に不公平が起きないか。頭が働かないのでよく分からないけれど、三浦九段を全敗として他の棋士を全勝と勘定する訳ではなくすでに三浦九段が1勝している相手には、1敗のままがつくとなるとこれは文句の1つも出そう。

 とはいえそれが渡辺明竜王ってところが微妙で、これを自分の白星とは現状、言い出しづらいだろうなあ。それでバーターってのも差が大きすぎるけれど。というかA級、稲葉陽八段が全勝でこのまま挑戦権を獲得しそう。まだ28歳の俊英だけれど銀河戦で優勝したくらいでタイトル戦への登場は無し。それがいきなりの名人戦で、勢いで佐藤天彦名人に勝ったらこれはニュースだろう。加藤一二三九段の記録を更新して最年少棋士となった藤井聡太四段の、加藤一二三九段を下してのプロ入り初勝利と良い、将棋界にもいろいろと前向きなニュースがあるってことで、是非にこのまま突っ走って欲しいけれど、でも羽生善治さんの復位も見てみたい。どうなるか。

 そしてユーロライブでの上映最終日ってことで長編アニメーション映画の「算法少女」を観に行く。ロビーに監督の外村史郎さんとプロデューサーの三村渉さんがおられたので、パンフレットを買い直してサインを頂く。嬉しいなあ。そして舞台挨拶でずらりと登壇した方を眺め、関流和算の宗統にあった藤田貞資を演じた加藤茂雄さん、そして俳人の谷素外を演じた新国劇役者の森章二さんの話を聞いて2人がそれこそ何十年も前に知り合って、そして同じ長編アニメーション映画で初めてアニメーションの声優をするってことが面白かった。声しかしない人がいる一方で、役者として映画に出たり舞台に立ちづける人もいる。そういう人たちでエンターテインメントは出来ているんだなあ。そして初の声優であっても役者はやっぱり巧いってことも分かった。素外先生、いい味出してた。

 すでにストーリーを知っているんで、安心しながら今回はアニメーションとしての絵を見ていった。思ったのは瞳をめったに描かないキャラクターデザインであるにも関わらず、実に表情が豊かなことで、目の形を変え眉の上げ下げを行い口の形を変化させることであらゆる表情をそこに描いて見せていた。大変だったと思うけれどもそれで感情は描けるし、声が加わることでさらに情感は深まる。人間の察知能力があるとはいえ、そこを使って感情を感じさせるアニメーターって凄いなあ。あとは仕草でもそうした表現は可能で、終わりの方で千葉あきという算法少女のヒロインが、若い男に迫り腕を伸ばしてぎゅっとおしやり、とんとんと叩くあたりに漂う切なさったらなかった。思っていたんだなあ。そのシーンから漂う少女の健気さを、何度の味わいに劇場に通いたいと思ったけれども、当面の上映予定は無し。プロデューサーは諦めてないし出演者の誰も今回を最後にはしたくないと思っていたので、それを汲んでどこかで上映、やってくれないものだろうか。やれば絶対に観に行くから。遠くでも。海外は無理だけど。


【12月27日】 デビッド・ボウイ・ジョージ・マイケル・ジャクソン・ブラウンって名前を1980年代にふと思い立ったなあ。それは1980年代に良く聞いていたシンガーの名前で重なる部分を繋げたもの。ジャンルはまるで違うけれどもそれぞれに独自の音楽を繰り出して人気を誇っていた、そんな中からマイケル・ジャクソンが死に、デビッド・ボウイも死んでそしてまた1人、ジョージ・マイケルまでもが死んでしまった。ソロよりもワム!としてよく見ていて「クラブトロピカーナ」のあのリズミカルでメロディアスな雰囲気が好きだったし、もちろん「ラストクリスマス」も耳にすればピンと来る名曲だった。

 その後、あんまり名前は聞かなくなったけれども海外ではちゃんとソロシンガーとして活躍していたみたい。でもちょっと前の写真が出ていて、相当に太っていて昔日の面影もまるでなかったりして、それが原因で心臓に負担がかかっての心不全だったのかもって思ってる。ずっと気持ちもダウン状態だったらしいし。でもまだ53歳。ここから20年だって歌い続けられたはずだし、その間にまた浮き上がってもいっただろうだけに残念でならない。1度は見たかったか、っていうと違うけれどもテレビで見ていたシンガーを、ライブで見られる環境にあるだけに今度、機会があるならかつて憧れた人たちは、迷わず拾っておく方がいいのかもしれない。ホール&オーツとか。今度いつ来るのかな。

 将棋の三浦弘行九段が、竜王戦の挑戦者に決まりながらも将棋ソフトを参考に指しているんじゃないかと疑われ、竜王戦の挑戦者から下ろされ他の棋戦への出場も停止させられた問題で、第三者委員会が調査して将棋ソフトを見ていたことはなさそうで、そして離席に至っては事実がなかったことが判明。けれども時間がなく、そこで処分を決めざるを得なかったといった話をしたのを受け、三浦弘行九段が弁護士を伴い会見を開いた。聞いていて、ちょっと疑わしいから下がってもらったけど、間違えたんでごめんなさいとは行きそうもない、闇が深そうな案件だってことが見えてきた。

 弁護士の人によれば、そもそもが疑惑だって言うけれど、それを言っていたのは一部の棋士であって、ソフトとの一致率が高い人は他にもいたし、離席していたという事実は存在すらしていなかった、なおかつ挑戦者決定戦の第2局と第3局の時、日本将棋連盟の理事が監視していたことも第三者委員会の報告で明らかになって、それで不審な行動はとっていないと認識したにも関わらず、ソフトを使って指していたと疑うことの方が、単なる邪推に過ぎないじゃないかってことだった。ごもっとも。

 そして日本将棋連盟は、そんな個人的に近い邪推を理由にして三浦弘行九段から挑戦権を奪った。なおかつ出場停止に追い込んで、順位戦で2つの不戦敗をつけさせた。これは大きく、このままでは順位がA級からB級1位に落ちてしまう。棋士の収入としても格としても関わる大きな問題を、単なる邪推でもって引き起こされたんではたまらない、ってのが棋士としての本心だろう。いやいや、それでも出場されたら混乱が起こったって連盟側は言ったそうだけれど、竜王戦については金属探知機でスマホの持込を禁止することが申し渡されていたんだから、そこで混乱が起こる余地はない。

 出場を認めて信頼が傷つく恐れがあったとうのも欺瞞で、そもそも露見していない段階で厳密に処置をして行われた対局で信頼が傷つくはずはない。対局中に疑惑が露見したというなら、そこでは棋士をかばいつつ、調査を行い不審を払う方向に動くのが共に将棋を担うプロ棋士としての態度なのに、最初っから黒だといった判断から是が非でも三浦弘行九段を出場辞退に追い込もうとしてた節がある。なんでも日本将棋連盟では、理事と棋士たちで三浦弘行九段を囲んで、不正行為を指摘して休場届を出すように求めたらしい。文化大革命のジェット機謝罪か連合赤軍の総括か。古ければ魔女裁判に近く認めるまで出さないぞって雰囲気が漂う。

 なおかつ途中で電話を受けたという理事が、会議室へと戻ってきて「竜王戦は開催されないことになった。主催者側の判断で受け入れざるを得ない」と言ったそうで、それには渡辺明竜王も頷いていたという。そんな状況でどれだけの損害だと思っているんだ、分かっているかと責め立てられれば、不正なんてやっていない三浦弘行九段だって、その場ではやむを得ないと頷いたって仕方が無い。なおかつすぐに考えを改め、書面での休場届けの提出は拒んだというから筋金が入っている。そうしていたらなぜか休場へと追い込まれ、なおかつ竜王戦は挑戦者を変えて行われることになった。これには三浦弘行九段も驚いた。

