縮刷版2015年5月上旬号


【5月10日】 せっかくだからと早くに起きて電車で両国まで行って、そこにある葛飾北斎の居住地だったと判明している「棒稲荷神社」ってのに参拝、看板があって北斎が女性を写生している絵が張り出されているくらいだけれどそこに200年とか昔に、北斎がいたかもしれないと思うとこの国の時間の連綿と続く有り様ってものを感じ取って、江戸がぐっと近くなる。そんなに近い江戸の文化が妙な虐殺によって根絶やしにされて今、口伝で復活しようとしているなてあり得ないよなあ、人の口に戸は立てられないし、人の暮らしは遮られないものだから。

 そこから歩いて両国橋へ。おそらくは「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」で葛飾北斎の娘のお栄が歩いて渡ったり、真ん中あたりに経ってお猶と周囲の音を聞いていた橋。そのままそこに架けられていたかは分からないし、橋だって形もずいぶんと変わっているけれど、流れる川は存在したし、行き交う人の足音や吹く風のそよぎは200年前も変わらずあって今もある。そこでも浮かぶ時代の連続。それを未来へとつなげていくために出来ること、って考えるとやっぱりこうやって作品に残していくことなんだろうなあ。樋口真嗣さんも「東京アニメアワード2015」で行われた原恵一監督との対談で、こういう映画がもっと作られるべきだって訴えていたし。次はだから是非に樋口さんが実写で。原さんでも良いし。おお、あそこに行くのは松本零士さんデザインのホタルナ号。映画でもラストに川を走ってたなあ。時は巡る。過去から。そして未来へと。

 これで8回目となる「大学読書人大賞」へと行くと、第1回から出ている人が司会役を任された永江朗さんくらいしか僕のほかにはいなかった。学生はいったい何をやっているのだ、って8回も続けて出られたらそれで大学生活もぎりぎりだから無理だって。というか今回の4年生って、第1回の時ってまだ中学生だったのか、1年生とかには小学生だった人もいたりするのか、ぎりぎり中学に上がっていたのか、って考えると自分も歳を取ったなあと改めて思う。それを言うなら来年の2月で20周年となるこの日記が始まった頃には、まだ生まれてなかった人もいたりするんだよなあ、今の大学生には。激しく歳をとったなあ。

 んで今回は東野圭吾さんに宮部みゆきさんという、この人ならば本だって売れるという作家の人が2人もいる上に、学生受けしそうな大野敏哉さんの「都立桜の台高校帰宅部」がいたり、大学読書人大賞では強いSFから、チャールズ・ユウ作で円城塔さん訳の「SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと」が入っていたりと強豪揃いだったけれども、九州大学文藝部なんて伝統も格式もありそうなところから来ていた、とってもかわいらしそうな青年の熱意にあふれたプレゼンテーションもあって、新潮文庫nexから刊行された河野裕さんの「いなくなれ、群青」が1位となって、栄えある大賞に輝いた。ライトノベルからは初……っていうとレーベルとしてライトノベルじゃないって言ったらしい新潮社の施策に逆らう感じもするけれど、内容としてはライトノベルなんでこれは栄誉と言って良いんじゃなかろうか。

 ライトノベル作家というなら、冲方丁さんが前にとっているし、野尻抱介さんだって受賞している。ただし、それらは時代小説であったり一般SFであったりとライトンベルテイストからはちょっと遠かった。「ビブリア古書堂の事件手帖」とかで三上延さんが受賞してくれていればあるいは、って回もあったけれどもいずれも逃していただけに、河野裕さんってライトノベル出身で書いているものもどちらかといえばライトノベルと言えそうな作品での受賞は、やっぱり快挙と喜びたい。あとは純ライトノベルのレーベルから純ライトノベルの作品が受賞すれば完璧なんだけれど、ライトノベルの定義自体が変幻しつつ純ライトノベルの枠が狭まっていたりもするんで、周辺領域も含めて候補になって受賞して欲しいもの。書き手がそろって中身も面白いT−LINEノベルスあたりから1冊、いかがっすか。

 って訳で神楽坂の出版会館から地下鉄の大江戸線に乗って東新宿へと向かい、ネイキッドロフトで開かれたT−LINEノベルスの作家が何人かそろったイベントを見物、そうかこの人がヤマイさんか、「幸蜜屋逢魔が時本店 1.纏繞の想」を書いた人で、本当は歌姫でニコニコ動画で人気でプロとしても活躍していてアクセサリーも作っているマルチな才能な人が、何と初めて書いたという長編小説をひっさげ登場。その表紙絵に描かれた無子さんって美女と雰囲気が本人ととても似ていた。ロングな髪に眼鏡という風貌。ボディラインに多少の若干も様々な差異はあったとしても、全体的なトーンはそっくりだったので、もしも表紙絵に引かれた人がいたらご本人が出没されそうなイベントに行って、見て感動すると良いんじゃないかな。近くはデザインフェスタだっけ。

 逆にヤマイさんを知る人は、その風貌そっくりのキャラが出てくる話として手にとって、読んで驚くと良いかも。だってうまいから。とても面白いから。短い二次創作は書いたことがあったらしいけど、本当に長くてそしてこれがオリジナルの物語は初という作品で完璧以上の仕上がりを見せた。たとえ編集のアドバイスがあったとしても、完成へと持って行ったのは本人で、その才能の源泉は本人以外にはあり得ない。それが完璧ならきっと才能なんだろう。その才能が次に活躍できる場所をだから誰か用意してあげること。これは「夢想機械 −トラウムキステ−」の村松茉莉さんにも言えること。村松真理名義で三田文学とかいった純文学で活動していた人だけど、SF的な設定を持ったガジェットと、そしてSFならではの切ない展開を描いてのける才能を発揮してみせた。

 レーベルの制約もあってか、ガジェットを中心に据えてそれがもたらす混乱なり可能性を見せるSFへとはシフトし切れなかったようだけれど、そちらを生かして伸ばせば結構な奥深さを持った作品が出来る気がする。逆にコミカルな群像劇めいた方面へと向かっても描ける才能。放っておく手はないのでもし、この先にどこも何も描かせないような事態が起こったならば、SFの版元も青春小説の版元もファンタジーの版元もこぞって手を挙げ、村松茉莉さんに何かを書いてもらうのが良いんじゃないかなあ。というか書いて欲しい。でないと「夢想機械 −トラウムキステ−」で見せてくれたあの文才、そして世界を立ち上がらせる才能が埋もれてしまうし散ってしまう。だから是非に手を挙げて、向かえその膝元へ。あと来場していた「猫にはなれないご職業」の竹林七草さんも、新刊の「御伽鬼譚」でヒリつくような緊張感の中で繰り広げられる怪異と少年や少女との戦いを描いてみせていた。衰えていない才能をここで埋もれさせる訳にはいかない。だからまずは読んで、そして感じてそれから向かえ、その足下へ。

 それはないよ、他がこぞって元の所属の新聞社の名前を挙げて、選挙違反で逮捕された元新聞記者という埼玉県議会選挙への立候補者のことを記事にしているのに、出身のその新聞社だけが最初、元の所属を消して「フリージャーナリスト」って書いていた。その記事の構造は共同通信が配信したものとだいたい同じなんで、見てリライトしたって感じなんだけれど、でも部分部分が差し替えられていて、配信にはあった会社名が削られていた。どうしてそんなことをしたんだろう? 辞めて今は無関係な人間の元の所属を書くことが、人権的にも社会的にもあまり良いことではないって思わないことはない。今その瞬間をこそ尊ぶ精神から過去の履歴を無視する風潮を強めたいって強固な意志から、経歴を削ったっていうならまだ分かる。

 でもその新聞社は、今は辞めて大学の先生とかジャーナリストとかやっている人を挙げて前の所属を堂々書いて、関連づけを強くして非難しまくっていたりする。こっちでは書かずあっちでは書く。そこには確固たる信念も明確な線引きもなくってただ、非難したいっていう意識だけがあるようで見ていてどうにも心苦しい。それともうひとつ、辞めてそんなに日がない人間が特定の政治性を持った団体に近づき、懇意となってそこの後押しを得られたのは、記者時代に培った人脈であり記者時代に背負った看板の威力があったから。県知事まで応援に駆けつける候補者たり得たのもそうした背景があったからで、それを隠して候補者の立候補までの経緯や、その振る舞いの問題性を伝えることは出来ないんじゃないのかなあ。

 元記者がかつての権威を背負って立候補して、知事の応援まで受けていろいろと活動もしていたのを、それまで非難することもなくどちらかといえば押し出す感じでいたのが、何か起こすと知らぬ顔っていうのは感覚として薄情だし、態度としても公正さに欠けている。元記者であってもさまざまで、区議会議員選挙でトップで再選するくらいに支持を集めている人もいるし、市議選に出て初当選を果たした人もいてそれぞれに期待を背負っていたりする。そういう人には元記者の看板を見せることを黙認して、なにか不祥事を犯したらたちどころに剥奪して隠蔽しようとしたのは、横から見ていてどうしようもなく見苦しい。現場だって他の会社のことをあげつらって非難しづらいだろう。お前のところはどうなんだ? って言われたら返す言葉もないだろうから。

 それに自分たちの看板を使われた訳だから、知らぬ存ぜぬではなく名を挙げて非難し身の潔白を証明していくのが筋としても利口なんだけれど、最初の段階でそうならなかったのは、誰もがマイナス点を取りたくない、責任をかぶりたくないと思っていたからなんだろうなあ。でもさすがに拙いと誰か気づいたか、後から元の会社名が添えられた。だからといって最初、削ってあったことを誰もが知っている。そういう態度の裏にあるだろうスタンスの微妙さに気づいている。そんな微妙さが、会社の中に不思議な空気を生んで偏った言説をのみ真っ当とし、それ意外を排除する傾向への異論を許さず、そしてトンデモな言説がはかれてますます落陽の紙価を貶めていることも分かっている。やれやれだけれど、そうした異常事態が是正されないまま色濃さ増している状況はもはや誰にも止められないんだろうなあ。その結果来るのは何か。いい加減に腹をくくった方が良いかもなあ。預金通帳確認しておこうかなあ。


【5月9日】 肉魅ちゃん搭乗の「食戟のソーマ」は丼対決の目前でいったいどんな勝負が繰り広げられるのかと興味津々。A5とかいう最高等級の牛肉でもご飯にのせて食べたら果たしてどうなのか、っていうきっと当たり前の疑問が突破口となって創真たちに勝利をもたらすんだろうけれど、でも丼で牛肉を食べるのって実はスジ肉を煮込んだ牛丼が1番美味しかったりするからなあ、ステーキ丼も牛ハラミ丼も何か違う、やっぱりほぐれてご飯と一緒になってそしてほくほくとしてサラサラと食べられる牛丼こそが1番のような気がするなあ。まそれも含めて来週を楽しみに。原作を読めば早いんだけれどそれでは楽しみも半減するし、「血海戦線」と違って原作と違いすぎるってこともなさそうなんで、ここは読まずに放送を楽しんでいこう。

