縮刷版2014年7月下旬号


【7月31日】 思い出されるのは1997年に発生した神戸における児童連続殺傷事件の影響で、テレビ放送されていた「エコエコアザラク」が何と19話以降まるっと放送されなくなってしまったことで、それでいつか再放送されれば良かったんだけれど、東京地区ではもう一切の放送がなく、結局レーザーディスクが出る前の、9月6日に徳間ホールで行われた「闇のエコエコ大祭」で一挙上映があるまで封印されてしまったった。その後にLDボックスのセカンドも出て、未放映話数も含めたテレビシリーズの全話を見られるようになったんだけれど、今となっては何とも慎重すぎる対応というか、それほど事件と重なる描写があったとも思えないものの、やっぱり世間に配慮して、そういう方針をとらざるを得なかったんだろう。

 対して「PSYCO−PASS」の方はといえば、事件にあまりにも重なりすぎる描写が含まれたエピソードを1回分、外してそれ意外はちゃんと放送があるというから対応としてはまあ穏当。そもそもが1回テレビシリーズとして普通に放映されていたりするし、パッケージにもなっているんで永久に見られないってものでもない。深夜も結構な深い時間にそういう映像に影響を受ける人が見るのかどうかという問題、あるいはそういう映像を親が見せるかどうかという問題を考えるならちょっぴり過剰という気もしないでもないけれど、でもやっぱり何を言われるか分からない今の時代、そしてやりすぎてもやっぱり色々言われてしまう時代なだけに、納得の範囲って言えるだろう。苦労するなあ。っていうかそもそもタイトルがね、そういう傾向を現しちゃっているんで事件からそういう言葉が出てきた時に、あらためてとばっちりが来そうな気もしないでもない。映画化も控えているだけにそっちが心配。どうなるかなあ。

 元映画評論家が逮捕とかって話が流れてきてよくある最近話題の自称ナントカって人がまたと思いニュースを見たら、SFX映画の紹介で世に名だたる人だった。何でまた! って驚いたけれども今やってる事業に絡んで、日本人と中国人の間を取り持ったらそれがどうやら国籍目当ての偽装結婚だったらしく、摘発されてしまった感じ。官憲は当然知っていただろうという感じで逮捕にかかったんだけれど、当事者にはそういう認識はなかったというからどこかとばっちり気味。あるいはあの地域でそいういう事案を集中的に挙げるお達しでも出ていたのかもしれず、そこに引っ掛かってしまったのかもしれない。元相撲取りが不法滞在者を使っていたとして摘発されたのも、その辺だったっけ県違いだっけ。ともあれいろいろ面倒なことには違いないんで、無罪なら無罪となって欲しいと願いつつ状況を見守ろう。そういえば最近では評論集成まだ買ってない。高いもんなあ。でも欲しいなあ。

 これはなかなか面白い、和多月かいさんによる「世界融合でウチの会社がブラックに!?」(C★NOVELSファンタジア)。タイトルだけ聞くと何か異世界転生だの異世界から魔王がやってくるだのといった感じの設定に、企業を絡めてひきこもり君が大変な目に遭うストーリーを想像しがちだけれど、そんな印象とは正反対に実に良く地に足がついた内容になっていて、リアルなワールドでもしも科学と魔法の世界がくっついてしまったとしたら、その後に起こり得るだろう出来事が描かれていて、これはあり得ないとかそんな莫迦なといった口あんぐりに陥ることがなかった。こういのって実はなかなか珍しい。

 さて物語。何か異変がおこってこれまでずっと位相が違う場所なり結界の中なりに隠れていた2つの大陸が太平洋上と大西洋上に現れてしまい、同時に何か漂ってきた物質を取り込んだことによって普通の人間にも魔法の力が使えるようになってしまった。そんな異変を経ながらも、主人公のトールは内定していた商社にそのまま入社して、新米商社マンとして日本のそばに現れた魔法の国へと仕事に行くことになる。もっともすでに先輩たちがごっそり入って、ファッションもエネルギーも食料も商権に置こうと躍起になっている中で、新米が行っても出来る仕事なんてない。そんな折、ひょんなことから知り合った現地の青年と仲良くなったか、話が通じるようになってトールは現地の文化を学びつつ、その青年がやろうとしてることを手伝うことになる。

 会社はといえば、ミサイルからラーメンまで扱う総合商社だけあって魔法の力が衰え住人たちが暮らしに不自由している様につけ込むようにダムを造り原発を売り込もうとする。ダム開発では美しい織物を算出する村が沈んでしまう懸念が出てくるんだけれど、そこで普通なら正義感を発揮して新米君が事態をひっくり返すなり、頑張ったけれど資本の力に押し切られて挫折する話になっていく。これはなるほど挫折に近い形にはなるけれど、それでも現地の人にとって最善で、そして納得のいく展開へと向かうから読んでいて辟易としない。なるほど自然だ伝統だと言ったところで、現地の人にはそれは日常、懐かしくもなくむしろ変えたいと思っている。そこに先進国の論理を振りかざせば反発を喰らうのは必至。かといって急ぎすぎてもひずみが出る。話し合い認め合った先に最善を探る大切さって奴を、今さらながらに教えてくる。だって今はもうこうと決めたら突っ走っていくだけだから。

 トールはと言えば、世界を魔法テロから救い、そしていよいよ原発を売り込もうとする会社の前にいろいろ思案しどうすれば最善かを探ろうとする。相手には御曹司にしてエリートもいてひっくり返すのは困難きわまりないけれど、それでも精一杯に考えそして現地で味方にした人の助けも借りて、どうにかこうにか納得のいく結論を導き出す。科学と文明が未開の場所に行って起こりそうなことを一種モチーフにしながらも、相手は魔法で文明を発達させた国だけあってその立場その考えを尊重しつつ融和を目指す。いたずらな正義感だけじゃなく合理性と将来性もちゃんと踏まえた展開が気持ち良い。とはいえ譲れないところは譲らない。そんな頑固さがトールって新米商社マンにいろいろな成功をもたらし、心優しい友人たちをもたらしたんだろう。読んで痛快、でもちょっぴり哀しくもあって、嬉しくもなれる物語。これから働こうとしている人、働いていることに疑問を感じている人はご一読を。何か得られるものがあるだろうから。

 新潮社によると夏目漱石の新潮文庫から出ている「こころ」が累計で700万部を超えたそうでもちろん新潮文庫ではナンバーワン、2位の太宰治「人間失格」の670万部を30万部ほど引き離している。何か最近10万部の増刷があったそうで100年ぶりという朝日新聞紙上での再連載が大きく影響している様子。それで売れるのは新聞のアナウンス効果が未だ大きいってことなんだろうか、それとも「こころ」って小説に現代性があったからなんだろうか。青空文庫でだって読もうと思えば読めるのに、文庫を求める人がいるのはやっぱり携帯性なのかそれとも流行に乗ってみたい人が多かったのか。いろいろと考えてみたくなるけれど、これで気を良くした新聞あたりが過去の連載を引っ張り出してきては、それを乗せて稼ごうとするのはちょっと勘弁。だってそれだと新しい作品が生まれる機会をひとつ失うってことだから。ただでさえ再録とそれから自社の記者による小説連載が往々している新聞もあるくらいだし、天下の朝日には堂々の新連載をお願いしたいなあ、ライトノベル作家とかを起用して、1000万部に達した「ソードアート・オンライン」の川原礫さんあたりとか。ないなそれは。


【7月30日】 ふと気が付いたら千葉県は鴨川市にある鴨川市郷土資料館ってところで「輪廻のラグランジェ展」ってのが始まっていたみたいで、いったい何が展示してあるのかっていうかむしろ今、いったい鴨川では「輪廻のラグランジェ」がどういう扱いになっているのかに興味が湧いてこれは行かなければいけないと思っている夏休み、いや別に休みじゃないけど。先だって赴いた茨城県の大洗町は街を挙げて「ガールズ&パンツァー」が賑わっていて戦車の看板もあればキャラクターの看板もあってグッズもオリジナルのが売っていたりする。それより先にアニメによる町興しが始まった今は久喜市のかつては鷲宮町もやっぱり商店にポスターが貼られオリジナル商品が売られていたりする。

 そんな間に挟まるようにアニメを使った町おこしみたいなのが行われ、テレビにも取りあげられた鴨川市だけれど、「輪廻のラグランジェ」という作品が終わった後、とんと話をきかなくなってしまった。大洗町のように「あんこう祭り」があってそこに「ガルパン」のキャストが勢揃いしてあんこう踊りを踊る……ことはないか、でもイベントが行われているし最近もOVAの発売に合わせてキャストが揃っての上映会が開かれた。鴨川市の方はといえば何かイベントが継続的に行われている雰囲気はなく、お土産も果たしてうられているのかどうなのか。そこが気になって仕方がない、というか気にするまでもない記憶の彼方へと押しやられていたことが今になって気になってしまう。

 どうしてそんな事態になってしまったのか。何がフックとなり得なかったのか。作品として面白くなかった訳じゃないし鴨川市は最初から最後まで出ずっぱりで完全なマデに作品の舞台になっていた。それは学校艦がメインの大洗町よりもはるかに多くアニメに登場していたのに、どこか希薄な町とアニメの結びつき。それはいったいどこに原因があったのかを探り出せばきりがないけど、でもやっぱり今、いったいどういう状況なのかを確認し、そしてどういう繰り広げられ方をしたのかを資料で確認する意味でも、やっぱり行かなくちゃいけない安房鴨川。茨城県には行って同じ千葉県に行かないって手もないし。ただ遠いんだよ鴨川は、大洗町より。どうしようかなあ。

