縮刷版2015年1月中旬号


【1月20日】 1980年までプレーしていたから、王貞治さんの一本足打法はテレビの中継でも見たし、中日球場(当時)に中日と巨人の試合を見に行った時も、ホームランを確か打った王さんの姿を生で見ているから、やっぱり一本足打法もこの眼で見ていると思うけど、記憶の中にあるそんな王さんの一本足打法は、構えてからすっくと1本の足で立って微動だにしないでボールを待ち、そしてボールが来てから足を踏み込み打っているような印象があった。でも実際にそんな王さんの一本足打法を今、テレビの録画映像で見ると、割とスッと上げてはバッと踏み込みサッと振って終わっているという印象。このギャップは写真なんかで見たその構えが、それ自体は静止画なのに動画として頭に擦り込まれてしまった現れなんだろう。

 だから、同じように一本足打法に挑んだ大豊泰昭さんの構えを、テレビ中継なんかで見た時は王さんに比べてちょっとあわただしいというか、一本足ではなくただステップが大きいだけで、構えも窮屈だよなあって思ってしまっていたけれど、実際に比べてみると実はあんまり変わってなかったりするような気がするし、巨人で王さんと同じ時代に所属していた山本功児さんなんかが見せていた一本足よりも、よほど王さんの一本足打法に近いことを大豊さんはやっていたって気もしている。父親の出身はともかく国籍的には中華民国となって、結果的に今の台湾にルーツがあるように思われている王さんにとって、その台湾から日本球界入りした大豊さんはやっぱり気になる存在だったんだろう。早すぎる死去にあたってもコメントを出して悼んでいる。

 そこで「結果は残せなかったが」って王さんは言っているけれど、1度なりとも本塁打王と打点王を取ったのならそれは立派に一流選手。通算安打も1000を超えててプロ野球選手としては成功した部類に入るんじゃなかろうか。だから引退後も親しまれていたんだけれど、前に煩い骨髄移植で完治したかのように思えた白血病によって死去。最初の奥さんを亡くしてはいても、その間に出来た娘が宝塚で同期の2番で音楽学校を出て今は星組で活躍してるひろ香祐さんだったりして、これからが楽しみだっただろうだけに惜しまれる。中華料理の大豊飯店とか経営もしていたりして、それが大豊ちゃんになって岐阜に店を開いていたりもしたんだけれど、これからどうなるんだろうなあ。気になるけれどもともあれ1人の野球選手が亡くなって、ちゃんと話題に上るというのはやっぱり選手として愛された証拠。その記憶を刻んでこれからも生きていこう。弟の大順さんは何やってるんだろう?

 元が勇者だとその力を魔王との戦いで対消滅させても、やっぱりそれなりに強いってことなんだろうか。そうなんだろうとしか思えない新木伸さんの新シリーズ「英雄教室」(ダッシュエックス文庫)は、まさしくそういう境遇に陥った元勇者が、自分はもう普通の少年いなったんだって自称して英雄を育て勇者を目指そうとしている生徒が集まる学校に転入するんだけれど、そこで最下級のクラスに入ったらそれこそ子供の頃から勇者やってた知識と経験が生きてしまって、テストでは満点を取り実技でも圧倒的な力を発揮してすぐさま上のクラスへと行ってしまう。いやだって力を失ったんじゃないのか? そして当人はまるで力が発揮できていないとも言っている。それであれだけの力なのか? って驚くけれども仕方がない、それが元勇者という存在なのだから。

 でもって主人公はこちらは頑張ってエリートを維持している少女とか、勇者製造計画によって作られた人造勇者の少女とかと知り合いになりながら、どうにかいっぱいのトモダチを作ろうとして頑張っている学園生活に、持ち込まれたのが幼いドラゴン。逃げ出したそれを生徒たちは抑えるのに苦労しているのを、元勇者はあっさりと拳1発で倒してしまったから周囲も驚いたしドラゴンだって驚いた。自分より上と認めて人間の幼女の姿になって元勇者を父親と慕ってまとわりつく。同時にもっとトモダチが欲しいと思うんだけれど、ドラゴンの本能が自分より弱い相手には従いたくない。じゃあどうする? そこで頑張る父親の元勇者……といった展開から向かう感動のストーリー。それだけやってどうして彼が元勇者だってバレないのか、そして恐れられたりしないのかって疑問はこれあり。きっと見えない聞こえない分からないオーラでも出ているんだろう。でもいずれ勇者の力を取り戻すはず。そうなった時に彼はトモダチいっぱいの少年でいられるか、って悩みも抱えながら進む展開に、ちょっと注目。

 ロビだロビだ、デアゴスティーニ・ジャパンが提供しているパートワークで、毎週組み立てることによって完成するコミュニケーションロボットのロビが、何と100体も勢ぞろいしてダンスパフォーマンスを繰り広げるってんで、丸ノ内ビルディングの1階フロアにあるマルキューブへと出かけていって見物する。いやあ100体、よく勢ぞろいしたよなあ、っていうのがまずひとつと、それからよくこんなに組み立てたなあという印象が1つ。だって1体に70週もかかるんでしょう? それを100体、7000週っていったいどれだけの時間だよ、ってそれはパートワークだからかかるだけであって、部品がそろえば1体それこそ数時間で組み立てられるんじゃなかろうか、いや知らないけど。

 あと100体の二足歩行ロボットがちゃんと集まり踊るのは世界でも初とか。ギネスに申請したかったけれど時間もなく断念。でも見たこの眼はその壮観さを強く記憶しているんでいつかこれを上回る1000体のロボットのダンスを見るまでは、世界一を見たんだと自慢して行こう。そんなロビを見てからお金もないので徒歩で大手町へと戻る途中(行きももちろん徒歩だ)で丸ノ内センタービスにある「舎鈴」で味玉ラーメンを食らう。六厘舎の系列か何かで、つけ麺が有名な店らしいけれどもどうも自分、つけ麺という奴が苦手で、大勝軒でもやっぱりつけ麺ではなくラーメンを選んでしまう。温くはあるけど熱さが足りないからかなあ、スープの味が濃すぎるからかなあ、まあいろいろ。舎鈴はラーメンも麺が美味しくスープも美味で、そしてリーズナブルなんでお金がない身には嬉しい。また寄ろう。

 2億ドルが数年前なら150億円くらいで済んだものが、今は240億円近いのは円安誘導した安倍首相の責任だ! ってそれはあまりに筋違いだけれどでもこのご時世、ホットな時期にどうして中東なんてホット過ぎる訪れて、相手を刺激するようなことをしたんだろうなあ、安倍首相。シャルリー・エブドの事件が起こる前から決まってはいたことなんだろうけれど、それでテロの当事者にされて神経質になっていたところに塩を擦り込むようなことをされて、相手だって黙っていられなかった、ってことなのかも。おまけに現地で大盤振る舞いなんって言っちゃうから、それなら俺達にだって金をくれても良いんじゃないの? って思ったというか。それはどうか分からないけれど、ISISによる日本人の人質殺害予告があって、前に捕まっていた湯川さんはともかく、そこに新しくジャーナリストの後藤健二さんが加わっていて驚いた。そういう情報、あったっけ?

 でもって政府の人たちが何か大騒ぎしているというのも不思議というか、後藤さんはともかく湯川さんなんてもう何ヶ月も前にISISに捕まっていた訳で、その解放に向けていろいろと交渉なんかをしていたんだったら、ここで急に殺害予告が入ったからといって驚き慌てて現地に人をやって情報を収集する、なんてことを言う必要なんてない。いや表には出ないところでずっとやっていたんだけれど、なかなか成果が出なかったって言う可能性ももちろんある。そんな努力が今回の政権側のパフォーマンスでパーにされて、一気に状況が悪くなったんだとしたら、それはちょっと困ったことのような気もするんだけれど、果たして官邸はどこまで情報を集めて情勢を見てたんだろう。そこが知りたい。思い出したように大騒ぎしているのは本当に忘れていたからなのか。政府はそうではなくてもトップはそんな可能性があるかなあ。あるいは知らないことにしたとか。ううん。いずれにしても無事に解放されることを願う。心底から願う。


【1月19日】 そうそう昨晩は実写版「THE NEXT GENERATION パトレイバー第7章」の上映に押井守総監督ではない各エピソードの監督3人と、それから主演で泉野明役の真野恵里菜さんが登壇して喋る「帰ってきたワカテの部屋」ってのを見てきたんだけれど、これがもう転げるくらいに面白かった。監督3人だけだとお互いを仲良く罵倒し合うか、あるいは押井さんへの悪口を言い合うかになってしまうところに、真野ちゃんが結構な毒をぶっかけその言でもって3人の監督たちをのたうち回らせていてゾクゾクとした。ああいう性格だったんだ真野ちゃん。ただのアイドル上がりの女優さんではなかったよ。

 とりわけ毒が及んでいたのが湯浅弘章監督で、「THE LONG GOODBAY」とか「鉄拳アキラ」とか真野ちゃんを可愛く撮って評判のエピソードを手掛けながらもその真野ちゃんから、「タイムドカン」がワーストエピソードに選ばれのたうちまわっていた。でもこれも聞くと真野ちゃんがしっかりと自分の演技を考える役者さんだからこそ起こったぶつかり合いが理由って感じ。爆弾魔によって追い出された特車二課の面々が、そとでのんびり過ごしている中で泉野明がスイカ割りに臨むシーンがあるんだけれど、そこで真野さんは、シナリオにあったように、熱中しているスイカ割りの後で電話がかかってきたのを誰かに告げることがあるんだろうか? って考えたらしい。

 それはない、って思ったけど湯浅監督にすぐには言えないで悶々とした真野さんは、塩原佑馬役の福士誠治さんとも相談して話を変えることにして、それで丁々発止とやったことが時間を押して見ている人をハラハラさせたといったこともあったらいし。そいうした経緯があったことが、作品を見返そうとした時にちょっとこれは思い出したくないかも、って気分を真野ちゃんに与えてワーストエピソードに選ばせた、ってことなんだろう。役者として苦さが詰まったエピソードって意味でもあるのか。逆にベストに選んだのは田口清隆監督の「クロコダイル・ダンジョン」やったね田口監督!

