縮刷版2015年5月下旬号


【5月31日】 そして気がつくと、サッカーのFAカップでアーセナルがアストン・ヴィラを下して優勝を果たして昨年に引き続いての連覇となっていた。すごいじゃん、ってガナーズのファンにとってはやっぱりリーグ戦での優勝が嬉しいだろうし、チャンピオンズリーグでの優勝ならなお嬉しいかもしれないけれど、国内どころか世界で最古のカップ戦を2年続けて獲得して、それ以前にしばらく続いていた無冠を返上しなおその状態を続けられたことは大きいし、チャンピオンズリグだってアーセン・ヴェンゲル監督が就任してからこっち、出場を逃したことはない訳で他に比べて乏しい資金、超絶的なスターのいない中で本当によくやっている。これで批判されたらヴェンゲル監督以外のどの監督も喝采なんて贈られないだろうけれど、でもやっぱり先も長くないだろうその在任中に、ビッグイヤーを掲げて欲しいもの。来年こそは。それには誰が必要かなあ。

 そして気がつくとサッカーJ2で我らがジェフユナイテッド市原・千葉が、アウェイでザスパクサツ群馬に2対0で負けて順位を下げていた。ちょっと前まで2位以内に入っていて自動昇格もこれならなんて期待をさせていたのが、前節あたりに順位を下げてプレーオフ圏内へと陥り、そして敗戦によってさらにプレーオフの突破を厳しくさせることに。いくらプレーオフに好条件で出たってそれをクリアできないチームなんで意味はなく、あるのは無条件に昇格できる2位以内に入ることだけなんで、今は雌伏の時を過ごしつつ、ここから巻き返して1つまた1つと順位を上げて、最後に2以内に入ってさえいればと思い続けていく年月。なかなか叶わないだけに今年も不安が。あきらめたらそこでおしまいだけれど、あきらめなくったておしまいもある。必要なのは結果だけだと肝に銘じて、残る試合に死にものぐるいで挑んで欲しい、我らがジェフ千葉。

 蛾だか蝶が飛んでスクリーンに影を落とす映画館も最近は珍しくなったけれども、どこからか入り込んだ蝶がちらちらしていた恵比寿ガーデンシネマでのテリー・ギリアム監督による「ゼロの未来」。でも異様なビジュアルを見せて脳を捻転させることに長けた監督なんでそうやってスクリーンに影が落ちることすら一種の演習なのかもと思って見たんで気にならなかったというか、気にしないで済んだというか。あとはどこか異様な世界へと連れて行ってくれる監督にしては、割と平凡に日常の中にある不条理に溺れながらもそこに安住するか、出ようかをあがく中年男の物語を描いていただけだったんで、退屈さから目を離さないで済むようスクリーンにちらちらを影を落とさせ、意識をそこへと向けさせたのかも知れない。そんな映画。

 例えるならば中二病をこじらせて大人になっつぃまった引きこもり気味の中年プログラマーが、コミュニケーション不全でもあって誰とも接触できないままこことは違いどこかを夢見つつ願いつつ、でも心のどこかでそんなものはないと分かりつつ可能性に縋って夢に溺れて生きている、そんな日常に響くデスマーチによってつぶされかけたところに表れる美女に美少年の手を取り逃げようとして果たせず、それでもどうにか生きていこうとするのかそれとも諦めようとするのかを迷う話。って言えば当たらずとも遠からず。モラトリアムの中でいつか本気出すと思いながら自宅警備員を続けけている大人のニートにモロ響きそうな映画で、海外よりも日本人に大いに受けそうな気がしたんだけれどヒットしているんだろうか、これ。

 いやでも一応はそれなりな実力を持ったプログラマーで、会社から結構重要な仕事も任されていたみたいだし、その意欲を萎えさせないためにあてがわれた美女もいて、これが結構にむちみちでぷりんぷりんで眺めて良し、ネットを介して全身スーツ越しにふれあっても良しのハッピーな経験も用意されている。マネージメントの息子で天才技師の少年からも慕われているのか関心を持たれているのか、入り浸られては友人めいた関係にもなるといった具合に、それなりなコミュニケーションも経て普通へと戻っていったりしているところを見ると、どこにも行けないままあがき続ける日本のヒッキーなコミュ障オタクに比べて幸せな男なのかもしれない。

 憧れられても同化は難しい存在。だからこそ近づきたいと自分の本気出すのか、本気出してもあの末路なら今に溺れ続けるべきなのか、選択も迫るけれども個人的にはどうであっても1歩を踏み出す気概を持ちたいもの。それでしか未来は開けないのだから。なので僕にもパーティでむねの大きな女性と知り合う機会を。その彼女がピチピチのナース服で家を訪ねてきてくれる経験を。散らかっていても広い家に暮らして衣食住だけは足りてる生活を送らせてくれる可能性を。なんだやっぱりうらやましい奴じゃないかコーエン氏。宝くじさえ当たれば近づけるんだけどなあ。当たってもやっぱり才能ないからひとりきりか。もう1度くらい観に行って劇場の中だけでも同化して気分を嫌そう。今度はムカデでもスクリーンを這いずり回ればばおギリアムなんだけれど。そんな映画館はさすがにないか。

 「モンスターハンター」で「ダンジョン飯」かと思ったら文化人類学で民族学だったという、そんな驚きを与えてくれた石川博品さんの「明日の狩りの詞の」(星海者FICTIONS)は遠くヘロンってところから落ちてきた隕石によって東京周辺が外来生物というかぶっちゃけ宇宙生物のすみかになって、得体の知れない怪物が跋扈していたりする状況なんだけれどそこから地球が侵略されるということもなく、落としたヘロンから優れた文明が入ってきて人類の日常は進歩もしてみたりするという、そのあたりは鷹見一幸さんの「宇宙軍士官学校」によるリフトアップにちょっと似ているかも。でも別に宇宙からの侵略者と戦うこともなく外では平穏な日常が過ぎている。でも東京周辺はちょっと違う。そこに跋扈する外来生物を狩る人たちが現れた。

 当初は壁で封鎖してある感じでもない封鎖区域から外にでてくる外来生物を退治するのが目的だったのかもしれないけれど、今はハンティング代わりに封鎖区域へと入って外来生物を撃ち、そして持ち帰って食らうことが趣味になっている人たちがいる。いわゆるハンティング。そして主人公の西山リョートもまだ学生でありながら、手に銃を持って封鎖区域へと入っては、狩りをして獲物を持ち帰って解体して食うことで日々を過ごしている。他に楽しいこともあるのにどうして、ってあたりは日常に飽いた少年が求める非日常への憧憬が根っこにあるかもしれないけれど、それなら撃つだけでなく食べるのはどうしてか、ってところに祖父からの教えめいたものが生きている様子。

 その教えに民族学的文化人類学的な人間と狩猟との関係が蘊蓄めいて添えられていて、狩りにまつわる伝承からその真意、そして心理めいたものが浮かんできていろいろと勉強になる。これを昨今のハンティングブームとも絡めて描いても「山賊ダイヤリー」の域を超えられるとは思えないし、漫画と小説の違いもあって軽妙さが伝わってこない。少年蛾主人公ではマタギ対ヒグマとかいったシリアスさ、稲見一良さんのようなハードボイルドさに行く訳にもいかないところを、宇宙からの外来生物という非現実に放り込むことによって設定を成立させ、少年が狩猟に興味を持ちそれについて考え実行もする展開を描ける。面白く。同時に宇宙生物の奇妙さ、人類に限らず存在し得る通過儀礼としての狩猟といったものも提示していける。そんな話。しかしまさかリョータと狩りにでるヘロンがそうだっとは。宇宙は広大だ。


【5月30日】 結構、早い時期に解散していた海原千里・万里をとりあえず、テレビなんかで見ていた世代なんで今いくよ・くるよの登場や台頭は、女性の漫才コンビとして先駆的という感じではなかったし、突出したといった印象もたぶんなかったけれども千里・万里なきあとのテレビでほとんど唯一、そしてトップクラスの活躍をしていたっていうことは確か。なおかつ漫才ブームの波にも乗って、「俺たちひょうきん族」とかにも出て世間的な認知も一気に広がりながらもその後、消えることなくしっかりと30余年を活動し続けてきたところにやっぱり、実力のほどってものがうかがえる。

 ネットとかで話題となったりテレビとかで見せたりした1発ネタだけが取りざたされて持ち上げられて、それの旬が過ぎれば消えていくだけといった状況になっている昨今のとりわけテレビに限って言えそうなお笑い界の状況だけれど、80年代に出てきた人にそんな人たちはあんまりいなかったなあという印象。それはテレビであってもネタとして消費せず、キャラとして定着させつつ芸を見せ、見る方もその芸の良し悪しをちゃんと認めて応援する関係ができあがっていたからなのかもしれない。次にどうすれば受けるだろうって、一緒になって作っていったところもあったかなあ。

 今いくよ・くるよだって今ならどうだり、くるよさんが腹を叩いて呵々大笑する場面だけが抜き出され、その当意即妙の会話には誰も興味を持たないまま消費されて忘れ去られていってしまうことになるのかなあ。日本エレキテル連合だって持ちネタだけなら結構あったはずなのに、1発当たった「ダメよ〜ダメダメ」だけが消費されて次への声がかからない。ネタをやろうにも場すら与えられないのは寂しいけれども、今はそうやって“育てる”より、流行っているのを押さえて乗せて場をつないで時間を埋めていく、その連続でしか視聴率もとれないし見る方だって見ようとしないのかもしれない。悲しい時代だと思わないかbyワッケイン。

 それを思うとハリセンボンとかちゃんと続いているなあ。近藤春菜さんの「角野卓造じゃねえよ」だけじゃないってこと。それを作り見せて育てる時間が与えられたか与えられないか。もちろんきっと日本エレキテル連合だって、テレビじゃない場所でしっかりと活動を続けているかもしれないし、その前に1発芸を見せて当たった人たちも、ちゃんとしぶとく活動を続けている。テツandトモだってジャージ姿で今なお活躍中。でもテレビとなるとトップがずっと変わらない。新しいのは消費されていくだけ。ビッグ3の次、そしてダウンタウンにナインティナインの次を生み出せないでいる境目が、何なんだろうなあって考えてみたりする初夏。暑いなあ。

 ようやくやっとイベント上映の映画「新劇場版『頭文字D』Legend2−闘走−」を見る。もはや前がいつやっていたのか思い出せないけれどもこうして続きがちゃんと出るのは前のが当たったからなんだろうなあ。お話は単純で忘れるようなものでもないけど、最初におさらいがあって以外や藤原拓海が峠のすっげえドリフト使いだったと判明し、RX−7をちがって勝ったものだから続いての挑戦者がわんさか。そして登場したスカイラインR32のGT−Rと勝負するっていうストーリーはこれまた単純だけれど、スプリンターのトレノもカローラのレビンも普通に走った街を、スカイランのGC100ことケンメリで流していた経験を持ち、そしてR32のGT−RのかっこうよさにR31のラグジュアっぽさでどん底となった気分を持ち上げられた人間には、とても楽しい映画だった。

