縮刷版2016年10月下旬号


【10月31日】 映画「聖の青春」では村山聖九段が古本屋で1冊づつ、赤版の萩尾望都全集を買い集めていく描写があってそういえば自分も1980年代の頭前後に古本屋を回って同じように1冊1冊、赤版を揃えていったことを思い出した。刊行されたのは1977年から78年あたりでそれから10年以上が経って書店にはもうほとんど出ていなくなっていたもの。けれども古本屋にはシリーズだったらまとめてあって、単巻のものなら数百円で並んでいたりして自転車を漕いで古本屋を回って探して集めていったっけ。最初に手にしたのは「この娘うります!」だったかな。そして最後が「とってもしあわせモトちゃん」だったっけ。そこははっきり覚えていないけど、とにかく全巻を集め切った。

 1985年くらいから出始めた第2期はすでに大学にも行き始めていたから全巻、新品で揃えたけれども中学高校のあたりは100円ですら貴重なお金、少しでも安いのを探して交通費すら惜しんで自転車で走り回っていたのだった。新刊の全集を月次で1冊1冊買って積み上げていくのとはまた違った面白さが、そんな古本屋めぐりにはあった。すでにプロ棋士になってお金もある村山聖九段がどーして古本屋でお金を惜しんで買っていたのかは分からないし、映画としての演出かもしれないけれどもお金の問題とは別に、探して見つかり揃える喜びっていうのは別にあったってことなのかも。明らかに1990年代に入っていただろうプロ時代に赤版の萩尾望都全集が古本屋に並んでいたかはちょっと覚えてないけれど。まだあったかなあ。今はもうほとんど見かけないよなあ。

 ついに1位が途切れてV10はならなかった映画「君の名は。」の週末興行ランキング。1位に輝いたのは封切りされたばかりの「デスノート Light up the New World」で作品としての評価は不明ながらもずっと映画館で前宣伝をしていたことと、やっぱり作品そのものの知名度が1位へと押し上げたっていったところかな。ただ大きく引き離されたって感じでもなく2位に止まっているから、次週で「デスノート」が失速したら「君の名は。」が返り咲く可能性だってありそう。そこから強力なタイトルのないまま再びVを重ねていくか、それとも「この世界の片隅に。」が食い込んでくるか……ってそれは興行規模的に厳しいかな、まあでもそれなりの数字は作って欲しいかなあ。4位にはプリキュアの新作「映画 魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身! キュアモフルン!」がランクイン。子供たちの焦がれはやっぱり強い。モフルンがプリキュアなれるなら自分たちだってと思ったかな。なれるよきっと。

 本放送はもう1年以上も前になるらしいけれども地上波の夜に放送があったんでついついて見てしまった「NHKドキュメンタリー −奇跡のレッスン〜世界の最強コーチと子どもたち」。公立で下町にある中学校のバスケットボール部にコーチにやって来たのはNBAで史上最低の身長ながらも長く現役を続けて世界選手権にもアメリカ代表として出た経歴を持つマグシー・ボークス。160センチというから日本の中学生より小さいかもしれないけれど、そこはやっぱり世界的なスターだけあって言うことやることすべてが凄い。そして役にたつ。どこか覇気の無いチームに対して声を出せと良いコミュニケーションをしろと言う。拳を合わせていっせいに声を出すようにして習慣づけ、ストレッチでも声を出して慣れさせる。それでもやっぱり引っ込み思案なキャプテンにその日の指導を任せて否応なしに声を出させる。そうやってだんだんと慣れさせていく。

 雰囲気作りの次は実際のコーチング。まずは基本だけれどランニングだとかダッシュといっ単純なことはやらず、実戦に近いシチュエーションをつくってドリブルからフェイントをしてカットインしてディフェンスしダッシュといった動きを数度、行い試させる。でも何度も繰り返させはしない。それはおそらく同じくり返しでは飽きてしまうから。1度きりで体に覚えさせつつ集中力を養わさせる。そんあ意図があったのかも。ボールを使ってもやっぱり実戦の中で覚えさせるといった形式は、かつてサッカーのイビチャ・オシム監督がディフェンスオフェンスをちゃんとつけてプレー形式で練習させたのに似ている。実戦に出てこないことなどやって意味はない。逆に実戦に沿った形を経験させておけばその時に役にたつ。それと同じ。

 メンタルにも配慮する。失敗しても起こらない。すごいプレーをすれば褒めちぎる。そうやって前向きにさせる。だんだんと自信を抱かせる。失敗を恐れなくなる。そして巧くなる。そうやって固まってきたら今度はバリエーションを加える。3ポイントシュートへと持っていくシチュエーションの練習に1人が違う動きをすると、それに連動して皆が動くようになる。それが最適なんだと自分の頭で考える。それに体がついていく。覚え込まされた動きはそれしかできない。自分で考えた動きならそができる。あとは考える速度を上げ、体の動き出しを速くする。そうやって積み重ねていった果て、今まで歯が立たなかった強豪校に1点差というゲームを演じてみせる。

 勝利すればと思ったもののそれはやっぱり行き過ぎ。相手だってフルパワーでは臨んでいなかっただろう。ただ確実に実力はあがった。それがたったの7日間で成し遂げられた。もちろん自分の体格を意識して、何をどうすれば勝てるかを考え、そういう風に体が動くように連取を重ねたマグシー・ボークスならではの教え方もあったかもしれないけれど、そこまでハードな動きなど要求せずとも自分で考え自分で動くようにする練習は、おそらくはアメリカのバスケットボールコーチなら誰でもやっていること。そうしたメソッドを取り入れ、コーチが選手を信じて支え、不安を顔に出さず分からなかったら苛立たずに教えることを励行すれば、底上げはきっと図られるんじゃなかろーか。暴力によって自殺に追い込むような日本でこそ、求められているコーチング術。それが普及するきっかけになったのかな、この番組。それこそ3カ月くらいの練習メニューを作って欲しいと思っている学校も多いだろうなあ。それには先生が威張らずプレーヤーのために全霊を傾ける意識を持つ必要があるんだけれど。そこが実は1番難しい。

 なぜか毎週チャンと見ている「DAYS」は風間陣が大活躍していたけれどもそれは母親が見に来ていたからで、けれども途中で足を踏まれて怪我をしながらそれを感づかせずにプレーを続けて得点を奪う。でも気付いていたのが1人。柄本つくし。左足でしか蹴らない風間に違和感を感じてそしてプレーの途中で怪我をしていたことを指摘する。でも風間はそれを言うなと訴える。なのにつくしは言ってしまうのは友人として決裂しようと友人がサッカーをできなくなってしまう方を嫌だと感じたからなのかも。そういう配慮に果たして風間は気づけるか。母親が見ている前で頑張りたかった気持ちを抑えてつくしの忠告に友情を再び感じることができるか。大きく揺れ動きそうな来週。見よう放送されたらすぐに。そんなアニメは今シーズンだと「Vivid Strik」と「夏目友人帳・伍」と「ハイキュー!!」とこれからの「ALL OUT」くらいかなあ。1話を見てない作品すら多いものなあ。そんなアニメ飽食期。


【10月30日】 ノーベル文学賞の授賞を連絡しようとしてとれず苛立ったノーベル文学賞の選考委員たちが文句をいったとかどうとかいった話に続きがあって、それがボブ・ディランだという言葉がついて讃えていたことが分かって返事がないのも重々承知の上で模様眺めをしていたところに、ようやくボブ・ディランから授賞を受けるとの返事があったみたいで一安心。それは別に変節ではなく礼儀を知っていただけって話で、あとは実際にどんな受賞のパフォーマンスを見せてくれるかってところに注目があつまりそう。やっぱり演奏するのかな。でもって12分くらいある曲を10回繰り返して2時間を塩素死づけるという。誰求められない。そーゆー反骨なら観てみたいかも。

 同じ京都アニメーションの「けいおん!」ではふんわかとした琴吹紬を演じていたのが「響け!ユーフォニアム」では頭が良くて演奏も巧くて顔も可愛くおまけに眼鏡っ娘であってなおかつ性格は冷淡というか底が知れないところを感じさせる田中あすかを演じてる寿美菜子さん。入部したものの上級生がまるでやる気がなくって怒り心頭の果てに退部したフルート女子が戻りたいと言った時、残っていたオーボエ女子がメンタルに揺れがあって演奏がぶれるのを嫌って断り続けていたけれど、それを言って引き下がらせれば良いのに言わずただ拒絶する。

 相手はそりゃあ迷うだろうけどそういうゴタゴタを気にすることなく淡淡と自分の役割をこなし続けるところに怖さがある。板挟みとかってならないんだ。ただ吹奏楽部が良い演奏ができれば良いんだ。そんな感じ。イケズとしか言いようがないその性格に向かって、けれども引かず諦めないで話を持っていこうとするヒロインの黄前久美子もなかなかのタマで、結果的にオーボエとフルートが理解し合って一件落着となったっぽいのに、しゃあしゃあとしている田中あすかに向かってちょっぴり苦いことも言ってのけるところに未来の大物っぽさが漂う。

 まあでもこの後の展開で田中あすかを巡っていろいろ起こるみたいだし、鉄面皮みたな鉄仮面みたいな笑顔の裏側にある心情が露わになるって場面もあるのかな、ないのかな。今回のシリーズが描くのが全国大会までなのか分からないけれど、とりあえず話はあるんでそれが全部描かれることを期待して見ていこう。第1期のBD、やっぱり買いそろえた方が良いかなあ。それよりはやっぱり劇場版の法をちゃんと買っておくべきかなあ。ドラムメジャー姿の田中あすかの可愛さったらないものなあ。中身はやっぱりイケズなんだけれど。

 やっぱり行き当たりばったり感がぬけないなあ、「ブブキ・ブランキ」の第2期も。万流礼央子がデモクラティアとかいう組織を率いているギーに捕まり監禁されている要塞へと乗り込むにあたって、なぜかしっかり生きていた的場井周作が用意も周到に高速移動が可能な飛行船を引っ張り出しては空から向かい、そこに一条東らが突っ込んで王武で一暴れしている好きにいつの間にか忍び込んでいた石蕗秋人が手にブブキっぽい銃を持って走り回っては礼央子を助けるっていう算段になっていたはずが、戦いに足の悪い少女とか脳天気のアメリカ人とかが絡んできては同情と共感の果てに意味不明な共闘を始め、そしてなぜか炎帝が動かせた一条薫子が立ちふさがったと思ったらなぜかギーに反旗を翻して王武をスルーする。

 とうか戦う理由があるはずなのに戦わず、だったら見方になれば良いのにそうはならないこ宙ぶらりんさはいったい何? ギーに逆らったとうだけでロシアのブブキ使いチームは全滅させられ棺桶へ。もしかしたら生きていたりするのかもしれないけれど、そうでない可能性も含みつつ悲劇惨劇の予感もある中でアメリカとか欧州のブブキ使いたちはギーに従い続ける。いくら炎帝が体を補ってくれるからといってもそれで薫子がのたうち回っているのを見てレティシアはそれでも炎帝に載りたいのか。そこがちょっと動機として分からない。

