縮刷版2015年2月中旬号


【2月20日】 祖父母とそれから夫と離婚し2人の娘を連れて出戻った母親が営んでいる惣菜屋さんは、祖父母が作る昔ながらの総菜と、母親が手作りして揚げるコロッケが人気になってそれなりに繁盛していたけれど、階段から転げて骨を折ってしまって母親がしばらく入院ということになってその間、自分たちが頑張って母親の味を守ると娘で女子高生の姉妹が、学校から戻って着替える間もなく制服姿でエプロンだけ着け、奥でコロッケを揚げそして店先に立って呼び声も高らかに売っていたら、現役高校生の美少女姉妹がコロッケを手作りして売ってくれる店として人気になり、連日の行列が出来るようになったというこの事例は果たして、女子高生であり制服姿であり手作りでありといった理由から、「JKビジネス」として認定されて排除されてしまうのだろうかと考えた、そんな冬。だんだん暖かくなって参りました。

 柴田勝家が色々と台無しだよ。でもそれも柴田勝家らしいなあとも思った「アウト×デラックス」への柴田勝家さんの出演は、どういう経緯でその存在のことをフジテレビの番組スタッフが知ったのかも気になるけれど、それに答えて出てきた柴田勝家さんが、新人作家でそれまではただの一般人らしい緊張ぶりを放ちつつも、しっかりと自分の趣味であるところの戦国メイド喫茶通いをぶちまけては、好きなメイドとの会話を楽しんでみせている場面を、堂々と満天下にさらしてみせたところがその男気って奴に相応しかった。さすがは織田信長に準じるように秀吉との戦いを選び、滅びていっただけの武将。散り際も鮮やかに……ってまだ散ってないか。これで広まった存在が本の売上に繋がるか。ちょっと注目。

 「みんなの党」が出来た時にも思ったけれど、フジテレビが4月から新しくスタートさせる午後の時間帯のニュース番組のタイトルになった「みんなのニュース」の「みんな」っていったい誰のことを指すんだろう? その語感から漂う上意下達な代言者気取りのスタンスって、実はあんまりいい顔されないと思ったりするんだけれどそういう意識はまるでなく、自分たちが作り見せるものこそが必要とされているニュースなんだというスタンスで、番組を作っていくんだろうなあ、首都圏メインの野郎時代的なニュアンスも漂わせなあら。

 しかし3時間10分の生放送って、その時間をいったい何で埋めるつもりなんだろう。これがドラマの再放送とかアニメの再放送をやってくれていた方が、時間が空いている人は見るし、これならと録画しておいて視聴する人だっているだろうに。これがニュースとかって話になると、スカスカの時間帯を埋めるためにネットの動画像が全世界から寄せ集められ、ネットの話題がさも大事の如くにフレームアップされ、グルメガイドやショップガイドの三番煎じが横行して、そしてネタ集めのためにライター庶子に教えてくださいメールがばらまかれることになるんだろう。アルな情報を伝えるべく1人にカメラとか持たせて生中継させたりして。なんか地上波がニコニコ生放送化していく感じ。いやもうそれしかないのかなあ、誰もが見るけど誰も見てない地上波というビジネスモデルには。

 ふてぶてしい容疑者は出された朝食をペロリと平らげる。そして総理大臣様の有り難いお言葉に異議を唱える者は血相を変える。言葉は使い方によって刃になり、その使い方を間違えると醜悪さが漂い出す。例の国会での質問者に安倍総理が「日教組! 日教組!」と野次を飛ばした件について、言い訳として過去に民主党の議員が日教組の北海道支部にあたる組織から、献金を受けていたって話を言いたかっただけっていう説も出てきて、安倍総理の擁護を始めるメディアも出始めて来たけれど、それだって品性下劣といえば下劣な訳で、糾弾されてしかるべき行為な訳だけれどもあろうことか、そうした振る舞いを受けて憤った議員のことを「玉木氏は日教組とあまり関係ないだけに『日教組の話はしていない!』と血相を変えて反論し」たと書いて悪いのは取り乱す方だなんて印象を与えようとしている。

 挙げ句に窘められて総理大臣が引っ込んだ状況を、記事にもない「“大岡裁き”」だなんて言葉を見出しに添えることで喧嘩両成敗どころか総理に理があったような雰囲気へと持っていく。実際には理も組んでなけりゃどちらの悪も糺してない。ただ窘めただけなのに、委員長を持ち上げ野次を放った愚劣な人間を救おうとしている。優しい筆だなあ。そんな筆はなおも偉大な総理様を持ち上げようとして質問に立った辻元清美議員の言葉に対する安倍総理の言葉をのみ拾い、「『おとしめようという努力は認める』と辻元氏を皮肉った上で、諭すように“矜恃”を語り始めた」と味方をしてその正当性を印象づけようとする。そういう総理も総理だけれど、それを批判せずに拾い讃える筆も筆。読めば分かるだろう印象操作なんだけれど世間にはそれが真っ当と感じる傾向もあるだけに、厄介は終わりそうもない。やれやれだ。まったくもってやれやれだ。

 「マンガ大賞2015」の二次投票も締め切りが迫ってきたんで東村アキコさんの「かくかくしかじか」を買って呼んだら滅茶苦茶面白かった。いや面白いというのとはちょっと違うかな、むしろ厳しいけれども優しく激しいけれども柔らかい人と人との繋がりを描いたドラマっていうか。あのアニメにもなって映画にもなった「海月姫」を描いた超売れっ子の東村さんが、高校生のころに通っていて、美大を出てからもしばらく講師をしていたらしい絵画教室で、とてつもなく厳しい先生から、どれだけの厳しい指導を受け、どれだけの苦行難行を重ねて美大に受かるくらいの技術を身につけたかがつづられた自伝的な漫画。

 その先生の指導は、もうとてつもないスパルタぶりで、そばで竹刀を振り回され先端でつつかれ、自信満々に描いたデッサンを面前でダメ出しされて罵倒され、そして1日に何時間も10何時間もデッサンを続けされられる。そんな厳しい指導に嫌気も差すけど美大に行けて感謝して、けれどもやりたいことがなく実家に戻って絵画教室を手伝うようになって日々、忙しいけれどその中でだんだんとやりたいものを見つけていく展開の中に、自分の中にある本当の気持ちに気づくまでは大変だけれど、それに一生気づかないまま終わる人もいるなかで、しっかりと気づかされその道を歩んでいけた東村さんの幸せめいたものが漂ってくる。

 もしも自分がその絵画教室に行けたら、絵も描けるようになったかもしれないし、自分の道も見つけられたかも知れないって、漫画に描かれた東村アキコさんの体験から思うけれどももう、その絵画教室はないみたいで、モデルとなった画家の方もずいぶんと前に無くなってしまった。そんな離別がこの先描かれ完結することになるんだけれど、それは単行本を読んでそして泣こう。それにしても多才というか、多彩とも言えるというか。「ひまわりっ 〜健一レジェンド〜」に「ママはテンパリスト」「海月姫」「主に泣いています」とそれぞれ違う作品でマンガ大賞の最終候補に名を連ね、その度に落ちてはいたもののしっかりと作品を残し続けてた東村さん。ギャグも楽しければ、絵も時にしっかりとしているその才能の根底に、どれだけの日高健三先生=日岡兼三さんの指導があったんだろう。是非に聞いてみたいんでマンガ大賞を取って会見に出て来て欲しいなあ。


【2月19日】 「VAIO」で一時代を築いたパソコン事業を放り出し、「トリニトロン」の時代から看板だったテレビ事業も別会社化して1980年代、90年代のソニーを引っぱってきた看板たちが会社から消えてしまって、それでソニーと言えるのかって訝っていたところに、今度は「ウォークマン」や「リバティ」やらで脚光を浴びたオーディオ事業までをも別会社にするってことを決定した模様。流行の兆しにあるハイレゾ音源で先行する「ウォークマン」をも放り出す形になって、でそれでソニーの“魂”はいったいどこに? って誰もが驚いている。

 まあでもけどすでに、ソニーに“魂”なんてものはなくて、ただひたすらに利益が上がればそこに向かうだけの企業体って感じになっているから、あとはソニーという社名を持った組織がどこまで安泰に生き残っていけるか、ってことにだけ、賭けて利益が出ない事業を次々と切り離していくことになるのかも。今はまだ海外で儲かっているゲーム事業だって、スマホの隆盛の中で決して先行きは安泰じゃないから、いずれ切り離されるかもしれないし、金融事業だって老舗の大手があっさり潰れる時代に、後から来た会社がどこまで命脈を保てるかも分からない。

 カメラ事業はセンサーの技術とも絡んで今は手元に置いているけど、製品としてのカメラに先行きも見えない中でやがて部品屋となって行き、それすらも設備投資や研究開発を厭った果てに海外の企業に追われ追い抜かれて消滅、なんてことになりかねない。そうなった時にったい何がソニーに残っているかというと、それはソニーという組織の経営陣が残っていて、彼らが自分たちが会社に来て、息を吸い、飯を食えばそこがソニーだと主張するのかも。だったらいっそ取締役会を“蘇仁井家”とかに変えれば良いのに。その資産を集め束ねて運用していく会社としてソニーが存続していくという。井深さんも盛田さんも天よりいったい何を思う?

