縮刷版20145年4月下旬号


【4月30日】 録画していた「攻殻機動隊STAND ALONE CONPLEX」を見ていたら草薙素子が軍服姿でスカートをはいて立っていた。いつもだいたいハイレグな格好で高いところからダイブしているからそういう格好はもうしないものかと思ったけれど、オフィシャルな場に出かけるときはちゃんとフォーマルな軍服も着るんだなあ。って公安9課って軍隊じゃないじゃん警察じゃん、ってことはあれは軍服じゃなく制服か。でも少佐って軍の階級で呼ばれているからなあ。謎めく存在。

 そんな「攻殻機動隊S.A.C」はいよいよ笑い男が登場しているみたいだけれど、ここからどういう展開をしていくのか、総集編めいたものが入ったボックスを見ていた割にはあんまり思い出せないのは、そんなに熱心に見ていたなかったからでその意味で、これから見ていく楽しみはありそう。後にとっても政治的にコミットしていくアニメだけれどこのころはまだ、牧歌的な中にネットの発達がもたらす虚実入り交じった世界ってやつを描いていたんだなあと改めて。声についてはトグサが自信満々なところが「攻殻機動隊ARISE」とはちょっと違うかなあ。そっちではまだ手探りで公安とのつきあいなんかを考えている感じだったし。

 千葉テレビで再放送中の「ちはやふる2」は今週に高校選手権の団体戦が放送されてて瑞沢が明石女子にまず勝って、そしていよいよ藤崎に挑むってところになっている。改めてみてやっぱり明石女史の逢坂恵は下半身がぽってりしていて可愛いのと、クイーンは脱いでも下がスノウ丸のキャミソールであんまり可愛くないのとが分かって気持ちは恵たんへと傾いたけれど、でもこの年のクイーン戦には恵たんは出られず元のクイーンの猪熊遙さんが出場することが決まっているんだよなあ。来年は、っていうか今連載中の漫画で高校選手権のあと、3年生の千早とそれから猪熊さんとか恵たんとか、やっぱり対決するのかなあ。でも漫画的にはやっぱり高校生の千早がクイーン戦に出るってのが常道なんだよなあ。さても興味津々と。

 うん、第3部は何かありそうで期待が膨らむけれどもその前に、「レイセン」のその後も描くみたいで完結までにはまだずいぶんと時間がかかりそう。それでもこの世界をひとつのサーガとして描き続けていこうとしている林トモアキさんの意思は存分にうかがえるので長くかかっても待ち続けよう。そんな「ミスマルカ興国物語12」(角川スニーカー文庫)はキラ・アービンスとそしてエーデルワイスによってミスマルカへと戻されたマヒロがいよいよ聖魔杯の復活に臨まされそうになるところを、かけつけたパリエルやらルナスやらによって阻止されるのかそれともキラたちの野望がかなって世界は滅びるのか。それは読んでのお楽しみだけれど最後の最後でひとつの決断をしたエーデルワイスが、どうして先にマヒロに相談しないでキラに与したのか、ってあたりはやっぱり謎だなあ。

 あとは円卓の面々がどうしてこんなにも大勢が北の魔王によって追い詰められるまで放っておいたのかも。それに至る警告はしたって言うけどでも、平和をのぞみ誰も死なせないと頑張った川村ヒデオの思い、そして名護屋川鈴蘭の思いからちょっと外れているような気もしないでもない。そいういう人間の縋る思いを気にもとめないで、大局的に動くのがあるいはアウターと呼ばれる円卓の者たちの態度なのかも。そこにいる面々でまっとうそうなのってウィル子くらいだもなあ、あとは金属バットな姉に隻眼の女剣士に狐に鬼蜘蛛に他いろいろ。みーこは残っていたっけか。イワン・トビノフスキーはいたような。ほむら鬼とかどうなったんだろう。そんな彼らの今後も含めて書かれるだろう「レイセン」の次に期待。

 今日も今日とて中古で買ったX201の環境設定とそれから今まで使っていたX61からX201へのデータ移行を粛々と。ftpクライアントにデータを落とすのにとてつもなく時間がかかったり、そうやって落としたファイルがノートパッドで参照できなかったりと大変だったけれどもどうにかそれらはこなしたものの、htmlのファイルをブラウザで参照できない問題は解決していない。まあそれってレイアウトを確かめるとか、色の具合を見るくらいしか使わない機能なんでたいした意味はないんだけれど、でも時々昔のファイルから該当箇所を探したりするんでローカルでhtmlとして開かないのはちょっとつらいかも。おっつけ原因を究明していこう。

 難題だったメールの移行は真夜中近くまでかかってどうにかこうにか成功。ベッキーちゃんのアイコンが出ず起動できない問題はプログラムファイルから直接プログラムを叩いて成功し、データの移行でこれはベッキーのファイルじゃないよんと警告が出た問題も、Inboxの方を参照フォルダにしたことで解決。ネットであれこれ検索しても答えが出てこなかっただけに、試行錯誤の大変さって奴を改めて感じ入る。でも次に移行する時にはすっかり忘れていそう。ウィンドウズ8とかってどういう仕組みになっているんだろう? 使いたくないんでしばらくはX201を乗り換えていく算段をつけよう。そのためにあと何台か中古を勝っておくか。X61もそろえておきたかったけど結局、市場から消えてしまったものなあ。古いパソコンってどこに行くんだろう? 地の果てに墓場でもあるんだろうか?

 もっと分からないのがパソコンソフトの行方。いよいよもって一太郎10が使えなくなって来たんでどうにかしなくちゃとパソコンソフトの中古とか、探してみたけど秋葉原では売ってない。やっぱりライセンス制度になってて中古に出しづらい状況があるのかもしれないけれど、一方でそうした中古のパッケージソフトを使ったり売ったりする人たちがいなくなっているのかも。だいたいは備え付けのエディターとかでやれるし、オフィスとかでも最初からついていたりするし。とはいえやっぱりワードは書きづらい見づらいってのがあって、慣れ親しんだ一太郎を使いたいと探して奮発して勝ったよ「一太郎2015」。前からいったい何年経っているんだろう? 見てくれもずいぶんと変わったけどでも、叩いていたらどうにか慣れたしデータの移行もうまくいった。しばらくはこれで走ろう。

 フジテレビの深夜に放送されているアニメーションのシリーズ「ノイタミナ」の主題歌なんかを集めたCD「ノイタミナファンベスト」を聞きながらやぱり僕の「ノイタミナ」は「ハチミツとクローバー」で、OPのYUKIで演出が野田凪でエンディングがスネオヘアーという、ちょっぴりのお洒落感とサブカル感と、それでいて毎回見て楽しいストーリーとしっかりした絵を持ったアニメーションを届けてくれる枠だったんだなあと思った。時々”先祖帰り”しるつイマドキの萌え化もしつつ「PYSECO−PASS」みたいなクール&スタイリッシュな感じも出しつつ枠として固まった「ノイタミナ」。もうちょっとフジテレビが推せば良いのに奴らが推すのってドラゴンボールとかだもんなあ。本気なのかビデオ屋任せなのか。やっぱり分からない「ノイタミナ」。今夜の「パンチライン」はどれだけパンチラが拝めることやら。

 また莫迦が出た。「先日、ある中国の劇映画を見た。南京大虐殺を扱った2009年製作の大作『南京! 南京!』(陸川監督)だ。題材がデリケートな問題を扱っているので、これまで有志による特別上映会を除いて日本国内では未公開だった本作だが、実に簡単な方法で鑑賞することができた。動画投稿サイト『You Tube』に全編ノーカット、高画質の日本語字幕付きでアップされているからだ」っておいおい、仮にも公器を公言する新聞の名を冠したニュースサイトで、可能性としての違法アップロード、そしてファンサブかもしれないけれども勝手翻訳といったいくつものアングラをくぐりぬけた映画を、満天下に向かって堂々と見たと言い、なおかつこうすれば見られると喧伝してそして内容を非難するのはどうなんだ。泥棒が部屋の戸締まりについて語るよりひどくないか。

 ちゃんとデスクの目が通り校閲の赤鉛筆が入っていればそのあたり、著作権法違反に抵触していそうなこういう書き方には注意が入ってぼかすなり逃げるなりする言い回しになるんだろうけれど、ネットだと出せば載る感じが強くそして反中嫌韓話は無条件で歓迎される傾向に加えて校閲も入らないという状況。ならば書き手がモラルに細心の注意を払うべきなんだけれどそういう気が回せるならばあれこれ問題は起こさない、と。もうひとつ、コラムには「リヤカーを押す男たちの背中にはナチス・ドイツのハーケンクロイツ(かぎ十字)が書かれている。これはラーベがナチス南京支部の副支部長だったからだが、まるでユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)を想起させるこれみよがしの演出には、旧日本軍とナチスを同一視させようという魂胆が見え隠れする。中国が安倍晋三首相をヒトラーに例えたり、南京事件をホロコーストと同一視させる宣伝工作と全く一緒だ」ってある。

 でもこれ、どうやら紅卍字会って慈善団体による埋葬活動らしいんだよ。史実にもちゃんと残っている話なのに、それを勝手な解釈でハーケンクロイツになぞらえて、映画を非難しまくっている訳で、これはさすがに監督たち作り手にとっても迷惑な話だろう。あるいは名誉毀損に匹敵することかもしれない。そうでなくてもジャーナリズムを名乗る立場の人間が、事実でないことを土台にして何かを書き、あまつさそれをもとに誹謗中傷してはやっぱり拙い。ってそういう話が出まくっているにもかかわらず、直す気配が見えないのがやっぱり問題だろうなあ。気づいてないのか真実だと信じ込んでいるのか。どっちにしたって迷惑な話。外にも内にも。やれやれだ。


【4月29日】 パソコンのX61が調子が悪いので、秋葉原へと出向いてソフマップで中古のX201を買ったらこれも調子が悪くて、妙なアラートが出まくるんでリカバリーしたりしてすぐに使えそうもないので、しばらくは調子の悪いX61を騙し騙し使いながらX201の調子を整えていくことにする。大丈夫だろうか。そして秋葉原ではUDXで始まった「絵師100人展05」を見物。仕事でもないんで日替わりのチケットを買い、中に入ってまずは物販に並んで図録を購入、これで01からコンプリートだ。ほかにもトレーディングカードとかタペストリーとかうまい棒とか、興味のあるグッズもあたけれど買っても置く場所がないのでトレカだけにしてあとは見送る。みんな買ってあげてちょうだいな。

 誰が誰って感じでは見なかったけれども、やっぱり毎回常連のKEIさんとかジャパネスクな雰囲気の絵柄で引きつけられるし、岡崎武志さっは最初の頃の幽霊絵からは変わっていても和のテイストがあってこれもぐっとくる。あとはうたたねひろゆきさんか。余白をおおきくとった紙にたぶん漫画家の女性が机に向かって描き考え休んでいるような絵を提供。「絵師の世界」というテーマを受けて自分が絵師であるという位置づけから絵師の絵を描いたけれどそれは絵の中にあるということを余白で表現したような、そんな感じでさすがはベテランと関心。あと広江礼威さんはシスターめいた人が弾丸と宝石を両手に持っていたのが印象的。人間の善悪かそれとも世界の裏表か。

