縮刷版2014年3月上旬号


【3月10日】 予兆はあったとしてもネット上での中傷であり、身辺に現れての撮影であって具体的に身に危険が及ぶような事態が起こらなかった場合、果たして警察は動いてくれるのかといった問題もこれあって、幾度かの相談にも関わらず、当事者へと一気に司直の手が伸びることはなかったような淡路島での一件。あるいは相談をしながらも相手を名指しせず、警察も動くに動けなかったのかもしれないけれど、そんな時でも1番身近な家族だったら何かできたと考えるのが筋論で、それで止めるなり慰撫するなりすれば、惨劇は起こらなかったと思いたいけれど、そういうレベルでどうにかなる状態ではなかったからこそ、制圧も効かずに事件を起こしてしまったとも言えそう。ともあれ凄まじい事件。そしていつか起こり得る事件。防ぐための手だけはあるか。そこが気になる。

 2日目に入った片渕須直監督の新作アニメーション映画「この世界の片隅に」に関するクラウドファンディングは、一気に500万円を超えて600万700万といった勢いはやや落ち着いて、800万円から900万円といったところに夕方までにたどりついた感じ。1000万円まではこのままスイスイッと行きそうで、金額を考えるならこれは凄いことなんだけれどもおよそ感心のある人、意欲を持った人の支援はだいたい出そろっただろう状況で、積みあげていくのは結構な苦労も伴いそう。とはいえ未だこうしたクラウドファンディングがあることを知らない「マイマイ新子と千年の魔法」のファンがいるかもしれないし、こうの史代さんの原作を愛する人たちもいるかもしれない。そういう人たちに情報が届くことによって感心が高まり、勢いを取り戻すってこともあるんでここは広く喧伝して、そうした人たちの参加を願おう。2000万円までだいたい半分。

 笑ってしまうというか笑うしかないというか。下関市長が下関市立大学大学院の社会人コースか何かで修士論文を書いて出したら却下されて、なんで落ちるんだとプンプン怒ってるって話が伝わってきて、いったいどんな論文だったんだと見たらA4に550枚とかってあり得ない分量の上に、自分の人生だとか業績だとかを延々と書いていたりしたらしい。それっていわゆるご老体が自費出版したがる「自分史」って奴じゃないのかと思ったら、そういう指摘をしている文章が地元紙かあるいはミニコミ紙がやってるウエブサイトに書かれてた。発表会には市役所の職員まで引き連れ喧伝したというから、もう自己顕示欲以外のなにものでもなく、そういう事情を知れば誰だってそりゃあ拙いと思うんだろう。

 もっとも、そうは思わなかった人が市長を含め結構な人数いたから何をかいわんや。3分の2には届かなかったけど20人近くが認めたっては話も伝わっていて、それで学位とかって権威が保たれるのかと不安になる。それとも打ち合わせをしてギリギリの線で落として顔向けもしつつ権威も守ろうと画策したとか。分からないけど情報公開請求とかして誰が落としたか、ってな追求もありそうで、それで学問の公正さが保たれるのか、権力による介入なんじゃないかって話も浮かんでいろいろともめ事は続きそう。どうもこうもなくってその論文とやらを公開して市民の判断でも仰げば誰だって納得するんじゃないのかなあ、550ページは読んでる暇がないから5枚にしてくれって? そりゃそう言うわなあ。本当に何がそんなに書いてあったんだろう。美味しいカレーの作り方とかだろうか。下関流の。

 ゴーレムつかって「プラレス三四郎」をする話、って言うとちょっと違うかもしれないけれども世にゴーレムなるものが存在して、それを作り出せる魔法の力をもった人たちがいて、それでゴーレムを生み出しては他の人型の人工物も含めたトーナメントをしている時代、ってのが背景になている伊織ク外さんの「赫碧のメイクドール」(ぽにきゃんBOOKS)。そもそもがそんな人型ゴーレムを生み出した天才科学者がいたんだけれど、大会の途中でなぜか操っているゴーレムを暴走させて会場にいた魔術師たちから魔法の力を吸い取り逃亡。そして孫はといえば賠償金は返して普通に生活は送っているものの、自身「酩酊」という魔法の性質のために人型のゴーレムを作り出せないままでいた。そんなある日。

 現れた少女が砂凪万里というその少年を目の敵にして自分が作った一種のロボットを操り攻撃をしかけて来た。慌てて逃げた部屋の奥で万里は眠っていた2体の女性型のゴーレムを見つけて魔力を注いで起動させて襲ってきた少女と使役の少女型ロボットを撃退するものの、どうやら酩酊の力を注いでしまったために笑い上戸だったり泣き上戸だったりと奇妙なところが出てしまう。それどころか逃げていた祖父が突然現れ宣戦布告とうか、大会の開催を宣言してそこに万里も望むことになったものの3体揃えなければ出られないレギュレーションに、急ぎ新しいゴーレム作りに乗り出すもののやっぱり失敗しそうになる。ダメなのか。ダメじゃない。ってあたりから突破し乗り越えていく物語を楽しめる作品。ゴーレムがゴーレムを生み出す“奇蹟”もあってその先に、どんな世界が開けているのか気になるけれど続きとか、出るのかなあ。

 「南京事件では1人も犠牲者はいなかった」という、保守系の歴史学者でも自分に恥ずかしいからと言わないことを堂々とぶち上げ、紙面に飾って歴史の歪曲どころか捏造すら始めている新聞が、今度は「東京大空襲は米軍の無差別爆撃だ」ということをのみ、ファクトとして主張して、それがどうして起こったのかという議論に足を踏み入らせないようにし始めているらしい。民主党の細野豪志議員が東京大空襲を結果として招いた日本の戦争責任に言及したところ「東京大空襲が非戦闘員の殺戮を目的とした米軍の無差別爆撃であることには一切言及しなかった」とわざわざのように書き添えて、その非人道性をやたらとクローズアップしようとしている。

 もちろん言い分としてそれは正しいけれど、それだけか正解ではないことは普通の人の頭でだったらすぐに思いつく。あの広島の原爆に関する慰霊碑で「過ちは繰り返しません」と書いて自虐的だと吠える人たちの多さもかねてから指摘されているけれど、あれは戦争という災厄を招き、原爆という悪魔の兵器を生み出した人類全体の慚愧を唱えたものであって、その精神から戦争という悲劇を無くすために歩んでいく気概って奴を醸しだしているにも関わらず、自虐的であって相手を非難していないと言って騒ぎたがる人たちがいる。結局のところは戦争をしたこと、それ事態を忘れたいとしか思えない。だから東京大空襲でも、それが起こった根本から目をそらし、それが行われた妥当性をのみ議論し非道と叫ぶ。今はまだ理性が働いて、そうした主張が絶対にはなってないけれど、災禍を忘れ美意識のみが肥大した人たちが増えていけば、その非道性のみが叫ばれ根本は忘れられて復讐だ反撃だと拳を振り上げた先でまた、同じ悲劇を繰り返すんだろうなあ。やれやれだ。

 これまでに買い溜めてきた銀のMac Bookを5台束ねて持っていくと、金のMac Bookに交換してくれる、って話は特に広まっていないようでちょっと残念。とはいえ金のMac Bookなんてものが出てくると、それを買って見せびらかしたくなる人も出そうだけれど、チラりと感じさせて共感を誘うスノッブさはあっても大いに見せて自慢するような感性を持っていないのがMacユーザーって種族だから、そういう方面へと走るアップルへの愛想もそろそり尽きかねないなあって思いがちょっと浮かぶ。まあそれでも使うんだろうけれど。あとはApple Watchなんてものも出てきたけrど、18時間で電池が切れたら夜寝ている間に充電しなくちゃならずバイタルは記録できないし、間違えて洗面台に着けたまま手を突っ込んだら壊れてしまいそう。そんな不便な時計をそれでも買う人はいるのか否か。ちょっと見てみたいその動静。


【3月9日】 大豆について語られているという瀬川深さんの新刊「SOY! 大いなる豆の物語」(筑摩書房)を拝領したのでとりあえず、どんな話か様子を見ようとチラリと最初の1ページ目を読み始めたらこれがいけない。あまりの面白さにズイズイズイっと読んでしまって、トイレに立つまでの間に第2部を読了するまで行ってしまった。もうとてつもなしに圧倒的な“僕”と”大豆”の物語。筑波の国立大学に進学したけれど、特に何かに打ち込むこともなしにアニメや漫画を嗜む活動をした程度で卒業し、どうにかこうにか就職できたコンピュータ会社でパワハラに合いブラックな状況に心を傷めて2年で辞めて、親が立てた1戸建てに今は1人で棲んでいる無職の27歳男性、原陽一郎に配達証明郵便が届く。

 そこに書かれてあった内容と、そして尋ねていって聞いた話しが、27歳の無職で日雇いのアルバイト暮らしをしていて、時々友人が作っている同人ソフトのプログラムを手伝っていただけのやる気ナッシングな主人公を、おどおどと立ち上がらせつつ早くに死んでしまったロシア文学者上がりの父親が生まれ育った岩手の山奥にある実家や、弁護士をしている大叔父が暮らしている仙台へ赴かせる、といったところが第2部あたりまで。そこまでの段階で、有名なブラジルではなくパラグアイに移民した日本人たちの物語があり、長く虐げられてきた東北、というよりこの言葉自体に東夷北狄という差別的なニュアンスが滲んでいるという辺りから、独立を目指す東北人の気概といった話が並んで、繰り出される知識のシャワーに溺れそうになる。

 そんな大括りのテーマで綴られるのは、原陽一郎のご先祖が東北をスタートして日本から世界を巡っって行った旅路の中で、感じて動き挫折もしたけれど最後に成功した大豆を取り扱って世界に広めるという仕事の持つ意味。それがどうして大豆だったのか、それをどうしてパラグアイにまで広げていったのか、といった問いかけに対する答えから、大豆という食品の素晴らしさが浮かび、それが米とか麦とかに押されてしまいがちな状況への懐疑が浮かび、食品流通を一手に握って世界を相手にする仕事の凄みが浮かんで今、こうして漫然と輸入食品を食べている状況への不安めいたものが浮かんでくる。