 最初から三浦弘行九段を挑戦者から外すために仕組んだとも思われかねない理事という人の、結果として虚言となった発言は、あくまでも三浦弘行九段の弁護士側が明らかにしたことなんで真偽は不明。ただとても重要な部分なんで、そこはしっかりと明らかにされるべきだろう。お前のせいで開かれないんだからと言われ、もう出ないと言うのも無理はない。でも、お前のせいで開かれないんだから出るなと言われれば、それは違うと言っただろう。そこに妙な作為が漂う。それを言った理事が誰なのか、そして言わせた誰かがいるのかがこれからの争点になっていくんだろうなあ。日本将棋連盟がガタガタになるくらいの騒動が起こっても当然の発言なだけに。

 それにしても、どうしてそこまで三浦弘行九段は嫌われたのか。疑わしいといった話だけなら調べて糺していけばよかったのに、休場まで追い込まれてしまったのには何か理由があるのか、ってこれも邪推だけれど招きかねない。そして結果として無実とされてしまって、日本将棋連盟の権威は大きく失墜した。処分が仕方が無かったかどうかも争点ではあるけれど、無実の人を追い込んだという事実の方が重く、そして大きく責任を問われそう。その責任を誰が取るのか。連盟か。棋士か。騒いだ棋士もいたしなあ。気分としてはこうやってアヤのついた竜王戦はいったん、位を返上してフラットな状態から対局者を2人決め、その間で争わせるのがよさそう。そこに三浦弘行九段が残れなくても、渡辺明竜王も立場はイーブン。仕方が無いと世間だって思うだろうけど、問題は読売新聞社がそう思うかだなあ。さてもどうなる? 真相やいかに? これからも目を離せない。

 そして品川で吉田尚記アナが企画してアニメーションの新番組の予告編を一気に見ると続きが見たくなるかを実験するイベントを見物。とりあえず「幼女戦記」が最強と確信した。冒頭から主題歌を歌うMYTH & ROIDが登場して超クールにシャウトしていたオープニングを聞かせてくれて、そういえば「ブブキ・ブランキ」でも超クールなエンディングを歌っていた人たちだと思い出してこれはライブに行かなくちゃと思う一方、繰り出されたアニメーションは幼女に見えながらも悪魔のような力を持った軍人が戦う話っぽい。いや原作もチラとは読んだけどちょっと追いかけていなかった。設定が見えキャラクターが見え世界観もつかめたんでこれはやっぱり読まなくちゃ。原作がある作品のアニメ化ってこういう効果があるんだよなあ。「境界線上のホライゾン」がそうだった。あの複雑な原作をさらりとキャラも含め動きで見せると途端に原作が読みたくなる。そんな作品の筆頭。あるいはハケンのナンバーワン。

 いやいや負けじと「リトルウィッチアカデミアも登場。「アニメミライ」での第1弾と、そしてクラウドファンディングから登場した「リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード」で見せてくれた独特のアクションとそして魔女っ子の頑張りが、そのクオリティを落とさずにテレビで見られそうでこれは楽しみ。声もいっしょだし。シャイニイシャリオ、格好いいなあ。あとは「この素晴らしい世界に祝福を2」か。予告編は何かシリアスになっていたけどあの原作のどこにそんな展開が。やっぱりのんびりと間抜けな人たちが間抜けをしながらも進んでいくほのぼの異世界ファンタジーになるに違いない。期待。「AKIBA’ TRIP THE ANIMATION」はパンツいっぱい夢一杯。「風夏」も眼鏡お姉さんの下着姿とか出てきそうだし、これも見ていくか。やっぱりそっちか。そういうものさ。


【12月26日】 10位だ10位だ、12月24日と25日という、映画業界にとってもかき入れ時の興業で映画「この世界の片隅に」が前週に続いて10位にランクイン。スタートが10位で10位となって6位から4位に挙がって次は7位だっけ、そして10位まで下がったものの、しっかりとランク内に踏みとどまっていたものの、いよいよ「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」が公開され「映画 妖怪ウォッチ 空飛ぶクジラとダブル世界の大冒険だニャン!」がそれを上回ってさらに「バイオハザード:ザ・ファイナル」が公開されたという週末でありながら、押し出されずに10位をキープしたのは凄いというよりもはや凄まじい。200館300館の規模で公開されてくる映画も多い中、増えてはいたって100館いくかどうかの作品がそれでも圏内に居続けられるのは、劇場にいっぱいのお客さんが詰めかけているからだろう。有り難いなあ。

 NHKの「あさイチ」にのんさんが出たり大阪のテレビ「ちちんぷいぷい」で長い時間紹介されたりと、テレビでの紹介も相次いで週末の動員にブーストをかけたって感じ。こうした口コミが徐々に効き出すこれから上映館数もさらに増えていく感じで、10位は無理かもしれないけれども結構な位置を締めながら年を越すことになりそう。興行収入得もようやく8億円を超えたみたいで目標としていた10億円が見えた。って前の「マイマイ新子と千年の魔法」が1年以上公開してようやく5000万円だった訳で、それに比べれば格段の進歩。それこそ新海誠監督の「言の葉の庭」を抜いてしまった訳で、片渕須直監督もこれでアニメーション監督としても十分に世間に知られた存在になったことだろう。嬉しいなあ。

 一方で気になるのが「ポッピンQ」の出足の鈍さで、それこそ200館とかいった規模で公開されながらも10位に入らないのはやっぱりちょっと拙いだろう。もうずっと前から作品の情報は出回っていたし、映画館で予告編も上映されていたし、声優はずらりと人気者が並んでインターネットでも番組なんかが配信されていた。公開に向けて監督たちも登場して盛り上げようとしたって辺りは過去にも行われた長編アニメーション映画の宣伝手法。あおかつ東映アニメーションというビッグな会社が創立60周年といった記念の年に作ったからには、もっと大きく展開されて良かったはずなのにこの状況って、いったいどこで何を踏み間違えたんだろう。そこがちょっと気になる。

 届くべき相手に届いていたかどうかで言うなら、アニメーション映画なら観に行く人たちには情報は届いていただろう。ここんところ公開されたアニメーション映画でだいたい予告編は流されていたし。ツイッター上にだって情報は溢れて声優さんとかキャラクターの情報は広がっていた。でも、そうした情報を欲しがる層が本当に見たくなる映画だったのか、ってあたりがあるいはズレの正体か。中学3年生の女の子が進学を前に抱えていた悩みを振り切れず、迷っていたところに起こった事件が彼女たちの道を開く。それは同世代なり下の世代の導きとなるきストーリーであって、アニメーション映画なり美少女映画なり有名声優の登場映画を見に行く人たちに受けるストーリーとはちょっと言いづらい。

 だったらティーンが観に行くかというと、自分たちにとって必要な映画かどうかを知る機会が果たしてあったか。口コミを駆動させいてか。「君の名は。」のように原作本を早くから売ってストーリーへの関心を誘っていたか。だいたいが中学3年生が受験勉強の追い込みに忙しい年末年始に公開して見に来てくれると考えていたのか。そんなことを思うとやっぱりマッチメイクにズレがあったと思えてくる。いっそ最初から大人に向けて新しい魔法少女的な戦隊ヒロインアニメーションとしてアピールすればまだ、来てくれたかもしれないけれどそっちを狙っていた感じはなかったものなあ。それでいて映画の終わりにつけたアレは完全に大人の美少女アニメファンを狙っていた。個々の要素は良くても束ねてみたときにどこに向いているか分からない散漫さが、結局誰にも届かないまま圏外へと押し下げたって言えるのか、どうなのか。分析が待たれる。

