縮刷版2016年10月上旬号


【10月10日】 流行っているのかライトノベルの戦記物。頼っていた侯爵家の老女が帝国を壟断する4公家の策謀によって干し上げられ、戦死へと追い込まれたことに憤りを覚えつつ、かろうじて生き延びた第8皇子のレオナートが、暗愚な父帝を蔑ろにする公家やそれに味方する皇子によって内紛を理由に滅ぼされようとしていた領国に味方し、大軍勢に少数ながらも精鋭を率いて立ち向かい撃破していいくストーリーを持ったあわむら赤光さん「我が驍勇にふるえよ天地 アレクシス帝国興隆記」シリーズ(GA文庫)が第2巻まで刊行。シェーラという名の美少女軍師の采配と、レオナートの勇猛さが重なり合ってじわじわと勢力を拡大していく下克上的な展開を楽しめる。

 そんな一方で至道流星さんもノベルゼロから「破滅軍師の賭博戦記 幼き女王は賽を投げる」(750円)を刊行。こちらは周囲を敵に囲まれたじり貧の王国で、女王になった15歳の少女が戴冠式でいきなり隣国に対して宣戦布告に等しい演説をぶって周囲を唖然とさせた上に、士官学校を首席で出たものの戦場が嫌いで、士官学校で講師をしながら戦略戦術の本を書いてはそれなりに評価され、外国でも名前が知られてきているものの、当人は大酒飲みでギャンブル好きで金がなく、スラムで暮らしているというライナー中佐を大抜擢。近隣国との戦争に司令官として臨ませる。

 理論としてなら理路整然として納得のいく戦略戦術を繰り出すライナーだけれど、それに拘泥しないで戦場ではギャンブル好きの片鱗をのぞかせ、圧倒的な大群を相手に正攻法で勝てるわけがないとばかりに一か八かの戦いを行い、ギリギリのところで勝利を掴む。自身もギャンブルを好もう女王とのコンビネーションも抜群。そこに銀行家の家に生まれて立身出世を狙う女性の協力も重なってじり貧だった王国の存在感を高めていく。戦術のすごみと経済的な政策が重なって生まれる本格的な戦記物、といった感じの「破滅軍師の賭博戦記」。最後に女王によるとてつもない大博打が繰り出され、とんでもないベットが行われたけれどもライナーはそれを受けるのか、ってあたりが続きがあれば注目点か。

 戻ってあわむら赤光さんの「我が驍勇にふるえよ天地」の方は、第8皇子の戦闘力と大義を慕い着いてくる仲間が増えていくところが戦記物と同時に英雄譚としての面白さを持っている。強弓を使う男に彼を慕う動物使いの少女、機を見るに敏で仕えている相手でも負けそうになったら共倒れはしないだけの才覚を持った戦監に双槍を我流で繰り出す女戦士といった具合に、後の大帝国を司る幕閣たちがその片鱗をのぞかせ初めているけれど、長い道のりになりそうな大帝国の屹立までを描ききることが出来るのか。ライトノベルはそこがちょっと心配。売れないとすぐ終了してしまうからなあ。

 こちらはちゃんと完結した壱日千次さん「魔剣の軍師と虹の兵団<アルクス・レギオン>」(MF文庫J)は出てくる者たちがみな変態揃いだったけれども、追い詰められた山間部から少年少女が仲間を得て侵略を跳ね返し、大国を打ち立てるまでになった戦記が綴られていた。出たばかりの高村透さん「ブラッディ・ビスカラ」(電撃文庫)は戦記物な上に時間のリセットという要素も乗せて、勝利の道を探っていく展開。ノベルゼロだと新見聖さん「マッドネス」シリーズってのもあったっけ。なぜに流行るか戦記物。実はジリジリと諸外国によって圧迫されているこの国の裏側で、戦略謀略に通じた本を多く出して読んでもらって、来たる戦に備える人材を育てておこうという策謀でも巡らされているのかな。

 せっかくだからと中野坂上にある東京工芸大まで行って中野祭という学園祭で上映されたアニメーション学科の卒業制作シリーズを見る。大昔に近隣に取材に行ったことはあったけれども、しばらくぶりだった中野坂上から新宿西口方面を見て高層ビル群が建ち並ぶ光景にああこれが「暴走猿人」って2016年の山腰蒔さんによる卒業制作に使われていた光景だったんだと理解。何と無く見知った建物があってもビジョンとしては接してなかっただけに新鮮だった。東口の光景だと見慣れているから新海誠監督作品に出てきてもピンと来るんだよなあ。ってか新宿の西ってまだあんな風に閑静だったんだ。そんな場所に経つ東京工芸大の地下にあるマイブリッジシアターがまた立派だった。

 雰囲気としては大きめの映画会社の試写室といった感じだけれどスクリーンが大きく4Kでだって上映できるとか。音響もちゃんとサラウンド入っているんだろう。そんな会場で見たAプログラムは割と最近の作品が並んでいてどれも見た記憶があったけれども改めて見て中島渉さんの「EMIGRE」っていう作品が素晴らしかった。スラム街のような場所から見上げるビルのさらに上を行く巨大な船。そして降りてきて蹂躙するロボットめいた存在。逃げ惑う少女が脚を失いながらもカプセルで上空へと脱出する様が描かれている。

 何というかパースの付け方が巧いしレイアウトも見事で奥行き感があって動きもダイナミック。そしてストーリーもしっかりある。背後にある世界観も感じられる。美少女って訳じゃないけどグッとアフタヌーンの四季賞にはいりそうな漫画に似た筆致も悪くない。第21回学生CGコンテストではアート部門の「ズドラーストヴィチェ」とともにエンターテインメント部門で最優秀賞を獲得しただけのことはある。他にもいろいろ獲得しているみたいだけれど当の中島渉さんは今どこで何をしているのかな。そこが気になった。アニメーターとして活躍しているのかな。

 ほかだと中島悠喜さん「乱波」を久々に見て独特ながらも動きに特長があってスピード感を感じさせるテクニックがあるなあと思ったり、小野由了さん「Steppin’ Sound」が見た目とサウンドとをマッチさせるテクニックに優れていると思ったりしてやっぱり東京工芸大、アニメーション作家の宝庫として侮れない。でもタマグラこと多摩美術大学のグラフィックから来るアニメーション作家たちとか、東京藝大院を出たアニメーション作家たちに比べて世に名をとどろかせる人がまだいないのがやや残念。出身者の藝大院を出てそっちの名前がとどろいているしなあ。でも今回の学園祭のグラフィックを手がけていたのは卒業生の植草航さんで藝大院を出てもちゃんと工芸大に足跡を残してくれている感じ。そんな先輩たちに続けるか、狩野洋典さん。今回も「ノアの□(ハコ)庭」で泣いたし。次はどこで見よう。

 「Occultic;Nine −オカルティック・ナイン−」をやっと見た。その作画力の2割でも「クオリディア・コード」に回してくれていればとA−1 Picturesを少し呪った。完璧なまでの作画力(さくが・ちから)でもって繰り出される狂乱怒濤の展開は、誰が誰だといった了解をする間もなしに事件へと引きずり込まれていく感じ。とはいえしっかり印象に残った成沢稜歌のあの巨大すぎる胸にはいったい何が詰まっているんだろう。揺れて弾んで。埋めたらいったいどんな感触が得られんだろうなあ。展開については原作読み込んでないからまずまず知らない。舞台になっている吉祥寺辺りが聖地化することはあるのかな、でも池から大量に死体めいたものが発見されていたっぽいんでそういうことはないのかな。「魔法少女育成計画」の上越市が今秋作品では聖地巡礼候補かな。


【10月9日】 そして気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉が京都サンガに0対3で敗れていてこれでプレーオフ圏内の6位まで勝ち点差が11に。残り試合数が7試合あるから全部勝てば結構積み上げられそうだけれどそうは行かないのが今年の、というよりこの数年のジェフ千葉で、半分勝っても9点とか引き分け足して10点とかでは6位の京都サンガに追いつけない。事実上の2部残留は確定って感じでこれでそろそろ何年目かのJ2暮らしが2017年も続きそう。監督が悪いのか選手が足りないのかフロントが阿呆なのか。いずれにしても勝てない理由がどこかにあるなら何とかしたいけれど、そろそろ親の堪忍袋の緒も切れるかなあ。それなりに儲かっているなら良いのかな。いつになるやらJ1復帰。ぜめて2020年のオリンピックの年までには。

 一方でジェフユナイテッド市原・千葉レディースの方は岡山湯郷Belleに勝ったみたいでこれで勝ち点的に最下位にも下から2番目の9位になることも得失点差的になく、なでしこリーグの1部残留がほぼほぼ決定した感じ。頼りない兄貴よりも頑張る妹たち。カップ戦でもいいところに来ていたりするし、拮抗するリーグの中でも中堅くらいの位置は確立できたみたい。でも上には上がいるから頑張らないと。ノジマステラ神奈川相模原とか強そうだしなあ。一方の岡山湯郷Belleは日本代表の宮間あや選手ほかを巡るゴタゴタもあってか今のころ最下位。残る2試合で勝ち点を積み上げても得失点差的に9位がやっとで自動残留は難しそう。そして下から挑んでくるのはちふれASエルフェン埼玉という老舗のクラブで結構強そう。ホーム&アウェイで戦い果たして勝てるか岡山湯郷Belle。結果によっては居残った宮間選手にもいよいよ進退の話が出てくるかも。そうなったらプレーオフ、観に行くかなあ。

