縮刷版2016年12月中旬号


【12月20日】 17日と18日の土曜日と日曜日で集計した映画の週末興行ランキングで「この世界の片隅に」は10位に残ってベストテンにランクイン。7位から下がったとはいえ他にも強力な新作が公開され、それに合わせて数週間目の作品も下がってくる中で押し出されないで踏みとどまったのは、徐々に館数が増えて広がりを見せているからなんだろう。最初の段階でクラウドファンディングの参加者を中心に口込みをして、それに著名人が乗って話題が広がりやがて一般層にも広まって、それを観て口込みの凄さというファクトでメディアも取り上げるようになった。「のん」という偉大な主演声優の存在をオミットしても残る材料でメディアが遡上に載せられる映画となったからには、話題はさらに広がってそしてのんちゃんのテレビ”復帰”もあってぐわっと盛り上がると思いたいけれども、果たして。

 芥川賞と直木賞の候補作が発表されて芥川賞に宮内悠介さんが入っていた。「盤上の夜」とかが直木賞の候補になっていて、「スペース金融道」とかがそれこそ直木賞に輝いたって不思議はなかったのに短編の方で芥川賞に回ったのが意外というか、今や純文学もエンターテインメントも垣根がなくなってきているというか。そして直木賞の方はと言えば冲方丁さん恩田陸さん垣根涼介さん森見登美彦さん須賀しのぶさんとどれも読んだことがある人たち。5年10年遅いって気もするけれど今や中堅からベテランへと至る登竜門と化している賞だけに、ようやくここまで来たってことなのかも。誰がとっても嬉しいなあ。

 中学3年生の卒業に伴う進路への不安や不満や期待や希望を描いたストーリーを持った映画「ポッピンQ」が、12月23日という翌年にすぐ受験も控えた追い込みの時期に公開されて果たして主人公たちと同じ中学3年生は観に行ってくれるのだろうか。そこは迷うところだけれど、高校進学に伴う卒業というイベントは、何も中学3年生だけのものではない。中学に入ったばかりの1年生も、2年生に上がったばかりの少年少女にも、いずれ遠からず確実に訪れるイベント。そこを思いそこに備えて自分というものを見つめ直し、未来というものを考えてみる機会を与えてくれる映画。そう思えばもっと広い世代に届く映画なんじゃなかろうか。

 あるいは高校3年生になって大学進学なり、就職なりに迷っている人たちにとっても、たとえ世代が下の子供たちの悩みであっても、無縁とは言えない。あの時に迷ったり悩んだりしたことを思い出し、そしてどうやってその壁を乗り越えていくのかを観ることで、今の自分を奮い立たせてこれからの未来を選び取る勇気を生む。宮原直樹監督の「ポッピンQ」はそんな風に、世代を限定しないで進路に迷い未来に悩むすべての人に、共通の問いを投げかけ共通の感慨を与えてくれる長編アニメーション映画だ。高知に暮らす陸上好きの中学3年生、小湊伊純は近くに迫った中学卒業と同時に両親と東京に引っ越すことが決まっている。それが不満でごねているけれども伊純には別に心に引っかかっていることがあった。

 陸上部に所属して走ってきた中学生活だったけれど、ライバルともいえる同級生にタイムで負けたことを半ば憤り、自分は怪我のせいで負けたんだと言い張り、後輩を巻き込んで何度も何度も走っても目指すタイムが出ないでいる。苛立つ中で迎えた卒業式の朝、学校とは違う方向へと進む列車に乗ってたどり着いた海のそばの駅で叫んでそして、戻ろうと自動改札にカードを当てたらそこは駅のホームではなく、開けた場所にそびえたった高い場所だった。ここはどこ。そして現れた小さな生き物ポッピン族の1人から聞かされ、そこが“時の谷”でそして“世界の時間”が崩壊の危機に瀕していて、それを救うために“時のカケラを拾った伊純が召還されたのだと知る。

 付いていった先で伊純はポッピン族たちと、そして同じように召喚された柔道を学んでいた大道あさひ、ピアノが得意でコンクールにも出ていた友立小夏、学力優秀な日岡蒼という同じ中学3年生の少女たちと会い、そして“時の谷”を崩壊から救うためには“時のカケラ”を集め、心技体をひとつにするためにダンスを踊る必要があると聞かされる。といってもダンスの経験なんかない4人。おまけに伊純は走ることにこだわりとおびえがあり、あさひは可愛いものが好きなのに父親から柔道、母親から合気道を勧められて迷いの中にあり、小夏はコンクールのような場所で誰かを蹴落として弾くことに迷いを覚えていて、そして蒼は勉強にこだわるあまりに周囲との協調性を蔑ろにしている。そんな4人が揃ってもうまく踊れるはずがない。けれども世界の崩壊が迫る中で、お互いに理解し合い、埋め合いながらだんだんと踊れるようになっていく展開から、自分だけがでもいけないし、誰かのためにだけでもよくない、主張と強調の案配といったものを感じられる。

 そんな4人に最強とも言える、ダンスが得意な都久井沙紀も合流したけれども彼女もグループを組みながらも協調性に乏しく、ひとりぼっちになって逃げ出して公演の遊具の中で鬱屈した日々を送っていた。5人が5人、才能はあっても鬱屈もあってそれぞれに悩みを抱えている。そんな5人の誰かに、あるいは幾人かに自分を当てはめそうだなよねえと共感しつつ、けれどもこれではと思って自分を見つめ直す機会を与えてくれる。そんなキャラクター設定になっている。努力があってそして越えられなかった壁をそれぞれが突破していくカタルシスもあって楽しめるストーリー。ダンスシーンは「プリキュア」シリーズでも見られるように3DCGによって描かれ、2Dの作画とはまた違った雰囲気のなめらかでスタイリッシュなダンスぶりを目の当たりにできる。

 割と淡淡と進んでラストまで来てそしてあっさりと解決してしまうような平板さも感じられないでもないけれど、そこを5人の少女たちによる日常なりダンスなりが埋めてくれるから、観ていて退屈はしない。中学3年生という、少しばかり背伸びをしたがる世代に向けてストレート過ぎるメッセージは逆に届きづらいかもしれないといった思いも浮かぶものの、そうした世代よりも下なりある程度シニカルな思いを卒業した上の世代が観て何かを感じれば良い。誰と言わず誰にでも届いいく可能性を持った映画。それが「ポッピンQ」なのだ。うん褒めてる。

 「LUPIN THE VRD 血煙の石川五ェ門」を観た人が思うこと。それは生ハムが食べたくなるか、生ハムが食べたくなくなるかだ。バルト9の先行上映で観て思ったことだけれど、どうしてそうなのかは詳細に関わる話なのであまり言えない。ただ、とてつもない戦いが繰り広げられて、これをたとえ劇場ででも観て良いのかと恐れに震える。テレビだとたぶん放送できない過激な描写が相次ぐので、劇場で上映される機会を逃さずに観ておけと断じよう。  声について言うなら、栗田貫一さんのルパン三世は山田康雄さんが演じたルパンの物真似にならず、ニヒルな悪党といった雰囲気を醸し出し、次元もどこまでもクールで、峰不二子は本音を見せない詐欺師で、そんな悪い面々に引き摺られて物語もおちゃらけず、エロにもナンセンスにも行かず、ひたすらシリアスでクールな展開が繰り広げられる。その内容は石川五ェ門の挫折とそして再起がテーマ。ヤクザが仕切る賭博船に忍び込んで札束を頂戴していたルパンと峰不二子の前に、どこかから巨体のカウボーイ姿をした男が飛び込んできて暴れ始める。

 名をホーク、人にはバミューダの亡霊と呼ばれるその巨体の男は無敵で、不死身のようですらあって、賭博船を仕切っていたヤクザの親分が巻き添えを食って死んでしまった仇として、追ってきた石川五ェ門をまずは船で軽くいなし、そして逃げるルパンたちを追ってきたホークの前に立ちふさがった五ェ門を圧倒する。神速の居合いにこそ剣士としての道があった五ェ門の剣が、まるで届かない相手に出会って心を壊され懸かった五ェ門。一方でホークの足は止まらず、ルパンと次元を追い続ける。さてどうなるか、というのも見てのお楽しみということで、とりあえず凄まじい戦いが観られることは請け負いだ。


【12月19日】 ナレーションで退場させられ、いわゆる“ナレ死”の状態に置かれた片桐且元が寧々こと高台院のところで座って大阪城の落城を聞くという“復活”を遂げたことも異例だった「真田丸」の最終回。とはいえセリフはなく、この後20日ほどで世を去る訳だから半ば幽冥に脚を突っ込みながらも未練と無念で迷い出たとも言えそう。賤ヶ岳の七本槍とは言いながらも加藤清正は早くに死んで家も残らず、福島正則も改易にあって家名を残せず糟谷武則なんかは没年不詳だったりする。

 そんな中でやっぱり家名は幕末まで残らなかったけれど、ドラマには最終回まで出られただけ、戦国から豊臣を経て徳川へと政権が移る中で重要人物だったってことになるんだろう。脇坂安治や加藤嘉明なんて終ぞ出てこなかったものなあ、「境界線上のホライゾン」では供に大活躍しているのに。そんな且元と高台院をいったい真田信繁変じて幸村はどこで見ていたんだろう。基本として信繁が見たか聞いたかした場面でなければ描かない、っていったスタンスだった「真田丸」では、大阪城の落城から豊臣秀頼と淀殿の自害すら描かれず、最後まで足を引っ張っていた大蔵卿局がどれだけ慌てふためいたか、恐怖に怯えていた淀殿が最後どんな態度を見せたかが描かれなかった。

 だから、若武者に見えて結局優柔不断でしかなかった秀頼の最後はやっぱり優柔不断だったかも分からないまま幕引きが図られた。「真田丸」が真田一族を差す言葉だっらその船を引き継いでさらに数十年をこぎ続けた真田信之の生涯を、最後まで描くべきだったとも思うけれども、大坂冬の陣で真田丸が命名された瞬間にタイトルが「真田丸」として出された段階で、タイトルは固有の砦を意味するものとなって、その崩壊とともに番組も終わっていったんだろう。

 そんな幸村が単機で徳川家康まで迫って単筒を向けて撃つなら撃てとばかりに立ちあがった家康に対して1度はし損じ、2度目を構えてこれで終わりかと思われたところに息子の秀忠が加勢して幸村が倒れるのを、家康が喜び遅いぞを声をかけたところはやっぱりこの男の周到だけれど小心な様も窺えたというか。正々堂々の真っ向勝負を邪魔され怒るとかしないんだから。まあそれも含めて家康って存在、だからこそ戦国乱世を生き延び幕府を打ち立て豊臣も滅ぼし300年の政権を盤石なものにできたんだろう。

 そういうことも教えてくれた大河ドラマ。この後に生き延びた幸村という可能性がないならば、あるいは信之が徳川政権下で以下に重用され、けれども子には恵まれず争いも起こる中、苦労する様を描く続編めいたものもあって良いのかな、面白くないかなあ。幸村の妻子が伊達家家臣の片倉家で命脈を保つ様とか、あってもそれもダイナミックではないし。これで終わりが正解か。それでも面白かった1年間。ありがとう三谷幸喜さん。

