縮刷版2015年11月下旬号


【11月20日】 日本語版のオープニングをEXILEが歌い、そして日本語版のエンディングを松田聖子さんが歌い、さらに上映前に流れるイメージソングをDREAMS COME TRUEが歌っていて、吹き替えは男性陣がEXILEがジャニーズか吉本で、女性陣はAKBグループだったりする上に完成披露試写会にゲストとして柔道家の篠原信一さんがダース・ベイダーの格好をして現れ蛍光灯を振り回し、とにかく明るい安村さんが前進を白塗りにしてR2−D2だと言い張って登場しては「安心してくださ〜い」と足をあげてC−3POが描かれたパンツを見せて爆笑を浴びることを思えば新作の「スター・ウォーズ フォースの覚醒」が日本では監督の意図するようなサイズで観られる劇場がないことくらい、たいしたことはないんじゃないかとちょっと思った。いやしかしマジで便乗は止めて欲しいけれど、やるかなあディズニー。「インサイド・ヘッド」関連で篠原さん読んでたしなあ。はてさて。

 選良だなんて言葉はもはや死語なのかもしれないなあ、選挙によって選ばれた人たちがあちらこちらでポン酢ぶりを発揮していて、それが自滅につながるだけならまだしも国とか地域をまとめて滅亡へと持って行きかねないから厄介極まりない。たとえば自由民主党で国際情報検討委員会ってところの委員長をしている原田義昭衆議院議員が南京事件について「虐殺の概念に当てはまる事実があったのか。もう一回歴史的な事実を総合的に検討すべきだ」と言ったとかで、政府に南京大虐殺に関する見解を再検討するよう求めることにしたんだとか。おいおい。すでに政府見解としては多寡はあっても虐殺に類することはあったという結論に達しているし、歴史学者も真っ当な人はそういう結果を出している。

 それを今さら再検討するということは、つまりなかったと言いたいことに他ならない訳でこれは世界に対する挑戦であり、国にたいする反抗でもあるんだけれども今、その国のトップに立つ人間がそうした下からの“突き上げ”に、頷きたくって仕方が無い人だからちょっと拙い。これが単純に下が上のご機嫌取りのためにそう言っただけなら「却下」の一言で済ませることもあるだろうけれど、上が下に言わせてだったらと見解を改めようなんて動き始めるための口火だったとしたら、向かう先は見直しであり否定でありサンフランシスコ条約への異論であってすなわちアメリカを肇とした戦勝国への反抗。それがいったい何をもたらすかを、ふつうに考えれば分からないはずがないんだけれど、何しろ僕の正義は世界の正義と思い込んでいる人たちだから、ここで己の満足のために見直しとか言い出しかねない。

 結果、起こるのは靖国参拝なんかとは非にならない反発であってそれがもたらすダメージは、外交や政治に止まらず経済的にも大きなものとなって僕達の暮らしにはねかえってくる。いくら遮断しようともその繋がり具合において切っては切れないところまで来ている日本と中国の関係を、ただ自分のプライドのためだけに断ち切って国を不幸のどん底へと持って行こうとしている、それを非国民的行為であり反日的行為を誹らない支持者たちがどうにもこうにも分からない。もはや愛国だのといった範囲を超えたカルト的信奉に思えてくるけれど、こうやって不安を抱いている一方で自体は深刻さの度合いを増していきそう。だって与党の偉い人が平気で無茶苦茶を言うんだから。いったいどうなる明日の暮らし。逃げ出したくても行く場所ないしなあ。BIG当たらないかなあ。

 ポン酢な選良といえば大阪府知事もなかなかのポン酢ぶりを発揮しているようで、大阪府庁舎が入っている咲洲からの撤退を望んでいる職員が7割に及んでいると朝日新聞が書いたことに、いやいや職員の1割調査してその結果なら7%しか撤退を望んでいないと書くべきだと言って早々に突っ込みを受けまくっている。だったら1000人が対象の世論庁舎で内閣の支持率が5割くらいだったとしても、本当は小数点以下の支持率しかないってことになるのかと。そうじゃないことは統計をやっている人ならみな知っているし、知事だって自分が所属する政党への支持率なんかを言うときに、それを全数調査じゃないから本当はもっと低いとは言わないだろう。自分たちに都合の良いことは前向きに受け取り、ネガティブなことは排除してかかる。そんな態度で府政をやっていれば、そりゃあ不満でも出るだろう。

 もちろん組合がそうした見解のベースとした1000件ちょっとの回答が、サンプル調査的に行われたものなのか全職員を対象にしてそれだけしか相手をしてもらえなかったって可能性はある。府政に不満を持っている人が積極的に解答したのなら、当然にネガティブな結果がでるけれど、答えなかったにたちは得に不満もないといった論理。それならそういうことを説明すれば良いんだけれど、そういう風に言ってないってことはやぱり単純に、統計を知らないか意図的に無視して自分の言いたいことのために牽強付会をやらかしているだけってことなんだろうなあ。そんな維新を支持する学者も、誰が考えたって維新が支えた道頓堀プール構想を、維新は関係ないと言い出して突っ込みを浴びまくっている。都合が悪くなると逃げ、都合が良いところだけ引っ張るそのスタンス。露見しまくっているにもかかわらず、未だ支持を集め続けるその不思議を、誰か解明してくれないかなあ。松本創さん「誰が『橋下徹』を作ったか −大阪都構想をメディアの迷走」を読めば何となく構造も見えるけれど。

 そして第3回ハヤカワSFコンテンストで佳作となったつかいまことさんの「世界の涯ての夏」(ハヤカワ文庫JA)を読んだら気持がすーっと楽になった。生きているといろいろと大変だけど、生きていなくなるのは難しいという相反に、引き裂かれそうになっている心身にひとつの彼岸を、あるいは涅槃を、もしくはやさしい滅びと美しい再生を見せてくれる物語だった。地球上に突然現れた球形の<涯て>が、やがて世界を飲み込み始めるけれどもそうやって飲み込まれた先は不明。それでも人は浸食を食い止めるための方策を探り、<涯て>の表面に浮かぶ波を打ち消す波を送り始める。人を使って。とても多くの人の思いを少しずつ削るようにして。そんな状況がひとつある。

 それによってどうにか浸食は抑えられたけれど、それでも止まった訳ではない浸食と対峙し続ける人間たちがいる。物語はそんな抵抗においてキーになる老人がひとりいて、その過去を描いているっぽい、とある離島で暮らしながら1人の少女と出会う思い出が蘇って来る様が描かれて、そしてキャラクターをデザインするゲームクリエイターがいて、パワハラ上司との軋轢で心を病んで会社を辞めつつ、今もその会社から来る仕事を続けていて、そんな2人に接点が生まれて物語は世界の謎を解き明かす方向へと動き出す。そこで老人とゲームクリエイターを結びつけた、3DCGで作られたモデルの少女。彼女はいったい誰? 消したかった思い出や、欲しかった経験が浮かび上がり、創造されて行き交い渾然となった先にある、ひとつの平穏ってものが見えてくる。

 でも本当におれは安寧なのか。そんな疑問とともに、物語は読む人を誘う。彼岸へと。それは安寧か。ただの記録に過ぎないのかか。行けば分かる。分かる自分がいるかどうかは分からないけれど。そのあたり、映画が絶賛公開中の伊藤計劃さんによる「ハーモニー」に描かれた、ハーモナイズされた人しかいない世界の有様にも重なるなあ。伊藤計劃以前に生まれ様々を読んで来た作家が、伊藤計劃以後に描いたディストピア的ユートピアの物語、てことになるのかも。それよりもやっぱり気になったのは、そこに迫った世界の終わりなんかより、ゲームキャラクターのおっぱいの大きさの方がゲームクリエイターにとっては重要なのだということ。「権利問題と同じくらいにしばしば話題に上がる、おっぱい問題だった」。そういうものなのか。そういうものなんだろうなあ。実際。大きいことは正義。揺れることは至福。だものなあ、あとは谷間があるかどうかも。

 元横綱で日本相撲協会の理事長でもある北の湖親方が急逝したとの報。僕らの世代だとまさに強さの直撃を受けてその余りの強さと、勝ってもにこりともしないふてぶてしさに親近感とは反対の思いを抱いていた人も多かったんじゃなかろうか。同時期に輪島もいたんでそっちの方の見てくれの良さに惹かれてたってこともある。でも半端ない強さはいつしか自然となって印象が奥へと引っ込んで、引退した時も千代の富士とか元貴花田の方の貴乃花とかと違って世間に強いインパクトは残さなかった。当たり前に感じられる強さでありいて当たり前という存在。そんな関取であり横綱なんてもう出てこないだろうなあ。何かにつけて毀誉褒貶、いわれる白鵬とか優勝回数では抜いても、横綱在位ではあと4年は続けないと無理だし。現役の取り組みを観たことのあるもしかしたら最後の日本人横綱でもあったかも。改めてその偉績を讃えつつ、合掌。


【11月19日】 あれだけ汚染地域には入りたくなさそうな顔をしていて、ちょっと歩く度にガイガーカウンターか何かを取り出し放射線が来てないかを確かめていたにも関わらず、いかにも危なそうな場所へと侵入するのを躊躇わず、生身で入っていってはふと見た放射線量計が振り切れているのに気付いたりするボンクラぶりが気になったけれど、そこは何か気になることがあったら他にまるで目が行かない猪突猛進な刑事屋だってことにしておくとして、テレビアニメーション「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 2nd GIG」は都庁らしき場所の下に原子力発電所があったことが分かり、それが何者かの意図で掘り返されていたことも分かって以後、何かに?がりそうな印象。「個別の11人」事件が通してのテーマになっているからそこに絡んで来るんだろうけれど、映画みたいにした作品を観ていながら思い出せないところに脳の衰えってのが漂ったりもする晩秋。

