縮刷版2015年12月下旬号


【12月31日】 「珍遊記」でもって全裸で映画に出ることが発表されてて、そのスリムなボディってやつをさらけ出していた松山ケンイチさんが直近、登場した会見で何かぷっくりとしていて一体何があったんだ、っていろいろ流を見たらどうやら映画で「聖の青春」に出演して主役でプロ棋士の村山聖九段を演じることになるらしい。なるほどそれなら丸くなって当然。現役時代にテレビで見ていた村山九段は髪も整えずぼさっとさせながらその丸い体を丸めて将棋盤に向かいパチパチと駒を動かしていた。その姿を180センチも背がある松山ケンイチさんが演じてどうなるんだろう? って不思議もあるけどそこは日本のデ・ニーロとして、何にでもなりきる演技巧者ぶりを見せてくれるだろう。どんあ映画になるかなあ。羽生善治名人役は誰が演じることになるのかなあ。

 たまに名古屋にいるんだからと世界最初のヴィレッジヴァンガード本店を見に行こうかと家を出て、地下鉄で平針から植田まで行ってそこから歩いて植田一本松の手前くらいにあるヴィレッジヴァンガードへ。場所は変わっていないし建物も前のまんまだけれど、入り口がこぎれいになっていていろいろ華やかになっていて、中も東京とかにある多くの店を同じように本、があるけど雑貨がメインで菓子類なんかもわんさか積まれてCDなんかも置いてある、圧縮陳列というかコーナーをいっぱい作って空間をみっちりと埋めるようになっていた。オープンした当時は天井も見える倉庫と行った店内に平台が置かれそこに本を積んだり壁際に天井まで届くような棚を置いて文庫本なんかをぎっしり詰めたりして本屋さんといった雰囲気を残してた。

 それすらも当時は目新しくって、普通の本屋さんにはあまりない、ちょいサブカル入った漫画の単行本があったり、ハヤカワのSFとかJAの文庫がいっぱい並んでいたり雑貨もアメリカンな雰囲気を持ったものが並んでいたりして、行けば何かしら新しい発見があった。今は書店も充実して漫画も文庫も揃いのいいところはちゃんとあるし、雑貨もそこに行かなければ見られないってものはないけれど、それもこれもヴィレッジヴァンガードが名古屋から始めて発展し変化しながら全国へと広げてきたことが、あちらこちらに浸透していった結果ってことなのかもしれな。

 そんな原点をいったい、どういう発想で始めたのかは多分、本店の入り具ににまあ積まれていた永井朗さんの「菊地君の本屋」とか、その菊地君こと菊地敬一さんが書いた「ヴィレッジヴァンガードで休日を」を読めば分かるはず。売りたいものをわかっている人にだけ売る。そのポリシーが貫かれ広がり今がある。なおかつ世界もそう変えた。日本のひとつの文化がここから始まった。そう思うと植田のヴィレッジヴァンガード本店は、世界文化遺産として永久に残しても良いかもしれないなあ。そういえば菊地君、今は何をやっているんだろう。植田の店とかに顔とか出すんだろうか。ちょっと気になった。合ったことないけど、いつか話を聞いてみたいなあ。

 植田では日映文化ホールってのがまだ現存していたのを確かめる。もう大昔の多分1983年、ここであのDAICON FILMによる上映会が開かれてDAICON3とDAICON4のオープニングアニメーションに「愛國戦隊大日本」「かえってきたウルトラマン」「快傑のーてんき」が上映されたのを、朝から出かけて3時間とか並んで見たのだった。この年が受験というのに何をやっていたんだろいう思うけれど、それくらいの余裕がなくちゃ人生なんてつまらない。そして見たDAICON FILMの作品の数々は脳裏に染みついて自分のSFへの愛着を高めそれが回り回って「SFマガジン」で何か書くくらいの身になった。何であっても見ておき糧にしようとするどん欲さ。最近ちょっと衰えがちだけれども守りに入ったままでは崩壊するメディア事情の中で共倒れしてしまう。なのでこれからちょっとは頑張って、外に出ていろいろ見てやろう。アイドルとか。アニメとか。

 ヴィレッジヴァンガードを出て今度は塩釜口まで行って駅前にあるだろうファストフードの店で一服しようかと思って探したら1件もない。マックもロッテリアもモスバーガーもなくあってせいぜいが吉野家くらい。おまけに年末でしまってた。近くに大学があるならもうちょっと、そういう店があっても不思議じゃないのにまるでないのはそれだけ外に出る学生が少ないってことなのかなあ、学食とかが充実しているとか。あるいは学生の数だけでは商売にならないとか。仕方が無いのでさらに歩いて八事まで行って、ジャスコじゃなかったイオン八事にあるコメダ珈琲店でハンバーガーとか食べながら少し休憩。コーヒーとか400円もするのにひっきりなしにお客が来るのは居心地が良いからなのかどうなのか。でも座席がドトールと違ってひとりがけのカウンターとかなく、2人掛けに1にんとか座っていると次々に入ってきた客が待っていて居づらくなるんだよなあ。4人掛けに1人で座っている人が堂々としているようには自分、神経太くないんだ。やっぱりコメダは性に合わない。でもドトールもヴェローチェもタリーズもスターバックスもないんだよ。不思議な名古屋。喫茶店文化がそれだけ残っているってことなのかな。

 やっぱり動いていたか「宇宙戦艦ヤマト2199」の続編の映画。ファンクラブ向けの会報で製作が明らかにされていて、当然のように「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」とそれからテレビ版「宇宙戦艦ヤマト2」からいろいろと抜き出すみたいだけれどそれだと話はやっぱり彗星帝国が相手で、サーベラー様も出て来てあのさげすむような視線でもって観に来た僕達を罵倒してくれそうで今からそれが大いに楽しみ。「ヤマト2」が入るってことは特攻に次ぐ特攻で全員死亡もないと思いたいけどそれでドラマになるかどうか。きっと手掛けるだろう出渕裕総監督も思案のしどころだろうなあ。イスカンダルに残したスターシャが抑えたお腹の中とかがすぐ出てくるとは思えないけど、その後も作られるとしたらいつか登場するのかな。いろいろ気になるこの先。情報を待とう。藪の行方も含めて。

 しかしそんなヤマトの続編製作を紹介する記事にヤマトがガンダムになれなかった索引といった罹れ方がしてあって、そりゃちょっと違うんじゃないかといった気分がわらわら。今でこそ毎年新作が作られているような気がするけれども、よくよく見るとテレビシリーズは間隔が割と空いてたりしてXの後にターンAまで数年あってターンAからSEEDまでもやっぱりあった。OOだってそんな感じ。そもそもが「機動戦士ガンダム」から劇場版こそあったけれど完全新作の「Z」までは5年があった。「ZZ」のあとのテレビシリーズって何だっけ? そんな感じでOVAこそ作られていてもシリーズとして決して順風満帆とは言えなかった。それでも続いたのは「機動戦士ガンダム」の世界に拘らなかったから。GがありWがありXがありSEEDがありと宇宙世紀から外れても、ガンダムっぽいロボットが出ていればそれがガンダムだと言い張った。だから続いた。ヤマトはそれが出来ない。あの世界じゃないヤマトをヤマトと言えない。同じ宇宙、時系列の上で作らなくちゃいけない作品が今なお作られ続けていることの方が、凄いと思うんだけれどなあ。まあ仕方が無い。これからどこまで作り続けられるかだ。見守ろう。


【12月30日】 表紙に並ぶは我らがチハこと九七式中戦車たち。大洗女子学園の危機を聞きつけ聖グロリアーナ女学院に誘われ試合の会場に向かう勇姿を描いたこれは「ガールズ&パンツァー劇場版」のムックとして発売された知波単学園の特集号だって、言って売ればあるいは売れるか。でも開いて吃驚、「玉砕」の文字とともにアジアの各地で大日本帝国陸軍が繰り広げた戦闘が、結果としての戦死者の地平であり白骨の山として画像で捉えられ並べられ載せられている。見れば日本が負けっぷりも激しく、そして悲惨な戦争なんてやってしまった愚かさが浮かび、そんな戦争にもう2度と巻き込まれたくないっていった思いが浮かんで来るだろう。

 昭和46年だから1971年、太平洋戦争が終結して四半世紀ほど経った時期に文藝春秋の臨時増刊として発売された「太平洋戦争・日本陸軍戦記」を開くと、そこには戦争に散った兵士たちを賛美するような美辞麗句もなければ、勇猛果敢さを賞賛する強い言葉もない。死体死体死体。死体が山河を埋め尽くした様子が並べられ、そんな戦いが少し前にあったなということをもうくっきりと見せつけてくる。これを小学生の頃に読んでいたら、そりゃあ戦争なんて愚かで悲惨なものだっていった思いが脳に刻まれるよなあ。ほかにも確か太平洋戦争全域をとらえたムックもあって、ガダルカナルやアッツ島やサイパン沖縄等々で繰り広げてきた玉砕の様子が死体の山とともに掲載されている。

 それを小学生が見てこれはいかんと思っていたのが昭和40年代のこと。そして立派に戦争を毛嫌いする人間ができあがった訳だけれど、今は戦争を語るにその悲惨な様子を見せることを子供たちのためだからと、大人の勝手な解釈でもって制限する動きが強まっている。ちょっと前、長崎だかの原爆で被爆した人たちのことを描いた劇を学校で演じようとしたら、そこに使われている画像に悲惨なものがあったからと、校長先生の判断で劇が中止に追い込まれたことがあった。なるほど成長期にある幼稚園児とか小学生低学年に死体は刺激が強すぎるかもしれないけれど、自分の頭で考えられる高学年ならそれが何を意味するか、どういう行為の結果そうなったかをしっかり理解できるだろう。そしてどうすれば良いかを判断するだろう。

 醜いものとか悲惨なものから人を遠ざけ、上っ面だけをいくら語ったところでその本質は伝わらない。画像ですべてが伝わるとも限らないけれどそれでも見ないで育つのと見て育つのとでは大きく違う。それなのにだんだんと戦死者であり被爆者といった存在が表面から消され言葉ですら語られなくなってしまった。広島の原爆記念館だっか、そこからすら悲惨な状況を表した展示を下げようだなんて声が出る。そして記憶に悲惨な結果を知らない者たちが増えて根拠のない不満を外に向けるためだけに攻撃的な言説を繰り出しては、戦争への道を開こうとする。それでどうなるか? ってことを分からせるためにもこうしたムックを復刊すれば良いのだけれど、それも不可能なんだろうなあ、今の出版状況では。しかし文藝春秋から戦争を賛美するんじゃなく戦争の悲惨を伝えるムックが出ていたのか、あの頃は。それが日本人にとって普通の感覚だったんだろう、親が、兄弟が死んだ記憶が深く身に刻まれたいただろうから。時は流れ記憶は薄れ、そして悲劇は繰り返される。人間って、愚かだ。

 驚いたよ吃驚したよ。戒能靖十郎さんの「M・T・P2 魔都の終りとハーフボイルド・ワンダーカジノ」(中央公論新社)は世界が欲しがるお宝を狙って魔法が使える街へと侵入した駆け出しの泥棒の少年が、魔法の才能は圧倒的だけれど自分に自信がなくなるととたんに使えなくなる青年とか、剣の腕前には天才的なところがあるけれどもその襲名にこだわる余りにエロティックな格好をして喋るも侍口調で統一して、けれどもエロいと言われるとふぬけになってしまう美少女剣士とか、魔法がまるで使えないけれどもその博愛主義でもって周囲から支持を集めている少女とかと知り合って、街を裏から支配するカジノの奥に眠るお宝を奪いに言って返り討ちに合う。

