縮刷版2015年2月下旬号


【2月28日】 ミスター・スポック死す、って過去に何度か死んでたんじゃなかったっけ、って思い返したりもしたけれど、その中の人ことレイナード・ニモイさんが亡くなるのはたぶんこれが最初で、そしてきっと最後になるんだろう。83歳にて死去。僕らにとってはテレビドラマの「宇宙大作戦」でエンタープライズ号に乗って宇宙を行く人々の中にあって、論理をかざして周囲を押さえ込む頑固で堅物の副長といった印象。対してカーク船長は情熱的で勇気があって前向きといった感じでもって描かれて、その対比の中で人間の両面って奴を見せられ、感情と理性のどちらに偏ってもいけないんだなあ、なんてことを思ったかというと、当時はそこまで踏み込めなかった。子供だったし。

 今になって振り返ってテレビドラマの「宇宙大作戦」を見れば、きっとそういう役回りが与えられていたのかなって思うだろうし、カーク船長役のウィリアム・シャトナーとレイナード・ニモイがそろって出ている最初のあたりの映画を見ることで、ジョージ・タケイのような日系人も拝されたブリッジが持つ、コスモポリタン的な雰囲気も味わえるんだろうけれどとちらかといえばトレッキーではなく「スター・ウォーズ」派だったんで、派手なバトルとかとは縁遠いイメージの「スタートレック」は脇に置いてあんまり見ていなくって、そういうことを感じないまま今に至る。ニモイさんの訃報に敢えて見返すかというとううん、見ればきっと浮かぶこともあるんだろうけど、そのために見るのも後付けに傷口を探って広げる行為に近いんで、今は静かに送りつついずれ機会を見て劇場版のオリジナルシリーズ6作を、1本また1本と見ていこう。長寿と繁栄を。

 長く生きていればいろいろと後付で情報も入ってくるし、聞いた話しなんてものも乗ってその“真意”めいたものに近づけるってことは分かるけど、子供の頃に感じた印象でありそうした印象を汚すような言説に対する憤りを、だからといって大人になってから改める必要があるのっていうのは今まさに、朝日新聞の夕刊で連載されている太田啓之記者による「ヤマトをたどって」についても感じたこと。最初に見た自己犠牲的な振る舞いに対する感動が、実は特攻賛美の意識に近いものだったんじゃないかと今に気づいて過去を探り、込められた含意を企画書だとか脚本家だとかに尋ねて確かめていくのは、その作品の成り立ちを歴史として位置づけるために悪い仕事ではないけれど、見たもの感じたことがすべてという鑑賞者の特権からすれば、余計なことって気もしないでもない。

 作り手の意図に沿いおもねる必要なんてものが果たしてあるのか。ガミラスが戦争末期の日本軍というなら、その無謀とも言える行動をガミラスという人類にとっての悪と重ね合わせ、戦前の日本を非難するための設定だったっとも言える訳で、いたずらに「ヤマト」シリーズから戦前戦中の日本を探って、それが現代にもたらす弊害みたいなものを非難しようとすると無理が出る。そうした無茶や矛盾が叩き込まれてどっちが良いとか悪いとかいえない複雑な気持ちを当時の人々が抱き、両義的な設定に込めて送り出したのだとしたら、そうしたどっちが悪でも善でもない複雑な世界を今、生きる意味へとつなげて大国の正義に引きずられがちなこの国の在り方を、糺すようにしてくれればこの時期に、この文章が連載されている意味もあるんだけれど。どこに帰結するのかまだ見えないだけに、先をまとう。その反響も。つか庵野監督の言葉って、昔の本から持ってきているのか。それってアリなのか。15年も経てば意識も変わっているかもしれないのに。僕たちがそうであるように。

 電波が見えるとやっぱり妙な奴だと思われるだろうけれど、これだけ電波が蔓延りなおかつ電波に囲まれて生まれ生きてきた人間がいるなら、電波が肌身に感じられるようになっても不思議はなかもしれないし、それが視覚に刺激を与えて“見える”ようになっていたって妙じゃないのかもしれない、そんな可能性から生まれる社会と少年少女の戦いを描いたのが、牧野圭祐さんによる「フリック&ブレイク」(小学館ガガガ文庫)。親もいないのか妹と2人で暮らし血得る高校生の奏矢がいるのは未来計画特区・蜂原。そこは企業が仕切ってあらゆるウェアラブルな実権を行っていて、奏矢のようにそこで生まれ育ったネイティブなんかは生体信号のすべてをウェアラブル機器によって把握され管理されて生きている。といってもそれが普通の世代の奏矢や妹には別に違和感はなく、むしろ便利なものとして生きていた、そんなある日。

 バイト先にロボットが入ってきて残されていたおでん管理とアイスクリーム管理の仕事すら奪われ首になった奏矢は、同級生と帰宅する途中で黒いカタマリが動くのを見て、そして逃げ出した先で少女がそのモヤモヤとしたものを手にした今はもう余り使われていないスマートフォンから取り出した武器で対峙するのを見る。そして鶴舞舞羽という名の少女から聞かされたのは、そういったモヤモヤがジャムと呼ばれる漏れて集まり悪意めいたものを持つに至った電波のカタマリで、それが見える人間が生まれ始めていて舞羽もそんな1人として道具を与えられ、バイトにもなるそのジャム退治の仕事を請け負っていた。エニアックと呼ばれるそうした立場になった奏矢もいっしょにジャム退治を持ちかけるものの恐怖が先に立つ奏矢は首をすぐにはうんと降らない。

 それでも引っ張り込まれるようにジャム退治の仕事を始めて調子に乗り始めたところで少年のようなしたいの雫という少女が現れ舞羽たちの邪魔をする。もちろん向こうもジャム退治をしているんだけれど誰かに依頼されたというより退屈しのぎの小遣い稼ぎといった感じ。舞羽たちとは対立しているそんな存在が示唆されたあと、学校内で流行り始めたエリマキトカゲの育成ゲームが発端となった事件へと巻き込まれた奏矢は、生徒会長の美少女から言い寄られたり舞羽からキツい目で見られたりする経験を経てひとつ、世界の真実に近づいていく。といっても明らかにされていないジャムの正体、エニアック誕生の秘密、そしてエリマキトカゲの流行と削除の経緯。裏に陰謀がありそうでそれに絡んでいそうな人間もいて、それでも続く戦いの中で舞羽と奏矢は自分たちの存在の意味を知るのだろうなあ。雫と奏羽の関係にも興味。舞羽の刺された友人とか?

 制作開放席だというから端っこでアーティストもよく見えないけれども音だけは聞こえる場所かなあ、なんて赴いた日本武道館でのKalafinaのライブ2dyas初日のRed Day、もちろん着ていったのは赤いダッフルコートで武道館に飾られたKalafinaライブを伝える看板を見つつ今日は違うけど関係者の人とかにご挨拶しつつ、チケットを引き替えもらった番号に1階A列ってあったんで最前列だなあとは思ったものの、それでもステージ横からさらに奥とかならステージ中央に立つアーティストは見えない訳で、それでも良いかと行列に並んで入って辿り着いた北東の1階A列ひとけた台の席は。何と舞台の上手の真横を数列分くらい前に出たあたりというとてつもない良席。そりゃあ歌う3人は真横から見ることになるけれど、それでも3人が順に並ぶ姿は見えるし何より顔がちゃんと見える。

 そしてバックで演奏するメンバーも見えて後ろに下がったモニターも見える位置はあるいはアリーナでも両脇に当たる位置よりステージに近い分、制作開放席の方がアーティストに近くて良かったかもしれないというか。むしろ良すぎたというか。だってだって曲の最中にまずはHikaruが来てすぐ目の前で唄ってくれたし、後にはWakanaも来て歌いさらにはKeikoも入れた3人がやって来て歌声を聴かせ歌う顔を間近に見せてくれた。あんなに近くで歌っている姿なんて観たことあったっけ。オーチャードで1回あったか。でも武道館という箱でこの近さ。後から当たって良かったなあとしみじみ思う。ずっと外れてたんだよ今回は。申し込んでも申し込んでも外れてそして当日なんてとても買えない状況で、行けるかどうか迷っていたけど最後の最後に申し込んだ制作開放席に当たるとは。それがこんなに良い席だったとは。ありがとうと言いたい。

 何より今日というライブを滞りなく演じてくれたKalafinaの3人に。バンドのメンバーに。スペースクラフトの制作陣に。そして梶浦由記さんに。ありがとうといいたくなったそのライブ。広い広い武道館は音が潰れるとか掠れるとかありそうなものだけれど、セッティングもばっちりだったようで聞く音のすべてがクリアで歌声がくっきりと聞こえてくる。それはスピーカーの真横だったからかもしれないけれど、時折何を歌っているのか聞き取りづらい箱もある中で武道館という場所に合わせてセッティングをした音響の人の仕事ぶりに喝采。そしてそんな音響を生かしてきれいな歌声をどこまでもどこまで響かせてくれたKalafinaの3人に。