 1番好きだったのは司淳さんの「CANNAL2」って絵で図書室めいたところのすみにレトロフューチャーな体にぴたっとした衣装をまとった眼鏡の少女がうつむき加減に座っている、という横長の絵でキャラだけでなく背景をも見せ世界観を感じさせてくれたけど、やっぱり何より眼鏡の委員長っぽい女性が好きなのだった。そういうことだ。CHOCOさんはボディコンにパワードアイテムをつけた少女っていうお得意の形。それが水中に浮かんでいるのがちょっと目新しかった。OKamaさんは宇宙をバックに花をまといぬいぐるみを飾った少女が深淵に立つといった感じで格好いい。タイトルも「世界生命のドレス」。そのまま作品になりそうな。バーニア600さんもいたり蒼樹うめさんもいたりと名を聞く人から知らないけれど絵は凄い人まで、千差万別にして豪華絢爛の絵師の世界をさあみなさんもお楽しみあれ。

 第1回の受賞作となった日向まさみちさんの「本格推理委員会」はまがうことなくライトノベルであって、2004年という時点にあって学園ミステリ的なものをちゃんと描いていたところに先進性もあったんだけれど、その後に作品が途絶えて復活もしつつ今はちょっと活動が見えたり見えなかったりするのが、ちょっと惑うところ。そして「鴨川ホルモー」で受賞しデビューした万城目学さんは、その後に直木賞に5度もノミネートされる超売れっ子となって、次こそは直木賞だぜレースでトップを競ってる。競って嬉しいレースなのかはちょっと悩ましいけれど。

 そのボイルドエッグズ新人賞、今はちょっとシステムが変わって、主宰の村上達朗さんがひとりで読んで決める上に、合格すればその作品は出版社が参加する入札にかけられ、応札があれば出版されることになっている。合格しても応札がなければ刊行されないところは何かシビアで、最終選考に残らなくても、編集者が面白いと思えば応募作品を手直しして刊行させることもある、最近のライトノベルの新人賞と比べると、応募作はたとえ少なかったとしても、デビューまでのハードルはむしろ高いかもしれない。

 そんなシステムをクリアして、第16回ボイルドエッグズ新人賞を「気障でけっこうですが」で受賞しデビューしたのが、現役信州大学生の小嶋陽太郎さんだった。女子高生が公園で見かけた、地中に埋まって首だけ出していた男が、死んでしまったのか幽霊となって現れ、女子高生につきまとうようになるという奇妙な設定の話で、そんな幽霊との交流を通して、女子高生は自分の日常とは違った厳しい世界があることを知り、懸命に生きている人たちがいることを知って、成長していくというストーリーは、働いている大人だけでなく、ライトノベルを読むティーンにも、ヒロインが同世代ってことでいろいろと感じるところの多い内容になっていた。

 ライトノベル世代が背伸びして読む作家の登場か、なんて思ったらその小嶋さんによる第2作「火星の話」は、もっとライトノベル寄りというか、異世界から来たお姫さまを助けて活躍する少年という、いかにもライトノベルといった設定だったから驚いた。ヒロインとして登場する佐伯さんという少女は、子供のころから自分は火星から来たと言い、18歳に火星に帰ると言ってクラスメートたちか浮いた存在になっている。いじめられないのは周囲が賢かったからなのか、それをするにはあまりにも可哀想なところが見えたからなのか。いずれにしても敬遠される存在になっていた佐伯さんと、中学時代に続いて高校でも同窓になったのが国吉くん。別に頭が悪いわけではないのにどうにもやる気が出ないようで、数学の試験で0点をとってしまい、インド人がゼロを発見したことを凄いとかどうとか考えるきっかけを得つつ、それで単位はもらえるはずもなく、補習のために夏休みの学校に通うよう羽目になる。

 そこには同じように数学が苦手な佐伯さんもいて、いっしょに先生の授業を聞いてた最中、ふっと意識が遠のいた国吉くんは、なぜか火星に飛んでいて、そこで佐伯さんにそっくりのお姫さまやお付きの老人と出会う。それからというもの、数学の補習で先生が発する「サインコサインタンジェント」という言葉を聞くたびに、ぎゅるぎゅるぎゅると遠のいた意識がなぜか火星の王宮に飛ぶようになった国吉くんは、そこで陸上競技に参加することになるものの、だんだんと火星に波乱が迫っていることを知っていく。

 その一方で、現実の世界でも国吉くんは佐伯さんと言葉を交わすようになり、いっしょに火星をながめ、ゲームセンターに行きショッピングセンターを歩き回るようになる。そして自分の見た夢が、佐伯さんが語る過去にシンクロしていて、そしてやあがて来る未来を想像させるものだと知る。異なる世界からやって来た少女の本当の姿を知り、埋もれていた才能を発揮して少女を助けるナイトとなって大活躍する少年の冒険ストーリー。そんな、ライトノベルでもある種の定番となっている設定が浮かんで来る。

 本当に佐伯さんが語るのが「火星の話」なのかどうかは読んでみたら分かるとして、ここでひとつ言えるのは、この物語は現在に不満を抱え、将来に不安を抱いているティーンに共通の悩みをしっかりとすくい上げ、進むべき道を示してくれるということ。水野という国吉の友人は、急に学問に目覚めて医者になろうとしてしゃにむに勉強を始める。学校でも評判の美少女でありながら、高見さんはなぜか国吉に関心を向け、苦手だからと走ってる逃げる国吉くんを裸足で追いかけます。ちょっと羨ましいけどちょっと怖い。

 水野も高見さんもそれぞれに事情は違っているけれど、今という現実に不満を覚え、自分い不甲斐なさを感じ、未来に不安を抱えながらもどうしようもない状況に戸惑っている。そんな気持ちを、どうにかしたいとあがいてみせる感情と持っている。火星が本当の居場所だと言い続けている佐伯さんにも、そんな彼女の世界に夢の中で入りこみ、どんどんと関心を強めていく国吉くんにも、そんな不安や不満があるのかもしれない。ってことはつまり火星は誰かの妄想? それにしてはリアルでシンクロしすぎている佐伯さんの話と国吉くんの夢。その秘密は……。

 って明確ながある訳ではないけれど、示唆はあってそれは前に見た吉浦康裕さんの短編アニメーション「アルモニ」なんかもちょっと思い起こさせる。ささいな言葉、その交流が呼ぶ記憶の共有とそしてシンクロ。あるいはそういう関係が佐伯さんと国吉くんの間にもあったのかもしれない。それがどうかも読んでのお楽しみということで、ファンタジーであってもなくても、ライトノベル世代なら読めばきっとモヤモヤとした現在を見つめ直すきっかけを得られる物語。それは確実。だから読もう「火星の話」を。キンドル版も出ているよ。

 ううん。TBSの前ワシントン支局長の処分については、副業に関する民間企業の就業規則に関するやりとりであるし、その身分でもって知ったことを所属するところの許可なく外に出すのはやっぱり問題だし、そして雑誌やネットが報じるところの「山口氏は、韓国に加害者の側面があることが分かれば、慰安婦問題の突破口になるはずだとの考えに共感し、この年9月から公文書を探す取材が始まった」がもしそうだとするならば、「お前らだってやってたんだろ?」って言いたいがための材料集めであって、どこかに純粋さとは違った動機が漂って迷う。

 いくらその国が別にいろいろやっていたからといって、その国対してしたことが何か晴れるわけでもなければ、減免される訳でもない。そしてそうされたことにたいして異論を唱えて良いのは、された側のベトナムの人たちであって、そこに成り代わって日本人が何かを言うのはやっぱり僭越な気がしないでもない。つまるところ、出発点から動機に妙なところがあって、そして集めた情報の取扱にも悩ましいところがある、っていうのをひとつ理解した上で、自分たちで報じなかったことを、だったら余所に出すという態度を抑えるのはあっぱり、ジャーナリズムとしてみっともない、という意味でTBSはまずかったとも思うのだったん韃靼蕎麦。


【4月28日】 もしかしたらDolby ATMOSでの「THE NEXTGENERATIONパトレイバー 首都襲撃」の上映ってないんだろうかと、施設があるTOHOシネマズららぽーと船橋とかの上映スケジュールを見て首を傾げたけれど、お客がどれだけ入るか分からない作品に貴重な施設を割く訳にもいかない興行側の思惑も分からないでもないんでいつか、そういう機会があれば見に行くというかすでに1回でもTOHOシネマズ日本橋で見ていることで良しとして、5月1日の上映はどこでも良いからとりあえず見に行くことにする。新宿ピカデリーでの舞台挨拶はとれなかったけど押井さんが何を言うかはちょっと期待。あるいは不安。そこには注目しておこう。

 そういえば明け方に日本テレビでずっと劇場で公開していたシリーズを端折って放送していたけれどどういう風につまんだんだろう。ちらっとみた限りだと本編に絡みそうなテロだとかカーシャの活躍だとかいったところとあと、後藤田隊長が柘植に会いに行くところはちゃんと残してあったみたい。柘植の話がないと劇場版、まるで意味が分からなくなるものなあ。というかあそこは本編にでも繋げて上映するべきだったんじゃないかと。それと予習のために「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」を1週間でも2週間でも事前に上映すべきだったかも。見ればなるほどと納得のシーンやシチュエーションが満載だから。公開までにもう1回くらい見ておくか。

 そういえば「THE NEXT GENERATIONパトレイバー」と同じように劇場でのイベント上映とブルーレイディスクの販売を同時に行っていた「攻殻機動隊ARISE」が今、再編集されてテレビで放送されているんだけれどそのboder:1として上映された第1話が上下で放送されて、改めて見てトータルでシリーズ全体が考えられていたんだなあ、なんてことを今さらながらに気づく。ハリマダラとか武器輸出とかファイアスターターとか。後に記憶を上書きする電脳ウィルスってことで大騒動を引き起こすファイアスターターに草薙素子が感染して、そしていろいろと動かされるといった展開と、それを後ろで操っていた何者かの存在が、borde:4あたりでちゃんと1つにまとまってくる。ホヅミ大佐とかあのあたりの暗躍とか。そうやって思うと順番をいじって放送したのにも意味がありそう。

 あとは軍服であってもスカート姿の草薙素子の意外な可愛らしさを再確認できたってことも、テレビ放送の効能か。パンツ姿になると立派な足もスカートからのぞくと細くてすっきりとして見える。単に錯覚かそう描いてあるのか。スカートからのぞく足がゴリラじゃさすがに描く人もやる気をなくすものなあ。そして近づく劇場版ではスカート姿の足もパンツに包まれた足もなくなり電脳スーツに包まれた姿を拝めそう。さすがに「STAND ALONE CONPLEX」みたいにハイレグからむき身の足がのぞくってことにはならなさそうだけれど、それでもやっぱりエロくなければ草薙素子じゃない、ってことなのかな。「ARISE」の姿はリアルとの接点て部分で意味があったんだけれど。そんなこんなでやっぱり楽しみ。公開何時だったっけ。