 そんな大きな展開の合間では、会社勤めの世知辛さとか、粟や稗や黍といった雑穀の有用性とそれをどうやって売れば売れるのかといった、当事者には身に降りかかるような厳しい話、学べばいろいろと学べる話が連なって思わずフンフンと頷いてしまう。さらに第3部から後を読んでいくと、ひとりの格闘ゲーム開発者のもとに集った有志がキャラクターを盛り上げて商業に頼らずコンテンツを広めていった事例が語られ、けれどもそれが商業に転んだ場合に起こる喧騒めいたものも示されて、いずれ来る囲い込みと収奪のビジョンを感じさせる。とにかく凄まじい情報量。そしてそれがちゃんと人々のドラマの上に乗っているから、読んで情報を浴びせられて辟易といった感じにはならない。そこが凄い。

 一気呵成に読み終えてしまって浮かぶのは、簒奪され収奪され束ねられ浴びせられる資本の力の猛々しさであり、そんな状況に個としてなし得ること、成すべきことは何なのかって自問みたいもの。そこで絶望を復讐に変えるも良し、茫然の中に自分を見つけるも良し。そんな読後感を味わえる。500ページを超える大著でありながらも、未だ世界を又にかけた大冒険への序章のような感じがあって、この先、どんな波瀾万丈の未来が待っているかもと思わせられる。各地を歩いて過去を知り、失恋めいたものも経験してシャキッとした27歳無職はこの後世界へと出て、混迷の中で何を見て、何をつかみ、未来に何を成していくのか。そんな物語があったら読んでみたい。心から。

 なんか第7回CDショップ大賞が決まったみたいで、大賞に最近話題のBABYMETALのCD「BABYMETAL」が輝いたとか。いつかのももいろクローバーZもそうだし去年のマキシマム・ザ・ホルモンもそうだけれど既にそれなりに音楽的には知られていて商業的にも成功しているメジャーな人が受賞して、それで良いんだろうかCDショップ大賞ってんだから店員さんがもっとこれは売りたい売れて欲しいという知られざるアーティストを送り出すようにした方が良いんじゃないかなんて思わないでもないけれど、世の中がAKBグループとジャニーズ系アイドルに席巻されている中で、それ以外のアーティストがCDを売るのは至難の業。もはやメジャーというカテゴリーすら存在しないと思うなら、こうした知る人ぞ知るクラスが取ってちょっとだけ、話題になって枚数を重ねるのも悪いことではないのかもしれない。ちょっとは聞こうって気にもなったし、可憐Girl’s以来のSU−METALの声を。

 長かったけれど、これからも長いので心を引き締めて応援していきたい片渕須直監督の待望の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」を支援するクラウドファンディングのスタート。初日となってすぐさま100万円を超え200万円を超え300万円すら超えて400万円も超えてしまったけれど、目標とするのは2000万円でそれすらも1本の映画のいったいどれだけを支援できるかといったら案外に、文化庁から出る助成金にも及ばなかったりして少し申し訳ない気持ちもある。ただそうした金額ですら募らなくてはいけないというアニメーション制作を取り巻く状況があり、またクラウドファンディングをひとつの話題にして多くにアピールしなくちゃいけない事情なんてものもあって、たとえ僅かでも支援するその積み重ねが、大枚となって完成を後押しするんだと信じたい。まずはここから。そしていつか必ず。応援しよう完成を、何より公開を。

 たぶんここから何かが始まって行くんだろうなあと、ドワンゴとカラーが組んで始めた短編アニメーションを毎週1本づつ公開していく「日本アニメ(ーター)見本市」の第2期スタート前の特別番組を見ながらいろいろと考える。まずもってプロジェクト自体が画期的で、出渕裕さんが言うところの「ベクトルの違った作品を見られる楽しさ」があって、オムニバス映画だとなかなかそうはいかないように「1本もはずれがない」という奇蹟がそこにあって楽しめた。なおかつそこに舞城王太郎さんのような異業種から来てアニメの文脈とちがうものを提案してくれる人がいたり、アニメーション監督はしたことがなかったアニメ業界の人が、その隠していた感性を爆発させて「ME!ME!ME!」なんてとんでもないものを作ったりしたりと、いろいろな効果がすでにあった。

 ここから新しい企画が立ち上がって長編アニメーションになっていく、って訳ではまだないけれど、才能は多彩で作品も多様なことがまず見てもらえて、そこからじゃあこれはどうだという実権への意欲がわき、それを許せる空気が生まれて来たことがひとつの成果だったような気がする。あとはアニメ作品のツボについて詳しく見ていく番組の登場、そクリエーター自身が語るアニメに対する思いの紹介が、これからこの世界に来たい人たちを底上げし、あるいは来ないけれども見ている人たちの知識を引っ張り上げて、挑戦を許し多様性を認める空気をつくってこれでなければダメという固定観念をぶちこわした、かどうかはまだ分からないけど壁は確実に壊れつつある。あと少し。その先に来る豊穣なアニメーション世界を夢見て今夜は眠ろう。ぐっすりと。


【3月8日】 「二歩がだめなら三歩にすればよろしくて」とマリー・アントワネットが言ったかは知らないけれども、将棋のNHK杯というタイトル戦に次ぐくらいの割と権威がある大会の、それも準決勝という場で橋本崇戴八段が行方尚史八段を相手に二歩をやらかして負けてしまったみたいで、テレビ中継が行われていたこともあって早速話題になっていた。まあプロ棋士の対局でも割と二歩ってあるみたいで、攻められっぱなしの中で手駒が少なくなて来た中で無理に受けようとして残っている駒を打ったらそれが二歩になってしまった、なんて感じのことが起こるんだけれどでも、どうきたらどうするかを何十手も先まで読むのがプロ棋士だからやっぱり滅多に起こらない。よほど焦っていたんだろう。

 あとやらかしたのが橋本八段ってことも大いに話題を盛り上げたっていうか、金髪に色シャツ姿で対局する姿がテレビに映し出されてそれで評判をとっていた。見てくれだけならほかにもいろいろいそうだけれど八段っていう段位が示すように将棋にも強くてA級に1期ながらいたことがあるからトップクラスではあるんだけれど、そこが目下の頂点というかタイトル戦にもまだ登場できていないまま、それなりに強い棋士って奴を続けていっては、まだ40代半ばながら無頼のイメージを醸しだしている先崎学九段のような立ち位置になっていってしまうような気もしないでもない。

 いや先崎九段だってA級に2期いてから陥落し、そしてB級2組まで下がってしまったけれどもそこから大いに巻き返しつつある様子。3月11日の順位戦B級2組で阿部隆八段に勝てば順位からB級1組昇格となる訳で、そこで成績では2位だったけれど順位でA級復帰ができなかった橋本八段と、新旧(といってもまだ2人とも若いけど)無頼派対決を演じて2人まとめてA級に復帰して、妙にかしこまった連中を粉砕してやって欲しいなあ。若手の急速な台頭もあって、いったん落ちるとどんどんと下がっていってしまう年輩の棋士も多い中で踏みとどまっている2人だから地力は抜群。あとは気力さえあればそれが出来ると信じてる。期待しようその活躍。そしてA級順位戦で対局してW二歩を繰り出し両成敗となるのだ。それは無理だけど。

 せっかくだからと秋葉原に出て知念実希人さんの「天久鷹央の推理カルテ2 ファントムの病棟」(新潮社)のサイン会でも見物しようとアトレにある三省堂で文庫を買い、その足でタリーズに入ってしばらく原稿の検討をあれやこれや。集英社オレンジ文庫を取りあげるならやっぱりこれも混ぜておこうかと椹野道流さんって講談社ホワイトハートX文庫あたりで活躍していて他のレーベルでもBLっぽいのを確か書いている作家さんが出した「時をかける眼鏡 医学生と、王の死の謎」を読んだらこれがまら分かりやすくて楽しくて“ライト文芸”という惹句そのままに楽しく読めた。

 監察医として活動していたくらいに法医学の知識と経験を持った作者の人らしく、昔の時代に召喚された眼鏡の医学生が、そこで起こっていた国王殺害の事件に当時はまだない法医学の知識で挑むというストーリー。死体は語るとばかりにその遺体から真相をつかみ、容疑者の皇太子と異母弟の第二王子との間にあるわだかまりを解きほぐしてまずは一件落着といった感じだけれど、王様の体にメスをいれるなんてとんでもないという難局を見方にした第三王子ながらも見かけはお姫さまというヴィクトリアの助力で乗り切っているあたりはちょっとテンポがよすぎるかなあ、ともいった印象。

 っていうか何だ“姫王子”って魅力的過ぎる設定は。なるほど王子が姫でなければならぬと幼いころから少女の格好をさせられるような話はあったりして、冨士見L文庫にもたしかそんな王子が出てくるミステリーがあったけれどもしちらでは一応、姫が男性だってことは伏せられていた。跡目相続の問題であらかじめ候補者を廃しておこうといった配慮があるんだけれど、この「時をかける眼鏡」の“姫王子”は王子だけれど姫として育てられていることを誰もが知っている。他国だって知っていてそれでも王国との繋がりをえたい誰かの求めて姫のまま妻として差し出されることがある。

 つまりは政略結婚の道具としての“姫”という役回り。子を成す必要もないから中身が男であっても構わないという。なんか歴史にありそうな役回りだけれど、聞かないのは誰もがやっぱり血縁の上に子を成しそれを育むことが大事と思われていたからなんだろうな。このヴィクトリアが今後どう活躍するか、そして元の世界に戻れないまま医学生が、今回は通り一遍の知識でだってどうにかなった法医学の知識を、もっと深くもっと広げつつより困難な状況を打開して、謎に挑むようなストーリーを読んでみたい。あとはやっぱり医学生とヴィクトリアの関係がどう進むのか、ってあたりかなあ。どっちもノンケだけれどこんなにきれいな“姫”なんだからあるいは頑張れば……。ちょっと興味。

 そして戻って「天久鷹央の推理カルテ2」へのサイン会は表紙絵を描いたいとうのいぢさんも合わせての登壇で、未だ知られない作家の人の割にはサイン会の整理券のはけが良かったのもたぶんやっぱりのいぢさんの名前もあったんだろうなあ、とは思ったりもしたり。いやでも作家の人への言葉も聞いていると多かったようで、それなりにしっかりと名を浸透させて作品としても売れているのかもしれない。だから2巻がすぐ出たし、ついていた編集の人によれば3巻もほどなく出るらしいとのこと。天才だけれどどこかエキセントリックな見かけチビッコの女医が真面目な若い医師を僕にこの世におこる不思議なことを医術医学で解決していくミステリー。それは河童の謎だって。医師としての知識も生かした作品として楽しく読めるので今後にも期待だ。