 せっかくだからと早起きをしてアニ玉祭へ。途中で南浦和で降りなくちゃいけないところを東浦和で降りてしまって10分くらい時間をロスしたけれども午前10時過ぎには着いてあれやこれやと見物、というかすでに大宮駅のコンコースに出店みたいなものが出来ていて、沼津あたりから来ていたらしい「ラブライブ!!サンシャイン!!」関連の物販に大行列ができていた。やっぱり人気なんだなあ。そんなブース群にMARS SIXTEENのブースを見つけて寄ったらちょうど来ていた「境界線上のホライゾン」のラグランシャツを作った人が店番していた。もっとこういうの、作って欲しいとお願いすれば良かったかなあ、次はぜひに大久保・忠隣/長安を。なかなかないんだよ彼女のグッズ、眼鏡トリオでアデーレ・バルフェットとフアナ様で作って欲しいかも。あと誰かいたっけ、不破・光治入れてカルテットってのもありかな。

 会場に行くまでは雨が降っていたけど、物販ブースをしばらく見物してたら雨も上がったみたいでステージで見ていた人も安心したかも。あそこ屋根とかないから。そして似顔絵描きのブースに行くと何と「スパイシーカフェ・ガール」の深谷陽さんがブースにいていつもながらも奥行きと立体感のある筆で似顔絵を描いていた。せっかくだからとお願いをして1枚。いやあこれは巧い。本人よりも若く格好良く描いてもらえて嬉しい限り。宝にしよう。単行本もあったんで1冊求めて合わせて2000円ははっきり言って安すぎる。みんな頼めば良いと思ったけれど、世の中的には「鈴木先生」の武富健治さんの方が有名だったりするからそっちに整理券ゲットで人も集まっていた感じ。ちょっともったいないかも。男より女性をゴージャスに描ける人なんで次に機会があったら女性の人はレッツゴーだ。

 外を歩いて痛車とか見たりフランクフルトを囓ったりとお祭りのノリを満喫。アルシェって大宮駅のそばに建つビルの前ではサテライト会場的にステージが設けられててそこであのスノーボード選手だった成田童夢さんが今はアニソンDJとしての腕前を披露していてしばらく見物。でっかいDJ用のターンテーブルもなければ最近流行りのMacBookなんかも置かずテーブルには筆箱サイズの装置だけ。名を「GODJ」という仙台市の会社が作った装置はたったそれだけのボディでありながらも本格的なDJプレイを繰り出せるという優れもので、アメリカのサウスバイサウスウェストなんかでも注目をされているとか。成田さんはそれを使ってプレー。小さい装置を巧みに操作し迫力のアニソンを流していた。どこにあんあパワフルな音源を仕込んでいるんだろう。普通にオーディオプレーヤーとしても使えそう。1つ買ってみるか。DJデビューも目指しつつ。

 昼も回ったんで会場を出てとりあえず蒲田で開かれていた川上稔さん関連の同人誌オンリー即売会をのぞくも目当ては完売で川上さんのところは長蛇の列でざっと眺めて外に出る。道中に木崎ちあきさんの「デュラララ!!×博多豚骨ラーメンズ」(電撃文庫)をぺらぺら。メディアワークス文庫の方で巻数を重ねている「博多豚骨ラーメンズ」のメーンキャラクターとも言えるにわか侍の馬場と美少女に見える男の子の林ちゃんが、チームの遠征に前乗りして池袋まで来たけれどもカバンを置き引きされてお金がなくなり早速お仕事。でも偽札を掴まされて大爆発といった辺りを主軸に据えつつ、そこに成田良悟さんの「デュラララ!!」からあの平和島静雄なんかが絡んでくるといったコラボレーションになっている。

 首無しライダーだっていてオカルトに科学の要素もいっぱいの「デュラララ!!」チームに殺しや集団とは言っても人間の範疇に過ぎない「博多豚骨ラーメンズ」の面々が叶うかどうか、って辺りは気になるところ。とはいえオカルトも殺し屋も関係なしにパワーと切れやすい性格ですべてを粉砕する平和島静雄がすべてを持っていきそうな予感が途中まで読んだ今はしている。片手で道路標識を引っこ抜き、自動販売機を掴んで放り投げる人間にオカルトも殺し屋もかなうはずないから。そんなコラボの後書きで成田さんが今度は「デュラララ!!」の面々が博多に乗り込む話を書くとか言っていた。首無しライダーも遠征するのか。果たして高速に乗れるのか。そこは別に走って行かなくても良いのかな。いつになるかは分からないけど期して待とう、刊行を。

 最新のシリーズでも出所不明の確かめようがない関係者のそう思えるのならそう思えば良いじゃん的なコメントを金科玉条の如くに奉って小樽港を見下ろす丘に建つレストランを中国人スパイの要塞だってニュアンスで報じて眉をひそめられていたけれども、前に載せてた南帯広のスイス牧場が怪しくて、中国資本が入っているか確証がないけれども掲げているスローガンに中国共産党が好みそうなところがあるからといった傍証だけで、そっち系だといったレッテルを貼ろうとしていたら、とでもないずっと前から事業をしている日本人だってことが分かってきた。

 そしてそんな記事の尻馬にのって危険を煽っている元議員の父親の知り合いらしいといった話も出ていて、それで記事にしてしまって大丈夫なのかといった不安がもやもや。というか確証もない話を書いている時点でニュースじゃないし、登記簿とって調べれば誰が持ち主かだって分かるところを避けている。敢えてやらずにニュアンスを醸し出そうとしたのなら卑怯だし、やる気もなかったのなら拙劣だけれどそうした卑怯も拙劣も、反中国という大義名分の前には引っ込むところがあそこん家。それで内輪で讃えられたって、世間では眉唾のオカルト扱いされている訳で、見捨てられるのも遠くはなさそうなんだけれどもそういう恐怖すら感じないくらい、切羽詰まっているのかもしれないなあ。明日食う米すらないのかも。年を越せるかなあ。


【10月8日】 始まったけれども「DRIFTERS」、えんやーこーらやった、もなければばばんばばんばんばんもなくってあれは関ヶ原、敗れた西軍に属して戦場から退こうとする島津義弘の軍を追う福島正則や井伊直政の軍勢を迎え撃って島津豊久が捨て奸で挑んでどうにか義弘を逃がすことに成功。史実ではそこで豊久は戦士するんだけれどそれで終わっては漫画にならずアニメーションにもならない。迷い込んだ妙な場所で男に出会って送り込まれた異世界で、エルフに担がれ連れて行かれた先にいた。織田信長と那須与一が。

 そして出会った戦闘と戦術の天才たちがほかの天才たちも交えて勢力を拡大。一方でやっぱり戦闘の天才にして怨みを持つ者あちが集まった軍勢を相手に戦いを繰り広げていくっていう、漫画のストーリーがアニメでも描かれていくんだろうけれどももとがしっかりした作品だけに、動き喋るといったことは期待できてもオリジナルの何かが載るわけじゃない。だからセリフの格好良さと動くキャラクターの猛々しさ、そしてオルミーヌのおっぱいぶりを見ていく作品になるってことなのかな。完結してない漫画なんでエンディングに意外性を得られるとも思えないし。「ヘルシング」の少佐みたく演説の映像化なんて見どころがあれば別なんだけれど。さてはていかに。

 最初はヒヤヒヤしてドキドキしながらストーリーを追っていた感じもあったんで、次はディテールとか心の動きなんかを確認したいと映画「聲の形」を観に越谷レイクタウンのイオンシネマへ。とりあえずドクターマーチンのアウトレットに寄ったけれども前に観た8穴のちょっぴりパープル入ったブーツがまだあって欲しい気がわき起こるものの今は我慢。前に手がけた仕事の代金が入ったらちょっと考えよう。でも他に欲しい靴もあるしなあ。それ以前に残高のマイナスを埋めないと。やっぱり見送りか。

 そして観た映画「聲の形」から今回はどうやったら人は自殺を考えるくらいまで追い詰められるのか、といったことを考えたのは前日、東大の文学部なんてところを出て電通に入って文系の超エリートコースを突っ走っているなあと見なされて不思議はない女性が入社1年目のクリスマスに自殺して、それが過労にって追い詰められての自殺だったことが認定されたってニュースを見たから。月に100時間とか130時間とか、聞いて数字的に凄いとも思う残業をしていたけれどもどうやらそれで収まっていた感じはなく、さらに見えない残業もしていたことと、それ以上に仕事の現場で理不尽を強要されて心がズタズタになっていたらしい。

 たとえ100時間が200時間の残業でも、それこそ日に20時間机に向かって筆を動かし続ける漫画家さんとかアニメーターさんとかいたりする訳で、それで過労で心が参るかというと目的がしっかりして自分の意志が反映されていて成し遂げた結果も分かっているなら頑張って超えていけるかもしれない。それで体を壊して早死にしてしまう漫画家さんとかいっぱいいたから、避けて欲しいという気持ちもあるけれども全霊を傾け命を削って何かを作り出すのは創作者としての半ば必然。もっとも、そうしたフリーのクリエイターと社員の残業を比べても意味はない。そもそも比べること自体が間違っている。

 会社で入ったばかりの社員がいったい何の役に立つのか見えない、そして自分の為になるとも思えない仕事を押しつけられ、それが月に100時間だの200時間だのといった残業に勤しんだところで乗り越えようといった気持ちを持てるはずがない。そこにあるいは理由も分からないダメだしたとか、仕事ではなく心身に絡めたハラスメント的な言動を加えられていたとしたら、心が壊れてしまうだろう。ただ、そこで本当に心身ともに壊れるなり、逃げてしまえれば命を絶つ、なんてことにはならない。自分の命を賭けたところで、何が変わる訳でもないならただいなくなれば良い。そう割り切れれば自殺なんてしない。