 過去篇も見たんだからと未来篇の「境界の彼方 I’ll Be HERE」に行ったら割と満席に近かった。過去篇を見たときにも思ったけれどもいわゆる京都アニメーション受けする男子ばかりじゃなくって女子が学生さんからちょっと上の層まで含めて来ていたりして、そんなにテレビが放送されていなかったにも関わらず、そして原作なんてまるで知られていないにも関わらずこうやって浸透していく作品があるのはちょっと意外で、どういう回路で広まっていったのかがちょっと知りたくなった。和臣人気ってことでもないものなあ、あいつは筋金入りのシスコン(妹限定)だし。でも今回は姉の泉を相手に格好いいところを見せていた。最強に近い姉なのによく戦えたものだけれど、そこは怨みや妬みや寂しさといった邪な感情に支配された姉と、妹思いという純粋な思いに貫かれた弟の違いって奴なのかもしれない。愛は勝つというか。

 全体を通じてみてもやっぱり愛が勝つ話で、さまざまな感情に苛まれ支配されて暴走していく奴らを少年の優しくて強い愛の感情が抑え引き寄せすくい上げていた。というかあれだけ強さもあり理性もありながら人間、どうして負の感情にとらわれ闇に落ちてしまうんだろうかっていう疑問も浮かんだけれど、そこがやっぱり人間に独特の振る舞いってことなんだろうなあ、などと。言って気持ちを楽にしてあげれば良いのに言わず迷わせ狙われ暴走させてしまうあたりの野暮ったさはどうにからないものかなあ、とも思ったけれど迷いがありそして理解があるからこそ深まる愛もあるんだってことで。このシリーズもとりあえず終わりで次は京都アニメーション、何を映画に持ってくるんだろう。やっぱり「甘城ブリリアントパーク」かな。「響けユーフォニアム」の方かなあ。

 朝からまたぞろアニメーション制作に従事している人たちの年収が低いって話が出ていて、ああこれはちょっと前に出た「アニメーション制作者実態調査報告書2015」を元にしているだなと引いたらなるほど、確かに職種でも最も初心者に近いところを引いて110万円ちょっとだっていう風に報じていたことが分かった。それの問題は別にあるとしても、修業時代を敢えて抜き出し大変だあって騒ぐこともちょっと難しいところ。これでもうすこし上手くなって原画になれば、1日作業時間は10・3時間で平均年収は281・7万円になるし作画監督ともなれば時間は10・8時間で393・3万円と4倍近くにまで増える。

 演出は1日平均作業時間が10・3時間で平均年収380・3万円、これが監督になると10・4時間で648・6万円とまあそこそこの額にはなるけど、これが世界に冠たる日本のアニメの作り手、って考えると低い気もするし、保険や諸経費も自腹だときつさもさらに募る。アニメーション制作者全体でも平均年収は332・8万円で民間企業全体の414万円に離されているからやっぱり大変なんだろう。ちなみに「SHIROBAKO」でおなじみのアニメーション制作進行は1日平均作業時間が12・5時間で平均年収は309・2万円と就業時間の多さで飛び抜けている。母数は148人だからこれは実態が割と濃く出てるかも。

 そんな数字からもちろん決して潤ってはいないなあ、大変だなあという印象は浮かぶし何とかしなくちゃいけないってことにもなる。ただセンセーショナルな数字だけが一人歩きすると世の関心がスポイルされてしまいかねない不安もある。それが苦い。前回調査でヤマサキオサムさんが指摘したのは「かつてアニメーターの多くは才能が無いから辞めていった。だが、現在は頭が良くて技術力のある者から業界を去っていく」ってこと。原画と付きながらも実質は動画トレスに近い第二原画を増やしつつ給料は抑え、そして作画監督の負担を増している構造からはちゃんとした原画からちゃんとした作画監督に育っていく人が生まれない。その前に誰もいなくなってしまう。そうした問題をちゃんと解決していくための提言が、今回の報道にあれば良いんだけれどただ低いことを論っているだけでは、6年前と同じことを繰り返すだけだよなあ。そんな「アニメーション制作者実態調査報告書2015」のアンケート、「今後の仕事計画」という問いで最大61・7%が挙げた答えが「働ける限り、アニメーション制作者として仕事を続けたい」。そんな夢と思いに業界がどう報いるか。それが肝心。何よりも。


【4月27日】 えっと端折ったの? それとも順番を入れ替えて後にエピソードとして挿入してあの時の奴らはそうだったって分からせる気なの? 来週の予告とか見るとどうやら思いっきり端折ってキャラクター紹介なんかもまるで行わないままトーニオとギリカの関係を、ただのバカップル的にしてクラウスの前に粉砕される存在に貶めてはそのままスルーしてしまいそう。その少し前に圧倒的な強さを誇ると喧伝していた血の眷属が、あっさりやられすぎるのも変だけれどでも、その血の眷属がどういう思考を持ちそしてどういう強さがあるのかを、見せるエピソードをまるまる省くなんてどういう了見なんだろう。シリーズ構成の見解がいつか聞きたい。聞いてどうなるものでもないけど。漫画読もうっと。

 パソコンの前に座って上から順番にチェックを入れる作業を明け方ちかくまでやりつつ、ネットで誰が当選したとかしないとかを見ていた統一地方選挙で、大学時代の1つ後輩で浪人して入ってきたから実質同年の某市議会議長が当選していたのを確認したり、会社を辞めて転身した人が市議会議員に初当選していたりして人間、どこかで踏ん切りをつけてそして後押しがあれば、市議くらいはどうにかなれるものなのかもしれないと思ったけれど、落選する人もいる訳だし市議になっても給料なんてたいしたものじゃないところも結構あって、お金だけじゃない何か意思がなければやれる仕事ではないといった思いも一方に抱く。

 地元だと、全米の人気プロレス団体WWEで「ゲイシャガール」の名前でディーバをして鈴木健想さんを支えてきた鈴木浩子さんが市議に初当選。なんでまた市議になんて声もありそうだけれど、米国で7年とか暮らしてプロレスラーであっても、福祉の場へと出向いて子供たちに夢を与える行為を日常的に行ったりして、それを社会も認めささえている構図を見つつ、一方で日本はそうした行為が認知されず、子育てが迷惑がられるという不思議極まりない風潮もあったみたい。

 それに対して何か言っていけるだろうか、って意識があって立候補したって前に新聞記事で読んでいたんで、こうして認められ当選したのはちょっと嬉しい。それにしてもプロレスラーって案外に議員に向いているのかどうなのか。アントニオ猪木さんの国会議員は別としても馳浩さんが衆議院議員として長く務めていたりするし、地方議会でもザ・グレート・サスケさんが議員になって覆面ながらも活躍していたりする。区議でも木村健悟さんがいたり西村修さんがいたり。もしかしたら今は議員になるならプロレスラーが早道って時代になっていたりするのかも。僕もなろうかなプロレスラー。無理だって。

 まあ鈴木浩子さん自身はリングに立ったことはあっても、メーンはレスラーではないから、そうした人たちとは一線を画しながらもプロレスという、どちらかといえばスポーツの枠組みから外れたアウトロー的な位置にいる人たちが、議員というパブリックな場に出て認められ、ちゃんと活躍しているこのギャップを埋めるのが何かがちょっと知りたい。プロレスは肉体のぶつかり合いではあるけれど、その間にあるギミックへの理解、展開への構想力、そして体力などがグランドビジョンを作り、実行していく議員の仕事に最適だとかどうとか。あるのかなあ。プロレスな似の解説希望。

 注目の選挙だと渋谷区長選で前の区長が成立させた同性パートナーシップ条例を後押しして来た人が当選したようで、前区長の意志はしっかりと受け継がれた感じだけれど一方で、そうした前の区長の施策に難癖を付け、1面コラムから社会面での特集記事から総動員して批判してきた某メディアとか、これからどういう風に攻撃の度合いを強めていくのかにちょっと興味。というか選挙も間近って時期に、一方にネガティブな情報を発するのってどうなんだって思わないでもないし、それで相手が勝ち抜けているからさらに恥ずかしさも膨らむ。いったい何がやりたかったんだって話になる。

 でも頭に血が上ると口をついて出てしまうんだろう、それが無理筋な言葉であっても。そして後になって批判されて取り繕う。別口でも個人ながら発した言葉を名誉毀損ととられ、民事刑事で訴えられそうな人もいる。思いはそれとして言葉にする時は気を付けないとと感じた次第。しかし同じ人間ばかりがどうしてこう何度もやり玉にあがるのか。向こう傷を問わないといったって、それで傷を受けるとわかって突っ込んでいくのもやっぱりどこかに不自然さがあるよなあ。やれやれだ。

 角度、っていう言葉が使われる。メディアが特定の意図でもって情報量を取捨選択して濃淡をつけて、その意図へと誘導していくような手法そ指して、角度をつけるっていう風に使われる。最近だと朝日新聞とかが、そういう手法をとって報道をしたってことで、非難されていたりするけど、そんな非難の急先鋒に立っているメディアでも、案外に角度が付けられた記事が散見されるっぽい。というよりむしろ、そんな角度を付けないと記事として受け取ってもらえないらしい。BR>
 とりわけウエブ向けは、大量の出稿を求められながらも一方で、何か想定している読者層があって、そうした読者層に受けてアクセスが稼げる内容があるといった思い込みによって、記事化にあたって角度をつけるように求められる、っていう噂を風の便りに耳にした。じゃあどんな角度かといえば、それはいわずとしれた嫌韓であり、反中であり、対反原発であり、親安倍でありといった具合。政治外交社会生活文化。何を書くにもそうした角度があるかどうかが問われ、角度があるようにと求められ、あるものだけが受け取られ、あるものばかりが掲載される。

 その結果があの、ネパールで何が起ころうと世界が混沌に陥ろうと、上から反韓嫌中賛安倍な記事の見出しが並ぶという、ナニガナンダカワカラナイ某新聞系のニュースサイトのトップページという訳だったりしちゃったり。たとえばある記事なんて、中国の富裕層が日本のアートを買っている、って内容のそのファクト自体に目新しさも珍しさもない。以前からアラブの石油王でも欧米の資産家でも、富裕層は日本のアートに注目して名前も知られてない人たちをいろいろと買っていたりする。けど、そうした状況、背景について触れればこの記事の角度はとれてしまう。だから昨今はやりの爆買いなんて言葉を使って、反中的な感情をくすぐって中国の人たちの傍若無人な振る舞いへの批判と嘲りめいた気持ちを惹起させようとする。