 よく分からないけれど、カジノを日本に作るって話で大阪と横浜が候補地になったってニュースが普通のメディアにも載るようになって来た。もうこれは本決まりってことで、あとはどこが主体となって開発し、運営するかってことになるんだろうけれど、大阪は前にUSJが手を上げたものの、大阪市の橋下市長とか大阪府の松井知事がいい顔をしてないんで、違うところが手掛けることになるのかな、それで決まるっていうのも現代において奇妙な話で、普通に入札制にすれば良いのにそういう風にならないのは、案件が特殊なこともあるのかもしれない。だって日本でカジノの運営にノウハウを持つ企業なんてないんだから。

 海外で運営のライセンスを持っているところもあるけれど、行政も法律も違うなかで培ったノウハウがそのまま使える訳でもないし、そもそも日本にはパチンコという実質的に換金可能な娯楽が先行していたりして、それとの兼ね合いなんかを考えるのも面倒そう。どうなるか。いずれにしてもお台場にはもう来ないってことなんだろうなあ、そりゃそうだ、2020年の東京五輪で増える観光客の誘致も目標に作るカジノを、東京五輪の会場にもなるお台場に作っちゃあ人が来すぎる。開発だってバッティングする。これは無理だと東京都の舛添知事が降りるのも仕方がない。

 それは分かっていたことだろうけれど、それでも五輪を誘致しつつカジノもお台場になんてことを考えた人がちがいたから不思議というかふわふわりんというか。でもそれは途絶え後には手を上げた企業が持って行き場のない不安を抱えているのかも。お台場への誘致を熱心に訴えていたテレビ局とかどうするんだろう、そのためにずっと経営者の人も残って頑張っていた訳だけれど、ここで横浜へと持って行かれて、そこに自分たちも参画できる余地があるんだろうか。何しろ横浜では港湾を司る人たちが、構えて開発を取り仕切る感じだし。

 傘下に球場とかラジオ局とかいろいろ企業も施設も持ってる、その列に後から加わるのも難しいし、パートナーに選んでいたのと違うゼネコンも関わっているから、捨ててそちらに乗り換えるなんて信義的に出来ないだろうし。ああでも昵懇にしていたアミューズメント企業がそこに関わっているから、何らかの関わり方もあるのかなあ、もう全面的に1日中、ギャンブル情報を流す局へと転じるとか。長く視聴率トップを誇ったテレビ局がそれでは寂しい話だけれど、今の状態で元の勢いを取り戻すのに何年かかるか。可能か不可能かすらおぼつかない中で頼れるものがあるならすがりたい、ってなるのかも。そのあたりにちょっと注目。グループの関連会社は煽りは食らうけどなあに、そのまえに自滅するだろうから関係ないか。やれやれ。

 絶望の縁を歩き続けると人は、そんなにも刹那的になれるのだろうか。マンガ大賞2015の候補になってるヤマザキコレさんの「魔法使いの嫁」を読んだけれど、主人公のチセは父親がいなくなり、母親は目の前で死んだそうでひとりぼっちの暮らしの中を絶望にまみれて生きていた。死のうとすら思ったみたいだけれど、そこから抜け出すひとつの道を示されて、闇のオークションに身を刺しだしたところ、骨の頭を持った魔法使いのエリアスによって引き取られた。目的は花嫁にするためだそうだけれど、どこか謎めエリアスの正体とその目的。現れた妖精によって諫言もされて、普通なら迷い慌てるところなのにチセは動じず、自分に初めて居場所を与えてくれたエリアスに従い、彼の元にいることを選ぶ。

 そこまで誰からも愛されずに育ったのか。それほど居場所を得られないまま彷徨って来たのか。かび臭い布団に寝ていたという。美味しいものもたべたことがなかったんだろう。ただの両親がいない少女にしては、数奇にして悲惨な境遇。それはやっぱりエリアスに引き取られただけの能力があったから? 苦労しなくても妖精や怪異が見えてしまう資質がチセを日常の中で普通に生活させず、周囲から普通に観られないようにしてしまっていたから? それはある面で「夏目友人帳」の夏目に近いかも。彼も親元を離れて生きる中で親戚から怖がられたらい回しにされていた。ようやく辿り着いた場所でニャンコ先生という導き手を得て落ち着いたけれど、その年に似合わない達観ぶりはやっぱり境遇から生まれたものなのだろう。

 チセはさらに苛烈な境遇だったみたいで、ふわふわの布団に寝られ食事を与えられ何より自分を必要とされることが嬉しいみたい。その魔法使いとしての体質から、魔法を集め放出するたびに体力を削られ、遠からず死んでしまう運命があるけれど、それすらもエリアスは乗り越えさせてくれるそう。いったいチセにはどんな未来が待っているのか。幸せ以外にはない、と思いたいけれども現れた謎の魔法使いだか魔女によって襲われ、傷つけられてしまう。いたい何者? エリアスとの関係は? いろいろと気になるこの続き。英国の森を舞台に人ならざる者たちの存在に触れられ、異質な存在として生きる大変さを示され、それでも生きていく力を与えられる作品と言えるかも。幸せになれると良いな。レンフレッドに使われている少女も。

 大丈夫じゃないんだろうなあ、その頭。一国の総理大臣ともあろう人が、国会という場で別に自分に向けられた質問でもなく、農林水産大臣への献金について質問が行われている場で、何を思ったのか質問者に対して「日教組! 日教組!」という野次を放ったという。まるで意味不明。だってその質問者はハーバードとか出ている元官僚で、日教組とはまるで関係ない。民主党にはいるけどそれだって日教組と関連づけるのは難しいにも関わらず、総理の口から出た野次は「日教組! 日教組!」。つまり野次という侮蔑的嘲笑的言葉を自分の中で探った時、そういう言葉しか浮かばなかったってことの現れで、その思考のお粗末さにもはや総理とか任せておいて良いのか? ってて声も出てきそう。そのうち「でべそ」とか「ち○こ」とか言い出しかねないぞ。相当にヤバいところに来ている気もするけれど、果たして世間はどう捉えるか。明日からの展開に注目。


【2月18日】 雪が降ったらちょっと遠くて行けないかなあと思ったけれど、雨で済んだみたいなんで電車を乗り継ぎ三鷹まで行って、そこからバスで武蔵野市にあるNTT武蔵野研究開発センタに辿り着き、明日から始まる「NTT R&Dフォーラム2015」の内覧会って奴を見物する。天下のNTTが若手もベテランもこぞってあちらこちらで作っている研究の成果を見せるイベントだけあって、それこそ「デジタルコンテンツEXPO」を1社でやってしまうような感じに、ユニークな上に最先端の技術が盛り込まれた展示がたっぷり。順に追っているだけで何十本と記事が書けそうだけれど、それをやるには歳も歳なんで、大まかに目立つものだけを観ていった。

 中でやっぱり気になったのが、ホールみたいなところでやっていた「Kirari!」という展示のデモンストレーション。いわゆるバーチャルスタジアムって奴を実現する技術で、とてつもない高精細の画像と、それからプロジェクションマッピングのような上映技術、立体感のある映像を投影するホログラフィックな技術、そして臨場感のある音像をその場に作り上げる技術なんかを寄り合わせ、大容量のデータを伝送する技術も載せてとてつもなくリアルな、それこそ本物以上のビジョンって奴をその場に作り上げてみせてくれた。

 どこかでやっているだろう卓球の競技は、まるで目の前で繰り広げられているかのうよう。それでいてエフェクトがかかってスッと選手が消えたりする。そのあたりは現実すら超えている。生で観られない競技を生以上の迫力と、プラスアルファの効果も得ながら観られる可能性って奴を感じさせてくれた。場所さえ確保できれば、そして投影のバリエーションを増やすことで町中にだって競技の様子を再現できる。これって宇野常寛さんが最新の「PLANETS」なんかでも検討していたことだけれど、チームラボあたりの構想を元にした可能性の探索が、NTTって巨大企業の最新技術で実現可能な寸前まで行っている感じ。宇野さんとか観れば何か思うこともありそうだけれど。行かないだろうなあ遠いし。

 このバーチャルスタジアムの技術って、例えばアーティストのライブなんかでも使えそうで、ただアーティストを映像にして映すだけじゃなく、そこに歌詞とか映像とかも添えればより華やかな演出って奴を観られるようになる。というかアーティストはスタジオで演奏して、それを各地にあるシアターでもって「Kirari!」の技術でエフェクトも載せて再生してやれば、1万人どころか100万人のコンサートだって全国各地、全世界各所で開けたりする。そういう時代が来るのかなあ、それともやっぱり生の神話が続くんだろうか。ちょっと興味。

 臨場感って意味ではVRメガネでのぞくとフィールドの中、あるいはステージの上からぐるりと360度を見渡せるような技術も出てた。これなんか選手やアーティスト自身になった気分を味わわせてくれそうなテクノロジー。すでに小林幸子さんの武道館ライブで発端は見えているけど、より凄い臨場感ってやつを再現できるようになれば、誰もが選手気分アーティスト気分に浸れるようになりそう。誰のを観たいかなあ。あとはタブレットなんかを建物にかざすとその建物の属性情報を見せてくれる観光案内システムか。画像認識なんだけれど、膨大なデータベースから素早く一致するのを引っ張り出してくる技術とか凄そう。位置情報も加えればより高精度で高速になるそうなんで、それを使ったサービス以外のエンターテインメントなんかも、出てくると面白いんだけれど。「Ingress」一人勝ちじゃあつまらないし。

 そういや観たけどテレビアニメーションの「弱虫ペダル」の最新話は、前を走る御堂筋と真波山岳とが競い合っている後ろから、ぶつぶつ言いながらもケイデンスとやらを上げて小野田坂道が追い付き追い抜くまでってあたりで1話を使ってしまう贅沢ぶり。漫画で読めば5分で終わりそうなのに、内心の葛藤だとか過去の模様だとかを混ぜることで繋いで心理の上げ下げを描きつつ、テンションを高めてそのシーンへと持っていくあたりが巧い。原作があっても漫画で読むのとアニメで観るのとではやっぱりリズムが違う。そのリズムの差異を漫画に慣れたにんがアニメに違和感として覚える可能性もあるけれど、たぶんこの「弱虫ペダル」はアニメはアニメとしてちゃんとしたリズムを感じさせてくれているんだろう。だから飽きないし支持される、と。

 これが「七つの大罪」のアニメーション版だと、漫画でいろいろとあった寄り道がなくなってもう一直線に第1部のラストバトルへと持って行っているって感じ。ゴウセルなんて少年の従者として記憶を失ったような風体で、時間を過ごしていた描写がまるっと削られ、鎧の巨人を世話をして倒されメリオダスたちと合流して、そのままヘンドリクセン相手のバトルへとなだれ込もうとしている。あと数回のうちに新世代の聖騎士の魔物の血が暴走をして、その中でジェリコは裸に剥かれヴァン相手の情欲を滾らせ、ギーラはゴウセルに癒されその情感を向けることになるのかな。ちょうど出た漫画の単行本の最新刊ではそんなヘンドリクセン相手の闘いにケリがついて第2部入りして、ヴァンが妖精王って呼ばれてた。何があったんだ。そしてジェリコはどうなるんだ。続きが楽しみだけれどアニメはもう暫くなさそうだなあ。いずれ原作が溜まったら、ってことになるのかな。

 そういや聴いたけど荻上チキさんによる曽野綾子さんインタビュー、根本的な部分で内在する抜きがたい差別という感情を、まるで理解しないで自分の振るまいは区別であって、そこに差別の意識はないと言ってしまえる心理はある意味、表現者であり作家としてのものなんだろう。だからこそそれがジャーナリスティックな領域に来た時に、しっかりとした反論を行い諭しておかないと、本当のこととして認められてしまう懸念はある。作家なんだから聴いたものをそのまま書いて何が悪いといった態度で来る人に、立ち向かえるのは歴史的事実であり現在形の倫理論理といったもの。照らして無理なら引っ込んでもらうしかないんだけれど、それをやってあげる気持ちが曽野さんを起用する媒体にまるでないのが今の傍若無人ともいえる言説に繋がってしまっている。

