縮刷版2015年10月下旬号


【10月31日】 そして所長までもがヘリコプターの中で殺害されて犯人らしき存在は見えず研究所内に入ったという可能性もあって誰もが怯えるかと思ったら、案外に冷静に事態に対処しているあたりが研究者らしさというか、感情より先に探究心が動いて真賀田四季博士の死因に興味が向かっているというか、そんな感じのアニメーション版「すべてがFになる」。館内をあっち行ったりこっち行ったりしているだけで時間は経つものの展開は見えず、犀川創平のTシャツも「パン」のままから変わらずこのままずっとこれで行くのかとすら思えてきた。でもさすがに着過ぎな。それを言うなら西之園萌だってずっと同じ衣装か。下着も含めて。いろいろとふくらむ妄想だけれどこの後どうなったっけ。そして犯人は。原作を読んでいても思い出せない。でも読むのはアニメが終わってから。でないと驚けないから。

 下着と言えばフローレイティアさんがしっかりと赤いのを見せてくれたのはTOKYO MX基準的にはオッケーだったということか。でもだったらどうして「監獄学園」の副会長はあんなに光が出まくっていたんだろう。抑制することによってパッケージソフトを買わせようという魂胆? でも買う人は買うし買わない人は買わないからなあ、今って。ともあれ「ヘヴィーオブジェクト」は、クウェンサーがまたしてもひとりでオブジェクトに挑んでは勝手に自重で沈むように誘導してこれで撃墜星2つめ。たかだか勉強中の整備学生に倒せるんだったら、世界の優れた才能がこぞって挑めば破壊できたと思うんだけれど、そういう状況が必要のないくらいに一騎打ちがシステムになっていたのがだんだんと崩れ、戦乱の世に戻りつつあるっていう判断で良いのかな。原作だとそういう感じだけれどアニメはそこまで深く描けないから。だから莫迦が虚仮の一念で巨像に挑み倒す無茶への呆れを、フローレイティアさんの太ももや下着で覆って惹きつけている、と。そういうのもありかなあ、アニメならではのお楽しみってことで。

 せっかくだからと朝からTOHOシネマズ日本橋に行って「機動戦士ガンダムORIGIN2 哀しみのアルテイシア」ではなくドキュメンタリー映画「WE ARE Perfume −WORLD TOUR 3rd DOCUMENT」の方を前目でじっくり鑑賞。ライブに行ったところで後方から、あるいは上方から見る芥子粒のような存在でも、こうやって劇場で公開されると仰ぎ見るくらいに巨大な姿で拝める訳で、それを遠い席からテレビよりも小さいサイズで見るなんてもったいないというのがひとつと、真下から見上げればもしかしたら見えるかもしれないという興味がひとつあっての席選び。もちろん映ってないものが真下からだろうが遠方からだろうが見えるはずはないのだけれど。VR全天周での収録になったらそういう可能性も出るのかなあ。でもって誰もが前目の席を取りたがると。いやでもそれは個人が家で見ることになるのかな。いろいろ浮かぶ未来の映像。

 これも未来的と言えば未来的なサウスバイサウスウエストでのパフォーマンスから入った映画「WE ARE Perfume −WORLD TOUR 3rd DOCUMENT」は、観客席からとらえた映像が左右に揺れてそれもカメラを手持ちで移動しているんじゃなく瞬時に左右へと動くという不思議があり、ステージ上で歌っているPerfumeの3人が突然にCGで作られたホールの中に立って歌い踊っているのがまたライブ会場へと戻る切り替わりがあってと不思議が満載。その秘密は前にイベントで映像を仕掛けた真鍋大度さんが明かしてて、ドローンじゃなく並べたカメラから撮った映像を繋いでいるのとあとはあらかじめ設計した空間の中に実写から繋いでいるのとがあって、とくに後者はPerfumeが動くとズレるんで、予定通りに正確に踊るPerfumeの技術が不可欠だったとか。

 聞いてなるほど技術的にはそこまでの仕込みがあったのかと分かったけれど、運動的にPerfumeにいったいどれだけの能力があるかってのもこの映画を見てだいたい分かったというか、それこそ10歳ちょっと出たあたりから一緒に活動を初めて踊り続けてきたメンバーが、厳しいツアーの中で曲目を入れ替えてもそれに即座に対応できるくらいにすべての楽曲のすべての踊りを覚えつつアレンジへの感性も持っている様子。楽曲の合間にどういった動きをするか、MCを挟むか間髪入れずに楽曲に行った方が盛り上がるのか、この曲を外国でやった方が良いんじゃないか、この曲を最後に持って行った方が会場も沸くんじゃないかってことを、その場その場ではっきり行ってそれに当人のみならずスタッフも付いていって素晴らしいステージを作り上げる。凄いユニットだとしか言い様がない。

 でもって反省点が出ればそれを話し合い次につなげるという繰り返しを、ツアーの間じゅうずっと続けていくのは心理的にも体力的にも大変なはずなのに、それをやりきることがファンのためであり自分たちの成長のためでもあると知っている。そういう積み重ねが日本での成長を促し海外への進出を促しそして躍進へと繋がっているんだろう。今に安住せず明日に耽溺しないその態度は、学びたいところだけれど今が精一杯な頭ではなかなかついて行けないなあ。でも少しは頑張らないと明日は来ない。そう思える内容だった。あとやっぱり3人では知的な雰囲気のノッチでもクールなかしゆかでもなく、明るくてどこか脳天気っぴあーちゃんが1番リーダー的に引っ張り意見も良い、それが的確で全体を高めていることが分かって面白かった。いろいろ見えているし感じているからこその前向きさ、って奴なんだなあ。

 台湾からはじまりシンガポールからロサンゼルスを経てロンドン、そしてニューヨークへ。どこの国でもちゃんと観客が居てそれが日本からの遠征ではなく地元の人たちでシンガポールなんかはオーストラリアやマレーシアからも来ていてとまさに世界的。ロサンゼルスとかロンドンとか、会えて嬉しいと涙ぐんでしまう子がいて人生を変えたとも言ってたりして、アーティスト冥利に尽きるというかそれくらいの影響力を日本の音楽は持っている。あとは出会える機会を作ってあげることだけれど、そが日本はなかなか弱い。日本向けのプロモーションとして海外進出を喧伝しても実態が伴っていないというか、その程度でオッケーとばかりにイベントでちょっと歌い日本から連れて行ったファンの前でパフォーマンスを見せて海外進出と騒ぐだけでは意味ないし、海外の映画に楽曲が採用されたからといって喜ぶのもまるで無意味。外資系のメジャーレーベルと契約したからすぐに海外で販売開始? そんなに甘いものじゃない。

 だからやっぱり地道に出ていくしかない訳で、3年前から2年前から1年前とだんだんと進出をしてライブをしつつ映像を広めていった果てに、ようやく数千人が入る箱いっぱいに現地のファンを集めることができるようになった。そんなひとつの成果がツアーのファイナルとなったニューヨークで、アンコールの最後の楽曲「MY COLOR」を歌っている時にあーちゃんがハンドサインを説明しながら歌うとそれにしっかる観客がついて踊って見せた。このライブは日本の劇場で行われたライブビューイングで見ているけれど、カメラ位置とかステージを向いていたから観客がどれだけ盛り上がっていたかは全部は見えなかった。ドキュメンタリーだとフロアだけであく2階3階といった座席の上の後ろまで、人が入ってハンドサインを見せていた。ホール全体が湧いていた。それは大きな成果。とても大きな結果。次に?がる。確実に。

 それから1年。4回目の海外ツアーが始まったって話しは聞かないけれどでも、映画の中でアミューズの創設者で会長の大里洋吉さんがニューヨークまで駆けつけて、花束を渡して激励をしつつあーちゃんが挨拶で2年後にはマジソンスクエアガーデンで2daysといったことに喝采を贈っていた。1年が経ってどこまで進んでいるかは分からないけれど、いろいろなことを成し遂げてきた大里さんがバックについててできないはずはない、って思いたいけれども果たして。とりあえずいつかかなう夢として見つつ日本での活動をあと何度か、見ておきたいなあ、東京ドームの最上段からしかまだ見て無いし。1点、映画のエンドロールで佐々ふみさんという人への追悼の言葉が見えて調べたら、Perfumeのライブをずっと支えてきた爆音姐さんだった。亡くなっていたらしい。見たかっただろうなあ、作りたかっただろうなあ、マジソンスクエアガーデン。彼女のためにもかなえたいその夢。どうすれば応援できるだろう。聞くしかないか、やっぱり、Perfumeを。


【10月30日】 「マクロスΔ(デルタ)」を発表した河森正治さんのデザインした自動車が変形するロボットが出ているという話を聞いたんで、昨日の「マクロスデルタ」の発表の後にそのまま東京モーターショー2015へと駆けつけて、トヨタ車体のブースに行って見たらなるほどガウォークとバトロイドだった。トヨタ車体が作った超小型モビリティが貨物になったりビークルになったりタンデムになったりと、使うシーンによってトランスフォームすることから戦闘機をトランスフォームさせた河森さんにコラボレーションの話が言って、自動車をどう変形させるかに取り組んだらしい。

 基本は小型の車でそれをコックピット的に位置づけ、足が出てガウォーク的に歩いたりするのがまず1段。そして次はコックピットが背中に回って顔が現れ手足も伸びて立ち上がるというのが2段目で、さすがに戦争はしないからバトロイドとは呼ばずロイドモードとしているけれど、そこは河森さんだけあってバルキリーのバトロイドに雰囲気も似た体型になっている。そうやって立ち上がって一体何に使えるのか? ってのは謎なところで、戦わないなら立ってるだけかという話になるけれど、手足が使えて狭い場所でも歩いて入っていけるなら、それはそれで使い道もあるんだろうなあ、高い場所のペンキ塗りとか。とりあえず車がロボットになるという夢を、ひとあし早くかなえた「エクスマキナ」に対抗して、トヨタ車体の財力と技術力でもって実現に挑んで欲しいところ。次のモーターショーでお待ちしています。

 村上隆さんの内覧会とかやってるみたいな六本木ヒルズだけど、呼ばれる大新聞の大文化記者でもないんでひとり、東京国際映画祭に行って劇場アニメーション作品「ガラスの花と壊す世界」を試写で見た。セカイ系だった。って実はよく知らないんだけれど、セカイ系の意味。まあ普通に言うなら電脳系。そして滅亡系。箱庭系。セカイを記録したデータベースの中で侵入してくるウイルスと闘う美少女の姿をしたアンチウイルスが2人いて、競い合っているところに現れたのが謎の少女。人間なのかプログラムなのか分からない少女と連れだって、アンチウイルスだった2人の少女はセカイを旅して交流を深めていく。