 もう十分に泣いたと思っていた。涙も涸れるまで泣き尽くしたと感じていた。感動のバケツは流した涙でいっぱいになってもうこれ以上の感涙は起こらないと思っていた。長編アニメーション映画『この世界の片隅に』を見終わって、そして9度ほど見て2016年という長編アニメーション映画にとって特異点とも言えそうな年の感動は、すでに使い果たしたと思っていたし、そう感じている人も世間にきっと多いだろう。でも、渋谷のユーロライブへと観に行った「算法少女」を観終わって、僕は渋谷のセンター街を滲む涙をこらえ、歯をきゅっと食いしばって感動を噛みしめながら歩いている。嬉しさに満たされた心を伴って。

 江戸時代に書かれた和算の書、「算法少女」を題材にして、遠藤寛子さんが1973年に発表した小説が「算法少女」。これが2006年に復刊されて、読んだ脚本家の三村渉さんが映像化したい、実写がダメならアニメーション化したいと動き出してアニメーション作家の外村史郎さんを得て映像化。ようやく2016年末に公開となったものの、場所は『この世界の片隅に』が目下絶賛公開中のユーロスペースのすぐ下にあるユーロライブで、年の瀬も迫った12月25日から28日までわずか5日間の上映、それも1日2回という限られた興行となって、多くに知られないまま、そして観られもしないで終幕となってしまう可能性があったりする。でも観れば誰もが言いたくなる。これは傑作だと。そして勧めたくなる。紛う事なき大傑作の長編アニメーション映画であると。

 江戸時代、安永4年だから1775年4月8日の花祭りから、映画「算法少女」の物語は幕を開ける。江戸浅草観音堂に掲げられた算額を見た千葉あきという13歳の少女が、どうも答えが間違っているとつぶやく。横で聞いた幼い少女が騒いで、算額を奉納した関流和算で学んだ武士が聞きとがめてあきに詰め寄る。1度は引こうとしたものの、自分が学んだ父親の千葉桃三が修めた上方算法を莫迦にされたのが気に入らず、その場で間違いを指摘して算額を奉納した武士をやり込めてしまう。その評判が算法に傾倒する久留米藩の殿様、有馬頼ゆきの耳に届いて、屋敷の姫の算法指南役として出仕しないかといった話がもたらされる。これは大事。そう思い受ける気構えも見せていたところに横やりが入った。顔を潰された関流和算の宗統が有馬の殿様の脇にいて、自分たちにも算法の得意な娘がいて、そちらを雇うようにと推挙する。

 そこは大好きな算法には貪欲な有馬のお殿様。それならとあきも宇多も呼んで御前で算法勝負をさせる。繰り出される難問。受けて立つあきと宇多。その勝負の行方は……といった部分も美少女数学バトルとして楽しめるけれど、物語はそんな勝負のかたわらで進むひとつの企みめいたものが浮かんできて、そこにあきと、そしてあきが旅先で倒れたという老人に薬を届けに来た木賃宿で知り合った、山田多門という武士らしき青年との関係が絡んでち、ょっとしたラブストーリーであり、同時にサスペンスめいた展開が繰り広げられる。山田多門はどうして木賃宿に何度も足を運んできたのか。その理由めいたものにあきがふと気づいてしまったことで、ちょっとずつ惹かれ合ってきていた2人の関係が揺らぎ始める。それとは違ったはかりごとも見えてきて、江戸時代という歴史の上にある時間に生きる大変さといったものが見えてくる。

 どこか絶望にも諦観にも似た空気が漂う中、ひとりの少女が自分の才能を武器にして立ち向かう。算法。その持ち主の千葉あき。彼女の頑張りがあって、そして算法という共通言語を持った者たちの心意気が加わった先に感動と、感涙のドラマが立ち現れてくる。そして思えてくる。良かったなあ。嬉しいなあ。人間は悪人ばかりではないし、権力者が傲慢な人だけではないのだ、きっと。そうしたシチュエーションが、歴史的な状況に沿っているかは分からない。農民が諌言をしようものあら即座に打ち首獄門となるのが普通なのかもしれないけれど、これは小説「算法少女」を題材に21世紀の現代に作られたアニメーションだ。繰り出される物語から僕たちは、権力を持つ者がいったいどう振る舞うべきなのかを学び、才能を持つ者がそれをどう使うべきなのかを学んで、これからの人生に行かしていけば良い。許そうと思うも良し。助けようと願うも良し。得た感動を分け与えることが何より大切なことなのだから。

 インディペンデントアニメーションにも似た絵柄なのは、そういった分野で活動してきたアニメーション作家の外村史郎監督が、たった1人で作画に4年をかけて描き上げたものだからだ。最近の商業アニメーション的な絵柄ではまるでなく、「この世界の片隅に」のような強い存在感を醸し出すキャラクター作画ともまるで違う。平面で、どこか絵本のよう。それなのに実に可愛らしい。そして表情も実に豊か。起こったり、笑ったり泣いたり驚いたりする表情が目の形や口の線などによって描かれて、そうなんだなあと感じさせる。そんなキャラクター描写を支える声も素晴らしい。千葉あきを演じた須藤沙也佳さん。凜として可愛らしくて明るくて、それでいて自分をしっかり持った強さを感じさせる。

 ストーリー良く絵も良く声も良い。そして音楽も。そんな総合の中から紡ぎ出される、少女の才能を生かしての栄達があり、青年の苦衷の中に自分の信じるものを貫こうとする男気があり、江戸の街に暮らす者たちの心意気といったものにも溢れた長編アニメーション映画。観れば誰もがきっと思うだろう。信じるもののために生きようと。得意なことに誇りを持って生きていこうと。そんな映画。必見。アニメーション好きは。そして算法好きなら。でも公開が短いんだよなあ。これをプレミア上映として来年にもどこかでロングランとかやってくれないかなあ。

 おいおいおいおい。三浦弘行九段がもしかしたら不正をやってたんじゃないかってことで竜王戦の挑戦を辞退させられた問題で、日本将棋連盟から委託を受けた第三者調査委員会が調べたところそうした不正の痕跡はなかったとのこと。ってことは三浦九段は無実の罪を被せられ、竜王戦への挑戦という名誉としても金銭的にもとっても大きな利益を得る機会を奪われ、そしてもしかしたら竜王になっていたかもしれないという棋士にとって大きな栄誉を間違いによって阻止されたってことで、これは将棋界にとってとてつもなく大きな問題なんだけれど、当時は疑わしかったんで辞退させるのは仕方が無いだなんて玉虫色の報告も出させて幕引きを図ろうとしている。

 疑われて出るのは嫌だから辞退すると三浦九段が言って、だったら辞退しろと求めたけれども辞退届を出さなかったから引っ込めたって将棋連盟側の言い分があったけれどもどうやらそうではなさそう。だったら完全に無実の罪でもって辞退させた訳で、訴えたら三浦九段が圧勝できそうな気もするし、ありもしない不正の疑いで三浦九段の名誉を傷つけた渡辺明竜王にだって追究は及びそう。とりあえず竜王戦では勝ったもののここで丸山忠久九段が勝っていたらどこにタイトルは渡ったのか。改めて三浦弘行九段の挑戦があったのか。それはないだろうなあ。でも疑いでもって強敵を辞退させた経緯を踏まえるならば、やっぱりその地位に正当性を認めるのは難しい。ここは戴冠を辞退してタイトルを返上し、改めて予選から誰もが参加してタイトルを争うようにした方が、落ち着くような気もするんだけれどなあ。そうも行かないか、主催者にだって面子もあれば金の問題だってあるし。やれやれ。