 まあ相変わらずに言いたいことのために筆を走らせたあげくに滑って転んで矛盾がたんまりというか。とある新聞のそれこそ社説にあたるコーナーにこんな文章が。「今年の日教組教研集会でも、中学の授業で「立憲主義」について「権力を持つ者をしばる」といった説明を強調し、憲法改正を目指す安倍晋三首相を批判するような授業が報告された。教員の一方的な考えを押しつけたり、生徒を誘導したりする授業が相変わらず行われているのが実態だ」。読んでさっそくおこる反響は頭ちょっとどうかしているんじゃないかといったものばかり。そりゃそうだ。立憲主義が権力を縛ると教えると偏向になるならそれは憲法が間違っているということになる。それとも憲法の趣旨を歪めて教えろということか。それを新聞がどうどうと言ってしまうんだから頭を疑われても仕方がない。

 事情は分からないでもない。もちろん安倍政権を批判したいがために憲法の立憲主義を持ち出す教育の現場があるということは想像がついて、そういう教育を批判したいというのは分かるけれど、そこで持ち出して来た言葉があまりに拙いというか短絡というか、憲法否定に読めてしまうところに書いている人の知性の至らなさというか、配慮の行き届いていなさというものが見えて拙いなあと思うのだった。言いたいことのため、つまりは安倍さま万歳日教組反対という意識のために、あらゆる思考の積み重ねをすっ飛ばして平気な書き手の心性がどうにも鬱陶しく、それに口を挟まないでスルーさせる編集の態度もどうにも厄介。それが例の作家のトンデモコラムを生む土壌にもなっているんだけれど、改めようって空気がまるでなさそうだからなあ。もっと起こるだろうなあこういう事態。やれやれだ。


【3月7日】 去年の第5回からは、上映された作品から大藤信郎賞を受賞した小野ハナさんのが出たし、文化庁メディア芸術祭を受賞した朱「コップの中の子牛」も出たりといった具合に、映画祭やらコンクールでの受賞作が相次いだ東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻の修了制作展。久保雄太郎さんも海外のアニメーション映画祭に引っ張りだこだったっけ。そして今回が第6回となる今回の修了制作展にも、きっと面白い作品があるはずだと朝、新宿のK’sシネマに寄って「世界の終わりのいずこねこ」の舞台挨拶付きチケットを確保してから、地下鉄と東急を乗り継ぎみなとみらい線へと入って馬車道まで行って入った会場で見た作品は……やっぱりどれも素晴らしかった。

 まずインパクトで印象に残ったのが、昨年の1年次作品で「黄色い気球とばんの先生」っていうトークとヘタウマな絵とで描き出す、リアルがちょっとだけずれて空想に足を突っ込んだような不思議な世界を見せてくれた幸洋子さんの作品「ズドラーストヴィチェ!」。ロシア語らしんだけれどそんなロシア語で挨拶をする、ロシア帰りだと自称するおじさんに引っ張り回される横浜の街なんかを描いたストーリーには客観的なリアルが主観的な妄想に引きずり込まれてかき回されるような展開を、自在に変幻するアニメーションならではの表現で描いて、見る人をありそうであり得ない横浜へと誘う。畳みかけるような語りも「ばんの先生」と共通。去年と今年で1つの世界を作ってみせたって言えるかも。今後もこの路線でいくのかどうか。ちょっと楽しみ。

 路線が繋がっているといえば、去年に「ああ/良い」って作品でそれまでのロトスコープ使いってイメージからやや抜けて、自分を映しつつもふくらませ漂わせ歪めて潰すようなアレンジを加えて不思議度を増したシシヤマザキさんが、再び社会へと討って出るために出して来た「月夜&オパール」が、去年の大顔をさらに深化させたような作品になっていて、ヌルヌル感がひとつの特徴だったロトスコープ使いのイメージをちょい、変えてみせてくれていた。大きな顔が出たり引っ込んだり歌ったり回ったり。そして人間が現れたり潰れたりする展開に、歌とか重なってもう不思議なシチュエーション。でも根底にロトスコープが多分あって、そして何よりシシヤマザキっていう個性があるんで見ていて引きつけられる。これからも根底を保ちつつ深化し変化もしていくんだろうなあ。どんな映像クリエーターになるんだろう。とても楽しみ。

 山村浩二さんのゼミでは、この2人以外でも確か「きつね憑き」って作品で佐藤美代さんって人がいて、基本手描きでもって描いては周囲を消すような感じで変化する様子を綴りつつ、新美南吉の童話をベースにした田舎の村の祭りの雰囲気や、母親と子供との暖かい心の交流、家族の間に通う優しさといったものを見せてくれていた。去年の1年次の作品も見ているんだけれど何だったっけ、強烈な記憶はないんだけれど今回はストーリーを借りつつ手描きで変化させる絵の強さで目を引いてくれたって感じ。対する米谷聡美さんの「白いうなばら」も、手描きの柔らかさと優しさが特徴だけれど、こちらは絵本のような美麗さの中に過酷な境遇を生きる母と娘の関係めいたものが綴られる。雪の海がSF的ファンタジー的設定なのか何かの暗喩なのかがちょっと分からなかったなあ。見返そう、修了制作展の作品収録DVD買ったし。

 そんな修了制作展でたぶんアニメーションというより“アニメ”の人に観てピンと来そうな作品が、石谷恵さんって人の「かたすみの鱗」かも。新聞に載っていたある博物館の館長さんの訃報を目にした女性が思い出すのは、その博物館で迷子になった時に恐竜を愛する館長さんに出会った話。怖がっていた彼女を優しく誘った館長さんの言葉から迷子になった恐竜が骨から肉を持って立ち現れて歩き出し、飛び回って女の子を楽しませる。そんな展開がジブリって言うほどのことでもないんだけれど、伝統的な日本のそうしたアニメの絵柄でもって描かれ、浮かび上がって歩き回る恐竜の変幻自在さとも相まって、コミックを眺めるような楽しさを感じさせてくれる。それこそジブリで誰かが映像にしたって不思議はない展開。ラストとか割と切なく泣けて来る。でもそれが人との分かれ。その先に生きていく力を女性はあの時、与えられたという帰結に前を向こうと思わされる。これは好き。やっぱりDVDでじっくり見たい。

 武田浩平さんの「Helleborus Niger」は、人形を動かすアニメーションで服とか緻密に造ってあったしキャラも表情が感じられたんだけれどいかんせん、誰が誰やらで出し入れがつかめずストーリーが今ひとつ分かりづらかったのが残念。設定を聞いてメイキングを見て再挑戦したいところ。坂上直さんの「その家の名」は、たぶん壊される家を主題に壊れていく過程を挿入して入れてとった観察日記めいた作品だけれど、その根気がまず凄く、そして見ていて家が最後の断末魔めいたものを発しつつ、お別れをしているような感じをもたらしてくれた。澁谷岳志さん「Holy Shit!」はタイトルが表すように過激というか、下品なモチーフから変幻する絵を紡ぎ出す。外国の映画祭とかで受けそう。

 山羊さんって人の「糀」は、人形を使いつつダークなビジョンが現れ重なる独創的な作品。ホラーなのかサイコなのか。カタツムリとかぬめぬめしていて良い質感。プロップ造りに長けた人なのか。中内友紀恵さんは去年の動くオブジェが今年は変幻する線となって点から始まり、広がって埋め尽くし跳ねて踊りそして収束していくという感じで、どことなく水江未来さんを思い出してしまった。ノンナラティブに長けた人なのか。動きの面白さを見せたい人なんだろうか。そして暑苦しさではKoyaさんの「超ラジオ体操」がインパクト大。熱血漫画がちょい崩れたようなキャラクターたちが現れ微妙に動いて振動する、その暑苦しさは見れば汗が噴き出るかも。春成つむぎさん「Tepid Bath」は、きれいな絵で女性の入浴を描いて分かりやすくて優しくて美しい。この2本が続いて上映される東京藝大院アニメーション専攻修了制作展は8日と9日も馬車道で。行くべし。来日しているコ・ホードマン監督が歩いているかも。今日いたし。

 私は作家で聞いた話しは何でも書くし、区別は差別じゃないからあって良いんだと言って顰蹙を買いまくっているのはもう執念として仕方がないとして、そんな執念を周辺と照らし合わせてヤバいと思うことなく載せた紙の媒体の偉い人が、それは個人の意見であって多様性があるのは当然とばかりにヘイトな気分が漂う文章を流布させたことについて未だ、真正面から謝ったり撤回したり排除したりはしてない状況に、きっと今もってモヤモヤしているものを抱えているだろう南アフリカの駐日大使が、今度は紙の媒体とは親戚筋の電波の媒体に出たようだけれど、そこで私は作家で差別じゃなく区別で聞いた話は全部書くんだと改めて主張する言葉に乗せて、どうですちゃんと差別じゃないって言っているでしょと味方する電波の偉い人がいて、こりゃもうだめだときっと思ったんじゃないかなあ、南アフリカの駐日大使。紙にはすっかりなくなってしまった知性と教養も、まだ電波には残っていると思っていたけど、こっちも全然だめみたい。共倒れも必死かなあ。逃げ出す算段しとかないといけないなあ、4万キロを隔てて襲ってくる津波から。

 西島大介さんに見てと言われて見ない訳にはいかないので見に行って、最前列で見た映画「世界の終わりのいずこねこ」を見終わった後で、いずこねこさんこと茉里さんのサインを西島大介さんの描いた漫画版「世界の終わりのいずこねこ」にもらった際に西島大介さんの話をしたら、茉里さんが「がんばってたよね!」と言っていたのできっと頑張っていたのだろうというその先生ぶりについて考える。うん、確かに頑張ってたよ西島先生。棒とかどうとかいろいろ意見はあるだろうけど、あそこでひとりシェイクスピア俳優のような演技をしたって浮いてしまうだけ。

 フラットを心がけることによって終末を退廃の中で迎えようとしている世界の雰囲気って奴が出た、ってここでは言っておく。何より本業の漫画描きとして黒板にヒロインのイラストを描いている時の姿はとても格好良かった。あの姿を見に行くだけでも意味がある映画なんじゃなかろうか、西島大介ファンにとては。といった「世界の終わりのいずこねこ」ははっきり言って泣く映画。じんわりと涙がにじんでくる映画。それは嬉しさだろうか。切なさだろうか。哀しさだろうか。優しさだろうか。廃工場での最後の配信のあの場面、見ていると本当に涙がにじんでくる。最後だけど最後であって欲しくない願い。祈り。それらが漂い身を刺す。

