縮刷版2015年7月中旬号


【7月20日】 新宿のバルト9でアニメ愛を叫んだ庵野秀明監督のその言葉に、アニメーション好きな人たちの間からやんやの喝采が飛ぶのは分かるのだけれど、でもその一方で司会の氷川竜介さんが話した、そうしたアニメーションに対する人々の愛が最近ちょっと痩せてきていることを危惧する言葉の方が、むしろ今を象徴しているし意味もあるなあと思ったのは、まさしく自分自身がそんな感じに陥りつつあるからだろー。ほんと、テレビシリーズのパッケージをめっきり買わなくなったんだよなあ。お金がないってのもあるし、HDDレコーダーへの録画で間に合うってのもある。それですら見切れていないし、見ていたら見ていたで、パッケージを買っても見なかったりする。

 「魔法少女まどか☆マギカ」も「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」もBDを全巻そろえたけれどでも、どれも封すら切ってない。もうテレビで全部見たからいいやって気になっている。それが積もるとだったらもう買わなくてもいいかなあなんて傾いている。いっぽうで東京MXがちょっと前まで入らなかったことは、見ないなら見ないで自分とは縁がなかったと思い買わなかった。買ったのって「ヨルムンガンド」くらいか。それも実は見ていない。漫画といっしょだろうなあって思うくらい。これではとてもアニメ愛なんて叫べない。パッケージを買ってもそこに愛はない。たぶん。

 テレビシリーズとは対照的に映画は割と買っている。劇場にも通っていて原恵一監督の「百日紅〜Miss HOKUSAI」とか5回は見たし、きっとパッケージも買うだろう。そうでなくても1度か2度はだいたい見てる。そして買ったりしている。劇場版「PSYCHO−PASS」なんかも本編を録画はしたもののほとんど見ていなかったものを、映画で興味をそそられテレビシリーズのBD−BOXを買ってしまった。その意味ではまだ少しくらいの愛はあるんだろうけれど、月にレーザーディスクを5枚とか買っていた次代の、無限ではないものの底が見えなかった愛のバケツが、タライになって今はスープ皿から刺身の醤油皿くらいに薄くなってしまっている。

 それでもまだ愛がある人たちは大勢いて、発売日には店頭に並んで何枚ものBDを買っているんだろうけれど、そうしたえ少数の人の無限の愛に頼っていてもいけない訳だし、少数の愛はだいたいが偏狭さの裏返しであって、ジャンルとして偏りつつ濃縮して収束されていく。結果として普遍性は後退して、勝ち負けの差がはっきりと出てしまう。それがハケンなんとかって言葉になって鮮明化して、それに即した行動へと導かれる。言葉って定着するとやっかいで人ってそれに知らず縛られてしまうんだ。そうなってしまった状況を揺るがし短編アニメーションの面白さでありストップモーションあり影絵あり、動いてないのがあって動きのすごいのもあるアニメーションの多様性を今一度、再認識させつつそちらへと誘導してさまざまなカテゴリーにそれぞれお客がついて薄くても広く市場が浮上する、なんて未来を作るために「日本アニメ(ーター)見本市」は貢献しているんだと思うし思いたい。

 そして作り手が自由に作れる状況を作ると同時に、見る側をも啓蒙し啓発し教育し誘導する企画でもあるのが「日本アニメ(ーター)見本市」。だから当初からセットでそれぞれのアニメーションの見どころを紹介して解説する「同トレス」って番組が合わせてスタートしてずっと行われている。これがなければただの新作アニメの発表会で、すっげえと思わせてそれで終わり。でもって話題性のある作品ばかりが持ち上げられて他の重要な意味合いを持った作品は影にかくれて埋もれて言ってしまう。そうはならないように配慮されつつ、それでも偏る人気の傾向が、少しは改善していくのかどうか。そのあたりが目下の興味のポイント。確かめる意味でも25日からの劇場上映は行きたいし通いたい。パッケージが出たら買うけど出るのかなあ。その上で痩せつつ愛を復活させたいもの。とりあえずガルパンの復刻された初回限定版を揃えるか。パンツァーフォー!

 そんな「ガールズ&パンツァー」の再放送第2話では大洗女子学園のある街というか空母の中に忘れ去られた戦車があるとかで発掘に回るという展開。山あり谷ありといったいどれだけデカいんだ学園艦。そして続々と見つかった戦車を掃除してそれぞれが搭乗するようになったけれども、この頃はまだ臆していた西住みほは車長にならず代わりに武部沙織が車長になってはみたものの、やっぱり性格的に合わないという感じ。そういうところでちゃんと個性を殺さず描きつつそれぞれの適正ってのを考えさせる展開が改めて上手いなあと思うのだった。操縦手も今は華だけれど慣れないことより慣れる砲手へと転換していく流れから、人にはそれぞれに得手不得手があるのだと学ぶのだ。なんてな。それにしても空から落ちてきた戦車から出てきた蝶野亜美のどこに戦車道を極めると大和撫子になれるんだと思うけど、そいういう不思議は気にせずそれが大和撫子なんだと思わせる力業もまた、この作品に人を引きつけさせるんだろう。劇場版はいったいどんな物語になるのかな。今から楽しみ。

 そしてようやく見に行った「シンドバッド 空飛ぶ姫と秘密の島」は登場した姫ことサナちゃんの顔にズキューン。ちょっとキッとしたまなじりを持ったその目は斜め前から見ても横から見ても毅然とした意思を感じさせて見る人たちの心を打つ。うんこれは日本アニメーションでありそこへと連なる東映アニメーションの人脈から生まれた顔立ちで、そして僕たちの世代が僕たちのアニメーションとして強く心にすり込まれている顔立ちでもある。だから惹かれるのも当然だし、そんな中でもラナとかクラリスのように守られる少女ではなく、モンスリーや峰不二子、あるいは「もののけ姫」のエボシ御前といったところに心を惹かれ続けている人なら、見てもう大好きになるより他にない。だから僕はこの「シンドバッド 空飛ぶ姫と秘密の島」が大好きだ。

 ストーリーはまだ端緒というか海を夢見る少年シンドバッドが船と出会い姫と出会って海へと出て、そこでサナとともに冒険をしていくって土台が出来たばかり。なにか恵田のしれない連中も絡んでは来ているけれどその狙いもその正体もまだ分からない。サナはとりあえず目的にしていた霧の中の島を訪れてしまったけど、その次に行くべき道ってのは決まっているんだろうか、あるいは両親から聞いているんだろうか。そんな辺りの描写はないけど夢を忘れかけていた船長が、サナとシンドバッドの活躍を見て若返ってやる気満々みたいなんで、どこまでもその夢を追いかけサナを支えて船をすすめてくれるだろう。そんなニュアンスをちゃんと混ぜてあるから、商売大丈夫なのって疑問は湧かない、こともないけどまあそこはそれってことで。次は年末公開かあ。どんなサナちゃんが見られるか。これも今から楽しみ。

 「Tears Roll Down」変じて鷹森諫也さんの「仮面師は微笑う レプリカ・アリス」(コスミック文庫)が面白かったよ。新書館でシリーズ化されていたものを修正し再刊したもの。無法地帯の地獄と守られ保護された楽園の狭間にある煉獄の街で、人が顔に着ける人そっくりの仮面を作っている美貌の男レイヴンと、彼を世話するグリフォンという青年の物語。なるほど新書館で出ていた意味も分かるけれどもコスミック文庫版はそうした関係も引きずりつつ、描写はほとんどないままに、レイヴンが仮面を作った少女アリスが逃げたと両親から依頼され探しに出るというストーリーで進んでいく。そして分かった少女の事情、そして煉獄で生きる大変さ、それより悲惨な地獄の様。抜け出したいとあがく人々の思いを汲みつつレイヴンはグリフォンと生きていく。

 着けさえすれば 誰にでもなれる仮面はけれども、誰にもなれない自分という存在を強く感じさせる。本当の自分というものをそこに思ったときに仮面は偽りのものとなる。そのときに贖罪も悔恨も捨ててただ前だけを見て乗り越えていける者だけが成功して、越えられない者は敗れ去るというのは本当に是か非か。そんな問いかけに挑むような感じがある。男とも女ともつかない美貌のレイヴンにはどうやら曰くがありそうで、その顔にもだから秘密はありそう。一端はほのめかされるものの真相は不明。新書館版の続刊あたりではすでに書かれているんだろうけれど、そちらも続けて再刊されるだろうから明らかになるのを待ちたい。そうでなければ新書館版を探して買おう。ともあれレイヴンの正体は。赤の女王と白の王の思惑は。いろいろ気になる。そしてやっぱり問われる仮面の意味。外観と本質というその狭間にある揺れる自分の心を今一度、問い直そう。


【7月19日】 おもしろいなあ「Classroom☆Crisis」は、金食い虫の学生エンジニア集団のA−TECを取りつぶせという兄の専務の命令を受けてやってきた御曹司だけれど、腹に一物あるのかそれとも元より兄たちの敵なのか、専務の言うことの裏をかこうとしてA−TECのギリギリからの逆転劇を画策している様子。与えられていたゴージャスな工場は返して予算も削減に応じつつ、A−TEC発祥の地となった記念館へと戦線を後退させつつそこで頑張り、状況をひっくり返すドラマがこれから演じられそう。状況に絶望してメンバーも離れていったけれども主要なあたりは戻ってきて、そして熱血教師と冷血部長を中心とした癖のある面々による破天荒な活躍を、楽しませてくれると思うと先が楽しみになってくる。

 あとはやっぱりキャラクターの動きの良さであり表情の豊かさかなあ。いわゆる萌え系がずらり並んで顔だけ見せていればオッケーな作品って感じでは無く、ちゃんとそれぞれに性格付けがあて、それに応じた表情や仕草って奴を見せてくれる。笑い戸惑い怒り一部にツン系無表情で。そんなメンバーの顔だけ見ていても楽しい上に、小林ゆうさん演じるお局さんにはまだ早いらしい経理のエキスパートがやって来ては、タイトスカートのスーツ姿で罵倒の言葉を吐いては眼鏡をキラリとさせてくれる。もう最高。A−TECのメンバーにはどちらかといえば「はにゃー」な高見ちゃん風(fromジオブリーダーズ)の眼鏡っ娘はいるけれど、タイプも違うし雰囲気も違うそんな2人がツイン眼鏡で活躍してくれるだけで見る価値がある。そこに乗っかるストーリー。どんな展開が待っているか。毎週追っていこう。