 やっぱり骨が好き。でもって猫が気になるみたいで骨を持って帰ったかどうかしたっぽいけど真相は不明、というかテレビアニメーション「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」の最新エピソードで正太郎が使い物にならなくて、櫻子さんの動静をまるでつかめていない。可愛がっていたペットの猫が死んで、その時に悲しんだけれどそれを自分で標本にすることの、いったいどこが悪いのか、そして残酷なのか。そこにひかっかって怒って拗ねてみせる正太郎は親族が亡くなってもその遺骨を手に取り慈しむことをしないのか。そもそもが標本にして手元に置いて慈しむことのなにが非道なのか。逆だろうに、っておいう発想にいたらないところが若さであり、愚鈍さであってそれが櫻子さんに賢しらなやつだと思われず、愛おしさすら感じられて周囲に寄ることを認められているのかもしれないなあ。半ば道化で半ば愛玩。そうとは知らず周囲でゴロニャンとしてキャンキャンとして。初々しいねえ。

 日本橋方面で仕事があったんでそれまでちょっとあたりを散策していて、地下鉄のコンコースにシュタイフのテディベアが「星の王子さま」の王子と同じ服装をしているのあ飾ってあって、えいが「リトルプリンス 星の王子さまと私」の公開を記念したショップが出来ているらしいと分かってのぞいたら、なんと催事場の方で映画に関する展覧会も始まっていたんでそちらを見物。どうせキャラクターのフィギュアとか並んでストーリーのパネルが飾られているくらいの、映画を宣伝するためのイベントかと思ったらこれがどうして、映画を作る時に使われたらしいストップモーションアニメーションのための人形が飾られ、いっしょに表情や仕草を変えるために用意された様々なパタンの顔パーツや顎パーツ、手のパーツなんかが飾ってあって、これを組みあわせて撮っては差し替え動かし撮ってまた差し替え動かしを繰り返していくのかと分かって面白かった。

 というかそういう手法は「コララインとボタンの魔女」なんかでも使われていて、差し替えて撮影したものをコンピューター上で処理して差し替え部分に出来る線なんかを消して、口なら口がぱくぱくとしているように、目なら目が動いているように見せかけるってことは分かっているけれど、そうとは知らない人がみたらそうかそんなに苦労がかけられているのかと思いそう。あと全体の色味を整える上で必要なカラースクリプトとか、3DCGの映画なんかを作る時も事前に描いて全体の流れを決めるために使うストーリーボードなんかも展示してあって、アニメってのがそうした設計図の上に成り立ち、細かい作業の積み重ねによって作られているんだって分かる展覧会になっている。アニメーションにくわしい人はそうした作業の痕跡を確かめに、そうでない人もアニメーション作りの奥深さを知りに行くと良いかも。決して展示物は多くないけど、500円は安い。

 バオバブの木に取り巻かれた惑星の模型とかも飾ってあって立体で見てもやっぱり凄まじいなあ、バオバブの木は早いところ刈り取らないと大変なことになるなあと思いつつ、ショップではやっぱり可愛かったシュタイフの「星の王子さま」ベアなんかを眺めつつ、でも高いんで見送りつつ「リトルプリンス 星の王子さまと私」に登場するキツネのくたっとしたぬいぐるみを目で愛でつつ少女とか王子とか飛行士とか母親なんかのフィギュアを見つつなにも買わずに退散。置く場所ないもの。ひとつ欲しいなあと思ったのは1階の方に並んでいたウワバミのぬいぐるみで、腹の部分にチャックがついていて開くと象がはいっていた。そりゃあそうなんだけれどそこまでやるかと。帽子じゃないって証明か。発売はセキグチ。モンチッチとか作っている。だから品質は良さそう。ひとつ買っておこうかなあ。でもって象を取り出し帽子として被るのだ。無理だって。いやでも風の噂では美人声優さんはかぶれると。お顔とっても小さいものなあ。

 さて日本橋ではグループウェアのサイボウズが昔立ち上げたのがだんだんと大きくなっていった感じの「ベストチーム・オブ・ザ・イヤー2015」ってのの発表を見物。世間的にはワールドカップ2015イングランド大会で大活躍して南アフリカを倒しグループリーグで3勝を挙げながら決勝トーナメントに進めなかったラグビー日本代表の登場に注目して取材にもかけつけた見たいだけれど、デジタル屋的には注目は「FOVE」っていう視線追跡型のVRヘッドマウントディスプレイ。まだ製品として本格的に稼働し始めた感じではないんだけれど、手を使わないでも操作ができるその革新性と、それが福祉方面にも使えるかもしれないという可能性を評価されての受賞となった模様。ソニー・コンピュータエンタテインメントの「プレイステーションVR」もでたりOculus Riftも製品化へと向かったりしてVR元年の呼び声も高い昨今、その先を行くビジョンを見せてくれたってのはやっぱり大きい。

 面白かったのは受賞にあたってCEOの小島由香さんがチーム一丸となって同じ方向を向いたからこその受賞だったと話したことで、わずか6人しかいないチームであってもその意識を共有させ、ステップをたどりながら目標に向かって進んでいくのは大変そう。それをマネジメントで乗り切りモチベーションも保ちつつ成し遂げたってところにアイデアだけでない、企業としての可能性ってやつも見え隠れしていそう。若い会社って感だけれどプロジェクトマネージャーの金子大和さんはメーカーのシニアの人を入れて日本の伝統ともいえるもの作りの経験とかノウハウを取り入れていきたいって話してて、いよいよベンチャーの勢いを企業としてのミッションへと切り替え発展していこうとしている感じ。そういう意識を抱いているとこに信頼に値するチームだっていうことも感じられる。果たしてどうなるか。今後が楽しみ。でも今日の需要式でここを取り上げる所なんてないだろうなあ。来てない五郎丸歩選手のコメントは紹介しても。そういうものだ。

 アガサ・クリスティー賞の授賞式の案内は来ていたけれどもハヤカワSFコンテストの方は来ていないなあと思ったら、今年はいっしょの開催になっていたのにさっき気付いた。どうりで。そして会場にはSFとミステリが入り交じり、何となくその差異性も見えたりするというか、そもそもミステリ方面ではそんなに作家編集者がいっぱいという感じでもなく取引先企業の背広の人が多かった印象で、その意味でも自在さが心情のSF方面が目立っていたという雰囲気。受賞作はアガサ・クリスティー賞の方は北上次郎さんが激賞していて売れると断言していたのできっと面白いに違いない。SFコンテンストの方も興味深い内容だったけどまず手に取った佳作のつかいまことさん「世界の涯の夏」(ハヤカワ文庫JA)が破滅的で刹那的で退廃的だけど熱情的。球体に食われる世界で生き延びた人類が半ば夢を見て暮らしている状況の中でいろいろと起こる。どこに帰着するのか、読み終えるのが楽しみだ。


【11月18日】 あれは東京国際ミュージックマーケットで行われた、日本で音楽のストリーミング配信サービスを始めた会社が並んでいろいろと繰り広げたトークの中で、それぞれのサービスに対するスタンスが違っていて同じ音楽というものを扱いながら、それをどう聴かせるかで工夫があるなあといった印象を受けたけれど、そこに新たに参入してきたアマゾンも、やっぱりというかアマゾンらしい戦略でもって音楽を聴いてみたい人を引き付けようとしているって感じ。今日から始まったアマゾンプライムミュージックは、プライム会員として3900円を払っていたら他に費用は一切不要。それで配送とか送料でもってメリットを得られブックサービスも受けられ、ビデオだって結構な番組が見放題になっている。もうおなかいっぱいのサービスに音楽ってのが加わった。これは聴かない訳にはいかない。あるいは聴いてしまうだろうなあ、ついつい、ついでに。

 そこが多分狙い目で、わざわざ月に1000円とかのお金をはらって聴き放題にのめり込むほど、音楽に積極的ではないけれども他に使いたいサービスがあるならここでプライム会員になって、年会費3900円でもって音楽にプラスしてビデオも見たり本も読んだりしてそして配送とかのサービスを受けられるなら入って見ようかといった気持になる。音楽は別に大好きではないけれど、ふつうに好きでラジオから流れてくるなら聴くしテレビで歌番組をやっていれば見たりする。そんな感覚でネット上にある音楽をつまでみて試してみて聴いてみて、ってスタンスを実現させるサービス、って意味でほかの月額制なり定額制の音楽配信サービスとはまた違った層を引っ張っていきそう。少しは重なる部分もあるかもしれないけれど。

 それにしてゲームだとどこかがヒットすれば似たような内容のゲームをつくってぶつけて客を奪い合うのがネット上のコンテンツの世界なのに、ストリーミング・サービスではそれぞれが違った構えでもって商売をしている。それは扱うのが同じ音楽であってそれを変えたり混ぜたりはできない。素材としてそこにある音楽をどういう思想でもって括りどういう印象でもって見せるのか、そうしたある種の“哲学”に共鳴できる人がそれぞれのサービスに入っていくことになるのかな。AWAならリコメンドが効いていて、関連づけていろいろと聴いていきたい人で、LINEミュージックならコミュニケーションサービスの上で音楽を共有する情報なり経験のひとつとして使ってみたい人とか。レコチョクは何でもありでグーグルは検索との連動? そしてアマゾンは自分を取り巻く環境の中に音楽という要素を加えても構わないか、知らず加わっていることを気にならない人。そんな各様のサービスで勝ち負けを競っても意味が無い。どう使いたい? そこにかかってくるのかなあ。自分は? プライム会員なんでふつうにアマゾンかなあ。そういうものだ。

 「ぷよぷよ」といったら落ち物系のパズルゲームの代名詞みたいなもので落下してくるぷよの種類を見極めつつ合わせて消して連鎖を狙って高得点を叩き出すといった、瞬時の判断と動体視力とそれを筋肉に伝えて指先を動かす運動神経がとても求められていた、って印象なんだけれどもそんな「ぷよぷよ」の名前を冠しながらも2015年に登場予定の「ぷよぷよ!!タッチ」は速度ではなく黙考型のパズルゲーム。同じ色が3つあってそれに隣接した違う色の1つがあて、それを指でなぞることで同じ色にして4つの連鎖をつくて消していく、ってパターンなんだけれどどれを消せば次にどうなり、連鎖が起こってどれが消えって考えているうちにどんどんと時間が過ぎていく。それこそきゃあきゃあと騒ぐなんてことはできず、誰もが黙ったままで画面に見入る、なんて光景が発売されたら広がりそうだし、実際に体験会でもそんな感じになっていた。

