縮刷版2015年3月下旬号


【3月31日】 第1話だけをネットで見てから久しぶりになる「夜ノヤッターマン」もTOKYO MXの視聴が可能になったことで録画して見てなるほどこれは落ち着くところに落ち着いたなあというか、悪の一味であっても悪事を是とはしないで正義の名を騙った悪に対する糾弾をちゃんとしてみせるあたりは、勧善懲悪をこそ1本の筋として通していた子供向けアニメーション「ヤッターマン」の名を受け継ぐに相応しい作品かも。ヤッター・キングダムを支配していたのはヤッターマンたちにあらず。そしてドロンボー一味は自分たちを正義とはしないでヤッターマンの地位を受け継ぐ少年少女に未来を託して身を退いた辺りにちゃんと筋の通しっぷりが伺えた。

 ドロンジョを幼い女の子にしたことで最初はいわゆるロリ系な作品としてそういう趣味の人を引きつける話なのかなって思わせながらもそうした歳だからこそ持っている夢であり希望であり、それらに対する無垢な思いってものが漂っていた正義をとらえて前へと向かわせ、そして世界をひっくり返す力になった。うまい仕掛け。あとはただの残党ではないヴォルトカッツェにエレパントゥスにも大人の男たちとしての役割を与え、レパードちゃんだけでなくガリナにアルエットをも立ち直らせ、鍛え導いていかせた。

 そんな配置の巧みさで紡がれたドラマを旧「ヤッターマン」のあのテーマが締める。大人には最高の展開だし、子供だって見て燃えただろう、その前へと向かって進む心の厚さに。だから「夜ノヤッターマン」なんてタイトルで、隠微さを醸しだして大人しかみないような作品にしてしまっては勿体ない。いつかタツノコプロを買収した日本テレビがちゃんとした時間帯に、子供だって見られるようにして放送してくれれば嬉しいけれども、それが出来る場でもないんだよなあ、今の地上波って。だからせめて夜でも良いから地上波で、その勇姿を見たいものだけれどあるかなあ、そういうの。次の日テレ深夜って何が来たっけ?

 THORES柴本さんが表紙絵を描いていて面白くないはずがない、っていうと作家の人に失礼だけれど、面白い作家の作品だからこ絵をつける編集の人も満を持して絵師さんを選んでくるんだとしたらやっぱり、THORES柴本さんが立った作品はそれなりに期待を背負ったものだって言えるだろう。ってことで読んだ黒川裕子さんの「イロニーの魔術師」(C☆NOVELSファンタジア)は、期待に違わず面白くって素晴らしい。何しろ世界観が絶妙というか、どこかファンタスティックな世界なんだけれども上空には地球とやらが浮かんでいて、そしてそこの一種地球みたいな場所で蟲とやらに攻め立てられているのを、有機的に作り出された「狩人」と呼ばれる小さい生体兵器で対抗しているといった感じ。

 どこかバイオSFっぽさも漂わせたそんな世界で、孤児だったパルと呼ばれている少女が成長して孤児院を出てどうにかこうにか暮らしている中で、蟲を相手にする合成有機獣の「狩人」を飼育し育成している部屋の番をする仕事を与えられて向かった先、ちょっとだけ持ち場を離れた時に「狩人」がいた部屋が爆破されて「狩人」は1匹を遺して死に絶え、そしてタイミングを測ったかのように蟲が攻めてきて街はちょっとした混乱に陥る。つまりは爆破はとてつもない犯罪で、あまつさえその犯人とされてしまったのが他ならぬパル自身。もちろん当人は無関係だったけれど、監視している魔法がそこにパルを映し出していて他に犯人はいないということになり、拷問を受けても嘘の自白はしなかったパルはそれでも死刑を求刑されてしまう。

 そこに現れたのが傲慢で成る魔術師のザトラッシュ。パルが映し出されていた映像には魔法がかけられていたことを明かし、パルが犯人ではないと証明してそしてパルを自分の手元に引き入れ奴隷というかお手伝といった立場にして自分のところで働かせ始める。もっとも事件は終わっておらず、ザトラッシュがよく知る魔術師カンジューンが死体で発見されては犯人として疑われて、そして彼の妻だった女性や弟子だった男も巻き込んでの真犯人探しが始まる。どういう魔法が使われていたのか。それは誰が使えるのか。その証言が意味するものは。聞き込みや推理によって明らかになる真相、そして追いつめられていく犯人。ミステリーとしての醍醐味を味わえる。

 と同時に、ザトラッシュという魔術師が持つ秘密がこの物語世界を語る上で大きな意味を持つようになる。彼はいったいどこから来たのか。その魔法の源泉は。それらが分かった時に物語となってり舞台と、現実に存在する地球との裏腹な関係が見えてきて世界に対する興味を煽る。なおかつパルという少女もまた、出生に謎があってそこにザトラッシュという存在も絡んでひとつの繋がりを示す。事件の謎解きがあり世界の謎に迫る2つの意味でのミステリーでありファンタジーでありSFでもあるこの作品に、続きがあればいったいどんな魔法が繰り出され、そこでザトラッシュはどんな推理を働かせるのか。彼が魔法を使うことのある種の悲劇がもたらす結末は。世界を行き来する魔法の可能性は。いろいろと楽しみも浮かぶ。だから読みたいこの続き。出るかなあ。

 これが時代か。「週刊アスキー」が紙での発行を止めてデジタルに移行するとかで、そういえば裏表が共に表紙だった一般誌がリニューアルして、パソコン情報誌となった「週刊アスキー」にしばらくコラムを連載していたなあって思い出しつつ、そんなマイナーライターの微細なコラムが存在し得たもの、スキマが多くていろいろな声を集めて埋めて行かなくちゃいけないさ雑誌という媒体だったからで、ほかのもグラビアがああり有名人の連載もありニュースもあって情報もあってと、種々雑多な情報が大小構わず1つのパッケージに収まっている面白さがあった紙の雑誌が、すべてネットという媒体に移ってどこまで維持されるのかって疑問も浮かぶ。

 っていうかまず無理だろうなあ、実際に人気連載だったはずの唐沢なをきさん「電脳なをさん」はデジタルには移らず終了の様子。それはポリシーなのかもしれないけれど、でも実際、アクセスさえあれば勝ちみたいなネットで、種々雑多の記事でスキマを埋めてそれで時間を楽しんでもらい、そこに価値を感じてもらうような雑誌の作りはなかなか出来ない。逆にそういう金だけかかってアクセスが見えない記事なんて殺ぎ落としていくのがネットの体質。結果として収益はあがっても、雑多な情報から生まれた繋がりなり発想はスポイルされていくんだろう。

 マガジンハウスの「POPEY」がコラム誌だった時代、あるいはライバル紙の「ホットドッグプレス」が存在していた時代にいったい、どれだけのライターが生まれたのか。けれども「ホットドッグプレス」が潰れ「POPEYE」がファッション誌から月刊誌へと移った過程でどれだけの人材が羽ばたく場所を失ったか。そういった育成はネットでも可能とはいうけれど、アラを探して誹り、スキャンダルめいた言説を探して拡散することでアクセスを稼ぐことがより勝利しやすい場所で、豊富な知識や異色の視点、それらを紡ぐ言葉の力で人を楽しませるライターなんて生まれないし、必要ともされていない。これも時代なんだけろうけれど、未来の言論空間は寂しい時代になりそう。そんな時代を言葉で生きて行かなくちゃいけない自分。どうなるかなあ。

 いやだから水本裕貴選手をアンカーで使うなら、日本には阿部勇樹選手という希代のアンカーがいるじゃないかって思ったし、年齢的にもロシア大会までは十分に行けると見ているけれどもそれではちょっと足りないと、ハリルホジッチはセンターバックが専門の水本選手を1列前に出してボランチというかアンカーとして置いて、センターバック2人との連携の中で守備を固めようとしたみたい。これによって両サイドが前に出られるようになって攻撃の厚みも出たし、守備だって中央は固くなったかもしれないけれども水本選手が前目に行っても後ろがついて来ないとスキマがあいて仕舞う。かといって水本選手がセンターバックと距離を保ったままだと中盤に穴が開く。そのあたりをどう調整していくかでより強固な守備と強烈なサイド攻撃を持ったチームになりそう。期待膨らむ。宇佐美選手はやっぱりすげえ。何でこれまで使わなかったんだと。使えなかったんだと。監督次第なんだろうなあ。


【3月30日】 地デジ化によってTOKYO MXが映るようになったけどタイミング的に放送しているアニメーションはだいたいが最終回。これは再放送だった「ヨルムンガンド Perfect Order」もそうだったし今朝方録画で見た「純潔のマリア」もそんな感じで始めて映像を見てそうかそういう風に原作をアニメにしたんだと思うことも多々あったりする。たとえば「ヨルムンガンド」はあの原作の雰囲気を絵的にも演出的にも割としっかり出そうといった印象。ちょい絵柄は変わってキャラの雰囲気もいじってはあるけどだいたいにおいて同じだし、間合いも同じだし展開も同じ。ただ動くことによって平面の瞬間が切り取られていた部分にアクションがあって声も乗ってキャラに肉付けが出来ていた。チェキータさんてあんな感じだったんだあ、とか。

 対して「純潔のマリア」はあの石川雅之さんの細かくどこまでも描き込んだ描写がアニメではまるですっとんでいた。線による陰も緻密な風景の陰影もまるっとはぶかれつるりとした顔になり、のっぺりとした風景になっていたけどでも、そこはアニメーションという媒体を選んだ上で変わって当然な部分。そして「純潔のマリア」の魅力は石川さんによる描き込みだけではない、っていうかそれは石川さんの特徴のひとつであって全てではない。たとえば考証。あの時代をどう画くかってあたりで石川さんは相当に知識を仕入れて世界や人物の描写へとつなげていった。漫画を読めばたぶんあの時代の考え方、あの時代の風景ってのが分かるし、それはアニメを見ても分かるようになっている。

 そしてストーリー。魔女がまだいて跋扈しながらも宗教によって包囲され弾圧されていく時代が持っていた二律背反すりょうな民衆の心理って奴を描いてたって感じがあって、それはアニメにもしっかりと残ってそれぞれのキャラクターに実在感を与えていた。アニメオリジナルの展開やキャラクターについては見ていなかったから何ともいえないけれど、きっと必然として登場してはストーリーに深みを与えてくれていたんだろう。漫画は漫画としてあり、そしてアニメはアニメとしてある作品として、きっと「純潔のマリア」は語り継がれるんじゃなかろうか、って全部見てから言えればいいけどその機会はあるかなあ、BD買うしかないのかなあ。