 村上隆さんがもう結構な間作り続けている「6HP」の放送が、12月30日にTOKYO MXであるらしい。枠は1時間。けれども完成すらしていない映像が22分間あるだけという、本来だったらテレビシリーズを目指していたはずがこの体たらく。あとはメイキングみたいなものとか言い訳の映像とかで繋ぐらしい。これが商業アニメーションだったら、昨今の“アニメはなぜ落ちるのか”話と搦めつつ、ヤシガニだとかキャベツだとか無限ナルトだとかマリンエクスプレスだといった、過去の負の伝説に比肩しうる話として大騒動になるだろう。

 ただ、現代アーティストがアニメーションという自らのクリエイティブの根底にあるものに挑みつつ、その構造の重厚さに跳ね返されて近づけないまま醜態をさらし、けれどもそれも含めて自分だというメッセージを世に発するべく退かないで進み続ける自爆的で自虐的で、そして自慢の“作品”として語ることも可能かもしれない。態度としてのアート。存在としてのアーティスト。それを世に改めて喧伝する機会となるかもしれないその放送、結果として起こるだろう避けられない悪評や、被るだろう悪名も含めて、どういう経緯をその後辿るか見守りたい。

 3カ月、走り続ければそれだけで上手くなれるものではないけれど、3カ月、しっかりと見続けることによって分かる要点ってのはあるもので、柄本つくしはそんな観察によってどこにどうボールが転がるかを察知して、その場所に走り込んでカバーするという技を身につけた。元より他人の動きや心に配慮しすぎるといった性格が良い方に転がり、また走り続けた体力も加わって柄本つくしを名門、聖蹟高校にあって1年生ながら先発入りさせるくらいの選手へと押し上げた。

 そこに発動するような埋もれていた才能はない。努力と精進。だからこそ見ていて共感できるし、サッカーとしても納得できる。そんなアニメーションだった「DAYS」。面白かったなあ。とはいえまだ準決勝に勝っただけで、残る大一番、東院学園との決勝が残っている。そこで勝っての東京代表。全国に行って戦う権利を得る。そこまで描かれることはあるのか。Comming Soonが出たからにはきっと作ってくれると信じよう。宇田剛之介さんの監督で。

 武上純希さんによるアニメ業界を舞台にしたホラー「呪・アニメ−アニメ・スタジオの怪談−」(μノベルズ)を読み終えた。週末に放送だっていうのに未だに原画を集めて動画に撒いてたりする制作進行が感じる得も言われぬ恐怖を描いたサイコホラーだった。そんなことはない。1980年代の半ば過ぎからあちらこちらに現れた新興のアニメーションスタジオをひとつの舞台に、編集として就職した男性が直面する怪異めいた話から辿っていくという話だった。鍵となっているのはとある魔法少女のアニメで、ミヒャエル・エンデの「モモ」をモチーフにしつつ、少女の魔法使いが頑張って世の中を直していたものの、最後に事故に遭って死んでしまい、そして人間として復活するというエンディングを提示されてた作品だった。

 「ミンキー・モモ」じゃん、ってまあ誰もが思いそうなそのアニメーションは、企画にあがりながらもスポンサーだった玩具会社が潰れ、企画もポシャって関わっていたテレビ局のプロデューサーも死んでしまったといった都市伝説がつきまとっていた。それを復活させたのが主人公の就職したアニメスタジオ。そこでどうにか造り始めてそれなりのものが挙がったんだけれど、放送された第1話を見たこどもたちの間に不思議な現象が起こってちょっとした騒動になる。編集が何か失敗したんじゃないかと疑われるものの、元のフィルムにそうした失敗の後はない。だったらとVTRを見返していて、ザラっとした画面にふっと少女めいたものが現れる気がする。

 それは編集の責任ではなく製作側のサブリミナルでもなく、電波状況がもたらしたノイズだということで片付くものの、他の話数でも時々似たようなことが起こる。いったいどうして。調べていくうちにそれらの原画を同じ作画監督が手がけていたことが分かり、スタジオに尋ねていくと……といった段階で見えるひとつの怪異。そして浮かんでくるのは、日本を救い世界を平穏に導くこともできた日本のアニメが呪いにまみれていて、それは物語では戦争絡みだったといった展開。なるほどなあ。

 ただストーリーの中で描かれるアニメーター残酷物語は、手抜きのベテラン原画マンに言うに言えず、そして自分ならではの味を出したいとひとりで原画を描き直す女性作画監督の執念を浮かび上がらせつつ、そうした手抜きもあれば、まっとうな費用ももらえない業界の問題もあってとアニメにまつわる諸々をえぐり出す。呪いめいたものはもしかしたら苛酷な環境に喘ぐクリエーターの怨嗟かもしれない。今も変わらないアニメーション現場の苛酷に迫りつつ、そんな世界で生きる人たちの矜持めいたものも感じさせてくれる作品。このあと世界はどうなるか。ちょっと興味。

 覚醒剤を使った容疑で逮捕されたASUKAが不起訴処分になって釈放されて、これでプライバシーのど真ん中にあるタクシー乗車中のドライブレコーダーの映像を、強引に頼み込んで公益だからと嘯いて、引っ張って放送したテレビ局なんかも結果として大いにプライバシーを侵害したとして訴えられたら雁首揃えて討ち死にしそう。容疑はあったんだと言おうとも推定無罪の原則でいくならそれは通用しない話。起訴された段階でようやく報じていけば良かったものを、先走って暴き立てた結果が無実とあっては釈明のしようもない。これからどうなるか。落とした信用は拾えないだろうし。

 加えてとりわけドライブレコーダーの映像を引っ張ったと言われるフジテレビの記者が、暴力団関係者から接待を受け自動車の購入のために名義を貸していたと露見。警視庁で暴力事件なんかも担当していた際に知り合ったらしい相手を、暴力団関係者とは知らなかったと言ったところで世間の誰も信用しないし、そうだったとしても不注意の誹りは免れない。なおかつ相手は反社会的と言われる勢力でそうした存在を利したとあっては、公明正大を建前にしなくちゃいけないカジノの運営会社として、相応しいかどうかも問われてしまうだろう。ホールディングスではなく放送子会社の一社員と言って通じる世界じゃないんだよ、カジノって。FBIなんかはそれだけ反社会的勢力との関わりを問うてくる。軽く見てほとぼりが冷めるのを待っていたら取り返しの付かない事態に陥るから、ここはきっぱりと洗いざらいぶちまけつつ、しっかりと身を処した方が良いんだけれど、それだと誰かが責任を取る羽目になるからなあ。それが出来ないからこそのこの状況な訳で。やれやれだ。


【12月18日】 夏のシネカリ映画祭に続いて「エルストリー1976 新たなる希望が生まれた街」。昨日観た「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」からつながっていった「スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望」がロンドンで作られていた1976年のスタジオに集い、撮影に参加していた俳優さんとかエキストラさんが当時、どんな気持ちでいて、そして今、どういう思いを抱えているかを語ってもらったドキュメンタリー。前はコンベンションに集って今もなお、サインを求められるくらいに「スター・ウォーズ」が持つ力の凄さに感嘆したけど、改めて観て誰もが役者という場に憧れ、そして参加し演技をすることに誇りを持っていたってことも見えてきた。

 だからこそ名もないエキストラとして出た人が、それでもサインを求められることに役名のある役者は違和感を覚えているんだけれど、一方でそういうエキストラであっても人気を得られる映画だったってことを際立たせる。タトゥーインでルークを送り出した友人や先輩のシーンがまるまるカットされて、演じた役者もガッカリしたそうだけれど、それが今も語り継がれること事態、やっぱり「スター・ウォーズ」の凄さが見えてくる。観ればきっと出ておきたかったなあと想う人も多そう。それは「この世界の片隅に」のクラウドファンディングに名前を連ねた人をうらやましがる気持ちにも通じるのかなあ。

 言葉には人を動かす力があるし、物語には人を誘う力がある。選りすぐられた言葉によって紡がれた流麗な物語は、読む人をその描かれた世界へと引きずり込んで、そこには存在していないビジョンを見せ、そのビジョンに染め上げ経験もしていなかったことをそうだったかもと思わせる。喋っている過去の経験、あるいは思い出はもしかしたら、人生のどこかで読んだ物語によって刻まれ、植え付けられたものかもしれない。遡って過去にたどり着いても、だからそんな世界はどこにも存在していない。

 栗原ちひろさんの「ある小説家をめぐる一冊」(富士見L文庫)はそんな、物語が持つ力についても物語。出版社に入ったものの真面目すぎる性格もあって壁に当たり、大作家を怒らせてしまった田中庸を見るに見かねて、同期入社の男がある作家を紹介する。名を些々原空野という作家。まだ大学生で3年くらい前にデビューして評判になったホラー作家で、どこか浮き世離れした顔立ちをして着物をまとった少女の姿がデビュー時の写真として残されている。その後、恋愛小説に転じるものの今ひとつ。心に傷があれば良いエンタメが書けるのにと同期に言われ、担当してみないかと誘われた田中庸は、面会の約束を取り付け些々原空野の家を訪ねていく。

 そこは鬱蒼と木々が茂った屋敷で、応接室に通されお手伝いさんらしい人と話をしていたものの、なぜか約束を違えて姿を見せようとしなかった。繊細で気むずかしい神経質な作家なのか。そんな印象も浮かぶけれどもそんな応接室にいた時間にきいた、誰かが倒れるような音が気になり、お手伝いさんの突っ慳貪な態度も引っかかってもしかしたら、些々浦空野はファンに捕らわれ、監禁でもされているのではないかと思い込んで夜、家を訪ねていくと庭先に書きかけの原稿が落ちていた。読むとデビュー作の原稿で、それも出版されたものとは違っていた。続きが読みたい。そう思い歩き、また落ちていた原稿を拾って読んでいった先に見つけたのは、廊下に倒れたひとりの女性だった。

 そして始まる猟奇の物語、かと思うのが普通の感覚だけれど、近寄って介抱するとどうも雰囲気が違う。生きていて、腹を空かせていて眠気にまみれているだけらしい。見渡すと部屋は散らかっていて本を開くと食べかけの菓子が挟まっていると言う体たらく。見かけは美しく繊細そうで、書く物も流麗として深淵な作家の美少女作家の本質は、書き始めたら周りが見えなくなり、食べるのも億劫になるちょっとズボラな女子だったという、そんな逆転の驚きをまずは味わえる。

 ただし書く物の威力は凄まじく、担当になるかと誘われ左側手にしたデビュー作を、田中庸は時間を忘れるくらいに読み耽ってしまった。そこには人を引き込むだけの力があった。さらに目覚めた些々浦空野が話すには、自分が書いたデビュー作のモデルにした男性俳優に不幸が起こったりして、書いたものが現実になる力があるのではないかと思うようになったという。だから書き直そうとして書けないでいたのがここ最近。聞いて田中庸は担当となり、些々浦空野に新しい小説を書いてもらおうと力を付くし、外に取材に連れだそうとする。