 だから電通の女性社員の場合はなぜ、って考えてしまうけれどもまだ1年目で逃げていいかも分からず自分の価値を否定され、逃げる場所もないと追い詰められてしまったのかもしれないし、逃げるということ自体を認めてはいけない気持ちをもとより持っていたか、持たされてしまったのかもしれない。だから自分を消してしまった。そんな気もするし、まったく別の理由があるのかもしれない。本人に伺うことはもはや不可能なだけに、労災の認定を受けて以後、これが単なる労働災害だったのか、労働上の“人災”であって具体的にどんな災厄を被っていたのかを、賠償という場で明らかにされれば以後、同じように追い詰められる人も出なくて済むんだけれど。いやいやそれで済んだら前に起こった似た事件で改まっているか。悲しい話。

 一方で映画「聲の形」で冒頭、石田将也は自分を消そうと橋まで行って、爆発する花火に自分をふっと取り戻すかのように自殺を思いとどまる。でもいったいどうしてそこまで追い詰められてしまったのか。小学生の時に転校してきた耳の聞こえない西宮硝子という女の子をいじめて、その責任を取らされるような形で周囲からいじめられるようになって悲惨な小学校時代を過ごし、中学時代も半ば排除されていた。そんな苦しみも進学した高校で終わるかと思えば死ぬ理由なんてないし、硝子をいじめて補聴器を壊したことで母親が賠償したお金を自分で稼いで返すという目的もあって一生懸命働いてきた。そこに前向きにやり直そうという意志を観るなら、たとえバイト代が貯まったとしても自分を消そうとは思わないだろう。そこまでして恩返ししたい母親を思えばなおのこと、自分だけが逝って哀しませる訳にはいかないと考えるだろう。

 それなのに最後の日を決めてそこに向かっていたのは、誰かが哀しむことを考えるより上に自分自身の無価値さを知って早くいなくなりたいといった思いがそれこそ小学生だった時代から、ずっと残っていてそれを叶えるための道程としてバイトもこなし金銭的な償いもして身ぎれいになろうとした、ってことなのかも。そうまで自分を追い詰めてしまう人に助言なんて出来そうもないけれど、将也の場合は根本的な原因となった硝子に再会して決して赦されないと思っていた状況に少しの希望が見えたことで踏みとどまれたのかもしれない。そこでちょっとだけタイミングがズレていたらあるいは。そう思うと電通の女性社員もどこかで息を抜き、違う方向へと自分を振り向けられていたらと言いたくなる。

 とりあえず居場所もいて前も向け、諭されもして踏みとどまった将也に対して今度は硝子が自分の居場所を失って追い詰められていくのが見ていて辛いというか。もとより学校では表に出さなかったけれども家では辛さから居なくなりたいといっていたらしい硝子が、高校生になって将也と出会い前の友だちとも再会して落ち着いたかに見えたものの、そんな中で将也が過去、悲惨な目にあい追い詰められるところまで行った責任が自分にもあると思ってしまったことが、居なくなりたい気持ちを再燃させた。それは前とは違って自分自身の被る辛さというより、誰かを辛くさせてしまう辛さであってそれは責任感から来るもの。そんな風に1人に責任を負わせてしまう状況が、どうして作られていったかを考えてみる必要がありそう。

 ちょっとのタイミングで変わってしまう関係。ちょっとの間違いで失ってしまう居場所。そんな風に枠のはまっていないステンドグラス、貼り付けられていないモザイクのように脆弱な状況の上に組み上がった人間関係の中で、どうやって生きていくかを考えさせられる映画とも言えそうな映画「聲の形」。でも周囲に気を遣いバランスを取りながら生きることの息苦しさも同時に思わされもする。どうすれば良いのか。天上天下唯我独尊を貫いて周りを気にせずありのままの自分で生きるか。そうやって自分勝手がすべての人に適用されたら社会は壊れてしまう。かといって譲り合ってもどこかにひずみが出てしまう。弱者が追い詰められず強者だけが得をしない社会。それでいて個性が認められる社会とは。正解はないけれど、近づいていくための努力は不可欠。そのためにも見ておくべき映画なのかもしれない。


【10月7日】 東京都写真美術館で開かれている「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展に掲げられた、終末に至るさまざまなビジョンの中でジャーナリストが、政治家の不正を論って糾弾し続けた結果、たいしたことのない凡庸な政治家ばかりになって世界は滅びていったってストーリーを綴っていた。あり得る話してだとえば最近、急に持ち上げられ始めた田中角栄があの馬力で日本を改革していったらどんな社会になったのか、興味もあるけど避けられないオイルショックに狂乱物価、そして土地買い占めによる資本の集中が日本をがたがたにした可能性もあるだけに一概には善政が敷かれたとは言えない。ただ地方が潰れかかったら何かしただろうなという気はしないでもない。信念を持って政治を行う人間だったからこそ、そうした後評価も出てくる。

 だからといって今の政治家の、ちょっとした不正を論って糾弾することが、結果としてその政治家が持っている大きな信念の遂行を阻害するとはちょっと思えないのが寂しいというか、日本にとっては厳しいというか。政治資金を集めるためのパーティに行った政治家が会費を出して領収書をもらう、その領収書が白紙でもらった側で記入することを慣行だからと言いつのって不正はないと訴える姿勢。それはやっぱりみっともない。たとえお互いに了解していて、記入の際に相手の受け取りとこちらの拠出が一致していれば、何か不正の温床になっていたとは言えないかもしれない。高市早苗総務大臣が言うのも規定がまずないこと、そして互いに一致していて不正はないとう状況、それ事態から論って糾弾するのは難しいといったことだろう。それはある面で正しい。

 ただ、世間一般の考えとして白紙の領収書を渡すのはそこにありもしない支出を顕在化させるといった操作のためであって、だから企業なんかがそれを支出だと言い張っても税務署あたりは認めようとはしないだろう。そもそもがいかなり理由があっても、白紙領収書を後から記入することは法律的に問題であることは明白。互いに信頼がありました、といったところで口裏合わせていたら分からないから、互いに帳簿を漁ってどこに金が消えたかを徹底的に追い詰める。そういうものだ。

 それくらいの大事を政治家の資金集めパーティでは慣例だから、忙しい相手に記入してもらうのはためらわれるからといった言い訳で、白紙領収書を認めさせようとする態度は、やっぱり政治としてみっともない。それを認めて代わりに立ちあがる国家的に意義のある政治があるか、ってところもまた問題。富山市で似たような案件で市議たちが叩かれている状況もあるだけに、ここはきっちりとした方が社会のために良いと思うけど、官邸が怖いメディアはきっとそういうものだと流すなろうなあ。社内で飲み食いにつかった白紙領収書を取材費といって持っていっても通らないのに。

 ○○が危ないと煽る言説の目的は、それを言い続けることによって少しずつの不安を醸し出し、そこに救世主的な立ち位置で望んで支持を得ること。どこか霊感商法にも似ているけれど、それが堂々、自称であっても全国紙を名乗る媒体のトップで繰り広げられていることに不思議な不安を感じて立ちすくむ。北海道の小樽市に港を見下ろす場所があって、そこに中国の人がレストランを開いたけれど、傾斜地だから片方は崖になっているし、公園が近くにあるから草木だって生えている。良い意味で静観なたたずまいともいえるその店を、樹木で中を隠し崖で近づけないようにした要塞だと書く筆の牽強付会ぶりがまず凄い。

 その店から小樽の港が見えて、そこは米軍の艦船なんかも出入りするから情報が漏れるとも書いてあるけど、平成21年つまりは2009年から7年の間にやってきた艦船は7隻で、年に1回 あるかといったところ。そんな港を米軍にとって「重要港」だと位置づけて大丈夫かって普通は思うけれど、中国によって北海道が“侵略”されていると書くためには、あらゆる行為は何か目的があってのことで、その目的はとても大きなことであるといった論理から、年に1隻の米軍艦船の入港もウォッチすべき事態であり、年に1隻米軍艦船が入って来る港は重要港と言わざるを得ない。羊頭狗肉というか。

 それでもそんな言説を、見出しだけで信じて拡散する勢力もいるから厄介。知らず悪感情が生まれ育っていく訳だから。同じ企画では北海道の不動産を中国人が買っていることをあげて、永住権を狙ったものだと書いて不安を煽っているけれど、日本の永住権を取るには10年以上の居住が必要で、それも正規のビザで滞在し続けなくてはいけない。そのためには事業を行う必要もあるけれど、北海道の不動産でいったい何ができるのか。自分が住むだけだったら居住条件を満たすような住み方は難しい。そして10年の居住条件を得たところで、審査もあって確実に通るとは限らない。そんな状況を示さず10年という時間の長さも鑑みず、10年経ったら植民地といった空気を醸し出して悪感情を煽る。不景気に喘ぐ北海道にとって経済的な起爆剤にもなり得る海外からの投資を、スパイだ侵略だと騒いだ果てに何が残る? 道民だったら怒りそうなところだけれど、北海道でほとんど売れてない新聞だから出来る煽りかも。やれやれだ。

  諸々一段落して読み始めた村山早紀さんの「桜風堂ものがたり」(PHP、1600円)を一気に読み終えて感涙にむせぶ。風早という街の百貨店に入っている銀河堂書店で文庫を担当している月原一整は、目が利いて新刊既刊を問わず良い本を見つけ出すことから「宝探しの月原」と呼ばれている。その彼が営業に持ち込まれたリストから1冊の新刊に目を留めた。団重彦という、かつて大活躍していたテレビドラマの脚本家が書いた初めての小説「四月の魚」という本。脚本家としてそれなりに有名で、エッセイも読んでいた一整は、小説も面白いに違いないと勘を働かせ、ぜひ売りたいと営業に訴える。