 そして遂に出た礼央子への薫子によるロリババア宣言。見てくれはともかく中身は母親と同じ礼央子相手に東はどんな感情を抱いているのか。敵なのか母親の友人なのかそれとも。ともあれ救い出された礼央子が近くにいる炎帝を回収もせずに一目散に逃げ出したのも不明な所。まずは体勢立て直してから挑む気か? どうやって。そこも謎だけどきっとつじつま合わせて来るだろう。合わなくたってぶっ飛ばしてくるだろう。それが「ブブキ・ブランキ」というアニメーションだから。制作が間に合わずに放送が中止されるアニメーションもいっぱいあって制作体制が問題視されているけれど、ちゃんと制作されていながら展開が謎というアニメもあるってことに世の中の不条理を感じる晩秋。寒くなってまいりました。

 空埜一樹さんの「無双竜撃の継承者(スレイヤー)」(ダッシュエックス文庫)は厄竜がはびこる世界で竜を狩るしごとに尽きたいと願った少年フィルは、とある集団の門を叩き、だったら試験をしてやると言われ竜との契約を結びに言った先で巨大な竜から力を受け継ぎ、そして実は竜という美少女を引き取る羽目になる。少女の願いを聞き届けるためしごとに出た面々の前に立ちふさがる敵。そこでフィルはただ竜の力を借りるだけでなく、自身が竜の力をまるまる発揮するような戦いぶりを見せる。それはいったいどういうことか。世界を狙う敵とは何者か。面白い上にしばの番茶さん描くイラストがなかなか。フィルとそれからリーダーはともかく他の面々もしっかり強いところに何か秘密はあるのかな。続きが楽しみ。

 本棚の割と目立つ場所、大切そうな本が置いてある場所に並んでるのは赤い背をした萩尾望都全集の第1期。そして東京へと引っ越す前に立ち寄った古本屋でも村山聖は赤版の萩尾望都全集の「11人いる」とそして「マージナル」の確か第1巻と第4巻を買っていた。少女漫画が大好きで、七段に昇進したお祝いのパーティーに主賓として呼ばれていながら部屋で多田かおるの「いたずらなKiss」を読み耽っていて出かけようとせず遅刻してしまう。師匠の森信雄が懸命に場を繋いでようやくやって来た村山聖は頭はぼさぼさで手の爪は伸び放題。それでも将棋にかける情熱だけはしっかりと持ってこれからの精進を訴えていた。

 大崎善生による村山聖の生涯を描いたノンフィクション「聖の青春」を原作にして森義隆さんが監督した映画「聖の青春」の冒頭。そこに描かれているのは将棋とそれから少女漫画に熱心なひとりの青年の姿。それは実在した将棋の棋士で圧倒的な強さを誇りながらも病弱な体で全力を発揮できず、けれどもしっかりと勝利を重ねて最高峰のA級に在位したまま1998年8月8日に死んだ村山聖九段のある意味で一面をしっかりと描いている。ただし映画はフィクションであって村山聖九段がそこまで飛び抜けて萩尾望都だけを読み耽っていたということはなく、他にも多くの作品を読んでは部屋に溜め込んでいた。

 映画では手術をして休場していた年に帰って暮らしていた広島の家で、やはり萩尾望都の「海のアリア」を読んでいたけれど、それも本当かどうかは分からない。萩尾望都が好きだという事実はあってもそればかりということはなく、ただひとつの象徴として選ばれ使われていたのだろうと類推する。それは将棋の対局というプロ棋士にとって本業ともいえる場面の描写にも言えることで、原作では大勢の棋士たちと対戦しては将棋の歴史において重要なできごとを経験し、そして歴史に残る棋譜を作り上げていった。映画ではそうした他の棋士との丁々発止の戦いを羽生善治さんという不世出の大棋士に収斂するようにして村山聖の前に置いて、幾つもの激しい勝負を繰り広げさせる。

 現実には行われていなかった何かのタイトル戦のような遠征先での対局、そして深夜まで及びながらもポカをやって破れた対羽生善治あんでは最後の対局も、棋譜こそそのままでもシチュエーションとしては少し違う。現実の歴史を知って現実の対局を眺めてきた人たちにはそうしたシチュエーションの違いがやや納得しづらいかもしれない。看護師を控え室に待機させながら深夜まで及んだ死闘は実は丸山忠久を相手にした順位戦のB級1組での対局で、そして羽生善治を追い詰めながらも歴史に残る大落手で破れたのはNHK杯での決勝、勝てばひとつタイトルを得られたものがするりと抜けていったものだった。そうした幾つものシーンを入れ替え繋いでいくことで映画は村山聖とそして将棋界の象徴ともいえる羽生善治との関係がメインとなって進んでいく。これは果たして妥当か否か。

 それこそ羽生善治さんが4段となってプロデビューしたあたりから将棋を見て来た人間にとって、村山聖九段を含めたあの世代の丁々発止をたった2人に収斂しつぃまうことの無茶も寂しさも分かっている。ただ映画として初めて将棋の世界に接する人たちにとって、大勢いるライバルを相手に八面六臂の活躍を見せた村山聖九段では分かりづらい。ならばそうした人でも知る羽生善治さんという不世出の大棋士を相手に互角以上の勝負をした人間として見せた方が分かりやすい。そんな判断が働いたのかも知れない。それは村山聖がふと心に思い描いた弱みめいたものを吐露する場面で、相手が先崎学さんや滝誠一郎さんといった付き合いのある棋士たちではなく、羽生善治さんになっている場面でグッと生きてくる。

 タイプの違う2人の将棋指しがいて、それぞれに考えていることは違っていても、究極の目的はひとつ同じ。そんなところでわかり合って感じ合った2人の姿を目の当たりにすることで、将棋という傍目にはよく分からない世界に生きている人たちの心情、想いといったものが見えてくる。興味を抱くようになる。そんな効能を考えての改編とするならそれはありだろう。人によってはそこに単なる友情を超えた男性同士の関係めいたものをみたくなるかもしれない。深淵を知る2人だからこそ共に行けたかもしれないその場所を語り合うシーンにある種の萌え的感情を抱く人もいるかもしてない。そういう効果を狙ったかどうかは分からないけれど、そうしたものが好きな人たちが感情を向けられる作品にもなっている。そう言えそうだ。

 結末は誰でももちろん知っている村山聖九段の死に向かう。悔しさと寂しさを改めて思い出して一気に涙腺が厚くなる。これだけの才能があって、そして少女漫画好きというお茶目なところもあった偉大な棋士がいなくなり、今触れることができないということはどうにもこうにも残念でならない。オタク受けするその趣味嗜好はネットが本格的に普及した2000年代に誰よりもスターになりえた。今の加藤一二三九段がもてはやされている以上の存在感を、より現役感も漂わせたまま示したことだろう。でも。そんな風に村山聖九段が2010年代半ばを生きているとも思えないところに彼の将棋に気を注き抜いた人生が伺える。

 体が弱くなかったら将棋は指していなかった。そんな人間が健康な体で2010年代を将棋界で生きているとは言えそうもない。健康と引き替えにもらったその興味でありその集中力だと言うならば、あの時代に将棋界の中で尊敬と注目を集める存在となって、そして今も永遠の怪童丸として語り継がれている。そういうものなのかもしれない。それは神様が不公平だからなのか。それとも公平に人それぞれの才能を働かせる場所を用意してあげた結果なのか。考えつつ自分が今いるべき場所、成すべきことを考えなおしてみたい。彼が生きられなかった時代を生きている者として。


【10月29日】 幕張メッセでレナウンのファミリーセールがあったんで行ったら、ハロウィーンのイベントがあって周辺を仮装した人がぞろぞろ。それも駅から仮装していたりしてコスプレは家からしてきちゃダメって訴えてるコミックマーケットとは違った文化の存在を感じてみたり。あるいはコミケに集まるのは特別な人たちで、そういう人たちの振る舞いにはナナメな視線を向けたくなるけどハロウィーンは自分たちとつながっている人たちで、だからそうなんだと認めてしまっているという。実際のところは分からないけど街中をコスプレした人たちが埋め尽くしても“風物詩”で認めてしまえる雰囲気が、ハロウィーンというイベントに関しては情勢されてしまのかもしれない。そしてコミケには未だ。この差はいったい何なのか。ちょっと考えてみたい。

 そんな幕張メッセを歩く仮装に本物そっくりのハーレイ・クインが。短いパンツからはみ出るお尻の丸みまでもう本物って感じ。なおかつ手にバットを持っていて振り回してショーウィンドウでもぶち破れはさらに本物感が増すけれど、それをやったら犯罪なんでバットを振り増したければバッティングセンターへとどうぞ。新宿バッティングセンターのボックスが全員ハーレイ・クインの仮装でそして持参しあマイバットを振り回していたらちょっとハロウィーンっぽいかなあ。そんな幕張から回ったお台場でも通路が作られ仮装した人がぞろぞろ。マリオとかいっぱいいたけれど、でもあんな場所で仮装行列をして楽しいんだろうか。皆とそこにいるっていう状況が楽しいかもなあ。それもまた自分がなりたい自分になるコミケのコスプレとは違う部分かなあ。

 お台場というか青海では日本科学未来館へと行って「デジタルコンテンツ EXPO 2016」を見物。チームラボの猪子寿之さんが登壇してミラノ万博の日本館で展示を行い好評だったにも関わらず、日本館が10時間待ちとなったり賞を獲ったりしたのはサービスとして行われていた日本食の提供だったということにされ、猪子さんたちの展示については触れられていなかったことにもにょった話をしていて面白かった。そりゃそうだよなあ、ミラノなら日本食だってそれなりに店もあるのに、並んでまで日本食を食べようと思う人はそんなにいないよなあ。分かりやすい形に丸め込んでしまう日本のメディアの癖がここにも。やれやれ。

 そんなチームラボも協賛している国際対抗学生バーチャルリアリティコンテストの会場をのぞいたら青い繋ぎ姿の社長の人が壁に開いた人型の穴とぴったりのポーズをとってくぐり抜けていくバーチャルリアリティをプレイしていて巧かった。さすがや身体の動作を音楽に変えて世の中に発信し続けてきた人。歳も歳なのにちゃんと体が動くという。その横ではジャグリングを体験するVRが。手に何やら装置をはめてVRヘッドマウントディスプレイを装着すると現れるのはガイド役の女の子とそして目の前で飛んでいる球体で、それを掴んで跳ね上げるんだけれどその時に実際の手の方には手首にはめた装置から玉が先に付けられたバーが落ちてきて掴んで跳ね上げるとモニターの方のボールも上がっていく、といた感じかな。

 電磁石なんかで上にとまってそして切り離されて落ちてくるという連続を映像とシンクロさせて体験させている。完全にCGで作られた仮想世界を動き回ることだけでなく、実際に動作する装置を加えて触らせることでより深いぼつにゅう感が得られるっていったところか。誰かとてつもなくうまいジャグラーのボールさばきを遠隔地にあるその装置に転送して、それを使って自分もうまいジャグラーの動きを体感することで巧くなる、なんてテレイグジスタンスなことも出来るのかな。VR元年っていうけれど、仮想空間への没入だったら30年前から始まっている。そうしたVRの普及元年とは別に、リアルに感触を伝える技術が次々に生まれようとしている。これも1人の知見が大勢の肉体をも動かすという拡張された身体を表現したVR。ここから30年後の産業が生まれてくるのかもいsれない。