 2011年という時を経ての変化を描いた作品って部分は、原案的なものを出し脚本も書いた西島大介さんのひとつの問題意識なのだろうけど、それを超えて終わりに向かう日常を淡々と生きる少女たちの、諦めているはずなのに楽しげな姿は何なんだろうとも考えたくなる映画。僕らはあそこの地平に行けるのか? 淡々と滅び行く世界が急激に終末を前にしても変化しない諦観は是か非か。分からないけどでも未来、その時がくるかもしれない可能性を感じつつ、僕達は困難さを増す今を生きる、その生き方にひとつ希望を与えてくれる映画かもって思った。アイドルがいて歌い、それを愛でて今を楽しめば良い。そんな未来への希望も抱かせてくれた。

 思ったのは、例えば自分だけが生きられると知って、ほかは諦めなくてはいけないと分かって、それでも歩みを止めずに進めるか否かってこと。誰かが生きて歌い広めてくれるという希望があればもしかしたら、明日滅びても笑って滅びていけるのかなあ。なんてことも考えてしまう。終末SFのこれはひとつの解なのかも。「ワダチ」とか「赤外音楽」といった作品とはまた違い、アイドルという存在を通してそれを描いたところも目新しい。滅び行く地球から選別された人類が、多くを置いてひとり旅立つか留まるか迷うってSFはうん、懐かしくもある主題だけれど、そこに自分がしたいこと、自分ができることという意識を持った主体を立ててアイドルという属性を与え動機をつけて動かしていった、とい感じかなあ。

 いずれにしてもすごく楽しくすごく面白くすごく切なくてそれでいて嬉しい映画だと言いたい。これが初のドラマの監督とは思えないくらいに、末世の諦観を俳優女優のいない出演者たちから広い描いたなあという感慨もある竹内道宏監督。誰もがなにか今の時代に抱いている諦めめいたものを掬っただけなのか。でもそこに希望の扉を与えた。立派にドラマチックな映画を取りあげて次、いったいどんな作品を見せてくれるだろう。舞台挨拶だと緊張したところを見せていたけど、そんなキャラでも撮る映画は極めて真摯。だからまた見に行こう。そしてこの映画自体も再度再々度と行きたいところ。最後の配信シーン、ライブにかぶせて叫べる日とかあるとファンとか集うかな。にゃんにゃんにゃん。にゃんにゃんにゃん。叫びたいなあ。


【3月6日】 業界でも中心となる雑誌の版元が倒れるってしかしよほどのことだと思って美術誌の世界をSF誌に例えて考えてみたら、美術手帖はSFマガジンで芸術新潮がSFアドベンチャーでイラストレーションがSF宝石で、月刊ギャラリーがSF奇想天外でそのうちSFマガジンが潰れてしまったような衝撃度ってことになるのかな。それは大変。だけどSF誌ってほかもうみんな潰れてるんだけれど、美術史はちゃんと続いているからまだ、SF界よりも美術界の方が大丈夫ってことなのかも。良かった良かった、って良くないか。SF頑張れ。

 きっと墜落の瞬間に全身がカーボンフリーズされて、どんな衝撃にも耐える体になっていたから助かったんだじゃないかと思った人が全世界に20億人くらいはいそうなハン・ソロ船長ことハリソン・フォードの墜落事故。どうやら命に別状はなかったようで重体でもなく重傷か何かで入院はしたけどきっとすぐに出てきては「スター・ウォーズ」の新作に参加してくれることだろう。それでこそハン・ソロ船長だ。いやでも操縦はチューバッカの方が得意だから墜落するのも仕方がないのかな。ともあれ無事是名馬という訳で。

 日本という世界でも希にみる治安の良い国情ですら大使館ともなれば警備は厳重で、デモ隊なんてとても近づけず中に入るときだって米国大使館だと携帯電話を確か取りあげられたりすることもあったりするくらいだし、大使が外を出歩く時だってSPががっちり警護して危ない人なんて近づけさせない。それは別に駐日米国大使に限らず駐日韓国大使だって駐日中国大使だって同様に警護するだろう。それが国の威信って奴だから。

 なので駐韓米国大使が朝食会の席で襲われ怪我をしたって聞いた時にまず、警備はどうなっていたんだと思ったし明らかになって警護はおらず犯人は招待されていなかったにも関わらず受付をスルーされて大使の側まで近寄れたっていうんだからやっぱり不思議な国の警護体制。それを米国大使館が望んでいなかったとかいう話も出回っているけど、でもそれで何かあったら傷つくのは自国の威信だから、やっぱり無理でも守ろうとするのが普通なんじゃないのかなあ。それとも普通じゃないのか国情的に。ちょっと分からなくなって来た。

 しかし最初、米国海軍の特殊部隊として知られるシールズ上がりだっていう話もあってリッパート大使、近づく敵を敏感に察知しては護身術でもって受け止め投げ飛ばすくらいのことは出来なかったんだろうかと調べたら、シールズはシールズでも情報将校でそして海軍に入ったのも32歳くらいと遅かった様子。良い大学とか出て情報の分析なんかに優れた才能を持っていた人が、軍歴を付けるためにか何か意図があって海軍に志願しシールズでアフガニスタンやイラクにいって活動していた様子。でも情報分析が主だから肉体が頑健になるとかってことはなかったみたい。これが海兵隊やデルタフォースだったらもうちょっとは鍛えられたんだろうか。ちょっと関心事。

 やれやれというか、やっぱり炎上したようだったブログからの盗用コラム、とりあえず気づいて削除はしたみたいだけれど、どうしてこんなことになったのかをこれから調べて行くんだろう。遠くから勝手に妄想するなら、稼ぐ場としてもはや紙ではだめなんで、ネットコンテンツの充実を図ってアクセス稼いで広告もらおう(アクセス数が広告につながるという発想ももはや前時代的なんだけれど)と、新聞に載らないコラムめいたコンテンツを内部からかき集めようとしているものの、元より書く人間の数が足りていない現場に、取材の傍ら書いてとか言ってもそりゃあ無理な話ってことになる。

 なるんだけれどそこを押して通してしまったか、現場にもう振れないからロートルの人間とかに振った挙げ句に取材もしていないし現場を持っていないから取材難でできない人間が、ネットから読者受けしそうなファクトを拾い集めて切り張りしてしまったってことなのかも。それでも巧みな人は出典を示すなり、会見のようなパブリックな場での発言なんかを使いつつそこに自分の意図を乗せてオリジナル化を図ってみせるんだけれど、そういう暇もなくそ時間もないまま、記事がいるから出せ出せと言われてしまって、焦ってあちらこちらから引っぱってきて切って貼り付け作るしかなくなった挙げ句に、個人ブログの言葉を引っぱってしまったとかどうとか。そんな想像をしてみたけれど真相やいかに。

 猪子寿之さんてその長身ぶりその顔立ちからもっと渋くて太い声で話すかと思ったら意外や小室哲哉さんっぽい柔らかくて優しげな声音だったと気づいたチームラボによる日本科学未来館での展覧会の新発表会。何でも新しい展示が始まるそうで、会期の延長も含めて会見するってんで出かけていってはまず話を聞いて、禅にまつわる話から思い描いた新しい庭園だってな意図を知ってそしてのぞいた「Floating Flower Garden−花と我と同根、庭と我と一体と」って展示は、文字通りに浮遊する草花に取り巻かれる庭園って感じになっていた。

 といっても別にドローンで一輪一輪の花をぶら下げて上げ下げしている訳じゃなくって、逆さプランターみたいな感じに括られた花束をワイヤーかひもかなにかで上から吊ってそれを人の動きに合わせて上げ下げしているって感じ。つまりは人がそこにいると周辺の花束を引き上げるように指令がいって、そして去るとその場所にまた降りるという繰り返し。中を歩いている人はだからつねに自分の周囲だけは花束が上にあがってドーム上の空間が出来て花に振れないようになっている。見渡せばそこは草花の間隙。庭園で花を愛でるのとは違った感覚って奴を味わえる。

 造花でだって良いんじゃないかって思う人もいそうだけれど、でもそこはやぱり庭園である以上は本物の花にこだわったみたい。でもって蘭とかその種類だと湿気があれば花は枯れずに咲き続けるんで根本に水分を送るようなしかけもしつつ、ぶら下げたままて会期末までしっかりと咲かせながら来る人を花で囲んで守り立てるんだろう。庭に向かって禅僧が何かを悟ることがあるとしたら、この庭ではいったい何が悟れるのか。栄枯盛衰か盛者必衰か生々流転か因果応報か。まあいろいろあるだろうけどひとつ言えることは、花粉は別にとんでません。だから安心、花粉症の人も、花アレルギーってあるのかな、その人はちょっと分からないのでまずは体験を。


【3月5日】 今日だったらあるいは、それこそ自分の名と命をかけて壮絶なプロジェクトを成し遂げたってひとつの溜飲も下げられたかもしれないけれど、電撃ネットワーク(TOKYO SHOCK BOYS)の三五十五さんが亡くなったのは自分の名前が入った3月5日ではなく3月3日の雛祭り。過激なパフォーマンスで世間を驚かせ、世界すら熱狂の渦に巻き込んだ男たちの1人として活躍した割には、どこか柔らかさを醸し出す日に天へと召されてしまったってことになる。それでもひとつの人生をやり遂げ、甘い香りの中で安らかな死を迎えられたのかもしれないと思えば残念さも薄れる。

 残る3人はそんな思いを受け継ぎ、さらに爆発的なパフォーマンスを続けて世界にその名あり、ってところを見せてくれれば本当の意味でのクールジャパンになれるんだけれど。誰にも頼らずその肉体とそのアイデアだけで世界に向かい渡り歩いた才覚こそが、今の日本に求められているんだけれど、そうしたリスクを厭い政府筋のお金を借りて出ていく大企業の何と多いことか。その無様さを見てきっと苦笑いしているだろうなあ、三五十五三。ともあれ合掌。その勇姿を忘れない、4人のうちの誰だったかすぎに顔が浮かばないにしても。っていうか南部虎弾さんくらいだよ浮かぶのって。