 もっとも、書き手だってそんな角度にのっかり意図に沿わない気持ち悪い記事を書きたくないだろうから、爆買いといったタームをおさえつつ、いろいろとそこに思いを込めようとしているようにも見える。見出しだけだと中国のコレクターの振るまいの異様さがちょっと浮かぶけど、読めば感じられるのは、日本の現代アート界の見る目のなさであり、先行投資的でも純粋な芸術的価値への評価でも、どちらでも海外のコレクターの方が優っているのではといった印象。実際に日本のアーティストも国内での無理解さを嘆いてアラブへ、中国へ、欧米へと目を向けそこでどこまで受け入れられるかを探ろうとしてる。村上隆さんなんてまさにそんな感じ。

 つまりは逆説的に、日本の無様さを示唆する記事でもあるだけれど、そういうことを直裁的に言えないもどかしさを、ポン酢な上がそれならアクセスが稼げると盲信して、求める角度とやらにのるフリをしてしたためた記事だってことも言いようによっては言えないこともない。その記事について、書いている側にそこまでの配慮があったかは知らない。単純に中国人が意味もなく価値の分からない日本の美術を買いあさっているぜ、ヒャッハー! と言いたかっただけかもしれないし、他のたいていの角度が付けられた記事は、いかにもそんなニュアンスに溢れている。

 何にせよ何かを語る上でおかみの検閲、空気への阿りをまず超えていかなくてはいけない息苦しい言説空間が、そのメディアの界隈には出来上がってしまっているということだけは確かっぽい。大河ドラマを書くにも朝ドラを書くにも音楽を語るいんも芸術を紹介するにも、純粋にそのコンテンツの凄さ素晴らしさを讃え状況を批判するこができない。そんな摩訶不思議な言説空間から生まれてくる、抑圧下の言葉のその真意、そして反骨があるかそれとも阿りだけの爛れた言葉かを見分け見抜いていく必要があるのではないだろうか。なんてことを考える夢を見た。やれやれだ。

 カエッテキタヨー。ってダヨーさんみたいな口調で登場したポール・マッカートニーを東京ドームの2階席バックネット裏最前列から見る。つまりは真正面。サイトの先行でS席を買ってなんでそんな席なんだって不思議に思えるくらいにステージははるか彼方だけれどでも、アリーナに降りて最後列から立ちっぱなしの人の頭越しにポールを立ったまま見続けるよりは座って眺めていられる方が実はありがたかったかもしれない。ポールの立つ位置に鉄塔が重なることもなかったし。でもって演奏したのはどうだろう、記憶にある1年半くらい前とそれほど変わってはおらず演出面も背後のモニターに出る映像、途中でのギミックもだいたい同じだった気がするけれど、曲目なんかは多少の入れ替えがあったかも。どっちにしたってポールが歌っているんだから何であっても構わないんだけれど。

 それはだいたいTHE BEATLESの有名所を中心にWINGSの曲も入れてそれから最新アルバムのNEWからの曲も入れたりしたセットリストで懐かしのビートルズファンにはもうたまらないって感じ。なおかつ元気もありあまっていたようで、最初から最後までそれこそ2時間半ちかくを立って歩いて歌って歩いてを水も飲まずに繰り返し続けてそれで声とかまるで枯れない衰えない。疲れもないのか最後までしっかりと歌いきっていた。1年前の失態をもう繰り返さないようにと万全の体調で、というかむしり上げて臨んだとしたらそれはすごいプロ根性、学ぶべきところも多そう。とにかく最高のステージ。マタイアイマショーとやっぱりダヨーあたいなことを言っていたけどリップサービスになるかそれとも本当か。今日を最後とひとつ思いつつも未来に期待しよう。


【4月26日】 本田圭佑選手も長友佑都選手も出場しなかったサッカーはセリエAのミラノ勢。とはいえインテル・ミラノは上位チームのローマに勝って元気なところを見せ、一方のACミランは下位のウディネーゼに敗れて順位を上げられないという斑模様の状況に、このオフいったい何が起こるんだろうかといった興味がまずは先に浮かんでくる。というか本田選手、試合に出られないほど体調が悪いわけでもないのにどうして出さないんだろう。そんなにメネズ選手を使いたいんだろうかインザーギ監督。でも1人に頼っている状況では先もなく、周りで支える選手も必要な気がするけれど、それが本田選手ではないって判断なんだろうか。長友選手はケガの影響が残っているだけだと思いたいけど、そろそろインテルもお見限りとなるかなあ、次はどこに行くんだろう。イングランドか。そして隠棲していた伝説のポール・ガスコインに出会い変態ドリブルに開眼するアニメ映画が作られたりするんだろうか。

 ネパールで大地震で、ヒマラヤでも雪崩とか起こって被害に遭っている人もいるとかで大変そう。あんな場所で地面が動くのかっていうけど褶曲でもって盛り上がったのがチョモランマとかヒマラヤ山脈な訳で、それで地面が動かないはずがない。きっと地震も頻繁に起こっては、そ度にいろいろと崩れてそれを建て直して来たんだろう。そうした終局と再生が暮らす人の心とか、宗教とかにどう反映されているかを知る身ではないけれど、天変地異の類にたびたび見舞われ四季もある日本の栄枯盛衰生々流転、移り変わっていくものにこだわらずそれでいて諦めないで日々を生きる柔らかな感性と、輪廻転生を信じる気持ちはそんな風土から生まれているのかもしれないなあ、なんて考える。その割には最近妙に今にこだわり、今さえ勝てば良いと思う人も多いけど。そういう人に仏教で言う地獄を見せる手立てはないものか。「鬼灯の冷徹」でも良いけれど。

 VR(バーチャルリアリティ)がもっと発達すればそれも可能になるのかも、なんて考えさせられた「ニコニコ超会議2015」のOculus Riftを集めたVRコーナーとかでの展示。すでに昨日ひととおりみたけれど、今日はサムソン電子のVRヘッドマウントディスプレイ「Gear VR」を使った展示を見せてもらってその可能性にグッと来る。コンテンツはすでにほかでもやっているリアルなライブとかイベントを、全天周のカメラで撮ってVRヘッドマウントディスプレイで再生させたもので、前を向けばステージが映り後ろを向けばサイリウムを振っている観客が映るといったもの。ある意味でステージの最前線にいる警備員になったような位置だけれど、そうやって首を振った時に実によく映像が動く。ステージでのアーティストに歓声があがって、振り向くと喚起の顔をした観客がいる。その観客が切り替わって沸くんで振り向くと、そこには別のアーティストが歌い踊っている。

 ステージ上だけでも左右に首を振ると、ちゃんとそれに合わせてアーティストたちが見えてくる。実に高い追随性。なおかつ映像がくっきりとクリアで誰が何をやっているかがちゃんと分かる。そりゃあ4Kとかに慣れた目にはどこか監視カメラ越しに見ているような感じもあるけどでも、昔に比べればしっかりとライブ映像になっているし、最近見た小林幸子さんの日本武道館でのライブよりもちゃんとアーティストが見える。これはカメラ位置の問題もあるんだろうけど置ける場所があって撮影する機材があればこれだけのことができるという証明。さらに伝送技術が発達すればリアルタイムでライブを見て周囲を見渡せるようにもなるだろう。観客席の最前列にいてきゃーきゃー言ってる女の子をずっと正面から見るような、そんなことだって可能かも。今まで警備員にしか出来なかったことが出来る。そんな時代。

 もちろんクリアしなくちゃいけない技術に制度の問題があっても、可能性させ示されればそこに向かって進めばいずれ辿り着く。あとはだからその上で何をどうみせるのか、って発想の問題になるんだけれど、技術者のポジティブに受け手が怠惰になて想像もしなければ創造もしないのが今だものなあ。彼らが作れば僕たちが高めるくらいの意識を持って丁々発止していければ良いけれど。VRのブースではあと昨日は遠巻きにしていた添い寝のVRに、やたらと女子が群がっていたのが驚き。どこかのネットメディアで紹介されたみたいだけれど、それで人が動くなんてメディアとしても本望だろう。問題はそうした情動や刹那に動きやすい人を煽る方向に流れがちなところだけど。せめてそうはならないよう、諸々を織り交ぜノイズも入れてそれが少しでも人に届くようにやって生きたい。ここはマイナーなノイズばかりだけれど、それも20年分たまれば……やっぱりノイズか大量の。それはそれで。

 昨日は「超まるなげひろば」と「超ロボットエリア」と「超言論エリア」に捕まって回れなかった場所をいろいろと。とりあえずNTTグループのブースに行ってスケルトニクスを遠巻きにしつつ、シビュラシステムみたいなものに顔を映したら20代男性と出た。名にて素晴らしく正直なシステムだ。これなら世界を任せても安心かもしれない。警視庁のブースへといったら闘うマスコットのP君が来ていたので、マッドピエロのロナウドに続く敵と認めて戦う、ってそれは「デスニードラウンド」の世界、こっちはちゃんとしたピーポ君だったので戦わずにツーショットを撮ってもらう。これを財布にいれておけば職質されても安心? そして焼津 長兼丸のブースに行ったら先の「出展企業ウォーズ」でブタミントンに挑みステージから落ちたお姉さんの足にまだ傷跡が残っていた。激しい戦いだったんだなあ。激励して他へ。

 その近所にあった肉の万世では、深き谷間を抱えた人たちが並んで立っていて、触れるに触れられず埋めようにも近寄れない状況に遠目で眺めてカメラに撮る。いつかそこに伸ばしたい我が手。すぐピーポ君が飛んでくるけど。ぬいぐるみのセキグチは大量のモンチッチと巨大なモンチッチの顔を出していたんで近寄ってなでる。ふさふさ。猿の毛ってこんなに柔らかくてふさふさなのかとは考えない。ずっと離れてスズキが提供していたメリーゴーラウンド……人力かよ! 人が押す台の上に並んだ車に乗って人が手を振る。これが格差社会という奴なのかもしれない。そんな会場を乗合馬車は走る。コスプレさんとか載せて。野尻抱介さんもいたりしてすっかり会場の名物と化している感じ。あれだけの群衆がいる会場でも、こういう運用が認められ求められているところが超会議の面白いところかなあ。混んで来たからじゃまだからもう無しねとはいわれず、状況を考えて運用されているという。

 それは全体にも言えるかも。企業ブースがありそれぞれのニコニコ動画や生放送にあるコンテンツが集まった場所があり相撲にプロレスにまるなげひろばにロボットに痛車にコスプレにボカロのステージに同人誌やら同人音楽やら。それぞれを運営するだけでも大変なのに、それらが幕張メッセのそこかしこで運営されては、大きな騒動も起きずに時間が過ぎていく。何か起こればどう対処するかを考え出したらきりがなくなるプロジェクトを、どうマネジメントし運営し回しているのか、って考えた時にこれまでの4回を積み重ねてきたドワンゴのノウハウって、結構なものになっている気がする。だからきっと「闘会議」もあっという間に立ち上げ実行してのけたんだろう。そのパワーとバイタリティが、実際のサービスなり未来の発明なりに生かされ発達すれれば凄いことになるんだけれど。なるのかな。そこが知りたいので見ていこう、これからのドワンゴを。KADOKAWAも。