 第10回C★NOVELS大賞で大賞を受賞した松葉屋なつみさんの「歌う峰のアリエス」(中央公論新社)がこのレーベルにしては最近珍しくSFテイストを濃く感じさせる作品で、ちょっと意外に思いつつしっかりと堪能。ファンタジー調の世界に見える山野の広がる場所で羊と呼ばれる存在が、守っているのが中空を行き交う紙飛行機に寄生する悪いもの。それは実はウイルスでファンタジー世界に見える舞台は実はサーバーの中につくられた架空の世界でアンチウイルスというかセキュリティの機能を擬人化したものとして羊たちは存在している。

 そんなサーバーを構築したのはファティマという名の天才女性プログラマーだったけれど、プロジェクトの途中で疾走してしまい今は<ARIES>と名付けられたサーバーの中で何かが動いているということしか分からない。残された教授と呼ばれる研究員はその秘密に迫るため、ファティマの娘で親戚に預けられていたジュニアと名乗る少女を極寒の地から研究室へと引き取り<ARIES>の謎へと挑ませる。とはいえ母親に匹敵するハッキング能力を持ちながら、母親に負けず性格に難のあるジュニアは乱暴な口調とぞんざいな態度で教授を困らせる。それでもしっかり仕事をこなして<ARIES>の機能をフル稼働させようとして、それが<ARIES>の中にある世界を激変させる。

 ジュニアの送りこんだウイルスが起こす深刻な事態は、羊たちを脅かしサーバー内の世界すら脅かす。それは果たしてジュニアが望んだことなのか。そしてファティマが予想していたことなのか。刺激され鍛えられる中で自動的に進化していくプログラムといったテクノロジーが、サーバー内の仮想の社会で物語りという暗喩を得て表現されていく物語。そんな果てに羊たちがたどり着いた境地はいったい、現実の世界に何をもたらすのか。あるいはもたらしたのか。考えてみるとちょっと面白いし、そこを起点に新たな世界とそして進化した羊たちの物語ってものが描かれれば嬉しいけれど、そういう予定はあるのかなあ。サーバー内ではない現実の世界でジュニアが見せる変貌も興味。これもまた外部の刺激を受け影響を与え合いながら変わることのを現しているのか。プログラムである以上は見込めるサーバー内の変化と違い、現実はもっと複雑怪奇だものなあ。

 無料の企画だけ出たインチキ参加者としてのぞいた「なつこん」で聞いたシンポジウムに登壇していた漫画家のなかせよしみさんは、「うっちー5LDK」って作品で家屋がロボット化された世界ってのを確か描いていて、まだ読んでないんだけれど家に点目の顔がついて大きなアームも生えていて、それでいろいろ庭の周りの作業なかをしたりするみたいで、きっと家の中にもそこかしこに顔があっては、便利な暮らしって奴を実現してくれているんだろう。でもこれはもうSF漫画の世界の中だけの話じゃなく、実際の家もたとえばネットワーク家電によって電化製品の連携が進み、あるいは外からの操作だって可能になっていたりする。将来はもっと進んだ何かが登場して来るはずんなんだろうけれど、そんなビジョンを一足早く見せようとする展示会「2020ふつうの家展」ってのが8月6日から、三井不動産レジデンシャルが月島に持っているショールームで行われるみたいで、その内覧会があったんでのぞいてきた。

 さすがに壁に顔はなかったしロボットアームも生えてはいなかったけれど、その分自分で動いていろいろと作業する先に外部とのコミュニケーションがあったり、データベースとの連携があったりしてと、暮らしの作業をより高度化させるような仕掛けになっていた。一番面白かったのがキッチンを作業場にしてしまうような発想で、そこには包丁だとかトングといったキッチン用品と、スパイスや調味料といったものだけでなく、なぜかトンカチとかドライバーといった工具もあって調理をしない時にはキッチンで工作も出きるような感じになっている。本当にそうなるか、っていうと分からないけどそういう多様化ってものがキッチンと言うスペースにも求められている可能性はあって、それを考えさせる提案を行ったって感じ。

 あと何故かキッチンに3Dプリンターがついていて、工作だけでなく例えばカレーに添える御飯をタージマハール型にするための型を3Dプリンターで作るようなプレゼンテーションが行われた。そんなどうでもいいことでキッチンを作業場にするのか? って疑問もあるけどこれもまたひとつの提案。食事時しか使わないスペースにしてしまうより、さまざまな時間を誰もが使えるような場所に帰ることで効率的でコミュニケーションも十分な家が出来上がる、ってことなんだろう。ITっぽさでは料理のレシピがキッチンの台の上に映し出されたり、使う道具の支持があって間違えると指摘が飛んだりとロボットアドバイザー的な仕掛けがあった。むしろこういう方面が先に実用化されるんだろうなあ。iPad見ながら調理している延長として。

 ほかには食卓の脇にモニターがあってそこが世界を繋がり遠隔地を会話を楽しんだり、開け閉めする扉がその時々によって違う音を立てたりといった提案も。今どきの窓が明けると隣の家の外壁だったりするような状況で、窓って果たして必要かと考えた時にだったら窓をモニターにして世界を繋げてしまえば良いんじゃないかという発想はうん、近々にでも導入されて不思議はなさそう。開け閉めするたびに音が変わる扉はうーん、心理状態まで読み込むセンサー技術との連携が実用化のカギかなあ。食卓の上にカメラを置いて過去に作業した映像を取り込みプロジェクターで食卓に映し出して振り返られるようにした提案は、過去が記録され積み重ねられていくことで将来にいろいろな意味を持ちそう。成長の記録に学習の記録に日常の記録。それらが知らず蓄積されることによって生活も、人生も何か濃いものになれば良いけれど。これも使い方と使う側の心理を図る必要があるかなあ。ともあれユニークな展示。ソフト面を手掛けたのは面白法人カヤック。だからそこそこ面白い。8月10日まで開催。


【7月29日】 にっくにっくおにく〜、の日だけれど別に「ゼウシくん」の主題歌が全国を流れることもなく、普通に世の中は土用の丑の日としてウナギを食べようでも絶滅怖いだからといって食べないわけには行かないといった矛盾する言動思想に満ちあふれていて、日本人のしょうもなさって奴をくっきりと浮かび上がらせていたり。とか言いつつしっかりと渋谷はヒカリエの地下でもってウナギが入った弁当を買って食べたけれども基本はエビフライだの卵焼きだのつくねだのといったおかず類。ウナギはそれこそ御飯の上に細く切られた2切れが乗っているだけで、それで915円という値段にやっぱりなかなか厳しい状況に置かれているんだと実感する。いつも大展開しているコンビニも今年はこぢんまりとしていたものなあ、そんなに高くちゃ買えないもんなあ。

 じゃあどうすればウナギを守りつつ食べられるように出きるんだってことで、偉い先生たちとかウナギの業界が集まり話し合っては色々提案するシンポジウムが去年とかにあったみたいで、それをまとめた「うな丼の未来 ウナギの持続的利用は可能か」って本も出ていて読んだらやっぱりウナギが減っているのは事実のよう。そして日本あたりでとれなくなったものを中国から輸入しようとか、マダガスカルやマレーシアあたりでニホンウナギと似たウナギを捕まえもって来ようとかいった話もあるけれど、そうやって次々に食い尽くしていけばやっぱり全世界的に不足するのは確実。だからやっぱりウナギはハレの日に味わう貴重な一品として祭り上げつつ、業界でも時期を決めてそこでしかシラスウナギは捕らないとか、成長してこれから産卵に向かう下りのウナギは捕らないといった取り決めをしていこうって話になっていた。

 今年の決して大々的ではない展開は、少しはそうした危機感が流通にも広まってきたって現れか、単純に高すぎてペイ出来ないと諦めただけなのか。分からないけどどっちにしたって今日はハレの日、堂々ウナギを食べてあと1年我慢するのが日本人ってことで食べたのが2切れだけではやっぱりちょっと哀しい。いつか堂々とハレの日だからと蒲焼きが2段重ねになった鰻重をお代わりできるくらいの身分になりたい。その時にウナギが絶滅していないか、それこそレッドリストの1番危険なところに乗って食べられなくなっているか、競争だ。確実に負けそうな競争だけれど。ウナギが食べられなければウサギを食べれば宜しくて? byアントワネット。いやフランス人じゃないんでウサギはちょっと。

 そんな渋谷のヒカリエでは最終日となった「G博」って奴を見物。つまりは「ゴジラ」の博覧会で行くと最新のハリウッド版「ゴジラ」で渡辺謙さんが着ていた貧相なジャケットやらズボンやらがあってその科学者としての冴えなさっぷりが服装からも醸し出されていた。本当、役立たずだったものなあ、ムートーの復活だって元原発技術者のおやっさんの“遺言”が決め手になったようなものだし。そのおやっさんのフーデットコートとか息子のミリタリー服とかかあちゃんが最後に着ていた防護服とかもあってやっぱり真っ当に仕事している人たちはその信念が服装に滲むとも実感する。