 ある種「まきがめ」「さめがめ」的なところもあるけど、そこに矢印という要素を入れて1列をまとめて消すような操作から、枠の外にもおかれたぷよを消してつなげていくといった広がりも採り入れられているから、考える幅はもうとてつもなく大きなものになっている。さらにはぷよを矢印に置き換える操作もあってそれをいったいどこに置くか、どの方向を向いた矢印をおくかといった思考も必要になるから一筋縄ではいきそうもない。それだけにクリアできたら喜びも大きそう。それではたして「ぷよぷよ」なのかと言われると迷うとこではあるけれど、連鎖とかあってぷちぷちと消えていくのも見られるからまあ「ぷよぷよ」って言えるかも。膨大なステージをクリアするのにいったいどれだけの時間がかかるだろう。出たら試してみようかな。

 差別などしていない、区別をしているだけだと言って差別的な意識を満天下に示して批判を浴び、苦笑を向けられた作家の曽野綾子さんが、そうした文章を載せた新聞でもってまたしても意味不明にして内容不遜な文章を開陳していて、再度苦笑を買うかというと、もはやそういう人だからといった呆然でもってスルーされそうな感じ。でもやっぱりイカガナモノカ感が強くてスルーするには勿体ないんで紹介すると、例のパリで起こったテロでもってフランス行きをキャンセルする人たちが出ているけれど、それは実に勿体ない話、なぜなら「テロやクーデーター直後の町というものはめったに見ることができない」から、行って目の当たりにすべきだってことを言っている。おいおい。だったら今そうしたテロのまっただ中にあるレバノンのベイルートへと行けよと。明日にも空爆があるかもしれないシリア北部の町へと出向けよと。普段では見られない光景が見られて人生の糧になるだろうから。

 でもそうした場所には行こうとはしないし、行く気なんてさらさらなさそう。だって危険だから。でも本当に大変な人間の姿、そして普段では絶対に見られない世界はそこにあるというのに、この人は銃をもった警官がいっぱいいて守ってくれるパリに行けと言い、それで何か普段と違ったものが見られて良い経験になるからと訴える。それがいったい何になる。檻の外からライオンを見るに等しく、あるいはガードされたバスの中からサファリパークを動くに等しい安全地帯からの物見遊山。そんなものを称揚して、本当に行くべき現場に行く必要性を訴えない脆弱な意見を、言う方も言う方なら載せる新聞も新聞。なるほど紛争地域は危険だから社員を送らずフリーに任せる日本のメディアらしい。けどでもそんなパリで銃撃戦が起こって、逃げていたらしいテロリストが自爆したとかどうとか。守られて安全なはずじゃなかったのか? そんな場所なんてもう世界になくなてしまったからこそ起きたパリのテロ。物見遊山なんてあり得ない状況になった世界で僕達はどこに行くべきなのか。考えろ、自分自身で。逃げ方も含めて。

 えええええええええ。と思った人が全世界に1億人超はいてもおかしくないかもしれない、NHKのEテレでの「ラブライブ!」放送スタートという話。過去に「日常」とか民放で放送されたアニメーションをNHKが流したことはあったから、突拍子もない話ではないんだけれどもコンテンツとして今が旬の「ラブライブ!」を手放すっていうのは不思議な話。とはいえTOKYO MXとかテレビ愛知とか読売テレビといったローカル系の局で放送されてコア層に刺さったものを、同じ場所で広げるのは困難と思えば権利者がより大きな場所を求めてNHKに放送を認めても不思議はない。問題はだからNHKがどうして敢えてこの作品を、ってところだけれどもちょっと前、MUSIC JAPANにμ’sが出ていたのを見るにつけ、紅白歌合戦への出場なんかを画策しているのかもしれないなあ。放送前のお披露目って感じに。叶えば視聴率も上がるし評判も高まる。NHK神とかって具合に。そうなるかどうなるか。そろそろ発表の出場者に注目。


【11月17日】 メインのキャラが立ってファンの掴みを取ったら、あとは好き放題にやても付いてくるだろうという思惑があったのか、それともそれ事態が立ったキャラだと認識されて注目を集めると踏んだのか。「おそ松さん」の第7週目のBというかCパートはダヨーンとデカパンが2人してアメリカに行くという話。ほとんどサイレントで進む中で時折「ホエホエ」「ダヨーン」といったセリフが交わされるけれどそこに感情が深くこもっている感じでもなく、状況はもっぱら背景と仕草によって示される。それでいてちゃんと分かるというその雰囲気。大きくためる場面もトカゲを動かし車を流し煙をたなびかせて画面が止まっていないようにする配慮もあって引き付けられた先、待っているシュールだけれど残酷で、けれども美しいエンディングに誰もが涙するのであった。

 とある場面ですなわちBL的な展開を期待させる状況も生まれたけれど、そこで観客の求めに乗るようなことはしないであくまで関係性は維持しつつ、けれどもあるいはといった余韻を考えさせることによって生まれる別の展開。そうやって末広がりにファンをつかまえ伸びていきそうな感じがあるけれど、そうしたシュールさもどこかに限界があるのかな、やっぱりキャラの六つ子が繰り広げるドタバタを楽しみたいという層と、シュールなギャグを見たいという層との分裂。そこが生まれると瓦解しかねないところを繋ぐとしたらやっぱりイヤミという稀代のトリックスターかなあ。出て来て一発、まとめて引っ張れる貴重なキャラ。生みだした赤塚不二夫さんの偉大さに改めて頭が下がるのココロ。あるいはニャロメ。ああそっちの復活も見たいなあ。まだ大竹宏さんが元気なうちに。今も元気だけれど。

 「紅霞後宮物語」の小玉は30歳を超えてもなお思われ続けて皇帝に乞われ後宮に入って皇后にものなって、以降は他の側室を放っておいてでも通われる身になったけれどもロマン小説大賞を受賞した白洲梓さんの「最後の王妃」(コバルト文庫)に登場するルクレツィアは、名門の出身であらかじめ敷かれたレールの上を歩くように王妃となったものの相手は初日に顔を見せ、初夜も手つかずのまま放っておかれてそれ以降、通われることもなくなってしまう。王は問えば下働きとして城に来ていたマリーという少女にぞっこんで、手を付け側室にも迎え子供まで作ってしまったからルクレツィアの立場はない。そこで怒り狂って暴政に走っても不思議はないのに真面目で固い正確からか、公務には熱心で国民からの支持もあってそれを支えに過ごしていたら、国が攻められ王とマリーは王子も連れて自決して、後にルクレツィアが取り残された。

 逃げるか自害するか。でもルクレツィアはどれもせず、隣国の占領軍を率いていた皇太子とその息子を迎えて潔いところを見せ、もとより蹂躙するつもりのな隣国によって軟禁されつつ国は属国めいた扱いになってそれなりな繁栄を見せつつあった。ところが、隣国に反乱が起こって皇太子の弟によって皇太子は殺害され、その息子は造反を意図したものとして皇太子の弟から攻められる。国は分裂してルクレツィアにも手は伸び絶体絶命! ってところでものをいった正確の真っ直ぐさ。あとたくましさも発揮して追跡の中を生き延びようとして足掻く。そんなストーリーでは真面目に生きる大切さ、周囲を尊敬する必要性ってのが浮かびつつ、一方で自分に頑なでは相手は認めてくれない、相手を思う気持も見せることが必要だってことも窺える。つまりは笑顔の大切さ。それがあったら悲劇は起こったか。まあでも幸いをつかんだからそれはそれでルクレツィア、良かったかな。

 せっかくだからと秋葉原UDXにある東京アニメセンターで始まったProject Itohの映画3部作に関連した展覧会を見物に言ったら映画「ハーモニー」でカットされたというシーンの絵コンテが百合だった。つまりはミァハとキアンとのあれやこれやで、胸を触りスカートをまくり下着を下げて股間に触りといったシーンが描かれていたんだけれど本編ではまるまるカット。映像として作られたかも定かじゃないけどあったら絶対に大きなスクリーンで見たかった。もう画面いんっぱいにひろがるそのカ所に、もしかしたら生えてるのとか剃ったあととか描かれていたかもしれない。そんな訳はないか。まあそこが強調されるとテーマも揺らぐんで仕方が無い。劇場でも売ってた画集を買うと生動画がもらえるってあって気が迷ったけれど今日は荷物にになるのでパス。動画が存在するアニメもこれから珍しくなる中で、1枚もらっておいても良かったかなあ。誰のどんなシーンであれ。股間……それはないけれど。

 特攻とテロの切り分けはやっかいで、目的として軍事関連をのみ狙った戦争における特攻は、結果として一般への多大なる被害を発生させるテロとはまったく性質が違うけれど、人が爆弾背負って命を失うことを平気で攻撃に臨み、実際に命を散らす行為、それ自体にどれだけ差違があるかっていうと迷うところ。そして自分の命を捨てられるような状況へと、心理的な誘導なり圧力めいたものなりを使って追い込んでいく勢力への非難は、共にあってしかるべきだと思う。だから特攻とテロとを比較して、どちらも無くすべきだといった話をする時は、自分の命をかけるということの痛ましさややるせなさを、当事者の間に抱かせそれを広げてやってられるか的な空気を作ろうって方向に、有効な手立てを呈示してくれるとありがたいなあと思うのだった。その死を悼みつつ、かといって英雄として讃える躊躇いを持ちつつ、けれども被害者だか無駄死にだとかいったレッテルも貼らないでいられる何か。それは何だろうなあ。

 電撃大賞の発表会があったんで会場へとちょっと遅れてフォトセッションなんかを見物しつつ、パーティー会場をうろついてはこれまでの受賞者さんたちが歩いている姿を遠巻きにしながら観察する。顔が知られている書評家でもないんで歩いていたってお前の書いたレビューは間違っているうううううううと言われてへこむこともないんだけれど、かといっておかげさまでと言われることもないんで何か砂に水をまいている感じがやっぱり今も漂っていたりするのだった。でもまあ作家に喜んでもらうこともひとつあるけど、自分が読んで面白かったことを伝えたいっていう思いでやっていることでしかないんで、それが自分にメリットとなろうとデメリットになろうとお構いなしに、読んで面白かったと言い続けていけば良いだけなんだとここに思い今日も読もう、あの1冊を。とか言いつつちょっと読めてないなあ、最近。秋眠曙を覚えず。いやそれ意味分からない。