 けれども諦めず立ち上がって向かった先で、少年は自分の意外な正体を知り、そしてお宝のとんでもない秘密を聞いてひっくり返る。読者もそれを読んでひっくり返る。いやいやそんな秘宝を奪ったところでたった1人を除いて誰も喜ばないぞとか。それを後生大事に抱え込んでいるおっさんちょっとアレだとか。そんな大逆転的なずらしから少年の境遇、その母親の真実ってのが浮かんできて、さらに世代が上がったところで世界に何が起こっていたかが分かってそこから派生した問題ってのがようやくもって解決に向かうといった感じ。まさか世界に向こう側があったなんて。

 そして美少女剣士の方も決して才能がないから見捨てられたんじゃないってことが分かり。その襲名においても先代のおっさんさまざまな思いってのがあったことが分かってちょっとかわいそうになるというか、先代のおっさんナイスというか。ともかくも現れるど変態たちをさばきつつ自分を知って世界を見つめて進む少年の頑張りが、最後には光ってちゃんと主人公らしいところも見せてくれる物語。一件落着なだけに続きはなさそうだけれど、別の世界へと移ってそこで繰り広げられる変態チームの大冒険って奴もあれば読みたいかもしれないなあ。あるいはコミカライズ。恥ずかしがりながら暴れるシザ=リザが僕は見たいんだ。とっても。とてつもなく。

 やっぱりそうか。やっぱりそう解釈するのか某紙の取り巻き記者。「軍の関与」という例の文言を取り上げて、それは軍が慰安婦の衛生検査とか慰安所の管理とかをちゃんとやていたという話であって、軍の権威とか脅威とかでもって人を引っ張り話さないようにして虐げたという話ではないと解く。いやいや世界はそう思ってないし、韓国だってそう思ってない。軍の関与というならそれは、軍という暴力的な装置が働き強制性に類することをしたという解釈になるのが普通なんだけれど、日本はそれを認めていないと安倍大総理にごくごく近いところにいる記者がそう語る。

 これってつまりそれが安倍ちゃんの本心だってことになるのか。そう忖度するのが普通なのか。以心伝心でそう伝わってきたのか。口伝によってそう聞いたのか。そう世間が受け止め世界が認識したら安倍大総理にとって不利なのに、自分が納得できないことだからと勝手に安倍大総理の意向を語るならそれは国賊的な振る舞いだし、実はやっぱりそう思いながらも曖昧にして両面に良い顔をしているのなら、安倍大総理が世界から批難を受けることになる。はたしてどっちだ。いずれにしても碌でもない話。やれやれ。

 名古屋人ならだいたい分かる八事の興正寺がユニークなことになっていて、お寺のある場所から道路を挟んだ場所にプレハブで「八事山興正寺」なる本堂が作られご本尊がまつられている。理由は前からある興正寺への高野山金剛峯寺の異論。住職がわやくちゃやって境内はいじるは土地を中京大学に売るわアルバイトを法事に派遣し見習いを通夜で読経させるわといったことをしでかし、金剛峯寺から解任の話が出たけど辞めずに居座り宗門抜けるの抜けないのと大騒ぎ。結局抜けてしまったようでこれには檀家も大弱りってところで金剛峯寺から“正統”なる住職を送り込んでプレハブの本堂を建て、高野山からご本尊も持ってきて置いているというのが現在。

 宗門の正統から言うならこっちのプレハブが八事興正寺になるんだけれどそうした系統を無視するならずっとある興正寺が興正寺だってことになる。というかそういう宗門の系統を無視してお寺がどうして成立できるのか。やっぱりそれなりに歴史もあるんで前からいる住職が権力も財力も発揮できるのか。中京大学の梅村学園とも関係していそうだしなあ。ともあれ面倒な話。印象でいうなら由緒ある国の重要文化財にもなっている五重塔のすぐ前に真新しい大仏を置いて美しい五重塔の外観を大きく損ねているそのセンスの悪さで居座っている住職はペケだと思う。こりゃダメだろ。まったくもって碌でもない話。


【12月29日】 年末年始にいろいろと、アニメーション関連の大きな特番があるんだけれど手持ちのBD/HDDレコーダーは500GBしか容量がない上にTOKYO MXが観られるようになった関係からアニメーション関係の新作がぎっしりで、毎日のようにBDへと移してもすぐに貯まっていっぱいになって、とてもじゃないけど特番が収まりきらない。とりわけ年明けにある「SHIROBAKO」の一挙上映は12時間とかに及びそうな感じで、これはHDDでは絶対無理だし、仮におさまってもBDに移すのも大変でHDDに入りっぱなしになってしまう可能性もあったんで、もうこれは増設するしか内と2TBのHDDを買って繋げてどうにか完了。これで「SHIROBAKO」も「境界のRINNE」も「マクロスF」の劇場版2作も全部まとめて録画することが出来そう。

 怖いのはそうやってまだ入るまだ録画できるとどんどんと溜め込んでいってしまって、こまめにBDに移さなくなって後で整理するのが大変になってしまうこと。でもって突然にHDDが死亡したりして録画してあったものがパーになってしまうことだけれど、でもご安心dアニメストアなら全部まとめて観られます、なんて宣伝に乗って開こうにもネットワーク環境が今ひとつなんでテレビで観るほどの画質では絶対に観られない。「ガールズ&パンツァー」みたいに録画もあってそれで観るだけはAmazonプライムっていう使い方なら可能だけれど、全部をネットに任せるのもちょっと不安だし、そもそもネットに流れてないのもあるし。ってことで録画はするけど今まで通りに小まめの移動を心がけよう。あとはディスクを整理するファイルを購入することかなあ、この3カ月分のディスクが平積みになって崩れ落ちそうなんだ、今。

 レコーダーに触ったついでに改めて映画「世界の終わりのいずこねこ」のDVDについてきたの渋谷のWWWでのライブが収録されたディスクを突っ込んでちらちらと鑑賞。確か映画の上映時におまけで流れた「rainy irony」とか「nostalgie el」とか映画のエンディングの「i.s.f.b」とか、どれを聴いて凄い楽曲だなあと思わされた。オープニングで使われた「e.c.l.s」とかも含めいずこねこ関連の諸々の楽曲のサウンドは実に特異で、旋律が独特で、それなのに心に染みるか不思議というか凄いというか。かつて中田ヤスタカさんがその特異さでCUPSULEとかPerfumeとかきゃりーぱみゅぱみゅで世に存在感を示したけれど、今ではその特異さがどこか普遍となってしまって、耳にギュッと響いてこなくなっている。

 そんな耳にもいずこねこのサウンドは、突出した色と香りを放ってる。なおかつそんな特異性を、歌声とパフォーマンスでもって体現して見せたいずこねこというプロジェクトの活動が終了して、もうこのパッケージで見ることはないのだろうかと思うとどうにももったいない気がしたのだった。だからといって他の誰かが歌ってはそれは違うパッケージになってしまうからなあ。音楽というのはそこが難しい。でもサウンドの音色に旋律の特異性は新たに引き継がれたmaison book girlでも触れられるので、まったく同じではないけど相変わらず特異で、そして素晴らしいサクライケンタさんの音楽をここからまた、追っていくことにしようかな。追える限り。

 悔しかったのかそれとも呆然としたのか、自分たちが盟主を仰ぎ下僕として振る舞う大総理が手のひらを返したかのように軍の関与を認め賠償金的なお金を拠出するって手打ちをしたことに、さすがは我らが偉大なる大総理だとすぐさま追従するのも憚れたのか、頭が回らなかったのか強制性どころか軍の関与もその存在すらも認めたくない気持ちを代弁してくれそうな国会議員だとか大学教授を引っ張り出して、そういう意見をズラリ並べてみせたりする新聞が約1紙。でもそれって自分たちが政権与党なり内閣に批判的な見解に対して行っているレッテル貼りからするならば、反日的であり反政府的な言論な訳だけれどそれをやってる自覚がきっとないんだろうなあ。敵と決めた相手が見方になってもずっと敵のままであり、味方は当然にずっと味方。それらがひっくり返ったとしてもそれはそれ、これはこれという思考した出来ないってことで。やれやれ。

 名古屋に来たら大名古屋ビルヂングが巨大化していた。球形の広告塔もなくなっていた。ちょっと残念。かといってあの高層ビルのてっぺんに広告を載っけたところで誰も観ないからなあ。仕方が無い。ってことで名古屋に戻ってきたついでに高島屋の上にある本屋で「ヤングキングアワーズ」の2016年2月号を買って読んだらコンゴウが多分撃沈されていた。漫画の後のキャラクターによる対談でもキリシマにハルナがさっさと沈められてヒエイはまだ登場していない関係で、コンゴウ型がこれで枕を並べて撃沈といった感じになってキリシマがはしゃいでいたけどそこはコンゴウお姉様。別に移して置いた超重力砲でもってキリシマをどこかに吹き飛ばしてた。どこへ行ったか。問題はそれじゃなく千早群像の動静で、見たところ大変なことになっていたけどそれは実際か、それともフェイクか。主役が消える訳はないから大丈夫だとは思うけど、でも…。1カ月後の3月号が待ち遠しい。

 転生から始まっていたから多分と思ったらやっぱり“なろう”な小説だったけれどもそういうのを帯に謳わないでもちゃんと設定で読ませるところがあって、文庫化されてもちょっと上に行きそうな予感がした槻影さんの「堕落の王」(ファミ通文庫)。サラリーマンから魔界へと転生した主人公らしき人物はもう長い間居室から出ずベッドからも降りないで寝転がってばかり。けれどもそれでもその怠惰ぶりが認められ、怠惰の魔王になってそれなりな配下も得て、大魔王配下の魔王たちの中でも3番目くらいの地位になってしまったから周囲は呆然、配下も唖然。じゃあはったりなのかとうとちゃんと実力もあるみたいだから面白い。ただそれを仄めかしつつ決して抜かず、抜いたら終わりの伝家の宝刀としているところに読む人をいったいどうなってしまうんだろう、いったいどれだけのものなんだろうといった興味で引き付ける。

 暴食の魔王が攻めてきて、それに配下の強欲と色欲を司る臣下たちが挑んだんだけれど結構な強さを持ってはいても相手が舞魔王クラスだとやっぱり勝ち目はないのか、食われる寸前にまで追い詰められたところに現れた怠惰の魔王。出たくもなかったけれども引っ張り出されてそれでも眠気を抱きながらも片手でちょちょいと暴食の魔王を退け沈めてしまうんだからいったいどれだけ強いんだ。チートな魔王が最後にでてきてすべてをまとめるだけでも読み応えはあるけれど、そこに至るまでのほかがどれだけ強く、けれども別の誰かがさらに強いといった強さ比べをしっかり描写しているから、最後の魔王のとてつもない強さも引き立つ。でもってそんな強いけれども引きこもり気味な魔王をどうして彼女は動かせるのか。そんな魔王を大魔王はどうして重用するんだ。等々の謎めいた部分もしっかり残して次への関心を誘う。気がつくと転生していたなろうで人気の物語と、帯にあったりするだけでそっと棚に戻しがちななところがあるけど、読んだからには続きはちゃんと追っておこう。