 なるほど南アフリカで白人だけだったアパートに黒人が移り住んで来て、何十人もの家族を呼んで水が足りなくなって白人たちが出ていってしまったと聞いたとしよう。それは事実なのか。事実だとしてどういう背景があったのか。特殊事情なのか。アパルトヘイトからの移行期に起こった残念な自体で普通は違うのか。そういう検証や自己的な葛藤もまるでなしに、聞いたから書いたで通そうとしている。それが当然だとすら言っている。小説なら言いけどコラムでそれは無理だよ。フィクションじゃないんだから。

 もしかしたら白人として進出してくる黒人に含むところがあって、ややネガティブに表現してしまったのかもしれない。そうでないならアパルトヘイトからの移行期に、どうにか見つけた住む場所をとりあえず拠点としてそこから羽ばたこうとしていたのかもしれない。事情はいろいろ斟酌できる。でも曽野さんはそうした検証もなしに聞いたままにそういうストーリーを書いてしまった。どうやらそんな事実はなさそうという南アフリカ在住の人からの声もあるけれど、検証は出来ないんで曽野さんが聞いたことは事実だと仮定して、それでも別々に住むべきだって結論へと持っていくには、いろいろなハードルを越えていかなくてはいけない。

 そういう検証もした形跡がなく、別々に住むべきだっていう話も含めて聞いて書いたような節すらある。それで良いのか? 良いんだろうなあ作家だから。才能による区別は仕方がないことだ、それが作家でありクリエイターなんだとまで言っていた人だから。いやだからその区別は区別としてあっても、人種や国籍で区別するのはやっぱり違うじゃないのかなあ。何より問題は、それが事実か否かを検証する必要がある媒体が、何もしていないってこと。虚偽の情報を元に伝聞を真実として伝えてしまうことになったら、媒体に取って死にも等しいはずなのに、そうした意識があるのかどうかがちょっと見えない。関門となるべき校閲なんて機能しない状況で、寄稿者が書いたことは絶対の無謬と固く信じて掲載してしまう。そうしなくちゃいけない理由でもあるんだろうか。あるんだろうなあ、嘘だといったら叱られるとか。

 だからもう共倒れするしかないんだけれど、きっと未だに当人たちにはこれが倒れかねない大事だという認識はないんだろう。まあ仕方がない。でも次から次へと繰り出される疑問を招きかねない記事が、これから大きく足を引っ張りそう。あろうことか改竄と捏造を指摘された人物の著作をより所にして、戦中にすでに状況を知り、嘆き泣いて部下を叱責し、戦後にその責をひとり背負って刑に処させた軍人の魂を、まるでなかったものにしようとしている。こんな侮辱的で文字通りに反動的とも言える記事に、どうして軍人を尊敬する大和魂の持ち主たる右翼の人たちが怒らないのか分からない。南京事件を否定したいあまりに、ひとりの人格を貶めても構わないでもいうんだろうか。

 いうんだろうなあ。南京事件そのものをなかったことにするには、南京事件の発生を知って憤り、叱責訓示まで行い日記にも書いた松井石根大将の言動はあってはいけない。戦後になって初めてそういう”疑惑”があることを、松井大将が知ったことにしなくてはいけない。結果、責任感が強くアジアを愛した軍人としての松井石根大将の像は殺され、状況をよく把握できずなにも知らされないまま、戦後に罪を着せられ処刑された一介の大将に貶められた。酷い話。これには違和感を覚え憤りを感じている人も少なくないんで、反論は起こるだろうけれど、言いたいことが言えるのなら他のすべては無視して突っ走って知らん顔する風潮がある限り、謝ったり直したりすることはなさそう。落ちるのは信頼のみ。それはすでに無いから落ちるのは価値か。それもないか。うーん。やれやれだ。


【2月17日】 「地球を救え! なかまたち ちびねこトムの大冒険」は去年の末に1度見ていて、それでだいたいの展開を分かった上で観るとそれぞれの部分での動きの良さとかつなぎのテンポの良さとかが分かって改めて良い映画だなあって思えてくる。ダレず過不足無しに冒険を見せて地球の大変さを感じさせ陰謀も描きつつ、ラストのスペクタクルへと持っていく。そこにある緊張から解放への展開。こりゃ良いわ。「つながれつながれ僕らの地球、つながれつながれ僕らの未来」って登場人物たちが皆で祈る場面とか、見ていていっしょに口ずさみたくなって来る。これが子供達がいっしょに大きな超えで唱えただろうなあ。そんな上映の風景が、また来てくれることを願いたいけれど。

 いっそだったら「ちびねこトムの大冒険」と「マイマイ新子と千年の魔法」と「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」を合わせて上映して、夏休みの子供達に見てもらえれば映画としてもこんなに幸せなことはないと思うんだけれど。なかなか機会がなく知らず上映されて見て欲しい人に届かないまま過ぎ去っていくことが多すぎるんだ。「ちびねこトムの大冒険」なんか公開すらされなかった訳だし。だからこそ期待したい再来。願うだけでは足りないならなにが出来るか考えよう。そうそう、すっかり忘れていて音楽が川井憲次さんぽいなあと思ったら普通に川井憲次さんだったらしさってどこに出るんだろう。ちなみにあんまり「花燃ゆ」を観てないんで音楽の川井憲次らしさにはまだ気づいてないのだった。見てみるか、視聴率悪いそうだし応援の意味で。

 アニメーション制作現場で起こっているデジタル化の波への考え方とか、「三鷹の森ジブリ美術館」に江戸川乱歩の「幽霊塔」を題材にした展示を作りたいと言って関心を平面の作品から立体空間のプロデュースに向けているあたりの話とかが、アニメーション好きとして面白かった「荒川強啓デイキャッチ」における宮崎駿監督へのインタビューから、政治的発言ばかりをひっとらまえて自分たちが言いたいことへの補足にするというのはどこか寂しいけであるけれど、でもこれだけになってしまった人にそれだけ言ってもらわないと動かない世間というのもあって、だからそれを言ってくれそうな人としてすがりたくなる気持ちも分かるのだった。

 とはいえ、持ち出されてもいない人の名前を挙げて対立軸の置きつつ相手の非難を行うというのは、編集テクニックではあってもちょっと気が引ける。というかもともとは同根だったものが先に宮崎駿監督だけ“解脱”しただけであって、そこに実は大きな差異はないような気がしないでもない。例えば零戦とか特攻とかを賛美する風潮について宮崎駿監督。「前からありますよ。それが1番楽なんです。そうやって総括してしまうのが。そこからいつまで経っても抜け出せない。歴史に対する物の見方も抜け出せない。ナルシシズム、それをずっとやってきた。僕はそう言う形で作らないことで、零戦の本をもう見なくなった」と話してた。これ、自分はもうやり尽くしたんで他の誰かのことは今さら気にしない、って言ってるだけのようにも思える。

 そんな発言のちょっと前でこうも言っている宮崎駿監督。「(『風立ちぬ』を作ったことで)零戦の呪縛から解放されました。零戦が小学生の時からつきまとっていたけれど、どうでも良くなった。僕だけ除霊してもしょうがないけれど」。自分の関心の埒外に行っただけで残された者たちへの批判は特にしていない。というかそれまでの宮崎駿監督は「堀越二郎は次のを好きなように作れと言われ、とんでもないものを作った。そのその飛行機に合わせ戦術を考えれば良かったのに、半分玄人の海軍の連中が色々と言って、その道を閉ざした。その悔しさが、子供の頃から伝わってきた。そいううことも含め、日本の近代史をどう考えるか。堀越二郎は希有な才能を持っている。そういう人に集中的に現れる一種の悲劇が、自分にはつきまとっていた」と話してる。映画「紅の豚」とかはそんな関心が残っている作品ってことになるのかなあ、英雄の悲劇性について語った話だものなあ。

 それをある意味呪縛として捉え、自身も囚われていたけれどここに来てひとり“脱却”できたっていうのが「風立ちぬ」という映画。良かったですねえとは思うけれど、それは個人的な体験であって他者の遅延を非難するものではない。とはいえ批判するにあたって批判する側の材料にされてしまうのもまた、名を持ってしまった人につきまとう悲劇性なのかもしれない。あとは言論へのテロルに関して宮崎駿監督、「鈴木(敏夫)さんが憲法について新聞に語ったら、電車でナイフで腹を刺されると、そういうことを冗談でも言う奴がいけない、刺された感覚を持ってしまう、冗談でも言うことは友人ではない、刺されりゃいいんです、鈴木敏夫死すとも自由は死せずとか言って」と話した。最後の下りは長い友人ならではの冗談ではあるのだけれど、言えば脅かされるという空気が言葉となって縛り抑えにかかる状況への懸念ってのはやっぱりあるんだろう。

 いっそ刺されてそれが突破口になれば、というのもひとつの道だけれど、でも犠牲を越えての勝利は虚しい。流血なき議論での突破を願いたいけれど。「僕は怖いも怖くもない。愚かな奴は自粛するし、自粛する程度のことしか考えないで発言していなかった。それが世論の大勢を占めている」覚悟はあるんだなあ。でもやっぱり…。ともあれ個人の意見は個人の経験も踏まえ個人的なものとして位置づけたいところを、相対的な見解としてカウンターのより所にしてしまう言論状況は、まさしく「それが1番楽」だからであって、なくならないしいっそう祭りあげられる。そうした状況に自分はどんな立ち位置で絡まっていくか。考えないとなあ。

 本気と書いてマジな人に何を問うても無駄というか。朝日新聞に例のコラムについて曽野綾子さんがコメントを出していたけれど、読む限りにおいて自分の書いたことがどういう意味合いを持ち、どういうリアクションを呼んでいるかについての想像力が、まるで働いていないという感じ。挙げ句にチャイナタウンやリトル東京といった事例を持ち出し、あれは良いものでしょうとやってしまう。それらは別に市民として隔離差別されているものではなく、人種として集れられている訳でもない、一種の商圏であって互助会的なものであって、隔離政策から生まれたものでは決してない。横浜中華街や大久保のコリアンタウンもそうというか。ただし大久保はそこに行かざるを得なかった歴史的な背景めいたものもあるのかな。

 ともあれ、習慣が違うから分けた方が良いという意図的なものではないそうした外国人街の存在を、自分の南アフリカでの混乱期なり移行期における経験から感じた分離の必要性といっしょにしてしまうロジックの筋の悪さに、当人が気づいていないのが1番の問題だったりする。とはいえ、それはもう当人の論理構造がそうなのだからと見て差し上げるしかないとして、そうした論理構造が結果として生み出したあの一文を、今度は載せた側がどう受け止めているかとうところが問題になるし、問題にしなくちゃいけないところだろ思うのだった。曽野綾子さんがあれは私の中ではまるで差別的な言葉ではないというのは自由だけれど、載せた側もそうした曽野さんの意見に与してあれは差別的な言葉ではないから載せたのだと言えば、今度はその識見が大いに問われる訳で。当然に。