 けどその本を銀河堂書店で一整は売れなかった。学校でのいじめが原因で、万引きしてしまった少年を追いかけたら少年が飛び出し車に跳ねられ怪我をした。少年は反省し家族も一整を非難しなかった。それでも世間の好奇が一整を誹り銀河道書店で騒ぎ百貨店にも悪影響が出そうだった。一整は店を辞める。そして思い立ってネットで知った、どこか田舎にあって老人が営む書店、桜風堂を尋ねていく。そんな設定の上に描かれるのは、描かれるのは、本を愛し物語を愛し書店という場を愛する書店員たちの情熱と頑張り。銀河堂書店で一整の同僚だった書店員たちは文芸の世界で知られ、ミステリ評で名を売り、絵本の棚を作ってと有名無名を問わず本を知ってもらいたいと頑張っている。

 一整が文庫の棚作りにかけていた思い、も同僚たちは知っていた。だから退社を惜しんで彼が売ろうとした団重彦の「四月の魚」を売ろうとした。ゲラを読んで感動して一層思いを強くした。本で繋がり本のために全霊を傾ける書店員たちに感動する。これなら本も嬉しいだろうなあ。もちろん一整も本のために頑張る気持ちを失っていなかった。店主が倒れた桜風堂で店主の孫と働くことで自分を取り戻していく。団重彦「四月の魚」を売ろうとする。良い本を読みたい人のために売る。書店員の当たり前な感情が身に迫って本好きとして嬉しくなる作品だ。

 誰からも愛された1冊の本が売れるようになるまでの、書店員や本好きの女優や一整を信じる人たちの前向きな姿に心熱くなるストーリー。そんな物語そのままに、この本をもっと読んで欲しいと思えて来る。これが読まれ、中の書店員たちの頑張りが読まれ、団重彦の思いが読まれる。 そうなれば嬉しいんだけれどなあ。母を失い父と姉も失ってしまった幼い頃の一整の厳しすぎる境遇に胸が苦しくなるけれど、曲がらずに育ち真っ直ぐで繊細な気持ちを持ち続けたことも嬉しい。読んで優しい人たちによる優しさのシャワーを浴び本好きの波動に触れで、貴方も本好きになろう。


【10月6日】 誰か羽交い締めにしてでも今は何かを言うことを止めさせないと、取り返しに付かないことになると思っていたけど遅かった。長谷川某がブログを更新。出演していたTOKYO MXの番組「バラいろダンディ」を降板してのコメントといった形になったけれど、これですべての番組から降ろされてしまったにもかかわらず、その理由をどこか遠い彼方に見ようとしていて自分がやってしまったことへの自省もなければ自覚もない。あまつさえすべての責任を外に向けて非難がましいことを言っている。これでもう完全に復帰の芽は消えたかもしれない。

 長谷川某の記述がこれほど問題になったのは、医療費の膨張が予算を圧迫していこと、それ事態を真剣に追究しようとしたからではなく、その論拠として真っ先に、あるいはむしろそれを見たからこそ医療費の膨張について書こうと思ったとも感じられるくらい、主因として透析患者の一部を論ったから。でも例え態度が横暴であっても特定の層を挙げて排除しようとする思想が、やがて隅っこから断罪を続けていずれ中心にまで及びかねない恐怖を招きかねないと批判されたことが、実は本質だったりする。

 にもかかわらず、行進された文章では自分は医療費の高騰を問題にした、その理由としてな分断による排除を訴えたことをまるで引っ込めず、曲げようとしなかった。それをネット上で非難され、真っ当になれと諭されたにも関わらず一部が過激な言葉を挙げて中傷メールを送ってきたからだと主張し、スポンサーにまで追究が及んで「結果、80歳を超えた会長や経営トップ陣が動揺しました」って、後藤亘さんって百戦錬磨の放送人を捕まえ弱腰っぽく扱ってる。そんなことで動じるようなタマでもあるまいに。守れるものなら守っていた。でも今回はどんな言い訳も効かないと感じたからこそ切った。それだけだ。

 他のテレビ局だって同様。守れず降板へと至らせたのかってことに気付いていない。あるいは気付こうともしない。相変わらずネットでのありもしない中傷によってテレビ局の偉い人やスポンサーが流されたと思い込んでいる。弁護士に説明させたけど通じなかったとも書いている。扇動されたと思い込んでいる。本当に理があればたとえ中傷でも守っただろうけれど、それが出来ない主張で、なおかつ誤りもせず逆に罵声を返したからこそもう守れない、守る必要もないと降板させた。商売だからとかいったことでもない。人間としてヤバいと感じた。それだけだ。

 最初の段階で謝っていればあるいは救いようがあったかもしれないけれど、最後まで謝罪せずどうにか出したものですら、MXのスタッフが書いたものだとバラして自分はまるで反省もしていなかったことをあからさまにしてしまった。自分に非があったとは最後まで認めようとしてない。どうしてこんな性格になってしまったんだろう。もともとそうだったからこうなったのだろうか。分からないし分かりたくもないけれど、こうなるともうテレビ局なりラジオ局で使おうというところは出てこないだろうな。業界の大立てものをご老体呼ばわりしてしまったんだから。それで言論弾圧とか言うから何というか。暴走する言論など言論なんかではないのに。これからどうなるか。家族が可哀相だけれどそこに救いは向かうのか。とりあえず様子を眺めていこう。

 そういえば「ウブラブ」という卵を産むぬいぐるみが昔いたなあ、とか思い出しつつとある発表会で見た鈴木梨央ちゃんが可愛かったというか。11歳の子役だけれど笑顔が良い上にリアクションもよくて発表会に出てきたものを可愛い可愛いと愛でていた、その仕草が余計に可愛くこれならきっとテレビ局とかもいっぱい取り上げてくれるんじゃなかろうか。珍しく代官山なんてところであったから近隣を散歩していたけれども蔦谷書店とかに集まる女性の細くて美しくて近寄りがたいというかそこにいるだけで罪深く思えるというか。秋葉原だとこんな思いにはならないのに。人にはやっぱり向き不向きがあるってことで。いつか代官山に犬を散歩させながら歩ける身分になりたいなあ。宝くじ当たらないかなあ。

 10月3日の東京新聞朝刊に「君の名は。」を作ったコミックス・ウェーブ・フィルムの川口典孝社長が出ていてスタジオジブリがアニメーション制作から手を引いた時、スタッフの中から凄腕と呼ばれる原画マンたちではなくってベテランの動画を4人、正社員として採用したって書かれてた。ジブリでもきっと原画は社員というより契約で、作る計画がなくなった段階でさっさと他に移っていただろうから、引っ張ってくる訳にもいかなかったんじゃないのとは思うけれど、そうした原画にならずにベテランの動画として居残って、仕事をしていた人がいたのにちょっと驚く。何歳くらいの人なんだろう。そして男性だろうか女性だろうか。

 動画ってどうしても研修期間の若手が手がける仕事って思われがちだけれど、原画と寸分違わない絵をそれも少しずつ動かしながら何枚も書くのが動画の仕事。いわば職人ともいえそうな、原画のニュアンスを崩さずに間を割る仕事に携わるベテランたちがいたからこそ、ジブリのクオリティも保たれていたんだろうと改めて感心する。そんな人たちも動画だからと行き場を失っていたところに手をさしのべるあたり、アニメーションのクオリティを誰が支えているかに気付いていた川口さんの炯眼を思う。「君の名は。」だとどのあたりを担当していたんだろう。それはやっぱり映像のクオリティを上げていたんだろうか。泣きながら瀧が入った三葉が自分の胸を揉むあたりとか、ベテランの味が発揮されているのかな。

 ジーコ力(ジーコ・ちから)というのがあって、たとえ負けそうな試合、負けたら後がない試合でも最後の最後、アディショナルタイムも残りワンプレーで試合終了の笛が鳴るような場面で1点を奪い、引き分けに持ち込むなり勝ち越してしまうように働くんだけれど、それで2006年のワールドカップドイツ大会に1番乗りしたジーコ率いるサッカー日本代表とは違って、今は勝ちきれず負けてしまうことすらあるハリルホジッチ監督率いるサッカー日本代表。引き分けですら後がヤバい2018年ワールドカップロシア大会への出場をかけた最終予選で1敗1勝で迎えたイラク戦で最後まで1対1で来ながらアディショナルタイムで1点を奪って勝利し勝ち点3を積み上げた。

 これでグッと近づいた訳ではないけれど、滑り落ちることもなくまずは一安心。とはいえ最後になって吉田麻也選手をトップにあげてボールをぶつけるパワープレーを行いどうにか縋ったあたりにそれまでの、普通にパスワークでもって崩し得点するような綺麗なサッカーがやっぱり出来なかったことが大きな意味を持つ。そこを打開しようとする動きもなければ、選手たちに才能もなかったりする状況で、どーにかアジア予選を勝ち抜いたとして本番でどれだけの戦いができるのか。やっぱり2014年のブラジル大会と同じよーな体たらくを晒すだけなんじゃないのか、って辺りは是非に考えて欲しいところ。ハリルホジッチ監督で本戦に臨んでいいのか否かも。でもそこは選手層がアレ過ぎるから誰でも一緒かなあ。未来は暗い。


【10月5日】 アカペラでの歌い出しから音程がまるでぶれず、一語一語がくっきりと発音されていて何をどう歌っているのかがしっかり分かる。そんな発声でつぶやくようにささやくように歌う場所はそう歌い、そしてしっかりと出すところは出して伸ばすところは伸ばしてもまるでぶれない。CDでストリングスなんかを交えたバックで聞いても、おそらくはライブでギター1本をバックに歌ったものを聞いても同じように発声され、音程もテンポも歪まないその歌声を聞いて思ったのは、薬師丸ひろ子さんが映画女優でありながらも歌手としてデビューしてきた時のことか。