 視覚を使わず全身で体感させるVRでは「he first cradle 〜うまれるまえのゆりかご〜」ってのがユニークだった。団体名は「おまえがママになるんだよ 」で出身は電気通信大学情報理工学部。それは膝を曲げて載るハンモックの背中が当たる部分にスピーカがいっぱいついていて、そこに座ってイヤホンをつけて上から遮音のイヤーマフをつけ、そして目隠しもしてさらに毛布のようなものを被せると、ちょうど赤ちゃんの体内にいるような感じになるという。そして聞こえてくるのはどくんどくんという心音と喋る夫婦の会話。赤ちゃんへの呼びかけだとか出産への期待なんかを離す声に赤ちゃんとなった自分が反応して毛布を持ち上げると、それがお腹を蹴ったという合図になってセンサでキャッチされ、進行を左右するという。

 だんだんと速くなる心音にもうすぐ生まれる気分も高まってそして……って感じでそこでぱあっと光でも差せばさらに生まれた感も募るけれど目がまだ明いてない赤ちゃんが光を見える訳でもないんで、どれが本当の生まれたばかりの赤ちゃんであり、体内にいる赤ちゃんが感じている刺激かは正直なととこ分からない。ただそれをリアルに追究するのも良いけれど、そういうものかもしれないといったストーリーを与えて自分が生への慈しみ、両親への感謝て奴をあらためて理解する上でこういう装置は役にたちそう。セラピーなんかにも応用できるかもしれない。どういう風に展開していくかに興味。でも赤ちゃんってそもそも胎内に逆さまになって入っているんだよなあ。それまで再現するのはキツいよなあ。

 「ココロコネクト」の庵田定夏さんによる新刊「今日が最後の人類(ヒト)だとしても」(ファミ通文庫)がなぜか手元に来たので読んだら泣けた。戦争前で非難するためシェルターに入ったら700年経っていて、ニンゲンはその青年を含めて7人しか残っていなかった。青年はとりあえず街で教員の職につく。ニンゲンはいなくなっても亜人はいっぱいて、それぞれが能力に応じて職を得て暮らしていた。一種の職能ランキング世界。そこで落ちこぼれると生きていけなくなることもある、シビアな世界で落ちこぼれていた3人の女子の面倒を青年は受け持つことになる。

 もっとも妖狐族の少女はなぜか力を振るおうとせず、雪人族の少女は雪を操る能力ならあるものの雪がない街では力を出せず、そして精霊族の少女は魔法の力はあるようだけれどその使い方すら知らなかった。そんな難儀な3人を相手に青年は最初、とにかく結果を出そうと自分なりに思い描いた方法で、そしてそれは彼女らが望まない方法で試験をクリアさせようとするがうまくいかず3人に最低点を付けさせてしまう。自分には無理なのかもしれない。ニンゲンとして存在する価値がないのかもしれない。そう悩んだ果てに青年は決意する。

 それぞれの思いを聞きつつそれぞれが出来ることを探していく。そんな展開の果てどうにかこうにか得られた成果もまた一瞬。でも結果が出たことで次に期待が生まれるし、がんじがらめの社会にも風穴があく、そんな作品。700年という時間を乗り越えさせることで、亜人ばかりの世界に一種の転移を果たした設定に加え、落ちこぼれの生徒たちを鍛えて才能を開花させる学校物の設定も持った作品だけれど、肝心の青年には現代から持ち込んだ武器はなく個人としての才能もなく、いわゆるチートのようなことは起こせない。目覚めた時にかたわらにいたAIから受け継いだ、街を吹き飛ばす爆弾を呼べるという装置は持っていてもそれを使うだけの気持ちはない。どうすればいい? そんな境遇から自分自身の無力を知り、それでも頑張って3人を導こうとする姿に感動する。どうにかスタートラインには立てたみたいだけれどそこからどうする? 続きがあれば読みたいかも。


【10月28日】 やっとみた「装神少女まとい」は皇まといが変身をして戦っていた相手が何やらとんでもない悪らしく、過去にクラルス・トニトルスって外国から来たアンチ・クリードの少女の元パートナーと因縁があったみたいで、激高したクラルスが挑んだものの適わず絶体絶命ってところでまといが変身した姿にこの国ならではの八百万の神様たちが力を貸して一蹴。なるほど一神教の国よりも多神教の方がこうした装神系では強いって現れか。でもその分、悪に転じる神様も多いってことだから痛し痒しか。いずれにしてもまだ端緒についたばかりの物語。大きく物語が進んでまといの母親も絡んだ展開となっていくのか。安定した作画にも好感。見ていこう。

 時々記事を寄せているゲーム関連媒体がアニメーション関連の記事化に乗り気になったんで六本木で開かれた片渕須直監督の新作「この世界の片隅に」の舞台挨拶を見物に行ってのんさん(本名能年玲奈さん)の衣装の模様はいったいアールデコなのかポストモダンなのかアヴァンギャルドなのか考える。ロシア構成主義ってことはないよなあ。そんな2人が登壇して始まった舞台挨拶では、片渕監督が「マイマイ新子と千年の魔法」をひっさげアメリカのコンベンションに行った際、次の作品はと聞かれて1945年の広島が舞台になると言った時、聞いたアメリカの中年女性も会場にいた他のアメリカ人も、息をのんだのが分かったって話が興味深かった。つまりはもはや1945年の広島は、人類的な悲劇として大勢の心に一つの形となっているってことだ。

 ただ、話には聞いていて映像なんかで見てはいても実感としてはやっぱり遠い。そんな人たちに、これはおそらく日本人も含めて「そこにいた人たちが、本当はどんな人たちだったのかを、この映画を通じて感じ取ってもらえれば」と話してた。映画を見れば分かるし原作を読んでも分かるように、これまであった戦争の悲劇や原爆の残酷さをあからさまに真正面から描いているかというとそうではないのが「この世界の片隅に」。声高に誰かが反戦を叫ぶでもないしそれによって悲劇が起こる訳でもない。淡淡とした日常がしだいに戦争の影に染められていく。そんな日常の描写を通して、こうした普通が普通ではなくなる恐怖や驚異を感じ取る。そんな映画になっていそう。

 普通、ってことを意識していたのはすずさんを演じたのんさんもで、「私はすずさんという人は、あからさまに戦争というものに嫌悪感を示している人ではないと思って、それよりも目の前にある毎日を一生懸命に生きるっていう部分を意識して演じました」って話してた。普通だからこそ、当たり前だからこそその周辺で起こる異常が際立ってくる。そして思う。戦争止めときゃよかったと。そんなのんさんが映画で気に入っているセリフとして上げていたのが、敵の落とした宣伝ビラをトイレの落とし紙にしている場面での言葉。「工夫し続けるのが、うちらの戦いですけん」。これはすずさんが戦争による苦労を厭うというより日常にしてしまっていて、けれども戦争という状態は意識して頑張っているってことが伝わってくるセリフ。すずさんらしさの極地だったと、演じたのんさんも思ったんだろうなあ。それだけに敏い人、なりきった人だからこそのあの演技。改めて見てそんなセリフに染みたニュアンスを噛みしめてこよう。行くぞロードショーの舞台挨拶。

 なんですぐにでも抗議が出なかったのかが不思議だけれど、それだけしっかりと記事を読み込み、自分達の番組を見なして絶対のロジックを固めて来たってことだろう。とある自称全国紙が日本テレビ放送網の放送した南京事件を扱ったドキュメンタリーに対して、それは違うといった記事を書いていちゃもんを付けた件。日本テレビ側がサイトに長い抗議文を上げて、それを新聞社にも送付したという。読んでなるほど納得の文章。「記者の『印象』から『虐殺写真』という言葉を独自に導き、大見出しに掲げました。55分の番組の終盤の一場面を抽出して無関係な他社報道を引用し、『印象』をもとに大見出しで批判し、いかにも放送全体に問題があるかのように書かれた記事は、不適切と言わざるをえません」。

 言ってないことを言ったかのように解釈して否定して、すべてを誹る手口はある意味でそこん家の常套手段。それは南京事件そのものを人数がどうとか味方同士の撃ち合いがあったとかいった枝葉を茂らせた上で、日本兵によるものはなかったと持っていこうとする手口とも重なる。「そもそも、番組の主たる構成は、南京戦に参戦した兵士たち31人の日記など、戦時中の『一次史料』に記載された『捕虜の銃殺』について、裏付け取材をした上で制作したものです」。大して自称全国紙の記事には「一次史料は一切登場せず、事件から50年以上経過して出版された記録の引用や、70年後に出版された著作物の引用に基づいています」。

 いわゆる南京事件はなかった派のトンデモを含んだ著作を引っ張ってきて、裁判でこてんぱんにされた学者も引っ張り出してなかった論を繰り出ししっかりとした一次資料に基づいて放送された番組を批判する。これがジャーナリズムってんだからどうにもこうにも。ジャーナリズムなら同じだけの手間をかけて写真から資料から漁って現地に行って調査するのが筋なのに。でもそんなことはやならい。それは言いたいことがまずあって、そのために必要な情報だけを選んで載せて言いたいことだけ言いまくれればオッケーだから。これもまたいつもの体質がにじみ出ている。

 事前の質問に対しても日本テレビでは「は誠実に答えたつもりです。『自衛発砲説』について放送で触れたことや、南京事件については日本政府の見解を含め、さまざまな議論があると放送したことなど、骨格をなす要素について、それぞれ丁寧に答えました。ところが産経新聞の記事には、写真についての回答以外一切掲載されていません」。聞こえないふりをしているのか、聞きたくなかったから聞こえなかったのか、最初から聴く耳を持たなかったのか。もはやジャーナリズムとして死に体だけれど、それもまたいつものこと。すでにしてオピニオンというよりアジテーションのビラと化している媒体だけに、文句が来たって知らん顔ってなもんだろう。まったくもってやれやれだけれど、本気で抗議してきて入れられないってことは日本テレビも今度は全面戦争を仕掛けてくるか。そんな手間も惜しい相手とスルーするか。ちょと関心。

 主義主張のためにあったことを知らないふりしてスルーする態度も厄介だけれど、こっちは真正面からひとりの人格を侮辱している訳で、当人ならずとも怒って良いんじゃなかろーか。とある自称全国紙のサイトが、フィリピンのドゥテルテ大統領を取り上げる記事に必ず付けているのが「暴言大統領」というタグ。でも、日本に来ても中国にいたときも別に暴言なんてしていなかったし、国を背負っての政策を話しただけでそこに世間一般で言う暴言は含まれていない。たとえそうでも国民から高い支持を得ている大統領を捕まえて、勝手な基準で「暴言大統領」だなんって言って良いはずがない。でもやってしまうのはそうやってレッテルを貼ってキャッチさを出して、サイトへのアクセスを稼ぎたいからなんだろう。批判があろうと稼げさえすれば。そんなさもしい性根がありもしない話を作って世間に波風を起こす。そんな波風は遠からず暴風雨となって自らを吹き飛ばすだろう。そうなる前に逃げないと。どこへ? 遠くへ。


【10月27日】 100ページほどながらも過不足ない端正なムックだった「この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック」(双葉社)。前半と後半が分けられているストーリーの紹介から、パイロットフィルムを作ってスタッフを確保するための資金を集めようとしたクラウドファンディングの様子、そして作中ですずさんが作ったメニューの再現イベントなども抑えつつ、アニメーションですずさんが身に着けた衣装を並べたり、キャラクターたちを紹介した画像も添えて全体像を浮かび上がらせる。