 ふと気が付いたら朝日新聞土曜夕刊のサブカル面に掲載されていたコラム「茶話」が終わってしまうようで、代わりに宇野常寛さんと長嶋有さんの世を忍ばない姿でもあるブルボン小林さんがそれぞれに月1で何かコラムを書くみたい。ずっと担当していた漫画の伊藤剛さん、ゲームのさやわかさん、ライトノベルの前島賢さんにアニメの藤津亮太あんといった、それぞれのジャンルの専門家によるコラムはそれで、専門家だからこその深みも重みもあったのだけれど、新しい人たちは各ジャンルの専門というよりは、ポップカルチャーのさまざまなジャンルを眺め見る人として語っていくことになるのだろう。そのアプローチにこれまでとの差異はあるのか。見ていきたい。まあブルボン小林さんなら漫画もゲームも目配りを利かせてくれそうだけれど。宇野さんはアイドルなら強いかな。ライトノベルは取りあげられそうもないかなあ。

 ほかの番組と重なってたんでアニメーションの方は全然見ていなかった「暗殺教室」だけれど、映画の方は評判が良いので見に行ったらなるほどこれは面白かった。だいたいのところは分かっていて、殺せんせーの無敵っぷりに誰がどう挑もうと何が起ころうと最後に救いはあって続きもあるとは分かっていたけど、だからこそどれだけのことが起こり得るのかってのを確かめる楽しみはあった。あんな形になってまでいったいどうやって助かったのか。説明はないけれもきっとそれが殺せんせーだからってことになっているんだろう。

 あと単行本でまだ読んでた初期の頃とは違って、殺せんせーをとりまく環境が大きく代わっていて、どうやら誰かの意思を受け継いで先生をやっているってことも映画では最初っから提示されていた。それによって鍛えられたE組の面々が、次にいったい何を起こしてくれるのか、って興味はある。単純に殺せんせーを殺して地球を救うってことだけじゃなく、それが世界を巻き込む陰謀に立ち向かうってこともあるのかもしれないし、やっぱり単純に学校内のヒエラルキーの転倒を狙うのかもしれな。まあこれだけ風呂敷を広げて置いて、後者ってこはないだろうけどそれでも嬉しいかな、人が成長していくドラマは見ていてやっぱり気持ちの良いものだから。それにしての二宮和也さん、声の演技も巧いなあ。すでに報じられていたけど改めて聞いても殺せんせーにピッタリ。よく選んだ。喝采だ。

 13巻を2クールってそりゃあ無茶だなあと思ったけれども間延びするよりしっかりまとめて終わることも大切なのかもしれないとも思ったアニメーション版「七つの大罪」。最終決戦を終えて敵を倒して大団円、魔法使いのマーリンも胸とかさらけ出していて目にも良く、そしてジェリコもすっかり可愛らしくなっていてこれならバンかも関心を持って見てもらえるかも、ってそこはないけどでも旅立ったバンにジェリコがくっついていったところは描かれなかったか。あとギーラがゴウセルへの心情を語った場面でゴウセルが笑ったのが気になった。そういうキャラだったっけ。この後も漫画は続いているけど13巻きが溜まるまでには何年かかかりそう。そしてアニメ化はその先となると4年後あたりになるのかなあ。それまで覚えていてもらえれば良いけれど。でも再開されたら見るんだろう。それまで待とう気長に。


【3月29日】 よくわからないのはラッピングバスの使用まで差し止めようとしていることで、こちらはちゃんとキャラクターの使用料が支払われてきていたにも関わらず、水島親司さんの事務所はもう使ってくれるなと言ったらしい。だから新潟市内の商店街に立ち並ぶ「ドカベン」の像が、最近いろいろな“遊び”に使われているのを嫌気してってのはなさそうな話で、それでも使用料の支払いを求める求めないといった話すらなく、撤去を言い出したあたりに、水島さんなり事務所の新潟に対する何か複雑な想いがあるんだろうなあ、なんて想像も浮かぶこの一件。

 というか、頑として譲らないのが水島さん本人なのか、新潟日報の報道にあるように著作権管理の仕事を縮小しようとしている段階で、あらゆる方面への使用を事務所がもう止めようとしているのか、見えないところがあってこれといった理由へと至らない。事務所側の体制の問題だとしても、すでに使用料を払わないことで合意している商店街の像を撤去させる必要ははないし、大和市の方にある像に撤去の話は来ていないらしいから、そうした理由はやっぱり表向きのものでしかなさそう。だとすると止めようとしているのは、水島さん本人の固い意思ってことになる。

 そうした感情がいったいどこから現れたものなのか、球場の命名権問題なのか他にいろいろあったのか、分からないけどいずれにしても評判は落とすことになるかなあ、今さら落ちても気にしないのかもしれないけれど。ただやっぱり相手の厚意が根底にあるものに、いつまでも乗っかっていられないという前例は生んだんで、各地で進むそうしたキャラクターを使った街起こしでは、いつか無くなるかもしれないリスクをちゃんと勘案していかないといけないかも。鳥取県の境港市にある水木しげるさんの妖怪ロードは、水木さんの厚意で無償で使わせてもらっていて、それを街が受け止めちゃんと守り立てているから続いている感じだし。

 もちろん市民には、自分たちとは無関係な妖怪が跋扈することを良く思わない人もいる。「ゲゲゲの鬼太郎」は知っていても漫画であったりアニメのキャラクターに過ぎず、水木さんが境港の出身であることも知らないまま来たのにいきなり、地元出身だからとそのキャラがドカドカ入って来られたって戸惑うのが、普通の頭ってものだろう。妖怪が嫌いな人だっていそうだし。だから自治体なり観光協会は、そうした人にも理解してもらって味方に引き入れ、キャラクターを梃子にして地域を盛り上げることが自分たちにどれだけのメリットをもたらすかを、ちゃんと説明していく必要があるだろう。それによって歓迎の声があがり、出す方の厚意もちゃんと続くといった流れを、今一度考え直すきっかけを与えてくれたのかもしれない新潟の一件は。それにしてもどうなるだんろう、ケツバットガール。

 読んで難しいってことはなく、細かいテクノロジーとかに関する知識はなくても仮想通貨とはそういうものだって認識を覚えながら読んでいけば、だいたい何が起こっているかは分かる気がした藤井太洋さんの新刊「アンダーグラウンド・マネー」(朝日新聞出版社)。だからここで気になったのは、仮想通貨が流通する仕組みそのものってよりは、その上に形作られた地下経済が、僕達の暮らしにどんな影響をもたらすかってことで国家に対して税金を支払うことで守られてきた安心であり安全が、もしかしたら保たないかもしれないという可能性が次第に色濃くなっている状況で、別にすがるものがあるてビジョンを見せてくれる。ただそこにすがるにはいろいろと切り落とさなくてはいけない日常もありそう。

 会社に勤めて給料をもらって税金は天引きで社会保険料も保ってもらうような暮らしが終わってしまった時、いったいどうやって生きていけば良いのか。そして将来、日本にも外国から人がどんどんと流入していった果てに生まれる人々の生活がどういう形態になっているのか。そんな辺りを教えてくれたり、見せてくれる物語。田舎に家があってそれを守ってさえいれば、生きて行けそうな年寄りにはピンとは来ない話だけれど、これからの時代を泳いでいく若い人は、読んでいろいろと学んでおいた方がいいのかも。その飲食の支払いを何で行うか、それを幾らにするかなんて交渉とか必要になる社会を、漫然と生きていくのは難しそうだから。とりあえず手に技術を。そしてネットに関する知識を。その上でどうやって生きていくのかという目標を持とう。あるいは育もう。

 羽田空港へと行ったら外国から来たアニソン好きな女の子たちがアニソンを歌ってて、それをアニソン好きな女の子たちが応援していたという、そんな光景が見られたのはそこで「HANEDA INTERNATIONAL ANIME MUSIC FESTIVAL」が開かれていたからで、ライブもあればコスプレイヤーさんたちによる空港ロビーでのコスプレ披露もあってと空の玄関口がなかなの賑わいを見せていた。幕張でOTAKU SUMMITもあってレイヤーさんたちも迷ったかもしれないけれど、空港という場所で堂々とコスプレできてそれを外国の人たちから喝采を浴びて見てもらえるという経験はなかなかに得難いもの。なんでこっちを選んだって人も少なくないかも。

 そんな羽田のイベントをプロデュースしているGOMA STUDIOってところが、あのきゃりーぱみゅぱみゅも所属しているワーナーミュージック・ジャパンと提携してアニソンレーベルを立ち上げるってんで発表を見に行く。というか最近までまるで知らないGOMA STUDIOだったけど、どうやらLOVERIN TAMBURINというユニットを擁して世界ツアーをしているレーベルだそうで、日本でライブをするのは4年とかそんな久々だったらしい。なるほど馴染みがないのも当然で、普段はもっぱら海外向けに日本のアニソンなりアニソン的な音楽を演奏して回っているらしい。

 そんなGOMA STUDIOとどうしてあの世界のワーナーが提携するの? っていった疑問が当然浮かぶけれど、今さらランティスとかスターチャイルドとかアニプレックスとかみたいに番組なりパッケージに付随するオープニングやエンディングやイメージソングの分野に割って入ろうったって、アーティストもいないし出資だってしなくちゃいけなしといろいろ面倒。むしろだったらアニソンとう括りで海外に向けて積極的に発信していて、現地でアニソンのイベントを仕切っている人たちとも繋がりのあるGOMA STUDIOと組んで世界に向けてアニソンあるいはアニソン的なものを発信していくことが出来ればって考えにあるみたい。

 ワーナーミュージック・ジャパンの会長兼CEOまで会見に来ていてなかなかの力の入れっぷり。けどランティスとかスターチャイルドとアニプレックスとかと真っ向勝負したって今さらかなう訳もないなら、違うところでビジネスをしていこうって考えがあるみたい。GOMA STUDIOがプロデュースしてカバーなりアニソンっぽいものを作ったり海外のシンガーと組んでみたりするのをワーナーが持つ世界的なネットワークで支えることで大きなビジネスへと育て上げる。なるほどこれなら勝算もあるしむしろ他より大きく育つ可能性だってあったりする。

 そりゃあ日本でオリジナルを歌っている人を世界に紹介できれば良いんだけれど、そういう人たちには時間もないし逆に海外にネットワークもない。ならGOMA STUDIO的なところが繰り出している音楽を、すでに世界に持っている彼らの人脈も生かしながら展開してく方が良いんじゃないかって判断があったみたい。なかなか面白い発想。そして既存のレーベルにはあまりない発想。日本で限りのあるOPとEDの取り合いを演じているより、世界にアニソン的なものを自分たちのコントロール可能な歌声でもって展開していった方がそりゃあ、規模も大きいし夢もあるよなあ、ってな感じか。

 ワーナーでもワーナーブラザーズホームエンターテイメントの方はジェネオンユニバーサルから人も移ってアニメに力を入れているけど音楽でワーナーミュージックと組んでるってあんまりないものなあ。いっそだったらワーナーパイオニアの昔を蘇らせてアニソンにも力を入れるかと想ったけど音楽の方でそういう動きはなかったものが、別の形でアニソンレーベルを手がけることになったという、この状況は果たして是と出るか否となるか。様子を見ていきたい。