 Hikaru。今回はソロで歌う場面も多くそれがとても目立っていたという感じ。もとより完璧さで鳴るWakanaとは対称的に、その歌声に情感が乗るタイプなのはいつかインタビューで女優もやってみたいと話していたことにも関係あるんだろう。ひとつの演技派。その彼女の心情に、日本武道館という舞台が何か影響も与えていたのか、声の起伏が今まで以上にあった感じで、時折揺らぎめいたものを感じたけれどそれが外したとかズレたといったものにならず、情感の発露として捉えられるところがやっぱりKalafinaの巧さだろうし、Hikaruというシンガーの持つ特色でもある。艶っぽくて粘っこくて甘くって。そんな声で場を塗りこめる。

 Wakana。トークでもあったようにブレスに情感を乗せて起伏を付けるHikaruと違って、ブレスさえ感じさせないで歌いつぐそのクリアなハイトーンはもう天井より降り注ぐ女神の声としか言い様がない。聞けば誰だって心打たれるその済んだ声が、奏でるKalafinaの時に激しく時にしっとりと、甘く賑やかで静かに高く響く唄をどこまでもどこまで届かせる。CDで聞いても圧巻のその完璧ボイスが日本武道館という広い会場でも完璧に歌われ響き渡る。それを間近に見て聞くこの僥倖。ありがとう。その一言がとにかく浮かんで来る。ありがとう。もしかしたら生声で唄っても武道館全体に響き渡ったかもしれないなあ。それくらい凄かった。

 Keiko。安定の低音。いや低音というほどフランク永井はしていないけれど、奔放なHikaruに神々しいWakanaの間に立って2人を支えつつ時に自らリードまでして場を作る。この声が、この唄がなければKalafinaは巧いけれども賑やかで、そしてどこか軽ささえ漂うツインになっていたかもしれないけれど、そこにKeikoというベースが置かれることによって飛ばず逃げないでどっしりと、落ち着きながらも遠くまで響かせるボーカルユニットを形作れるのだ。最後の最後に歌った「アレルヤ」でのほとんど1人で受け持ち歌い上げるその歌声を聴けば、単独でだってシンガーしていける彼女が支えに回る。だからKalafinaは凄いのだ。

 そんな三者三様のその特徴、その歌声を組んで巧みに操り、誰かを出しつつ誰かを背後に置いてそれを入れ替え色味を変える音楽を、歌声を作って見せる梶浦由記さんの凄さにも改めて感じ入った次第。あるいはステージを作っている監督さんの腕前にも。そんなライブはRed Dayを経て明日のBlue Dayへと繋がる。参戦予定ではあるけれど、いったいどんな曲が聴けるのか。割と今日だけで聞きたかった曲をやってくれたけれど、そうした定番も含めて少し入れ替えるのか、全曲違ってくるのかどうか。期待をしつつ明日を待とう。そしてきょうは感慨を噛みしめながらぐっすりと寝よう。ありがとう。そしてお休みなさい。


【2月27日】 原恵一監督の最新作で杉浦日向子さんの漫画をアニメーション映画にした「百日紅」のキャストが決まってきたみたいで、主役のお栄には「ごちそうさん」の杏さんがすでに決まっていたけれど、その周辺にうごめく胡乱にして圧巻の者どものを演じる役者も勢ぞろい、っていうか役者しかいないキャスティングに、この面々はとても良い人たちだと思いつつ、ここでもいわゆる俳優さんたちが重要な役どころに起用されていることにいったい、職業としての“声優”って何なんだろうなあとも思うのだった。あるいはちょっと困ったことになりかけているのかもと。

 テレビとは違って映画の場合は、それがアニメーションであってもというか、アニメーションだからこそ一種イベント性を重んじつつ、一般層への訴求力なんかも求めて俳優さんを起用するケースは以前から割と多くって、それこそ「サイボーグ009」での太田博之さんやジュディ・オングさんの昔から、「地球へ…」での井上純さん沖雅也さん志太郎さん秋吉久美子さん薬師丸ひろ子さんといったメインどころを俳優女優で固めたキャスティングなんかも含めて、割と一般的だったりする。テレビから出た「宇宙戦艦ヤマト」とかはそのまま声優さんが起用されていたけれど、「幻魔大戦」では美輪明宏さんもいたりして、ここぞという場で修羅場をくぐった役者を使って存在感を示そうとしていた。

 でもだんだんと、テレビアニメーションの影響もあってか映画でもテレビで活躍する声優さんが多くなってきたって感じがあって、「幻魔大戦」はメインどころは人気声優が固めていたし、宮崎駿監督が「風の谷のナウシカ」で島本須美さんをはじめ永井一郎さん納谷吾朗さんらを起用して以後もしばらく声優でいっていた。それがどういう理由からか、だんだんと俳優が起用されるようになっていって、そして「風立ちぬ」に至ってはアニメ監督までもが起用されてしまう。今をときめくアニメーション監督の細田守監督も、俳優女優をずらり並べて声優さんを使わない。そして原恵一監督。「カラフル」でもほとんど女優俳優に子役だった。

 その原監督の「百日紅」は、杏さんの他に松重豊さん濱田岳さん高良健吾さん美保純さん清水詩音さん筒井道隆さん麻生久美子さん立川談春さんといった人たちがずらりと並んで、いわゆる“有名声優”なんてどこにもいない。これってどういうことなんだろう。今って声優ブームじゃないの? それでいっぱい優れた声優さんが出てきているんじゃないの? って感じにちょっとモヤモヤっとした思いが漂う。声優さんは声優さんでしっかりした人気があって、ライブを開けばお客が集まるし、CDだってそれなりに売れてるから、職業としてはちゃんと成り立っている。それなのに……。だからそうやってテレビで大活躍している声をお仕事にしている人たちが、晴れ舞台とも言って悪くない有名監督が手掛ける長編アニメーション映画の仕事でもって、こうした“区別”を受けていることに、どういう自覚を持っているのかな、って興味がある。

 あれはあれであって、自分たちは自分たちであって、テレビ漫画の延長としてのテレビアニメに最適な声を作って乗せて聞かせられるプロフェッショナルであって、映画という違う見せ方聞かせ方をもった作品において、あるいは洋画なり海外ドラマなりにおいて自分たちはいなくてもそれは領域が違うから、という受け止め方なんだろうか。それで良いかどうかは別にして、いろいろと声優業も岐路にあるのかもなあと考えるのだった。舞台に立てて映画にも出てアニメも演じて洋画の吹き替えもやる、なんてマルチはもう出てこないというか。どうだろう。ちなみに松重豊さんは今でこそゴローちゃんだけど、ちょっとEテレでやってた「建築は知っている ランドマークから見た戦後70年」では知的に建築を語る声を発してたんで巧い役者、しっかり北斎になってくれるだろう。期待したい。

 これもコラボレーションであると同時に一種の“聖地化”であって、その先に”巡礼者”としてのサポーターを増やしたいという意向もあるんだろうなあ、JリーグのJ2に所属する水戸ホーリーホック、東京ヴェルディ、そしてFC岐阜が、それぞれにアニメーション作品の「ガールズ&パンツァー」「甘城ブリリアントパーク」「のうりん」とコラボレーションをしつつ、この3試合が行う試合をコラボマッチ的にして盛り上げるといった「アニ×サカ」って取り組みが、3月からいよいよスタートするみたい。水戸と「ガルパン」なんて組んだ実績も長くって、今年もまた組んでくれるんだという嬉しさがある一方で、「とある科学の超電磁砲」と去年組んだヴェルディが、何で今年は「甘ブリ」なんだって想いも浮かんでいろいろと複雑。コラボとして一瞬の集客イベントに終わらせかねないニュアンスなんかを感じさせる。

 「超電磁砲」も「甘城」もどっちも好きで、サッカーもよく見に行く僕みたいなのはどっちと組んでも喜んでホイホイと行くし、そもそもが応援しているのはジェフユナイテッド市原・千葉なんで、ヴェルディがどこと組もうとそのアニメの関連グッズが手にはいるなら嬉しいって思うけれど、例えば熱烈な御坂美琴ファンなり白井黒子ファンとかは、それで興味を持ったヴェルディが今年はシュタインベルガーの号砲を鳴り響かせ、モッフル卿がピッチを闊歩する状況にいったい何を思うのか。ゲコ太はどこにいったのか。そんな想いを浮かべてせっかく抱いた好意を捨てかねない。来年にまた違う作品と組めば今度は「甘ブリ」ファンが逃げていく。そうならないかなあ、なんて不安も浮かぶ。