 冒頭から些々浦空野のデビュー作として挟み込まれる短編の断片があり、途中で彼女の祖父で幻想作家として名を馳せた笹浦雪知の書いた作品も登場してその幻想的で幻惑的なビジョンが繰り出される。読んで田中庸が引っ張り込まれ、居もしない猫をそこに感じたように他の誰かも些々浦空野の小説なり、笹浦雪知の小説に現実を感じ、記憶として刻んで信じ込んでしまうエピソードがつづられていく。言葉には力があり、物語には魅力がある。そんなことを改めて思わされる物語。そして同時に、いくら繊細そうな美少女作家でも、現実にはズボラで怠惰でそれでいて好奇心も旺盛な普通の女子だということも。映画化されたら演じられるのは誰かなあ。やっぱり広瀬すずさんかなあ。

 日本にこれだけ幽霊がいるのなら、歴史もあって騒動も多かったロンドンに幽霊がいないはずがないと思うのが普通なのに、現地の知り合いからそうではないと聞かされたという親の言うことを真に受けて、池で溺れたことがきっかけで幽霊が見えるようになってしまい、それを信じてはもられないものの引きこもり気味になった次男坊の浅倉柊二郎はロンドンへと留学したらやっぱりいっぱいいた幽霊。けれども買えるに変えれず彷徨っていた時、なぜか日本人の幽霊の少女と出会う。彼女はけれどもどうして自分がロンドンにいるのか記憶を失っていた。行田尚希さん「倫敦幽霊(ロンドンゴースト)バラッド」(メディアワークス文庫)はそんな出会いから幕を開けるゴースト&ミステリー。

 どうやら日本から来た箱に入っていた一種の遺品に思いをつないで倫敦まで来たらしその幽霊。けれども遺品が散逸して、記憶が飛んでしまっていた。取り戻すにはそれらを集め直す必要があると分かって、柊二郎は彼女がなくした記憶を求めて失われた品々を探すことになる。立ち寄ったパブでジャックという名の幽霊と知り合い、連れている犬の幽霊にも会ってそして始まった探索は、劇場で出会った道化の幽霊がかつて観ていたある女優が、新しく劇場を建てたもののその前に知人らしい女の幽霊がいるのが見えて、それを柊二郎も見えると知って払って欲しいと頼まれる。

 幽霊はいったい何を心残りにしているのか。かつて劇場を建てた元女優と競い合っていたこともあって、舞台に立ちたいのかと思って楽屋口に誘ったものの付いてこない。ではどうして。そこにあった友情であり謙譲の想いが心に響く。あるいは死んだ兄の幽霊をかたわらに置く少女を出会い、兄がこっそりと貯めていたお金をいったい何に使おうとしていたのかを調べるエピソード。ほのかに恋心を抱いていたウエイトレスの人によってはささやかだけれど貧民には大変な願いを聞き届け、同時に妹に対しての愛情も見せて兄はすっと消えていく。願いがかなえば幽霊は消える。それはつまり、かたわらにいる日本から来た少女の幽霊も、なくした記憶を得れば消えてしまうこと。柊二郎は迷う。けれども集めて少女に自分を取り戻してもらいたいと願う。

 歴史も伝統もあるロンドンだけに、出てくる幽霊も多彩で時にゴージャスで、死刑が行われたロンドン塔に暮らす幽霊達は歴史の本でも作りたくなるくらいの豪華さ。一方で街にも舞台になったヒーローのモデルがいたりして、大勢の幽霊から讃えられている。けれども消えないのはどうしてか。記憶や想いがそこに残っているうちは、現世にとどまれるらしい。ロンドン塔の幽霊達は処刑もされて、そしてロンドン塔は壊されないから記憶も途切れず存在している。でもパブにいて柊二郎を助けた幽霊は、思い出の場所が消え記憶を失っていた。それでも世間は彼をヒーローと知っている。このギャップ。普通だったら気もおかしくなるところを、受け入れ幽霊として存在続け人を救う姿に“義賊”の誇りを感じる。記憶があろうとなかろうと、良い奴は良い奴。そういうことで。

 クリスチアーノ・ロナウドが飛び出す。クリスチアーノ・ロナウドにボールが渡る。クリスチアーノ・ロナウドの足下にボールが収まる。クリスチアーノ・ロナウドが脚を振る。クリスチアーノ・ロナウドがゴールを決める。そんな決まり事でもあるかのように延長戦であっさりと、2得点を奪ったクリスチアーノ・ロナウドがクラブワールドカップの決勝戦におけるMVPであることに間違いは無いし、そうしたプレーをいともあっさりと機械のように決めてしまえるクリスチアーノ・ロナウドが世界最高峰の選手であることに異論がない。だったらそのクリスチアーノ・ロナウドがいなかったら、鹿島アントラーズはレアル・マドリードに勝てただろうかとも想ったけれど、ベンゼマの走りにマルセロの縦横無尽な守備と攻撃、そしてモドリッチの突入にイスカのドリブルといった攻撃と、それからセルヒオ・ラモスの体を張った守備をミルに付け、互角以上の戦いはやっぱり難しかったかもしれない。

 逆に言うなら互角の勝負はできていた訳で、そこから紙一重の部分で勝利を得られた可能性もあるにはある。あのファブリシオのシュートが決まっていたら、鈴木のヘディングが枠に飛んでいたら等々、チャンスはあってそれを得られるかはやっぱり紙一重。一方で曽ヶ端が何度も止めた相手のシュートも決まっていた可能性はあって、そんなお互いの紙一重が切り結んで互角だった中に一頭抜けたクリスチアーノ・ロナウドの存在が勝負を決めたと言って良いだろう。正確なトラップに抜群の位置取り、そしてぶれない体幹。それがあるからもう10年以上、世界のトップクラブでトップの位置に居続けられるんだろう。そしてこれから5年は確実にやってくれそう。それだけの偉大な選手がFIFAバロンドールでリオネル・メッシ選手より獲得が1回少ないというから世界は広い。同時代にこれだけの偉大な選手が2人そろったことってあったかな。そんな2人が同じチームにいたら。いないからこそ競い合うんだけれど。いつか観たいその邂逅。でも無理かなあ、レアルとバルサでは。入れ替わるとか? いつかのハンセンとブッチャーみたいに。


【12月17日】 国という存在が体面を保つためには、その主権において領土とした場所を絶対に守り抜くという意志が不可欠で、奪われたのなら取り返すために全力を尽くし、そして果たせなくても尽くし続けるという態度が求められる。アルゼンチンにフォークランド諸島を占領されたイギリスはだから、はるばる大西洋を南下して軍隊を派遣し、奪還してのけた。あんな遠隔地にあるし島のひとつくらいという声もあっただろうけれど、侵略めいた行為を認めてしまえば、それが他の領土にも波及しかねないし、だったらうちもと攻勢に打って出る国々が現れて、世界の秩序が乱れる。ならばと頑張って取り返したことに、世界は大きな非難をしなかった。サッカーの現場では結構ギスギスした関係が続いたみたいだけれど。

 そんな大前提も、長い時間を経るとちょっと様子が変わってくる。何十年にも及ぶ実効支配を認めてしまった果てに、相手側の政治的経済的社会的な基盤がその地域に出来てしまい、歴史も生まれてしまってからさあ取り返すぞといって腰を上げても、相手はなかなか応じない。応じられるはずがない。そんな場所にだったらと軍隊を派遣したところで、世間からは逆に侵略だと見なされてしまう。法律がどうとか条約がどうとかいった手続き的な問題は脇において、それなりに落ち着いた空気に波風を立てることを良しとしてまっては、やっぱり世界が混乱する。だからもう動かしがたいと見なした上で、領土としての主権は棚上げしつつ、実質的にどこまで話を進展させられるかを探り、頑なな状況を動かそうとするのは、決して悪いことではない。

 ソ連に占領されて今はロシアが持っている北方領土が、もはや帰ってくる見込みがないだろうことは、誰だって薄々と感づいている。相手にとっては人が暮らす場所で海洋資源もそれなりにあって軍備の面でも最前線としての意味を持つ。そんな場所を明け渡して国内から受ける反発はいったいどれくらいになるだろう。だから主権は譲れない。そんな相手に対して真正面から返せと言ってこられたのは、ずっと長い間日本とロシア、というよりソ連が仮想的な敵対関係にあって対峙していたからで、進展なんて臨めない中でお互いに主張をぶつけ合うことで、何かやっているといったアリバイ作りは果たせていた。

 それが崩れた。相手は経済的な発展を臨み冷戦を止めて国を開いた。そこに事態が動くチャンスを見いだしたのなら、主権の問題は棚上げしてでも協力関係を気づき、人の移動も認めて実質的にお互いが果実を得られるようにする、といった動きもあって悪いものでなはない。そんな思惑でもって安倍晋三総理大臣が、ロシアのプーチン大統領との会談に臨んで、もはや教条的な北方領土返還は無理だと認めつつ、実を取りに行ったんだと満天下に向けて訴えれば、それはそれで政治家のひとつの身の処し方として理解は及ぶ。

 もちろん、北方領土返還という国是にも近い大前提を捨てたことに非難は起こる。そうした非難を甘んじて受け手でも実質的な利益を取りに行ったんだ、身を犠牲にして名誉もかなぐり捨てて国益の為に自分は頑張ったんだと笑って退いていくような人間だったら、今は非難囂々でも後生において讃えられたかもしれないけれど、そんな殊勝なタマではないから困ったというか、厄介というか。自分が北方領土問題を解決する、長い懸案だった奪還を成し遂げると意気込んでみせて、世間の喝采を集めようとし、けれどもそれが無理だと分かってくると、目的を切り下げてなにがしらの前進があったと世間に思わせようとする。

 そうした安倍総理の見栄っ張りな部分を、メディアも忖度しては信念のもとに臨んだものの、相手のプーチンが頑なだったと言って拙速な交渉が招いたゼロ島返還という状況の“確定”から世間の目をそらそうとしたり、国是を捨ててでも手を組んだのは、中国という大国に向き合うために必要な同盟だったと分析して風当たりを弱めようとしたり。中国を不安の対象に祭り上げ、それを支えるためには北方領土は差し出さざるを得なかったとでも言えそうな施策がどうして売国的な行為と批判されないのか。そこが分からない。

 これで尖閣の問題を棚上げしつつ、東シナ海の政治的安定を目指し経済的な発展を狙って共同開発すると言い出したらいったいどれだけのライトな人たちが声を上げて批判することか。まるで同じことを北方領土でやりながら、それは認める安倍総理の支持者であるとか御用メディアの態度はもはや、心理的奴隷とでも言って言いすぎじゃない。ただそのプライドを見たしたいがためのトップにに群がり、おこぼれに預かろうとする人たちが舵取りを行っていった先にあるのは、いったい何だろう。考えると本当に怖くなる。北方領土はもはや返還されないだろうという前提のもと、取れる果実を取りに行くのが理にかなっているけれど、それを国のトップとして遂行し、怒りのはけ口ににもなって名を汚す覚悟を持たない為政者と、その足下に這いつくばるだけの支持者には早い退場を臨みたいけれど。そうでないならせめて一身に罪を背負って退いて欲しいけれど。