 いや違う、そうだとは思っていたんだけれどでも曽野さんのコラムだから個人の意見として載せたんだと言い訳するとしたら、今度は自分たちは差別には反対ですよという言い訳との整合性がとれなくなる。だったら何で載せたんだって話。曽野さんに与しても拙いし、かといって切ろうとしたら今度は自分たちがやった行為が問われるという、どっちにしたって詰んだ状態に自らを追い込む最悪手を放ってしまったという実感が、まるでなかったりするところがこの一件の根深さというか、言論を発する機関としてのヤバさなんだけれど、そう言ってもまるで届かないんだろうなあ。やれやれだ。っていうか朝日も人が悪いなあ。言ってあげれば良いのに。「『私が安倍総理のアドヴァイザーであったことなど一度もありません』ってあなた『13年1月に安倍政権の教育再生実行会議委員(同年10月辞任)』だったじゃないですか?」って。バレバレじゃん。

 今年もあと2カ月でやってくる「ニコニコ超会議2015」の概要発表会があって行って効いて驚いたのが「ニコニコ超パーティー」の「ニコニコ超会議」からの切り離し。いっしょにやるから人も集まるって感じだったけれどそれだけ1日をみっちり楽しまなくてはいけなくって、見る人も出る人も負担が大きかった。イベントとして成立するならってことで切り離して10月25日にさいたまスーパーアリーナへと持っていって開くそうで、あの巨大な器でもってニコニコ発のスターたちが歌い踊る様を見られると思うとちょっとワクワク。ネットでの人気者がさいたまスーパーアリーナの舞台に立つ。昂奮するだろうなあ。そして「大相撲 超会議場所」は今年も開催予定で力士たちの闊歩する姿を見られそう。加えてなにか「リアルSUMOU」てのも見せるそうで、ネットで人気のエフェクト動画をいったいどうやってリアルで再現するのか、ARか特殊効果か、分からないけれどもいろいろ楽しみ。白鵬関とかその鋭い眼光を放つ目からビームとか出しそうだなあ。大砂嵐関は手のひらから突風とか。


【2月16日】 朝日新聞記者有志とかいう人たちの「朝日新聞 日本型組織の崩壊」(文春新書)が出ていたけれど、たかが民間企業の人事制度を「カースト制度なみの社員格付け」と中見出しに取って「まさに社員カースト制度である」と書いてる辺りの人権意識のダレっぷりに大いに萎える。今なお実在している苛烈で絶対的に絶望的な制度を安易に持ち出し、自分たちに当てはめ嘆く態度がどうにも嫌だ。というか日本の封建制度を身分制度として持ち出さない“配慮”をしながら、インドで未だに現役の身分制度は平気で持ち出せる神経が分からない。っていうか最近の日本はそういう活用が多過ぎる。スクールカーストとか。そこがちょっと分からない。

 新書の中身はだいたいにおいて写真たちの愚痴で、高いプライドをへし折られたのが業腹なのかあれやこれやと喋っているって感じ。自分たち有志とやらが困っていることをやらかした奴らはみんな敵だし、そういうのがのさばる風潮を作った過去の英雄たちだといった視線があって、これにも辟易させられる。都合の良いときは英雄と持ち上げ、悪くなると誹る奴らが作ってる新聞なんて信じられるかよって気になる。もちろん朝日にも良い記事もあるし良い記者もいるけど、極端ばかりが目立つ風潮はどっちにしたって宜しくない。静かに騒がず淡々と扇情的じゃない読者の為になる記事を書いていくことが何より大事ってことを、言って欲しかった気がするなあ。どっちにしたって30代で1000万円とか貰ってる奴らが書いている本な訳で、その言葉のすべてに金粉が絡んでいるようで羨ましいやらねたましいやら。僕もそこに混ぜて欲しい。それかい本音は。うんまあね。

 散々っぱら前宣伝とかもあったけれど、今の日本の風潮だとか、イスラム国問題を含めた世界情勢について語る宮崎駿監督について、きっといろいろなところで取りあげられるに違いないから、こっちはここっちで拾ったアニメーション監督でありクリエーターとしての宮崎駿監督に関するエピソードin「荒川強啓デイキャッチ」をちょっとだけリポート。ジャーナリストの青木理さんによるインタビューに答えて宮崎駿監督は、あの「三鷹の森ジブリ美術館」で江戸川乱歩の「幽霊塔」に関する展示を企画しているって話てた。歯車でいっぱいの塔が出てきた映画「ルパン三世 カリオストロの城」だけれど、そんな「『カリオストロの城』を作った源流は『幽霊塔」なんです。そのままではやっていないけれど。その幽霊塔を美術館で再現する。建てちゃおうとうバカげた話です」って語ってた。

 そんなことが出来る場所があったっけ、って「三鷹の森ジブリ美術館」が出来た時代を振り返ったら、なるほどロビーみたいな吹き抜けみたいなところがあって、そこに螺旋階段が確かあったっけ無かったっけ。「螺旋階段があるんです。小さい子が上ると分からなくなって立ち止まる。その階段を塔ですっぽり覆おうとか。空気抜きの穴をつけて迷路を造ろうとか。迷路に入らず螺旋階段も上らない人の為にもっともらしい展示をやらなくてはいけない」と宮崎駿監督。「昭和12年の版を見て、挿絵がこんなに酷い物か」と思ったことがひとつのきかっけみたいだから、今ならではの宮崎駿風の歯車いっぱいの「幽霊塔」を描いてくれたりするのかな。でもそれだとあのおどろおどろしい雰囲気がちょっと出ないかも。どうやっても暖かみが出ちゃうんだ、宮崎駿さんの絵って。

 まあ、口で言ってる企画なんでアイデアがそのまま実現するかどうか分からないけど、黒岩涙香版を主に題材にした漫画版も完結したことだし、そんな黒岩涙香版からこちらも内容をとった江戸川乱歩の「幽霊塔」を今に問うのも、ひとつのムーブメントなのかもしれない。そんな宮崎駿監督が、今どうしているかと聞かれて答えた質問がこれな訳だけれど、どうしてそもそも辞めるのか、ってあたりで心境に近いことを語ってもくれていたデイキャッチ。「良いときに辞めると言った」という言葉はつまり「フィルムはなくなった。アニメーションにコンピュータが入りこみすぎてスタッフの脳もコンピュータ化して。そんな時に行き会わせて、もう良いよと。無理して手描きの現場を作る必要があるか? 無理してCGでセル画風に画面を作るとかやる意味があるか?」っていうアニメ制作現場の激変に行き当たる。

 そういう変化を受け入れる必要性があると考え、セル画風のCGでアニメを作る現場を構築して頑張っているアニメーション監督も大勢いるけど、宮崎駿監督はその年齢もあって「ない。隠居していい年だからそれはやらない」と話してた。それもひとつの判断かなあ。とはいえ安彦良和さんは「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」の総監督でありながらも自宅で仕事をして、そこに制作さんが持ってくる原画なんかをチェックしアドバイスを返して、CGを使った現場で自分の思いを再現して貰っている。出来てきたものは文句ないとか。だからそういう生き方もあるんだけれど、やっぱり自分で描きたい人だから、見て違和感を覚えると手が出てしまう。それがいっぱい出てしまうから億劫にもなる。

 ラジオなんで見えなかったけど、インタビューでは宮崎駿監督、妙な絵を描いて来る下の世代への”落胆”なんかも示していたって感じ。「この男がろうそくを持っている。火が着いてないけれど、でもろうそくはこうやって持たない」って何かの絵をインタビュアーに示して喋ってた。「ろうってのは垂れてくるからこうやって持ちます。こうやって使う」。根っこを持っても前に傾け、ろうが本体をしたたり落ちて来ないようにするって持ち方になるのかなあ。でも、そうは描かない人がいると指摘し嘆いてた。「ろうそくを描くということを本能的に理解していない証拠。火を着けて歩いたら垂れてろうが手にかかる。それが最小限になるようにこうやって持つ。そういうことを直さないといけない」。そういう細かい直しが積み重なって折り重なってくると、流石に疲れも溜まるだろう。ストレスも重なってくるだろう。それを突破していくパワーが今はちょっと足りていないのかもしれない。

 どうして今の人がそういう描き方をしてしまうのか、ってあたりはやっぱり日々の観察とあと、想像力の欠如ってことになるんだろう。だからこそアニメーターになりたい人は、いろいろなものを見て勉強しないといけないって話になる。そして宮崎駿監督。そうやって突き詰めていったリアルさは「映画の効果として0・1ミリくらいの差だけれど、それをぬかりやくやらないと映画のリアリティは1ミリくらい違ってくる」と。「せいぜい1ミリくらいだけれど」って笑うけれど、そんな1ミリの積み重ねが最後にどれだけのリアルさって奴を映画の上に存在させるかと考えると、やっぱりおろそかにできない。そこに気を配れる人がいて、宮崎駿監督が任せられると思えば総監督的な立場に立って、長編もやってくれるかな……無理かなあ、やっぱり。短編はただ作ってくれそうなんでそっちに期待。

 さて政治的な話ってことでは宮崎駿監督、「簡単に言うと日本を世界の真ん中なんかに置かず、隅っこに持っていけばいい」とのこと。「大陸との交渉とか朝鮮半島との交渉とか、呉が滅びて人が来たとか元が来たとか秀吉が行ったとか色々な交渉があったけれど、今のゴチャゴチャになっている中近東とか中欧とかバルカンの折り重なった歴史に比べたら単純」だという認識を見せて、それ故に安楽に生きていく道も造りやすいようなことを離してた。「帝国主義の時代に日本も植民地にされないために帝国主義の真似をして、300万人の死者を出す戦争をやり、2発原爆もおとされた。隣の国の怨みはまだ消えていない。法的に解決したとは言っても消えていない。だからくすぶっている」とも。

 そういう事情はなるほどあっても「世界全体の歴史から見たら、それでもずいぶんと分かりやすい。1番はじっこにいる。知恵で何とかやっていける場所にいる。民族と宗教が入り乱れたり、自然破壊をどうしたらいいか分からない人口を抱えてやている国に比べたら、日本は何とななるんじゃないかと思っています」と宮崎駿監督。それなのに妙に出たがって世界の真ん中にいたがる総理大臣がいるから困ったもの。「世界的無秩序はこれから起こっていく」状況で「安倍さんの言っていることはシンプルすぎる。腹に複雑な物を抱えてやらないと。平和憲法は役に立つんです。憲法を守らなくては行けないから行きたいけれど行けないっていう」。それを恥ずかしいと思わないでいられれれば、日本も巻き込まれないで生きていけるんだけれどなあ。こういう言葉、政治には届かないんだろうなあ。だからこそ発言力を持って宮崎駿監督には、作品を作り続けて欲しいとも。期待しよう、鈴木敏夫さんの尻叩きの馬力に。