 身長はベル・クラネルよりずいぶんと低いはずなのに、しっかりと胸はあって腰は細くてスリムでそして結構エロいリリルカ・アーデ。神様のヘスティアさまみたいな胸だけが突出したようなロリ巨乳っぽさもないナイスバディなのは何かちょっとおかしいきもするけれど、そこはそれ、変幻の魔法かなにかで本当はすごいボディをちっこく見せているだけなのかも。「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」はそんなリリがベルを裏切りヘスティアナイフを奪って逃げようとしたものの、お人好しなベルはリリに理由があると信じて助けに戻ってピンチを切り抜ける。その前にオークに囲まれていたベルをアイズ・ヴァレンシュタインがしっかりと密かに助けていたんだけれど、それで喜んでもらえず感謝もしれもらえないアイズがちょっと不憫。でもその場で対面してもまた逃げられただろうから今は影から。

 TOHOシネマズ日本橋へと「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」の初日を見に行かなくちゃと家を出て、地下鉄東西線に乗って日本橋から1つ手前の茅場町で降りて久々に兜町あたりを散策、成瀬証券がフィリップ証券に変わっていたけど建物はまだあって、隣の山二証券の独特な建物もまだ残っていた。昔むかし、株式部長か投資情報部長のコメントを取りにどちらにも入ったことがあったけど、どんな風だったかはもう覚えていないのだった。写真撮っておけば良かったなあ。でもって兜町神社にお参りして、隣に立つ三菱倉庫のビルが表はそのままに裏に大きなビルが建っているのに気づいてそうかこういう風に変わってきているのかと実感。いずれ山二証券のビルとかもなくなってしまうのかなあ。その時は昭和村へ。出来るかどうか知らないけど。

 日本橋側の上を通る橋から日本橋の方をながめてそうかここで「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」の後藤田さんお川下りシーンが撮られたんだなあ、いつかご当地巡りをして作品をしのびたいなあなて思っていたら公開から1週間も経たないこのタイミングでディレクターズカット版上映の発表が。何とはなしに話は届いていたんで驚きはしなかったけれど、でもこのタイミングだとさあこれから見に行こうかって思っていた人の足を、だったらそっちを見るからいいやって止めかねないだけに興行主たちにとっては迷惑この上ない発言だろー。何で言っちゃうかなあ、言わずにいられなかったのかもしれないし、1週間待ったからだいだい結果も見えたんで後は話題作りの一環としての燃料投下と思ったのかもしれない。これで今見ておけって客が増えることに期待したというか。

 でもまだ“生きてる”作品を殺すような真似は、それが自分のお気に召さないものであっても、作り手としてやっちゃいけない気がしてならないし、させちゃいけない気もする。そうしたモラルが分解されて、話題になれば何やっても良いって風潮がはびこるのはやっぱりどうにも心苦しい。せめてあと1週間、先ならいよいよ結果も見えて終映となるところも出始めていたかもしれないのに。ただ一方で、27分とか付け足されて映画がどうなるか、って興味はある。今の上映版には「THE NEXT GENERATIONパトレイバー」シリーズにはあった真野ちゃんおお尻であったり、カーシャのスレンダーな胸であったり吠えて回る犬であったり真野ちゃんによるエンディングの歌といった要素が欠けている。それらを追加していけば27分、埋まって僕の見たかった実写版「パトレイバー」になるはずなんで是非にそのあたりを。撮ってないなら今からでも撮って。

 まあそうはならず構成とかも変えてもうちょっと、クーデーターめいたものの理由とかそのプロセスがしっかりと分かる話になるとは思いたい。でないといくら押井監督が今の時代に理由なんてなくても何かおこるものだと言ってもやっぱり、クーデーターめいたものを起こした人たちがひたすらに阿呆過ぎるから。あとは灰原零の出自と思想とその帰結かなあ。でもってどうしてそこまでレイバーに挑むのか、って動機も。自分の腕を見せるったって止まっているレイバーに向かって正面から突っ込むのはプロじゃない。あえてそうする必要があったならそれは何なのか、って言ってもらわないと彼女が阿呆になってしまうし、世間だって納得しないから。でもそうした合理性を求めて尺を伸ばす監督とも思えないし。さてもどうなるディレクターズカット版。10月が楽しみだ。

 そして「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」は試写に続いて2度目の鑑賞でやっぱりお栄さんのぷっくりと膨らんだ下唇がいとおしい。正面から見てもそう感じさせ横から見ると受け口にならない程度に膨らませてある。その突き出し方が漫画版の「アゴ」というあだ名を持った女性の印象を引っ張り、そして気丈さって奴もそこに感じさせる。太い眉毛とキッと見据えた目にばかり注目がいくけどやっぱり人間、口は口ほどにものを言うのだ。そういうものだ。あとは久々に漫画の原作も読んでから見たんでほどよくお栄さんのエピソードが抜かれて、彼女が主人公の作品になているなあって感じた。

 お猶なんて漫画版だと最後の方にちょっとだけ出てきて病床からそして…って展開だけ残す。そこに感動もあり江戸の不思議もあるんだけれど、そこへと至るまでのお栄おお猶、そして北斎と妻との関係をちゃんと描いて重ねたから、長屋を吹き抜ける風の意味とそこからにじむ感慨も、強まったって言えそうだし。やっぱりにじんだ涙。動かなかったけれども北斎、父親として娘のことをやっぱり愛していたんだなあ。そんな映画が終わった後に声で出演した俳優さんと原恵一監督が登壇。やっぱり大きな松重豊さんは、アニメーション監督でも長身の原さんより大きかったけどその松重さんと並んでいい案配の杏さんも結構な大きさだった。そりゃあ鴨居で頭をぶつ訳だ。

 そしてお猶を演じた清水詩音ちゃんがセッシュウしていたとはいえ横に並んだ濱田岳さんがだいたい同じ高さだった。立川談春さんは版元の人そのままて感じの風情で、そんな全員がそのまま実写版で同じ役を演じても十分そうなキャスティング。そしていつか自分で実写版を撮りたいって原監督も話してた。仮に実写版になったとしてもその監督が自分だったら良いなあって感じに。それは観たいけどでも同じ話をそのまま実写でやっても意味がないので、北斎側に引き寄せアニメだと初五郎と連れだって芝居に行ってた葛飾北明を出しつつ善次郎や国直といった面々も描いた群像劇にして欲しいかも。それだとお猶の出番も減ってしまうか。あとロケ地があるかなあ。向島の三囲神社とか、映画を見終わってせっかくだからと見物に行ったら、今は高速道路の下になってて鳥居も堤から見下ろせるけどその先が参道になってなかったんだよ。映画を観たって人が聖地巡礼に来ている風もなく、静かなもの。せめて映画が当たって参拝客が10万人くらいに増えてくれれば嬉しいんだけれど。どうなるか。せめてもの貢献とあと2回は劇場で観よう。


【5月8日】 ゴーヤの日。でも別にチャンプルーは食べない。曳尾谷糸ちゃんのいきなりの死亡から始まった「パンチライン」は、時間を巻き戻して事件が起きないようにした伊里達遊太だったものの敵も然る者、謎の小熊を熊質にとっては糸を呼び出そうとし、それを騙そうとした遊太が乗り移った秩父ラブラや、成木野みかたんらの企みも成功とはいかず、謎の覆面男の宮沢賢治が撃たれるハプニングがあったけれども、そこでのぞいたパンツが何かを発動させたようで、次に話がつながっていよいよ何かが起こりそう。だけれどこれまでもいろいろあった割にはあんまり続かず毎回、リセットのように物語が始まっているからなあ。さてもどうなる。みかたん薬飲み忘れたけど大丈夫か。そしてみかたんの歌や薬に反応する遊太の抱えている秘密とは。来週に期待。

 猿というのが、純粋にひとつの動物として扱われているなら問題にもならかったろう赤ちゃん猿への「シャーロット」の命名だけれど、この世界では人間未満の存在として侮辱的に扱う言葉として「猿」が使われ、そう認識もされてしまっているだけに拙いかもしれないなんて声が起こってしまった感じ。これがコアラやパンダやカンガルーやイルカやカワウソやモモンガやホワイトタイガーの子供だったら、「シャーロット」って付けられても幸せのお裾分けみたいな感じで相互に良い感じを醸し出せただろー。不公平だけれどそれが人間の心理ってものだけに難しい。それでも我関せずの姿勢を見せてくれたらしい英国王室のリアクションを受けて、高崎山では従前からの方針に従い「シャーロット」で行く模様。いずれ大きくなって裸にサスペンダーを付けた姿で踊ってくれたら、命名した甲斐もあったかな。期待して成長を待とう、ってそれ違うシャーロット。

 細田守監督による「バケモノの子」の公開が近づいていることもあってか、過去の作品の「時をかける少女」と「サマーウォーズ」と「おおかみこどもの雨と雪」がそろってトリロジーボックスとなって発売されるとか。BGMを作品の登場順にならべたCDなかも入っているそうで、ちょっと欲しさも募るけど、すべての作品のパッケージを持っているだけにダブりが気になって迷うところ。「時をかける少女」なんてDVDとブルーレイディスクの両方があるからなあ。どうせだったら細田さんには「劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」と「おジャ魔女どれみドッカ〜ン! 第40話『どれみと魔女をやめた魔女』」とそして、村上隆さんのところで作ったルイ・ヴィトン向けのショートアニメーション「SUPERFLAT MONOGRAM」をトリロジーとして出して欲しいんだけれど、無理だろうなあ。観たいなあ「SUPERFLAT MONOGRAM」。

 救出の意味も込めつつ書店を巡って買い支えたT−LINEノベルスのうちの1冊で、「三田文学」なんかだと村松真理さん名義で書いているらしい純文学作家の人が、こちらでは村松茉莉さんという名義で書いた「夢想機械 −トラウムキステ−」(辰巳出版)を読んだらヤマイさんの「幸蜜屋逢魔が時本店 1.纏繞の想」(辰巳出版)にも負けず劣らない素晴らしさ。前に読んだ大橋崇行さんの「大正月光綺譚 魔術少女あやね」(辰巳出版)なんかも含めて当たりまくっててもしかしたらこのレーベル、相当に行けてるんじゃないかって気がしてきた。それだけにその割に知られず書店に置かれていないのが可愛そう。このまま埋もれて50年後に幻の名作がそろっていたレーベルとして高値で取引されるかもしれないんで、残る刊行作品も揃えておこう。問題はなかなか売ってないってことだけど。

 さて「夢想機械 −トラウムキステ−」は表題にある夢想機械っていう装置、人間を素材として使って意識を後退させ夢の中に生きるようにして、その想念を外に輝かせるようにするものらしいく、それを作り出す仕事に就いた少年を主人公にして物語りが進んでいく。冒頭ではそんな少年が、素材の少女たちと対話している場面があり、低い確率で定着しないで壊れてしまう素材もあることが明かされていった先、少年は幼い頃に遊んだこともある少女がそこにいて、夢想機械にされようとしていることを知る。というか自分が担当になって、少女をいずれ意識の混濁の向こうへと追いやることになる。ここにひとつの迷いが生まれる。