【3月28日】 幕張メッセにコミックマーケットが帰ってきた! ってそれを我がことのように驚いたり感慨深げに語ったりできるだけののめり込みを、1990年代初頭の同人誌即売会に対しては抱いていなくって、コミケが晴海から幕張メッセに移っていたことも、それが1991年8月開催予定の分から晴海へと戻ってそして、今の東京ビッグサイトへと移っていったこともそんなに気にしていなかったから、どれだけの複雑な感情をコミケの準備会の人たちであるとか、あるいは当時から参加していた古参の同人誌界隈の人たちが持っているかは想像しかできない。

 ただ今この時期に、東京ビッグサイトが使わせないと言って締め出して起こる阿鼻叫喚の凄まじさを想像すると、起こったことの重大さも何となく分かるしそして当時、どこかまだ日陰者のような立場に置かれていた人たちが、そうした陰の部分をつっつかれ妙なレッテルを貼られて閉め出されてしまったことをどう受け止め、今とは比べ者にならない逆風の中でコミケを存続させ、今へとつながる規模へと発展させていったことを思えば、抱く感情の複雑さってものは想像すら超えるものなんだろうなあ、といった予想はできる。

 そういった思考を経た上で改めて、幕張メッセを会場にして「COMIKET SPECIAL6 OTAKU SUMMIT」が行われた意義はとてつもなく大きくて、そこに少なくない数の同人誌をやっている人たちが参加してくれたってこともやっぱり意味のあることだと受け止めたい。企業とかはまだ、機会があって場があればどこにでも出ていくから屈折も屈託もないんだろうけれど、それでもそうした企業の出展があって支えられているイベントでもある訳で、前週に巨大なアニメ系のイベントを終えながらも連続して出てくれる企業のアグレッシブさには感謝するしかない。

 というかAnimeJapan2015の混雑に比べると、比較的空いている幕張メッセの方が良いんじゃないかとすら思ったり。ufotableのブースとか行列できてなかったものなあ。ただシャフトのブースでは「魔法少女まどか☆マギカ」の何かが売り切れていたからやっpり人気のものは人気なんだろう。同じCOMIKET SPECIALが水戸で行われた時はまだ、「ひだまりスケッチ」の人でそれなりに人気があって梅酒のラベルとかに起用された蒼樹うめさんだったけど、この5年で超ビッグネームになってしまったなあ、とコミケの幕張復帰とは違った意味で感慨。「絵師100人展」のブースには、同じところが主催の「蒼樹うめ展」のチラシも置かれていたけどどんどんとはけていたし。人って進歩するんだなあ。人によるけど。僕なんて……言っても詮無い話。やれやれだ。

 そんな「OTAKU SUMMIT」には同人誌即売会とそして企業や自治体や観光協会なんかが出展してご当地系を紹介するブースが集まった「OTAKU EXPO」なんかがあって、今日はもっぱらその「OTAKU EXPO」の方を見物、というか冒頭から境真良さんを司会に、中村伊知哉さんに千葉市の熊谷俊人市長に、国立新美術館の青木保館長に、今はアニメやゲームの議員連盟に関わっている弁護士の桶田大介さんが登壇して喋ったシンポジウムを聴講して、熊谷市長の政治家として持っているバランス感覚の良さを改めて認識した次第。こういう場に呼ばれて喧騒を見せられ、もっとこっちに予算をって話を振られて普通なら諸手を挙げて賛意を示して会場の喝采を浴びようとするだろうところを熊谷さん、旧来から援助してきた伝統的な文化への配慮もちゃんと忘れず口にする。

 ただ、そうしたものに携わっている人が少なくなって来ている上に、新しい文化も興っている状況で配分に見直しが必要だといったロジックをちゃんと掲げ、筋道を通しながらこうした新しい文化を支援するような方向を打ち出していきたい旨、話していたところに目配りの良さってものが感じられる。こうした文化を支援する意味として、新しい人に感心を持ってもらい、そこに住んでもらうことで自治体としての成果を得るんだといった点も。企業の誘致と違って税収がすぐに増える訳でも雇用が盛り上がる訳でもない文化政策でも、それが住政策に結びついて町を豊かにし、暮らしを豊にして結果、住民を増やし税収を増し消費も呼び込むといった道を見据えて、言葉にして多くを説得できるロジックを持っている。

 その場限りの受け狙いが大好きなどこかの総理大臣とかとは、まるで違った聡明さ。それは幕張メッセにコミケが帰ってきたことで、これからもこうした巨大イベントがバンバンと行われて欲しいといったリップサービスに向かわないところにも現れている。もちろんコンベンションセンターの魁となった幕張メッセが、常に新しいイベントを世に打ちだし、ナンバーワンであり続けて欲しいという意識は持っているだろうけれど、だからといてオタクなイベントを連日連夜、開催したところでそれだけでは地元の理解も共感も得られない。何かことがあればいつかの再来なんてことだって起こり得る。今もそれは変わりがない

 だから熊谷市長は、日常的に町の中で同人誌即売会が行われるような状況を作り、そうしたことに予算を使い、作り手との距離を近づけさせてそうした文化への共感を誘うことの大切さってものを訴えていた。巨大イベントはともすれは負の面ばかりが喧伝されて強調されやすいけれど、日ごろから町の中でそうしたイベントに類するこが行われ、受け手から作り手にもなって共に文化を支えているという意識を持つようになれば、負の部分を上回る光の部分を伸ばそうと支えてくれるようになる。そんな道筋を示して大艦巨砲主義的で、トップダウン的なジャパンコンテンツの称揚に釘を刺していた。底上げをしつつ上からも下ろす両方からのアプローチが噛み合った時、誰もが羨むオタクシティができあがる、って思いたいけどそれまで熊谷さん、市長をやっていてくれるのか。国政で活躍してくれれば良いけれども雑巾がけから始めなきゃいけないんじゃ意味ないし。ともあれ面白い市長。その言説を追っていきたい。ジェフ千葉への応援も期待したい。

 それであの元官僚とかいうお爺さんはいったい、僕たちのために何か役立つことをしてくれたのかい? そして役立つことをしてくれているのかい? って考えるとただ政権に対して文句を言っているだけで、いろいろとヤバい現状を変えるに何ら有効な情報を発信していないような気がしてならない。というか、官僚時代にいったいどれだけのことをしたのか? って考えても制度改革には失敗して閑職に追いやられた途端に仕組みが悪いと言うだけで、何かを打破する力にはならず追い出されても揣摩憶測だけで喋って不安がりたい人の心につけ込んで、仰がれてはいてもだからといって解決のための行動を起こそうとはしていない。

 挙げ句にせっかくもらった機会を、そんな無味乾燥な言説でもって埋め尽くしては呆れられ、忌避されお引き取り願ったことを何者かによる陰謀のように騒ぎ立て、自分がそうした陰謀を向けられるに値する人間であることを公共の電波を使って電波的に喋ってみせるその夜郎自大っぷりを、それでも英雄視する人たちがいるというこの状況がどうにも煩わしい。恨み言を喋っている時間があるならその時間で政権中枢をひっくり返せるだけの情報を暴き喋って晒せばいいのに。それができるなら本来的な意味でもって官邸の陰謀とやらで排除されただろうに。でもそんな文句の坩堝を体現できるキャラですら、いなくなってしまうという状況もまた怖いもの。もっとクリティカルに、急所を攻めて強大な相手を倒せる人間はいないのか。いないからこそのこの惨状、なんだろうなあ、やれやれだ。

  尻拭いをしたいのが自分の信じるビジョンに他人を会わせたいのか、安倍総理の“人身売買”発言にさっそくケツモチな記者が言葉を添えてその意図を解釈している。でも「ただ、『人身売買には日本語の意味として強制連行は含まれない』とも指摘しており、旧日本軍や官憲による強制連行説とは一線を画す意図もあったとみられる」ってあるけれど、強制連行だろうと人身売買だろうと相手にとっちゃあ人権の侵害だしむしろ奴隷制的だと外国じゃあ余計に非難されるんじゃあ。というか人身売買だって最上流ではどこかに強制性も漂っていたかもしれないっていうのに。でもって「実際は、高給にひかれて慰安婦となった女性も多かったはずだ」っておいおい前聞いたのかよ。そう思いたいだけじゃないのかよ。よしんばそうだとしても、貧困が生んだ憧憬ならその貧困は何に起因したのかをまず考えるだろう、普通の頭があれば。真っ当な頭から突っ込まれることを書いて平気な厚顔が、大手を振って歩いている状況がいったいなにをもたらすか。そう思うと夜寝られなくなっちゃう。やれやれだ。


【3月27日】 人間の理性や知性が獣性を押さえ込んでいるのが時として発露し発現して、人間をその獣欲のままに暴れさせる怖さというものがある一方で、ロバート・ストールマンの「野獣の書」シリーズは人、間ではどうしても足りないパワーやスピードといったものが野獣にはあって、それが野獣を秘めた当人であったり、その人間が慕い愛おしく思ってる存在が危険な目に遭った時に発動して、一種の超存在へと変えて戦い救ってみせるといった英雄性めいたものも指摘されていて、忌避すべきと思わされると同時に内在して欲しいとも思わせる。最愛の女性が元夫にさわわれ山奥へと連れて行かれ、後を追おうとしたら警察につかまって、監禁されようとした時に野獣が現れ拘束を引きちぎり、遠くへと走らせ何人もの屈強な男たちを叩きのめして女性を救い出すといった具合。

 傷ついてもすぐに容態は回復して、また人間の姿に戻って愛を確かめあうという展開はともすれば、秘められた力といったものへの中二病的な憧れなんてものも喚起させるけれどもそうやって、飼い慣らせれば良いんだけれどもそれが出来ないから野獣から変化した者たちは迷い、困って押さえ込もうとした。ヒーロー願望を人が満たすには野獣はあまりにも野獣過ぎるということなんだろう。だからいずれ抑えられ埋もれさせられる。だったら何のために現れたのか。遣わされたのか。ってところにひとつ、より超越した存在への関心って奴が漂う。本当のところはどうだったんだろう。聞いてみたいけれども作者はもういない。そこが残念と思ってもう30年か。時の経つのは早いなあ。

 だんだんと明らかになって来たのは、副操縦士がどういう理由からか機長がコックピットを出た瞬間に決意して、機長を閉め出し外からは開かないようにロックしては降下を可能にする操作をして、そしてまっすぐアルプスへと激突したってこと。乗っていた人たちはその降下が激突に向かうとは寸前まで知らなかったようだけれど、副操縦士だけはもう確信を持って自分が乗っている大勢を道連れにして死ぬことは分かっていただろう。そういうことをしでかしてしまう恐怖とか、畏怖とかをまったく覚えなかったのか、覚えなかったのだとしたらどうしてそこまで精神が行ってしまっていたのか。そこがやっぱり気になる。何か理由があったのかなあ、この地上にいたくない理由が。いずれ明らかになるだろう“真相”に目を向けていこう。