【11月16日】 潔子さんがやっぱり一言主になっていた「ハイキュー!! セカンドシーズン」はさておいて、やっぱりすぐに見てしまう「ワンパンマン」はS級3位のバングが登場しながらも相手が隕石とあって力を発揮する間もなく撤退気味。途中にボフォイ博士ことメタルナイトが参戦してミサイルをぶち込み、ジェノスも必殺の火力を浴びせたもののまるで歯が立たなかった隕石を、現れたサイタマがジャンプしなあら拳を振るったらやっぱりというか当然のごとくに隕石は粉々に。そして降り注ぐ破片にZ市は大きな被害を受けたけど、幸いにして死人は出ずそしてタンクトップ兄弟の讒言で非難を浴びたサイタマもぶちキレ気味に話してどうにか場は収まり、そのままC級5位まで駆け上がる。

 S級がガンクビ揃えても太刀打ちできなかった隕石を容易く破壊してどうしてS級に、せめてA級に上がらないんだ、バングだってその場面を見ていたから証明だって可能だろうにとは思うものの、ヒーローという存在に絶対の信頼とそして不信を抱く協会が簡単に序列を変えるような力の存在を認める訳にはいかないし、S級の力を信じない訳にもいかないということがサイタマの存在を添え物程度に思わせた、ってことなのか。まあそれで当人も怒ってはいないし焦ってもなさそう。それでいて力は圧倒的。そういう存在になれればなあ、なんて思うけれど迷惑考えず隕石をぶち壊したりするのはやっぱりどこか、切れちゃっているのかもしれない。安全を考えたジェノスの方がやっぱり真っ当。さても現れる海底人との戦いは……サイタマの圧勝は確実だけれど、そこに絡む他の超人たちの活躍が今は楽しみ。タツマキにフブキとか、もっと絡んで来ないかな。

 あれは土曜日だっけ、パリで起こった事件の情報を見るためにTBSとかへとチャンネルを切り替えつつ、他にもザッピング気味に見ていたテレビでIPPONグランプリというのをやっていて、芸人さんたちがお題に対して大切り的に答えを書いてパネルを見せて、反応が良いとIPPONとかってもらえる番組で、芸人さんの瞬発力が問われる内容にちょっと面白いなあっと思って見ていたけれどその中で、オネエタレントを四畳半に3日間閉じ込めたらっていうお題が出た瞬間、もうそのチャンネルに合わせるのを止めた。なんという下品でそして差別的な設問であることか。人権というものに対する真っ当な意識があれば、とてもじゃないけれども出せる問題ではないだろう。

 こういう設問の答えとして想像されるのは、オネエと呼ばれる人たち、というかこういう呼び方事態もひとつの侮蔑的なニュアンスが漂っていて嫌なんだけれど、それをタレントのカテゴリーとして認識している世間があるから使うとして、そんなオネエな人たちにとって身繕いというのは何よりも大切なことなんだけれど、それをさせないような状況に追い込み、現れた姿を笑いのめすというのはもはや人権に対する挑戦であり、人道に対する罪でもある。そうした意識を持てばとても出せない設問を、平気で出して芸人たちも平気で答えてオネエな人たちの苦悩を笑いに変えて世間に示す。見てそういうものだという認識が生まれオネエが笑いの対象になっていく。これがあの局の人権意識ってやつなんだろうなあ、フジテレビの。傾くはずだよ。

 映画も見たことだしと配信が始まって字幕もつき始めた「RWBY」のvolume.3を第3話までネットで見る。面白いじゃん。そしていろいろと深そう。戦闘シーンであとちょっとためとかあったりギミックがあったらなあ、と言う人が多いことにもなるほどと思ったけれど、それを懲りすぎると進まない話もあるんで淡泊にしたのもあるいは仕方が無いことなのかも。それで引き付けるというモンティ・オウム監督時代の特徴が削がれてしまった残念さを一方に起きつつ、モンティ亡き後の「RWBY」をどう育てていくかということでvolume.3にはいろいろと興味深い部分も見られた。ひとつがやっぱりストーリーで、ワイスの姉が現れルビーのおじさんも登場しては派手にバトルしてみせたりと過去の因縁めいたものをうかがわせる。

 そんなおじさんとオズピン教授、そしてアイアンウッド将軍が絡んで何かと戦っていることを仄めかし、そんな強大な敵を相手に今はただの学生に過ぎないルビーたちがどう関わっていくのか、なんて大きな展開を想像させて先への期待を膨らまさせる。果たしてうまく風呂敷を畳めるのか。そこまでシナリオは書かれているのか。続きを見ていくしか他になさそう。それから挟まられるギャグ的な表現も楽しくて愉快。屋台でひとり魚のどんぶりを出されて目を輝かせながらも、ワイスのクレジットカードが使えずどんぶりを引っ込められて気落ちするブレイクとかもう可愛い。あとワイスの姉自慢な感じと、どこまでも脳天気そうなルビーの表情とかも。そんなコミカルさを挟みつつシリアスさも見せていく展開でこれから引き付けていってくれそう。いつか日本語版を見たいけれどもそれにはvolume.2の日本語版が先になる。その実現には今の「RWBY」日本語版上映の成功が必要、てことで劇場限定版も買ったブルーレイディスク、12月発売の初回限定版も買おうかな。おまけもいっぱい付いてくるし。

 朝に放送されてたモーニングCROSSって番組でひとこと言いたい!オピニオンCROSSに登壇したエチエンヌ・バラールさんが今回のテロはある意味で内政問題であってそこんところを解決していかないと無くならないってことを、1995年に作られた映画「憎しみ」を例に挙げて訴えていた。いわゆる移民が暮らす場所にいる青年たちが差別を受けて憎しみを募らせ、その増幅によって暴発していくといった内容らしく、それが20年経った今も改善されることなく続いて、フランスの社会に差別される者を生みそこに社会への怒りを生んで反抗を呼び、暴発を招いたんじゃないかっていう主張。でなければフランス国籍を持った人が自分の国を無差別で攻撃するような挙にはなかなか出ないじゃないかって話してた。

 フランスが空爆をしたからその報復という意味合いはあるかもしれないけれど、それはひとつのきっかけであって、ずっとくすぶっていた社会への反発は、それがなければ別の機会でふくれあがって暴発したかもしれない。そうした意識が醸成されているからこそ、誘ってテロリストに仕立て上げようという意識も働くし、難民として潜入してそうした意識を絡め取って暴発へと向かわせる動きも出てくる。難民として入ってきた人が暴発したんじゃなく、火種があるところに難民を装って入ってくる人がいるということ。だから難民を規制したって別の方法で火種に火を付けようとする動きは起こるだろう。必要なのは火種を消すことであって、それは社会における差別や憎悪を和らげるということなんだけれど、20年経っても改まらないそれをどうやれば実行できるのか。そこが問われている感じ。

 翻って日本も、今は決して表立って差別が反発に結びつくような状況ではないけれど、根拠のない差別意識を掲げて激しい攻撃に向かう勢力がだんだんと増えて来ていて、そうした攻撃に呼応する人たちも出始めている。何かあってそれが一気にふくれあがって激しい攻撃を読んだ時、反発する意識がどこに向かうかっていう不安はあるし、実際には起こらなくてもそうした不安を煽って、さらなる差別と攻撃を呼ぶ勢力だって出そう。というか、かつて1923年9月に起こったそうした攻撃が、今また起こらないと限らないだけに政策が早くこうした根拠のない差別を取り締まって憎悪の連鎖を抑える必要がある。あるんだけれど今の政治はどちらかと言えば差別を許容しあおり立てようとしている雰囲気があるからなあ。政府にはなくてもそれを代表する個人とかには。だから厄介。もしかしたら今のパリは20年後の東京なのか。そうならない、そうさせないために今というこの瞬間を対話と融和に割くべきなんだけれど…。いろいろと心配。


【11月15日】 絶望するしかないのだろうか、人に潜む意図せざる悪意というものに。パリで起こったテロにISが声明を出して、空爆を行ったフランスに対する反撃といったニュアンスのことを理由として言っている。その言葉をそのまま受け取るべきかは迷うところではあって、後付けで誰かの“戦果”を受け止め、喝采を贈ってさあ次は誰だと誘って、呼応すればそれにも喝采を贈って何かに貢献したい、自分の居場所をそこに見つけたいという心理を煽って、事態を拡大していこうとしているだけなのかもしれないけれど、そうした呼応と賞賛の連鎖も含めてひとつの大きな動きとした時に、どうして誰かを傷つけてまで、そうした文字通りの自爆を行えてしまうかが分からない。心に痛みはないのか。誰かに疚しさはないのか。

 そうした心理を超えてなお、やらなくてはいけないという気持に駆り立てる何かがあるとしたら、それは悪意なのか、それとも誰かに対する善意なのか。立場が変われば別れる心理だけれどでも、結果として残った悲惨な状況を見るにおいて、それは悪意であって、けれども悪意と認識できなくなっている心に、もはや絶望するしかないのかといった気持が浮かぶ。真っ当な善悪の判断が効かない世界にあって、ではいったいどうすれば悲劇の連鎖は止められるのか。それは悲劇ですらなく世界を至福へと導くための道となってしまっているなら、そうした心理を抱く存在を根源から抹消するしかない、ってなった時に起こるよりいっそうの悲劇に体が震える。つまりは殲滅であり絶滅といった行為。それらを70年前の東京であり、広島であり長崎になぞらえて考えた時、もう遅くてもここで止める手立てを打たないと、さらに悲惨なことになると歴史が証明している。

 伸ばした指先が触れる爆弾投下のボタンが押される瞬間が来ないための方策を、それでも探り続けるしかないのだけれど、何かが出来る気がしないのも実際。なおかつ情報として、難民として入ってきた人物が攻撃に参加したという話もあって、人々が見せる善意に切り込んだ悪意が善意すら覆って真っ黒に染め、膨大な悪意をあの地域へと向けさせ、よりいっそうの反発から混沌、そして戦火をもたらす可能性も高まっている。どうしたら良いのだろう。何ができるのだろう。考えても分からないけれど、それでも考えることでしか道は開けない。命。平和。愛。月並みだけれどそれらが尊ばれ、誰もが認め合って生きられる世界の訪れを願う。でなければハーモニー・システムの起動だ。それは人間であることを止める道なのだけれど。