 せっかくだからと今日が最終日らしい下北沢のトリウッドへと出向いて中村隆太郎監督の映画「ちびねこトムの大冒険 地球を救え! なかまたち」を観る。ラストに出てくる監督の名前にジンと来るのは根がlain者だからではあるんだけれどそれ以上にもう、その名前でもって新しい作品が作られないことへの残念さを改めて突きつけられて寂しさが浮かんだからかもしれない。ただ同時に、こうやって20年以上も前の作品でありながらも上映されては観客を集めて喜んでもらえるというもの作りに携わった人ならではの栄誉を、得られるってことへの羨ましさも。何も残してないただの情報の媒介屋にはない喜びを、どこかで感じてもらえるのなら観た者としても少しは嬉しさを覚える。出来るのはだからそうやって喜びの繋がりが途切れないよう、作品の面白さを語り伝えていくこと。次はどこで観られるか分からないけれど、場が有る限りは言って観て感じよう、残された思いを、その言葉を。


【2月15日】 面白いなあ鈴木鈴さん「異世界管理人・久藤幸太郎2」(電撃文庫)。アパートの管理人になったら異世界のもめ事を調停するオーヤ・サンにされてしまった高校生が、それでも知ってしまったからにはと手にはたきを持ち前にエプロンをかけては異世界へと出向いていろいろ調停していた中に不穏な動き。とある宗教の教団をめぐって内部でいろいろ行われているらしいんだけれど、宗教がそんなことするはずがないという教条的な考えが一方にあり、また敵も巧みにそんな思惑のスキマを付いてくるからなかなか尻尾を出さない。

 そんな敵にまずは久藤幸太郎の高校の同級生で彼の様子を見に行ったアパートで異世界に迷い込んでしまった女子高生がひっかかって捕まったりして脱出はしたけど後に尾を引き、そして久藤幸太郎が最初の事件以来親しくしているというか上がり込んでくる草の国の王女スフレまでもが巻き込まれて犯罪者の汚名を着せられそうになって久藤幸太郎の憤りも爆発し、敵を追いつめていくんだけれどそこに起こる大事件。でもどうにか切り抜けたけれどもふんわりふわふわとは過ぎていかない外交であり状況が、明らかになって異世界であっても人が暮らし人が仕切り人が欲望を滾らせ人が想いを乗せる世界の複雑で猥雑で大変な様ってのが見えてきた。

 これで幾つかの国が出てきたけれどもまだまだ調停に臨んでいない国はあり、そして巡らされる陰謀もありそうで久藤幸太郎の身は休まりそうもない。さらに王女スフレに加えて「山の国」でもってヤクタ教の教皇を務める少女シャルフィまでもが久藤幸太郎の周辺に絡んできそうでそこに女子高生も小宵までもが加わって、いろいろとすったもんだしそうだけれど、そうした事態を冷徹な顔でスルーしながら起こる難局に挑んで解決していくんだろうなあ、オーヤ・サンは。異世界のもめ事に高校生が絡んで大活躍っていうと「甘城ブリリアントパーク」にも近いけれどこっちは現世であっちは異世界管理人。その活躍の幅は広くてさらに深刻なだけに政治経済宗教文化の絡んだ大きな物語を見せてくれるだろう。次はいつ頃出るのかな。

 実は漫画、読んでいなかったりする安彦良和さんの「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」なんだけれどこの漫画を原作にしたアニメーションが作られていて近く公開されるとかで、聞くと相当に漫画の世界が再現されているとかで、それはつまり安彦さんのあの独特にして繊細な絵が動くところを見られるのかという期待を抱いていくと、それはつまり安彦さんの独特にしてコミカルな誇張や表情がスクリーンにでっかく描かれるのだという話だそうで、昔懐かしい「クラッシャー・ジョウ」でふんだんに盛り込まれていたギャグっぽい絵なんかがあの「ガンダム」でも見られるのかと思うと、果たして喜んで良いのか悪いのか。分からないけれどもとりあえずアルテイシアは可愛いといことで。いっそとニーたけざきさんのガンダム漫画をアニメ化すれば良いのになあ。それは言いっこなしよ。

 何かポール・マッカートニーの東京ドームが1枚、当たっていたみたいで4月に行くことになりそうだけれどそれにしてもちゃんと来るのか来ないのか、ってのがまずは心配。あとどうせツアータイトルは一緒なんでプログラム的には前に見た2回と一緒になってしまうんだろうなってことで、意欲もちょい殺がれるけれども生きていられる打ちに見られるのはお互いにあと1回2回ってところだろうから、ここは気にせず行くことにしよう。流石に今回の日程では10万円の日本武道館はないだろうなあ。あれって誰もが払い戻しをしたんだろうか、幻の武道館公演ってことでチケットとかとっておくんだろうか、でも昔と違って飾って楽しいチケットじゃないし、払い戻したんだろうなあきっと。いっそライブハウスでやればいいのに、ボブ・ディランみたく。10万円でも2回回せば3000人は入るだろうし。

 アパルトヘイト気味な施策を是とする意見は意見として、それを掲載しながら私たちは差別を認めませんと言う口をトップに頂く新聞のどこにいったい良識とか、見識って奴を見たら良いのかまるで分からなくなっている頭をさらに混乱させる事態。政府ですら人数の多寡はともかくあったと認め、右寄りの歴史学者でも数万人規模の殺害はあったと見ている「南京事件」をあろうことか「なかった」とまで断じてしまう記事を堂々1面トップに持ってきては、真っ向から日本政府とそして中華人民共和国政府に挑戦状を叩き付ける挙に出た。

 戦争でもって都市の制圧があって、そこに何の戦闘が起こらないなんてことはなく、そして南京攻略にあたっては結構な死者も出たってことが、さまざまな証言や記録なんかから見えてきている。さすがに数十万人というのは言い過ぎだとしても、数万人は亡くなっているだろうその状況を捉え、たった1人の兵士の証言だけをより所に死体など見なかった、そして人などいなかった、だから虐殺なんて起こるはずがないって断じている。その人が見たとか感じたことは唯一絶対の歴史ではない。にも関わらずそれをさも事実のようにぶちまけ書いて、「南京事件」を否定する文脈を作り上げるなんてちょっと無茶も過ぎるだろう。

 というか、新聞なら1人の証言を鵜呑みにしてはいけないから、複数に当てて証言をとれって教育されるんじゃないのか、それをやって初めてどうにか事実って奴に近いと認められるんじゃないのか、そういう取材の基本中の基本をまるですっ飛ばして、90歳を越えた方の記憶をのみより所にして、政府ですら認めている事態を真っ向否定してみようとする。これは国に対する反意なんだけれど、それをやっている新聞が国大好きなだけにいったいどこに整合性があるんだろう? って気にもなる。それとも国を司る総理大臣の御心には、「南京事件」など微塵も存在しなかったという強い意志があってそれを電波で受けて忖度しているだけなのか。以心伝心。あり得るよなあ、そういう振る舞いが目立っていただけに。

 でもこれは流石に行き過ぎで、内心はともかく体面としては世界に向けて外交をしている総理大臣にとって、与すれば世界を敵に回しかねない論調を間に受けて支持するなんてことは出来ないし、これで中国政府から抗議を受けたら果たして何と答えるか。新聞が勝手に書いたことで政府見解ではないって言うだけだろう。そして新聞の方は、駐日南アフリカ大使館から大使に抗議文を送られた次は、駐日中国大使館から大使が抗議を行ったりすることもありそう。もはや外交問題に発展してきたこの事態にいったい何をどう答えるのか。個人の証言であって、新聞としては政府見解に背くようなことをするつもりはありませんとでも言うのか。それって吉田清治さんの慰安婦に関する証言を載せた朝日を、個人の証言であってもその題字の御許に載せた責任は重いと非難したことと矛盾しないか。しないんだろうなあ、愛国無罪と思い込んでいるその頭、その筆には。やれやれだ。


【2月14日】 「イスラム国」と呼ぶと、国でもない集団が割と非道なことをしているのに、それに「イスラム」って言葉がかかって一般の「イスラム」が迷惑を被っているから呼び名を何とかしたいっていう話があって、じゃあどいういう呼び方が良いかってことで、政府なんかは「ISIL」を使い始めていたけれど、NHKはトップが安倍ちゃん好きーな割には現場では抵抗が働いたのか、「過激派組織IS=イスラミックステート」と呼ぶようになったとか。イスラミックステートがつまり“イスラム国”ではあるんだけれど、見た目の言霊っていうのもあるから「イスラム」という言葉が聞こえず、見えない事で緩和される誤解もあるんだろう。でも「IS」だと今度は「インフィニット・ストラトス」がどうなるかだなあ、あれは略称で「IS」使ってるものなあ。過激なハーレム物でもあるし。オーバーラップ文庫の対応が気になる。

 1日を部屋で眠りこけようかと思ったけれども起きられたし、天気もすっきり晴れたんで、電車を乗り継いで芦花公園にある世田谷文学館まで行って「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」を見てチョコを買う。ほらバレンタインデーだし。しかし大きなパネルに伸ばしても、フォルムとか表情とかが崩れず歪まず揺るがないのはちょっと凄かったなあ。あんなに巧い人だとは漫画やイラストを見ていだけでは気づかなかったよ。なるほど単体のマンガで見るとそれなりにコンパクトにまとめているって印象だったけれど、あれをちょい大きめの原稿でもらって肉筆を見ていた編集者は、本当に巧い人だと思ったんだろうなあ。

 スクリーントーンの貼り方使い方も完璧だし書き文字も巧いし楽しい。1つ1つのページどころか1つ1つのコマが作品。それが連なり文脈を成す。凄いなあと改めて思った。というか僕にとって岡崎京子というマンガ家は1980年代にどこか置き忘れていたところがあって、あの頃にガーリーな雰囲気をちょいエロで見せてくれたりする人として桜沢エリカさんとか西荻ぐりんさんとかいったロリコン誌から出てきた人、近藤ようこさんや内田春菊さんといったサブカルっぽさを漂わせていた人とあと、吉野朔実さんや谷地恵美子さんみたいに少女漫画で活躍していた人との狭間にあって、積極的に読んでいたって感じじゃなく、そしてバブルからその後へと流れる中でポップアイコン化していって、さらに離れてしまった感じ。

 藤原カムイさんや高野文子さんのようなニューウェーブな人が淡々と仕事もしていたし、根がSFなんで清水玲子さんとかそっちに走って同時代の社会と少女たちを描くランナーとしての岡崎京子さんという漫画家は、僕の視野から外れていってしまった。それは僕がそういうライフスタイルにあったからで、世間の大勢いるガールズたちはその描くシーンやキャラに惹かれ寄り添い自分を映しつつ憧れて併走していったんだろう。描くものも年を重ねるに連れてシリアスでリアルになっていって、そして「ヘルタースケルター」とかのあたりでポップからもキュートからも外れシュールさすら漂って来る作品たいt。そこに強烈なビジョンを見て群がり頼っていた人たちの前から突然、岡崎京子さんが離れてしまって、そして19年が経つ。