【12月25日】 クリスマス上等。そして見た「Occultic;Nine−オカルティック・ナイン−」の最終回は、我聞悠太が頑張って頑張って世界を救ったみたいだけれどそのあたり、仕組みがどうなっているかが今ひとつ不明。3度くらい見返して、どういう理屈で他の面々が溺れ死ぬ直前の池へと戻ってそしてひとり、同人作家の西園梨々花だけが孤高を保って行ったり来しているのか、黒魔術代行屋の紅ノ亞里亞はどうなったのかといったところを確かめたい。ともあれ眼鏡美人の編集者の涼風桐子が助かったのは良かった。あるいは時間が巻き戻っているなら箱詰めにされちゃった子もまだ事件に遭わずに生きていたりするのかな。だいたいにおいてハッピーエンド。そして垣間見える悲運の色。それが本当に悲運か否かはこれからの展開で。1クールのアニメーションで治めるコンテンツとも思えないし。

 「Vivid Strike」の方は前週で最終回を迎えたはずなのに、なぜか特番がやっててフーカ役の水瀬いのりさんとリンネ・ベルリネッタ役の小倉唯さんがそろっって登場。リアルな2人がガチでフーカとリンダみたいに殴り合ったりするんだろうかと期待したけど、上坂すみれさんをジャッジに技を競い合うことはなく普通にクリスマスイブの特番として和気藹々と過ぎていった感じ。なあんだ。本編の方はリンネの過去へのわだかまりがすかっと抜けて、ただ強くなることだけが目標だったのが競い合ってより強くなることへ変わったみたいで、このまま行けば結構な選手になりそう。でもフーカだって強くうなりそうだし。そんな2人が上で闘う場面も見てみたいかなあ。そしてやっぱりアインハルト・ストラトスにこてんぱんにされるんだ。能登さん最強。

 クリスマスと言えば思い出すのが今敏監督の「東京ゴッドファーザース」。雪の降る夜に3人のホームレスたちが拾った赤ん坊が3人を過去へと導きわだかまりを解きほぐしていく奇跡を起こす、といった話。2003年11月公開だからもう13年も前のことになるのかと、時の経つ速さを改めて噛みしめる。古い日記に見た記録があったんで引っぺがしてみたらク「描き込まれた冬の東京の街は雑踏から公園から摩天楼からラッシュから、何から何までが見るほどに“東京らしさ”を感じさせてくれるんだけど、オフィシャルガイドの『エンジェルブック』で今監督が言っているように、“エレメント”の重ね合わせが見る人に“東京らしさ”を感じさせているんであって、同じことを実写でロケしてやっても、果たして同じ空気感が出せたかというと分からない」って書いてあって、ちょっとハッとした。

 聖地巡礼のネタになるからなのか、実際の風景をリアルに取り入れたアニメーションが増えていいて、その最たる成功例として新海誠監督の「君の名は。」があったりする。そこに描かれる東京は空があってビルが建ち並び電車が走って人が歩き回ってと、雑踏と喧噪の東京っぽさを実によく表している。でも、ただ風景をそのまま描いたんじゃあの空気感は出ない。映像で撮っただけじゃない絵として加えた何かが、東京以上に東京らしさって奴を醸し出しているとしたら、それは新海監督が掴んだ東京の“エレメント”って奴なんだろう。あるいはより美しく憧れられる東京って奴を作り出す魔法とも。今敏監督が言った“エレメント”とはちょっとニュアンスは違うけど、どちらもゼロから描くアニメーションだからこそ出せるニュアンス。その1人が世界に羽ばたき1人は亡くなって6年。存命ならいったいどんな東京を見せてくれたかなあ。このアニメーション映画の大盛況に何を言ってくれたかなあ。

 せっかくだからと長久手の古戦場跡にできたイオンモール長久手にナムコが作ったVR NAGAKUTE By Project i Can」の様子を見物に行く。前に東京はお台場で運営されていた「VR ZONE Project i Can」が終了となって、そこに置かれていたアクティビティから3つを持ってきたもので、断崖絶壁が迫るゲレンデを滑り降りる「スキーロデオ」に山手線を運転する「VR鉄道運転室 トレインマスター」、そして居ながらにして絶叫のホラーハウスを体感できる「脱出病棟Ω」が並んでいて、そしてだいたいにお客さんがついていた。「トレインマスター」こそ時間待ちがあんまりなかったけれど「スキーロデオ」はだいたい1時間待ちで、そして「脱出病棟Ω」は2人がペアで2組づつ進められるにもかかわらず、3時間待ちの人気ぶりを見せていた。

 鉄道運転シミュレーターはゲームでもやればやれるから、ってのがあるから人がつかなかったのかもしれないけれど、「スキーロデオ」は台の上に載ってスキーをするようなポーズを衆人に見せていること、そして走っているゲレンデがモニターで映し出されていることで、これやってみたいって思わせる効果がある感じ。でも実際にプレーすると足腰の動作は結構厳しいしハイスピードで滑り降りるゲレンデの映像はなかなかに目に刺さる。そして岩に辺り断崖を落ちる経験は心に衝撃をもたらす。終わるとふらふらになるのも分かる。そして「脱出病棟Ω」。これは傍目には何をやっているかまるで分からないんだけれど、プレーしている人が動き叫ぶ感じがやっぱり伝わってきて、ちょっと面白そうって思わせる。そしてやって衝撃を受けるんだ。そんな“怖さ”が口コミで伝わっているからこその3時間待ち。進取の気風に書けた名古屋方面の人にも受けているんだから、ナムコもバンダイナムコエンターテインメントも安心して良いんじゃないかな。

 近所にあった古戦場の跡地とか見たけど古戦場っぽさはまるでない。昔の布陣を小屋まで再現したものがある程度で歴史に残る場所でもこんなものか。とはいえ長篠みたいに馬防柵を立てればそれっぽさが出せる戦いでもないからなあ。謙信と進言が斬り合うような川中島的名場面もないし。だから保存とかせず公園にもしないでイオンモールみたいなのがドカンと建ったのかも。そんな長久手古戦場駅からリニモで戻って藤が丘から東山公園駅へと行って降りたら人が居ない。日曜日でクリスマスなのにどうしてごった返してないんだと見たら鳥インフルエンザの発生に伴う防疫で動物園が閉鎖されていた。なんだそりゃ。このかき入れ時に営業できないのは動物園も周辺施設も辛いだろうなあ。代わりに正月を開ければ良いのに。どうなんだろう。イケメンゴリラにも会えず残念。まあ自分の鏡を見ればゴリラにしては人間ぽい顔がそこにあるから代わりになるか。ならないよ。

 そして全日本女子サッカー選手権大会こと皇后杯はINAC神戸レオネッサが新潟アルディージャレディースを下して優勝を遂げた様子。時間内に決まらずPK戦になったようだけれど弱体化が言われながらも決勝まで残り守り切ったところはさすが強豪。その底力が発揮されれば主力選手が代替わりしてもしっかり残っていけるだろう。我らがジェフユナイテッド市原・千葉レディースを1対0で下して準決勝に進んだ日テレ・ベレーザは新潟に1対0で負けて決勝に進めず、リーグに続いての戴冠とはならなかったけれど、一連の点差を見ると実力は伯仲となって来ているようで来シーズンがちょっと楽しみ。まあベレーザあたりは選手層が厚いから立て直してくるかなあ。ジェフレディースは新鋭育って来るかなあ。男子の方はU−18がプリンスリーグ関東への参入結成戦に勝ったようで県リーグから1つ昇格。そこで残れば栄えあるプレミアリーグへとのぼれるんだけれど、そこまで行けるか。それよりやっぱりトップチームのJ1昇格が必須か。2017年シーズンはジェフ千葉にとって正念場になりそう。またシーズンチケット買って通うかなあ。