 カナダ大使館に入ったのは、2011年の5月に山村浩二さんが監督した「マイブリッジの糸」の完成披露イベントがあって、その時に山村さんにインタビューした時以来だから、もう結構前のことになるけれど、その山村浩二さんが今度、「東京アニメアワードフェスティバル(TAAF)2015」で行われることになったカナダアニメーションの上映イベントで作品選定にあたられたようで、何を上映するのかっていう発表会があったんで久々にカナダ大使館へ。青山一丁目から赤坂見附へと向かう途中のビルにコンビニエンスストアのセブンイレブンが出来ていたりして、こんなところにと少し驚く。近所の人は店ができて嬉しいかな。何もなかったものなあ。ってかそのビルって前なんだったんだろう、NTTか何かの営業所だったっけ。

 思い出せないまま到着したカナダ大使館は、朝に米国の駐韓大使が暴漢の襲われ斬りつけられる事件もあって、入り口で誰何されないかって不安もあったけれど、事前に登録もしてあったんで普通に入ってロビーで開かれたその発表会に、「砂の城」で米アカデミー賞を受賞したコ・ホードマン監督が来られていたのに驚いた。作品をそれほど知っている訳ではないけれど、カナダ国立映画制作庁(NFB)を仕切ったアニメーション作家のノーマン・マクラレンがまだ存命だったころから、NFBに入って仕事をしていたという生き字引みたいな人。TAAF2015には絡んでないけれど、週末に東京藝大院のアニメーション専攻の修了展でトークを行うそうで、来日していたのを藝大院の教授をやってる山村さんの介在で来てもらったとか。

 とにかく凄い人らしいんだけれど、そういう人が言うには世界中から優れた才能を集めてきて、自由にアニメーション作品に取り組ませてくれて、その結果何本ものアカデミー賞受賞作品を送り出し、そんな米国だけの評価ではなく世界中の映画祭で賞を取る作品を送り出してきた伝統のNFBですら、だんだんと資金が足りなくなって来て、作品数を絞るか、携わる人数を減らすかといった選択に迫られているらいし。さらい言うなら、NFBを退いた後のコ・ホードマン監督は、やっぱり精力的に作品を作り続けてはいるんだけれど、資金面で前ほど潤沢ではなく、出来れば支援をと話していた。

 アカデミー賞とかとっても自由に作品が作れなくなっている、それも世界ですらそうなんだから日本なんてと思うのも当然で、アカデミー賞をとった加藤久仁生さんが何をしているかっていうと展覧会で短編を何本か見せていたけど、「つみきの家」に続くすごい作品を出してきたって話は聞かないし、「グレートラビット」でベルリン映画祭の銀熊賞を授賞した和田淳さんだって、何本も何本も出しては喝采って感じじゃない。テレビ番組の中で短い作品を作ったり、CMを作ったり。それがやりたいことなら別だけれど、そうでないならやっぱり苦労をしているってことになる。かくいう山村浩二さんだって、世界の4大アニメーション映画祭を制覇した人でありながら、「マイブリッジの糸」のような長い作品を作れている訳ではない。

 売れないからとかいった基準でいうなら仕方がないけれど、売れなくたって才能を残してそれが後に財産となるって可能性を考えるなら、発掘して育てる活動はやっぱり必要で、衰えたとはいえ未だにNFBを持って新しい才能を集めているカナダは、その辺りでやっぱりしっかりと筋が通っていて素晴らしい。なおかつ今度、日本にプロデューサーが来て新しい才能を探すとか。そこに今の若手がいっぱい行ければいいんだけれど。学生として優れた作品を作って注目されながら、卒業後に消息がパタッと途絶えてしまう人が多すぎるんだよこの国は。

 それでいて、国策としてクールジャパンを謳っているという謎。でもファンドがお金を出すのは作品を集めてまとめて海外にアピールするセクター。NFBを作るって話にはまるでならない。何十億円もあるなら、それでNFBの日本版を作って、オランダ人だったコ・ホードマン監督がNFBに入ったように世界から人を集め、作品を作り溜めて人材を世界に環流させていくことをした方が、よっぽどクールジャパンな感じなのになあ、クールジャパン機構とやら。それがまた日本って国の政策の限界なんだろうなあ。やれやれだ。

 それはそれとして、カナダのアニメーション作品がまとまって見られるのって、もしかしたら2009年くらいのトリウッドでのカナダ・アニメーション・フェスティバル以来だろうか。あと時もトリウッドで何本か見たし、カナダ大使館でプロデューサーのマーシー・ペイジさんと、バイヤーだったエレーヌ・タンゲさんに会ってお話を伺いつつ、おみやげに半魚人のポニョのぬいぐるみを上げたら大喜びされたんだっけ。そんな時代から幾年月、今度はTOHOシネマズ日本橋の大きなスクリーンで、古いのから新しいのまで含めたいろいろなカナダのアニメーションを見られる。これは僥倖。これは絶好。行くしかないよ、やっぱり。

 「カナダフォーカス」と銘打たれたこの上映会では、ノーマン・マクラレンやらイシュ・パテルやらライアン・ラーキンやらクリス・ランドレスやらテオドール・ウシェフやらパトリック・ドヨンやらマルセル・ジャンの特集やらが上映されるとか。イシュ・パテルの「ビーズ・ゲーム」をデカいスクリーンで見たら、いったいどれだけクリアにあの動くビーズのひとつひとつが見られるんだと思うとワクワクしてくる。トリウッドとは規模も設備も違うから。クリス・ランドレスの「ライアン」も、見たのは渋谷の狭い劇場だったし。そして何より「マイブリッジの糸」。これがかかるなんて。音響も含めて絶好の環境での上映はこれが最初で最後かな。行きたいけれども行けるかな。

 アニメーションも苦境だけれど美術もあるいは出版も苦境なのか、「美術手帖」を刊行している美術出版社が巨額の負債をかかえて民事再生法を申請したとか。これで再建計画が承認されれば、また事業は継続されていくんだろうし、そもそもが出版社ってのは潰れてからが本番みたいなもので、河出書房だって新社になったし中央公論だって新社な訳だし筑摩書房だって会社更生法から立ち直っているし、平凡社なんて何度つぶれかけたか分からないから、美術出版社も内容を吟味しつつ、財産を整理しつつやりくりすれば立ち直れるってな気もしないでもないけど、でも昔はまだ本を買ってくれたからベストセラー1発でどうにかなったものが、今は本が売れないから大変かも。さてもどうなる。とりあえず仕事はしていなかったので、財布的には安心だけれど。

 これはいけない。ヤバいかもしれない。ちょっと前に偉い作家の人が、自分の経験だけを元にして書いた話がアパルトヘイトの称揚につながっているとかで問題になって、そして載せた媒体は多様な意見があって当然だし、うちら載せただけなんだと逃げたことが世界の逆鱗に触れて大騒ぎになった。作家の人はでもそれは自分の意見だし、見聞きしたことだからと引っ込めないまま、私人として一生を過ごしていけるけれど、媒体は公器であり木鐸として正確性と公共性が求められている訳で、それを怠り検証も校閲もすっ飛ばして世界が眉を潜める意見を載せてしまったことに、何らかの責任を問われることは避けられない。だから今もいろいろと尾を引いている。さてもどうなる?

 って状況で、世間から注目を集めているその媒体が、ネットに掲載しているコラムが個人のブログの丸パクリじゃないかって疑惑が浮かんで、目下ジワジワと類焼中だったりするからこれは大変。読むとなるほど、しこしこと海外の報道を翻訳して掲載してきたブログの文章が、その言葉づかいや構成とかも含めてほとんどまるっと使われているように見える。翻訳ならば元の文から2人がやれば2人とも同じ文章にはならないもののに、単語の切り方文章の繋げ方から使われている言葉まで似通っているんだからどうしようもない。これにどんな釈明が出てくるのか。それとも水面下での延焼に気づかない振りを通すのか。そうしようと思っても燃え上がるのが今のネット社会なだけに、遠からず対応を迫られるんだろう。そして言うんだ。翻訳したらたまたま似通ってしまっただけです、翻訳とはそういうものです、とか。やれやれだ。


【3月4日】 昨日あたりから流れ始めた噂がいよいよ確定になって来たみたいで、池袋の西武に入っている大型書店のリブロが、どうやら池袋のその場所を追い出されてしまうことになりそう。じゃあ移転ってなるかというと、近隣にそんな場所があるようには見えず再開発の予定とかもなさそうなだけに、そのままフェイドアウトってことになったらいったいあれだけの大量の本はどこに行ってしまうのか、街の書店が1つ消えてしまうのとは規模が違うその消滅は、あそこにだけは置いてありそうな学術書とか古い本とかも根こそぎどこかへと埋もれさせてしまう気がして不安になる。

 すぐ向かいにジュンク堂があってそこも、大量の本をストックしていることで知られていて、いけばたいていの本に出会えるから、2重が解消されてかえって良かったって言う声もあるいはあるかもしれないけれど、2つの書店がまったく同じ本をストックしているなんてことはなく、あっちにはあってこっちにはない本もあって、それを行き来することで手にできるという意味が、2つの大きな書店が建ち並んでいるシチュエーションにはあった。片方の翼がもげてしまって、そこにすべてが集約される訳でもない以上、便利さは確実に損なわれていく。

 新宿でも三越にあったジュンク堂の撤退で、向かいの紀伊國屋書店との補完が損なわれてしまったけれど、ちょっと離れた西口にブックファーストができて、どうにか補完関係は保たれた。池袋でも同様なことがあれば良いんだけれど。東武の上にある旭屋書店だっけ、それだけだとやっぱり弱いんだよなあ。ともあれ決まってしまった以上はそういう方向に進んで行くんだろうし、その過程でストックされていた知性の少なくない分が失われ散逸していくことになるんだろう。いっしょに西武でありセブン&アイ・ホールディングスへの信頼も失われるんだけれど、そんなことを気にするタマでもないか、あそこの偉い人は。いやいややっぱり何か考えて、書店を入れてくるかもしれないけれど、イマドキな代官山蔦屋を持って来かねないかならあ、あれは代官山や六本木だから成立しているんだとは考えずに。さてもはても。

 文部科学省が子供の授業で使われる教材なんかで、たとえば「イスラム国」なんかの画像が使われているものを排除するようなお触れをだしたとかいった話を1面で、賛同するかのような雰囲気でもって書き立てている新聞があったんだけれどでも、新聞業界って前々から「教育に新聞を」とか言って新聞をもっと教育の現場で活用してもらって、それで市場を増やそうとしていたり、必要性を訴えることで軽減税率の対象に入れてもらおうとしてたりしている。そんな新聞がどこの媒体よりも早く、派手に、大きく「イスラム国」の残酷な処刑の画像なんかを載せていたりする状況は何なんだろう、自分たちの新聞は教材に使ってもらわなくて結構ですよとでも言いたいんだろうか。