 フジテレビが何かネットで24時間のオリジナルニュース配信をやるとかで、それが総勢で30人くらいしかおらず、予算も年間で10億円弱とそれでいったいどれだけのニュースを取材して間断なく提供できるんだろうっていう疑問がわいてくる。というかフジテレビ、夕方のニュース枠も1時間拡大するんでそっちにスタッフも機材もとられてしまうだろうに。あとやっぱり予算が少なすぎ。仮に10億円として1日あたりの予算が単純計算で274万円とかそんなあたりで、24時間で割ったら11万円とか12万円とかそんなところ。なんだ結構あるじゃんとか思わないでもないけれど、スタジオだって機材だって必要な訳で、残る予算で誰かが取材に行って帰って記事にするにはやっぱり足りないような気がする。

 人繰りだって大変そう。1人の人間がキャスターとして連続して座れたところで1日に8時間が限度で、それを3交替して回すにしたって相応な過重労働となりそんなに集められるのかって思わないでもないけれど、そこは幻のCGキャスター「杏梨ルネ」を映し出しながら、吹き出しに共同通信の速報を出しつつそれを音声合成ソフトで読ませていけばお金もかからずにニュースっぽいことは出来るかな、ってそれじゃあ誰も見ないか。だいたいが取材してビデオを編集して記事も書いて寄せて、そしてスタジオで映像出しながら原稿読ませるのを24時間ぶっつづけで本当にやれるのか。それとも途中の何時間かは近所で見つけた猫だけ映したりするのか。それが視聴率稼いだらどうするんだとか思ったりもしたこの一件、お手並み拝見といきたいところ。紙媒体にとばっちりが来ることはないよなあ、いくら何でもタダでは動かないだろうし。

 それ以前に自分で自分の首を絞めていた入りする紙媒体。大塚家具の久美子社長と勝久会長との確執から起こった株主の争奪戦は、社長の久美子さんが勝利して経営権を確固たるものしたようで、まずは一段落ってところなんだけれども品性が下ぶれしている自称全国紙が、ニュースサイトの見出しにまたぞろ「かぐや姫」だなんて出自と性別をひっかけ揶揄するような肩書きでもって久美子社長を呼んでいたりするから気持ち悪いというか、鬱陶しいというか。自分ではイケてることでも言っているつもろなのかもしれないけれど、傍目には寒いばかりだし、そもそもがプロキシーファイトに勝利した上場企業の社長を論って出自と性別に寄りすぎたあだ名で呼ぶのは相手に対する敬意も礼儀もまるでない。

 ともすればハラスメントとすらとられかねない言動を、止めるどころか何度も繰り返すあたりに誰かを貶めてでもアクセスを稼がなきゃって意識に溢れているってことが伺える。それは裏返せば現状ではアクセスも経営も厳しいってこと。だから下品さをさらけだしてでもアクセスを得ようとしてるんだけれど、そうやって下品さで集めた客はさらに下品を求めていって、そして真っ当な人は呆れて去っていったいどれだけの人間が残るのか。分かっていればやらないんだろうけど、それすらも考えられないくらいにイっちゃってるんだろうなあ、経営が。あるいはこういう言説を下品だとはまるで思ってないとか。曽野綾子さんのあのコラムを差別的だと思わなかった人たちだから、本当にそうなのかもしれない。いずれにしてもヤバい状況。他の企業の経営についてあれこれいってる場合じゃないってことだけは確かだ。

 スネークでありバトーでもありそして「ちびねこトムの大冒険」のレオニスでもある大塚明夫さんが書いた「声優魂」(星海社新書)を読んだけれども、特に業界の裏を暴くようなことは言っておらず、俳優や芸人が声をやることにしてもアイドル声優がきゃあきゃあ言われていることにしても、それがそうならそうなんであって俺は俺なんだということを言っているくらいで、そこで大塚さんの言に従っていくにしても、アイドルとして人気になりたいと考えるにしても、人それぞれってことでしかない。声優にとっては。でもって大塚さんは、そうした声の聞き手となる僕らに何か要求している訳でもなく、自分はどう演じているかを語ってくれるくらいで、それを読んで僕らが声優という仕事はそうだと思うにしても、やっぱり人気声優の人気ぶりに乗っかるにしても、僕ら次第なんだということになる。

 そこで僕自身となると、今ひとつアイドル声優という存在が分からなくって声質なり演技の幅なりに惹かれる性質であってその声が聞けるなら良いかなあと思っているのだった例えば小見川千明さんとか。人気だから売れるから起用するから人気になるようなトートロジー的スパイラルが主流になっているのだとしてもそんな連鎖はいつか途切れる訳でそこに乗っかるよりああ楽しい声だなあと追いかけ続ける方が、僕にとっては楽しいのだった。それはぱくろみさんでも悠木碧さんでも変わらないなあ。巧いし役に乗っているけどだからといって追いかけるって感じでもない。むしろ作品がどうでそれに合っているかってことが何よりの判断基準になっている。そいうものだ。だからやっぱりこの本は今、声優としての業に就いている人たちが今一度、自分の立ち位置を見返す上での示唆を与えるもの。読んで大勢が自分の仕事を高める方向へと動いて、日本のアニメーションが栄えていってくれれば嬉しいかも。とはいえそうした努力を、受け手である僕たちが理解しないと何にもならないんだけれど。難しいなあ。


【3月26日】 TOKYO MXが見られるようになったんで早速とばかりに、BDを全部持っている割には見ていたなかった「ヨルムンガンド」のそれも第2期「Perfect Order」の方の何と最終回とかを見たりしていた前後に、アルプスで航空機が墜落していて、そこに関係性はないんだろうけれども一方で、ココ・ヘクマティアルが止めようとした混乱する世界が少し遡って再現されたような気もして身震いをしたりもする。まだ明らかにはなっていないけれど、どうや機長なり副操縦士のどちらかが操縦室から閉め出されたそうで、中に残った誰かによる異常な操縦でもあったかのような報道が行われ始めた。それが自分の意志によるものか、何者かによる強制かも分かってないけれど、強制だとしてそれはテロのようなものかを考えた時に、今すぐにでも起こり得る混沌への予感が広がって怖くなる。

 というか10数年も昔にすでに、旅客機をハイジャックしてニューヨークにある貿易センタービルに飛び込ませペンタゴンに突っ込ませた事件が起こっていたりする訳で、そんなテロがまたぞろ息を吹き返してきたってことになると、飛行機で移動するという方法への懐疑が浮かんで制約も起こっていろいろと問題も生まれ得てくる。だったらいっそ移動できる手段をなくしてしまえば、ってのがココ・ヘクマティアルの思いだった訳だけれども兄貴のキャスパー・ヘクマティアルは飛行機がなくなっても船で人は動き、銃がなくなっても棍棒で殴り合うと予言している。どっちが果たして正しいのか。それは人間の持つ獣性って奴次第ってことになるんだろうなあ。

 そう獣性。人は本来は獣であって、その生きるに貪欲な心理というかもはや本能といえるものを、知性であり理性であり経験であり他人との関係性の中で抑制して、人間らしい姿となって生きているんだけれど、ときおりフッと押さえ込まれた獣性ってものが浮かびあがっては、人間ならではの理性を塗り込め、知性を吹き飛ばして獣の如き無謀で無茶な振る舞いをさせる、っていうのが人間という生き物を理解する上でのひとつの見方になっている。ロバート・ストールマンっていう作家が昔いて、「野獣の書」3部作というのを世に出して将来を嘱望されなれながらもこのシリーズだけで亡くなってしまったんだけれど、そのシリーズで描かれるのもそんな、人間の獣性って奴だった。

 そしロバート・ストールマンは、それを直接書くんではなくって、シリーズでは熊とも猫ともつかない巨大な獣が存在して、それが1人称でもって自分の獣欲を語っていたのが、ふっと三人称に変わって幼い子供だったり少年だったり大人の男性だったりといった、固有の人格として語り始め、それぞれの人間になって生活を始める。その振る舞いは子供なら子供のように拙いし、大人の男性になった時はちゃんと理性も持って自分が誰かを説明する記憶も持っている。けれどもその内奥では猫とも熊とも付かない獣が息づいていて、変身した少年なり男性なりの思考に割って入って衝動をくすぐり、暴走させ爆発させてしまう。それが理由で優秀さと聡明さで愛された少年は立場を失い、暮らしていた地を追われてしまう。そんな描写から浮かぶのがまさしく、人は本来獣であってたがが外れれば本性が現れ出るといったものだった。ただ…。

 そうした人間の獣性って奴を仄めかしつつも、物語がクライマックスに至る過程で主題としえいくのは、そうやって野獣たちによって拾われ顕在化された人格に、それぞれの過去があって、そうした人たちを慕う者たちが存在している関係性があるっていうこと。さらには決して無秩序に変身している訳ではなくって、それぞれに理由があって目的があるように変身した野獣たちは、個々の人格となって誰かの前に現れ、時に愛し合い時に寄り添ってそうした誰かの求めに応じる。そんな不可思議な存在がどうして生まれたのか? ってあたりは分からないけれども想像するに、原始的な生命エネルギーとしての野獣があって、それらがただ乱暴に生きるのではなく、理性というたがをはめられ知性という色を塗られることによって、人間となって人間たちの中で生きて行けるのだということを感じさせ、人間の特別さって奴を示そうとしたのかもしれない。

 そう考えると、第1巻で感じさせた人間の獣性というところから、第3巻の巻末あたりで受けるもたらされる福音への感慨へと至る間にずいぶんと、物語の主題にズレがあるような気もしないでもないけれど、元より3部作を全部読んでこその1つの物語という訳で、それが3章に分かれているだけだと思うならば、まずは獣の恐ろしさを感じさせ、続いて獣が優しさとたくましさももって人間を助け大勢を導く様を感じさせ、そして最後に獣が人間に従いその希望を入れて、生まれ変わる姿に理性によって獣性を凌駕した人間への賛歌ってものがあるんだと、見るのが果たして正しいのかどうなのか。このあたりはあくまでパパッとした思いつきを並べただけなんで、いずれ精査して行こう。それにしてもこの傑作が、再刊されない状況ってのは寂しいよなあ。勿体ないなあ。