 そのあたり、水戸ちゃんは男祭りの土壌だけあって、「ガルパン」と決めたらガルパンに頼り、ガルパンとともにパンツァーフォー! と突き進んでいるからまだ明快。版権元もそれならと応援しやすいだろう。実際にタイトルとしてスポンサードしているし。おかげで今年のコラボユニフォームは、袖に大洗女子のチーム別にマークを入れられるみたいだし、試合用のユニフォームのパンツには、あんこうチームのマークが入ってる。これちょっと欲しいかも。

 それと比べるとヴェルディの場合は、どこか特定のスポンサーがある訳でもないので色々とタイトルを変えながら今を刹那と盛り上げつつ、多くの人たちの興味をサッカーへと引きつける意味があるからそれはそれで良いのかも。一方でサッカーファンもヴェルディというかつての金看板で今も知られた存在を経てアニメを知る機会になれば良いってことで、次はだから「ガッチャマンクラウズ」でも別に良いのだ。FC岐阜と「のうりん」は去年も作者本人が来て講演とか行ったようで、大いに盛り上がっているので今年も組んで盛り上げ岐阜の農業を満天下に轟かせてやって頂ければこれ幸い。牛も馬も豚もニワトリもピッチを自在に走り回せるとかしたりして。しないしない。

 そして読み終えた王城夕紀さんの「マレ・サカチのたったひとつの贈物」(中央公論新社)が世紀的な傑作だったのでSFファンは誰もが欠かさずに読むように。量子病。いても消えて移動し現れ過ごしてまた消えるという、不思議な病を負った坂知稀という女性の遍歴を通して、テロとデモにあえぎ経済的に破綻していった中をどう立ち直ろうか、それともどう滅びようかと模索する世界の有り様と、そこに生きる人々の想いを綴っていく内容。経済は2度目のダウンを迎えて先進国すら混乱を来す中で人類が次に向かうべき場所をも示唆してみせる。

 そんな展開の過程では、巧みに操作され情報の出し方転がしようで誰かの意図するがままに揺れて動き傾くネット世論の姿なんてものが示唆されて、この世界が真に人の意志で動いているのかと考えさせられる。陰謀の裏に蠢く陰謀。動いているようで動かされているかもしれない可能性。そういったものに思い至らされ、それでも今ある状況を生きなくては行けない人類は何にすがればい良いか。何をより所に生きれば良いか。そんなことが描かれていく。読めば知るだろう、自分の生きる目的を。

 そんな物語を振り返るに、なぜ量子病のような存在が生まれたのか、ほかにも変幻する顔の持ち主、生まれてすぐ哲学した赤ん坊など不思議な存在が現れてて、それらはいったい何が求めたのか、誰に求められたのか、なんてことを問いかけられる。個々人による主体としての意志よりも、人類全体を客体として誰か別の存在による総意なんてものがあって、その現れとして坂知稀をはじめとした不思議な人間たちが現れたのかもしれない。結果、地球は、人類はああなっていくという。ガイア仮説じゃないけれど、より大きな存在めいたものを思わされる。

 読むとやっぱり浮かぶ「おもいでエマノン」だけれど、長い時間をかけて居続けるエマノンもなるほど生きる人々に何かをもたらしそこからの広がりをもたらすけれど、急変する世界、急進する技術の中でエマノンでは遅過ぎるのかもしれない。その意味で「マレ・サカチのたったひとつの贈物」の量子病は21世紀的な欲求に応えるものなのかも。ラストから先には、映画として人気になった「楽園追放」へと至るプレ的な世界がこれから生まれてきそうな世界と技術の描写があって、テクノガジェット的な想像力を刺激される。そして「楽園追放」にも示唆された人が人として存在する意義も問われる物語。読んで思おう、出会いの価値を。


【2月26日】 父親の会長と長女の社長で権力闘争をするくらいなら大塚家具、いっそ父親の経営方針を実践する大塚勝久家具と、それから長女のスタイルを表現する大塚久美子家具に分かれて争って、お客さんにどっちが上かを決めてもらえば良いんじゃないかなんて思わないでもないけれど、今ある店舗を仕切って半分にする訳にはいかないし、そもそもが久美子社長の経営方針を実践する場には今のショールーム的な大塚家具では立地も雰囲気も宜しくない。かといって銀座の店は父親の社長復帰と同時に閉鎖されてしまったから、久美子社長の経営方針を今すぐに実践なんてできない訳で、そういう分離は苦しそう。人材だって分散させる訳にはいかないし。

 だからだんだんと変わっていくしかないんだけれど、変わられては自分の影響力が殺がれてしまうと巻き返しに出た勝久会長。背後にずらりと幹部を並べて会見してみせた。それはある意味、自分への忠義を表す踏み絵を踏ませたようなもので、これで久美子社長が主導権をとった場合に、並んだ面々はどういう扱いを受けるのか、考えると夜も寝られないだろうなあ。でもそのあたり、ちゃんと配慮してか父の演出に社員を巻き込み申し訳ないって久美子社長は話してて、権力に逆らえず追随したんだろうけどちゃんと分かっているってメッセージを送ってる。聞いてこれは久美子社長に寝返ってもきっと理解してもらえると思い、1人また1人と抜けていけ勝久会長の勢いも衰えそう。そういう情報戦、心理戦も駆使して巻き返す久美子社長が今は1枚、上手かなあ。

 親子兄弟でののれん争いとなると、思い出すのが帆布の鞄で有名な「一澤帆布」の相続をめぐる争いで、ずっと父親と仕事をして来た息子の信三郎さんが後を継いだんだけれど、そこに銀行家だった兄が現れ遺言状をかざして実権を持っていってしまったから驚いた。信三郎さんは追い出されることになったけれど、手に技術のあるのは信三郎さんでそれに職人たちもいっしょに着いていき、前の店舗のほぼ向かいあたりに店を開いて「信三郎帆布」ってブランドで鞄を作り、帽子とかも作って売り始めた。居抜きで職人ごと去られた兄の方は、海外なんかの手も借り品物を作っていたようで、しばらくはブランドが並立する感じになっていたけど、2度目の裁判でもって信三郎さんの主張が認められ、権利を取り戻し店舗も取り戻すことに成功した。

 でもしばらくその名で展開して来た「信三郎帆布」は、その技術も含めてひとつのブランドになっていて、潰すのはもったいないと考えたのか「、信三郎帆布」とかってラインはそれとして今も維持しつつ、旧来からある職人用鞄の復刻に「一澤帆布」のタグを付けて売っているみたい。どうしてひとつに統一しないのか、せっかく取り戻したブランドに多い入れはないのか、って思わないでもないけれど、そこはブランドよりもブランドを支えた技術であり、製品こそが大事であって、それが損なわれそうだったからこそ兄の時代の「一澤帆布」に対抗したけど、戻ったら戻ったで自分が育て、技術も注いだ「信三郎帆布」でも良いって思ったのかな、どうなのかな。ともあれひとつの決着を見ていたこの一件みたいに、大塚家具も収まるところに収まるか。しばらく注目。

 せっかくだからと、東京スカイツリー直下、東京ソラマチにあるホールで開かれている「藤島康介原画展」をのぞいて、手描きの原画が持つオーラってものを顔面に浴びてうち震える。ただでさえ丁寧に服のヒダヒダまで描かれている絵だけれど、それが修正の後も含めて原画でもって展示されているのを見ると、人間の技術って凄いんだなあとただひたすらに思わされる。これを何枚も重ねて動かしてたんだから、アニメーションも凄いってことになるけど、それが変わりつつあるっていうのは宮崎駿さんでなくても高畑勲さんに限らなくても、寂しいと思って当然か。いやさすがにアニメの「ああっ女神さまっ」は原画ほど細かく描き込まれてはいないけれど。凄いよなあ藤島さんのそのテクニック。その筆遣い。そして今もずっつ手描きみたいだもんなあ。

 アニメとしてよく見ていた「逮捕しちゃうぞ」の原画とかにも感動したけど、よりグッと来たのはゲームソフト「サクラ大戦」のゲームパッケージとかの原画かなあ、あのメインビジュアルとして散々っぱら使われた、真宮寺さくらや他の帝国華撃団の面々のイラスト。ある時代をそれに耽溺して熱中して目の奥にくっきりと焼き付けたビジュアルを、おそらくは原画として見られるんだからこれは貴重、そして僥倖。まるで歪まずそして今なおフレッシュな色彩でもって迫ってくるそのビジュアルたちを見るにつけ、タイトルの今一度の“復活”って奴を期待したくなる。面白いのになあ、どうしてスマホ時代に対応ゲームとして蘇って来ないのかなあ、それ以前に新作として復活とかないのかなあ、ないんだろうなあ、そこが残念。でも忘れないその面白さ。ドリキャスが動いたらプレーするのになあ。たぶんソフト、突っ込んだままになっているし。