 つまりは映画美術ってそのシチュエーションそのキャラクターまで含めて表現させないと映画に深みが出ないってことなんだろう。渡辺謙さんの服装の貧相さもつまりはそういう役柄だと決めて選ばれたものだと思いたい。それとも編集テクニックでああいう役になってしまったとか。見たいなあ完全版。そして展示は巨大なハリウッド版「ゴジラ」の立像があってそして日本版「ゴジラ」のあれはいつ頃のなんだろう、背びれがジラースみたいなギザギザからつんつんと剣が峰みたいに尽きだした迫力のあるゴジラ像があってその精悍な顔立ちとともに日本のゴジラデザインの究極って奴を感じさせてくれた。目の上に何かふくらみがあってややより目気味の愛嬌があるゴジラもそりゃあ悪くはないけどやっぱり“怪獣王”がひょうきんではいけない。たとえ自然界の頂点に君臨してバランスをとるためのセーフティとして存在しているとしても、人間にとってはひとつの暴威と見なされるゴジラには徹底した凶暴さって奴があって欲しいという、そんな想いが形になったものだった。

 対するにハリウッド版も首から上のすっと細くなっていく感じを嫌がる人がいそうだけれど、ずっしりとした体型でありながらしなやかそうな肉付き、そして凶暴さでもひょうきんさでもない純粋な強さを讃えた表情もこれでしっかりゴジラしている。あの物語にあってベストな表情であり造形。つまりはゴジラは1つではなく解釈の中で無数に存在するってことで、次にあらわれモスラやキングギドラと戦うらしいゴジラはいったいどんな表情をしているのか。今から楽しみ。芹沢博士がどう役に立つのかも含めて。立つのかねえ。

 NHKでもって放送された理化学研究所におけるSTAP細胞の発見と、それに関する論文の問題に関する番組を見て発見者の女性科学者が個人攻撃されたと訴えている弁護士の人を見るにつけ、いったいあの番組のどこをどう見ればそう感じるんだろうかと何か不思議に思ったり。だってあれはそうした不正あるいは不備を隠してみんなんで持ち上げ、世の中を攪乱させようとした組織の悪しき体質を告発し、そうした不正があっても政府なり機関が何の対応もとらず、不正が蔓延るままにしている体制を告発したものであって、個人を攻撃するための番組ではなかったように見えた。そして、海外のように不正があったらそれがどういう心理的、あるいは組織的、もしくは学術的な問題から生まれ世に出てしまったのかを研究して警鐘を鳴らしつつ、組織的にも政府機関が対応をとって研究の公正性、そこから生まれる成果の正確性を担保しようとする海外の状況を見せて日本大丈夫かと問うものだった。

 みれば自分の名誉だのといった部分よりもっと深くて大切な何かを守ろう、それが科学者としての使命だって想い行動するはずなのに、弁護士の人はひたすらに自分たちの権益を、あるいは名誉を守ろうと意固地になっていて、それが傍目に自分勝手な人たちだなって思わせてしまう雰囲気を作っている。戦略としてそれはちょっと勿体ない。才能も技術もある人ならばそうやって自分勝手を通すよりもむしろ今は堪え忍びつつ再起を期そうとするのが美学であってそれを見て一般の人も同情を示すのに、これだと何て自分勝手なんだと反発するだけだろう。つまりは間違った戦略。NHKが取材で追っかけ回してケガをさせたことを取りあげ治療費を問い合わせて来ないと叫ぶのも同類で、弁護士なら粛々と請求すれば良いだけのことなにメディアを使って相手の瑕疵を糾弾するばかり。それでは同情は薄れ理解者も離れていくだけなのに。誰かが振り付けているのかなあ。それともそうやって世間の反感を買う方向に敢えてもって行っているとか。誰の見方だ弁護士さん。


【7月28日】 まずは痛ましいというしかない佐世保の事件。多感な世代に生まれがちなひとつの感情、その濃縮されて行き場のなくなってしまった想いが目の前の状況に反応し、一気に吹き出てしまったという見方もできるし、愛憎いずれかの感情が吹き出てのっぴきならない状況へと追い込んでしまったという見方もできる。ただ憎かったという意見、興味があったという意見もさまざまあるけれど、問題はそうした感情が法律なり倫理の壁を踏み越え発現してしまったことになる。そこで踏みとどまれる人間が大半な中にどうして突出してしまったのか。そこへと至る心情のプロセスを探ることによって事態が繰り返さないようにできると思うんだけれど、冷静にそうした判断ができるかなあ、相変わらずにメディアはセンセーショナリズムに走って何かフィクションに原因を求めようとしているし。どうなるんだろう。

 江戸東京博物館で開かれている「思い出のマーニー×種田陽平展」で月末の発売よりちょっと早く、それもサイン入りで売り出していた種田陽平さんの手記「ジブリの世界を創る」(角川Oneテーマ21、800円)を読んだらとってもとっても面白かった。種田さんは言わずと知れた映画美術の第一人者で、「スワロウテイル」の岩井俊二監督や「有頂天ホテル」の三谷幸喜監督といった実写の優れた監督たちが撮る映画で、その舞台的であったり異界的であったりする空間をセットとして作り上げては、実写故のリアリティの中に映画ならではのフィクション性も混ぜて“それっぽさ”を醸し出す腕に長けているって印象がある。

 「THE 有頂天ホテル」なんてそれこそホテルのロビーから廊下からまるまる造って見せた上にホテルに備え付けの便せんだっけペンだっけ、そんなものまで細かくデザインしてみせたりしたし、「ザ・マジックアワー」では街路を造り両脇の建物に二階を作ってその部屋から街路を見下ろせるようにしたりとひとつの通りをそこに現出させた。「ステキな金縛り」では亡霊が現れる法廷を作りつつそこを実物のような平坦ではなく、微妙に段差を付けることで劇として見通しが利くようにして、そして「清洲会議」では実在しない円環状の館を創案して、天下分け目の会議の空間として見せたりと、ただセットを組んだり大道具小道具を用意するだけじゃない、映画世界にマッチして物語を支える美術を生み出してきた。

 そんな人が押井守監督の「イノセンス」でのプロダクションデザイナーに続いて「思い出のマーニー」でもアニメーションの仕事を担当。なおかつ今度は美術監督として作品世界を創造することにも深く関わった、そんな経緯について綴られた話から美術としてどこに気を配ってデザインしたかなんてことが分かってくる。詳しくは読んでもらうとして、興味深かったのは例えば湿っ地屋敷の作りなんかはマーニーがいる部屋が同じ屋敷の片側って感じではなく、どこか独立したような感じに見えるようにしたり、中に人がいるのを描くのは面倒と分かりながら二重窓にして格子を付けてそこに閉じこめられているような感じを出したりと、工夫をこらしていること。

 それって映画のキャラクターの立ち位置に関わることで、演出の人なり脚本の人が考えるべきことなんだけれど美術監督としてそこに踏み込み、空間を作り上げたってところが面白い。そこから引っ張り出されてのあのマーニーであり杏奈のキャラクター造形が成り立っていったんだとしたら米林宏昌監督に負けず種田さんも映画において重要な役割を果たしているってことになる。美術監督でありながら。というかそういう効果も期待して種田さんを誘ったのかもしれないなあ、アニメーターの発想からは出てこない作劇であり空間といったものの姿を見せるために。部屋のサイズや椅子の高さもアニメーションの人が感覚でやっていって整合性がとれない部分が出るところを、ちゃんと見て高さを決めたりドアの開く仕組みを考えたり天井の高さを整えたりしたっていうから種田さん。

 驚くべきことに種田さん、1年くらいジブリに通ってはアニメーターが感覚で飛ばしてしまいがちなレイアウトを一旦、自分のところで見てチェックして建物として、あるいは美術として整合性がとれるように整えてから戻していたんだとか。個人個人が思い思いの体感で絵を描いていくと、空間の広さなりにどこか整合性がとれないところが出てきてしまう。それを整えるという、普通の美術監督では多分やらない作業を介在させることによって、「思い出のマーニー」という映画の実在はしていないんだけれど実在しているような空間、人間がそこにいて不思議はない世界ってものが出来上がったんだろう。

 今までのジブリ作品、あるいはアニメ作品とどこか違った空間設計のしっかりぶりがあるとしたら、それは美術監督として種田さんが関わったからってことが最大の要因。そしてアニメーターも普通はやらないそうしたことを、今回はそれで行くと行って受け入れた。双方の意見と納得から生まれた世界観。そう分かってまた見に行くと、なるほどだから見ていて落ち着くんだといった感情、立ち位置が示すマーニーの心情なんてものが見えてくるかもしれない。宮崎駿監督も高畑勲監督も関わっていない劇場版長編アニメーションってこと以上に、種田陽平さんが関わった劇場版長編アニメーションって捉え方で見る方が、今後に繋がる発見があるんじゃないだろうか。

 そんな種田さんがアニメーションにおける美術、あるいは世界の造形ってものに興味を抱いたきっかけが「太陽の王子ホルスの大冒険」だったとか。そこで空間設計を手掛けたのが誰あろう宮崎駿監督。いわば申し子ともいえる種田さんが回り巡って宮崎さんの直接ではないけれど、その下で才能を発揮したという円環の構図にも何か運命ってものを感じてしまう。また何かやって欲しいなあ。でもお忙しい人だから。あとそうそう、劇中で杏奈が描いたスケッチが種田さんの手になるものということは展覧会でも気づいたけれど、それを描くにあたって色々と苦労したって話も登場。アニメーターとは違う絵が欲しいと言われ描いたら似てないと言われ、頑張ると今度は巧すぎると言われ。そんな成果があのジブリっぽくない美少女のスケッチ。そう思ってみるとまた一段と赴きもあるかもね。