 おもしろいなあ「ガンッチャマン クラウズ インサイト」は、ベルクカッツェを内に入れて達観してしまった感じすらある一ノ瀬はじめに代わって長岡から来た三栖立つばさが未だ衰えない熱血な正義感を掲げて複雑な世界にはびこる善でありながらも悪であり、悪であっても善な存在を相手に、相対化の罠に覚えることなく真正面から一刀両断していこうって感じがあって興味津々。それはクラウズを動かす大勢の人たちが持っているだろう善意にかけたい爾乃美家累にも通じるんだけれど、その陥穽にはまって身動きがとれないなかを、ノートにナイフを突き立てられて絶体絶命になってもなお善意を信じたがっている累とは違ってどこまでも迷わず突き進んでいくって感じ。それが良い化学反応を起こして事態を良い方向へと向かわせてくれれば良いんだけれど。でも女装姿で血を吐きもだえる累も悪くないんでしばらくはそんな姿も見たいかも。

 そして分からないのがゲルサドラちゃんの立ち位置で、想像するなら人の心をとらえてそれがばらばらになっていることを厭い嫌っている感じ。呼び出して可視化してあまりに違った色合いに愕然としていたけれど、それを飲み込んで何かを悟った後、どういう風に世の中へとコミットしていくかももう1本のストーリーになるんだろう。でないとゲルサドラが出てきた意味はないから。あるいはばらばな心を1つにまとめて平板化してしまい、個性も奪ってそこに無機質な平穏って奴を作りだそうとしているのかも。ほかの星が平和になったというのもそんな強制の結果に過ぎなくて、けれども自分を保ち続けているはじめあたりは反対して逆らって、ゲルサドラが可愛いつばさと対立するって展開があるのかな。間に立って迷う累。一、二、三とそろったキャラの三つ巴を中止していこう。累はだから倒れずそのまま、女装姿で活躍を。

 渋谷はBunkamuraオーチャードホールにてYuki Kajiura LIVE vol.#12のオーチャードスペシャル2daysの2日目、すなわち千穐楽。オープニングは佐藤芳明さんのアコーディオンにて奏でられる「トラブルメーカー」から始まりそしてイーリアンパイプスの中原直生さんを迎えての「花子とアン」のサウンドトラックがあってといった具合に前日を踏襲したセットリストが続く。KAORI、KEIKO、WAKANA、YURIKO KAIDAといったFiction Junctionを構成する歌姫たちも現れ相変わらずの絶妙なアンサンブルを聴かせてくれてオーチャードホールという他とはちょっと違った“荘厳”な空間に多層であり多彩な声による場が出来上がる。そこにどっぷりと浸れる幸福は、大きなホールではちょっと味わえないかなあ。

 戸丸華江さんやRemiさんも歌に迎えて奏でられる様々な楽曲。フルートの赤木りえさんは昨日とかわってパンツスーツ姿で身を躍らせながらタイミングを待ちそして旋律を吹き上げて空間を貫き染める。響くストリングス。振るわせるパーカッション。生の楽器たちならではの深みがあって揺らぎもあって震えもあるその音色は人間の声を抑えず負けもしないで相互に高め合ってひとつの音場を構築する。大人数を揃えながらも押さえられた空間ならではの雰囲気は、そこにいてこそ味わえるものなんだろうなあ。でも映像として見てみたい気もするけれどそういう予定はあるんだろうか。

 WAKANA声で奏でる「水の証」とかを聞きKEIKOがメインをとる「I swear」も聞いてと昨日の聞き所を再確認しつつ進んだ最後の方になって変更が。笠原由里さんが壇上に現れ高みより響かせるその高らかにしておおらかな声によって本編がしめられる、その掉尾をかざった「salva nos」。昨日はアンコール前まで誰1人として立たなかったけれどもさすがにこれらの曲で立たないわけにはいかないと、待ち構えたように総立ちとなって喝采を贈る。オーチャードがまるでO−EASTのようだ。これもまた梶浦由記さんの音楽の多彩さを示すもの。荘厳であり軽快であり重厚であって破天荒。そんな音楽のすべてがぎゅっとすまった2日間だったって言えるかも。

 アンコールに入ってフルートにアコーディオンにイーリアンパイプスにストリングスが勢揃いして「red rose」となってそうした面々が同じ旋律を競い合うようにユニゾンしてみせた場面とか圧巻。ライブならではの迫力があり楽しさもあった。これはいつかまた出るだろうライブCDに収録して欲しい楽曲。でも出たばかりなんで次はいつになるんだろう。ライブDVDでも良いけれど。これは出るだろうか。さて。そんなこんなで2時間半とかじっくり聴けたYuki Kajiura LIVE vol.#12に続くvol.#13の告知もあって、どうやら来年3月に場所見て無いようも未定ながらも開かれるとか。そこに至るまでにどんな楽曲が積み上がるんだろう。そういえば最近どんなサントラとかやってたんだろうって気になった。調べても「花子とアン」以降、あまりないけど何か貯めているのかな。それが出てくるのかな。期待して待とう。

 若い人たちが目一杯に頑張って反戦反安倍なポエムを繰り出してくれることをうん、喜びたい気持ちはあるのだけれどそれが大勢に通じるかというとちょっと迷う。朝日なんかが持ち上げると余計にヘキエキ感が募ってしまうのは僕が年寄りだからでスレてもいるからだけれど一方で、こうした声をまっすぐに受け止めて若い人たちの多数がそりゃそうだと動くのかといったところも知りたい。動くからこそ右でも左でもノせられてしまう人がいるのかなあとも思うけど、これだけ情報が発達している上に価値観の相対化も進んでいる中でノせられるのも一部のような気がしてならない。どっちなんだろう。

 というかこういうムホッとむせてしまうポエムよりは、平野耕太さんによる漫画「ヘルシング」に登場する最後の大体を率いる少佐の「諸君、私は戦争が好きだ」のあの演説を逆説としてとらえて喧伝した方がよほど、戦争の悲惨さ陰惨さ苛烈さどうしようもなさと、そしてそんな戦争を遂行する者たちの陰険さ狭量さ滑稽さが伝わると思うのだけれど。問題はああいうのを逆説として世に喧伝する言葉がうまく出ないのと、そして逆説と受け止める感性がどうにも同調圧力めいたものの中で痩せているような気がすることだったりする。まっすぐい戦争礼賛ととらえ非難しつぶしそう。そうじゃないのに。誰か有名な人があの演説をとらえて笑いの文脈にのせて逆説としての反戦を語るとかすれば世の中も理解するんだろうけどなあ。誰が良いだろう。ピース又吉さん? アニメも漫画も見そうもないし、それを見るのを許しそうもないんだよなあ、いまの世間は。これも期待値の同調圧力か。世知辛い。


【7月18日】 もうどうしようもないというか。それは失してはいないとはいえ遅すぎる決断を今さら下して新国立競技場の計画を白紙に戻した安倍総理にも言えることだけれど、それよりもむしろそうした足掻きを“決断”であり“英断”であるかのようにとらえ、英雄視して持ち上げるメディアが未だにあったりすること。新国立競技場の設計案に問題があることはもう、2年も前から建築家たちの間で指摘がされて、このままでは費用がかかりすぎるしそもそも完成すらしないといった指摘が為されてきた。シンポジウムも開かれ意見書も送られていたにもかかわらず、政府も事業主となっているJSCも完全無視を決め込んで、決まったことだと言い続け費用があがるのは予期していなかったと言い逃れて計画を止めずに進めた挙げ句、ここに来てようやく無理だと分かって投げ出した。

 いやいや、言われたとおりにやって来ただけのことで、官僚にもJSCにも止める権限がなかったというのが本音のところだろう。それが出来るのは上に立つ者たちなんだけれど、ここまで一切の手を打たず、自分たちに責任が及ぶのを嫌がってか進むに任せては来たものの、間際になっていよいよダメだとうことになって、非難の声も大きくなったのを受け、ようやくもって決定を下せる責任のある人が決定を下したという、それだけのことに過ぎない。つまりはその決定権者がここまで何も手を打たなかったせいで、無用な混乱は生まれ、無駄な発注も行われ、そして何よりひとつの目標だった、2019年のラグビーワールドカップの会場として使うことが不可能になった。2020年の東京オリンピック・パラリンピックのプレ競技場として使って具合を確かめることもこのままでは出来ない。

 文字通りのぶっつけ本番では、何が起こるか分からないという不安。実際に何か起これば恥をかくのは日本であり、すでにラグビー界の人たちはワールドカップの出場国を最新の設備でおもてなしできないという、世界に顔向けができない状況に陥っている。その責任を誰もとらないどころか、最高責任者であるはずの人間がただ計画を止めただけ、それも遅すぎる判断を下しただけで英雄になってしまえるこの空気のおかしさを、世間はしっかりと感じ取っては安全保障法案を通したこととのバーターにはしないといった決意めいたものを持っている。にも関わらず、一部の御用聞きのようなメディアはその決断を英雄視して偉大さを喧伝し始めているところに、世間と官邸および御用聞きメディアとの乖離があるんだけれど、そこに気付かず突っ走ってはコケた時、政治家は安全地帯に逃げて取り残された御用聞きメディアがどうなるかが今は注目といったところか。棄てられてもなお縋り、讃える無様を見せてくれるのかなあ。やれやれ。

 蒸し暑い中を遠出するだけの気力に乏しいんで昼過ぎから動き出して渋谷はBunkamuraオーチャードホールで開かれた梶浦由記さんのライブの特別編を観覧。前に東京国際フォーラムでやった日本語オンリーだったり日本語皆無だったりサウンドトラックだったりといったカテゴリー別のライブをシャッフルして、オーチャードホールという場所に相応しい感じに仕立て直したといったライブで冒頭から盛り上げ観客席総立ちとはいかず、静かに初めてそしてMCによる笑いとかもそんなに挟まないで音楽を聴かせるという感じで進んでいった。途中に激しい曲があっても誰も建たないのはやっぱりオーチャードという空間の持つ磁力か。あそこで立ってヒャッハーするのって何かやっぱり気恥ずかしいもんな、むしろ終わって最後にスタンディングオベーションするのが相応しいというか。そうなったかな。