【12月28日】 そもそもfripSideが神奈川県民ホールでカウントダウンライブをやることが決まっていた訳で、そこに入ってきた紅白歌合戦へのμ’sでの出演がスケジュール的にキツかったってこともあるだろうし、それに加えて膝の方が悪かったりしてμ’sとしてのダンス混じりのパフォーマンスを遠慮していたこともあって、カウントダウンライブがなくても出場しなかった可能性はあったりすると考えるなら、南條愛乃さんが紅白歌合戦へのμ’sを辞退してfripSideのカウントダウンライブに出演することを、妙だとも不思議だとも考え無い方が良いのかも。激しいダンスとかなくこなした後、養生をして東京ドームでのラストライブでμ’sとしてステージに立つことを、今は最大の目標にしていることをきっとラブライバーも分かっているだろうから。それがラブライバー。僕はライブライバーじゃないけど。アニメ見たことないんだよ。

 そうかなるほど、公務員として杓子定規であることが、後になってああいう風に効いてくるとはちょっと意外だったけれども面白かった、峰守ひろかずさんの「お世話になっております。陰陽課です」(メディアワークス文庫)。京都市役所にあって表には出ていない部署に配属された新人職員の火乃宮祈理。別室というところにその職場はあるそうで、行ったらなぜか見つからずそして戻り橋というところで目に見えない脅威に襲われた。腰を抜かしてもうダメだと諦めたところに現れたのが五行という青年で、術を駆使してその影を退け、自分は陰陽課に所属していて祈理もそこの新入職員だと教え、そしてパートナーになった2人して京都の町に現れる妖怪、というか今は異人と呼ばれる存在に絡んだもろもろを解決していくという。

 そこで大きくクローズアップされるのが祈理の杓子定規な堅物ぶりで、採用試験でも公務員規則やら理念やらをとうとうとまくし立てる変わり者っぷりを見せたほど、公正で公明な公務員であることを目指そうとする。その割に配属された陰陽課は存在が組織表に載っていないくらいの妙な場所。調べれば明治時代から続く規則には載っているんだけれど、長い歴史の間に付則がいっぱいついてどれが正しい仕事でどれが間違った仕事なのかが分からない。だったらとそれを全部読み込むくらいの杓子定規ぶりを発揮する祈理。五行もやれやれと思いつつ、規則だけでは引っ張れない不思議な事態に祈理を巻き込みその中で祈理もだんだんとその仕事が持つ意味を知っていくという。

 そんな先、陰陽課が取りつぶされそうになり、五行の不思議な正体も暴かれそうになって祈理は迷う。これで普通の市役所職員として仕事ができるようになる。けれども必要とされていた陰陽課がなくなると異人たちが困るし混乱も起こりそう。いったいどうする? って辺りに人は変わるものだという様子が見える。同時に、祈理が超堅物だといったイメージを周囲に強く与えていたことが、瀬戸際だった陰陽課と五行の存在に光明をもたらす。そのあたりの段取りが巧いなあと思わせるのだった。これで一件落着となり、そして関係も改まった祈理と五行を中心にして、京都市を中心に起こる異人たちのドタバタが描かれていくことになるのかな。五行の正体はまだ広くは知られていないようだけれど、これが露見した場合に何かが起こるのかな。そんな興味もあるんで続きに期待。祈理が見鬼の才能を持っていたことに何か理由があるのかにも。

 これは驚いたというか、ある意味では当然というか、河野談話とか村山談話あたりから、日本が韓国の慰安婦問題について国なり軍なりの関与を認めつつ責任も感じつつ、国家賠償はすでに終わっているので別の形で支援を行うというスタンスは、一応はずっと継承されて来た。歴代内閣もそれを口では尊重するといっていたから、筋としてどこも曲がってはいなかったんだけれど、問題は、そういう筋を政府として蔑ろにはしないといいつつ、口でもって日本に責任はなく軍の関与もなく強制連行どころか広義の強制性すら存在せず、慰安婦自体がいなかったといった言説をまき散らす与党議員が現れ、それを後ろから押すような学者とか新聞とかも出て来たのを、諫めもしないで半ば放置することによって政府として、あるいは国として過去をなかったことにしようとする雰囲気を漂わせ、それを国民に信じ込ませようとした。

 それに危機感を覚え、怒りも見せた韓国の反発が1990年台にひとまず集束したかのように見えた慰安婦問題を再燃させたのが、今へと続くゴタゴタだったとするなら、ここでいったん時間を巻き戻し、ネジをまき直して河野談話の頃くらいまで認識を遡らせ、なおかつ長い混乱で積み上がった鬱憤も晴らすような言葉なり、態度を見せて事態を収めようとしたのが、今回の日本と韓国の外相どうしによる話し合いであり、それをやるように支持した日本の安倍総理と韓国の朴大統領との間での了解点ってことになるんだろう。結果、安倍総理の周辺で吹き上がっていた、強制連行も強制性もなく軍の関与はあっても良い方向だけで慰安婦は自分から臨んで性の商売を始めた人であって日本に一切の責任はないといった言説は否定され、それを言ってくれる総理だと縋って讃え持ち上げていた理由を失った。つかみ所が消えたというか。はしごを外されたというか。切って捨てられたというか。

 自分では総理という立場もあって言えない気持ちを、代弁してくれる存在として重用して周囲に置いて言わせ叫ばせていたのかも知れない。学者にしても新聞にしても、そういう意識を忖度し、総理大臣という最高権力者のお墨付きを得たも同然と飛ばしまくっていたのかもしれないけれど、こうやって外交の場で公式に、堂々と責任を認め謝罪もした以上は今後、そうした言説が周囲に漂うことすら合意への逆行と見なされ、相手につけこまれる隙を与えかねないと認識して、排除にかかるんじゃなかろうか。それが出来てこその合意ってことなんだけれど、それを本気でやられたら困る新聞とかも出て来そうだなあ。編集委員とか論説委員とか寄稿者とか総動員して否定論を繰り出してた訳で。振り上げた拳の持って行き場をいったいどうするのか。言ってきたことの責任をどうとるのか。ちょっと気になる。

 それとも過去の言説なんてなかったことにして、安倍さんは正しい安倍さんは格好いいという礼賛でもって誤魔化すんだろうか。それはとてもジャーナリズムとして真っ当な振る舞いとは言えないんだけれど、元より嘘をついていたってセクハラ的なコラムだって、裁判でそう認定されても訂正しないまま言論の自由のために戦ったんだとアピールし、元総理が福島原発の事故で何か指示したってことが本当はなかったにも関わらず、あったと主張し続けそれでもしつこく訂正を求められると、当時は取材しても分からなかったんだから仕方がないじゃないかと開き直って失笑を買う。そんな新聞が真っ向から否定して止まない河野談話の時点に経ち戻り、より強化された外相会談を通した声明となった状況でも、これまでどおりの意見を通して合意への非難を続け、総理から見切られるなんて真似をするとは思えない。手のひら返してお追従。そうなるかなあ。それでは読者が離れると過激なスタンスを維持し続け、リベラルを取り込み始めた安倍総理から極右とみなされパージされるかなあ。ちょっと見物。


【12月27日】 そうだ等々力に行こうと思い立ち、近所のコンビニで皇后杯決勝のチケットを探したらメインスタンドとかはもう売り切れ。まあでも見られれば良いかとバックのSA席のチケットを買ってから電車を乗り継ぎ武蔵小杉まで出てそこからバスでとりあえず、2度目となる川崎市民ミュージアムでの江口寿史さんの展覧会「KING OF POP展」を見る。同じ月内なんで展示は変わっていなかったけれど、何度見ても良いものは良いというか、1980年代的な可愛さを持った女の子達のイラストがあったり、「ストップ! ひばりくん」とか「すすめ!パイレーツ」の原稿が見られたりして長いファンとしては隅々まで楽しめた。雑誌で読んで爆笑した、メーテルが寝ててエーテルが煮えてる漫画の実物が見られるとはなあ。生きてて良かった。

 眼鏡女子とワイン女子が描かれたコーナーを何度も行き来してしまうのはワインだったら主題としてのワインをどう女の子と絡めるのかっていった試行の結果が絵になって現れていて、最高のボディスタイルを持ったファッショナブルの女の子たちが近景遠景さまざまな位置から様々なポーズによって描かれていてグラビア写真を見るよりも引き付けられる。絵じゃないかって声まるだろうけど、人の限界までした来られない写真と違って絵は究極の理想をそこの現出させられる。そうやって描かれた美少女たちが目を引かない訳が内。

 眼鏡女子の方はもう眼鏡っていうアイテムが強力すぎて心にズドンと突き刺さる。中でもあれはビキニの水着か何かを身につけたうつぶせになて上半身を起こした眼鏡の女の子のどこかユルさも漂うバストの形が生々しくて、何度も繰り返して前を通って眺めてしまった。触れたらどんな感じだろうか。ブラをとったらどういう風に垂れ下がるんだろうか。等など考えるときりがなくなるんだけれど、そういう想像を惹起させるくらいの生々しさを持った絵。そこが江口寿史さんの凄いところなんだろうなあ。これって画集に入ってたっけ。買ったけど貴重なのでしまってしまったのだった。引っ張り出して眺めるか。

 そして川崎市民ミュージアムからとことこと同じ公園内にある等々力競技場へ。いつのまにかメインスタンドが巨大になってた。というか前はバックスタンドめいていた部分を改めてメインに改装した感じ。これなら観客として応援に行っても楽しめそうだけれど、応援しているジェフユナイテッド市原・千葉がこの等々力でJ2へとたたき落とされて以降、来る機会がないから仕方が無いのだった。来年こそは。いや再来年からか。そんな等々力にびっしりの人。1階はおよそ座れる感じがなかったんで、バックのSF席の後方、センターラインの延長線上に陣取り立ったまま出てくる選手を見たり試合を眺めたりする。

 凄かった。そして素晴らしかった。澤穂希選手。いうまでもなく日本の女子サッカーを支え引っ張り世界へと導き、ワールドカップで頂点へと連れて行ってくれた、女子サッカーに限らず日本のサッカー界、そしてスポーツ界における最大級にして最上級のアスリートだけれど、そんな選手がこれで引退となる最後の試合、そして皇后杯の決勝という大舞台でやってくれた。決勝ゴール。1対0という最小得点差におけるゲームの決勝点を、今日が最後という澤穂希選手が奪って所属するINAC神戸レオネッサを皇后杯の優勝へと導いた。もう引退というからには、体力だって技術だって限界に来ているはずだろうに、そんな選手が若い人もいたりするチームの中で1番走り、1番守り、1番戦いそして唯一の得点も奪って見せた。これを凄いと言わずして何を凄いと言う? これを素晴らしいと言わずして何を素晴らしいと言う? そんな活躍ぶりだった。