 というかそ、そんな今となっては旧車に属する自動車をいろいろといじって走らせている人たちを直接間接知っていなくて、果たして「これおもしろいんか?」という気分にならないかって若い人たちを心配になったけれど、余計なお世話というか場内には若い人も女性もわんさか。そして映画が始まって、重量感と速度感をたっぷり持たせて車を走らせるアニメーションの技術とかを見れば、古い車が実際に走っていて、そしてそういう車をマニュアルで運転して峠とはいわないまでも街を走った経験があるかどうかも関係なく楽しめる映画になっていた。

 つまりはとってつもない走りが目の前で繰り広げられて、そして冷めた感情が爆発して高かった鼻がへし折られながらも相手のたぐいまれなる才能を認め、切磋琢磨していこうと決意する様を大人も童心に返ってやんちゃに見守る空気感。卑怯とか悪意といったものがあまり感じられないまっすぐな思いが劇場内をいっぱいに満たす映画ってことで、往事を知ろうと知るまいと、若きも老いも楽しめるようになっていた。原作知っていても知らなくってもこれは楽しい映画。まさか2戦もするとは思わなかったけれど、その分物語も峠のバトルに絞られ緊張感野中で見守ることが出来た。次の対戦も決まっていったい拓海がどういう走りをするか、分からないけどきっと爽快感を味わわせてくれると信じて公開を纏う。2016年初夏って1年後か。長いなあ。でも待とう。命ある限り。

 そうだジブリ美術館へ行こう。などと思い立って行ける場所ではないことくらい先刻承知と、予約が始まった日にちょっと出遅れ気味ながらも買っておいた今日という日が指定されたチケットを握りしめ、ジブリ美術館へと行っていよいよスタートした「幽霊塔へようこそ展 通俗文化の王道」って展示を見る。あの宮崎駿監督が大好きだったと公言している江戸川乱歩の「幽霊塔」を、黒岩涙香の翻訳からさらにさかのぼってアリス・マリエル・ウィリアムソンの「灰色の女」へと源流に向かい振り返った展示でそこには、宮崎監督によるそうした思いが綴られたエッセイ漫画がパネルとして飾られている。

 これがもう本当に面白い。宮崎駿監督は「風の谷のナウシカ」の漫画が100%宮崎駿だという庵野秀明監督の言葉を証明するかのごとくに、「幽霊塔」への思いを書き連ねたエッセイ漫画は宮崎さんの思考がだだ漏れしている上に筆致は軽妙でどこまでも楽しく、ついつい引き込まれてしまう。そして「幽霊塔」も「灰色の女」も読みたくなってしまう。あと、ちょっとだけ描かれた自分としての「幽霊塔」の絵コンテがまた映像で見たくなる雰囲気。オリジナル版「灰色の女」の表紙をイメージで描いた絵なんかは、そこに添えられている女性がもろ宮崎キャラって感じで、是非にその表紙絵で出して欲しいと論創社にお願いしたくなった。

 それから通俗文化って言葉だっけ、楽しくてわくわくするような娯楽を自分でそう名付けているって言葉とともに、しらけて暗くて絶望的な2000年代の文化を退けそんな通俗文化を今一度盛り上げようぜって呼びかけ、その原点として乱歩を読もう原作を読もうと呼びかけていた。やっぱりそう思っているのかなあ、だからこそ再登板を願いたいけれども、それが伝わる空気でもないと感じているからこその引退か。でも絵コンテを描くくらいには意欲はあるからいずれまた、なんて期待。岩波から出る宮崎監督が表紙を描いた「幽霊塔」はやっぱり読もう。展示ではあと関連で「幽霊塔」から大きくインスパイアされたという「ルパン三世 カリオストロの城」の四阿と湖と時計塔がデフォルメされたジオラマになって置いてあっあった。

 カリオストロ伯爵がクラリスを追い詰めルパンがぶら下がっていてそして、「カリオストロの城」を振り返るエッセイマンガもあって「やぶにらみの暴君」なんかで気付いた上から下へ下から上への演出が持つ効果と、そして同じ場所は2度出してリアリティを出すんだ的な作法が指摘してあって勉強になった。なるほど言われてみれば「カリオストロの城」もそんな作法に満ちた映画。だから横長の画面なのに狭苦しくなく画面に目が吸い寄せられては離れないのかも。そんな情報がみっしりパネルだけでもどこかに収録されないものか。されないかなあ。アニメは「たからさがし」を見た。ぬるぬる動いてた。外に出たら14年前の2001年9月にオープンした時に取材に行って見かけたデッキのポルコ型蚊取り線香炉がまだ健在に煙を吐いていたという。そのまま使われているかは知らないけれど、煙に燻されてずいぶんと年期が入ってた。どれだけの蚊を撃墜してきたことやら。蚊を落とさない豚はただの豚だもんね。


【5月29日】 雰囲気として険悪というか挑発的なものがあって、そして従前からの印象の悪さも乗っかって安倍さんは辻元さんのしゃべり始めて間もない頃に、短慮から茶々を入れてしまったんだろう。その心情は分からないでもないし、国会が挑発と短慮のせめぎ合いになって欲しくもない。ただそういう状況だからといって、一国の総理大臣とあろう者が短慮から耳に苦しいことを言って良いはずはない。自重しつつ余裕でやり過ごして欲しいんだけれどそれができない所に、人間としての資質の至らない部分を感じてしまう。そしてそんな人を応援する人たちの、事実ではないことを喧伝しては見方し相手を貶めようとする態度の厄介さ。それが権力と結びついた時に起こる紅衛兵的な造反有理の状況が、この国を面倒な方向へと引っ張っていきそうで困ってしまう。そろそろ歯止めがきかないものかなあ。ききそうもないなあ。

 前の作品「夜を歩けば」にどんな感じで異能者たちが出て来て、どんな風に活躍していたのか、ちょっと忘れてしまっているけどそれを覚えてなくてもあやめゆうさんの新作長編「ヴァリアント・エクスペリメント」(C☆NOVELS ファンタジア)は楽しめるのでご安心。つまりは異能バトルで、後天的か先天的かは分からないけれど、世に一定の割合で存在している異能使いたちを孤島に呼び集めては戦わせるという展開に、生きている意味って何なんだろうなって主題も絡めて描いてある。いやあんまり主題は前に出てこなくって、中身はもうバトルバトルバトルバトルとバトルの連続。その中心でモデルのような美人でなおかつ性格もふてぶてしく、人を平気で殺せるけれども猟期や情念のかけらもない、かといって冷酷でもないヒロインが大活躍してくれるからぐいぐいっと引き込まれる。

 発端はファミリアって呼ばれるしゃべる猫が現れ女性を誘ったこと。本当は別の能力者に声をかけたんだけれどどうも筋が悪そうだったんで乗り換えて、異能の在処を感じてその女性のところへと行き自分をある場所へと連れて行ってと頼んだら、連れて行かないといずれその人格が消えてしまう猫の境遇に感情を動かしたのが女性はオッケーし、追いかけてきた拳を文字通りに鉄拳に変えてしまう兄ちゃんを倒して権利を得て、そして船着き場に現れた妹思いの少年も退け船にのって島へ行き、そこで表れる能力者たちをその俊敏さでもって次々に倒して1枚50万円になるというカードを奪っていく。その途中でまだ女子高生らしい少女と出会い、なぜか助けることになって一緒にゴールを目指していく。

 電気を放ったり風を操作したり居合いの達人だったりと、さまざまな能力を繰り出す相手に、じゃあそのヒロインがどんな能力を使っているのかが分からないところがひとつのポイント。勘のようなものを働かせては攻撃を避けているように見えるけれど、それだって本当に予知能力なのかどうかは分からない。いったいどんな能力なのか。そしてたどり着いたゴールに待ち受けるものは。そんなドラマもあるけれどもやっぱり迫力なのはバトルの描写のスピード感に重量感。読んでその場面が目に浮かび、痛みすらも感じられるくらいにハードでスピーディな描写が続く。思い出すのは「闇狩り師」の九十九乱蔵であり「魔獣狩り」の毒島獣太。パワフルでスピーディなバトルを演じて敵を沈めるその戦いを、美人がやってのける爽快感がとにかく楽しい。演じられる役者なんていないから実写化は無理だろうけれど、でもちょっと見たいかも。武田梨奈さんとかなら出来るかなあ。

 うろうろとしていた秋葉原の有隣堂に、ディスカヴァー・トゥエンティワンがいつの間にか創刊していた「NOVELiDOL」っていうレーベルの本が並んでいて、何だろうって近寄って1冊手に取ったら文野はじめさんという人の小説だった。でもってもう1冊とったら文野はじめさんの小説で、そして別のをとったらやっぱり文野はじめさんの小説だったといったという、そんなよく分からない状況にこれは何だろうと調べたら、そういう架空のアイドルを書き手としつつもプロデューサーが間に入って小説を、世に出していくといったプロジェクトみたいだった。ううん。書き手そのものの顔が消されてしまうことを小説好きとしてはちょっぴり抵抗感があるけれど、でも書き手が誰でも面白ければ良いっていう意見もあって、だからやっぱり読んで観ないと分からないかなあ、という感じ。アートだって匿名性の中に集団が何かを作り出していくってこともあるから。どれくらい続くかなあ。様子を見ていこう。

 とりあえず3344人となり、3598万1000円が集まった「この世界の片隅で」のパイロットフィルムを作り、スタッフを集めるための資金を募るクラウドファンディング。金額も驚きだけれど人数もこれだけ来たってことをもって、世の中のスポンサーに資金を出してと言っていけるようになれば嬉しいかなあ。もちろん3000人程度が映画に行ったところで興行収入なんてどれほどもいかない。3000万円ではテレビシリーズの1本ですら作るのが難しい。あくまでもスタート地点。でも何の見返りもない中でここまでの支持を集めたこと、そのことがメディアを通じて報じられて作品の認知度が高まったことは、ひとつのアドバンテージになる。ここをスタートにして多くの人に浸透していけば、本当に完成に向けて進んでいけるだろう。応援していこう。そして支えていこう。完成するその日まで。公開されたその後も。

 どっかーん、ってその爆発の規模だけを見たらとんでもないことが起こってそうな印象を受けた口之永良部島の爆発的噴火。噴煙が上がり火砕流が生みの方へと押し寄せてそこに人家とかあったら大変なことになっただろうけれど、幸いなのかそれとも長い経験から火砕流が行かない方へと集落を作って住んでいたのか、人的被害はほとんど出なかったみたいで全島民が無事に島を脱出して、隣の屋久島へと向かったらしい。そのあたりはやっぱり火山国として長い歴史を誇る日本の住民。御岳の場合も経験が生かされれば良かったんだけれど、暮らすのと観光とではやっぱり安全への気持ちも違って、ついつい前のめりになってしまったんだろう。残念。いずれにしてもこうした経験がさらに積み重なって、被害を最小限に押さえる暮らしが出来れば良いんだけれど、都会はそういう訳にもいかないからなあ。というわけで箱根の展開が気になる現在。いつまで続くんだろう大涌谷のごたごたは。