 気が付いたら大河ドラマではなくって大河ファンタジーとしてNHKがあの「精霊の守り人」を実写ドラマ化するそうで、森林とか山河とかがいっぱい出てくる雄大なファンタジーをどうやって映像にするんだ北海道で撮るのかニュージーランドに行くのかといった興味も湧いてくる一方で、ヒロインで結構な闘士だったりする女用心棒バルサを綾瀬はるかさんが演じるということに、今からさまざまな想いが交錯して興味が湧く。それはひとえに揺れるのか、といったことでそれも出来るならゆさゆさと揺れるのか、といったことなんだけれどそういう期待を胸に見た「八重の桜」では和装ってことも災いしたかまったく揺れが見られなかった。今度はファンタジーだからビキニアーマーでヒャッハー、なんてことはなくどちらかといえば中華で和風な世界観。それだとやっぱり揺れないかなあ。いや心配するのはやっぱり作品世界を実写で出せるかってところか。気になるなあ。

 参ったというか何というか、日頃から活動経験のある方々が国会前とか官邸前に集まり市民と称してデモンストレーションしている姿を「プロ市民」と揶揄している媒体が、右側の方でかつて活動をして発現もして来た女性たちを取りあげ「普通の主婦」と言ってそれが「立ち上がった」と喝采を贈っている構図がどうにもこうにも意味不明というか訳が分からないというか整合性がとれていないというか。別に主義主張を堂々と言って世論を変えようとすることに疑義はなくって、それが右よりだろうと左よりだろうと正当性があるなら納得はしないまでも理解はする。けど牽強付会の上に偽装まで重ねて情動を誘おうとする言説は右であろうと左であろうとみっともないし情けない。普通ならそう自覚してやらないだろうことなんだけれど、でも堂々とやってしまえる心性入ったい何だろう。背に腹は変えられないって奴か。そう心から脳髄か信じ切っているのか。うーん。

 「だってそうなんだもん。しかるべき教育を受けて物事を考える能力があり、相応の立場にいる人が、人前で日本は神の国だとか、従軍慰安婦問題の偏向報道は是正するべきだとか、南京大虐殺はなかったとか、言うかといったら言わないですよ。でしょう?」って山本一郎さんはインタビューに答えて話しているけど、でもなあ、そういう言説を社是として社訓として社論として社員一丸となって言っている媒体も世間にはあったりする訳で、それはつまりどういうことかと考えると天に唾な状況にも至りそうでちょっと躊躇。どっちにしたってそういう捏造紛いを繰り返せばそう信じたい一部を集めて盛り上がっても、多くの真っ当な人たちを逃してじり貧になっていくだけだろう。それでも言うべきこと、というか言いたいことだけ言っていくんだろうか。気になるなあ、その未来。


【7月27日】 せっかくだからと江戸東京博物館まで行って。「思い出のマーニー×種田陽平展」を観る。展覧会の図録と種田さんの新書が種田さんのサイン入りだったけど数量限定みたいなんで欲しい人は急ごう。そんな展覧会の展示の方はと言えば、作品に出てくる世界が大小、さまざまなサイズで作り込んであって、どこか遊園地のアトラクションといった感じに作品世界の中へと入っていける。東京都現代美術館で開かれた「借りぐらしのアリエッティ展」ほどではないけれど、湿っ地屋敷のマーニーの部屋とか、サイロの中とかがセットみたいに組まれてあってそこにちょっぴりの映像が組み合わせられていて、マーニーなり杏奈になった気分を味わえる。サイロ結構怖い。雷鳴るし足下湿っていそうな感じだし。セットだけど。

 そんな展示だからいわゆる作品がらみの原画は、別に開催の米林宏昌監督の原画展にお任せして、こっちは少しだけ米林監督のコンテがありスケッチがあって、あとは背景美術なんかがいっぱい飾られていたといった感じ。男鹿和雄さんのとか混じっていたみたいだけれどどれがどれだか。そんな少しの米林監督によるスケッチとかコンテだと、実に可愛らしい宮崎直系なジブリ少女が描かれているのに、フィルムになるとちょっぴり表情が固くなるのは何でだろう。キャラクターデザインから作画監督の手を通したからか、作品世界に合わせたからか。宮崎駿監督の呪縛を抜け出そうとして葛藤した結果、ってこともあるのかも。

 冒頭で湿地越しに湿っ地屋敷の1日が眺められ、そして帰りがけに湿っ地屋敷の窓に立つマーニーを眺めると、マーニーが何か手を振ってくれそうな気分になるのは、すでに映画を見てあのラストシーンを知っているからか。何か映画が思い出されて泣けてくる展示になっているんで、これから展覧会に行く人は、出来れば映画を観てから行くと良いと思った。今ならあんまり込んでなかったけど、でも映画を見終わった人が増えてくると展覧会の方もだんだんと込んでくるのかな、あの「アリエッティ展」なんて会期中は本当に人でぎっしりだったから。でもそうなって欲しいという気も。ちょっと苦戦しているみたいだし。どうなるかなあ。でもまあそれなりに人もいたし、これからって所か。

 展示で気づいたのは、劇中に出てくる杏奈のスケッチを描いていたのが種田陽平さんだってことで、パンフレットには書いてあったのかもしれないけれど熟読はしていなかった。絵、巧いなあ、って言うことではないか、美術の人に。そんな「思い出のマーニー×種田陽平展」の売りはといえば、「有頂天ホテル」とか「素敵な金縛り」と「清洲会議」といった三谷幸喜監督の映画のセットを作っている人が、アニメーションの世界を作り上げるってものだけれど、前は映画そのものには絡んでいなかったものの、その作品世界に感じ入り、小人が主人公になったアニメーションの世界をその目線で作るという試みに挑戦した「借りぐらしのアリエッティ展」と比べると、スケール的な部分以外でアプローチに違いが観られたような気もしないでもない。

 今回の「思い出のマーニー」では種田さん、映画そのものに最初から美術として関わっている訳で、その美術として二次元の世界で思い描いたものを立体化してみましたというものだけに、踏み込みが強い分がありつつ一方で、舞台美術家としての想像をふくらませる余地がやや狭いかな、という印象も浮かんだりする。とはいえ、今回で言うなら湿っ地屋敷という存在は、映画世界に実在しながら杏奈の空想世界にもある産物で、その曖昧な存在感を種田さんは映画の美術として構想して、立体物という形に現してみせた、そんな部分で、ひとつの解釈がそこに入りこんでいると考えても良いのかも。というか種田さんはまず立体を構想したんだろうか、それとも景観からアプローチしたんだろうか。そこが気になった。

 しばらく前に上野の森美術館で開かれた、三谷幸喜作品における種田陽平さんの美術をそのままではなく半ば再現と、あとは三谷さんがナビゲーターになった映像でもって紹介する展示があって、そこでは、舞台にも似た映画セットをまるっと構築してみせる凄さって奴が感じられた。閉じられた世界だけれど、そこにあるすべてを押し込めたっていう美術。でも撮影が終わったらとっておかずにバラしてしまうのが種田流。もったいないけどそいういうものだという認識らしい。これと比べると「思い出のマーニー」は、ホテルでも法廷でも清洲城でもないひとつの地域で、閉鎖された空間ではなく家々があり町々があり森に林があって浅瀬もある。だからアプローチも違ったんだろうけれど、どう組み立てていったんだろうか。図録に書いてあるのかな、あるいは新書とか。これから読んでその思考その創作その立込の極意に迫りたい。

 そして池袋西武へと回って米林宏昌原画展。こちらは「思い出のマーニー」の絵コンテとか米林さんが描いた「借りぐらしのアリエッティ」のイメージや「風立ちぬ」の原画なんかを展示していた。そうか列車での「ナイスキャッチ!」の部分は麿さんが描いていたのか、美少女が可愛らしくちょっぴり強く描かれているシーンだったけど、そういうのを描かせると良い物を描くって認識があったのかも。軽井沢でのホテルでの紙飛行機を飛ばして受け取るシーンなんかも担当。やっぱり少女の表情に迫る力量を買われてのことか。何しろ昔からずっと描いて来たみたいだから、美少女を。そのスケッチなんかも展示してあって、本当に大好きなんだなあってことが見えてきた。

 そこから思ったのは、米林宏昌さんはつまり絵の上手だったMr.で、美少女を描きたい描き続けたいという想いに、スタジオジブリ入りという現実を乗せて映像へと向かい、数々の作品を手掛けているという。対してMr.は、美少女を描きたいんだという想いだけをただひたすらに貫き、レシートにチラシに絵画にしたため描いて描いて描き抜いて来た結果が、純化され且つ拡張された美少女像として今の美少女が乱舞する平面絵画へとたどり着いていた。どっちがどっちというんではなく、どっちもどっちに自己を貫いた結果としてたどり着いたその立ち位置。でもその根底にある美少女スキーな感性には似通ったところがありそう。だからいつか2人が並んでその感性を、その想いをぶつけ合ったら、あるいは重ね合ったらどんなものができるんだろうか。誰か企画しないかなあ。きっとユニークなものが出来そうだけれど。

