縮刷版2015年10月中旬号


【10月20日】 「週刊将棋」が休刊だそうで、1988年ごろから断続的に読みながら、羽生善治さんの台頭だとかチャイルドブランドの活躍だとかを追いかけつつ、古い時代の話を読んだり詰め将棋を解いたりコンピュータ将棋のトピックを見たりして将棋をとりまくだいたいのことを、そこから知っていた身としては寂しい限りではあるけれど、でもまあ棋戦についてはネットが発達して日本将棋連盟のサイトから結果については知ることができるし、詰め将棋とかもネットの上を探せばいろいろあって無理に週刊紙のを解く必要もなくなっている。

 唯一残念だと思えるのは各棋戦についての詳報で、指し手から時間経過からおやつから食事まで、細かく報じてくれて棋戦といったものから漂う雰囲気を、文字と写真と棋譜によって感じさせてくれただけに、これがなくなると月刊誌では情報が足りず、ネットの報道では速報過ぎて細かいところまでが伝わらないといった感じに、「週刊将棋」の不在をカバー仕切れない気がする。でもそれも何かがとって変わっていくんだろう。ニコニコ生放送の棋戦中継に付随するコメントとか。そういうのを受けてこちらも前のように「週刊将棋」を買わなくなっていたのも実際なんで、休刊も時代の必然といったことなんだろう。残念だけれど仕方が無い。長い間ご苦労様でした。それでバトルロイヤル風間さんの連載はどこ行くの?

 やっぱり江川卓さんではなかたっというか、江川卓さんではやっぱり無理だろうなっていうか、現場から離れて長いこともあるしコーチも含めて指導者の経験が皆無ってこともあるし、やっぱり印象としてどこか巨人軍の監督に似合っていないった雰囲気もあるだけに、収まりがつかなかったって感じ。高橋由伸選手の場合は生え抜きだし、実力もあるしコーチ兼任もやって禅譲への道はできていた。まだ鉄の熱いうちに打つというかトップに据えて全体を統括してもらうことで、チーム全体の士気もあがって来シーズンへと繋がっていけるという判断もあったんだろう。ただ代打で好成績を残していただけにもったいないという来も。谷繁監督と並んでプレイングマネージャーとして活動するか、伝統ある巨人軍の監督なんできっぱりと選手を辞めて専念するか。そこくらいか。そして3年務めて松井秀喜さんに禅譲? でもこれもコーチ経験とかないだけに、落ち着きがちょっと悪いかな。

 インフルエンザの予防接種を打ってからお台場で始まったJapan Content Showcase2015へと回ってざっと見物。相変わらずにテレビ局とか映画会社がブースを並べてポスターを貼ってチラシも置いたりしているんだけれど、そこでいったいどういう商談が行われているかはちょっと謎。ここで売買するくらいならカンヌとかいったマーケットへ持って行っているよなあ、なんて思ったりもするけれど、未だこうやって開催され続けている以上はカンヌとかに行けない地域からのバイヤーとかも来て見たりしているのと、あとは東京国際映画祭に合わせてやって来た映像関係者に見知ってもらうという意味もあるのかも。

 そんな映像系とは違って音楽系はなかなか賑やかというか、インディーなアーティストが来て演奏をしたりしている姿はなかなか愉快で、見て果たして本当に海外進出とかに繋がるのか、後を追跡してみたい気にもかられた。そんな中にあって普通に海外進出確実だろう? って思わないでもなかったのがセカオワことSEKAI NO OWARIで、なぜか単独でブースを出して映像を流しパネルを置いてアーティストの存在をアピールしていた。聞くとアミューズと半々くらいで会社を作ってそこの所属になっているそうで、アミューズだったらPerfumeの海外進出で実績もあるからセカオワだってすぐにいけるじゃん? って思ったけれど、やぱりいろいろと段取りが必要なんだろう。あの巨大なライブをそのまま持って行くのは無理。でもこぢんまりとしたライブハウスでセカオワらしさを出せるのか。そんな懐疑を乗り越えて、世界進出の第1歩をここから刻めるかってところで、Japan Content Showcaseへの出展を位置づけていきたい。1度くらいライブ見ておくかなあ。

 そんなセカオワのブースの横にきゃりーぱみゅぱみゅのPOPが立っていたりしたのはご愛敬として、今回のJapan Content Showcase2015で個人的に目を惹かれたのはTokyo Creators NEXTっていうエリア。富山県に暮らす兄弟ユニットのThe BERICHとか、「おにしめおたべ」を東京芸大院で作った今林由佳さんといった独立系のアニメーションクリエイターが軒を並べてブースを出して、自作をアピールしている様は東京国際アニメフェアに昔あったクリエイターズワールドの再来。聞くと仕切っているのも東京都だそうで、アニメーション産業の振興を唄いながらも東京国際アニメフェアが途切れてしまい、クリエイターズワールドも失ってしまったことを残念に思い、ここにこうして“復活”させたらしい。いや素晴らしい。

 「劇場版 くまのがっこう −ジャッキーとケイティ−」を監督した児玉徹郎さんが「カーリー」っていうちょっと謎めいた、怪獣みたいなのがペットとして居座っている家庭で起こるドタバタを描いた作品を出していたり、山元隼一さんがゴキブリのDNAを仕込んだ美少女をヒロインにした「ゴキブリ姫」って衝撃的な雰囲気の作品を出していたりと、なかなか楽しそうだけれどもコーナーが隅っこにあって、いったいどれだけのバイヤーさんが立ち寄って作品を観て、ワオこれはクールだ買い付けて長編かだイエイと言ったかどうかがちょっと不明。とはいえクリエイターズワールドに外国からのバイヤーが詰めかけていたかというと、東京国際アニメフェアの位置づけがそちらに傾いていなかったこともあって、むしろ今回の方が外国人は多いかも。商談がまとまり成果となって伝わって、これは来年ももっと大きな規模で開かなくてはとなれば、クリエイターズワールドの本当の意味での再来もありそう。まずは今年。どれだけ行くか。見守りたい。

 これはとても厄介な記事なのだけれど、その厄介さにたぶん記者も通したデスクも気付いてないんだろうなあ。「【衝撃事件の核心】 “元神童”の女装プロゴルファー、窃盗容疑で逮捕 深夜の『散歩』で人生もOB 千葉県警」という見出しで、とあるメディアの一時的にはサイトトップに掲載された記事。文中に「捜査関係者によると、趣味の女装を取り締まるような法律はなく、『作業着を盗まなければ逮捕されることはなかっただろう』」とあって、ある意味で微罪でしかなかった事案を、女装していたから、プロゴルファーだったからという理由で大きく扱い、あまつさえ発生から随分と過ぎた現在になって、「衝撃事件の核心」という言葉でもって重大事のように扱ってのける。

 罪は罪として罰せられることは当然だけれど、それが女装者であったこと、プロゴルファーであったこととは切り離さなくてはいけない。そうでなければ女装者はすなわち窃盗を犯すうろんな存在といった偏見を、世に広めてしまうことになりかねないから。だから慎重に扱うべきであり、また女装者を強調したいならなぜそこに至ったのかを当人に接見でもして聞き出すべきなのに、2週間も経っているにも関わらず、そうした心情への取材はなく、ストレスらしいといった外部の噂を載せるのみ。そこに苦悩への推察はなく、世間的に妙ならそれは妙なんだといった雰囲気を助長するだけの記事になってしまっている。というか、そういう意識なり意図なりが書き手にも通した側にんもあったんだろう。なおかつそれが拙いということに気付いてないんだろう。むしろ叩いて当然とすら思っているかもしれない。

 だから厄介。マイノリティの属性が個人の犯罪の事実と結節されて起こるマイノリティ全体への偏見は、容易に特定の集団への差別へと転化し弾圧になりえることを僕たちは歴史の上で散々っぱら突きつけられてきた。だからもっと慎重であるべきなのに、そしてそうした意識を率先してもつべき公器ともいえるメディアなのに、ネタになる、アクセスが稼げるといった意識からマイノリティへの偏見を煽るような見出しと記事を掲げてくる。まったくもって処置無しだけれど、でもまあ、ここん家だけが突出して、ほかはさすがに下品だったり差別的だったりする書き方の記事は書かないし、載せていない。そういう矜持を失ったメディアがどうなっていくかは、結果を見れば明白なんだろうけれど、案外にしぶといんだよなあ。やれやれ。


【10月19日】 書いたときには書いた側も乗せた側も、炎上するなんてまるで考えていなかったみたいだけれど、“発見”されるやその物言いの失礼さに世間から何様だ的なリアクションがわんさか寄せられ大炎上。新聞記者とやらの尊大さなんてものが改めて世の中に定着してしまう現任を作ってしまった。スポーツ報知で将棋なんかを担当しながらミシマ社って割におしゃれな本を出すことで知られる出版社のサイトでコラムを連載しているんだけれど、そこでノーベル物理学賞を受賞した梶田孝之さんお会見へと行って、趣味は何ですかと聞いて答えてもらえず、趣味がないなんて言ったらお見合いでは破談ですから次ぎに聞いたらちゃんと答えてくださいねって占めている。

 まずひとつ、趣味があろうがなかろうが、それがノーベル物理学賞的な発見に何の関係があるんだってことで、記者として求められているのはそうした発見にどれだけの価値があり、どれだけの意義があるかってことを、お茶の間の人でも理解できるようかみ砕き、解説してみせるってこと。なのに人となりへと走って趣味を聞き、あまつさえ答えてもらえなかったからと私怨めいた言葉を吐く。これは非難されても仕方が無い。ただやっぱり、どういうパーソナリティの人ならノーベル物理学賞にたどり着けるんだろうという興味から、趣味を聞くことそれ自体は認めても良いと思っている。そこから広がる話題もあれば、掴める人となりもあるかもしれないから。

 そうでなかった今回、趣味を持たないことを非難するような結末へと持って行ったことが尊大過ぎると大炎上を呼んでしまった。ここで趣味を持たない科学者は何を人生の糧としているか、それが生き方どしてどうなのかを自問自答しつつ、自分とは違う生き方だけど、だから科学者なんだと書けば誹られもしなかっただろう。どういう空間の中で自分はどういう立ち位置にあって、どこに向かって何を書いているかを肌感覚で分かっていれば、そういう風に持って行ったものを自分を中心に置き、その感性でもってノーベル賞受賞者のことを非難混じりに書いてしまったから世間が怒った。そこに気づけなかった段階で、ひとつ問題があったって言えるだろう。そういうことを今、理解しているかが気になるけれど、更新は来月なんでリアクションが出るのはちょっと先。どういう言い訳をしてくるか。それとはなしに眺めていこう。