やっと届いた「SFマガジン2015年4月号」は隔月刊化されて発の刊行にしてハヤカワSF文庫の2000冊到達を記念して、その総解説がスタートしていてとりあえず1から500までの解説が載っている中で僕も平井和正さんの「ウルフガイ」シリーズと、それからハインラインの「悪徳なんかこわくない」の解説を担当しているので、どなた様もご高覧頂ければこれ幸い。先年末に希望調査というか好きなの挙げてくださいって話があってそりゃあやっぱり挙げるでしょうとSF文庫ではそれほどない日本人作家をメインに並べて送ったら、あろうことか競争率も高そうな「ウルフガイ」の執筆が回ってきたのが今年の1月17日。そしてこれは大変だなあと思った矢先に、平井さんの訃報が流れはじめてそして死去が確定してしまい、その代表作ともいえる「ウルフガイ」を紹介するのに自分で足りるのか、っていった恐怖がまずは走る。

 一方で、自分がその訃報を受けた最初くらいの「ウルフガイ」に対するひとつの批評を手掛けられるという僥倖もあって迷う中、まずは古書店へと走って平井さんの文庫なんかをハヤカワに限らず「ウルフガイ」以外も含めて角川文庫や徳間文庫なんかを買い込み、そして坂口尚さんが描いた漫画版とか泉たにあゆみさんが作画している最新の漫画版なんかも手に入れ読んで理解に努め、「ウルフレター」とかに書かれた平井さんの読者への言葉から執筆動機や執筆意図なんかを探りつつ、まとめようとしたもののページ数も限られる中ですべては現せなかったのがひとつ残念。だけれどそれでも多少はあの時代のあの雰囲気を、今の時代のこの空気の中に蘇らせることができたんじゃないかなあ、なんて思うのだった。「悪徳なんかこわくない」はほら、自分弓月光さんの「ボクの初体験」が大好きなもんで。ハインラインにしては異色のエロスとそして人間愛に溢れた作品。こういう人だったんだなあと改めて。

 しかしになあ、記者とはいっても元でしかなく、今は大学の教員でその身分すら不安定な人間な訳で、何かで発言するったってその場がある訳でもなく、それが満天下に届くわけでもない。あるいはけしかける媒体の方で存分に場所を用意してくれるってんなら話は別だけれど、難癖を付ける上に反論までかぶせてその主張を粉砕するに決まっている、そんな場所に出ていくことを言論とはやっぱり呼ばない。だから1個人として自分の手に負えない攻撃が来たなら裁判に訴えるってのもありなのに、WILLはそんな個人を相手にデカデカと「植村隆元記者よ、言論で戦え!」なんて掲げていたりするから厄介というか、個人攻撃も大概にしろというか。それでもやっぱり言論で挑まれたんだから言論でって言うなら、朝日が言論で振りまいたことへの集団訴訟は何なのって話にもなりかねない。それを批判なんてしないだろうし。あと執筆者の中に身内がアパルトヘイトを称揚したと世界から叩かれている媒体の人間もいるんだけれど、自分のところは頬被りか、それで他人を叩くのか。何ともまあみっともない話。日本人ならではの“恥”って意識があるなら出ていかないんだけれど。なんだろうなあそんなもの。

 ドガーンバババババババババギャシャーンズガガガガガドンドンドドンドンパラパラパラパラパラパラヒューンドゴーンバシャアプカプカ。って映画だと言って信じてもらえるか分からないけれど、ドルビーアトモスっていう立体音響で作られた初めてらしい邦画ってことで上映された劇場版「THE NEXT GENERATIONパトレイバー 首都決戦」は、まさしくそういう感じに音響に厚みがあって深みがあって奥行きがあって広がりがあって、その中で武力闘争としての激闘と権力闘争としての激闘が描かれていた。格好いいなあ後藤田さん。内容的には公開までまだ間があるんで触れないけれど、予想どおりに「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」の正当なる続編といった感じ。それだけに見てピンと来る人も多そうだけれど、だからこそあの人物のあの振る舞いは何なんだろうって疑問と想像も浮かぶ。公開されたら憶測も飛び交いそう。それだけに楽しみ。上映はドルビーアトモスの入ったところでやってくれるかなあ。松竹配給だけど松竹って確か持ってないじゃんアトモス。TOHOシネマズ借りるんだろうなあ。


【2月25日】 なんか分からないけど毎週見ている「美男高校地球防衛部LOVE!」は、今までがそれっぽさを漂わせながらも仲の良い高校生の男子たちの集合でしかなった防衛部の中に2人、向き合い関係を確かめ合う者たちが出てきて一気にB(防衛部)なL(LOVE)の雰囲気が濃さを増す。そういうあからさまなやりとりが好き、って人もいればそうでないただ普通の日常の中にふっと漂う感情みたいなものを尊ぶ向きもあって、今回の作劇には意見も分かれそうだけれど、いろいろあるのが高松信司監督の作風でもあるので、これはこれと受けつつ次に何が起こるのか、ってあたりを見ていこう。どうやら俵山先生、本格的に傷んで来るみたいだし。

 もうすぐ終わりってことで、神保町にあるCoCo壱番屋へと出向いて「グランドマザーカレー」を1杯。残念ながらスプーンの抽選には外れたけれど、ジャガイモが入っていて野菜もたっぷりでそこにスライスられた豚肉が入る、いかにも家庭のカレーっぽさを残したカレーぶりに、どうしてこれが期間限定メニューなのって改めて言いたくなる。レギュラーにすれば良いのに。でもこうやってたまにしか食べられないから、期間が来れば行って食べようって気にもなるのかな。そう言えば前に1本、スプーンはもらっているけれど、部屋のどこかに埋もれて出てこないのだった。だったらもらっても仕方がないけど、でもやっぱり当たるのは嬉しいからなあ。期間中のあと1回くらいは行けるかな。

 柏レイソルは引き分けたけれど、ガンバ大阪は負けてそして浦和レッドダイヤモンズも負け鹿島アントラーズも負けてしまったアジアチャンピオンズリーグのグループリーグ初戦。これだけ負けが込むと果たして日本から4チームが出て良いのか? って話にもなりそうだけれど、アジアには日本と韓国と中国とあと諸々って感じにしかリーグが存在していないんで、そこから4チームずつ出るのも仕方がないのかなあ、って感じ。あるいはオーストラリアを2チームに増やすとか、あればあるかもしれないけれどオーストラリアってACLなのか? って話も浮上しているだけに難しいかも。とはいえタイではなあ。いずれインドリーグが台頭して来たら、ここに入ってくるのかな、そしてその時に日本は。考えると先が思いやられる今の日本のサッカー界。

 シーズン前だ、って言い訳もあるだろうけど、それは韓国も変わらないはずなんで言い訳にはならない。逆に日程が過密だなんて言い訳は不可能で、それに向けて勝つための鍛錬をして臨んで勝つのが普通なのに、そうはならないところに今の、日本のJリーグのチームが置かれた世界の中での蛙っぷりが浮かび上がる。以前ほどには資金も潤沢でなく、アジアどころか日本国内ですら突出した戦力を持ち得ない日本のJリーグのチームたち。だから国内ではビッグクラブめいたものができず、シーズン後半まで優勝がもつれ込んでは頭ひとつ抜け出したところが優勝する流れがずっと続いている。

 ここで1つでもアジアで勝てるチームがあったとしたら、それこそ世界でも名だたる代表クラスの選手がいて、その選手のおかげて国内でもトップを突っ走っていっただろう。そういう選手は日本人なら早くに国外へと出てしまい、そして年金リーグに突入した有力選手を雇い入れるだけのお金はないという事情が、日本のJリーグのチームから世界のひのき舞台で戦うための戦力を奪い気力を奪っている。それで良いならそれで良いと日本サッカー協会も認めれば良いのに、妙に力を入れて勝とう勝とうと言うから無理が出る。

 そんな戦力はない。いたとしても海外に行ってしまって国内には残ってくれない。だから世界では勝てない。それで良いじゃんクラブチームは。経営努力でどうなるって領分をもう超えてしまっている訳で、それでも世界で勝てというなら、Jリーグは出場チームの試合数を半分にするとか勝ち点のハンディをあげて、リーグ戦よりACLに集中できるようにしないと。でもそれは正義じゃないからやらない。だとしたらお金がなく選手層の薄い状況で挑んで玉砕を続けるだけ。そんな状況でむしろ恐れるべきは、若手が世界を相手に真剣勝負をする場が奪われてしまうことで、それによって選手の経験値が下がり、代表でも世界を相手に負け続ける状況に陥っている。これをまず何とかしないと3年後はともかく7年後あたりは、フル代表も大変なことになりそうなんだけれど……。発足20余年で最大の危機にあるのかもなあ、日本のプロサッカー。