 ストーリーとしては完璧で、感動の大きさも結構なもので、見れば泣いてしまうけれどもそれを是とはしたくない気持ちもあって見終わって考え込んだ「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」。僕たちが「スター・ウォーズ」として知るあの第1作、今でこそ「エピソード4・新たなる希望」だなんて益体もないナンバリングが振られサブタイトルが付けられているけれど、唯一にして絶対の面白さであり迫力であり存在感を持っていた1977年全米公開で、日本では1978年に公開された「スター・ウォーズ」に描かれたことごとくに前段があって、そこには大勢の人々の思いや勇気や意志が存在したんだってことが描かれる。

 登場するなりとてつもない威力を誇って星々をぶっ壊していたデス・スターを、どうやって止めるかが「スター・ウォーズ」におけるとりあえずの目的で、そこにルーク・スカイウォーカーという青年が関わりプリンセス・レイアとの出会いがありR2−D2やC−3POといったドロイドを拾い、ハン・ソロでありチューバッカといった面々と連れだって宇宙へと向かい宿敵ダース・ヴェイダーと対峙した先、目的を果たして彼らは英雄となって表彰される。笑顔の中、喝采に出迎えられた彼らのその誇らしげな態度はけれども、彼らだけでは絶対にもたらされなかった。あっさりとデス・スターの弱点を狙えたのはなぜか。そもそも弱点があったのはどうしてか。そんな疑問に対する答えが「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」にで紡がれる。

 世界を守りたいという男の思いがあり、それが娘に受け継がれて始まった冒険と作戦に共鳴し、共感した人たちがいて成し遂げられたひとつの成果。けれども……。それこそ銅像だって建っていいくらいの大活躍を見せながらも、後のルークでありレイアでありハン・ソロの活躍の陰に埋もれ消えていってしまった英雄たちの、それを英雄的行為と讃えることは感嘆だけれど、認めてはやっぱりいけない気もする。世界ののために差し出して良い命なんてあるんだろうか。そうした行為を称賛して良いんだろうか。だからもうちょっと、モノだけでなくヒトにおいても繋がれる希望が欲しかった。ストーリーがそれで崩れ感動が薄れても。まあ仕方が無い、それだからこそ完璧になったし、感動もした。だからもし、次に「スター・ウォーズ」(エピソード4とか言わない)を観ることがあったら、その背後にいた大勢の高潔な魂に、心からの喝采を贈ろう。勲章は君たちにこそ相応しい。


【12月16日】 シリアで起こる紛争にアサド政権の味方をする形で関わってるロシアの大統領であり、また北方4島を実効支配したまま返そうとしないロシアの大統領が日本にやって来た。会って話すならあの悲惨な日々を送っているシリアの人たちを考えどうにかしないのかということ、そして北方4島についてせめて2島の返還へと至るよう、言質をとることだったはずなのに、安倍晋三総理は生まれ育ってもいない山口県の長門市に地盤だからと呼び寄せ会ったという事実だけを積んで、あとは領土問題の存在すらも言質をとれず現状の上に相手の司法権限の中で日本も1枚かめる状況を作った程度。言ってしまえば相手の領土に金だけ流し込むような後退を、それでも御用メディアは前進と書くんだろう。戦略的でも撤退と良い転進と言った旧日本軍の方がまだましだ。

 どうしてこんなメディア状況になってしまったんだろう。貧すれば鈍してどうにでも稼ごうとして金に群がり言いなりになる。そんなところか。アクセスさえ稼げれば正義だと、宗教団体のマスコットガールがアイドルデビューしたことを書き、偽史として存在は認めてもロマンだとか、共感は抱いてはいけないものを楽しんでいる人たちを取り上げ、日本は昔から優れた文化があるんだと言おうとする新聞もあるしなあ。嘘でも面白ければそれで良いじゃあ、公器なんて捨てそれであるからこそ得られている記者クラブとかのでのアクセス権も返上しろって、ちょっと言いたくなって来た。そこが金の源泉なだけに、絶対手放さないだろうけれど。やれやれ。

 すごいすごい。第71回毎日映画コンクールの候補作が発表になっていて、作品部門にアニメーション映画ながら片渕須直監督の「この世界の片隅に」が入っていた。過去に宮崎駿監督の「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」がアニメーション映画賞とともに作品部門も受賞したことがあったくらいで、今回も受賞できれば久々にして結構な栄冠。宮崎駿監督と因縁浅からぬ片渕須直監督には是非に受賞をと願いたいけれど、候補作には李相日監督の「怒り」があり庵野秀明総監督、樋口真嗣監督の「シン・ゴジラ」があり深田晃司監督の「淵に立つ」があって瀬々敬監督「64(ろくよん)」がある。いずれ劣らぬ硬派でなおかつ世界にも認めらた日本映画の至宝なだけにこれは結構大変そう。どれが取っても嬉しいし。

 それよりも驚きは主演女優賞に「この世界の片隅に」ですずさんの声を演じていた“声優”ののんさんが入っていたこと。普通はやっぱり入れづらいところを敢えて選んで入れたのは、それだけしっかりとした演技を見せてくれたからなんだろう。こちらも蒼井優さん、大竹しのぶさん、黒木華さん、筒井真理子さん、宮沢りえさんといずれ劣らぬ強敵揃い。厳しいのは承知で、それでもそうした名前に並んで声の演技が認められたということをまずは誇りたい。「この世界の片隅に」はほかに監督賞、音楽賞、そしてもちろんアニメーション賞にノミネートされている。どれか取れるかなあ。取って欲しいなあ。

 それは「シン・ゴジラ」も同様か。作品賞のほかに助演女優書うに尾頭さんの市川日実子さんが入り監督賞に総監督なのに庵野秀明さんが入り、脚本賞で庵野秀明さん、撮影賞で山田康介さん、美術賞で林田裕至さんと佐久嶋依里子さん、音楽賞で伊福部明さんと鷺巣詩郎さんとこれもずらり。どれか入って欲しいし入るだろうとは思うけれど。やっぱり美術賞あたりかなあ。200億円アニメーションの「君の名は。」はざっと見てアニメーション映画賞・大藤信郎賞くらいか。その意味ではアニメーション映画の王道だとも言えるけれど、作品賞に並んでも良かったかな。後から来て一気に持っていった「この世界の片隅に」に軍配を上げる評論家が多かったのかな。

 さて毎日映画コンクールのアニメーション賞・大藤信郎賞には学生の卒業制作系な作品もいっぱい入っていて、ICAF2016で観客賞を受賞した東京造形大の顧傑さんによる「I CAN SEE YOU」やこちらも各所で見かける東京藝大院の円香さん「愛のかかと」、武蔵野美大の見里朝希さん「あたしだけをみて」、多摩美大の冠木佐和子さん「夏のゲロは冬の肴」、東京藝大院の?新新さん「夏の女神の口の中」、学生CGコンテストを受賞した多摩美大の岡崎恵理さん「FEED」といったあたりが並んでこれだけで2016年の傑作選として上映会が出来てしまいそう。「おもかげたゆた」の大寳ひとみさんも東京藝大院か。そんな学生さんや元学生に混じって東京藝大院の先生をやってる山村浩二さんお「サティの『パラード』」も入ってたりするから面白い。先生に譲るか奪うか。結果が楽しみ。

 そんな学生の卒業制作系アニメーションに混じって商業で活躍している人たちが日本アニメ(ーター)見本市で手がけた「オチビサン」「kanon」が入ってきているのも面白い。商業の人がアートな方面に挑戦して表現を広げ一方で観る人にもアートな雰囲気を知ってもらえる結節点として働いた企画なだけに、そういう役目を果たしてくれているとしたらば嬉しいかも。でもやっぱりエヴァとかパトレイバー創られるとそっちに引かれていく所があるのも悩ましい。ほか商業作品では「映画 聲の形」や「映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生」「GANTZ:O」「ルドルフとイッパイアッテナ」「レッドタートル ある嶋の物語」が並んだアニメーション映画賞・大藤信郎賞。アート・アニメーションのちしさな学校の作品「puddle」とドームで見る作品「SOLITARIUM」もあって豊かなバリエーションに日本のアニメーションの多彩さを見る。どれも盛り上がってくれると良いな。

 今日が第1章の公開最終日ってことで観に行った「チェインクロニクル ヘクセイタスの閃」第1章はいきなりラスボス戦で、義勇軍をまとめあげたユーリって青年が、黒の王へと迫ったものの届かず、連れていた妖精のピリカを壊されそうになった時に多分ヒロインらしいフィーナが抱えていた、とてつない強大な力を持った年代記の「チェインクロニクル」が光りつつ半分だけ奪われつつする中でピリカは何処かへ。そして力を得た黒の王が攻勢を強めユーリたちはどうにか逃げだし、お姫さまらしい縦ロールのユリアナたちとともにいったん引こうとした道中で、村を一人で守っていたアラムという少年に出会う。

 手癖も悪そうだけれど正義感も強いアラムは身のこなしも剣の腕前もなかなかで、そして不思議とマナっていうエネルギー源を奪ったり与えたりができる。これは世界でも結構珍しいスキル。そしてユーリたち一行に加わる形となってまずは引き、そして新しい義勇軍を立ちあげるべく、さらには消えたピリカを探すべく旅に出た先で、ユリアナを信奉し氏素性の知れないアラムをなぜか目の敵にしていたブルクハルトが揺れ動き、黒の王の配下による攻撃もあって大変そう。ピリカの行方を知るかもしれないと尋ねた三賢人のすみかでは魔法兵団も襲ってきて激しいバトルも繰り広げられる。

 とまあそんな感じに前段となる黒の王が何者で、どうして世界を敵に回していてそしてユーリがどういう経緯から義勇兵を集め、そして仲が悪いとされていたさまざまな勢力をまとめあげて黒の王に挑む軍団を作り上げたのかがまるで分からないまま、そういうものだと理解して見ていく必要があった「チェインクロニクル ヘクセイタスの閃光」第1章。そういうものだと理解できればあとは楽だけれど、それでも出てくるキャラクターたちの関係性も配置もそれなりにややこしく、道中に加わったドラコン殺し使いの男と魔法使いの女が誰でどういう因縁で、そして賢者の配下の魔法兵団にいる紋章を刻んだ男から、おばさん呼ばわりされているかも分からないんで1度見ただけでは大変。でも終わってしまったんであとは来年1月からスタートのテレビシリーズを見て埋めていこう。