 真野ちゃん曰く、とにかく楽しかったとか。実はロケの日に胃腸炎で苦しんでいて相当に厳しかったようだけれど、でも静かな演技ではなく、誰もがハイテンションな演技をぶつけ合いしのいでいく中で、症状を抑えて乗り切ったというからそれだけのめり込んだんだろう。だから後で見ても楽しい回になったという。そて泉野明としての目線で選んだベストエピソードも、やっぱり田口監督の「暴走!赤いレイバー」だとか。2冠だよ田口監督。このエピソードは、佑馬の早く撃てっていう指示を無視して泉野明が、敵レイバーに銃を向けてじっくりと撃つ場面に映る泉野明の顔が、本当に特車二課の泉野明になっているように見えたから、らいし。

 役者として客観的に見て、良い演技をしいいるというのが、実写版パトレイバーでも好きなエピソードになった理由とか。そういう話を聞くと、ちゃんといろいろ考えて演技しているんだってことが分かる。ちなみに本当に見ないのは押井監督が手掛けた熱海回だとか。役者たちが集まりご飯食べながらエピソードを見返した会合でも、熱海回はBGM的に流されたというから可哀想だけど、でも真野ちゃんにとってはあまり出番がない回だもんなあ。福士さんとしおつかこうへいさんはオタク談義のアドリブ合戦で盛り上がったから楽しいだろうけど。

 ワーストとベスト、2人の監督が名前を挙げられながらどっちにもひっかからなくって落ち込んでいたのが最年長の辻本貴則監督。いやいや僕的にはコンビニを舞台にカーシャが大暴れする「野良犬たちの午後」があり、そして昔の師匠を相手にカーシャがスナイパー合戦をする「遠距離射撃2000」があってと大好きなエピソードを手掛けた監督なんだけれど、どちらも太田莉奈さん演じるカーシャが主役で真野ちゃん的には脇だもんなあ、それが記憶から遠ざけられた理由だとしたら可哀想だけれど相手が悪かったということで。

 そんな辻本監督、「遠距離射撃2000」でロケハンに言って、ビルの屋上で前を見ながら後ずさりをしていた時に、あと1メートルで縁から落ちそうになったとか。誰かが声をかけて止めてくれたから良かったけれど、もし落ちていたら…。無事是名画ってことで。そんな3人の監督によると、最終エピソードとなった押井監督による「大いなる遺産」については文句はまったくないとのこと。それだけパト2が好きすぎるということらしい。劇場版もきっとそんな感じにパト2好き万歳な映画になるんだろうなあ。早く見たいなあ。

 そうそう、田口監督によれば「暴走!赤いレイバー」での真野ちゃんが福士誠治とアドリブで掛け合う食事のシーンは、点数にすれば60点とか。福士さんの味ある押しを受けて良い演技をしていたように思うけど、田口監督的にはもうちょい受けて食べ終わるまで行って欲しかったとか。でも途中で立っっちゃった。自分でもう保たないって思ったんだろうなあ。でもまあ、結果的に尺的にちょうどいい塩梅になったんで、そういうのも読んで行動できる役者ってことになるのかも。もうアイドルじゃないんだよ。それというのも「98式再起動せよ」で平均台の訓練をするシーンで、ジャンプして飛び降りて「なんちゃって」と言う場面、真野さんはカメラ目線になることが気になったらしい。

 辻本監督の回だけれど、そこで真野ちゃんは自分がアイドルに戻ったような気にもなったとか。そう自分を監督は見ている? なんて思ったりもしたそうだけれど、辻本監督が釈明するには、千葉さんによる訓練の過程を大声で守り立てる叫びも含めて、どこか漫画的舞台的戯画的な世界観にしたということで、その中で登場するキャラクターも自分をメタ化して振る舞うという意味合いから、ああいった演技を求めたらしい。それに不満があるというのは、演出の意識と演じる側の意識の差異があるってことで、それが埋まる場合もあれば結果としてよくなる場合もある。そんな丁々発止に身を置いて、あれだけの演技を見せた真野恵里菜さんという役者の高い意識を感じた次第。劇場版ではどんな演技を見せてくれるんだろう。楽しみだ。

 えっとあれは「ANIMAX MUSIX」の何回目だったっけ、登場したオリガさんが確か「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の楽曲を高らかに歌い上げたのを見たんだっけ、そんな歌声とはまた別に、21世紀に入ってベスト中のベストアニメと言えるなかむらたかし監督の「ファンタジックチルドレン」でエンディング「水のまどろみ」も歌っていて、聞いて巧さと深さを感じていたんだった。聞けば「アリーテ姫」でも歌っていたらしい、そんなオリガさんが急逝。44歳とまだ若いのにどうして? って気にもなるけれど人の運命は分からない。ただこうやって残された歌声たちがあって僕たちはそれに今も触れることができる。何かを作り生み出した人の素晴らしさ。僕もそうありたいと願いつつ、何が残せるだろうかと考えつつ偉大な先達を改めて悼む。合掌。そしてありがとう。

 想像するなら三部けいさん「僕だけがいない街」が去年の2位から1つ上がって1位となって栄えある「マンガ大賞2015」に輝きそうな気がするけれど、でもその衝撃的な内容と連載に至った経緯も働いて大今良時さん「聲の形」が選ばれそうな気もしたり。同じ作品ではないけれど、すでに常連ノミネート漫画家となっている東村アキコさんも「かくかくしかじか」で狙っているだろうし、内容の衝撃性で言うなら松浦だるまさん「累」もなかなかなの強さを誇りそう、って考えるともう誰が誰だか分からなくなるけれど、古手も新鋭も含めて漫画読みたちがこの人に是非会ってみたいという気持ちから、投票しそうなのが高野文子さん「ドミトリーともきんす」だろうなあ。「絶対安全剃刀」で「棒がいっぽん」で「るきさん」の人。ニューウェーブの旗手。その伝説の漫画家が受賞者となって登壇してくれたら……って思うけどでも、漫画は結構難しいんだ。漫画というか教科書というか。そんな革新性よりもやっぱりストーリーの熱さで竹内友さん「ボールルームへようこそ」に取って欲しい気も。難しいなあ。まずは読まないと。14作は多いよなあ。


【1月18日】 電通が50歳以上で、勤続10年以上の社員から希望退職を300人募るって発表して話題になったと思ったら、今度はKADOKAWAが41歳以上で、勤続5年以上の社員からやっぱり300人の希望退職を募るって発表して、メディア業界の結構な大変さって奴がひしひしと伝わってきて、メディア業界の端の端の端っこからぶら下がった蜘蛛の糸の末端に脚の小指で捕まっている人間として、いつプツンと糸を切られて身を奈落へと落とされるんだろうか、って不安も浮かんだというか、すでに諦めもついているというか。電通とかKADOKAWAならまだ待遇もそれなりのものを与えて退職させるだろうけれど、そういう余裕もなくなっているからなあ。逆にいうなら余裕もないから、新しく希望退職を募るってことが出来ないのかもしれないけれど。大金がかかるし。

 っていうか電通はいったい、幾らくらいを与えて辞めてもらうんだろう。はっきりとは分からないけれど、例えば退職金の割り増しなんかも込みで5000万円くらいを与えたとしてそれが300人なら150億円。えっと驚く金額だとはいえ、世界の電通に払えない額でもないだろう。3年も経てばスリム化の効果となって帰ってくるだろう金額だし。対してKADOKAWAは41歳だなんて働き盛りの中堅どころを切るんだから、金額もやっぱりそれなりにしなければ納得もしないはず。とはいえ電通とは比べられないだろうから、仮に2000万円するとそれで合計60億円。そんな金額をハイって出せるとも思えないけれど、それくらい出してもらわなければ辞めるに辞めれないというのも事実な昨今の経済状況。そして、れくらいの出費を覚悟しても今リストラをやらないと、明日が厳しくなるって予感があるんだろう。

 そう考えると、出版の未来もこれでやっぱり結構大変なのものなのかも。SFマガジンにミステリマガジンも隔月刊化になってしまうし。薄々分かってはいたことが顕在化したってことなんだろうけれど、それでも明らかになるとやっぱり気分がキツくなる。というか41歳以上で勤続5年で300人もの人がいなくなったら、KADOKAWAの上の方の人が根こそぎいなくなっちゃうってことにはならないか。編集長とかデスクとかそんなあたり。もちろん編集に限らず合併で重複が観られた販売だとか宣伝だとか総務だとかいった間接部門のスリム化を想定してのことかもしれないけれど、そうした部門だって書店との繋がりやメディアとの関係においてしっかりと、土台を持った人たちがいる世代がごっそり抜けるとやっぱり明日に響いてきそう。

 それでも敢えてやる、やらなければ変われないって判断だとしたら、これも厳しさの証明だけれど、同時に明日への希望でもあるって言える。どういう結果をもたらすのか。関心を持って観ていこう。こっちに何か影響が出るとそれはそれで大変だけれど。出るのかな。というか300人、辞めてどこに行くんだろう? DWANGOの方? それも大変そう、だってみんあ若いし。いっそだったら下放して全国に居るWalker47の地域編集長になってスマホ向け地域情報を提供する人になってもらえばよろしくてbyアントワネット、って書こうと思ったらつい最近、そのWalker47がWalkerplusに吸収されていたのだった。出来てまだ半年、橋本環奈さんを読んで盛大に発表したのになあ。地域発の情報は必要だけれどそれとマネタイズは出来ないってことなのか。観たことないし実際。まあここで切り替え出直して、ニコニコ動画みたいに大きくなっれば良いんだけれど。どうだろう。どうなんだろう。見守りたい、明日は我が身なだけに。すでに我が身だけれど。

 未だ確報めいたものが流れ中、それとは別件で何か書くことになりそうなので神保町へと出かけていって古書店で探したけれども「狼の紋章」「狼男だよ」のシリーズそれぞれの最初の1冊が見あたらず。仕方がないので並んでいた「狼の怨歌」とか「狼よ、故郷を見よ」「人狼地獄篇」「リオの狼男」といったものを買い、あとプロトタイプともいえる「悪徳学園」も買ってとりあえず様子を見ることにする。古本でなくても電子書籍で読むだけなら読めるシリーズだけれど、当時どんなことを後書きに書いていたのかってことがやっぱり重要になるんで仕方がない。もちろん全部、実家にはあるんだけれどしまいこんであるからなあ。「狼の紋章」は別に注文したんであとは「狼男だよ」か。流石に差し金が入っているバージョンはないだろうけど、文庫版なり単行本なりがあれば幸い。探してみよう締め切りまでに。何の締め切りだってばよ。