 レーベル的にはスターダストパンクと呼んでいるらしい兎月竜之介さんのシリーズ最新刊「流星生まれのスピカ2」は流星エネルギーを支配していたエジソン・カンパニーが改革されて出奔していた長男が後を継いで街はどうにか平静さを取り戻し、ニコラ・テスラの末裔の少年も流星が少女になったスピカも平穏さの中で暮らしていたんだけれどそこにまず現れた自称巨乳だけれど実はぺったんな少女がひとり。何でも長距離飛行が可能な船の研究をしていてそこにシンを引っ張り込もうとするけれど、シンはシンで流星バイクのレースに出たいという想いもあってどっちを選ぶかでどっちも選んで研究に励む、そんな日常の裏側で陰謀が。そこに絡んでいる謎めいたアリアという少女がなぜかスピカにそっくりで、どうやら彼女の双子の星から現れたらしい。

 でも挙動が不審。怯えているようで支配されているようで。そして動かしいたのは。そして起こった事態は。ってところで以下は次の巻に。街を司っていたエネルギー源が奪われてしまってこのままでは崩壊するしかないって状況に果たしてシンとオリビアとスピカは立ち向かえるのか。アリアの奪還に成功するのか等々なかなかに胸躍る展開がまっていてくれそう。でも戦うには人数、少なすぎるよなあ、もうちょっとキャラが増えたりするんだろうか。それにしても虐げられてなお依存してしまう少女の性格がちょっと分からないというか、そういうものだとするなら許せない事態。ぶちこわすような展開を期待。でないと世界の虐げられ萎縮している子供たちが報われないから。

 そして戸田市文化会館できゃりーぱみゅぱみゅのホールツアー初日。アンコール入れて1時間半は駆け足感があるかなあ、でもトークあんまりなかったし曲数は結構あったし、夏で体力も温存したいところでこんな感じなのも止む無しか。んでツアーは天国をイメージして雲が配置された部隊で天使の格好のキッズダンサーを従え天使のようなきゃりーぱみゅぱみゅが踊り歌うのは新譜の楽曲。両脇にタロットカードが拝されライダー版をモチーフにしつつオリジナルの絵柄にされた女王とか隠者とか死神とかが描かれていたりしてちょっと欲しくなった。途中でマジックショーも挟んで天国か地獄か設定から一般設定へと戻し、ヒットチューンを並べそしてクライマックスへ。シングル曲を中心に並べてそしてエンディングからアンコールは「ちゃんちゃかちゃんちゃん」1曲のみ。とりあえず新譜はライブで観てもなかなか良かった。ユニコーンのダンサーがいて名前がポニーで参りとルポニーをふと思い出した。


【7月26日】 SF者であるからには「ゴジラ」も大切だけれどこちらも絶対に書かすことができない「幕末高校生」を観にいく。だって眉村卓さんだよ、ジュブナイルSFをいっぱい書いて僕たちの青春をSF色に染めてくれた偉大な作家が原案と協力をしている映画をどうしてSF者として見過ごせよう。あるいはSFを小説として、あるいはテレビドラマとして楽しんできた世代には「ゴジラ」以上に親しみをもって感じている作家の作品が登場するならこれは何が何でも駆けつけなくてはいけない。そういう意志で自分を奮い立たせて向かったシネプレックス幕張で観た「幕末高校生」はと言えば。

 うん、玉木宏さんが演じる勝海舟が最高に格好良かったよい。あるいは今までに観た玉木宏として最高に格好良い役だったかもしれない。端正でそれでいてひょうきんで。でもしっかりと自分を持っていてそれを曲げない人。クライマックスのシーンで描かれる、たとえ取り囲まれても退かず立ち向かっていくその姿を観れば何て格好いい役者なんだと誰もが思うだろう。ちょっぴり最近あんまり目立つ役がなかったけれど、これはひとつのエポックメイキングになるかも。もっと映画に出てくれないかなあ。それこそ大河をやって欲しい。勝海舟役として。

 そして石原さとみさんはうざかった。それは石原さとみさんががうざいのか石原さとみさんが演じた役がうざいのかは分からないけれど、観ていてイライラっとさせられる存在になってしまっていた。まあそういう役を演じさせられたってことなんだけれど、途中でちゃんと立ち直ったかと思ったのに大きく変わっている感じが出ないのは作劇上の課題ってことになるかなあ。それは他の役についても全体についても言えることか。何か筋が通ってなくってカタルシスに乏しいという。誰の責任だ。

 スタッフを観ると割と評判の良い「晴天の霹靂」の脚本で「ウォーターボーイズ」の編集を揃えているから切れ味を作ろうと思えば作れたはず。なのにぐだでどろでべたでうざな映画になるっていうのは誰のせいなんだろう。フジテレビ? うーん全然分からない。僕だったら石原さとみさんががネット上で勝海舟の画像を見てそれを見つけて揃ってると思ってにっこりした場面でエンディングにするんだけどなあ、その方が「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のトム・クルーズの笑顔にも通じる余韻を残すから。その後の部分はエンドロール後に入れておまけ映像にすれば良いんじゃないかなあ。違うかなあ。

 役者でいうなら幕末に飛ばされる高校生の1人を演じた柄本時生さんは役者として悪くないけど、この映画でこの役で使うべきだったかは分からない。柄本って名字から分かるようにこの「幕末高校生」にも出ている名優、柄本明さんの息子さんなんだけれど、見た目はどちらかちえば井上ひさしあんのの若い頃にしか見えなかった。どうしてなんだろう。お父さんに似てないってことはお母さん似か何かか。そして3人の高校生のうちの紅一点、川口春奈さんは存在感がほとんどなかった。何か影響は与えたみたいだけれどそれが際だって見えてこないところに哀しいくらい存在感がなかった。性格も可哀想なくらいにあぱらぱら。それが似合ってしまっているところは実は適役なのかもしれない。開けギャル女優としての道。

 3人組では千葉雄大さんが演じたエリート少年がガキっぽく見えて実は考えていそうでやっぱりガキでしかなかったりして、ちっとも感情を添えられないんだけれどそういう役にされたのかそうとしか演じられなかったのかは分からない。というか高校生ってもっと醒めていて冷静で、状況に対する理解力もあって対応力も適応力もあると思うんだけれど3人とも、そして先生も含めてわたわたするだけで何の解決にも繋がらないというところが観ていていらだった。莫迦ばっかっていうか。ほんとSF読んでいろよと言いたくなったけれど、でもSFを読んでしまっていると異常事態にも妙に冷静に成りすぎて、それ以上の諦観というか物事の相対化が進んでしまってかかる事態をふんふんと眺めるだけで、主体的に行動を起こして何か解決しようとしなくなるからやっぱりダメか。何を読んでいたら良いんだろう。

 そんな具合に見所が満載の「幕末高校生」は、ほかにも子犬が可愛かったり蕎麦が美味しそうだったりして見終わった後に蕎麦屋に行って盛り蕎麦頼みたくなった。そんな蕎麦屋のシーンではいつ「そうさな」って言葉が飛び出すかと緊張してしまった。そういう人が打っている、蕎麦を。西郷隆盛を演じた佐藤浩市さんははやっぱり佐藤浩市だった。人間力が高そうというか。20歳くらい違う玉木宏さんと対峙して同じくらいのエネルギッシュさを感じさせるところも役者としての器の大きさか。ああいう役者に玉木さんもなっていって欲しいなあ。嶋田久作さんはアイパッチも手袋もしていなかった。江戸を火の海にしてやろうともつぶやかなかった。ともあれ面白い映画だった「幕末高校生」。みんなで観よう。本当だってば。

 教養というのはマニュアルではなく思想であり行動の根底にあって人間の活動を支える糧になるもので、それがなければいくら目の前にマニュアルがあっても有効に活用なんてできないし、むしろ使い方を誤って本来の目的から逸脱した結果をもたらしかねない。だから教養を持つことは政治家にとっても、それが地方議会の議員であってもやっぱり必要なことなんだろうけれどもとある県議会の議員がイスラームの人の心情なり行動の根底にある「コーラン」を読み歴史を単に偉人の伝記や政治体制からではなく文化として社会として経済として観て理解しようとするアナール学派の泰斗、フェルナン・ブローデルの名著「地中海」を読んだらそれのいったいどこが県民の暮らしと関係有るのかと噛みついた市民オンブズマンがいたという。もう阿呆かと。

 いやまあ彼らにとってはどういう行政をしてくれるかというマニュアルを見せてくれることの方が大事な訳で、それに根底ではつながっていても表面では無関係に見えるこうした教養に懐疑が出ても仕方がない。問題はそうしたオンブズマンの声にたいして違いますよと諭すどころか尻馬にのって叩きに回った新聞があったということが驚きで、少なくとも良い大学を出て結構な教養を持っているはずの新聞記者が「コーラン」であり「地中海」を県議会議員が読むことによってどんな効果があるんだろうかと自分の頭で考え、質問をぶつけようとしないでただ無策に「関係ねーじゃん」といった感じに突っ込んでいっては自爆してみせたのが情けないというか、それが今どきの新聞記者の教養なのかもしれないというか。いや現場の若い記者はともかく原稿を観たデスクまでもが議員叩きオッケーとばかりに原稿を通し校閲も異論をはさまず通したところが全国的に蔓延る反知性って奴の現れなのかもしれない。そういう延長に今の場当たりの政治があるんだろうなあ。これはもう日本、ダメかもしれないなあ。とっくにダメだけれど。はあ。