 一方で少年は、田舎から出てきて学校で学んだ後、仕事に就いたのをきっかけに寮を出てアパートのような場所で暮らし始めるけれど、そこは部屋はだいたい埋まってしまっていたものの、少年は祖父が古書店を営んでいた関係で本への興味と少しの知識があったのを大家の人に買われて図書室をあてがわれ、今はそこで寝泊まりしている。そんなアパートでは大家で見た目少女で実はそれなりな女性がネット配信のアイドル活動をしていて、彼女を助けるカメラマンがいたり、妹役を買って出た少年が女装して寄り添っていたり、もと公務員めいたことをしていながらドロップアウトをして漫画を描いている女性がいたりして、それぞれに組織から離れ自分自身の力で生きようとしている。

 そうした人々との交流が描かれ、少年の街でのそれなりに豊かな日々が示され、そしてネットで人気のアイドルに対抗するように、女神のような偶像がネットに現れ人々を先導するようになる展開も描かれて、世界が飽和状態からなのか、それともどこか末世的だからなのかは分からないけれど、扇動に揺れやすい状況になっているのにつけ込むように、人々が動かされ喧噪が起こったりする。そういう展開の中でそれぞれの人が、自分の内面を知り、自分のやりたいことを考え、やれることに挑んでいく展開があって、どういう状況に置かれようともひるまず生きていかなくっちゃと思わされる。引きこもり気味の漫画家が、アパートのピンチに立ち上がってスーツ姿で人前に立って叫ぶ場面とか、かっこうよさそうだよなあ。

 一方で、夢想機械へと転化を遂げようとしていた少女との対話もあって、そこに決して幸せではなかった少女が、すべてから逃げて楽になろうとしていた悲劇というか、諦観めいたものが浮かんで切なくなる。でもそうしたある意味での安寧を拒絶してまで、選んだ道があったってことが、人間の生きる上での幸せの意味ってものを感じさせられる。安寧ではなくても苦労の中でも死へと向かう旅路でも、誰かと寄り添い誰かに触れら誰かから思われて生きる方が幸せなのかもしれない。そんな感じ。そこへと至る道筋を示すという意味で、少年が再会した少女が夢想機械になろうとしていたという設定は必要だったのかもしれない。

 一方で、タイトルになりながらも夢想機械そのものが人間に何をもたらし、世界に何を与えそして、展開にどう関わるかといった部分があまり描かれない。川原由美子さんの「慣用少女」のように、それを中心に据えればハードでリリカルなSFになったかもしれないけれど、それを目的とせず人の心、人の営みを描きたかったとするなら、夢想機械そのものにこだわらなかった書き方も正解だろう。そのあたりは読んだ人がそれぞれに考えよう。純文学の人だけあって言葉の並べ方や綴り方が巧みで、読んでいて心に迫ってくる。月と太陽の種族が過去に争ったような神話的な設定もあって、それが世界の成り立ち、そして社会の構造にどう影響しているかも考えると面白そう。そうした設定を丹念に拾い、夢想機械そのものの設定も生かして1本、綴ればSFプロパーが読んで堪能できる長編になるかもしれない。そこへ引っ張るか。言葉によって人の情動に迫る文学を極めるか。これからが楽しみだ。

 なんというか愕然とするというか。とある自称であるところの全国紙の編集長さんが、集会で安倍晋三首相のことをノーベル賞作家の大江健三郎さんが憤りから「安倍」と呼び捨てにしたことがしゃくに障ったのか「どんなに相手の考え方や性格が嫌いでも、一国の首相を呼び捨てで非難するのは、大江さんが大嫌いなはずの『ヘイトスピーチ』そのものです」なんて書いてきた。いやいやいやいや。それヘイトスピーチじゃないから。ヘイトスピーチっていうのは民族宗教その他の属性なんかを理由にまとめて悪し様に非難するような態度であって、一国の総理であってもその言動に問題があると感じた相手に対して非難の意味を込めて呼び捨てを行うことを指すんじゃないから。なんて説明しなくたって自称であっても全国紙の編集長なら知っていて当然なはずなのに、どうやらそうじゃないってことが分かって世間も震撼しているし、読んだ誰もが呆然としている。なんだこりゃってなもんだ。

 というかその新聞で編集長さんの配下として大活躍しているらしい編集委員の人が、前に元総理をどういう風に呼んでいたか分かって言っていたりするんだろうか。「アレ」呼ばわりだぜ。尊称どころか名前という人格ですらはぎとって物だか何かのように扱っていたんだからたまらない。それこそ不遜であり不敬であって立派な大人の態度として真っ当じゃないって誰もが思う。そうした言葉がまき散らされるのを上司として間近で見聞きしていただろう立場の人が、それには一切触れずにノーベル賞作家のぶち切れをのみ取り上げ非難するのは公器として果たしてどうなのか。人としていったいどうなっているのか。考えると夜寝られなくなっちゃうし、考えすぎると道を歩いていられなくなりそうなんで考えないで寝ることにする。しかし参ったなあ、本格的にボロボロなのが露見し始めた。明日は来ないかもしれないなあ。


【5月7日】 千葉テレビで再放送されている「攻殻機動隊 STAND ALONE CONPLEX」は笑い男の回へと入って狙われた警視総監を助けに飛び込む草薙素子が、珍しくはいていた軍服めいたスカートを手で引き裂いて足を動きやすくしては壇上へと飛び乗りそこで半回転する中で、黒いパンツが見えていたのが何かうれしいというか、でもそれは普段からはいているハイレグなボディスーツだったりするのかもしれないというか、いろいろと考えて夜寝られなくなってしまう。たとえ水着でもスカートめいたものに覆われ囲われた中からのぞくと嬉しいのはいったいどういう心理なのだろう。そこが人間、考えてもなななか分からない。

 確か「境界線上のホライゾン」でもエクスカリバーで遊ぶトーリのところに英国の面々を駆けつけさせないため、本多・二代が日頃から身につけているボディスーツの周囲をスカートで囲って座っていると、奥をガン見していく奴らがいるけどあいつらはいったい何が嬉しいんだと言って両手を地に着かせ、さらにそうやって見えてもそこは下腹部に過ぎないと断じて嘆き悲しませていたっけか。つまりはそういうものなんだけれど、人間というものは条件が違えばそこにいろいろなものを想像し、妄想して興奮したり楽しんだりできてしまう。不思議だけれどそれが理性と知性を持った人間ならではの欲望を駆動させる知識って奴なんだろう。つまりは何であっても見えれば嬉しいのだ。そういうものだ。

 店頭で見る機会が少なすぎていったい今、何が出ているのか分からないという状況にあるかもしれない辰巳出版のエンタテインメント小説レーベル「T−LINEノベルス」が、だんだんとキンドル化され始めるようでこれを機会にもうちょっと、存在を知られてほしいとは思いつつ、その実ほとんど読んでなかった我が身を反省し、何か読んでみようかと珍しくシリーズを揃えている神保町の書泉グランデへと出向いて、表紙絵の眼鏡っ娘に惹かれたヤマイさんという人の「幸蜜屋逢魔が時本店 1. 纏繞の想」(辰巳出版)を購入。「こうみつやおうまがときほんてん」ってところは読めても続く「てんじょう」が読めず、ネットで調べてそう読むのかと分かったものの、いったいなにが“まとわりつく”のか。それを知るにはやっぱり読むしかないとページを開く。

 なんだこれは! 面白いじゃないか。さまよっていた魂を悠久の存在が拾い人の形にして幸蜜屋という狭間に存在する店の店番にされたのが無子という少女。最近来たばかりという侍女が作るおいしいケーキやお菓子を食べつつ、狭間に迷い込んだ人間が語る不幸を蜜のようにすくいとっては味わいつつ、人に不幸を忘れてもらうことを繰り返している。そんな店にやって来たのが鎖弥(さくや)という名の少女で、学校で出会った同級生の少女と親密になり、そしてより深い関係になりたいと願いながらも言葉に出せず、態度にも示せないまま過ぎていった数年後。鎖弥の弟がその少女を見初め少女も弟に惹かれていくのを横目に、鎖弥は悶々とした毎日を繰り返す。

 そして起こった転落事故で少女はいなくなり、鎖弥は激しく嘆き悲しむ。そんな気持ちが迷い込ませた狭間に存在する幸蜜屋で、無子に語った不幸の話からいったいどれだけの蜜が生まれて甘いお菓子になったのか。それが分かるのは、事故死してしまった少女の妹であり、鎖弥の弟でありそして死んでしまった少女当人が狭間に迷い込んで幸蜜屋で語られるさまざまな不幸の物語を聞いた後。およそそうかと予想のついた事情が浮かび上がって、募る思いが行き過ぎたあげくに生まれる悲劇というか、惨劇のすさまじさに慟哭する。すべてを偽りなく吐露すれば、それらが蜜へと変わって当人はすべてを忘れられると言った無子の言葉と、それを受けて鎖弥が話した言葉との間に感じられたギャップも、しっかりと生かされ虚しさの募る描写が綴られる。

 そうした伏線の張り方がうまく、そしてしっかりとまとめあげた上にある種の諦観めいたものも示してみせるところも巧みな小説。きっと名のある書き手だろうかと調べると、どうやら普段はニコニコ動画の歌姫であり、本職としても活動している歌手の人らしい。それでこれだけのものが書けてしまうから人の才能は恐ろしい。芥川龍之介の「藪の中」は、ひとつの事象について語られるそれぞれの立場の違いが主観によって刻まれる現実の曖昧が示されている。この物語はひとりの少女に向けられる、立場によって異なる想いが交錯した果てに、そうだろうと思われた真相が浮かび上がってくる感じ。そして見えてくるのは愛という感情のすさまじくも複雑な様。読んでいったい自分は誰の立場に身を置いて愛を向け、あるいは受け止めることになるんだろうか。そう想像してみたくなる。不幸のカタマリだけれどどこかハッピーなエンディングも感じさせるところが読んでいて気持ち良い。イラストも可愛く売れてほしい1冊だけれど、売っていないんだよなあ、たいていの本屋さんには。どうしたものか。

 かわいらしさでいうなら「艦隊これくしょん」よりは「蒼き鋼のアルペジオ」の方だよなあと「伊400」について思ったりしながら見たNHKスペシャルの「歴史秘話ヒストリア」の伊400探索話。存在そのもはずっと知っていたけど詳しく調べる気もなかったんだんで終戦まで無事に生き残ってはハワイへと持って行かれて沈められたってことは思い出したかようやく知った。つまりは中で死んだ人のいない船。でもって誰かを死なせたこともない船。それは幸せかどうかは兵器として考えるなら違うのかもしれないけれど、今という時代からみればそういう船ばかりであって欲しいという気持ちも強い。ただ誰もが安全に、そして平穏に海を行き来できる時代が続いて欲しいけど、そういう風にならなさそうな雰囲気があるのがどうも苦い。