 実はアンコールまで見られなかったんで最後は総立ちになっていたかどうかは不明なんだけれど、本番の印象をいうならやっぱり箱として音を聞くには良い感じ。ただ東京国竿フォーラム規模にミキシングを合わせていたのか楽器が鳴り響きすぎて歌声を押していたようなところも感じられた。もっと抑え気味で良かったかもしれないけれど、座っていたのが3階席のサイドだったんで場所的にそう聞こえただけかもしれない。明日また行って確かめてみよう。楽曲では昔の「Fiction」あたりからとられたものがあって結構良かった。あと「花子とアン」のメーンテーマとなる楽曲を東京国竿フォーラムと同様にイーリアンパイプスの人を入れて演ってくれて、あの可愛らしい人がすまし顔で脇に挟んだふいごをキュッキュッとやりつつ空気がたまった袋を押して音を出す姿を見られた。吹いてないのに音が出る。不思議な楽器。いつかそれだけの演奏ってのを聞いてみたい。

 さてアンコールを聞かずに抜けたのは新宿のバルト9で開かれた「日本アニメ(ーター)見本市」の劇場での上映会を前にした試写イベントがあったから。途中でカメラを忘れていたことに気付いたけれど、取りに戻る余裕もないんで手元のiPadで撮影をしつつ登壇した庵野秀明監督やドワンゴの川上量生会長らのトークを聞く。まずは冒頭で、この「日本アニメ(ーター)見本市」のすべての作品で声を担当しているたった2人の声優、林原めぐみさんと山寺宏一さんから寄せられた声によるメッセージの大爆笑。「印象に残る作品ばかり」と褒めてはいてるものの、声を当てるのが「1期のころは楽しかった」と言いつつ、2期から3期へと続いた企画でだんだんと大変さが増してきた演技に林原さん、「なんかつらい」と冗談混じりに話してた。そりゃそうだよなあ、慣れてくるといろいろ使いたくなってあれこれ要求するものだし。

 実際に吉浦康裕さんの第3期に寄せる作品「ヒストリー機関」で山寺宏一さんは24役もやっているとか。「監督のみなさんは2人でやっていることをお忘れなんんじゃないかな」と林原さんも言って、とにかく大変な仕事であることをうかがわせてくた。ただ「こんな若い役は最近なかった」と山寺さんが振り返るように、ベテラン過ぎる2人に振られる役が商業作品では限定されがちな状況で、あらゆる役を“無茶ぶり”するこの企画を通して、林原めぐみさんであり山寺宏一さんといった声優が持つ演技力の凄さが、改めて世の中に示されたことは大きな成果。主人公というと若手のイケメンボイスな声優に振られがちな状況を打破して「これを見てメインをやらせてみたら面白いねと思われたら嬉しいね」と言って“復帰”に期待を寄せていた。僕も見たいなあ、スパイク・スピーゲルみたいな男を。

 そんな「日本アニメ(ーター)見本市」の待望の3期には「Lupin the third 峰不二子という女」を監督した山本沙代さんや「いばらの王」の片山一良監督、「明日のナージャ」のキャラクターをデザインした中澤一登さんに「ももへの手紙」の沖浦啓之さんとその新作が待たれる監督やらクリエーターがずらりと並んで期待大。「写眞館」をちょっと前に手がけたなかむらたかしさんも作品を寄せいてて、イベントでは上映もあったみたいだけれとフォトセッションで中座したんで詳細は不明。「パルムの樹」みたくぐにょぐにょ動くのか「写眞館」みたいに丹精な中に映像の積み重ねて感じさせるのか。早く見たいなあ。あとは「ME!ME!ME」で世界を驚かせた吉崎響監督の作品か。いったいどんなものになるのやら。庵野監督がいうように、深夜アニメ的でもジブリ的でもない多彩な作品が勢揃いしたここから、次代のクリエーターと次代のアニメファンを共に育成して豊潤なアニメが生まれる素地を作ってくれるとアニメファンとしては嬉しいんだけれども、さてはて。


【7月17日】 茶番もいい加減にしろといったところだけれど、このタイミングでひっくり返すのが前日の安保法案の衆議院通過によって安倍政権が被ったダメージを、覆い隠すのにちょうど良いって判断が当然に働いたんだろう。問題自体はもう1年以上も前から取りざたされてきて、散々っぱら異論が出され提言も出されて来たにもかかわらず、のれんに腕押し糠に釘といった感じに、誰も責任の所在を認めないまま、ぬるぬると来てしまった新国立競技場の問題。でもやっぱりこれは保たないってことで今日になって安倍総理からのダメ出しが出たってことで、これからやり直しのコンペをするのか、代替案から選び直すのかってあたりが焦点になって来そう。

 ただ、これはつまりは前にあった指摘を全面的に受け入れざるを得なかったってことで、だったらどうしてもっと早く検討しなかったのか、この1年とか2年の間で出来るはずだったのがダメになった理由も見当たらない以上、そこの判断の遅れにおいて誰かが責任をとらなければ無駄に時間を使った挙げ句、ラグビーのワールドカップを開くという目的の1つが大きく頓挫してしまったことへの示しがつかない。ラグビー関係者は自分たちが悪者にされることに憤るなら、ちゃんと自分たちで悪者を見つけ出して突き出して責任をとらせないとワールドカップは開かれない、そして悪者扱いにされる無様をこ今世紀中は受け続けることになるぞ。それで良いなら良いけれど。ラグビー関係者に悪者はいないっているなら誰が本当に悪いのかも含めて考えないと、ってそれは偉い人が言っているか、下村文科相が悪いって。

 まあそんな犯人捜しは継続的に行うとして、建て直し計画の見直しが決まった以上は未来に向けてもベストな形って奴を喫緊に決める必要があるんだけれど、そこで問題になるのがやっぱりサブトラックの問題だろう。キールアーチによる屋根の設置はつぶしたとしても、同じスペースで屋根を柱からワイヤーを渡して吊すようにしたところで、結局は競技場として使う土地の面積は変わらずあの地域にサブトラックは恒久的には設置されない。ようするに箱物が別のに入れ替わるだけで、空間全体のグランドデザインが書き換えられるって訳ではない。神宮球場と秩父宮ラグビー場を入れ替え日本青年館は南にずらしてもそこに恒久的なサブトラックが置かれる余地がないのなら、五輪後に国際的な陸上大会はもとより全日本のような競技すら開かれな半身の競技場だけが残ってしまう。

 それで良い、陸上競技なんで金輪際開かれなくて良いというならトラックすら取っ払って観客席にしてそこでラグビーとサッカーとコンサートを専用に行うようにすれば客も入って採算だってとれるだろう。8万人の規模さえ満たせばサッカーのワールドカップは誘致できるんだから陸上界のことなんてほおっておけって話になる。そこはだから割り切りで、陸上の中心地は横浜国際が永久に担うといった棲み分けが出来れば良いんだけれど、でもそれだと世界に響くナショナルスタジアムで何十年後かに、再びオリンピックを開こうとしても出来ないってことになるからなあ。あとはやっぱり首都にまともな陸上競技場がないのは恥ずかしいというか。横浜国際だって作りとしちゃあ華々しさに欠ける。そんな状況をどうとらえどう解決するか。全面見直しならグランドデザインも含めて行うのか。そんな辺りがこれからの議論の中心になりそう。大変だなあ。だからもっと早く撤回しておけば。って後の祭りとはこういうことを言う。戦争に行かされて戦死者が出てもやっぱりあの時って思いが過ぎるんだろうなあ。

 ポカが出るのは仕方が無いとしてもそれが失点に結びつくと印象に響くのでどうにかして欲しいなあ、なんて思った山根恵里奈選手のプレー。前節を浦和駒場スタジアムで浦和レッドダイヤモンズレディース戦に臨んで勝利した我らがジェフユナイテッド市原・千葉レディースが、FIFAサッカー女子ワールドカップ2015カナダ大会を準優勝して山根選手と菅澤優衣香選手が帰国して、初のホームで試合をするとあって夜のスタジアムへと赴くと、凱旋を見たい人たちが2000人ほど来ていてちょっとしたJ2の試合並の雰囲気って奴を醸し出す。いやさすがにJ2で2000人は少ないけれど、これがなでしこリーグがまだL・リーグだったころには200人でも多いくらいの観客だったことを思えば大成長。なおかつ無料ではなく有料でこの観客ってことはまだまだ女子サッカーの人気は衰えていない。そして定着してきたって言えるかも。

 そしてジェフレディースというチームの強さも同様に定着傾向にあるっていうか、相手はあの日テレ・ベレーザというかつてのなでしこリーグの王者チーム。2003年頃とか試合をしたら6点を奪われ1点も返せないような試合を繰り広げていたのが、今はむしろ相手陣内へと攻め入って長くボールを保持するくらいの強さを見せている。もちろん相手は世界一サッカーが上手い女の子たちが集まっていると言っても過言ではないチームだけあって、原菜津子選手と阪口夢穂選手を中心とした中盤がしっかりとボールを足下に治めてそしてしっかりと走る周囲に渡してジェフレディース陣内へと攻め込んでいく。でも守備が突破させずシュートだって打たせない。試合中に危ないシュートはまるでなく、枠に飛んでもしっかりと山根選手が押さえていた。

 1人の長身キーパーだけでなくディフェンスみんなで守備をする試合ぶり。これはなかなか点を取れない。だからなでしこリーグの1部でも上位は難しいとして中段のやや上にずっと位置していられるんだろう。それだけに失点は惜しかった。センターバックとちょっとお見合いするような形になって前へと出るのが遅れてそれだけ相手に体制を整える時間が出来てしまって頭越しにゴールを決められてしまった。ディフェンスが食らい付いてキーパーが下がれば、あるいはディフェンスにはゴールを任せてキーパーが思いっきり飛び出せば防げたかもしれない失点。その辺りの連携って奴をチームでも、代表でももっと詰めていく必要があるんだろう。そこはだから若さを逆に武器に変え、学び育むことで安定したキーパーへと成長していってくれれば良い。時間はたっぷりとあるのだから。