 当たった当たった。松本隆さんが中心になって細野晴臣さん鈴木茂さんという「はっぴいえんど」のメンバーが結集し、そして松本さんが詞を提供したアーティストが勢揃いする歴史的なイベント「風街レジェンド2015」のチケットがとりあえず当たって1日だけは行けることが決定した。これは僥倖。もちろんそこに大滝詠一さんがいないことが残念極まりないけれど、今それを言ってもどうにもならないし、あるいは大滝さんの置き土産としても成立しただろうこのイベントに参加できることが今はとにかく嬉しい。22日の方が安田成美さんによる「風の谷のナウシカ」を聞けると評判だけれど、21日の方でも矢野顕子さんが出てきて何か唄ってくれるみたい。あとは原田真二さんか。ある意味とっても渋いライブになりそう。無事にそこまで生き抜いて歴史の生まれる瞬間を、そして歴史の上に作られた伝説をこの目でしっかり見てこよう。


【5月28日】 「カドカワはカドカワ・ドワンゴの父なり。カドカワの子カドカワ・ドワンゴ、カドンゴを生み、カドンゴ、カワカゴとドドンワと生むかと思ったらカドカワ・ドワンゴはカドカワを生んだ」とでも書くべきか。元ネタはご存じ筒井康隆さんの「バブリング創世記」だけれど、そんな感じに韻を踏みつつ変えていくならまだしも、合併した片方の企業の名前をそのまま取って、そして昔の名前を復活させるかのように付けてしまえるセンスってのがちょっと分からない。なおかつそこに両社から2文字づつ取り出しましたという正式なプレスリリース。でも前半と後半を取るとかたすき掛けに1字づつ順番に混ぜるとかせず、妙な法則でもって無理矢理「カドカワ」にしている感じが漂っているから、世間もそりゃなんだって反応した。

 別にどっちの名前を入れろって話でもなく、より世間に伝わるらどっちだって良いしそもそもがホールディングスの名前がどうかなんて気にする人もそうはいない。フジサンケイグループだってホールディングスはフジ・メディア・ホールディングスでサンケイのカケラもない訳で、子会社としてKADOKAWAがあり、ドワンゴがあってそれぞれに出版事業なりネット事業を行っているんだから読者も生主も変わらず今までのようにKADOKAWAを読みニコニコを見ていれば良いって思う。

 もちろん中にいる人たちの士気がどうなっているかは気になるところで、奪われたと思うのか、わざわざそう言われるのを覚悟でぶつけてきた上のセンスにゲラゲラと笑うのか。分かっているけどやってしまえるあっけらかんさはなるほど、ドワンゴの血統ぽくもあるだけに、無茶を承知で2文字づつ選んだとわざわざ書き入れたのもそんな笑いを取りにいく捨て身の戦法だったのかもしれない。社名って問題に向かう姿勢としてあんまりまじめじゃないのは好きじゃないけど、その上を飛び越えてくる膝蹴りっぷりは嫌いじゃない。大切なのは本が出てサービスが続くことなんで、そこだけはしっかりと。

 FIFAの理事たちの金権体質にメスが入ったって話が世界を震撼させ、メディアも騒がせているけれど、そんな話を書く枕に、ブラジルのサッカー連盟が代表のスポンサーとしてナイキと契約して10年間で198億円をもらっていたってエピソードを添えていた新聞においおいそれは日本代表だってやってることで、前は8年で160億円で今度は8年で250億円だなんて話もあって、ブラジルなんかよりよほど大金をせしめてるんだけどどうしてそっちは糾弾しないんだって思ったというか。きっと米国の司法当局がそういうことを明らかにしたって情報を、どういう意味を持つのか知らず知ろうともしないんで書いたんだろうなあ。でもFIFAの汚職とそれがどういう関係があるのかまるで不明。分かってるデスクだったら削るか投げるかしたんだろうけど、そんな人ももはやいないんだろう。やれやれだ。

 ただ米司法当局も無関係にブラジルという国とナイキという企業との結びつきを公表した訳じゃなくって、前提としてスポーツ会社は食い込むために大金を投じるという雰囲気を世に伝える意味合いから出したのかもしれないし、今回の汚職に前のブラジルサッカー連盟の会長が関わっているっぽい話から、その人物に特定の不透明な金の流れがあって、そこにナイキとサッカーブラジル代表との密接な関係が生まれたっていう話なのかもしれない。いずれにしたってそこまで書いて始めて意味を持つ情報を、精査もしないで枕に書いたのはどうにもやりきれない話だけれど。さてそんなFIFAの汚職は、ワールドカップ2010南アフリカ大会の招致にも絡んで爆発しそう。それが成り立てばロシアはともかくカタールあたりの招致に動いた大金が、どこにどう行ったかなんて話になって大会そのものの開催に関わってくる。

 剥奪なんてことにあんったらどこでやる、ってことで我らが日本でやって欲しいもの。それまでには新国立競技場だって建っているだろうし、立派なのが。そんな日本には関わってこないのか、ってことだけれど豪邸に住んで貴族のような暮らしをしているFIFAの大立て者たちと比べると日本サッカー協会の幹部なんてスケールが小さくって鼻も引っかけられなさそう。川淵三郎さんだって長沼健さんだって岡野俊一郎さんだってスポーツ貴族って感じでもなくスポーツに純粋な人って感じ。何かやったところで自分を利する方向には走らなさそうな雰囲気があって、それが未だに武士の商法的な至らなさを示してはいるんだけれど、こういう時には逆に潔癖さの証となる。

 問題はだからお隣の国の実力者あたりがどんな立ち回り方をしていたってことかなあ、国のためとはいえワールドカップを半分こして引っ張ってきたその実力の背景とかが気になるところ。それだけの実力を持っている人だけに、どこかで駆使していないかってところは問われて仕方がないけれど、もはや名誉職に退いている人だし、遡及されて攻められるかっていうと力は及ばないかなどうなのかな。いずれにしても極東の話なんか氷山の一角のそれも端っこ。根本となるFIFA全体の腐敗と不正はどれだけのスケールなのか。挙げられたメンツの多い中南米に対して欧州のサッカー関係者からどんな声があがるのか。今はそっちに興味津々。どうなるんだろうなあ。

 なにげに読み始めた「ハイカラ工房来客簿」(メディアワークス文庫)が面白くって、いったい誰が書いているんだと巻末のカバーの折り込み部分を見たら、著作リストに「駅伝激走宇宙人 その名は山中鹿介!」とあってつるみ犬丸さんだと気付いたという。見てなかったのかよ作者を。でも駅伝で宇宙人が競争する話を書いた人が、今時はやりのお店が舞台のミステリっぽい話を書いてくるとは思わなかったんで油断した。そしてそうした話にありがちな、ちょっぴりの蘊蓄と薄い推理と人情味にあふれた展開に収まった話かと思ったら、以外や仕事に関する蘊蓄は興味深く、その技を使って解きほぐされる悩み事もリアリティがあって切実さもあって楽しめた。

 お仕事は皮小物で、100歳近いけれども矍鑠した職人が作った手袋が気に入って弟子入りして、その手袋をプレゼントしてくれた彼女とは忙しさのあまり分かれるという本末転倒ぶりを経ながらも、主人公は修行に励んでどうにかそれなりに認められる駆け出しの職人になる。そしてある日、親方が引き上げた後で皮の検品を任された主人公は、なぜか神棚に飾られた皮の箱が気になり手にとって開こうとすると大地震。どうにかしのいだもおの眠気に誘われ気を失い気がつくとそこは95年ほど昔の浅草で、店舗がはいっている建物ごとタイムスリップしていたみたいでいきなり空き地に建てやがってと言われたものの、土地の持ち主の厚意もあってどうにか居を構え、そしてどさくさで質屋に入れられてしまった秘密めいた皮箱を取り戻すために職人の技術を生かして働き始める。

 そこに持ち込まれる難題。端緒は彼がそこにいられるきっかけとなった少女が嫁がされることになって、候補となった2人の靴職人が外国人のための靴を作ることになったその勝負に割って入って意外なものを作って見せたこと。現代の知識とあとは想像力もあったようで勝負に抜け駆けしたかのように勝った主人公には、腕の良い職人ということで家族のお嬢様やら役人やらが皮小物に関連した問題を持ち込んできて、それを主人公は持ち前の技術とアイデアで乗り切っていく。その課程でただ状況を打破するだけでなく、もつれた心情を解きほぐして納得させるから腕を買われるだけでなく、人柄も買われてさらに仕事が舞い込むといった感じ。でもいつか帰ってしまうことになる主人公。でも本当に帰るのか。過去と現在とをつなぐ円環めいたものも想像される設定が、どういう風に生かされ驚きと感動を与えてくれるのかに興味津々。続きを纏う。それにしても幻冬舎のキャラノベで成田名璃子さんが靴屋さんの話「不機嫌なコルドニエ 〜靴職人のオーダーメイド謎解き日誌〜」を書いてて、これで富士見L文庫あたりで帽子屋さんの話とか出れば洋品屋文芸フェアが開けるかも。誰か書かないかなあ。それとも自分で書くとか。


【5月27日】 国より経営を預かり世論すら左右しかねない立場に身を置く者が、その一挙手一投足を見られていることを自覚して、「李下に冠を正さず」がごとくに疑われるような拙いことはせず、してもすぐに対応を行って疑念を払拭するのが真っ当な頭を持って生まれ育った真っ当な人間としての態度だろう。しかるに大NHKの会長は私用でタクシーを使ってその費用をNHKにつけ回したことについて、事後にすぐに対応をとらず向こうが行ってくるまで知らぬ顔でいたというから酷い話。ばっくれる気満々だったんだろうと疑われたって仕方がない状況に居ながら、それを問われるとだって忙しいからお金の請求があったかを確認する時間なんてないんだと開き直って見せた。

 もうポン酢としか言い様がない良いわけで、そんなに忙しいはずの人がいったいどうしてその忙しさを強調しなければならなくなったかは、忙しくない時間があってその時に私用でハイヤーを使ったから。つまりは時間は皆無ではないことをその根本となる問題が如実に示しながら、結果として起こった事態には時間がないから対応できないと言ってのける。そこに大いなる矛盾があり、そして言説としてのみっともなさがあることにこれも真っ当な頭を持っている人ならすぐ気付いて、恥辱のあまりに卒倒するかあるいは直ちに身を雪いで責任のありかを外に示すんだけれどポン酢だから何もせず、そしてその会長をポン酢な上も放っておくという。正義や健全が通らず脇へと追いやられて不正が堂々とまかり通る現代を踏まえた未来の暗さよ。辛いなあ。