 これはいったいどこを目指そうとしたものなのか、その着地点が見えていないだけにちょっと判断に迷う連載が朝日新聞の夕刊でスタート。題して「ヤマトをたどって」という太田啓之記者による文章は、テレビアニメーションであり映画にもなって一時代を築いた「宇宙戦艦ヤマト」を題材にいろいろ考えていく、って感じになっているけど、そのスタートが「ヤマト」が持つ戦意昂揚的なニュアンスを捉えつつ、それに反意を漂わせたものとなっているだけに、そうした意見に反発しがちな層からの批判なんかも受けつつ、議論を巻き起こしながら進んでいきそう。

 まずは1回目となったこの文章、「さらば宇宙戦艦ヤマト」の「ヤマトと共に巨大な戦艦に特攻していく主人公の満ち足りた表情を見た時に、私が感じた強烈な憧れと高揚感」は、「戦前、戦中に多くの若者や子どもらの胸を満たした『愛国心』に近い感情」で、それが戦後教育を受けた少年であったはずの映画を見た自分に現れたことに今驚き戸惑う記者の言葉がつづられている。50歳というから僕とそれほど変わらない世代で、最初のは再放送で見てそして「さらば宇宙戦艦ヤマト」で感慨がピークに達して、その尾を今も引きずっているといった感じっぽい。その自問自答は僕とも重なるところがあるんだけれど、一方で「愛国心」といった大仰なものではなく、仲間を救おうと自分を犠牲にする”崇高さ”が濃かったんじゃないかっていった、僕自身の振り返っての思いとは差異が見える。

 戦後の平和教育であろうと、時代劇とかの自己犠牲的振る舞いを感動に読み返させるドラマがあり、特攻よろしく悪に挑む正義のヒーローの物語が漫画にもある中で、「さらば宇宙戦艦ヤマト」のそれも「愛国心」といった概念からは切り離されたものとして、当時の子どもたちを感動させたっんじゃないのって、今になっても僕自身は考えている。もちろん「国家」への忠誠、その表明としての特攻といった思考へは至らず、仲間のため家族のためといった感情から生まれる行為としての自己犠牲という思考を保っているので、「そんな個人的な場で、『国家』という公につながりかねない感情が突然噴出したことへの、驚きと戸惑い」を覚える記者の人が、ちょっと不思議に思えてくる。

 だからこそ余計に太田啓之記者による連載が、どういった同感なり違和感を引っ張り出しながら進んでいくかに興味が向かう。いわゆる“朝日的”と呼ばれるサヨク的で反権力的な立ち位置でもって“反戦”であったり“反愛国心”めいたものの扇動へと筆を向かわせるのか、そういうある意味でポジショントーク的な展開を拒絶して、純粋に己の中にあるかもしれない「愛国心」あるいは「自己犠牲の称揚」といった気持ちを見つめ、それがどこから来てそしてどうして「宇宙戦艦ヤマト」で引っ張り出されたのかを問うのか。後者なら読んで自分にも価値があるものと思えるんだけれど、果たして。

 ひとつ思うなら「宇宙戦艦ヤマト」とか「さらば宇宙戦艦ヤマト」なんかが話題になっていた頃は、いろいろとコンテンツ的にバランスがとれていて、「はだしのゲン」とかに戦争の惨禍を強く思わされる一方で、「さらば宇宙戦艦ヤマト」のようなともすれば特攻を美化しているととられかねない展開にも、美意識めいたものを感じて良かったりして、そんな両翼から繰り出されるさまざまなドラマなり感動なりを、自分の中で戦わせ、混ぜ合わせることによって自分なりの立ち位置って奴へと至れた気がする。今はそれがなく、一方に寄った傾向ばかりが繰り出され、そればっかりが称揚され、それ以外は拒絶され忌避され排除される。むしろそうした状況の方が怖いと思うんだけれど、そういう状況を指摘するような話には向かってくれるかな、くれないかな。いずれにしても読んでいこう、「宇宙戦艦ヤマト2199」の女性キャラでは誰が好きかを告白するのを楽しみにしつつ。しないかなあ。


【2月24日】 やっと追い付きそれから一緒に走り始めた小野田坂道と今泉俊輔が手に手を取り合って進む姿に惚れる人もいたりしたんだろうか「弱虫ペダル」。でもまだまだ死んでいない御堂筋がこれからどんな仕掛けを挑んでくるか。まあ結果は漫画で出ているんだけれどそのあたり、知らないんでこれからの丁々発止を眺めていこう。消えたように見えても真波山岳はしぶといしそれ以上に福富寿一だってもっと不気味。誰より強靱な肉体と生死を持った箱根学園のキャプテンがここで脱落する訳ないからラストあたりで出てきては小野田坂道とデッドヒートを繰り広げることになるんだろう、多分。なぜ坂道かってそりゃあ主役だから。今泉じゃあ足りないんだよ。

 鞍馬山へ行ったら天女扱いとは桃園奈生も捨てたものじゃないというか、捨てられた中では輝いていたというか。でも天狗にだってどうしようもない桜に一瞬でも花を咲かせられるんだから力はなかなかのもの。その姿に女人への免疫があんまりなさそうな天狗の二郎も見入って魂を抜かれて改心するかどうなのか。それは来週以降の「神様はじめました◎」。1クールだとしたらこの鞍馬山での一件をもって終わるのか、もうちょっとだけ別のエピソードが連なるのか。出雲と鞍馬山だけでは話もあんまり膨らまないんでもうちょっと別の話が欲しいところ。悪羅王との絡みなんかがまたぞろ出てきたりするのかな。これも追っていこうとりあえず。

 マンガ大賞はマンガ大賞でも手塚治虫文化賞の方のグランプリにあたるマンガ大賞の候補作が決まったみたいで眺めるとほしよりこさん「逢沢りく」に島本和彦さん「アオイホノオ」に松井優征さん「暗殺教室」とそして荒川弘さん「銀の匙 Silver Spoon」、大今良時さん「聲の形」、近藤ようこさん漫画で津原泰水さん原作の「五色の船」からコージィ城倉さん「チェイサー」と来て岸本斉史さん「NARUTO−ナルト−」とあと洞田創さん「平成うろ覺え草紙」なんかが入ってる。「五色の舟」は文化庁メディア芸術祭に入っててマンガ大賞2015でも個人的に押したけれども残らず、これでの受賞が期待したくなるけどでも、やっぱり「NARUTO−ナルト−」になりそうな予感。だって世界に今、最も広がっている日本の作品だから。

 島本和彦さんの「アオイホノオ」は小学館漫画賞も受賞していたりと飛ぶ鳥を落とす勢いだけれど、登場する人物のモデルとなっている人をどう捉えるかってあたりで評価も変わるか。そういやその人この賞の選考とか昔やっていなかったっけ。マンガ大賞を受賞した作品がこっちも取るという「3月のライオン」の前例に倣うと「銀の匙」も有力だけれどここはひとつ、完結もしてマンガ大賞2016には絶対入らない「聲の形」に来て欲しいかなあ。いやまだ「マンガ大賞2015」に最終ノミネートされていて可能性はあるんだけれど、こっちでもとればWになるしどっちか取れてもしれでオッケー、難しいテーマの作品を日常の中に抑えてしっかり描ききった腕、買われて欲しいものだけれど果たして。

 まさに至言といった言葉が連なった斎藤環さんによる朝日新聞掲載の「差別発言、キャラで免責」というタイトルのコラムは、曽野綾子さんによるアパルトヘイトを推奨していつととられかねない文章が新聞を飾り、それに対して南アフリカ大使館を初め世界中から異論が巻き起こったにも関わらず、日本での反応が今ひとつ鈍いことに関してそれはすでにそういう“キャラ”持ちがやったことであって、ああまたやっているなあで流されてしまったからだってなことを書いている。曰く「なぜ日本のマスメディアはすぐに反応しなかったのか。これも現政権による言論統制の成果なのか。おそらくそうではない。今回のコラムは『あの曽野綾子氏』が、いかにも『あの産経新聞』に書きそうな内容だった」。

 それはだから当たり前の話であって、犬が人を噛んだ程度の話であって(それだって当事者には大変なことなんだけれど)、そういう平常の話をニュースとして取りあげるのなんてバリューが足りないからあり得ない、って判断らしいと斎藤さんは指摘している。でも現実、差別問題はとてつもない問題であって、それが誰によって発せられようと糾弾されてしかるべきものだし、掲載された媒体にも立場の説明が求められるんだけれど、日本はそうした絶対性の基準が壊れてしまっているようで、相対の中で判断されて消費されてしまう。さらにはそういう相対化もすなわち一種のキャラとなって、なあなあの中で流されていく。これってとても怖いことなんだけれど、それが現実になってしまっている。