 その意味で、伊400が特攻めいたことを命じられながらも最後の最後で終戦となって命令を実行せずにすんだあと、残った士官たちが情動に動かされて戦争を続けようとしたところを、艦長が預かった皆を帰すことが大事といって引き留め、そして日本へと帰っていった話を紹介し、さらに生き残った人たちが今、何をしているかを見せることによって「特攻ヒャッハー!」な感情をあおらず、戦争なんかで死ぬな生きろ生き残って帰りたい生きて帰ったからこそ成し遂げられたことがあるサンフレッチェ広島のパンツにスポンサーが入る等々の可能性を描いて見せたところに、NHKの制作陣の矜持を見た想い。いや別にサンフレッチェは別に言ってなかったけど。

 というかサンフレッチェのパンツのスポンサーをやっているイズミってスーパーの会長さんが、伊400の機関兵だったのには驚いた。調べたら年商で5000億円はある西日本のスーパーの雄であのイオンなんかともためを張る。そんな会社を闇市の中から立ち上げ今へと至らせた原点に、伊400の中で食べさせてもらった干し柿があったというエピソードを紹介することで、刹那的になって死に急いでそれを美徳とするような空気を否定し、生きて生きて生き抜くことが何より大切だっていう気持ちを盛り上げた。そんな番組内容だっただけに、夜中に官邸からもみもみ会長ん家に電話が入って「まずいよあれあの番組特攻否定でしょ戦争で国のために死ぬなんて阿呆らしいって言ってるようなものでしょそれは非国民だよ反日だよ国会喚問だよどうにかしなさいよ」って抗議されていないかなあ、なんて心配も浮かんだけれど果たして。ちょっと観察していきたい。

 「これは一体どこの国の教科書なのか」って書いていた新聞系のニュースサイトがあったけれど、日本のだろ? って言うしかない。「やはり問題なのは、修正前の慰安婦の記述でもみられたように、戦時下の日本軍の加害行為について、関連資料を用いて手厚く記述している点だ」って、それの何が問題なのか。存在した過去を教えることが問題なのか。必要性を言うなら不必要という意見もあるかもしれない。課外なり上の学年で教えた方が良いかもしれない。でもそれが自分たちの尊厳を損なうだろう事柄だからといって“なかったこと”にして良いはずがない。

 ようは教え方の問題に過ぎない話なのに、教えることが問題かのようにあげつらう。そしてこれだ。「日中戦争時に旧日本軍の南京占領下で起きたとされながら、存否でも議論がある南京事件については、本文で『「国際法に反して大量の捕虜を殺害し、老人・女性・子どもをふくむ多数の市民を暴行・殺害しましたと記述」って、もはや南京事件はその人数以前に「存否でも議論が」あるものとしてここの会社では認識しているということか。そうだろうなあ。最近の一連の企画がそういうスタンスをモロ出して、かつての兵隊さんたちのごくごく一部が見ていなかったことを根拠にして、何もなかったなんて書いては左右関係なしに良識ある人たちから非難を浴びていたりするから。

 「自由社が『中国共産党によるプロパガンダで事件自体が存在しないため』として、南京事件を平成以降の中学歴史教科書で初めて記述しなかった」なんて状況も起こっていたりして薄気味悪さが募るけど、教えるべきだと規定されていないことを書かない自由はある。だから仕方がない。あとは使うかどうかの判断にかかってくる。でもそれに荷担して、新聞までもが「存否」のレベルへと意見を後退させてなかったことにしようとしている状況はやはりとっても気持ち悪い。いったい何がそこまでさせるのか。旗振ってる奴らの頭を開いて見てみたい気もするけれど、ニャントロ星人とかが出てきたら嫌だしなあ。 やれやれだ。あと自分の会社と関係がある版元の教科書を褒め称え、ライバル会社の教科書をこき下ろす態度は報道機関としていかがなものか。そんな矜持すら壊れているんだろうなあ。もうひとつ、やれやれだ。


【5月6日】 加速装置を積んでいればまるで止まって見える相手を、こちらの意識では存分な時間をかけて攻撃し、そして相手の意識では瞬時に攻撃されて殲滅させられるような戦いも可能になるみたい。瀬尾順さんによる「一ナノ秒のリリス」(講談社ラノベ文庫)ってのがまさにそんな話で、何か先天的に時間の中を加速できる能力を持った少女がいて、悲惨な家庭環境の中でその力が発動しては軍隊にとられ世界平和のためと称して戦わされていたけれど、嫌気がさしたか逃げ出した日本でコンビニまで逃げて追っ手を殲滅したところに、少年が現れ現場をみられそのまま2人で逃げるものの少女は捕まり連れ戻され、少年には他言無用の中で日常が戻ってきたはずだった。けど。

 学校にそのリリスって少女が転校してきて、そして少年はやっぱり少女が何か戦いの渦中にあることを知る。それをとがめられて少年に対して下る抹殺指令。受け入れられないリリスは同じ力を持った少女と戦いことになるけれど、そこにただの傍観者に見えた少年の力が発動する、って感じでどこかプロローグめいたところもあったストーリー。この先にきっとリリスが本当に存在する過酷な世界に少年も足を踏み入れながら、世界の敵なり誰かの政敵なりを倒す任務の中で人間性ってものを探し求めていくことになるのかな。学園生活こそ浮ついて見えるけれど何が正義で何が悪なのかという問いがあり、そして過酷な環境で生きている人間たちの存在も指摘されてと結構シリアス。こういう作品が書かれるようになったのに、キャラノベの台頭もあるとしたら読み手として幅が広がってうれしいけれど、単なる変わり種の1冊でこれで終わりだとしたらそれはちょっと寂しいかも。どうなるか。

 コミティアでの長編アニメーション映画「この世界の片隅に」に関する原図展示で目についたのが、広島にある百貨店とかその周囲の建物なんかを何度か描き直していたレイアウト。それについて片渕須直監督によるトークで語られていて、実に緻密でそして熱心な考証によって現実に近いものが描かれている、あるいは描こうとしているってことが分かった。というか、こうの史代さんによる原作の漫画「この世界の片隅に」が、そうした考証の苦労をほとんど表には見せず、けれどもしっかりと行って描いてあるみたい。シリーズの冒頭、すずさんが登場する道なんかも実際にある広島の海沿いの道路をちゃんと取り上げ描いてあるらしい。

 ただし、漫画では正方形に近い場面を長方形で横に広いアニメーションにする場合、カットされた左右を付け足さなくてはいけない。片渕さんはそこに描かれた松を頼りに現場を割り出し、資料を集め写真もあつめ現地にも行って、そこが海沿いの道路であることを突き止め左右を補って描こうとしているらしい。実はその松は最近切られてしまったようで、もしもこれから動いたら分からなかったかもしれない現場を早いうちから準備して、ロケハンをしていったことが現実を取り入れる作業に大きく貢献している。それは記憶を持った人間についても言えることで、すずさんが佇む広島の路地を描こうとした時、そこに今も建物が残っている百貨店はともかく、手前にあった商店をどう描くかって時に資料が角度のないところから撮られた写真しかなかったという。

 じゃあどうするか、ってところでまずは描いてみせたのを、その店の隣で商売していた人とか、その店の娘さんと同級生でよく通っていた人とかを探して聞いたりして、どういう店構えだったのかを探り作っていったらしい。それが原図での変遷に現れている。重要なのはそれらが70年も前にちゃんと生きていて、それも伝聞ではなく実際に目で見て記憶していた人たちから聞いたってことで、歳を数えるなら80歳は過ぎていそうな人たち、それも原子爆弾という惨禍をくぐり抜けて存命の人たちを探して聞いているところに探究心のすさまじさを感じる。でも今はまだ存命でも、その年齢から明日は、来月は、来年は分からないという人たちだけに片渕さん、冒頭の広島が登場するシーンだけでも作ってそういう人たちに、観てもらいたいって話してた。実現するかなあ。

 ほかにも戦艦大和が呉港に入ってくるシーンで、いったいそれは何年何月なのかを調べてちゃんと実際にあったことだと導きだし、広島を走る市電に給電するパンタグラフが2つついている時代があったことも調べて割り出した。っていうかそれらは全部漫画に描かれていることで、つまりはこうの史代さんも相当に調べて漫画にしていったってことになる。どうしてそこで手を抜いて、それらしい絵にしなかったのか、ってこうのさんに聞いてみた訳じゃないから分からないけれど、トークイベントで片渕さんが、絵になりちょっぴりの映像になった映画の場面を観た広島や呉の人たちが、そこにすずさんという女性が存在していたのかもしれないと、思うようになったことを話してて、つまりは架空の人物であってもそのすずさんが感じて経た記憶や経験を、リアルなものとして読む人に感じてほしい、感じさせたいといった思いが作り手にあったってことになるのかもしれない。

 大変な時代、そしてとてつもなく大変なことが起こる場所に生まれ育ち、生きたひとりの女性であり人間の姿を、誰もが自分のこととして感じ取り、その経験や記憶を想像のポケットに封じ込めないで、厳しい時代でも生きていた人がいたということへの想像力、厳しい時代をそれでも生きる意味があったのだということへの理解力を醸成させたい。それがリアルさの追求にあったのかもしれない。もうひとつ、あの惨禍へともう絶対に至らせない戒めとしたいという思いも。それを言葉にせず演出にも含めないで画面で見せ、物語から感じさせるために片渕さんたちも、徹底したリアルさの追求にいそしんでいるんだろう。広島駅に戦争末期、付け足されたという木造の駅舎がどんな形だったか、明らかになったらさらにリアルさも増すんだけれど。どこかにないかなあ、そんな映像なり画像は。

 パイロットとはいえ少しずつできあがってきている映像からは、背景のリアルさだけでなく人物のリアルさも伝わってきそうな感じがあって、完成後への期待が高まる。食卓を囲んで4人が「楠公飯」と呼ばれる、水を吸わせた玄米を炊いて量を大きく見せる節米食を食べているシーンは、箸を取る手をただ上からつかませるだけにせず、つかんだものを持ち替えるようにしてそれらしさを出している。なおかつ食べた後の何ともいえない表情、かしげる首のいとおしさ。リアルさの上に重ねられる演技があの時代の雰囲気を今に蘇らせて感じさせる。空襲を迎撃するシーンの、彼方に開く黒い雲を土手の上で観る主人公たちの後ろをモンシロチョウが横切っていくシーンの、平穏と喧噪が同居したシーン。戦争は日常と地続きでそして自然は社会にかかわらず過ぎていったんだなあと思わせる。

 ほんの短いシーンでそれだから、長くなったらいったいどれかけの“情報量”がそこに盛り込まれてそして、観る人たちをあの時代へと引きずり込んでいくのか。期待するより他にないけれど、観られるのはまだまだ先のことになるんだろうなあ。それでは足りないという人は、青木俊直さんのキャラクターデザインで片渕須直さんが監督したミュージックビデオの「これから先、何度あなたと。」を観ると良いかも。冒頭に描かれる人間が画面を横切って歩いて行くシーンとか、ライアン・ラーキンの「Walking」っぽいところもあったけど、基本は2人の女性のコミュニケーション。スマホから列車を経て海岸へ。その広がっていく感じが心地よかった。早く存分に観たいけど、CDにDVDとかで付いたりするのかな。情報を待とう。