 多摩センターという地の果てに言ったら、そこはハローキティとしまじろうという2大キャラクターの都だったという。っていうか昔はもうちょっとだけベッドタウン的な雰囲気も漂っていたけど、サンリオピューロランドが危機を脱してアジアからの観光客の聖地となったのを合わせてか、あるいはベネッセが本気だしてキャラクターのしまじろうを売りだそうとし始めたのか、キャラクターが街を彩るようになってそして歩く人たちも大勢いて、何か華やかな雰囲気が漂い始めていた。もしかしたら新百合ヶ丘とか府中とかよりも華やかで賑やかかもしれない。若い女性も多いし何より子供が多い。それだけで街に活気が生まれ華やぎが出る。限界集落に欠けている要素がここにある、ってことは限界集落にハローキティを歩かせれば華やぐか、ってそういう問題でもないか。難しいなあ過疎対策。

 いや別に多摩センターには過疎対策の研究に行ったんじゃなくってアスキー・メディアワークスがサンリオのキャラクターを使った絵本を出すってんでその読み聞かせをアヤパンこと高島彩さんが行うっていう案内が来て見物に行ったもの。ただ読み聞かせるだけじゃなくってこの絵本が、アプリを通して見ると何と音声が流れてくるといった仕掛けがあってその声を高島さんがやっていた。ハローキティはともかくぐでたまとかKIRIMIちゃん.の声をいったいどういう風に高島さんが読んでいるのか、気になったけれどもイベントで読んだのはハローキティとマイメロディ。それでもおばあちゃんとかネズミとか羊とかの役も演じてみせていて、あれでなかなか巧みな声優ぶりだった。しゃべる技能を持った人は演じても巧いってことなのかも。これからどんなシリーズが出てくるかちょっと楽しみ。「SHOW BY ROCK!!」とか、ってそれは出ないか流石に。

 新宿上映ラス前の映画「世界の終わりのいずこねこ」は、50人とか60人とか入っていてなかなかの盛況ぶり。それは駆け込みってことではなく、何度も見に来ている人もいるような感じでそれだけ人の心に働きかけて止まない何かがあるってことなんだろう。実際に2度目となった鑑賞でも、やっぱり最高だったその物語。初日に見て須dねい筋を知り動きを知っていても、なお一層、浮かぶ絶望への諦観を突破して向かおうとする人の意志とか、足りないものを求めてやまない情とかってのが、が熱くも激しくもなく淡々を描かれる様を味わえる。

 そう、これは決して滅び行く人類がすべてを投げだし諦観の中に散っていく様を描いた映画ではない。ただ諦めの中に滅びを許容する物語なら、いずこねこなんて存在は不要だ。それがいる、そして歌い踊って宇宙へと旅立っている物語である以上、諦めの中に達観をもたらし悲しみの中に絶望を与えようとしたものではないって談じたい。いずこねこという存在はだから、滅びをはにかみ笑いながら震える心たちが呼んだ、希望のかけらの塊なのかもしれない。なんてことをふと思ったりした「世界の終わりのいずこねこ」の2度目の鑑賞。日常は続くけど芽生えた希望は人類を宇宙へと導く。そこで僕たちは再開するのだ、いずこねこに。


【3月25日】 なんでまた本城直季さんが今ごろ「VOCA展」に入っているんだ? って思ったりもした上野の森美術館。レンズの操作で遠景から物体がミニチュアに見える撮り方でもって一世を風靡した写真家の人だけれど、その“発明”は多くのフォロワーを生んで似たような写真を生み出し、ユニクロには動画のアプリまで登場したりして、先駆者として名を挙げたものの独自性って奴は打ち出しづらく、唯一無二の存在として引っ張りだこといった感じではなくなっていた。これが丸田祐三さんだと裁判沙汰にもなりながらもやっぱりモチーフを探す嗅覚と、それを不思議な色で撮る腕前でもって絶対性を保ち続けているだけに、本城さんもミニチュア風写真にプラスアルファを、って模索していたのかもしれない。

 その結果がアート作品としての写真であって、その質もただ見た目のビックリ感だけでなく、選ぶモチーフを工場にしたりしてそれをどこか霞みがかかったような暗さの中に浮かび上がらせることによって社会を切り取り、時代を写し出そうってしか感じが伺えた。今はそれが活動ならほかにどんなモチーフを撮っているんだろうか。そしてどんな感じに仕上がっているんだろうか。そんな興味が浮かんできた。平面絵画が大賞のVOCA賞に写真とは、って思わないでもあいけど既に写真の作品も多々あって、今さらそれはない様子。ならばあとはそれがどう見えるか、ってところで本城さんにはひとつの新しさ、先駆者がその先に行こうとしている模索があったってことなんだろう。そう理解する。

 ただ写真でもオッケーとするなら福田龍郎さんって人の作品の方がモチーフの選び方に面白さがあったというか、1枚は川がほとんどループ状態になって掘りのように地面を取り囲んだ風景をとらえ、そしてもう1枚は真っ青な海に浮かぶ珊瑚礁でできた島を配置してその島にプールを置いて人が泳ぎ周辺をボートなんかが走っているリゾートを写し出してた。そのリゾートは実はあり得ない風景をCGなんかで創造したもの。現実にあり得ないような、けれどもあり得る島のような山奥の風景を持ち出し、そして現実にあっても気づかない、現実にはない風景を見せて並べて世界のリアルの境界線を揺さぶるその提示。言われなければ分からないのは何だけれど、でもそのままでも見て不思議感が伝わってくるから作品として成功しているんだろう。他にどんな作品を作っているのかな。気にしていこう。

 純粋に平面絵画として興味を引かれたのが奨励賞をとっていた水野里奈さんという人の作品で、建物やら中庭やらといったモチーフを大きめのキャンバスにぶちこんではカラフルな色とそして歪曲した線でもって描き、そこにキラキラとした飾りなんかも貼り付けてあるような、ある意味でミクストメディアなんだけれど作品としては平面が基本といった感じで、それによって不思議で幻惑的な画面って奴を作り出している。具象というよりどこか抽象に寄っていて、シュールさもあるけど難しくはない優しさ、甘さがあるといった絵。どうやらそんなトーンがメインになっているらしく、フォルムを変えて変幻するように何枚もの絵があるみたい。全部ならべたら壮観だろうなあ。あとはそれがどういう頭から生まれてくるか、ってことか。いつか知りたい。

 ルネ・マグリットはルネ・エルスの子なり。ルネ・ヴァン・ダール・ワタナベと結ばれ内藤ルネをもうける。なんて話はまるでないけどルネといったらルネ・ヴァン・ダール・ワタナベさんと並んで僕の記憶で真っ先に上がるルネ・マグリットの展覧会が国立新美術館で始まっていたんでにコアファーレでニコニコ超会議2015の発表会見を見るまえにちょっとだけ寄ってのぞいてみたら、見知ったマグリットがいっぱいあって嬉しかった。僕がマグリットを知った藤子不二雄Aさんの漫画「魔太郎がくる」に登場した、海の上に浮かぶ巨大な岩に城が刻まれている不思議な絵はなかったけれど、エロティックさでは1番な、女体が顔になっている「陵辱」とか、木々の間を馬にのった婦人が通っているんだけれどどこかズレている「白紙委任状」とかいった画集で見たことのある作品がわんさと合って、その幻想の世界に浸ることができた。

 街並みは夜景なのに空は真っ青だったりする絵とか、見える山嶺が鷲の頭になっているような絵とかもマグリットとしてよく登場する絵。あとは靴に指がついているやつとか。超絶にリアルなモチーフを並べながらもそれが不条理な形をしていたり、シチュエーションとして不条理だったりするその絵からは、現実というものの移ろい易さなんてものが感じられて今、立っている場所への懐疑が浮かぶ。ただの平面に描かれたただの絵なのにそれが放つとてつもないパワーはVOCA展に来ていた作品にはまだ、あまり見られなかったというかそこへと至るステップを踏もうとしていないというか。もちろんマグリットなりダリなりピカソなりの現実を崩し歪めてビジョンを変える絵を今、描いたところで誰も驚かせられないけれどもそれでも絵の持つ平面ならではの可能性から目を背けないで、挑んで欲しいなあとも思ったり。マグリット越えは難しいけど、挑む価値はあるよなあ。

 さて「ニコニコ超会議2015」は夏野剛さんが企んだ超ワイン畑の開催が、男色ディーノとボブ・サップのパワー&ラッシュでうち砕かれて予定通りに「超プロレスリング」として登場するようで、そこには仮面女子によるアイドルプロレスもあれば、いつかの船橋市場で開かれた「ゆるキャラプロレス」なんてものも開かれる予定でプロレス好きなら行って1日でも見ていたくなりそう。同じ意味ではロボット好きが溜まりそうなのが「超ロボットエリア」でそこには「Pepper」が10台並んで踊ったりすれば、あの実物大パトレイバーが来たりして賑わいそう。ほかにもロボット関係が並ぶみたいで「ニコニコ学会β」あたりとはしごすれば科学な1日2日が過ごせそう。

 そういうそれぞれが好みのイベントを見つけて浸っていられるだけでなく、興味がなかったものが行って面白くて関心が広がることもある「ニコニコ超会議」。疲れたらイベントホールをどかんと使って設置される「超休憩所」に行けば休みつつ美味しいものも食べられるって感じ。「あんこ入りパスタライス」なんてもう10年とか昔のアニメが元ネタなのに今になって復活してきたとはちょっと不思議。そんな「超休憩所」に何とあのJALがタラップというか、階段状になったステップカーを持ち込んでは段差のあるアリーナとスタンドとをつなぐとか。なるほどこれはピッタリだけれど、思っても頼めないのが普通のイベント。でもあらゆることがアリになってしまう「ニコニコ超会議」だからそういう莫迦も可能になる。そこがユニークさであり強さでもあるんだろう。警視庁だって来るしDJポリスも来るものなあ。ケネディ大使だって来たりして。どうなんだろう。安倍ちゃん次第か。統一地方選のまっただ中で来るかなあ。

 仕方がない、半ば雇われ編集長という樹林伸さんの立場では、講談社が単行本を出さずそれから得られる収益が見込めない以上、その作品をマンガボックスという媒体で連載するための費用がでない、だから連載を終えるのは功利的な判断だと言える。そもそも問題は、どうして講談社が単行本を出すのを止めたかというところにあって、作者がブログなんかで明かしたように、表現に問題があると考え抗議があったら困ると思って取りやめたのだったとしたら、結果として抗議しそうなところが抗議なんてする訳ないじゃないかと表明したことで、理由は雲散霧消したってことになる。なおかつそうした理由はさらなる抽象を生むと抗議されている以上、講談社は受けてそれなら出しましょうって判断に転んでも不思議はない。

 ところが講談社は、そもそもがそういう判断だったのかを明らかにしないで、それには誤解があるようなことまで仄めかして出さない理由を表に出さない。受けて樹林さんは、作者のブログにあったとおりだということを、重ねて表明していたりする。つまりは表現の問題で揺れたってことで、作者に加えて半ば中立な樹林さんまでもがそう言うのだとしたら、講談社の出さないという判断には、抗議を寄越した団体を納得させるものはなく、むしろ憤りを買うものであって、そのままでいては世間的な納得を得られないってことになる。違う、そうじゃないというならその理由を明らかにすればいいのに、言わないってことはやっぱりそうなのかって勘ぐりも浮かぶ。