 一方で菅澤選手は得意の長身から放り込まれたボールを頭で入れて得点ゲット。これでやっぱり得点女王? 調べてないから分からないけれどコンスタントに得点を刻めるようになっているってことは、代表でもそんな菅澤選手の強みを活かした攻撃ってのを出来るようになることが、来たる東アジア大会での勝利につながるんじゃなかろうか。代表でももっと放り込んでポストをやってもらってそこをカバーする選手がいればいいんだけれど、誰もがセカンドストライカーてより前で以てドリブルしたがるフォワードが多いからなあ。だからこそ中盤に理解があって視野が広く正確にボールを蹴り込める選手が必要。それが出来たのが宮間あや選手だけれど年齢も年齢だし、次の中盤をちゃんと育てる必要があるよなあ。男子の代表も遠藤保仁選手が出なくなってとたんに中盤でのキープも前線への球出しも出来なくなったから。誰かいないかなあ。誰が良いのかなあ。これからちょっとなでしこリーグ、通って探してみようっと。


【7月16日】 ここに来て急に見直しの声が政府あたりから立ったのは、あまりに横暴が過ぎるといった感じで風当たりが強くなっている状況で、追い風になるような事態は避けようって判断も働いたんだろうと思っているけど、その見直しがいったいどうなるか、ってところがまるで見えないのも気になるところ。キールアーチが高いからとっぱらえ、なんて話もあるけど、それだとあれで支えることになる観客席の屋根がなくなってしまう。たらいのようなスタジアムが夏とは言え夕立なんかも起こる季節に、雨ざらしになってしまって良いのか。期間中だけ別に柱を立てて屋根を吊すって手もあるんだろうけど、それなら最初から別の案にした方が良い。

 そういう意見も出ているようで、コンペで挙がった別の案にするとかまたまたコンペをやり直すとかいった話もあって現場が右に左に混乱しそう。ザハ案が通った時にこれはもめると考え他の案を元に資産もし、設計も済ませてあってそんな設計図を「こんなこともあろうかと」と取り出す設計事務所やゼネコンがあったらカッコイイんだけれど、それだってお金はかかるわけで商売に走る企業がやっているはずないよなあ、それに何か漁夫の利を狙っていたようにも見られかねないし、あるいは裏で話がついていたとも。簡単なのはだからすでに見直しの中で挙げられていた有名建築家たちの案をうけいれること。それなら設計も構造計算も終わってそうだし。ただやっぱりザハ案での資材調達も進んでそうだからそれの補償とか考えるとやっぱり巨額の無駄が出るんだろうなあ。どうなるか。まずは安藤忠雄さんの“釈明”に注目。

 ってことで行われた安藤忠雄さんの会見は、まるでお話にならないというか金額が上がったことについては自分は知らないといい、それでもザハ案のまんまでいくべきだと言って具体的に誰がどういうプロセスを経て決定したのか、そしてそうした責任の所在がどこにあるかは分からないままになっている。ザハ案でいけばお金がかかるから無理だっちゅうのにザハ案でいけといい、でもお金がかかることについては知らないってそれで務まるんだから委員とかって気楽な仕事。自分の責任はデザイン選定で終わっているって白状したんで、もうお引き取り願ってあとは真っ当な人たちで、まずはどういう案で行くか、それでお金はいくらかかるかを考えるべきだろう。ラグビー協会の元会長がしゃしゃり出てくるかもしれないけれど、政府が見直しを口にしたならもうここは出番はないと考え、引っ込んでくれると思いたい。そして完成するザッハ・トルテのような平べったいドーム。食べれば美味しいチョコレート味。なんてことになったら嬉しいな。嬉しくないよ。

 面白いなあ「オーバーロード」。階層主たちが勢揃いしてモモンガ様への忠誠を改めて口にする場面とか見ていると、設定に従って裏切りなんてあり得ない手下たちの安心感が一方にあるものの、裏切りによるドラマもないってことでどういう風に展開を組み立てていくのかがとりあえずは気になる。そして忠誠もその度合いを互いに競い合うようなところがあって、アルベドとシャルティアの間で口げんかから顔まで変えてのガンの飛ばし合いなんかが起こってあれでやっぱり怪物たちなんだなあと改めて思わされる。口とか裂けちゃうんだもん。そんなアルベドが男の娘のマーレが指輪をもらっていたのを見るなり目を剥き出しにして敵意めいたものを漂わせたのは恐ろしかったよ。察してモモンガも即座に指輪を与えていたけど、今度はシャルティアが何か言ってきそう。生まれた火種。でもそれが内紛へと至ることはないんだよなあ。敵らしき者も現れたけれど何者なんだ。ゲームキャラなのか違うのか。そんな辺りも気にしながら見ていこうこれからも。

 昨日はチームラボを見たわ。今日はインタラクティブアート。ってな感じにメディアアート系の展示会の内覧会を見にさいたまスーパーへと行ったら若い女性が大行列を作っていた。人気だなメディアアート。じゃなくって三代目 J Soul Brothersのライブを見に来た人たちだった。まだ午前中なのに、そして大雨なのにいっぱいの人が大行列していてそれだけ人気なんだなあと実感。カッコイイからねえ、なんだかんだ言ったって。ダンスとかしっかりしていて歌もそれなりで見て楽しい舞台を作る。EXILE系といいジャニーズ系といいそのあたりがエンターテインメントで稼げる人たちならではの強さなんだろうなあ。素人くささを愛でてくるファンとか欲していないし、そうしたファンの移り気を信じていないってことでもあるんだろう。やることをやり切ればついて来てくれる。そんな信頼が頑張りとなって芸に跳ね返っているんだろう。1度くらいは見てみたいかな、EXILE系。ジャニーズ系はちょっと無理だし。

 さてインタラクティブアートの展覧会こと「魔法の美術館」を見物。手を近づけると光る柱があったり人が近寄って影ができるとそこだけ光るプレートがあったりして、動いて楽しもうとする意欲が湧いてくる展示になっていた。あるいは動かないと何の楽しくもないというか。それが出ていたのが坪倉輝明さんというアーティストによる今回が初登場となった「つくもがみ」って作品で、キネクトを使って人間の動きを読み取りつつそれを画面に映るロボットに反映させつつ、そのロボットがガラクタを見にくっつけていって暴れる様を楽しめる。自分がロボットになれる感覚と、それが用済みとなった廃棄物で作られているという切なさ。ものは大切にしようねって思うかというと、子供は自分の分身が暴れるのが楽しそう。そりゃそうだ。僕だってそうだし。

 それは画面を動き回る水玉に、自分の影が触れると弾かれるインタラクティブ作品とかでも言えたこと。自分の動きが何かをもたらす快楽は、ボタンを押すとキャラクターが動くゲームにもあったことで、それが肉体のアクションになってバーチャルな世界で動くという壁を越える感じが、不思議な感覚って奴をプレーする人にもたらす感じ。踏むと輝く意思があり、光る地面がありといった具合にとにかくインタラクションがあちらこちらで取り入れられた展示物。それがさまざまなアイデアを工夫によって違う作品になっている。自分なら何をどう使うかなあ、て考えるきっかけもくれそうだけれど、アイデアはあっても技術がないし形にするだけの能力もない。そこがアーティストとライターを分ける差なんだろうなあ。せめて近づくために見て語る努力はしよう。でも言葉で語りきれない面白さ。行って遊べ、それだけで済んでしまうのもまたインタラクティブアートの特徴かも。言葉殺しだね。

 へえ。としか言えないピース又吉さんこと又吉直樹さんの芥川賞受賞。直樹って名前なのに直木賞じゃないのがまず不思議だけれどそれは冗談としても幾つかの短編を経て最初に書いた中編でもって三島由紀夫賞にノミネートされて落とされて、それでも芥川賞にノミネートされて取ってしまうんだから凄いというか。いくら話題性でもって売上げを伸ばしたい業界の思惑がよぎったとしても、力の無い作品に与えては選考委員の沽券に関わる訳だし、逆に与えなくっても作品性を評価しなかったんだと問題になる。そうした難しい舵取りの中であえてこの作品を選んでみせたというところに作品としての力の所在も見て取れる。同時受賞があったというのを保険とかバッファーとか見るむきもありそうで、羽田圭介さんには申し訳ないけれど、そこはだから水準を超えた作品が普通にとれる賞になっていく過程に乗った2作だったと理解することにしよう。おめでとうございます。でもまだ読んでないんだ「火花」。直木賞は東山彰良さんかあ。「路傍」は確か読んだなあ。船橋小説だったんで。ヒャッハーはまだ出てこない頃の。


【7月15日】 「スタンプを無視するということは、友だちを無視するということだ」とはよく言ったなあと思った「販促ワールド2015」でのLINE上級執行役員法人ビジネス担当の田端信太郎さん。たとえ企業が配ったスタンプでも、それを使っているのはフレンドでつまりは親しい友人で、そこから送られてきたスタンプに対してネガティブだったりウザかったりする感情というのは抱かない。そこが電子メールによるDMばらまきとは違うところ。信頼と情愛でつながったコミュニケーションの上にうまく広告的なものを乗せて混ぜることが、LINEなら出来るっていう訳だ。直接の婦絵おモーションじゃないのに効果があるかってのは知りたいところだけれど、そうした企業スタンプを展開した「コアラのマーチ」は売上げが伸びたっていうんだから、やっぱり意味はあったんだろう。

 LINEのようなメッセンジャーを通して友人たちとのコミュニケーションにどっぷりと浸っている事に、何の抵抗感も違和感もない人たちにとってきっと、LINEはとても大きなメディアであり生活必需品でもあって、テレビにもケータイにも増して大きなプラットフォームとしてその人生に寄り添っていくんだろう。僕なんて友だちがおらずコミュニケーションが苦手で、メッセージを送られたって読みもしないで放っておく人間にとって、既読スルーが許されない世界は重荷でしかないんだけれど、、それを平気で受け入れられる人が多いからこそLINEがあれだけ使われている。ならばやっぱりそこがひとつのブレイクポイントとなって、ウエブでの一方的なアプローチは駆逐され、コミュニケーションを土台にしたマーケティングって奴が主流になっていくんだろう。そこに乗れるかメディア業界。無理だろうなあ。