 神保町から日本橋へと回ってTOHOシネマズ日本橋で劇場版「PSYCHO−PASS」を見る。2回目。作品のことをほとんど知らないまま見た1回目とは違って、だいたいの世界観を勉強してそしてキャラクターの関係性も理解してから見たんで常守朱が公安局の局長なんかとどうしてタメ口で会話しているだとか、ハン議長と重なるようにドミネーターも喋ってそして、2人して常守朱に説教をかましているんだとかいったことの背景も分かって、そんな風に周辺からぎちぎちと追い込まれながらも自分を保ち貫き阿らず溺れもしないで仕事に励み続ける常守朱の鉄壁ぶりってのが際だって見えた。ありゃあ難攻不落だ。シュビラシステムだってマッチする旦那を見つけられないだろうなあ。だからこそ引っ張り込もうとしている? でもそんな人間としてある意味“不完全”なのばかりが直結されていては世界も歪むだろうに。ともあれそんな常守朱の鉄壁ぶりがどこまで保つか、ってのがこれからの楽しみになるのかな。続くかな。続くだろうな。売れてるし。

 やっとこさGyaoで見た「夜ノヤッターマン」は実に悲しくそして悔しい話だった。9歳の女の子がドロンジョになってそれをイケメン化したボヤッキーにトンズラーが守り立てる萌え系アニメかと思っていた、らまるで全然違ってた。地球を襲う隕石群。そして荒廃した地上を分断するかのように出来上がったヤッターキングダムと、それ以外の巨大な壁に遮られた地域。ネオン輝くヤッターキングダムを対岸に見ながら、多くの地は荒れ果てそこに暮らす人々は物資も食料十分に得られないまま暮らしていた。そんな世界に男2人を付き従えて暮らす1人の女性が、誰かの娘を生んで育てていたけどやっぱり十分に行き届かない物資。誕生日をお祝いしたくても、ろうそくを立てる場所のがケーキではなくあれはお芋だろうか、そんな慎ましい暮らしの中で体を病んだ母親は倒れ世を去る、娘と2人の男を残して。

 そして立ち上がる3人。母親の薬をもらいに出向いたヤッターランドで立ちふさがったヤッターマンから銃撃を受け退けられ壁を建てられ蹂躙されたことへの憤りは、正義は彼らではなく自分たちにあるとの理解をもたらし、決して武器弾薬が十分ではない身ながらも、ご先祖様に似た衣装で固めてさあこれからヤッターランド攻略だ、って感じで第2話へと向かうストーリーから想像できるのは、世界を支配する何者かの悪意と、それに対向しようとした一味の存在。過去に何か闘いがあって、それによって決した勝敗の結果、向こうとこっちで分かれた状況を、埋めて世界を平穏へ、そして次の時代へと導いていこうとする大きな物語になっていくんだろうか、それともやっぱり悪は悪だったと突きつけられる中で、迷いながらも自分の信じる正義のために闘い続けるんだろうか。分からないけれどもこれは傑作になりそうな予感。だから見ようGyaoで。だって映らないんだもんTOKYO MXもBS11も。

 そして公式に発表。「ウルフガイ・ドットコム」にて「平井和正儀、かねてより病気療養中のところ、平成27年1月17日、76歳を以て、永眠いたしました。長年にわたって皆様より賜りましたご厚情に心より感謝致します」との言葉も添えられて、その死去が公表された。まさしく巨星、堕つといった印象。SFの第1世代で言うなら御三家と呼ばれる星新一さん小松左京さん筒井康隆さんのうち、2人が既に亡くなられて日本のSF界にとって大きな損失であると同時に、それらの著作を読んで育った身として悲しくもあったんだけれど、でも、僕が本当にのめり込んで心底から味わい尽くしていった日本のSF作家の第1世代は、御三家ではなく平井和正さんだった。

 「ウルフガイ」であり「幻魔大戦」であり「サイボーグ・ブルース」であり「死霊狩り」であり「メガロポリスの虎」であり「超革命的中学生集団」であり「アンドロイドお雪」であり……って挙げれば切りがないくらいに浮かぶその著作を、中学時代からむさぼるように読んでのめり込んでいったっけ。人間のイドっていうか無意識っていうかそうした情念が、力となって爆発して燃え盛り、世界に向かって反旗の狼煙を上げるような物語たちは、まだ世界を知らずそれでいて世界に反発しがちな中学生の心を捉えて話さず、何か自分にもそんあ力があるんじゃないかと思わせ、反骨の気持ちを与えてくすぶらせてくれた。いわゆるヤンキーみたいに自分で力を外へと発散出来る人たちなら、そんな気持ちにはならないだろうけれど、真面目で弱くて口下手で内向的な人間にとって、情念で世界を変えられるかもしれない可能性って奴は、文字通りに光の導きに見えた。

 そんな光明は「幻魔大戦」で一気に広がった。ほぼリアルタイムで進行を追いかけられた作品でもあって、そこに描かれた何かよからぬ存在との闘い、それが出来るのは若くてそして選ばれた者たちだという設定に、自分もそんな仲間に加わって、自分たちを脅かす何かと闘うチャンスを得られるかもしれないという希望を与えてくれた。もちろんそれはフィクションに過ぎず、だから自分で切り開くしかないってことは一方で薄々とは分かりながらも、そうした他力本願的な支えを、自力の物へと変えて気分をポジティブにしてくれるバイブルとして、「幻魔大戦」のシリーズは大きな影響を僕らに与え、世間にも与えた。それが生み出したのがあの宗教団体だった、なんて話もあるけれどでも、真っ当な大勢はそうやって得た力を元に、今も自分には何かできるかもしれないと信じて生きて来た。それは今も確実に僕の、僕たちの心の芯となって息づき、歩みを続ける原動力にもなっている。

 そんな作家、情念と魂の作家、SF作家の平井和正さんが亡くなられてしまった。「ウルフガイ」のシリーズを今なお描き続け、そして「幻魔大戦」もつむぎ続けてきた現役の作家の死は作品のひとまずの終わりを意味する。それは悲しいかもしれないけれど、自分の中では「ウルフガイ」はノンノベルズのあたりでひとまず終わり、そして「幻魔大戦」は角川文庫の20冊でやっぱりひとつの節目を迎えている。東丈が戻らないままGENKENは彷徨い続けている、その彷徨いが30年経った今も続いているのが僕の心境。そこに新しい物語も世界観もない。だから悲しくはあるけれど、残念という気はあまりない。ありがとうございましたという感謝の言葉が浮かぶ。教えてくれてありがとう。導いてくれてありがとう。与えてくれてありがとう。そんな言葉を口に刻みながら僕は、僕たちは平井和正さんを送る。「ウルフガイ」は、「幻魔大戦」は永遠にある。僕たちの心に。


【1月17日】 青天狗。その演技がやっぱり今は、1番くらいに心に残っている。宇田鋼之介さんが監督した長編アニメーション映画「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」に登場した、山間部にある集落を守る神社の神主を務めている老人は、朝早くに境内に入って、カブトムシをとっていた子供たちが石碑に乗っているのを見つけて、血相をかえて大声を上げながら迫ってくる。その顔が青い。血相をかえているのになぜか赤ではなくて青いから青天狗。その時の怒って出した迫力ある大声と、そして夏祭りの直前、灯籠が完成したのを祝う宴席から外れたユウタが迷い込んだ居室で、ユウタを迎えて村に起こった不思議な出来事を訥々と話す、静かで重い声が少年少女を多く起用した映画にあって、世界に土台を与えて、物語を地についたものにしていた。

 大塚周夫さん。言うまでもなく「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男であって、地の底に這いながらも軽薄さと小ずるさを感じさせる声を出して、そのキャラクターを不動のものとした。そして「チキチキマシン猛レース」のブラック魔王として、やっぱり悪党でありながらも憎めないという、不思議な存在感を声によって醸し出していた。あとは「ルパン三世」の石川五エ門。一般には井上真樹夫さんのハンサムな声が知られているけれど、第1シリーズで大塚周夫さんが演じた五エ門は、ニヒルでありクールであってそして何より武士だった。もうすぐ刊行が始まるパートワークのDVD付き「ルパン三世」シリーズで、その演技に触れられると思うと嬉しいけれど、でももう新しい声は聞けないと思うと悲しくなる。

 2015年1月15日没。思えばほぼ1年前の1月17日には、星一徹を演じた加藤精三さんも亡くなっていたりして、昭和の時代のテレビアニメや洋画の吹き替えを演じた声優さんがどんどんと鬼籍に入られている。そうそう、「サザエさん」の波平役の永井一郎さんも、去年の1月に亡くなられたんだった。銭形警部の納谷悟朗さんに則巻センベエの内海賢二さん、真田さんの青野武さんと挙げればそれこそ枚挙に暇がないくらい、僕たちが名を知りそれより先に声を知った方々が、この何年かのうちに次々に亡くなっていくのは年齢を考えれば仕方がないことなのかもしれないけれど、でもやっぱり悲しいし、寂しい。そんなの訃報が例えば高倉健さんであり菅原文太さんといった俳優の訃報に比して、どれだけの重さで世間に受け止められているかということも、改めて気になって仕方がない。

 そりゃあ映画で大スターとして世界中を熱中させた俳優たちは凄いけれど、そんな人たちと並び、或いは上回るキャリアで俳優としても映画やテレビに出演し、洋画や海外ドラマの吹き替えやアニメーションの声を担当して、大勢の大人たちと子供たちを楽しませ、その子供たちとさらにその子供たちも熱中させたベテランの声優さんたちの業績は、単に懐かしい声だったなあって過ぎて通れるものでは決してない。それこそ国民栄誉賞が与えられて功績を讃えられてしかるべき人たちなのに、そういう可能性を発する人たちが政治やメディアの世界にどれだけいるかと思うとこれも寂しい限り。でも僕たちは分かっているし、大勢の人たちも知っている。だから騒ぎ嘆いて悲しみ寂しがっている。あの声で育った、この声こそがあの人だといった話題で盛り上がる。大塚周夫さんもそんな思い出語りの渦中にある。

 それがたとえ大きく広がらなくても、政治やメディアを動かさなくても僕たちはそれはそれとして受け止めよう。そして僕たちは僕たちでその業績をたたえ続けよう。幸いにしてその声は永遠に残っている。「ルパン三世」のパートワークは発売されるし、そうでなくてもパッケージ化されたものが残っている。テレビをつければ再放送で「忍たま乱太郎」が流れてきて、そこで昔も今も変わらなかった山田先生の声を聞ける。そんな声を聴きながら、そして記憶に残る声に思いを馳せながら、声の仕事で時代を作り、僕たちを作った偉大な声優の人たちの、凄くて格好良かったことを永遠に記憶し続けていこう。「チキチキマシン猛レース」とか再放送やらないかなあ、野沢那智さんのナレーションも聞きたいんだよなあ。

 そして大塚周夫さんの訃報を聞いて、やっぱり思うのはその声が強烈なキャラクターと結びついて記憶されながらも、次々に新しいキャラクターを演じてそして同じ声であっても別のキャラクターとしての存在感を与え続ける声優さんの存在。例えば納谷さん内海さん永井さん青野さん大塚さん等々、聞けばもうすぐにその声だと分かるんだけれど、だからといってキャラクターを邪魔していない。一体化している。でも今、そういう風に独特の声でキャラを作れる声優さんがどれくらいるんだろう。二枚目声はいっぱいいるけど、悪役やら小狡い男やら社長やらヤクザやら。そんな文字通りのキャラクター(個性)を声に乗せている声優さんは誰がいる?