 そもそもが現実に単行本は出ない訳で、それは講談社としてはさないという決断を下したということ。厳然とした事実がそこにある以上、どうして出さないのかという理由を明らかにしない限り、この問題はいつまでも尾を引いて講談社へのネガティブな視線を向かわせ続けることになる。表現に憶したにしろ、売れ行きが微妙だからと他に理由をつけて決断したにしろ、、そこへと至った理由を明かにして、これからの策を打ち出せば万事スッキリなのに、そうはしないってことはそうはできない何かがあるんだろうなあ、それは誰か個人の体面か、だとしたら体面で会社全体への非難を甘んじて受けるのか。剛毅な話。沈黙の中に責任を忌避している態度は大いに怒りを買うだろうけれど、それでも沈黙を続ける気なんだろうか。成り行きを見たい。


【3月24日】 ところがどっこい、地上デジタル対応になっているBD/HDDレコーダーはもはやブルーレイディスクのアナログでの映像出力が御法度になっているらしく、再生しようとしても音声だけしか流れない。これはいけないとプレイステーション4の接続を切り替えて、テレビのビデオ端子につないで蛸足的にブルーレイディスクを観られるようにしたけれど、分からない人にはデジアナ変換が終わったからと切り替えることも億劫なのに、細かい違いもいっぱいあって面倒くさいと思ってテレビの前に座らなくなる人もいるだろうなあ。そうやってテレビ離れが進んでネットへと移っていった果てが、今の視聴率1ケタ台続出というテレビ界の惨状なのかもしれない。好き者しか残らないというか。地デジの移行とかBDのアナログ出力禁止とか、政府も業界も21世紀を通じて祟る愚策をしたってことかなあ。

 影が薄いからカゲウスってまた、ずいぶんと分かりやすいネーミングだけれど実際問題、そんなカゲウスだからこそできる仕事もあるってことで、勇者が魔王を倒した後に残した宝物を探す女の子たちと連れだって、旅に出たカゲウスはその他人から認識されなくなる能力を他人にも及ぼして、危険場所へとみんなを導く役に立つ。影が薄いのに他人の役に立てるなんて、って喜んでいたのも束の間、男の子ならではの衝動が行き過ぎるとそんなカゲウス属性が解けてしまうことが分かってさあ大変、いったいどうすれば治るのか、ってところで始まる賢者タイムへの誘いは、つまりイカとか栗とかそんな香りを漂わせるものになっているけど、自分1人で発電するのがエロではない一迅社文庫の限界というか、それが分かりやすさというか。松山剛さん「究極残念奥義―賢者無双― 〜俺が悪いんじゃない、俺のことを無視するおまえらが悪いのだ〜」は攻めて守って楽しい1冊。お読みあれ。

 マンガ大賞だマンガ大賞だ、年に1回マンガ家さんに逢えるかもしれないマンガ大賞の授賞式があったんで、選考員の1人として見物に行ったら今年は東村アキコさんが「かくかくしかじか」で大賞を受賞して、ご本人も顔出しオッケーの会見を間近で観ることができた。そんな東村さんが「ここでラブコールを送るとしたら」って話して、もしもこの作品が映像化されるとしたら是非、金沢美術工芸大学の先輩にあたる細田守監督にアニメーションにして欲しいってことだった。面識もあるそうだし作品も渡しているようだし、「バケモノの子」もほぼ完成して7月に公開だからそれ以降の企画として是非にって思いもするけれど、一方でどこまでもリアルな作品なだけに実写でも観てみたいって気もしてる。

 その時にいったい、日高先生を誰が演じるかってところで作品の印象もぐっと変わってきそうだけれど、あのどこまでもパワフルでどこか自己中心的ではあるんだけれどその実、誰よりも生徒達のことを思い美術のことを愛していた日高先生を演じられる役者は、そうはいないような気がする。東村さんとしては誰を指名ってことはせず、とりあえず宮崎の話なんで九州の言葉を話せる役者さんに日高先生をってことだったけど、それなら誰かと見渡して、福岡出身の松重豊さんとかどうかなあ、なんて思ったけれど身長188センチの松重さんが竹刀振り回してアイアンクローを繰り出したら、それだけで凄まじい映像になりそう。ちょっと観てみたいかも。どこか誰か映像化しないかなあ。アニメでも、実写でも。

 それにしても本当に嬉しそうだった東村アキコさん。過去に4度もノミネートされながら、それも全部違う作品でノミネートされながらも受賞を逸してきただけに、思うところもあっただろう。けれどもこれだけ数ある漫画の中からノミネートされるだけでも凄いという受け止め方をしてくれて、マンガ家仲間でも注目してる賞だと言ってくれて、そしてこうやって1番に選んでもらえたことを喜んでもらえたのは、選考に関わり、最終選考で1番に推した身としても嬉しい限り。本当なら1次選考の時に推せれば良かったんだけれど、読めていなかったんだよなあ、でも教えられて読んで面白い作品に出会えるのもこの「マンガ大賞」の良いところ。全部読めっていうのはつまり出会いの場をくれる絶好の機会なんだと思い、来年もどれだけノミネートされても読むことにしよう。でも推すのは「デストロ246」なんだけれど。いつか取らないかなあ。取って欲しいなあ。

 興味深かったのは最初、こういったとってもシリアスでそして感動を呼ぶような自伝的ストーリーになるとは、当人も考えていなかったこと。同じ絵画教室の出身で今はマンガ家となったはるな檸檬さんといっしょに、ハワイへと行き散々っぱら遊んで帰る途中で、そういえばエッセイ漫画の依頼があって何を書くかって話をしていてい、はるな檸檬さんが「先生のことを描かないんですか」といったことがひとつの始まりになったみたい。もっとも東村アキコさんはそれを聞いて一気にしらけてやる気も起こさなかったみたいだけれど、想像するにそれは漫画にして他人に読ませることができるような軽い思い出ではないっていう考えが、当人の胸の中にあったからかのかもしれない。

 大切過ぎて、重たすぎて、そして痛さもあって掘るには大変な思い出。向き合えば絶対に自分が傷つき、悩むと分かっていたんだろう。でもそれでも描けるのは東村さんしかいないと言われ、描くべきだとも言われたことがどこかに引っ掛かっていたのか、編集さんに女版「まんが道」を描くといったとっかかりを得て、漫画賞のパーティーだ何だと楽しい話を描くと言いつつ、それを描くまでに経験したことから逃れられない、どうあがいてもあの頃に、あの先生にぶち当たってしまうと感じて腹をくくって挑んだのかもしれない。そこへと至る葛藤、あるいは逡巡は授章式で話してくれた言葉からも結構感じられた。描きたくないという思いと、でも描かなくてはいけないという思いのぶつかり合いが、誰にもある青春の迷いや葛藤を思い抱かせ、共感を呼んだことが今回の評価につながったのかもしれない。

 それでもやっぱり掘れば痛みもぶり返す。だからあんまり考えることはせず、ネームに数時間、作画も1日8時間といったハイペースで描いていったとか。それであの感動と感涙と笑いと驚きを招くストーリーを紡ぎ上げたというから、やっぱり東村アキコさんは天才だ。それは作画にあたったスタッフの凄さもあって、そのことを感謝していたけれどでも、やっぱり東村さんの発想がありネームがあっての作品。自らの思いをそこに乗せ、傷みを分かち合いながら綴っていったからこそ多くを感動させ、そして晴れて「マンガ大賞」の受賞となった。おめでとうと言いつつこの経験を、多くの人に共有してもらって自分にとっての日高先生はいるんだろうか、目一杯に頑張って何かを成し遂げただろうか、なんてことを考えて、今なにもなければ新しく見つけるような1歩を、踏み出してみようと思ったりした、春。来年は何が取るだろう。


【3月23日】 そして「東京アニメアワードフェスティバル2015」も授章式が終わってアニメオブザイヤーに「アナと雪の女王」とそれから「ピンポン THE ANIMATION」が輝いてそれぞれにまずはおめでとうございます。可能性としては「かぐや姫の物語」が劇場映画部門はとるかなあと思っていただけに意外ではあったけれど、芸術性なり技巧性としての凄みがある「かぐや姫の物語」とは対極に一般性があって、なおかつ技巧性も凄まじい「アナ雪」が取るのもアニメーションへの評価としては極めて正しい。

 そしてテレビ部門の「ピンポン」。これも技巧性の凄まじい作品でそれがテレビで放送されたという凄さにも与えられた賞なのかもしれない。美少女が登場してハーレムで場トルしてっていったそれはそれでファンの気持ちを捉えた作品ではあるんだけれど、そればかりという状況に行ってしまってはまた隘路から抜け出せなくなってはもったいない。なおかつそれらが地上波から消えて、U局へネット配信へと足場を移している状況にあって東京キー局が技巧性に挑戦した作品を放送したっていう価値を、評価しても良いんじゃないのかなあ。テレビ局にそういう意識があるかは分からないけれど。場所貸してパッケージ屋さんのウインドウに使ってもらっている感も時々あるし。それをやるだけ偉いか。

 コンペティション部門では長編に「Song of The Sea」が輝いたようで、実はまだ見ていないんだけれども前評判の高さは凄まじく、チケットが1時間で売り切れたとか。柳下毅一郎さんが字幕の監修に入った「コングレス 未来学会議」なんて前日あまで余っていたのに……ってこれは去年の受賞作で、秋にも上映されているから埋まらなくっても仕方がない。「Song of The Sea」はこれがほとんど唯一くらいの見られる機会なんで人も集まったんだろう。その受賞によって日本でも一般に公開される機会が来ると良いけれど、アカデミー賞の候補になる「ヒックとドラゴン2」ですら公開されない国だからなあ。映画館はボコボコ出来ても映画は見られない不思議。

 映画館といえば日比谷あたりの劇場がまたぞろ整理されて有楽町マリオンにあるTOHOシネマズ日劇がいよいよ閉館に向かって動き出すとか。近場を整備して大きなシネコンをぶったてて、そこに日劇やみゆき座やスカラ座も吸収するらしいけれどそれだと東京宝塚劇場の地下ががらっと空いてしまうよなあ、何にするんだろう、ストレートプレーが可能な劇場にでもするんだろうか、ちょっと不明。日劇の方は歌舞伎町からミラノ座が消えて1000人規模の劇場がなくなっているご時世に残った最大の劇場なだけに潰してしまうのは惜しいけれど、その規模で興行を回せる映画もないから仕方がないか。でも分割したって小さい劇場でいろいろな映画がかかる訳でもないんだよなあ。名画座なり単館なりの役目を果たすって訳でもない。そんなミスマッチが酷くなった果てに来る映画の二極文化、そして周辺の衰退から文化としての停滞へと至るか否か。見守りたい。