 もちろん記録されたものの再現だけれど、そうやって描かれる世界の形式がとても綺麗で雄大で壮麗。行ってみたいなあと思わせる。そこに起こった事件。そして現れた少女の本当の姿。世界が今どうなっているかが見えてくる。世界を救うのか。世界を守るのか。世界って何なのか。いろいろと浮かぶけれど、やっぱり気になったのは、どうして美少女2人で人格持ってて悲しんだり喜んだりするんだろうという必然。そこを考えるときりがないからそういうものだと思って見るのが良いのかも。知り合って触れあって楽しんでそれが奪われるとやっぱり哀しいねってことは分かるし考えることを放棄して安寧に身を委ねると滅ぶなあってことも分かった。そんな作品。続いたりするのかなあ。

 それは言い換えではなくって以前からある概念で、女性の社会進出なんかを研究するところではずっと使われていた「ソーシャルインクルージョン(社会的包接)」という言葉を、そういう方面で研究もしていた菊池桃子さんがこういう言葉が前からあるじゃんと持ち出して、指摘しただけってのがきっと例の一億総活躍なんて聞いても意味不明の言葉の下に大の大人たちが集まって、さて何をすれば良いんでしょうかと議論を始めた場所での私的だったんだろう。聞いてこれぞ的確、さすがは才媛と認め前からある言葉を思いつきもせず、それを実行すれば良いだけの状況を不勉強にも知らず鈍重な「一億総活躍」って言葉を取り出して見せた安倍ちゃんたちは、臥してありがとうございましたと礼を言うのが普通だろう。

 ただ、ちょっと横文字だからもうちょっとかみ砕いた日本語はないかなあ、なんてことを言って共に考えれば良いはずなのに、なぜか報道では菊池桃子さんが横文字使っちゃってごめんなさい的な状況になっていたりする。安倍ちゃんを取り巻くメディアももしかしたらソーシャルインクルージョンなんて知らない言葉で、自分たちが分からない概念を持ちだしてくるとはケシカランと憤ってやり玉に挙げて、我らが安倍ちゃんが提示した一億総活躍こそ素晴らしい、中身は何だか分からないけどと言って菊池さんを非難したのかも。そりゃあ僕だって知らなかったけど、聞いて調べればなるほどと思う言葉。それを掲げれば概念としても大きく定着して誰もが良い思いをするはずなのに、自分の思いつきにこだわり周囲にそれを強要し、周囲も共に奉る集団の頑なさできっとソーシャルインクルージョンが目指す世界が訪れることはなくなってしまうんだろうなあ。面倒な人たち。

 自分たちが言いたいことを言いふらすためには間違っていても汚れていても材料をかきあつめて並べるしかなく、それによって大勢が阿呆と目を背けても一部から喝采を浴びて瞬間の陶酔を得られればそれで良いのだという愚がまかり通ってはた目には悲惨極まりないことになっている媒体なだけにこれくらいは日常茶飯事なのだけれどそれにしても酷い酷い酷すぎる。とある新聞のウエブに掲載された岡山にある学校法人の偉い人のコラムだけれど、南京大虐殺がなかったということを良い体固めに挙げたのが本多勝一さんの記事。けどそれを紹介する時に「だが、昭和46年から朝日新聞に本田勝一記者による『中国の旅』が連載され、事態が動く」だなんて書いてあるから目が飛び出た。

 誰だ「本田勝一記者」って。本多勝一さんと本田靖春さんの合成か。どこかに本多靖晴記者とかいるのか。というのは冗句といしても人名を間違え指摘されてしばらくたつのに直さない。気付いてないのか。つまりはそれくらいリアクションの薄い記事なのか。でも集まるそっち筋からの讃辞に悦にいって「アクセス稼ぎましたぜー」と自慢している顔も見えたりしてやれやれ感が募る。あまつさえ、そんな本多勝一記者の主張をひっくり返すカウンターとして持ち出しているのが亜細亜大学の東中野修道教授だからもうなにをかいわんやだったりする。

 「それは『南京学会』の東中野修道・亜細亜大学教授等々の研究者の懸命な努力により、南京事件はまったくの『虚構』であることが証明されているからである」。いやいやいやいやいやいやいやいや。この東中野という人は他人の研究を横取りし適当なことを書き飛ばしては裁判で敗れ「南京学会」とやらもとっくの昔に解散してこっち方面では出してはいけない人となっているにも関わらず、持ち出して来ては論拠として並べる。編集者はこんな寄稿をダメだとどうして止めなかったのか。これはまずいと思わなかったのか。目的のためにはそうした過程など関係ないとでも思ったのかなあ。いやいや普通に知らなかったんだろうなあ。そういう過去にあったヤバい話しに関心を向けて慎重に、けれども正しく突破していこうと思っていたら、例の論説委員様への元朝日記者の突っ込みなんてことも起こらなかっただろうから。

 そんなコラムの締めくくりにある言葉がまた吹き出すくらいにおかしいというか。「ジャーナリストなら常識である『裏を取る』ことなく聞いたことを、そのまま書き流したというのである」。この指摘は東中野さんがどういう人なのかということの裏も取らないで載せたサイトへの皮肉か。でももうそういう媒体だと思われている。目的のためには過程も論拠も問わず嘘でも本当だと叫び続けて賛同者にのみ囲まれ讃辞の中に溺れて悦に入りながらもまとめて沈んでいく途中にある。困ったことだけれどもう止められない。だって誰も過程とか論拠に関心がなくなっているんだから。それが本当に正しいと思っているんだから。手段ですらなくなっている。思想になっている。カルトまっしぐら。いやすでにカルトか。やれやれ。


【10月29日】 そのボディスタイルを見て、その髪型を見れば忍び込んだ賊が目の前にいる女だと分からないものだろうかと思ったけれど、人の記憶って案外にあてにならないものだし、泥棒が刑事だなんて短絡をすぐに思い浮かべることができる人はそうもいないってことなんだろうな。ってことで「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX 2nd GIG」は、捕まった幹事長の金を裏で操っていた実業家の家の地下金庫にしのび込んで、札束の通し番号を確かめるというミッションに、刑事が泥棒の役もつとめて誘い出しては突破するという実に鮮やかな手口。こっちの方がよっぽど「ルパン三世」っぽいよなあ。今の新しい「ルパン三世」ってそういう知恵比べがないんだよなあ。今のところは。

 あとこれでいったい何度目になるんだろうか、窓ガラスを割って外に飛び出すのってとも思ったり。最初の映画「攻殻機動隊ARISE」では確か操られたハリマダラの重役さんが危ないことを喋り始めたのを暗殺した直後、窓から飛び出していったように記憶しているけれど、ほかのシリーズでもあったんだろうかと記憶を振り返ったら窓ガラスは破らないけど高いところから落ちながら何かをするっていうのとちょっとごっちゃになった。そういう見たことがあるシーンが幾つも重なるんだよなあ、それがまた「攻殻機動隊」らしさを出しているというか。ただひとつ、言えることは「ARISE」シリーズの草薙素子では「2nd GIG」でのダッチワイフ役は無理かも。胸ないし。尻もないし。どうしてああいう義体にしたんだろう。誰かの趣味か。尻とか胸とか重いと動きにくいのか。

 表紙絵がtoi8さんで舞台が紅茶の美味しい喫茶店。お稲荷様のある場所から出てきたきつねが人間の少女に変身してはマスターをして、詐欺師だった男が訳あって店員をしているその店にやって来た人たちの悩みや苦しみを、きつねの異能と詐欺師の口八丁手八丁でスッキリとさせてあげるコージーミステリーかと思ったらまるで違った高村透さんの「おきつねさまのティータイム」(メディアワークス文庫)。トウカと名乗ったおきつねさまには別に異能の力なんてなく、店にふらりとやって来た詐欺師の拓巳を相手になぜか観念したように注文もないまま紅茶を出しては拙いと言われて焦って尻尾と耳を出してしまう。

 騙す気なんてなければ隠れるつもりもない。そんなきつねがどうして喫茶店を営んでいるかという理由が明かされ、その店をきりもりしていた老女がどうにも大変で後継者がいないけれども店じまいをするにできなかった状態だったところを、知り合ったトウカが神様だと思われ慕われたこともあってそのまま居着き、どうにか老女の願いをかなえてあげようと奮闘していたところ。でもって拓巳はといえば別に思惑があってその店に来たんだけれど、それを隠して協力するようなふりをしつつ、自分が知っている紅茶の知識を総動員して老女が満足する紅茶を出し、その孫という男も了解できる紅茶を作ってどういか店の経営を続けられるようにする。

 そこから何か持ち込まれる事件を解決するという感じでもなく、拓己は拓己でその出自が絡んだ案件を裏でどうにかこうにかこなす必要に迫られるものの、これも訳あってあまり動きたくない様子。兄という男から呼び出されては殴られたりもして大変だけれど、だからとといって店をすぐに潰さないのはなぜなのか、ってあたりから浮かんで来た彼とその兄の思惑。そういうちょっと大きな案件を進めつつ、当面は野良猫が美少女になったノラも加わった3人で、店を切り盛りしながら紅茶に関する知識も得られ、そして誰かを騙し騙されるなかで問題がひとつ、解決していくような展開を見せていくんだろう。単純なお店ミステリーではないし、単純な神様やって来ましたものでもない、その複合であり、新機軸でもある物語の行方が楽しみだけれど、続くかなあ。

 秋葉原に酔ってマクロスの新シリーズの発表会。そのタイトルが「マクロス△」だと公表されてみんな「マクロスさんかっけー!」って呼んでいたけどやっぱりタイトルは普通に「マクロスΔ(デルタ)」だった様子。まあそうだよなあ。でもってストーリーも明らかにされて、「マクロスF」よりはちょっとだけ未来になってそして舞台は銀河辺境、どこかの星々でもって美少年たちがバルキリーを駆って闘い、そして美少女たちが音楽ユニットを君で歌うというのはいわゆる銀河美少年的なものを並べて腐った女子の人気をかっぱぎつつ、美少女たちを並べてラブライバー的なものも引きつけるといった狙いがあるんだろうか。それだと男子と女子とは交流させず、三角関係とかもってのほかにしないど誰も見向きもしないんだけれど、それがないとマクロスではないからなあ。いろいろ気になる。

 バルキリーについても新しいのが発表になっていて、そのうちのVF−31ジークフリードってのはまあ、戦闘機が変形するバルキリーならではのデザインの延長線上にあると言えるんだけれど、もうひとつ明らかにされたドラケン3ってのはデルタ翼でもって尾翼が1枚というデザインで、なおかつコックピットはガラスではなくそこに紋章が刻まれているあたり、どういう風に変形するのか、そして誰が乗るのかといったところが見えなかった。いずれ明らかにされるんだろうけれど、本当に変形するかも含めて気になる部分。大晦日に先行の放送もあるみたいだし、会場で流されたPVを見れば朽ちた巨大な母艦とか、ゼントラーディのポッドとかも出てきたんで過去から続くマクロスの延長線上にありながら、違う部分とか新しい部分をそこから感じていこう。鈴木みのりさんは可愛いだけじゃない声質だったんでこっちも期待。キラッ! とかやってくれるかな。キラッ!