【12月24日】 ひとりきりのクリスマス・イブ。それがどうした。安倍晋三総理大臣がハワイにある真珠湾を訪問するというニュースが出た時に、どのメディアもこぞって「現職の総理としては初」といったプレミアムを乗せて報じた。それがあるのとないのとでは、バリューが違うからで当然、発表した側も世界に向かって堂々と“現職総理として初”を歌えるくらいの調査をしていたかと思ったら、直後に吉田茂首相が行っていたことが分かって、それならと真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの上に作られたアリゾナ記念館を訪問するのは、現職として初だと言うようになった。

 だったら最初からそう言えば良いのに、添えなかったのは分かっていなかったからなのか、分かっていてもそれを言うとバリューが下がるからと隠していたのか。前者だったら官邸なり政府の調査能力のお粗末さってものが窺えて、それでよく歴史認識がどうとか言えるものだといった声が出そうだし、後者なら相手がどう言おうとしっかりファクトチェックをして、誤報を起こさないようにすべきメディアの怠慢ってものが浮かんでくる。でもそうしたことへの自省もなく、何となく初っぽいといった雰囲気で押し通そうかと思っていたら、さらに現職では鳩山一郎総理が行き、そして安倍総理には祖父にあたる岸信介総理も真珠湾に行っていたことが判明し、総理大臣としての訪問というバリューは何分割かされてしまった。

 もちろん、その誰もアリゾナ記念館には行ってないけれど、それも無理からぬ話でアリゾナ記念館がまだ存在していなかった。けれどもそれは戦後間もない時期で相手の遺恨も強く漂っていた時期に、敵だったものとして飛び込んでいった訳で今のように同盟が長く続いた中で記憶も薄らいでいる中で行くのとは重さが違う。その行動の決然とした意識を買うならやっぱり過去の総理たちに軍配が上がりそうだけれど、安倍ちゃんをもり立てたい政府も、そして安倍ちゃんが大好きなメディアではそれでも条件を付けつつ“初”というバリューを引っ張って、安倍ちゃんの訪問に何かしらの価値を付けようとするんだろう。

 そんな砂上の楼閣のような無理付けのバリューに頼らずとも、心からにじみ出る追悼の意と、そしてオバマ大統領もかたわらに置いての世界に向けた自省の発信という、行為そのものへのバリューを喧伝すれば良いだけのことなのに、何番煎じかの行為では自分が満足しないのか、吉田総理の件が出てそれならと調べれば分かっただろうことに手を付けないで、今になって外国からの報道に苦い顔をしていそうな雰囲気を漂わせつつ、強引に安倍総理のその行為が尊いといった喧伝を続けるんだろう。あるいは言うべき本心なんてものはなく、上っ面の行為しか示すmのがないのかも。虚しい話。そんな総理を担ぎもり立ててまで政府は、そしてメディアは何をしたいんだろう。何が得られるんだろう。そっちの方に興味が移ってきた。いくらもり立てたってそれで国が滅びれば無意味なのに。

 年末年始は混むし行きたいところもあるんで帰省を止めて今のうちに顔だけ出しておこう、そういえば見たい展覧会もやっているからと名古屋に行ってとりあえず、伏見まで行って荷物をコインロッカーにぶち込み名古屋市科学館の裏にある男前パスタであんかけスパに巨大なハンバーグが載った「アライ」とかいうのを食べる。荒井さんのハンバーグらしい。どこがどう荒井さんかは分からないけれども大きくて美味しかった。それだけでも価値があるのにパスタまで。これは人気が出るはずだ。でも1300円はちょっと高いかなあ。次はおとなしめのミラカンか何かを食べてソースの味を確かめよう。

 そんな科学館のプラネタリウムが入ったドームが、デス・スターっぽいなあと思っていたら、どうやら「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」の公開に合わせてプロジェクションマッピングでデス・スターにしていたらしい。見たかったなあ。東京でもフジテレビのお台場の球形展望台をデススターにしないかな。できないか、スター・ウォーズ関係は日本テレビ放送網がガッチリ握っているっぽいし。「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」の公開を記念した「もうひとつのスター・ウォーズ展」も日本テレビのホールで開催。こんなところにも格差が生まれて来ているなあ。

 そして伏見ミリオン座で「この世界の片隅に」がしっかりと上映されているのを確かめてから、錦2丁目にあるYEBIS ART LABってところで開かれている幸洋子さんの展覧会「移動しよう!」を見る。階段で4階まで上がった場所に行くとそこにはサイケデリックな色合いの映像が流れ切り抜きが飾られアニメーションが上映されている。見慣れた「ズドラーストヴィチェ!」があり「黄色い気球とばんの先生」がありANME SAKKA ZAKKAとかシブカル祭のために作られたジングルみたいな作品がありといった具合に集大成的な展示だけれど、映像を単純に流すだけでなく周辺を切り紙で飾り文字も置いて作品の外側に広がりを持たせてる。

 もとより会話など繰り出される言葉や音声から連想を得た映像が、自在に変幻していくスタイルが特徴的なクリエーターで、単独の表現にこだわらずそこから連想でもってさまざまな表現を加えて多面的で立体的なものへとしようとしている雰囲気。そうしたスタイルは最新作で、MOOSIC LABの作品として上映された「電気100%」でさらに進化した感じ。どこかの銭湯での会話を発端にして、遠くタイの市街地を歩き集めた映像と重なり日常が拡張されていく感じを味わえた。

 サイケな色調の画面は誰かの妄想をビジュアル化したかのよう。それが広がり自在に変わっていく雰囲気は、芸術家の脳内をのぞきこんでいるようでもある。これをVRコンテンツにしたらどんなビジョンがえら得るだろうかとも考えたくなった。きっとクラクラしてくるに違いない。ひとつの画面から周囲にズラしてはみ出し広げて2次元で空間を表現するデイヴィッド・ホックニーを、音声と映像で3次元的にやったらこんなんかなあ、とも思った幸洋子さんの展覧会「移動しよう!」は25日まで。名古屋だけでは勿体ないので東京でもやってくれないかなあ。「ズドラーストヴィチェ!」で声をやってうる栩野幸知さんが来て生で「ズドラーストヴィチェ!」って聞かせてくれたら嬉しいかなあ。

 名古屋に来ているのとは反対に名古屋から東京へと出向いて現役の棋士としては最高齢の加藤一二三九段を相手に、現役では最年少でそして加藤九段が持っていた最年少でのプロ入り記録を更新した藤井聡太四段が対局して見事に勝利を収めたとか。竜王戦の各組予選で持ち時間5時間という本格的な対局で、加藤九段の圧力にも負けず指しきって勝ったんだからこれは本物だろう。いやまあ今の加藤九段はひふみんと呼ばれる愛嬌のあるおじいちゃんといった感じで、昔のような威圧的なオーラがちょい、感じられなくなっているけど、それでも元名人であることは間違いない。そんな九段を下したことはやっぱり評価できるだろう。あとはC級2組をさっさと抜けてA級までどれくらいでたどり着くかが楽しみ。ここでたいていの天才が躓くから。10年後には名古屋に名人位を。


【12月23日】 演奏そのもののシーンはなかった名古屋は白鳥にある名古屋国際会議場センチュリーホールでの全日本吹奏楽コンクールに赴いた北宇治高等学校吹奏楽部。終わって発表を待つ間に表彰される指揮者にそうか、学生から声がかかるのが普通になっているのかとようやく知った。そのどさくさに紛れて好きですと行っちゃう麗奈がなかなか。きっとその気持ちが何かを知っているんだろうけれど、知らないふりでニコニコしながらありがとうだけ言う滝先生の大人ぶりも目立った「響け!ユーフォニアム2」。