 アイドルのショーケースだったMOSHI MOSIH NIPPON FESTIVAL 2015 in TOKYOでも飛び抜けた歌唱力をステージアクトを見せてくれた「大阪☆春夏秋冬」が、渋谷にあるTSUTAYA O−WESTでもってツーマンライブをやると聞いてこれは見ておかねばと駆けつけた日曜日。相手は「アイドルネッサンス」といってあまり聞いてはいなかったけれど、調べると日本の名曲なんかをカバーする活動を続けているグループとかで、いったいどんな対バンになるかと楽しみにして向かったO−WESTで、まずはじゃんけの結果、先行となった「大阪☆春夏秋冬」からスタートする。

 ざっと見た感じで、来場者の半分半分でそれぞれのファンがいるような状況で、違うファンを乗せられるのかってのた対バンの難しさではあるけれど、そこはアイドルグループだけあってどちらのファンもそれぞれをリスペクトして一緒に盛り上げる感覚が出来ているからそこは安心。だけど見知らぬ相手に向かって何をどう見せるかで、その後の引き付けも代わってくるところをさすがは迫力のボーカル、MAINAをトップに押し立てて始めたステージはもうパワフル&ロッキン&ソウルフル。オリジナルな曲をやってもそのボーカルが響いて引っ張りそこから突き上げ会場にいる人たちを踊らせ跳ねさせる。東京体育館みたいな広い会場でも1発でつかんだそのボーカルが、数百人のO−WESTをつかめない筈はないってことで。

 そんな「大阪☆春夏秋冬」のステージは、MAINAをメインボーカルにしてハードロック系の楽曲を中心に繰り出す感じの周囲を、残る6人のメンバーが激しく踊り時折マイクももってコーラスやらボーカルを乗せてくるといった感じ。とはいえやっぱりメーンはMAINA。PVなんかでそんなパフォーマンスを見ると、よく他のメンバーはいらないんじゃないかといったコメントも出てくるけれど、ステージを見れば決してそうではなく、時折ボーカルも混ぜつつその激しいパフォーマンスでMAINAを押し出し持ち上げ引っ張りすらしてステージ全体に熱い空気を醸し出す。EXILEだってボーカル2人の周辺をパフォーマーがダンスで見せるステージで盛り上げているけれど、それよりは一体感がまだあるというか。だから見ていてすべてに目が行く。とくに眼鏡のANNAちゃんとか。眼鏡だし。

 語れるほど楽曲を知っている訳じゃないけれど、東京体育館で聞いて耳に残った感じはしっかりと味わえて何度か聞いていくうちにすっかり覚えてしまいそう。あとやっぱり「Let you fly」とかラインでヘドバンかまえてくるさびの部分も含め、ドライブ感のある楽曲がとても聞いていて心地よい。PVでも楽曲だけなら聞けるけど、これなんてライブで見た方がやっぱり圧倒的にそのパワフルなボーカルと周囲のダンスを楽しめるし、コールを捧げて客席も一体となって盛り上げれる。ヘドバンとか。そんなステージを見られたのは嬉しいけれど、やっぱりライブハウスではステージ全体が見えず上半身のダンスしか見えなかったんで今度は日比谷野外音楽堂のような大きな場所で、ステージを見下ろせるような環境でもってその圧倒的なダンス&ソングを感じさせて欲しいもの。いずれホールへと出てくれればさらに嬉しいんだけれど、そこまでにはまだちょっと時間がかかるかなあ。とりあえずフェスめいたものとかに出るのをチェックして、いける範囲で通って見るか。でも数曲だけで引っ込むものよりは、今回みたいな対バンのツーマンくらいが嬉しいなあ。良い物をみた。本当に。

 そんな「大阪☆春夏秋冬」を目的にしながらも、新しい発見ができるのがこうした対バンの良いところ。そして一方を目的にしていった者でも巻き込んでファンにさせる力をちゃんと「アイドルネッサンス」が持っていたのがとにかく嬉しいしすばらしい。何しろあの原田真二さんの「タイム・トラベル」とそして大江千里さんの「YOU」をこの21世紀に見せてしまうんだから昭和おじさん大歓喜。「タイム・トラベル」は数ヶ月前に松本隆さんのイベントで原田さん本人が歌うのを耳にしたばかりだけれど、その楽曲の素晴らしさを今度はアイドルたちによる歌唱とダンスで見られたとあって何か因縁がそこにあるのかもしれない。そして「YOU」。数ある大江さんの楽曲でもトップ級に好きなこれを今は6人組となった女の子たちがダンスも交えて聞かせてくる。耳に良くて目にも良い。そんなステージが存在したことを、今まで知らなかったことが悔やまれる。

 ここは「大阪☆春夏秋冬」とは正反対に6人の全員が歌い踊るといった感じ。誰がリードボーカルという感じもなく、順番にボーカルを重ねてそれにコールも乗る感じはアイドルユニットらしいかな。でもチーム感はあった。そして誰もがちゃんと歌えてた。「大阪☆春夏秋冬」のMAINAがパワフルでソウルフル過ぎるからちょっと引っ込んでしまうけれども最後に2人で「上を向いて歩こう」の英語版カバーを歌った時もそれなりに、アイドルなりの歌唱でもってMAINAの向こうを張っていた。そんな歌唱の総合力にダンスの力も乗った6人組が、繰り出すユニコーンでありpillowsであり東京スカパラダイスオーケストラでありBase ball Bearといったバンドの楽曲は懐かしさより新しさを感じたくらいに「アイドルネッサンス」の曲になっていた。これは面白いグループ。こちらも追いかけて行けたら行きたいなあ。次はどこへ見に行こう。

 やっぱりもうポン酢しか残ってないんだなあ、あそこん家。例の巨大化する組み体操についていよいよもって行政なんかも歯止めをかけようとしている動きに対して、とある新聞の偉そうな人が「『気概』なき国は滅ぶ 大人の『事なかれ主義』なら問題…組み体操見直し」って見出しでもってコラムを寄せているんだけれど、これがもう典型的な根性論で、大人が自分たちに責任が及ぶのを嫌がって止めさせているだけだ、子供たちはこれをやり遂げることで達成感が得られるんだといったことを吹いている。それも司馬遼太郎さんの言葉を、誰かが引用し解釈したものでもって孫引きまでして訴えているんだけれど、すでにして骨折だの何だのといった問題が起こっている状況で事なかれ主義もないだろう。事があったから騒いでいるのに気概でどうにかなると考えているとしたら頭に血がめぐっていないとしか考えられない。それでもこういう言葉を書けてしまうところがひとつの“気概”であってそれが受けてしまう土壌が周辺にはあるんだろう。結果、何か起こったら気合いが足りなかったと言うだけか。やれやれだ。


【11月14日】 今日からのイベント上映スタートを前に13日夜に行われた「RWBY volume.1」の日本語版の前夜祭上映会。試写室で見たのについで2回目の鑑賞になったけれど、やっぱり劇場のより大きなスクリーンで見るとバトルのシーンとかど迫力。最初の実力テストでの鳥怪獣を後のチームRWBYが力を合わせて倒すシーンとか、見せ方も動かし方も考え抜かれていて、それぞれに見せ場を与えつつラスト、きっちりとルビーのとんでもない力業を発揮させては圧巻の結末へと持って行く。あれは本当に格好いい。というかいったいどういう着想でもってあの戦い方を考え出したんだ? ってことで多分、そういうことを考えて考えて考え続けていただろうモンティ・オウム監督の凄さってのが見えてくる。今年の初めに急逝した。

 そして前夜祭上映会の会場には、モンティ・オウム監督の弟でモンティ・オウム監督が声をあてていたライ・レン役を引き継いだニース・オウムさんが来日していっしょに鑑賞。この満席の会場を、そして終わったあとの喝采をどう感じてくれて、日本の観客がどれだけ「RWBY」って作品を好きなのかを分かってくれて、それをモンティ・オウム監督に伝えてくれたら嬉しい限り。リアリズムを言うなら死んだ人には生者の声なんて伝わらないけれどでも、そういう気持が日本にはあると感じてもらいたい。それがモンティ・オウム監督とともに作品を作って来た人たち、そしてこれからも作り続ける人たちの励みになると思いたいから。

 さて2度目の鑑賞となった今回、試写の時はストーリーを追いつつアクションに目を点にしてたんで追い切れなかった部分もあったけれど、改めて見るとやっぱりキャラクターの表情が実に豊で、そして感情をしっかり描いているなあという気がした。まずは日本のアニメーション的な目の大きさでありルックスをちゃんととらえている。そしてそれを3DCGでもって描ききっている。なおかつキャラクターの感情に合わせて視線であり眉の形であり口の形なんかがちゃんと動いて、その感情を浮かび上がらせる。手間のかかることをちゃんとやっているなあという印象。そして日本人にも分かる表情の付け方なのかもしれないなあという感慨。それだけ研究してたってことなんだろう。

 あとはパートパートで描かれているテーマというか、最初は知らない場所に行って友だちができるかなあという不安が描かれていて、そしてリーダーに選ばれてしまったんだけれど自分に自信がなく、実力がないと思って悩んでしまう姿が描かれていて、そして弱さにつけ込まれるように虐めにあっている姿が描かれていて、さらには過去にいろいろあったとしても今は違う根拠無き差別をそれでも抱く感情をどう解きほぐすのかっていったことが描かれている。個々に主に思春期の若い人、そしてそれを外れて人間として誰もが少なからず経験をして思い抱き悩んでいるだろう事柄が、示されている上にそれぞれに他力本願ではなく自分の意思と、それに呼応する仲間の思いによって解決していく方策が語られている。見れば若い人ならそこに自分を見つけ、どうすればいいかを考えこうすればいいのかもといった道を得られるだろう。