 これもやっぱり何をどう書けば世間を説得できる言葉になるかって感覚を、肌に持たないまま飛ばしてしまったケースか。とあるネットメディアがノーベル物理学賞の受賞理由になったニュートリノ関係の研究で、技術的に大きな役割を果たした浜松ホトニクスをあろうとことか「無名企業」っていう惹句でもって紹介して、お前が知らないだけだろうって感じに激しい突っ込みを受けている。まさしく記者が知らないだけなんだろうし、あと世間一般といった感覚から、テレビでガンガンとCMを売っているコンシューマー向けの商品やサービスを展開している企業、日頃から付き合いのある流通だの金融だといった企業に比べて、認知度が低いってことも理解できる。

 でもそれは決して「無名」ってことではない。知る人ぞ知るといった感じ。半導体のロームだって製造用ロボットのファナックだって、世界的には超有名な企業だけれど、コンシューマー向けの商品を取り扱っていないこともあって、人によっては「無名」と思われてしまうかもしれない。でも違う。断じて違う。だから、ここで浜松ホトニクスを紹介する上で、適切な言葉を選んでいれば騒がれなかったんだけれど、自分を主体にそういう言葉しか持ち合わせていなかった不幸が、激しい突っ込みを呼んでしまった。それは教育で直るのか、もはやそういう言葉しか持たない人がネット媒体では主力になっているのか。いずれにしても言葉の最先端で起こっている言葉の貧困は、将来にいろいろと禍根を残しそう。せめてひとりでも頑張って言葉を探っていきたいけれど、最近忘れっぽくて簡単な言葉しか浮かばないんだよなあ。困ったなあ。

 やっと見た「ハイキュー!! セカンドシーズン」の第3話は潔子さんがいっぱい喋っててやっぱり嬉しい。あと笑顔もいっぱい見せてくれて。これまで仏頂面の無口で通していたのはキャラ作りではなく、ほかに喋る相手がいなかったからってことで、それが新しいマネージャー志望の女子が入ってきたことで嬉しさに口もほころんだのかも。ずっといた部員の男たちではその笑顔、引き出すことはできなかったんだよなあ、まあ仕方が無いか、阿呆ばかりでは。そんな新しいマネージャーの女子が自分の迷いを振り切って、やりたいことでもやってみたいことでも良いから、とりあえず挑むことを決断するまでがストーリー。そこにちゃんと1年コンビが絡むところに、あの2人の他にはない資質って奴を感じさせる。掘っておけないってことなのか。直球莫迦なんでついつい乗せられ引っ張られてしまうということなのか。いずれにしてもメンバーも増えて新たに始まった伝説はどこに向かう? その前にテストの結果だ。ちゃんと全員、追試なしで抜けられたのか? 来週に注目。

 歩けばそこに出会いがあるかも、なんてことを期待させてくれる漫画が登場。アサミマートさんの「瀧鷹之介の散歩時間」(徳間書店)は老紳士が街を散歩しているだけで、お尻がドンと張って胸がボンと突き出て腰がキュッとくびれてそして服とかパッツンな眼鏡の美女と知り合いになって、あまつさえ好感すら抱かれるというドリーミーな展開に自分もそうなれるんだったら歩こう歩こうどこまでも歩こうと思ったのだった。でも読むとその老紳士は結構な人物で過去に財をなしそれを譲って隠居しながらも未だ慕われているという好人物。後継者にも元秘書にも慕われ頼りにされているだけの素材あったからこそ、ただ歩いているだけで眼鏡のグラマラスな美女を引きつけたんだろう。あるいは何かフェロモンでも出していたか。その境地に至るには自分も歩くだけでなく、財をなし日頃から慕われる努力をしないといけないのかも。それは無理。だからせめて老紳士を慕う眼鏡の美女を心で思う夢想家でいよう。夢を見るだけならそれは自由だ。

 アメリカ生まれのWebアニメーション「Rwby」が無茶苦茶面白かったので11月14日公開の日本語版をエブリバディ、絶対に確実に見るように。そりゃあフル3DCGで作られる映画だったらピクサーがあるし世界中が作っているし日本だって「STAND BY MEドラえもん」とか出てきて技術的には並んでる。セルルックだったら「009 RE:CYBORG」があり「楽園追放」があり「蒼き鋼のアルペジオ ーアルス・ノヴァ−」もあって普通に見て2D作画と区別がつかないものが普通に見られるようになっている。それを思えば「Rwby」の3DCGなんて10年前、あるいは15年前の水準じゃないのと言われて返す言葉もない。でも。

 見れば分かる。そして感じる。「Rwby」にそんな3DCGのグラフィックの優劣なんて関係ないってことを。登場するキャラクターの動きや表情を見ていて個人的にはそこに何の違和感も覚えない。不思議だって思うようなところもそれほどない。なんかぬらぬら動いているなあって思わないでもないけれど、それも個性だし、そうしたルックの奥にあるキャラクターのアクションや表情を見ていると、自然と引き込まれてしまって拙劣だとか時代遅れだとかいった気分は吹き飛んでしまう。視線の操作や笑顔の口元といった豊かな表情の描写と、そしてスピード感もあれば重量感もあって圧巻のバトルシーンが目に強く訴えかけてくる。

 なるほどストーリーはどこかでこぼこした部分がある。編集すれば切れたエピソードもあるかもしれないけれど、それも含めて2時間近くを見ていて心がまるでダレない。むしろ視線を釘付けにする。チームが始めて結成されて向かった森の中で遭遇したモンスター2頭を4人1組で2組8人のキャラクターが相手にして倒すシーンなんか、はらはらドキドキからカタルシスへと至って拍手喝采をしたくなった。それくらいの面白さ。それくらいの鮮やかさ。そこは流石にアメリカの技術であり、アクションについて検討を重ねて描いただろう3DCG作画の凄さでもある。クライマックスに出てくるバトルシーンも同様。とにかく凄い。素晴らしい。あと時折混じるギャグ描写も。カートゥーン超になったりギャグ漫画調になったり。手を変え品を変え楽しませてくれる。

 そんな映像でもって綴られるストーリーの中から、自分本位の態度を改め、仲間を信じ差別の心を考え直しつつ思い込みも改めつつ、今を見つめ前を向く大切さって奴を教えられるドラマが浮かび上がってる。つまりは良い物語。それを日本語版では声優さんたちがぴったりの声でもって演じてくれている。けんか腰の掛け合いめいたものもたっぷりとあったりして、いささか多めのセリフをとにかく喋りまくって女の子たちの日々ってやつを見せてくれる。張り詰めて喋り倒してきっと吹き替えの現場は大変だっただろうなあ。それだけの声って奴を聞かせてくれる「Rwby」だけれど、残念なのは物語はこれからだ! ってところで終わっていること。だからVolume2登場が待ち遠しい。同じ声優による吹き替えでもって日本語版を見たい。絶対に見たい。

 だから僕は11月14日に公開されたら行って劇場で改めて見る。可愛い少女たちの圧巻のバトルと、心をさらけ出して理解し合う様に感じ入り、悩める青少年が自分を高めようと足掻く様に自分を重ねて上を向く。そんな内容を持った「Rwby」是非に多くの若い人たちに見て欲しい。3DCGのクオリティ云々を問う暇なんて感じさせないくらいに、畳みかけられる言葉と映像の本流から、作り手のとことん楽しいものを作りたいという心意気も感じられるはずだろうし。あとふと思ったのは、「Rwby」の3DCGってロマのフ比嘉さんの「CATBLUE:DYNAMITE」あたりと重なるなあってこと。15年の前の作品だけれど3DCG作画ながら2Dライクに描かれ動き戦う猫少女が出ていたっけ。あれがちゃんと商業まで昇華していたら、随分と早く3DCGの時代が来ていたかもしれないなあ。


【10月18日】 気がついたらプロボクシングの亀田興毅選手が、WBA世界スーパーフライ級の河野公平選手が持つベルトに挑戦して敗れ、引退を表明していたとか。もう10年以上を第一線で活動し、世界チャンピオンにもなってそれも3階級を制覇した偉大なプロボクサーである割には、どこか寂しくそして不思議と世間から悲しまれもしない引退劇に、この選手の特異さってものも見えてくる。それはつまり人気を得るために繰り広げた諸々が、本来の実力を脇においやってしまってしまい、そして人気取りのための言動がプラスに働いて大いに話題になった分を、今になってマイナスに引き下げているといった感じか。

 実力はあった。でなければあの苛烈なプロボクシングの世界でトップは維持できないし、世界チャンピオンになんてなれるはずがない。弱い相手を選ぶとかいったって、弱い相手はチャンピオンにはなっていないし、チャンピオンになっているならそれは強い相手であって、1度はそこに挑まなくてはチャンピオンの座は奪えない。それを3度もやったんだから凄いもの。そして幾度かの防衛も果たした。弱い相手を選べば可能って言われるけれど、それを認めるほどボクシングの団体だって甘くはない。そういうものだろう。実際に敗れたこともあった訳だし。

 実際に見たランダエタ選手相手の防衛戦は、アウトボクシングに徹して守備にたぐいまれなる才能を見せ、相手を寄せ付けなかった。これを見て凄いボクサーなんだと理解した。だから以後、口ばかりが先に出て毀誉褒貶を招いた時も、本当はある実力を思って戦えば分かると思ってながめていたし、むしろ戦って分かってもらえば良いのにとも思っていたけれど、周囲の状況がそれを許さなかった。口を出し手も出す親とか、そういう状況を煽るように報じて話題だけを作り、数字だけもらって人の尊厳を損なうメディアとかによって、いたずらに貶められていたところもあった。そんなプレッシャーの中で10年近く、トップを維持してきたんだから、やっぱり凄いとしか言い様がない。お疲れ様。そしてこれから何をするかを見守りたい。弟2人、どうするだろうかも含めて。

 長く長く生きていることは、人によってはいろいろ見られて嬉しいけれど、長く長く生きていることによって普通に生きている人との間に時間の差が出て、ひとつところに止まれない問題が出る。大昔だったら戸籍もないからふらりと現れどこかに居ついてそのまま暮らしていけたかもしれないけれど、衆人環視の網も発達した現代で、たとえば永遠に歳を取らない子供がひとりで暮らしていくのは困難というより不可能だ。だから誰かの家に寄生するような形で暮らしては、そうした家族を乗り換えていく少女がゆうきまさみさんの「白暮のクロニクル」には登場しては、やっぱり露見して政府によって確保され、半ば隔離されてしまった。