 曽野さんがそう言いそうとか、産経がそう書きそうって話はそれで取りざたされる話だけれど、そう言いそう、そう書きそうってことだけで流されてしまう状況があって、そういう書き手が、そういうメディアが問題視されないまま大手を振って満天下を公然と歩んでいける状況があることが、それが常態化していることがどうにもこうにも不思議で不気味。今は一部に限って認められている「あの」の範囲がジワジワと広がっていった果て、その価値観が全天を染めたときに社会は、日本は、世界はどうなってしまうのか。そうならないといいけれど、そうさせない言葉に対する「反日」「非国民」「サヨ」といったレッテル張りが常態化し、あまつさえ「ヘイトスピーチ」という言葉まで動員されて相対化され薄められて潰される。どうしてこんな状態になってしまったのか。どこで踏み越えてしまったのか。考えると夜寝られなくなっちゃう。

 赤いふなっしーは3倍速かったというか、3倍高く飛んでいたというか、そんなイベントがあったんで見物にいったけど、去年の「ニコニコ超会議」では遠巻きにしか見られず、ジャンプしている姿も見られなけば喋っている声も聞こえなかったこともあって、ほとんど初見といえるふなっしーがいつもの格好ではなく、真っ赤かになっていたのは果たして貴重と喜ぶべきか、それとも違うと悲しむべきか。でも喋る声はふなっしーだったし、跳ねる姿も踊る姿もふなっしーだったんでこれは本物と認めよう。そんなふなっしーが現れた「機動戦士ガンダム THE ORIGIN 1 青い瞳のキャスバル」の試写会で見た2回目となる映像は、やっぱり安彦良和さんの漫画にお馴染みのギャグタッチがリアルに映像化され過ぎていて、好きな人には好きだけれど第1作に入れ込む人だとシリアスさが足りないって話にもなるのかなあ。

 でも仕方がない、だってこれは安彦さんの「THE ORIGIN」の映像化なんだから。そういう意味ではベストな作品なのかも。ハモンさん大活躍しているし、アルテイシアのジト目もたっぷり見られるし、キシリア・ザビはあれでなかなかムチムチしているし、ドズル・ザビは結構良い奴っぽいし。だからゼナみたいな綺麗な女性が妻となって付き従ってミネバを生んだりするんだろう。キシリアはあのムチムチで放埒な感じのまんま大きくなればドズルと並んで豪放磊落を絵に描いた女指揮官になったかもしれないのに、どこで謀略家へと向かってしまったのかなあ。そこが残念。「小さいころのキャスバル坊やと遊んだ」ってあのことなの? それともまだほかに? ヤったとか? それはない。って何をヤるんだ。キシリアを手錠で柴って踏むとか。それはありかも。


【2月23日】 ラウドルップだスパレッティだって話を飛び交わせては、もうそのあたりに決まったかのような記事を流していたスポーツ新聞のサッカー日本代表に関する報道が、最近あんまり聞かれなくなったなあと思ったら、いつの間に本命がすり替わっていたようでボスニア・ヘルツァゴビナとかコートジボワールとかを率いたことがあるハリホジッチか、スペイン代表やレアル・マドリードで選手として活躍したミチェルといった名前が候補に急浮上して来た感じ。2人とも1カ月前なんてまるで名前が挙がっていなかったのに。技術委員長がオシム監督を訪ねたってのはそれだけ意味があるってことなんだろうなあ、実際に見識もあれば人脈もあるし。

 そんなオシム人脈あたりから浮上したっぽいハリホジッチあたりは代表監督としての実績もあって世界の舞台を知っている上に、戦術家でもありそうで日本を鍛えて強くした上に魅力のあるチームにしてくれそう。拘らないでスターも外してってこともやってくれそうなだけに、来てくれたらこんなに嬉しいことはないけれど、でもキャラクターとして地味だといってスポンサーサイドから蹴られたりしそうな予感も漂う。僕らはともかく世間の人は知らないものなあ、旧ユーゴ系の人なんて、日本で監督でもしていない限り。だからスペインでの実績と、何となく明るそうだからってイメージでミチェルにしようよって話になって、落ち着くってそんな辺りかなのなあ、今のところ。さてもどうなる。大逆転でストイコビッチとか?

 そして決まった第87回アカデミー賞の長編アニメーション賞は「ベイマックス」が持っていったという感じで、それはそれで良かったんだけれど日本からノミネートされた高畑勲監督「かぐや姫の物語」はちょっと残念だったかも。でもアニー賞にもノミネートされていたしロサンゼルス映画批評家協会賞とボストン映画批評家協会賞とトロント映画批評家協会賞といった辺りを受賞してハリウッドのお膝元とかアイビーリーグの本拠地とか、アニメーションについては一家言持った人の多いカナダで認められていたりするんで、これはこれで世界にしっかり名を残したって言えるじゃないのかなあ、日本にはハヤオ・ミヤザキだけじゃないアニメーション監督がいるんだってことを、世界に改めて認めさせることになったってことでもあるし。

 短編アニメーションもディズニーで「ベイマックス」と同時に上映された「愛犬とごちそう」が受賞。うんストーリーラインは魅力的で映像もしっかりできていたけど、犬にあんな人間と同じ物をたべさせたらいけないだろうっていう真っ当な批判は届かなかったみたい。アニメーションなんでそれ自体がユニークなら内容は問われない、ってことなのかなあ、それもちょっと迷う話。いずれにしても日本人監督の「ダム・キーパー」も「かぐや姫の物語」も受賞を逃した訳だけれど、でも「ベイマックス」にはコヤマシゲトさんと上杉忠弘さんが関わっていたりして、そのセンスは存分に生かされていたりする。

 元より日本のロボットアニメの影響も取りざたされている作品、才能が国境を越えセンスが世界に広がっているって意味でこれもクールジャパンとやらの産物と、言って良いなじゃいのかなあ、前向きな意味で。受賞を機会に上映も増えそうなんでもう1回くらい見ておこうかなあ、ハニー・レモンの長い足とかもっとじっくり見てみたいし。あるいは受賞したら公開も、って期待もかかった「ヒックとドラゴン2」は受賞を逃して全国のファンの落胆を誘っているけどそこはそれ、東京アニメアワードフェスティバル2015にて上映が決まったとか。数も限られそうで争奪戦が起こるだろうけどこれまで国内上映に奔走した人たちには、是非に見て欲しいもの。そしてその盛り上げが公開へと至ることも祈念しよう。でも自分、1まだ見てないんだよね。面白いの?

 きゃりーちゃんだきゃりーちゃんだ、きゃりーぱみゅぱみゅがあの「ヨルタモリ」に出演したってんで見たらいつもカウンターにいるもじゃもじゃ頭の人が何か役に立っているのを初めて見た、っていうかインド楽器の人あったのか、目の前で太鼓のチューニングをしてそれを見事な音で鳴らすのを見てこれは凄いと感心。こういう人を置いて世に出すタモリさんってやっぱり凄い人なのかもしれない。そして登場したきゃりーちゃんはタモリさん相手にトークもしっかり。歌詞に意味がないのが良いって誉められていてそういう歌もあるにはあるけどでも、所々に乙女心を忍ばせた歌もあるだけに内心はどうだったかちょっと知りたい。

 あとダンサーが口パクするのが嫌だってタモリさんに言われた時に、頷かないでそうですねえと流していたのが興味深かった。だってきゃりーちゃんのダンサー、一緒に歌っているから。顔は隠しているけどでもそれは個人の個性を消すだけで、一緒に謡のはチームとしての一体感を出すためで、そんな工夫があるってタモリさんに行っても、通じないからあの場ではああいう対応が正解なのかも。頭良いんだなあ。そして生歌も歌ってた。ライブに行けば観客を乗せるときに自分でちゃんと歌っているのを聞けるからファンはみんな知っているけど、テレビでしか知らない人は口パクだって思ってたらちゃんと歌えて驚いたかもしれない。

 CDとかでもテレビでも、ああいう普通の声での歌をもっと増やせば分かってもらえるのに。でも仕方がない。変声もひとつの個性な訳けだし。そんな「ヨルタモリ」。イリュージョンはともかくメタルは凄かった。低音で怒鳴るメタルからハイトーンも聞かせるメタルまでちゃんとそれっぽく演じてた。これぞ真骨頂。そんなタモリさんが帰ってきて嬉しい。「笑っていいとも」ってもしかしたら、遠回りだったのかもなあ。でもだからこそ30年以上経った今もこうしてタモリさんに接していられる。そう思えばあって良かったのかも。次はいつ登場するだろう、AMEDETH。


【2月22日】 ニャンニャンニャンの日。これで2222年になればニャンニャンニャンニャンニャンニャンニャンの日となるんだけれどその日まで猫が生き延びているか分からないので今のこの日をしっかりと慈しんで猫を愛でよう、飼ってないけど。一方にニンニンニンの日すなわち忍者の日という声もあって、すでに忍者なんているかという声もあるけどいないように見えているから忍者であってそして、2222年2月22日のその日も生き延びながらも見えず忍んでいるのだろう。さすがは忍者。それでこそ忍者。そして明日は兄さんの日。そうなのか?