 って考えるとやっぱり、美声系を当人のビジュアルともどもクローズアップして、キャラとペアで売るような状況はちょっぴり足りてないような気もしないでもない。まあ昔だってスラップスティックみたいなバンドがあって、それなりな顔立ちの声優さんたちがアニメのキャラともマッチしながら売れていった時期があったけれど、今はそればっかりになっているんだよなあ、何となく。でもアニメにしろドラマにしろ、そういう二枚目声だけでは絶対に成り立たなくって、だから今も年輩の特徴のある声の人たちが現役で仕事をし続けていられたりする。それは一面で嬉しくて反面で難しい状況。少年やイケメンなだけでない声を求め売り出すことを、していかないとアニメにも幅がなくなりそして……ってことになりかねない。だからこれを機会に考えたい。声優の未来を。アニメーションの将来って奴を。

 そうだった沢城みゆきさんじゃあないんだ小松由佳さんだったデュナンを演じている女性の声優さんは当人もスラリとして遠目にもグラマラスに見えたけれども、長編アニメーション映画「アップルシードアルファ」に登場する3DCGで描かれたヒロインのデュナンはミリタリー色を持たせた装備ながらも胸元はくっきりと開いてそこから深い谷間と高い双つの山がのぞいていたりして、もう見た目にも嬉しければ質感的にも触れてみたくなるくらい、柔らかさと固さがほどよく混じり合った双房感って奴を醸し出していた。これがゲームだとポリゴンをいっぱい並べていかに揺れるか、ってところを競いそうなものだけれどこれは映画、そしてアニメーションであってそうした所への配慮より、いかにリアルさを残していくかってところに全精力が注ぎ込まれたみたい。

 その甲斐あってか映画はもう見た目にもフォトリアリズムって向こうが言う言葉を真正面から受け止められるくらいにリアル。人間の表情も動きもそうだし周囲に散らばるサイボーグたちもそのメタル感をしっかりと感じさせながらも人間くささも残した仕草に表情でもって描かれる。巨大なスクリーンで観てもまるで実際に作られたプロップのような質感であり使用感。それをひとつひとつちゃんと描いて積み重ねていくのにいったい、どれだけの労力がかかったんだろうかと考えると恐ろしくなるけれど、そうした労力なんて観る人にはまるで関係のない話。凄いか陳腐か。その残酷なまでの判断をこの「アップルシードアルファ」は易々と凄いの方向へと向けさせる。やっぱり3DCGってどこか不気味の谷感が漂うよね、って意見を軽くねじ伏せリアルであってバーチャル(空想)な世界って奴をそこに現出させている。

 思えば2003年頃に、都内でもって最初の「APPLESEED」が作られている現場ってのを取材したことがあって、荒牧伸志監督とそれから曽利文彦さんがいてモーションを演じた三輪明日美さんなんかも来て目の前で人間の動きって奴をコンピュータに取り込むモーションキャプチャが行われていた。それこそ黒い全身タイツに光るパーツを付けてそれをカメラで読みとっていく、という原点的な作業でそれでもスペースに何人かがいるのを同時にとらえて読み込んでいく姿に凄いなあ、って関心した記憶がある。それが映像になったのを自分は観たかどうか、記憶にないけど家のどこかにDVDは頃勝手そう。ただやっぱり出てこないのだった。

 そんな時代の振る3DCGは人間らしい動きをキャラクターに付けるのがやっとだったのが、今は動きに表情、そして質感までもをそっくりに出来る。いや既にハリウッドなんかでは実写にそうしたCGのキャラクターが紛れ混んで違和感なく動いているんだけれど、それって実写の部分に引っぱられてCGも意識的に底上げされているって気もしないでもない。背景まで含めてCGで描かれた映像でありながら、それでもリアルさを極めているってのが今回の売りだとしたら、それはもう世界でも群を抜いたものになっているんじゃなかろうか。ゲームだってここまでのリアルさ、ないし。というかゲームはリアルでレンダリングされるんでそれは無理。映画として作り込まれ磨き込まれた世界ならではの高度な質感って奴をこの「アップルシードアルファ」は見せてくれている。だから凄い。

 ストーリーは「APPLESEED」を詳しく語るだけの知識がないんではっきりとは言えないけれど、本編へと至る過程みたいな話でデュナンがブリアレスとペアを組んでさあこれからオリュンポスにまつわる冒険を始めよう、ってところへと至るまでって感じ? 街を仕切るボスから仕事を受けているけどどうにもショボくてそしてブリアレスにはガタが来るばかり。そしてデュナンは噂に聞いた幻の楽園、オリュンポスを夢見ているんだけれどそれが急に近づいてきてはちょっぴりだけど牙ものぞかせた。さてここからどんな冒険が始まるのか、そしてデュナンは消えてしまった少女の本体と出会えるのか、ってことになるんだけれどそれが作られる可能性やいかに。せっかくここまでのデータもため込んだんだし、2度3度と重ねていけば効率的な上に効果も上がるという振る3DCGの特質をいかして是非に付くってほしいもの。今度はデュナンの服を脱いだ姿とかも観たいなあ。ずっと同じ服。匂わないのかな。いい匂いだろうから別に良いけど。うん良いけど。


【1月16日】 ニコニコ超会議に夏野剛さんの出身とはまるで違ったauが、超特別協賛に付くことが決まって夏野剛さんが恐縮していたりした場面の裏で、そういえば芥川賞と直木賞も決まっていたようで小谷野敦さんは残念ながら逃して小野正嗣さんというある意味で正当な感じの人が芥川賞をとったみたい。意外性はなくすんなりってのは面白味には欠けるけれど、選ぶ方だって別に面白がっている訳じゃないからそれも仕方がない話か。でもって直木賞の方は5度目の候補になって今度こそはと思われた万城目学さんは「悟浄出立」でやっぱり落選となってしまった。

 これまでのような、不思議で面白い設定のホラ話とは違って中島敦さんの小説を半ばパスティーシュしつつリスペクトして描いた中国の昔の人たち(沙悟浄や孫悟空は人でないけど)の物語は、主人公然とはせず歴史の傍らで伴走してきた者たちが抱いた感情や思いを淡々と描いてそれなりに読ませる。これが万城目さん? って思われる節もないでもないけど、でも中島敦さんのカバーであり脇役という存在にスポットを当てた変化球でもある所は万城目風。でもそういう意見は通らなかったんだろうか受賞はしないで西加奈子さんの「サラバ!」が選ばれた。そんなに面白かったのか?

 店頭では見たものの手に取ってないから分からないけれど、選考委員によればまっすぐにストレートでスケールの大きな作品らしい。重松清さんとかが描く作品に似てるのかな、だとしたら選考委員の受けも良いだろうなあ。万城目さんが逃したのがいつものマキメらしさが欠けている、ってことだったら、ならどうして「とっぴんぱらりの風太郎」で授賞させなかったんだって憤りも浮かぶけれど、その意味を考え直すならやっぱり「悟浄出立」はひとつの飛び道具として捉えつつ、荒唐無稽なホラ話をここで1発描いてこれぞマキメって感じで直木賞をかっさらっていって欲しいもの。今何を書いているか分からないけれど、今度出すもので是非に受賞を。応援していく。今年来年くらいじゃないとまたワールドカップも始まるから、早めに是非に。

 そういえばサッカー日本代表のアギーレ監督に対してスペイン検察庁が裁判所に出していた告発が受理されたとかで、またぞろスポーツ新聞を中心に解任論が噴出してはそれが既定路線になったかのように報じられ、後任の具体的な名前までもあ上がってきてもうそれしか道がないような感じになっている。告発されたらいずれは受理されるだろうことは分かっていて、そこで右往左往するのはつまりは告発されそうになった時点で、次にどう対応するかを考えに入れていなかった現れとも言えるけれど、右往左往しているのは周辺のメディアばかりで、当人は粛々と裁判の行方を待ち、そして協会も今は進展を見守るといったスタンスになっている。なのに解任必至という論調は、いったい何が根拠になっているんだろう? そこを明確にしないと謎の声に左右され動く胡乱なメディアであり組織だって目を逆に、向けられることになりかねないんだけれど。どうしてメディアはああも解任論を振りかざすんだろう? 誰かに操られているのかなあ、だとしたら誰なんだろ。教えてキャプテン。

 というか、八百長の疑惑なんかよりももっと問題な事実としての粉飾決算が明らかになったというのにサッカーメディアはいったい何をしているんだというか。当のチームに対して上から目線であれやこれやぶちまけるチャンスでありまた、Jリーグの監督責任を取りざたしてトップから日本サッカー協会からやり玉に挙げて解任論をぶち上げるチャンスでもあるのにそうしたことを言ったところで、売り上げに結ぶ訳じゃないってことなのかまるでダンマリ。何が正義なんだか。そんな暗い話の中で前にオシム監督の通訳をジェフユナイテッド市原・千葉でやっていた間瀬秀一さんが、J3のブラウブリッツ秋田の監督に就任したって報が。選手として有名ではなくてもチームの中で居場所を探して仕事をこなしつつライセンスも取得した結果がそこにある。モウリーニョだってサッキだってベンゲルだって世界的な名将には普通の“ノンキャリ”の名采配が、見られると来たいして春を待とう。J2に上がってきてジェフ千葉と対戦とかあるのかな、ってJ2にいつまで居る気だジェフ千葉は。

 そんなジェフ千葉でU−18の監督に昔の監督だった江尻篤彦さんが就任したそうで、繰り返すこのエジリズムが繰り返されるのかという思いも浮かぶ一方で、育成という部分に限ればしっかりと基礎を作り体力も上げてくれるに違いないと期待も浮かぶけれども、果たして。そしてフィジカルコーチには以前のジーコジャパンのフィジカルコーチだった里内猛さんが就任。里内さんといえばジェフユナイテッド市原・千葉レディースの監督も前に務めていたことがあって、その時代に鍛えたことが今のなでしこリーグでも下部に落ちることなく上位リーグに定着し、皇后杯では準決勝まで進むくらいのチームに成長したことに繋がっているって僕は思っているんだけれど。そうでなくてもきっとジェフを前以上に走らせて、いつかのプレーオフみたいに相手チームに走り負けするようなチームからの脱却を成し遂げてくれるんじゃないかと思いたい。期待しよう今シーズン。期待だけなら無料だし。