 「2人の春奈るな」がいるなあ、なんて思ったメルパルクホールでの春奈るなLIVE2015”Candy Lips”は前半、スポーティな雰囲気で登場して明るくてキュートでポップな歌を連続して歌って開場を楽しく賑やかにしてみせて、そして衣装を替えて登場した後半はゴスロリ系のデビュー当時から感じとして知る春奈るなの雰囲気で激しくてシックで浪々とした歌を歌ってみせて、その違いに驚きつつ幅の広がりに感心しつつ、どちらかに絞るのかどちらでも行くのかなんてこれからの活動への想像が浮かんでしまった。

 たぶんどちらも春奈るなであって読者モデルというプロフィルを背負ってANIMAXの全日本アニソングランプリの決勝に勝ち残ってデビューした直後は、ファッショナブルでゴシックな雰囲気をこそ生かして明るく元気なアニソン歌手の中にあって異色さを見せていこうなんて考えもあったのかもしれないし、それがまた当人の持つ声質や雰囲気や容姿にマッチしていた。立派に春奈るなとして屹立していた。けれどでも、アニメ好きでアニソン好きでコミケにも行きグッズも買うというオタクな気質も以てなおかつ可愛いものが好きそうで、明るくリズミカルな歌も歌って歌える資質を生かさない手はないとポップでスポーティな歌も歌わせ踊らせてみたらこれがなかなかぴったりはまる。

 確かにこれも春奈るな。そんな2つの側面をどうやて見せつつどちらも楽しんでもらおうかって考えた結果が前半の歌謡ショーに似た明るく楽しいステージとなり、そして間にあのラッキィ池田さん振り付けできっと作詞もそうだろうギャグ的要素満載な「春奈るな体操」を挟んで、ゴスロリ系な衣装によるダークにゴージャスでムーディなステージとなった、って考えるのが良いのかな。1つのライブで2つの顔。もしかしたらもっと多彩な側面もあってそれらがのぞいていたかもしれないライブをこれからどう構成していけば、春奈るなの魅力がもっともっと伝わって広がり知られることになるだろう。それがこれからの目標かなあなんて思ったのだった。

 歌はしかし相変わらずにうまくって、すんで転がる声が出て伸びて広がっていく。踊りもこなして司会もちゃんとこなしてみせるステージアクト。決してゴージャスとはいえないセットの前でほとんどピンで立っただけで多くを引きつけるだけのオーラを持ったこのアーティストを、ビッグなステージで派手な演出をバックに歌わせたくもあり、ライブハウスのような場所でその歌声にその表情にぐっと迫ってみたくもあり。そういう意味でもいくつかの顔を以てそれのどれも出していけるアーティストって言えそう。つまりはまだまだ原石で、磨けば磨くほど光るしカットすればカットするほど輝くだろう。どう生かす? なにをさせる? どこに向かわせる? どこにたどり着く? まだまだ楽しませてくれそうだ。


【5月5日】 子供の日。とはいえ周囲に子供がいないし、自分がだいたいまだ子供なんで自分の日だということにして浮かれ騒いで1日を過ごす。とりあえず東京ビッグサイトで開かれているコミティアにでも行こうと家を出て、途中の駅構内にあるそば屋に入ったらエビかき揚げの乗ったそばが480円になっていた。なんという。牛丼の方が立ち食いそばより安い時代になっていた。じわじわと物価は上がり消費税もこんな感じでそりゃあ貧乏感も募るわけだけれど、不満が爆発して暴動が起こる気配がないのはもうみんな、諦めてしまっているからなのかなあ。給料が上がる気配もなく、ただ物価が上がり続ける状況をとりあえず景気の上向き感が支えているけどこれが崩れたら、一気に奈落の底へと落ちていきそう。その時は本当に終わりの始まりだろうなあ、この国の。

 到着した東京ビッグサイトの前で何かうどんのイベントをやっていたけど、そばを食べたばかりなので帰りに寄れたら寄ろうと思ったのは後になって大行列が出来ていたんで失敗だったけど仕方がない。開場まで時間があったのでしばらくアトリウムで過ごしていたら横にあったファミリーマートが店を閉めていた。なんてこった。東館(ひがし・やかた)のコンビニは開いていたから全店撤退って訳じゃないんだろうけどそれにしても、休憩できる場所に近いコンビニに重宝していただけにちょっと痛い。壁際に出店ができていたのはそういう人が多くいて、利用もあったからなんだろう。ってことはすぐに代わりが入って当然なんだけど、工事している気配もなかったからなあ。どうするんだろう。表のファミリーマートはどうなっていただろう。

 15分くらい経って行列も途切れただろうと思い会場へ。向かいの「刀剣乱舞」に関するだろうイベントも行列は途切れていたけれど、中をのぞくとぎっしりの人で人気のほどがうかがえた。コミティアも通路を歩こうとすると歩きづらいくらいには人いきれ。その合間を縫って「いないときに来る列車」を出したばかりの粟岳高弘さんのブースに行って新しいのを購入し、それから沼田友さんのブースに行って近況などをうかがい「アニメ部」のチラシをもらって同人アニメーション界隈にどんな人たちがいるのかを確認する。おお今回は「女生徒」の弥栄堂さんも出ているんだ。秋のデザインフェスタにも出ていてそこでも「女生徒」のDVDは買ったから今回はパスしたけれど、青森静岡島根と展覧会も終わって堂々、独立して売り出せる形になったのかな。店頭とかで見かける機会も増えればもっと、広まってほしい作品。本当に良い作品なんだ、遊佐未森さんのナレーションも含めて。

 そんなコミティアでは片渕須直監督が準備を進めている長編アニメーション映画「この世界の片隅に」というアニメーション映画に関する原図展が開かれていて、これまでに描かれた広島とか呉の街の様子がアニメーションの背景となってくっきりと出現していた。ちょうど来場していて大きな航空写真の横にいた片渕監督によれば、その図自体も現在があって昭和の10年代があってと様々だけれど、それでも1枚の航空写真にして張り出して街の感じをつかむようにしているみたい。というかアニメジャパンのブースにも出張していてそして、昨日に徳島の「マチ☆アソビ」でもトークイベントを開いたばかりで連日の登壇は大変そう。でも厭わず現れしゃべるのは、それだけ長編アニメーション映画「この世界の片隅に」を世の中に認知させ、映画として成功させたい、それ以前にちゃんと作り上げたいっていう意欲を持って臨んでいるからなんだろう。

 それは映画としては前作の「マイマイ新子と千年の魔法」が、上映後すぐにロードショーが縮小されて2週間でほとんど終わってしまって観たい人が観られず、観てほしい人に観てもらえなかったことから来ているもので、幸いというか「マイマイ新子と千年の魔法」では是非に観てもらうべきだという人たちが大勢いて、ラピュタ阿佐ヶ谷でのロングランとなり全国にも広がり、文化庁メディア芸術祭での優秀賞という日本でその年の5指に入る作品にまでなったけど、そんな活動の中で宣伝まかせにしないで地道にスタッフが出張って話して作品への“共感”を得て“関心”を高める必要性ってものに痛感したんだろう。

 口コミであってもこのネット時代、小さな1滴が大きく広がり波となっていきやすい。その最初の1滴をあちらこちらで落とすため、忙しい最中に全国を飛び回って作品に見所を伝えている。そんな場所のひとつがコミティアであり、その成果が大きくはないとはいえそれなりに人数も入る場所が満員になったトークイベント。開場した頃はまだ明いていた席がだんだんと埋まって、終わる頃には立ち見の人まで出ていた。この人気があればあるいは……って思いたいけどでも、コミティアという漫画好きの人が集まる、ある意味で同好の士ばかりの開場がいくら満員になっても、世間での関心はおそらくまだまだゼロに近い。この状況で公開されてもアニメーションであり、漫画やテレビで人気の作品の劇場版ではなく、そして戦争を扱った内容という意味で注目を集めないままスルーされてしまうだろう。子供向けという体裁を持っていた「マイマイ新子と千年の魔法」より厳しい状況になってしまうかもしれない。

 というか、もはや子供に人気のアニメーション映画ですら大変な時代。出せば100億円を超えていたスタジオジブリの新作が、100億円いかず最新作の「思い出のマーニー」なんて40億円にすら届かなかった状況で、何をどう宣伝すれば長編アニメーション映画に観客が来てくれるのか、考えてもなかなかアイデアが思いつかない。細田守監督のように「時をかける少女」で次第に名を高め、そして「サマーウォーズ」で認知度をアップさせ、「おおかみこどもの雨と雪」で半ば“国民的”なアニメーション監督になっても興行収入は40億円をちょっと超えたくらい。それでも十分にすごいけれど、宮崎駿監督が「魔女の宅急便」から「紅の豚」あたりでそのあたりをコンスタントに稼ぐようになり、そして「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」で100億円200億円と大爆発すたような胎動が細田監督の作品に感じられるかというと、ちょっと分水嶺に来ている気がする。

 上に行くか下に触れるか。その意味で今度の「バケモノの子」はひとつの試金石になりそう。一方で原恵一監督も同じだけのポテンシャルを秘めながらも、やっぱり宣伝が行き届かないのか認知度が高まっておらず、今週末に公開になるにも関わらず「百日紅 〜Miss HOKUSAI」のことをどれだけの人が知ってくれているのかがまるで見えない。ネット系ではすでにいくつも記事は出ていて周知な感じだけれど、それだけではやっぱり“国民的”にはならなんだよなあ。同じ意味でコミティアでトークイベントが満席になっても、そしてクラウドファンディングで予想を超える応援があってもその人数はある意味で好事家たちのそれも上澄みで、国民の誰もが知るだけのアニメーション監督であり、そして誰もが存在を知っている映画になっている訳ではない。

 かといって宣伝をいたずらに打っても、それが効果を上げるとは限らない状況で、どうすれば知られなおかつ来てもらえる映画になるのか。それがこれからの課題であり、そして絶対に乗り越えさせたい壁になる。僕がどうにかできるものではないけれど、僕たちが大勢集まれば少しは届く壁。だからこうして書き記し、超えていくための一助にしてもらえればと思ったりする次第。それが「マイマイ新子と千年の魔法」を素晴らしいからとでっかく取り上げ、それ以前に「アリーテ姫」のレビューも今はもう名前が変わってしまった工業新聞に書いた人間としての努めだから。どんな映画になるかなあ。きっと素晴らしい映画になるだろうなあ。楽しみだ。本当に楽しみだ。

 なんだこの駄文は。地方紙には「反日」が多いんだぜ、ってことをとあるライティーな評論というか感想文を集めたサイトの編集長さんがそのサイトに書いているんだけれど、「反日」の具体的な内容、というかそもそも「反日」と言ったときの「日」とは何かを示さないまま相手に「反日」とレッテルを貼り、そのタームだけで議論をすっとばして非難し否定しているだけで中身がまるでない。それがジャーナリズムなのか。あるいは批評なのか。呆れて果ててため息が出る。