 瀬王みかるさんという人の「卯の花さんちのおいしい食卓」(集英社オレンジ文庫)に登場する長命の少女の場合はだから、そうした長命の種族から生まれた大金持ちたちが出資するような形で作られた秘密の組織があって、その管理下にあって協力者たちの下をいったり来たりするような形でうまく社会に溶け込んでいる感じ。あと若くして成長が止まってしまうような人の場合は何か特殊な能力が生まれて、そうした生きづらさを補っているといった感じで、この少女の場合は他人の記憶を操る力を持っているから、やろうと思えば誰かの家族になりすますことだってできただろうけれど、それをやっても戸籍はどうしたって話は消えないから、やっぱり管理下に入った方が気は楽か。

 そんな少女が今、暮らしているのは薔薇が綺麗な屋敷でそこには兄弟らしい青年が2人いて、時々気紛れに店を開いていたりする。そこに転がり込んできたのが近所のアパートに暮らしていた1人の女性で、親に捨てられ施設で育ち、卒業してから勤め始めた工場が倒産で閉鎖され、なおかつ暮らしていたアパートも火事で焼けてしまって行き場に困っていたところを、大家の口利きで知り合いらしかったその屋敷にしばらく住まわせてもらうことになる。そして知った少女の秘密と兄弟らしい2人の青年の過去。長命であることの苦労とは別に、親によってかけられたプレッシャーの重さに苦しむ少年の物語があり、親に捨てられながらもどこかで親を待ち続ける少女の話があって、家族といったものの大切さと大変さが、同時に浮かんできてどうしたら良いんだろうかと悩ませる。

 一方には、長命であるがゆえに家族といったものを持ち得ない苦しみも浮かぶ。そんなどこか不安をかかえ哀しみを覚えた人たちが集い囲む食卓は、いったいどんな感じなんだろう。補い合って支え合い、生きていくことをそこで覚えた人たちから漂う暖かさが感じられる物語。異質な存在を受け入れられるかという問いもあるけれど、気にしたところで自分が変われる訳でもないし、彼ら彼女たちだって苦しんでいると分かれば憤る理由もない。誰もがひとりで、そして大勢なんだと感じつつ、触れあった時間の中で精一杯に今を生き続ければ良いだけなんだろう。そんな物語。これは別名義で他にいっぱい書いているというけれど、誰でどんな作品なんだろう。気になった。

 どんなものかと九段下に寄って靖国神社の秋季例大祭。屋台がまるで見えなかったのはみたま祭ではなく例大祭だからなのか、それとも例年出ていたものがみたま祭で屋台を排除した流れが続いてこちらも排除になったのか、例年のことをあんまり覚えてないから分からないけれど、前に何度か寄った時には出ていたような気もしないでもない。どっちだったっけ。ただ騒ぐ若い人はおらずコスプレをした人もまるで見えずに黒いスーツで来る大人もいたりと秋晴れの中、整然とした雰囲気で誰もがお参りをしていた。ライト系の車両もあってそちらの筋の人もいても徒党を組んで威圧感を出すんじゃなく、ちゃんとしっかりお参りしていた。

 つまりはそういう日。自分たちをアピールするんじゃなく、自分たちの気持ちを伝える人。それが本来なんだけれどなぜか8月15日は自分大好きな人たちが集まり賑わいを見せる。どうしてそんなことになってしまったんだろう。あの日もやっぱり粛々とお参りできないんだろうか。そうしたい人もいるだろうに。そしてみたま祭は屋台も繰り出し縁日の賑わいで御霊にも楽しんでもらうと。自制の中で最大限のことをできなくなっているのかなあ、謙虚で慎み深く他人を思いやって前に出ずかといって後ろにも下がらず、誰もが認め合い理解し合いながら集団としての整然を維持して進み発展してきた日本人と日本の雰囲気が、日本人によって崩されているというこの不思議。自己が前にでて自我が垂れ流されるようになった原因は何なんだろう。誰もが自分を出せるツールの登場と発展と普及もあるのかなあ。つまりはネット。どうなんだろうこの辺り。

 なでしこリーグの上位チームで改めて順位を競い合うシリーズが始まっていて我らがジェフユナイテッド市原・千葉レディースはベガルタ仙台レディースを相手に引き分けたようで勝ち点的に現在4位。レギュラーシーズンの順位で格差を付けてからのスタートで順位は確か大きくは変わってないけれど、点差的に1位の日テレ・ベレーザと4点だから残る試合で逆転できないこともない。その日テレとそれから女王だったはずのINAC神戸レオネッサがそろって敗れたりもしているから、シーズンを通してそんなに取りこぼしのなかったジェフレディースが堅調さを維持して知らず抜き返している可能性なんかもあったりするかも。ちょっとワクワク。

 一方で男子の方は大分トリニータに引き分けたりして、順位は6位に浮上はしてプレーオフ圏内だけれど取りこぼしも多くなっているだけにちょっと不安。というか元よりプレーオフは苦手なだけに今シーズンもダメかもしれない感が濃くなっている。清水エスパルスが落ちてきてオリジナル10が東京ヴェルディと3チームになったらJ2もさらに厳しくなりそう。セレッソ大阪だって上がれるとは限らないし、アビスパ福岡だってここに来て負け無しが続いている。そんな群雄割拠を抜けるのはやっぱり最初から無条件での昇格を果たすしかなかったんだよなあ。それができないからこそのジェフ千葉なんだけれど。果たしてどうなるこれからの終盤。せめてプレーオフ圏内だけは死守を。天皇杯も敗れてそれくらいしか望みがないんだ。いやレディースの優勝とそれから皇后杯もあるけれど。


【10月17日】 「東映まんがまつり」のどれを見に行ったかなんて覚えてはいないけれど、そこで取り上げられた「マジンガーZ対デビルマン」とか「マジンガーZvs暗黒大将軍」といったアニメーションを放送されたテレビなんかで見て、そういうハイブリッドな世界観も映画ではあるんだと分かっている世代なんで、タイトルが「サイボーグ009vsデビルマン」と決まった時から、どういう内容になるかってことはだいたい分かっていた。島村ジョーと不動明が正面からガチにぶつかり合うような展開に終始する内容ではないと思っていたけれど、それでも興味のあった時代を代表する2人のヒーローの対決が、「サイボーグ009vsデビルマン」でちゃんと見られてちょっと嬉しかった。

 天然の強さを誇るデビルマンに分があるかなあと思ったら、案外に009もやってくれた。あそこで完全に敵対したら、9人が揃ったゼロゼロナンバーサイボーグたちにデビルマンもやられていたかもしれない。飛鳥了はまだ普通の人間だし牧村美樹はただの女の子だし。でも幸いにしてストーリーはそうはいかず、デビルマンが相手にしていたデーモン族が009たちの追っていたブラックゴースト団と重なりそこに現れたとてつもない存在を相手に、ゼロゼロナンバーサイボーグたちのチームワークとそして009のぬきんでた強さ、さらにはデビルマンの牧村美樹を守りたいという心が生んだ圧倒的なパワーが重なり敵を退ける。合間に1人の姉による弟への愛の呼びかけもあったことも大きかったか。

 そんな感じにストーリーとして楽しめた上に、映像も迫力がたっぷりで、そして声もデビルマンを演じた浅沼晋太郎さんの不動明からデビルマンへと変わった時に声も変えてみせた演技なんかが素晴らしく、70年代テイストが残っていることへのある種の気まずさを埋めて、その時代へと気分を引き戻されすらして楽しめた。いやあ面白かった。これがこの後も続くと、ゼロゼロナンバーサイボーグたちは神すら相手にする戦いへと向かって泥沼化し、デビルマンは人類をも敵に回して行き場のない戦いに翻弄されつつ自滅する。そんな規定の未来へと進ませたって陰惨なだけならこの段階でひとつの結末を見せて、出会った2人のヒーローたちが道を違えつつそれぞれの戦いに向かうといった、「マジンガーZ対デビルマン」の方法を選ぶのも当然か。ただオープニングでチラッと見える飛鳥了のサタン覚醒バージョンがどうにもなまめかしいだけに、それだけはちょっと映像で見たいかも。もう1回確かめに劇場に行くかなあ。いっそBD買ってしまうかなあ。

 新宿を出てさてどこへ向かうかと考えて、大宮でそういえば「アニ玉祭」をやっていたと思い出して、埼京線でもって新宿駅大宮まで出て、大宮ソニックシティに行ったらパトレイバーが寝ていた。そういえばデッキアップをやるんだった。近くを埼玉県警のパトカーとかが固めていて、警視庁と埼玉県警のコラボレーションって雰囲気だけれどパトレイバーは別に警視庁のものじゃないからなあ。そんな架空と現実とが混ざり合って醸し出される不思議な雰囲気が、アニメとか使った街興しなりコラボレーションの面白さって奴かも。すぐそばでは自衛隊が車両を並べていて、そこに「GATE 自衛隊、彼の地ににて、斯く戦えり」の展示もあってコラボをしていて、現実と架空が混ざり合って不思議な雰囲気。そのままの車両なのに、「GATE」の世界を模した痛車でもあるっていう錯綜があって、ちょっと面白かった。そういうのが許される時代なんだなってことも含めて。

 そんなパトレイバーのデッキアップを見て、展示もざっと見て帰ろうかとも思ったけれど、小沢さとるさんと宮武一貴さんという、かたや冒険漫画家の重鎮で、こなたメカニックデザイナーのトップランナーが登場して何か喋る特別講演がちょうとピッタリに国際会議室で始まるってんで、のぞいていこうかと大宮ソニックシティを4階まで上がったら、そこに小沢さんが歩いてきたからもう吃驚。決して熱心な読者とは言えないけれども「青野6号」も「サブマリン707」も知っているし、「青の6号」はGONZOが手がけたアニメーション版が大好きで、その原作者として尊敬しているだけに近くでご尊顔を拝めるてちょっと嬉しかった。

 気になって昔の日記をひっくり返したら、1998年9月1日にGONZO版の「青の6号」がアニメになって、その第1話の上映会が新宿で開かれた時に小沢さんも北海道から上京して来て、挨拶したって書いてあってその時に1度、ご尊顔に拝してたらしいんだけれどどんなお顔だったかは覚えていない。何よりそれから17年も経っての再会は、当時まだ62歳だった小沢さんが来年2月3日で80歳に達するというくらいの時間的な経過があって、その間も衰えることなく絵を描き続けていたこと、そしてその存在感を失わずむしろこうやって高めつつあることに、手に技術を持ち頭に才能を持ったクリエイターの価値ってものを強く感じる。