 大変だたいへんだ。ずっとそれで見ていたCATVによるデジアナ変換が終わってしまうということで、部屋の狭さを理由にずっと見送ってきた地上デジタル対応とどうにかしようと電気屋に行ってBD/HDDレコーダーなんかを見て回ったら、だいたいの機器からアナログの出力端子が省かれてしまっているのに気が付いた。だってそれがないとテレビに繋げないじゃん。あるいはAVアンプにも。だから慌ててアナログの出力がついている機器を探したけれど店頭からはもはや撤去されているようで見かけない。いっそBDプレーヤーとしての利用を諦め、HDD録画が可能なテレビにしようかとも思ったけれどそんなものを置く場所もない。

 しゃあないからと秋葉原の量販店ではなく通販をメインにしている店をのぞいて今もまだ残っていた、アナログ出力付きのシャープのひとつ前の世代のBD/HDDレコーダーを購入してこれで何とかなるだろうと持ち帰り、積みあげた本やらDVDボックスやらをどかしてAVアンプにつなごうとしたけど手が届かず、まあ良いかとテレビに直接つなぐかたちにしてとりあえず、地上デジタルが見られる環境を作り上げる。これで今まで見られなかったTOKYO MXも見られるようになったけれど、そうなるとアニメの視聴がさらに増えそうで時間が奪われそうで本が読めなくなりそうで。困ったけれど仕方がない、それがアニメ者の運命なのだから。

 またなんというポン酢なことを。自由民主党の稲田朋美政調会長が、自分が弁護士として加わり裁判をして争って敗れた案件を持ち出して、そんなものはなかったんだと真っ向から否定しにかかるという臆面のなさを見せている。そして、そんな司法への挑戦に与する発言をベッタリな感じで記事にして堂々と掲載する新聞の厚顔っぷりが痛々しい。俗に言う「百人斬り」は何も新聞の捏造ではなく、戦時の自慢話なり戦意昂揚の大言を軍の検閲なんかも経て伝えたに過ぎない。だから後になって否定しようにもさすがにそれは無理だってことで、裁判では事実性もある程度認定されていて、虚報ではないってことが確定している。ある意味で終わった話だ。

 もちろん遺族の心情は推察してあまりある。おそらくは当時、誰でもやっていただろうことをひとりふたり、代表して語ってみせてそれがお国のためになるからと喧伝されて英雄視され、当人たちも周囲も悦にいっていたのが、戦後にすべて否定されて戦犯にとわれて処刑されてしまった。どうしてという思いは当人たちにあるだろうし遺族にもある。とりわけ遺族はその汚名をも受け継いでしまって、どうにかして拭いたいという気持ちはあっただろう。だから裁判に訴えて、報じた新聞の大げさを問うことによって親族の罪を減じようとしたんだけれども罪は罪、拭えなかった。

 ならばできることは、それが戦争というもので、報道の昂揚ぶりも含めて悲惨な状況だったと訴えることで、非常時の狂気に誰もがあったんだと証して、全体を問いつつ個人を救済すべきだったのに、そこに載ってきたのが戦前の狂気をなかったことにしたいという輩。遺族のそうした気持ちを誘っては持ち上げ、虚報だったという1点にかけて突破しようとしたから壁にはばまれ、退けられてて敗れ散った。真っ当な人間ならそこで改めて戦前の狂気を認め省みて、今の平静を尊ぶべきなのに、法でだめなら権力でとばかりに政治家になり政調会長という要職について、権力を背景に改めて口にして潰しにかかる。

 法治を尊び人治の国だと隣国を非難する口が、法の裁きを認めず権力をバックにひっくりかえそうとするその自己矛盾に気づいていないならポン酢だし、それを知ってなお持ち上げる新聞もポン酢なんだけれど、当人たちはそれが絶対という頭になっているからポン酢だとは気づかず、周囲の呆然を誘っているというのがたぶん現在。真っ当ならそういう発言も報道もあり得ないんだけれど、まっとうじゃない体制がそれを可能にしてしまっている。まあ理由なんて特になく、朝日新聞の慰安婦報道問題で吹いている逆風を、今度は毎日新聞にも向けてそういった逆風を支持する輩の歓心を買いたいというさもしい意図なんだろうなあ、新聞の側にあるのは。でもそれは新聞界全体への信頼を潰して地盤沈下を招くというのはすでに分かっている。それでもやってしまうタコ足食い。やれやれだ。


【3月22日】 役員人事に名前がないなあ、ホールディングスは違っても事業会社の執行役員くらいになっていても不思議はないんだけれど、って感じで眺めた人事があるいは布石だったのかもしれないと、流れてきた「メタルギアソリッド」シリーズの小島秀夫さんのコナミ退社に関する噂なんかを読んで、それより前に「ラブプラス」と「ときめきメモリアル Ggirls Side」の内田明理プロデューサーがコナミを退社していたことも知って、いよいよもってゲーム会社から“名前”が消えていく傾向が色濃くなって来たなあと感じてみたりする、早春、別れの季節、卒業のシーズン。

 というか、もうずいぶんとゲーム=プロデューサー名で語られるようにはなってなくっている感じ。「ドラゴンクエスト」シリーズの堀井雄二さんは別格だし、「ポケットモンスター」の田尻智さんの名前もちゃんと残ってはいる。けれども「ファイナルファンタジー」シリーズからは坂口博信さんの名前は消え、野村哲也さんもその色でもって染めているという感じがしないし、積極的に押しだそうという感じもない。「桃太郎電鉄」のさくまあきらさんはハドソン消滅からこっち、「桃鉄」を作るのを諦めてしまったみたいだし、「サクラ大戦」シリーズの広井王子さんも違うことで名前が出たけれど、本業のゲームで堂々その名がクレジットされて喧伝されることがなくなった。

 残っているのは「龍が如く」シリーズの名越稔洋さんくらいで、一時は綺羅星の如くにクリエイターがそろっていたセガは、「ソニック」の中裕司さんも「バーチャファイター」の鈴木裕さんも「スペースチャンネル5」の水口哲也さんも去ってその後、いろいろとやってはいるようだけれどその名でゲーム業界が沸くってことはあまりない。どれだけ集団作業が必要になっても、映画の監督が監督としてクレジットされ続けていることに比べると、ゲームのクリエイターってそういう全てを取り仕切って自分色に作品を染め上げる必要がないというか、より工業製品に近いゲームでそれをやられると売れるものも売れなくなってしまう心配があるというか、まあいろいろと理由もあるんだろう。

 そんな一方で、ゲームという自分が主役となって世界を動かすエンターテインメントで、誰かの手のひらの上で踊らされているのは嫌だという心理が働いて、そうした個性が敬遠されて知らず引き下がっていったのかもとも考える。とはいえ着想なり世界観なりといったものにクリエイターのこだわりってのがあって悪いわけでなく、そうした中から「メタルギアソリッド」のあの物語は生まれてきたし、「ラブプラス」や「ときメモGS」への支持も生まれてきた。そういうものまで否定して、ただシステムだけを残した時に果たして人はついて来てくれるのか? そこがちょっと見えないし、分からない。

 スマホやタブレットで遊ぶアクションゲームに着想は必要でも個性は無用かもしれない。けれども、物語が必要なゲームからそれが奪われて果たして支持は得られ続けるのか。分からないけれどももしかしたら、そうした物語すらもう必要とされていないのかもなあ。流行という気分と、作業という行為、それが満たされれば目の前にあるのが砂山崩しだって人はのめり込む。そんな心性になってしまった大勢の人を相手にして、物語へと引きつけのまりこませるには、別の装置が必要になる。それがキャラクターで、だから借り物のキャラクターを漫画やアニメーションから引っぱってきて、ゲームに被せて同意を誘う。ゲームそのものの物語の力、娯楽の力はどこへ? いろいろと不安も募るけれどもきっと、誰か新時代の天才が生まれてその名で世界を作ってくれると信じたい。信じたいけれど……。

 目が覚めたんでTOHOシネマズ日本橋へと9時間ぶりくらいに行ってアリ・フォルマン監督の「コングレス未来学会議」を観る。2回目。東京アニメアワードフェスティバルの振り返りみたいな上映会で1度、観てはいたけれどもそのあまりに衝撃的で強烈な設定と、幻覚でも見せられているような展開に置いてけぼりになって、全部を把握するにはちょっと時間が足りなかった。もちろん大筋と要点はちゃんと覚えていて、2回目となった今回もその辺り、たとえば1人の女優が40歳を過ぎると仕事がなくなってしまうという現実が指摘され、一方でCG技術の発達でそこにいないキャラクターでも、リアルな存在感をもってスクリーンの中に描き出せるようになっている状況が何を生み出すか、という予見もあって実際にそうありつつあるし、これからそうなっていくんだろうなあと思わせる。

 そうなった時に女優の個性なりネームバリューというのは依然として残るのか? とった思いもあってそれこそ「メガゾーン23」のヒロインじゃないけれど、現実にいなくたって架空の存在に物語が載ったものを愛し慈しめるといった感覚は、もう何十年も前から生まれている。アニメーションという表現はまさにそうした架空のヒーローであり、ヒロインを生み出す装置であって、その延長としてリアルであっても誰にも寄らない俳優女優が演技して、それに人間の俳優女優とシームレスな情愛を抱けるような気もしないでもない。かつての有名女優が若い姿で出ています、で客は最初は引きつけられてもそんな女優なんて知らない世代に意味はない。

 ロビン・ライトのアバターが「コングレス未来学会議」の中で20年もの間、人気を保ち続けられたのは彼女が名作に出ていたからじゃなく、「エージェントR」というキャラとして認知されたからだろう。ならばそれは誰でも良かった、って話になるけどその一方で、ロビン・ライト部長なる人物が本物を知らずとも本物に近づこうとして、その経歴なり心理を調べ考えて肉付けしていったからこそ、不動の人気を誇るキャラクターになったとも言える。現実があってそれが添えられたからこそのリアル感? それをまっさらなところから生み出せるのか? といったあたりが来るべきCG女優CG俳優の台頭を占う上で鍵になってくるのかなあ。日本人は案外に根も葉もないキャラでも「美少女キターーーッ!」といって飛びつけるのかもしれないし、やっぱりどこか違和感あるよねって拒絶するのかもしれない。誰かまったく知らない女優を振るCGで送り出し、それを隠して現実に流してみないかなあ。もうやってたりして。実はあのアイドル……って感じに。