 東京ビッグサイトで寝ている猫を見た後で池袋へと回って「もやしもん×純潔のマリア原画展」を見物、あんまり混んでないのは平日昼だからかどうなのか。でもじっくりとその筆致を見られて良かった。とにかく細かい。それをちゃんとペンで描いて塗っている。最近はタブレットで描いてデジタルで彩色する人も少なくないけど石川さんはどこまでも細かい絵をしっかりと描いて描いて描き抜いてあって、それを原画で見るともう本当にとてつもない集中力と執着力を感じさせられる。こんな漫画家が今もいるんだなあ。でもきっとこれがデジタルになったらあのタッチは出ないだろうから、自分の持ち味を活かす意味でも手書きは必須ってことで。だってアニメの「純潔のマリア」、何か違うもん、中世っぽさも落ちて美少女アニメになっているっていうか、うん。

 表紙にはトリミングされて色もモノトーン調に変えて使われていた、あれは結城螢の扮装をした長谷川遥ってことなんだろうか、ゴスロリな衣装でしゃがんで脚を開き気味にしている絵がちゃんと全部が大きく書かれてそして色も塗られていたことが分かって良かった。やっぱり実物が良いなあ。あとはミス農大にも出てきた畜産の星、中山ちささんめいたキャラクターを下から煽った絵かなあ、ぎゅっと盛り上がった胸の丸さたるや、牛だってひるむに違いない。眼福眼福と。そんな展覧会ではいつもどおりに版画も売られているけれど、デジタルデータをプリントしたのとは違って元の手書きの絵があるものを版画にしているだけあってタッチが残っているのが嬉しいけれど、買うのはやっぱり高いかなあ、いつもよりは安めにはなっているんだけれど。なぜかミス農大の候補として結城と及川と武藤が並んだ版画がまだ1枚も売れてなかった。最高の構図でポーズなのに。お金があればなあ。どうしようかなあ。

 そして東京は新宿ピカデリーでの最終上映となった「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」とそして内田彩さん中村繪里子さんによるラジオ番組の公開収録を観る。やっぱり良いなあ最初のガトランティスとの戦闘でレーダーを担当している西条未来のですます調じゃない報告の仕方が。どこか硬質で投げつけてくるようなその言葉を聞くと心がゾクゾクしてくる。きっとクルーもそんな声にやってやろうじゃんて気になっていたに違いない。森雪では優しすぎるんだよ、何か相手しちゃあ悪いって気になるんだよ、うん。そして桐生御影が古い大和を見つけてその艦名を言う時にやっぱり口が動いていないとか、バーガーを相手に水は自分でふき取ると言うときに出す手の適当さとか、出撃する沢村を見送る桐生の目がいまいち萌えない娘みたいとか、そんな映像もきっと観るのはこれで見納め。発売されるパッケージでどこまで手直しが入ってくるか、そこも気にしながら待とう発売を。大和艦橋でバーガーと古代が対峙した時のネレディアの顔も直っているかなあ。


【1月15日】 黒かった。というのが1番の印象だったセガのゲーム「龍が如くZero」の完成披露発表会。何が黒かったって、それはもちろん総監督の名越稔洋さんのことで、夏でなくても真冬でも、真っ黒に焼けた精悍な表情でもって舞台上に屹立しては、居並ぶ竹内力さんや小沢仁志さんや鶴見辰吾さん、中野英雄さんといったコワモテだったりする俳優陣を、抑えるくらいの迫力って奴を醸し出していた。歳は確か僕と同じくらいなのに、どうしてああも若々しく、そして格好いいんだろうか。作ってるゲームが格好いいと、そうならざるを得ないのか。格好いいからこそ、ああいったゲームが作れるのか。分からないけどでもその色の黒さは、そのままセガの勢いの濃さでもあるんで、頑張って黒くあり続けて欲しいと願おう、日焼けサロンの太陽灯へ。

 そんな「龍が如くZero」のPVって奴を見せて貰ったけれども、すごいなあ、プレイステーション4。あるいは最新のコンピューターグラフィックス技術。もうくっきりと、その毛穴まで見えたりする。そりゃあ圧倒的なグラフィック力を誇る映画とか内外のゲームに比べたら、それほど凄いって訳じゃない「龍が如く」のグラフィックで、特にモーションなんかは、やっぱり動きがどことなくぎこちなかったりするけれど、表情に関しては作り込みもすごくって、アップになった顔なんかはリアルの顔を見るより迫力に溢れていた。あんな顔がデカい画面で迫ってきたら、小沢仁志さんじゃないけどビビるよなあ。自分の顔に怖がって、その自分を倒さないといけない小沢さんはゲームをプレーできるのか。ちょっと興味。

 しかしあのセガが今はソニーとがっぷり組んでいるというのも不思議な現象。とはいえもとよりプレイステーションのフォーマットで出していた「龍が如く」シリーズは、セガのハードと密接に関わったゲームって感じではないんだけれど、それでも一時はソニーと対峙していたセガって会社が、この「龍が如くZero」ではソニーからこれまでの楽曲を収録したウォークマンを出し、それからゲームの舞台になっている1980年代を象徴するヒット曲を収録したコンピレーションCDを出しといった具合に、一緒になってマーケティングをしていこうとしている。もちろん「龍が如く」仕様のPS4にPS VITAも発売。そこまで組むか。でも任天堂とも「Xbox ONE」とは組んでないならソニーと組まざるを得ないもんなあ、それがコンシューマーゲームの今の宿命。

 アプリでは何で出さないんだろう、って気もしないでもないけれど、あのボリュームとあのグラフィックであの物語を実現するにはやっぱり、コンシューマーゲームの容量が必要になるし、それを遊んで貰うだけの時間も必要になってくるんだろう。すべてがアプリへと映り気味な中で、こうしてコンシューマーゲームにこだわって作り続ける名越さんの思いの強さに関心。そしてその将来性をどう見るかが目下の興味。アプリにだって興味はあるんだろうけれど、でもセガにとって残された数少ないコンシューマーゲームの牙城をひとり、守っていって欲しいもの。それがなくなったらセガもいよいよ……そうでもないか、魂はアプリでも受け継がれるものだろうし。

 完成披露発表会にはもちろん主役、桐生一馬の声を担当している黒田崇矢さんも登場しては圧倒的な渋さを持った声を聴かせてくれた。眼さえ悪くしなければ俳優としてだって活躍していただろうルックスの持ち主だけれど、でも声優として渋いところから、その渋さを逆手にとった剽軽な変態も演じてみせてくれているからこっちはこっちで。だってだよ、「龍が如く」でいくら渋くて格好いい桐生を演じたって、「俺ツインテールになります」じゃあブルマにこだわり、ブルマのために命をかけようとして本当にかけてしまったタトルギルティを演じていたりするんだから愉快というか。「境界線上のホライゾン」のウルキアガも姉萌えな感じだし、やっぱり不思議な人。断らないってことは好きなんだろうなあ、そういう役柄が。もっと聴きたいけれど今、何に出ているんだろう。調べてみよう聴いてみよう。

 銀座へと回ってNOCOってビルの7階に出来た「ロビカフェ」のオープンを前にした内覧会を見物。「ロビ」ってそれはデアゴスティーニ・ジャパンが提供してきたパートワーク週刊「ロビ」を全冊揃えると完成するというコミュニケーションロボット「ロビ」のことで、「ロビカフェ」はそんな「ロビ」と触れあえる店ってコンセプトで作られたとか。何でそこまで「ロビ」と触れあいたい人がいるの? っていうのがひとつの疑問ではあるんだけれど、聴くと週刊「ロビ」は10万部が売れて完成した「ロビ」も6万体に及ぶというから相当な人気。それを受けて刊行された第二版からも4万体の「ロビ」が世に出るとか言われているくらいに人気のコンテンツになっている。だからグッズにもなるし、こうやって「ロビカフェ」みたいなのも成立するって言えるんだろう。

 今までだったら全冊売っておしまいだったデアゴスティーニ・ジャパンのビジネスモデルも、こうやって売った後も人気が出て、ずっと楽しんでもらえて新しい展開も可能な「ロビ」のようなコンテンツの登場は、大歓迎立った模様。だからこそ第三版の発売も近いこの時期に、「ロビカフェ」を付くって今一度、「ロビ」を盛り上げ認知度を高めてより広めていこうって考えたみたい。そんな店内には何体もの「ロビ」が待っていて踊ったり歌ったりして楽しませてくれる。見てその声を聴けば自分でも欲しくなってくるけど、作ると10万円以上はかかるんだよなあ、「ロビ」。それでも作ることでしか手に入らないなら……。そこが巧いよデアゴスティーニ・ジャパン。3Dプリンターもドローンもそんな興味をかき立ててくれる新機軸。次は何を繰り出してくるだろう。

 そうかノミネートされたか「かぐや姫の物語」が米アカデミー賞の長編アニメーション部門に。あの難解さでは果たしてどこまで理解が及ぶんだろうか、って思わないでもなかったけれど、前哨戦のアニー賞を受賞していたりして人気の度合いは高かったみたいで、「レゴムービー」なんかが落ちた最終のみネーションに「ベイマックス」「ヒックとドラゴン2」なんかと並んで入ってきた。ほかに「ソング・オブ・ザ・シー」って結構文芸的なアニメーションと、あと「コララインとボタンの魔女」を手掛けたライカフィルムが作ったらしい「ボックストール」って作品も並んでのノミネートはうん、「ベイマックス」が行きそうな気もするけれどそれとは対局にある「かぐや姫の物語」がとれば個人的には嬉しいし、アニメーションの作法的にもエポックメイキングな出来事になるかも。あと日本には宮崎駿監督しかいないと思っている世界に、それより凄い監督がいるってことも分からせられる。果たして結果は。発表が楽しみ。

 いやそれもそうだけれど、短編部門の方にも堤大介さんとロバート・コンドウさんって人が手掛けた「ダム・キーパー」が入っていたりして結構注目なアカデミー賞。堤さんは「トイ・ストーリー3」なんかでビジュアルを担当して日本でも知られた“ピクサーで成功した日本人”って感じで捉えられている人だけれど、ロバート・コンドウさんもやっぱりピクサーで「トイ・ストーリー3」なんかでアートディレクターを務めた凄い人。そんな2人が組んでつくった作品がいったいどんなものなのか、日本で見る機会はしばらくなさそうだけれど受賞すれば“凱旋”とはちょい、意味は違っても是非に上映して欲しいもの。そういうのを見て日本から世界へと羽ばたこうってするアニメーション作家も増えてくるだろうから。こっちも発表が楽しみ。