【4月25日】 まだ予備登録だけれど、なでしこジャパンのワールドカップに臨むメンバーが発表されて、INAC神戸レオネッサの澤穂稀選手がメンバーに入っていた様子でこれは目出度い。春のアルガルベカップの頃はまだ調子が悪かったか、他のメンバーを試したかったかで入らなかったけれど、シーズンが開けてINACの調子の良さを見るに付け、澤選手の持つパフォーマンスがやっぱり必要だってことになって来たんだろう。土壇場になっても諦めない精神力の強さも含めて必要な選手。もし選ばれたならいったい何回連続のワールドカップ出場になるんだろう。そして来年のリオデジャネイロ五輪に出たら。今からその活躍が楽しみ。やってくれるだろうし絶対に。

 「結局ニンジャとドラゴンはどっちが強いの?」(MF文庫J)だなんて、出落ちのようなタイトルにてっきりネタで満載のライトノベルかと思った伊達康さんの新作は、意外にもハードでシリアスでエキサイティングな戦闘描写がいっぱいつまったバトルファンタジーだったという。世界は長命で魔法を操る竜人によって支配され、人類は竜人の食糧として竜人の手下となって送りこまれてくるオークにゴブリンの集団によって蹂躙されて、滅亡の瀬戸際にまで追いつめられている。その村も数百人といった規模にまで人数が減り、いずれ滅びようかという段になって放浪の女性剣士メルシオーネによって守られかろうじて命脈を保っていた。

 とはいえ、1人の剣士の戦いで抑えられるほどオークもゴブリンも弱くはなく、もはやこれまでといった戦いの中に現れたのが黒い覆面をした少年。名をサビトという彼は大陸の置きに浮かぶ島から来たもので、オークたちの首をあっさり切っては自分の腕に抱えさせる技で倒してメルシオーネを救す。そしてメルシオーネに頼まれ雇われて村のために戦い始めるもののそんなメルシオーネがかかえる秘密がやがて分裂を招き、さらに竜人の介入も読んで未来に暗雲が立ちこめる。そこに立ち上がったのもやっぱりサビト。シノビとして得たさまざまな能力を駆使してオークやゴブリンを退け、竜人すら追いつめていくその技の正体は?

 ってあたりで明らかになるさまざまな過去。そして竜人といえどもけっして傍若無人ではなかったものが、穏健派の死によって過激派が台頭して人類を追いつめていったという、そんか感じ。そしてサビトの村に伝わる秘密が世界を救うことになるのかそれとも、単に跡目争いの具に終わるのかってあたりでメルシオーネと出会えたサビトと、そうではなさそうなもう1人との間の違いが気になる。竜人だってやすやすとやられはしないだろう。そんな三つ巴から四つ五つ六つとくんずほぐれつする巴戦の中で、世界は救われる方向へと向かうのか。人類によって疎まれる混血の存在に未来はあるのか。気にして読んでいきたいシリーズだ。

 朝の8時半に家を出ても、朝の9時過ぎには幕張メッセに着ける船橋の便利さよ。そして入り口で待つこと1時間弱、開幕したニコニコ超会議2015の会場ではまっさきにデッキアップしたパトレイバーを見に行き周辺のロボットエリアや超まるなげひろばを眺めていただけで軽く2時間半とか費やしてしまった。同じ会場に置いてあるはずのパトリオットミサイルも、痛車も見ていないという体たらく。ましてや1ホールから9ホールの中にある企業ブースも相撲もプロレスもコミケットも見られないというから会場の広さ、そしてメニューの豊富さも分かるというもの。本気で見て回るなら2日でも足りない、3日いる。

 いっそ日替わりくらいいにして1週間くらい続けてくれれば見る方としては有難いけど、全部見るんじゃなく見たいものだけ見るのが作法とも言えるだけに悩ましいところ。さまざまなカテゴリーの出し物が渾然として一体の会場にばらまかれているからこその悩みでもあり、するりとほかに抜けられる嬉しさでもあるからやっぱり、このヨーイドンで一斉にあれやこれや演じるのがベストといったところなんだろう。ってところで超まるなげひろばでペッパーの乳首にタッチすると身もだえする出し物とか見て、オキュラスリフトをかけてブランコに座ると東京上空を上がり下がってビルの中を抜けて突っ走るコースターを体験し、ちゃぶ台をひっきるかえすとテーブルと寿司が飛んでいくVRを体験してといろいろ見物。これなら2時間だって過ぎても不思議じゃない。

 でもこれは聞いて置かなくちゃとホールを戻って超言論エリアでもって庵野秀明監督とドワンゴの川上量生会長とそして氷川竜介さんのトークを見物。アニメの情報量ってものについての話だったけれども話はやっぱり庵野さんには師匠筋となる宮崎駿監督の作品における情報量についての話が興味深かった。絵コンテでしっかり描いてそれを映像化することに尽力し、そして原画や背景の段階でしっかりと線を足してコンポジット(撮影)の段階ではあまり線を入れないというそのやり方は、考えるならしっかりと自分で情報量をコントロールしたいって現れなのかもしれない。あるいは自分の表現をそのまま出し切りたいという。

 ただ庵野監督に言わせると絵コンテでもてとても凄い最高傑作だと思っても、映像になっていくと薄れてしまうことがあるとうのが宮崎作品。それはアニメーターの技量が追い付かないというよりは、コンテを読む人の想像力が優りすぎててそれで脳内にベスト以上のものを描いてしまって実際とのギャップが生まれるだけなんだけれど、でもやっぱり本気で見たいフル宮崎駿さん。そうなると漫画版の「風の谷のナウシカ」を読むしかないってあたりがちょっと面白かった。あれは確かにどこまでも宮崎監督が描いたものだから、混じりけなんてないものなあ。でもそのストーリーは長大にして何回。それでも最高だと庵野さんが言うからには、それをいつか自分の手で映像化したいという思いでもあるんだろうか。あって欲しいけれどその前にまずは「エヴァンゲリオン」新劇場版のラストだ。そして「ゴジラ」だ。「ゴジラ」……本当に作れるんだろうか今から準備して。

 評判になってたJALのタラップは朝1で降りてボーディングパスをもらったけれど、超フードコートで何かを食べる時間もなくって昼食は摂れず水すら飲めなかったのをどうにかこうにか3時過ぎになって超鉄道エリアで向谷実さんによるプロデュースらしい弁当を購入して始めての食事。1500円という値段はともかく中身はぎっしりと充実していて美味しかったので明日もフードコートが込んでいたらそっちで買おう。恐竜はそこかしこにいるけれど、ありがたみがあるのかどうかが分からないのはやっぱりお堅い博物館にいるのと、平場に骸骨として立っているのとでは見え方が違うからなのかなあ、妙な明かりに照らされて模型みたいなんだよなあ、ってレプリカだとしたら模型だけれど。どっちだったっけ。来ている恐竜たちって。

 これはだめだ。絶対にだめだ。徹底的にだめだ。すぐさま削除して謝罪も出してあとはひたすら平身低頭しなくちゃいけないくらい、ヤバい案件であるにも関わらずピクリとも動く気配がない。何がヤバいってれっきとしたアメリカ合衆国の下院議員を相手に、その発言内容をとらえて、「どこの国の政治家なんでしょうか?」なんて言葉をぶつけたこと。人種間の差異を問うたり、それを揶揄に使うことにことのほか敏感なアメリカの国民の、それも公的な身分を持った人に対して、出身を国を問いそれも憶測と揶揄を含んだ言葉でもって問うなんて、差別的であり侮蔑的であって怒り追求されこそすれ、絶対に許されるものではない。

 血筋としては日系でであっても、その人は生まれた時から生粋の米国人であり、そして米国の下院議員であってそれ以外の何者でもない。なるほど韓国や中国に寄った意見を言っても、それは虐げられた存在に対する憤りから出たもので、振り返れば日系人であるからといって、収容所に押し込められた我が身であり、親族が受けた仕打ちに対する反骨でもある。虐げられた身として、虐げられた者たちに同情するのを、日系人だから虐げられたのは許せず、そうでないアジアの人たちが日本に虐げられたことは知らん顔するのって、真っ当な思考の持ち主だったら卑怯と誹るだろう。でも日本で日本人であることを御旗に掲げたい人たちには、そうした卑怯を卑怯と思っていなさそうな節がある。困ったものだ。

 けれども、それ以前に出身なり心情がどうあれ、その意見は米国人としての考え方であって、それが米国に益を成すと判断しての言動であって、他国の媒体からどこの国の政治家だなんて言われる筋合いはない。にも関わらず、言って平気な上に訂正も謝罪もしない。もしかしたら話題になっていることいすら気づかない情報弱者っぽさも漂う。権力への同化が「下野なう」なんて言葉を呼んでしまったことが愛嬌となり、知らず作家がアパルトヘイト擁護の言葉をコラムに書いたことが有耶無耶になりかかっていても、会社の公的なアカウントで米国の下院議員を侮辱したことは最高に差別的で、だから絶対に許されず、いずれ厳重な抗議も来るだろう。気づいた時に消して謝っておけばその追求もいくらか和らぎそうだけれど、気づかないまま掲げ続ければいったいどうなることやら。状況に注視。やれやれと思いながら。


【4月24日】 どうして人はそれほどまでに凶暴になれるのか、って考え続けてもやっぱり答えが出ないまま幾年月。少女を監禁しては殺害してドラム缶に入れて捨てたり、アベックを袋叩きにして殺害したりと過去にも悲惨な事件はいくらでもあったけれど、そんな時、どういう心理が働いて残酷にして悲惨にして被害者は一生を台無しにされ、被疑者自身も一生を引きずる傷になる罪を犯してしまうのかを突き詰めれば、もしかしたら悲惨な事件は起こらなくなると考えたところで結局は、そうした心理のプロセスは解明できないまま人は残酷な事件を起こし続けて今へと至る。少し前にあった川崎での事件。そして千葉でおこった今回の事件。相次ぐ悲惨過ぎる事件にまったく意味が分からなくなる。

 何の罪もなくそれどこか必然性も感じられないまま、1人の少女が殺害されて埋められる事件が起こった過程でいったいどういうやりとりがあったのか。どうしてそこまでしなくてはいけなかったのか。そうしたことで後にどれだけのことが降りかかるか分かっていたのか。それでもやらざるを得ない何かがあったのか。ただのその場の勢いか。それで逃れられると思っていたのか。考えれば考えるほど分からなくなるけれど、でも起こってしまったこの事件、せめて続かないようにとその過程をつぶさに検証して欲しいものだけれどでも、やっぱりまた起こってしまうんだろうなあ。それを若気の至りと呼ぶなかれ。野獣の無様さと知れ。

 同じ読売新聞社出身の、徳間康快さんと氏家齋一郎さんとの関係が深かったこともあってか、スタジオジブリをがっちり握ってそのままアニメーション関連で強い局になっていった日本テレビ放送網に対抗しようと、フジテレビジョンも過去にたとえばGONZOと「ブレイブ・ストーリー」を作ってみたり、プロダクションI.Gと「ホッタラケの島」を作ってみたりしたことがあったんだけれど、腰が据わっていないというか狙いが定まっていない感じてヒットさせられず、そのままシリーズとして続けていくようなこともないままアニメ映画って分野を育てきれなかったという印象。だから今、スタジオコロリドを引っ張り込んで「台風のノルダ」を作るといってもどこまで、本気で当てに来ているかが見えないうちは、どこかのスポーツ紙が軽々しく付ける“第2のジブリ”なんて存在に、スタジオコロリドがなるかどうかは分からない。