 たとえ野党の人たちが幾本ものプラカードを国会以内で掲げようとも、数の大小というひとつの民主的な決定のプロセスを経て選ばれてきた者たちの、これも数を土台にしての決定プロセスに対して一切の効力を持たないことは自明であって、そこで何らかの意思を通したいなら、先にやっぱり数の大小というプロセスいおいて勝利するために不断の努力をすべきであったし、事ここに至る過程で数の少なさがひっくり返る可能性をうかがわせ、数の多さを頼みにしてすべてを進めようとする者たちの心を縛るべきであった。

 それができなかった時点でもはや負けは確定的で、ここでいくら反対の言葉をぶつけたところで何の意味を持たないことを衆目は知っている。自分は反対しましたというパフォーマンスに過ぎないことを分かっている。だから決してそうしたプラカードを掲げただけの人たちに次の選挙で与することはない。そうした人たちが次にマジョリティとなることもないだろう。結果、変わらない状況が続くだけという繰り返しを経て、今が来てそして明日も来ると思うともうどうしようもなく心が重い。

 論理的に、そして段階的に物事を進めることがどうして出来ないんだろう。浮ついた言葉と見栄えの良い行動だけですべてが決まり流されていくこの世界。それは耳障りの言い言葉に流され、見栄えの良い行動に惹かれる僕たちに最大の問題があることもまた事実。ここを改めない限り、歴史は繰り返されてそして…。明日それが衆議院を通過しようと今日の委員会採決で感じたことは変わらない。変わるとしたらこの1晩ですべてがひっくり返るような何かが起こることだけれど、それはともすれば暴力を含む。あるいは情動を頼みにしたものになる。もはや民主主義ではないそれらを認めるわけにはいかないとしたら、次、来たるべき選挙において最善の選択をするしかない。その積み重ねで路線を元に戻すしかないのだけれど。どうなることか。どうなるものでもないのか。この国。日本。

 江ノ島に行くなら途中下車して見てこようと昭和のポストモダン建築の代表作ともいえる神奈川県立近代美術館の鎌倉館を見物。鶴岡八幡宮には2度ばかり来たことがあったし、神奈川県立近代美術館の鎌倉館も別館は寄った記憶があるのになぜか鶴岡八幡宮の蓮が咲き乱れる池の芝に立つ鎌倉館に寄ったという印象は薄かった。それだけ自分にとっての重要度が低い美術館でもあったんだけれど、鶴岡八幡宮から借りている土地を返すことになって取り壊されるかもしれないという話が浮かんで、戦後すぐに建てられたモダニズム建築の粋が失われることに反対の声が起こって、かろうじて保存は決まったらしいという建物。そこで開かれる展覧会もあと2回ということで、これはやっぱり見ておこうと考えた次第。

 鎌倉駅から参道ではなく脇の商店が並ぶ門前町の通りを歩いて20年くらい前に来たときは、まだ骨董とか古書店が並んでいたなあという記憶があった店構えが、すっかり土産物屋に変わっていたのにある意味がっかり。2年前に着物のショーを見に来た時よりおさらに観光地化が進んでいるような感じもあった。人力車とか前はいなかったもんなあ、見かけなかっただけかもしれないけれど。でも通りを歩く外国人とか観光客にはこういう方が嬉しいんだろう。買い物も出来るし飲食だって楽しめる。近所に住んでいる人には寂しいだろうけど、そういう人も昔と気質は変わっているだろうし。時代は変わり町並みも変わる。それは次へと映っていく。10年後にどうなっているか。また来よう。

 そんな神奈川県立近代美術館はなるほど蓮池にテラスが面してピロティが並んで高床式になった展示室が上にあってとモダンな作り。意外と小さいなあという印象もあるけれど昔の美術館なんてそんなものだし、点数だってまあそこそこは展示できるんで美術館として機能させていくことは可能だろうなあ。ただやっぱり継続的に何かを見せていくには小さいし、収蔵品を保管しておくような場所があるとも思えない。それとも別館には倉庫とかあるんだろうか。その別館は規模の割に展示室が狭くてそんなに数を見られないという不思議。どっちつかずを並べて置くより、もうちょっと立派なのを建てようぜって意見が出ても不思議はない。ただ鎌倉館の空間を支配する建物の雰囲気の素晴らしさは他になく、それをどう使うかは別にしてあの空間だけは残して欲しいという気が。池のそばに建て替えたって蓮池を臨むあの雰囲気は出ないだろうし。鶴岡八幡宮におかれましては宝物殿としてでも残して惜しいと懇願。銀杏だって折れても残したんだから。

 そして江ノ島へ。去年はネイキッドで今年はチームラボとはデジタルアートな界隈を総ざらえしている新江ノ島水族館。ということは来年はライゾマティクスが関わってドローンを使ってペンギンやアザラシを空中に飛ばしたりするに違いない、なんて思ったりはしたけれどもむしろこちらはお得意の空間を把握するセンサーを使って水槽の魚にプロジェクションをするかなあ。いやでもそれは今年のチームラボがやっているからもっと違うことをやってくるかな。ってことで18日からスタートする「えのすい×チームラボ ナイトワンダーアクアリウム2015」ってのの内覧会を見て回って、大水槽を泳ぐ魚にプロジェクションが当たってずっと動いていく様に去年との違いって奴を感じる。

 去年は深海の相模湾をCGで描いて大水槽の前の透明なスクリーンに投影して、実際の相模湾を再現した水槽の様子と重ねてみられるようにしていた。それは映像ショートして面白く迫力もあったんだけれど、今年はそうしたスクリーンは使わないで泳いでいる魚、そのものをひとつの作品として水槽の中に現出させようとしたって感じ。枠みたいなところに花をちりばめ、そこを横切った魚をセンサーがとらえて追いかけるように花の映像を投影するという構成は、派手さに欠けるし魚もエイとかみたいな大きいものでないと花も見えないから迫力にも乏しい。何が起こっているか分からないまま通り過ぎてしまうこともある。

 見た目が派手になるかどうかは魚任せなところが多分にあるけれど、それもまた魚を見せる水族館ならではの立ち位置を踏まえたものって言えば言えるのかも。夜になって激しく泳ぎはじめる魚がいればそこに絵が映り、花が水槽を乱舞するって様子を見られるようになる訳だから。これを踏まえてだったら例えばライゾマディスは何をやるか、トレスした魚の軌跡から何か映像を作り出すような仕組みでも持ち込むか。データを元にした表現が得意な集団だからあるいはあるかも。って別にライゾマティクスが来年は請け負うって決まってる訳じゃないけれど。地元鎌倉の面白法人カヤックだったら何をやるかなあといった興味も浮かぶ。おおあれは栗山千明さんだ。サポーターとして登場したようで魚をじっと見入ってた。栗山千明さんに見つめられるなんて何と幸せな魚だろう。僕も魚になりたい。


【7月14日】 何がなにやら。新国立競技場を巡る論議で日本経済新聞が書いていた森喜朗元総理への配慮ぶりがもはや呆然を通り越して空前絶後のポン酢っぷり。何でも「『キールアーチをやめれば五輪には間に合う』とする建築家らの主張に対し、五輪組織委幹部は首を振る。『森会長の思いを知らないから言えること。ラグビーを飛ばして、五輪のための競技場を造るという選択肢はない』」というやりとりでもって、森元総理が決断したことを曲げるわけにはいかないといった態度を見せたとか。でも。今計画されている新国立競技場でキールアーチを止めないと、かえって2019年のラグビーW杯に間に合わなくなるんじゃないのか。

 今の構造を見る限りに置いて、グラウンドの上を覆う屋根はそれとして、スタンドにかかる屋根もそのキールアーチから延びた柱が支えることになる。もしもスタジアムだけ早めに建ててラグビーWにも2020年の東京オリンピック・パラリンピックに間に合うようにして、後からキールアーチを作って屋根を乗せるとなったら畢竟、スタンドには屋根がなく雨ざらしの状態で競技を行うことになる。これってとてつもなく恥ずかしくないか。森元総理の顔がつぶれるどころの話じゃなく、日本人全体の顔がつぶれてぺしゃんこになる。そして世界中から物笑いの対象になる。あいつら屋根ひとつ作れない民族だって。

 かといってキールアーチも込みで作るとなると、これがとんでもない難工事となってとてもじゃないけれども2019年のラグビーW杯には間に合わない。森元総理の“思い”ってつまりはラグビーのW杯を日本で開くことであって、そのために新国立競技場を間に合わせるなら形なんでどうでも良いからとにかく間に合うデザインをして、工事をすることが肝心なのにどうしてよりによって間に合いそうもないデザインを選ぶのか。キールアーチフェチなのか。いろいろ不思議で仕方がない。それともあのデザインを選ぶことによる何か利益でもあるのか。それが推進しようとする面々に共通の約束事になっていたりするのか。追究が進むことを期待したい。でもってさっさとデザインをひっくり返して美しくも楽しく優しいデザインが立ち上がることを願いたい。サブトラックもあって世界陸上にだって使える8万人規模の屋根付きスタジアムが。出来るって日本なら。

 変態だけど天才かもしれな大学10年生とかの発明青年が、100歳位なのに旦那だっているそうなのに見かけは幼女姿のコートボニー教授と知り合い繰り広げる奇妙な発明の数々に、笑い浮かれて楽しんでいける桜山うすさん「コートボニー教授の永続魔石」(オーバーラップ文庫)。何十年かに1度くらいの割合でわんさかやってきては、奇妙な発明をしまくる小人たちとその1人のコートボニー教授と、スービって青年との半ば出会い編として七転八倒な毎日が描かれる、その苦労ぶりが楽しめる。それはそれでおもしろかったんだけれど、続編の「コートボニー教授の時をかける花嫁」(オーバーラップ文庫)が凄まじく面白くって驚いた。