 それまでずっと、併走するように岡崎京子さんを追い続けていた人はだからきっと衝撃だっただろうし、今もなお惹かれて新たなるスタートを待ち望んでいるだろうし、そうした世代の感慨を浴びつつ触れつつした人も引きつけ、岡崎京子さんという名前がどんどんと大きくなっている。もはや揺るぎない巨人というか巨女というか。いやそんなに大きな人ではなかったそうだけれど、誰も揺るがせられない存在になっているような印象がある。でも、そんなまとわりつく“伝説”をはぎ取って、19年の間隙を埋めさらに僕自身が離れていた1990年代の岡崎京子さんをを取り戻させてくれた、って意味で、この「岡崎京子展 戦場のガールズライフ」という展覧会には意味があった。ここから再確認の旅を始めてみようかって気にもさせられた。

 同時代的な感慨も馴れ合いも僕にはほとんどない分、きっと読みとれることもあるだろし、同時代だからこそ分かったニュアンスなり、少女たちだから感じただろうその焦燥、その憤怒、その哀切、その憐情といったものはまるで読みとれないかもしれないけれど、そこに描かれたフォルムやファッションやスタイルから時代を感じつつ、純粋にそのアーティスティックな技巧が今に何を写すのか、19年の不在がもたらした社会の変容が19年後の今に乗ったらいったい何が生まれて来るるのか、なんてことを想像してみたくなっている。平坦な戦場はやや傾斜し先はさらに見えなくなっているこの時代だからこそ、取り戻す意味がある。岡崎京子さんのビジョンと、そしてパッションを。だから今は帰還を待つ。その日まで。

 苛烈な世界を生きる少女たち少年たちの物語2題。1つは梅田阿比さん「クジラの子らは砂上に歌う4」(秋田書店)ですでに3巻まで出てその砂に覆われた世界で、泥クジラに乗って移動しながら暮らす者たちが過去に犯した罪を未だ背負わされ、そして滅びへの道をまっしぐらに歩んでいることが示されていたけれど、それでも足掻き生きたいと願う少年少女たちが立ち上がり、反旗を翻し始めている。最新刊の4巻はまだ中を読むのがこわくて開けていないけれど、ひとりまたひとりと泥クジラの仲間たちが倒れていくような展開が示唆されていて、その先にいった何があるのかがちょっと不安。でもまだ完結しておらず、さらに苛烈な運命を強いられるのか、その先に幸福が待っているのかを、見極めるのはまだ先になりそう。どんな帰結を見せてくれるか。それは何を僕たちにもたらすか。見守りたい。

 もう1冊は電撃小説大賞で大賞となった鳩見すたさんの「ひとつ海のパラスアテナ」(電撃文庫)。そこには萌えもなければ異世界転生も仮想世界でのバトルもなくってただひたすらに青い海が広がって、その上で両親を失いながらも懸命に生きる少女の冒険が描かれている。男だけが就けるセーラーの仕事にまだ少女ながらも男としてふるまうことで入った少女アキ。頼まれた荷物を持って移動する途中で嵐に巻き込まれそしてゴミが固まった島に漂着してそこで休もうと思ったら舟を流されてしまう。干上がるばかりの運命の中である離別があって決断があって泣かせる。相棒でありサブキャラクターじゃなかったのかという驚きは多分、ライトノベル的な暖かくも優しくそして予定調和的な世界に慣れ親しんでいたからで、現実はそんなに甘くはないし、より苛烈な環境になった地球ならそれも当然のことなんだろう。

 そうやって生き延びたアキは流れていた舟にどうにか乗り移ってそこで1人漂っていた少女タカと知り合う。誰か男性と添い寝することで金を得るという仕事はつまり……。そう言う仕事か海女になるしか女には生きられないという苛烈な世界をやんわり示しつつ舟ではアキとタカとの会話がなされて世界の一端がかいま見え、苛烈な世界で少女たちが生きる大変さ、それ以上に今をどうやって乗り切るかというサバイバルが描かれまたいずれ起こるのかあの悲しみが、なんて想像をさせる。さらに先、騙され捕まり脅され逃げても救いに行くようなアクションがあった先にどうにか得られた平穏の向こう、さらにまつ苛烈な世界で生き抜く日常という冒険が待っている。愛し合いされる幸いも得てアキは成長したけれど、でもそれで生き抜けるほど世界は甘くない。どうなる? どうする? 続きがあるようなんで楽しみ。そしてキーちゃんに喝采を。その生き様に黙祷を。

 アフリカ日本協議会が手紙を郵送したのと同時にFAXでも送信していたのをまだ見ていないと言ってコメントを出していなかったけれども流石に駐日南アフリカ大使館の大使から抗議されれば答えない訳にはいかなかったようだけれど、もはや事は外交問題化して政治問題化すらしそうなのにこれを言っておけば何とかなりそうって思っている節があって心がブルブル。「当該記事は曽野綾子氏の常設コラムで、曽野氏ご本人の意見として掲載しました。コラムについてさまざまなご意見があるのは当然のことと考えております。産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」。じゃあなぜそのまま載せたの? って誰だって思うよなあ。

 許されるものではない言説だったら私たちはこれを許してはいないという言葉も添えて載せなければ、これが許されない言葉だと読者には分からないし伝わらないじゃない。それを許容したとって捕らえられても不思議はない。というか、前に 宇野常寛さんのコラムがどうにも都合が悪そうだからと掲載を拒否して連載も終了させておいて、今になって何を言うかって感じ。あれだって個人の意見として掲載すれば良かったのに。その時は題字の下に載せる文章だからと編集権を振りかざしておいて、今回はそれを最初っから放棄してるし、そのことを編集のトップに立つ人間が言ってしまっている。これでやっていけるのか。ちょっと心配になって来た。

 載せてしまったあたりはまあいつものご高説賜りましてだなんてスルー感があったとしても、こうやって問題化したときに起こるだろうリアクションを考えたたら、とてもじゃないけど出ない言葉が次々に出ては、さらなるリアクションを呼んで炎上度合いを増していくという最悪の展開。ここで我に返って真っ当な頭で真っ当な対応をしようとするならば、曽野さんのコラムは打ち切りでその原稿には内容的に許されないものだからとお金を払わず、そして同じスペースで反論させるなり反アパルトヘイト特集をやって中和することだけれどでも、いったん編集権放棄の言葉を吐いてしまった以上は、もはや媒体としてその大事に何の信頼は置けず責任も見られないという判断を、日本の甘い取り巻きではない世界の厳しいジャーナリズムが向けてくれることになりかねない。そうなったらどうするんだろう。これは流石に国益に反する輩だと、国から疎まれてしまったらもう縋るべき幹もなくなるのに。やれやれだなあ。


【2月13日】 ネルネルネではないアルガルベカップに出場するサッカー女子日本代表が発表されたそうで、噂のとおりに澤穂希選手は呼ばれずINAC神戸レオネッサで留守番しながら体調を整えることになりそう。でもその経験その迫力その人望を考えるなら本番となるFIFA女子ワールドカップには多分呼ばれそう。そういう選手を置いておく意味ってのをきっと佐々木則夫監督も感じているだろうから、とは思うけれども果たして。しかしやっぱり気になるのは澤選手はいなくなっても次を担う選手の不足か。

 宮間あや選手に坂口夢穂選手は前と変わらず近賀ゆかり選手に大野忍選手も結構な年齢に。大儀見優季選手はまだ20代だけれど前回をやや不調で終わった仮を返す集大成として活躍したとして、その次のストライカーが生まれていない。期待されていた岩渕真奈選手は入らずその下の世代で5人抜きとか見せてマラドーナの異名を取った横山久美選手も入ってこず、田中陽子選手らU−20ワールドカップで取りあげられてたヤングなでしこの面々もなかなか来てくれない。樽本光選手も仲田歩夢選手も誰も来ないで1990年生まれが最年少ってやっぱりちょっとヤバいよなあ。

 男子だって下の世代が世界で勝てなくなているだけにこれはちょっと考えないといけないけれど、そこはきっと佐々木監督の考えがあるんだろう。重なるようにラ・マンガU−23女子国際大会が開かれて、そちらに横山選手がいるし柴田華絵選手がいて京川舞選手や田中美南選手といった若手が入っている。そこでの活躍を見て最後、W杯でもって合体させるといった感じになるのかな。とりあえずジェフユナイテッド市原・千葉的には山根恵里奈選手と菅澤優衣香選手がアルガルベの方に入っているんで生き残って本番での出場を期待。でもやっぱり10代の生きのいい選手に来て欲しい。誰だろうそれって。

 絶対と信じられている予言は、それが放たれた段階でたとえ虚偽だったとしても、絶対とせざるを得ない圧力というものを伴うらしい。うわみくるま、という名前は「上遠野浩平」「森見登美彦」「カート・ヴォネガット・ジュニア」からとったらしい人の電撃小説大賞金賞受賞作「運命に愛されてごめんなさい。」(電撃文庫)はつまりそんな話で、毎週月曜日にやって来る転校生が朝礼の壇上で話す言葉は必ず絶対に完璧に実現するという運命力学に支配されているその学園で、生徒会長になると皐月純という少年が告げられたことから騒動が始まる。

 すでに生徒会長には女傑の五十嵐優美が就任していて譲る気配はない。でもそれが運命ということで、恐れた優美は皐月にパンツ泥棒の冤罪をかぶせて拘禁するものの皐月は脱出、そして運命を信じる一段に担がれ生徒会長の横暴に憤る部活動を巻き込み反旗を翻す。そして始まる学園闘争。どうして運命が絶対なのか、ってところは分からないけれども転校生だけが持つ運命を左右する力ってのは存在しているみたいで、それによって銃弾を放ったり戦車を動かすことだって出来るというからまた不思議。そうこうしているうちに見事皐月は生徒会長に就任するけど自分にあったことは誰かにもある、

 ってことで別の人間に生徒会長就任の予言が下され、そして始まる再びのバトル。逆らえない運命のその先にいったい皐月は何を見る? 適当なところで妥協して転がしていけばそれなりに誰もが平穏な日々をおくれるのに、予言で任じられるととたんに専横に走るという人間のエゴめいたものも見えて面白い。幸いにして続いた指導者は穏健派らしく皐月もシーナも普通に過ごせているみたいだし。っていうか417って名前じゃないのに名前になるのか。それも運命力って奴なのか。不思議な予言。そして運命力。その秘密は……また別の機会ということになるのかな。