 国会議員の猪口邦子さんがなぜか海外に住んでいる人たちに、日本の歴史認識について特定の勢力が抱いている思いが書かれた本を英訳したものを、パッケージにして文章まで添えて送りつけているという問題で、受け取った人が文章を書いてやれやれといった感想を漏らしている。何しろ送りつけられたという本が「もともとは、日本の右派層をターゲット読者として書かれた記事を元にした書籍であろう。それをそのまま、注釈すらつけずに英訳し」たもの。それが「英語圏の読者に通じると考えるのがそもそもおかしい」にも関わらず、送りつけては論破してやったぜとか悦に入っているんだから恐れ入る。そんなこと絶対にないのに。

 でもきっと、本を作った人とか作った会社には分からないんだろうなあ。だって「歴史戦」とやらはすばらしい本だから、英語にして世界に広めるべきだなんて声高にいっちゃって、それにそうだそうだって賛同の声しか上がらないんだから。自画自賛というか。いやあ向こうじゃあ莫迦にされてますよというとなんでだ! って剣幕で怒り出すとかそんな感じ。説得する言葉じゃないんだって言っても通じるか。つまりは本を出すこと、それを英語にしたことに意義があるってことで。敗北でもいい、戦っていることが重要なんだというのがつまりは「歴史戦」。でも負け続けられる戦争なんてない訳で、それがどこで瀬戸際まで来て落っこちるのかが見物だなあ。見物している場合じゃないけど。やれやれ。


【10月28日】 絶望したっ! ドラマ版「監獄学園」に登場する裏の生徒会メンバーのひとりで空手使いの花ちゃんが、最初からスカートの下にジャージを履いていて絶望したっ! 普通の可愛い女の子として出てきたのが、突如として変貌を遂げてはスカート姿とかお構いなしに足を上げて蹴りを放ち倒れた相手を踏みつけるからこその「監獄学園」。それすらも快楽と受け止め眼福と崇める奴らのすさまじさがあってこそ、どんな脅しにも屈せず監獄からの脱出を目指して足掻く根性の下地って奴も見えてくるんだ。つまりは女の子たちと仲良くなりたいとう。

 でも最初からジャージじゃあそういう描写はカットされることになる。可愛い花ちゃんはいらず全力で空手キックを繰り出してくる花ちゃんがいる。白いのは見えない残念だ。ああ残念だ。アニメじゃあなにか輝きが現れて見えなかったものがドラマなら見えると思ったのになあ。他の人とか見えてるし。あるいは見せてるのに。まあでも仕方が無い、花ちゃんがそれなら他の人で満足すれば良いってことで、白木芽衣子がどれだけいっぱい見せてくれるかに期待をこめて毎週の展開を見ていこう。花ちゃんのおしっこシーンも見られそうだし。どういう風に描くのかな。見えちゃったように見せちゃうのかな。どこを? あそこを! わを!!

 「北斗の拳DD2イチゴ味+」は前半を飛ばしていきなりサウザー編で聖帝十字陵へと上ろうとするサウザーの足に1度ならず2度も性格に何かを突き刺した少女偉い。そして我慢しきれず帰ったサウザー可愛い。本編だと刺した少女は殺されもしないで最後の戦いに臨んでケンシロウに敗れたサウザーを見守るんだったっけ。というかサウザーどうしてあれだけ強いのにケンシロウに敗れたんだっけ。経絡秘孔の位置とかいろいろあったとは知っているけど、それだけで勝ち抜けるほど南斗の世界は甘くはないわけで、そこで6人に入ったからには相当の強さがあったんだろう。でもケンシロウに敗れてしまう。そんなに強いのか北斗って。それなのにどうして南斗の専横を許したんだ。きっといざという時にしか活躍できない星なんだろうなあ。そういうことで。

 東京モーターショーだ東京モーターショーだ、第44回東京モーターショー2015が東京ビッグサイトで始まるってんで朝も早起きして電車を乗り継ぎビッグサイトへ。大行列かと思ったけれども事業者ではなくプレスデーだったんで入り口もスムーズに通り抜けられ、そしてコンセプトカーとかコンパニオンとかいったモーターショー的な華やかさには目もくれないで西3ホールに置いてあるバンダイナムコエンターテインメントの新しいゲーム筐体「リアルドライブ」を試しにかけつける。きっと同じ事を考えて乗り込んでくるゲームメディアとかもいっぱいいて、長蛇の行列ができているだろうなあと思ったらゼロだった。そりゃあそうか、午前8時半では。雑誌とか深夜に近い時間だし。うん。

 そして試した「リアルドライブ」は凄かった。「戦場の絆」なんかでおなじみの180度ドーム型スクリーンを前にしてサーキットを車で突っ走るというゲーム機なんだけれど、単純に画面がデカいってだけじゃなく座っているシートが走行中の衝撃とかGとかに合わせて動く動く。半分くらいは吹っ飛ぶ感じで動く上に握っているハンドルも路面の返しとか結構くるから握る指にも力がこもる。衝撃にパワーは空きっ腹で朝食も取らないで乗り込んだ人間には結構辛くて、途中で車酔いのような気分すら立ち現れてきた。同乗しているんじゃなくって運転していてそれくらいの衝撃が来るっていうのはなかなかないゲーム。つまりはリアルなレーシングカーの感覚を見事に再現していて、乗れないコンセプトカーを見るよりも、その辺を走るだけの電気自動車に乗るよりも、よほどモーターショーに来たって気持ちになれる出展物だって言えそう。

 話していて興味深かったのは、挙動とか割と実物のスポーツカーを採り入れながらも完全無比なシミュレーターにはしていないところ。だってそれをやってしまうとスポーツカーとはいえ市販車がサーキットと走って起こるだろう挙動の不安定ぶりとかスピードの鈍重さなんかも再現されてしまって、乗っていて決して楽しいゲームにはならない。かといって突拍子もない性能とか与えてしまったらそれは「リッジレーサー」であってドライブゲームからは離れてしまう。ある程度は実物を採用しながら安定した挙動をするような調整が行われている感じ。加えて自分の好きな車に乗っていられるよう、実写での限界性能を超えるための改造を可能にしている点も面白かった。

 マフラー変えたりエンジンをチューニングしたり。そうすることいよって自分の好きなマシンをずっと使っていられる。途中で乗り換えなくて良い。これは車好きには嬉しい設定。というか元々が車好きだけれど今はもうサーキットでスポーツカーを乗るようなマネはできない元走り屋のおじさんたちが、青春を取り戻せるようなマシンとして開発され投入されたって感じだから、その青春を目一杯に蘇らせ、なおかつ昔以上の楽しさを味わわせてくれるようになっていなければ意味が無い。そんな期待に見事に答えたゲーム機って言えるのかも。横Gとか強烈だけど。そんな「リアルドライブ」を楽しんで外に出てもまだゲームメディアとか来ず。東京モーターショー2015まではフォローしてなかったのかなあ。でもぐるりと回って戻ると行列もできてたんで、明日辺りはきっといろいろな所で記事も出るだろう。そうなれば製品化も早いかな。乗ってみたいなあ箱スカとか。入らないかなあ。

 そして今さらコンパニオンとかコンセプトカーを追いかけるのもつまらないと、西館4階を歩いていたら見たことのある電気自動車が置いてあった。「エクスマキナ」。あの大河原邦男さんがデザインをして真ん中で折れて立ち上がるよう変形する車ってことで、「メカニックデザイナー 大河原邦男展」にも展示されていたけれど、会場では動くことはなく触れることも禁じられてただその雰囲気を楽しむだけだった。その「エクスマキナ」が動いた。そして立ち上がった。ちょっと驚いた。そして感動した。パワーとか結構キツそうだし、パーツとかも取れたりするから変形はなかなかさせられないんだろうと見ていただけに、ちゃんと動かして見事に変形させて言っていることは本当だったんだ、コンセプトに間違いはなかったんだと改めて理解する。

 現場に作ってるエクスマキナって会社の社長の人がいたので尋ねると、主催者あたりからあんまり動かして欲しくはないようなことを言われていたけれど、NHKが取材に来ていて動かして欲しいという依頼だったんで、平べったい状態から立ち上がり、そして降りてまた立ち上がるような変形をやってくれたとのこと。見ていて本当に車がグググッと立ち上がる様にトランフォーマーを思い出した。タカラトミーのそれはまだ模型で人が乗れる車じゃない。「エクスマキナ」が人が乗った状態で変形する。これがコンセプトの域を抜け、街を走るようになっていったら世界も楽しくなるだろうなあ。腕も付いて荷物をぶら下げてくれれば完璧なのに。流石に横幅は出せないみたいだけれど、許認可的に。

 あとはセグウェイみたいなコミューターがちゃんと街でも使えるようになれば、移動も歩くか自転車か自動車かってだけじゃない選択肢が生まれて、人も楽になるのに。そこが進まない理由が分からないけれど、コンセプトカーは派手でも多くがそんな絢爛さなんて望んではいない自動車から、もっと簡便な移動の手段へと意識が変わっていく、その先触れをいずれ電気自動車なりセグウェイ的な移動マシンが担っていってくれるだろうと信じよう。ちなみにコンセプトカーにも1台だけお気に入りが。その名も「スーパーグレートVスパイダー」は荷台に4本のクレーンが積まれその先につかんだり握ったりすくったり貫いたりするアタッチメントが付いていた。まるでメカ。あるいはロボット。インパクト十分なそれをでも、モータージャーナリストたちは無視して華麗なコンセプトカーとかばかり追いかける。自動車産業と共に滅びていくんだろうなあ、そういうジャーナリストたちも。かといってゲームメディアやロボット大好きオタクメディアが生き残る訳でもないんだけれど。はあーとため息。