ラストゲーム、そこで奪うゴール、偉大なり  普通はあり得ないだろう。歳も歳だから途中で交代したって不思議はない。これが最後だからとベンチスタートから、記念のように出場させてもらえるのがやっという選手になっていたって不思議はない。それがもうギリギリの試合で出場機会を与えられず、ベンチで最後を見届けるようなことがあったって不思議じゃないのに、澤穂希選手は今なおINAC神戸レオネッサの中心選手として中央の底に君臨し、右に左に走り回って相手の攻め手のことごとくを摘み取る。抜けてこられても体を張って足下に飛び込んで攻撃を止めて反撃へとつなげる。そして得点。コーナーキックからのボールを誰よりも高く飛び上がり、ベストなポジションへと割って入って頭を合わせてゴールにボールをたたき込む。

 もはやというより確実に中心選手。そのパフォーマンスなら来年も再来年も中心選手であり続けられるのに、引退というのは惜しいとしか言い様がない。どうして止めるんだって声がこれでまた強まるだろう。けれどもやっぱり、そこは世界の頂点を極めた選手だからこそ、今のパフォーマンスでは全盛期に届いていないという自覚もあるのだろう。国内では戦えても世界の檜舞台ではもう前のようなパフォーマンスを見せられないなら、ここで退き後進の台頭を呼ぼう。そういう思いからの引退なら、あとは後輩たちが目一杯の活躍を、見せてその不在を埋めて欲しいんだけれど、今日の試合を見ている限りそういう選手はなかなか出て来なさそうなんだよなあ。こんなに選手層って薄かったっけ。違う、やっぱり澤穂希選手が偉大過ぎたんだ。そして僕達は明日から、澤穂希選手のいないサッカー界を歩んでいく。どうなることか。どこへ続くのか。いずれにしても見守っていこう。そのたどり着く場所を。

 そうか高橋教之さんは音楽から離れて運送屋さんになっていたのか。トラック運転手もやり営業所長にもなってと、サラリーマンとしてはまずまずだけれどそれを置いてもREBECCAのメンバーとしてステージに立つことはやっぱり嬉しかっただろうなあ。ずっと思っていたっていうし。というかREBECCAなんてバンドでベースを弾いていながら音楽の現場で食べていけないっていうのはなかなか大変。親とか家族の面倒も見なきゃっていうこともあったんだろうけれど、それくらいの時間はともかくお金なら稼げないものなのか。スタジオミュージシャンとなりツアーメンバーとなって365日、どこかで楽器を弾き続けるのも腕前以上に根性もいりそう。それを思うとルーティンで毎日をこなせるサラリーマンはやっぱり気楽な稼業なのかも。でもバンドメンバーはやっぱり違う。それもREBECCAなら。ってことで戻ってきたけどこれからどうするんだろう。再結成もどこまで続くか分からないしなあ。レコーディングとかするのかな。ライブは。ちょっと様子見。それが忙しくなると今度は是永功一さんが梶浦由記さんとかkalafinaとかに携われなくなってしまうから。うん。


【12月26日】 ふと見ていたらAmazonのプライムビデオに「ガールズ&パンツァー」が全話そろっているのが分かってついつい見てしまうという事態に。このシリーズなら7月から9月にかけてテレビ放送されたのを録画してあるんで見ようと思えばいつでも引っ張り出せるんだけれど、いつも使っているパソコンで文字とか撃ちながらSNSとかやりながら、ちょろっとブラウザを立ち上げアクセスして流し見ることができるとやっぱり、いちいちテレビ前に言ってディスクを入れて見るのが面倒になってしまう。画質はそりゃあ良くないけれど、すでに見知ったアニメのストーリーを改めて追いながら面白さを噛みしめるのに、画質なんて実はそれほど関係ない。そういうユーザーを狙いつつ、ちょい体験してみようっていうユーザーも獲得しつつ、幾つもあるAmazonプライムの価値を高めていってさまざまな方向から会員を増やすという戦略。プライムミュージックの時も思ったけれど、やっぱりそれが強さって奴なのかもなあ。

 そんなAmazonが「お坊さん便」をマーケットプレイスとして扱い始めたら、なぜか仏教界からそれはダメだとAmazonの方に抗議がいくという。お布施というのは本来僧侶の方から求めるものではなくって、戒名を与えたり読経してくれたことに有り難いと思った人が、慈悲の心をもって財を施すという行為のひとつであって決して何かの対価ではない。だからネットなんかで値段を付けて販売するのはもってのほか、ってことなんだけれどちょっと待て。これってもともとみれんびという会社が「お坊さん便」というのを立ち上げ、ずっとネットで提供していたものを、もうちょっと使いやすくしようとAmazon上の決済システムを利用できるマーケットプレイスに出したものに過ぎないんじゃないのか。

 「お坊さん便」ではメールで依頼してやって来た人にお金を手渡しするという形で、それがAmazonでは事前に決済という風になっているだけなんだけど、その違いがあるいは宗教というものにとっては大きな問題になるのかも。ほら課税の問題とかがあるから。これまでの「お坊さん便」では値段は出ているけれどもそれは目安で、手渡しやら銀行振り込みの差異にお心遣いといった形でそういう値段に落ち着いたんだって言い訳も効く。でもAmazonのマーケットプレイスだと、出ている値段がそのままで、決済したらあとは払わないから一種、定価としてそれが売られていることになる。仏教界としてはそれはやっぱり拙いと思ったんだとしたら、何だた上っ面だけ取り繕った虫の良い話だなあと思うのだった。

 Amazonが持つログインとか支払いの機能を活用させる「Amazonログイン&ペイメント」のサービスがどんどんと広がっているのは、それが便利で明快で使いやすいから。それによってサービスが伸びて売上げも立つなら出前だろうとお坊さんだろうと良いじゃないかと思うんだけれど、心情的、そして税制上から引けない部分もあるんだろう。面倒な話。ユーザーとしては使いやすい方、そして有り難い方に落ち着いて欲しいけれど。注文すると倉庫にならんだ真空パックされたお坊さんがピックアップされて送られてきて、水で戻すと読経をしてくれてそれにお布施を渡して帰ってもらうととか。どこの電撃ネットワークだよ。

 前に何か取材したことがあったかなあ、キングオブコメディ。その直前にキングオブコントで優勝したか何かして、いつかの事件の呪縛もとけていよいよこれからって感じだったんだけれどそれから何年経ったっけ、見る機会も増えて中堅の域に入ってベテランの風格も漂い始めていたところで事件が勃発。警察によれば20年以上前からの常習でそして600着とな70袋とかっていったコレクションまであったそうで、これはもうある種の病気としか言い様がない域に入ってた。前の冤罪とされた事件はだったらどうなんだ、って声も出そうだけれど不起訴ならそれは関係ないってことで、だとしても現実に判明したこの事件は再起不能のダメージを与えてしまうことになるだろうなあ。残った1人は俳優としての活動も目立ち始めているし、しばらくはそっちで行くのかな。あるいは復帰ということがあるのなら、きっぱりと病的ともいえるその性向を治して出て来て欲しいけれど、どうなんだろう。治るものなんだろうか。そこが気になる。あとどこの制服がお気に入りだったのかも。

 割と感じていたのは「KARATEKA」「VITAMIN」「DRAGON」「ORANGE」「A」といった辺りで、あとは「ポンキッキーズ」にピエール瀧さんが出ていたこともあって面白いことをやりつつカッコいい音楽も作る人たちだなあという認識で見ていた程度の電気グルーヴだったけれど、その25年以上に及ぶ活動を振り返った大根仁監督による映画「DENKI GROOVE THE MOVIE? −石野卓球とピエール瀧−」を見に行ったらもう全体に電気だった。あるいは電気そのものだった。ってここで電気と略すことだって桑島由一さんに言われるまで気付かなかった程度の人間なんだけれど、それでもたっぷりと電気グルーヴというバンドの総体というものに浸ることが出来た。

 映画を見ればここに並べた「VITAMIN」「DRAGON」「ORANGE」「A」といった辺りで音楽的にものすごい変化があったしバンドとしての葛藤なんかもあったし事務所の消滅にマネージャの逃亡、そしてレコード会社との軋轢なんてものもあって上がり下がりが激しかった時期だと言える。歌もののコミカルさも批評性も併せ持った楽曲をラップで繰り出すバンドから、アシッド・リヴァイバルの影響をモロかぶりしてテクノを進化させた「VITAMIN」「DRAGON」あたりへの変化が今へと至る電気グルーヴを形作っているとも言えそうだけれど、その変化を「VITAMIN」ではまだレコード会社も受け入れられず、「N.O」っていう歌ものの名曲をラストにボーナストラック的に入れさせて、それが諸々の感情を生んだとも言える。

 そしてさらにビートを効かせた「ORANGE」が当たらず時期として最悪だった時でも負けてたまるかと踏みとどまったところが凄いというか性根が据わっているというか。そして作った「A」であり「Shangri−La」が爆発的なヒットを読んで音楽業界的な電気グルーヴの位置ってのを認めさせた。とはいえそれすらもう20年近く昔の話。当時大流行していた音楽の今、いったいどれだけ残っているかを考えた時にこのバンドが踏みとどまりつつ踏み越えてきたものの多さであり、形作ってきたものの大きさって奴を強く感じさせられる。それが何かを言えるほどくわしくないのが残念だけれど、とにかく凄いとは言っておく。2014年のフジロック、最大のステージのヘッドライナーが登場する直前のステージに現れて、DJブースに石野卓球とサポートが1人だけというシンプルさの中に、ピエール瀧がひとり現れ飛び跳ねるだけですべてが一色に染まる、その存在感たるや。大トリのファンすら飲み込むパワーとパフォーマンスはやっぱり世界に冠たる存在の証なんだろう。少しまとめて聞いてみようかなあ。とりあえずPV集を買って見流すのが良いかなあ。

 やっと読めた天羽伊吹清さんの「迫害不屈の聖剣錬師(ブレイドメイカー)」(電撃文庫)が面白かった。マキナなる異形の敵に迫られた人類。稀代の精錬師が打った武器だけがマキナの女王を倒せるものの、それを血統から打てたはずの精錬師に不調があって打てず、人類はマキナの女王を倒せないまま勇者を失うのと引き替えにマキナの女王を眠らせてしばしの膠着状態に。そして人類は打てなかった精錬師とその息子のジュダスを人類の敵とばかりに批難。そんな運命を背負った割に、ひょうひょうと生きているジュダスは、マキナを倒せるだけの武器を作れる精錬師を養成する学校に来て、優等生の少女の反発を食らいながらも戦闘の実力は見せて居場所を得る、

 出生に秘密があるというその優等生のイルダーネとか、東方の島国がマキナに滅ぼされ1人逃げ延びた皇子とか、今いる国の王女とかとも学校内でいっしょにチームみたいになっていくジュダス。迫るマキナとの戦いに備え無能ながらも剣を作ろうとするとするけれど、当人にはなぜかそういう才能がないため先は見えない。ただ不思議ととてつもない力は秘めている。それはどういう理由からか。そもそもジュダスの母親はどうして本来の力を発揮して、強い武器を精錬できなかったのか。ジュダスが受け継いでいる力はどうしておおっぴらにしてはいけないのか。そんな謎が解明され、ジュダスが力とそして武器を手にマキナに対峙するまでが語られていきそう。ジュダスが知り合う3人がそれぞれに事情を抱えていて、それが明らかにされつつお互いの秘密にしつつ、3人はそれぞれに秘密を知らないような関係性から生まれる誤解とか競争とか嫉妬とかいろいろ楽しめそう。次はいつ出る?