 そんな小沢さんがしきりに自分は漫画家として名乗るのは恥ずかしいといっていたのは、単なる韜晦なのか、それともやっぱり完成に至れない作品が多いことへの忸怩たる思いがそう言わせているのか。代表作として筆頭にあげられる「サブマリン707」は連載の途中で終わったままだそうで、ほかもそうした作品が多いとか。でもそれでも代表作として語られるんだから連載中に十分のインパクトを与え、後世にも影響力を残したってことで、それを卑下する必要はまるでないんじゃないのかな。でもやっぱりあの時代、アシスタントを務めた手塚治虫さんをはじめ、石森章太郎さん赤塚不二夫さんといった面々を見て来ただけあって、自分の限界というか特質も感じているんだろう。そうした綺羅星に遅れつつ歩き追い越してひとりになってしまった今、集大成とも言える活動に挑んでいるらしい。

 それが「サブマリン707」の完結だそうで、1000枚くらいの作品になるとかどうって話だけれど、そのために支援者をクラウドファンディングで募るとか。FUNDIYっていう漫画関連の企画が多いクラウドファンディングのサイトで年末から年始にかけて、50ページくらいの「サブマリン707」を描く小沢さんを支援する企画がスタートするらしいんで、応援したい人は情報をチェック。何でも横須賀に停泊して話題の原子力空母ロナルド・レーガンが吹っ飛ぶような話になるらしい。いったい誰が。中国か。どうも違う。では誰が。一触即発の状況に居合わせたサブマリン707は決断を迫られる。平和のために動くべきか、正義のために筋を通すべきか。どんな漫画になるのかなあ。その完成を思いつつ、せっかくだからこの機会に「サブマリン707」を読んでみるかなあ。そうえいばアニメの「サブマリン707R」ってのもあったなあ。mission1は見たけどmission2は見たっけ。こちらも改めて。

 そんな作品にまつわる話とは別に、小沢さんの戦争と兵器に対するどこかアンビバレントな心境とかいったものが吐露されて、実に聴き応えのあった特別講演。戦艦大和や零戦といった兵器の美しさといったものに引かれるところがあって、絵にも散々描くけれどだからといって戦争を称揚はしておらず、むしろ戦争はいけないものだという信念を強く持って訴えていた。特攻についてもしかり。1994年10月20日から始まったという特攻について、零戦なんかに乗って爆弾を抱えて飛んでいき、体当たりをする兵士たちへの強い敬意を表明し、自分だったら引き返して大本営に突入するものをだれもそうせず、整然と飛び立っていった彼らの心情を思いつつ、だからこそ特攻のようなことはもう2度とあってはならない、戦争なんて2度としてはいけないという決意を抱いてこれからの時代を生きていくことが、死んでいった彼らに対する償いだといった姿勢を見せていた。

 特攻を英雄視したい人たちが台頭していて、その行為を美化しつつ日本のために死ぬことを当然といった風潮にしたがっている感がある。それを国の偉い人たちが率先してやっているような雰囲気もあって、これからの時代を生きるのにちょっと辛そうだけれど、小沢さんはそうやって特攻という行為を美化する意識は見せていない。イラストとして見せてくれた、特攻に行く若い飛行士が途中で実家の側を通りかかり、翼を下げて上空を飛んだら母親がいたけれど、桶に向かってずっと俯いたまま洗濯を続けて、飛行機の方を見ようとはしない。しだいに俯き、深く体を曲げ涙を浮かべても振り返らないその哀しみ、そして父親が息子の名前を君付けて呼んでバンザイを叫ぶその悔しさを、思えば若い人を戦場へと行かせ、命を散らさせた特攻の無茶さを喜べないし、また再び起こそうだなんて考えられないだろう。

 もちろん小沢さんも、今度また特攻のような事態が起こればそれには敢然と反旗をひるがえしそう。そんな時代を招く戦争も、今は国とかではなく為政者個人のプライドめいたものによって起こると小沢さんは言って、日本なら安倍総理、中国なら習近平主席がその立場と尊厳を守るために、戦争をしかねない可能性に触れていた。そうさせないために何が必要か、って考えたいところだけれどそんな為政者を仰ぎ讃えつつ特攻を美化する空気が濃さを増すこの国。小沢さんの漫画の力で風穴が空くことを期待したいけれど、それには小沢さんの筆が必要だから、やっぱり応援するしかないか、クラウドファンディングを。


【10月16日】 先週が「ぞう」で今週が「パン」だったアニメーション版「すべてがFになる」における犀川創平のTシャツ。一体何が基準になっているのかまったく分からない選び方だけれど、象よりはパンの方がまだデザイン的にも視覚的にもスタイリッシュではあったような気がしないでもない。だからかノイタミナのショップでは「パン」は商品化されて「ぞう」は不明。ちょっと象さん可愛そう。来週はいったいどんなTシャツを着るんだろう。いやでも場所が妃真加島のまんまなんで着替えなければずっと「パン」か。それともいろいろ持ち込んでいるのかな。西之園萌ほどではないにしても。何しろ執事が載せてきた大荷物をまとめて積み込み島へ。

 途中、犀川ゼミの学生たちに働けと言われても動じず、全部周囲にやらせてみせたあの泰然自若なスタンスことそが、真のお嬢様って奴なんだろう。「俺がお嬢様学校に『庶民サンプル』として拉致られた件」に移籍しても十分にメーンキャラを張っていけそう。いやでもさすがにカップラーメンは食べたことがあるかな。そうそう、その「俺がお嬢様学校に『庶民サンプル』として拉致られた件」ではひとり、お嬢様でありながらもどこか庶民に性格が近い娘がいて見ていて愉快。漫画を読んで異能の持ち主になれたと信じて時を止めて見せてそれで庶民が止まっているふりをしたらスカートをまくってパンツをみせつけていた。何か可愛いけれど、あとでバレて半殺しにされなかっただろうか庶民。来週生きていたら大丈夫だったと思おう。オープニングが映像的にも歌的にも素晴らしいなあ。

 もどって「すべてがFになる」は12歳だか13歳の真賀田四季ちゃんが車の助手席でもって媚態を見せていた。あんなのが横にいて天才ぶりを発揮していて運転していた男はよくまあ耐えて車を走らせ続けられたもの。これが普通なら止めて飛びかかって車の外におっこちて、うんにゃっとっとって音楽とともにCMへと行っただろうに、ってそれどこの「ルパン三世」だ。そして夜中に研究所へと入った萌と創平の前に現れた何か死んだような女性の姿。これが真賀田博士なら昼間にヘリコプターで飛んでいったのは誰なんだとか、思ったりもしたけれどすでにストーリーは完全に頭の外だからなあ。もう1度最初から読み直すか。それとも先に「四季」を読むか。合本がちょうど掘り出されたこともあるし。

 さて「ルパン三世」はやたらと耳が良いMI6のエージェントが出てきて次元を捕まえルパンを追い詰めたりしていたけれど、職務に忠実らしくて別件があったらそっちにかかってルパンは命拾い。でもなあ、ああもあっさりと次元だってルパンだってやられるタマじゃない。それが普通の、というよりむしろ普通以下の泥棒にされてしまっているところにスーパーマンの活躍を見たい者として、ちょっと不満を覚えざるを得ない。先週もそうだし今週も、見ていてあっと驚くどんでん返しがなく、最後に小粋なセリフもあってカタルシスの中に見終えられるような感じじゃないんだよなあ。それがあっての「ルパン三世」なのに。圧倒的な愉快さとも違う今回で、良いのは見た目だけってのはなあ。この先に複雑なストーリーが繰り出されてくることを祈って待とう。

 「アニメミライ」の1作として世に出て大評判を呼ぶまではまあ、優れた作品ならあって不思議はないことだけれど、その評判を受けて続編を見たいという声が、日本のみならず海外にも多く出たことでKickstarterによって出資が募られることはちょっと希。そしてそれが見事に成功をしてそこから作品が作られ始めてかれこれ何年が経っただろうか。それでも過去に日本の人気作品がハリウッドで映画化されるといった声があがりながらも、実現しないまま10年20年経っていくのと比べると格段のスピードで映像化まで行ってそしてアメリカのイベントでお披露目され、あらに日本で劇場公開までされるというひとつのサクセスが、日本のアニメ作りのミライを開くのかそれともレアケースのまま終わるのか、ってところをちょっと世間は深く考えないといけないのかもしれない。

 優れた作品だから関心を持たれたんだっていうのはひとつの理由にはなるけれど、でもそれほどまでに優れた作品だったら普通にOVAとして作られ短編としての上映も含んで完成まで持って行ったあと、パッケージ販売も行うイベント上映作品として展開することも可能だろうし、それが普通の商業作品。でももしあそこで「リトルウィッチアカデミア」の続編を作ってイベント上映してOVAとしても発売するといって、果たして完成へとこぎ着けただろうか、そして公開されてここまでの評判を呼んだだろうかといったところに幾つかの懐疑も浮かぶ。世間に多々あるそうした作品のどれもが成功しているとはちょっといえない。むしろ大半がたいした集客もなくパッケージもそこそこで終わってしまう。「ハル」みたいに。

 これがクラウドファンディングだったことで、そこまで関心を持たれ期待されているんだということが広がり作品への一般の関心もあおり立てた。作品が作られること、それ自体が一種の広告として昨日していた。そして公開されてからも、自分たちがそこに関わったんだという出資者たちの前向きな関心が後押しをする形となって評判を呼び、連鎖的に膨らんで大勢を映画館へと向かわせることにつながった。決して大きいとは言えない劇場でも、それでも満杯にするのは至難の業。それを成し遂げているところにKickstarterにかけた意味があった。

 ではこれがスタンダードになるかというと、やっぱり難しいのが実体か。1つ2つと気持ちは持続するけれど、それが連続すると流石に付き合いきれないといった気分が浮かぶ。前のめりになれる企画の率も下がる。そして失敗が生まれるとそれがネガティブな口コミを読んで失敗の連鎖へと繋がる……ってのは悲観的過ぎるかもしれないけれど、そう転ぶ可能性は考えておく必要があるだろう。 今回は成功した。この成功をだかあらアニメーション業界はアニメというものへの多様な関心へとつなげ、商業の段階でリクープに繋がるような確信を得られるようなビジネスモデルを作り上げる必要がありそう。それはやっぱり企画力ってことになるのかなあ。あとは宣伝力か。そこに大枚をはたけないとなると、クラウドファンディングから誕生というラベルを貼り付ける方に傾くのかも。いずれにしても成功した今回を糧にして、業界が活性化してくれるとこを願おう。