 もちろんすべての新聞がそうじゃなくって、確か毎日あたりは配慮して1面では処刑だか脅している画像は使わず、中でも大きくは載せなかったんじゃなかったっけ。海外の新聞でも使わないところはあるし、配信すらしない通信社あってあったりするんだけれど、そうした配慮なんてものを脇において、目立てば結構とばかりにそうした刺激的な画像をいっぱい載せて歓心を買いつつ、学校教育の現場ではそうした画像を見せてはいけないという声に賛同しつつ、新聞を教育の現場でもっと読んでもらうべきだと訴えるこのちぐはぐさって何なんだろうなあ。おそらくは1つの筋なんってなくって、その場で言いたいことを言えるなら、他の条件はまるで見えない牽強付会で視野狭窄な夜郎自大が横溢しているだけなんだろうなあ。やれやれだ。

 マイクロソフトをビル・ゲイツとともに立ち上げたポール・アレンが、今は優雅な大富豪生活をして世界をヨットで巡っているうちに、フィリピンの海に沈んだ戦艦武蔵を発見したってニュースが飛び交い始めてまず浮かんだのが、「蒼い鋼のアルペジオ」の映画でひらりと舞い降りてきた、ロリな衣装と白いまつげの女の子だったりしたのはそれだけ、ちょい色黒なキャラクターに脳をヤられていなかったからってことなんだろう。そもそもまだ出してないし「艦隊これくしょん」の戦艦武蔵。ただ世間的にはそっちが多いようで、「アルペジオ」のムサシはたぶん2番手、3番手あたりから本当の武蔵が浮かんでくるというこの国の、擬人化の蔓延りようはちょっと面白いけど、でも思考に真っ当さを与えづらくなっているって意味で、ちょっぴり心配でもある。まあでも三国志の英雄で浮かぶのが、下着も露わな美少女たちでは、何を言っても遅いのかも。

 Kalafinaのライブに行った時にもらったチラシにKalafinaをプロデュースしている梶浦由記さんが渋谷のBunkamuraオーチャードホールでコンサート(だよなあ、ライブってよりは)を開くって話があって、チケットを先行で受け付けていたんで応募したら何と当選、まあ席はそんなに前でもなくって3階だったけれど、突き出たテラスみたいなところなんで舞台を斜め上から見下ろすような感じでその演奏を見られそう。もとよりビジュアルを楽しむといより、そのサウンドそのアンサンブルを味わうのが梶浦さんのライブなんで、席に届く極上の音を存分に味わい全身で感じてみたいというか、そうなるんじゃないのかなあ。ちなみに東京国際フォーラムはまず初日のチケットを確保。日本語オンリー。サウンドトラックの日は外れたけれど次の抽選があれば応募してみるか。こっちもどんなライブになるんだろう。楽しみだ。

 宇宙イトイシ・ゲサトの登場で沸いた伊藤ヒロさんの田舎ラノベ「女騎士さん、ジャスコ行こうよ2」の人気に負けまいと、一迅舎が送りこんで来た田舎ラノベのマサト真希さん「アウトランド・ヴァンガード 〜俺、辺境警備に着任しました〜」を読んだら、別に宇宙人も地底人も異世界人も海底人も河童も平家の落ち武者も出てこなくって、普通に熊のはらわたを取り出す婆ちゃんとか、ニワトリを絞めて食べる少女とか、猪を担いでやってくる中学生くらいしかいなかった、ってそれもそれで大概だけれど、田舎では飼っているニワトリを時々は絞めて肉にしたり、山でとれた動物なんかをバラして肉を食べたりするのは普通のこと。すぐそこにある生活を、思い出させてくれるって意味では映画の「リトル・フォレスト」に近いかも。いやでも出てくる子たちがワイルド極まりないけれど。次はさらにワイルドな娘でも出てくるのかな。出たら読もう。出るのかな。


【3月3日】 御堂筋くんと今泉俊輔とのつばぜりあいでもって終わってしまった「弱虫ペダル」だけれど、そんな後ろできっと虎視眈々と小野田坂道は前に行く瞬間を狙っていて、心の中でヒメヒメとハミングしながらペダルを回しているに違いない、そういう奴だ。でもってすっかり影が薄くなった箱根学園だけれど、いい加減に尽きてしまうだろう御堂筋の後から総北勢に割って入って、まずは福富寿一が今泉をエース対決で潰し合い、その間から出た真波山岳と小野田とが争って小野田がトップでゴール、っていうのがありそうな展開だけれど、本当にそうかは原作読んでいないから知らない。どっちにしたって分かりやすそうな展開を、それでもしっかりと見せきる演出力に感心。こういうアニメもあるんだなあ。

 汲み取り式の方で用を足したんだろうか、桃園奈々生は夜にトイレへと出かけ、寝ぼけて戻ってきた布団を間違えて巴衛の方に入って抱きしめられて大喜び、したのかしていないのかは分からないけれど、そんな甘い展開を経ていよいよ乗り込む天狗のお里、結界を抜けた奈々生と牡丹丸は、うまく僧正坊のところにたどり着けるのか、暗躍している夜鳥の邪魔が入って大騒ぎになるのか。これもまあ原作を読めば分かる展開なんだろうけど、大地丙太郎さんによる毎回のギャグ描写の楽しさなんかを味わいながら、じっくりと見ていくのが良さそう。桃丹ってしかし何にでも効くんだなあ、だったら翠郎に呑ませれば、雷獣に打たれて折れた翼だって直せるんじゃないのかなあ。でもそういうことには使わないのか。あと何粒? そんな興味も引っぱりつつ、来週へ。

 2020年の東京オリンピックの時に使われるはずの国立競技場が、いったいどんな形になって、いつできるのかすら見えなかったりする状況だけれどそれはそれ、これはこれとばかりに、2019年のラグビーのワールドカップ日本大会で使われる競技場が発表になった模様。首都圏ではそんな国立競技場とあと、横浜国際総合競技場が並んでもうひとつ、埼玉スタジアム2002が来るかと思ったら違って熊谷市のラグビー場が選ばれていた。何でだろう。聞くとどうやら埼玉県でも南部はサッカーが強いけれど、北部はラグビーが本場らしく、熊谷市にはずっとラグビー場もあって使われていて、それが今度のW杯に合わせて改装されることになっているらしい。

 それで6万人規模のスタジアムが作られる訳ではないから、キャパシティ的には埼玉スタジアムに負けるけれど、サッカー用にチューニングされてゴール裏の距離がやや狭そうな埼玉スタジアムで、無理にラグビーをするよりは、日ごろからラグビー熱を持った熊谷市で開いた方が、来る観客も多いってことになるんだろう。ただでさえ地方開催での有名ではないチームの試合に、どれだけ人が集まるか、って不安も浮かんでいるだけに。熊谷市なら前にJリーグの天皇杯で行ったこともあって、東京や千葉から行けない距離じゃない。そこにラグビーの中心地となるスタジアムができれば、国立競技場や秩父宮ラグビー場とはまた違った新しい首都圏に置けるラグビーの聖地として、長く繁栄していけるきかけを作れる。あとはそこでどんなドラマが繰り広げられ、また行ってみたいと思わせられるかだけれど、それは対戦カード次第かなあ。

 今日まで日本橋高島屋で「美の予感」っていう若手のアーティストたちによる展覧会が開かれていると知って、秋葉原へと向かう途中に立ち寄って見たら、近藤智美さんと牧田愛さんが並んでトップに展示してあった。どちらも前に見て気になって、気にも入っていたアーティストで、いろいろと喧伝もしていたけれど数年を得てこうやって、揃ってデパートの画廊の看板みたいに扱われるというのは自分、なかなか見る目もあったかなあ、なんて自慢をしたくなって来る。そこで前から目を付け幾つも買っていたなら、今頃大金持ちになっているんだけれど、そういう投資ができないところが貧乏に拍車をかけているって感じ。まあ仕方がない、自分の見る目の正しさだけを糧にして、悔しさをのみ込みこれからも生きていこうっと。

 さて作品は近藤智美さんのは、あのバルテュスからモチーフを借りた構図の作品で、「巨匠をよろこばす 股を冷やす」というタイトルにあるように、ソファに横たわって鏡を眺める少女を描いたバルテュスの日本趣味を、喜ばせるようなモチーフに変えて描いた作品って感じ。猫はいるけど少女は近藤さんの自画像になっていて、そして鏡を眺めるのではなく股間に向けて団扇を置いて、ひたひたと風を送っている、のかな? それは女子高生がスカートをバタバタと下敷きで煽って涼むような行為をもう、自分ではできなくなっていることへの寂しさを込めたものでもあって、ひとつここから成長していく可能性めいたものを、感じさせてもくれる。良い絵だけれどすでに売約済み。誰が買ったんだろう。そしてどこに飾るんだろう。

 牧田愛さんは、ハーレーみたいなバイクによくあるクロムメッキのパーツをアップにして描くような作品に「隕石−meteorite」って付けて出していた。ちょっと不思議なタイトル。そして添えられた文章には、描き方の説明があって写真にとったものをPC上で構成しながらそれを見て、質感なんかをカンバスに写していくってあった。モチーフの土台には植物や生物、山や空といった自然物があるそうで、それと金属体をつなぎ合わせてイメージを作り上げていくという、そのイメージが今回は宇宙空間だったとか。ご本人がいたらどれが宇宙でどれが隕石? って伺いたかったけれどそれは叶わず、おまけに作品も売れていた。人気だなあ。4月に新宿へと戻ってくるみたいなんでその時にまた行こう。別の作品とかも出してくるんだろうか。

 噂のDMM.make AKIBAとやらにやっと行く。何でもメカデザイナーの大河原邦男さんが、東京アニメアワードフェスティバル2015で特別賞的に送られるアニメドールのトロフィーをデザインして、それが3Dプリンターで制作されたってことで、その場所に使われたのがベンチャー企業のモノ作りを応援するための機材がずらりとそろったDMM.make AKIBA。ビートたけしさんもCMに担ぎだして、未来への可能性なんてものを伺わせていた施設だったけれど、行くとなるほどありとあらゆる工作機械に工具に実験装置に製造装置が置いてあって、ここに来ればアイデアさえあればそれを形にするのに不自由はないかもなあ、って感じさせられた。