 相変わらず変態だけれど、何でもそこに入れられるという不思議な袋の発明家として知られはじめたスービをめぐって起こる大騒動。あり得ないといわれていた空を飛ぶ飛行艇を発明したことが、結果として何万年か先に起こるだろう世界の破滅を呼びそうになる。そこに現れたのがスービの妹で勇者らしいヘンリエッタちゃん。2人が力を合わせるようにしてそこにコートボニー教授も絡んで、どうにか破滅の原因を突き止めたけれど破滅は止まらない。世界を救うために発明をすれば、それが巡り巡って敵を強くし自分達を滅ぼすという八方ふさがりの円環をスージはどうやって突破する? という意味で時空が絡んだSFになり宇宙まで絡んだSFになっていく。

 これは傑作。天才だけれど変態で惚れっぽく、恋人がいながら幼女のコートボニー教授に迷いネコミミのメイドさんにも惹かれたりするスージ。そこに勇者で魔法使いのヘンリエッタという妹まで絡んで何とも羨ましい境遇だといったコミカルさが一方にありながら、破滅に向かう世界を救う懸命な戦いもあって読ませ、うならせる。こういう話がひょこっと出てくるからライトノベルはやめられない。書きっぷりでもチョコレートをもぐもぐと食べるエルフの描写とか、自称「時間軸さん」という少女のうろたえつつ頑張る描写とか、キャラクターたちを描く筆もなかなか良い。その上に光る時間を相手にした戦いという設定! これはもう読むしかない。スービが借金を負った賞金稼ぎの巨人の女性とか美女だけれど長身でなんか強そうで惹かれるんだけれど、その嫁になるのは拒否するんだスービ。ちょっともったいないかも。とりあえず次はどんな発明が出るか楽しみ。出番が少なかった御嬢もいっぱい出してね。

 1紙だけだと「見限ってもいいという声もありますが」とか「そんな連中は放っておいても良いという意見も聞こえます」と言って間接的な声だという形でぶつけたのを、あたかも記者個人が言ったかのようにねじ曲げて書いているかもしれないと思ったけれど、幾つもの新聞がそうじゃなく、自分の意見としてそう質問したらしいと書いているからにはそう質問したんだろう時事通信記者。もう言語道断というより他にない事態ではあるけれど、俯瞰するならそうしたなれ合いの戯れ言が許されるというか、そういう政権の思っていそうなことを忖度して言いお筆先を努める俺カッコイイと感じるような空気が官邸に詰めている記者たちと内閣官房との間に仲間意識のように漂っていて、それが一種の軽口として出ただけっていった可能性なんかも浮かんであのことウンザリとした気分になる。

 今回はさすがに踏み込みすぎていて指摘され問題視されて記者は退場と相成ったけれども、そうした記者会見の場ではなく新聞紙上で、あるいはウエブのコラムで、果ては個人で開いているSNSの上で傍若無人な言説を垂れ流しては相手から訴えられ、時に完全なまでの敗訴を喫してもなお責任を問われることなくその地位にとどまり、出世までしていくような媒体もあるだけに、官邸の周辺に漂うメディアと政治の空気ってのはもうとてつもなく吸うのが憚れる感じのものになっていたりするんだろう。そうした空気に染まった人たちが作るメディアが記事を書いて、今の政権がひっくり返るはずがないし政策が転換されるはずもない。安保法制しかり、新国立競技場しかり。主体なき空気が敗戦へと突き進んでなお特攻を生んで多くを死なせた過去が再び。嫌だなあ。面倒だなあ。

 遅すぎるかなあ、という印象がまず浮かんだ宮崎駿監督による安保法制とか辺野古移設とかへの見解を述べた外国メディア相手の記者会見。そこで安倍晋三総理に対する歴史に名を残したいだけの人間だという批判が出て、沖縄県民の多くが反対しているという声も出てそうした意見に与したい人たちを勇気づけてはいるけれど、明日にも委員会で採決が行われるというようなタイミングで1人の映画監督がいくら国民的とはいえ発言したところで国会の空気は代わらないし、議員の数はもう絶対に代わらない。言うんだったら昨年12月の選挙の前に安倍政権への不平不満をぶち上げて、数を減らしておかなくてはいけなかったけど、そういうクリティカルなところでは動かないんだよなあ、鈴木敏夫さん。アリバイ作りというわけではないけれど、でも結果として世間が動かないんだから一緒かも。まあここで何か言ったことが次を繋がり平和へと向かうならそれは僥倖。そうするためにもせっかくの言葉を大切にしていかないと。だから3年かけて10分のを作ってないでもっと何か言って。そして作品で何かを示して。宮さん。


【7月13日】 そして気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉が群馬FCに負けてJ2で5位まで下がっていたという。何で勝てないかなあ。戦力的にはそれほど不足している感じではないのに、そして得点が奪えない訳でもないのにそれ以上に失点を重ねて負けるなり引き分けになって勝ち点を失うケースが多すぎる。それが例年なんだから立て直しにかかるべきなんだけれど不思議と直らないのは監督に守備の意識を植え付ける人が来ないからなのか。オシム監督だってまずは守備から整えたものなあ。結果だけ求めちゃいけないのか。そして気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉レディースの方は浦和レッドダイヤモンズレディースに勝利。菅澤優衣香選手が1点を奪い山根恵里奈選手が0点に押さえて勝利した。まさに理想の戦いぶり。女子にはそれができるのに。技術ではなく精神を入れ替えてみたくなってきた。山根選手はそのまま入れ替えて試してみたい気も。

 だから「がっこうぐらし」でそして「学園生活部」なのかと、テレビアニメ「がっこうぐらし」の第1話の終了間際に示された状況から理解。怖いなあ。ただそういう驚きがすでに提示されてしまった中でもどうやって、ほのぼの学園生活的な雰囲気と必死の学校生活とを両立させて描いていくのか、っていった興味は募る。ヒロインの1人がずっとそう感じている光景を主観として描きつつ、客観も混ぜて悟らせつつそれでも陽気な雰囲気を保つとか。でもそれでやり過ごせる状況でもなし。ともすれば共倒れすら起こしそうな状況をどう突破するのか、そして帰結をどこに置いているのかで最終的な印象というか評価も変わりそう。世界はちゃんとすくわれる? そういう道は開けてる? デッドエンドにひた走る展開じゃあ悲しすぎるから。だから願おう、幸せを。

 すべてを知った上で見ているから、その珍妙な設定に首をかしげることもなく、吹き出すこともないまま再放送が始まったアニメ「ガールズ&パンツァー」を見ていられたけれども、これが映画から入ってさかのぼって設定を見たりした僕のような立場ではなく、本放送時に一切の情報を排してまったく初見として触れた人は、いきなりの「戦車道」という設定に吹き出しいったいどういう冗談なんだと思っただろうなあ。パロディに振れても寒いギャグになる。シリアスでいったら死人が出るところを、「戦車道」という武道であり部活の範疇に入れてただ、女子高生が競い合う材料として「戦車」を入れ、それが戦車戦として納得の反意を逸脱せず至らないこともないまま描いていくことで、架空でも真剣でなおかつ楽しい状況を作り出すことができた。さすが水島努監督。でもすべてを見知った今、新たに作られる劇場版をそうしたふんわりとした楽しさに包み込んで満足させられるのか。派手な戦闘が必要になるのか。「これが本当のアンツィオ戦です」のように徹頭徹尾、世界観を守ってそこに引っ張り込むか。注目したい。はやく公開されないかなあ。

 まだ経営企画室長という肩書きだったから2000年か2001年のころだったんじゃないだろうか。東京にある事務所で当時の任天堂について聞いた記憶があって、それが岩田聡さんにお目にかかった最初だった。まもなく山内溥さんから社長の座を委譲されることになるんだけれど、それだって年齢から行けばまだ41歳とか42歳とかそんな感じ。今の僕と比べても相当に若かったにもかかわらず、そして当時の任天堂がコンソールゲーム機の停滞によって結構な苦境に立たされていたにも関わらず、社長の座を引き受けてはそこからニンテンドーDSを送り出し、Wiiを送り出し3DSも送り出して経営の根幹をどうにかこうにか立て直した。

 なるほど近年は苦境にあるとは言われていたし、数字的にも売上高はピーク時に比べると3分の1以下に落ち込み、利益面でも赤字が続いていて決して芳しくはなかった。それでも自身が社長に就任した当時をさらに下回ることはなく、苦戦していたWii Uに「スプラトゥーン」っていう新しいひっとさくが出て、いつかの「ピクミン」に並ぶ新しいプロパティとして成長しそうな雰囲気を見せていたし、ここまで幾つか打ってきたスマホへの展開なり、USJとのコラボレーションといった新機軸がこれからいよいよ世に出ようとしていた矢先、任天堂の岩田聡社長は亡くなった。前の社長だった山内溥さんが亡くなってからほぼ2年。こうも立て続けに立役者を失うというのは何かよくない風でも吹いているのかと心配になって来る。

 この近年の不調を岩田さんの経営手腕に責任を見るべきなのか、それともゲームというものが置かれた環境そのものに原因をみるべきかは判断に迷うところで、DSから3DSへと移行した後にDSで生み出した「脳トレ」とと言われる新しい上にそれがミリオンを獲得できるカテゴリーを3DSでは生み出せず、立体視という特徴を起爆剤にできなかったという状況を鑑みて、そこに突破口を見ようとした判断を間違いだということもちょっとは言えそう。あるいはWiiで獲得した体感型のゲーム市場に並ぶような規模を、Wii Uではまだ生み出せていないってこともある。振って遊ぶコントローラーのわかりやすさが、Wii Uのあのタッチパッドにはないってことも言えるだろう。それがゲームをどう面白くしてくれるのか、なかなか分からないものなあ。