 片渕須直監督はもちろん音楽を担当したコトリンゴさんやキャラクターデザインで総作画監督の松原秀典さんといったクリエイター陣、お金を集めて作品を完成させるという大事な仕事を担ったMAPPAの丸山正雄さんとGENCOの真木太郎さんといった面々へのインタビューもあって、映画作りの大変さにもしっかりと触れられる。あとは声優ののんさんと細谷佳正さんのインタビューやコメントから、声によって支えられた部分も見えてくる。図版の選びもそれをレイアウトして見やすくしたデザインも優れた1冊。パンフレットでは飽き足らないけどビジュアルブックや評論集では重いという人にベストなガイドブックかも。必携。でも読むならやっぱり映画を観た後に。

 ベッキーさんの不倫問題が雑誌に載るか載らないかって段階で早売りの週刊誌を手に入れたワイドショーやスポーツ新聞は、書きまくって追いかけまくった挙げ句にベッキーさんを長い休業へと追い込んだ。その相手となったゲスの極み乙女の川谷絵音さんがまたしても取り上げられては未成年の女性に飲酒を勧めたって記事が載りそうだって段階で、ワイドショーもスポーツ新聞も書きまくって追いかけまくって川谷絵音さんをしばらくの休業へと至らせた。その他、政治家の問題も含めて文春砲と呼ばれる週刊文春のスクープ記事を、必ず追いかけていたワイドショーやスポーツ新聞が完璧なまでの沈黙を保っている。レコード大賞絡みの記事でだ。

 それは2015年末の日本レコード大賞を受賞したグループが所属する会社の社長に、大手芸能事務所から何と1億円ものお金を請求する請求書が発行されていたというもの。ご丁寧に800万円もの消費税まで載せられた金額を請求されたら、お財布を開いて払いますなんてことはないだろうなあ、とかいった風には思わずいったいそのお金を何のために大手芸能事務所は使って、そしてそれをどうして人気グループの所属事務所に請求したのか、って当たりがポイントで、請求理由には「年末のプロモーション業務委託費として」と書かれてあってこれがレコード大賞獲得のための工作費だったとされている。どうしても取りたい所属事務所が芸能界に力を持った芸能事務所に頼んだ対価、っていった構図だろう。

 これは本物なのか、ってあたりがひとつのポイントになるけれど、天下の週刊誌が掲載したからには多分本物だと言い張るに足る理由をしっかり握っているんだろう。だったら本当に人気グループの所属事務所は受賞のための交錯を大手芸能事務所に依頼したのか、ってあたりはよく見えず、もしかしたら受賞させてあげたんでお金ちょうだいって言ってたりするのか、あるいは所属事務所ではなくレコード会社の方が取りたいとお願いして、その費用の一部を所属事務所に持ってもらうことになって請求書が回ったのか、分からないし分かりたくもないけれど、ともかくそうした億単位の工作費が年末の年末のプロモーション業務委託費として出回っているってことは伺える。

 そこまでして受賞したいのか、って言えばなるほどみっともないし見苦しいとも思えなくもないけれど、でも取れればやっぱりお金にも名誉にもつながるから欲しいと願っても不思議はない。そしてお金を払うこともみっともないけれどもあっておかしい話ではない。問題はだからそうやって集められたお金が、どういう具合に工作費として使われているかってところで、真っ先に想像出来るのはレコード大賞を決定する審査委員たちに渡っている可能性。言うなれば“買収”という奴で、票を売ってお金をもらうなり言い思いをさせてもらった審査委員たちがいっぱいいたということになる。

 取りたいがためにお金を払うのはある意味で音楽やアーティストに対して純粋だけれど、取らせたくもない作品をお金をもらって取らせる行為はまったくもって不純であり、音楽に対する冒涜だろう。そうした冒涜を行って恥じない審査委員がちがいるかもしれない可能性が、こうやって週刊誌で取り沙汰されて信憑性のあるものとして出回ってしまった以上のは、当の審査委員たちが表に出てきて潔白を証明すべきなんじゃなかろうか。ましてやその審査委員たちが、スポーツ新聞であったり一般紙であったりといったメディアの人間なら、買収というジャーナリズムにとって背信に近い行為をしたと疑われてたままで良いはずがない。紙面で筆を振るい懇意のワイドショーに出て潔白を訴えるべきだろう。

 でも、そんな動きは欠片もない。というか新聞でもワイドショーでもまるでなかったことのようにして通り過ぎようとしている。そうすれば誰も見ず聞かなかったことにできるとでも思っているのだろうか。とんでもない話。世間はそうやって沈黙を続ければ続けるほど、何かあったし本当にあったと理解して、ザ・芸能界とそして芸能マスコミのやれやれな状況を改めて確信する。そして離れていく。ただでさえ売れ行きが鈍っている新聞は部数が下がり、視聴率が下がっている地上波から人は遠ざかる。そうなってもやっぱり過去の権力にすがり芸能界に頼ろうとしているメディアの終末ぶり。片渕須直監督の「この世界の片隅に」に大手芸能事務所から睨まれている役者が出ているからか、スポーツ紙もワイドショーもほとんど取り上げようとしない状況が、やっぱりなあと思われている状況下でそうした認識を決定づけたこの一件。ここから本格的に凋落は始まる。というよりもう完全に凋落したのかもしれない。参ったなあ。どうしてこんな風になっちゃったかなあ。

 今日から始まるデジタルコンテンツEXPO2016を見ようと早起きをして昨日に続けてお台場へ、って実際は青海にある日本科学未来館へと入って待つことしばらく。1番に登録を終えて7階に設置された東京大学大学院の人たちによる「Unlimited Corridor」って奴を見に駆け上がり、セッティングが終わったものをプレーしたら凄かった。いや本当にすごかった。円形に置かれた壁に沿って歩くんだけれど、VRヘッドマウントディスプレイをかけている自分は真っ直ぐな場所を歩いているような気になる。

 高い場所にある足場に立って、真正面の奥にある風船を取りに行くという内容だけれど、そこまでたどり着くのに50メートルは歩いただろうか。でも実際の部屋に50メートルの直線なんてない。数メートルの円形をぐるりと回り、中心を通された通路を行き来して距離を稼いでいる。どうしてこんな錯覚が起こるか、っていうとひとつには湾曲をしていても、点で触れればそうは感じさせない壁に手を添えてあるいているから。それをせずにVRヘッドマウントディスプレイの映像だけを見て真っ直ぐ歩こうとしても、きっと巧くはいかないだろう。錯覚を利用した面白い装置。アトラクションなんかに使えそうだなあ。

 1階段に戻って会場を歩いていたら真っ暗な中に真っ黒い人が。ヨウジヤマモトで全身を固めた落合陽一さんが立っていて、前にアイデアを聞かされていた「ホログラフィックウィスパー」って一種のスピーカを見せてくれた。卓上に並んでいるのは円形をしたスピーカだけど、前に立っただけでは何も音は聞こえない。顔を出してスピーカの上に耳を近づけると、そこで初めて音が耳に聞こえてくる。多数の超音波振動子を個別に制御することで、空中の特定のポイントに音の焦点のようなものを作り出し、そこだけ聞こえるようにしたらしい。

 落合陽一さんと言えば、超音波によって粉末を浮かせ、空中に模様などを描く装置など、空間をキャンバスにするような技術を次々に送り出して“現代の魔法使い”とも呼ばれた人。VRな空間にCGなんかを使い錯覚も利用して仮想の世界を作り出すことが今は流行っているけれど、いずれ世界はリアルな空間に映像や画像や音声を作り出し触感まで得られるようになっていくだろう。そんな未来を引き寄せるための技術って奴が次々に生み出されている。とっても面白い展示会。ほかにはセンサーを付けたお兄さんが踊ると、横のモニターに萌える美少女キャラクターが現れて、お兄さんとまったく同じ動きをしてポーズまで決める。「きぐるみライブアニメーターKiLA」が愉快。幻の「みならいディーヴァ」で世に問われ、そして「魔法少女? なりあ☆がーるず」で使われた技術に触れられる。行って感動をしてそして「なりあ☆ガールズ」の凄さを再確認してBDを買ってあげよう。何か大変そうなんで。


【10月26日】 SFマガジン2016年12月号をぺらぺら。VRとARが特集されてて我らが「ラブプラス」であり「ときめきメモリアルGirlsSide」のお父さんこと内田明理プロデューサーが登場してはユークスに移って立ちあげた「ARperfomance」についていろいろと喋っている。どうやってキャラクターをリアルタイムに動かしているか、ってのは中の人などいないと思いたいファンにとってネタバレになってやしないかと思うけれど、それを知ってなおキャラクターの表層に心を寄せて内面を勝手に想像することが可能なファンは心を寄せ続けるんだろう。それがキャラクター時代。

 VRやらARを取り上げた小説とか漫画とかアニメーションとかゲームを取り上げたコラムもあったけれど、小説として真っ先に上がって不思議のない「ソードアート・オンライン」も「アクセル・ワールド」も小説にはなく、それを原作としたアニメーションのところに入っていてちょっと悶える。なるほど紹介上の重複を避けてそっちで取り上げるから小説は別のを入れたって考え方もできるけれど、最初は小説で始まった作品なんだからやっぱり小説として評価して欲しかった。アニメとして劣る訳でもなく、むしろ世界的な広がりから行くなら今、もっとも世界で売れているVRでありARの小説だろう、「ソードアート・オンライン」は。でも小説として取り上げられない。ライトノベルだから? そこがやっぱり未だによく分からない。うーむ。

 朝も早くに起きては総武線から武蔵野線へと入って京葉線経由で新木場へと行きそこから東京テレポートへ。時間がまだあったんでマクドナルドで休憩してからホテル。グランパシフィック・メリディアンに行ったら名前がホテルグランドニッコー東京・台場になっていた。おいおいお台場で日航のホテルといったら台場駅を挟んだ反対側にあるホテル日航東京だろうと思ったらこっちはヒルトン東京お台場にチェンジ。資本の移動やら売却やらがあって日航の名前が知らず線路を渡ってきたみたい。不思議なこともあるもんだ。いやそれが資本主義って奴だけれど。いずれにしても日航の紆余曲折がこんなとこにも現れていたってことで。

 そんな元メリディアンで今はグランドニッコー東京でJapna Contents Showcaseをさっと見物。昨日も見たけどインディペンデントなアニメーションクリエイターのブースくらいで他の大きな映像会社は見ていなかった。んで思ったのはフジテレビジョン、やっぱりアニメーションが弱いかも。ドラマとはいっぱいポスターが飾ってあったけれどアニメは「モンスターハンターストーリーズ」くらい。ノイタミナ系もなくって自前でどれだけアニメをやっているんだって気になった。これがTBSだとアニメイズムあたりから「坂本ですが」とかいろいろ並んで賑やか。日本テレビ放送網だって結構並んでた。テレビ朝日はあんまりなかったかな。テレビ東京はもちろんいっぱい。TOKYO MXが出ていたかは知らない。

 ともあれそれなりに海外へと展開できるコンテンツとしてアニメーションを各局とも意識して抱えているのが分かるけれど、そうした意識があまりないのかフジテレビ、アニメをどうしたいのかがちょっと見えない。それともMIPCOMへの方に出していっぱいアピールしているんだろうか。とりあえず映画「虐殺器官」なんかこれから出てきて海外で行けそうだし。ドラマが10%割続出でバラエティも今ひとつな会社なだけに、今こそいっぱいアニメを作って未来のアニメファンが食いつく曲になっていって欲しいんだけれど、そーゆー長期的な視野で番組作りポートフォリオ構築が出来る会社なら、今の凋落なんてないか。誰のせい? 誰でもない全員のせいだろうなあ。上をどうにかすることも含めて。

 Japan Contents Showcaseでは地域でアニメーションとか漫画とコラボレーションしている自治体の関係者が登壇して取り組みを喋るセミナーをまず見物。神戸市の長田区は今では「鉄人28号」の巨大なモニュメントがそびえていることで知られているけれど、1995年の阪神淡路大震災で街のほとんどが焼けて靴作りという地場産業もほとんど壊滅してしまった。そこからの復興はただ街を立て直しても産業という核が失われているため空疎なものになってしまう。そうならないために核が欲しい,拠り所が欲しいといったところで地元出身の漫画家、横山光輝さんの業績を借りて鉄人を立てたら結構人が来た。もうほとんどの人がアニメも漫画も知らないのに、それでも見知っているそのフォルム。本当に国民的っていうのは、そういうことなんだろう。

 京都市の人は「京まふ」なんかを含めた取り組みを紹介。聞くと年間の観光客の7割とかが50歳以上で、このままだと若い人が京都に来てくれなくなっちゃう、だったら若い人でも来られるイベントをってこともあって立ちあげられた感じ。あとは京都にいっぱい大学はあってマンガ学部を持つ京都精華大学だってあるのに、卒業したらそうしたクリエイティブな仕事で食べていける場所がない。だからみんな東京に行ってしまう。これはもったいないってことで京都に漫画家の卵が暮らせる場所を作ったり、「京まふ」では東京から出版社の編集者が来てそこで関西在住の漫画家たちの原稿を見たりして地元から巣立てるよういしているとか。アニメーションに関しても仕事場のようなものがあるみたいだし、いよいよ京都も本気で地方のアニメ拠点に名を挙げた感じ。名古屋もやれば良いのに。西ジブリってどうなった?