 さてストーリー的には続編となった「リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード」、ちょっとばかり自信も得たのか元からの性格なのか、アッコが猪突猛進の果てに周りとぶつかり困ったことに。街で行われるお祭りで魔女のパレードを行わなくちゃいけないんだけれど、新しく加わった3人組だけでは足りないことが起こった上に、いたずらっ子がちょっかいを出してきて、そしてもっと大きな事件も起こってアッコをぎりぎりのところまで追い込んでしまう。でもそこで、周囲を分かり周囲に理解されて仲間としての関係を取り戻し、助け合い補いあって危険を突破していく。

 そんな展開がもう涙もの。最後の最後でちょっと反発してた3人が、力を合わせて敵を倒してその姿に、周りも応援をするシーンにグッときてしまう。前半の独りよがりで身勝手な姿にちょっぴり辟易していた心も、どうにか持ち上がって理解し合うことの大切さを思いつつ、頑張って前に向かおうという気持ちに変わる。そこがうまい。それを描く絵も凄い。一級品。このクオリティで映画とか見たいけど、それだとストーリーを相当に練る必要があるからまだ先か。ともあれ映画館で見て得られる迫力はものすごいんで、Kickstarterでパッケージをもらっている人もネットで観た人も映画館に行って大きな画面で確かめよう。

 夜になって熊倉一雄さん死去の報。88歳だから年齢的には不思議はなくても、その声の張りとかは近年まで衰えていなかっただけに、やっぱり急な訃報という気もするし勿体ないという気もたくさんある。ここしばらく、加藤精三さんや大塚周夫さんといった方々が相次いで亡くなられ、けれども寸前までしっかりと声を聞かせてくれていた方々で、その特徴のある声なら、どこまででも仕事ができるんだなあといった気持ちを抱かせてくれた。熊倉一雄さんはその筆頭にも当たる人で、あの抑揚がありメリハリのある演技にだみ声だけれどちゃんと響く声は、歳とか無関係に耳に届いてしっかりと印象を残してくれた。そんな声優さんがどんどんといなくなる。良い声だけれどそれだけ、でもないとはいえそれに寄った声の人ばかりでは、やっぱり音の空間は締まらない。熊倉さんしかり加藤精三さん大塚周夫さん青野武さんといった方々の偉績を噛みしめつつ、声という仕事にどう取り組み、そしてどう年を経ていくのかを考えてくれる声優さんが現れて来てくれることを願いたい。合掌。


【10月15日】 先見の明があったと言うべきなんだろうけれど、それだけに深刻化してしまった場所から語られる難民への冷めた視線が今まさにこれから難民が増えていきそうな状況とぶつかり合ってコンフリクトを起こさないかと心配してしまった「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 2nd GIG」。戦争を逃れて日本に来たものの国籍は変更しないまま特定の地域に止まっている招慰難民といったカテゴリーを設け、そこに貯まる不満を組みつつそうした難民への不満も重ねて対立を起こしてみせた設定は、いつかこの国にも押し寄せるかもしれない難民の扱いを迷った先に生まれる混乱を予測しているとも言えそう。

 だったらいっそ難民なんか入れなければ良いんだいうことになるんだろうけれど、「攻殻機動隊」の世界のように高性能の義体は作れずすべての生産がロボット化されることもない状況でやっぱり当面人出は必要。一方で少子高齢化による人口減少に対処するため移民難民の類を引き入れることは必然として起こってくるだろう。そうなった時に徹底しての分断を維持するのか、異質だけれど同様の空気の中に混ぜていくのかといった対処の方法を問われることになる。それを見誤れば必然として対立を呼び事件を招いて最後に外国の介入も招く。そして今の政治ではそうなる可能性が高い。いい顔をしたいけれど責任は取りたくない。流れに任せ気分に従って動いた果てに行き詰まってパンクする。その繰り返しだから。

 その時のために今から対策が講じられるのではなく、攻殻機動隊であり公安九課の準備が進められるとしたら、このアニメーションもひとつの未来を予言したってことになるんだろうなあ。少佐になれる人材がいるかが分からないけれど。そんな「2nd GIG」の第1話はやたらと作画も良くって少佐の胸とか丸くてとっても柔らかそう。それともしっかり義体仕様で硬いのか。触れたいけれども触れられるものではないからなあ。腕組みをするとちゃんと腕に乗る。そういうものなのか女性の胸って。あとやっぱり高いところから飛び降りて途中で光学迷彩で消えていた。お約束はしっかり踏まえる神山健治さん。また作ることはあるのかな。というか最近、新作とかどうなっているんだろう。

 59階層から引き上げてきた途中のロキ・ファミリアのアイズたちと、火だるまになりながら階層を降りて17階層で階層主と激突し、それでもどうにか逃げ切ったヘスティア・ファミリアのベルたちが出会ってそしてしばらく18階層に滞在し、のぞきをしたりリューさんものぞかれたり、ヘスティアが拉致されてベルくんが助けようとして18階層にとんでもないモンスターが現れ、これをベルが倒したりした話はたしか「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」の第5巻あたりで描かれたんだけれど、その裏編ともなる大森藤ノさんお外伝「ソード・オラトリア5」(GA文庫)によれば、ロキ・ファミリアが毒の影響をどうにか除いて地上へと向けて旅立つ前に、もっと大変なことが起きていたらしい。それは初耳。

 というかそれほどまでの出来事が、どうして本編には記されていないかというと外伝で始めて書かれたから、ってのがぶっちゃけなんだろうけれど、そこにちゃんと矛盾を作らずエピソードを当てはめてみせたところは流石というか。そんなエピソードはアイズになれなれしいベルに向けてレフィーヤの怒りもマックスなところに起こった事件。そこで見せたベルのすごみって奴にやっぱりレフィーヤも打たれたみたい。すでにフィンがその勇気を称えベートも認めディオナはアルゴノォト君と呼んで慕っている。そんな好意の列にレフィーヤも加わったってことで以後、ロキ・ファミリアの面々を引き込みフレイア・ファミリアの熱視線も引きつけベルとそのファミリアはどんな戦いを繰り広げるのか。ベルが祖父から教わったオラトリオの記述が謎多いアイズの出生とも重なり、2人の物語が1つに重なる時が待ち遠しい。それはもはや本編も外伝もない「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか×ソード・オラトリア」になるのかな。

 もしも何かを書く者としての矜持があり過去を振り返る見識があり未来を見通す目があったなら、とてもじゃないけれども宮崎県にある「平和の塔」の基礎部分に置かれているという石について、中国からの関心が寄せられていることについて「高さ40メートルの塔は戦後、周囲の公園とあわせて市民の憩いの場として親しまれてきた。その塔に今月1日、中国側が突然、かみついてきた」なんて書けない。だってこの「平和の塔」がどういう経緯で作られたものか、そして石がどういったところから集められたかはドキュメンタリー番組「石の証言 〜平和の塔の真実〜」によって20年も前に探求され、放送されて民間放送連盟の賞を取り、全国的な放送局でも放送されているのだから。

 それを例のユネスコでの南京事件に関する資料の記憶遺産登録に絡めて急に浮上した動きだと決めつけ、「中国、『南京』でまた“いちゃもん” 宮崎『平和の塔』礎石返還要求へ」だなんて見出しを付けて記事にする。真っ当な神経の持ち主だったら恥ずかしくて顔が火が出るだろう。真っ当なら。でも真っ当じゃないから平気な顔。受ける上も平気だというこの状況が、おかれている状態を如実に表しているって言えるのかな。やれやれ。ここでしっかりと来歴を認めつつ反省もしつつ、それでもこれはそうした負の遺産であってここに立てておくことで我々の過去の恥を世界に示し、自省しつつこれからの未来を共に手を携えていくシンボルにしたいと言えば、向こうだって受け入れるかもしれないけれど、そうした過去を認めることが嫌な御仁が増えすぎた。だから平行線のまま、一部に相手を“いちゃもん”と誹って平気な面々が跋扈することになるんだろう。やれやれ。

 まあ、自省の意識がまるでなくってすべてを無かったことにしたいのは国の偉いさん方も同じようで、それがあまりに自分勝手に凝り固まっているため世界の標準から外れて大恥をかく。南京事件の資料がユネスコの記憶遺産に登録されたことに対して政府とか与党あたりから異論が噴出して、日本が認めてないのに登録を進めたお前ら何だと文句を言い、認めらたユネスコを非難して拠出金を止めるべきだなんて暴言まで飛び出しているけど、そんな日本が申請して記憶遺産に登録されたシベリア抑留に関する記録に対して、ロシアが申請に異論を唱えていたことが分かってもう大恥。止めろといったのに強行したなんて話もあって、それは日本が中国に言ったのに無視されたと憤っている態度とまるで同一。あっちには怒り自分は素知らぬ顔で逃げるなんて態度が世界で通用するはずもない。でも知らん顔して中国への強気な態度だけは見せ続ける。国内ではそれが通っても世界でどうなるか、ってことは考え無いんだろうなあ。だって選挙は国内でしかやらないんだから。そんな偉い人に引っ張られた国の行く末は。寒い時代がやって来た。

 纏流子ちゃんのエロい絵がでかでかと飾られ目のやり場にも困ったけれどひっくり返ったアッコの姿に健気さも感じて見入った秋葉原UDXの東京アニメセンターにおける「TRIGGER ANIMATION EXPO」。「キルラキル」とそして「リトルウィッチアカデミア」の原画なんかが飾られTRIGGERらしいスタイリッシュでスピーディーな作画ぶりってのが目の当たりにできてアニメーションに関わる人にも純粋に作品のファンの人にも見て楽しめる展示会になっているんじゃなかろーか。あと物販も結構充実していて「キルラキル」からは本能字学園生徒会四天王をそれぞれ描いたTシャツが並び「リトルウィッチアカデミア」からは新作に登場する3人が1枚ずつとそして旧作の3人が一緒に並んだ1枚の計4種類のTシャツが並んでいた。全部欲しいくらいだけれどお金もないので蛇崩乃音を購入。どこに着ていこうかな。


  【10月14日】 あのテンポとかあのタイミングとか同時に録っているんだろうか、それともばらばらに喋ってもらったのをつなぎ合わせているんだろうか。とにかく間合いが良くって聞いていて気分がノってくるテレビアニメーション「北斗の拳DD2 イチゴ味+」。抜群の漫才とかコントを見ているようで、あれは芸人さんたちの練習とそれから実際に演技を重ねたことによるたまものだけれど、それに匹敵するタイミングを実現しているところに音響監督も務めた大地丙太郎さんのこだわりを感じる.自分でやるからには、って意気込んでいるんだろうなあ。それだけに知りたい録音の秘密。掛け合いか。1発オッケーか。銀河万丈さんはどんな姿でサウザーを演じているんだろうか。