 どういうことなんだろう。イラクやインド洋へと派遣された自衛官の中から実に54人もの自殺者が出ているという件。延べであわせて1万8500人もの自衛官が派遣されていることを思えば、それほど特別な人数なんだろうかという意見もありそうだけれど、他の部隊でどれだけの自殺者が出ているか分からない上に、相対的ではなく絶対数としても54人というのは結構な数。現地で見た悲惨な光景なり長期に及ぶ緊張感の中で摩耗した神経が、戻ってちょっとした刺激でプツリと行ってしまったのか、いろいろと分析する必要はありそう。ただ普通に考えればやっぱり拙いよ海外派遣といった意見に傾く中で、それでは国というか今の総理の思いを実現できないと考えた取り巻きの新聞あたりが、海外派遣された自衛官の自死の多さは、現地で海外の軍隊の武器を取り命がけで戦う姿に感銘を覚えつつ、自らは制約から動けなかったことへの自責と恥辱の念が身を投じさせたからだと言って、制約を取り払い戦う栄誉を与えるべきとか言い出ししそうで厄介。どういう反応を示すか要注意。

 そういえばブルーレイディスクになった「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」では、フォムト・バーガーがネレディアの妹を助けに行こうとして閉まる隔壁に阻まれつつ、何かがひっかかって全部は閉まらない中を爆風が起こって妹は巻き込まれ、そしてバーガー自身にも爆風が及んで頬を切る怪我をしたっていうあの場面で、隔壁に挟まるものが劇場公開時だと石ころか何かだったものが、ちゃんと破損した船内の一部になっていたりするそうな。見たけど気付かなかったけど言われればなるほど、宇宙船の中に石ころが落ちている訳ないものなあ。あとは最後のガトランティス戦の最中、ひとりで舵を握ることになったバーガーの顔のアップが、BD版では何か迫真の痛み具合になっていたような気がするけれど、気のせいだろうか修正されたんだろうか。

 そういう場面で描写とかそうあるべきだという見解からの修正も、時間が足りずに作画監督の手を入れられなかった所を直して統一感を出して見られるものにするという終始絵も、あって必然だと分かるんだけれど一方で、ガトランティスが最初に襲ってきた場面で描かれるべきマゼラン星団とかが描かれていなかったというのは、見ている側にとっては気がつかないし、そこがどこでも別にどうでも良いって思ったりしなくもない。ただ作り手としては、シーンのつながり、そして登場人物たちの移動なりを考えるとどこにどういう向きでいるかは重要で、そうした指標が省かれるのは整合性を考える上で我慢ならないみたい。ワープとか波動エンジンとかであり得ない距離を移動していることの方が不思議だけれどそれはそれで了解しつつ、その上に描かれる移動が誤魔化されるのは嫌っていう感性なんだろう。クリエーターのこだわり。凄いなあ。

 なんて感じにいろいろと修正が加えられている「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」のブルーレイディスクを買いに、抽選会が行われている秋葉原のヨドバシカメラAkibaへと出向いてまずは巨大な宇宙戦艦ヤマトの模型に対面。「星巡る方舟」バージョンとして波動砲が封印してあって、はずそうとすると天からスターシャの天罰が降ってくるのだった。予想だけれど。そしてやっぱり買うならと「聖書」とも出渕裕さんが例えていた分厚い分厚い絵コンテが同封された限定版を手に取りレジに行き、そしてレシートとあと昨日のイベント上映の半券も見せて2回引いたけれどスカだった。それでシールをもらったんだから寂しくはないんだけれど、目の前にサンプルとして桐生美影や古代進、フォムト・バーガーに沖田十三なんかが描かれた色紙があるのを見ると、是非にゲットせねばという思いも募って夜にまた行き、今度はサントラCDを買ってクジを引いたらポスターが当たった。色紙じゃないけどスカでもなかった僥倖をとりあえずは喜ぼう。個人的にはこれで打ち止め。明日もやっているんで色紙ゲットを狙う人は頑張れ。今日もう売れてなければ明日もチャンスはあるぞ。

 そんな合間にコンピュータエンターテインメント協会(CESA)の総会とそして新しく決まった会長の会見を見て聞いて記事にもしたけど、前だったら一般紙も含めて新聞各社がそろいそれからゲーム関係のメディアも並びネット系もずらりとそろって結構賑やかだったはずの新会長の会見が、なぜか両手に余るくらいしかメディアがいなかった感じでいったいどうしたんだろうとひとついぶかる。それだけ日本の産業においてゲームといったもののプライオリティが下がり、メディアも取り上げるに値しないという認識に陥ったのか、それとも単純に案内先を絞った結果それくらいしか来てなかったのか、分からないけれどもやっぱりどこか不思議な話。懇親会だってゲーム業界の大立て者がそろうからと訪れ張り付きコメントを引き出そうとする経済紙とかがわんさかいたのになあ、以前は。でも今日は違ってた。やっぱり落ちているのかなあ。

 いやいや違うと新しく会長になった岡村秀樹さん。セガで数々のコンシューマーゲーム事業を担当して1990年代から2000年にかけてのセガなり日本のゲーム業界が、世界で覇権を打ち立てた立役者の1人で、ちょっとの間トムス・エンタテインメントへと離れてこっちでアニメ業界の立て直しとそして拡大を行ったけれど、1年位前に戻ってそして業界を体感して改めて、業界団体の会長となった今は日本のゲーム会社にはポテンシャルがあると認識しているらしい。新しいビジネスモデルを作るにしても、新しいゲームを作るにしてもアイデアがあり人材がいる。そして世界がこれから向かうだろうスマホゲームの市場を一足先に築いている。それをアドバンテージにして世界へと展開していくことで、覇権を握れるといった見方もできないこともない。

 やっぱり世界はコンソールが強く洋ゲーが人気であり続けるといった見方もない訳じゃないけれど、何百億円もかけて外すわけにはいかない制約が続編とか、人気キャラへの便乗を呼んでハリウッドの映画が全部マーベルかディズニーになってしまったような事態を、ゲームでも引き起こさない共限らず結果、飽きられ衰退していくこともありえるかもしれない。そんな時に楽しくて手軽で充実した遊びを提供できるスマホアプリなんかの市場で、先に走っていた日本がイニシアティブを持てるかどうか。分からないけれども今のガラパゴスが明日の世界にならないとも限らないだけに、動静を注目しておく必要はありそう。それにしてもメンバーががらりと替わったなあ、CESA。ワンダースワンを手がけた大下聡さんくらいしか他に知らないものなあ。時は流れる。


【5月26日】 実は古典としての「封神演義」って読んだことがないし、「週刊少年ジャンプ」で連載されていた藤崎竜さんによる漫画版の「封神演義」も何となく知ってはいても読み込んでいた訳じゃなくて、太公望が主役となって何かやるってくらいしか知らなかったんで大丈夫かなと心配したけど、ちょっとだけ名前が違う森田季節さんの「封神演戯」(ダッシュエックス文庫)は名前が違うだけあって、古典「封神演義」のエッセンスを抜きつつしっかりヒーローによる美少女がいっぱいのバトルファンタジーになっていた。そして主人公の太公望を働いたら負けのニートにして、なおかつ美少女の太上老君がそばにいて一緒にゲームをしてくれるようなキャラにして、そんな境遇に憧れる読者の共感も誘って物語り世界へと引っ張り込んでいく。

 展開としてはおそらくは原作をなぞっていて、殷の国に救う妲己を倒しに行く話みたいんだけれどその妲己はしっぽもふもふの美女で、侍らせた2人の女性とともにロックバンドを作ってライブを開いてすべてを支配しようと目論んでいたりしてなかなかに個性的。というかどうして中華ファンタジーなのにロックだとかゲームだとかがあるかというと、仙境はどうやら時間管理官みたいな役職であまたある次元の宇宙に生きた者たちをピックアップしてそうした職にあててるみたいで、太公望もそんなうちの地球からやって来ては似て非なる世界でもって繰り返されている歴史の上に降り立ったといった感じ。

 妲己はなかなかにしぶとそうだし、おまけに仙境あたりで歴史を改編でもして自分たちの我を通そうとする陰謀も判明してこれからどう動くか、ってところを迫られそう。もとより働きたくないからと有給休暇をめいっぱい使って15年間引きこもっていた太公望が、そんな陰謀を暴くといった高尚な精神を持ち合わせているとは思えないんだけれど、楽するためには苦労だって厭わないニートなオタクのスピリッツをここで発揮して、世界に宇宙に挑んでいってくれるのかな。分からないけれども読んで楽しめそうなことだけは確か。追いかけていこう。でもってそんなダッシュエックス文庫に挟み込みのリーフレットに石川博品さんの「後宮楽園球場 ハレムリーグベースボール2」の告知が。もう出ないって話も呟いていたのに続くんだと驚いたけれど同時に出るんだと喝采。どんなエロスとサスペンスが読めるか。来月が楽しみ。

 「妖怪ウォッチ」の圧倒的な売れ行きによって、玩具市場はバンダイが出している「妖怪ウォッチ」関連一色に塗り込められている感じだけれど、あれはレベルファイブの日野晃博さんが練り上げたメディアをまたいで盛り上げていく手法の一角として担った玩具が、強いキャラクター性もあいまって売れたものであって、玩具そのものの面白さがあったかというとちょっと迷う。もちろんゲームの世界なりアニメの世界を形にして飽きさせない工夫は盛り込まれているし、もしかしたら玩具としての面白さをプレゼンテーションしてそれをゲームなりアニメの中にフィードバックさせたかもしれない。それでも三位一体で表現される面白さで、玩具単体で成り立つかというとやっぱり違う。

 じゃあ玩具単体で成り立つものが今あるかというと、そうもいかない時代で、「プリキュア」だとかスーパー戦隊だとか仮面ライダーといったキャラクターに絡んでグッズとして玩具を出して遊んでもらうといった形が中心。昔は「無限プチプチ」とか出して遊びの面白さを探求していたこともあったし、「たまごっち」のように玩具発で今なお人気の商品もあるにはあるけど、キャラクター玩具の圧倒的な規模の前にきっと社内でも肩身の狭い思いをしているんじゃなかろうか。パズルとかボードゲームとかもないしなあ。メガハウスにはルービックキューブがあるけれど。

 そう思うとトミカにプラレールといった、元ネタとしての鉄道や自動車はあってもそれ単体が玩具として成り立っているタカラトミーは昔ながらのおもちゃ会社といった佇まいを残している感じ。黒ひげ危機一髪とか人生ゲームとか、土台があってその上にキャラを載せ替えて今を生き延びている。今日発表になった「リニアライナー」もそんな遊びの面白さを単体で表現できる玩具を作ろうって意気込みから出たものってことになるのかな。いやもちろんリニアモーターカーというJR東海が作ろうとしている未来の鉄道がキャラクター的に乗ってはいるけれど、磁石で浮かんで空中を滑るように走って行く鉄道はJRとか関係なく夢として語られていたもので、その夢を形にしたいという思いが実現したものとしてキャラクターとか関係なしに誰もが興味を引かれそう。