 埼玉県の人はちょっと前に開かれたアニ玉祭の盛況ぶりとか紹介しつつ、これから売りたい作品として熊谷市が舞台になった「ブルーサーマル 青凪大学体育会航空部」を挙げていた。作品があることを熊谷市に教えて一緒になって盛り上げていくようなことを県がやっていたっていうか、市町村単位となると人でも限られアニメはもとより観光全体の振興にだって人が足りない中で、新しいコンテンツを探してそれの権利を把握し盛り上げに使うなんて不可能。それを手慣れた県が代行するようにして手をさしのべ、一緒に盛り上げていこうとしている。それが県全体の活性化につながるといった展開は、コンテンツツーリズムだとかいったもののひとつのモデルになるかも。出版社が旅行代理店と組んで京からお前の所は聖地だって行ってきたって、市役所町役場じゃ動けないものなあ。余裕のある県が音頭取りをする仕組みなんかを他の県も整えていくべきなのかもなあ。

 最後は鳥取県が出て、地震はあって倉吉とか土塀が倒れた映像ばかりが喧伝されるけれど、それで風評被害が出るのも適わないと行って大丈夫ですと呼びかけつつ、水木しげるさんと谷口ジローさんと青山剛昌さんという、作品ではなく作家を前面に立てた展開を各所でしているって話をしていた。なるほど確かにこれは珍しいケース。もちろん水木しげるさんは「ゲゲゲの鬼太郎」だし青山剛昌さんは「名探偵コナン」のキャラクターが前面に出てしまうけれど、それでも根底には郷土の漫画家とともに盛り上がっていこうという考え。誘われて作品ではなく個人が相手と感じれば漫画家だって悪い気はしなだろうし。今のところ日本人がまだ多いけれど将来は外国からのインバウンドを狙いたいとか。コナンとかアジアで人気だそうだし。どんな感じが1度くらいは見ておきたいなあ。米子のSF大会に行けば良かったかなあ。


【10月25日】 肝付兼太さんの付保うと同じ頃合いに、あーてぃすとの中西夏之さんも亡くなられていたようで新聞各紙に訃報が。かつて「ハイレッド・センター」とし日本のアート界を騒がせた男たちから「ハイ」こと高松次郎さんが亡くなり、そして「レッド」とこ赤瀬川源平さんも亡くなってひとり残されていたけれど、順番どおりにトリをとって鬼籍に入られたのはアーティストとしてのこだわりか、それとも手がける作品の静謐さが現しているように日々穏やかな中に老齢を迎えられたからなのか。

 近年になって見る作品はおおきい白いカンバスに緑だったり紫の葉とも花とも取れそうなもようが流れて草原のような雲中のような不思議な感覚をもたらしてくれた。見ているあけれ引き込まれながらも静かに立たずめるというか。洗濯ばさみがいっぱいついた作品もその構図の工夫の一方で構造の単純さから企みのようなものではなく、どこか諦観といったものが感じられた。ハプニングの王様のようにいろいろなものに手を出してはトレンドを作り出していった赤瀬川産とは対照的。そんなアーティストだったからこそ組んでいろいろ出来たのかも。どこかでまた回顧展なんかもあるだろうから、探して見つけて見てこよう。

 ファッションブランドとコラボレーションなんかはよくしていて、ウルトラアイにそっくりの眼鏡が出たりTシャツが出たりと賑わっていたりして、最近だとラコステがウルトラマンとのコラボシャツを出しててダダにピグモンにメフィラス星人にバルタン星人がウルトラマンとともに描かれてなかなかおしゃれなんだけれど、アートの方面でもちょっとしたコラボレーションが行われている様子。創立50周年の東京造形大学が、これまた誕生から50周年を迎えたウルトラマンから怪獣だけをピックアップして、全39話から怪獣たちを造形大の研究生に院生に教員が自分達なりの解釈でもって陶製の彫刻に仕立て上げた。

 見てすぐにこれはレッドキングだバルタン星人だザラブ星人の偽ウルトラマンだガバドンだと分かるものもあるけれど、そうでない独自の解釈でもってエッセンスを抽出して形にしてあるものもある。たとえばゼットンとか、そのものずばりじゃなくって破れたウルトラマンをメインにゼットンが内側から食い破るようなモチーフでもって方にしている。さらに意味不明なのも。そうした解釈を制作者は「ウルトラマン」の全39話を見た上で考えて行ったという。面白いのはそんな制作者たちがいずれも50年前の「ウルトラマン」放送時に生まれていなかった人たちどいうこと。院生で20歳過ぎで教員でも40そこそこ。リアルタイムに「ウルトラマン」に接しておらず世代もちょっと離れているから思い入れも少ない。

 その分、勧善懲悪の物語における単純な敵といったとらえ方ではなく、絶対正義のヒーロー相手に戦って敗れ去っていく儚さめいたものも感じたに違いない。または「シン・ゴジラ」と同様に避けることの出来ない天災めいた存在として。またはデザイン的に今はちょっとなフォルムを持ったものたちとか。そうした様々な解釈をそれぞれが行った結果としての彫刻は、自身が彫刻家でもあった成田亨さんの先鋭的なデザインが、コマーシャルベースの中で分かりやすい怪獣となって、そして今またアーティストの視線でもってリデザインされる。複雑な経緯を経たそれらを退避したときに見えるのは隔絶だろうか。回帰だろうか。元のデザインとこれらの作品を並べて見てみたくなって来た。

 作品はどれも11月5日まで展示されてはその後、抽選によって販売されて四方八方にもらわれていく。つまりは38体がすべて揃うのはこの機会だけ。南青山のスパイラルガーデンに並んでいる状況をまず長め、そして実物をじっくり眺めて怪獣って何だろうと考えよう。気に入ったら応募。1体が5万円らしいけれども誰がつくったかはよく分からないから活躍している教員クラスの作品かもしれないし、未来の成田亨さんかもしれない。そうした作り手の価値にかけるか、やっぱり怪獣だから自分の好みで選ぶか。ゼットンとかレッドキングとかは人気出そうだろうなあ。でも挑戦してみる価値はあるかも。そしてこれはあんまり来なさそうな作品にも。買って並べておくのも良いけれど、すべて集めたいと大富豪が購入者を訪ねて歩いて1体1億で買ってくれたらちょっと嬉しい。そんなアラブの大富豪、いないかな。

 世に名のある人たちの観たぞ泣いたよ自分も観たよ最高だったといったツイートがぞろぞろと並ぶのを眺めつつ、マイナーなメディアのロートル記者に回ってくる試写の案内なんてないものだなあと寂寥感を抱きつつ、それが資本主義なんだと自覚しつつ、チャンスを待った東京国際映画祭でのプレス向け上映で、TIFFCOMのスクーリングに上がると分かって日程を調整し、午後からあったセガ・インタラクティブの仕事をとっとと片付けお台場へ。そこでTIFFCOMの会場へ立ち寄って、知り合いのアニメーション作家が新しい作品を出していたり、eスポーツをテーマにしたアニメーションを展開しようとしている人がいたりするのを眺めて時間を過ごしてから、来年の2月で閉館が決まっているシネマメディアージュへと出かけて登録をして待つことしばらく。

 遠く新宿では華やかな舞台挨拶もある中を、クラウドファンディングの支援者たちが温かい雰囲気の中で楽しんでいるのを感じつつ、雨の降る夜の平日のお台場という寂しさも漂う雰囲気の中で、ようやく観た片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」に泣いた。なるほど、やっぱりそれは戦争という悲惨な経験を描いた作品で、愛しい人たちが次々と死んでいったり、戦時下という異常な状況下で理不尽な扱いを受けたり、これは戦争とは関係なしに、女性が恋愛とかいったものとは切り離されて、家の道具のように扱われて嫁に出され迎え入れられ、夫の姉に邪険にされつつ堪え忍んだりするような展開に、悔しさと悲しさの涙が浮かんだんだろうというとちょっと違う。

 だったら何かというと、それは嬉しさ。ほとんどラストに近い場所でふわっと漂い、さっと心をなでてグッと涙がこみ上げて、ジンと目頭を濡らした。観た人ならたぶん分かる救いのシーン。訳も分からない中を否応なしに離別させられ、最愛を失ってしまって漂っていた時に見えた光明。そこにすがったら厭われず、優しく受け止められたという展開に、失ってしまった憤りを埋めて、新しい未来をひとりが得て、大勢が得て、新しい毎日をどうにか歩んでいくことができるようになった、その道筋の明るさに嬉しさが湧いて涙が出た。良かったねえと思った。

 泣き所というなら、切実な死別といったものが幾つもあって、理不尽な扱いというのもあって、哀切やら痛切といった感情から涙をこぼしたくもなる。でもグッとは来なかった。それは、あまりに淡淡とした日常が続いて、その中で毎日を懸命に、けれども楽しげに生きているすずさんという女性がいて、そんなすずさんを中心とした人々の日常が、だんだんと戦火に入り込んでいきならがも、それを苦とせず厳しいけれども風と流して生きている姿に、感化されてしまったのかもしれない。あるいは、そうやって淡淡と日常が描かれる中で、だんだんと暮らし向きが変化していくのを見て当然だと思うようになった、あるいは仕方が無いことだと思うようになってしまって、そこに起こる空襲の暴力、死別の悲劇、離散の苦悩もまたあの時代、あの状況にあっては至極当たり前のことと感じてしまう頭になってしまったのかもしれない。

 そういう風に馴らされてしまった果てが、あらゆる苦難を受け入れるんだといった洗脳にも似た状況。けれどもそれが玉音放送によって解けて、いったい何の苦労をしてきたんだと分かってしまった時、怒りと悔しさがない交ぜになった気持ちが浮かんで、すずさんは泣き叫んだ。そんな気がした。他の家族が至極当然と受け止めていたのとは余りに対照的だったその姿は、慣れようとして馴らされてしまった自分への怒りもあったのかもしれない。