 デモに連れて行かれた孫が熱中症で死んでしまって、この鬼嫁めとかいった感じに投稿されたツイートに添えられた赤ちゃんの写真が、まるで他人のものだったということで、その母親あたりが立ち上がっては誰が嘘の内容を勝手にツイートしたのはと怒り、相手を突き止めようとして裁判所に出していた仮処分が通って、ツイッターは投稿した人物の情報を開示しなくちゃいけなくなったみたい。ネットなら素性はバレないんで大言壮語できると内弁慶している人も、実際はバラされとっつかまると思わないといけないのだけれど、どうにもそういう意識が低いというか、正義のためなら嘘でもオッケーと思っている人が意外に多そうなのが薄気味悪い。例の芸人さんへの誹謗なんかも、それで挙げられてお灸を据えられた次の瞬間、告げ口しやがったと投稿していた人もいたらしい。そういう妙な人が増えたのか、ネットが一般化したから妙な人が可視化されただけなのか。いずれにしてもちゃんとお灸を据えられると良いな。

 相変わらず、そしてなおいっそう漢前度が上がっていた小玉さん。文林という皇帝の皇后として嫁ぎながらも30過ぎという年齢なのは、かつて武官として国を守る仕事についていたからで、それがかつて部下にいた青年が皇族で先代の皇帝に引っ張られて皇帝に即位したこともあって後宮に引っ張られ、皇后にまでさせられてしまったという展開。そこに起こった反乱めいた物を沈めたまでが前作「紅霞後宮物語」だったけれど、その面白さもあって期待された続きがようやく出て読んだ雪村花菜さん「紅霞後宮物語 第二幕」でもやっぱり起こった宮廷攪乱。前だかその前あかの皇帝の血を引く皇子が見つかったといって、偉い役人がそれをお仕立て皇帝に異論を唱えたからたまらない。

 とりあえずは自分は先代に選ばれた皇帝であってその威光は無視できないだろうと説得するものの、どうにも急な展開にいろいろと感じた様子。そして探りを入れ始めた一方で、皇后の小玉もその皇子が気になって来た。もしその皇子に皇位がわたれば自分たちは追われる立場になること請負。そうなった時には別の女性が生んだものの文林の子を連れ文林も含めて逃げ出さなくてはと算段を整えつつ、後宮に尋ねてきたその皇子に出会いけれどもとくに言葉も交わさないでいた夜、その皇子が庇護者の元を逃げ出して後宮に現れ小玉によって救われる。そして分かった出生の秘密。めぐらされる陰謀も浮かび上がった中で小玉の八面六臂の大活躍が繰り広げられる。皇后なのに。

 そんな小玉の戦いぶりも格好いいし、周辺にいる人たちの彼女への信頼ぶりも見ていて楽しい。そうやって大勢に好かれることを文林が望んではいないという独占欲も浮かび、一方で皇帝としては実に冷徹に考えていることも分かってそういう人間でありながら、小玉が関心を寄せ続けるというところに人間の心の面白さってものも見え隠れ。とりあえず一件落着したけどきっとこれからも、宮廷を騒がす事件が起こって小玉を走らせ文林を悩ませることになるんだろうなあ。前作で気になっていた。馬球に小玉を誘いながら皇后だと文林にバレて連れて行かれた小玉を心配していた若い軍人の娘たちが、ちゃんと無事におつとめを果たしていたのが分かって安堵。っていうか詰め所がどこかで3人で芋を焼いて食っているのって。若い女子なのに。そこに混じって一緒に芋を食う小玉も小玉だけれど。そんなほわっとした人間関係も、読んでいて気持ち良いんだよなあ、このシリーズ。次はいつ出るだろうか。ちゃんと次ぎも出るんだろうか。

 7月に発表があってから、本当にできるんだろうかと気になっていたカドカワによるネットの高校がいよいよ本決まりになって生徒の募集もスタートさせるってんで発表会へ。GACKTさんとかマックスむらいさんとかが出てきて普通の高校じゃ雁字搦めでつまらないって話を前振りにして、そして登壇した人たちから発表されたネットの高校の名前が「N高等学校」。仮称じゃないよ正式名だよ。ネットのNってことなのか、niconicoの「N」なのか取り方はいろいろあるみたいだけれど、川上量生さんはどれとも言わず想像にお任せしますと。つまりは受け止める側でそこに様々な思いを乗せて自分なりの「N」を見つければ良いし、学校だって時代によって変化していく立ち位置を、ひとつの表現に縛られることなく自由に変化させていくために敢えて固有名詞を置かなかったのかもしれない。つまりは変数としての「N」ってことか。いや知らないけど。

 そんなN高等学校が行うのは基本的にネット授業で、そこにドワンゴならではの双方向性とかコミュニティ機能が加わるかもしれないけれど、それはいずれ日本でもスタンダードになっていくものだから、先駆者として抑えておけば良い。いやそれも十分に凄いけれど。むしろ気になるのは課外授業の豊富さで、ドワンゴのプログラマーたちにも用いるカリキュラムを使って高校生にプログラミングを教えたり、KADOKAWAチームから編集者とか作家とかイラストレーターなんかを呼んできて、クリエーターを目指す人にいろいろ教えたりするそうな。それも受講料とか別に必要なく。

 カルチャーセンターに行ったって年に相当な金を取られそうなメンバーによる緻密な講義を、政府の支援制度を使えば年間10万円程度の授業料で受けられるんならこれは行った方が絶対に得。それで大学に入れるくらいの学力がつくかはその人次第なんで頑張れとしか言えないけれど、手になにか技能なり趣味なりを持って世に出る上では、結構な役に立ちそう。ほかにもマタギだの刀鍛冶だのマグロの仲卸だのレモン栽培だの陶器作りだのといった職業体験も地方自治体なんかと組んでやらせてもらえる。そこから自分の興味が生まれてそっちに進めば地方も若い人材を集められて万々歳といった感じ。クリエーティブに進もうとしていたら、案外に農業漁業に適正があったなんて発見もあるかもしれない。とにかくひとつに拘らずいろいろ試してみることが大事で、そのためのきっかけを与えてくれるこの学校が、僕たちの時代にあったらなあって思った大人も結構いそう。

 あと気に入ったのは本校舎が沖縄県うるま市の伊計島ってところにあること。小中学校の閉鎖された校舎をそのまま使って学校にして年間5日間のスクーリングをやるとかで、ほかに東京都か大阪でも行うけれど行くならやっぱり沖縄って人には良い体験ができそう。それだけの準備をして待っているって川上さんも話してたし。そうしたリアルな場のためか、あるいはニコニコ超会議なり闘会議なりニコニコ本社に集う時のためを考えてか、通信制の高校であるにも関わらず制服なんかを用意していた。デザインしたのは学校事業の立ち上げを言い出した志倉千代丸さん。ゲームを手がけ音楽も作る才人が、学校に興味を持ったことも驚きだけれど、制服にもこだわったのはやっぱり自分なりのビジョンをそこに込めたかったからなのかな。幸いにして白衣とか巫女服ではなく普通にブレザー系。格好いいんでこれを着たいからって行くにも出そう。でも着る機会が……ってそれはニコニコ本社に毎週集まるとかすれば良いのか。そういう場も与えてリアルなコミュニケーションにも慣れさせる。やっぱりいろいろ考えられて面白い。3年後に卒業生がどこに行くかも含め、様子を眺めていこうっと。


【10月13日】 クオリティー的にはまったく落ちてないのに「ハイキュー!!」のセカンドシーズンが、東京ではTBSの日曜午後5時ではなくTOKYO MXで深夜にひっそりと放送されているという状況に、どうしてなんだTBSめと憤る人が出たってそれは仕方が無い。TBSでの放送なら関東の広域で放送されるんで見られる県も広いけど、MXは基本的に東京だけの放送で、その他の地域で「ハイキュー!!」は地上波では見られない。BS11で放送されるとは言えBSにつなげてない家だってある訳で、そういう人はいったいどこで観ればいいのか。怒り哀しみ嘆く女子が大勢いるのもうなずける。

 そんなセカンドシーズン、すでに2話まで放送されて烏野高校がいよいよ東京遠征ってことになって、けれどもテストで赤点を取ると補習が待ってて参加できないとあって、1年2年の莫迦4人が必死になって勉強を始める一方で、喋らないマネージャーの清水潔子さんもここで喋らないとセリフもないまま終わってしまうと一念発起、次のマネージャー探しに歩きまわって喋りまくってくれている。いやセリフの数でいうならマネージャー候補の谷地仁花に比べるとまるで及んでないけれど、それでもあのボソッとしながら可愛い声が眼鏡をかけた美少女顔とともにいっぱい味わえるんだから1期よりもファン的に嬉しい。見られない地域の人はごめんなさいとしか言い様がない。とりあえずMXが映るようになった幸せを噛みしめつつ、潔子さんの声と顔を堪能していこう。

 沢城みゆきさんという主役級の人を声に起用しながらもモスキート娘を1発退場させてしまって果たしてこの後、声優さんたちが保つのか心配になった「ワンパンマン」。まあでもそうやってゲスト的やられキャラに豪華な人を使いつつつなげていくというお楽しみもあるってことで、メイン級もそれでもしっかりと固めつつ繋いでいくんだろう。そして第2話に登場したジェノスは「ハイキュー!!」でも影山を演じる石川界人さんが担当してこのクールにいった何本そんな役柄を抱えているんだ状態。「ヘヴィーオブジェクト」のヘイヴィア=ウィンチェルに「コンクリート・レヴォルティオ」の人吉爾朗と並ぶんだけれどイケメンもあれば熱血もいたりクールもあったりと多彩な二枚目声を聞かせてくれる。器用だけれどその分これぞという役があるかどうかってところなんで、この中からひとつ抜け出す役を得て盛り上がっていって欲しいかな。それだとやっぱり影山かなあ。