 それをどこよりも早く作ってみせたタカラトミーはなるほどおもちゃ屋中のおもちゃ屋っていったことになるのかな。「プリパラ」だって筐体ゲームを使って何を遊ぶという原点の上にキャラが乗って人気になっている訳だし、その当たりやっぱりバンダイとは真逆のアプローチって言えるかも。どっちも正しいけれどでも、驚きを感じさせてくれるのはオリジナル指向を持ったタカラトミーか。スケールスピードとはいえ時速500キロメートルでレールをくるくると回る「リニアライナー」は、「プラレール」ともTOMIXのNゲージとも明らかに違った速度とスムースな走りを見せる。画期的に新しい。そんなものを繰り出してきたことに喝采。負けじとバンダイの何か作ってくれば市場も盛り上がるんだけれど。「プリモプエル」のような驚きと感動をくれる玩具をまた作って欲しいなあ。

 よく分からないけど面白そうなんで通っている「女による女のためのR−18文学賞」の贈賞式があって観に行ったら友近さんによく似た人がいたんで見守っていたらどうやら今年から創設された友近賞というのを選び贈賞していた友近さんだった。たぶん昔にラジオの番組にニュースについてしゃべりに行った時にいたことがある気がするけどあっちは覚えちゃいないだろうなあ。ともあれ友近さんが選んだのは大賞と一緒で秋吉敦貴さんという人の作品。キャラが立ってて読んでいると引き込まれるという選考の人の弁とかあるんできっと映画になっても見栄えのあるものになるだろう。いちおうそういう賞になっていて前の「ジェリーフィッシュ」とか「マンガ肉とぼく」とか映画になっているし。でも最近は興行が厳しいんで時間がかかるかな。奥山和由プロデューサーの手腕に期待だ。

 挨拶で秋吉さんは誰に読ませるでもなくただ自分の内奥を言葉に綴って書きためていたらしく、それを進められて出したら賞だったというから情熱というか情念のこもった書き手って印象。対して読者賞をその名も「くたばれ地下アイドル」で受賞した小林早代子さんは題材が題材だけあって割とポンポンと書いていそうな感じで好対照。文学と小説。純文とエンタメの両極が並んだ感じで、それが起こり得るもの短編でもって女性を対象に小説を募集しているこの賞の面白さってことになるのかも。どっちに転ぶか活躍次第。窪美美澄さんのような逸材はまた出るか、この2人のどちらかがそうなるか。これからの活躍に期待だ。選考委員の三浦しをんさんとは1年ぶり。そしてきっと次にお目にかかるのは来年あたりになるのかな。変わらずご健勝を。そろそろ新作を。

 そしてかけつけて新宿ピカデリーで「宇宙戦艦大和2199 星巡る方舟」のブルーレイディスク発売を記念した前夜祭めいたBD版上映と出渕裕総監督らによるトークイベント。どこをどう直したかが中心で聞くと出るわ出るわ。あそこを直したって話が続いてほとんど直しているんじゃないかって話になる。それこそ300カットとか。もっとあったかな。でも個人的に上映時に気になったのは桐生御影がバケツの水をこぼすところでそこでセーターの袖からちょっとだけ手がヒラメか紙切れみたいだったけど、今回それは直っていたんだろうか。あとはガトランティス相手に戦に行くのを見送る桐生の顔。直っていたような。そのほかはより高品質にするために作画監督が修正を入れたって話しで、見比べれば分かるだどうけど本筋に目を向けているとあんまり気にならないんだよなあ。大和艦橋での対峙は全部直したとか。そうなのか。でもヤマトークで驚いた最大はダーガムの船で太鼓を叩いてたあれは骨ではなく骨に似せた棒だということ。何でまた。そこが美学なんだろうなあ、ガトランティスの。ウラー.


【5月25日】 ぐらぐらっと来たけど、でも机の上に積んである本とか資料とかがズレて落ちるような事態にはならなかったから、震度的にはたいしたことがないんだろうなあと感じてやり過ごした今日の地震。聞けば東京二十三区で震度は4だそうで、震源地は茨城県の方でマグニチュードはどれだけだったっけ、最大でも震度5弱の地震は2011年3月11日に起こった地震の後に続いた余震よりも小さいから、あれでびくともしなかった家の本とかがこれで崩れ落ちているってこともないだろうとは思うけれど、あの時よりも物資が増えているからあるいは崩れ落ちていたりするかも知れない。家に戻るのがちょっと怖いなあ。

 それよりもまたしてもシャープのBDレコーダーが故障したみたいで、画面を操作していたらいきなりブロックノイズになってそれから映像が出なくなってしまった。音声は出るからきっと映像の出力に問題があるんだろうけれど、録画したリストを出すと瞬間は映るから完全に断線している訳ではなさそう。それでいてすぐにブラックアウトしてしまうから中で映像を出力系に乗せている仕掛けに問題が起こったのかもしれない。それだと物理的なケーブルの交換では直らないからD端子ケーブルで?ぎ直したら映った前よりも症状としては大変かも。これはもう諦めて新しいのを買い換えるしかないかなあ。もったいないけどそれが手っ取り早い。東芝のRD−X5は最後まで壊れなかったのになあ。だからシャープはああなった? 家に戻ってリセットかけてそれでダメなら買い換えだ。

 異形の師匠登場の巻でザップの腹が丸く膨らんではやって来た師匠にど付き回されるという展開。それでもチェインの機転で集中力だけは高まりどうにか敵を押さえはしたもののその本体は未だ残ってヘルサレムズ・ロットへとへと向かっているという感じで以下次回。珍しく上下編となったのはそれだけをかけて描く理由があったからなのか、合間にブラックとホワイトのオリジナルストーリーを混ぜて展開に漫画とは違った芯を通してクライマックスへと持って行く布石にちょうど良いと考えたからなのか。まあ他のエピソードを上下編に伸ばしても間延びしてしまいそうなんで、ギリカとトーニオの回とか丸めたのも仕方がないとここは思ってとりあえず、個人的に好きなスターフェイズが友達を失うエピソードがちゃんとアニメ化されるかを見守ろう。どこかに以後の予告は出ているんだろうけれどそれは見ないことにして。

 なぜか浮かんだのは「境界線上のホライゾン」のベルさんこと前髪枠の美少女で盲目の向井・鈴。ずっと目は見えないんだけれどもその分聴覚を含めた感覚がとても発達していて、音を感じて風を感じて空気を読んでは周囲をほとんど立体的に理解していしまっているという。それを船の運航に利用すると環境に居ながらにしてセンサーによって集められた情報を元に流体をこねて周辺で運用されている艦船の配置なんかを誤差なしに描き作れるというから凄いもの。時にはレーダーですら感知できない気配をいち早く察知して、何者かによる侵入を警告することもある。そんな鈴さんのような力持った女性が登場するのがオキシタケヒコさんの「波の手紙が響くとき」(ハヤカワSFシリーズJコレクション)だ。

 中心になるのは音響研究所なんかを開いている1人は音を聞き取るプロフェッショナルの武藤とかいう男で、もうひとりはその研究所のスポンサーで所長でもある身長は180センチを越えて体重も3ケタに届くという巨体ならがも声はまだ幼いころに事故で睾丸を失ってしまったころから声変わりせず、ソプラノのままという男。そして助手として雇い入れた女性の都合3人が、持ち込まれる音にまつわる事件を解決していくといった具合に一種の探偵ストーリーになっている。その初っぱなに出てくるのが、音声による連絡を残してどこかに雲隠れしてしまった天才的なミュージシャンの女性の居場所を、その音声から探るという話。迎え入れられたのが盲目ながらも音に敏感な女性で、それこそベルさんなみの力を発揮し場所とシチュエーションを特定してしまう。

 現実にはあり得るかどうかとなると分からないけれど、ちょっとした技術の進化とサポートがあれば音から世界を構築することだって可能な気はする。その意味ではなるほそSFとして刊行されている意味はあるし、さらに消えた女性ミュージシャンが人工の内耳にマイクを仕込んでその音を常に自分の首から下がった機器に録音しているといった状況も近未来的。そんなガジェットを出しつつ本編の方はしばらく音響探偵的に、音に関する知識を元にして難事件を解決していくって感じになってて、ともすればそのまま連作短編として文庫にまとめて刊行して、はやりのお店ミステリーの一角に連なればヒットなんかも望めたりするかもしれないけれどこの物語はそうはならない。だってSFだから。その突き抜け方がちょっと凄い。

 なるほど文字通りに「波の手紙が届く」話。その手紙がもたらしたちょっとした事件があって、結果としてもたらされた場所からその先にあるだろう可能性、あるいは過去に起こっただろう出来事への想像なんかが浮かんでとてつもないスケール感の中に読む人たちを放り出す。それって有りかといえばSFとしてはあり。なぜって僕らは絶対にひとりじゃないから。とはいえそういう展開をミステリの人が望むかというと話しは別で、ちょっと突拍子もないと思って投げ出してしまうかおしれない。それはもったいないので前半の音響探偵めいたシリーズを別に立ち上げ連作ミステリとして刊行しつつ、本編としてSF的なアイデアをぶち込んでスケール感のある物語を描いていったら面白いかもしれない。長身で巨体なのに去勢されている人物が登場する意味、っていうのももうちょっと感じたいし。

 ドラマ化の次はアニメ化だそうで「ワカコ酒」、それも沢城みゆきさんが演じるそうでテレビドラマの武田梨奈さんみたいに飲んだら頭で瓦を……って別に割ってなかったか、どうもそればっかりに頭が行くけど武田さん、「少女は異世界で戦った」でも別に瓦を頭で割ってなかったしそればっかりの人ではないのだ、当然だけれど。いやだからそんな武田さんの実写とはまた違ったアニメのワカコを沢城さんはどう演じるか、当然に擬音の「ぷしゅー」も沢城さんならではの声芸でもって見事に表現してくれるに違いないと今から着たいも膨らむ。ぷちこみたいな可愛い「ぷしゅー」か不二子みたいに妖艶な「ぷしゅ〜」か。放送が楽しみだ。ってさすがに「ぷしゅー」は口ではやらないかなあ、やって欲しいなあ。ぷしゅー。