 「艦隊これくしょん〜艦これ〜」はパソコン向けのオンラインゲームだし、「モンスターストライク」も「ディズニーツムツム」もスマホで人気のゲームだけれどそれが相次いでアーケード向けゲームになる模様。昔はアーケードでもって最先端のゲームをビジュアルも含めて見せて楽しんでもらってから、家庭用ゲームに持っていってエッセンスだけが携帯型ゲームに落とされていったものだったけれども今は入り口として間口が広いスマホなりPCなりがワッと盛り上がって認知度を確保し、そこから新しいエッセンスを付け足したり、大きな画面で楽しめるという味を加えたりして業務用へと持っていく。不思議な時代が来たなあ。20年前には予想も付かなかったなあ。

 そんな感じを抱いたジャパンアミューズメントエキスポ2015ではスター・ウォーズのポッドがあったりジバニャンそっくりの筐体がいたりとキャラクターの特徴を生かし、筐体ならではの面白さも生かしたゲームセンターならではのマシンもあってそっちはそっちで盛り上がりそう。あとはやっぱり「甲虫王者ムシキング」の復活か。2003年に誕生してからカードゲームという市場を一気に作り上げたゲーム機で、「おシャレ魔女ラブandベリー」とかがセガから生まれこれが後の「アイカツ」になったり今の「プリパラ」になったりしたって考えると、ひとつの市場を創出した偉大なゲームってことになる。問題はいっときでも衰退した理由がキャラクター性の無さにあるなら、それをカバーする面白さって奴を子供たちに与えられるのか、ってあたり。

 「ポケモン」全盛が「妖怪ウォッチ」で崩れているならその合間に、って考えもあるかもしれないし、そうしたキャラクターを追いかける気分がちょっと萎え気味な中に、昆虫たちっていう新鮮さでもってファンを獲得できるのかもしれない。昔のプレーヤーが戻ってくるってことはないだろうけど、何も知らない子供たちが珍しいって気持ちから這ってきたりするのかな、サンリオが深海生物のキャラクター化をしたりと生物への関心も高まっていたりするし、そのあたり子供の関心を掴むためにも様相がみたい。これがヒットすれば「ジャポニカ学習帳」の表紙もまたムシだらけになるのかな。ラブベリとか恐竜キングの復活もあったりするのかな。

 山本一郎さんという人が楽天ゴールデンイーグルスって球団の戦略室アドバイザーになったってことで元・切込隊長と同じ名前の人が世間にはいっぱいいあるなあと思って見たら元・切込隊長だった。元よりプロ野球好きを広言してパリーグ好きを喧伝していた人だから詳しいだろうしお金の勘定にも運用にも長けているんでそういった方面から何かアドバイスは出来るんだろうけれど、何しろワンマンで上からどっかんな球団で監督は感覚のデーブな人なだけにロジカルでテクニカルなアドバイスがどこまで通じるか、っていうのもちょっと見物。あとガイエル選手と大沼選手を起用するとかいった大戦略を打ち出すとかも。何してくれるかなあ。

 参ったなあ、それだと吉田清治さんのインタビューを掲載したのだてあくまで吉田清治さんという人の見解であってそれを載せただけであって多様な意見を分け隔てなく載せていくのがうちの態度ですって言われたら何の突っ込みも出来なくなるじゃん某紙。例の曽野綾子さんによるアパルトヘイトでござれなコラムを載せたことが英字紙から英語の通信社へと広がり世界的な問題になりつつあるっていうのに、広報あたりは今もってそれは曽野さんのコラムであって彼女の見解であって会社は多様な意見を載せていくだけですよって言い訳をして果たして世界が許してくれるのか。っていうか題字を背負って世に言論を問うているメディアがその題字の下に載せた記事にたとえ記名のコラムであっても責任を追わないなんて言ったら世界のメディアから苦笑され失笑され爆笑され嘲笑される。そう思えば早急の対策が必要なのに何をいしている風もないものなあ。これで週明けに何か起こるとも思えないし。むしろさらに悪口雑言が繰り出されるだけかもしれないし。やれやれだ。


【2月12日】 オリベイラとかピクシーだとかいった名前がどんどんと立ち消えになっていく一方で、挙がってきたのがスパレッティとかマガトとかラウドルップっていったいどういう基準で選んでいるのか、まるで分からなくなって来たサッカー日本代表の監督選び。ブラジルのワールドカップで選手を抑えられず、自らも采配が硬直してしまったザッケローニーではやっぱり経験が足りなかったという反省から、修羅場での根性めいたものを買われてアギーレが選ばれたはずなのに、次に挙がってくるはいずれも監督としては代表を率いてワールドカップを戦ったことのない人ばかり。かろうじてラウドルップはコーチ時代に日韓大会に出場したデンマーク代表に関わったことがあるみたいだけれど、それだって13年も昔の話でその後のクラブ監督としてもたいした実績は見られない。

 にも関わらずスポーツニッポンあたりはもう本決まりみたいな感じで書き立てては、イングランドのQPRが降格争いから抜け出るための指導者として引っぱろうとしているって報道があったら“横やり”だなんってかき立てる。おいおい極東の世界レベルではたいしたことがないチームの代表監督と、下位に沈んでいるとはいえプレミアリーグを戦っているクラブの監督とでは、どっちがサッカー指導者人生として上の経歴になると思っているんだ。そこで頑張れば次があるかもしれないし、仮に降格の憂き目にあってもそれなりな指揮を見せさえすれば欧州のクラブで次を狙える。日本でこれから3年、塩漬けみたいな感じになって仮にW杯に出場できたとしても、その先が果たしてあるのか? そりゃ決勝トーナメントでベスト4くらいまで行ければ良いけど、無理っしょ今のチームでは。

 って考えるともう、選ぶのはやっぱり欧州ってことになるんだろうけど、そうなったら裏切りとか書くのかなあ、スポーツニッポン、神戸に置いてきた魂を忘れたのかとか言って。そんなものはありませんってば。そしてスパレッティはビッグクラブを渡り歩けるだけの才覚の持ち主で、やっぱり極東なんか来そうもないしマガトはアギーレ以上にメディアとの相性が悪そうというか、フックに欠けるというか。それならそれで強くしてくれるかというと……。選手次第のところがありそうだもんなあ。そう考えると最終候補とやらでのこった3人も怪しいもので、いずれも潰えてふいっと誰か日本人監督がとりあえず予選を戦い勝ち抜くってことを狙いに行くのかも。それは誰? 誰がいるかなあ。

 電車で読むのは超危険。読むと口を閉じていたってグフフフフフフフフフフフって笑いがのどの奥から漏れて、周囲を不審がらせるから。っていう感じの「独創短編シリーズ2 野崎まど劇場(笑)」(電撃文庫)は、タイトルに(笑)なんてつけてるんだからそりゃあ笑うよ誰だって。どれから読んでもそうなるけれども、パッと見で無茶が目立った「大相撲秋場所フィギュア中継」にまず爆笑。いやあそうなるか。3DCGが使える時代なんだからもうちょっとうまくやるんじゃないのとは思うけど、やっぱりフィギュアでとなってそれが間に合わないとなったらああいう事もあるんだろうなあ。キン消しとか揃えておけばもうちょっと種類も抱負だったかな。あるいはデッサン人形とか。

 あと「建設バブルの闇 〜大手ゼネコンの真実〜」。いったいどれくらい売れたんだろうか「久保悦子」は。それは「インタビュウ」の「停電惑星」も一緒かな。オチの凄まじさだと冒頭の1編、「白い虚塔」とか凄かったかなあ、っていうか本当にありそうだもんなあ、本物以上の本物らしさってもの。「年下退魔士」はふんわりとしたオフィス恋愛ストーリーに伝奇が混じる可笑しさが好き。「ワイワイ書籍」はこれもやっぱりありそうな話でなんか良い。っていうか「ニコニコ電書」とかってこんな感じじゃなかったっけ、いやまだそこまではないか。映像であるならこれだていずれは。KADOKAWA起死回生の1手とすらなるかも。「シンデレラアローズ」。燃やすとは。そして「クゥ」。優しくて愛らしい話。人生は長くそして楽しい。そんな感じで。グフフフフフフフフフフフ。

 百合だけれど師弟愛でもあって、ケモミミもふんだんでそして何より魔術が飛び交う帝都の絢爛とした雰囲気でいっぱいの物語が大橋崇行さんの「大正月光綺譚 魔術少女あやね」(辰巳出版)ってことになるのかな。女学生の望月彩音は両親がおらず1人でアパート暮らしをしているけれども特に苦学生という感じでもなく、文芸部みたいなところで楓先輩といっしょに明るく前向きに文学に励んでいる、そんなある夜。帝都を騒がせる女学生失踪事件に半ば巻き込まれてしまった彩音は、危険な狗を使う少女と対峙し襲われたところを如月藤花という名の女性に助けられる。彼女は魔女で狗の毒めいたものから彩音を守り、連れ帰って治療を施した。普通だったらそんな魔女と出会った記憶は消されるはずなのに、彩音は消されず部屋へと帰る途中、捨て猫に出会ってそしてなぜか会話ができて、おまけに猫を人間の姿にしてしまったから驚いた。

 藤花が注いだ魔法の力が残っていたにはちょっと大きな魔法の力、それは彩音がもとより持っていたもので、どうしてそれがあったのかというところで過去の因縁が絡んでくるんだけれどもそれはちょっとだけ後の話。とりあえず彩音は魔術乙女となって藤花の弟子という感じで、夜の帝都を騒がせる狗を相手にした戦いに身を投じる。都庁に行って魔術乙女の登録をした時に出会う魔女の元締めの最初は、どうにもポンコツなところとかがユニークだし、実は親しい相手だったある魔術乙女との出会いなんかもあって、百合百合した雰囲気で進んでいくんだけれど、どうやって魔術乙女が魔女になるのかという設定、そしてかつてひとりの魔術乙女が慕いすぎた魔術乙女を相手に大変なことをしでかしたという過去が浮かんで、永遠の命と不思議な力を得る代償、あるいは因業めいたものを思い知らされる。

 格好いいとか可愛いとか、誰かが好きだとか一緒にいたいといった浮ついた気持ちだけではとてもじゃないけど耐えられないその過酷な運命。でも目先の欲に負けて踏み込んでしまうこともあるという悲劇を知ってなお、彩音はどういう道を選ぶことになるんだろう。藤花さんや楓さんといった面々との関係を一方に見つつ、凪という少女が歩む道とそれとの関わりなんかも含め、1人の少女がどういう風に成長していくのかを見届けたい。大正100年というから西暦に当てはめれば2012年くらいがやっぱり舞台になっているのかな、それにしてはモダン東京過ぎる世界の描写。なおかつ元号の長い維持。そんなあたりのも秘密とか理由とかがあるのかな。世界の置かれた状況なんかも明らかになるのを待ちつつ読んでいこう、このシリーズ。