【10月27日】 ららぽーと世界の中心・船橋からららぽーと世界では最果ての地となる海老名へ。つまりは船橋が確か第1号店だったららぽーとの新しい店が海老名にできるってことで、その中にナムコが新しいタイプのアミューズメント施設を作るらしいんで見物に行く。三井不動産がディベロッパーとして絡んでいることもあって、記者会見で例の杭が底まで打たれていなかった問題を持ち出して、三井不動産ブランドが毀損されたんじゃないかとか、誠意を見せるっていうけど具体的に何をするんだってことを聞く記者もいあて殺伐とはしたけれど、そういう場所でしか聞けない問題ならまあ記者魂の範疇とはいえ、ほかに会見もやってたりするならそれはちょっと余計ごと。他紙も来ていただろうなかで突出したのはやっぱり場所への理解が乏しかったって言えるのかな。どうなのかな。

 そんな「ららぽーと海老名」ではナムコが新しく作った「ナムコ・AsoMIX」という施設を主に見物。ショッピングセンターにナムコが出すといったらやっぱりクレーンゲームがあって「太鼓の達人」があってメダルゲームがあってバンダイのカードダスが並んでいてといった感じになりがちだけれど、ここにはそうした業務用ゲーム機がなくあって子供向けの「アイカツ!」くらい。あとはシールプリント機? それもそのはずで、ここがメインとしているのは体を使って道具も駆使して遊ぶ子供たち。積み木があったり土嚢が積んであったり自分で飾りとかつけて走らせるちょい大きめの車があったりといった具合に、子供部屋が大きくなったような感じの施設になっている。

 砂浜もある。水はないけどその変わりに天上からプロジェクターでもって砂の表面に魚とかを映し出し、それを子供たちがすくっえるようになっている。キネクトで追いかけているみたいで、すくった魚は脇にある水槽にあらわれるといった具合。最大で25人くらいまで入れるようだけれど、とりあえずは15人くらいの子供たちがそこで遊べるようにして、海に行かずとも砂浜の体験をしてもらう。時々大波も映し出されて、カメとかジンベエザメとか出てくるのも嬉しいところ。でもすくえないけど。上に乗ったりはできそう。ジンベエザメとかウミガメを踏んづける体験なんて滅多にできないから、バーチャルであってもこれは嬉しいかも。脇にはちょい湿ってはいても手に付かない砂があって砂遊びもできる。そんな施設。

 狙っているのはいわゆるコミュニケーションって奴で、これまでのゲーセンがお金をそこで使ってもらうものだったのが、今はそうしたインカムを狙ってもなかなかヒットするゲーム機が出せない。むしろ家ではできない体験をできるような、滞在型の場所にしてそこでコミュニケーションを楽しんでもらうといった方向に施設運営全体が変わっているなかで、ナムコでもそういう施設を出してきたっていえそう。というか昔から「ナンジャタウン」を作って滞在型のアミューズメント施設運営には定評があった訳で、今度はショッピングセンター内にもそうした施設を提案して、「ららぽーと海老名」自体が狙っているコミュニケーションの場というコンセプトにマッチさせようとした感じ。いろいろと動いているんだなあ、アミューズメントの分野も。

 第28回東京国際映画祭の試写で映画「亜人 −衝動−」を見た。下村泉が可愛かった。あとやっぱりポリゴン・ピクチュアズとサンジゲンとではセルルックの3DCGアニメーションの肌合いに違いがあるなあと。最新作の「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−Cadenza」もそうだし「009 RE:CYBORG」もそうだけれどキャラクターの雰囲気も動きもほぼほぼ2Dな感じを持たせつつ、3DCGならではの空間とアクションを見せてくれるのがサンジゲン。対してポリゴン・ピクチュアズって「山賊の娘ローニャ」も「シドニアの騎士」もそして「亜人」もトゥーンシェイド的な表面処理でもって3Dのモデルを動かしている感がある。ゲームムービーよりは2Dに近いセルルックっていうか。この違いがいったい何に起因しているのか、作り方なのか使っているシステムか作っている人の好みか見る僕の目の曇りか。

 もしかしたらモデリングしたキャラクターを動かすときに相当に手を入れて2Dの作画っぽさをもしかしたらサンジゲンは再現しているのかもしれないし、動きそのものの追求でもってポリゴン・ピクチュアズは近づけようとしているのかもしれない。聞いたわけじゃないから本当のところは分からないけれども、それぞれに特徴を持たせながら挑んでいるなあという感じがあってそれはそれで面白い。全部が全部同じ事をやったって意味がないからね。ちなみに「楽園追放 −Expelled from Paradise−」はサンジゲンに近いかなあ。東映アニメーションというかグラフィニカはそっち寄り。サンライズの荻窪スタジオ系はどっちなんだろう。ここんとこ癖があるのは作ってもセルルックの3DCGは作ってないような気もして比べられないのだった。

 さてお話の方はといえば原作を忘れているので同じかどうか雰囲気が再現できているかどうかは分からないけど、亜人とやらが死なないだけでどうしてああも忌み嫌われているのかがちょっと掴めなかった。死なないだけじゃん。それは貴重だけれどだったらもっと敬われるとかすれば良いのに人じゃない者扱い。何かしでかしたからかなあ。それとも情報操作? 同じ長命種のオキナガが隔離はされる場合があってもだいたいにおいて人間といっしょに暮らしている「白暮のクロニクル」とは違うなあと思ったのだった。

 そして主人公の圭が亜人であるかどうかに関わらず人として何か壊れている。それが後天的なものか先天的で脳の構造がそうなのか。分からないけど人の痛みを知らない人間が自分の痛みを浴び続けることで人の痛みに気を回すようになる、っていう展開はちょっと面白かった。そうやって人間性を回復していく物語、って訳じゃないけどそれはひとつの主題になる。恨んで世界を壊すか憂いて世界を救うか。そんな展開になるのかな。知らないけど。それにしてもやっぱり可愛かったなあ、下村泉ちゃん。クロちゃんと呼んだりするところとか。これから活躍するのかなあ。

 1月に平井和正さんが亡くなって、僕としてのSFの巨大なピースが欠けてしまった気分を味わったけれど、今日になってそんな平井和正さんの数々の作品で表紙絵を手掛けてきた生ョ範義さんが亡くなったという報が伝わりSFのこれもとても大きなピースが欠けた気分を味わう。平井さんに限らず小松左京さんでもその映画的で絵画的な表紙絵を描いてスケール感のある作品の世界を感じさせてくれた。平井さんの方では情念のたぎった雰囲気を生々しい肉体美とともに見せてくれた。絵としてSFをリードし絵からSFへと誘ってくれた巨星の存在はSFを楽しむ上でとても大きかった。

 ライトノベル的な可愛い絵が悪いというわけではないけれど、世界とか社会とか情念とか技術とかいったものを表す手段の絵画として、生ョさんのタッチはベストだったし今なおベストであり続けるだろう。後継者が果たしているかは分からないけれど、そして求められているかは不安だけれど、こうして振り返って浮かぶ数々の作品のビジョンが僕に有る限り、僕としてのSFの軸は決して揺るがないと思う。SFの師であり道標であったイラストレーターの訃報に、謹んで黙祷を捧げたい。そういえば「スター・ウォーズ」の新作も公開されるんだなあ。そして来年には日本版の「ゴジラ」も。そこに生ョさんのイラストがないということの大きさを、公開されて後に味わうことになるんだろうなあ。


【10月26日】 田中の姉ちゃん最高。ボディースタイルも最高だし性格も最高で、やっぱり補習を残して出遅れた日向翔陽と影山飛雄を軽トラックに乗せてまとめて東京へと送り届ける。ドリフト上等。スピード違反は……していないと思いたい、表向きには。そんな運転を胸元もくっきりのタンクトップにおへそも出たローライズのジーンズ姿でやって見せてくれた。隣に乗っててどうして惚れないんだろう。そりゃあ無理かあいつにはバレーボールしか眼中にないから。

 そんな「ハイキュー!! セカンドシーズンはライバル音駒高校に長身の灰羽リエーフが登場。良い奴だけれど自信も満々。見て翔陽が看過されて自分も自分もとなるのか、チームとして整えながらも時々の破調を見せるのか。でもあのスピードも高さもすぐに慣れてしまって相手はマークし追いつき退けて来る。囮にならなくなったら意味が無いんじゃあ意味が無いからここは、チームプレーのその先にある独断専行が、実力も伴ってチームを引っ張るようになると思って見ていこう。原作は知らない。潔子さんは可愛かったけど、あんまり喋らなかったなあ。来週に期待。

 「コンクリート・レボルティオ 〜超人幻想〜」は怪獣を悪とみなすべきかみなさず受け入れるべきかといったテーゼが語られ、怪獣に襲われながらも怪獣を楽しむ存在なんかが現れる矛盾を語っていた。でもこの現実に怪獣はおらず現れるのはフィクションの中ばかり。そこでいくら怪獣が暴れ回って大勢の人をあやめても、現実の僕たちには暗喩以上の影響を持たず、神がかった破壊を崇め奉って持てはやすようなことも起こる。それは正しいのかどうなのか。怪獣を自然災害の暗喩と讃えて台風や地震や洪水を崇め奉って持てはやせるか。いろいろと考えさせたエピソード。鬼野笑美さんの妖怪モードはちょっとおっかなかったなあ。

 秋葉原に行く用事があったんでゲーマーズに寄ってTRUEさんって人の「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」のオープニングになっている「Dear answer」を買っていく。やっぱり言い曲。最初はMay’nさんかと思ったけれどもそうしたキレのあるテンポを感じさせつつもうちょっと、粒立ち感のある声を聞かせてくれいったい誰なんだろうと調べたら唐沢美帆さんだった。むかあしむかし、普通にポップシンガーとして歌っていた人だけれど根っからのアニメファンらしく、アニメソングに言って作詞もすれば歌も唄う人になっていたらしい。そういう人っているんだ。でも今はポップシンガーとしてよりも、作品と紐付けられ毎週のようにプロモーションしてもらえるアニメソングの方が、ヒットに結びつくし人の気持ちにも寄り添う。なおかつ好きならこれはもう桃源郷。活躍するのも当然か。他にどんな歌を唄っているんだろう。アルバム買うか。

 そんな秋葉原を歩いていて、駅前の角にあるセガのゲームセンターの店頭にあるスピーカーから聞き覚えのあるリズム感たっぷりのイントロが流れてきて、立ち止まって聞いていたらやっぱり「HAPPY☆LESSON」のテレビ版のエンディングとして使われていた中川亜紀子さんの「夢の都 TOKYO LIFE」だった。テンポの良い曲に可愛らしい声と、そして東京に来て頑張っている女の子のストーリーが耳に届いて好きになった楽曲。あとアニメえはバックに流れている映像も面白かった。ちびキャラになった登場人物が腕を振って踊ったりしている。そんな強烈な楽曲を、今聞こうと思ったらネットにアップされている動画くらいしかないんだよなあ。勿体ない。時々ワゴンに入っているDVDを買ってもEDサイズだし。プレミアム払っても中古を買うか。どうするか。再発とかネット配信とかやらないかなあ。