【1月14日】 UMDだなんて今、いったい何で見ればいいんだろうって家のどこかに眠っている、初代と3代目のプレイスエーションポータブルを発掘して見れば良いんだけれど、それがなければ多分ずっと見られないだろうUMDに収録されたバージョンもなぜかくっついた、アニメ「フタコイオルタナティブ」のスペシャルパック全6巻が届く。日本レコード協会が年に1回くらい開いている、廃盤となったCDやらDVDやらビデオやらを7割引きとかで売るセールなんだけれどそこになぜか入っていたのがこの「フタコイオルタナティブ」。

 うちDVD−BOXはさっさとSOLD OUTになっていて、まあそれも半分だけなんで気にはならなかったけれどもそれとは別に通常版のDVDと、あとUMDがついたスペシャルパックが全6巻分、ちゃんと揃って売られていたんで驚いた。たいていは途中が抜けていたりして、全部が揃わないのがバーゲンなんだしそもそもが「フタコイオルタナティブ」なんて何年前の作品なんだって気もしないでもないけれど、そういう作品だからこそ超割引で総ざらえのように出てくるのがこのバーゲン。今年はたまたま「フタコイオルタナティブ」の年だったてことなんだろう。

 そんなバーゲンのリストから、どっちを買おうか迷うことなくおまけがついたUMD付きを6巻そろって注文。それで1万5000円に届かないんだから安いよなあ、やっぱり。本放送でだいたい見ているからわざわざ開いて見ることはないだろうけれど、最初のDVDーBOXを買い逃してそのあとまとめて出たBOXも買ってなかった作品だけに、手元においておけるのは嬉しいところ。人気作で問題作なのにBD−BOXが出る気配もないしなあ。いつか見て叫ぼう。「ニコタマ最高!」って。

 作為はないとか言うけれど日本アカデミー賞、大賞ともいえる最優秀作品賞に並んだ映画が例えば東宝の「永遠の0」と「蝉ノ記」と松竹「紙の月」「小さいおうち」と東映「ふしぎな岬の物語」だったりした時に、独立系でも評判を起こして優秀主演女優賞をそこに送りこんだ「0・5ミリ」とか、キネマ旬報の2014年ベストテンで1位に輝いた「そこのみにて輝く」とか9位の「水の声を聴く」なんかがかすりもしないのは何で? っていう気が誰にだって浮かぶだろう。

 作品賞を中心にして出演した俳優も主演助演のどこかに入っていたりするという集中は、映画そのものの質とうより大手が作った大手のための賞っていう位置づけを、やっぱり表しているんじゃないのって言われてどれだけの反論もしづらい気がする。アニメーションについてはそういう枷もないのか日本音楽事業者協会が作った「ジョバンニの島」が入ったりもしているけれど、これだって業界は違ってもエンターテインメントの大きな団体が手掛けた作品って意味合いはある。そして「ドラえもん」に「名探偵コナン」に東映の「ブッダ2」にスタジオジブリと東宝による「思いでのマーニー」。自薦をあまりしないジブリの作品が入ってくるのは珍しい。エントリー制ではなくノミネート制だからか。

 まあこれらでだいたい、2014年の長編アニメーションは抑えてあるっていえば言えるんだけれど、「楽園追放」のような意欲作とかは入ってないしイベント上映だったからか「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です」も入ってないし「モーレツ宇宙海賊」もやっぱり入らない。しかるべきところが並んだ映画祭はしかるべき所への意味はあっても、それ意外の大抵の人たちにどれだけの意味があるんだろうか、って考えた時にやっぱり北野武さんじゃないけど、色々と言いたいことも出てくるだろうなあ。さても日本から米アカデミー賞の外国映画賞へと推薦される作品は何になる? 何になった? その結果は? 映画業界って面倒だなあ。

 困ったなあ、という印象がまずは立つ、シャルリー・エブドのテロを受けての最新号におけるムハンマドへの風刺画。その意図をすべて計るには語学が足りていないんで難しいけれど、教義的に偶像として描かれることを嫌がるイスラム教の人に向けて改めてカリカチュアライズされたムハンマドの像を投げかけてみせるという行為に果たして、正当性を感じて良いのかに迷う。そりゃあイスラムじゃない人にとって偶像は珍しいものではなく、日本人の感覚でいえばブッダもキリストもアラーですらも像として表現されてしまってきっと、違和感を覚えないだろう。

 でもムハンマドですら像にされることを厭うというその心理を、逆なでしてまでムハンマドを描く意味ってのはどこにあるんだろう。それを描かなければ表現できないメッセージなんだろうか。そこがやっぱり気になる。いやいや何であれすべてを表現するのに制約はないのだ、っていう意見もあってそうした流れからムハンマドを描いて誰にはばかることもないという意識で臨んだのかもしれない。ここで引っ込めることの方がテロに屈したという印象を与えかねないという意識もあるだろう。ただ、絵が原因でテロが結果というより紛争が原因で絵がそれに対するテロ、という言葉は違うけれどもアンチでありカウンターだったことも考えるなら、もっと違う表現を、そして意図を伝える表現を考え模索することもまた表現者にとっての課題であり使命って気もする。これで良いのか。他に無いのか。考え続けることしか出来ないけれど、だから考え続けよう。

 HJ文庫とかMF文庫Jじゃないのか、って展開を見て思ったけれどもこれが今のスニーカー文庫なんだよなあ、って理解もしたテレビアニメーション「新妹魔王の契約者」。なぜか入らないオープニングから、父と息子の家に急に妹が現れることになって息子は大騒ぎ。でも再婚した母親は現れず妹だけが2人もやって来て、そして急に父親は海外出張という無茶ぶりがたとえ普通の人間相手でも通用するものなのか、いくら心を操作して当人たちが納得したって周辺がおかしいと思うんじゃないか、なんて考えたけれどそれを言ったらあらゆるハーレム物は成立しなくなるんで仕方がない。ってことで勇者の血を引き相手のタクラミは、全部分かってた父と息子。それでも少女を引き取り自分は術にかかった振りをして家を出た父の思惑を理解して、新妹たちを受け入れる主人公。だったら最初から説明してくれって思っただろうなあ。それだとドラマにならない? ごもっとも。しゃあなしだ。

 猫がいて犬がいたウエアラブルEXPO。でもやっぱり分かりやすかったからなのか、テレビ局が2社もやって来て取り囲んでいたので猫には触れず犬も遠目に眺めるだけだった。いったいどういうウエアラブルがそこで稼働していたいんだろうか。猫の気持ちや犬の心が分かるアプリケーションが稼働していたんだろうか。明日以降はきっと取材も減るだろうからまた行って観てこよう。面白かったのはオムツに尿でもって発電してはそれで尿漏れがあったことを無線で伝える機構か。立命館大学だかの研究室で検討されている、電源を使わないで何かを動かす中から尿という要素を使いそれで発電する機能をどう活かすか、って検討から生まれたものだそうだけれど、大人で介護が必要なご老体を診るのには仕えそうな技術って印象だった。何しろパーツが小さいし。自分がそういう状況にあることを言えないお年寄りの方、言うより気づいて欲しいと思っているお年寄りの方もいるだろう状況で、早期の導入もありそう。ちょっと気にしていこう。


【1月13日】 370万人がパリの街を埋め尽くして、フランス全土を覆うようにしてデモンストレーションを行ったという。それで表現の自由をこれからも守っていくぞという意思表示は出来ただろう。でも、それだけの人間が練り歩いたところで、アフリカで、あるいは世界のどこかで何もしらない子供たちが、体に爆弾を巻き付けられ、人混みへと送りこまれてそして周囲にいる人たちごと、爆破されて命を散らすことを多分、止めることはできない。デモの参加者が1000万人でも1億人でも、事態は一向に変わらず、引き続き子供たちが人間爆弾にされて殺されていくだろう。

 なぜって声など聞こえてないから。子供たちを爆弾にして人混みの中へと放り込む奴らの行為を抑える効果なんてないから。じゃあどうしたら良い? どうすれば良い? って考えているんだけれど、もう全然、思い浮かばないから余計に悲しみも募る。僕たちの場合につい言うなら、過去、まだ若い少年兵たちにお国のためだと言い含めては、爆弾を抱かせ、あるいは背負わせて戦場へと送りこんでその命を散らせたことがあった。それは決して彼らの意思を縛った訳ではないけれど、そうせざるを得ない心理に追い込んでしまったこと、そうしなくてはいけない状況を作ってしまったことへの自省は存分にあって、もう2度とそんな悲劇を起こさない、起こしたくないという自制を心に刻んで育ち、今に至っている。

 あるいはアニメーションの世界で、人間爆弾に改造された大人たちが、少年少女が理不尽な中に詩を迎える場面が描かれそれを観たことによって、こんな悲しい事態は絶対に引き起こすものかという気持ちを育んで、大きくなって来た。だからそう易々とは、子供たちを例え言い含めたとしても、戦場に送りこんで命を四散させるような事は起こさないだおる。そう思いたい。いやいや、そういった自分を犠牲にして国を救うような行為を妙に美化して、実質的な無駄死にに、何か意味があったかのように騒いでは、この国に今再びの悲劇をもたらしたがっている奴らもいたりする。力を伸ばしつつある。とはいえ、そういう無茶も世界のあまりに理不尽過ぎる行為の連続に、そしてエスカレーションにもう口を閉じざるを得なくなるだろう。同じことをするのかと言われるだろうから。

 それほどまでに酷い現実が、アフリカでありあるいは中東なりアジアなりで起こっている。でもどうしたら止められるのかが分からない。過去に悲劇を経たことが、自省を読んで自制となって悲劇を繰り返させない力となっている僕たちと同じような気持ちに、いつかアフリカや中東やアジアで悲劇を起こしている面々もなってくれれば、悲しみの連鎖は終わるかもしれない。でも、そこに至るまでにいったいどれだけの若い、幼い命が四散してしまうのかと思うとやっぱり、今すぐにでも止めなくちゃいけないとい。そう思う。でもその方策が分からない。原因を根絶すれば良いのか。でもその原因にはそうなる理由があって、その理由を解消するには、政治と経済と社会と歴史の諸相を解きほぐし、なだめていかなくてはいけない。それにはどれだけの時間が、お金が、労力がかかるのか。出口の見えない悲劇の隘路を歩く人類。その未来を覆う暗い影を晴らし世界を導く何かが現れて欲しい。神でも、宇宙人でも何であっても。そう思う。切実に思う。