 虚構を想像してアクセスを挙げている「虚構新聞」の社主にとっては考えもなしに情報を拾い集めて張り付けて、それでアクセスを稼いでヒャッハーな勢力にはやっぱいろいろ思うところもあるんだろう。「今のところ情報についてはネットの速さが確かさより優位に立ってるけど、確かさへの揺り戻しは絶対に来る」と指摘しつつ、リテラシーの足りないところは「結局新聞やテレビといった権威に依らないと仕方ない」状況になるって見てる。とはいえそんな新聞も最近は結構むちゃくちゃで、正確性だとかよりも煽り上等で扇情的で虚偽でもゲスでもアクセス稼げりゃ上等みたいなところがあったりする。今朝なんてトップページのトップ記事の見出しに「自慰行為」なんて平気で付けていた物なあ。誰が朝からそんあ下品な記事を読むんだ。そして子供に読ませられるんだ。考えも矜持もない振る舞い。まあそこは特殊なんで他はちゃんとしている間に、アクセスと引き替えに信頼を削ってそしてゼロになった暁に、淘汰される側に行くんだろ。やれやれだ。


【5月24日】 せっかくだからと原宿にある太田記念美術館という浮世絵が専門の美術館へと出向いてそこで、5月28日まで公開されているお栄こと葛飾応為の描いた肉筆画の「吉原格子先之図」を間近で眺める。なるほど手前の暗がりに大勢が立ってそして中は明るい吉原の格子の奥を眺めているって構図は中の明るさが格子で遮られ外の暗さを薄く照らしているだけといったコントラストの強さでもって目を引きつけ、街頭なんてなくネオンサインなんてものもなかった時代の内と外の差異って奴をくっきりと見せてくれる。

 夜こそが本番の吉原ですら外はこの暗がりなんだから、街とかいったい日が暮れた寄るにはどれだけの暗さになったんだろう。月でも照っていれば見えるだろう路地も新月ではきっと何も見えなかったに違いない。そりゃあいろいろなものが出たって不思議はないよなあ。ぼんやりと照る光に近づけばそれが化け物だったとかって話、今なら遠くから何で分からないってなるけど当時は近づいたって明かりの周りしか見えない訳だから。まあでもそれをやってしまうと真っ暗になるから映画「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」は夜でもちゃんと人とか見えるように描いてあったけど。「伏 鉄砲娘の捕物帳」だと吉原は不夜城みたいだったし。まあそれが映画の面白さ、フィクションの楽しさって奴で。

 太田記念美術館では応為を挟んで父親の葛飾北斎が描いた源氏物語の図とそれから、ヘタ善こと浮渓英泉による美人画のそれぞれ肉筆画が並べられてあの長屋に住んでいる3人による3様を一同にして眺められるようになっている。北斎と応為が並んで掲げられるのは珍しいことって噂も流れていたんで、そこに英泉も加わった展示はもしかしたら歴史的に貴重かも。それにして北斎は細かいところまで筆が及んで絢爛で、そして英泉は言われてなるほどといった感じだけれど歌麿とは違ってどこかファジーな感じがする美人がどうにもなまめかしい。そこが評価されていたからこそ物語の中だけでなく、現実にも名を残せたんだろう。才能の形はひとつじゃないってことで。

 展覧会のメインは浮世絵の美術館だけあって「東海道五十三次」でおなじみの歌川広重とそれから、広重にインスパイアされたかのように明治の日本を広重と同じような視点から描いた小林清親を並べて展示するという面白い企画展。江戸ではこう描かれていた風景が明治ではこう変化してって感じにその間の変化を感じ取れるのと、そして明治になっても日本はまだまだ江戸みたいな風景が残っていたんだなあと思わされるのと、いろいろ見所がある展示になっていた。あとはこういう浮世絵的で版画的なレイアウトやら画法がどうして今、主流になっていないのかなっておとも。それは日本画も同様だけれど、写実的ではなくても写実を思わせるフォルムの人物、デフォルメされていても写真以上に往事を思わせる風景等々、その技法その画法ならではの良さを追求できると思うんだけれど。今も現代浮世絵とかやっている人、いるんだろうか。気になったときに調べてみよう。

 会場を出て原宿からJRと京急を乗り継ぎ蒲田へ。途中の品川駅でまだ駅のホームで頑張るスタンドで品川丼という名の一種のかき揚げ丼とか食べつつそうした伝来の店がどんどんと営業を縮小している寂しさにむせぶ。商売したい気は分かるけれども商売してきた人とそれを使ってきた人の気持ちも考えて欲しいもの。Suika使えなくたって別に良いじゃんと思うし。さて京急蒲田は駅が巨大になっていて正直京急の品川駅より大きな感じ。左に羽田空港へと行き右に川崎から三浦半島へと向かう分岐点ではあるけれど、周辺に街がある訳でもない一種の通過駅。それがこんなに巨大で何か別に路線でもくっつける気かと思ったものの、東急蒲田駅から東急線を伸ばしてJRをぶち抜き京急までつなげる話はあっても実現の可能性は薄そうだしなあ。空間にいろいろ入るのかな。

 驚いたのはそんな京急蒲田を出たらあとは陸橋を使って信号を渡ることなく大田区産業会館Pioまでたどり着けること。前来たときもうそうだったのかはもはや覚えてないけれど、今回使って改めて会場の利便性を実感した次第。そんな会場では「境界線上のホライゾン」のオンリーイベントなんかを見物。開場時間を少し過ぎて到着すると外に行列はなく人混みも見えなくって会場を間違えたかと心配したけど、入り口にキャラクターたちが登場したポスターがあって中に入るとちゃんとサークルも出ていてコスプレイヤーの人もいて、作品から出てきたホライゾンの世界を楽しむことが出来た。

 着ると股間とかお尻とか結構エロい感じになるあのホライゾン世界のコスプレを、やってしまう人とかいるのが嬉しいなあ。実行にはそうとうな胸がいるキャラもあるけどそこを頑張りと工夫でしのいでいたり。なかななに良い物です。とりあえず行列が途絶えた川上稔さんのサークルで夏服集とかを買いあとは目に付いた健全そうなおねショタ本とかを買い、向井・鈴が描かれた色紙とか眺めつつ周囲をぐるりと見渡して、同時開催だった「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」のサークルとかを遠巻きにしつつここからぐっと増えていくんだろうと予想しつつ退散。こぢんまりとしているけれど好きな人が集まっていた良いイベントだった。また行こう。

 せっかくだからと京急から都営浅草線を乗り継ぎ、京成押上まで言って東京スカイツリーがある東京ソラマチのショップで、原恵一監督も向島のロケハンで食べたかもしれない言問団子を購入。浅草で降りて本店がある向島まで行く手もあったけれど歩くと結構遠いんで今回は遠慮。それはまた三囲神社を訪問する時に。上映の最終あたりを見て興行の成功を御礼に行く時かなあ。いや別に興行に関わっている訳じゃないけれど、1人のファンとして。団子は6個入りで1260円で決して安くはなく、また日持ちもしないみたいだからお土産には大変だけれど、食べたら甘くてそれでいて上品。甘い物好きの北斎が食べたらきっと喜んだに違いない。食べさせたかったなあ。

 気がついたらなでしこジャパンの親善試合が行われていて、レジェンド澤穂希選手が得点を決めて勝利したとか。コーナーキックを蹴ったのは宮間あや選手でいつかのワールドカップのアレはアメリカ戦だったっけ、同点に追いついた起死回生のゴールの再来みたいだけれどそれを喜びつつも4年前と代わらない選手層に将来への心配もちらほら。若い選手出てこなくなったなあ。でもまあゴールを守ったのはその時には出ていない山根恵里奈選手なんで、大会前の大事な親善試合にこうして使ってもらえるところ、そしてしっかりと無得点に抑えてみせたところを見るに付け、本大会でもやってくれそうな予感はある。やってくれなきゃ困るしジェフ千葉レディースを応援する身としても。兄貴分がずるずると後退して4位まで来てしまったからなあ。せめて女子には。祈ろう活躍を。菅澤優衣香選手の活躍も含めて。


【5月23日】 見ているとどこかベル・クラネルがただ強くなりたいだけのガキで、周囲の忠告も聞かずに突っ走っては危険な目に遭い、サポーターのリリルカ・アーデを怪我させてしまって自業自得の中でミノタウロスと戦う羽目になったような所も浮かんでもうちょっと、そこに至る葛藤めいたものを添えられなかったのかとも思ったアニメーション版「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」だけれどいざ、対ミノタウロス戦が始まってからは、怪我をしたリリがそのままでは襲われるんで自分が囮になって逃がそうと必死になっているともとれるんで、見ていてベルが戦う理由に納得できて引き込まれもした。

 そこに駆けつけてきたロキ・ファミリがの手助けを借りないというのはもう男としての矜持であって、そこで死んでもそれは自己責任の範疇に入るから見守るしかないだろう。とはいえ目の前で死なれるのは寝覚めも悪いと、そんな事態にはアイズ・ヴァレンシュタインが真っ先に飛び込んでいって助太刀をしただろうし、レベル6のフィン・ディナムやらリヴェリアやらが見て、レベル1とは思えないとベルの戦いぶりを認めたからには、助太刀をしなくても何となると思って何もしなかったのかも。結果としてベルはミノタウロスを倒して次回、レベル2へとランクアップを遂げるんだけれどその後にヴォルフ・クロッゾをパーティに入れて後、どこまでアニメで描くんだろう。

 単行本の第5巻のタケミカズチ・ファミリアにモンスターを押しつけられて逃げて18階層に行くまでか、その先のアポロン・ファミリアとの抗争とリリのソーマファミリアからの脱退までか。残る話数もないだけに単行本の4巻あたりで終わってあとは第2期かなあ。でもオープニングには神ソーマ様が登場しているからそこまでは行きそうな気も。ともあれ見ていて楽しいアニメ。そしてよく描かれているアニメなんで第2期に行くなり、視点を変えて「ソード・オラトリア」の方から描いて行くなりして続いていって欲しいもの。「とある魔術の禁書目録」と「とある科学の超電磁砲」みたいに。期待しつつ見守ろう。しかしエロいなあフレイヤさん。ありゃ誰でも魅了されるよなあ。

 今日から始まったテアトル新宿での「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」のメイキング映像つき上映は、最前列で氷川竜介さんが隣に座ってその隣に原恵一監督が座ってメイキング映像の解説を話してくれるというゴージャスぶりにやや戦慄。もとよりテアトル新宿はスクリーンが小さくて舞台もあって空間もあるので、最前列でも見上げず見られると思い取った席が正解だった。予約開始と同時に取った時は席も空いててどうなることかと思ったけれど、気になるのか来場者が増えて会場はほぼ満員。公開から2週間経ってなおイベント付きとはいえこれだけの動員があるのはやっぱり、映画に力があるからなんだろう。

 そのメイキング自体は、東京アニメアワードフェスティバル2015で樋口真嗣さんを招いて原恵一さんとの間で行われた、プロダクションI.Gナイトの前説的なトークイベントでも上映されたものと同じだったけれど、それを見たときはまだ映画を見てなかったんで以後、試写とそれから初日の舞台挨拶付きを見てからだと、どこにどれだけの手間がかかっているかが分かって興味深くメイキングを見ることができた。ちなみに全体で350時間は撮影しているそうで、それがどういう形でまとめられ、DVDなんかの特典に入ってくるかは目下不明。ロケハンめいたものも入れてくれれば聖地巡礼に役立つんだけれど。そうそう上映後のサイン会で原恵一監督に三囲神社に行きましたと話したら、団子は食べたと聞かれたけれど食べてなかったそれは言問団子のことかなのな。美味しいらしいんで今度行ったら食べよう。っていうか船橋西武に売ってるじゃないか。明日食べよう。