 さて秋葉原では例のガンダムの実物大、とうか設定上の実寸大を作って動かそうっていうプロジェクトが募っていたアイデアで選ばれたものが出たという発表を聞く。4つのアイデアが通ったみたいだけれど歩かせる、といったところでやっぱり本体にエンジンとか積むと重くなるので、下に動力源を置いて歩かせるようにするとか、安定性に欠けるんで、ザクと四つ相撲を組ませて4本足で歩かせるとか、そんなアイデアが出てきてそうかそうだよなあと思った。現実問題あの合図を歩かせるなんてちょっと無理。それをでもやらなきゃ意味が無いならどうするか、ってところで考え抜かれたアイデアって言えそう。

 ほかにもいろいろあったけれど、高性能エンジンとかハイパワーのアクチュエーターとか工学的な発想はちょっとなくって、これからどうするんだろうとちょっと思った。電源とか。エンジンとか。やっぱり核融合炉? それは無理だしなあ。あとバーチャルエンターテインメントといって架空の中で動かすアイデアを求める部門での合格者がなかったのが気になった。霧に投影するプロジェクションマッピングくらいはすぐに思い浮かぶし、AR的にそこにいるように見せるとかてアイデアも浮かぶけど、そういうのではダメってことなんだろうか。そこにいないようで、でもいて歩くガンダム。どういうのがあるかなあ。空気を膨らませたアクティブデコイじゃダメなんだろうし。次に来るだろうアイデアが知りたい。

 しかし面白かった富野由悠季総監督のコメントは、そうやって絵空事でものをいうのは大嫌いだ、なんて言ったあとでそれでも夢とロマンを求めてガンダムを歩かせようとするならトライすることには意味がある」とフォローして、挑戦する人を激励した。というか新型兵器を開発して戦況をひっくり返そうだなんて考える方がナンセンスで、そういう方向にテクノロジーが無駄遣いされるんじゃなく、夢に向かってみながわいわいやってられる平和な状況を喜んでいるといったところか。どこかひねくれているようで、しっかりと芯の通った御大の考え方は、いつも勉強になる。そんな期待に応えられるアイデアを作り、御大に歩き動くガンダムを見せられるか。頑張ってください皆さん。

 言いたいことを言うためには矛盾も平気というスタンスが、信頼を損なっていることにどうして気付かないんだろうと言い続けて幾年月。今日も今日とて「歴史認識は一度書き込まれると、修正が難しいことはマグロウヒル社の対応からも明白だ」って書いている記事があったけど、その記事の冒頭で奴隷制度が「労働者」と教科書に書かれていたのが迅速に改訂されたと書いてる。書き換えられるんだよそれが正しければ。奴隷制の場合はもはや絶対的に「労働者」ではないという認識でコンセンサスがとれているから改まる。けど「従軍慰安婦」や「強制徴用」はどうだろう。そんなことはなかったと言えないからこその記述であって、それにいくら反論したところでひっくり返らない。だから存在は認めつつ謝罪と補償を行い和を求めてきたのが、全部なかったことにしたい人たちの台頭で反発を高めより大きくクローズアップされてしまった。そうやって敗北続きの歴史戦。でも戦い続けるんだろうなあ。先にあるのは? やれやれ。


【10月25日】 ライトノベルの「俺がお嬢様学校に『庶民サンプル』として拉致られた件」がテレビアニメでは「俺がお嬢様学校に『庶民サンプル』としてゲッツされた件」になっていたことに3話目にしてようやく気付く。だから番組の中でヒロインがダマされてゲッツしてたり、オープニングのプロモーション映像にゲッツ板野さんが登場していたりしたのか。まあ「拉致」って言葉が生むいらぬ誤解への配慮って奴だろうなあ、とある国にずっと拉致されている人たちへのセンシティブな感情が一方にある状況で、軽々しく拉致って言葉を使うのはいかがなものかという。仕方が無いとはえ繊細さもちょっと過ぎるか。そもそも何かあれから動いているのか。ってこれも言ってはいけないことか。動き続けているからこそ、動いていられるのだから。うん。

 そんなオープニングが案外に見ていて心地良いアニメーション版「俺がお嬢様に『庶民サンプル』としてゲッツされた件」は天才幼女の汐留白亜に美少女剣士の神領可憐も加わりほぼメンバーが出そろった感じ。ひとつ男子寮に集まり会議をしているけれど、そこのお嬢様中のお嬢様の有栖川麗子があんまり関わってきていないのが気になるところ。混じれるほどの庶民性はないからなあ。というかお嬢様学校にしてはほかの3人浮き過ぎだろう。可憐っていったいどういう筋のお嬢様でどういう教育を受けてああなったんだ。白亜は天才ってだけでお嬢様でも何でもないし。天空橋愛佳はのっけからお嬢様らしさゼロだったしなあ。そんな学校の謎も深まる中、そろったメンバーが起こすドタバタにゲッツ。

 そういやあ見忘れていたと「ヘヴィーオブジェクト」の第3話を見たら雪の中を統べる相手のオブジェクトをクウェンサーとヘイヴィアがなんとかしていた。原作を読んでいるからそういう話しだとは分かっていたけど、状況から展開から小説なんで文字で読めるのをどう表現するかと思っていたら2人がのべつまくなしい喋って状況を説明していた。まあ仕方が無い。そういう作品なんだかろ映像派の人には思ってもらうとして、原作だともうちょっと人間離れしたお姫様がアニメ版だともうちょっと人間に寄っている感じ。関心を持つし恋心だって。小説ではしゃべりもひらがな多様で拙い感じで特化された超人という雰囲気だけど、それを映像で見せるのは難しいから守られるべき姫にしたのかな。でも守っているだけれど、最大戦力で。

 そして倒して昇進できるかと思ったら、英雄は使えとばかりに今度は海の中の最前線へ。フローレイティアさんもいっしょに放り込まれているけど彼女は戻れば結婚話がわんさと舞い込むから、嫌でも最前線にいなくちゃいけないのだけれどそういう説明はないみたい。まあでもとりあえず巨乳で太ももな要員だから見せて主にヘイヴィアを喜ばせていればそれで良しと。今度のオブジェクトは会場を進むタイプでいったいどうやれば倒せるかてのが次からの展開。吸い込ませるか入り込むか。小説読めば分かるけれど忘れているからなあ。まあ見ていれば思い出すか。オープニングのおほほの登場はいつだっけ。ちらっと見えるあれは最新刊に出てきたクトゥルーの面々か。ともあれ面白そう何で見続ける。可能ならもっとフローレイティアさんの巨乳を。櫻子さんでは足りないから。

 昨日見た映画「さようなら」はアンドロイドが主演だか助演だか分からないけれども女優賞なんかを受賞する可能性をちょっと考えさせられたけれど、アンドロイドとは言いながらも動いてるその表情も、喋っているその言葉も人間がすべてプログラミングし打ち込んでは操作しているものであって、そこの自律した意識も行為もない。じゃあダメじゃんとなるかとうと人間の役者だって監督の言うなりになって演技し喋り動いているだけだとしたらアンドロイドと何が違う? そこで映画にぴったりの演技を見せてしゃべりを聞かせ、存在感を示してくれれば立派に役者であってそれ以外の何者でもないのなら、主演でも助演でも女優賞を獲得して不思議はない。女性なのかという問題はさておき。

 プレス向けの上映後に行われた会見で、人間として出演したブライアリー・ロングさんが話していたのは役者の演技のアプローチのあり方で、ひとつには人間が内面から出る感情を表面に表し演技するというものがあり、もうひとつは徹底した形にはめられたなかで演技することによって内面をそこに見せるというもの。アンドロイドの場合は後者を人間が自律的に行うのではなく外部からの操作によって行うのだけれど結果は同じ。むしろ夾雑物を拝して動くアンドロイドの方が形をそのまま再現しやすい。そういった演技は演技なのか。完璧ならそれは演技だろうとなるとやっぱり役者としてアンドロイドが存在し得る可能性が膨らむ。あとは見る側がどういう判断を下すか、だけれど単純に面白いからではなく、役者と演技と監督と演出といったアプローチからその存在を考察する人とか、出てきてくれれば面白いかも。

 それに関連して面白かったのは、石黒浩さんがアンドロイドは想像力を引き出す役者だといったこと。あんまり笑わず泣かず乏しい表情だけれど、それがかえって見る人たちの想像をかきたてそこにさまざまな感情を見せるのだという。美人はもうちょっとだけ笑っただけでそれが笑顔だと伝わるけれど、表情豊かな人は笑っても大きく笑わないとそうだとは伝わらない。それはだからアンドロイドが微妙に笑っても迷っても泣いてもそうだと思ってもらえるという可能性を示すもの。じゃあCGもあんなに一生懸命に表情を付けなくたって良いじゃんと思うけれど、CGの絵は絵であってそこに奥行きは存在しない。アンドロイドはそこにリアルに存在するという印象が、何かしでかすんじゃないかという思いを与えつつちょっとした仕草に感情の存在を感じさせる。正解かどうかは分からないけれど、CGの役者とアンドロイドの役者はそれぞれに、違ったアプローチが必要なのかもしれない。

 初日の厚木以来となるきゃりーぱみゅぱみゅのツアーを市原市民会館で。内房線だと分かっていたのになぜか外房線に乗ってしまって大網の1歩手前で引き返してくるという、房総半島横断間際をやってしまったけれど早めに出たので間に合った。しかし遠い内地原市民会館。五井の駅前にない。あそこはジェフユナイテッド市原・千葉が本拠地を置いていた市原臨海競技場もやっぱり駅から遠くて行き来が大変だったけれど、その分イベントがあればちゃんとシャトルバスが走るような仕掛けにあっているんで、市原市民会館からの帰りもそれに乗ってスムースに帰ってこられた。ある意味で先進的な交通手段なのかも。パークアンドバスライド。

 さてもツアーの方は厚木で見ていたから全編がビートの効いたクラブのノリでしゃべりも少なくびっちりと楽曲をやり続けるって分かっていたけど、それにしても最初から最後までぶっ飛ばしていける体力はすごい。歌唱力もちゃんとしているから見ていて楽しいライブになっている。キャパがそんなに大きくないのも会場に一体感を作っていていい感じ。これがファイナルの東京国際フォーラムだとどうなってしまうんだろうか。あそこのキャパで盛り上がれたらイベント性から抜け出したアーティスト性を持った存在になれるかもしれないなあ。ちょっと期待。バックダンサーが今回はキッズじゃなく大人ばかりなのも見ていて嬉しいかも。可愛いダンスも良いけれど、切れ味のあるダンサーの踊りを目の当たりにできるから。ミニスカ系の女性ダンサーがビジュアル的には嬉しいかな。女性っぽい4人の中に1人、男子が混じっているような気もしたけれどどうなんだろう。肩幅あって腕太い。そしてダンスにキレがある。どうなんだろう。真相は闇の中。