 コンクールの成績は銅賞でランクとしては最低ではあったものの、有名なユーフォニアム奏者でもある田中あすか先輩の父親から滝先生を介してメッセージがあって、田中あすか先輩もちょっとは報われたといったところか。でもこれで卒業。あの眼鏡とあの黒タイツがもう観られないのは寂しいので、スピンオフの大学編とか作ってくれたら嬉しいなあ。でも大学でユーフォニアムやるとは限らないのか。というかシリーズとして黄前久美子たちが2年生になって3年生にもなって滝先生の指揮の下、全国で金を取るような話ってあったっけ。ないかなあ。続けると苦労の連続だものなあ。ともあれアニメはひとまず完結か。劇場版の2も作って欲しいかな。

 試写で観てこれは中学3年生という限定された世代に向けつつも、人生において常に直面する迷いや悩みに対してどう向き合うかを改めて考えさせ、人生をもっと前向きにさせようとする優しさに溢れた長編アニメーション映画だと思った「ポッピンQ」だったけれど、何かエンディングの後に付け足しがあるっていう話を聞いて、それならとTOHOシネマズ日本橋に足を運んで公開版の「ポッピンQ」を観に行ったら、なんか映画そのものの位置づけを変えるようなビジョンが繰り出されて気持ちが揺れた。

 言行ってしまえば劇場公開版の物語を単なる前振りであり、前日譚にしてしまうもの。映画本編を見終わって、一時の冒険を経て自分を取り戻し、さあこれから自分の足で踏み出すんだと決めた心を揺るがすようなものだった。なるほど、付け足しの部分を含めてシリーズとして考え、トータルで受け止めつつおそらくはメーンとなるだろう“その後”を考え合わせるなら、これはこれで高校生の魔法少女戦隊VS悪の組織といった、いわゆるオトナ向けアニメーションのシリーズとして成立するだろう。個人的にはそういうアニメーションは嫌いじゃない。

 でも、それは劇場で上映される映画単体として成立していないってことでもある。過去に縛られ、これから進むべき道に悩んでいる中学生の迷いに付け入るように、前を向いて行こう、足を踏み出そうと誘うのは違うんじゃないかなんて思ったりもしたのだった。最初から大きい人向けプリキュアって行ってちょうだいとも。嫌いな自分を見つめ直して好きになり、毎日をしっかり生きていこうというメッセージに得た開放感が、その先で繰り出されるらしい苦難にスポイルされる覚悟があるなら、観ても大丈夫だよとここで改めて言っておこう。

 不起訴が決まってもなおどこか、ASKAへの不審を煽るような報道を続けるワイドショーがどうにも居心地が悪いというか、テレビ朝日でモーニングショーを仕切っている羽鳥慎一アナウンサーなんか、この話題になるたびに警察を欺いたかのようなニュアンスで伝えてASKA側にこそ問題があったかのような空気を漂わせる。警察が検査によって陽性を判断した以上は、それがお茶であってもどこかにやっぱり痕跡があって、なおかつそれを仕組んだのがASKAの側であるかのように言うけれど、でも過去、官憲の側が証拠をいろいろ弄んだ例は枚挙にいとまを立たない。

 今回だって捕らえた以上は陽性反応が出るのが当然といった具合に、それがお茶でもそうしたといった想像ができなくもない。でもそういった方向にメディアもコメンテーターも向かわないのはやっぱり怖いからかなあ。警察への不信感を吐露し、覚えのないことを出された過去から今回も、そうなると想定しそうならないようにしたのにそうなったという状況に、ASKAならずとも恐ろしいものを感じた方が良いような気もしないでもない。ただやっぱり真相は藪の中。陽性反応があったという状況、そして不起訴になったという状況を合わせてそこから類推するしかなさそう。ともあれ今は執行猶予期間が明けて、「On Youre Mark」がちゃんとパッケージで出ることを願おう。出してくれるかな。

 音楽にポップスというジャンルがありジャズというジャンルがありロックというジャンルがありクラシックとうジャンルがあって、それぞれにヘビーメタルだとか渋谷系だとかデキシーランドだとかバロックだとか諸々の細かいカテゴリーがあったりするけれど、Kalafinaをいったいどれにいれるかとなると、それはもう答えは決まっている。Kalafinaはそれ自体がひとつのジャンル、ひとつの音楽なのだ。

 他の誰もやっていない、やろうとしたってできない女性の3声によるコーラスワークがあり、ソロがあって掛け合いもあったりする歌声が奏でるのは荘厳であったり軽やかであったり賑やかであったり静かであったりといったさまざまなサウンド。時に激しくなることもあれば静まりかえった中で凜と響いたりすることもあるその歌声を1度でも耳にすれば、それはもうKalafinaだとしか言いようがないといった気にさせられるだろう。

 そしてそんなKalafinaが、普段のバンドサウンドを得て歌うライブとは違った、ピアノと弦楽四重奏だけをかたわらに歌うそれは同じKalafinaという音楽でも、フェーズなりレイヤーなりディメンションなりが違ったKalafinaだったりする。涼やかに響くピアノと情を醸し出しながら鳴るストリングスに乗せ、人間の声という最高の楽器が紡ぎ出す素晴らしい音の広がり、音楽の空間。そこにひとたび足を踏み入れれば、これはいったい何だといった思いに捕らわれるだろう。

 賛美歌が鳴る教会に似て異なり、声楽が歌われるコンサートホールに近くてもやはり違った音の空間。梶浦由記が作り育てた独特の旋律を持った音楽をWakana、Keiko、Hikaruの3人がそれぞれに特長を生かした歌声でもって歌い上げる空間は、ほかにはない優しさと美しさを持って身を包み込むだろう。そんな場に居られて幸せだった12月23日。ひとりでも平気さ。

 劇場版「空の境界」から「矛盾螺旋」のEDに流れた「Sprinter」をアコースティック版にしてテンポをゆったり目にしつつ歌ったあたりは作品のファンとして嬉しく、同時に和声をしっかりと作り上げるKalafinaの特長も出ていて新しい曲を聴いているようだった。やはり劇場版「空の境界」から「未来福音」で使われた「アレルヤ」はKeikoの声がアコースティックだからかくっきりと聞こえて、その強い芯を感じさせた。それでいて冬の歌を集めた新譜「Winter Acoustic “Kalafina with Strings”」に収録された新曲「やさしいうた」の時は妙に可愛らしい声を出す。いつものように低音から支えるだけではない、リードを取りつつ柔らかさも醸し出す歌を聴かせてくれる。

 Hikaruは表現力への探求が進んでいるようで感情がこもった声を聞かせてくれるし、Wakanaは澄んでそして高い声がどんどんと極まっている感じ。ストリングスやピアノだけで聞かされるその声は本当に人の声なのか、人がこんなに凜として美しい声を出せるのかといった驚きを感じるだろう。ボーカロイドいんだって出せない高くて澄んで整った声。それが生で聞けるコンサートはだから、やっぱり誰もが行くべきだし、そうでないならライブ映像として観ておくべきだろう。それこそテレビで放送すれば、何だこれはと驚嘆すること間違いなし。だからこそ紅白歌合戦のような場で満天下に披露して欲しいんだけれど、今年もお呼びはなかったようだ。残念。

 クリスマスソングもあったりして楽しかった2時間半。でもなかなかチケットが取りづらくなっているのはファンとして行こうとすると厳しいかなあ、幸いにして呼んでいただけたけれど、次はファンクラブに入ってそっちで頑張るか。キャパが広ければ自力で取っていくんだけれど。次はどこで会えるかな。横浜アリーナかさいたまスーパーアリーナで聞かせてほしいなあ。それが出来るKalafinaであることはフェスでの存在感が証明している。あとはだからそれだけの人数を相手に、それだけの空間をKalafinaという音楽で満たすこと。それを体感できれは卒業して良いかな。いや無理か。進歩しているKalafinaに卒業はないのだから。