 たとえ自分で何かしたいと思っても、それを動かすには道具がいる。とはいえ個人で買えるものではない、って時にここに来れば試作して試験して実際に使えるものになるかを探っていけるのだ。そんな場所だけあって大河原さんも楽しく仕事ができたみたい。というか去年は超合金をつなぎ合わせるトロフィーだっただけに自分のアイデアを盛り込み自在にデザインすることが無理だった。今年はスケッチしたアイデアを3D化して3Dプリンターで出力することで作り上げられる。

 ちょっと量産には無理なデザインでも3Dプリンターなら大丈夫じゃないの、って考えもあったそうでスチームパンク風の羽根をデザインして出したらそれがちゃんと形になって着いてきた。「大満足」って話していた。これだけの機能性に大河原さんも何か新しい工作を始めようって気になるかなあ、ずっと自分の工房みたいなところでオブジェを作っていたけれど、3Dプリンターも導入したりして。それで次代のロボットを作って世に出すと。どんな形になるかなあ、プロダクトの制約を受けない自在さで、自由なデザインをしてそれが形になる時代。楽しみだなあ。


【3月2日】 サニーの日。サニーといったら実際に運転したことがあるのは、前にいた自動車系の専門紙で支局にあった6代目のB12型って奴で、シーマ現象なんてものがあって、Be1もバカ受けしていた時代にあってどこか質実剛健さを保った角のあるデザインは、トラッドサニーというキャッチフレーズそのままに車の車らしさって奴を存分に醸しだして悪い印象はなかった。ただかっこよさでいうなら3代目のB210型で、当時の車がみんなもってたコンパクトでありながらもボリューム感のあるボディラインで目を引きつけたっけ。クーペなんてプラモデルも格好良かったものなあ。

 そんなサニーも2006年でもってブランドが途切れて復活せず、カローラの対抗馬としての大衆車としての位置づけを譲ったというか、さまざまなタイプの車に分散させて大衆車でありファミリーカーといったジャンルも消えてしまった感じ。1400CC暮らすの4ドアセダンとかってもはや用済みなのか、それよりはSVUのようなワゴン系にとって変わられているというか。でもそうした車を中古で買ってドライブに使い運転の楽しさを覚えていく流れが、途切れてしまって家族ができればワゴンか何かで、1人のうちはコンパクトカーか軽で済ませる風潮が、続くとやがて運転そのものの必要性すら途切れてしまうような気がする。気軽に買えて家族で出かけられて運転していても楽しくて。そんな車、また出てこないかなあ、そしてサニーと命名されて。夢かなあ。

 何か八重洲ブックセンターによっぴーことニッポン放送の吉田尚記アナウンサーが来るってんで大手町からテクテクと歩いて八重洲まで行ったらよっぴーがひとり店の前に机を出してしゃべってた。囲む人もいなくって立ち止まる人もいなかったのは周囲がオフィス街でお昼に出る人が圧倒的で、よっぴーがやってる歌番組とかアニメ番組のリスナーらしき人がいなかったってこともあるんだろうけれど、それでもフジテレビで顔出ししているアナウンサーなら見れば分かって感じる人もいただろうものの、ラジオでは声で知っていても顔まで分かる人は希。そんな状況でも負けずひとりでしゃべり続けるところになるほど、売っていた著書の「なぜ、この人と話をすると楽になるのか」(太田出版)に書かれている、コミュニケーションの苦手さを克服できた理由も伺える。

 物怖じせずにしゃべる。相手のことを理解してしゃべる。必要とされていなくてもしゃべることによって自分の居場所をそこと決め、そこから大勢にアプローチしていくことによってだんだんとしゃべる楽しさってものを感じていったんだろうかどうなのか。実はまだ本文を読んでないからどういうことが書かれているか分からないんだけれど、自称であってもコミュ障が、ここまで人前で鮮やかに自身を持ってしゃべれるようになるってのは大変なことだし、学ぶところも多そう。余裕ができたらサインをもらった本を読んで自分も該当で1時間、誰も来なくたって自分を語り続けられる根性と、そして自分への自信って奴を養いたい。というか最終的にはどれだけの人が来たんだろう? 僕ひとりってことはさすがにないよねえ。ないと思いたいけれど果たして。

 繰り返される同じ時間を何度も何度も過ごすことで何が得られるのか、ということは桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」にも描かれていて、トム・クルーズが主演した映画版の「Edge of Tomorrow」も含めて言うならそれは積み重なっていく経験で、やり直し続けることによって最適な解を見つけだし、最善の結末へと自分を導いていけることだったりする。どこまでいっても出口がないように見えても、やり方によっては必ず抜け道は見つかる。無限の可能性とはそういうもので、だからこそそんな時間ループ物と呼べるカテゴリーの物語はSFであると同時に、無限の可能性からたったひとつの解を求めてパズルに挑む、ミステリー的な要素もはらんで読む人に挑戦状を叩き付ける。

 どこに正解があるのか。どうやったらこの無限のループから抜け出せるのか。そんな挑戦に臨むだけの価値があり、そして圧倒的な読後感を与えてくれる物語が登場した。それは「All You Need Is Kill」にだって負けていない開放感を与えてくれて、なおかつ人類の大いなる未来すら示唆してくれる。辻村七子さんによる「螺旋時空のラビリンス」(集英社オレンジ文庫)という物語がそれ。戦争で人口が激減した近未来では、美術品の収集が娯楽とされていて、それを過去から盗み出す泥棒が事業化されてる。といっても白昼堂々、美術館とかから盗み出すのではなく、歴史の上でその美術品が消える瞬間に立ち会って、横取りしてくるのが仕事という。

 主人公のルフも、そうした美術品泥棒を生業にしている企業でエージェントとして働いていて、そして新たな以来として時間遡行機で過去に行くことになる。そこは19世紀のパリ。デュマによって小説に書かれ戯曲化もされ、ヴェルディのオペラの題材ににもなった椿姫と名高い高級娼婦マリー・デュプレシの手にある卵型の宝石「インペリアル・イースター・エッグ」を盗み出すことをルフは命じられる。不思議なのはさらに後の時代、帝政ロシアの御代に作られるはずのインペリアル・イースター・エッグが、30年も前のパリになぜあるのかといったこと。それには理由があって、エージェントでありながらも逃げたトリプルゼロ・フォースと呼ばれる女性がマリーとなって、その時代にインペリアル・イースター・エッグを持っていってしまたらしい。

 彼女とは訓練校時代に知り合いだったというルフは、時間遡行機”アリスの鏡”でまずは1843年5月22日に辿り着いてマリーとなっていたフォースと出会いエッグを取り戻そうとするものの、見つからず手元にもないと言われる。忍び込んでもピアノの講師という名目で通っても見つからないためルフは、いったん“アリスの鏡”をくぐって元いた時代に戻ろうとしたら、なぜか到着した1843年5月22日に戻ってしまって、そこから無限ともいえる時間おループが始まってしまう。なおかつそこには、前に来た自分も存在するという状況で、邂逅すれば対消滅はしないけれども酷い嫌悪感に襲われる中、ルフは何度も挑戦をていく、そんな過程でだんだんと、自分の居場所と目的を見つめ直していく。

 その結末は……とてつもない驚きを与えてくれた物語。過去に戻って自分がいるということは、自分がいた過去に未来から戻ってきた自分もいたということに他ならない訳で、そんな多層性をもったキャラクターたちの中で、誰が真相に近づいていたのかを考えることで時間の牢獄から抜け出す道が見えてくる。なおかつ決して善ではなく、そして人道からも外れているその任務の檻から抜け出すための方策も。そうかそうやることで自分を取り戻すことができるのか。得られる開放感は抜群。なおかつ時間という仕掛けをつかっておこ割れたある種の“復讐”の痛快さも。ひとつながりにつながった時間を縦横無尽に使って描かれる愛を探し自分を見つける物語。2014年ロマン大賞受賞作。三浦しをんさんが絶賛しているけれど、BLではないのでそこは宜しく。

 もうどんどんとオカしな人になっていくなあと思った某全国紙(自称)に掲載の「【櫻井よしこ美しき勁き国へ】」というコラム、「日本の歴史的蛮行は中国自身の伝統的行動であることを世界に発信せよ」ってタイトルでもってそこに書かれているのは、何と中国でも古代の歴史をつづった「資治通鑑」っていう歴史書を題材にして、そこに書かれた残酷な中国の刑罰なりをより所にして、現代の中国もまったくのそのままだという誰かの新書をネタにして、まさしくその通りですよーという受け売りも含んだ反中の文章。なるほど現代の中国においていささか行儀の悪いことが行われているのは認めるにやぶさかでないけれど、それが「資治通鑑」のまんまだと言われるとオイオイって思ってしまう。だって中国の史書なんて後の権力の都合の良いことしか書かれてないじゃん、過去を貶めるためには何だって書かせたじゃん、だからどの史書を読んでも過去は悪く書かれていて、それをもって過去は悪く、だから今も悪いなんて言えるはずないじゃん。

 中国の歴史をちょっとでも囓れば、そんなことくらい分かるんだけど新書の著者は中国なんてまるで知らない工学部系の人で、それで中国ヘイトの題材として誰にも知られていないって個人が勝手に思ってはいても、僕が大学の東洋史の専修に行った時に、中国の歴史の演習で真っ先に配られた「資治通鑑」を持って来るんだから笑えるというか、何が秘書なんだというか。さらに言うなら過去の歴史書に非道な振る舞いが書かれているなら織田信長について書かれた「信長公記」なんて比叡山の焼き討ちとかもう残酷なまでの虐殺描写に溢れていて、それを題材に日本は変わってなくて太平洋戦争で捕虜を虐待したって言われてどう応えれば良いんだろうって話になる。あれはあれでこれはこれというなら中国だって。そんな牽強付会というか自己正当化に溢れた文章を読まされるんだから読者もたまらないけれど、元よりそうした意見を信じたい人しか読んでないから良いのかも。決してマスじゃないけれど。だからマスから見放されるんだけれど。その結果は……やれやれだねえ。


【3月1日】 ヒデオは最後までヒデオであって、そしてどこまでもヒデオだからこそ命の危険すら乗り越え、次々に精霊を友だちにしていって、そして死にたがりの神様ですら生きたいと思わせてしまう、その言葉と行動の力さえあれば世界は平和になるかというと、絶対にそうならないことは「レイセン」より未来を描いた「ミスマルカ興国物語」が証明していたりする。世界は荒廃して科学は死に絶え、魔法が残り魔人が闊歩する世界ではさまざまな小競り合いも繰り広げられている。