【10月24日】 見た瞬間から忘れて言ってしまう傾向が強い新しい「ルパン三世」だけれど放送された第3話だっけか何かをやっぱりもう忘れているというか、忘れても良いような話だったというか。街に巣くう悪党がいて銃を持ち込んだ奴を囲んで撃って半死半生にするという。その目的っていったい何よ、待ちを恐怖で支配するといったって、銃を持ち込まなければ関わりもない奴らに街が怯える必要もないし、みかじめ料を払う必要だってない。でもそういうやつらが大手を振って歩いている。そんな設定がまず分からない。

 でもって次元大介が持っていた銃を眼鏡の女医さんに預けさせられ、それが盗まれ使われては見知った男が撃たれて重体。しゃあないとばかりに行った先で次元が見せたのが銃の腕前じゃなく銃弾を避ける身のこなし。それって次元大介の醍醐味じゃないだろう。そして起死回生の中を生き延びたと同時に撃たれて瀕死の重体だった男も蘇って大団円。眼鏡の女医さんは眼鏡を外して髪を下ろして見送るという、そのビジュアルは悪くないけど彼女結局何だったんだ。どうして撃たれもせずに医者を続けていられたんだ。だいたいがすぐに警察がやって来る街で重体を山ほど作り出せるんだ。なんて考えると結構記憶には残っているけど、心に留めておく雰囲気じゃないよなあ。そんなのばっか。かろうじて眼鏡の女医さんが美人だったから良いけれど、やっぱり物語で記憶に残って欲しいもの。どうなるんだろうこの先は。

 「さあ、謎を解こうじゃないか」が決めぜりふか。あとは想像している時に周囲を歩く骨格の動物たち。そんな定番を入れつつ全体として綺麗な映像とわかりやすい展開、そして興味深い推理と何より美しくも傲慢な女性をヒロインに据えているところにアニメーション版「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」の勝利の秘密があるのかな。まっすぐに小説版をやっていくんじゃなく、ランダムにエピソードを抜き出してはアニメ化している感じで今回は山で発見された白骨死体の話を描いて正太郎の同級生の鴻上百合子が話に絡んで来やすくした。これからどんどん出番も増えそう。とはいえ未だ見えない花房の存在。オープニングに描かれる謎めいた男がそうなんだろうけれど、本編では存在すら怪しい人間をどういう風に描くのか。それも興味。登場はいつになるんだろう。

 案内が来てたんでレナウン関連の服飾品とかが揃うファミリーセールを見物に幕張メッセへ行ったらハロウィンの仮装をした人がいっぱいいた。パーティーでもあるのかな。会場ではスーツでも在ればと思ったけれどA6ではウエストがキツくなっている自分が分かってスーツはもう着ないと法理だし、イタリア製らしいジャージーな素材のダッフル風コートとかタートルネックのセーターなんかを購入。あとハワイのバッグメーカーらしいところから出ていたバックパックを買って退散する。そりゃあK&Cのオーダースーツとかジャケットとかも欲しいけれど、お金もなければ着ていく場所もないからなあ、窓際の泡沫記者ごときでは。礼服とかも欲しかったけど買うと身内に不幸とかありそうなんで今回も遠慮。行為が結果を呼んでしまう因果。気になる自分が古いのか。

 中国の習近平国家主席が英国を訪問して演説をしたのがあんまり良い評判でなかったとして、それを日本の新聞が書いていったい読者にとってどんな得があるのかが分からない。彼らにとっては恥ずかしいことで憤ることかもしれないけれど、それを見て日本がだったら英国から持ち上げられているかというとそうでもないし、尊ばれているというとそんなこともない。ようするに自分が苦手な奴らが虐められているのを見るのが楽しいというだけの意識で、それを取り上げ持ち上げ煽るような新聞もやっぱりどこか卑しいというか、さもしいというか。でもそういうのを書けば集まるアクセスだけが今の生命線ってところに、未来の無さなんかも見えて気分が暗くなる。もっと日本人が得するニュースを書けばいいのに。それこそロンドンの美味しい店紹介の方がよっぽど読者の為になるだろうに。ロンドンに美味しい店があり得るかは別にして。

 さすがに新聞では恥ずかしいから書かなかったのか、まだ気付いていないだけでもしかしたら書いてしまうのかは分からないけれど、中国嫌いな界隈では習近平主席の訪英で面会したエリザベス女王が主席とは手袋を外さずに握手をしたことが、英国流の嫌みだとか何だとかいって取り上げられている。でも調べたら手袋をしたままで握手をしている例なんて数多あるし、それはだから庶民だからで王室皇室が相手では手袋を外すんじゃないのといった声に対して、昭和天皇が手袋をしたままのエリザベス女王と握手をしている画像が掘り出されて、庶民説が軽く粉砕されている。というか調べれば帽子を被って長い手袋をした正装ではだいたい手袋をしたまま。それはドレスコードで女性は正装では帽子も脱がず手袋も外さないで握手をして良いことになっている。食事の時は外すようだけれど、ローブデコルテみたく長い手袋は手間だから手首から手を出せる穴があるそうな。そんな“常識”を調べもせず、中国嫌いの言葉に乗って拡散しまくるなんてみっともないことこの上ないんだけれど、そういう検証をしないで拡散する人の多さがむしろ気になって仕方が無い。デマが真実として拡散され、認知されてさらなるデマを呼んだ果て、1923年の9月の路上が再び起こる可能性、ゼロじゃないなあ今のままだと。

 すぐに満席になっていたと思ったら空きが出ていて何だろうなと思ったけれど、第28回東京国際映画祭のコンペティション部門に日本からノミネートされている3作品のうちのSFっぽい1作、深田晃司監督の「さようなら」がP&I上映されたんで六本木まで行って見る。平田オリザさんによるアンドロイド演劇を長編化したものらしいけれど、舞台では死にゆく女性とよりそう永遠のアンドロイドの対話から死というものや生といったものを感じさせる観念的な内容だったらしいものが、映画だと状況に設定を入れて外国人風の女性がひとりで暮らしていて、そこにアンドロイドが寄り添っている状況を成り立たせている。

 たとえば日本にある原発がすべてテロにあって炎上し、日本全土が放射能で汚染されてしまって住めないような状況になりつつあって、国民は順番に外国へと難民として移住していっているという設定。これによって女性がだんだんとひとりになって死に向かっても誰も助けに来ない状況が成り立つ。元より弱かった体が放射能の影響もあってもっと加速的に悪くなる。そんな死に際に親が買い残してくれたアンドロイドだけが寄り添う。なるほどちゃんと成立する。でもって外国へと避難できない理由。それも女性の出自にしっかりと刻まれているんだけれど、そういう出自になった理由を恋人で在日韓国人の男性に語ったところ、忌避され厭われてそのまま日本に置いていかれてしまった。

 差別していた者が受けた逆差別。そういうことが事実としてあったとしても、圧倒的な母数の違いを考えるなら声高に憤りも交えて言えるかどうかが微妙になる。ましてや相手は圧倒的に差別され続けてきた側。それにむかって加害者であってもまた被害者なんだと言えば被害者として立つアイデンティティーが揺さぶられる。もちろんそれも完全には否定されるものではないけれど、記憶や経験といった感情が納得を許さない。そんな複雑な人間とは違って、アンドロイドは知識から数字を出してそういうこともあっただろうと告げる。ある意味で冷静で、あるいは冷徹でもあるアンドロイドという存在がここに際立つ。感情に流されやすい人間への非難めいた気持ちも浮かぶけれど、それでも人間は割り切れない。そんな差違ってものを感じさせ、アンドロイドと人間の共存は可能なのかと考えさせる。

 感情と計算。その差違を感じさせて人間とアンドロイドが友に暮らす世界に起こるだろう問題を顕在化させる映画。もうひとつはやっぱり人間には必ず訪れる死という現象に、アンドロイドは巻き込まれないでギャップが生じるという事実も改めて突きつけてくる。人が死んでもアンドロイドは生き残る。でもそのアンドロイドが人のために何かをするのだろうか。相手がいてこその返せる反応だとすれば、送られてくる情報がなければアンドロイドは存在できない。光がなくして陰はないように。ただこの「さようなら」という映画では、アンドロイドに残った記憶であり、思い出であり熱情といったものがアンドロイドを動かすような展開がある。それは反応なのか。それとも感情なのか。神が起こした奇跡なのかもしれないえれど、そういう解釈も与えつつ幕が下りた先、誰もが自分に問い直すことになるだろう。人間って何だ。アンドロイドって何だ。って。


【10月23日】 TCXでの上映が最後くらいなんで映画館で「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ− Cadenza」を見る。3回目。やっぱりムサシは復活してきたイオナ=ヤマトが自分よりもなおいっそぺったんこで、そこに飛び込んでもフワフワしないことに怒ってキレて沈めようとしたんだと思った。それが証拠に散り際にこっちはちゃんとフワフワなヤマトに抱かれた時は本当に嬉しそうな顔をしていたから。もしもその立派な谷間を千早群像も見てしまったら、イオナを追いかけようとか思わなかったに違いない。そういうものだ。人間って。

 「おかえり」といった先に誰がいるのか、誰かがいるのかといった疑問はやっぱり浮かぶけど、誰もいなくてもそれは平和が世界に帰ってきたことの例えだということにしておいても良いし、いつか動くかもしれない続きのためにのりしろを残しておいたということにしておいても良いか。北極海で失ったはずのブーロチが戻ってきているとかあり得ないけど、そっちにユニオンコアを映して海底を這って海中を泳いで戻ってきたのかもしれないし。あり得るか。あり得そうだな。霧の生命力とか考えると。

 この後も物語が続くとしたら、釣り艦隊になりかけている霧の生徒会メンバーとか、ひとり正義を思い続けるヒエイとかが中心になって何か始めた先に現れる敵、それを復活した蒼き艦隊とともに打ち破るとかいった展開になるのかな。これで終わらせるには勿体ない5人組だから。あとは太平洋以外のメンバーで群像と接触していないメンタルモデルがそれでも残留するアドミラルコードを仰いで日本に戦争をしかけてくるとか。その背後に欧州がいて米国もいたりするとか。漫画の原作には欧州も北米もちゃんと霧の艦隊が出てくるけれど、アニメ版だと振動弾頭のテストに使った時とか、コンゴウがキレた時にまとめて消し飛ばした時くらいだったからなあ。欧州は皆無。だから見たいイ号対Uボート。あり得るか。あり得て欲しいなこれもやっぱり。