【12月22日】 東映アニメーションが60周年ってことで23日から宮原直樹監督による長編アニメーション映画「ポッピンQ」が公開されるけれども、それを記念したのか東映アニメーションの60周年そのものの記念なのか、2012年に作られた宇田剛之介監督による「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」がネットで配信されていて観た人たちの感動を誘っている感じ。僕はもう映画館で何度となく観て感想も書いたりして今さら感動とか感涙とか言える雰囲気でもないけれど、それでもクライマックス近くに訪れる疾走の場面はアニメーション史上に残るランだと思って眺めている。

 それは新海誠監督による「君の名は。」で三葉が父親のいる役場へと向かって走る場面で、沖浦啓介さんが作画したシーンにだって負けないどころか上回る。まずは普通に森久司さんがデザインをしたキャラクターの少年と少女が走り、途中から場面が此岸から彼岸へと映ったか大平晋也さんによるとてつもないアーティスティックな絵による背景動画のランになる。観て誰もが驚くシーンだけれどもストーリーを深く知ってそのシーンが彼岸に向かいつつあった少女を此岸へと押しとどめるための黄泉比良坂だと思えば尋常ではないリアルさを持った絵である必然も見えてくる。

 とまあ、そんな理解に及ぶまでには幾度か観る必要もある映画だけど、普通に田舎の少年少女の日常を描いた作品として、観て楽しくなること請負なんで、そうしたところを味わいつつ、だんだんと広がっていく作画的な冒険を感じつつ、クライマックスとかの驚きを得ておばあちゃんという存在のどこか謎めいた雰囲気も噛みしめ、青天狗が言う達観めいたことも心に入れながらとどまれない現実から踏み出して、未来を切り開いていく気持ちを得よう。普通にストーリーでも感動できて、そして作画にも驚ける希代の傑作アニメーション。それが無料で観られてしまうこの機会に大勢が観てファンが増えて、ブルーレイディスクの発売と行ってくれれば嬉しいんだけれど。本当に嬉しいんだけれど。

 両親を失い自らも追われる身となって後宮へと潜入した少年が、女装をして後宮にいつきながらいつか目的を果たそうとするストーリーなら石川博品さんの「後宮楽園球場 ハレムリーグベースボール」という作品があって、後宮に宮ごとの野球チームがあって位によってメジャーからマイナーへとリーグも公正されている中を、後宮で働く女子たちが野球の腕前で立身出世を狙うといった無茶な設定でありながら、それがユニークだと思わせtえくれたのはおそらく、ライトノベルという何でもありのカテゴリーにおいて生み出された作品だからだろう。一種の思考実験、あるいはエクストラポーションといったSFにもよくある思索の中から生まれた、独特なシチュエーションにおける展開や情動の面白さを噛みしめる、といった作品。それだけに、設定をそのまま現実の世界に持って来ることはちょっと難しい。

 だから、篠原悠希さんの「後宮に星は宿る 金椛国春秋」(角川文庫、640円)では後宮に助走して逃げ込んだ少年は野球なんてやらないし、女装がずっと露見することなく見た目は少女のままで在り続けるといったこともない。現実の少年は歳を重ねれば性徴が観られるようになって声が変わりのど仏がふくらみ手足に筋肉がついて背も伸びる。そんな性徴という制約を抱えつつ、それでも星遊圭という少年が後宮に居続けるのには訳があった。一族から皇太子の后を出した星家だったけれど、皇帝の崩御で皇太子が皇帝となってそして星家から迎えた后を皇后にしたことで、一族が皆、殉死をさせられることになった。

 皇帝の外戚として権勢を振るうのが中華的な世界における皇室の常道。けれども「後宮に星は宿る」の舞台となっている金椛国は、過去に外戚が権勢を振るった挙げ句に国を傾けたことがあって、以来、外戚となった一族はすべて処刑ならぬ殉死として先皇の墓に生き埋めにされることになった。それまでしっかりと皇帝に仕え、有能であった父親も母親も兄も誰もかれもが捕まって生き埋めにされようとする中、遊圭だけは病弱だった彼の面倒を見ていた薬師の女性、胡娘の助けも借りて逃げ延び、そして過去に街で出会って働き先を見つけてあげたことがあった明々という少女が、後宮に働きに出ることになったのに着いて、皇帝の足下ともいえる後宮に入り込んで男子であるとも、星公子でるあるとも露見しないよう、しばらく時を過ごすことになる。

 もっとも寝てばかりもいられず、日々の仕事にも精出す遊圭は、胡娘から習い本を手渡されおした本草すなわち薬草の知識を生かしながら、同じ後宮で働く女たちの悩みを解消するようになる。あるいは読み書きの知識を生かした祐筆の役割も担うことになる。もっとも、それで正体が露見しては意味がない。後宮に出入りしているまだ若い宦官の玄月は、叔母にあたる皇后にも似たその面影と、薬草や読み書きといった知識に気づいてひとつ疑いを抱くものの、それで突き出すことはしないでしばらく様子を見る。その間に遊圭は後宮でも長く務めて慕われた初老の女が病気になっていたのを診断し、皇帝にお目見えを頂く算段を付けたりもして、なおいっそうの地歩を得ていく。

 四面楚歌にも近い状態にある少年が、持てる知識を生かし友情にも助けられながら生き延びて復帰を狙うというストーリー。とはいえ奇跡のような展開も、異能の力も存在しないのがライトノベルのレーベルではない一般文庫から出ている本ならでは。遊圭が後宮を逃げ出したくても金が足りず警戒も厳しくて逃げ出せず、かといって居続けるには声変わりや体格の変化といったものがだんだんと起こり始めて難しい。切羽詰まったシリアスな状況の中、針に糸を通すような道を探して足掻く姿に、頑張れと声援を贈りたくなる。それでも迫る危機、そして露見する正体のその先に、いったいどんな謀略が待っていて、遊圭を巻き込んでいくのか。逃げ場の見えない状況、露見すれば殉死は避けられない境遇が変わるとも思えないだけに、そこをくぐり抜ける手段がどうなるかが気になる。たぶん続くだろうから、その時を待って確かめよう、いっそ切り落としちゃうとかするとかどうとか。それで免れられるのかなあ、殉死。

 日本テレビにある日テレホールで明日から映画「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」公開記念の「もうひとつのスター・ウォーズ展」ってのが開かれる、その内覧会を見物に行く。過去の作品をたどった年表みたいなのがあって、日本では1978年に公開された最初の「スター・ウォーズ」のポスターも描かれていて懐かしさにむせび泣く。そういえば日テレの政治部長様が僕とか双子の弟の小学校の同級生で、中学は違うところに行ったけれども「スター・ウォーズ」は連れだって観に行ったっけ。そして40年近くが経ってキャリアにも年俸にも空前絶後の差が生まれた。時って残酷だ。まあでも政治部長では「ローグ・ワン」の展示を見て心躍らせることはないだろうから、そういう魂をずっと持ち続けられるこっちの方が人生としては楽しいのかもと強がりを言ってみる。強がりだなあ。

 展示では5メートルの高さがあるAT−ACTカーゴウォーカーがなかなかに壮観。実物ってのが30メートルはあるそうで、それが5メートルでも見上げるくらいの迫力があって闘ったら勝てそうもないと思わされるだけに、30メートルのに追われた「ローグ・ワン」の面々はきっと戦々恐々だっただろうなあ。スノーウォーカーが登場した「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」でもあの攻撃は脅威だったし。あとはやっぱりデス・トルーパーの偉容か。白いストーム・トルーパーと違って全身黒づくめでデザインも精悍なデス・トルーパーが出迎えてくれる会場。その姿にこれなら真似してみたいって思わせられるけど、ストーム・トルーパーと違ってコスプレ衣装とかまだ出ていなさそう。武装も結構複雑だし。でもファンならあっという間に作り上げていしまうだろう。ワンフェスとかに並ぶかな。