【12月25日】 なんというか朝日新聞、筑摩書房が前から時々やってた全集とかの時限再販による割引価格での販売に、一般の書店だけでなくAmazonも参加してフローベールとかいろいろな全集類をよそとも同じ20%オフで売り始めている話をひっくり返して、Amazonがやろうと画策している本の値引き販売に、筑摩書房が1社だけ乗っかってフローベール全集とかを20%オフで売ってもらっているって話に仕立て上げつつ、出版社のAmazonへの警戒感が未だ根強く、そして書店側でも村上春樹さんの本をひとつの書店が仕入れて取次みたいに全国の書店に回すような防衛策を採り始めているよって話に仕立て上げている。

 もう完璧に最初にストーリーありの記事。Amazonが本の割引販売をし始めている、ってことを書きたくて、だったら現実Amazonで値引き販売しているところはあるのか、って探してあるにはあったけど、それは時限再販でのフェアを行っていた筑摩書房だけ。けれどもそういう事情を後回しにして、割引販売している状況だけを取り上げほらありました乗っかっている出版社が1社だけって雰囲気に仕立て上げている。そりゃあ筑摩書房も怒るよな。いわゆる再版破りとは違ったバーゲンブック的扱い。それもどこもイーブンな取引をしている話が足抜けしたみたいな扱いにされちゃあ、書店界隈からの反発だってあるだろうし、他の出版社にだって示しが付かない。

 だから即座に抗議もしたみたいだし、朝日だって受けて最初の記事にはなかった、Amazonが筑摩の作に乗ったってことを書き加えているけれどでも、同じ文脈で筑摩書房が参加した、というのとAmazonが参加した、といった感じに主従が逆転してしまって奇妙な文章になっている。普通だったらとても通らない記事だけれど、見てくれを整えるためにそうしてしまった。さっさと謝って訂正を出せば良いのに、そうしないのは何かプライドでもあるんだろうか。それにしても不思議なのは、そうやって作ったストーリーに乗せても、抗議されて痛い目に会うって朝日の記者とか分からなかったんだろうかってこと。

 捏造とまでは言えないけれども、こうやって反発を食らってそれが大きく喧伝されることによって落ちる評判は凄まじいし、受けるダメージも計り知れない。記者たちだってそういう記事を書いてしまったことで将来を棒に振るかも知れないのに、その場しのぎとばかりにやってしまうのは執筆する側の考え方に問題があったのか、デスクなりがイケイケと尻を叩いて無理矢理に書かせたのか。間に入って事情関係を確認する校閲なんてのも機能しない状況が、なぜ生まれたのかってのを検証しないと同じ間違いがまた起こるだろうなあ。なんてことを、間違いだらけの剽窃捏造に溢れた記事ばかりが載ってるとある媒体から、約4万キロほど離れた場所にいる人間が言える話でもないか。まあとっくに評判なんて地の底だから良いんだけれどね。やれやれ。

 評判倒れついでいにいうなら、そんな媒体が出していていたおしゃれなタブロイドとやらがいよいよもって来年3月で休刊とか。20代とか30代の新聞を読まないそうに向けてニュースのダイジェストとかを届けつつ、そうした層が関心を持ちそうな情報を並べることで最初はそれなりに部数も稼いでいたようだけれど、途中から新聞作りをする人の趣味が全開になって1980年代のおしゃれな文化芸術方面を尊び40代50代くらいしか興味を持たなさそうなトピックでもって埋め尽くし、20代30代にとってまさに自分たちにとっての文化中心とおいえるオタクだとかサブカルだとかを徹底的に排除してしまった。あと本紙のネトウヨ化する記事をそのまま引っ張り載せてたりもした。そりゃあ読まないよ20代も30代も。

 前は載ってたアニメーション監督へのインタビューも漫画の情報もアニソンやら声優やらのトピックもゲームの情報も玩具の新製品も載らないで、どうして20代30代が読むかっていうの。それを言ったところで50代がかつて経験してきたオシャレな文化を絶対視するマインドを改められるはずでもなかった結果として、じり貧へと至りそして休刊に。もったいないなあと思う一方で、そういう差配を任せてしまった以上は仕方が無いのかもなあと思うしかないのかも。そういうところだから。でもって新聞をひとつ潰してしまったという事態に誰か責任をとるかというと、誰もとらないところもこれまでと一緒。その無責任体質がタブロイドだけじゃなく全体を衰退に導いているっていうのになあ。やれやれ。次はタブロイドのビジネス紙あたりが消えてなくなるかな。いっそまとめて売られてしまってドナドナとか。はあ。やれやれ。

 ライトノベルのミステリを探そうと、積んであったはるおかりのさんの「後宮詞華伝」(コバルト文庫)を夜に一気に読んだら面白かったよとてつもなく。書は人を表すものなのか。中国の明王朝あたりをモデルにした中華風の宮廷に1人の女性が嫁ぐことになった。名を淑葉という女性は19歳というその当時では遅い婚姻になったのは、父親が迎えた継母のいじめによるもので、実母譲りの書好きだったにも関わらず文房具を取り上げられて書くことを許されず、粗末な部屋をあてがわれて過ごしているうちに表情も固まり感情をあまり表に出さなくなった。現皇帝の叔母の家に手伝いに出されていた間は、それでも持っていた書の腕を活かして代筆などをこなしていたものの、あることがきかっけに能書の才が消えてしまい、家に帰されていたところをなぜか皇帝の兄という夕遼の妻として迎えられた。

 いったいどうして自分が。本当だったら夕遼は淑葉の妹・香蝶をめとりたかった。彼女が代筆したらしい叔母からの手紙に書かれていた字にひと目ぼれを下から。けれども皇帝が裏で何か画策したのか、やって来たのは姉で無愛想な淑葉。才能をなくしてからは文字を書くことを許されず嫁入り道具に文房具も持たされなかった彼女に夕遼は文化を愛する気持ちを感じず邪険にしていた。5カ月が立てば離縁するとも言い、絶望にうちひしがれていた淑葉だったが、彼女が庭に枝で書いていた詩文に夕遼が目をとめたところから転機が訪れる。書に親しまない無教養な女性には書けない文字。そして詩文。それだけ才がありながらどうして書に勤しまないのか。前にあった才能はどこにいってしまったのか。

 裏にあったひとつの企み。それを口外できない術をくぐりぬけて暗号のようなやりとりを夕遼とかわすことで、淑葉は自分の本来持っていた能書の才を取りもどす。そこはややファンタスティックな展開だけれど、口に出せないことを暗号によって伝える方法、そこにあった1000年前の書を知り今の書にあてはめては、何が鍵かを探り出すという推理もあってミステリとしてのニュアンスを漂わせる。話が進んで能書と認められ、自分に届いた叔母の手紙を本当に書いたのは淑葉だと気付いた夕遼が、彼女を本当の妻として意識して以降の展開で、皇帝の寵姫が身ごもったのを付け狙う陰謀が繰り広げられ、その寵姫に不義密通の嫌疑がかけられる。

 ここでも鍵となるのが書。外からその姫に恋文を送っている男がいて、その男が姫から受け取ったとされる書があって、それがまったく姫が書いたものと同じ筆跡だったことから強まる疑いだったけれど、書にくわしい淑葉の研究によってその手紙だ誰によって、どうやって書かれたかが明らかにされて嫌疑が貼らされる。手紙のトリックに挑む探偵物のニュアンス。さらにその裏側で動いていた皇帝による自分の権勢を高めるためのある謀略。サスペンス的な要素も浮かんで後宮という一筋縄ではいかない場所で、自分を保って生きていく大変さが浮かび上がる。中華風の恋愛物語をメインにしながら、書を鍵にした事件を描き解決を描くミステリでもある作品。詩歌にこめられた思いを暗号として読み取り謎を解く展開もあって楽しめる。必読の1冊。

 声は打楽器であり、声は管楽器であり、声は弦楽器であり、声は鍵盤楽器であり、そして声は声である。声さえあればあらゆる旋律を奏で、あらゆる言葉を乗せて高らかに、遥へと送り届けることができる。声の凄さ、その凄いが重なり、寄り添い、連なった時に現れる空間の凄まじく美しい様を目の当たりにした。kalafinaのライブ、Bunkamuraオーチャードホールでのピアノとストリングスのカルテットだけを従えてのパフォーマンスに、声というものが持つとてつもなさを突きつけられた。ドラムが刻むビートはなく、ベースが支える底もない。ギターが彩る空間もなく、静かにピアノの旋律が置かれるように響き、ストリングスのカルテットによるせせらぎのような環境を整える音場の中を、3人のkalafinaが時にお互いに支え合い、時にひとりの突出に従うようにして声を発し、曲として奏でてその場に音楽の大気を作り出す。優しい音楽、静かな音楽、伸び上がる音楽、跳ね回る音楽。様々な音楽を3人の声が奏で、そこにピアノの音が乗り、ストリングスの音が重なって荘厳にして圧巻のパフォーマンスを繰り広げる。

 バンドに支えられたスタイルに勝るというわけではない。劣るということもない。ただ、バンドとのアンサンブルによって作り出された声と楽器の溶け合った巨石のような音場とは違う、声という可能性の塊があらゆる方向へと三次元的に広がって作り出す音場に、ひたすらに感動した、そんなライブになっていた。普通ならビートとサウンドの負けじと張り合い見せるパワフルな楽曲が、声というものの可能性を第一に考えられてアレンジされ、次から次へと繰り出される。聞いたことのある楽曲のきいたことのない雰囲気から漂い羽ばたく声というものの華やかさ、力強さ、煌びやかさ。wakanaの澄んで響く天上の声、keikoの底から鳴って全体を支える地母神の声、そしてhikaruの生命感に溢れ人の欲望ものぞかせる生々しさ漂う地上の声が重なり、ぶつかり、代わる代わるに現れ作られる音場と、音楽を耳にすれば、あるいはもう楽器などいらない、声さえあれば良いとすら思わされる。

 それは正しくもあり、間違ってもいるけれどひとつ、そういう世界があるのだということを知らしめる意味はあった。煌びやかさ煌びやかさ聞けばまた、こういうkalafinaも見ていきたいと思わせるピアノとストリングスだけを従えたライブが来年、繰り広げられるという。朗報にして僥倖。いつものkalafinaのアクションもある音の圧力に身を委ねることとは別に、こんなKalafinaのこんなだけで作り上げる音の、旋律の、言葉の大気に身を委ねてみてはいかがか。強く勧める。絶対とも言おう。広がるkalafinaという音楽に、いざ触れよ。そして思え。声の凄さを。


【12月24日】 ニュアンス的にはすぐに同じ背番号「8」を背負うには選手のプレッシャーも大きいだろうから、次に渡すまでにしばらく間を開けるってことだけれど、それでなかなか匹敵する選手が出てこないと、永久欠番にするのも止む無しってことらしいINAC神戸レオネッサにおける澤穂希選手が背負った「8」の取り扱い。サッカーで永久欠番って現役の間に亡くなってしまった人を偲ぶ場合が多いけれど、でも例えばA.C.ミランでバレージ選手が背負った「6」は永久欠番になっていたり、ナポリでマラドーナ選手が背負った「10」も欠番状態が続いていたりと、レジェンド級ならないでもない。そして日本の女子サッカーのおける澤穂希選手というのは、レジェンド中のレジェンドであって、その背番号が欠番になっても仕方が無いかなあ、という気もしないでもない。