 技術的にもスゴいし見せ方もすばらしいしテーマ的にも深い「RWBY」。それをアメリカの人たちが日本人にも分かるし日本人だからこそ喜べるかもしれない雰囲気で作り上げたというこのグローバルな姿こそが、クールジャパンとやらのひとつの成果ではあるんだろう。そしてこのままでは向こうに先に行かれる可能性も。だってやっぱりスゴいもん、あのバトルシーン。モンティ・オウム監督亡き後どうなっていくか、って不安はあるらしいけれど、それならアクションの得意な才能を招くって手も。そういう才能なら日本にゴロゴロいるし。そういう合作が成り立たないかなあ。さても本当のイベント上映は14日から。そこでの成果とBDの売上げが続くvolume.2の日本語版の製作から上映へと?がるならば応援せざるを得ない。可能な限り声上げて行こう。

 すごいなあ緑の王。あんこ大好き淡島世理を蹴散らしたものの怪我をさせず横倒しにしてお尻とか世間に見せてくれたあたりに好感が持てたけれど、そんな自身の体力不足を補うかのように岩さんこと灰色の王がゆったりと現れすべてを持って行こうとしている。いったいいつから知り合いで、どうして結託をしていたのか、なんてことも含めて語られそう。青の王に赤の王に白の王まで並んで円卓会議以上の巨頭会議になっているけど、戦ったら世界も滅びる状況にいったい何が起こるのか。そして緑の王に名前を言われたネコの本当の正体は。仲間とか言われていたから緑の王も鳥人間か犬男か何かなのか。いろいろ気になる「K RETURN OF KINGS」の続きを知りたかったら「アニメージュ」を読めば良い? 別にもう情報誌とか見なくても毎回の放送を追っていくだけで満足してしまえるんだよなあ。貪欲さがなくなってしまったというか。それがテレビでアニメを見るってことなのかなあ。

 そして劇場限定版の「RWBY」のブルーレイディスクは販売が14日からだと聞いて、どうせ朝1番で買いに行くんだからついでにもう1回、劇場で上映を見ようかと初日の初回を購入、新宿ピカデリーでも1番大きなシアター1での上映はたぶんこの日のこの回くらいなんでそれも鑑賞を決めた理由。でもって早寝して早起きして新宿に向かう途中、ツイートになにやら不穏なニュースが流れてきたんで海外のサイトとかを見たらフランスでとんでもないことが起こっていた。劇場というかほとんどライブハウスが襲撃を受けて人質にとられ、そしてカフェとかレストランなんかが並ぶ通りで銃撃があり、はてはスタッド・ドゥ・フランスってつまりはワールドカップの決勝とか行ったスタジアムでも爆発があったりして、パリ中が銃声と爆音に包まれている。

 スタジアムなんてサッカーのフランス代表とドイツ代表っていうそれこそ天王山みたいな親善試合が行われていたそうで、オランド大統領も観に行っていたというから何かあったらこれは大変。ただ流石にスタジアムの中に突っ込み自爆とはいかなかったようで、そこでは外で自爆した模様。それでも幾人かはなくなり、スタジアムの中からも爆発の音は聞こえた。もしも中に潜入が成功していたら、とんでもないことになっただろう。それは流石に阻止されたけど、でも街中で銃を発砲したり、人の集まるライブハウスなんかを襲撃するのを止める手立てはなかなかない。銃器を取り締まるにしたって日本みたいに銃器とは縁遠い国ではない。爆発物だってどこかからかやって来る。そんな国でこうしたリスクを減らすなんて警備を強化するだけでは追いつかない。

 1月の風刺新聞シャルリー・エブド襲撃だったら相手が狙ったものがイスラムの予言者ムハンマドへの冒涜だったという理由もあって、それを抑えることによる回避という手は打てた。もとより言論に自由はあっても責任と伴うものなら、その範囲内で戦うというのが言論というもの。逸脱した部分に対して人命をもってあがなわせる暴虐は認めがたいとしても、それ以前にやれることはやれた。でも今回はフランスという国自体が狙われた。だからそこにいる誰でも良くってカフェが撃たれライブハウスが撃たれスタジアムが爆破されようとした。それを止めるのは国というもののスタンスを問うしかないんだけれど、それは世界における国のあり方にも関わってくるだけにむずかしい。シリアをどうするか。どうにかしなきゃいけないとは分かっていても、それに手を付けると与した一方の敵対者からの攻撃をくらう。じゃあ手を引くか。それで不幸になる人が大勢出る。難しい。

 対話によって分かってもらえる相手なのか。もはや無理かも知れないけれど、初期において対話が有効な時期はあったかもしれない。あるいは喧噪の中で疲弊した相手が対話を求めてくるかもしれない。そんな事前事後のシグナルを見落とさないようにしてとらえ、不幸の連鎖を最小限に抑えるような道をとにかく探り続けることでしか、悲劇は止められないんじゃないかという気がしている。どこかの血気盛んなヒゲの元隊長とかはすぐ、警備の強化だ何だと言うけどあれだけ警備をしていたフランスですら、悲劇を止められなかったのに1000万人が暮らす東京で何ができる? 爆弾なんてなくてもペットボトルのガソリン1本で多くを燃やせる訳で、だからそういう行為へと至る動機を無効にすることでしか、平穏は保てないのだということを考え無いといけないのだけれど、自分が安全圏にいる人たちは血気盛んなことばかり言う。それでプライドを満たそうとする。不幸になるのは弱者ばかり。この非対称こそがやっぱり元凶なんだろうなあ。もはやハーモニー・システムを起動させるしかないのかなあ、人類。

 そして見た3回目の日本語版「RWBY volume.1」はやっぱり最高に格好良くって面白かった。見て12時間も経ってないのにまた見て楽しい作品ってのもそうはないけど、これは別格。冒頭でのストリートファイトから実力テストでの集団戦といったあたりのアクションシーンで、さまざまなギミックを混ぜつつスピードやパワーを殺さないでむしろ高めていくような展開って奴が考え抜かれていて、さあやっつけたって時に得られるカタルシスが半端ない。こういうアクションを組み立てられたことが、キャラクターのビジュアル的な可愛らしさとも重なって人気を呼んだんだろうなあ。そりゃあ3DCGの造型として昨今のアニメ的なものに寄せた作品と比べれば劣るかもしれないけれど、それを補って余りある顔立ちや表情や仕草の魅力がありアクションの冴えがありドラマの深さがある。これを完璧なセルルックで作って魅力は出せたか? それでアクションの冴えが減殺されたら意味が無い。あのパッケージだからこその魅力ってことを、見下す意味を一切混ぜずに訴えたい。ただやっぱり思うのはロマのフ比嘉さんの「CATBLUE:DYNAMITE」にルックとかモーションとかアクションで重なるんだよなあ。あれが完成した作品になていたら日本の3DCGアニメーションはもっと早くに蜜月を迎えていたかもしれないなあ。


【11月13日】 講談社でもなく新潮社でもない、140Bっていう関西ローカルで活動している版元から出たというのはつまり首都圏での需要がないからなのか、首都圏の版元が臆したからなのか分からないけれど、その中身はといえば関西の版元にして関西のメディアを縦横無尽にぶった切るようなすさまじさ。読んで恥じない関西のメディア関係者、とりわけテレビ番組を作っている人がいたら、それはもう確信犯として橋下徹氏という稀代のカリスマを信奉し、崇めて敬っていたってことになる。でも大半は数字になるからという軽いノリ。それが相手の暴言も許容し、反論もしないまま出演の機会だけあたえていたら、知らず世間から知名度という名の支持を集め、その暴力的とも言える言葉に信者もついて今みたいなモンスターができあがった、と。

 そんな話が書かれていて、読むほどにメディアの片隅にいる物として尻が痛くなってくる松本創さんによる「誰が『「橋下徹』をつくったか−大阪都構想とメディアの迷走」というルポルタージュ。読んでまず思ったのが、大阪府知事への就任から大阪市長への鞍替えを経て都構想をねらっての出直し選挙があり、そして住民投票もあってそれに敗れながらも政界引退どころか新しい党を作って打って出ようとしているくらいの地盤を持っている人物が、府知事なり市長として行った政(まつりごと)で成し遂げたことが、まるで見えないっていうこと。個別に探せば暴力的な部活のコーチを更迭したとかあるけれど、それは誰が市長でもありえたことで、逆に選んで送り込んだ民間登用の校長なんかが多く不祥事を働いて辞めていることの方が、プラスを削って余りあるというか、迷惑千万というか。

 そんな橋下徹氏当人への批判も当然にあってしかるべきだろうけれど、松本さんの筆が向かうのはそうした結果なき人物を持ち上げて、崇め奉っては未だ絶対的な地位に起き続けているメディアへの懐疑。問題を起こしても突っ込まず、反論を聞き流しては知らずその暴威を認めてしまうのはなぜなのか。あまりに暴言が頻発するのでいちいち付き合ってられないというのがありそうだいs、また巧みな誘導で市民とやらを味方につけて権威に挑むチャレンジャーとった雰囲気をまとっているんで戦えないってこともありそう。今や相手が絶対的な権威であるにも関わらず、それを漂わせず弱者についたフリをする。それを糾弾し化けの皮を剥がせば良いのにやらないメディアの無手ぶりが、今という状況を招いてしまったって言えるのかも。

 こうなると自分たちがいわれのない中傷を受けても、それに逆らうと後が面倒と引っ込んでは守るべき大切な部分すら放棄して行ってしまう。大誤報だなんって攻撃をされた放送局があて、その番組に出演した大学の人がそれはどうなんだ、誤報なのか違うんだったらどうして反論しなんだと番組で糾したのに、ご意見は承りますといって逃げて対決しなかった。後にその大学の人が出そうとした本には異論が差し挟まれて出版社が代わる事態も起こった。明確な言論への挑戦。そんなあり得ないことが起こっているのにそれが普通になってしまったメディア状況。作り上げたメディアの罪は重いけれど、今ならまだ取り返せるかそれとももう遅いのか。ダブル選挙の結果次第ってところかなあ。住民投票とは意味が違うものなあ。