 いや、アニメーション制作の実力でいうならスタジオコロリドは別にジブリを目指さなくても十分に、未来を担える存在になっていくことは確実で、石田祐康さんがいて新井陽次郎さんがいてと、「陽なたのアオシグレ」のコンビがその立場を逆転させながら作る「台風のノルダ」が面白くならないはずはない、って今から観ずとも言えてしまうくらいには信じている。問題は、そうやって出来上がった映画をフジテレビが、たとえば日テレみたいにガンガンと番組内で宣伝したり特番を作って盛り上げたりしてくれるかって辺りで、やってやらないことはないけれど、どこか空回りしてしまいそうな可能性があるのが心配。「ノイタミナ」だってもっとフジテレビ自体が持ち上げれば良いのに、作品は流すけれども宣伝はパッケージ会社にお任せって雰囲気があって、局としての本気が伝わってこないんだよなあ。

 秋口から始まる伊藤計劃さんの3部作に関する宣伝とか、本気でやる気があるんだろうかといった不安もあるけれど、これはさすがに売れ筋なんでやるだろうと思うし、「あの日みた花の名前を僕たちはまだ知らない」の長井龍雪さんが監督をする「心が叫びたがっているんだ」だって、こちらこそ“第2のジブリ”的に大勢を感動させる内容を持った作品だろうことは確実で、それこそ長井監督を“ポスト細田守監督”的に囲って作品を作らせ続けるような体制を、テレビ局として整えてあげれば良いんだけれど現場がどうにもそういう体制になっているように感じられない。広報とかアニメをPRしなさそうだし。まあでも良い作品が作られ続けていることは幸いなんで、当たる当たらないは別にして完成してそして世の中に提示されることで、観て心に永遠に刻む人が生まれたその先、きっと芽生える市場もあるだろう。それをかっさらっていく日テレ、って構図も見えるけど。タツノコプロだって昔はフジと一心同体だったのになあ。

 良く分からない宮沢賢治の登場で話がますます混沌として来た「パンチライン」。まあ中身は幽体が抜けた後の伊里達遊太の体を使った誰かだとは思うんだけれど、その中に貼っているのが誰かまでは分からないしそもそも展開上の脈絡がまるで分からない。そして突然のロボットの登場。くぎみゅーな台初明香はその体でいったい何をやっているのか、というかそもそも老人はどうして彼女を作ったのかってあたりが見えないんでその言動が何を意味するのかがやっぱり分からない。あと曳尾谷愛が拾ったあの小熊はいった何で、どうして傷がすぐに治って、それを何者かが奪いに来たのか。説明不足も大概だけれどそれよりやっぱり第3話にしてパンチラの量も質も衰えているのが許せない。他に取り柄もないんだからそれくらいは徹底しろよと言いたい。来週こそは秩父ラブラさんの大人のパンチラを。是非に。絶対に。

 SFマガジンにライトノベルのレビューを13年くらい書き続けていたって、SFの人に何か関心を持ってもらえる訳でもなく従って日本SF大賞の授賞式を見に来ませんかと行ってもらえる訳でもないので、受賞者の方々には遠くからおめでとう御座いましたと言いつつアマゾンが珍しく開いた母の日とと父の日のギフト商品の内覧会へと行ってうなぎとソーセージとスイーツをむさぼり食う。本だけ売ってれば十分なようだっったアマゾンももはや倉庫を持ち配送のネットワークを持ち決済の仕組みを持ってオンライン通販のプラットフォームとして確固たる地位を築いてしまったようで、その上ではもはや何だって売れるといったスタンスから母の日父の日のギフトをそろえて売り始めている様子。

 まずは母の日向けに枯れなように加工した花のギフトとスイーツのセットなんかをそろえ、そして父の日向けにはうなぎをお酒を大展開。月並みといえば月並みだけれどそれを並べれば利用するユーザーが大勢いるところに、先駆者であることの凄みって奴を改めて感じる。あとはアマゾンというひとつの媒体の上にいろいろなものを提示できる仕組みも。これが楽天だとショップの寄り合い所帯なんで、あれもこれもそれもと検索結果を出してもそれを買うにはいちいちそれぞれのショップに行かなくちゃならず、配送もそれぞれのショップからってことになって手間も時間もかかりそう。アマゾンは一部だけれど倉庫に品をおいて即日配送的な対応も行える。しまった明日母の日だったなんて事態にだって対応できちゃうかもしれない。そんな強みを強みと知ってなお生かそうとする貪欲さ。これはやっぱり勝てないなあ、日本。どうするよ。


【4月23日】 さっそくあちらこちらで「ハイパーテクノロジーの急速な発展とともに、あらゆる分野に進出した汎用無人飛行機…ドローン。 しかしそれは、ドローン犯罪と呼ばれる新たな社会的脅威をも生み出すことになった。続発するドローン犯罪に、警視庁は本庁警備部内に特殊航空装置2課を創設してこれに対抗した。通称特空2課パトロールドローン中隊…パトドローンの誕生である」って話も沸き立ち始めた首相官邸屋上でのドローン発見事態。事件性についてはまだどうといった話が出てないから分からないけれど、放射性セシウムらしきものが検出されていたりする以上は何か意図があって誰かが飛ばしたんだろう。これがヤバい品なら誰か人死にだって出たかもしれないと考えると、未遂であっても立派にテロって言えるだろう。

 新しい技術に規制なんてという声もあるけれど、何か対策が必要なことは明白な訳でそれがドローンそのものの規制なのか、ドローンの飛行に対する規制なのか、あるいは近づくドローンを排除する方策の立案なのかは様々だけれど、少なくとも官公庁に皇居なんかがある地域での飛行に対して制約をもうけるべきって意見は、浮かんでも仕方がないかなあという気分。ただ2020年の東京オリンピックでそうした地域も開催の対象となった時に、ドローンが飛ばせず中継とか情報提供とかに支障が出るなら何か抜け道的なものも設けておく必要があるかも。許可があれば飛ばせるといった。流石に配達とかでドローンが必要って意見は通らないよなあ、自転車便が走り回っている地域だし。皇居の上を越えていかせる訳にはいかないし。

 しかし規制以前いそうしたものを長く発見できなかったっぽい警備、そして許してしまった警備に対してまずは断固とした処置が必要なんじゃないのかってのが第1義。だって首相の頭の上にヤバいものを持ってこられて、それが結構な時間放置されていた。毎日とはいわなくてもせめて3日に1回くらいは屋上を警備していれば、こんなことにはならなかったはずなのに、それすらしてなかったというのは異常というより他にない。ご近所のビルとかから見下ろせるくらいに低地にある首相官邸っていう、それ事態がひとつの不思議なのにそういう状況をまるで鑑みない警備体制。それこそが平和ニッポンの素晴らしいところだって言えば言えるんだけれど、そういう国ではありたくない総理が真っ先に平和ボケをさらしていたりする状況が何というか、総身に知恵が回りかねているというか。だからこその刺激策? ってことはやっぱり? 想像してしまう一件。どうなることやら。

 本人がとてつもない美人であることはそれとして、作り出す物もはスタイリッシュでクールな上にファッショナブルでもあるスプツニ子!さんの新作が、新宿にあるGUCCIの3階で公開されたんで見に行く。果たして自分が入って良いなろうかといった場所、何十万円ものスーツやらカバンやらが並ぶフロアをみすぼらしいジャケット姿で横切って、上がったそこは暗闇に青いLEDで照らされた繭とそしてシルクで織られた服が並ぶ場所だった。それだけなら普通に照らされて輝いているだけかなあ、って思うんだけれど渡されたセロファンがはられた青赤立体視眼鏡、ではない何かフィルター的な役割を果たす眼鏡をかけるとLED光がカットされ、服なり繭本来の色が見えてくる。そう、服も繭もLEDに反応して光っていたのだ、おそらくは。

 遺伝子組み替えか何かによって、光る機能を付加された繭でありシルクを使ったとかいうこの作品は、最先端のテクノロジーによって織られたひとつの形を示唆するものであり、また改造されることによって天然とは違う価値を与えられた、あるいは傷をつけられた存在の美しさと危うさを感じさせるもの、って考えるのが正しいのかどうかは分からない。どちらかといえばフェミニズム的な作風で知られるスプツニ子!さんってアーティスト名からこちらが勝手に連想しているだけなのかもしれないけれど、そうしたものを置いても何か新しいことが出来そうだっていう感じは漂っている。あとその衣服に整えられた物語めいたものが、新しいファッションを生み出しまとい世に問いたい女性の意思ってものをそこに浮かび上がらせる。どういう展開があるのかは見えないけれど、可能性だけは感じさせてくれる展覧会。見て思う、このハイレグな衣装って草薙素子だよなあ、「攻殻機動隊 STAND ALONE CONPLEX」の、って。そこかよ。

 本来の意味とか関係ないんだよ。使われた環境で言葉の意味なんて変わるんだよ。今の時代に目上の人に向かって「貴様」と呼んだらそれは愚弄しているのかと殴られたって仕方がない。そういう風に時代に連れて言葉の意味は変わるんだから。使われ方によって言葉には色が付くんだから。それを分かっていれば今になて「八紘一宇」って言葉を使おうなんて思わないだろう。なのに国防女子とやらが堂々、「八紘一宇」という言葉を持ち出し「かくいう私もこれを『好戦的なナショナリストのスローガン』だと思い込んでいたひとりだ。それが、初代神武天皇の『橿原建都の詔』を学び、『天の下にひとつの家のような世界を創ろう』という原義を知るに及んで、己が先入観と不勉強を恥じ」て、ガンガン使おうとかって言い出した。

 もうポン酢かと。原義でいくら良いことが言われていたって、それが戦中にナショナリストのスローガンとして使われ、その意味を身にまとったまま現代へと伝えられていることに変わりはない。もしも本当に恥じるなら、かつて好戦的なスローガンとして使われた過去を踏まえて我らが先祖の罪を喰い、使わないでいようと思うのが国を考え言葉の乱れを憂う国防女子だろうに。あるいはそこに貼り付いたレッテルを払う努力をすべきだろうに。そういうことはしない、というかそもそも恥じてないからしようとしないで、原義を見ろだけで通用する世の中じゃないのになあ。でもそういう論を繰り出す人が徴用される媒体がある。みすぼらしいなあ。やれやれだ。