 そんな2月22日にある意味相応しいかもしれない映画だった「陽だまりの彼女」をお台場のシネマメディアージュで観る。もちろん忍者的じゃない方で。原作はそりゃあ読んではいるけどあの展開を映画にすると前半はとことん甘くてデロデロで、ふとした弾みに再会した中学時代の知り合いが、だんだんと深い仲になっていくだけ、って見えなくもないけれど、その間に中学時代の辛い経験なんかも混ぜ、そこから2人が辿っただろう道を伺わせつつ再開後の幸せって奴を強く感じさせてみせる、途中まで。

 そう途中から映画の雰囲気はガラリと変わって浮かび上がったひとつの傷が、ある意味で難病物的な展開を伺わせる。ああこれは来る悲しい離別。そこに至る献身。泣けるなあと思わせて置いてさらに変わる。もうガラリと。原作を知らず松本潤さんなり上野樹里さんのファンとして映画を見に行った人は前半の甘さデロデロな展開にキリキリするか逆にムフムフするかしてのめり込んだだろうし、中途からの悲しい未来にグッと来たかもしれないけれどもその先の意外な展開に何を思ったか。きっと運命って奴を思い可能性って奴を信じてそれに賭けてみたくなったんじゃないかなあ。

 奇蹟はあるかもしれないし、ないかもしれないけれども奇蹟を信じる気持ちは誰が抱いても悪くない。そんな奇蹟を信じる気持ちがもたらしてくれる今を精一杯に生きて明日を迎えようとする意思を多分、この映画ってものが感じさせてくれるんじゃないのかなあ。ラストシーンにはいろいろと意見もあるだろうけれど、あの笑顔が記憶から来るのか思い出から来るのかその場のシチュエーションから来るだけなのか、考え方にはいろいいろあってそれもどれもが正解だろう。あそこで笑顔で終えてそう、余韻を残して考えさせ、感じさせることで映画って奴は後に繋がる思い出になっていくのだから。その意味でも巧い映画だった。

 それにしても松本潤さんは演技が達者だし玉山鉄二さんはイケメンだし谷村美月さんはすっかり個性派になってしまったというか怪しい女性を演らせると抜群というか。まあ「おろち」だし。そして何より上野樹里さんがとことん愛らしくってどこまでも何をされても笑顔でいつづけるそんな彼女の姿がでっかいスクリーンで迫ってくるとついつい包まれたくなってくる。抱きしめるには大きすぎる。そういやあ最近あんまり上野樹里さんを観ていないけれど、テレビドラマとかやっているのかな、やっているみたいだなあ「ウロボロス」とか。でもやっぱり映画で観たいその天真爛漫な笑顔って奴を。何か主演で動いてないんだろうか。ちょっと気になる。」

 そんな上野さんが演じた真緒の中学生時代を演じた葵わかなさんも、上野さんにそっくりな口元とかおどおどっとした感じとか、そこから見せる破顔一笑の雰囲気とかが滅茶苦茶に可愛かったけれども、今何をやっているんだろう。ちょっと気になった。声優もやっているみたいだけれどやっぱり女優になるのかな。そんな映画「陽だまりの彼女」に続く越谷オサムさん原作の映画が欲しいところ、って訳で是非に「いとみち」の映画化を願いたいけれど。葵さんなんかいとちゃん役にどうっすか。あと気になったこと。江ノ島の突端にある岩場はそうそう簡単にはたどり着けないのだった。よく真緒は行けたものだけれどそこは変じて駆けたとか? それはないか。頑張ったということで。

 東京マラソンだからってゴール地点から乗ってくるだろう人がいるかと思ったゆりかもめだけれど、時間がズレたかあんまり人もおらず普通の休日の混雑ぶり。何万人が東京ビッグサイトに到着しようと、1日に15万人とか来るコミックマーケットに比べれば序の口な数字なんでゆりかもめだって別にとりたてて困りもしないだろうなあ、その数字。しかし観たら記録が2時間6分台で、日本でもそんな記録が出るんだと思ったらしっかりペースランナーが走ってた。その勢いに付いていった今井正人選手は凄いけれど、世界最高から見ればまだまだ4分近く開いてる。その差がオリンピックで出るわけではないけれど、出かねない可能性を思えばあと数分は詰めておきたいところ。山岳専門みたいなところから、普通にスピードランナーに転じられたこともあるし、ここはもうちょっとの差を詰めて、世界と互した戦いを見せて欲しいし、見せられると信じてる。パトレイバーも一緒に走れば良かったのに。ポリスランナーとして。道路が沈む? ごもっとも。

 参ったねえこれは、って思わないメディア業界の人がいたらちょっと困るというか、あそこならそれが普通でうちは違うと言っていられるなら幸せだけれど、世間はまとめてメディア業界だと見ていてそこに、こうした権力の使いっ走りをしていると見なされかねない取材を行い、火はまるでないって認識しながらもボウボウと燃やしてしまうようなやり口が、メディア業界でスタンダードに行われているやり口だという見方が広まったら、もう誰もメディア業界のことなんて信じないし、その取材を受けようって気にもならない。

 そうなったら情報は仕入れられず中身は干上がり、スカスカになるか無理してでも情報を載せて欲しいところに阿るような話ばかりが飾るようになって、そしてそんな誰もそんなものは買わなくなって、ごくごく真っ当な広告は付かなくなって、情報でもって阿ったところの広告は載るけどそれでなおいっそう世間から不要と見なされ売れなくなるというスパイラルの果て、まとめてポイされるという未来。そういう可能性を想像できるなら、あそこはそれが普通だってスルーしないで、きっちりあそこはイケナイと糺して、同じメディア業界と見なされないよう隔離するくらいの筆を振るわないと、メディア業界としてヤバいんだけれど果たしてそんな風になるかなあ。ならないよなあ。

 実際のところ、それが違法行為かどうかでは完全に違法ではないと言えるけれど、脱法的かどうかというのは判断が分かれるところであって、脱法の何がいけないかっていうといけなくはないけれど、いけなくなるかもしれない行為を社会の規範たるべき国会議員が、やっていいかという問題になって、それはやっぱり糺されるべきってことになる。ただしごくごく一般的になっているかもしれない状況で、ひとりその人物を取りあげ糾弾する意味があるかという部分がひとつと、そうした糾弾のプロセスにメディア企業が絡み、なおかつメディア企業が権力の意思で動いている可能性がある、という部分にヤバさがある。筆による特高。それがまかり通る状況をヤバいと思うなら、ここはメディア企業がこぞって筆を上げないと、っていうことなんだけど、どうなるかねえ。


【2月21日】 あと読み残しってことで田島列島さんの「子供はわかってあげない」(講談社)も読んだんだった「マンガ大賞2015」の候補作。学校の屋上でアニメのヒロインを描いているようなオタク少年は、気持ちが悪い奴だと女子はもとより男子のクラスメートたちからも蔑まれて遠ざけられ、水泳部で選手になるような美少女と友だちになったり、ましてや恋仲になるようなことはない。そんなオタク少年の兄が前は兄であったのに、姉となって戻ってきて家を勘当され、飛び出してひとり、商店街の古書店の2階に居候をするようにして探偵の仕事を始めていれば、さらに胡散臭さを持って見られるというのが、旧態依然とした観念としての世間体というものを踏み台にして浮かぶ、偏見にも似た一方的な理解って奴だけれど、そんなものが一切ないのがこの漫画。そこにちょっと驚いた。

 ともすれば大げさな問題として描かれがちなそうした差異を、ほんわかとした絵による平穏で優しげな日常描写の連続に紛れ込ませて、たいしたことだと感じさせないようにしてくれている。オタクに新興宗教に探偵に超能力まで加わって、ハードボイルドでサスペンスフルな展開がさぞや繰り広げられるかと思いきや、現れる人たちは誰もが淡々としていて親切で、優しさがあって慈しみを持って生きている。オタクであってももじくんは虐げられず、サクタさんは母親が再婚した父親からしっかり愛され、明は居候している古書店の店主からも、暮らしている商店街の誰からも必要とされて生きている。

 差別もなければ区別もない、ごくごく普通の日常として過ごされ、過ぎていく中で描かれるのは、知り合ってからだんだんと近づいていく、もじくんとサクタさんとの2人の関係。まだ若い2人だから、目の前のごくごく親しい関係が大切なんだという見方もできるけれど、そんな2人の青春する姿から、誰にでも大切なことがあって、その生き方に疑問なんて差し挟めないという思いも浮かんでくる。学びたいしあやかりたいその物語世界、その登場人物たちのライフスタイル。この物語が広まることによってそんな世界が訪れて、そんな人たちでいっぱいになることを願いたい。心から。