 というか、この人たちが言う「反日」がすべての日本人にとっての「反日」ではないし、この人たちが示す「日」がすべての日本人にとっての「日」ではない。そんな想像力もなく、ただ自分たちの気分にそぐわない存在に「反日」のレッテルを貼り非難して怒号の中に消そうとする態度は絶対に阻止されるべきだろう。でないと「親日」だというレッテルを貼って気に入らない敵を消そうとしていると非難している隣国の、きっとこれも一部なんだろう人たちと同類になってしまう。どの口がそれを言うになってしまうんだけれど彼らは彼らで自分たちは自分たちと、棚上げするのも得意だからなあ。やれやれだ。


【5月4日】 いやでもだって、アリス・ネバーヘイワーズ獄長との対決がなければ、ブロディ&ハマーがとてつもない厳重な監獄に拘禁されていることが分からないし、そしてどうしてブロディ&ハマーが拘禁されなくちゃいけないかも分からない訳で、それがあっさりと外に出されて、おまけにライブラのメンバーと仲むつまじげに偏執王アリギュラを相手に戦っているなら、どうして日頃からブロディ&ハマーがライブラのメンバーと一緒に行動していないかが分からなくなる。つまりは削りすぎ。だったら別に整えなくちゃいけない設定を、漫画版そのままに使っているから訳が分からなくなってくる。

 これが例えば間に挟まるエピソードがあって、それが放送期間の関係で作られてはいながらも放送されていないだけだったら分かる。「カウボーイビバップ」的に。でもそうでもなさそう。前週のギリカ&トーニオのコンビニついても説明不足のまま、とてつもなく強いはずの血の眷属がクラウスによってあっさり倒されてしまったりしたのも、後から2人のなれそめなんかを添えつつ、血の眷属の気まぐれぶりが描かれれば話だってつながるだろうけど、きっとそういう風には行かないんだろう。だからといってホワイトとレオの関係を前後に入れつつ、喧噪のヘルサレムズロッドを描いていく手法事態は悪くない。間引くなら間引く。そのために整える。その潔さが足りてないのがやっぱり気になって仕方がない。

 そこはだから漫画版を読んで補えっていうならそれもあり。そして偏執王アリギュラは漫画版にも増して奔放さが出ていてそれでいて老獪さもありそうで良い感じ。こおろぎさとみさんが声を当てているのもそんな感じを出したかったのかな、くぎみゅーではまだ若い、と。けどでも13王たちがあんなに仲良くしているってのはちょっとなあ、それぞれが独自のスタンスでもって動き暴れ回るからこその王なのに。一緒にご飯食べたり融通し合ったりっていうのはできればなしにしてほしかった。それもアニメオリジナルのキャラを入れた結果なんだろう。だとしたらそういうものだと思って観るのが良いのかも。BDはエンディングのために買う。それは決まり。それだけは決まり。

 何が何だか分からない「ど根性ガエル」の漫画から15年後を描くドラマ版の登場。それも舞台は2015年だってんだから元の時代は2000年くらいで、そんな時代にバンカラなゴリライモみたいな番長が存在し、長屋に暮らして母ちゃんは割烹着を着て繕い物をしていたりするなんて、あり得ないって思うとやっぱりどこかに無茶が感じられて仕方がない。何か「ドラえもん」ののび太たちが大人になった世界を描いたテレビCMみたいで、ノスタルジーを喚起しつつ前とは違った方向性で目新しさも出そうとして、結果的に懐古趣味的になり過ぎて薄ら寒さが募るような感じになりかねない心配が浮かぶ。

 そうした懸念はそれとして、物語として現実に縛られてしまった元暴れん坊の少年や元お転婆だった少女が、過去から表れた「ぴょん吉」に刺激されてアグレッシブさを取り戻すような話にして感動を誘うのかもしれないし、それならそれはそれで元気をもらえるかもしれない。気になるのは「ぴょん吉」の声を誰が演じるかだなあ、千々松幸子さん以外に考えられないものなあ。この流れで1970年代の少年漫画誌の連載作品が実写化されると楽しいなあ。「アストロ球団」とか(もうやってる)。「ドーベルマン刑事」とか(とっくにやられてる)。ようしそれなら「男組」の15年後を描くんだって、記憶をたどったら最後に至るまでに主要キャラクターが全員いなくなって、そして最終回で影の総理だけが生き残っていたようだった。ってことは15年後は影の総理に支配された平穏で堅苦しい社会が延々描かれるだけ? それもそれで…良くないなあ、やっぱり。

 そうかチェルシーが優勝したかプレミアリーグ。アーセナルが残り5試合で勝ち点15を積み足しても、チェルシーがこれまでに獲得した83点は超えられないんで仕方がない。あとはアーセナルは残る試合を落とさずプレミアの2位かせめて3位までを確保して、チャンピオンズリーグへの出場をプレーオフからじゃないところに確定しつつ、FAカップでの優勝を目指すのが大きな目標になりそう。プレミアは制しなくてもFAカップならファンも納得するだろうし、リーグ戦もそれで2位なら成績的には万々歳な訳だから。マンチェスター・ユナイテッドも何だかんだ言われながらも4位くらいにぶら下がっているから確かなもの。ファン・ハール監督の指導が行き届いてくればさらに上も狙えるか。やっぱり強豪はしっかりと強いプレミアリーグ。その安定感が日本のリーグにもほしいなあ。

 皆勤賞かあるいは行き逃しても1回か2回くらいの文学フリマが20回目だそうで、大塚英志さんが仕掛けたプレ的なものも含めて両手両足の指を使ってやっとくらいの回数となる一般参加のためにはるばる羽田空港へと向かう途中の流通センターへとかけつけ、行列に並んで待つこと30分くらいで開幕した文学フリマの中に入って、講談社Box Airで活躍している作家さんたちが出したブースで作った同人誌「mint」の00号を購入する。井上竜さん岩城裕明さん城島大さんササクラさん百壁ネロさんに円山まどかさんと皆さんプロなのにちゃんと出しているところがすごいというか。でも昔ならそういうプロの同人に行列ができていたものが今はそうでもないというか。それをプロとアマの壁が薄れた今の時代の象徴と観るか、プロへの関心が薄れてしまった現れとみるか。考えはいろいろあるけどでも、面白そうな内容なんでこれからじっくりと読もう。

 大橋崇行さんのブースで挨拶をしたりSFマガジンのカバーアートが載っちゃっているのを買ったり「はるこん」の本を買ったりしつつ場内をあれこれ。見本誌が全部並んでいるコーナーがあって、そこで見かけた宇奈月けやきさんという人の「OZ meets OZ!」という本がノベルズサイズなんだけれど500円という値段で、そしてイラストもいっぱいある上に内容も面白そうだったんで1冊買わせていただく。普段はどういう活動としている人かは分からないけれど、今時ネットでアップして人気を競い合えてそこからプロにもなれる状況であるにも関わらず、本としての形を整えこうやって世に出してくるところが何か良い。信念みたいなものも感じられるので応援したいところ。面白そうなんでおいおい読もう。

 ネイティブアドに「広告」って入れずに記事だと思わせ客を集める一方で、広告料をしっかりとガメるネット媒体への熱い視線が送られ始めていたりするけれどでも、新聞とかのオールドメディアに記事として独立していて商品紹介っぽい内容のものが掲載されていて、そして別にその会社の広告も出ていたりする状況は、ネイティブアドである以上に信頼を担保にした金稼ぎであって、より問題は根深いんだけれどそれを切り分け取り上げて、ネイティブアドだステマだって糾弾するのって不可能に近いんだよなあ、内部でそれがどう紐付けされているかなんて分からない。あうんの呼吸て行われているだろうし。提灯記事を書く専属の部隊を立ち上げ、分社化までしてそこに記者を配置して、営業とか広告とかから回ってくる依頼書に従って記者を出し、記事として書かせたあとで営業とか広告とかがお金をもらって、それを分けたりするような間抜けなことをやればバレバレだけれど、そんなことをするマスコミはさすがに存在しないだろうし。しないだろうし。大事なことなので2度言いました。


【5月3日】 たしかお正月に放送されて、ついつい見入ってしまったNHKのEテレの番組「建築は知っている ランドマークから見た戦後70年」が再放送されたんでせっかくだからと録画して、朝方にちゃんと録画されているかを確認しようと見始めたら、これが面白くってついつい第1章の終わりまで見てしまった。復興の中で建てられていく建築があって、それは戦前に学びながらも発揮されることのなかったモダニズム建築で、神奈川県立近代美術館の鎌倉館として建てられ今も現存していて、ル・コルビジュが好んだピロティ様式を取り入れながらもそこから1階部分から見える風景を、鶴岡八幡宮の横にある池にすることで、どこか平安貴族の寝殿造りの釣殿みたいな雰囲気をそこに醸し出していたりする。美しいなあ。

 まさに和洋折衷だけれど、ただごちゃまぜにするだけでなく、それぞれの良いところを抜き出し空間にマッチさせた傑作中の傑作が、ちょっと前に取り壊されるかもしれないって話になっていたところにこの国の建築物、とりわけ昭和の建築物に対する意識の低さなんかが表れている感じ。なるほどホテルオークラの本館が取り壊されて平気な訳だけれど、ああいった商業施設は回転させなければ収益も上げられないから改築に踏み切られるのもまだ分かる。あれで戦国時代から残るお城を使っていたっていうなら保存もすべきなんだろうけれど、西欧のそうした古城をホテルにしたものと違ってたかだか昭和の後半に建てられた現代の建物。雰囲気だけを残しておけば十分って意見も一方には通るだろう。

 でも、神奈川県立近代美術館の鎌倉館はそうした商業とは違ったひとつのランドマークであり、それも戦後の復興のさなかに建てられたモダニズム建築という意味で、建築の歴史に残る逸品であって、残す以外のほかにどんな選択肢があるんだって誰だって思いそうなんだけれど、あの界隈の人たちはそうは思わないってところに、やっぱり世知辛い何かを感じてしまう。紙と木の建築を代替わりさせて使ってきた日本の風土なのかもしれないけれど、それにしてもやっぱり悲しいその心性。でもまあとりあえず耐震補強の上で存続も決まったみたいだし、しばらくは現役として過ごしてもらっていずれ建てられるだろう昭和村に移築して余命を長らえるってのも良いかも。その昭和村に移築される建物が他にどれだけあるか、だけれど。中銀タワーくらいかなあ。番組の半ばで紹介された。

 あと思ったのは、第1章で登場しては広島平和記念公園を設計した丹下健三さんが、1969年だかのテレビに出ていて戦後まもなくに設計して残した原爆の記憶を、そこにとどめて永遠に語り継ごうとしたはずのモニュメントが、そうした意識を薄れさせてただの空間になってしまっているといったニュアンスで話していたこと。まだ戦後から四半世紀という時期ですらそうなんだから、70年も経って記憶なんて残らず悲惨さを肌身に感じて繰り返さないと誓う意識も雲散霧消し、ただ負けて悔しかった、そして加害者でなんてあり得なかったという自尊ばかりが肥大化して、悪いことをしてしまったちという自省を押しつぶし、次は勝つぞ、それどころかはじめから負けてなんかいないぞといった勇ましい声を上げたがる人が増えるのもよく分かる。