 日常。淡淡とした日常。営々と続く日常。それがだんだんと変わっていくけれど、変わってしまったこともまた日常になってしまうあの時代の日常を、どこまでもリアルに、そして愛らしいキャラクター描写によって描いた希有な作品を、その希有さがより際立つような形で動きをつけ、背景を整えてアニメーション映画として送り出した。観ていると、そこにはあの時代の日常があって、そこに自分も入り込まされる。そして気がつくと銃後の暮らしに馴らされてしまって、それが幸せかもとすら思えてしまう。でもそうではない様々な悲惨があったことを思い出させ、その上に出会いを載せて今一度、日常を取り戻そうと強く決意させる。そんなアニメーション映画だと感じた。

 のん、というより能年玲奈の声はもう徹頭徹尾完全無欠。ほとんど喋りっぱなしのモノローグ映画にすら思えるくらいの活躍ぶりを、どこにも抜けがなくばらつきもなしに演じきったところが凄い。というか演じるよりなりきったとでも言おうか。ぼーっとしつつも時折みせる静かな怒りや激しい嘆き。そんな変化をきっちり演じきってしまう才能に感じ入った。広島弁や呉の言葉への違和感はネイティブでもないので一切無し。棒さ加減も微塵も感じない。凄い女優を起用して凄い演技をさせたもの。これは名演。それも永遠の。

 これだけあちらこちらで話題になっていれば、多分大勢が観に行くだろう。それが設定から浮かんだような戦争の悲惨を描いたものではないと知って、感動したい気持ちで出かけて肩すかしを食らったような気分で映画館を後にする人もいるかもしれない。でもそういった気持ちではなく、何か珍しいものでも観に行くつもりで劇場に入った人は、繰り広げられる日常に知らず引き込まれてしまだろう。のほほんとしてドジなところもあるすずさんの可愛らしさに見入ってしまいながら、戦中へと誘われ戦争末期にさらされ戦後にたどり着かされる。見終わって長いものを見せられた感じはない。むしろ短いとすら感じさせられるくらいに展開に惹きつけられるのは、丁寧な表情や仕草の描写があり、フッと心を癒やされるコミカルな描写もあって、気持ちを保ち続けられるからだろう。

 そんな笑いがあの時代にあったのか? というのは先入観に染められた見方。日常はあって笑いもあった。そういう認識へと引き戻された上で、ふっと梯子を外される状況に呆然とする。その呆然をこそ噛みしめ、そうならないための方策を探るのもひとつの見方かもしれない。などと言葉を並べたところで、人気者の140字にはかなわないので宣伝の埒外におかれるロートル記者。まあいいや。こうして観られた訳だし、書くことも出来そうだし。その時は褒めまくってヒットさせてそして、片渕監督に新しい作品を作ってもらおう。何が良いかなあ、越谷オサムさんの「いとみち」シリーズをアニメーションでやらないかなあ。


【10月24日】 肝付兼太さんは初代スネ夫ではなくって、実は2代目スネ夫で初代ジャイアンでもあるというのはテレビアニメーション史的なトリビアだけれど、今となってはすっかりそんな思い出も薄れて、つい口をついて初代スネ夫と言ってしまうくらいに当たり役ではまり役だったっけ。もちろんそれ以前からも「ジャングル黒べえ」の黒べえであったり、「銀河鉄道999」の車掌さんであったり、「ドカベン」の殿馬であったりとさまざまな役でその声に接してはいたけれど、長く存在を知られ永遠に近いものとしたのはやっぱり「ドラえもん」。その中心メンバーだったジャイアン役のたてかべかずやさんに続いて肝付兼太さんが亡くなられた。

 美声じゃなくってどちらかといえばだみ声だけれど、愛嬌があって優しさもあってと不思議な声の持ち主だった。だからいろいろな役で脇を務めつつ黒べえのような作品では主役まで射止めた。美声で美形の声優さんばかりがもてはやされる状況においてこうした個性的な声優さんって生まれて来るんだろうかと、いつも考えてしまうけれども見渡してイヤミのような声を真似して鈴村健一さんが出してはいても、その声を聞けば肝付さんであり、そして役のキャラクターであるといった重なりを持って感じられる声優さんはなかなかいない。せいぜいが中尾髏ケさんくらい? あとは山口勝平さん? でももうどちらも大ベテラン。そういう声が豊穣にしてきたアニメーションが未来、どうなってしまうのかって心配も浮かぶ。考えていかないとなあ、声優プロダクションも声優志望者も。

 イヤミといえば肝付兼太さんもアニメーションの「おそ松さん」に出演してあのイヤミを演じている。ただしこれは2代目で、初代は小林恭治さんという方。「劇団の先輩で、声の質が違ってた。恭ちゃんは綺麗で柔らかくて温かった」と肝付さんが振り返り、そこに同じインタビューに同席していた富田耕生さんが「この人はちゃらんぽらんだから」と突っ込んでいたっけ。そして自分なりに「トニー谷を参考にして」作り上げていったのがあのイヤミ。富田さんは「ばっちりだよ」と言っていたけど、制作していたスタジオぴえろの社長だった布川ゆうじさんから、「先生(赤塚不二夫さん)は違うって言ってたぞ、肝さんのこと。でももう少し見てみようって」言われたという。

 そうこうしているうちに慣れたか忘れたかごまかされたか、言われなくなって以来、赤塚作品では「元祖天才バカボン」の本官さんこと目ん玉つながりのおまわりさんと並んで代表作に。声優さんってそうやって役を自分のものにしていくのかと思わされた。ちなみに富田耕生さん自身もバカボンのパパでは2代目で、初代は雨森雅司さん。「雨森が死んで、悩みましたよ、止めた方が良いってベテランディレクターにも言われたけれど、劇団の先輩からやよと言われて受けました」。そして「似せてやろうかなと思ったけれど、それじゃあつまらない。自分にとて楽な声を出してやりたいから、1本目から自分でやった。そんなもんだ。行けるわと思った」と振り返っていた。受けて肝付兼太さんも「違和感感じなかったよ」。そんな2人のやりとりも、もう聞けないのかと思うと寂しい。そして自分の声を貫きながら役になりきる声優さんも少なくなって悲しい。せめて富田さんには長生き、して欲しいなあ。

 カズ・ウツノミヤとう方がどれくらいのバリューのある方なのか分からなかったけれど、その人がトークを行うなら是非に相手をと指名したのを光栄に思って出てきたのが丸山茂雄さんなら相当に凄い人だってことなんだろう。そんな2人が出演した東京インターナショナルミュージックマーケットことTIMMのセミナーを渋谷で見物。聞くと英国滞在が長くそちらで音楽出版の仕事をしつつマネジメントなんかもしれいたらしいカズさんと知り合った丸山さんが、日本から世界へと羽ばたいて活躍するミュージシャンやクリエイターを生み出すならばやっぱり海外でしばらく暮らさせてみるのが良いってことで何人もの人材を、カズさんがいたロンドンとかに送り込んでいたらしい。まだレコード会社が儲かっていた時代だから出来たことって丸さんは話していたけれど、それで鈴木杏樹さんが行ってKAKKOという名でデビューしたり、小室哲哉さんがいったりしてたという。

 それがどこまで役だったかは分からないけれど、小室さんなんかが後にしっかりプロデューサーとして活躍できるようになった背景に、ロンドンで学んだ経験があるのだとしたらやっぱり意味があったんじゃなかろーか。ただ今となってはそうしたレコード会社によるミュージシャンのR&Dなんてとてもじゃないけど難しい。そしてもうひとつ、音楽が音楽だけで出て行くということも。というか本来はやっぱり音楽ってのは言葉であり文化であり風土といったものの中から生まれて育っていくもので、いきなり外部から持ってこられても、あるいは持っていっても通用するといったものではない。それを丸さんは「YMOの成功で勘違いしてしまった」。あれだって日本という文脈とそしてファッションというバックグラウンドを持って攻めたから通じたんであって、音楽だけが行ったところで果たしてどうだったか。受けたかもしれないけれど、広がりはしなかったもしれない。その意味であのスタイルであの風貌で展開したのは良かった。戦術としても。

 それも今では通じないとなった時、やっぱり映像なんかといっしょに出て行くことが重要かもしれないって丸山さん。ゲーム会社に移った時に、「ヴァンパイアハンターD」ってアニメーションを持ってこられてそこに丸山さんの名前があるってことが評判になったとう。小室哲哉さんが音楽を手がけたアニメーションで丸山さんも名前を連ねていた。思わぬところで海外に日本の音楽が伝わり丸さんの名前も伝わった経験は、アニメーションでもゲームでもそこに音楽が乗って一緒に出て行く効果ってものを感じさせた。だから今大ヒット中の「君の名は。」についても触れてRADWIMPS、って名前が出てこなかったけれどもそのプロモーション映像でもあるって見方をしていた。自分は20年前にそれをやったとも。

 そうしたタイアップ展開が悪いってことじゃない。むしろそれが今は普通なんだとも。「音楽は音だけでない。アニメであったりゲームの音楽であったり、音楽と映像がくっついていく。それが音楽なのか、映像とくつちているから新しい種類のコンテンツと考えるのかは何とも言えないが、ソニー・ミュージックにいた私がプレイステーションをやった理由には、当時圧倒的なパワーを持っていた任天堂が、ゲームに主題歌をつけて世界に広めることに成功したら、そんなモデルを作ってしまったら、私が契約しているミュージシャンが任天堂に移ってしまうという危機感があったから。音楽と映像はくっつてい、それが大きな力ないなると思っていた」。幸いにして任天堂はゲーム主流で言ったけれど、今は別の分野で映像と音楽がくっついて広がっている。「アニメが世界に広がって、それにくっついている音楽が注目されるようになっている。映像というものを絶対に無視できないベイビーメタルのようなものも出てくる」。そんな時代にどう音楽を作り展開していくか、ってこと考えないと、音楽至上ではダメなんだということを訴えていた。

 同時にyouTubeだとかSNSだとかいったネットなんかも駆使してどんどんと自発的に情報を発信していける時代でもあって、そこに必要なのはレコード会社の力ではなくマネジメントの力だといった話を、これはカズさんも含めてしていた。レコード会社の展開力も宣伝力も前に及ばないなら自前で出来ることをしろ。ただしそうしたことが簡単にはいかないように今の著作権法なんかがあったりするのを丸さんは言っちゃっていいのかなあと言いつつぶちまけていた。有線放送だって貸しレコードだって最初はレコード会社から非難されたけれども後になればそれが音楽の幅を広げた。

 着メロだっていろいろ言われたけれどもそれで儲かった金が今のネット社会の基礎になった。「何かがブレイクするときには怪しげな事がおこる。それを合法的なもので押さえ込むのは間違い。俺たちは怪しげなことやっているんだから。みんなも怪しげな事をやった方が良い。レコード会社が一時、ちゃんとした会社になってサラリーマンをやろうと思いすぎた。レコード会社のパワーが落ちた今はもっと怪しげなことをやって、世の中を転がしていかないと」。そうしないと、どんどんと動いている時代に取り残されるだけ。もっと敏感に、法律なんてぶっ飛ばすくらいの勢いを見せないと。なんてことを言っていた。