 関塚隆監督のリーグ戦ホーム初登場ってことで行ってみたフクダ電子アリーナのジェフユナイテッド市原・千葉対Vファーレン長崎の試合は何かジェフ千葉がサッカーではなくセパタクローをやっていた。ボールが来てもポンポンと上に放り挙げては頭で繋ぐような展開。それも適当に前に送れば良いって感じだから見方に渡らず相手に渡って反撃を喰らう。どうしてそこで足下におさめつつ周囲を見渡しパスをして走り受け取るようなプレーをしないんだ。つまりは自分は出せばそれで終わりっていた心性が選手の間に未だ蔓延してしまっているからなのかもしれない。プレー中だってパスを出しても選手が走らず中盤がぽっかりと空いてしまって攻撃に厚さがまるで出ていないもんなあ。

 というか中盤がまるで存在しなかった今日のジェフ千葉。兵藤昭弘選手と佐藤健太郎選手は試合中に存在したんだろうかという希薄さ。そしてトップも森本貴幸選手が相手ディフェンスとチェイスをしている一方で大塚翔平選手は出たり戻ったりと落ち着かず森本選手を活かせない。山中亮輔選手は得点こそとったけれどやっぱり機能せずひとり新鋭の井出遥也が頑張ってキープしドリブルしパスをしてもそこから先が繋がらないから攻撃がまるで組み立てられない。せっかくのチャンスも前3人くらいが走っても後ろから誰も追いかけてこないから攻撃が拙速になって好機を作り出せない。天皇杯の時はそうでもなかったんだけれどなあ。長崎はといえばしっかりと選手が走ってボールをつないで簡単にゴール前にまで持っていく。これぞジェフ千葉の理想をやられてしまっている。まあ関塚監督も今回は見極めとして次あたりから中盤に活を入れてくるだろうから今日は負けずに済んだことをひとまず喜ぼう。しかし本当に良い選手だ井出選手。関塚監督の推挙で五輪代表入りとかしないかなあ。


【7月25日】 パッケージを買うお金もなく輸入盤のBDセットなら安いけれどそれにすた手も出せない貧乏が板についた蒲鉾人間になりかかっているんで、半分くらいが無料になっていて、そして残り話数をセットで1000円になっている「ガールズ&パンツァー」をバンダイチャンネルの方で観てなるほど「これが本当のアンツィオ戦です」って意味がようやく分かった。いやおいずっと分からなくって「これが本当のアンツィオ戦」を劇場に3度4度と観に通っていたのかて言われそうだけれど、だいたいの設定さえ知っていればその前後が分からなくってもそれなりに楽しめるもの。そこを機軸にして前後に伸ばして話を掴むっていう楽しみ方も、実はあったりするのだ個人的には。

 そして分かったのは本当にアンツィオ戦ってワンシーンだけだったんだなあってことで。OVAだと戦闘シーンのラストに出てくる戦車が折り重なったようなシーン。そこだけがまずあったとしてよくOVAであそこまで、整合性をとりながらストーリーを作り上げたものだと感心。ちゃんと他の学校たちに負けないくらいの戦闘があって作戦があって逆転もあったりした果ての勝敗決定。加えて新しい戦車が見つかったり新しいチームが加わったりする展開への伏線もそこで濃くしてあったから、後で本編に戻ると余計にストーリーが太くなる。こういう隙間を埋めていくのも大変だけれど面白い作業だっただろうなあ。似たことをだから例えば大洗学園の他のチームでもやって欲しいかなあ、ねこにゃーって本当に出番、少ないもんなあ、美少女なのに。勿体ない。

 あと大洗に行って実物を先に見た肴屋本店にどんな感じに戦車がつっこだのかも確認。行くと分かるけどあの細い道をよくぞ戦車が走ったもものだし、そして突っ込んでも仕方がない。いつかあの街に本当に戦車が走るなり、CGで実写に戦車を重ねて走らせるなりしたらいったいどんなスケール感が出るだろう。アニメだとどこかやっぱりほのぼのしていしまうけれど、実際の世界で戦車が轟々と走るとやっぱり人は緊張してしまうんだろうか。それとも「ガールズ&パンツァー」を観てしまった目にはそれも非日常の常態化めいた感じに映ってふうんと思い流してしまうんだろうか。あと全編を観てOVAの決勝シーンで言葉だけ出てくる「ゆっくりでいいよー」とかいったセリフの意味も了解。苦戦したんだなあ。でも勝った。それを観られなかったアンツィオ高校の悔しさたるや。だからこそ劇場版での今一度の登場を。でもそれは他のチームにも言えるか。みんなまとめてバトルロイヤル? どうなるんだろう。ゆっくり待とう。それまでにはパッケージ、揃えたいなあ頑張って。

 税として支払って当然といった程には特撮映画に思い入れはなくって、どちらかといえばSFとして、あるいはエンターテインメントとして楽しんで来た口なんで、ハリウッド版「ゴジラ」もまあ面白そうな映画がやって来て、それが日本の伝説的な特撮作品を基にしているといったニュアンスで、嬉しさも含みつつ興味がほとんどといった感覚で見に行った口だけれど、そんな程度の薄い期待には存分に応えられていたと思うギャレス・エドワード監督版「ゴジラ」。事前の予告編なんかが人類vsゴジラといった1954年の最初の「ゴジラ」を思わせるものだっただけに、観てなんだ「vsゴジラ」シリーズなんだと分かって拍子抜けしたけれど、リアルタイムで触れていたのがモスラでありキングギドラでありといった「vsゴジラ」だったりするだけに、そんな世代の感性にはむしろマッチしていたって気がしないでもない。

 逆に最初のゴジラを崇め奉る世代にとっては、どう映ったのかがちょっと気になるところ。それこそ核への意識なり戦争への思いなりが、こもっていると捉えられ神聖化された最初の「ゴジラ」が評価軸の中心にあったりすると、結果として怪獣プロレスとなっていく展開はやっぱり違う、これじゃないと思いながら、それでも怪獣映画を作り続けてくれているんだという喜びも混じった、複雑な心境をまたしても味わった、ってことになるのかも。あるいはもうちょっと世代が下がって「vsゴジラ」シリーズをずっと見続けながら大人になって、子供だましみたいなドラマが気にかかっていた世代には、シリアスな人間ドラマを“復活”させてくれたものとして受け入れられるのかもしれない。

 世代によってそれぞれのゴジラ観って奴がある。そのどれにも当てはまりつつズレてもいて、だいたいの許容範囲に収まるという絶妙の案配。それをハリウッドに作られてしまったことが悔しいけれど、何にも縛られないハリウッドだからこそ作れたってことでもあるんだろう。これでしっかりと核の怖さめいたものを描いているし、理不尽な暴威に対して為す術のない人間といったものも描いている。引き裂かれる家族の悔しさは人間の側だけでなく、怪獣の側にもあってそれを見せることでありとあらゆる命ある存在への慈しみが醸し出される。

 さらに地球というひとつの生命圏を維持することの大切さ、そのバランスが崩れた解きに起こる脅威への想像力なんてものも感じさせてくれる。観れば何かが受け取れる映画。そしてやっぱり圧倒的な迫力で巨大な存在が暴れ回って何が起こるかを見せてくれる映画。60年前の最新技術も凄かったけどやっぱり現代の技術は凄い。ここから僕たちは30年後、60年後にどんな「ゴジラ」を作れば良いのかを、考えてみるのも良いんじゃないのかなあ。まあその前に続編って話もあるけれど。きっとこうなるだろう。補佐官「大統領、でかいのが現れました」大統領「博士、どうしたら良いでしょう」博士「ほっときましょう、あれがやってくれますから」大統領「そうだよね、そういうものだしね」 パクッ 博士「やってくれました」大統領「めでたしめでたしさ」。他に考えられないんだけれど。

 ああやっぱりゴジラがステージ上にいた山下達郎さんの「マニアックツアー」ってのパルテノン多摩を皮切りにスタートするってんでその初日を見物。事前に普段はやらない曲ばかりだから来る人は覚悟が必要なんて言われていたけど達郎さんの楽曲のほとんどを聞きこんでいて耳に強く張り付けている人間にとってはテレビのタイアップでよく流れてようがそうでなかろうがすべてが自分の心へのヒット曲。だからイントロが流れるなり歌が始まればああこれは知ってるそれも知ってるぜんぶ知ってるって思えるから何も恐れることはない。普通に達郎さんのライブのセットリストパターンBだと思って聴けば良いんじゃなかろうか。そうでない人も例えばライブアルバムの「イッツァポッピンタイム」だって見知った曲なんてほとんどないのに聴いて楽しめる訳で、らそれがテクニックがあり歌が巧いバンドの凄さ。気にせず行って耳にしてやっぱり達郎さんは良いなあと思えばそれが吉ってことで。次はNHKホール。気合い入れていくぞ。クラッカーはどうするか。


【7月24日】 暑いよう。あまりに暑いので寝られないので布団に寝転がりながら羊太郎さんによるファンタジア大賞の大賞受賞作という「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」(ファンタジア文庫)を読んだらなかなか面白かったよ流石は大賞。出だしこそ引きこもりをやっている青年がいて偉そうな魔女だか魔法使いだかに養われているんだけれど、それでは拙いということで外に出て職に就くことになるといった感じでちょっと前に出た古宮九時さん「監獄学校にて門番を」(電撃文庫)に重なるところがあるけれど、設定にとてつもない仕掛けがあった「監獄学校」と比べれば、「ロクでなし魔術講師」は割とあって不思議はない展開で、過去に秘密があっていろいろあった関係で引きこもってヒモやっていた青年が、ひとつの事件とそれから出会いを通して立ち直っていく、といったストーリーが繰り広げられる。