 丹下健三さんはだから、モダンな建築に追悼の意識を込めるだけでなく、そこに悲惨さを永遠に固着させる何かを残すべきだったのかもしれない。原爆ドームを残したのは実に大きな英断だけれど、それすらもただのモニュメントと化している感じがあるものなあ。資料館から悲惨な状況を示す展示が消されてしまっているというし。記憶をこれ以上薄れさせないために、そして永遠に語り継いでいってもらえるようにするために今一度、何かをそこに残すような行動が必要なのかもしれない。そしてそれは福島第一原子力発電所にも言えること。いずれ数十年が経ってきれいさっぱり片付いた後に記憶は残るか、語り継がれるか。そうさせないための試み、東浩紀さんらが提案したそうしたモニュメントを検討する時期に来ているのかもしれないなあ。

 「非公認魔法少女戦隊」だなんて現代性と思想性をぐっちゃんこにして、とてつもない世界を描いて見せた奇水さんが、メディアワークス文庫に寄せてきたのは猫と人間の交流めいたものを描いた「猫とわたしと三丁目の怪屋敷」ってほのぼのっぽいファンタジー。家で飼っている猫の姿が見えないと、女子中学生の娘が外に探しに行ったら迷ってしまってそこにいたのが猫たちで、おまけにしゃべってそして少女に鏡を取ってくるよう言いつける。それを成功させつつちょっと問題も起こったけど、どうにか解決してそのあげく、少女は猫に手を借りられる存在となって猫が絡んだ想像に他の猫の手と呼ばれる人たちとかり出されることになる。猫の手も借りたいっていうのはそうか猫の手じゃなく猫が借りたい人の手のことだったのか。いや違うけど。ここではそうだけど。

 20年も生きれば猫は人間の言葉もしゃべるようになっておまけに変身もしたりするのは、何か猫という生き物を見ているとありそうな気もするけど、我が家で飼われていた猫でそんなに長生きしたのっていないから、しらずしっぽが割れて人に化け、しゃべっていたりするようになったか分からない。それとも消えただけでどこかでしゃべっていたりするのかな。話は猫そのものよりも人が残した記憶めいたものを鏡によって探り出し、そのもつれをほどいていくといった展開。あとはどこか投げやりになっている気持ちを抑え前向きにさせるために必要なことを問うといったところかな。続きがあればもっといろいろ猫たちの、不思議な日常って奴を見せてくれそうなんで関心を向けていこう。それにしても老猫でも変身すると美女や美少女になるんだなあ。猫だって綺麗が好きなのかな。

 当日券も出たみたいなのでチームしゃちほこを観るにはあるいは最適だったかもしれない日比谷野外大音楽堂での「ミューコミ+春の学園祭」。こっちはもちろん「カラスは真っ白」目当てだったけれどそういう人は1割もおらず1分すらいたかどうか。9割6分はおそらくチームしゃちほこ目当てでそしてあとは竹達彩奈さんを見に来た人でほかにボカロ系ってことでCHiCO with Honyey Worksを見に来ていた人で9割9分くらい占められたような気もしないでもないけどそんな観客にノーマークからぶっちぎりのアクトでもって強烈に存在を印象づけた「カラスは真っ白」。

 その前振りみたくコントのコーナーでベースのオチ・ザ・ファンクにドラムのタイヘイ、そしてギターのシミズコウヘイが登場して学園祭の屋台の担当を演じてみせつつシミズコウヘイがタマネギでジャグリングまで披露してなんだ色物かってな印象を与えつつ、その前にボーカルのヤギヌマカナさんも登場してアニメ好きを公言してみせてやっぱり色物バンドかもしれないと思わせながらも登場したステージでは、いつもながらのシミズコウヘイのMCによって観客を乗せつつヤギヌマカナのウィスパーなボーカルでもって聞かせつつ、その背後で奏でられるタイヘイさんのリズミカルなドラミングと、そして新加入したベースのオチ・ザ・ファンクによる迫力のベース演奏でもって観客の目を、というより9割6分のしゃちオタの関心をぐいっと引きつけていった。

 もちろん彼らの目当てはチームちゃちほこなんで心をそれで「カラスは真っ白」に向け変えるってことはないけれど、でもその気のないバンドではなく埒外のグループでもなくそしてDD(誰でも大好き)な義理として応援するバンドでなくってその演奏に感心し感嘆し、そして楽曲の完成度に心を向けるにふさわしいバンドになっていたんじゃなかろうか。最初っから「カラスは真っ白」が目当てでありながらも周囲をしゃちオタに取り囲まれていったいどうしようひとりで「革命前夜」のあのダンスを踊る羽目になったら困ったなあと思っていたけど、ちゃんとしゃちオタ、オチ・ザ・ファンクの指導を受けて気恥ずかしさも浮かぶ踊りを踊ってくれた.あるいは踊るにふさわしいバンドを認めてくれたのかも。それも含めてありがとう。

 そしてこれも個人的には観たかったというか、名古屋なんで応援せざるを得ないチームしゃちほこはひとり、骨折か何かでずっと車いすに乗っていたんだけれどそれを周囲が動かしつつ当人も移動しながらちゃんとフォーメーションをとって踊り歌っていろいろと聞かせてくれる。名古屋ネタとか盛り込まれた歌詞とか楽しそうだし、何より見に来ている人たちが本当に楽しそうにフリをまねしていっしょに盛り上げている。ももいろクローバーZとちょと雰囲気が似ているところもあるけれど(妹分だし)、それでも個性はあって歌も楽しく踊りも言い。ファンもモノノフとは別にちゃんと鯱は鯱として支え応援していくという感じ。その一体感を味わわせてもらった。ライブは結構行くのが大変なくらいの人気になって来ているみたいだけれど、その勢いで紅白を狙い武道館を狙い横浜アリーナを越えてスタジアムへと進んでいってほしいなあ。もちろん千秋楽は名古屋の愛知県体育館で。あるいは名古屋ドームかな。だがや。


【5月2日】 やはりあれだ、日本動画協会も日本相撲協会にならってアニメーションスタジオを相撲部屋に見立て、それぞれのスタジオが採用した新弟子ならぬ新人を6ヶ月間、日本動画研修所にて指導し、それなりのレベルへと到達させたあとで採用したスタジオに振り分けつつ、タイムシートも書ける原画マンとして独り立ちできるようになるまでは、原画養成員として月々いくらかを育成資金として日本動画協会がスタジオに支給しつつ、それぞれの原画養成員が稼ぐお金に足してもらって生活を維持させそして、日本動画協会主催による原画場所を年に何回か開いてそこで勝ち越した者が原画として昇進して、その人数に応じてスタジオにも報奨金が支払われるとかしたらううん、どこかで資金がショートしそうだし、システムの穴を潜って報奨金目当てで見てくれの良い絵を描くアニメーターが促成栽培されては、スタジオがガメるとかってことになるんだろうなあ。いろいろと難しい。

 ヘスティアさまが小説を読んでいた時に比べて2倍増しくらいに大きくなっているなあと思っていたら、リリルカ・アーデは3倍増しになっているように感じたアニメーション版「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」。って何が2倍で3倍かは見れば分かるし見なくたって胸のことだと想像が付くけれど、それにしてもヘスティアがデメテルから大きいと言われるくらいに立派な物をもっていたとは、アニメ版になるまで気づかなかった。それとも画面映えなり気にしてサイズを変更させたとか。おかげて正面から深い谷間は拝めるは、走れば揺れるそれをたっぷり堪能できるはと言うことなし。デメテルもそれに負けじと大きくなっててベルくんを引き寄せ窒息死させようとしている。素晴らしいなあ。でもベルくんばっかり良い思い。悔しいなあ。

 良い思いといえばダンジョンでいい気になってライトニングボルトを出しすぎてはぶっ倒れていたところを、憧れのアイズ・ヴァレンシュタインに発見されたベルくんに対して感謝をしたいアイズが連れにそそのかされてやったのも鵜やらましいというか。いやもちろん膝枕だって十分に羨ましいんだけれど、それ以上に目覚めて見上げたそこにそびえるオーバーハング、すなわちアイズの下乳のそれもバトルで服が破れてのぞいた生下乳を拝めたんだからもう死んだっていんじゃないの、ベル・クラネル。あるいはほかのロキファミリアの連中に殺されたって文句は言えないその幸運を、味わわずに逃げてしまうんだからそりゃあアイズだって泣けるだろう。そこまでしたのに。

 まあでも小説だとだんたんと近づいていくからそれはそれで。可哀想なのはヘスティアさまだけど、今はラブラブな関係だからそれを存分に堪能しておくこと。あるいは小説版と違ってベルくんにヘスティアさまとアイズたんの両方を両天秤に載せさせるかな。もっと人数増えて行きそうだけれど。グリモアをこっそり与えてベルくんに魔法の力を与えたっぽいフレイヤさんに、気になって見に行って気に入って胸押しつけたデメテルさん、そして豊穣の女神亭のシルさんも。ちょっとシルさん、ドジっ子だけじゃない何かを持っていそうだもの。財布を忘れたといってベルくんを危険な場所におびき寄せ、誰かの忘れ物だといってグリモアをベルくんに読ませたり。まるでフレイヤさんの先兵みたい。そうなのかな。いずれ明らかになるだろうからそれもそれで楽しんでいこう。

 ゲーム世界のキャラクターたちが現実世界に登場する、って話は結構あるから読んで楽しめるしそうしてやって来た人たちにとって、この現実世界がとても居心地の良い、もう戦わなくてもいい安全な“楽園”だっていう設定は新味があって面白い。そうやてやって来たゲーム世界のキャラクターたちが誰も美少女たちでそんなキャラクターたちを描くsaladaさんの絵がまたよくって、色こそ塗られていないものの肌色成分がたっぷり見えて目にも素晴らしいんだけれど高崎とおるさんの「排出率五厘の支配者」(角川スニーカー文庫)、そうやってやって来たキャラのうちの新入り2人がどうして現世でのアパートの管理人を知っていたのか、ってあたりの説明がまだなくちょっとプロローグ的。まずは顔見せといった感じでこれだけ読んでもちょっと足りない気分が残る。

 過去に何か因縁があったとかいう話があっても良かったし、逆に今は平和な世界を謳歌しながらもちょっぴりドタバタを演じるという、「女騎士さん、ジャスコ行こうよ」みたいな展開があっても面白かったかもしれない。そういうエピソードがないまま新入りさんやら前からいる美少女やらとの交流を深める展開がもっぱらで、物語世界を体感するといったところまで来ていないのがもどかしい。それとも肌色成分とのふれあいをメインにラブコメだけと展開していく物語なんだろうか。そのあたり、次の巻が出てからちょっと考えよう。いずれにしてもsaladaさん描く美少女たちはとっても可愛いのでそれを眺めるだけでも価値ありの1冊。そう言おう。うん。