 そんな人がトップにいればもっと音楽業界も変わったし、ソニーだってアップルに負けなかったかもしれないけれども残念ながら丸さんもソニー・コンピュータエンタテインメント(当時)の人もソニーの本流からははじかれ枷をかけられそして……。悔いてもしょうがないけど悔やまれる。まあでもこうやって出てきて喋る話を聞く音楽業界の人たちはたくさんいる。落ち目を悔いてもいなくて新しい音楽を探していろいろと仕掛けようとしている。それならきっと大丈夫だろう。幸いにしてアニソンでもベビーメタルでもアイドル演歌でも日本がビジュアルや映像なんかとともに世界へと持って行けそうな作品が増えてきた。あとはどうやって押し上げるか。それがマネジメントってことなんだろうなあ。ちょっと注目していこう。


【10月23日】 もしも次回作が「ヴィヴィッドストライク プリキュア!」になったら敵を相手にプリキュアたちが肉弾戦を仕掛けるのは今までどおりとして、取った腕を捻ってはへし折り掴んだ頭を壁に叩きつけて顔面を潰した上で倒れたら頭を踏みつけてとどめを刺すだろう。画面は血塗れになってカメラを意識して飛び散った血痕がモニターいっぱいに付着するような演出がってあるかも。でもそれが正義。戦って勝つだけでなく圧倒的な強さでもって敵を再起不能にしてこその勝利ってことを、若い内から心い叩き込んでおけば少女が大人になっても男たちに舐められることなく、ハラスメントには暴力で対抗できるようになるかもしれない。とか思った「Vivid Strike!」。

 孤児院にいたところを資産家の老人に気に入られ引き取られ学校にも通うようになったリンダ・ベルリネッタだったけれどもおじいさま大好きなおとなしい娘だったのがイジメにあっておじいさまの死に際に間に合わず嘆き悲しんだ果てに憤り、いじめていた3人の女子生徒の腕をへし折り顔面を叩きつけ蹴りを食らわして踏みつける。いやあもう凄惨。かわいい系のキャラクターデザインとのギャップにゾクゾクしてしまった。そんな乱暴者でありながらも事情が認められたか実力を頼まれたか、捨てられることもなく格闘家の道を歩んでそしてフーカ・レヴェントンとの因縁の試合へと突き進む。ジムで正しく鍛え始めたフーカだけれど果たしてリンネに勝てるのか。積年の想いがぶつかり合う試合はいったいどれだけ凄惨に。今からちょっと楽しみ。

 「ガールズ&パンツァー劇場版」を観に行ってたんで22日の吉祥寺アニメーション映画祭は見られなかったけれどもグランプリには見里朝希さんの「あたしだけをみて」が輝いたみたいでこれでいったい幾つ目の賞なんだと指折り数える。1等賞とは限らないけどいろいろなところで入賞している感じ。フエルトの素材が変幻自在なアニメーション的動きでもってキャラクターを描き出していること、そしてちょっとダレたカップルに起こりがちなすれ違いを描いていることが観客とかのリアルの琴線に引っかかったのかもしれない。ギャグ部門は藤井周平さんという人の「胃酸のお仕事」という作品で、見たことはなかったけれどもなるほど楽しい。

 優秀賞に輝いた斎藤圭一郎さんの「イタダキノサキ」はICAF2016で見た作品で破滅に瀕して海辺の島で暮らす人たちにもたらされる新しい幅員と、そして海の中での怪物たちのバトルといったような展開があった記憶。つまりはSF。それをアニメーション調とはちょっと違った絵本のようなベタッと塗った絵でもって描いている。長いけどワクワクとするストーリー。こういうのを京都精華大が作るとやっぱり巧いなあ。そんな吉祥寺アニメーション映画祭にノミネートはされていて、惜しくも入賞を逃したWabokuって人の「VOYNICH」って作品がネットにあったんで見て、三角形の鼻をしたキャラクターに見覚えがあるなあと持って調べたら、東京工芸大学の卒業制作展で「EMIGRE」を出した人だった。

 中島渉さん。それが名前をWabokuとしてNENENE UNITEDってところに入って活動しているみたい。新作「VOYNICH」はストーリーこそ「EMIGRE」みたいにSF的な設定も展開もある訳ではないけれど、独特の世界観を持って描かれる建物とかキャラクターの雰囲気は変わらず、音楽に合わせて情景を見せる作品になっている。こういう感じを続けていけばもうちょっと、長い時間でストーリーを紡ぐようなクリエイターになっていけるのかもしれない。今だとまだシチュエーションを見せる断片としての作品が中心だから。両作品ともいろいろなところでノミネートが続いているんでスクリーンで見られる機会も訪れそう。その時は行こう。

 せっかくだからと国立新美術館でTOKYO ANIMA。遅い回のにしてコミティアに行く手もあったけれどもやらなきゃいけない原稿もあるんで早くに見て退散することにして午後1時版からの回をもらいしばらく館内で休憩。図書室で松井冬子さんの展覧会のカタログを見たり青崎有吾さんの「アンデッドガール・マーダーファルス2」(講談社タイガ)なんかを読んで過ごす。いやあすごいな「アンデッドガール・マーダーファルス2」。もとより不死の女と鬼の男と戦闘メイドがトリオ漫才を繰り広げながら19世紀のヨーロッパを旅して怪物が絡んだ事件に挑むという、ハチャハチャもあって推理もあるというユニークな作品だったけれど、最新刊ではそこにシャーロック・ホームズとワトソン博士とアルセーヌ・ルパンとオペラ座の怪人と、そしてモリアーティ教授にアレイスタ・クロウリーに吸血鬼カーミラに切り裂きジャックとあと誰だっけ、いろいろ参加してはくんずほぐれつのどつき漫才が行われる。保険屋のエージェントもいたっけか。

 ルパンの知恵とホームズの推理が激突しているうちならまだ良いけれど、毒を使うカーミラに手品を魔術にしてのけるクロウリーに圧倒的な戦闘力を誇るジャックと人外もそろって鬼ですら手を焼く状況。でもそな中で人間なのにしっかり生き延びるホームズって相当な腕前なのかも。ルパンは隙を見てとっとと逃げたから戦闘力は不明、でもないか鬼を相手に互角以上に戦っていたから。そして我らが鴉夜はようやく捜し物を見つけた感じだけれど取り戻すにはちょっとハードルも高そう。舞台も人狼の森へと移って今度はどれだけのくんずほぐれつ度合いになるのか。参加して負けないプロの登場を希望する。何のってもちろん漫才の。

 さてTOKYO ANIMAでは世界各地で賞をとってて確か大藤信郎賞もとった折笠良さんの「水準原点」をようやく見たというか、なにか会場から海岸へと向かって波が向かっていくような映像だったけれどもそれは粘土によって表現されてストップモーションによってだんだんと変化していく様が捉えられている。始まりがある訳でも終わりが来る訳でもないエンドレスに続きそうなクライマックスもない映像は見ていて眠さも増すけれど、時折浮かぶ石原吉郎の詩の言葉とかを追いつつ寄せっぱなしの波を見て、移る時間といったものを感じてみるのも面白いかも。今度は目がシャキッとした時にまた見てみたい。どこかで上映、あるだろうか。「DOMANI・明日展」とか。

 幸洋子さんお「ズトラーストヴィチェ」で始まってポップなのでいくかと思ったら岡崎理恵さんの「FEED」が来てあともだいたいが淡淡とした中にシュールな変化を描いてシンとさせるような作品が多く意識を保つのにちょっと苦労した。ただキム・ハケンさんの新作「Jungle Taxi」は「MAZE KING」の持っていたシュールでえサスペンスフルな感じが維持されつつもエロティックさが打ち出されて見ていて引き込まれた。あのタクシーはいったい何で乗っていた男は誰で乗り込んできた女はどこをめざしそこにいた男は何者か。考えるより感じる方が良いのかも。あと何度か見て考えよう。


【10月22日】 1巻の頃なんてほとんど覚えてないからスピキオとハンニバルとブッチとサンダンスとそして菅野直までもが漂流者として第3話でまとめて登場していたかなんて分からないけど一気に叩き込んでは敵の方も土方歳三にジャンヌ・ダルクにアナスタシアといった廃棄物をまとめて出して対峙させ、世界が大変なことになっていると分からせるあたりは漫画とは違ったアニメーションならではの工夫がこらされていると思ってよさそうな「DRIFTERS」。オルミーヌも織田信長と那須与一と島津豊久の3人組にあったみたいでおっぱいをしっかり見せつつ一党に引っ張り回され苦労の絶えない日々へと突入していくことになるんだろう。完結してない漫画を途中までなぞって次クールとかいったヌルいことはしないかも。ちょっと興味が出てきた。

 「カラスは真っ白」を見に行った恵比寿のリキッドルームの手前、交差点角にあるギャラリーの恵比寿ZAVAで開催中の中尾変さんによる個展「奇妙なアイスクリーム」がすごかった。エロくてメッセージ性もあって何よりうまい。あと眼鏡っ娘。最高だった。プロフィルとか見ると画家というより絵師としてペンキ絵みたいなのをよく描き、ラブホテルの内装なんかもやって来た感じの人が一念発起、アーティストとして立つに当たって「ヘンナカオ」と姓名をひっくり返せばそう読める名前として中尾変と名乗りアートとしての絵を描き始めてだいたい2年。その名で初の個展を10月20日に迎えたという次第。

 ちょうどスタートした日の夜に前を通りがかっただけでパツンとやられてつい入ってしまったくらいのインパクト。そして土曜日に改めて行って作品たちをじっくりと眺める。メインとなっている2枚は咲く花々に少女たちがついているといった構図で、つまりは花が一種の生殖器ともなってその形を晒しているといった雰囲気。騎乗位的にしゃがんでいるものと後背位的に尻を向けているもの。元はバリの土産絵らしくそれに女性を乗せて勝手にコラボしたといった説明。それでも女性の表情や仕草はどれも巧みで生きているような感じすら受ける。そして遠目に惹きつけられた「念彼観音力」という作品は下着姿で眼鏡の女性がむつみ合ったような構図。眼鏡っ娘スキーにはどんぴしゃりではあると同時に女性同士がいったい何を思って向かい合っているのかといった想像も浮かぶ。

 好き合っているのか。それとも誰か男を誘っているのか。アイコン的な表情仕草の奥にある女性の深遠さが漂い出る。どっちも眼鏡っていうのがなかなかにそそられる。眼鏡っ娘という意味では「ドコガチカミチ?」もなかなか。外国人っぽい眼鏡の少女が裸にソックスだけを身に着けしゃがんだような絵の各部位には東京メトロの丸にアルファベットのマークが置かれている。地下鉄に乗っていた時に浮かんだというシチュエーション。それは巨大な女性に例えられた東京という街を僕たちが徘徊し蠢いている状況をなぞらえたものなのか。

 批評性という意味合いでは渋谷のセンター街を舞台にした「Stray sheep in Tokyo」がなかなか。狭い路地の奥に見える空には吹き出しがあってさまざまな言葉がつぶやかれ、そして路上には裸の少女たちが佇み排尿すらしている少女もいる。あからさまであけっぴろげな少女たち。そこに挟まれ太陽の塔かなにかのマークをつけた岡本太郎と、原子力のあのマークをつけた田中角栄が佇み手前にはヒトラーになぞらえられそうな安倍晋三がこちらに結いを突きつけてくる。猥雑で軽薄な世界から意外で活力のある存在は失われ独裁が大手をふて負かりとおる? そこまでの意味があるかは不明ながらも見ていろいろと想像したくなる。