 将棋の女流名人で女流王位の里見香奈さんが香川愛生女流王将に挑戦してこれを破って奪取に成功し、1年ぶりくらいの女流三冠に返り咲いたとか。しばらく前に奨励会の三段リーグに挑戦することが決まりながらも、体調不良から休場して女流の対局もタイトル戦くらいに抑えたんだけれど、どうにか復帰したみたいでそれ以降、女流の方では何か無敵の快進撃。残る倉敷藤花ってタイトルにも挑戦が決まっているそうで、奪って四冠だなんてことになっても不思議はない。ただ男子がメーンのプロ棋士に女子で始めてなれるかどうかって意味から通過が注目されている男子の三段リーグの方では、初対局があって初日に2連敗というスタート。翌日の女流のタイトル戦では勝てても三段リーグでは勝てないところにやっぱり彼我の差ってものも見えたりする。三段まで来たんだから弱い訳じゃない。ただやっぱり慣れてないところで戦いのは神経もすり減り悪手も出てしまうのかも。今季はだから腕慣らしにして次期にどうにか、って思わないでもないけれどどうなるか。まずは今期の結果に注目だ。

 未だ気付かれていない日本の美しい嗜みを掘り起こして世の中に示すなり、かつて隆盛を誇りながらも伝承者が途絶えたり産業として衰退して後が続かなくなっている工芸なり習俗なりを人的金銭的な支援でもって建て直し、世界に向けて広めていこうとするといったステップが背後にあって、日本の美を改めて認識しようとする考えだったらそれはそれで認めたいけれど、安倍ちゃんが新しく立ち上げたという私的諮問会議の「日本の美」総合プロジェクト懇談会とやらは世間がすでに日本の美だと認識し、世界もクールジャパンだと喜んでいるものをかき集め、どうだい俺たちの日本はすげえだろうと自慢するものにしかならない感じがあって、始まる前から辟易とした気分が浮かんで来る。

 そういうものだったらすでに前任者たちから営々と続くクールジャパン戦略会議ってのがあって、国内での発掘から育成、そして世界への展開までをサポートしているだろう。やっているのはお膝元の内閣官房。まさか知らない訳じゃないけれど、こうやって改めて懇談会を作りそこにお友達感の漂うライティーな俳優を据えてみたりするところに、身内で盛り上がっていこうぜヒャッハーな雰囲気が見えて気持ちが萎える。メンバーもそんあライティーな俳優にトレンディーな女流作家に茶道のお偉いさん。ノンフィクション作家はジャーナリスト的な活動もしていて新しい知見を持っているかもしれないけれど、声のでかい俳優の座長が俺はこれが大好きなんだと持ってくる映画だとか伝統だとかがそうした意外性のある物になるとは思えない。無駄な組織を作ってお仲間を慰撫して取り込みつつ、俺たちは美しいと悦に入る。そんな光景を許してしまう政府にも、メディアにもやれやれとため息。やれやれ。

 やれやれと言えば、例のシリア難民の少女をモデルに難民を揶揄するイラストを描いて世界から非難された御仁が、だったらと新たに出して来た帰化者を揶揄するイラストに、今度は一部ではあるもののそれなりな規模で讃辞が集まっていることに心が薄ら寒さを感じて凍える。そんなものはない在日特権という亡霊をいくら潰しても消えず、そして潰すほど実はあるんだといった噂とともにデカくなって人心を捉え、荒んだ心のはけ口となっていく。帰化とはいいつつそこに人種来歴面から狙い撃ちにしている対象がほの見えるあたりに、難民揶揄よりレイシズムの度合いが高いかもしれない内容なのに、これに喝采を贈る人は難民揶揄のイラストより遙かに多い。このどうしようもない状況はなかなか収まらず、むしろ地下水脈のように人心をむしばみ、いずれ爆発する可能性もあったりするだけに恐ろしい。あるのか1923年9月の東京の路上の再来が。あってはならぬと肝に銘じて生きよう。

 戦争を殺す。それはつまりずっと平和で居続ければ良いってことなんだけれど、それを1国が維持したくても隣国が許してくれない場合があって、表に裏にちょっかいを出しては戦争を仕掛けてくる場合がある。だったらと戦争を受けて立ったら、それは戦争になってしまってあとは強いか弱いか、すべてをかけて決める戦いに突き進まざるを得ない。結果、戦争は殺されずに行かされ育まれ大きくなってすべてを滅亡へと引っ張っていく。それじゃあダメだとばかりに立ち上がったお姫様。陰に集団を作って戦争になりそうな事態に絡んでは、密かに相手を説得し、殲滅もして戦争へと至らないようにしていたという、そんな背景を持ったのが西塔鼎さんによる「ウォーロック・プリンセス 戦争殺しの姫君と六人の家臣たち」(電撃文庫)。物語はそんなお姫様の集団に、かつて最強の部隊で戦っていて、ただひとり生き残った青年が加わり姫様の戦争殺しを手助けする。外交の妙味に個性を持った最強メンバーの戦いぶりを楽しめる1冊。そしてお姫様という人種の高潔さと冷酷さも堪能できる。国のためなら犠牲も厭わないでいられるか否か。考え無いで生きて至れる気楽さに感謝。


【10月12日】 あのまま続けて一気に最終回へと突入していたら、これほどまでの感慨を受けただろうかと迷ってやっぱり、時間を空けてでも最終話を思う存分描けたことが結果としての傑作に結びついたってことに落ち着いた「血海戦線」。いやでも途中の総集編回をちゃんと本編で繋いでいけば最終回に尺がはみ出すこともなかったと思うし、1つのことを語りたいなら不要なエピソードもあったんでそれと落としても良かったかもしれない。そういう差配がうまくできなかったという部分構成進行の面にちょっと不備もあったかもしれないけれど、でもそれがあの圧巻の1時間枠での畳みかけを呼んだんだから怪我の功名、終わりよければ全て良しってことで。

 ブラックを探しホワイトを求めて混乱するヘルサレムズロットを歩くレオの傍らに、ライブラの仲間たちが現れサポートをしていく展開はまさしく彼が主役だったんだってことの証明で、だからクラウスですら脇に置かれて敗れガレキに埋もれてしまう。そこの現れたレオがすべてを解決したものの、それでも失ってしまったものがある。それを思い唐突に、でも必然として涙を浮かべ嗚咽にもだえるあの流れは、まさしく映画であり映像として感情を見せようとするものだった。言葉なんていらない。ただ映像があれば良い。そんな醍醐味を見せてくれた。気分としてはこの1時間にさらに前段の30分も加え混ぜたり足したりしながら劇場版として大きなスクリーンで見たいところ。そういう発表がなかったところ見ると動いてはいないんだろうけれど、この最終回でパッケージの売上げがグッと伸びればあるいは合ったりするのかな、総集編的な映画と、さらに新作の1本が。そのためにはやっぱり買うかなパッケージ。

 昭和41年の頃だって、正義が正義とは限らないことは多分、「鉄腕アトム」とか「サイボーグ009」あたりで手塚治虫さん石森章太郎が描いていただろうから、正義の超人が脳天気に悪の怪人たちをやっつけてめでたしめでたしなんてことはなく、正義が実は正義とは限らないことに正義の味方たちが気付かず懊悩もしていないなんてことはなかったというのを前提におきつつ、それでも正義が実は正義ではないということに気付かせる意味で、神化41年を脳天気な時代にして神化46年を懊悩の時代へと変化させ、その間に起こった正義の味方たちの心の変化を際立たせようとしたんだろう、「コンクリート・レヴォルティオ」。風郎太っていうオバケの少年の自分の信じる正しさのために無茶をやり、誰かを悲しませても気付かず気付けない様子を敢えて見せることで、その振る舞いの残酷さって奴がかえって強く浮かんできた。彼を道化に貶める可愛そうさはあるけれど、そういうバランスの上に気付かれる勧善懲悪とは違う、正義の在処を探る物語の行方に、今は注目して見ていこう。

 見上げるとそこは青空で、エル・カンターレにはいい日かもしれないんでせっかくだからと「UFO学園の秘密」を見に映画館へ。なるほどそういう映画だったか。光の使徒と闇の勢力が地球をかけて争うとか、どこの「幻魔大戦」なんだと言いたくなるけど、あっちは時空を超え宇宙規模で過去から未来へと永劫に戦い続ける一場面、そのスケールに比べると、地球を取り合うとか小さいなあとは思う。そこが平井和正さんとエル・カンターレとの差か。地球を支配とか言って壊してしまいそうになるし。ただ前の「神秘の法」とは違って、明確に中華圏を仮想敵に見立てこき下ろすようなことはせず、アメリカもロシアも悪い奴らに支配されてて地球支配を争ってるって感じにしていたところがひとつの変化か。特定思想に落とし込むと一般の人から敬遠されてしまうから。そこで日本がどうなっているかは不明。対米追従って訳でもないのかな。

 そんな地球には一方で手を差し伸べてくれるいい宇宙人もいて、主人公達を見守り地球を連合へと導くための道を開こうとする。そうやっていい心、未来を見つめる心を育み誰とでも和を持とうとする気持ちを持とうと促すところは、なるほど宗教的に平和的で道徳的な思想には溢れていた。これを作る人たちの周辺にいる熱心な人たちが、近隣諸国に差別的侮蔑的言動をどうして投げかけられるのかがわからない。とある近親者と思われている人とか、難民を侮蔑した上にさらに今度は帰化した人にまで罵詈雑言を投げつけているからなあ。帰化しても出身国に忠誠を誓うってそれ、リーチ・マイケル主将にも言える言葉かよってなもんだ。一時が万事じゃないとはいえ、一事を万事にすり替える詐術でもって分断を煽り対立を呼ぶようなスタンスの人たちは、この映画の主張的には信心者ではないってことか。エル・カンターレの御心を知らぬ不届き者ってことか。だったら止めれば良いのに。

 てな感じのストーリーにまあそうだよねと思いつつ、抹香臭いとも感じつつ見てとりあえず、飽きないくらいには見ていられる。懐かしの光瀬龍さん眉村卓さん筒井康隆さん的ジュブナイルと思えばこれくらいあったから、1970年代には。それを今やるか、って話だけれど大人は見て懐かしがれるかも。あとちょっとは感動するかな、正義に生きようとかって。アニメーション映画として言うなら、映像は良い。とても良いと言える。キャラクターとか崩れないし、動きも悪くない。3DCGによる2D風の映像も使ってあって結構凝った映像は、アニメーション好きな人が見てもイラつかない出来。ベガとかのシーンとかとても綺麗で、想像力が駆使された良いものだった。そして声優さんがとにかく豪華。一流どころがしっかりとした声を出している。前の主役の人のどこかぞんざいで投げやりチックな声とは大違い。そういう面でも超えのファンが危機に行っても良いけれど、そこで電波を浴びてなびく前に彼らがその映画でのメッセージと、現実とにどんな乖離を呼んでいるかを考えることが必要だとは行っておこう。