 青年ことグレン=レーダスがヒモ生活から抜け出して赴いた先はアルザーノ帝国魔術院というところ。何でも教員が1人行方不明になってしまったとかで、欠員を補充するべくグレンが非常勤講師として魔法についての授業を受け持つことになったらしい。とはえい当人にやる気はまったくなくって、教科書を読むだけだったりするならまだしもそれすら面倒になって教科書を黒板に釘で打ち付けさあ自習とやったから、真面目で成る生徒のシスティーナ=フィーベルはたまらない。怒って糾弾するものの当人はのれんに腕押し糠に釘、システィーナとの勝負に負けてもなお改めなかったけれどもそれが突然変化する。ただ真面目になったのみならず、魔法についての根元に迫るような授業が生徒だけでなく講師たちにも受けてその授業にいっぱい人が集まるようになる。

 なるほど魔法の使い方はおぼつかない。呪文を魔法が得意な人なら1言で発動させるところをグレンは3節使って詠唱しなくては発動しなかったりする。それは現在では一流とは認められておらずそれが原因で生徒たちからも見下されていたけれど、そもそもどうして魔法が発動するのかという解説と、それを応用することによってどれだけの強い魔法が発動させられるようになるかについては、グレン以上の知識を持っているものは学校にいなかった。いったい彼は何者だ。そこに実は秘密があって、そして魔法が大嫌いになってセリカという希代の魔術師のところで穀潰しを続ける理由になっていた。その秘密が学園に族が侵入して生徒たちが襲われたところで発動する。

 なるほど格好いいけれど、圧倒的に強いというよりは自分の得意分野を活かしつつ、生徒たちの信頼も得て敵を倒していくところが読んでいてとっても気持ち良い。それから魔術についてどうすれば発動するか、それがどう変化するかといったところの設定をしっかり作り込んであるから、相手がそうきたらこうかわすとかいったパズルを解いていくような楽しみを戦いの場面で味わえる。魔法をうち消す魔法があってもそれが万能ではないといった具合。

 そんな困難を知恵で乗り越えていくような戦いぶりが読む人の目をバトルシーンに引きつける。殴った蹴っただけじゃあビジュアルで見た方が楽しいもんなあ。読む小説だからこそのバトルの仕掛け。そこの工夫がこの作品をして大賞へと至らしめたんだろう。とりあえず居場所を得て立ち直りも見られたグレンだけれど、うごめく陰謀がまだありそう。女王も絡んで動き出した世界にグレンはど戻り何をする? 自分が出来ることより自分がしなければならないことのために再起したグレンの活躍に期待したい。

 気が付いたらサッカーの日本代表監督にメキシコ人のアギーレが決まっていたようで、いったい日本代表がどうしてワールドカップのブラジル大会でグループリーグ敗退という結果となったのかを分析もせず、その原因も洗い出さないうちに次の監督を決めて過去をなかったものにしようとするスタンスが、相変わらず続いているようでこれは先にも期待が出来そうもないって思い。もちろんアギーレ自身の実績には確かなものがあるし、その力量が存分に発揮されれば日本代表だって強くなっていくだろう。問題はそういう環境に置かれるのかどうかという点。あのザッケローニだって本来の自分が得意とした3バックを封印され、堅守からの速攻といったイタリア人らしいサッカーもやらしてもらえず前線で溜めて跳ね返されるサッカーに堕ちてしまった。

 だったらと勝利のためにパワープレーをやったら日本に合わないと協会の偉いさんから言われ選手たちからも言われる始末。やってらんねえって思ったからこそ、日本での会見もしないでさっさとイタリアに帰ってしまったのかもしれない。だからアギーレが来たからといって彼がスタッフをすべて身内で固めたからといって、選手が動かなければそのやりたいサッカーはできはしない。やれる選手を集めれば良いっていうけれど、そこについては日本のサッカー界も強烈なプレッシャーをかけていくだろうなあ、だって金蔓だから、とある選手とかいったあたりは。

 そうした選手を使えないって外せばやっぱり受けるプレッシャーを跳ね返せるだけの権限があるのか、あるいは寛容さを持っているのか。代理人が間に入って調整したからにはそのあたりも契約にしっかり言質を取っているかもしれないけれど、いざとなったら平気で解任だってするだろう。そうしないと自分たちの首が危ないと分かったらサッカー協会の偉いさんはきっとやる。その果てに来る前と変わらない体たらく。4年後に見せる代表の姿が今から見えるのってどうにもこうにも虚しいなあ。だからアギーレには自分を曲げず横暴なまでに指揮を執って欲しい。それをメディアも応援してやって欲しいけど……できないか、御用メディアばかりのこの国では。

 毎度毎度の顔見せというか今回は舞台挨拶に登場しなかったらこれ絡みでは初というか、「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第三章」の公開に関連しての押井守総監督によるトークイベント「マモルの部屋」が開かれたんで新宿ピカデリーへ。今回のゲストは「踊る大捜査線」で日本映画史上に残る数字をうち立てた本広克行監督が登壇したけどまず驚いたのは本広さん、今は今プロダクションI.G.所属なんだとか。企画部。実写映画では押しも押されぬ監督がどうしてとは思ったけれど話を聞いていて納得。押井守さんが大好き過ぎたんだ。もとより「踊る大捜査線」の頃から「機動警察パトレイバー」の影響を指摘されてはいたけれど、改めて聴くと本当に大好きで、もしも実写版の第2期があるなら自分が全部撮る、なあにテレビドラマで鍛えたフットワークがあるし予算だって抑えるからと会場のどこかにいるらしいプロデューサーに懇願してた。好きなんだなあ。

 受けて押井さん的には「踊る大捜査線」は深津絵里さんを見たいがために観ていたというから深津さんを連れて来られればといった話をしていた。もちろん本広さんは個人的に乗り気。あとは深津さんの意向とそしてプロデューサーの判断ってことになるんだろうけれど、それにはやっぱり第1期が売れないとなあ。ちなみに本広さんは2001年頃だっけ、スチル写真で踏切の向こうにパトレイバーが立ってる絵なんかが動いていた時期だと思うけれど、そんな頃に持ち上がったパトレイバーの実写化で監督に名前が挙がっていたんだとか。でもポシャったからこその今がある。だったらどうしてと当人も思うだろうし、実は思いつきはしたそうだけれど、若手で行くという方針が出たことと、あとは好き過ぎない人がどう撮るるかに興味もあって見送ったとか。

 それはそれとして面白い作品がこうして並んで来た訳だけれど、逆に心底から好き過ぎる人が実写で撮ったらという興味もやっぱり生まれてくる。だかこそ本広さんによる実写版も観てみたい。ちなみに本広さんが最初に触れた押井守作品が「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」っていうからピーキー過ぎ。TVシリーズがあって「オンリーユー」とかもあったからこそ見えるシュールやメタの際立ちっぷりを、いきなり当てられそれで普通は戸惑うんだけれど、好きになってしまんだから本広克行さん、感性が半端ない。まあ1番好きな押井守作品が「天使の卵」っていうんだからそれも当然か。あの意味不明な睡眠誘導映画のどこに何を見いだしたのか。いつか聞いてみたい。それにはこっちが見直さないといけないんだけれどLDしか持ってないんだよなあ。BD出ないかな。

 そんな押井守さん大好きな本広克行さんだからこそ、気にかかる実写版のオシイズムから外れているとう部分。例えばは整備班に女子がいるのは違うみたい。オシイズムでいくなら男子校的な世界でそこに少数の女子、それも可憐なのと強靭なのがいて目立つんだといった持論だけれど、時代は変わり押井さんも変わった。今は男子にバリエーションをつけるのが難しくなった反面、女子ではさまざまなパターンを描けるようになっている。そんな時代を感じて変わっているんだけれど、昔ながらのファンは変化に追いつけないという。でもそういう頑固さもあってこそ受け継がれるオシイズム。とことんまで突き詰めてやって欲しい。意味不明なカットの挿入とか。

 つまりは大怪獣前編での生物学者のラーメンシーンね。あれ何か伏線なのとかと本広克行さんも気になってたし、僕も気になった。まるまるいらないよね。でもあると落ち着くんだ僕は。見ていると見入ってしまうんだ。何かあるかもって。本広克行さんもそうなのかな。そんな本広さんが作る次が気になる パトレイバーみたいなのを作るんだブレイドランナーをやるんだといって「サイコパス」になってしまった経緯を踏まえつつ、変えつつパトレイバーみたいなのを今度こそという本広克行さんだけに果たして何が出来るのか。気になるなあ。

 あとは押井守さんのギャグへのスタンスも聞けて面白かった「マモルの部屋」。ギャグ専用要員は嫌いなんだって。実写版パトレイバーだと大田原がモロそうじゃんって思われているのは承知しているようだけれど、本当はもっと深くて酔っ払っているだけの親父ではないようにしたかったとか。コンビニテロ編でカーシャが出るとレイバーが動かせなくなると止めたあたり、確かに職務への実直さは見えたもんなあ。でもやっぱりブチ切れ暴れ役に見えてしまう。これから話が進んでいく中で変わっていくのかな。その辺りに注目。あとギャグで言うなら 真面目にやっているんだけれど妙でおかしい、シチュエーションがおかしいというのが好きらしい押井守さん。市長を前にしたプレゼンでのカーシャなんてまさにそんな感じだった。バカだったもんなあ。