 演技力はあって人気者だったけれど、それでもまだただの美少女でしかなかったかもしれない存在が、歌も歌える、それも上手く歌える人だということでグッと存在感を増した。「セーラー服と機関銃」の主題歌はまだテンポがアップで来生たかおさんとの競作でもあってどっちもどっちな感じがあって、上手く歌っているなあといった領域に片足を突っ込んでいたけれども、「Wの悲劇」で歌った「Woman”Wの悲劇”より」の静かに始まってそして爆発したように声を張り上げ伸ばす場面で感じた驚き。それがまた感じられた。上白石萌音さんのデビューミニアルバム「chouchou」に収録された「なんでもないや(movie ver.)」を聴いて。

 映画デビューとなった「舞妓はレディ」を見ていないからそこでいったいどんなミュージカル女優ぶりで歌ったのかを知らないけれども、演技でもって説得できる場面とはまた違った、歌だけで、声だけで勝負しなくちゃいけない場所でも完璧以上の歌声を聞かせてのける。映画「君の名は。」でRadwimpsが歌った「なんでもないや」もロック調の楽曲が多い中で静けさをもった歌もできるんだとその実力を感じさせていたけれど、そんな楽曲を自分の方へと取り込んですっかりものにしてしまった。素晴らしいとしか言いようがない。

 アルバムには「Woman(“Wの悲劇”より)」も収録されていて、薬師丸さんで感じた張りと伸びがここにもあった。誰の歌でも歌いこなせる実力。それをあの可愛い子が見せる。ライブを見たくなって来た。フリーのインストアじゃないの、やらないかなあ。収録曲ではあと、映画「時をかける少女」の中で奥華子さんが歌っていた「変わらないもの」も上白石萌音さんの歌で収録されていて、ピアノだけをバックを歌う感じは奥さんだけれど、澄んで響く声はやっぱり独特。そして耳にしっかりと届いてくる。映画のあの感涙が蘇るとともに、「君の名は。」での三葉の姿も重なってさらに思いが募ってくる。時を超えて結ばれたいと願う2人、「僕は今すぐ君に会いたい」なんて歌詞、「君の名は。」にもピッタリだ。「On My Own」。神声。ただそれだけ。

 「魔法少女育成計画」はまだ見てないけど「装神少女まとい」は見た2016年10月スタートの新番組アニメーション。まずは誰か少女が出てきて軍隊ですら寄せ付けないバケモノをあっさり倒してから、場面を転じて日本の田舎にある神社かどこかで巫女のアルバイトをする少女が2人。主人公の皇まといは父親が刑事で田舎に来ていてそこで近所にある神社に出ているみたいで、もう1人の草薙ゆまはその神社の神主の娘らしい。そんな神社に訪問者。胸が大きく谷間も深い美女の春夏・ルシエラが聞くには何か退魔のお守りめいたものがないかどうかといった話。でも見つからず。ところが現れた何かに取りつかれた男に、神主夫妻がやられてピンチになった時、退魔の儀式を行ったゆまではなく刑事の娘のまといが力を手に入れ変身した。

 ってな感じで始まった第1話。返信した姿を見て父親がどうやら妻、すなわちまといの母親を思い出したらしくて胸とか揉んできたけれど、それで反応するということは母親も何か退魔の仕事をしていて今は行方不明ってことなのか。冒頭に出てきた外国人の少女はどういう経緯で日本にやって来てそしてまといとはどういう関係になるのか。等々の謎も引きずって以下はこれから。冒頭こそシリアスだったものの本編では楽しい描写もあってギャグとシリアスの良い塩梅を楽しめそう。オリジナルだし続きが分からないからこれは毎回、見ていくしかないかなあ。溜め込むものが相変わらず多そうな中で、録画したらすぐに見てく作品になりそう。

 「夏目友人帳 伍」もいよいよスタート。いきなり夏目貴志が祖母で「友人帳」を作ったレイコと重なり合って表現されていて、そして本編でもどんぐりが好きな妖怪の心を通して若かったレイコの記憶や経験に触れたりもして、このシリーズはきっとそんなレイコの生涯を掘り起こしていくような展開になるんだろうなあ、祖父となったらしい男性のことについても過去のレイコの口から少し語られていたらしいし。でも結婚はしていないってことは普通の人ではなかったってことなのか、妖怪ではないだろうし、退魔師の家系に生きていた誰か? 分からないけれどもそんな展開を想像しながら見ていこう。瓶に入った妖怪、声は可愛かったけど性格が……。でも人形抱えて帰って行ったから本性は綺麗なのかな。もう出てこないかな。

 将棋の公式戦で対局上にスマートフォンなんかを持ち込むことが禁止されたとか。制限時間の中で棋士は自由に立って近隣を歩き回ることもあったりして、そんな時にスマホを持っていたら不正だってしかねないていうのが理由だけれど、これまでだってずっと持込が認められていながら、不正なんて起こっていないことを考えるならちょっと踏み込みすぎてる気もしないでもない。競馬の騎手や競輪の選手と言った公営ギャンブルに携わっている人なら、その勝ち負けが誰かの利益につながるため不正や八百長を防ぐため、隔離してスマホの持込も禁止して当然。でも将棋はそれぞれがプロとして自立し、またプライドも持って対局に臨んでいる訳で、その魂を信じるなら不正なんて起こりえないと思うけれど、そうも言ってられないくらいに将棋のAIが進化したってことなんだろう。いずれ電脳からデータベースに侵入して検索することも禁じられるようになるかな、ってそれはまだ誰もやっていないけれど。

 振り返って見るとやっぱりBLOGOSから転載を断られたあたりで、表現のどこが問題だったのかを他人の視線も入れて見直し謝罪と訂正をしておけば、ここまで事態が大きくなることはなかったような気がするけれど、逆に開き直って「殺せ」とまではいわないけれども排除するのは必至とばかりにあおり立て、差別を助長したことが多くの反感を買った模様。なおかつ全腎協から寄せられた抗議に謝るどころか罵倒を返したものだから、いったい何様といった雰囲気がいっきに高まった。ここがひとつの分水嶺となった感じ。

 そこでもしちゃんと謝罪していれば、最後の1つの番組まで失うことはなかったかもしれないけれど、そうはせず持論を保持し続けた結果、大阪での仕事を失い残りは東京での1つだけになった。そこは信頼というよりキャラクター性を買って起用を続けるのかな、なんて思ったりもしたけれどどーやら水面下では対応が協議されていた感じで週もまだ半ばの今日になってTOKYO MXの「バラいろダンディ」の司会を降板させられた長谷川某。昨日あたりになって反省の言葉を出し始めたものの最初はやっぱり分断による差別を引っ込めず取材の過程で自分がそう信じたからだと白状してしまった。

 そしてネットでの忠告すらも罵倒と捉えて反発していた態度にこれはもう改まらないと最後の一線も越えたのか。それともすでに決まっていたのか。分からないけれども決定打がはなたれ最後の仕事も失ってしまった。まさに自業自得としか言えないけれども問題は、どうして状況を見ずあそこまで無理な強気を続けたか、ってこと。理解できなかったのか、何か後ろ盾があると信じていたのか。いずれにしてもこれから復帰は時間がかかりそう。家族が可哀相だけれどそうなるまで何かしてあげられなかったのか。そこも考えるとちょっと悲しくなる。無敵の人になってしまったのかなあ、外でも中でも。やれやれ。


【10月4日】 そもそも論を言うならやっぱり本は1冊1冊をそれぞれの値段で売るのが態度として正しくて、著者とか造った人への敬意も考えるならやっぱりまとめて月額幾らといったサブスクリプションのサービスに、本は向かないような気もするけれど、それを言うなら音楽だって同じってことにもなるから今の時代、そういうサービスが生まれてくるのも仕方が無い。ただやっぱり音楽の場合は、ラジオのようにアルバム単位ではなく楽曲単位でセレクトされて流されるような媒体もあって、それに近いサービスだとサブスクリプションの音楽配信サービスを捉えることも可能。対して本などの場合は、それぞれが独立した作品で、なのにまとめて提供といったサービスは馴染まないといった見方も出来るかもしれない。

 だからアマゾンが始めたキンドル・アンリミテッドのサービスに、大手の出版社が続々と作品を提供してはひと山幾らで売り始めたことに、一抹の寂しさも覚えたからなのか今になって講談社に光文社に小学館といった日本を代表する出版社の作品が、そんなキンドル・アンリミテッドのサービスからまとめて除外されてしまったことに、どちらに非があるかはともかくとして、やっぱり本は1冊1冊売っていこうよといった天の声が下ったのかもしれないとか、思ったりもした今日この頃。けれども状況は入り組んでいるようで、アマゾンから求められたから出版社が本を提供したのに、売れすぎたんで一部排除ねとなったんでそりゃ違うと言ったら、アマゾンからまとめて叩き出されてしまったらしい展開で、読書の形の正しさとは違った商売としての無茶ぶりがあるような感じ。

 契約がどんな感じになっていたのか分からないけれど、途中で条件が変わってしまうことに文句を言えることが出来たのかどうかってあたりで、法律的な勝負の行方も変わってきそう。そういう条件でやっていたんだから仕方が無いとい言われたのなら出版社側の負け。でもそうではなく、また文句をいったくらいで全部削除とかいった態度に出るのは、プラットフォームを握っている側がその地位を嵩に着て、横暴を繰り出しているといった見方もされかねず、その場合は公正取引委員会あたりが出張って来そう。どっちにしても厄介な話。個人的には面白そうだったけれども利用者として登録せず、模様眺めだったらこれからも読みたい本を引っ張って、対価を払っていくだけ。それで良いのだ。ライトノベルレーベルが1つまるまる入ったら、ちょっと考えちゃうけれど。