 声ではユーリを演じる石田彰さんが、渚カヲルではなくゼロスでもない純粋な正義の味方をやっていてちょっと珍しかったけれど、でも声音事態がいつ裏切るか分からなさそうな雰囲気なんで、あるいは第2章あたりで転んでたりするのかも。それを新顔として加わったアラムが戦って引き戻すといった感じかな。ブルクハルトも含めて。絵はもう全体にハイクオリティで街並みの描写もしっかりしていて人の生きている感じがする。女性陣では弓使いのミンティアさんがスタイルもエロいし今井麻美さんが演じる声も媚びず居丈高でもなく不思議な味があった。魔神エイレヌスを演じていた沼倉愛美さんはエロかったなあ。エイレヌスの格好もエロかったし。

 戦闘シーンはもう迫力たっぷり。多彩なキャラクターたちがそれぞれに見せ場のようなものを持って戦っている姿をしっかりとらえ、ぐわっと見せてくれるからリズミカルなカタルシスを得られる。お話も前段が見えないのはともかく単体としてなら十分に面白い。友情があり猜疑心も浮かび成長があって裏切りもありそう。ドラマチックな展開とエキサイティングなバトルが良い感じに組み合わさっている。女性キャラクターも美人で時々エロかったり。賢人の1人なんて素っ裸に近いものなあ。だからとりあえず映画感で見られて良かった。さらに話が深まって転換点にもなりそうな第2章も、そして完結編として黒の王と対峙するだろう第3章も映画感へと足を運んでしっかり見よう。


【12月15日】 勝ったよ、鹿島アントラーズがクラブワールドカップで南米代表として出場したナシオナル・メデジンに勝ってしまった。それも3対0という圧勝。いくら地球の反対側から来たといっても相手はコパ・リベルタドーレスを制した強豪であり、今年もコパ・スメダリカーナを準決勝まで進んでブラジルから来たシャペコエンセと戦う寸前にまで来ていた。そこで相手が飛行機事故で全滅に近い損害を受け、試合が中止になったことで精神的にもショックだったのかもしれないけれど、一方で実力だけは高いと分かっていたそんなチームに、Jリーグの鹿島アントラーズが圧勝してしまった。これはやっぱりサッカー界的にもニュースだろう。

 J1で決して年間1位ではなかったところから、年間チャンピオンを決める試合で浦和レッドダイヤモンズを破って優勝。それも1戦目は負けたところを2戦目でひっくり返しての優勝だからこれはやっぱり強いというか、勢いに乗っていたようでそのままクラブワールドカップに突入してはオセアニア代表を破りアフリカ代表も破って準決勝まで来てそこで南米代表を退けた。かつて出場を果たしたガンバ大阪も浦和レッドダイヤモンズも果たせなかった決勝の舞台。そこでこちらはしっかり勝ち残ったレアルマドリードを相手に戦うことになる。クリスティアーノ・ロナウド選手もいたりする世界屈指のチーム。プレシーズンマッチでジェフユナイテッド市原・千葉、そして東京ヴェルディと戦ったけれど真剣勝負の公式戦は初だよなあ、確か。そこで勝ったらどんな驚きを世界にもたらすか。いろいろと楽しみ。そんな舞台にいつかジェフ千葉がたどり着く日は来るんだろうか。

 なんでそこまで縛られてるんだろう、って思わないでもない米林宏昌監督の新作映画発表。メアリー・スチュアートって人の原作をもとにした「メアリと魔女の花」って作品になるみたいで、タイトルからして少女と魔女が絡んだファンタジーって雰囲気で、いかにもスタジオジブリがやりそうっていうか、「借りぐらしのアリエッティ」「ハウルの動く城」「ゲド戦記」「思い出のマーニー」といった路線にまっすぐ乗っかって、ジブリマークのど真ん中を突っ走っているとすら言えそう。でもジブリじゃない、ってところが難しいところで、これがジブリだったら、あるいは宮崎駿監督だったらとれるお客も、米林監督ではいったいどれくら行くんだろう。個人的には「思い出のマーニー」は傑作だと思っているんで、50億円くらいのヒット作になって欲しいんだけれど、ジブリでありながらも35億円だったんだよなあ。東宝パワーと「君の名は。」の余韻で集客できるか。ちょっと関心。

 東宝と言えばすでに新房昭之さんを総監督に迎えて「モテキ!」の大根仁監督が岩井俊二監督によるドラマ「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」をアニメーションによって作るとかで、広瀬すずさんに菅田将暉さん宮野真守さんといった一般層にも受けそうなキャストを揃えて「君の名は。」で獲得したティーン層から若い層をこれでかっぱごうとしている感じ。企画は鉄板だしスタッフも興味津々だけれど、新房昭之監督といえばどこか書き割り的というか演劇的な空気感でものを描く人だけに、一般層がついて行けるかどうかちょっと心配。

 一方で岩井俊二監督はまだドラマっぽさを残しているから、そこの間を熱さも醸し出せる大根仁監督が繋ぐのかな。見ていなかった「花とアリス殺人事件」をやっと見て岩井俊二監督のアニメーション力(あにめーしょん・ちから)に感じ入っていただけに、これも岩井作品として作って欲しかったかなあ。まあいいや、子供と大人は「メアリと魔女の花」で、そしてティーンからミドルは「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」で確保。東宝は2017年も鉄板だあ。

 せっかくだからと「CYBORG009 CALL OF JUSTICE第3章」を見てこれでとりあえずコンプリート。したんだけれどいった真の敵は誰だったのか、そしてどうしてそんなことがしたかったのかが見えないまま、ラストまで突っ走っていった感じが否めない。マイクロドローンというか人造の蚊を使ってナノマシンめいたウィルスをばらまいて人類の一部を超進化させつつ95%は死滅させようとする計画が一方にあって、それを阻止するために009と002、そして004といった武闘派が衛星へと上がって戦いを繰り広げる。

 そこでいつもながらのスリリングな展開があって感涙の離別なんかもあったりして、面白かったんだけれどどうして今、その時点で教授とやらがそれをやろうとしたのかが分からない。過去数千年の間にそういう機会なんていつでもあっただろう。思いだって浮かんだだろう。それなのに……。そしてエンペラー。同様になぜかいきなり目覚めて人類から記憶を奪ってただの傀儡にしようとする。言語すら扱えないくらいに後退させたらそれはもうただの動物で、そうしてしまってまで人類を新しい次元へと導くとか関係ないじゃん、いっそ滅ぼして自分だけが生き残れば良いじゃんとも思わざるを得ないけれど、そうやって真っ白な地平にたったひとりだけ取り残されると、孤独に怯えて震えていてもたってもいられなくなるみたい。

 なんていう惰弱。結局のところ大勢の中で王様として讃えられたかっただけという、そんな小さい人間が3000年を生きてエンペラーを気取っているんだから可笑しいとしか言いようがない。ブレスドってそんな変人の集まりか。結局のところ心の中の思いを見せた森の老人だけがまともだったってことなのか。ブレスドたちの間をつなぐカテリーナはブレスドだったのか。さっぱり訳が分からない。そんなカテリーナもぴちぴちの衣装で下半身とか見せてくれてふくらんだお尻とか平らな下腹部とか見る人をそそってくれたけれども、エンペラーに能力を使われ記憶を奪われ、そして握られ落とされてあっさあり絶命。勿体ないったらありゃしない。

 それで009が何かとてつもない能力を覚醒させたかと思ったものの、加速の果てに言ってしまって戻ってこないというだけ。まあ時間を巻き戻すなんてことは土台無理で、幾つもある未来を瞬時に見てそして最善を選んでいただけなんだろうなあ。第3章になてかろうじて、表情とかは豊かになった気もしたし、宇宙ステーションでの言葉による戦いではなく地上に降りてからの国連のガーディアンやエンペラーを相手にしたバトルはスピーディーで迫力もあって楽しめた。バイクを駆って走った003は何の役に経ったかというと、バイクにまたがったお尻を見せてくれたからそれはそれで。彼女も下半身がエロかったなあ。そういう意味では女性キャラクターに見どころがあったシリーズかも。最前列の真ん中から見上げるようにして観ればそんな下半身がグッと迫って良い感じ。なんていう見方だ。でもそんな楽しみがあるだけまだ良いか。うん。

 AnimeJapan2017のステージとかコラボとかいろいろな発表があるんで池袋のアニメイトへ。遅れていくとエレベーターが混んで9階までを駆け上がらないといけないんでそれは死ぬんで早めにいってエレベーターで上がって会場へ。そして発表を聞いてまだまだ発表されていないステージが多くありそうでこれからの発表が楽しみ。コラボでは「ユーリ!!! on ICE」が長崎県の波佐見焼きとコラボレーションしたカップが出来るそうでこれは注文する人で大行列が出来そう。「ツキウタ。 THE ANIMATION」の西陣織とのコラボとか、「LUPIN THE 3RD 血煙の石川五ェ門」と唐津焼とのコラボレーションとか「ご注文はウサギですか??」と江戸切子とのコラボレーションとかどれも興味をそそられるけれど、どんな形のものかは見てのお楽しみ。なのでやっぱり行かないと。


【12月14日】 専門紙というか業界紙といった方が分かりも早いそれぞれの業界に関する報道を専門に行う媒体のうち、おもに旅客運送事業者すなわちタクシーなりバスなりの業界を扱う東京交通新聞が立て続けにとてつもないスクープを。例のミュージシャンASKAが覚醒剤の使用か所持かで逮捕された一件で、自宅へと戻る時に乗ったタクシーで録られたドライブレコーダーの映像が、テレビ局なんかで流され事件と直接関係のないプライベートな映像を流す必要性があったのかと問われ、顧客のプライバシー保護にも関わる問題としてタクシー会社が攻められ親会社が謝罪した。その時に使われたタクシー会社を報じたのが東京交通新聞だった。

 そして今度はどういった経緯でドライブレコーダーの映像が流出したのかを詳報。それによるとASKA容疑者が乗ってきたタクシーをそのまま配車してもらって乗り込んだフジテレビの人間が、延々9時間にもわたって確保し続ける中でドライブレコーダーの映像の提供を迫ったという。もちろん最初は断ったけれども報道の自由がなんたらとかいって説得し、責任も取るとまで言い、さらには9時間だなんて長時間を半ば拘束されて密室の中であれやこれや、報道機関なんてところから口を極めて頼まれれば、無理だとは言えない雰囲気も生まれて来る。もうやめて、はやく解放して。そんな気分。

 そしてフジテレビでも報道局がやって来ては提出を求めたからには断りづらい。だから出したといった経緯があるらしい。あるいは警察が押収した上で、半ばリークといった形で報道機関に渡したんじゃないかって話もあったけれど、警察だってポン酢じゃないからプライバシーに関わる映像を巻き上げ出すことはなかった感じ。そしてワイドショーの権限はないけれども言われたことをやらなければ明日からご飯が食べられなくなる下請けが、粘って脅して巻き上げたのでもなかった。報道機関としてのテレビ局が公益性とやらを口にしつつ長時間拘束という手段を使って出させたといった感じ。これはちょっとヤバいだろう。犯罪ではないけれども強引過ぎるその手法は、かつてなら武勇伝になったかもしれないけれど、今の世の中では通用しない。さっそく挙げられ指弾されている中でいったいどんな“責任”を果たすのか。成り行きに注目。