 それが長く所属した日テレ・ベレーザで着けていた背番号「10」でないのは気になるけれど、ベレーザくらいに選手層も分厚いチームな、ら後からどんどんと巧い選手も出て来ては、先輩たちに追いつき追い越そうとして頑張っていたりする。そこで目標のひとつとなる「10」を欠番にしておいては、かえって道を塞ぐという考えもできるから永久欠番にはならないだろう。これがINACの場合は新しいチームでそこに移籍して来て「8」をいう番号を与えられ、そこからチームを常勝チームへと育てていった存在だから意味が違う。一体となっているとも言えて、そこから伝統を始めるには存在として大きすぎるかもしれないと考えると、しばらく冷却期間を置いて悪いことはない。ただ、いつまでも澤穂希選手の次が出てこないというのは女子日本のサッカー界にとって問題なんで、すぐに跡を継いで軽くその影を払拭するようなスター選手が生まれて欲しいもの。誰かいるかなあ。

 そんな澤穂希選手の引退は12月27日になった様子。皇后杯の準決勝でベガルタ仙台レディースと戦って見事に勝利し、決勝へと駒を進めた。3位決定戦がないから負ければ終わりのその現役。ちゃんと勝って最後まで動き続けるところにもレジェンドっぷりが窺える。ここで対戦相手が日テレ・ベレーザだったら因縁も感慨も膨らんだんだけれど、ルビレックス新潟レディースとの戦いで同点のままPK戦となって敗退してしまった。残念無念。向こうも澤穂希選手のいるINAC神戸レオネッサを倒して、なでしこリーグも含めた2冠を達ししつつ先輩を送り出したかっただろうけれど、勝負ってのにひいきはないから仕方が無い。というか新潟も今年は強かったからなあ。その勢いで決勝も勝ってひとつの時代に幕を引いて頂きたいもの。どうしようかな決勝。寒いけど見に行くかな。

 しばらく前から探していたけれどもなかなか見つからず、今日も映画のコーナーに寄ったけれど置いて無くて、これはマイナーすぎるから仕入れないのかなあと思い退散しようとした新宿タワーレコードの、もしかしたらと立ち寄ったアイドルのコーナーに展開されていた映画「世界の終わりのいずこねこ」のDVDを無事購入。映画自体も良いけれど、K’s Chinema で上映されていた時に冒頭についた渋谷のWWWでのいずこねこさんによるラストライブの映像が、60分にわたって収録されたDVDがついているのが初回特典の素晴らしいところ。さっそく見て確か流れた「rany irony」とそれから「nostalgie el」を改めてみて、特異な楽曲とそれをアクションともどもこなしてうたういずこねこさんのパフォーマンスに改めて、今はもういないアイドルなんだという残念さが浮かぶ。

 こういうのはだったら現役の時にもっと応援しておけば良かったじゃないかという声とも表裏一体で、言われれば確かにそうなんだけれどあらゆる方面にアンテナなんて張っていられないのが限界のある人間という生き物。気付かないうちに生まれてそして消えていった存在を、ふとしたきっかけで知って残念がるのも仕方が無いとここは思いつつ、そんな残り香が漂いつまった映画として「世界の終わりのいずこねこ」を見ることができて、その中でライブ活動の一端にも触れられたことをここは自分としての満足にするしかなさそう。こうしてDVDに収録されたことで、ラストライブからほぼ1年が経った今、その軌跡に触れることができるのも何かの巡り合わせと思い、映画を見逃した人はこの際にDVDを買い、そこでのライブ映像を見逃した人はおまけのライブ映像を見て、いずこねこというアイドルがいたことに、いまいちど心を向けてみてはいかが。

 来年3月でもって古館伊知郎さんが「報道ステーション」のキャスターを降板するとかで、お疲れ様といいつつ久米宏さんから古館さんになって以降、そのどこかその型にはまりすぎたもの言いから漂う大仰さとか上っ面で言っているなじゃないの感が苦手で、あの時間にあの枠を見なくなったなあと思いつつ、次に誰が座るんだろうと想像する一方で、その言説に反発をしてスポンサーを降りた高須クリニックの高須克弥さんが、古館さんが降りた原因にそのスポンサー降板があたったとするなら、それは悪いことをしたので次に誰か別の人が座ったら、スポンサーに復帰すると言ったという話を得々と書いているスポーツ新聞とかがあって腰が砕ける。

 だって高須さんのこの言葉は、それが真っ当であるかどうかは別にして、古館さんという人が繰り広げていたひとつの言論に対して、自分は気に入らないからスポンサーとしてもう金を支払わないと表明することで、圧力をかけたかもしれないってことでしょう。実際にそれでテレビ局が困って、古館さんを降ろそうとする方向に動いたのを察知して、じゃあ降りるとなったのかは分からないし、古館さんが察して降りたのかも分からないけれど、そういった金で言論の自由をひっぱたくような状況があったかもしれないって可能性に対して、これは拙いよ、言論の自由に対する経済面の圧力があったかもしれないよといった議論にまるで発展させず、何か古館さんと高須さんの間にある個人的な遺恨めいたものに収斂させてしまっているのが気になるというか、気に入らないというか。

 外国の要人にたいしてセクハラまがいの虚言でもってワルクチを書いて訴えられたら、言論の自由はないのかと大々的にキャンペーンを張った日本のメディアが、その妥当性はともかくひとつの言論として立っていたキャスターがいて、そのにンがもしかしたらスポンサーの圧力によって下ろされたかも知れないといった、言論の自由へのとてつもなくチャレンジぶるな事例に対しては、何の反応も示さないというこの矛盾。なるほど時の政権のプレッシャーで、ひとりのニュースキャスターが下ろされそうになっても、文句のひとつも言わないし、むしろ後ろから弾を撃つような国であり、メディアだ。そんな拙劣さが増し、報道の自由度がどんどんと下がり続ける今の日本のメディア状況の中で、火中の栗を拾って「報道ステーション」のキャスターの座に就くのはいったい誰になるのか。堀潤さんか。津田大介さんか。それはないかなあ、そして無難なところに収まるんだろうなあ。政権批判は下がり、翼賛かあるいはどうでも良いワイドショー的日常紹介が繰り広げられる。やれやれ。

 また間抜けのひとつナントカみたいに、ダグラス・マッカーサーは日本が自衛のために仕方なく戦争したんだとアメリカの議会で証言して、日本の戦争の仕方なさみたいなことを容認していた雰囲気を醸し出しているメディアがあって、しつこいというか辟易というか。さすがにいつもみたく「security」ってマッカーサーが発した言葉をそのまま」「自衛のために」と訳するのは無理だと感じていたのか、「もし原料供給を断ち切られたら1000万〜1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」といった具合に訳している。

 問題はその後。受けて地の文で「会場がどよめいた。証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる」って続けている。つまりはマッカーサーの言葉は言葉として、その解釈を「自衛」としているけれどでも、研究者の間でそれは違うんだってことが続く言葉から明らかにされているという。「マレー、インドネシア、フィリピンなど日本での製造に必要な原料を提供する国を、日本は事前準備と奇襲の利点により占領しました。日本の一般的な戦略構想は、太平洋上の島を外郭陣地として確保し、我々がそれらを全て奪い返すには多大の損失が生じると思わせることによって、我々に日本が占領地からの原料確保することを黙認させる、というものです」。

 そう続いたこの言葉が意味しているのは、封鎖によって日本は大変な状況に陥った、それを目下、封鎖状態にある中国にあてはめて、その戦略の正しさを証言しようとしたものであって、決して日本を擁護したものじゃないってのが、現在の一般的な説になっているのに、そうした前後の文脈を無視して、昔誰かが自己愛のためにそういった言葉を有り難く使い続けている。そのうちにそうだと信じる人が出てくるのが厄介だけれど、使っている方も今はそう信じ切っている節があって厄介さも増す。例え「自衛」のためだからって侵略が認められる訳でもなければ戦犯が身ぎれいになる訳でもないのに。そう言うことで何か自分たちの気持ちが和らぐのかなあ。いずれにしても鬱陶しい話。やっぱりやれやれ。


【12月23日】 風雲急というか、A案にとりあえず決まった新国立競技場の設計案だけれども最初の案に決まっていたザハ・ハディドさんがどうもその案は自分が出した改定案のパクリだと言い出していて問題化しそう。外面だけみるとどこがいったい似ているんだ? って思ったけれど、B案を出した伊東豊雄さんが「(骨格を)はぐと中身はザハさんの案とかなり近い」と言っていて、プロの建築家の目からだとそう見えるらしい。だったら当然に選考にあたった人にも分かっていただろうけれど、そこに突き刺さった森喜朗元総理の「B案」支持の言葉。あれでなんだと思ってA案に転がった人もいたと考えるなら、僅差での敗退があるいは逆転したかもしれない。罪深い爺さんだなあ。いやそれは問題ではなく本当に訴えられた時、それで強行するのか否か。今ならまだ引き返せるうちにそのあたり、はっきりさせた方が良いかも。初動を間違えると後に尾を引くのはザハ案でも、そしてエンブレムでも繰り返して来たことだから。

天皇誕生日。82歳になられた天皇陛下が会見で発せられたお言葉に「年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」とあって、素直に読めばあの戦争による犠牲を偲び、同じような災禍を招くことがないよう、世に呼びかけられたということになるんだろうけれど、戦争がしたいというか、先の戦争の敗戦をなかったことにしたい人たちは、十分に考えた上で戦争に負けたから良くないんであって、今度は勝つとか言い出しかねない辺りに、今の空気の不穏さが漂う。

 天皇陛下はしっかりと、軍人ではなく徴用された民家の船の船員たちが多く犠牲になったことにも触れられていて「輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います」と話され、そしてご訪問されたパラオについても、現地に歓迎されたとか日本軍は現地に配慮したといった美談を語られず、遺された不発弾の多さを上げて「この海が安全になるまでにはまだ大変な時間のかかることと知りました」と話され、そして「先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います」と、戦争が残した災禍にしっかりと触れられた。

 愛国とかを尊び、国体がどうとか言って支持を集める政治家たちならば、そんなお言葉に直立不動で耳を傾けるなりひれ伏して脳に刻むなりして、戦争へとこの国を向かわせるような愚策をさっさと取りやめるのが普通なのに、それはそれとばかりにスルーしては自分たちが心地よい感じになれるよう、戦争で負けたという悔しさを払拭し、戦争の中でいけないことをたくさんしたという罪悪感も綺麗さっぱりなかったことにしようと、過去の改編に勤しんでいる。どうしてこんな矛盾がまかり通るんだろう。どうしてこんなに自己愛に溺れるような人たちが上に立っては支持を集めているんだろう。やっぱり自分に自信が持てなくなっているからか。