 宝塚だ宝塚だ、宝塚って奴を子供の頃からずっとテレビとかで見たり、噂で評判なんかを聞いてはいたんだけれど、実はまだ行ったことがなかったりしたのがようやく行く機会が出来たというか、演目が演目なだけに行くしかないって思って頑張ってチケットを取ったっていうか。雪組公演「ルパン三世 王妃の首飾りを追え!」。そう、あの漫画に始まりテレビアニメーションとなって一世を風靡して映画にもなって今なお続く人気作品となった「ルパン三世」を、あの宝塚が舞台にしたっていうんだからこれはもう見ておくしか他にない。イケメン貴公子を女性たちが演じる宝塚にあって、モンキー顔の飄々とした悪党であるところのルパン三世をいったい誰が、どんな風に演じるかってこともあるしそれ以上に舞台にしてあの、荒唐無稽な世界観を表現できるのかって思ったこともあって見に行くしかなった。そして……。

 見た感想は、面白かった! 楽しかった! そして素晴らしかった! もしかしたら僕の中であらゆる「ルパン三世」という作品を並べた時の、ランキングのトップに方を並べてくるかもしれない。そのあたりになるともう甲乙つけがたくって横一線、最初のアニメーション映画2本と照樹務さんが演出した2ndシリーズの2作品と、1stシリーズ全般がだいたい並ぶんだけれど、そこに互して来るだけの面白さって奴を宝塚でありながら、舞台でありながら、女性たちが演じていながら「ルパン三世 王妃の首飾りを追え!」は体現していた。これは凄い。演じた役者が凄い。ルパン三世は早霧せいなさん、銭形警部は夢乃聖夏さん、次元大介は彩風咲奈さん、石川五ェ門は彩凪翔さんで峰不二子さは大湖せしるさんといった面々だったけれど、誰もが完璧以上にその強烈なキャラを違和感なしに見せてくれていた。もちろんマリー・アントワネット王妃を演じた咲妃みゆさんも。無垢から達観、そして再来というそれぞれに違った雰囲気を1人で演じ分け、演じきっていた。

 それよりも何よりも脚本を書いて演出した小柳奈穂子さんが凄い凄い凄すぎる。どうしたらあんなにルパン三世の世界観を理解した脚本を書けるんだ。ルパン三世のキャラを分かっての演出を行えるんだ。アニメーション監督でもないのに。いや、もしかしたらアニメの世界の人でないからこそ、妙なこだわりとか引っかかりとかもなく、ルパン三世が持つキャラクターの楽しさ、展開の荒唐無稽さ、そしてストーリーの奥深さって奴をそこに乗せて表現できたのかもしれない。泥棒でありななあら優しさを持って困っている人を見捨てられないお人好しのルパン三世に、どこまでもクールなガンマンの次元大介、寡黙なサムライの石川五ェ門、ルパン逮捕にすべてをかけて走り回る銭形警部に裏切りは女のアクセサリーを地でいく峰不二子と、そんなキャラクターたちのそれぞれに見せ場を作り、そして泣ける描写を込めた後でアクションも入れラブロマンスも混ぜながら、最後に大団円からもうひとつのお楽しみへと持っていくストーリーを繰り出した。

 まさかああいうクライマックスへと持っていくとは。そこにしっかりとカリオストロ伯爵を絡ませるとは。いやあもう素晴らしい脚本。このまま2時間のテレビスペシャルにだってしちゃいたいくらい、上手い脚本だと思ったよ、ああ思ったさ。そんな展開を彩る音楽は大野雄二さんが2ndシリーズ以降に書いていたサウンドから抜粋して、ここぞという場面で鳴り響かせて耳にビンビンと届いてくる。さらにあの名曲を歌付きでもって聞かせてくれる。1stが至上とか言いながらも実は大半の時間を2ndシリーズと過ごして来た、今の大人の世代にとっては耳慣れた楽曲でありサウンドであって、それが流れてあのキャラが出て、あのセリフが聞こえてそしてあのストーリーが繰り広げられればそれはもうルパン三世以外の何者でもない。一切の違和感もなく受け入れられる。その上に極上の脚本と最高のキャストが乗ったからもう鬼に金棒、怖い者なしの舞台ができあがったって寸法だ。

 オリジナルの歌もジンと来る感動的な仕上がりで、そんな満ち足りた舞台を出来るならまた見たいけれども残念にも完売らいしんでそれは無理。金券屋さんに行けば出ているだろうけれどそういうのも苦手だしなあ……でもちょっと考えるかも。あとはブルーレイディスクが出るんでこれは買い、と。だって「ルパン三世」だもん、買わないと。そういうお客さんで滅茶苦茶売れたりして、このBDだけ。観客もルパン三世ファンって感じの男性が多くいたなあ、それも宝塚ではちょっと意外かも。決して際物ではなく正しくルパン三世であって正しく宝塚。そんな舞台でありました。ダンスがメインの「ファンシー・ガイ」も最高。あれが黒燕尾って奴かあ、ダンスと歌が完璧に仕上がった面々によって作られる舞台ってやっぱり凄いなあ。本物を守り続けて新しさも混ぜるからこその人気。本物を作る努力を惜しみ金を惜しむ今どきの企業には真似できないよなあ。宝塚は永遠に。

 毎年通って新しい人がいないかを探している東京工芸大学の芸術系の学科の卒展とかが秋葉原で開かれていたんで見物に行く。伊藤剛さんを見かけたような気がするけれどやっぱり気づかれないのだった。そしてアニメーション作品では大学院の修了生らしい王星晨という人の「阿長と『山海経』」って作品のの完成度が滅茶苦茶高かった。魯迅のエッセイから着想した作品で、塾で先生から叱られて帰って罰として閉じこめられた蔵の中で、「山海経」って冊子を見つけた子供がその中から現れてくる妖怪変化に慰められるという展開。浮かぶ妖怪たちの可愛らしさも良かったけれど、そんな子供がさらに叱られ夢を奪われた時に見せるあれは乳母だろうか、女性の優しさが胸に響いた。この完成度ならすぐにあちこちのコンテストとかに引っ張りだこになりそうだけれど、果たして。

 あと大学院生では浅井愛弓さんの「みどりのともだち」も巧みで良かった。粘土の人形を動か立体アニメーションだけれど表情付けとか演出とかが良くて引き込まれる。話も良かった。それから宗欣さんというこれも留学生だろう人の「荘子と妻」は、中国の古典に題を取り影絵紙芝居風の絵を3DCGで表現してた。ストーリーそのものはあるものだからこれは絵の巧さなり工夫ってもので見せる作品かな。やっぱり大学院生ともなると凄いねえ。でも学生だって負けてはいない。古川・橋本教室の中島渉さん「EMIGRE」って作品がとにかく凄まじくて素晴らしかった。これは必見。そうでなくても評判になってあちらこちらで流れるようになるじゃないかなあ。スラムのような街の上を飛ぶ巨大な船にいつか行けるという望みを抱え母を失った少女に襲いかかる、バーサーカー的なものの攻撃。破壊される街を少女は駆け……。巨大感と悲壮感に溢れた映像が目に映る。

 時間もなくってこの古川・橋本研究室と細川研究室と大学院生しか見られなかったけど、その中では中島渉さんの「EMIGRE」は絶対に見ておくべき作品って断言したい。キャラとかの雰囲気は萌えから乖離しているけど動くし駆けるし屹立する。ちゃんと描けてる。相当に上手い人なんだろうなあ。そんなキャラが存在する世界観の描写が何より凄い。PV的になっている歌も良かった。誰だろう。他には古川・橋本研究室では橋谷卓磨さんの「カツオの味」にも注目かな。イラスト的絵本的絵なんだけれど動くし子猫と野良猫のデフォルメが効いてて絵として見て良くアニメーションとして見て楽しい。ストーリーは迷った子猫が野良猫に出会い救われ一夜を過ごすというもの。それを絵の力で見せる。猫と飼い主の声にも注目。卒業生として駆り出されたのかな。

 そして気づいたら日本SF大賞が藤井太洋さんの「オービタルクラウド」とそして長谷敏司さん「My Humanity」に決まってた。ライバルとなって激突するだおる作品だっただけにこれが殴り合いの上で勝利者が決められるんじゃなく、ちゃんと2人とも受賞というのが嬉しいというか素晴らしいというか。でも菅浩江さんの「誰にみしょとて」も素晴らしい作品だったんでちょっと残念かも。ただのレビュアーなんで編集者と受賞者がお祝いしている席に行くとかないし、日本SF作家クラブ員でもないんで授賞式で喝采を贈るってことも多分ないだろうけれど、どこかでお目にかかれるならお祝いの言葉を差し上げたいもの。長谷さんとかデビューからずいぶん経ったけど、ようやく本格にSFの人として世に認められたって感じかなあ。でも今は次の作品に期待。現役の作家なんだから。それがやっぱり何よりのファンへの答えってことで。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る