 噂になっている「魔法少女育成計画」はまだ見ていないけれども新番組としてスタートした「TRICKSTER 少年探偵団」はとりあえず見たら少女が1人混じってた。引きこもりのハッカー。でも鬱屈している感じは無かった。単なる出不精なだけなのかも。そんな中にあって全身を武装めいたスーツで固めつつ外には見せない小林少年が、なぜか近寄るものを粉砕してしまう絶対領域めいたものを持った少年と出会い、そして始まる物語。敵は怪人二十面相らしいけれども声が格好いいなあと思ったら、何とGACKTさんだった。こういう喋りを出来る人だったんだ。絶対領域少年の力の秘密も不明なら正体も分からない状況で、何を描いていくのかがちょっと楽しみ。「乱歩奇譚」みたいな鬱々とした展開にはならないだろうと思いたい。

 東京工業大学に行ったのは最近で、愛知県の岡崎市にある研究機関にいた時代が長くって、そこでの研究も主要な論文のは分を占めているから大隅吉典さんがノーベル生理学・医学賞を受賞したのは愛知県的に誇れる話だって言っていいのかどうなのか、分からないけれども愛知県民は心のこそでそう信じている。というか岡崎市であっても名古屋なんだと言いかねない名古屋人もいたりしそう。そんな感じに入り組んでいるのが名古屋の人の心理であって、大っぴらに来てちょとは言わず来てくれんでもええいった態度を取る。そんなひねくれた心理を理解せず、名古屋をアピールしないのが悪いんだと吠える名古屋市長は本当に名古屋の人なのか。胡散臭い名古屋弁とか喋っている辺りがどーにも怪しいんだよなあ。本当に。

 今日も今日とてCEATEC JAPAN 2016へと出向いて昨日はまだ出ていなかった大学とかベンチャー企業のブースをあれこれ。慶應大学のハプティクス研究センターではあらかじめ仕込んだ動きをなぞって腕が動いてものを掴む一種のロボットアームを見物。でもただ掴むだけじゃなく、ちゃんと対象の柔らかさも含めて感じつつ掴んでのけるように仕込まれている。ロボットアームでは正確にはつかめるけれどもその加減ってのができず、一気につかんでぐちゃっとやってしまうことがある。これだとちゃんと逡巡しながらつかむため、確実につかめるんだとか。同じ仕掛けは一種の義手にも仕込まれていて、これなんかは足下のペダルを操作することで指に当たる部分を動かしつかむんだけれど、つかんだ対象が柔らかければ柔らかい感じが足下の回転式のペダルを通じて伝わってくる。

 そっとつかんでだんだんと力を強めていくと、風船なら中から空気が押してくるような感じが足下から伝わってくる。そんな感じから加減をしてそっとつかみしっかり握って移動させる。同じ事を例えば筋電義手でやろうとすると、握れって命令に従って一気に握ってしまうことになる。紙パックのジュースなんかだと握りすぎて中が吹き上がってしまう。そうしたことをなくせる義手を作れそう。ただ筋電義手もそれはそれで人間の意識を動きに変えられる訳で、その良さと、ハプティクスな義手の良さを組み合わせることでより人間に近い、考えて動き考えて握れる義手なんてものが出てきたりするのかな。いろいろと期待。

 面白かったのが自動車のハンドルにハプティクスを組み込んだもので、車輪が砂利道なんかに入った時にそのじゃりじゃりとした感触をしっかりとハンドルに伝えて自分がどこにいるかを分かるようにするらしい、ってそれ、普通だったんじゃないかと思ったけれども僕が乗っていたのは1975年式のケンメリで、パワーステアリングなんかなくおまけにFRだったから前輪の動きはそのままハンドルに伝わってきた。段差だってしっかりと感じられたけれど今の車は間にパワーステアリングの機構なんかがはいって、路面の状況にかかわらず安定して舵を切れるようになっている。

 それは悪路にハンドルをとられるようなことをなくす意味で素晴らしいんだけれど、でも悪路を知らず入っていって車全体を危険に合わせる可能性だってある。そこで今は取り払っていた身体感覚めいたものを、ハプティクスの技術が起きない補完するようになっているとか。砂利道を走ればその感触がハンドルに伝わるという感じに。時代がぐるりと巡った感じがして面白い。どっちが良いかって言うとやっぱり車が身体の延長みたいに路面はハンドルから、そしてショックアブソーバーを介しつつお尻に伝わるような車が好きなんだけれど、そういう時代でもないならより快適で、且つ運転していて心地よい空間に車がなっていけば良いのかも。それを実現するハプティクスってことで。

 やっぱりなあんにもわかってないことがわかったフリーアナウンサー氏。抽出して分断して叩いて排除し、抹殺すら是とした思想そのものが問われていたのに、それを改める節はない。もしかしたら気付いてすら居ないのかも。だからナチスドイツのT4作戦計画の再来と感じ、透析に無関心でもこれはヤバいと訴えた人たちを叩きたいだけの連中と誹ってのける。おまけにそうしたネットからの声を嘲った部分をまるっと削ってみせる弥縫策。でも根本となる優生思想的に自業自得をのみ誹る態度は変わっていない。そこが問題だという自覚はなさそう。これはまたやるな。自分の思い込みから来る正義感とやらで弱者を叩くような真似を。やれやれだ。


【10月3日】 興行収入が128億円になって120億2000万円だった宮崎駿監督のとりあえず今のところ最後の長編アニメーション映画「風立ちぬ」を抜いた新海誠監督の「君の名は。」。一時のブームが過ぎ去りスタジオジブリのブランド力もピークを越えた中で、それでも切り札だった宮崎駿監督の数字がそれだったってことはこの10年における日本の長編アニメーションの限界とも言えた訳で、それを抜いたってことは近年において宮崎駿監督のブランド力やら人気やらを、新海誠監督が追い抜いたって捉えられないこともなさそう。細田守監督も含めて。

 「言の葉の庭」がわずかに10億円くらいで、その後にどこかで大ブレイクするような活躍も見せていなかったアニメーション監督が、一気に爆発した理由が知りたいところだけれど、「アナと雪の女王」のレリゴーみたいにムーブメントとなるような減少、あるいは流行語大賞を取るようなワードが見当たらないだけに、いったいどこで誰がどんな感じに話題にしているかが気になるところ。まあ今となってはヒットしているからヒットするっといったトートロジーの段階に入っているんで、原因を探るのも面倒かも。Z会の「クロスロード」の浸透なんかを一度、調べてみた方が良いのかな。そこでの口コミやら認知やらが効いているとは思うんだけれど。

 しかし128億円の新海誠監督が、公開から6週連続でトップをとったことは凄いとして、その下で3位に3週目に入った「映画 聲の形」が残っているのも凄いこと。1週目は2位で前週は3位でそれが続いている格好。配給元の松竹が経営している新宿ピカデリーではトップが続いているというから勢いはまだまだ残っていると言えるだろー。これもどういう回路で誰もが観に行かなくちゃと思っているかが気になるところ。何より漫画を読めば相当に重たい話だと分かっているのに、それでも観に行かざるを得ないと思わせているのは何なんだろう。あるいは誰なんだろう。それが分かればジブリブランドなり新海誠ブランド、細田守ブランドに頼らない良質だから観られるという法則を確立できるんだけれど。それでもって「この世界の片隅に」も10億20億行くという。そんな明日を夢みているけれども、果たして。

 前クールのアニメーションをBD−REにダビングしながら最終回にかけた何話かをまとめて見た「アクティヴレイド−機動強襲室第八係−2nd」は瀬名颯一郎を想う統合自衛隊所属の凡河内みほの思い込みが激しさを増して、瀬名が電話をかけてきて語るのが黒騎猛のことだったために叫んで電話を叩ききったり、宇宙に行こうとして果たせなかったみほを抱き留めた瀬名が黒騎なら大丈夫だと言ったのを聞いて自分を心配してくれないのかといた思いから殴りかかったりして病膏肓に入るがごとき状態になっている。あんあに好いてくれているのにどーして瀬名は靡かないんだろう。そこが分からないけど一方はプライドの塊で、もう一方は自虐めいた性格だとやっぱりかみ合わないんだろうなあ。でももったいない。

 ミュトスがずっと仲間になってそしてバードの悪事を阻止できたみたいで、お話はこれで終わりになりそうだけれど東京は相変わらずに混乱が続いていて、そして世界との関係もまだまだ大変そうなだけに事件も事故も続きそう。そんな社会にやっぱり第八は必要だし第九だって求められているってことで、外国からの襲来めいた設定を入れつつ日本が団結して復興に向けて動き出すような第3期の展開が、あるいは期待できるのかどうなのか。フィールズが絡んでいるならパチンコパチスロ系への展開もあるだろう。その要望なり儲けた金の使い道ってことで第3期を期待してみたいところ。みほと瀬名が一緒になっていたりしたらちょっと面白いかもなあ。そして専務もなぜか一緒にいたりするという。くんずほぐれつ。

 せっかくだからとCEATEC JAPAN 2016へ。昔みたいに巨大なモニターがずらりと並んで最先端の映像を見せてくれるよーな雰囲気が引っ込み、PCだとかいったものもなくなってすっかりIoT的なデバイスだったりサービスと、ロボットとVRとその他センサーだとか何だといった電子部品の見本市を化していた。家電の見本市といった惹句はもはや使用不可能で、主催者側でもCPS/IoTエキシビションといった言い方をしている。それはだからどういうことだと説明するのが難しく、とりあえず情報技術だとかエレクトロニクスの最先端が集まる展示会とは言ったものの、それすらも一部しかカバーできない感じになっている。

 AVとコンピュータを中心にして日本のエレクトロニクス産業、情報通信産業が世界でとてつもない中心的な地位を占めていた時代なら、何がいったい展示会の中心なのかを見極めることもできたし、それに群がる来場者ってイメージも湧いたけれど、今回あたりのCEATECに言って何を見るべきか、何に人が集まるのかって問われて答えるのがちょっと難しい。Pepperのようなロボットも実はなく、VRだって東京ゲームショウのようなプレイステーションVRを始め世界のVRデバイスとそしてタイトルが並ぶって感じでもない。細かいIoTっぽサービスとデバイスがあちらこちらに点在している展示会。それを誰が見て何に役立てるのか。気になるだけの4日からの公開はちょっとのぞいてみたい。