 経済が滞って未来が見えず、娯楽にも楽しさを見いだせない人たちが最後に縋るプライドを、刺激してそそのかしてくれる言葉になびいてしまうのかなあ。景気さえよくなれば。でもそれを上に立つ人がまるで潰すかのうような施策をとる。もしかしたら支持を集めるためにわざと愚策を繰り出している? それはないだろうけど、自分たちの施策が愚策だと気づけないくらいに人は弱り、心地良い言葉に縋りたくなっているのかもしれない。そんな人たちにもっと届き、響いては心を変えてくれるくらいの熱い言葉を、だからといって天皇陛下に発して頂きたいとお願いするのも筋が違う。政治に関わらず自分を出さないことが務めとなっておられる天皇陛下のご意志を、誰が受け止め広げれば遙かに届くのか。報道か。その報道が弱まって自己愛の勢力に絡め取られている状況で、もはや向かうところに向かうほかないのかもしれない。嗚呼。来年はいよいよ終わりが始まるのか。嗚呼。

 表現の自由はどこまで自由なのかって問題は語るのになかなか難しいけれど、とりあえず何かを言うのは勝手だとして、それでも言ったことに対して責任が生じることもあるとだけは、誰もが理解しておくべきだろう。在特会が小平市の朝鮮大学校で行った行動に対して法務省が人権侵犯事件だと認めて、もうやるなと勧告を出したとのこと。ネットあたりで罵倒を繰り返しているならまだしも、面と向かって酷い内容の怒声を浴びせればそこに心身への危機感を覚える人が出ても不思議はない。言論にプラスされた行動に漂う暴力性を捉えて、それはもはや言論の域を超えた運動であると認識し、止めようとしたということになるんだろうか。だったらネットで罵声を浴びせるのは良いのか、出版物に罵声に等しい内容のことを書くのは良いのかというと、そりゃあ気分としてあまりよくないけれど、法律としてどこまで縛れるかといった問題が突きつけられる。

 例のシリア難民の少女が写った写真を題材にして、シリア難民はだいたいにおいて偽装難民だといわんばかりのイラストを作り、公開しては世界中から批難を食らったにもかかわらず、その後も在日特権なんてありもしないものを持ち出し、在日しようとか帰化しようといったイラストを発表しては、それらをまとめた本を出した人と版元を批難する集会があった。それに対してイラストをを描いた人は表現の自由を縛るものだから許されないと言ったとか。いやいや、そうやって反論をするのも表現の自由なんであって、それがぶつかり合うのを拒否したら、自分が言っていることに矛盾するんじゃないのか、って状況はそれとして、ヘイト的なことを書いて本にして出すのは確かに言論の自由は保障されていても、それが世間に流布されて良いかどうかといったあたりには、別の公徳心とか公共心とか良心といったものが乗ってくる。

 根拠不明なワルクチを堂々とまき散らすのは拙いんじゃなの、といった良識が普通は働き、誰か止めるなり版元が止めるなりして世に広まらないんだけれど、そういった枷が外れていたりするのが昨今の言論情勢。普通に考えれば人間として恥ずかしくてできないような言論を、それも自由だからといって発しては、自由という絶対に守るべきものを冒し、削り弱めている。そんな自殺にも等しい振る舞いの果てに来るのは、良くても悪くても言論が規制され管理されてしまう世の中。そうなってから言論の自由を言っても遅いんだけれど、思慮も何も働かなくなっているのが現状ってことなんだろう。普通だったらとても恥ずかしくて自分が書いたと言えないような、司法機関に虚偽だと認定されたセクハラまがいの文章を、言論の自由だからといって振りかざし、それが規制されそうになった裁判で勝ったことを、言論の自由の確立だと喧伝してしまえる人とか、媒体とかが大手を振って歩いているくらいだし。

 というか、それが媒体の1面トップに来てしまうこの不思議。恥ずかしいとかいった気持ちはないんだろうか。ないんだろうなあ。そこが自省の効かない媒体であるのは仕方が無いとして、嘘を書いてセクハラしたような文章を、それでも言論の自由は大切だからと擁護しなくちゃならなかった他の媒体のジャーナリストと呼ばれる人たちは、今いったいどんな気持ちでいるんだろう。言論の自由は守られたけれど、それにつけても本当に守るべき言論だったのか、いややっぱりそれでも守らなければ、いつか自分たちの真っ当な批判にも跳ね返ってくるから仕方が無い、とはいえその象徴としてあんな文章を掲げられては、俺たちジャーナリストの沽券に関わるから、中身については思いっきり批判しておかないと、なんてことになるかと思ったらまるでならない。そこまで護送船団が行き届いているのかあの業界。共倒れていく可能性は大きそう。やれやれ。

 ダイバーシティ東京あたりで昼食をとってからヴィーナスフォートの横にある観覧車の真下辺りに位置するお台場カルチャーカルチャーでグッドスマイルレーシング2016年体制発表会があったんで見物。毎年どんな初音ミクが出てくるかが注目されているけれど、今年が姫騎士だったのに対して来年はどうやらフェニックス、不死鳥あたりがモチーフになりそう。募集してたのが春先だから別に意図してじゃあないだろうけれど、今年のこのチームはドライバーズポイントが11位でチームポイントが8位といった感じになかなか悲惨な状況。前年がドライバーズポイント1位でチームポイント2位だった関係で、連覇と吹き上がっていたのが粉砕されてしまっただけに、ここからの不死鳥のごときの復活を託すにはちょうど良いキャラクターになったかも。おかげで青とか緑といっったミクらしさはあんまりなく、赤とかオレンジが目立つけれど何をまとってもミクはミク。頑張ってチームを燃やしてやってくださいな。ファイアー。


【12月22日】 A案に決まったらしい新国立競技場。誰が設計したかというと隈研吾さんらしいんだけれど、他に何を作った人かと問われて巨大なモニュメント的な建築物があんまり思い浮かばないだけに、これをもって世界にいよいよ名を知られる建築家になるか気になるところ。とはいえデザイン的に斬新をはちょっといえず、柱に木とか使われ森にとけ込んだようなデザインは、あり得るものといえばあり得そう。これが前に挙がっていたSANAのデザインだったらもうちょっと、森に沈みつつふわっと漂うなデザインになっていて世界にその存在を喧伝できたんじゃないのかなあ。そこが残念。あるいはザハでも世界に喧伝はできたんだけれど、元のアイデアが不可能な上に手直しされたアイデアがつまらなすぎたから没で正解。そう思うとまだマシなものになったって思うしかないのかな。ライブって開けるんだろうか。

 クールな背景をキュートなキャラクターがキャッキャしている表層の印象があったりする西島大介さんが、実はとってもラディカルな物の考え方でもって漫画とかを描いているのは何となく感じとってはいたけれど、それがいったいどういう思考の元に描かれているのかを、自分で考えるのも面倒だった時、役に立つのは良き理解者というか批評家というか。そんな感じに西島大介さんを大解剖するイベントが、五反田のゲンロンカフェで開かれたんで見物に。2人でよくイベントなんかもやっているさやかわさんが、これまで「ユリイカ」なんかに描いてきた評論をまとめた評論集「キャラの思考法 現代文化のアップグレード」を出し、そして西島大介さんも10年前に出した「土曜日の実験室 −詩と批評とあと何か」を文庫化して出したんで、その合わせでもって2人が本を語り合い今を語るといった内容だったけれど、だいたいにおいてさやわかさんの突っ込みを西島大介さんが受けて広げて繋げていくようなトークでもって4時間があっという間に過ぎていった。

 内容についてはあまりに膨大すぎて覚えていないけれど、印象に残ったことは10年も前に出た本でありながらも、「真夜中の実験室 −詩と批評とあと何か」は実に現代の状況をも捉えてその益体の無さを衝いていたってこと。当時は911の余韻もあって行われていたサウンドデモなんかを取り上げつつ、自分はサウンドデモに言ったことがないと突き放し、そしてアニメ「マクロス7」の熱気バサラの熱さが必要なんじゃないの、とかいった言説を繰り返し描いていた跡が残っている。これって今のテクノでDJなSEALDsによる国会前デモにも言えることで、どこか格好良さを狙っていてもそのスタイルに修練されてしまって本気って奴が後退してしまう。どうせやるなら本気も本気、格好良さとか見てくれとかかなぐり捨てて喉からシャウトで叫び歌えばもっと伝わるかもしれないのに、それをやらないで世間的な格好良さに安住してしまうところに、当時も見て今も見られる欺瞞なんかが浮かび上がる。なるほど確かにそんな気配、あるものなあ。

 どうやら西島大介さんは取り繕って妙な言葉を連ねて周囲を煙に巻こうとするような言葉、本質を語っていない上っ面だけの言葉に欺瞞を覚えて憤る感じがあるみたいで、東電が東日本大震災の後で原発の状況を語る言葉に新味を帯びて中身の少ないものを連ねてきたことに、感じた虚ろさって奴を音楽ユニットの相対性理論が所属していたインディーズレーベルなんかの言葉にも感じたらしい。メンバーチェンジなんかがあった際だかに、メインボーカルのやくしまるえつこさんを捉えて「コンセプター」と位置づけた言葉が、どこか上っ面を取り繕うもののように思えたらしい。どんな言葉を連ねたってバンドとしての雰囲気はなくなり、やくしまるえつこさん中心のユニットに変化したんだなあって印象が浮かぶんだけれど、それを違う言葉でふわっと言ってみたというか。僕とかそれで良いじゃんと思うんだけれど西島大介さんの感覚にはそこに引っかかりがあるらしい。

 ようするに欺瞞的なものが嫌いというか、裏にある企みめいたものに反発を覚えるというか、そうまでして格好良さを維持しようとする態度の格好悪さというか。そういったニュアンスでもってあらゆることに対峙しているってスタンスが、さやわかさんとの長い長いトークの中から見えてきて、投げやりでクールで冷めていてそれでいて熱さものぞく西島大介さんの描くものとか書くもに対する、こちらとしての読み方ってものが見えてきた、そんなイベントだった。当人とはそれこそ15年とかそんなくらいの長さで見知っているけれど、散発的で深く考えたことなんてなかったからなあ。改めてそれを聞いてから過去の著作を読むと何か分かるかな。「凹村戦争」とか「アトモスフィア」とか読み返してみようかな。

 さやわかさんの方も「キャラの思考法 現代文化のアップグレード」(青土社)でもって、いわゆる批評家としての立場をこれで打ち出せるようになったというか、今までの著作はなるべく持論というより状況からの蓋然性を持った道筋を並べ示すといった作業に徹していた感があって、ゲーム史について語っても自分の熱さとか趣味とかをそこに入れることはなかったし、AKB商法について語るときもそれを自分はAKBが好きだから許容するとか嫌いだから否定するといったこともなく、そういう状況があるのならそれもひとつの音楽業界でありアイドル業界名のだといった立ち位置で、状況を解説することに腐心していた。自分を出さないという立ち位置は、そこに取捨選択の主体はあっても、全体としては俯瞰的な総体として読めてしまう。

 でも「キャラの思考法」は違う。「ユリイカ」の特集号で降られたさまざまなポップカルチャー的アイコンなり作品なりテーマに対して、自分なりの軸線を引いて語ってみせた主体性を持った文章ばかり。なおかつ連載時より中身を変えて「キャラ」という1本通ったテーマに寄り添うように改めてあるから、読むと様々な作品に対しての批評であると同時に、キャラといったものへの批評なんかも浮かんで来る、かもしれないけれどそのあたりはこれからじっくり読んで考えよう。しかし初音ミクでも安倍吉俊でも細田守でも何でも与えられて良くあれだけくわしく書けるものだという印象。それぞれにどれだけの資料を集め映像を見て漫画も読んでみせたのか。