 言葉というのは恐ろしいもので、言葉によって名付けられることによって曖昧でふんわりとしていた状況が固まり、強度を増しては多くを引きつけるようになり、そして定着していった果てに言葉を金科玉条のものとして掲げ、世間を扇動しようとする者たちが現れる。たとえ根拠の乏しい言葉であっても、いったん名付けられてしまったら、そしてそれに異論が挟まれず、するっと世の中に浸透してしまったら、後はその言葉によってレッテルを貼られ、扇動された心理によって退けられるようになる。そうなってから、実はそんな言葉に意味なんてなかったんだと言ってももう遅い。

 だから言葉によって名付ける時、そんな言葉を使う時には慎重でなくてはならない。言葉を伝播する影響力を持った新聞とかメディアは特に。にも関わらず、天下の朝日新聞が「反日」という言葉を本文で使い、あまつさえ見出しにまでとっては世間にそんな言葉が存在することを知らしめ、そんな概念の固定化に一役も二役も買ってしまっている。もちろん意図としてはアンジェリーナ・ジョリー監督による映画「アンブロークン」の日本公開が、太平洋戦争下での日本軍による外国人捕虜の虐待を描いているからといって公開中止を求めた動きがあったものの、やっぱり公開すべきだと考えた人たちがいて、ようやく公開の運びになったというおめでたいもの。だから趣旨としては支持したい。

 けれども、そんな記事の冒頭で反対していた人たちの活動を表現する際に、「捕虜虐待の場面などがあるため『反日』だとしてネットなどで上映反対の声が上がり」と書いているのが引っかかった。なるほど、そういう声が上がっていたのは事実だとしよう。でもそういう彼らが掲げた「反日」とはいったいどういう意味なのか。日本に反する、という意味なんだろうけどその日本とはいったい何を指すのか。逆らってはいけないものなのか。そこが分からない。なるほど法律に違反するような、それこそ秩序を破壊し生命財産を脅かすような行動だったら言っていえないような言葉でもないけれど、それだって方と秩序に反するものであって、日本に反するといったものではない。

 そもそも日本とは反していけないものなのか。戦前の話しで軍部や当時の政府がしでかしたことに対する批判を、批判として受け止めることは今の日本という国の正しさを毀損するものではない。だから反日でもなんでもないし、反日という言葉自体が成立し得ないはずなんだけれど、、なぜか戦前の軍部や政府が批判されることを、我が身のように感じて悔しがり、そうした批判を自分のプライドがいじられているだけなのにもかかわらず、反日と言って嫌う人がいる。不思議というより他にない。だから中身がよくわからず、そもそもが存在することすら奇妙な言葉を誰かがレッテル貼りに使っているからといって、吟味もしないで引用しては、捕虜を虐待した兵士がいることをもって「反日」だという人たちがいる不思議を、何の異論も挟まずに紹介し、そしてそういう言葉が存在し、何か自分たちの癪に障るような言動はすべて「反日」といって退けようとする空気の醸成に結果として荷担している。やれやれというより他にない。

 今となっては「反日」という言葉は、自分たちとはほど遠い出来事であり、否定するのが適切でもある戦前の軍部による専横であり、暴走であり、政治的判断の誤りであり、それによって大勢が亡くなってしまった戦争に、異論を唱える当たり前な声をも含めて括り、罵声を浴びせるにふさわしい対象なり、言説を呼ぶ言葉になってしまっている。その言葉にすら異論を唱えることを許さない空気も立ち上り始めている。そんな言葉に居場所を与え、形をもたらし強さを与えてしまった取り上げ方を、だから朝日新聞はするべきじゃなかったんだけれど、今となってはもう遅い。権力に逆らう言説をも「反日」と呼ぶ風潮を助長しつつ、そういう行為に傾きつつある若い人たちに、使い勝手の良い言葉を与えてしまった。何と厄介な。それが今の空気であり、メディアの惨状なんだろう。あとはひたすら進むのみ、滅亡へ。滅日へ。やれやれだ。

 公開からいったいどれくらい経ったかすら覚えてないけれど、いよいよブルーレイが出るとかで「攻殻機動隊 新劇場版」を久々に劇場で公開して、それに関係者が生コメンタリーを添えるというイベントがあったんで見物に行く。身内にご不幸があってオーディオコメンタリーに参加できなかった野村和也さんが参加して、総監督の黄瀬和哉さんやスーパーバイザーの藤咲淳一さん、そして制作したプロダクションI.Gの石川光久社長とともに喋った内容は、『攻殻機動隊』好きが現れていると同時に、適材適所な作画の配置でもって見て楽しく、ダレることもない映画に仕上がったことが分かった。例えば冒頭のまだ子供だった草薙素子が車いすみたいなのに載った少女と出会い、作り笑顔ではないけれど満面の営業用らしい笑顔を見せ、サイボーグ用のサンドイッチを頬張り、製作委員会的な見地から髪の毛を今風にした場面なんかを黄瀬さんに描いてもらったことが、表情豊かで見ていて楽しい草薙素子になったことが分かって面白かった。

 キャラ表にはない顔を、逸脱を承知で目一杯にかけるのは黄瀬さんしかいないってことか。上手い上に何かを乗せられる。そういうアニメーターが大勢いたからかつてのアニメーションは不揃い感はあったものの見て表情やアクションに引きつけられ、それを真似てみたいというフォロワーを呼び、後のスーパークリエーターを生みだしてそして今の隆盛へと至る。ここで平均の巧さがそろった作品ばかりでは、誰かみたいに特徴を出そうというフォロワーを生まず、未来のバリエーションを狭めてしまう。コメンタリーを聞いて上手い人に巧さを発揮してもらえる場を作り、任せるような風潮を作らなくっちゃと思ったけれど、そういう頑張りが作画崩壊と言われてしまう世の中だからなあ。いろいろと難しい。黄瀬さんにはだからまた、ぶっとんだ作画で大勢を驚かせて欲しいもの。ベロベロバーする草薙素子とか。あり得ないなあ。


【10月22日】 始まりは東京地検特捜部に所属する検事が事務官といっしょに製薬会社と大学の癒着なんかを捜査していたことで、押収した資料なんかを読んでいたら現れた奇妙なペーパーに不穏な何かを感じた検事が、さらに突っ込んだ捜査に乗り出していくっていう検事ものの体裁を見せいた野崎まどさんの最新作「バビロン 1 −女−」(講談社タイガ文庫)。捜査線の向こうに浮かんできたのは与党の大物政治家が絡んで政治的にとてつもないことをやっているんじゃないかという筋で、それに巻き込まれて犠牲になった人間も出始めたことで正義の検事は手綱をしぼって一気に確信へと迫っていく。ところが。

 そこは異色にして異例の書き手である野崎まどさんだけあって、ただの検事物のミステリで終わるはずもなく、想像を超えた事実が浮かんで来たとおもったらさらにとんでもない状況が立ち現れては人類を別の次元へと誘おうとする。それは学園物の青春ミステリに似見えた「2」が、人類の進化を問うようなとてつもないSFへと変化していったのにも似た広がり方。一種のパラダイムシフトともいえる変革を目の当たりにして検事はいったいどう動き、社会はいったいどう変わり、そして読者はいったいどう思うようになるかが今は知りたくて仕方が無い。ちょっと怖いけど。ここでも浮かび上がってきたとてつもないキャラクター。最原最早に並びあるいは超えるかもしれない存在がもたらす混沌と混乱に絡め取られないようにしなければ。

 今日も今日とてお台場へ。といっても今日はJapan Content Showcase2015ではなく日本科学未来館なんで、使うのはやっぱりゆりかもめが良いと新橋まで出ることを考えたけれど、昨日も同じルートで日本橋での銀座線乗り換えが混雑してたのを思い出し、だったら門前仲町で都営大江戸線に乗り換えて汐留まで行ったらどうだろうかと乗り換えたら、門前仲町が半端じゃない混雑ぶりだった。あれをよく利用者は毎日乗っているなあ。でも次の月島で結構な人が降りていった。あそこに何があるんだろう。ちょっと気になった。

 でもって汐留からゆりかもめで東京テレポート駅まで行って歩いて日本科学未来館でデジタルコンテンツEXPO2015の内覧会。デジタル技術にコンピューター技術を盛り込んだコンテンツ系の発明だとか作品がいっぱい並んだ展示会は、去年だとスケルトニクスが威容を見せて話題をさらっていたけれど、今回はそうした派手に動く展示は中になく、外でもって「超人スポーツ」といったカテゴリーでテクノロジーを身体の強化や拡張や補填につかって遊ぶ新しいスポーツが並んでいた。

 でもおれを付ければウサイン・ボルトに100メートルで勝てるかどうか分からないし、水中を圧倒的なスピードで泳げるようになる訳でもない。そういったサイバネティック的な可能性を追求するのが正しいのか、ちょっとした工夫でスポーツをもっと面白くするのが良いのか、迷うところではあるけれど、それも含めてこれから考えられていくんだろう。そして「超人オリンピック」なるものも開かれ、100メートルを3秒フラットで走るサイボーグに感動するかどうなのか。やっぱり意識的な変化が必要あのかもなあ。人間と超人の相互理解には。

 展示で目立ったものはといえば、サイズ的には「音響樽」っていって巨大な樽の中に96個ものスピーカーを取り付け立体的に録音した音を流して中に座っているとあたかも録音した場所にいるような気分になれる装置だったけど、映画館なんかで聴くサラウンドといったどういう違いがあるのかといった疑問もちょっと浮かんだ。ただサラウンドはそういう感じを強調する仕掛けで「音響樽」は再現する仕組み。アプローチが違うといえば言えて、その中でどういう臨場感でありリアル感を出して逝くかがコンテンツ作りの上で問われるんだろう。海岸にいるような気持ちにさせてくる音場とか、できないかなあ。あれは気持ち良いんだ。

 スピーカーといえばスマホから音をとって流す外部スピーカーにならしている音楽の歌詞を表示する機能をつけた「リリックスピーカー」ってのがスタイリッシュで実用性もグッド。最初は音声認識をしているのかと思ったけれど、松本隆さんの「風をあつめて」なんかが流れてて、あの独特の漢字使いがちゃんとそのまま表示されていて、歌詞のデータベースから引っ張ってきて表示しているんだということに気付く。ちゃんと契約をしていて、それで表示が可能になっているらしい。登録さえしてあればそこから連動して表示可能で、リズム委合わせて踊ったり強調されたりするから見ていても楽しい。音を耳で聞く意外に、歌詞を愛で楽しむ音楽の味わい方がこれで生まれそう。いつ頃出るかな、でおお高いんだろうなあ。