 その前にあった内覧会では、VRとかセンサといったものを使ったサービスやら器機やらを見物。真っ先に駆けつけたロームでは腕に取り付ける巨大な銃のようなコントローラを試して遊ぶ。腕をくぐらせるバンドの内側に脈波を読み取るセンサがあって、そして上には加速度センサやら何やらがついていて腕の動きを読み取れるようになっていて、そんな器機を装着した腕を動かし脈波を放ちながら遊ぶゲームになっていた。脈がどういう感じに作用しているかは確かめられなかったけれど、恥ずかしげもなく俺の右手が疼いてはぜるとかって考えていると、相当に強い力が発揮されたりするのかな、しないかな、我に返って何て中二病なんだと気分を苛まれて落ち込むから。

 会場を歩いていたらミスター・ウェアラブルな神戸大の塚本昌彦教授が居て、自分に似せたマネキンに様々なウエアラブル装置を取り付けていた。それでいてスタイリッシュに見えるようにするのは大変そうだったけれど、16年も着けたままでいると塚本教授のよーにそれが普通に見えてしまうからようは慣れってことなのかも。あと会場ではハンググライダーのVRもあって試してはないけれど高速ジェットコースターで高い場所を走るとかいったVRとはまた違った飛翔する感覚を得られそう。でもやっぱり風はサーキュレーターで当てるのか。そうした触覚が加わるだけで視覚だけのVRよりよほど臨場感が増す。そこが面白い。プレイステーションVRはそんなVRのプラスアルファを何で表現する気なんだろう。

 シャトルバスで大手町へととって返してパレスホテルであったCEATECのレセプションに潜り込み、やって来た安倍晋三総理を眺める。ああいう場所ではたたずまいの良さが引き立つんだよなあ、あとスピーチでは強気の言葉が人を鼓舞する。国会だと大言壮語で居丈高に見えてしまうのはキツい質問にキツい言葉で返してギスギスした雰囲気になるからかも。そんあスピーチで官邸にはポケモンがいるとかどうとか。何がいるんだろう。自身ではやってないからはっきりしたことは分からないそうだけれど、それでもリアルとゲームを融合させたものであり、散歩する気にさせられるといった要点は押さえていた。そういうところは抜け目ないんだよなあ。次は東京ゲームショウの会場を視察しないかな。そういう意味ではCEATECの運営母体、CIAJだとかJEITAはビッグで政治力もある団体なんだよなあ。中心的な装置はなくなってもサービスは生まれ電子部品は必要とされるってことなのか。でもプラットフォームに近い部分はすでに奪われ苦しくなっているのか。そんなところも気にしつつ公開日にまた見て回ろう。


【10月2日】 そうか彼女が撃沈倶楽部会長のチョーカイさんなのか。「蒼き鋼のアルペジオ」。2016年11月号の「ヤングキングアワーズ」に登場してはコンゴウが拾い回収した千早群像のナニヤラが入ったカプセルを受け取ったようで、いったい中がどうなっているかが興味津々だけれど、骨とかじゃなくもっと別の状態になっていそうでちょっと怖い。どろどろのスープ見たなものが入っていたりして。あるいは胎児とか。でもって次に生まれて来た時に性別まで変わっていたらどうとか思ったりもするけれど、遺伝子まで再生するならそれはないかな、でもヒュウガが間に入っていたなら愛しいイオナ姉様に近づけないためにそれくらいのことやりかねないとか。いろいろ浮かぶ妄想。どっちにしてもしばらく出番はなさそう。

 というかコンゴウはどーして敵の千早群像を助けたのか。やっぱり自分を負かした相手をそのままリベンジも果たさず鎮めてしまうのは悔しいと思ったのか。それはアシガラとハグロも同じだたからなあ。そうやってだんだんとメンタルモデルに感情といったものを教え込んでいくのが千早群像という人間の凄いところ。敵だったはずなのが彼をめぐってハーレムみたいなものまで出来てきた。てことは13巻分もかけて描いてきた初章に続く新章は、ガラリと趣向を変えて海戦ものではなくって横須賀を舞台にした学園ラブコメになるのかな、ってそれじゃあスピンオフ作品の「ソルテュ・ロード」と一緒だよ。さてもどうなるこの続き。北良寛は手土産の魚でいったい何を仕掛けるか。続きは間を置かず始まるよーなんで楽しみにして次号を待とう。

 昨日あたりから世間を騒がせていた大阪のお寿司屋さん。韓国とか中国からのお客さんが来ると示し合わせてワサビを大量に入れた寿司を出すとかいった悪評がネットを走って本当なのかどうなのか、ちょっぴり多いだけで慣れてないからそう感じるだけじゃないのか、いやいや辛いのが好きな国民性だと勘違いして盛っているだけだろうといった毀誉褒貶がわき上がっていたけれど、1日経って経営母体から釈明めいたものが出ていて曰く、「海外から来られたお客様からガリやわさびの増量の要望が非常に多いため事前確認なしにサービスとして提供したことが、わさびなどが苦手なお客様に対して不愉快な思いをさせてしまう結果となってしまいました」とか。

 なんだサービスだったのか、って笑えるかというとそれはなくって相手がどうであろうと勝手にメニューをいじってまで、旨い寿司を台無しにしてしまうよーなことを寿司職人がやってしまうことがまずは理解できないし、そもそもがどれだけの外国から来たお客さんがわさび増量を願い出てきたのか、定量的な分析もないから単なる言い訳にしか聞こえない。そうだとしたらこれは最低な対応で、差別的な意図をないかのように見せるために、ありもしない理由を持ち出し自己弁護をはかろうとしているだけだと見なされかねない。

 フリーアナウンサーの長谷川某が、透析を受けている人たちに対する暴言を吐いては正論だと言い張り、抗議を突っぱね謝罪もしなかったことが、結果として仕事を失うことにつながった状況をカナ見るなら、その場しのぎに見えてしまう言い訳はかえって逆効果だって分かるだろう。だからこそ真剣に調べた結果、サービスだったんですって言い切れる確信を得て公表したのならそうなのかもしれない。でも、巷に流れているあの画像のわさびの分量は増量ってレベルには見えない。そうした周辺状況の中でなお、言い訳で終始させてはやっぱり拙いんじゃなかろーか。次にいったい何を言う? 興味津々。

 長谷川某と言えば、オタキング岡田斗司夫さんが何だかなあって擁護をし始めて何だかなあといった気分。「僕は長谷川さんが言っている事は、何一つ間違っているとは思いません。だからといって、炎上しないわけがありません」といった主張の文章には、「『こんな調子で人工透析に補助を与えては、さらに健康保険制度の寿命を縮めるぞ!』という長谷川さんの主論自体は、何も間違ってないと思うんです」といった言葉があったりする。でも、医療費の増大が透析患者のせいで大変なことになっている、だからどうにかしなくちゃといった「主論」自体に、自分の弱さで透析をするようになった人たちをことさら挙げて糾弾している部分も含めて擁護している節があって、ちょっと拙いなあといった気分になる。

 特定のカテゴリーに属する人たちを分断して切り出し、批判の対象として排除しようとする論理は、ナチスドイツが心身に障がいを持つ人たちを殺戮した「T4作戦」とか、人道といったものとの絡みで議論の的になっている。いずれそうした排除の論理は、歳を取った者ならすべて社会の役に立たないから排除すべしといった意見へと転がっていく。だから絶対に使ってはいけない論拠。でもそんなことにはお構いなしに使ってしまう。「透析患者」に限ったとしも、長谷川某が持ち出してきた数値に誤りがあるかもしれず、それを理由に叩かれたってロジックを醸し出しているからやっぱり、擁護にはあまりなっていない。主論と系論とかって言っているけど、その主論にヤバい部分があっては成り立たない。

 ここで主論を「医療費の増大が健康保険制度の寿命を縮めている」としておけば、まだ議論も成り立ったかもしれないけれど、だからといってそれに付ける系論、すなわち枝葉がまるで違っていたら草木は歪に育つ。系論も主論も間違ってはいけない。主論も立つ足下の地盤がグラついていてはまっすぐに立たない。そこに気付かない岡田さんでもないのに、どーしてこうも不用意な擁護論に走ってしまったんだろー。ちょっと寂しい。ここはやっぱり原点に立ち返り、そもそも健康保険制度が揺らいでいるのは何が問題なのか、やはり少子高齢化が問題なのか、ってあたりから始めないと。とはいえ年金問題も含め少子高齢化が進んでしまった世界でどんな社会保障制度なら成り立つか、って難しい問題だからなあ。そこにこそ叡智を。

 新宿ミラノ座が閉館された現在、日本で最大の座席数を持つ映画館がTOHOシネマズ日劇にあるスクリーン1。その座席数はだいたい946人だそーで、実に1000人近い人たちが一緒に見られるスクリーンはほかにない。同じ有楽町にあるスカラ座で654人だから300人近く少なかったりするし、六本木とか新宿にも900人を超えるようなスクリーンはない。そんな巨大な劇場が、公開から6週目に突入した長編アニメーション映画「君の名は。」で満席になるというのはやっぱり、かつてない出来事が起こっていると言って良いんじゃなかろーか。

 日本で最高の興行収入を稼いだ「千と千尋の神隠し」の時だって、ここまでぎゅうぎゅう詰めではなかったよなあ。あるいは公開スクリーン数が多かったからなのかもしれないし、1年以上のロングランをしていたからさすがに後半は余裕も出てきたからかもしれないけれど、すでに「もののけ姫」が大当たりしていた巨匠の新作とは違う、普通の人たちは春まで存在にすら気付いていなかった映画監督の作品がここまで大ヒットする。やっぱり尋常じゃ無いことが起こっている。