 たぶん初対面は2002年のSFセミナーだからだいたい13年前になるだろう。新海誠さんが来て朝方までパソコンの前でもって新海雲とか新海空の描き方なんかを語ってくれたのを永瀬唯さんなんかと眺めていたんだっけ。永瀬さんは遮断機が落ちてきてカタンと跳ねるあのタイミングが絶妙だって話していたような記憶があるけどもうずいぶんと昔のこと過ぎてはっきりしたことは覚えていない。その年はワールドカップが終わって出雲で開かれた日本SF大会にも新海さんは登場して夜のホールで何か喋っていたんだっけ。東浩紀さんたちとたぶん寝台列車ではるばるやって来たのかな。そんな話を聞いたような記憶があるけどこれも薄れているのではっきりとしたことは覚えていない。

 でも作品としての「ほしのこえ」のことは割としっかり覚えている。いや、ストーリー自体は忘れているところもあってあれはそうそう、携帯電話で離ればなれになってもやりとりする少年少女の話だったよねってことくらいしか覚えてない。そのやりとりが次第に疎遠になっていくのは2人の距離が離れていくからで、1人は地球を襲ってきた宇宙人と戦う選抜メンバーとなって船にのり、火星から木星を経て冥王星を越えシリウスにまで行ってしまってそこで戦っている。でもそれだけの距離を動いても少女は、ミカコまだ15歳のまま。中学3年生の夏休みに入ってそのままシリウスへと連れてこられて個人の感覚では数カ月を過ごしただけ。ちょっと前の地球での少年、ノボルとの思い出を昨日のことのように覚えている。そして切なく思っている。開いてしまった距離を感じ、届く言葉は自分とはもう、ぜんぜん年が離れてしまった大人のノボルに届くことを感じて戸惑っている。

 ノボルはといえば届いていたメールの間が開くようになり、やがて途絶えがちになって自分のなかでひとつの決着を付けて新しい出会いを探ろうとする。けれども……ってな感じだったっけ、どうだったけ。いや今こう書けるのすら演劇ユニットキャットミント隊による朗読×劇「ほしのこえ」を見たからで、それより前はたぶん冒頭のたったひとつの言葉、「世界、っていう言葉がある。 私は中学の頃まで、世界っていうのはケイタイの電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」くらいしか覚えていなかったかもしれない。それでも、朗読×劇の冒頭でこの言葉をミカコが、彼女を演じたPASSPO☆の根岸愛さんが呼んだ瞬間に気持ちは13年前に戻ってあの、切なさを感じさせるストーリーが斬新でリアルでスタイリッシュでノスタルジックさも漂う映像とともに浮かんで懐かしくなった。

 そして同時に今、13年が経ってこうしてネットが格段に普及しメールやメッセージのやりとりも増えた今だからこそ、なおいっそうの切実さをもって突き付けられる主題をはらんだ物語だと思った。数分、返事が遅れただけで憤られる、あるいは不安になるこの世界に生きている僕たちは、私たちは、貴方達はミカコとノボルのような時間を費やし空間を乗り越え積み重ねられていこうとしている関係に耐えられるか。今という刹那の積み重ねのような毎日を生きている者にとっては8年が1年でも、そして1日でも1時間でも断絶に等しい間となるかもしれない。でもそうじゃない、本当に通い合った心ならば1時間が1年でも8年でも、もしかしたら数十年数百年でも耐えて待ち得て喜べる瞬間に過ぎないのかもしれない。そう思った。改めて。

 離れかかった心が近づき、そしてつぶやかれる交互の、さらにはユニゾンの言葉によってもたらされるクライマックスは、映像によって描かれたアニメーションとしての「ほしのこえ」のあの感慨を呼び起こしてくれるし、見ていない人にも通じて感じられる感動をもたらす。大勢の人に見て欲しい舞台。そして感じて欲しいメッセージ。有名声優の登壇とかでとりづらい日時もあるけれど、そうでないなら残っている席もある。そして誰が演じてもしっかりとその空気は醸し出される。だから行こう老いも若きも公演へと。携帯電話を握りしめ、スマートフォンを胸に入れて誰かからのメッセージを待ちこがれながら。誰かへとメッセージを送りながら。


【4月22日】 姶良カルデラとかが大噴火して火砕流が川内原発のある所まで押し寄せたら、それこそ南九州は全滅だし北の方だって甚大な被害を受ける訳で、そういう事態を想定するならもはや国家総動員態勢で原発云々を議論する前に九州脱出計画を練らなくちゃいけなくなる。それを訴えない前に原発云々と言ってもそれは、原発廃止という目的が目的化していて世間一般の理解もちょっと得られない。だからって訳でもないんだろうけど川内原発を対象に行われていた再稼働の差し止め請求が却下されて、訴えた人は怒り心頭な模様の様子。噴火の兆候が出て3カ月後に噴火なら人は逃げられても原発から燃料棒は取り出せないって意見もあるにはあるけど、3カ月の余裕があるかどうかってのも推論の上に立った議論。川内原発だけを火砕流が避けていくシミュレーションにも似て空論に近くて、世間はそこにご都合っぷりを感じてしまう。

 御嶽山のように突然の噴火も起こり得るし、雲仙普賢岳のように噴火の兆候どころか噴火してたって人は逃げずに近隣に暮らしていたりする。姶良カルデラあたりだってそういう兆候が出てさあ一斉避難と行くのかどうか。そういう道筋を立てて世間に納得させた上ではい川内原発も止めましょうってならないと、やっぱり空論の積み重ねにすぎないと却下されてしまう。ただし、本当にそういう事態が想定されるなら、これは地球全体の問題で、世界中からそういう声を集めてとっても偉い人たちが声明を出すとかするようにもっていけば、ちゃんと世間も事情を知って何とかしなくちゃと思うかも。筋道がふっとんで結論から逆算していく論法が通じるほど世間も今は優しくないし、間抜けでもない。福井はどうして差し止めになったかと言うと、そこはやっぱり無理押しがあって裁判所が憤ったってことになるのかな。それもまた結論から逆算の無理がさらけ出された結果。正しく議論を。そして結論を。

 とりあえずどこから誰が飛ばしたってことが重要になるんだろうなあ、首相官邸の屋上でドローン(無人飛行機)が見つかったって事態はドローンが生まれたときから、というかラジオコントロールで飛ばせる飛行装置が誕生した時から注意が必要な事態ってことでそれをそのままドローンという比較的耳に新しい装置への批判なり規制に結び付けるのは間違っている。どこから飛ばせば首相官邸の屋上に着陸させられるか、それをどうやって見つけて取り締まり入ってこられないようにするか、ってことをやるのが先で、首相官邸が高さ35メートルだからそれより低くしか飛ばないようにするとか、50メートルを離れて飛ばせないようにするのはこれからの運用を考えると間違っている。やろうと思えば小型飛行機でだって飛び込めるんだから。田中角栄邸に俳優が飛び込んだように。

 見渡せば近所に氷川神社のような拾いスペースを持った場所もあるし、何よりとなりに官邸を見下ろせる大きなビルまで建っている状況で何を防ごうったって無理な話で、本当に守りたいなら官邸自体を地下に持っていくとか、遠く離れた場所にでも隔離して周辺を数百メートルにわたって立入禁止にするくらいしないといけなくなる。前にドローンが落ちたことがあるホワイトハウスがあるアメリカのワシントンはどうやらドローンの飛行を禁止しているみたいで、それを受けて皇居もある千代田区あたりはドローンの飛行禁止区域にしつつ、一方で次の時代に役立つ装置として称揚していくような政策を、打ち出せば安倍ちゃんも格好いいって誉められるのに。僕は謝りたくないって態度を世間に見せて子供かよって言われている今こそ決断を。いっそ元クレー射撃五輪代表の麻生財務大臣を官邸屋上に配備して、来るドローン来るドローンを撃ち落としてもらうようにするとか。

 しかし味方中の味方であるはずの読売新聞が社説で「戦後70年談話 首相は『侵略』を避けたいのか」と書いてくるとはなあ。テレビでもって安倍晋三総理が戦後70年の談話で前に村山総理とかが「侵略」をお詫びしたんで、政府はそれを引き継ぐことは引き継ぐって表明しているんで、自分の口からははお詫びしないし書きもしないと言ったとか。そしてさっそく、それって自分の口から謝りたくないだけじゃんって突っ込みが、国内外から入ってそれに読売新聞までもが乗ってきたって感じ。あの面堂終太郎ですら反っくり返りながらも「悪かったな」と謝って見せたのに、この後陣はそういう言葉を口にすることすら自分にとっての敗北だとでも思っているんだろうか。あまつさえ「私の考え方がどのように伝わっていくかが大切だ」だって言ってのけてしまう。子供だよなあ。

 戦後70年の談話って言っても、別に安倍晋三氏という1人の人間の考え方が聞きたいじゃない。日本国総理という立場から日本人を、そして日本国を代表する言葉でないと意味がない。だから読売も社説で「70年談話はもはや、首相ひとりのものではない。日本全体の立場を代表するものとして、国内外で受け止められている」って書いてみせた。自分の立場をわきまえろ。その立場からしっかりとした言葉を語れって。至極真っ当。そして正当。でも聞かないんだろうなあ安倍総理。何よりも誰にも謝りたくないって意識が先にあるから。本当に子供っぽい。そんな人間をトップに仰いでこの国はいったいどこへ行く。他国からどう思われる。本当に首相官邸屋上へのドローン撃墜部隊配備が必要になって来るかもしれないなあ。

 たとえ才能はあっても未熟で突っ込んでは失敗して他人に迷惑をかけるのを顧みないで自分の力を見せたいから、試したいからとしゃしゃり出ていく性格は正直苦手だけれど、それだからこそ救われる人もいたりするとなるとむげにはできない難しさがあるなあと、三上康明さんの新刊「東京戦厄高校第72討伐班」(ダッシュエックス文庫)なんかを読みながら考える。地下から何かバケモノが現れるようになって衰退した地域もある中で日本はそうした怪物と戦える力をもった組織が出来て戦っていて、そして養成する学校も出来ていた。そんな学校に通うようになった生徒のうちチームを組んだ3人は1人が誰かの力を増強できる力を持っていて、もう1人は誰かの武器を修復できる能力を持っていて、そして1人はただひたすらに逃げ回る能力を持っていた。何それ戦えないじゃん。

 そう戦闘タイプが1人もいないアンバランスなチームだけれどそれぞれに力は強く才能もあった。ただ気弱だったり逆に強気が空回りするタイプでうまくいかなかったチームが失敗を重ね危険を乗り越え成長していくってストーリー。弱点に見えてもそれを突き詰めれば利点にもなるというメッセージがあり、自分1人ではだめでも力をあわせればどうにかなるというメッセージも得られる。世界があれだけ滅びかけているのに平和な地域もあるだなあというギャップはさておいて、じわじわと迫る危機を果たしてひっくり返す物語へと向かうかどうか。世界の敵と戦う話が増えているけどそこを見せてくれないと、正直先がどんよりしてしまう。これはどうかな。地球はきれいに救われるかな。気にして続きを待とう。