 もはや何を撮るかっていったことでは、カメラは語れない時代に来たのかもしれないなあ。だって手にしたでっかいカメラでも小さいスマートフォンでも、撮ろうと想えば何だって撮れてしまう。その画質だってスマホで撮ったものが普通のカメラに迫るような時代に、何を使って何を撮るかなんてことを考えてカメラを選ぶことは出来なくなっている。趣味が合うか感性がマッチするか使い勝手が良いか重いか軽いか。そんな感じ。だから問題はそんなカメラたちを使ってどう撮るかっていったところに勝負の土俵は移り変わっているってことで、カメラの総合展となるCP+にはそんな「どう撮るか」っていったところにスポットを当てた品がいっぱい並んでいた。たとえばオリンパスのAIRってのは、ボディにレンズを取り付けるんだけれどそのボディはただの円筒。シャッターもモニターもない。

 その代わりを成すのがスマートフォンで、カメラはボディにマイクロフォーサーズのレンズを取り付けたものをスマホで操作するってことになる。ソニーが前だしたレンズカメラと同じコンセプトだけれどこっちはマイクロフォーサーズのレンズなら何でも取り付けられるから種類が抱負。超望遠だって使えるし超広角だって使えてしまう。そんなレンズをボディから離して転がしたり持ち上げたり投げたり……は無理だけれどもいろいろな場所に持ち運んで置いて掲げて撮る画像映像っていったいどうなるんだろう? それを考えて撮られた画像映像ってどんなものになるんだろう。ちょっと新しい時代が開けそう。ドローンに載せても撮れるのかな。それは分からないけどドローンを使って撮るというのも新しい時代の「どう撮るか」のバリエーション。生まれる映像の凄さは各PVで自明なだけに今後どんどん出てくるんだろう驚きの画像映像。それも陳腐化した果てに生まれるさらに凄い画像映像ってやつが見たい。どうなるかなあ。


【2月11日】 そして満19年を書き続けた日記は20年目と入るのだけれど、だからといって何が変わる訳でもなく、何を変えることもなくダラダラと日常を積み重ねていくのみなのであった。アルファなんとかだとかイノベーティブなんとかといった栄誉とも評判とも無縁のただの身辺雑記。でも19年分溜まればつまりはその時に生まれた人たちが大学に入ってもおかしくない歳になっていたりする訳で、そうでなくても子供の頃に何か読んでくれた人が、人生を真っ当に生きる指針にしてくれている可能性ももしかしたらあったりするのかもと思って、今日も筆を取るのだった。まあそんな人はいないだろうけれど。いたら14日にはチョコが山と届いて不思議はないのだけれど。そんなことは未だかつてないのだった。はあ。

 っていうか俺、上坂すみれさんのCDは1枚も持ってないし、歌っているアニソンで知っているのは「波打ちぎわのむろみさん」のOPとそれから「鬼灯の冷徹」のEDくらいで、あとはまるで知らなかったりするんだけれどそれでも行ったよ、中野サンプラザでの「第二回 革ブロ総決起集会 −ファイナル−」に。やっぱりというか革命って言うくらいなんで赤いっぽい服装の人がいっぱいいて、そこにグローバーオールの赤いダッフルを着ていったことには間違いはなかったけれど、閃ブレとか振らない主義なんで周囲が持っている中でひとり腕だけ振るのは大変かもと思ったものの、2階席の通路を挟んだ後段最前列だったんで周囲に押されることもなく、自然と腕だけ振りつつ拳振り上げつつ実に3時間近い総決起集会を楽しめた。

 おまけにその席の前の通路にアンコール前、上坂すみれさんが現れて歩いてくれたから素晴らしい。間近で見たら可愛かったなあ。でもあれは実はめろ坂みみみさんだったのかもしれない。フリフリヒラヒラな格好だったし。そんな別人格を間に挟むように入れ変わりながら繰り広げられたライブは、いわゆるアニソンシンガーが歌うアニソンの主題歌ばかりがチューンされるような、ポップでドライブ感があってPPPHが出しやすいようなコード進行リズム展開とはちょっと違った独自性のある曲が多かったって印象。つまりはあんまり主題歌とかやらず、楽曲勝負アルバム勝負キャラ勝負で行っている人ってこと。それはアニソンシンガーとして聴いている人には耳慣れない曲もあってううんってなるかもしれないけれど、アーティストとして聞きこんでいる人にはああこの曲をこう演じるかこう歌うかっていうのを間近に見られて良いのかも。

 そしてまるでアルバムとか聞きこんでいない人間にも、そうしたテンポもリズムもコードもそして歌詞もどこか不思議な曲たちはフレッシュで聞き込めて、なおかつアニソンっぽい腕振りとかかけ声なんかも混じっていて飽きずにたっぷり楽しめた。ちょっとCD買ってみようかと思ったけれど、どれくらい出てたっけ。あとめろ坂みみみさんは別にCDが出てるんだっけ。ちょうどライブだか何かの映像BDが出たんでそっちを買ってみよう。ステージ上に出てきためろ坂みみみさんが実に振り付けも歌い方もアイドル歌謡っぽくて良かった。足のくにゃっとした動きとか。それでいて曲調はどこか不思議系。ダンサーとのマッチングもよくってどこかきゃりーぱみゅぱみゅを見ているようだった。あるいはそっち系へと抜ける可能性もあるのかもしれないけれど、今はまだ革命的ブロードウェイ主義者同盟を続けるのかな。

 決起集会に総決起集会については何かこれで打ち止めにするっぽいけどでも、中野サンプラザが残っている来年はまだライブをやるみたいで来年の今日というか2月11日と、そして何と翌日の12日の2日間を抑えてタイトル未定でのライブが決定した模様。大決起集会になるんだろうか。それとも大粛清とか大躍進とかそんなんか。だったらそれは凄いかも。あと何かファンクラブも立ち上げたそうで名前が「コルホーズの玉ねぎ畑」だっけ、そこもやっぱりロシア大好き上坂すみれさんだという感じ。ウラー。でも知性があり、なおかつ可愛いところが不思議なキャラだよなあ。もっともっと突き抜けていって欲しいけれども、どういう抜け方があるんだろうか。そこが今はまだよく掴めないのだった。

 ともあれ楽しかった3時間。間に映像を挟んだりおしゃべりをいれたり籠にいれたものを配ってあるくサービスを入れたりアンコールを入れつつ今後の展開を話したりと、歌だけじゃないところも楽しませてくれた。でもやっぱり歌が良い。うまいとか凄いとかじゃなく可愛くて楽しくてそして聴かせてちゃんと見せる。何より見ている人を引きつけるその雰囲気。だから何時間でも飽きないし、初見ですら楽しませてくれる、そんなアーティストだったということを知った2月11日でありました。でもやっぱり知っている「波打ちぎわのむろみさん」の主題歌「七つの海よりキミの海」は個人的に盛り上がったなあ、アニメ好きで珍しくBDだっけDVDだっけも買ったし。なんだこれ畑亜貴さん神前暁さんなのか。そりゃあ凄い曲な訳だ。大変だ。大変だ。もう1回いうぞ大変だ。

 参ったなあ。こういうことを書く人の感性品性は仕方がない、そういう人なんだからと諦めるしかないんだけれど、問題はそういうことが書かれたコラムを載せる側の感性品性は、いったいどうなているんだと言われた時に言い返せるだけのロジックがなければ、一蓮托生になってしまうってこと。とはいえそんなものなんて無いのは過去が証明している。「だってそう言ってるんだもん」で逃げたりしそう。でも事が事だけに今回ばかりは逃げ切れるかなあ。何しろレイシズム。それもアパルトヘイトを称揚するようなヘイトスピーチに近いレイシズムを感じさせる内容なんだから。

 曽野綾子さん、という作家で評論家である人のコラムにかつて、南アフリカで暮らしていた時にアパルトヘイトが終わって街に黒人がいっぱい増えてきたってことが書かれている。白人が暮らしていたアパートにも暮らすようになったんだけれど、人をいっぱい連れてくるものだから水が足りなくなって大変になって、白人がみんな出ていってしまったとか。だから曽野さんは爾来、人種によって暮らす場所ば別にした方が良いって考えを持っているとか。コラムでは「人間は」ってなっているけど、文脈としてそれは人種を意味するもの。その隔離を推奨するコラムはやっぱり読む人の心にヒットしたみたいで、即座にあれやこれやといった反論が挙がって燃え盛ってしまった。

 なるほど生活習慣の違いがもたらすストレスってことは確かにあって、それも民族が違えば習慣も変わるだろうからそのあたり、相互理解が必要となってくる。でもそれは区別することじゃないにも関わらず、コラムは黒人は大家族主義だいう認識を示しつつ、アパルトヘイトが解除された直後の体制が整っていない南アフリカっていう特殊な状況を一般化して普遍化して材料にして、融和や理解をすっ飛ばして分離へと持っていっているからやっぱり困った意見って言えそう。あと大家族主義というのは人種というより経済事情に依るものであって、別に米国の黒人が大家族主義という訳ではなく、日本の昔の田舎の方が大家族主義だったりもして一概に言えるものじゃない訳だし。

 といった思索を巡らせれば、とても生まれてこないコラムなんだけれど、それがもはや持論となっている人だから仕方がない、それがそういう人なんだからという意味で。問題はだからそうした文章を載せる上で、どういうリアクションがあるかを吟味し載せるかどうかを判断する頭の有無ってことになるんだけれど、そこが分からないんだよなあ。もし何か考えているなら、本紙ではなくそうした意見が載りやすいオピニオン誌に持っていくだろうところを、堂々と新聞に載せてしまうんだから。これで騒ぎになるってことは、新聞という媒体がまだ読まれそれなりに信じられているってことだけれど、そうした期待をぶちこわしている事態でもあって、ちょっと先が思いやられる。とはいえいつものことだって冷めた頭も一方にあるのだけれど。仇討ちとか永久機関とかオッペンハイマー自死とかあっても何も変わってないし変わろうとしてないし。だからまたかで終わってそして忘れ去られていくんだろう、その存在そのものも含めて。やれやれだ。

 「SFが読みたい!」の2015年版はなるほどな並び。ライトノベルがやっぱり入ってないのはライトノベル読みとしては寂しいし、早川書房の圧倒的な強さを見るとやっぱりSF回りはハヤカワに支えられているのかもなあ、とか思ってもしまうけれどもそうしたところに紛れつつ、ライトノベルのSFなんかを紹介していくのが自分の使命と思って少しずつでも紛れ込ませていくのだった。あと表紙がなぜか過去の「SFが読みたい!」を並べてあって今回手抜きかよ、とか思ったものの水玉螢之丞さん担当分も少し見えて追悼にはなったかなあ、という気も。来年はバーナード嬢と早川さんをそれぞれ寄せた施川ユウキさんCOCOさんが今回のマンガの人気を投票で争い買った方が担当する、なんて企画は別に動いていなかった。誰だろう。そもそも出るんだろうか。乞うご期待。期待して良いのかな。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る