 さらに北朝鮮の3世代の金王朝の独裁者たちが描かれた絵も。先代先々代の2人は看板となって奉られ、そこに息子らしい男が全裸で佇み脇に息子らしい男が全裸で醜い体格をさらした「Dont get into a groove」という絵は人の配置がなかなか面白くメッセージ性に加えた構図の妙味も楽しめそう。先代先々代に挟まれた場所に立つ銃を持った少年の意味とか何なんだろう。ほかレオタードの少女がポーズをとった、おとなしめの(それでおとなしいのか)「ラストダンスは私と」とか、こちらは全裸の女性がトレーに飲料と食料をのせてウェートレス然として立つ「愛なき時代の最中へようこそ」とか並んで絵として巧みでそれでいて過激なモチーフについつい目が釘づけになる。スクラップのように本のページにさまざまなモチーフを描いたりコラージュした1冊も出ていて中には初音ミク風のイラストも。タイプが違う絵を取り入れ散らばらせる腕の持ち主だってことが分かる。

 あからさまなエロを嫌う人には受け入れられそうにもない作品群かもしれないけれど、それを描きたいといった本能がりそこに見たいものがあると感じるリビドーがあってそれらがぶつかり合う場所に屹立した欲望のかたまりたち。そんな展覧会になっているような気がする。バオバブの木がペニスになっていたりアルプスの山の前にペニスが屹立していたりする牧田恵実さんのエロスとはまた違った、男性に響くキュートさを持ち女性にも自分の奥底をえぐられるような感覚を与える作品って言えるかも知れない。体形の崩れた中年の女性をかき抱く若い少年のような男の構図は、そんな願望のひとつの現れか。また行ってじっくりと見てこよう。お金があれば買うんだけれどなあ。眼鏡っ娘のどれかを。絶対に。

 例の三浦弘行九段がスマートフォンで将棋ソフトを動かして指し手をカンニングしてたんじゃないか疑惑で、個人を名指しで追い込む割には第三者機関を立てて詳しい調査が行われず、とりあえず休場にして一件落着にしようとしていた節があったのが一転、スマートフォンの履歴も含めて詳しい調査を行って科学的に白黒決着を付けるといった話になって来た。それが当然というか、そもそもが疑いをかけて排除する以前にそうした調査を徹底的に行うのが筋なのに、なぜか急いで出場辞退へと追い込んだ感じがあった理由が判明。対戦相手となっていた渡辺明竜王が自分は疑わしい相手と対局したくない、それを進めるなら剥奪されても構わないと言ったとか。

 天下の竜王が対局をしないと言って困るのは対局料が入らない当人だけでなく、タイトル戦を行うことによって協賛金をもらっている日本将棋連盟もで、これで竜王戦が潰れたら困るからと渡辺竜王の言い分を優先して、調べもしないで三浦弘行九段を排除した、ってことならもうこれは正当とか正義といったものから逸脱したご都合主義。それを認めてしまった谷川浩司会長を筆頭にした日本将棋連盟にとっては、極限のスキャンダルと言えるかもしれない。調べて本当に三浦弘行九段が潔白だった場合、取り返しがつかないんだけれどどういう対応をしてくるか。そこが見物。でもって入った亀裂は取り戻せないまま分裂なんて自体になってしまうかも。日本将棋連盟と新日本将棋協会と全日本将棋評議会。どれに入れば1番良いのか。

 そして川崎まで行ってチネチッタで「ガールズ&パンツァー劇場版」。どえらいサウンドを構築しているそうで、前目で見たけどガンガンと響いてくる砲弾が戦車にぶち当たった金属音とか確かに迫力。4DXじゃないのに震える振動で椅子が揺れて4DX的な体感も味わえた。それでいてセリフも聞こえてサウンドトラックもちゃんと耳に入ってくる。良い仕事をしていたなあ。ストーリーについては今さらだけれどやっぱり何度みても面白い。次にどう来るかが分かっていてもそれを描く映像、聞かせる声い惹きつけられる。西住しほさんの開脚座りとかねこにゃーの眼鏡越しの目とかに見入ってしまう。それを大画面で味わえる機会も少なくなってきた。チネチッタは今回限りだろうけれど、次またどこかでやるなら絶対に行こう。4DX近所でやってくれないかな。


【10月21日】 実は第1作からほとんど見ていないプリキュアシリーズから、もちろんやっぱり見ていない最新シリーズ「魔法つかいプリキュア!」の劇場版となる「映画 魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身! キュアモフルン!」を試写で見て涙ぐむ。友情に燃えて孤独に悲嘆して信頼を喜んで希望を失わずにひた走る。そんな諸相が正味1時間くらいのストーリーの中にしっかりと描き込まれてあって、見ているうちに心をぐらぐら揺さぶられ、引っ張られ連れて行かれて高められる。良いもの見たなあって気にさせられる。

 なにしろ“僕は友だちが少ない”な人間なんで、友情だとか逆に孤独だとかいったシチュエーションには見ていて心にジンジンと響く。あるいはグサグサと刺さる。そんな物語。僕だって本当は……なんて気持ちになった時に浮かんでくる涙。作中の人物じゃないけれども自然と泣けてきてしまう。大人でそれなら子供たちにはいったいどれだけの響くメッセージがあるんだろうか。こういう映画が作れちゃうところが東映アニメーションの凄さなんだろうなあ。バトルもあるしギャグめいた展開もある。あれ、真似するとしたらいったいどんな果実を使うのかな。ちょっとワクワク。

 プリキュアなる存在がいかなるものでどういう関係性のもと何を相手にどんな物語を繰り広げているかというフォーマット的なものはもちろん頭に入っているなら大人だって展開に戸惑うことはないし、そうでなくても友情に孤独が挑んで開放される展開は普遍。気にせず観に行って子供たちの邪魔にならないように後ろから一生懸命にミラクルモフルンライトを振りまくろう。あと最初にフル3DCGによる「キュアミラクルとモフルンの魔法レッスン」が上映されるけど、見ると東映アニメーションが十分にピクサーライクなフル3DCGによるアニメーション映画を作れそうなことが伺えた。キャラは可愛いしよく動くし表情だって豊かだしモフルンはふさふさだし。あとは挟まれたこれもギャグかパロディか。びっくりしたニャ。10月29日公開。

 やっぱり出てきた、沖縄県でヘリパッドの建設に対して抗議する地元の人たちに対して、大阪府警から来た機動隊員がひどい言葉を投げつけたという件について、地元の人たちから機動隊員たちに罵詈雑言が投げつけられているんだぜと書く新聞が。日頃から御用っぷりも目立っていたけど、今回もそうやって「沖縄の異常空間」ぶりを指摘してる。でも、どうしてそもそも沖縄県が「異常空間」になってしまったのか、っていった検証はなし。もちろん基地があるからで、加えて日本の歴史の中で編入され虐げられていたって過去もある。だからこその反発なんだけど、それに触れないってことはつまり、沖縄に基地があってそれが県内で移設されるのは当然だっていう意識があるんだろうなあ、その新聞には、そしてその新聞が縋る政権には。やれやれ。

 つまりはタブレットにコントローラーがついてゲームがしやすい上にドックに治めればテレビにだって映し出せるようになって、より大きなコントローラーでもっと楽しくゲームが出来るという、そんな器機だと捉えるのが良いんだろうなあNINTENDO SWITCHのことは。ってそれってタブレットとして部屋の間を持ち歩けたWii Uと何が違うのって話だけれど、どちらかと言えば家の中に限られていたのがタブレットライクにしたことでNINTENDO SWITCHはiPadとかKindle Fireみたいなイメージで持ち運んでそこでゲームが出来る。それ以外にはだったら音楽は聴けるのか、ネットにアクセスできるのか、メールは、メッセンジャーアプリはといった話になるんだけれど、AndroidでもなくAppleでもないNINTENDOにそうしたアプリを整備するだけの余力はないだろう。やる気も含めて。

 だとしたらやっぱりゲームを中心にしたコミュニケーションをとるためにツールって感じ。そこにブラウザベースで楽しめるサービスも乗っかるのはNINTENDO 3DSの延長か。つまりは原稿のWii UとNINTENDO 3DSを少しずつバージョンアプしてスタイリッシュにしたのがNINTENDO SWITCHってことになる。でもそこに至るにあたって子供は置いてきたって感じで、海外なんかで公開されたイメージPVに出ているのは大人か若者ばかりでキッズが誰も出ていない。そういった層にこそ定番として受け入れられてこその安定だったのがいったいどうした。なんて思いも浮かぶけれどそちらはNINTENDO 3DSを引っ張りつつWii Uも続けてもらうことになるのかな。どうするのかな。来年春という発売に向けて出てくる戦略を中止。ソフトタイトルとか。ネットのサービスとか。

 姉が観覧車から飛び降りて自殺をしようとして、今は意識不明でずっと病院で眠っている。そして弟はその後に火事となって閉鎖された百貨店の屋上の観覧車で、“観覧車の花子さん”と呼ばれている幽霊が姉にそっくりだったことを知り、また会いに行きたいと通い詰めていたそこで、見かけたのが古いフィルムのカメラを持った少女。その彼女がピンと来て撮る写真にはゴーストが写っているのだという。興味を持った僕は彼女と知り合い彼女に“観覧車の花子さん”を撮って欲しいと頼んだけれど、彼女は取り合おうとしなかった。あまつさえ着替え中の少女を見てしまって彼女にカメラを叩きつけられ殺されかける。そんな感じに出会いふれ合い、そして心霊写真を媒介にしてつながった久佐薙卓馬という少年と、尾木花詩希という少女の出会いから深まる関係を1本の筋とした青春ストーリーは、同時に卓馬の姉がどうして自殺未遂を起こそうとしたのかという真相へと迫るミステリにもなっている。

 美人だけれどクールでシニカルなところもあった卓馬の姉が、何かを理由に自殺するとは思えない。だったら殺されようとした? それともやっぱり追い詰められた? 浮かんで漂うのは観覧車を舞台に1人の少女が乱暴されているような写真。そして誰かが自殺未遂したという噂。そこから見えて来たのは、もしかしたら卓馬の姉は誰かに写真を撮られそれを理由に脅された貸して自殺しようとしたのかもしれないといった話。そして発生した再びの火事。誰かが姉の自殺の真相に迫る卓馬を殺そうとしているのか。それは写真を撮った人間なのか。等々。推理めいたものを巡らせつつ進んでいく展開の果てにひとつの真実が見えてくる。

 そんなミステリ的な楽しさを一方に写真の天才で自分がまだ幼い頃に撮った写真をプロのカメラマンだった父親が自分の名義でコンテストに応募したら賞をとってしまって、それが露見して失踪してしまったほどの腕前。それがトラウマとなって世界から色が消えてしまった詩希は、頭にピンと来た場所でシャッターを切ることで心霊写真のようなゴーストをそこに写すことができる。そんなオカルト的な要素も一方で走らせながら、過去に悔い今を探して足掻く少女を姉の真相を探る少年が打算もありつつ親身になって支えていくといった青春があったりする。フィルム代にお金を使って食事もままならない詩希にご飯を食べさせたりと言った世話を焼くのは、姉のためかそれとも詩希のためか。揺れ動く心理なんかも噛みしめながら読んでいくのも楽しいかも。布団にもぐって出てこない留年して1個年上の古森先輩の謎めく態度も気になるんで次巻があったら活躍を。


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