 死別はあるけど悲しみよりもその先の幸いを喜べ、愛の相克が漂っても辛さを超えて深め合っていく関係に微笑める。そんな映画になっていた「海街diary」。少しづつこわばった表情がとけ、ぎこちない感情がほぐれ、そして誰もがちゃんと向き合える自分になっていく。そのための道を見せてくれる。是枝監督、うまいしすごい。誰が主演ってことではないけど、ここで名前のとおりに「すず」って役に抜擢された広瀬すずさんは初々しくも素人じゃない演技を見せてくれた。僕は広瀬すずという役者をあまり知らないので役に合っているかどうかで考えるしかないけれど、その点でちゃんと浅野すずにちゃんとなっているとは思った。原作とはまた少し感じは違うかどうか。でも原作も最初は固くもろそうなすずがだんだんと明るく強くなっていく、そんな感じはちゃんと出ていたかなあ。ここに居てもいいのかと思えるまでに1年、やっぱり時間はかかるんだなあとも。それでもちゃんと分かり合える。さらけ出せる。そんな関係の素晴らしさ。感じられる映画。続編ありそうな気も。期待しよう。


【4月21日】 「LUPIN the Third 峰不二子という女」は「ルパン三世」シリーズじゃないの? って誰だって思った今朝方の「ルパン三世が30年ぶりにテレビシリーズになって帰ってくる」っていうニュース。なるほどルパン三世と次元大介と石川五ェ門のチームメインに銭形のとっつあんとの攻防が繰り広げられるという、「ルパン三世」ならではのフォーマットには乗ってないけど、ルパンがいて次元がいいて五ェ門も銭形もいて何より不二子ちゃんだってしっかり出ていたシリーズを、あれはルパンじゃないって言うのはちょっと筋が違う気がする。裏から見た、あるいは前史的なルパン三世。そういう位置づけだったんじゃないのかなあ、「峰不二子という女」は。

 というか、昔ながらのルパンたちが騒いで銭形が追っかけるフォーマットが、2ndシリーズで大きく炸裂して大ヒットしたもののそこで遊びすぎだって感じになって、先祖帰りするようにクールなスタイリッシュなルパンとして「ルパン三世 PART3」が出てきたけれど、それも行き詰まってもうこれでそろそろってところでテレビシリーズがメインになって、そしてカウンター的な「峰不二子という女」が作られ、進化も進歩も遂げ始めていた時に、どうして元のフォーマットを敢えて持ってくるのか。それでいったい何ができるのか。可能性があり救いがあるとしたら「LUPIN the 3rd 次元大介の墓標」のような絵柄も格好良くてプロットもしっかりと立ったエピソードを積み重ねていくことだけれど、あれを作り続けられるスタッフがいるかなあ。小池健さん監督ならあるいは。そのあたり、注目して見ていこう。本当は宝塚で演じられたような舞台を6ステージ作ってそれぞれを編集して1ステージあたり4話にして、1月に1ステージずつ見せていくってのが希望なんだけれど。面白かったものなあ宝塚版ルパン三世。BDそろそろ届くかな。

 東京モーターショーだって1980年代末のバブル時代あたりですっげえコンパニオンが派手になって、それを撮りにいくカメラ小僧と、車を見に行くエンスーな人とで大混雑を極めたことがあった訳で、それが1990年代に入るとバブルが弾けてお金がなくなったのか、過激な露出で集めようっていう方向に日本自動車工業会あたりから歯止めがかけられたのか、どこの自動車メーカーも露出の激しいコンパニオンを置かなくなってカメラ小僧が寂しい思いをしたって記憶がある。だから上海モーターショーで過激な露出の女性コンパニオンが禁止されたのを見て、国家権力による介入だとか表現の自由の侵害だとはまるで思わずいつか来た道、そして通り過ぎる道だって理解するのが良いんじゃないのかなあ、この場合。

 でもって日本自動車工業会あたりの自主規制めいたものがかからない東京オートサロンあたりになると、フリーダムな改造車の祭典ってことで華美なコンパニオンやらレースクイーンやらがわんさか集まり、そっちの方へとカメラ小僧も集まりようになっていったのが1990年代後半とか2000年代。やがてカスタムカーに大手の自動車メーカーがオフィシャルに取り組むようになって、自分たちでブースも出すようになって以降もコンパニオン競争は変わらず起こっている感じで、今は東京モーターショーに行くよりむしろ東京オートサロンに行った方が楽しいって状態が続いている。妙な話だけれどそのあたりはさすが、日本お得意の二枚腰って言えそう。これが中国だと政府の規制は民間も含めた全面規制ってなりかねないから。いっそオートサロン的な展示会を中国に“輸出”してそっちでファンに喜んでもらうってのはありかなあ。ちょっと関心。

 ちょっと前にサンリオが「HELLO KITTY MEN」てラインでもって、あの世界的なキャラクターでKawaiiの代名詞とも言えるハローキティの意匠が、どこかに取り入れられたメンズウェアのラインを出していくってことが話題になっていた。品物を見るとリボンだけが抜かれてプリントされたデニムジャケットや、ハローキティの顔が渦巻き模様でもってそれっぽくデザインされた衣装がスマートフォンのケースやマグカップにプリントされていたりとか、いろいろなアレンジがあってそこまで大胆にアレンジして良いんだろうかなんて心配になったけれど、それでもどれもがしっかりハローキティに見えたりするところに、40年以上を過ごしてきたキャラクターの強さってものを感じたものだった。

 土台がしっかりしているからアレンジしてもそのニュアンスは伝わるし、且つそれぞれが持っている可愛いとか格好いいといった属性が、メンズウェアにも転嫁されてスタイリッシュさに加わるアクセントになっている。男性が着てもだからフェミニンといった感じはなく、それでいてマッチョな匂いもとれた不思議な味わいが出るなあと見て思ったんだけれど、こっちはこっちで「ウルトラマン」という語感から滲み出る特撮怪獣オタク的なニュアンスを、うまく殺いでその衣装そのデザインその社会性その文化性を取り入れた感じになっているなあと、円谷プロダクションと多分親会社のフィールズがはじめた「A MAN of URTLA」っていうライセンスの品々を見て思ったのだった。

 土台のしっかり具合ではハローキティに負けないところがあるウルトラマンであり、ウルトラ怪獣だけれどでも、そのストーリーその造形はどこまでもテレビの子供番組であり特撮ヒーロー番組であり怪獣プロレスといったところ。感じられるのはヒーローへの憧憬でありカウンター勢力としての怪獣への同情であり、それらから派生するウルトラヒーローなり怪獣の造形への共感といったもので、それらを元にして自分がヒーローになった気分を味わえるような玩具なり、自分の共感を表明できるプリントなりがグッズのラインの中心になっている。まさしくキャラクターライセンスといった感じ。でも「A MAN of URTLA」はちょっと違う。日常にいる男たちこそがヒーローだといったニュアンスでもって、その心にあるヒーロー性なりをウルトラヒーローや怪獣たちの存在から抽出し、ファッションなりアクセサリーなり雑貨といった物の中に混ぜ込むような展開を考えている。

 だから、ウルトラヒーローや怪獣たちの意匠がそのままリアルな形で使われることはない。たとえばロゴタイプなり後ろ姿のウルトラマンだったり、ウルトラマンレオのような角がついたネコのウルトラマンネコといったキャラクターだったり、ウルトラ警備隊っぽいマークだったり。そんなものがポロシャツに使われドレスシャツにプリントされTシャツに描かれていたりして、見てもすぐにはそうと感じないけれど、でもそうした記憶が擦り込まれ経験が染みついた人には、ああそうだこれはウルトラのスピリッツだってことが分かるようになている。「TARO 06」って前にでっかくプリントされたTシャツを知らない人が見れば、昔流行ったアメフットのジャージか何かを模したゼッケンTシャツに見えるだろうけれど、僕らにとってそれは「タロウ、ウルトラマンナンバーシックス」なのだ。

 コートでおなじみのサンヨーなんかが自社ブランドで出しているTシャツにプリントしてあるのは、男性がウルトラアイをかけようとしているイラストで、それは見ればただ眼鏡をかけようとしているイラストに見えないこともないけれど、でも僕らにとっていつか自分もヒーローになりたいという願望をかなえてくれる装置として、ウルトラアイがあってそれを眼鏡に仮託してかけていた時代があったし、今もそんな装置として眼鏡を意識している自分がいる。その気分を表してくれるイラストとして、あるいは描かれているのかもしれない。弟分も描かれているのはあれはセブンとタロウだろうか。

 黒字に数字だけがエンボスされた財布とか名刺入れとか、分からない人には分からないし、自分だって使っていてそれがウルトラだと意識しないかもしれない。でもフッと思い出すそこにあるウルトラの精神でありヒーローの意識が、時として自分を鼓舞してくれるかもしれない。そんな日常に溶け込んだウルトラであり怪獣のニュアンスを、表現していくラインとして、この「A MAN of URTLA」は存在している。そんな印象。過去にもスタイリッシュなウルトラ系怪獣系ファッションはあったけど、そのものズバリな感じがどうしてもあって着られない人は着られなかった。時代はそうした気分を超越して、それは格好いい物になっていると主張しても、受け入れがたい人はやっぱりいた。こちらはそういう人にも気にせず着られ、気にさせないで見てもらえるラインかも。僕はまあ、ドカンとバルタン星人が描かれたTシャツでも平気で着る口だけれど、それでも「TARO 06」のTシャツはちょっと格好いい。いつくらいから店頭に並ぶかなあ。気にしていこう。

 まいったなあ。というかポン酢過ぎる。とある全国紙が「『人間は、見たいと思う現実しか見ない』。古代ローマ帝国の初代皇帝、ユリウス・カエサルはこう語った。多くの人々は『見たくない』現実に目をつぶる。古今東西変わらぬ人間の性だろう」って書き出しでもって原子力発電所の再稼働に反対する勢力の“見えてなさ”を批判するコラムをネットに上げているんだけれどまず冒頭から大間違い。ユリウス・カエサルことシーザーはローマ帝国の初代皇帝ではない。それは養子のオクタヴィアヌスでカエサルの方は修身独裁官(ディクタトール)として執政に当たったものの道半ば、共和主義者たちの放った刺客によって暗殺されて、そこで「ブルトゥス、お前もか」と叫んで絶命したって話がシェイクスピアの戯曲なんかにもよく出てくる。

 そして混乱に陥った共和制ローマの中で10余年、ジリジリと実力をつけて権勢を強めていったオクタウィアヌスがやがてアントニウスらを排除し初代ローマ皇帝となるってのが歴史上の一応の事実。たぶん教科書にだってそう書いてあるだろう、文部科学省の検定にしっかりと通った教科書にも。でもそれに逆らって全国紙のコラムはユリウス・カエサルを初代皇帝と言ってはばからず、そしてコラムがでてまる1日経っても訂正しようとしないってことはきっとそれが書き手にとっての「見たいと思う現実」になってしまっているんだろう。やれやれだ。でもこれはさすがに恥ずかしいので気づいたら直すべき。虚言を掲げた文章がいくら真っ当なことを言ったって、それは虚言にしかならないから。気づくかなあ。気づかないかもなあ。


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