 だったらDSのままで推移すべきだったのか、Wiiの延長線上で行くべきだったのか、ってあたりもこれは判断に迷うところで、やっぱり飽和状態にあったインストール数を入れ替えるには、ちょっとのバージョンアップでは追いつかないと考えたのかもしれないし、新しい機能を持ったプラットフォームだからこそ提案できるゲームがあったと思っていたのかもしれない。ただそれが出てこなかった。その責任を岩田さんに求めるのは酷だし、急激に進みすぎたスマートフォン市場の中で、こと日本に限ってはそっちに流れるゲーマーが多すぎたってことも誤算だったかもしれない。ゲームへの接触をDSが増やした結果、ゲームをつまみ食いするユーザーが増えてそれが3DSじゃなくスマホへと流れてしまったという。

 作った市場をとられるという不幸。だったら逃がさないようにすればよかったとは後になって言えることで、任天堂という企業のビジネスモデルではそう簡単には課金によるスマホゲーム市場に入ることはできなかった。これを何とかしようと奔走した結果が、DeNAとの提携を呼んだんだけれど、その結果が出る前の訃報に当人としても、いろいろと思うところがあったんじゃなかろうか。個人的にはスマホをひとつのプラットフォームとして、その上だからこそ遊んで楽しい“構造”を作り出してくれるという期待に答えてくれただろうとは思いたいけれど、その死で伝統が崩れてただいたずらにIPだけを多々して、既存のゲームの外側だけ変えたようなゲームがはびこり、時流の変化とともに飽きられ忘れられていくことがちょっと心配。だからこそ宮本茂さん竹田玄洋さんというソフトとハードの両翼が、代表権を持って経営に当たって形に流れず“構造”を持った市場をスマホにも、携帯形にも家庭用にもアラタに作っていってくれることを願いたい。それが岩田さんの労に報いる最大の方法だから。改めて合掌。ありがとうございました。

 もはや季節が違っているとかいったレベルではない妄言を吐きまくっている石原慎太郎元東京都知事。新国立競技場とかを含めて東京オリンピック・パラリンピックの開催に足りなくなるお金を引っ張るために、東京へと近隣県から通っている人たち社会人1人につき毎月1000円徴収すれば、年間で600億円になるとかいってそれを企業に支払うよう求めろとか言っている。それが東京都民にもまず負担を求めつつ近隣県だということで協力を求めて了承を受けた上で、まんべんなく取るというなら分かるけれども、東京に来ているというだけでどうして新国立競技場のためにお金を出さなくてはいけないのかが分からない。普段から使える施設でもないし、東京オリンピックで整備される道路とかの恩恵を受けるわけでもない。それで金だけ取れるはずもないし、取れるだろうと考える思考そのものにどこか短絡というか混乱も見え隠れする。世にそれを耄碌と呼ぶんだけれど。でも本気でそうなった時、払いたくない企業から東京都民じゃない通いの社員から切られていくなんてことが起きたら嫌だなあ。何だってリストラの理由にしたいところだし。要監視。


【7月12日】 それを任侠であり、裏社会といったものの暗喩だと捉えるにしても、細田守監督による「バケモノの子」に描かれるバケモノという存在、バケモノたちが暮らす世界の文字通りに現実離れした様子をいったい、どう解釈したら良いのかという戸惑いを祓う手がかりが見えない。裏社会であっても、あるいは真っ当な社会に背を向けた任侠の世界だとしても、それらは現実の、真っ当に営まれている社会とは決して断絶しておらず、なにがしかの隙間を縫っておこぼれに預かり、あるいはかすめ取るなりしてその命脈を保っている。暮らしている人たちも、堅気に背を向けながらもその背に堅気は意識せざるを得ない状況に生きている。決して断絶はしていない。

 古来よりバケモノは人間のネガティブな情念なり、自然への畏敬なりが生んだ一種の幻影であって、現実から乖離しては存在し得ないものだったりする。それを健全さという同調圧力からはじかれてしまった異種異形の存在たちの集まりだと捉え、裏社会や任侠といったものを暗喩としての“バケモノ”として認識させることにもつながっている。けれども「バケモノの子」に登場するバケモノもその世界も、現実の社会とは一切の関わりを持たずに存在してる。それもさまざまな種族が争わず心に闇を抱くことも無く健康に健全に前向きに生きている。これはいったい何の暗喩なんだろう。もしかしたらユートピア、理想郷として描いたのかもしれないけれど、だとしたらそれをバケモノという異形の存在にした理由が、なおのこと分からなくなって来る。

 勝手に妄想するならまだ幼い9歳の少年にとって人間の社会は整ってはいても冷たくて残酷に見えたのかもしれない。そして手をさしのべてくれる存在は異形であっても野性味があって暖かみもあって生命感にあふれるものだと映ったのかもしれない。それがバケモノという形になって見えたし感じられたのだけれど、歳を重ねて強さを得て自立する心も持った少年にはもうバケモノも人間も恐れずに見つめ対峙できる存在になった。だからもうそこにいる必要もなく出ていくことを決心した、と。いやまあ単純に迷い込むならヤクザな世界でも外国でもないバケモノの世界にした方がファンタスティックになると思っただけなのかもしれないけれど、そうしたビジュアル的なフィルターを排して物語の本質や構造を感じ取ろうとした時に浮かぶ妙な違和感が、僕をこの作品にのめり込ませてくれない理由なのかもしれない。やっぱりもう1回くらい見て確かめておくか、違和感の正体って奴を。

 「芸術は爆発だ」と言ったのは岡本太郎さんだけれど、爆発を芸術にして世界に名を轟変えているのは中国出身の蔡国強さんというアーティスト。世界中を爆発と花火によって埋め尽くしてきた来た人で、現代美術のファンなら言うまでも無く名前も活動も見知ってはいるけれど、そうでない人には2008年の北京オリンピックの開会式で、空中を巨人が歩いたような足跡の形をした花火を打ち上げたりして盛り上げた人って方が通りが良いかもしれない。テレビの放送時にはそこにCGが被せられていたとかいった話も出て、中国嫌いのメディアなんかを賑わせていたけれど、実際に現場で見上げた映像にもちゃんとしかり足跡形の花火が見えているということは、計画通りに打ち上げそして開会式を彩ったって言えるだろう。

 まさに国家の威信をかけたプロジェクトで、その最大とも言える場で大成功を収めたアーティストってことは、つまり国家的な英雄かというとそうでもなくって、30歳になる前に中国を出て1986年に日本へと移り住んで1995年ごろまで活動を続け、そこから米国へと拠点を移しながら今は世界中で活動を行っている。中国にいれば英雄になれるかというとそうでもなく、中国にいてはできない活動もしているってことで決して国家に与えられたお墨付きを喜んでいる人ではないってことが窺える。その主題には、たとえば広島の上空に黒い花火を咲かせたり、福島県のいわき市に桜を植えるプロジェクトに協力したりと、その土地に刻まれた一種の負のスティグマを、受けつつ新しい時代へとつなげていこうと言った社会的なメッセージも含まれていたりする。貧困とも戦い弾圧とも戦うようなアーティストとしての反抗心をちゃんと持っている。そんな感じ。

 横浜美術館で始まった展覧会「蔡国強展覧 帰去来」でも、カンバスに火薬を使って描いて色も火薬の発火でつけた絵を並べて、そこに性的な表現も描いてみせてくれていた。そもそもが火薬を使って絵を描くという行為が、筆でもなければ墨でも絵の具でもない、どこか暴力的な衝動をそこに含んだ画材によって行われるもので、決して上品なお芸術じゃない。結果として現れる作品にも、完全なコントロールを越えたところにある偶然性めいたものが刻まれている。内に向かわずミニマルな箱庭に止まらないで、外へ、そして世界へと広がるような広さと大きさを持った作品。それは陶製のレリーフとして作った菊や曼珠沙華や蓮や梅といったものの上に火薬を撒いて火を付けて、焦がしすすけさせた作品にも窺える。爆発による変化という内にこもるのとは正反対の、外へと広がる変化の一瞬をそこに定着させたような開放感が。

 狼の等身大ともいえるぬいぐるみを数多く並べてアーチのようにしてそして、アクリル製の透明な壁に当たらせそこに貯まるようにした作品は、自然の解放が人工によって阻害されている現状を現したものなのかそれとも。火薬を使った爆発だけじゃなく、そうした作品を作っているのはちょっと意外で、ほかにいったいどんな作品を作っているのか知りたくなったけれども横浜美術館にはそういうのはそれ1作だけ。いつか本格的な回顧展をそれこそ東京都現代美術館の全館を使ってやって欲しいなあ。もちろんそこでも爆発芸術を作ってもらって吹き抜けの巨大な空間に吊すんだ。しかしこれほどの世界的なアーティストをその思想は問わず五輪おオープニングに起用し大作を任せた中国のような度量が、来たる2020年の東京オリンピックを開く日本にあるのかなあ。せめて長岡の花火を再現するくらいの度量があればいいけれど、NGT48を含むチームの乱舞でとどめて義利兼ねない空気が漂っているんだよなあ。やれやれ。

 「マーシアン・ウォーズクール」はどうなった? って思いつつもこっちの進行もそれはそれで嬉しいエドワード・スミスさんの「竜は神代の導標となるか2 」(電撃文庫)は王家を粛正してたった1人の生き残りであるエレナを狙うウェイン・グローザを向こうに戦うことを決めた地方郡主のソルワーク家とほか数家。グローザの命令で迫ってきた領主シギル家をカイ・ソルワークが退け蒼竜騎士となだかい凄腕のルガールとも互角に渡り合って緒戦を守り切った反乱勢力はシギル家が治める城を落として領主の座を奪い、徐々に勢力を拡大していこうとするのが第2巻。王家に連なるエレナとは母親が違う兄が帰国してカイ・ソルワークたちと組むんだけれどなぜか瀕死の重傷を負ったレア・シギルという元領主の女性のもとに通い詰めて治療を施す。どうして? ってところでなかなか良い話が。強い女性に憧れる青少年の純な心に触れられます。さても暗躍する「蛇」によって反乱の原動力となっている技術を奪われ戦乱は激しくなりそうだけれど、どういう軍事に外交を経てカイたちはウェイン・グローザの野望を打ち砕くのか。そんな展開を読んで行けそう。ちゃんと続けば。続くかな。