 外からは誰も入ることができない密室で人が殺されていたら普通だったら名探偵が出てきては、誰かが出入りした可能性なり、自殺を他殺と見せかけた仕掛けなりを推理して事件のネタを明かすものだけれど、そこでは絶対に超能力者や魔法使いが部屋の中に瞬間移動して殺人を犯したとは言わないし、凶器を引き寄せたとかテレパシーで精神を操作して自殺させたとも言わない。だって瞬間移動もテレパシーの念動力も現実には存在しない力だから。けれどももし、そうした超能力や魔法が存在する世界が舞台だったら、名探偵もそうした世界のルールに則して考えなくちゃいけない。

 とはいえどんな力でも可能にしたら話が成り立たないから、超能力なり魔法が存在する世界が舞台となったミステリは、力の特性や振るえる状況に制約を設けて、その中でどんな力が誰によって振るわれたのかを推理して、犯人を突き止めていくような展開になっている。西澤保彦さんの一連の著作がそうだったし、米澤穂信さんの「折れた竜骨」や黒川裕子さんの「イロニーの魔術師」もそう。そして第1回集英社ライトノベル新人賞で優秀賞となった紙城境介さんの「ウィッチハント・カーテンコール 超歴史的殺人事件」もそんな感じに魔女がいて魔法の存在が確認されていて、とてつもない力を振るう騎士も存在する、ファンタジー調の世界を舞台に魔法の種類が決められ、それが誰によってどう振るわれたかで犯人に迫るような展開になっている。

 ただ、魔女という要素を入れることでそれを証明する必要はなく、嫌疑だけで追い込めるといった状況があってヒロインで魔女を追い詰める側に居ながらも、助手だった少女が焼け死んだ事件の犯人にされた15歳の少女ルドヴィカは嫌疑を晴らせないまま魔女だと言われて有罪となり、処刑される寸前まで追い詰められる。そんな冤罪からの逆転劇がある上に、1000年という時を隔てて繰り返された似たような事件の関係なかを追求し、そこにあったとてつもない事実を示すといったスペクタクルな展開もあって楽しめる。その上で、自分を犠牲にしてまで守らなければならないことがあったとして、人はその運命に準じるべきなのかという問いを突きつけらる。バカミステリに見えるけれど結構緻密でそしてドラマティック。ちょっと気になる作家と作品の登場を喜ぼう。

 どこまでポン酢なのかと言ってやりたいけれど、縁なんてまるでない相手に言う訳にもいかず、胸くその悪さだけが募ってしょうがない自称全国紙とやらに所属する人間による任天堂への誹謗中傷といって等しい記事。新作ソフトが出るんだけれどそれにはシナリオの難易度なんかもあって白版黒版めいたものが用意されていて、もちろんソフトとして違うんだから別々に買うのが普通なんだけれど、そこを任天堂はもう1本はダウンロードでお安く売りますってな感じにして、単体が5000円近いところを追加ダウンロードは2000円くらいに割り引くという。

 なんというサービス。何という大盤振る舞いと普通の頭なら考えるところをこの人間は、それは“重課金”とかって珍妙な言葉を持ち出して非難する。おいおい、課金っていうのは無料のゲームでつりつつもそれがなければ遊びが真っ当にならないような仕掛けをちらつかせて、次から次へと有料アイテムを売って設けていく仕組みのことで、立派に1本の作品として成り立っている上に続きを提供することを言わない。それを課金といって誹るならば本来は第1巻だけで完結していただろう小説に、2巻3巻が出てきた時に単行本として売るのも重課金ってことになってしまう。「徳川家康」なんていったいどれだけの重課金があるんだ。「ONEPIECE」の重課金ぶりといったらどれだけだ。

 そんな普通に考えれば恥ずかしくて出来ない難癖を繰り出し任天堂を貶めようとする。まあ前科が山ほどありまくっては任天堂がスマホに出ないのは何だと誹る、そして今回出るといったら課金がどうのといって誹る朝令暮改ぶり。それで内輪には通じても外からは莫迦で阿呆で戯けた記事だという評判が高まっている。いやもはやその人間その媒体はそういうものだと見捨てられているから影響もないんだろうけれど、でもやっぱり迷惑を被る会社もあるんでひとつ、被った迷惑を任天堂には思いっきり発散して無茶を言う輩を叩きのめして欲しいもの。まあやらないけどね、影響力なんてない相手と見切っているだろうから。やれやれだ。


【5月22日】 7話目でとりあえず一回り。それでようやく空中に浮く霊体の伊里達遊太が未来から戻ってきた同じ遊太の霊体によって追い出されたもので、そこから諸々の事件を経て地球を救えないと分かって、元に戻って自分の体に入ってそこで自分を追い出したってことが分かったよな分からなかったような「パンチライン」。なおかつ前回で肉体は女だと分かった遊太の中身はパインで、それが施設から逃げ出す時にユーバ化していてアクシデントからショックで魂として飛び出して、チョコの体に入ったようなそうでないような。でもってチョコはグリコへと移ってグリコはパインの中へ。遊太が男の格好をしているのは魂に合わせているからってことになる。

 ということはバスジャック犯のあの銀髪だかの少年は中身はグリコってことなのかな、なんかいろいろとややこしいけれど、そうしたシャッフルが物語に絡んでどういう収束を見せるんだろうかがまだ見えない。そもそもがそれと隕石による地球滅亡という線とどう絡んでくるかがまるで見えない。いくつも筋を走らせすぎで追いかけられない感じだけれど、これが1本にまとまってぴたっと着地すればすごい傑作になるような気がしないでもない。でもまとまらないような気もするなあ、そこが日本のアニメーションらしいというか。でもまあ、曳尾谷愛のパンチラだけで十分なんでブルーレイディスクは買うつもり。良いのかそれで? 良いのだそれが。

 これは是非に見ておきたい映画「コングレス未来会議」の公開に合わせた山村浩二さんとタカノ綾さんによるトークイベント「コングレス事前会議〜SFとアートアニメの親密な関係」。下北沢のB&Bで6月17日に開かれる予定で、映画の公開がいつだっけ、それに向けて映画の面白さを話してくれるイベントになるんだろう。僕はもう去年の秋と今年の春の2回、すでに映画を見ているんでネタバレオッケーではあるんだけれど、そうでない人も来るだろう中でいったい何が話されるのか。そもそも山村さんとタカノさんにどういう接点があるのか。そこがなかなか謎なだけにどういうイベントになるかを見逃せないし、話も聞き逃せない。

 会話が成り立つのかといった点でも。ほら山村さんは明快なロジックでしゃべるけど、タカノさんはふわふわとした感性でしゃべるタイプだから。ただSFという意味ではタカノさんはいろいろと読んでいて、それでSFマガジン誌上で一種のレビューにもなっている漫画をずっと連載していた。その中にスタニスワフ・レムがあったかどうかは記憶にないけれど、「ソラリス」くらいはきっと読んでいるだろうその知識でもってSFをどう語り、アニメーションとしての「コングレス未来会議」のビジュアルをどう語るのか、ってあたりがトークの注目点になるのかな。

 あとはタカノさんのアニメーションへの感心。いわゆる商業アニメは見ているうだろうけれど、アートアニメーションについてどういう関心があるのかは聞いたことがなかった。自分でもずいぶんと前にジェイムズ・ティプトリー・Jrをテーマにしたらしい3DCGの映像を作ってDVDに入れて販売してたけど、その頃から進んで映像を作っているのか、それとも作りたいのか。専門の山村さんに是非に聞いてもらいたい。あとは山村さんから見たタカノ綾さんっていうアーティストの魅力、逆にタカノ綾さんから見た山村浩二さんていうアニメーション作家の分析なんかも。いろいろ期待できそう。予約はしたんであとは満を持して行けるかどうかだ。まあ行けるだろうけど。暇だし。

 裸の王様の重臣たちは絶対に、自分たちが仕える王様を裸だなんて言わないし、裸だなんて言えないし、裸だと思いすらしない。だからこそ裸の王様に重用されて引っ張り上げられ、そのおこぼれに預かって良い思いをするんだろうけれど、寓話にあるように裸の王様は、真っ当な人が見ればただの裸でしかなくって、それは子供にだって分かることで、だから遠からず、あるいは今すぐにでも裸なんだと見抜かれて、有意の人たちからあざ笑われ、裸の王様を讃える重臣たちもいっしょになって裸と見抜けない愚者だと嘲笑される。それが真理。絶対の。

 ここにこんな記事が自称とはいえ全国紙に出てきた。時の内閣総理大臣が、自分の政治姿勢の根底に据えると言いつのっている「戦後レジュームからの脱却」という言葉の「戦後レジューム」とやらを構成する、重大な言葉である「ポツダム宣言」を実は詳しく知っておらず、そしてそのことを恥もせずに国会という場で満天下に向かって言ってのけ、侵略であったり敗戦であったりといった歴史的な事実について認識を示さなかったことについて触れたもの。その中で記事は「ポツダム宣言」そのものの意味を減殺し、あるいは無効化しようとしてこう書く。

 「志位氏は討論後、記者団にまるでポツダム宣言が民主主義の聖典であるかのようにこう称揚もした。『日本の戦後民主主義の原点中の原点がポツダム宣言だ』『ポツダム宣言は戦争認識の原点で、誰も否定できない』。だが、戦前の日本は果たして『世界征服』など目指していたのだろうか。対英米戦は両国などの対日禁輸政策に追い詰められた日本が、窮余の策として選んだ道ではないか」。ちょっと待て。そこで例に挙げた対日禁輸はどうして行われることになったのか。日本を戦争に引きずり込みたかった米国の謀略という説もはびこっているけれど、根っこには日本の大陸から南方への進出があったからだろう。それを侵略として政府も認め、謝罪している現在において、侵略を否定しそれに伴う禁輸措置を予期せざる攻撃として自衛のために開戦しただけだと言ってのけるのは政府に弓引くことにならないか。

 何という筆のなんという空虚さ。そんな虚偽を並べてまで、裸の王様が豪奢な服を着ているように見せたいとしか思えない。さらにこうも書く。「外形的に刑を受け入れても、内心で裁判官の判断を不服に思うのも、自身は実は無罪だと考えるのもその人の自由であるはずだ」。だから「東京裁判を受け入れたからといって、その思想や歴史観、政治的背景、各国の都合や思惑を全部ひっくるめて引き受けることなどできようはずもない」。その筆が殺人なり汚職なりの犯人を糾弾する時に判決を不服としようものならどれだけの罵声を浴びせるのか。実際に判決では無実だった政治家を相手に灰色だったと言いつのって責任を糾弾したこともあったではないないか。