 テレビアニメーション「ブギーポップは笑わない」のオープニングに使われた「夕立ち」が傑作なスガシカオさんの2016年12月14日付けブログに映画「この世界の片隅に」を観た記事が。激賞。のんさんというか能年玲奈さんの声の素晴らしさを描き、そして当時の雰囲気が天候も含め綿密な下調べの上に描かれていることについて触れ、さらにクラウドファンディングを立ちあげてまで資金を集めたことを紹介して、そこまでして作ろうとした片渕須直監督の執念なり気迫が作品全体に大勢を引きつける力になっていると語る。
B  「小説でも映画でも音楽でも、いい作品の裏には『闘志』がある。絶対にやってやるっていう闘志は、物語そのものには現れにくいけど、間違いなく触れた人の心を動かす。こんな時代だからこそ、こういった闘志みなぎる作品が勝ち抜くのだと思うし、そうであることがとても嬉しい」。そう話すスガシカオさん。まさしくそんな映画であって、そして「シン・ゴジラ」にしても「君の名は。」にしても「映画 聲の形」にしても、作り手のこれを描かなくちゃいけないという闘志がちゃんとあったから話題になって、ヒットした。みんな闘ったんだろうなあ。讃えたい。

 そんな映画界の本気ブームを受けて音楽業界も、本気を尊びそんな本気にリスナーも応える好循環が出来たら嬉しいなあ。マスメディアの力が弱りCMとかタイアップとかが効きづらくなっている時代でもあるし、ネットでこれぞという音楽が口コミで広がり世界で話題となって聴かれ還元もある。AmazonプライムだとかAWAだとかSpotifyといったサブスクリプションの音楽配信サービスが、プレイリストという形で誰かのリコメンドなりを元に音楽を提供し、それに共感して聴かれていく輪が産まれて知らず日本の楽曲が遠く欧米で聴かれたりもする状況が、本気の音楽作りへとアーティストを向かわせて欲しいけれど。テレビという場、CMという場を離れた場所でブレイクする音楽の出現が期待される。

 アーミーなルックをした永尾まりやさんのぎゅっとくびれた腰つきと、ボンと出た胸に刻まれた谷間に目を奪われた訳では決してなくて、「おしえて! ギャル子ちゃん」という漫画があってアニメーションにもなった作品の登場人物が、映画について語るコーナーで「この世界の片隅に」が紹介されていると知って、「モデルグラフィックス」の大日本絵画が出している「スケールアヴィエーション」って模型雑誌の2017年1月号を購入。あのギャル子ちゃんが手にクラウドファンディング参加者がもらって配ってと頼まれたカードを持ってテアトル新宿を訪れ映画を観て、いろいろと感じ入っていた様子。グッズを買いながら次は友だちと来るって話していたからオタ子ちゃんやお嬢も連れてくるのかな、いやまあオタ子はきっと観ているから誘って詳細な解説とか聴くのかな。いずれにしても公開中の作品を取り上げるのは初とかで、それだけ広がる応援団の輪にこれもまた感動する。どこまで届くか。広がるか。楽しみだ。

 スタートアップ企業を応援するインキュベーターがVRスタートアップを専門に支援する施設を作ったってんで新川へ。Future Tech Hubという名称のそこにはハイスペックのPCが並びVRヘッドマウントディスプレイも置かれていろいろと開発環境に不足は無し。あとはやっぱり最先端の情報が集まり仲間内での情報交換もできて愚痴も言い合えるといった意識から、スピーディーに悩まず開発に取り組めるって効果も生まれてくるのかもしれない。世界じゃ日々どころか時々に新しい発想が生まれ挑戦が行われているのに、日本は発想から着手までが遅く反対があったらさらに送れて開発に取りかかれない.そうこうしている間に世界では技術が進んで日本は取り残されるという、そんなくり返しをもうここで断ち切らないと未来はない。小さなビルの大きくはないフロアから世界を驚かせるVRコンテンツは産まれるか。見守りたい。

 幾つか遊んだ中ではCOVERってところが出していた卓球VRが楽しかった。HTC Viveで遊ぶタイプで隣に並んだ2人がVRの中では卓球台を挟んで向かい合って会っていて、そして手にしたコントローラーがラケットになて振るとボールに当たってその時にちゃんと感触がある。さらに振り方とか角度によってボールがちゃんとそのとおりに飛んでいく。気分はリアルな卓球と変わらない。これなんて世界卓球の会場で卓球選手に遊んでもらったら、すぐにでも広まるような気がするけれど。あと桜花一門が出していたホラーゲームが、走れずただゆっくりと進んでいくしかない操作性、そして銃もナイフもなくゾンビが現れたら逃げるしかない状況がかえって怖さを増す。戦ったら負けな相手にそれでも逃げることで勝利する。これこそリアルなゾンビサバイバルなのかも。リアルにあったら怖いけど。

 落ちることはあるし落ちた場所は海だし危険は避けられたって意味でそれはそれで真っ当な対応だったと言えるオスプレイ。家のあるところに落ちるかどうかって言われたらそりゃあ飛んでいる限り確率論的にゼロではなくても、100とはいえないところに判断の余地はある。今回に限っては民家のある所に落ちそうになって止められない類のものではなく、特定の条件下でコントロールされながら落ちたとも言える訳で、そういった状況を汲みつつそれでも、心情として不安を抱えて生きるのは辛く、そして必要性の面でも低いからと反対するのが理解を求められる道かどうか。反対の為の反対ではもう勝てないことに気づかないと。とか言ってたらもう1機が胴体着陸。これも危険ではないけど確率的に低かったはずの連続事故が起こったのならやっぱり一度、状況を見直すべきなのかも。どうなることか。


【12月13日】 「号」だろうか「豪」だろうか「合」だろうか「轟」だろうか。いずれにしても「ポケモンGO」の登場を持って世界が右往左往した2016年を表す時に、当て字でも良いから「ごう」という時を持ってきて欲しかったけれども清水寺だか漢字博士だかにそうした配慮はないみたい。かといって「君」では映画の宣伝に荷担するとでも思ったのか、陳腐な「金」が2016年を表すに漢字に決まって世間にひろがるはあそうですか感。リオデジャネイロ五輪での金メダルのラッシュなんかも含まれてはいるんだろうけれど、内村航平選手の個人総合と団体のWメダルを成し遂げた男子体操なり、4連覇を成し遂げた女子レスリングの伊調馨選手なりをのぞくと実はそれほど強い印象にない。柔道も幾人かいたっけか。あと女子レスリングも。

 それでも金メダルは結果であってその時がひとつの到達点であって、広く社会に伝播し影響を与えた言葉って言えはしない。あるいはピコ太郎のPPAPでの衣装はキンキラキンだというおも含んでいたのだとしたら、それも瞬間の喧噪であって1年を表す言葉と言えるかどうかが迷うところ。大きなことが起こるわけでもなく、景気が上向くわけでも下振れする訳でもないままただ沈滞している雰囲気の中で政治家がスタンドプレーに走っては、真っ当な施策を思惑からひっくり返して混乱させ続けた1年、ではあるかもしれない。それならやっぱり「返」だろうか。それとも「覆」だろうか。「覆う」と一緒にとらえてしまうから無理かなあ。来年はもうちょっと明るく前向きで含蓄もあるものにして欲しい。

 胸が痛いというか、心が寒いというか。12月10日と11日の週末映画興行ランキングで堂々の1位に輝いた「モンスターストライク THE MOVIE はじまるの場所へ」なんだけれど、週が明けて劇場の状況を見るとどうにも人が入っているように見えない。予約サイトの座席の埋まり具合を確認すると1つの上映で多くて5人とかそんなもの。当日の夕方であと2時間後に始まる回で1人も売れてない劇場のスクリーンもあったりと、どうにもこうにも見られてなさ過ぎる。割と大きめのスクリーンを当てて日に5回とか上映する劇場もあるけれど、その全部を足してもテアトル新宿での「この世界の片隅に」の1回分に届いてないんじゃないか。そんな印象。

 まあ理由は想像可能で、初日2日目はまだ、ゲームであるところの「モンスターストライク」に関連したサービスを劇場で、それも上映場所なりで得られるといった思惑もあって駆けつけたものが、だんだんと劇場周辺でも得られると分かってシアターに入るまでには至らず、ロビーなり建物の前なりでスマートフォンを開いてチェックはしても、映画を見ようとはしないといったところだろう。ゲームそのもののファンを増やしサービスを提供してユーザーを増やしてくという目的は果たせたかもしれないけれど、アニメーション映画というひとつのコンテンツがおまけにされ、さらには蔑ろにされているようでアニメーション好きとしていはどうにも胸が痛む。

 AKB48の握手券付きのCDだったら、それでも握手券目的でCDが売れるけど、シアター内に入らなくてもサービスが得られる映画だと、わざわざ映画を見ようってことにはなかなかならない。ウエブ版でそれなりに進んでいたアニメーションの過去を描いたものだって、ストーリー的に見させる仕掛けがあったとしても、そんなウエブ版のアニメーションがサービスを狙いとした視聴でストーリーなんか見向きもされてなかった、なんてことはあるのかないのか。あって欲しい話ではないけれど、でも今の劇場の状況を思うとアニメーション映画としての存在に、ひとつの懐疑も漂う。あるいはもったいなさか。

 悪い映画じゃないので、是非に観て欲しいんだけれどなあ。これでコケると劇場だって警戒して、長編アニメーション映画をかけてくれなくなるぞ。早くに引き上げ別に差し替えるってことで「この世界の片隅に」がかかれば嬉しかったりもするんだけれど。そういえば丸の内TOEIで3日からスタートした「この世界の片隅に」の上映が、2週目で大きいスクリーンで1日2回の上映のうち、1回がかかるようになっていたものが17日からは1日3回の上映になって、1回を大きいスクリーンでの上映とし、そして3回目の上映を夕方の6時50分からスタートさえるようになった。これなら仕事を終えた会社員とかが立ち寄って見られる。池袋は遠く渋谷は奥地で新宿はとれない、って人には朗報。それが好成績を収めて、都心部のシネマコンプレックスに上映が広まるなんてことがあれば、待望の10億達成も確実になるんだけれど。さてはて。

 連載が始まった時点で少年少女が集められ、暮らす施設からもらわれて外に出て、幸せになるかと思いきや、とんもない境遇に陥るといった展開に沙村広明さんの「ブラッドハーレーの馬車」を思い出す人も多かった白井カイウさん原作で出水ぽすかさん作画の「約束のネバーランド」。出し惜しみをせず、第1話でもって施設が異星人だか何かのための高級食材の飼育所で、すなわち少年少女が食糧だという悲惨が突きつけられ、それを知った少年少女がこれからどうするか、といった興味を抱いて続きを楽しみにしていた。