 それかでにやっぱりどーゆー回路でヒットしたのかを、正しく捉えて分析しておくことが必要なんだけれど、ネットとか調べずLINEとかの口コミとか見ないと分析は難しそう。SNSを飛び交うパーソナルに近い評判を図るツールなんてないものなあ。そこはだから社会学者とかが、リサーチを重ねて明らかにして頂ければと。結果は製作会社や興行主とかに引っ張りだこになるからそれで費用も回収できる、と。だったら自分でやるか。無理だよLINEの使い方が未だに分からない僕には。


【10月1日】 1年近くも前の番組が改めて放送されたのは、相模原市で起こった障がい者施設への襲撃を受けて、社会が弱者に対して非道な振る舞いをしても良いといった方向に傾くのを防ぎ、それがいかなる悲劇を生むものなのかを、改めて知らしめるためだったのかもしれないけれど、それから間を置かずにまた放送されたのは、優生思想に知らず凝り固まっていたことが露見したフリーアナウンサー氏の言説を、見るに見かねてちょっとこの番組で勉強しろといった説教混じりのものだったのかもとか、思ってもみたりしたNHKによる「ETV特集 ホロコーストのリハーサル 〜障害者虐殺70年目の真実」アンコール放送。

 ナチスドイツがユダヤ人の大虐殺を前にして国内で、心身に障がいを持つ人たちを選んで集めて殺害していった「T4作戦」について紹介した内容だけれど、その思想は決して認められないという前提を起きつつ、その人が幸せなのかどうなのかを勝手ながらもその人の身に成り代わって呻吟した相模原の事件の犯人とはまた違って、生産性という観点から社会に不要だといった外部的な価値判断でのみ、抹殺を決めたところがより悪質。でも、そうした外部的な価値判断を透析患者に当てはめたのがフリーアナウンサー氏であって、その意味ではT4作戦の現代版的言説だったとも言えそう。だからこそ意識あるテレビ局は拙いと感じて、降板させたんだろー。

 自業自得といくら訴えたところで、だから「殺せ」といった言動が認められないことは、そうした価値基準がやがてだんだんとラインを踏み越えて広がっていく可能性があるからで、T4作戦の時もミュンスター司教のフォン・ガーレンがそうした懸念を言葉にして説教し、それが広まってどれだけ非道なことなのかといったコンセンサスを社会に根付かせていった。フォン・ガーレンは言った。「非生産的な市民を殺してもいいとするならば、いま弱者として標的にされている精神病者だけでなく、非生産的な人、病人、傷病兵、仕事で体が不自由になった人すべて、老いて弱ったときの私たちすべてを殺すことが許されるだろう」。

 これを聞いて、誰かのことだった問題が自分のことになる可能性を知った恐怖が市民を動かし、ナチスを縛った。それでも動き続けた抹殺で大勢が犠牲になったのは悲しいことだけれど、助かった人もいるだろうからそれは良かった。分からないのはそうやって立ちあがった市民やローマカトリックが、より大規模に行われたユダヤ人の封じ込めとそして虐殺をどうして止められなかったのか、といった話で同じ人種なり身内なりといった意識でT4作戦には憤れても、別のプロパガンダに侵された心身にホロコーストのヤバさは響かなかったのかもしれない。大きな意味での分断があって片方の擁護と引き替えに、別の片方の攻撃を許してしまったのかもしれない。

 そんな過去も踏まえるならば、分断して囲い何かを糾弾しては絶対にいけない。その一線を越えて且つ、自省も自覚もまるでなかったことがフリーアナウンサー氏を降板へと追い込んだ。でも今に至るまで自分のそうした分断による人間の価値判断について、一切の非は無かったと言い続けているところが怖いというか、そこが改まらない限りはテレビのような公共の場への復帰はないだろうなあ。とはいえ、周囲がどうしてそれがヤバいのかをちゃんと聞かせれば良いんだけれど、ネットとかで忠告されても一切、聴く耳を持たたなかっただけに改まることもないのかも。これで事務所に所属していれば誰かが方便でも良いから改めろといっただろうに。それでも聞かなかったかな。やれやれ。

 新宿ピカデリーで「RWBY volume2」日本語吹き替え版の初日初回を観終わる。舞台挨拶はルビー・ローズ役の早見沙織さん、ワイス・シュニー役の日笠陽子さん、ブレイク・ベラドンナ役の嶋村侑さんが登壇。ヤン・シャオロン役の小清水亜美さんは来られなかったけれども舞台挨拶の最後で早見さんがヤンの「volume2」での見せ場に触れ、ブレイクを相手に母親について語る辺りの気持ちの入りようとかを讃えていたのでそこはまた観たい。実際にジンと来る演技だったものなあ。これならブレイクだって心惹かれるわ。

 見どころ紹介については聞かれた早見さんが自分の役とかではなくってウーブレック教授への関心を強く示したところが面白かったというか。原語ではとてつもない早口でもってセリフが叩き込まれていてそれが凄いといった感じ。そんな原語をよくもまあ分かる日本語に直して入れたものだというか。そんな日本語版が作られるにあたって本国のスタッフもいろいろと気にかけてくれているところが嬉しいと嶋村さんは話してた。そんな本国版スタッフが舞台挨拶にメッセージを寄せていて、キャストが素晴らしいといった話をしてくれた。

 おまけに、そんな日本のファン向けにこれが全世界初出しとなるらしい「RWBY volume4」の映像を少しだけ見せてくれた。あの衝撃の「volume3」から続く物語はバラバラになってしまった4人がどうやって再起して集まり敵と向き合っていくかといった展開になりそうだけれど、見せられた映像ではルビーがひとり、赤ずきんとなって暗い世界を必死に戦っていた。シリアス&ダークネス。陽気だった魔法学園物語の面影や何処? でもそんな試練を経てこその感動の再起があり再会があって再生がるんだと信じたい。早く観たいなあ。10月からいよいよ公開? 楽しみだ。

 日本語版では歌うアドリブがいろいろあって食堂でのバトルで机を積み上げた上でノーラ・ヴァルキリー役の洲崎綾さんがわたしはじょおうさま〜とか歌う辺りとかに触れられていた。あとジョーン・アークの誘いの歌とか。原語だとこれが朗々と歌われているのに日本だと下野紘さんが歌ってそれが「痛さ」を醸し出していたとこれは嶋村さんだったかな。いないとひどい言われよう。でも痛い人だからなあ。そんな痛さからの再起も楽しめる「RWBY volume2」だけれど、だからこそ「volume3」でピュラ・ニコスに訪れる運命の苛烈さも際立つってことで。

 物販も前回と違っていろいろ豊富。劇場限定のブルーレイディスクは当然手に入れるとして、缶バッジがあったんで買ったらチームJNPRのノーラ・ヴァルキリーとピュラ・ニコスだった。これはこれで。あと前回は確かなかったパンフレットが「RWBY volume1」も含めて作られていて両方購入。「volume1」ではあの山本弘さんがレビューを寄せてて巨大怪鳥グリムを相手に戦うシーンの圧倒的な迫力を讃えていた。同感。どこまでも練り上げられつつ積み重ねられてクライマックスまで繋がっていく長いけれどもあっという間の戦いぶりはモンティ・オウムの真骨頂、だものなあ。山本さんはそれを日本のロボットアニメのテーマが流れて戦いがあって必殺技までいく流れに触れつつ様式美って書いていた。同意。

 「RWBY volume2」では元アニメアニメ編集長の数土直志さんがレビュー。成り立ちについて説明しづらく出来上がった関係から進む物語も出会いとかなく過去とかもすでに語られ終えていて関係をどう広げていくかといったものになりがちで、なおかつ謎が解決されていない第2作について書くという困難にちゃんと答えていた。「volume3」の方がその起伏に富んだ内容から書きやすいかも。でもあの終わり方ではやっぱり書いていて心が痛くなるかな。誰が担当するんだろう。それも楽しみ。

 そんな「RWBY volume3」も日本語版が12月3日に公開でこれは絶対に行かなくちゃいけないけれど、ピュラ・ニコスという「volume3」でとてもとても重要になる役回りのキャラクターを演じていた豊口めぐみさんが出産で来られず、代わりをココ・アデルの伊藤静さんが演じるみたい。ココはココで「volume3」のラストバトルに登場しては、クールでゴージャスな雰囲気をまといつつ、圧巻の戦いぶりを見せてくれたキャラクターだけれど、同じように強くてもどこまでも実直で純情可憐な上に強いピュラ・ニコスとはまた違っているからなあ。どう演じ分けるのか。そこも楽しみ。その前に『RWBY volume2』の店頭分初回仕様版も買わないと、CD付くし。

 患者の点滴に消毒液が入れられておそらくは殺害された事件が相次いだ病院に週刊誌記者が潜入したってことで逮捕された事件。どこかと観たら「SPA!」だったんで驚いたというか、「週刊文春」や「週刊新潮」といったジャーナリズム系の週刊誌ならまだしもサブカルチャー的情報誌の「SPA!」が何でそこまで危ない橋を渡るのかが分からなかったけれど、ちょうど映画でスキャンダルを追うカメラマンが主人公の「SCOOP」が始まっていて、それとタイアップするようにして「SPA!」が劇中雑誌の編集なんかもしれいた関係で、知らず染まってしまったのか、それとも実践によって映画を盛り上げようとしたのか、いろいろ考えてしまった。これで捕まった記者が福山雅治さんばりにイケメンで、「俺たちがやってることはゴキブリ以下、ドブネズミ以下なんだよ」とうそぶいたのならそれはそれで体を張っての宣伝ってことになるんだけれど、果たして。功名心かなあ、やっぱり。


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