 なんだ面白いじゃないか「ルパン三世」。前回までショボい事件にちょこちょこ絡んで活躍もしないで退散するようなヘボいルパンを見ていたんで、ちゃんと仕事をしてはいろりと絡んで起伏もあってそして落ちもあり、なおかつ先にいろいろと展開も見えてこれからのエピソードが見逃せなくなった。これまでのショボいエピソードももしかしたらそうした大きな展開への前振りであり布石であり伏線なのかもしれないけれど、それにしても個別のエピソードがショボすぎて見放してしまった人も少なからず居る。そういう人たちが戻ってきてくれるかどうか。来週のエピソードにとりあえず掛かってくるかなあ。ニクスとか活躍するとか不二子が脱ぐとか。だいたい脱いでいるか不二子。でもやっぱりルパンの驚天動地の活躍が見たいなあ。彼はコメディリリーフであるべきキャラじゃないんだから。

 映画「ハーモニー」を見た。いわずと知れた伊藤計劃さんの絶筆ともなった作品が、実はそういう話だったんだといういことが、小説を読み飛ばしていた身として振り返って理解できた。ネットワークだとかディストピアだとかいったタームに囚われがちになりそうだけれど、とりたてて難解さはなく、むしろ真っ直ぐに人間の中の悪意だの善意も含めた感情なんかも覆ってしまって、調和という名の平衡状態に人類を持って行ってしまおうという思想。それを駆動させるために、一時の混乱を起こし自らそのためのスイッチを押させるという意図を持って暗躍する少女を追って、かつての同級生が世界を走る。そんな感じのストーリーが、映画の中で映像として繰り広げられていた。

 意識を持たずに生まれた少女が、迫害の中から恐怖をより所に芽生えさせた意識を、調和の中に埋没させることで得た幸福っていうのはどんなんだろうと思うけど、その悦楽をあまねく人類に与えたいと思い行動するのだろうか、むしろ復讐のためにすべてを殺戮の渦にたたき込みたいと思うのではないか、なんて懐疑は小説が発表されてきてからこっち、これまでも散々に為されてきたんだろう。あるいは地獄のような場所から来た日本で得られた、牢獄のような気分に何かを意識し判断することよりも、それを全力で幸福と感じられるようにすれば良いと考えたか。分からないけれどもそうした少女のつかみづらい動機を探り、自分自身は意識というものにどう向き合い、世界というものがどうあれば良いと願いそしてどう生きるのが自分にとって最大の幸福かを改めて問い直させる映画、ってことになるのかな。

 管理されているとはいえ「Watch Me」がある世界が決して抑圧もされていなければ牢獄のような世界だとも思えないのは、自分が楽していきたい歳になり、可能性とか夢みられない歳になったからなんだろうか。健康万歳。そして食事もできて住処もある。悪事なんてない。でも自由さはまだある感じ。ゲームやっても漫画を読んでも咎められないなら最高じゃん、って思うけれども管理され、監視されていることその事実が気分に何かを与えるというなら、それは人間が生来持っている動物的な本能めいたものなのかもしれない。周囲へのしがらみもなく世界に対して不安を覚えがちな若い人にとって、今という自分を誰かに委ねることになる恐怖、ってのに囚われるとそれが増幅していくのも仕方が無い。

 だから出た若年層の自殺。それを増幅させる装置として、ミァハは行動しようとして失敗し、けれども再帰して今度は全人類を恐怖すら味わえないような身にした。恐ろしいことだけれど、彼女にとってはそれが当然の、何の感情もなく計算もなしにそうなってしかるべきことだったのかもしれない。その合理性に身を委ねた人類が、その後にどうなっているかは描かれていないけれど、きっと真っ白な中に時折浮かぶきらめきのようなものに、悦楽というものを感じているのかもしれない。そんな映画「ハーモニー」の脚本は山本幸治さんで、つまりはノイタミナのプロデューサーな人だけど、ちゃんと書けててストーリーの要点をつかみ、テーマを抽出して展開の中で分からせそしてクライマックスへと盛り上げていた。

 ひまわり畑でのドンパチから、トゥアの目の前でキアンが事件を起こすの一件までに間があいて退屈さも漂ったけれど、それがキアンの一件をより凄絶でショッキングなものとして引き立てる効果もあるといった感じ。牢獄の停滞に現れる暴威。そこから動き出す物語。ちゃんとつかんでる。引き付ける。絵も可愛くスタイリッシュ。沢城みゆきさんは巧いけれどここはミァハ役の上田麗奈さんがすばらしすぎるというか。澄んで高潔そうで含みもあって底しれないという声。聞いていると惑わされそう。そして惑わされた者たちがいっぱい。でもミァハ、最後は1人だったよなあ、組織ってどうなってたんだろう。そこは気になった。

 一応は犯罪なんて起こり得ないユートピアなんだけれど、そこに漂う胡散臭さ、鬱陶しさは「PSYCHO−PASS サイコパス」へと引き継がれ、電脳化された世界の全能感は「楽園追放」へと流れていったという感じ。それらに先駆けて物語として世に問われた「ハーモニー」に影響を受けたか、SFの主題として脈々と流れていた物が、ベストセラー作品の登場で刺激を受けてあちらこちらに噴出したか。その両方だろうとは思うけれど、いずれにしてもこうして立て続けに世に出て未来社会の諸々を問うた物語たちから、今の世界に暮らす人たちは何を思いどう振る舞うか。それが問われていると言えそう。そうした状況を呼んだ原典として、改めてアニメ映画化によって関心を集めることになるかな、小説版「ハーモニー」も。改めて読んでみるかなあ。


【11月12日】 鴻上の諦めの悪さと、磯崎の諦めの早さが際立つ感じて対比され、人間ってどう他人と関わるべきかなあなんて思わせた「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」のアニメーション。橋で何かお供えをしている喪服のような着物を着た女性を見つけた鴻上が、残された遺書みたいな手紙と指輪に自殺でもするんじゃないかと慌て、そこに行き会わせた教師の磯崎も頼んだけれども彼は彼で死にたいなら死なせてやるのが良いんじゃないかと言って対立。それはあまりに無情だけれど入れ込むのも良くない感じ。とりわけ一生懸命探して見つからなかった果てに自殺体が発見されて、自分を責めるようなことになるのは不味いと言った判断もあるけれど、結果は迷子の櫻子さんが現れ「さあ、謎を解こうじゃないか」。いやその決めセリフはなかったかな。とりあえず解決。でも残った不穏な空気。次に?がるのかなあ、死を呼ぶ花房の影を呼んで。

 口があんぐりと開いて、地球だって飲み込めそうな気分とはこういうことか。とある新聞系のウエブサイトに、そこん家が刊行している雑誌からの転載をトップ級の記事でもって載せていたんだけれど、その中身がもうことごとくにポン酢というか、間が抜けているというか。書いているのは藤岡勝信さんっていうライトなお方で、テーマはユネスコへの記憶遺産登録で話題になった南京事件。藤岡さんは「ここで、私は日本の政治・外交を担っているトップエリートの皆様に是非お願いしたいことがある。東中野修道亜細亜大学教授の『「南京虐殺」の徹底検証』(1998年、展転社)以後の『事件否定』の研究を真面目に読んでいただきたいと念願する」と書いている。ほら、口がぽかああんとなった。

 ちょっと前に親学の牽引役としていろいろと言われている高橋史朗さんが、政府に頼まれユネスコに意見書を出した時に引き合いに出した人ととして話題になった東中野修道さんは、あれやこれやと南京事件の“証拠”に難癖をつけては、その物言いを批判されて裁判を起こされ敗訴して損害賠償まで払ったといういわく付きの人。「南京事件」について語る上でもっとも引き合いに出してはいけない人をどうして政府がと言われ、それが敗因になったとまで指摘された人をここでは最大のオーソリティーとして挙げて奉っている。そんな人を持ってくる以上、言いたいことはひとつ。「過去15年間の南京研究の成果を要約するのは簡単ではない。もし、その結論をひとことで表すとすれば『南京戦はあったが、『南京虐殺』はなかった』というものである」。つまりは完全否定。それは少数でもあったという政府の見解にすら、真っ向から立ち向かったものだと言える。

 内心はともかく表向きは政府の顔になっている安倍晋三総理は、いちおうは事件はあったといった立場に立っている訳で、そのご威光にすら逆らおうって言葉であり、それを載せた以上は媒体としても、そうした立場で政府すなわち安倍総理のご威光に棹さそうとしてる感じだけれど、ここで考えたいのはこうした人たちやら媒体が、安倍総理の思いを忖度して何かを喋っている可能性があるってことで、つまりは内心、否定したくてたまらないけど総理という立場からそれが言えない安倍晋三氏の思いを、こうやって代弁しているってことなのかもしれない。それを学者めいた人やら新聞めいた場所がやってのける。気持ち悪いというか、面倒くさい状況になっている。

 それは「南京事件」の針小棒大化に異論を述べつつ実態を調べて最小限の数字を出して、これなら世界だって納得させられるし自分たちだって収まりがつくと思わせた秦郁彦さんですら否定し、完全になかったことにしようとしている節からも窺える。「秦氏は慰安婦問題では第一人者だが、南京事件の概説書を書くのが早すぎたのかも知れない」ってもう真っ向否定。でもねえ、藤岡さんが早すぎたといって否定した本を、秦さんは2007年に書き改めて「南京事件 増補版『虐殺』の構造」(中公新書)として刊行しているんだよね。最新の情報も踏まえた上で、前の意見を改める必要はないと断じているその研究を、まるでなかったかのように書いてしまえる神経が分からない。研究者としても失格だろう。

 それを指摘しない編集の態度もちょっと解せないかというと、元より自分たちの論に都合の悪い意見は聞かないか、なかったことにしる癖を持った人たちだから、これもあるいは当然の振る舞いって言えるかも。そういう態度で自分たちの気持が良いことばかりを訴えているから、歴史戦とやらだって連戦連敗が続いているんだけれど、そういう敗戦ですら聞こえなかったふりをして、言いたいことだけを言い続けることで言っているんだという快楽に溺れている。そしてそれを支持する人たちも支持しているぞという快感に酔っている。でも快楽だの快感で回る世界は狭いわけで、周囲では批判の包囲網が生まれるなり、呆れて無視する風が吹くなりして存在感を狭めている。それに気付いているのかいないのか。いたって縋るところがそこしかない以上は、極論でもって居場所を狭めながらも戦っているふりをしていくんだろうなあ。そして敗戦、焦土、全滅と。やれやれだ。