 そして登場した単行本の第1巻で、いかに気づかれないようにして脱出しようかと探る少年少女がいて、けれども明晰な頭脳を持った3人は脱出した先に何があるのかといった憶測もっていて、気持ち的にはどこか八方ふさがりといった感じ。ただ、脱出が目的のゲームで脱出先が存在しない、なんてことはないからそこはちゃんとした光明が設定されているんだろう。「進撃の巨人」が戦いの中でやがて押され追い詰められて滅びるだけではないように、って最近読んでないから知らないんだけれど「進撃の巨人」。でも反攻はあるよね、それと同じことが「約束のネバーランド」にも儲けられていると思いたい。あとは明晰な頭脳を持った人間には何か別の役割が与えられているのかも。マザーが人間でありながら生かされ少年少女の面倒を見るよう命令されている。ならば有用な人間というのも設定されているわけで、それが満点の3人なら何を買われているのか。そこが知りたい。次巻は2月で3巻は4月。連続の刊行が今から楽しみ。

 リアルでダビスタ。ってそれは馬主になることなんだけれど普通に馬主になろうとしたってお金がかかるし、一口馬主だってやっぱりそれなりの資金が必要。なおかつ投資した馬が走らなかったり死んでしまったりだなんてリスクもあってなかなか普通の人が覚悟も無しに手を出すことはできない。でもやっぱりリアルに馬を育てて走らせてみたいっていう人に答えたサービスがドワンゴから登場。その名も「リアルダービースタリオン」は「ダービースタリオン」シリーズを手がけた薗部博之さんも協力者として名を連ねつつ、ドワンゴが牝馬を買って種付けをして産まれた仔馬を育てて走らせる、といったものになっている。

 そこにニコニコ生放送とかを通してどの牝馬を狩ってどの種牡馬に種付けをしてもらい産まれた仔馬をどう調教し、どのレースを走らせる、あそして名前をどうするかも決定する。馬主気分。でもリスクはない。そんなサービスはリターンもないけれど、でもやっぱり本物に近い場所に迫れると関心を誘いそう。ただやっぱり死んでしまったら気持ちも沈むだろうなあ。それも含めて馬主に近づけるサービスって見るのが良いのかも。ただ2020年まで走らないでちょっと退屈って人向けに、2017年に走る2歳馬を買って走らせるというサービスも行う予定。ここでも自分たちの決定が生かされる。結果も1年かからず出るんで試してみてもいいかも。同時に馬券も買ってみる、と。どれくらい儲かるかなあ。


【12月12日】 フリーキックでハットトリックとか、君下先輩が凄すぎるけど、そのお膳立てをしたのは柄本つくし、ってことでやっぱり聖跡高校には柄本つくしが必要ってことが分かったテレビアニメーションの「DYAS」。京王河原高校を相手に試合終了間際に追いつかれながらも残る時間で点を取りに行ってはパスを出すかと思わせた柄本つくしが体を反転させて前へと出て、そこを掴まれ倒されフリーキックに。1発レッドだって不思議はないくらいの場面だけれどもペナルティエリアの外だってこともあってかイエローカード。なんで人数は減らない京王河原高校相手にに聖跡は1人少ないまま戦って、延長戦に入ればしんどいことも分かっていたんでこのフリーキックで決めなくちゃ後がない中、誰に会わせるかそれともってスリリングなやりとりが繰り広げられる。

 それはまるで本当のサッカーの試合で、フリーキックなりペナルティキックの場面を見ているよう。駆け引きがあって相談があってそしてプレーへと入っていった先で起こる人の動きや繰り出されるテクニックに、サッカー競技としての範囲内で最高のプレーが描かれているから、見ていて良いアニメーションを観たなあって感じより、良いサッカーを見せてもらったなあって気分にさせられる。それ以前のフィールドをロングで見せてボールをやりとりする場面も、ちゃんとポジションに人をおいて走ってその間をボールが行き来するように描いてあった。これも試合を俯瞰で見ている感じ。サイドチェンジが綺麗に決まるとか本当の試合でも見れば感動のプレーが繰り出されたりしてストレスなく展開を見てける。サッカー監修とかやっているんだろうか。ともあれ勝利した聖跡は決勝に。勝てるかなあ、次。そしてどこまで描くんだろう、このシリーズで。

 悪人をもってして悪人を取り締まり、裁き処刑するといった設定ならそれこそ「ワイルド7」の頃からの定番だけれど、難しいのは取り締まる側にいて権力も与えられた悪人が、本当の悪にまわらないよう縛り抑えることが可能か、とった安全装置をどう設定するかといった部分。水瀬葉月さんによる「悪逆騎士団 そのエルフ、凶暴につき」(電撃文庫、630円)の場合も年齢不詳の美しいエルフが悪逆非道を重ねながらも今は騎士団として街を取り締まっている面々が、率い束ねているけれど、いたいどうやって騎士団の面々を縛っているかに興味が向かう。

 紋章という一種の魔法発動手法が存在する世界、紋章王なる存在が統治するゼルティバッソ紋章国の東端にあるニルイーストという街は、ならず者たちが暮らして組織も作って奪い合い殺し合いを繰り広げている。治安も悪く市長すらも幼女趣味といった悪徳を抱えて権力の乱用に余念がない、そんな街に中央から会計監査をするためにひとりの女性が送り込まれてきた。さっそくスリにあって財産を失い食事もできずにたどり着いた騎士団の詰め所で出会ったのは、美しいけれども口調は乱暴なエルフの女性アリシアと、顔の半分を帽子で書くし歩けば女性に声をかけ手込めにしてまわる男、悪口を耳にすればさっと動いてやっとこを口に突っ込み歯を抜こうする少女に素早くナイフを取り出しつきつけ殺すかどうかを聞く少年といった具合に、くせ者揃いだった。

 ひとりお嬢様風の見目麗しい女性もいたけれど、会計監査の人間を食事に連れていく途中に通りかかった娼館で、客の男が不満足を訴え金を返せと騒いでいるのを聞きつけ立ち寄って、男に近づき手を股間にあてただけで達せさせてしまった。つまりは元娼婦。なおかつ今も現役以上の力を持っている女性も含めた面々が、エルフの女性の下にいて街に起こる事件を解決するというよりも、犯罪組織の根城に乗り込んでいっては稼いだ金を奪うような乱暴狼藉を繰り返して、組織から恨まれ街の住人からも恨まれていた。とりわけ直近、街の外側にある貧民街を燃やし尽くしたといった噂も立って嫌う人も多かった。

 そんな面々が会計監査にやって来た女性の前でおとなしくしながらも時々暴威を見せ、批判されても続けていった挙げ句に本当の悪の存在を知らされ生真面目な会計監査の女性も考えを改める展開になるかと思ったら違って、アリシアたち暴虐騎士団が過去に起こした事件の数々がつづられていって、その中で暗殺者として育てられたコルという少年がアリシアを出会い、騎士団の中で自分を少しずつ成長させていく展開が描かれる。アリシアを殺せという命令だけを受け、実行しようとして失敗して出直せず、そのまま仲間に引き入れられ、最近相次いで発生している爆破事件の謎を追い、その先で街を牛耳る富豪を守る仕事を頼まれ果たそうとして果たせず、逆に犯人と疑われて逃亡した先で真犯人と対峙する、といったストーリーが紡がれる。

 なるほど悪逆ではあっても無辜の民をいたずらに虐げるようなことはしれおらず、逆に正義を名乗りながらも狂信的な部分へと足を踏み入れてしまった正義に鉄槌を下すような感じがあって、実は良い奴ら的な感動もちょっとだけ浮かぶ。とはいえ拷問士であり娼婦だから完全無欠な正義って訳ではないんだけれど、それでも持てる技を使う時、相手は確実に悪な訳で相対的にも絶対的にもその正しさを支持できる。意外だったのは帽子を被った醜悪騎士の正体。どうしてそれがそこに、ってあたりでアリシアの力や正体めいたものも絡んでくるんだろう。彼女の目的は。そこでそれを続ける理由は。いろいろ知りたいこともあるんで是非に続きを。しかし会計監査の女性、巻き込まれ型のサブヒロインになるかと思ったら単なるお先ぶれだたとは。それとも使い道が生まれるのかな、「DRIFTERS」でエルフを捕らえていた城で生き延びた人間みたいに。

 週末興行のランキングで「この世界の片隅に」が7位に踏みとどまっていた。前週の4位からは落ちたものの「ファンタスティック・ビースト」が相変わらず強い上に「海賊と呼ばれた男」とか「仮面ライダー」とか新作も上位に入ってきた中で、ベスト10にしっかりと踏みとどまっているだけでも凄いと言えるんじゃなかろーか。最初はなにしろ10位だった訳だし。そして「君の名は。」も5位と相変わらず強い強い。そんな凄い作品群を下に置いて1位となったのは「モンスターストライク THE MOVIE はじまるの場所へ」だけれど、これを映画そのものの力とみて良いかはちょっと迷うところだったりする。

 「ドラえもん」とか「名探偵コナン」のようなシリーズ物の強さって訳でもない、別の力学の上に成り立っている作品だけに、アニメーション映画の隆盛を言葉にする時、どう扱うかにジャーナリストも迷うんじゃなかろうか。アニメーション好きとすればここから映画館でアニメーションを観るのも悪くないと思うようになってくれれば良いんだけれど、週が明けた映画館はどこも予約が数人とかいったレベルに止まっているしなあ。それでいてシアターは都心部のメーンどころが当てられていて、1日に何度も上映される。そんな箱でもって「この世界の片隅に」が公開されたら……って思わないでもないけれど、口コミブーストがかかる前に大規模公開されて入らず3週間で打ち切りにされる懸念もあった訳で、じっくり育てて今へと至ったことも悪い話ではないのかも。どこまで伸びるか伸ばせるか。ちょっとした新展開も期待できそうだし、見守ろう成り行きを。

 本当か確認のしようがないけれど、長崎で開かれたユース非核特使フォーラムに出席した映画監督の山田洋次さんと吉永小百合さんがともに「この世界の片隅に」を見て欲しいと訴えたとか。2人は長崎の原爆で亡くなった人が登場する「母と暮せば」の監督と主演女優で、フォーラムにもそちらのバリューで呼ばれていた感じだれど、そんな席上で紹介するくらいに「この世界の片隅に」という作品が持つメッセージ性を感じ取り、あるいは映画としての素晴らしさに感じ入ったってことになりそう。個人的に「この世界の片隅に」が公開されて観て欲しかったのが吉永小百合さんであり今上の天皇陛下と皇后陛下だったりするから、吉永さんんいついては叶った格好。「この世界の片隅に」がヒロシマ平和絵が賞を受賞した広島国際映画祭に吉永さんは来られていた訳で、そこで観たって可能性もあるけど今まで言及がなかっただけにちょっと不安だった。長崎での発言が本当なら実に嬉しい限り。聞いてさらに大勢が観に行ってくれれば有り難い。10億円も見えるかなあ。