 それでも判決に不服であることは当然というのだとしたら、完全なまでのダブルスタンダード。というより今なお海外が法律的な決定に不満を述べて日本に迫ってくることを、すでに決まったことだからと押さえつけ、そのしつこさを激しくののしる筆を展開しているではないか。にも関わらず自分たちには責任はなく、罪すらなくそれが戦後レジュームの出発点になっているにも関わらず、なかったことにしようとする。もうどうしようもなく傷んでいるとしか言い様がない。もはや戦後レジュームなどというものすらそこにはなく、戦前の、それも民権運動によって市民が力を得た時代から下って統帥権の名の下に軍部が権力を掌握して、世界に虎の威を狩るような姿を見せていたあの時代をこそ至上と讃え、そこに舞い戻りたいだけ。けれども世界は見ている。誰もがその裸っぷりを分かっている。遠からず今すぐにでもメッキは禿げて王様は裸と嘲弄され、重臣たちもまとめて侮蔑されるだろうと思いたいのだけれど、果たして。

 25万円を支援してまで大人は15歳の少年の何を見たかったのか。やっていることは他人の迷惑すれすれで、そこに新しい挑戦はあまり見えない。これが日常ではなかなかたどり着けない場所へと行って、それを見せてくれるというんだったら支援したかもしれない。あるいは革命的な精神を以て権力に突貫するような振る舞いだったら、左翼的心情からカンパして人がいても不思議はないけれど、ただ子供がいたずらをしているような行動に、それでも支援するという神経も子供が突貫していく神経と同様に分からない。もうそのあたり、一緒になって子供化しているのかもしれないなあ。これでドローンが落下して誰かがけがを負ったとし、そうした支援をしていた人にも責任が及んだかもしれない訳で、早くにとっちめられて諭されて良かったかもしれない。でもこれで引くとは思えないんだよなあ、あれだけ煽られ乗せられたあげくに自ら煽りを本意と思ってしまっただけに。どうなることやら。


【5月21日】 それは「足スト」なんて良い話ではなくって、サッカーをプレーする人にとってもっとも大切な足を包むスパイクを、これまで代表のスポンサーだからといってアディダス1社に限定していたことが、そもそも異常なことであって、それを撤廃した日本サッカー協会は、選手のために何かしてやったと胸を張る以前に、これまですいませんでしたと土下座くらいしたって良いような気がしないでもない。もちろん男子と違ってスポンサーが付きづらい女子サッカーを支援してくれたという意味合いで、そこに縛りがあったとしてもスパイクを提供し、お金も出してくれたアディダスには感謝したいし、選手によっては自分でスパイクを買うお金だって出しづらいところに、支給されて嬉しかったという人がいても不思議ではない。その意味で全面的に反対はしづらい。

 一方で、ボールに触れるほとんど唯一の場所を包むスパイクが、日頃の試合ではき慣れていないものになることが選手にとってどれだけの縛りになるか、っていった観点から、ほかの何を置いてもスパイクだけは自由を認めるべきだったという意見にも与したい。たとえオフィシャルスポンサーとしてスパイクを支給しても、それを使う使わないは選手の側の自由にするくらいのことにして、それで優れた性能だからと選手たちが選んでくれてこそスポンサーもシューズメーカーとして誇りに思うというもの。そのあたりをすっ飛ばしてスポンサーだから、契約だからと強制していた日本サッカー協会のスタンスに、どこかやっぱり違和感を覚えて仕方がない、って思い続けて何年くらいになるのかなあ。でもとりあえず良かったシューズの“解禁”。ちょっぴり弱体化も懸念されるなでしこジャパンにとっては、来るワールドカップで大きな励みになるだろうと思いたい。山根恵里奈選手ってそういやあどこの靴を履いてたっけ。16文とかそんなサイズなんだっけ。

 何が問題なんだろうなあ、日本でサッカーのビッグクラブが出来ないのは。イタリアで言うならレアル・マドリードでありバルセロナであり他の少なくないクラブだってそれなりな規模でスタジアムを持ち練習場を以て何面ものグラウンドを使って下の世代からトップまでが練習を行っている。一種のスポーツクラブとして運営されていてサッカー以外のスポーツチームがあったりする。バルセロナのバスケットボールとか。そうやって地域に根ざしつつ大きなスポーツ企業としてそこに存在しているのに、日本はスタジアムを持っているところはないし、練習場だって借り物のところが多い。

 それでも地方には何面ものグラウンドを持ちクラブハウスを以て試合以外はそこでしっかりと地域に根ざした運営をしている所もあるんだけれど、大都市にあって大勢の観客を集めすべてを自前で運営すべきビッグクラブがひとつもない。だから横浜F・マリノスが練習場とはいえ横浜のみなとみらいに大きなマリノスタウンを以て練習をしてクラブハウスも構えてってスタイルは、そこからバルセロナとかが生まれてくる予感なんかを覚えさせてくれたんだけれど、肝心の経営の方が上手くいかないのかスタジアムがすべての試合で満席になることはなく、5万人だって入らない状況の中で運営に苦しみついにマリノスタウンを手放すことになってしまった。

 いっしょに練習して上を目指していた子供たちはどこへ行くのか。横浜国際競技場がある小机は鶴見川の氾濫にそなえて増水すれば水が流し込まれて水没することになっている。北国のチームが雪で練習場を使えなくなることはあっても、大水で練習場が沈むチームは世界でもここくらいになるんじゃないかなあ、あとは河川敷で練習している草チーム。世界に冠たる横浜のトップチームがこれではいつまで経っても日本にバルサもバイエルンもチェルシーも出てきやしない。いややっぱり観客を集められないマリノスが悪いのか。観客が集まらない選手層しか揃えられない日本の環境が悪いのか。難しいけれどもやっぱり日本のサッカーは、いろいろと岐路に直面しているんだなあ。我らがジェフユナイテッド市原・千葉は蘇我をずっと使って強くなっていっていただければ。

 引っかけようと思えばいつでも引っかけられたけれど、子供のやることだからと横目で見ていたら、止まるところを知らず墜落の可能性を持ったドローンを人通りの多い場所で飛ばすぞって喧伝しては、警察官を走らせていた15歳の少年が、もはや勘弁ならぬといった感じに浅草寺でのドローン予告で寺が迷惑を被ったって線から、威力業務妨害でもって警察に逮捕されたとのこと。確かにそうだという説もあれば、ちょっと拡大解釈しすぎといった声もあるけれど、浅草寺から確か被害届が出ているんだっけ、それが主体的に出したものか客体的に出させられたものかは別にして、体裁が取り繕われているからとりあえず逮捕されて取り調べが行われる中で、少年へのプレッシャーも強まるんだろう。それで引っ込むスピリッツの持ち主かは分からないけれど。

 どこかに子供じみたイタズラ心があって、その上に何かをやって目立っていなければ自分の存在を自分で確立できない強迫観念に襲われているようにも見えて、それこそ止まったら負けみたいな神経で動き回っていたような雰囲気がある。周囲からの後押しというか勝手なあおりなんかも自分への応援と思い込み、それを裏切るわけにはいかないという思いを勝手に抱いて前を向く理由にもして、いけない道を突き進んでいったといった感じもあるんだろうか。単純に目立ちたがり屋だったということなんだろうか。分からないけれどその当たりにも捜査なりカウンセリングなりが入っていくんだろう。様子を見守りたい。

 しかし逮捕を受けてほとんどの新聞が少年法に配慮して15歳の少年と書く中で、1社堂々と少年のネットで標榜しているニックネームを記事に入れ、見出しにも掲げて個人を特定できるようにしていたのには恐れ入った。後で引っ込めたところを見ると拙いと気づいたんだろうけれど、最初にそう思えないで突っ走ってしまうところに少年に負けない精神の緩さがあるような気がする。たとえ周知であっても、それが少年ならばどういう対応でもって記事化すべきかという反射神経が働いて、実名やそれを想定させるもを抜くといった行動がとれない素人さんが作り手の方に増えているのか。それともアクセスの魅力に負けて少年法とか知ったことではないと飛ばしてしまったのか。どっちにしてもやれやれだ。

 これは楽しくて優しくて、そして良い話だった中村智紀さんによる「埼玉県神統系譜」(ガガガ文庫)。神社の神主の息子が高校生で進路について考えることになって、家でも継げば良いかと思っていたら親から倒産寸前だと言われて悩んでいたら、そこに神社の神様が美少女姿で現れ、いっしょになって信者が増えてお金が儲かるよう、信心を高めていこうと頑張る話。設定だけなら過去にもいくつもありそうで、またかって思わされるけど読むと少年の一人称にした語り口が饒舌だけれど突っ込みとかが的確で、例えなんかも面白くって展開もそれなりに意外性があったりして、ついつい読まされていってしまう。神様がロリ巨乳とかじゃなく普通に美少女で、熱血でもないけれど低温でもなく主人公を推しつつ引っ張りつつ、信者獲得につながるお悩み相談めいたことをしていく感じも、めまぐるしくなくてほっこりする。

 ネット経由で暑さをなんとかしてくれと頼まれて、それならと近隣にある標高2000メートルの山へと登ってお参りをするとかいった具合。あとはなぜか赤点ギリギリのところに固まりがちなテストの成績に業を煮やした学校の先生からの依頼で、テスト直前になると新聞部によってばらまかれる頑張らないでいこうといった内容のビラの出所を探って、サボタージュをあおっている犯人を捜すといった具合。特に大がかりな探索があるわけでもなければ捕り物があるわけでもなく、日常生活や学校生活の中でちょっとだけ意識をそちらに向けてお仕事をしてみるといった感じで読んでいて暑苦しくなく、押しつけがましくもない。でも何となく解決されてしまうといった展開。そこに絡む主人公を含めた登場人物たちの妙な優しさ、柔らかさが読んでいてとても気持ち良い。

 主人公の妹とかもいるけどブラコンでもなく嫌っている風でもなく神様を受け入れ家計が苦しいのもとうに気づいていた中で、邪魔もせずに兄のやることを見守っている。神様も尻を叩いていくといった感じではなく、自分でパソコンを使ってホームページを作ったりするスキルを見せるものの淡々と日常をこなしていこうといったスタンス。そしてもう1人、別に登場する神様も美少女だけれどさらに淡泊というか、ユニークな性格で世話好きだけれど熱量はそんなに高くないキャラクターがなかなか良い。キャラクターのそんな特色と語り口の面白さで、展開の淡々とした感じを押さえて読ませる物語にしている感じ。キャラがすごくて展開が破天荒なラノベとは真逆で果たして人気が出るのか、って不安があるけど逆に一般文芸の方でなら、ちょっと突飛なキャラと呼んで引きつける文体で勝負できそう。そんな作家であり作品。これからの活動を見ていきたい。見せてくれるかなあ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る