 行けば分かるけれども埼玉県の川越市は、古い街並みが今に残っていて立ち並ぶ家々の蔵から、あるいは納戸の奥から古い掛け軸とか茶碗とかが出てきては、それらに付いた妖怪なり神様が現れ跳梁し、跋扈しそうな雰囲気ってのが今も濃く残っている。そんな雰囲気を受け継いで、川越ファンタジーとでもいうんだろうか、あるいは川越伝奇物語とでも言えば良いのか、分からないけれども「神様はじめました」みたいに埼玉県の川越市を舞台に、人間とちょっと不思議な世界との繋がりを描いたストーリーが幾つか生まれる中で、新たに登場したのが地本草子さんによる「もののけ画館夜行抄」(富士見L文庫)。そこには現代に生き残った妖怪たちと、人間の青年や女子大生との交流ってものが描かれる中で、妖怪が持つ意味ってものが浮かび上がってくる。

 大学で学芸員の資格をとろうと、講座に出ている朋絵という名の女子大生。熱心なのは良いけれど、不器用なのか粗忽なのか手にした文化財なり絵画なりを落とすわ転がすわ破りそうになるはと問題ばかり起こしてしまって、実習にはちょっと出せそうにないと教授連から言われてしまう。それももっともな話で、実習に出した先で貴重な文化財なり美術品を壊されでもしたら、大学に責任が及ぶどころか国にとっても大きな損失になってしまう。とはいえ実習を経なければ単位はもらえず、資格もとれないとあって朋絵は困る。その困惑につけ込むように、教授からある美術館での実習を示唆される。桧山記念美術館。川越市にあるその美術館でなら実習を受け入れてもらえると聞き、朋絵ははるばる川越まで出向いてバスに乗り、あるいて美術館へとたどり着くとそこには、岡田という怖い怖い学芸員が待っていた。

 うるさい黙れ口答えをするな言うことを聞け。怒ってそう言う上にもちろん美術品には触らせようとはせず、ひたすら掃除ばかりを言いつける。そして1日を終えて帰された時、朋絵は、美術館に携帯を忘れてしまったことに気づいて、夜の美術館へと忍び込んだら、そこは妖怪変化が跋扈する奇妙な場になっていたという、そんな展開。聞けば収蔵されているとある画家の絵には、妖怪が封じてあってそれが夜にになると抜け出るという。莫迦なと思っても現実にそうした妖怪が河童も天狗もろくろ首も火の輪もいるんだから仕方がない。驚きつつ慌てた朋絵だったけれど、朋絵の侵入に伴うドタバタで逃げた妖怪を連れ戻すのに力を貸し、そして怪我をした岡田のサポートという役目ももらって、どうにか美術館での研修と、そしてしばらくのアルバイトが認められる。

 そして始まる朋絵と妖怪たちの交流に、岡田という乱暴で厳格な男との関係は、とてつもなく強力な妖怪の出現や、美術館の絵が盗まれてしまうという事件を経て、いっそう強まっていく。ドS過ぎる岡田に頑固な朋絵がぶつかり合いながらも認め合い、傷つきながらも寄り添っていくようなストーリー。どこか自分本位で頑迷な朋絵が鬱陶しく思える場面も多々あるけれど、それだけ真っ直ぐに真面目だとも言えそう。妥協せずやりたいこと、やらなければいけないことに取り組む姿勢があったから、妖怪たちも彼女を認めたんだろう。そこにもうちょっとだけ、器用さがついてくれば良い学芸員になるんだけれどなあ。でも良いか、他に行くところがなくても桧山記念美術館で妖怪相手に暮らす日々だけは確保されているんだから。そんな物語。続くかな。

 そして川越ファンタジーの筆頭をいく「神様はじめました」の第2期はいよいよ出雲に乗り込んだものの早速道に迷って大弱りの桃園奈々生ちゃん。あそこで現れ案内したのはもしかしたら逃げているミカゲか誰か? でもあんなに神様ばかりのところに現れたら、気づかれ連れ戻されてしまうから違うのか、それともそんな気配を気取られないくらいに強い神様なのかミカゲって。そしてようやく神域に入った奈々生ちゃん、さっそく戦神建速に怒鳴られたりもしたけれど、それでも元気に神様たちとお風呂に入って背中を流し合うのかな、「かみちゅ」みたく。沼皇女の背中にしょったナマズのリュックが可愛かったけれどあれは肉体の一部なんだろうかそれとも特注品なんだろうか。ちょっと可愛かった。でもって次からいよいよ本格的な出雲での闘いが開幕。奈々生は無事に生きのびられるのか。巴衛はいつ現れるのか。楽しみ。原作読んでないだけに余計に楽しみ。

 サイレントマンガオーディションとはセリフもフキダシもない漫画を世界から募り審査し表彰するというものでそれはもうドイツにインドネシアにヨルダンにブラジルにタイにアメリカ等々、世界中から漫画が集まるのだったという。言葉は入らない絵がありストーリーがあり表情と動きがあれば世界がそれを漫画として読み受け入れる。凄いものです漫画って。というコアミックスのサイレントマンガオーディションってのがあって表彰式に行ったら北斗の拳とシティハンターとよろしくメカドックの人たちも登壇をしてくれてフォトセッション。この3人というか原さん北条さんを軽く凌駕する漫画家がコアミックスに生まれ引っぱっていくくらいになっているのかどうなのか。そこがやや気にはなるけどでも新しい漫画家が世界から生まれてくるというのは面白い。そして世界に巣立っていくとなお素晴らしいのだった。


【1月12日】 お兄さま? って笑顔を見せながらも、握った手から絶対零度の冷たさを伝わらせ、その身を心も含めて凍らせそうな司波深雪の怖さが炸裂していた佐島勤さんの「魔法科高校の劣等生15 古都内乱編(下)」(電撃文庫)は伝統派と呼ばれて現代魔法の魔法士たちに反旗を翻す面々の策謀が、奈良から京都あたりで起こったのをきっかけに西へと向かった司波達也や深雪たちが、襲ってくる伝統派を相手に戦いを繰り広げ、そしてその背後で操っていたとおぼしき周公瑾と対峙するという展開へと向かう。

 何しろ強敵で、七草真由美のボディーガードを相手にした戦いでも、鬼門遁甲を駆使して感覚を狂わせ勝利してしまうという周を相手にいったいどう戦うのか、ってところで繰り出される達也の技とそれらを支える一条将輝や九島光宣の凄い技。そりゃあなるほど達也も凄いけれども決してトップじゃないってことも伺える、そんな魔法バトルを楽しめたシリーズだった。でもって一件落着かと思いきや、前夜に真由美とバーに行って酔っぱらった真由美を粗略に扱った報いが出て、真由美に意図してかは分からないけど暴露されてそして深雪の「ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!」。達也は生きのびることが出来たか。それ以上にいよいよ明らかにされる後継者指名のその先は。次巻予告に達也と深雪の不穏な関係も記されていたけれどそれは本当? いろいろ楽しめそう。

 これは凄い。オキシタケヒコさんという、どうやら創元SF短編賞で何か優秀賞を受賞していたらしい人が書いた「筺底のエルピス −絶滅前線−」(ガガガ文庫)ってライトノベルを読んだらSFだった。鬼と化して人を殺戮する存在が古来から世界中に跋扈していて、それらを<天眼>と呼ばれる特種な目を駆使し、<停時フィールド>と呼ばれる時間を固定する技を使って捕縛して滅する組織があってという設定の上で、捕縛する側に加わった青年や少女たちの戦いを描いた物語、って設定を聞けばまるっと退魔物の伝奇に見えるけど、鬼の設定が異次元からの侵略者で、その目的は人類の滅亡で、そして解決にその目的を逆手に取った大技を使うって展開に読んで仰天、SFだったよくっきりと。

 いやもう反則級にあっと驚く倒し方だけど、ある意味で理にかなっているから凄い。なおかつそこに人類の絶望めいたものすら漂わせているところも。決して人類は救われない。いつかは絶滅してしまう。それでも鬼たちと戦う意味とは何なのか。たとえ未来がどうであっても、目の前の平和を守る意義があるということなのか、ってことを強く考えさせてくれる。そして物語は。赤でも青でもない謎の白い鬼をめぐる戦いへと向かって、そこでバチカンから来た日本の<門部>と同じ異能を使う者たちとのバトルがあって、それぞれにバリエーションの異なる<停時フィールド>の“柩”をどうぶつけ合い、勝利していくかって戦術戦略の妙味を多恩師メル。

 実は意外なバチカン側の目的も明らかになった先、なおも残ってしまった最大の懸案にこれから百刈圭や乾叶ら日本の<門部>がどう挑むのか? バチカンとの手打ちは済んだけれども世界に3柱あるという組織ののこる1つ、連絡のとれないそれらがどういう行動に打って出るのかって先への楽しみもあるから、これは続いて欲しいけど、売れないと途中でも終わってしまうところがあるだけに心配なガガガ文庫。売れて欲しいけれども果たして。ここでひとまず完結して、人類の戦いは永遠に続く…ってエンドでも仕方がないかなあ。いやいややっぱり白鬼を消し黒鬼にしないで世界を永続させる道を探って欲しい。それが僕たちに生きる希望、戦う意味を与えてくれるから。

 ホイッスラーじゃないよ、ホドラーだよ、ってことで東京都美術館ではなかった国立西洋美術館へと行ってフェルナンド・ホドラーを見る。最終日だけれどそこは印象派とかとは違って鑑賞客もあんまりおらず朝も9時半と1番だったこともあってじっくりと見られた。印象としては……特段ビビッドに来る画風ではないけれどもたとえば人物画にはポーズに特徴があって幾人かを描いたときのリズムが面白くって単純な肖像画とはいえない雰囲気があった。そして風景画は印象派が描いたような光りともターナーのようなロマン主義の明るさとも違って雰囲気をとらえつつどこか意匠化もしているような感じがあってちょっと独特だった。印象派だと輪郭も色の境目もぼかすところをもうちょっと分かりやすく描くというか。でもスーラみたいな点描でもないという。

 そんな画法で描かれたスイスの山々の風景は見ていてあの国の自然の雄大さって奴を感じさせてくれたし、戻って人物画の方はクリムトというよりはエゴン・シーレに近い色遣いとそれからフォルムがあって見ていて引き込まれた。漫画家の山岸涼子さんが描く人物のフォルムに似ている、っていったら叱られるかなあ、どっちが先でもなくってどっちも独立した作家だけれど、フォルムを工夫してそこに動きを見せて力も感じさせるという線。だから見ていてただの平べったい絵ではなく、動きと奥行きと広がりを感じるのかも。あと興味深かったのは全体に貧乳好きってことかなあ、描く女性がだいたいそんな感じ。いや好きかどうかよりモデルがそうだったのかもしれないけれど、ルノワールならでっかいところがこちらは貧弱。それもまた良しなんだけれど。