【12月11日】 庵野秀明監督がひきいるアニメーション制作会社のカラーとの間に持ち上がった係争話にお詫びを出していたガイナックスの役員構成を見たら、「オネアミスノ翼 王立宇宙軍」を監督した山賀博之さんはいても他、武田さん赤井さんといったかつてガイナックスという社名とともに名前を聞いた人たちはもう名前を連ねておらず、巻智博さんって以前に富野由悠季監督と新作アニメーションを作ると発表して話題になったオオカゼノオコルサマって会社の人とかが役員になっていたりして、もう昔日のガイナックスの雰囲気とは違っている感じが漂ってくる。

 一方で米子のガイナックスでは赤井孝美さんが代表になっていて武田康裕さんは京都ガイナックスと立ちあげてと、創業者たちがそれぞれに自分の会社を立ちあげている。福島ガイナックスは地元との協力で立ちあがったのかな。分からないけれどもそうした地域のガイナックスと本家のガイナックスではどうやら資本関係はないらしい。いわば「のれん分け」的な感じとなっているんだけれど、その場合やっぱり版権なりは本家に残っているのだろうか。それとも「プリンセスメーカー」は米子ガイナックスが引き取った形になるんだろうか。

 本体がいろいろとピンチになったんで、中にいた人たちが版権から得意な者を掴んで独立していった先、本体には何も残っていない、なんて状態にあるのかそれとも権利だけはがっちり抑え、これで商売をしていくってことになっているのか。そんな辺りも見えないけれども「天元突破グレンラガン」や「トップをねらえ!」「トップをねらえ2!」のような作品が、権利ごと雲散霧消してしまうのは寂しいんでそのあたり、本体に残っているならしっかりと管理し展開も可能なようにして欲しい。あるいは地域に散らばったガイナックスが再結集してシン・ガイナックスとなってIPとか事業とかをMBOする、なんてことはないかなあ。いやいや、かそれが出来てたんならバラバラになる前に手を打ってたか。いろいろ難しい。そして寂しい。

 悲惨を描かなかった代わりに悲惨を想起させる材料は散りばめられていて、悲惨を知る者の想像力をそこに引っ張り、感慨をもたらすのだけれど、そんな風に悲惨を描かないことこそが正しくて、だからヒットしたんだという論調の先、こうやって悲惨を描かないことが主流となっていって、やがて悲惨はなかったとされていった果て、30万人が亡くなられた広島への原爆投下という事件はどこか空白めいたものとされていき、ただ少し辛い日常が太平洋戦争かの日本にはしばらくあったのだいった認識に、塗られ陥っていかないかといった不安を醸し出す。

 悲惨が強調されて悲惨だけがあったといった認識の真逆。そしてそれは悲惨の忘却となって再びの悲惨を招く道。だから戦争を描いてないから良い、反戦でないから良いといった文言で讃える言葉を唱える時に、それがどういった効果をもたらすかも添え、また実際の悲惨も多くあったと想起させる言葉を添え、送り出さなくてはいけない。というか、孤児の少女が母親に寄り添う場面、後ろを歩く人々は「はだしのゲン」のように手より皮膚を垂れ下げさせていたのだよ。それも悲惨とカットするのがより押しつけがましくなくて良いだなんて言い出す声があれば、その時はやはり声を上げねばならぬだろうなあ。過去を知る者たちは。それを感じ取っている者たちも。

 つまりは「この世界の片隅に」。広島に縁の深い作家が、悲惨が描かれていない状況を汲んで妙に持ち上げようとする風潮についてこれを糺し、なかったものにはしてくれるなといった願いも含めて発言したことが、なぜかそうしたことを描いては居なかった作品なり映画を批判した、なんて風に受け止められて元からそう描かれてないんだから仕方が無いじゃないか、いったい何をいっているんだといった声を浴びている。違う、作家は受け取る側の態度、広島であり原爆であり戦争を感じる神経の有無を問うているのであって、それを悲惨が描かれなかった映画を金科玉条として、自らを忘却の徒として逃げようとしている態度を問うているのだ。作品ではなく見た者のスタンス。それを衝かれて狼狽えているのか、作品批判へとすり替え誹る。それこそが悲惨の忘却に他ならないんだけれど。困ったなあ。

 作り手が手慣れたのかそれとも時間があったからなのか、前みたいにシャギーが出て描線がチラつくような事態はあんまり目にしなかったけれどもそれでCGのクオリティが向上したと見るのはあるいは早計か。人間のキャラクターの棒立ちで泥人形のような表情にポーズの乱れ打ちにこれはどうだと眉をひそめた「CYBORG009 CALL OF JUSTICE第1章」とは違って人間そのもののキャラクターが全面に出て大きく躍動するシーンが少なく、違和感を覚えるパーセンテージが少なかっただけかもしれない。そんな「CYBORG009 CALL OF JUSTICE第2章」。逆にメカの方はパワードスーツめいたものがいっぱい出てきて人間型のものも新しく出てきたりして、3DCGの作画もやりやすいのかいっぱい動いて活躍してた。

 その意味では技術がない訳じゃないんだろうけれど、ただ人間のキャラクターが不得意なのってやっぱり劇場アニメーション映画ではちょっと拙い。キャラクターが出てこない作品でもない「サイボーグ009」をどうしてこれでやろうと考えたか、「009 RE:CYBORG」の夢をもう1度を思ったのならそれを実現できていないと感づいているその心情をどうやって抑えているのかを、尋ねてみたい気もするし聞けば涙する気もするし。頑張ったけど……とかいった答えに。まさかこれで万全、神ってるとか言わないだろうなあ。じゃあストーリーはといえば国連本部の中でガーディアンを仕切っていた親玉の存在が揺らいでたりしておいおいそこまで敵は周到なのかと驚きつつ、そんな周到な敵が一介のジャーナリストに尻尾を掴まれるもんかねえ、3000年を生きているエンペラーとかいる組織がたかだか数十年のゼロゼロナンバーサイボーグに感づかれて追い詰められるもんかいねえ、なんて思ったりもしている。

 そこにサイボーグというより超能力者の001、イワン・ウィスキーの遠謀があって因縁もあって過去との対峙をさせたなら、あれでなかなか人が悪いというか。まあ見かけは赤ん坊でも実年齢は還暦過ぎてたって不思議はない訳だし。それを言うなら003のフランソワーズ・アルヌールだって実年齢は結構なものだけれど未だ美貌を誇りそして、精神も老成をしないで初々しさを保っている。それこそダーディアンズに所属する若いカアリーナ・カネッティと変わらない感じ。肉体の若さが精神の若さも保つ? なんてことでもないからやっぱり今の見かけに描写も引き摺られてしまうんだろう。押井守監督が変えようとして、変えられなかった部分でもあるし。

 カタリーナといえば体にぴたっとしたあのボディスーツがとってもエロくて下から煽るような映像を最前列で見上げるようにしていろいろと思ってしまう。柔らかそうだなあ、とか。あとは大きいなあ、とも。どこがとは聞かない。フランソワーズだってきっとなかなかのものなんだろうけれど、あの戦闘スーツを着てしまうとそこがまるで見えないんだ。なんであんなものを着せたんだ。銃弾を跳ね返す感じでもないし。でもジェロニモのは跳ね返していたし。どっちなんだろう。いやしかしあの銃弾のシーンで、パワードスーツめいたものが持っていたのは相手がロボットでもサイボーグでも倒せる結構な口径のサブマシンガンだったように思ったんだけれど、003を襲った銃弾はそれこそ拳銃から発射された弾丸みたいで尖っておらず炸裂もせず、上半身を根こそぎ吹っ飛ばしもしないで背中から胸へと貫通しただけだった。出る時に胸なんて大穴が空いたって不思議はないのに。

 その後におこった現象はまあ、いずれ鍵ともなて明らかにされるんだけれどそうしたあの時のあの銃の弾丸はいったい何だったんだ問題は、いろいろと考えてみたいところではある。言い出せば矛盾もきりがないけれど、正義とは何か、自分のありたい道とは何かを自問自答した果てに立ちあがった009こと島村ジョーには感心。正義のためとかよりは長く連れ添った彼女を取り戻したいといった動機めいてはいたけれど、身の回りへの関心から世界への関心へと広げていけるのも人間の良いところ。そうやって誰かを守り近隣を守り社会を守り世界を守る。広げる想像力を養おう。

 阿佐ヶ谷へと回って阿佐ヶ谷ロフトで片渕須直監督の登壇によるアニメスタイル企画の「この世界の片隅に」のイベントを見物。83番くらいで入っても中段辺りに陣取れて見られたのは僥倖、そして語られる内容の深さにあらためていろいろと積み重ねられた結果としてのあの映画につながっているんだと理解する。ただ徹底的に調べた一方で、描く時は適当だったといった話もあってリアルであることとリアリティとの差なんかの実感。あのこうの史代さんの元の絵柄で写実をやってもギャップが出る。風俗は当時のままだけれどもんぺなんかのぼあっとした感じは資料を集め検討しつつもこうのさんの描くような形になったと作画監督でキャラクターデザインの松原秀典さんが話してた。

 片渕監督もそこに描かれたことはすべて真実とは思わないで欲しいとも。実際、地図に従って描いた中島本町の位置が最近の発掘ですこしズレていたとも分かったという。そうした研究成果の更新による違いもあれば、だいたいのことを分かっていながらも描く際に省略したり簡略化したりしている部分もある。それはだからフィクションであって歴史ではないといった理解をしつつ、それでもリアリティを感じて当時への思いを馳せるというのがあるいは真っ当な見方なのかもしれない。質疑応答だと気象の旗と実際の気象との関係なんかを突っ込み尋ねていた人もいて、そこまで徹底することで生まれるリアリティもあるかもしれないけれど、そこを曖昧にすることで生まれる雰囲気もあるならどっちをとるか、とも思ったり。その違いが全体のリアリティを損なうものでもなければ、適当もありかなあ、どうなんだろう。

 イベントには北條サン役の新谷真弓さんと憲兵さんに船頭さんに闇米屋のおばさんに空襲警報の人にとさまざまな役を演じている発破屋トーチーこと栩野幸知さんも来場して広島弁のニュアンスを伝える仕事を話してた。息を吸って吐き出すように言えばじゃけんおうな広島弁に聞こえるかもしれないけれど、この映画ではもっとおだやかにはんなりと、力を揉めず息もすっと吐くように出てくる自然な広島弁を目指したという。そういう位置取りでいったからこそ聞いて自然な演技が出来上がったんだろう。先に録った細谷佳正さんの演技もあるいは導いていたのかもしれない。そんな栩野さんが絵にあてる声優はこれが初だけれど、過去に声を当てた仕事として幸洋子さんのを紹介してた。街頭で歩きながら録ったとか。その声を聞いてこれは細いおじさんじゃないと山村浩二さんがキャラクターを太めに描くように指導したとか。結果、見た目そっくりりな人になった。そして世界で賞を受賞。栩野さんは「この世界の片隅に」より早く世界的な主演声優になっていたってことになるのかも。今度は生で聞きたいなあ、「ズドラーストヴィチェ!」を。


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