【12月21日】 ようやくやっと「ブブキ・ブランキ 星の巨人」の最終2話を見てすっかりと万流礼央子が可愛らしくなっているのを確認する。姿形だけが女子高生くらいのまま、精神だけが年齢を重ねて荒んでいった礼央子もまた魅力があったけれども、見かけ相応の精神年齢で男子の病室への乱入を嫌がる姿もなかなに魅力的。新走宗也がころっと参っても仕方がなさそうだけれど、そんな礼央子と一希東が付き合ったとしたらいったいどんな感じになるんだろう。母親の親友。そんなことって現実にもあるのかな。ないとは言えないか。20歳くらいなら差があっても結婚している人いっぱいいるし。

 礼央子自身は健康そのものであとは普通に年を重ねていくだけの女の子になったのに、施設から出られず狙ってくる者も多い中でどうやって生きていくんだろう。東が守っているうちに、だんだんと仲良くなっていく? とはいえ東はどうやら力を失っている感じ。そして王武の手足の面々は、残って今でもブブキを使える感じ。そんな彼らはいったい世界に対してどんな位置取りを示すんだろう。明らかに常人とは違った力。けれども敵となるブランキはもう現れないとなるともてあました挙げ句、世界に向かって牙をむかないとも限らないなら世界はそんなブブキ使いを放っておくんだろうか。どうなんだろうか。そこが気になった。

 まあ王武の手足たちはそんな風に自分を暴れさせるとは思えないけれど。ほかの面々も。だからほおって置いて良いのかな。どうやら自身は耐えられそうもなかったギーが、ひとりで突っ走っては自爆したといった感じの「ブブキ・ブランキ 星の巨人」。その途中で少なくないブブキ使いたちが斃れていったのは寂しいけれども、結果として平穏が訪れたのだからここは安心して眠って欲しいと言っておこう。結局は全員存命だった礼央子の四天王では間絶美と石蕗秋人が結婚していた感じで現在妊娠中の様子。けど普段からあんな格好で出歩いているのか間絶美は。似合ってない訳じゃないけれど、普通の世界ではやっぱり浮きそうだなあ。種臣静流いったいどこで何しているんだろう。エンディングのヒロインに祭り上げられていた割には目立たないその去就。謎めく。

 朝の「めざましテレビ」に片渕須直監督が登場して「この世界の片隅に」について喋っていた。フジテレビだと「ユアタイム」とか「みんなのニュース」に続く出演か。って本来だったらもっと前に「めざましテレビ」がのんちゃんを扱っていたはずなんだよなあ、噂だと。でもぐるりと回って公開1カ月後の登場。ここに来ての連続はのんちゃんに頼らずとも大勢が行列を成して見る映画っていうバリューが乗っかったからなのか。そこまで来ないと取り上げられないメディアって言うのも足腰が弱いなあ。自分たちが取り上げることでバリューを作るという役割を蜂起しているに等しいし。有名だから取り上げ有名にする。そんなことしか出来ないからだんだんと流行に取り残されていくんだよ。

 まあ取り上げてくれるだけましか。そうあって有名になればなるほどヒロインとしてののんちゃんも存在をクローズアップされていく。加えてNHKが今ふたたびに「あさイチ」でもってのんちゃんを大フィーチャー。スタジオで生でやりとりをしただけに止まらず、「この世界の片隅に」きっての名シーンともいえる「あちゃー」をスタジオで再現してくれた。これを見て映画を観たいと思った人はいったいどれだけいるだろう。そんな人たちの受け皿として都心部でも丸の内TOEIが「ポッピンQ」が公開される23日以降もちゃんと続映してくれるみたいたいだし、松竹の総本山ともいえる新宿ピカデリーでも24日から上映して、遠く「マイマイ新子と千年の魔法」で人が最初なかなか入らず上映が終わってしまいそうになった屈辱に、リベンジを果たさせてくれる。広がる輪。そして評判の中できっと民放でものんちゃんを捨て置けなくなるだろう。そして爆発。これは行くな20億円。夢じゃなく。

 そんな「この世界の片隅に」が夜の丸の内TOEIで夜に上映さているのを観られる機会が今日くらいだったんで見物に。都合9回目。10回目はクリスマスカードをもらいに行くときか、あるいは年明けの横須賀の舞台挨拶付きになるかなあ。でもって客の入りはなかなか。地下でも350人入る劇場は200人のテアトル新宿より多く。その客席のセンターブロック中段以降がほぼほぼ埋まっていたから150人は入っていただろうか。平日でこれはなかなか凄い。そして女性が多かった。高齢者ではなく20代から40代くらいまでのミドル層。ちゃんと広がっているといった印象。「あさイチ」効果や「めざましテレビ」効果もあるのかもしれない。

 そんな「この世界の片隅に」の30分くらい長い完全版が出来るかもしれないといった報でうん、なんか嬉しいのだけれど同時に今のバージョンのそぎ落とされて輝いている感じがどこか崩れるかもしれないといった不安もあって気分はどっちつかず。リンさんとの絡みがやっぱり復活の鍵となるんだろうけれど、展開上は1度だけの直接的な邂逅であとは雰囲気で会ったかもしれず、会ってないかもしれない空気を醸し出しながら、展開上は一回きりの会話から違った人生を歩んできた2人の女性が瞬間、人生をクロスさせ関係を結んでそして離れていく儚さを感じさせ、それでいて心はしっかりとつながっている嬉しさを感じさせてくれた。

 何度も繰り返し合って深い関係になったということを見せなかったからこそ浮かぶふわっとした浮き世離れした夢の中だったかもとすら感じさせる雰囲気が、周作さんを間に挟んで肉感も伴いながら2人の関係が描かれるようになってしまうことで、俗情がまとわりついてすずさんという存在から漂う純粋さが、崩れてしまわないかといった不安がある。それが原作どおりというならそうだけれど、これは映画だ、1本の完成した映画として作られ織り上げられたタペストリーに、継ぎ足し重ねてはやっぱりどこか歪んでしまうような気もしないでもない。

 たぶんセリフも展開もリズムも今の尺、今の拾われたエピソードの中で練り上げられたものであって、そこに時間でありエピソードを加えるとなると、いろいろと変えなくてはいけなくなるだろう。それはすずさんの声をあてたのんさんの解釈すらも揺るがしかねないし、そのためにセリフのニュアンスを変えなることになるかもしれない。そうなって出来上がった長尺版はたぶん、今のバージョンとは違った映画になってしまうのではないか。それもまた監督の願ったものだというなら歓迎したいし、きっと観るだろう。ただ、今のバージョンに感動して感涙した気持ちとは違った思いを、そこに抱くことになるだろう。長尺版はだから同じ感動を深めるのではなく、新たな感動をもたらすもう1本の「この世界の片隅に」になる。そのことを理解して求めよう、長尺版の製作を。

 実はプレーしたことがない「バイオハザード」だけれど、ゾンビを銃でガンガンと撃ち殺していくシューティングアクションかと思ったら、最新作の「バイオハザード7 レジデント イービル」ではホラーになっている感じ。それをモチーフにして東京ジョイポリスに登場したアトラクション「バイオハザード〜邪悪の館〜」は廃屋の中を探索するといった内容で、真っ暗な中をペンライトの明かりだけを頼りに入っていくと、現れる死体やら怪物やらで神経ゾクゾク。なおかつ謎解きの要素もあって一本調子には進んでいけない。迫る時間と迫る何者かに焦り怯えながら進むと余計に怖さも募りそう。そしてラストに待ち受けるあの衝撃! 詳しくは言えないけれども体験して面白いアトラクション。コラボレーションフードもあるよ。


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