 前半は香坂アヤノの乳が踊り、後半はランスロットがバトルで踊っていたという「コードギアス 亡国のアキト 第3章 輝くもの天より堕つ」はそんなアヤノの乳をたっぷりと見せた関係で、第4章までだったシリーズが第5章へと伸びた模様。もしかしたら第2章からの第3章の公開が1年半も間が開いてしまったのはそんなアヤノの胸が揺れる様を物理計算してスーパーコンピュータにかけて精査しこれがベストといえるまで描き直していたからなのかもしれないけれど、そうでないかもしれない。ともあれ良いものを見せてもらったという感想だけは言っておこう。レイラの方もまあ、見えたことは見えたけれどもそれほどでもなかったかなあ、むしろ成瀬ユキヤの男の娘姿の方が目にも麗しく。しゃべらなければもうそのものだししゃべったってそれはそれで。佐山リョウの尻も立派で婆さんたちには受けていた。あれもあれで。

>  そして誰がどう見たってルルーシュ・ランペルージであるところのキングスレイ卿は苦悩の果てにシン・ヒュウガ・シャイング卿と対峙してギアス合戦とかやってたみたいだで、おかげでせっかくスザクのランスロットが乱舞しジャン・ロウを追い詰めても逆転されたみたいでシンはユーロブリタニアをほとんど手中に収めて西に東に大攻勢を仕掛ける模様。その前段にキングスレイ卿が繰り出していたブラフをどうやって収めるなり、引き継ぐかってのが続く第4章「憎しみの記憶から」のメインストーリーになるんだろう。それにしてもレイラ・マルカルが前にC.C.に何か仕掛けられていたとは。いったいどんなギアスが発動するんだろう。料理がうまくなるギアスだろうかそれとも。あとゴドフロア・ド・ヴィヨンのところに現れた魔女。その目的は。いろいろ楽しみだなあ、7月4日と素早い公開の次章が。

 とりあえずX201のメモリの2枚ある1GBのうちの1枚を2GBに交換し合わせて3GBまで持って行って32bitOSのこれが限界まで増やして動きや良くなったようなそうでもないような。起動からしばらく動かない傾向があるけれど、エンジンがかかればちゃんと動くからきっと暖まるまで時間がかかるんだろう。なんだしょら。ftpクライアントの不具合を調整しようとしたけどあんまりうまくないんでそっちは元のままにして、htmlファイルの参照はローカルからでなくいったんアップしてからブラウザで開いて見ることにする。まあそんなに頻繁にhtmlファイルなんて作らないからこれで良いのだ。あとは更新ファイルのインストールにやたらと時間がかかるのを何とかするのが目下の課題か。1番放っておけば良いのかな。万全を期すらめにもう1台くらいX201を買っておくかなあ。


【5月1日】 火浦功さんは最初の「機動警察パトレイバー」の企画初期に関わっていたかどうかという話についてそうじゃない、パトレイバーの企画は企画としてあってそれともう1本、「未来放浪ガルディーン」みたいな企画もあってそれを火浦さんも含めてやっていて、平行して入り交じりながら進んでいたのがあれはあれで、これはこれとなったんだ説なんてものまってはっきりしたことは火浦功さんに聞いてみたいと分からないのだけど、火浦功さんって都市伝説みたいなものだからその存在すらも判然とせず、なのでやっぱりすべてに火浦功さんが関わっているのだ精神的にと考えながらゆうきまさみさんの「機動警察パトレイバー」の新しいコンビニ本に収録されたインタビューを読んで思った、薫風吹く5月1日、映画の安い日。

 各地にあるのに使ってもらえないドルビーアトモスが可愛そうというか、逆を言うならドルビーアトモスを使って上映してもそれだけのお客さんが来るか見えないっていうか。そんな感じで見渡してもどこでもドルビーアトモスの上映が聞こえてこない劇場版「THE NEXT GENERATIONパトレイバー 首都決戦」をそれでも豊洲あたりで見て思ったこと。つまり特車二課の遺産を紹介した映画で遺産とはつまり平穏の中に楽観主義が漂い特車二課の存続が危うくなった時に発動するものなんだなあ、ってこと。

 そして、特車二課の存在をカウンターとして必要とする憂国の自衛官たちを動かし、出世争いにばかりかまけて安穏としている警視庁警備部の鬱陶しいお偉いさんたちをまとめて銃弾によって葬り去り、醜聞によって引退へと追い込んでは特車二課に活躍の花道を与えてその必要性を満天下に示しつつ、一時の緊張状態を日本に作り出して平和だけれどそれにあぐらをかいて弛んでしまった空気を引き締める、そんな社会的な装置のようなものが実は特車二課の遺産って訳。

 そんな仕掛けを練り上げ後ろで繰り出しているのは、誰あろう前の隊長の後藤さんで、そして協力者となりアジテーターとなって実行部隊を指揮している黒幕が南雲しのぶさん。2人が組んでそして反目しているようで実は相通じるとこのあった柘植行人の号令も受けて動いた元自衛官の面々の間で、ステルス攻撃ヘリを操縦しているのが柘植学校時代にできてしまった南雲さんと柘植の娘だっていう、そんな妄想が浮かんだけれど真相はいかに。もちろん今回の事件後、遺産を引継ぎ後藤田さんは闇に潜り、高島礼子演じる公安の女刑事も公然の立場から特車二課を支えると。

 もちろんこれは冗談だけれど一方で、ちょっとした反乱を起こした奴らの動機が特車二課を引っ張り出して前面に立たせ、活躍させること以外に見えないってのもまた事実で、柘植はずっと刑務所に入って今をただ見続けているだけで、ヘッドとして何かをしている訳ではないし、シンパの自衛官たちもこのタイミングで何かをしなくちゃいけないという必然がほかにない。政治が悪い社会が悪いといった声もあらず、どこか漫然と過ごしている日常に何かくさびを打ち込んだところで、それが支持される世の中でもないし。その意味で「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」に比べて芯が欠けてただアクションと反乱と対決だけが見えてしまう。中身がない。

 となると、やっぱり目的は特車二課の存続以外にはありえずそのために決起してみせただけに過ぎず、そこへと至る過程での数々のテロなり謀略もすべてが特車二課存続のために仕掛けられたもの。そして最後の決起に見えるただのテロでひとつの決着がついて見事、特車二課はヒーローとなって存続が決まりました、って感じだろうか。そういう意図があるにろないにしろ、ロボットたちの活躍は楽しくカーシャの戦いぶりはかっこうよくって、そして泉野明ちゃんのラストシーンは潔くって勇敢。すでに新潟からの帰りでひとり、逃げずに多脚戦車に立ち向かった姿を見ればこういう姿も予想できたかな。ともあれいろいろ考えさせられる映画。ドルビーアトモスで見るとカーシャの息づかいとか聞こえて…来ませんが。

 ネットは便利で前は雑誌にも載らない話が聞けるとあちらこちらのイベントに出没しては、対談とかトークとか聞いていたけど今は誰かが行って何かを書くからそれを読めばって感じでどうにも足腰が弱ってしまった。それでも行ける範囲でのぞいてはいるけど前なら、日記にエッセンスでも書いて残して記録にするかと思えたのが、今はどこかに誰かが書いたのがあるから検索すれば出てくると思うとそれも萎える。いや自分の言葉もそこに乗れば広がりも生まれるはずなんだけれど、時に全文アップとかってのがあるともうそれだけで良いじゃんという気にもなる。受け手としての意識として。

 ただ本業としても情報の媒介をやっている人間として、全文全量をそのまま流してそこに”魂”は入るのかといった思いもある。誰かが何かをしてそれを伝えるにあたって言葉のすべて、行為の全部をただ紹介するだけで”魂”に近づけるのかといった迷いがある。つかめる人は自分で選んで探して見つけて何かをつかめるかもしれない。でもそういう人ばかりでもない。あるいは言葉だけただ眺めてもそこに話し合う人たちの雰囲気なり口調なり場の空気なりも絡めて考えないとつかめない意図もある。冗談なのか本気なのか合いの手なのか受け流しなのか。

 そういうニュアンスも含めて感じとりなおかつ言葉も選んで伝えられたらと思いながら四半世紀、やってきたけど今もあまりうまくできない。本当にそれが言いたかったことなのか。こちらがそう思ったことに無理矢理言葉を選んで引っぱっていないか。後者についてはウエブの一方の傾向となって扇情に走る言葉ばかりが選ばれ抜かれて並べられ、それでアクセスを稼ぐ人たちもいたりする。全文掲載との対極としてこれもいろいろと面倒な問題になっている。

 もしその両極が世の中に受け入れられ人気となり、大量のアクセスも稼いでビジネスになってしまって、それに追随して速報か扇状か全文アップといった、間に編集といった行為が介在しないでダイレクトに、あるいはセンセーショナルに受け手に訴えるものばかりがあふれてしまう状況の中で、言葉たちに込められた、あるいは行為などに秘められた”魂”を探して磨き広める行為に意味があるのかどうかを考えつつ、それでもやっぱり端的に、そして丁寧に、なおかつ的確な言葉を選び”魂”を探していくことをやっていきたいと思うのだった。そういう仕事あんまりやってないけれど。

 なんちゅうか本中華。ドローンが問題となっている一方で、その有効性なんかも語られていたりする昨今の時流に飛びついて、俺ちょっとかっこいいこと言ってみせたって感じなんだろ古館伊知郎さんによるネパールの被災地にドローンで荷物を運べば良いんじゃないか発言。でもねえ、1.5リットルのペットボトルすら運べない、そして15キロメートルしか飛ばないおもちゃみたいなドローンをいくら大量に揃えたって何の役にも立たないし、かといってアフガニスタンあたりでぎゅんぎゅん飛んでるペイロードの大きな攻撃用の無人機を転用して飛ばす訳にもいかない。そんなものが来られた日にゃあ恐怖ですくむ。軍事機密なんで使えない。でも扇情的な言葉が一瞬の受けをとって世間に認知される。阿呆が増える。妙な世界。

 じゃあ新聞あたりがしゃきっとすれば良いんだけれど、その新聞も扇状に走ってろくでもない、角度をつけた記事しか出てこない。それじゃなきゃ載らずだから書かれないという事情もあるんだろうけれど、いくらドローンに中国製が多いからって、それで制空権を確保されるんだなてことはありえない。だいたいがドローンなんて遠からず、というよりすでにコモディティ化していて、ハードウエアとしての開発競争に参加しても実入りは少ない。

 ならば部品の高性能化、小型化でもって実権を握れるようにするなり制御ソフトの分野でリードするなりドローンを使ったサービス体系を確立するなりドローンが運用できる都市システムを構想してそれで稼ぐ方が有意義な気もするんだけれど、はやりのドローンについて書け、でもって中国ネタを絡めろとなったらこういうあんまり意味のない、未来もうかがえない記事になってしまうのだったという。そんな感じ? それなりに情報通信に詳しい人でも上がそう書けといわれ、そうでなければ仕事にならないと言われればそういう記事を書いてしまうか書かされてしまう。読み手はそんな記事の角度っぷりに笑ってそっとページを閉じる。果てに来るのは? やれやれだ。


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