【7月11日】 面白いなあ「Classroom☆Crisis」。霧科コーポレーションっていう巨大企業があって、元々は技術オタクの生徒と多分経営に才覚のあった生徒の2人がとんでもない発明をしてそれが会社になって、今も宇宙を飛ぶロケットエンジンの大半を牛耳っていたりするんだけれど、過去にそうやって技術ベンチャーから成り上がった経緯を踏まえて、社内にA−TECという若い学生だけの組織を置いて、斬新な発想によって技術を磨かせ続けているという設定。かつてはそこからとてつもない発明も出ていたけれど、今は行き詰まっているのか学生の気質が変わったか、あまり画期的な発明が生まれず経営陣から厄介者扱いされている。

 そこに送り込まれて来たたのが、口は悪いけれども経営に才覚はありそうな霧羽ナギサという名の社長一族の3男坊。辺境の小惑星なんかに派遣されては、厄介ごとを次々に解決してきたその腕で、A−TECのリストラを遂行しようとして、それに反発する先生や生徒たちって構図が今は立ち上がっているものの、想像するなら次期社長レースにおいてその3男坊は上の兄たちから目を付けられていて、失点のために危険な地域へと送り込まれ続けてそして、さらなる厄介ごとを押しつけられたといったところ。そして才覚がありすぎるために今までは難題をも解決してのけたその手腕が、今度はA−TECの学生たちを相手に発揮されるのか、発揮されるべきなのかっていうのが今後の展開になっていくんだろう。

 積極的にアミューズメント施設の立て直しに関わった「甘城ブリリアントパーク」の支配人の可児江西也とはちょっと違って、自分の点数のためにA−TECをつぶす方向へと思いっきりベクトルを向けている霧羽ナギサだけれど、自分の出世の役に立つと思うなり、そう思わされるなりしたら仲間となって起死回生、一発逆転に向けた動きとか繰り出しそう。元より天才揃いのA−TECメンバーだけに歯車がうまくかみあったら、とんでもないものを生み出してイケズな兄たちの鼻を明かしてくれそう。気になるのは経営を牛耳っているのが霧羽ばかりでもうひとりの立役者の関係者の姿が見えないところか。乗っ取られたのか追い出されたのか。確かめながら見ていく。クラスでは数学が得意な能年ユナのいつもげんなりした顔が好きかなあ。眼鏡っ娘だし。これ大事。とても大事。

 面白いなあ「監獄学園」。というかあの漫画のあの内容をいったいどうやったらアニメーションにできるんだっていう不安と不思議がったものを、そのまんまに映像にして見せていたのには驚きで、あの文章をいったいどういう風に絵にして動かすんだとワクワクしていたら、想像を超えて思いっきり原作を再現してきた「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」に並んで競い合うくらいの再現度を成し遂げてしまっていた。この2本がこのシーズンの覇権か、ってそれはちょっと趣味が偏りすぎ。しかし裏の生徒会の白木芽衣子副会長とか、漫画のまんまに巨乳でミニスカで目のやり場に困る困る。可愛い花もぶち切れると迫力だし。そんな面々を支える大原さやかさん伊藤静さん花澤香菜さんという豪華な声優陣。聞くだけでも虐められている気分になれて、見ればもう完璧な悦楽を得られる作品としてこの夏から秋にかけて世間を席巻するだろう。1話たりとも逃さず見よう。

 舞台挨拶は外れてしまったんで、家からそれほど遠くない、幕張シネプレックスで朝1番と言っても午前10時35分からスタートした細田守監督の最新作「バケモノの子」を見た。見ている最中にずっと思っていたのは、この展開のどこをどう足したり引いたり並べ直したり削ったりすれば、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」のような、ふてくされていた少女がちょっとしたハプニングでもって苦労を味わわされつつ、周囲の理解も得てどうにかこうにか立ち直って、そしてたとえ数ミリであっても成長を遂げては元の暮らしへと戻っていくという展開にあった感動を、感涙を万人に与える作品になるんだろうかといったこと。あるいは、宇田剛之介監督の「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」のように、ひと夏の出会いと経験が、懐かしさの中に新しさを感じさせ、それが一生に残る希望となって残り未来を作るような物語となって、見る人に感動を呼び起こすこかといったこと。だったりする。

 見てとてもわかりやすくて面白い。それは言える「バケモノの子」という映画は、家族に見捨てられた気がして逃げてしまった少年が、家族といったものと接しないまま強くなってしまった大男というか熊男と暮らすようになって、最初はお互いに反発し合っていたものが、それぞれに欠けていた何かを見つけ合い、渡し合うようになってともに大きく育っていくといったストーリーが軸にある。そこに父親と息子とのベタベタでもないけれど離れられない関係、嫌ってはいても尊敬する部分も残る関係といったものを投影して、大人には子への慈しみを、子には親への尊敬といったものを感じさせる映画になっている。見終わった後で外に出た父親と息子が、面白かったよと言い合い「10点だ」とかいって話していたのを聞くにつけ、狙った層にはちゃんと届いている映画なんだということは分かった。そういう意味で素晴らしい映画を細田守監督は作り上げた。ただ。

 バケモノであっても人間であっても、父親と息子との関係というのはとても重要だってことを、九太っていう父親が消え母親を失い彷徨っていたところを熊徹に拾われ反発しながらも惹かれ慕っていった関係なんかから描き出していったはずが、九太に現代の渋谷で導き手となる少女をそこに出してしまったことによって、親離れする子といったベクトルも与えてしまって、引き合う親子の関係といったものから浮かぶ感動を、どこか減衰してしまっているような気もしないでもない。それが現代とのつながりを得て、九太に自分を決意させ、そして熊徹にいなくなって分かる親心めいたものを感じさせる展開に必要だったとしても、感動へと収縮していくベクトルを左右か引き離すような動きとなってしまっていて、いろいろと戸惑う。

 そこに加わる一郎彦という熊徹とはライバル関係にあった猪王山の長男の動静。彼は父親を慕っていたから父親を任した相手に憤ったのか、それとも父親みたいになれない自分に絶望していたのか。どうとはとらえずらい複雑な心理が彼の心にぽっかりとした穴を開け、そして暴走させてしまう展開が乗ることによって、本筋を熊徹&九太と猪王山&一郎彦の似ているようでまるで違った結果を招いた2組の父と子の対比へと戻しはするんだけれど、そういう関係にやっぱりどうしても地上で出会った楓という少女が、設定上には必要でも筋の上ではどこか余計者のように見えてしまう。

 九太が暗闇へと引っ張られなかったのは彼女がいたからかもしれないけれど、彼女だけがいたからではない、熊徹との関係もあったし百秋坊や多々良との関係もあったはずが、そうした部分が覆い隠されてしまうようにも感じられてしまう。何かを整理すれば設定や展開に不都合が出るけれど、乗せてしまって薄れるテーマであり感動。それはつまり現実の世界っていうものがとても複雑で割り切れないことを現しているからなのかもしれないけれど、そうした現実の憂さを晴らしたいがために僕たちは、フィクションの上に単純化された関係性から感動のストーリーってものを受け取り、感慨といったものを心に浮かばせる。

 そういう割り切りが宮崎駿監督にはあったんだろうなあと徹頭徹尾、千尋の出会う人たちとの関係をメインに千尋が感じたり経験したことを軸にして描いていった「千と千尋の神隠し」なんかを思い出しつつ、それではいったい「バケモノの子」はどうなるべきだったのか、これはこれで良いならどういう心の動きを僕はすべきなのかを今一度、考え直してみたい。ラストもまだ子供の千尋を現世に戻し、現代から来たユウタを現代に戻すのは当然だった2作とは違い、どちらにも軸足を置いて言い九太に簡単過ぎる選択を与えてしまっているし。だからやっぱりまた見に行って考えるしかないのかも。一郎彦があれで実は美少女だったらとか思いつつ。自分はバケモノだと信じ、なおかつ男の子だとも信じていた美少女だなんて魅力的じゃないか。実に。うん。

 呆然とするしかない。例の森喜朗元総理はとにかくお金がかかりすぎる新国立競技場について「国立競技場は、スポーツを大事にする日本を象徴する建物である必要がある。3、4千億円かかっても立派なものを造る。それだけのプライドが日本にあっていい」って話しているらしい。そうやってスポーツ施設を見栄えの良いものにしたって、肝心のスポーツそのもの、森元総理が上から目線で応援しているラグビーそのものが大事にされているって胸を張って言えるのか。なでしこジャパンよりも知名度がないラグビー日本代表を認められるのか。そこがどうにも分からない。僕は嬉しいけれど。そして痛快だけれど。女子サッカーをずっと応援して来た身としては。でもスポーツ好きとして、そして歴史と伝統を鑑みるにつけ、それはちょっとやっぱり拙いとも思うのだ。

 というか新国立競技場が2019年の日本でのラグビーW杯に合うことより以前に、2015年だから今年開かれるはずのラグビーW杯がいつからどこで開かれて、日本から誰が出るのかまるで知られていないことの方がよほど問題じゃないのか。これも引き合いに出してしまうけれど、来年のリオ五輪に挑もうとするサッカーの女子日本代表の方がよほど知られている。1998年の時点で2002年のワールドカップが開催されることが分かっていた日本では、フランスのワールドカップに向かう選手たちは誰もがスターだった。それがラグビーは……。やっぱりどこか間違っている。そうはラグビー界の人は思わないのだろうか。

 新国立競技場の屋根に900億円を使うなら、そのうちの90億円でスタジオジブリでもプロダクション・アイジーでもタツノコプロでも良いからラグビーが関係するアニメを作ってもらい、9億円で少年ジャンプやヤングジャンプやグランドジャンプにラグビー漫画を連載してラグビーへの関心を惹起しろよと。立派な競技場を建ててそこでニュージーランド代表と日本代表によるオープニングゲームに8万人を集めたところで地方で開かれる大会が数千人の閑古鳥とかになったら目も当てられないだろうに。あり得ない? 2006年のバスケットボールの世界選手権がどんな惨状だったか忘れた訳でもあるまいし。森元総理だけが恥をかくならそれはそれで結構だけれど、日本全体が恥をかくのをどうして国士を気取る人たちは許しておけるのか。ラグビーを愛する人たちはそんな無様な人たちを担いでいられるのか。やれやれだ。本当にやれやれだ。


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