 とはいえグランマーセナル帝国が跋扈するまでは、束の間の平穏でもあった訳だけれど問題は、発達しすぎた科学が世界を滅ぼしてしまったかのような形跡があることで、それがヒデオの時代の後にもたらされたものだとしたら、争いを嫌ったヒデオの想いは届かず叶わなかったことになる。それでもヒデオは渾身の言葉を重ねて守ろうとしたんだろうと想像できるのは、林トモアキさんのシリーズ最新刊にしてシリーズ完結編ともなっている「レイセン File8:ポイント・オブ・ノーリターン」(スニーカー文庫)を読んだから。

 あの邂逅の時に彼ら彼女たちを倒しておけば惨事は起こらなかったかもしれないし、それで大勢の命が失われることもなかったけれど、だからといってヒデオは彼女ら彼たちを殺めるような手には出なかった。信じていたから……というのは甘いけれども、人を殺めるのは人であってその人が殺めさえしなければ人は死なないで済むという、原点に立ち返って人に道理を訴え続ける、その強固なまでの人への信頼、あるいは臆病さから出た言葉であっても、そんな平和と平穏を求める心がとりあえず、ひとつの帰結となってひとまずの平穏をもたらした。

 おかげでタイトルにある「レイセン」が結局登場することなく、シリーズ冒頭に掲げられたひとつの未来が変わってしまったけれど、ある意味でマリーチが視て決定付けた未来ですらも変えてしまう心の強さを持っていたからこそ、ヒデオにはウィル子が取り憑きそしてウィル子は神となり、アンリ・マンユが興味を抱いて端末としてのノアレが寄り添い、エリーゼ・ミスリライトも求めに応じて姿を現すようになる。魔族の王女エルシアですらもご主人と読んで興味を向け続けるのだろう。

 そんなチートな存在でありながらも、チートさを振るわない不思議な王が、ひとつ意志を示して“組織”を相手に挑んだ戦いのその行方は? ってのがもしかしたら書かれるかもしれない続きのシリーズになるんだろうけど、それが出る日は果たして来るのか、それより以前に「ミスマルカ興国物語」の続きはどうなっている? マヒロは無事なのか? まずは完結に喝采を贈りつつ、あれやこれの続きを早くと臥して願おう。ヒデオの意志は生き続けているのかも確かめたいし。

 限りなく蓋然性は高くても、逮捕されただけでまだ起訴されていない段階の人間を犯人扱いして、その性向を暴くという筆もひとつの踏み外しである上に、少年法というものが作られた趣旨をまるで噛みしめることなく、ネットがその実名を暴き立てているのに関わらず、新聞としてその戦列に加われないのは残念至極と言わんばかりの言葉を堂々、1面のコラムでもってぶちまけている筆の性根に少し茫然としている。ネットが暴こうとテレビが映像を流そうと、それに遅れを取らされていると騒ぐのではなく、先走るネットを非難しプライバシーを無視するテレビを糺して少年法の原点に立ち返れ、推定無罪の原則を守り抜けと訴えるのが木鐸であり、社会に必要とされてだからこそ軽減税率の適用を求める新聞の在り方なんじゃないのかねえ。

 「そもそも選挙の投票権を18歳以上に引き下げようというのに、20歳未満が少年という規定自体が時代遅れである」という意見もひとつの趣旨ではあるけれど、それで推定無罪の原則が揺らぐ訳ではないし、実名報道の是非については少年法とか関係なしについてくる。ある事件の犯人ではないかという根も葉もない話をネットに書かれて誹謗中傷され続けた芸人の人が、そんな経験を踏まえ実名を出して私的制裁を加えようとする勢力の存在を嘆き、メディアにも、そして一般の人にも自制と自重を訴えていたりする。自分が受けた悲劇を思うとその言葉には重みも深みも強さもある。守らなくてはと思わされる。

 そんな私人の言葉を受けるどころか、逆に蔑ろにするかのようにして、容疑者を犯人と決めつけその人格を悪しきものとして人々に擦り込み、ひとつの世論を作ろうとする世間の風潮を、メディアが煽り承認するかのような言説でもって私的制裁の輪に加わりたがっているこの状況はいったい何なのか。矜持ってものはないのか。ないんだろうなあ、売れさえすれば。あまつさえ「連合国軍総司令部(GHQ)主導で、少年法がいまの形になった前年には、これまたGHQ主導で新憲法が施行された。占領期に急ごしらえでつくった法体系は、明らかに揺らぎ、軋んでいる」と少年法とも事件とも関係のない現行憲法批判へと牽強付会し改正すべしと訴える。1人の少年が命を散らした悲劇に便乗して主義主張を語る浅ましさに気づけば言えることじゃないのに。無理かなあ、ひとつ目的を言いたいためには歴史すらねじ曲げる筆たちだから。やれやれだ。

 あれは2ndアルバムの「Red Moon」が出るのに合わせたインタビューだったから2010年のこと、それに行く前の2月9日に渋谷O−EASTで見たKalafinaのライブのアンコールのラストが確か「sprinter」だったって記憶している。静かに粛々と高らかに終えるライブが多い傾向にあって、ビートがきいてアップテンポで叫びもあれば文字通りに突っ走るような部分もある楽曲を、最後に置いたその構成は大きな盛り上がりとともに終幕となって、心地よい余韻ってものを見終えた僕たちに残してくれた。しばしの昂揚と昂奮が渋谷の坂を下る間も身に残って、あの素晴らしい歌声、あのとてつもないハーモニーに加えて、迫力のライブアクトも繰り広げられるユニットなのだと実感した、それから5年。

 2日目を迎えたKalafinaの日本武道館におけるライブ、「Blue Day」で、個人的には久々に「sprinter」で終えるライブを目の当たりにした。高らかに鳴り響く声と言葉のハーモニーが、終幕へと向かう昂揚の中に響いて、会場の空気を暖め熱くして、そして全体を盛り上げて大いなる感動のるつぼに観客たちを巻き込んで、気持ちよさを残して2日間の幕を閉じた。昨日は昨日で静かに終えて余韻を誘いつつ、余力も残して翌日への期待を誘ったKalafinaだったけれど、今日は今日で心底より出し切ったという感じ。もちろん1日目に手なんか抜いてなくって、激しさと優しさの両面を出して2時間近くを引っぱって、Kalafinaという音楽の空間へと人々をたゆたわせて漂わせた。

 それはそれでひとつの経験。だけれどまだあるという2日目を知らない人はおらず、そこへの期待も渦巻く中でどう応えるのかという問題に見事なまでの解を示して見せたと言えそうな「Blue Day」は、初日とガラリとセットリストを変えて来たけれど、それでもちゃんと聞き覚えがあって聞き応えのある曲ばかり。それだけの数をこれまでの活動で歌い上げて積み重ね、自分たちの音楽としてきた時間の現れが、この2日間にはあったと言えるんじゃなかろうか。どちらを聞いてもKalafinaで、両方聞けばなおKalafina。いつか3日でも4日でもKalafinaであり続けられる日も来そうな、そんな才能と努力の結晶を見た想いだった。

 まあそれでも「音楽」のように誰もが乗って同じ仕草をしたくなる曲をやってくれたところは親切設計、あとアンコールにはいってからは「Believe」も同じだったけれど、アンコールの入りを客席からの登場にして前方ステージに昇り「Magia」をィエエエーエーエーと歌い上げていくあたりは構成にも工夫があった。迫力あったもんなあ。ダンスもあったし。そこが新しさであり、日本武道館という空間を使って飽きさせない演出。左右へと広がった道を駆けて、両脇の観客席のすぐ側まで近づくのも見ている人に一体感をもたらす効果があったんじゃなかろうか。

 いろいろと聞いた曲では今回は「seventh heaven」が良かったというか「空の境界」からは昨日すでに「obliviouss」が歌われているので何が来るかと思ったら第7章からのこれでありすなわち「空の境界」全編を貫くメインテーマの歌唱であって思い出がぐわっと浮かんだその果てに、最後で「sprinter」だからこれはもう「空の境界」ファンは喜ぶしかないだろう。ある意味でKalafinaの原点でもある作品で、そこからの曲をこの大きな”転機”に忘れず聞かせてくれる。箱は何十倍になっても巧みさも名百倍になった歌声でもって響かせる。そこに歴史あり。そこに時間あり。

 あと嬉しかったのは、アニメーション映画「イヴの時間」のエンディングに流れた「I have a dream」が聞けたこと。これがエンディングとなったライブも確か当時のJCBホール、今の東京ドームシティホールであったように記憶していて、人間とロボットとの交流がひとつの幸せを招くエンディングに相応しく明るくて広がりのある歌声は、ライブのエンディングにも相応しいんだけれど今日はライブ中での演奏となって、それでもやっぱり静けさと優しさを感じさせる時間ってやつを観客に与えてくれた。

 語り出せばもうきりがないそのライブをまとめるならば、3人が3人ともそれぞれに独立して歌えるシンガーでありながらもそれぞれの特質を時にそれぞれがリードとなり、時に重ね合って響かせ合うことで1つの曲でもさまざまな色を出し形を見せて空間を作り出すという、希有なユニットと言えそう。その声をとことんまで引っ張り出して振り回す梶浦由記さんの楽曲があり歌詞があってKalafinaは、世界のほかのどこにもいない音楽ユニットってものを形成する。それをジャンルとして言うなら「Kalafinaという音楽」。昔からずっといっているように類例なく追随もない中を生まれ育ち歩んできてそして今、立ってこれから先へと進んでいこうとしているKalafinaは、単独でひとつのジャンルを形作り、ひとつのシーンを彩っている。

 いつかそれが止まる日が来ないとも限らないだろうし、誰かが欠ける時が来るかもしれないけれど、そんなことは気にせず考えもしないで今というこの瞬間を、それぞれにかけがえのない声を響かせ、歌を重ねて世界にたったひとつの「Kalafina」という音楽を聞かせ続けて欲しいと願う、心から。次はとりあえず東京国際フォーラムだけれど、ソニーの人的には代々木だってやりたいみたいだし、横浜アリーナって場所もまだある訳で次、どんなライブを大きな場所で目一杯の人たちに見せてくれるのか、あるいは海外の目抜き通りをひた走ってKalafinaの存在感を世界に聞かせる日が来るのかを、心待ちにして今日という日を終えよう。ありがとう。そしてまたいつか。


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