 NHKでのコミケ特集はたっぷりとかけた時間の中で真正面から真面目にコミケを取りあげた特集としてとても良好な印象。それは犬が人を噛んでもニュースにならない世界で人が犬を噛むような話ばかりを探すようにコミケの中における決して主流ではない動静なり、決定的ではない問題をのみ引っ張り出しては拙い部分もある、いけないところもあるといった感じの報道に向かいがちなメディア状況の中で、ある意味珍しいことではあるけれども天下に名だたるNHKが、こうした真正面から真面目にコミケを取りあげたことによって、世間一般がコミケ成り同人誌即売会なりコスプレへと向ける視線は興味本位のあら探しではなく、前向きな熱意のカタマリだってものに変わっていくんじゃなかろうか。ちょっと希望が高すぎるかな。

 NHKの報道で面白かったのは、コミケにおけるコスプレというカテゴリーについて、これもひとつの作品であってそれを行う人たちもコミケで同人誌を作って売る参加者と同じ表現者だといった捉え方をしていたところ。同じコミケ内ですら時によって分かれることもあるコスプレへの認識だけれど、作品として大勢に見てもらうという意識があれば何でも受け入れるというコミケ側の意図をちゃんと汲んで、その文脈に載せて紹介していたから、たとえそれがきわどい水着の女の子であっても、異色の存在として真由顰められながら見られることもないようにしてあった。あるいはおじさんであっても。

 もちろん日常、コミケを取材する人たちだって、コスプレは作品でありR−18の同人誌にだって作り手なり買い手の愛があるってことは分かっているとは思うんだけれど、それが媒体に載って喧伝される時は、どうしても売れ行きなりアクセスを意図して扇情的なものになってしまう。きわどいコスプレ大集合とか。イケナイ同人誌がこんなにとか。でもNHKの特集ではそうしたイケナイ同人誌についても、ちゃんとチェック体制を整え法律法令に遵守しつつ、もちろん表現の自由への意識もちゃんと話させ紹介していた。

 そうした配慮がNHKの側から分かって出たのか、取材の過程で説明がちゃんと通って理解してもらえたのかは分からないけれど、でもそこに共通の認識が浮かび、楽しい遊び場であってそれを守るためにがんばっている人たちがいることは、世間にも存分に伝わったんじゃなかろうか。以後、コミケを取りあげる時にも、これがスタンダードになれば良いんだけれど、でもそこは民放なんでやっぱり扇情がちょい先に来てしまうことになるのかなあ。春のコミケスペシャルは外国からのお客さんも招いてのものになるし、そんな辺りをどう報じるかをちょっと見ていきたい。


【1月11日】 これは映画「PSYCHO−PASS サイコパス」を見たときにかかった予告なんだけれども映画「ANNIE」の日本向けの予告編であのインド人も吃驚な平井堅さんが最も有名な曲「Tommorow」を歌っているんだけれどそれがやっぱりどこか日本語英語で聞きこむうちに耳がもしょもしょとしてしまう。もちろん他の大勢に比べてそれなりに、綺麗な発音をしていることは間違いなくって、これが普通にライブとかで歌われれば聞き入ってしまったかもしれない。あるいはアップテンポの曲だったらその英語も勢いに紛れて聞けたかもしれない。それくらいの巧さはある。ネイティブが聞いてもそれなら違和感を覚えなかっただろう。

 でも「tommorow」は「ANNIE」でも最も重要なバラード曲。しっとりと、そしてしっかりと歌い始めて歌い込み、歌い上げていくような楽曲ではちょっとした違いまでもが耳に捉えられてしまう。そこで覚える違和感はだんだんと増幅されて広がっていってしまう。何よりすでに過去、予告編で主演しているクワベンジャネ・ウォレスのこれは確実にネイティブな英語による歌声を聞かされ、それがスタンダードになっているとどうしておっさんの、それも日本人が歌う英語の歌なんかを聴かせられなくちゃいけないんだって気になってしまう。これがもし、日本語に訳された歌詞だったら、妙さは感じても変とは思わなかっただろう。「アナと雪の女王」の「Let It Go」が「ありのままに」として松たか子さんに歌われても、何とも思わなかったように。

 もちろん僕としては、予告編で何度も流れてそのストーリー性のある映像とともに聞かされた、オリジナルのイディナ・メンゼルさんが歌い上げた「Let It Go」がやっぱり1番で、それもあの映像とともに見るのが最高だって意識はあるから、映画も吹き替え版ではなくって英語版の方を見に行ったけれど、でも日本で大流行したのは日本語版であり日本語訳された「ありのままに」。それが普通に受け入れられたのは無理に英語にしないで日本語で、映画の世界を語るような中身にして歌ったからでこれが英語歌詞のままだったら、ここまでヒットしなかっただろう。映画も含めて。

 だからもし、「ANNIE」の宣伝側が「アナと雪の女王」を意識して予告編で主題歌を日本人に歌わせたんだとしたら、それはアイデアとしては拙くはないけれど、やったことはちょっぴり拙いんじゃないかって思われる。まずクワヴェンジャネ・ウォレスが歌ってその愛らしさと意思の強さを感じさせてくれるはずの歌を、平井堅さんの声で塗りつぶしてしまった。なおかつ妙さを感じさせる予告で映画への興味を阻害した。さらには英語のままで日本人の多くがその歌の持っている明日への希望への賛歌を分からないようにしてしまった。何て勿体ないんだろう。何て安直なんだろう。って宣伝がでも、これからも跋扈するんだろうなあこの国では。世界を仕切って収益のマス化を狙うディズニーに持って行かれる訳だよ。

 やっとこさテレビアニメーション版の「艦隊これくしょん」を見た。うん、あのゲームの「艦隊これくしょん」がアニメになるならこうならざるを得ないだろうなあ感がみっちりあった。それがだから物語として良いかどうかは別の話で、少女が戦艦で空母で駆逐艦で能力を得て海上に現れた敵と戦うなんて、どこの世界のどういう社会が背景にあってそしてどういう歴史が背後にあるかなんて考えれば考えるほど無理が出る。日本なのか地球なのか宇宙なのか異次元なのか。どれを設定しようにもそこに難しさが招じるんだけれどでも、この場合は元のゲームがそうなんだからそれに合わせようとしたってことでまあそういうもんだろうなあと納得してしまう。そういうものだ、人間は。

 でもってそのビジュアル。艦娘たちが水上を砲塔だの弓矢だのを持って滑走していくその姿を、いきなりアニメで見せつけられれば誰だって仰天して苦笑して失笑して爆笑してそして怒髪天となったかもしれないけれど、事前にPVでもって水上スキーをする艦隊を出していて、あれやこれや苦笑と憶測なんかを喚んだ上でひととおり、消化していたんでアニメが始まった時には驚きよりそれがどうしてそうなった的理解も進んでて、そしてな何をやっているんだろうという推察も行われてたんで、すんなり世界観へと入り込めた。艦娘たちの特質もちゃんと抑えつつ描いているのも好感。あとは人死にが出なければ良いんだけれど。あっさり死ぬとか実は機械で次の代わりが工廠から来るとかなしにしたいけれど果たして。もう1点。赤城さんの弓の射方にいろいろと文句が付けられている件について加賀さんから一言。「一ついいことおしえてやるよ。こんなもんはな、撃てて当たりゃいいんだよ」。そういうものだ、戦場は。

 ホドラーを見に行くつもりがホイッスラーを見に行っていた。何が起こっているか分からないだろうけれど、俺にもさっぱり分からねえ。恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。ってことではなくって単純に行き間違いだけれどフェルディナンド・ホドラーの展覧会あもうすぐ終わりだなって気づいて、だったら見ておくかと電車にのって向かった先が横浜美術館。てっきりそっちでやっているんだと思って到着したら、何とやていたのはホイッスラーで上野にある東京都美術館と場所を間違えていたという次第。でも見てなかったのでホイッスラーも見ておくかと入って、印象派からウィーン分離派へと続いていく肖像とか風景の絵の間めいたものをそこに見た、って気がした。

 なるほど英国の画家でどちらかといえばターナーから流れる風景画でありモネとかと重なる描画をもった人なんだけれど、人や風景をどこかを様式的に描いていたりする手法、その背後に浮世絵のシンプルな構図と平面的だけれど奥行きもあって立体感も出す手法が取り入れられているのは、後にウィーン分離派で活躍するクリムトが描いた人物画なんかにとっても近い気がした。あとで調べればクリムトはホイッスラーから影響をやっぱり受けていたとかで、そんな背後に日本の浮世絵があるっていうのも何か面白い。ただだから日本は優れているってんじゃなく、浮世絵にだって西洋絵画からの影響が遠近法となって入ったこともある訳で、そうした洋の東西を超えた行き来が今ほど情報の発達していない時代にも、あったってことを面白がるべきなんじゃなかろうか。ってことでこれはこれで面白かったホイッスラーだけど、明日はちゃんとホドラーに行こう。みなとみらい駅でポケットしうまいを食べられなかったのが残念。明日こそは、って明日は上野だってばよ。

 前の武雄市長で今度の佐賀県知事選に立候補していた樋渡啓祐さんて僕より4つも若い人だったんだって、今さらながらに驚いていたりするというか、何というか。だってその言動がどうもおっさんくさいというか、妙に若作りしようとしてネットとかに傾注してその影響力を妙に課題に評価して自分の看板にくっつけようとしていたり、貸しレコード屋で流行系本屋のTSUTAYAと妙に意気投合してポップな貸し本屋を作ってみせたりするところが全共闘世代のの尻尾を踏襲しているというか、あるいは1980年代セゾン文化にまみれている感じがあって、そういう年寄りの冷や水をしたがるのはてっきり50台後半かと思っていただけに意外な若さにどうしてそれで、妙な言説に溺れるんだろうかと思った次第。でもってその中途半端感が忌避されたか、上からも下からもそっぽを向けられ落選、と。やればもっといろいろ出来たはずなのに、人の神経を逆なでしてばかりだったのが勿体ない。出直して来れば、って思うけれど当人が変わらなければやっぱり変わらないよなあ、あの政策にあの政策。次の参院選に出てくるのかなあ、安倍ちゃんの引きで。そこまで面倒見るかなあ。


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