 今日が最終日ってことで、混んでいるだろうなあと思った者の、数日前から新しいい等身大パネルが増えていると聞いたので駆けつけた「蒼樹うめ展」。物販とかとは違って入場だけなら30分くらいで済みそうだったんでチケットを買ってしばらく並んで中へと入って、「ひだまりスケッチ」のコーナーをそぞろ歩いてどうにかこうにか「ひだまり荘」の201号室が再現されたコーナーへとたどり着き、見つけたパネルにカメラを向けて宮やんのちょっと恥ずかしいパネルを目に焼き付けついでにデータにも記録する。あれはサンバでも踊っている場面なんだろうか。そして仕事部屋のコーナーや「魔法少女まどか☆マギカ」のコーナーを改めて眺めつつ、やっぱり上手いもんだと関心しつつ抜けだし退散する。

 その間も行列ははけずに30分待ちとかって感じでそれが閉幕まで続いた感じ。始まる前は世間でいったいどれだけ蒼樹うめさんを知っているのか、一部にマニアはいても美術館を埋めるくらいには来ないだろうって気分もあるいはあったかもしれないけれど、春に開催が発表されたとたんに注目を集め盛り上がった時に、もしかしたら長蛇の列ってのもありえるかと想像できた。ただ初日だけでなく会期中のすべてを行列で終えられたのは、10日間という会期の短さに加えて、展示してあるものが質と量の双方で来館者に満足してもらえるものだったからだろう。

 萌えギャグ4コマを描いている人、人気アニメのキャラクターをデザインした人、そんな味方もあっただろう人も、来ればなるほどこうやって人物が造型され、ペン入れの果てに衣装が着せられ1枚の絵になるんだと分かっただろう。美大出の基本があってファッションへのセンスもあって、その上に物語を紡ぐ力もある。そういう漫画家でありイラストレーターだと認知させるだけの内容が、展示物にはしかkりあった。だから見て満足できた。そりゃあ物販がすぐに品切れになる上に、行列も延びて不満を抱いた人も多いだろうけれど、それでも展覧会そのものへの不満はそれほどない。見られた物の多さ重さを不満と天秤にかけて、満足が少し上回っていたって感じかな。まあ反省点もあるだろうし、10日なんて美術館が空いてる隙間に無理矢理押し込んだような日程にも無茶があったけど、それらを含め踏まえて次に何かやって欲しいというのが今の心境。次はだから東京都美術館で。グッズもたっぷり用意して。マフラー欲しかったなあ。


【10月11日】 ご近所にふなっしーが現れると聞いて、午前中に届く荷物を待ってから出かけて船橋市場で開かれているという「船橋市場だョ! 全員集合2015」に行ったけれどもふなっしーはもういなかった。帰ったのか引っ込んだのかは分からなかったけれど、早い時間に雨の降る中、リングではない場所であの凶暴きわまりなメロン熊に挑まれたとか。ジャンプ力はふなっしーだけれど顎の力はメロン熊が強そうだし。果たして梨はメロンにかみ砕かれたのか? 見たかったなあ。でもイベント自体は各地からゆるキャラが集まっていて人気のさのまるも見られたし、グッズもいろいろ売ってて千葉ピーナツから出ていたふなっしーのキラキラケースも買えたし、まあ満足。食べ物の屋台もいっぱいあって何人かで行ったらピクニック気分になっただろうけど、そういう所にいっしょに出かける人などいないのだった。そういう人生を歩んでいる。泣かない。

 天沼公演でのミートフェスは人がいっぱい並んでいたんでパスして電車を乗り継ぎ京急蒲田へと行こうとしたら、日本橋から乗った都営地下鉄が品川を過ぎたら羽田空港へ直通だったんで仕方なく終点から折り返す。そういう車両もあったんだ。蒲田の立場がないだろう的な。あんなに駅を巨大にしているのに。それこそ新幹線でも止まれそうだけれど、何か大きな計画があるのかな。あそこを拠点に新宿方面に行けるようにするとか。それはともかく折り返して無事に蒲田で降りてそこから「境界線上のホライゾン」をはじめとした川上稔さんの作品のファンが集う同人誌即売会「近しき親交のための同人誌好事会」をさっと見物。川上さんのサークルでファッションとか長屋とかの開設をした本を買い、別のところでマルガとマルゴットがむつみ合っているのを買ったりして満足する。

 レイヤーさんでは生のアデーレが歩いていたけどぶかぶか具合がとても良かった。あと賢姉とかノリキとか見かけたっけ。前とかとっても胸の巨大な最上・義光とかいたりとボリューミーさを実現するチャレンジが見られたけれども今回は、見た範囲では自前を頑張っていたような感じ。ノリキは乳首に何かはってた。やっぱり男子でも見せちゃだめなのかな。それとも実は胸板系な女子だったとか。じっくり見てくれば良かった。あとはおっぱいマウスパッドか。ホライゾンと浅間・智のがあってそれぞれにちょっとづつ高さが違う。いいや本当は浅間はもっとボリューミーな気がしないでもないけれど、それだとかえって手が疲れるから仕方が無いかも。個人的には本多・正純かアデーレ・バルフェットが欲しいのだけれどそれはそれでただの2次元マウスパッドになってしまう問題が。ちょうど良さでは大久保・長安なんだろうなあ。出ないかなあ。

 「姑獲鳥の夏」が出たのっって1994年らしくてその後にでた「魍魎の匣」から読み始めたとしても20年くらいは経っている京極夏彦さんの活躍だけど、それで衰えるどころかますます広がりを見せているようで、薔薇十字叢書だなんてタイトルでもって各社からいろいろな人が挑んだ京極夏彦トリビュートが刊行され始めた。その先陣を切ったのが佐々原史御さんで講談社X文庫から「ジュリエット・ゲエム」ってのを出して京極堂こと中禅寺秋彦の妹、敦子がまだ女学生だった時代を想像しては描いている。それが今というどうにも先が右へ右へと曲がり落ちていくような時代を批評するような内容で、この時期にこれを書いてのけたところにある種の覚悟めいたものを感じる。偶然かもしれないけれど。

 とうのも中禅寺敦子が、原作で女性記者として活躍しているところからさかのぼった昭和17年、まだ12歳だった敦子は横浜にある私立の女学校へと榎木津の配慮もあって入学するんだけれど、そこで同じ部屋に暮らすことになった先輩2人に振り回されたり引っかき回されさあ大変。ただそのひとつひとつのエピソードに、だんだんと色濃さを増す戦争の影響、そして本土爆撃へと向かう時代の息苦しさめいたものが描かれていてこういう時代を繰り返すことになっても良いのかと問いかける。私立はまだ普通でも公立はセーラー服すら排され英語は教育されず教練に代わる。やがて私立でも英語は禁止され外国人の教員は放逐され、それに引かれていた女生徒の逃避行めいた事件を招き、それに敦子も巻き込まれる。

 別のエピソードでは制服が排され教練ばかりになって浮かれた騒ぎの1つない公立の女学校の生徒たちが、まだゆとりが残っていた敦子の学校に助けを求めていっしょに文化祭めいたものをやろうということになるんだけれど、そこにも色を落とす時代の影。スカートにパラソルをひるがえして街中を少女が歩いただけで不謹慎と言われ攻められる状況で、敦子にそんなことをやった疑惑が及び、否定はしたもののやがてそれが飛び火する形となってひとりの少女の葛藤を呼び、それを敦子が引き受ける形になってしまう。その悠木、その正義感はあるいは兄譲りなのかもしれないけれど、今にして思えば下らないことが当時は生死に関わる問題だったというこの状況を、今また繰り返さないと誰が言える? そう思わせる。息苦しさを増す空気の中で、羽を伸ばしてみたらそれが命取りになりかねない恐怖。それが過去に現実だったことを思い出しつつ、今という時代をどう生きるかを考えよう。しかし榎木津はもうこの頃から、水気の無い菓子と竈馬が嫌いだったんだなあ。

 季が違っているから仕方がないby了然和尚。なんてことを今さら何を行っても直らないんだろうけれど、こうやって満天下にみっともなさをさらけ出し続けて先が途切れた時に誰が責任取るんだろう。とあるメディアが中国によってユネスコに世界記憶遺産に申請された南京事件の資料が認められたことについて異論を唱えているんだけれど、それがまた凄いというか。「国内では平成17年度の高校教科書検定で、『20万人以上とする説が有力」とした記述が検定を合格するなど、『大虐殺派』(十数万人以上)の学者の見解が流布した時期もあるが、研究が進むにつれ、『一定程度の虐殺はあった』とする『中間派』(2万〜4万人)や、そもそも虐殺はなかったとする『事件否定派』の勢いが増している」。おいおい中間派はともかく「虐殺はなかった」なんて言い出す輩が蔓延っているのはその界隈だけだろう。勢いなんてましてないのに、並立させてさもそうだろうと思わせ導こうとする言葉の詐術がみっともない。

 あまつさえ中間派、というかまあ歴史的にはそれが実際なんだろうけれど、結論としてはやっぱりあったとう認定で、それを受けて日本政府も少なからずあったと認め公式に行っていることに対して、なかった派の人の意見を持ち出してきては「『非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない』とする日本政府の公式見解について、『ユネスコ側から見れば日本政府が事件があったと認めていることになる』と指摘、政府見解の見直しを求めた」なんて言わせている。それに否定もしないで。つまりはそういう、とても一方に寄った見方をさも正しいことだと思わせようともしている訳で、そうまでしてなかったことにしようとしたいんだけれど、そんなことを世界は認めるはずがない。そしてそういう態度を卑怯と見て攻撃し、相手方に利益をもたらしていく。

 これに限らず界隈の人たちは、日本が過去に犯した過ちを素直に認めつつ打倒を探る努力をせず、自分たちは何もやっていないんだと妙なプライドで排した挙げ句に、そうじゃないだろと怒られ突っ込まれ暴かれ叩きのめされて、結果として国益を損なっているんだけれど、自分たちがその原因になっていることを認めようとしない。それはそういう界隈を応援するメディアも同様。歴史戦だなんてお題目を掲げて支えようとするんだけれど、その結果が連戦連敗というんだからもうみっともないったりゃありゃしない。どうしてこうまでこだわるのか。体力的に保たないのにやらざるを得ないのはそれとも体力を補填してくれる勢力がバックにあると思っているのか。それが政治ならまだしも宗教だと嫌だけど、その可能性は皆無じゃないかもしれないし。やれやれだ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る