 すごかったのは東京大学大学院新領域創成科学研究科の篠田・牧野研究室が出展していた「視触覚クローン」という装置。超音波を出す超小型スピーカーを並べたプレートで囲まれた装置に誰かが手を入れると、離れた場所にある同じような装置に手の立体映像が現れる。それに向かって自分の手を伸ばし、立体映像に触れると実際に手があるように感じる。触れた感覚は相手にも伝わっている。つまりは双方向で間にロボットとか機械的な装置を介在させないでコミュニケーションを取れる。あるいは触れられる立体映像ってものを作り出せる。そんな研究であり、作品。

 くわしい技術的なことは分からないけれど、塑像するなら手の位置をセンサーが読み取り、表面に当たる部分に超音波の壁のようなものを創り出して、そこに存在しない手に触れている感覚を与えている様子。ロボットをネットワークで繋いで動きを伝える装置はやっぱり、メカならではの人工物といった感じがつきまとう。それを避けようと温度をやりとりできる仕組みも慶応あたりが開発してたけれど、これは触感が視覚とともにやりとりされて人工物への違和感を覚えなくて済む。もちろん周囲に超音波を出す仕掛けが必要だけれど、やりようによっては人のサイズを“転送”して触れあえるようなシステムもできるかもしれない。どうだろう。

 早いところ実現しそうだったのがNHKの「AugumentedTV」。オーグメントすなわち拡張を現実に与えるAR技術で、モニターをスマホとかタブレットで撮影して画面をのぞくとモニターには映っていないものが画面の中に現れる。モニターに恐竜の親子がいて、それにタブレットを向けると恐竜の親は狭いモニターから出てこられないけれど、子供だけは飛び出してきてタブレットの中でモニターの前を歩きまわる。そこにいるような感じで。実際にはいないけれど。でもってはタブレットの中の子供が動いてモニターの中に戻ると、設置してあるモニターに子供の恐竜が戻っている。テレビからキャラクターや出演者が飛び出して来る夢をかなえてくれるシステムだけど、タブレット越しってのが少し寂しいところかなあ。

 こんな莫迦記事を転載しているのかオレンジ色は。元フジテレビのアナウンサー様の書いた記事。もちろん南京事件を真っ向否定するような内容は、テキサス親父にケント・ギルバートに幸福実現党党首らがそろい踏みした媒体にふさわしいちゃあふさわしい。ここに遠からず高須克弥院長も登場する方向に1ペリカ。さてそのアナウンサー氏の手中はといえば、南京の人口は城内の一部と周辺を組み入れるのとで数に開きはあるし、30万人じゃないからゼロだという訳でもないのに、そういう論争は避けつつ無かったかのように振る舞う。なんかみっともない。でもって「当時の日本人、そんな銃弾があったら、絶対にアメリカ兵に使ってそうですが、中国の民間人に使ったんだそうです」っておいおい、1937年という日米開戦もしていない時期に日本人がアメリカ兵を撃つ可能性っていったい何だ。そういう指摘が散々っぱらされていたにも関わらず、平気で転載する媒体のポン酢っぷりも見えてちょっとウンザリ。これは本当にアウシュビッツはなかった説を載せかねないなあ。


【10月21日】 なんでまた巨人に入ってとは思うし、それもドラフト1位で入って順風満帆あったはずなのに、大成しないまま2軍暮らしを続けるうちに、心も荒んでしまったんだろうかそれとも元より資質がそっち向きだったんだろうか、野球賭博に手を染めてしまったらしい選手が1人。もうひとりもドラフトで入って1軍での試合出場経験もあって、それなりな年俸ももらっていた選手だけに、何が欲しくて野球賭博に関わってしまったんだろうかといった疑問がつきない。スリルといったって、発覚すれば球界追放は確実な厄ネタで、麻雀賭博といった素行の悪さで済まされる話ではないから手を染めるにはリスクが大きすぎる。

 得られるお金だって年俸に比べれば微々たるもの。でもやらなきゃいけなかったのは、他に使うお金でもあったんだろうか、単純に心が弱かったんだろうか。いずれにしても名門と自認する巨人での出来事だけに、大嵐が吹き荒れることになるだろうなあ。これが新監督にまで及んだりしたら……。それはさすがにないだろうけど、幸先も悪いよなあ、高橋由伸選手。それでも引き受けるのは底辺からの再出発と言うことで、下駄を履かせてもらって2年3年は様子を見るっていう確約が得られるからなのかな。堀内恒夫監督のように就任して2年で退任ではさすがに気も乗らないだろうし。ちょっと注目。

 何を言っても聞く耳を持たないのはどこか、心身に変化を来しているからって気もしないでもない院長先生のナチスドイツ全肯定的発言の数々。間違いを明確に否定してもそれを受け入れず、歴史は推理だとかいって逃げる始末ではもう言葉なんて通用する相手ではなくなっている。それを個人や学者が言って味方を集めて盛り上がるのはあっても、病院というある意味で公共に近い施設を運営する人間が、そういうことを言ってはやはり社会への信用に関わってくるだろう。それこそ海外から激しい非難だって起こりかねない状況に、息子先生もちょっと困ったことになっているだろうなあ。

 そんな病院に納入するのは人道に対する罪だと言われて取引を断たれ、そんな病院が出すお金でCMを流し広告を載せる媒体もそうした見解に与したものと糾弾されて出稿を遠慮されて打つ手なしとなった時、それでも自分を貫き通せるか。通しそうなだけに怖いけど、それで迷惑を被る職員や患者のためにもこここは、息子先生とそれから有意のメンバーで対処するってのがひとつの手か。でもメディアの中にはあんな見解を逆に勇気ある発言ととらえ、引っ張り出しては東京裁判の否定と合わせてニュルンベルグ裁判の否定を言わせ、アウシュビッツの不在を言わせてそれを載せるところが出てくるかも。歴史戦とかを戦っていたりして、なおかつ財布も厳しいから院長先生の言葉を載せるならと出るお金にも飛びつきそうなメディアあたり。結果、起こることは終末に近いんだけれど、そういう推察が働くような組織でもないからなあ。どうなるか。ちょっと関心。

 今日も今日とてJapan Content Showcase2015へと赴いて東京国際ミュージックマーケットが仕切っているセミナーを見物。まずは音楽ストリーミング・サービスを手掛けている日本の5社がそろい踏みするというちょっと珍しいセミナーで、KKBOXとAWAとLINE MUSICとレコチョクとそしてGoogle Play Musicから担当者がやってきて、それぞれのサービスの特徴とかを話して聴かせてくれた。あまりなじみのないのがKKBOXだけれどそれも道理で日本生まれではなく台湾生まれ。なおかつ向こうでは音楽情報誌を出したりライブ活動もやったりと、音楽配信から幅を広げて音楽関係事業体になっていっている感じ。

 日本だとそういう方面はがっちり抑えているイベンターに出版社があるから、配信は配信に止まるしかないけれど、海外では音楽を抑えて次といったことも可能なんだろう。だからそのサービスモデルは日本であんまり参考になりそうもないけれど、もしかしたら海外のノウハウを持ってきて日本のそうしたビジネス形態に風穴を開けてくれるかもしれない。AWAはエイベックスとサイバーエージェントが立ち上げた会社で、豊富なコンテンツを持っている上にリストアップとレコメンドというサービスでもって、人が新たに知らない曲へと聞くような道筋を与えている。これは良いことで、ダウンロードだと聴きたい曲しか聴かずそれで終わりになるところを、これも良いあれも面白いと進める機能が、あって、定額制でストリーミングならちょい聴いてみるかとなってそちらへ行って、さらに連想の中に興味を広げていく可能性がある。

 昔ならそうしたレコメンドを受けてレコードを買うなり借りるなりして知見を広げ、あるいはFM雑誌を読んで放送される時間を探して聞いてさらにそこでDJが楽曲を紹介して興味の幅を広げていけたけれど、FMに流れる曲も限られ聴く時間も無い中で、ストリーミングの配信と定額制、そしてレコメンドによる勧誘が音楽を広げ音楽市場を盛り上げる道になるのかもしれない。ただ人って進められても聴くほど時間にも心にも余裕がないんだよなあ、聴きたい曲が聴ければ良い、って範囲に止まりそう。そこで逆らえない友人の誘いって奴を乗せて、LINE MUSICがいろいろと仕掛けて来そう。コミュニケーションアプリの上で音楽を共有するような仕組み。それがあれば皆で聞き皆に聴かせる繰り返しから、音楽をサーフしていける。そうしたコミュニケーションにビジネスを載せて音楽を流行らせるような仕掛けも組めるけど、やり過ぎるとステマ呼ばわりされるからなあ。だから自然にコミュニケーションの中で音楽が話題になるようなカルチャーを、作っていくことが大切かも。

 レコチョクについてはレコード会社の系列だけあってストリーミングにもダウンロードにもCDにもアナログ盤の復活にも全方位的に意識を向けつつネットの範囲でできることは何でもやるっていうスタンス。特定のどれかに絞っては、べつのどれかに対応している人に音楽が行き渡らないのはまずいっていくことなんだろう。そんなレコチョクで音楽配信を立ち上げた人が写ったGoogle Play Musicはやっぱりグーグル様の技術力なり開発力に乗っかったサービスが出てくるかってことになるのかなあ。Google Playと連動するとかAndroid OSの上なら何でも、それこそ車載装置でも聞けるようにすろかいった感じで窓口を広げていく。それも戦略。ただこうしたサービスでやっぱり問題になるのは、アーティストが楽曲を提供してくれるかってことになる。

 面白かったのは、旧譜だって金になるから出しませんかという勧誘に、そりゃいいけどでも俺が今一番言いたいことは今作っている楽曲に込められているんであって、旧譜が話題になってそれが盛り上がったら、今言いたいメッセージがが伝わらないじゃないかって、勧誘してきた相手に行ったアーティストがいたっていう話。聴いてなるほど、企業側の親切心も含めた言葉も、アーティスト自身には届いていないってことで、そんなアーティスト魂を理解しつつ、けれどもユーザーがあっての音楽なんでみんな仲良くやりましょう、それによって新しい市場が生まれ音楽マーケットが盛り上がるかもしれないからっていった呼びかけに、広く答えていってくれることが必要だろう。あとやっぱり無料で聴く人が多い問題。そりゃあないって話だけれど、でもちゃんと聴きたい曲を聴きやすい状況で提案できれば、お金を払ってくれるユーザーはいる。そういう気持ちにさせるだけのサービスを、行うことが意識の改革に繋がると思いたいけれども、果たして、ちなみに僕はCD派。聴きたい曲がいつでも買える身分に早くなりたいなあ。


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