 それらはざっくりとした印象を書くだけではない、分析して思考して位置づけて解釈する批評のための準備運動を、しかりとやっていなくては書けない文章ばかり。見て印象を書いてそれで良しな自分とは違いすぎる資質に、改めて経緯を評したい。安倍吉俊号には僕も書いていたなあ、そういえば。あの時から批評のための体力作りをちゃんとやっていたんだなあ。それで今がある。今後はサブカルにくわしい人ではなく、状況を踏まえ深掘りもして時間線の上に位置づけられる批評家として、立ち走って行って欲しい。時評とかの仕事を頼む新聞社とか、出てくるかなあ。さやわかという名前がいけないというならさや・わかでも良いと思うけどなあ。とり・みきみたいで。

 参ったなあ。そりゃあ言論に対して最高権力者が刑事事件で訴えて、出国まで禁止したことは決して褒められたことじゃなく、そのことに対して司法が無罪の判断を下したことは当然と言えば当然過ぎる。ただ、だからといってその言論が果たして真っ当な言論と言えるものだったかどうかは別の話で、司法から虚偽だと認定されて当事者もそうだと受け入れた以上、その人物は虚偽を満天下に広めたってことが確固たる事実として認定された。なおかつ中身も決して上品とは言えない下世話な話。あるいはセクハラとすらとられかねないゴシップを、世に喧伝してこの嘘つきめと批難された人間を、一国の総理が官邸に招いて言論の自由のために戦ったと讃える状況が、果たして健全かどうか考えた時にいろいろと迷う部分もあったりする。

 もしも恥を知るならそんな褒められることではないと、自省し身を引くものだけれど周辺も含めて一切の自省が見られず、未だ虚偽と認定された言葉を世にまき散らしているから何ともはや。誰か止めたり諫めたりしないのか、不思議で仕方が無いんだけれどそれを言いたくても言えない空気が満ちあふれているのか、言おうと思い浮かばないくらいにその周辺では虚偽でも相手を誹られるならそれは正義だといった感覚が蔓延し、恥とかいった観念にまるで至っていないのか。分からないけれども周辺以外の全体は、だいたいそういう認識に至っているからひとり浮き上がった、あるいは沈んだ言論めいた誹謗の言葉は、遠からず言論の空間から拝されていくだろう。それがこの世にまだ真っ当な言論がある証だから。それともすでにそんなものは無くなっているのか。ううん。ううん。頭が痛い。


【12月21日】 もういったい何が起こって誰が出ているのか分からなくなって、投げたくなる人も多数出ていそうな「ONEPIECE」を横目に分かりやすさ抜群の面白さを見せてくれている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は、擬人化をテーマにして戦艦やら何やらが擬人化されて大人気となっている話が繰り広げられていたんだけれど、そこで取り上げられていたのが「金剛」。それも「艦隊これくしょん −艦これ−」ではなく「蒼き鋼のアルペジオ」の「コンゴウ」の方で、あの両津勘吉をして「金剛といえば」で浮かぶ姿として取り上げられている。いやあ有り難いというかやっぱりコンゴウ様の美しさに両さんといえども跪かずにはいられないというか。

 ちなみに「島風」で浮かぶのはやっぱり「艦これ」の「島風」で連装砲ちゃんもセットで浮かぶ模様。一方で「霧島」といえば「ヨタロウ」とこれまた「アルペジオ」から。そんなあたりに両さんの「アルペジオ」ひいきがちょっぴり見て取れたりする。前に「金剛」ではなく「コンゴウ」の戦艦も作っていたみたいだしなあ。でも戦闘機の擬人化では「ストライクウィッチーズ」は上げられていなかったし、電撃が始めた「戦闘機少女クロニクル」もまだ挙がっていなかった感じ。野上武志さんの「紫電改のマキ」が挙がっていたけどちょっと知らないなあ。まあこの辺も草刈り場となって次を狙った企画がいろいろと出てくるんだろう。「ガーリー・エアフォース」は戦闘機というよりジェット機だから埒外かなあ。ちょっと残念。

 週が明けて出て来た週末の映画興行の成績によると「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」は動員が100万人を超えたそうで興行収入も3日間で16億円を超えて過去最高だったら「千と千尋の神隠し」の初週を上回ったとか。もちろん今年最高ってことは土曜日に封切りされた「映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!」も上回っているてことになるけれど、2日間だけだとどっちに軍配が上がったかはちょっと不明。そして2日間の動員では「妖怪ウォッチ」の方が上だったみたいで、土曜日封切りという「スター・ウォーズ」特殊性をどこまで勘案して1位か2位かを決めるのがちょっと面倒ではあるけれど、ようするにどちらも爆発的だった、ってことは確かだろう。記録的な映画が1度に2本生まれたっていうか。

 それが映画の世界にとって悪くはないことで、超ヒットが目指せる作品が同じ週末にぶつかったとしても、ターゲットがちょっと違う作品なら共に人を呼べてそして共にヒットできるってことを証明したって言えそう。中学1年生あたりで最初の「スター・ウォーズ」に行った身としては「妖怪ウォッチ」のファンにも「スター・ウォーズ」を観て欲しい気はあるけれど、小学生も下の方が中心だろうから無理は言わない方が良いかな。むしろその親たちがこの週は子供に付き合って「妖怪ウォッチ」を観て、次は子供を付き合わせて「スター・ウォーズ」を観るような行き来が生まれれば、さらにともに大きく伸びていくのかも。海外でもアメリカ国内で238億ドル、世界全体だと517億ドルってとてつもない数字を出していたし、これは歴史に残る大ヒット作品になるのかな。でもだんだんと勢いも落ちて並の映画に止まるのかな。そんな当たりにも気を向けながらもう数回、観に行って日本の興行成績に貢献しよう。とりあえず日本語吹替版を観なくっちゃ。

 ビアンキといえば今の世代だと箱根学園でエースアシストをやってる荒北靖友あたりが浮かびそうだし、僕の世代だとツール・ド・フランスであのベルナール・イノーと激しい戦いを繰り広げて2連覇を果たし、ジロ・デ・イタリアも制してさらなる勝ち星が期待されたもののこれまたあのグレッグ・レモンの台頭もあってグランツールの勝利から遠のいたローラン・フィニョンが浮かぶけれど、そうした世代の間にあって1990年代後半、流行始めたロードレーサーに興味を持ってそれと共にツール・ド・フランスに関心を持つようになった人たちだと、やっぱるマルコ・パンターニの顔が思い浮かぶんだろうなあ。独特の禿頭に髭を生やしたちょっぴり怖そうな顔。走れば山岳ステージを圧倒的な強さで駆け上がって平地での遅れを大逆転してしまう選手の活躍ぶりに、引かれツール・ド・フランスに見入った人も少なくないかもしれない。

 ミゲル・インデュラインとかヤン・ウルリッヒといったどこか精密機械っぽい選手たちのパワフルな走りとはまた違って、精悍さと荒々しさを持ったマルコ・パンターニの走りにアウトロー的な雰囲気を感じて惹かれた人も少なくなかったようで、漫画家でアニメーション監督の大友克洋さんとそれからイラストレーターの寺田克也さん。アニメーション監督の北久保弘之さんが「クラブ・パンターニ」ってのを作って自転車に乗りつつそのことをリレーコラムに書いていたのを「電撃アニメーションマガジン」で読んでたなあ、当時その雑誌で書評のコラムを2年ばかり連載していたこともあったんで、毎号をしっかり隅々まで眺めてて、ちょうどそのころあまりツールに目を向けていなかったこともあって、マルコ・パンターニが旬だってことを知ったんだった。

 そのままインデュラインみたく、あるいはイノーやレモンのように連覇を続ける偉大な選手になっていくのかと思いきや、時代はそのままランス・アームストロングの時代へと入ってその中で名前を聞かなくなってしばらく。2004年2月14日にコカイン中毒か何かで急逝したって話が伝わってきて、何があったんだろうと思ったものだった。そして今、新宿シネマカリテで上映されている「パンターニ 海賊と呼ばれたサイクリスト」というドキュメンタリー映画を観てパンターニに1990年代の終わりから2000年代にかけて何が起こっていたのかを知ることが出来た。

 それはとてもとても哀しくて悔しいことだった。ひとつには時代がドーピングというものに厳しくなっていたこと。その視線の中でステロイドのような禁止薬物では無く、当時はまだ違法とされていなかった血液ドーピング的なことが問題視され、それも直接の嫌疑ではなかったけれども疑わしきを糾弾する風潮の中で激しく誹られたことに、パンターニの見た目とは違って繊細でそして自転車競技に真摯過ぎる神経が痛めつけられてしまった。ジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスを制して現時点まで最後のダブルツールを達成した選手となりながらも、翌年の1999年のジロ・デ・イタリアで最終ステージ直前に血液検査が引っかかって退場させられたことが最後まで尾を引いた。

 参った神経の中では走れずツール・ド・フランスは出場を見送り沈滞。翌年には出場を果たしてステージ2勝を上げながらも、その年に後に剥奪されるものの一応の優勝を果たして“7連覇”を果たすランス・アームストロングから山岳ステージで手を抜いたようなことを言われ、それが原因かは不明だけれども胃けいれんで途中棄権してしまう。以後、主要なレースに復帰することなくコカインに溺れそして……。映画を観るとドーピングの噂を払拭して、選手として立ち上がろうとしていたパンターニに汚い言葉でとどめを刺したのがランス・アームストロングらしいと思えて、選手時代の外面としての偉大さとは真逆の、人間としてどこか壊れたところがあったランス・アームストロングならではの逸話をそこに感じてしまう。

 というか、ドーピングを疑われても知らぬ顔で過ごし、逃れられないとなったら認めつつそれのどこが悪いと開き直りすらしたランス・アームストロングのサイコパス的な資質の少しでもパンターニにあったら、疑われても落ち込まずにすぐに復帰し、アームストロングの中傷もどこ吹く風と走り続けただろう。でもそれが出来なかったからこそのパンターニであり、その強さだったんだろう。とにかく走ることに純粋で、ペダルを回して坂道を上っていくことに真摯なパンターニが、力の源を否定され自分の行いを罵倒されてショックを受けない訳がない。もろさと紙一重の強さを持った選手。だからこそあれだけの熱狂を集めたんだろう。もったいない。でも一つの時代の象徴だったのかもしれない。

 知りたいのはだからジロ・デ・イタリアからの追放が、誰かに仕組まれたものなのか、ってこと。血液検査に不正はなかったか。賭けが後ろで動いてパンターニの優勝を阻止しようとする勢力が動いたのか。今となっては暴いても詮無いことではあるけれど、そこから始まったのならそこがまず、糾されるなりして欲しい。とはいえ後、ツール・ド・フランスで1998年に優勝した時には、2位のヤン・ウルリッヒとともにEPOという薬物を使っていたらしいとうことが、科学的に立証されてしまっているからなあ。ただし当時では“普通”だったし、1998年のツール・ド・フランスの優勝を剥奪されていない異常、その走りは本物だったと言って大丈夫。最後のダブルツールという栄冠は今も消えずその禿頭に輝き続けている。でもそろそろ誰か現れアームストロングの汚れた7連覇を塗りかえ、ダブルツールという栄光も新たに手にして欲しい。そうやって競技というのは進化していくのだから。


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