 割とアニメ度数が高いようにも思っている周囲に、見に行ったとよという人がいなくてクルツの胸とかのぼよよんぶりとか、サイード博士のツン眼鏡ぶりとか、エマのふりひらと踊っている妖精さんぶりとかを話題にできないのがちょっと寂しい舞台「攻殻機動隊ARISE GHOST IS ALIVE」をまた観に行く。これで2回目。文字通りのライブだけあってセリフが変わったり掛け合いが楽しくなっていたりと違う見どころもあったけれど、やっぱりすばらしかった草薙素子の素子っぷり。スリムだけれど芯が通っていて歩く姿も格好良ければ戦う姿も迫力満点、さすがは空手の経験者ってところを見せてくれる。それでいてドレス姿も美しい。これからぐんぐんと来そうな予感。青野楓さんだっけ。追いかけよう。

 あと護あさなさんが演じるクルツのクルツも、改めてみてもうそのまんまというか、すらりと伸びた足とかはち切れそうな胸元とか。ボタンがとんでくれたらもう目が嬉しさの余りに飛び出しそうだけれど、それはさすがになかったなあ、千穐楽ではやってくれたりしないのかな。そしてサイード博士。ある意味でこの舞台版では最大の黒幕といった感じになっていて、あのクルツですら跪かせるんだからスゴいもの。そのアクションがもうちょっと見たかったけれど、相手が素子ではやっぱり勝てないか。その登場シーンとそして脱出のシーンに3Dでありプロジェクションマッピング的なものを導入した舞台ならではの醍醐味もあった。出て来てそして消えていく。高いところから飛び降りる名場面とか、舞台で生身の役者が演じるわけにはいかないものなあ。

 ストーリーもborder:2とborder:3あたりをシャッフルした感じがつかめて、クザンでの事態と現在の事件との行ったりきたり、そしてバトーとイシカワとボーマが捉えられては救出されて最後の戦いへと向かうあたりの身の処しようがだいたい掴めて、それがストーリーの進行にどう関わっているかも把握できたんで見ていて安心できた。ラスボスを倒して一件落着の後、メンバーが揃い公安9課が立ち上がるまでのストーリー。その先ってのも舞台で見たいけれど、それはむしろ実写映画におまかせ? でもこのメンバーは舞台だからこその雰囲気なんで、実写はまた違う人が演じてくれるかな。素子とクルツとサイード博士は是非にそのままで。さてもどうなる。あと1度くらいは見ておきたいけどお金が続かないので考え中。缶バッジもあと3個でコンプリートなんだけれど、サイトーとイシカワとイバチなんで集める気力が……。そいういうものだ。


【11月11日】 しかし読めば読むほどにジワジワとくる「週刊ダイヤモンド」の2015年11月14日号でのテレビ業界特集、っていうかほとんどフジテレビ特集。「孤独のグルメ」のドラマ化をみすみす手放しては後になって上から目線で下に文句を言って、やってられるか感を醸し出しているって話なんか、そういう記事があるって紹介に対してそれはあり得る話だっていう反応が山ほどあって、今のフジテレビっていう会社が、いかに信頼を失っているかが分かる。ドラマ化すれば原作を破壊してつまらないものにする。キャスティングはプロダクション優先でまるで印象の違ったものにしてしまう。そんなのばかりではない、とは思うけれども、それがフジテレビのスタンダードだと世間に思われてしまっているという不信ぶりは、容易には払拭はできそうもないだけに、ここしばらくは苦戦が続きそう。

 これからはネット配信だとかぶち上げたって、作ったドラマをネット向けに配信していなかったりする状況に対してどういう判断をしているのか。つまりは見逃し配信サービスなんかで「恋仲」は配信が行われているのに、「5→9〜私に恋したお坊さん」の配信が行われていなかったりする状況は、背後に事務所的な何かがあるって想像はさせるんだけれど、そういうことを面前とは言わず総合的な判断という言葉ですり抜けようとする。でも世間は知っているし、作り手だって分かっているうから日本テレビなんかはそういう事態が起こらないようなキャスティングを始めているとか。それで放送分が視聴率を下げたら意味がないんだけれど、企画力で勝負し人気も集めてネットでも確保する。逆にフジテレビはテレビでもダメな上に配信という手段でも視聴者を囲い込めないとあっては、まさに八方ふさがりで現場のやる気も下がるだろう。

 ダメにダメが重なって出来たネガティブなイメージ。それをガラリと変えるような手を何か打てれば良いんだけれど、それって記事にも指摘されているとおりに、トップの去就に関わってくることだからちょとちゃそっとじゃ動きそうもない。というか本当にトップのせいなのか。会長がキャスティングしている訳ではないだろうし、編成をしている訳でもない。そうした威光めいたものに勝手に目をくらませて、何事もないように遠慮して自粛して身を縛っている中間があって下もあるから、全体として爆発力が足りなくなっているんじゃないのか。意欲ある人はだから深夜帯なんかで挑戦しては、それなりな評価も得ていたりする。中でダメならと外で仕掛けて「孤独のグルメ」を成功させたグループ会社のプロデューサーもいる。才能はある。企画力もある。それを実行させない空気、ってものを変えないと動かないような気がするなあ。それはどこでも一緒だけれど。

 ライトノベルのレーベルの編集長さんたちがそろって出席するって会見があったんで赤坂へ。インデックスが正式にスタートさせた「ストリエ」っていうサービスで、例えるならLINEのメッセージが文章になって小説として連なっていく上に、スタンプよりしくキャラクターの顔なんかも添えられて、イラストも入れて縦スクロールの物語を仕上げられるという機能を持っている。漫画とはちょっと違うけれども小説からは拡張された読み物。縦スクロールで追っていきながら時々でてくるイラストも楽しみつつ物語の世界に没入できる。なるほどこれは新しい。

 そんあ新しさは、小説だけじゃなく添えるキャラとか背景とかのイラストも投稿を募っているってところにもある。小説が書けない人は絵を描いてアップしておけば、小説を投稿した人に使ってもらえるし、自分が描いたキャラクターなり世界観を使って、小説を書こうっていう人が現れてくるかもしれない。ユーザーがジェネレイトするコンテンツのひとつの形。小説家になろう+LINE+LINEスタンプ+pixivって言えば良いのかな。これにてとは映像とか音声とかも添えて+ニコニコ動画ってことにもなっていける可能性。そういう場所から生まれたコンテンツが、従来の小説とかライトノベルとか漫画といったものをどう変え、どう飲み込みながら発展していくかってところに興味が及ぶ。読む側の意識もどう変わるかも。もはや縦スクロールの短文コメント形式じゃないと小説が読めなくなるとか。それは困るか、小説好きには。

 そしてそんな「ストリエ」にライトノベルも参入。いったいどういう風に関わるんだと思っていたら、既存のライトノベル作品を「ストリエ」のフォーマットにして提供していくんだとか。キャラクターの会話はフキダシに入れてキャラの顔を添えて掲載してあって、時々擬音なんかは書き文字風に直して張り付けてある。漫画じゃないけど小説でもない新しいテイストのコンテンツに仕立て直している。このライトノベルがスゴい!文庫から出ていた「魔法少女育成計画」とかは、元々が16人の魔法少女がくんずほぐれつする話だから、「ストリエ」化して16人のキャラを添えれば誰が何を言っているか分かりやすい。そういう場合は「…は語った」とかいった文章は省く必要もあるけれど。変換はインデックスが請け負って版元の監修を受けているのかな。

 そんな「ストリエ」に居並んだのがこのライトノベルがスゴい!文庫のほかにファンタジア文庫にJUMP jBOOKSに小学館のルルル文庫に講談社らのべ文庫にMF文庫J。作品も賀東招二さんの「フルメタル・パニク」があるし杉井光さんの「生徒会探偵キリカ」があるし一迅社文庫からはテレビアニメーションも放送中の「俺がお嬢様学校に『庶民サンプル』として拉致られた件」も入っている。それらが「ストリエ」風に直され読めるようになっている。既存のライトノベルではもう行き詰まり、アニメ化て展開も限られる中でドラマCDでもない「ストリエ」化って選択肢が加わるってことでもあるのかなあ。それに作家はどう応じる? 増えていく作品があれば楽しみ。あれとかこれとかそれとか出てくるかなあ。

 家に鍵をかけるのかけないの、危険に遭っている恋人を守るの守らないのといった話を持ち出して、憲法違反という状況への懐疑、そして集団的自衛権行使への懐疑から運動している若い人たちを非難できる頭の構造が、いったいどうなっているんだろうかと知りたくなった、某新聞社系出版社の社長という人のコラム。そういう安い情動を誘う言葉で動く世界でもないのだけれど、この人の界隈ではこういう揶揄を放っていることが、一定の居場所確保に?がるから厄介というか。負け続けたって歴史戦を続けるようなことにも?がるポン酢っぷり。でも世間は間抜けじゃないからその界隈だけ草を生やしながら見放していくだけという。結果、起こるのは衰退なんだけれどそういう意識もないんだろう。上の方では出す金もなくなっているとうのに。どうなるかなあ。明日はちゃんと来るかなあ。

 国威発揚とかいった考えはなくても、三菱航空機が作ったリージョナルジェットのMRJが初飛行に臨んで無事に離着陸を成功させたといったニュースは、ボーイングやエアバスといったところから買わなくても、日本でもしっかりとジェット旅客機を作れるんだと言うことを世間に分からせたという意味はあったような気がする。もちろんサイズはボーイングやらエアバスの大きな機体に比べればケタが違うけれど、それでも膨大なパーツが使われ設計技術も駆使されて作り上げられた航空機がちゃんと動くということは、逆算してそういったシステムや部品といったものを作り組み立てる技術もあるということ。これでしっかりと事業化が進めば、裾野が広い産業へと発展していってくれると思いたいけれど、それで儲けられるのかってところも気になるなあ。売れるかな。安全のままでいられるかな。見守りたい。


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