 面白かったのは最初、アリ・フォルマン監督はケイト・ブランシェットでもってコンテを描いていたらしいけど、ハリウッドかどこかに行った時にロビン・ライトを見てこれだと思ってケイトをキャンセルしたらしい。美人だけれどどこか寂しげな表情を持っていたから、らしいけれどそういう顔だからこその冒頭、ハッとさせる悲しげな表情を持ってきて観る人を一気に映画の世界へと引っ張り込んだのかもしれない。そしてハーヴェイ・カイテル。マネジャー役だけれどそのしわがれた声の何と説得力のあることよ。しゃべれば深いし重みもあるあの役が、いつかCGにとって変わられるなんてことがあるのか? そこが美人であることしか求められなくなってしまいっているハリウッドにおける女優の問題でもあるんだろうなあ。そうじゃないことはこの映画のロビン・ライトが測らずも証明しているのに。でも時代はそっちへと流れる。寂しいねえ。

 だめもとで応募した「アニメミライ2015」の東京アニメアワードフェスティバル2015でのお披露目に当選したんでそのままTOHOシネマズ日本橋に居残って鑑賞。何があったか知らないけれども日本動画協会が取り仕切るようになった初めてのプロジェクトではまずJ・C・STAFFから応募の「アキの奏で」が上映されて冒頭、太鼓の楽団の演奏として出てくる音とアニメーションとして描かれている演奏者のばちさばきとのシンクロがちょっと気になったけれど、ソロではなくって集団で叩く音をそのように描くのって至難の業だろうから、まずは太鼓を叩く姿ってのを絵として描けたことの方が大きいのかもしれない。ストーリーは感涙物。無くなってしまうことへの寂しさを募らせつつ、引きずる過去を埋めて未来へと向かう勇気をくれた。

 SynergySPっていう会社の「ハッピーカムカム」はあの「ちびまる子ちゃん」のTARAKOさんが脚本を書いているっていうのが驚きだったけれど、「戦闘メカザブングル」でチルを演じてから30余年もたてばいろいろ自分の仕事の領域を広げていたって不思議はない。そしてその内容はメイドと偽った母親ロボットのおしつけがましい愛に辟易するかとおもったら、ロボットならではの無知ぶりが明るさとなって読んでいて支えてあげたくなって来て、そんなロボットに支えられたい自分もいたりして幸せな気分の中で見終えることができた。動きにぎこちないところもあったけれど、でも良い話、そして巧い話。こういう脚本を書けるんだなあ、TARAKOさん。

 問題作? なのかもしれない「音楽少女」はスタジオディーンの作品で、美少女が出てきて歌い踊って絡み合い、そしてお風呂にもはいったりして楽しそう。そういう絵を描くことが好きなアニメーターには大喜びだったかもしれないけれど、でもバストアップとか顔だけじゃなく全身を動かす絵も多かったしこちらも音楽とのシンクロってのが求められていろいろと苦労をしたかもしれない。てっきり田村ゆかりさんかと思ったら沼倉愛美さんだった。演技の質が似てるなあ。そして手塚プロダクションの「クミとチューリップ」はタイトルだけだと政岡憲三さん「くもとちゅうりっぷ」だけれどああいったミュージカルではなくセリフなしの動きと展開だけで見せる作品。手塚眞さんが総監督で杉野昭夫さんがキャラクターデザインはずるいけれど、声のない演技だけで見せなくちゃいけない絵をよく描いた。見ていてだんだんと引きつけられる展開も良。今年も粒ぞろいでした。来年はどんな作品に出会えるかなあ。


【3月21日】 午前8時に家を出て東京ビッグサイトに午前9時には着いてそのまま「AnimeJapan2015」の会場に入りざっと見つつ知ってる人から話を聞きつつスマホ系デジタルガジェット系を拾ってから、「美少女戦士」セーラームーンCrystal」のステージを見てGENCOのブースで片渕須直監督に挨拶して通路に出て缶コーヒーを飲みつつ原稿を下書きし、ガジェット系の見落としを拾い原稿を打ってそしてアニサマの会見を聞いてタワレコのアニサマ撮影を眺めてもしかしたら写ったかもと思ったり。

 でもって原稿を仕上げそして渋谷にまわり「カラスは真っ白」のライブを前から3列目くらいといってもスタンディングで観て3時間近く過ごしやぎぬまかなちゃんの可愛さに浮かれつつグルービーの脱退に涙しつつ、終わってライブハウスを出て原稿を確認して日本橋へと向かいTOHOシネマズ日本橋で原恵一さんと樋口真嗣さんのトークを聞き、樋口さんの石川光久さんありがとうの言葉を聞いて劇場を出て家に戻って日付が変わる、そんな1日だった49歳8カ月。疲れないもんだねえ、楽しいと。

 以上、ってこれで終わりにしても良いんじゃないか疲れているから、ってそれじゃあさっきと言っていることが違うんで少し細かく書いていくと「AnimeJapan2015」ではまずdアニメストアでクリアファイルのプレゼントをやっているかを眺め、そしてワーナーエンターテイメントジャパンのブースで「放課後のプレアデス」にちなんで全天周のドーム型映像投影装置に星々が立体視で映し出される様を見て、ANIMAXのブースへとまわりいよいよNOTTVにANIMAXが開局となるって話を聞いてこれでスカパーが観られなくなるかというと契約ではスカパーも観られてなおかつNOTTVも観られるとかで、ウインドウを広げて作品が見られる機会を増やすことで収益を上げる戦略になっているんだなあと実感する。

 そして「美少女戦士セーラーむんCrystal」のステージでは昨年末にイオンシネマ幕張中央で行われたイベントに続いて三石琴乃さんらセーラー戦士の声の人を間近に観つつみんな生き生きとやっているなあと感慨を覚え、そしてGENCOのブースで「この世界の片隅に」のチラシを巻いていた片渕さんから話を幾つか。それはやっぱり人数が大切ってことで金額的にはクリアされてもその人数が劇場に来たって大きな興行にはつながらず、やっぱり初期でのシュリンクが起きてしまうかそれ以前に興行そのものが成立しないと思われ制作にだって影響もでるという思いがあって、もっともっと応援してくれる人数を増やしたいって話してくれた。クラウドファンディングはまだ期間があるからその間、金額を積みます以上に応援の人間が増えていくことに期待してここに告知しよう。

 そういえばクラウドファンディングではあの中村隆太郎さんの初監督作品「地球を救え! なかまたち ちびねこトムの大冒険」の35mmデジタルリマスター制作のためのクラウドファンディングがスタートしていてとりあえず1本行ったけどその後も追随があって夜までの4分の1が埋まった様子。といっても目標金額は100万円で「この世界の片隅に」の2000万円とはケタが違い、なおかつ勢いもちょっと負けている。作品によってこういう明暗がくっきり出るところもクラウドファンディングの残酷さだけれど、一方に情報が行き渡っておらず「ちびねこトムの大冒険」という作品がデジタルリマスターされる意義も伝わっていないところがあるんで、ここに広く喧伝して協力を求めたいところ。圧倒的に楽しくてそして為になって泣けもする子供向けのアニメーション映画ですから。

 例年だったら文化放送の上にあるホールで記者だけを相手にしていた発表会が今年は大観衆をバックに行われた「アニメロサマーライブ」の発表会見。出てくるアーティストには歓声が飛び、答えてリアクションを見せるアーティストの姿にこういう場での会見の良さってものを観る。質疑応答が出来ないのは悩ましいところだけれどそもそも質疑応答なんてしないしなあ、とも。ああいう場で通り一遍の話を聞いても文字数は埋まっても心には響かない、それよりは観客とのやりとりから生まれる空気感を伝えた方がアニソン歌手の置かれた地位なりアニソンというものの存在の意義が分かってもらえるっていう、そんな思いも浮かんだ会見ではタワーレコードが観客席をバックに出演者の写真を撮ってポスターか何かにするみたいだったけどその前列にいたのが記者陣だったんでできあがりには見知った顔がいたりするかも、って僕か。写っているかなあ。

 ババッと原稿を仕上げてから渋谷へと回ってSTAR LOUNGEでもって観た「カラスは真っ白」は開場から終了までが3時間近かったけれども鳴り響く音楽に絶妙なトークとそしてやぎぬまかなさんの愛らしさでもって時間を忘れるくらいにノリノリな気分で過ごすことが出来た。でもチェックしてなかったんでその場で知ったベースのヨシヤマ・グルービー・ジュンさんの脱退が少しショック。文字通りにバンドのサウンドに“うねり”を与えてきたベースが消えることで、バンドが受ける影響は決してゼロではない。その低音を響かせるだけでなく時にリードギターのように、あるいは打楽器のように奏でるベースのプレイも交えて見せたそのパフォーマンスそのサウンドの欠落は、「カラスは真っ白」って音楽の印象を変えるかもしれない。

 けれどでも仕方がない、それが彼らの決意なのだから。これは想像だけれどやっぱり自分の持っている音楽性はどこかパンクでそしてフリーで自在過ぎて、それが故にバンドを緊張感と親しみやすさを併せ持った身近な存在にしてしまっていたのかもしれない。テクニックはあってもその音楽性がこれから大きく、全国へ全世界へと飛躍していくはずの「カラスは真っ白」というバンドの普遍化に影響を与えていた、なんて考えからここは身を退きよりバンドを洗練された音楽性を持ったグループへと変化させようと思ったのかもしれない。分からないけれど。

 ただ「カラスは真っ白」に新たに加わるベースのオチ・ザ・ファンクさんは、アンコールの1曲だけ聴くとしっかりと粒が立って旋律に馴染んで、バンドのサウンドを端正に、そしてスケール感を持たせる感じ。グルービーとのトイボックスのようなサウンドも良いしファンクのパーフェクトなビートも良い。その意味では明日からの「カラスは真っ白」ちいうバンドの進む道に期待を抱ける。とはいえ僕自身は、2度見たライブでいつもグルービーの前に位置して、グルービーの自在なバチさばきのようなベース演奏を間近に見て凄いと思ってただけにその不在はやっぱり寂しい。あのプレーぶりがやっぱり「カラスは真っ白」の重要な要素だった訳でもあるし。

 まあそこはあれだけの腕前の持ち主、放っておく世間もないだろうってことで、いずれこれからもどこかでその演奏とひきつるようなトークを聞かせてくれると信じたい。「カラスは真っ白」とグルービーよ永遠なれ。 というわけで「カラスは真っ白」のサイトから、5月12日に決まったオチ・ザ・ファンクを新メンバーに迎えての「カラスは真っ白」の追加ワンマンin渋谷WWWを予約。当たるかなあ。当たって欲しいなあ。その前に5月3日にミューコミニの日比谷野音に出るのか「カラスは真っ白」。吉田尚記アナの司会でバンドがどう踊るか、どうぶちまけるか。とっと楽しみなだけにこれは行ってみたいかも。チケットとかとれるんだろうか今からでも。チームしゃちほこも出るしなあ。チームしゃちほこと「カラスは真っ白」ってまた凄い取り合わせでもあるなあ。


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