 それを言うなら後藤田隊長役の筧利夫さん自身が全身そういう役者だもんなあ。真剣にやっているのに妙。良い配役だよ。さてもアニメをいっぱい見て実写に行った本広克行さんは、ドラマを作っている周囲にアニメ見ている人とかいないんで、ひとり押井守監督の演出を実写に取り入れドラマ界隈では誰も見たことのない映像を作って評判になった。当人としては何で? って思いもあっただろうけれどラッキーって感じてもいたんだろうなあ。そんなアニメから受けた恩恵を今、アニメ界に所属することで返そうとしているのだとしたら律儀な人。でもあまりにオシイズムが過ぎると今度はプロダクションI.G.が押井税を支払うことになってしまうから要注意。誰にも分かってそれでいてピーキーな作品を作ってくださいナイ。他には誰のどんなアニメを見て学んだんだろう本広さん。そこがちょっと気になった。今敏さんはずっと後だしなあ。誰か聞いて差し上げてくださいませ。


【7月23日】 最終日ってことで吉祥寺のリベストギャラリー創の「30T」をのぞいたら江口寿史さんらしい人がサインをTシャツにしていてそれを求める人の行列が店内をぐるりと巡っていて、なかなかゆっくりと眺めて回る感じでもなかったんで早々に退散。幾つか欲しそうなものもあったけれど去年一昨年そのさらに前の年と買って着てないシャツも幾つかあるんで無理はしないことにした。あとはやっぱりなあ、どこか漫画家さんによる作品が多くて着てスターリーッシュ! って感じにはならないんだよなあ、もっさりとサブカルしている感じも悪くはないけどそれは他にいっぱいあるから今は遠慮、ってことで来年はもうないらしい「30T」は今日で打ち止め。結局何枚買ったっけ、面白い試みではあった。またいつか復活すると良いな。その時はまた買いに行こう。

 ウルトラマンだウルトラマンだウルトラマンが出てくるってんで朝から上野の松坂屋へと出向いて「ウルトラマンで科学する!」ってイベントのオープニングを見物に行ったらウルトラマンが立っていた。あとバルタン星人がミイラになっていた。レントゲンの台みたいな上に転がされていてその横を何かモニターが通るとバルタンの中身が透けて見えるといった展示物。とはいえバルタン筋肉とかバルタン胃とかバルタン心臓とかいったものが見えるかというとそれはなく、普通に血管みたいなものとか骨格みたいなものが見えた感じ。これが大伴昌司さんのイラストだったらもっと夢のある中身にしたかもしれないなあ。

 そんな大伴さんのイラストが元になったクリアファイルなんかも売っていたりするからお土産には是非にお買い求めを。「日本SF展」でも大伴さんが描いたサンダーバードのメカ設定なんかの構想図が展示されていたけれど、やっぱり決して巧いって感じじゃなくむしろ子供の描いた「ぼくのかんがえたかいじゅうとひーろー」といった感じ。でもそれがとことんまで突き詰められているのが大伴さんの凄いところで、子供の情熱を抱えたまま大人になった人だからこそ、徹底した熟考がそこにあってそれが子供の本気を誘って大人気になったんだろう。今まだ存命ならどんなアイディアを世の様々なものに盛り込んでくれただろうか。返す返すも早世が惜しまれる。

 さて「ウルトラマンで科学する!」の展示は、文字通りにウルトラマンで科学するといった感じで例えばウルトラマンがやって来たというM78星雲の「M」とは何かとか(メシエって人の名前だよね)、怪獣によく似た動物はいるか(ベスターはヒトデだとか)って感じのパネル展示があって、ウルトラマンをきっかけにして、宇宙とか生物とか鉱物とかについて学べるようになっている。子供が夏の課題をするために遊びに行くのに都合がよさそうなイベント。でも行けば必ずお土産をいっぱい買わされるだろうから親子連れでいくのは危険かも。キネクトを使ってアイスラッガーを投げるとエレキングをまっぷたつにできるようなアトラクションめいた出し物もあって子供はそっちが楽しいかも。決してたっぷりではないけれど、それなりに楽しめるイベント。8月3日まで。

 「魔法科高校の劣等生」の佐島勤さんがシリーズ以外のものを書いたけどそれが「魔法科」以上に濃い設定のSFアクションで相当好きなんだなあというか遅れてきたジュブナイルを自称するだけのことはあるなあと感嘆。世界が混乱を来して後に人類は発電ユニットを持ったポリスと呼ばれる都市部に固まり暮らすようになる一方で都市部からあぶれた人たちもオートンという共同体を作りエネルギー源を確保しながら細々と暮らしていたけれど、それでもやっぱり起こる争いはポリスからオートンのエネルギー源を奪取しようとする企みとなって小田原オートンに迫る。

 手をこまねいていた訳ではなくって小田原オートンでは一種のサイキック能力を使ってそれが1番効率よく稼働するという人型ロボットのタイタニック・ドウルを操縦して戦う少年とその姉を含めた防衛組織がポリスのドウルに立ち向かう。そんな地上での戦いからはいjまった「ドウルマスターズ1」(電撃文庫)は戦いの中で横浜ポリスから派遣されて来たエースのドウルマスターを相手に互角以上の戦いぶりを見せた早乙女蒼生って少年に、争いが続く世界に介入して仲裁して平定するドウルを扱う太陽系連盟のドウルマスター組織「ソフィア」が声をかけて小田原オートンをこれからも太陽系連盟が守るという条件と引き替えに宇宙へと連れだし「ソフィア」へと引っぱる。

 蒼生の姉もいっしょにくっついて「ソフィア」がある衛星に、反太陽系連盟の組織が差し向けた一種のテロリストたちが襲撃をかけ、その撃退に宇宙へと出たばかりの蒼生の姉たちにも声がかかる。とはいえ始めての宇宙で活躍できない姉を見ていてもたってもいられなくなった蒼生に与えられた異色の巨大ドウルが敵を撃破。そして宇宙の学校に落ち着いた蒼生は「ソフィア」のエースで美少女の玲音や、横浜ポリスから反太陽系連盟に身を移しそこから「ソフィア」への潜入を試みた如月龍一も交えた学園ドタバタが始まるように見えるけれども呉越同舟の中から密かにテロに走る龍一と、蒼生とが拳を交えながら戦いを繰り広げていく過程で、生きるにシビアな世界の描写が進みその向かう先ってやつが示されてくるんだろう。過酷すぎる世界に平穏は訪れるのか。マッドサイエンティストどうしの開発競争ともども興味を持って続きを見ていこう。


  【7月22日】 ボックスオフィスの興行収入調査で「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のワールドワイドの興行収入が製作費となった1億7800万ドルの倍となる3億5600万ドルをどうにか超えた様子。本国での興行収入はまだ1億ドルには届いていないけれど、それでも9600万ドルあたりまで来ているから残る上映期間がどれだけあるかは分からないけれど、地味に秋口くらいまで上映が続けばどうにかこうにか1億ドルにも乗ってくれるんじゃなかろうか。とりあえず製作費の倍くらいがペイできるラインとして続編の制作なんかも決まってくる。日本なんかの反響も乗せてどこまで延ばせるか、ってあたりが判断基準となると思いつつもう1度くらい見に行ければ行きたいもの。今度は吹き替えが良いかな。

 何か「スペースインベーダー」がハリウッドで映画化されるといった話があるそうで、あの単なるシューティングゲームのそれもスピード感も立体感もなにもない単純なゲームを、どうやって映像にするかって考えてもまるで分からない。いっそだったら主演「オール・ユー・ニード・イズ・キル」で弱腰中年男を見事に演じたトム・クルーズにして、彼をくたびれた中年の元ゲーマーにして今はサラリーマンとかしていて何の気なしに入った場末のゲームセンターで、昔遊んだインベーダーゲームを見て懐かしくなってコインを入れてみたもののたったの1面すらクリアできず自分の衰えを激しく痛感して悲観する。

 けれどもそこに現れた昔ゲーセンで知り合ってちょっとだけつきあっていた彼女が昔と同じような姿で現れトムに奮起を促しトムは受けて毎日のように100円玉握りしめてゲーセンへと通い1面2面とクリアできるようになっていく、そんな復活に合わせて仕事の方も家庭の方もうまく行き始めてそしてクライマックス、インベーダーゲームの最終面をクリアし笑顔でガッツポーズしたトムの目の前で崩壊したゲームの筐体の裏側に、自分を導いてくれた少女と自分の名前を書いた相合い傘が見つかり涙して終わるといった、そんな映画だったらあるいは見に行くかもしれない。いかないかもしれない。どっちやねん。まあそんな映画じゃないとなかなか映像にはしづらいよなあ。どうするんだろ。

 参加する側でしかない人間にとっての日本SF大会は、2日間で都市型であっても2万円とか2万5000円といったちょっとした旅行に行けそうな値段になって割高感があったりもするけれど、考えてみれば大森望さんがゲンロンカフェなんかで行うトークイベントは参加費が当日だと3100円くらいして飲食もすればもうちょっと高くなるし、堺三保さんと池澤春菜さんが毎月やっているライブワイヤーでのトークイベントも当日だと2000円くらいしてそれにドリンクチャージが1000円くらい必要になる。懇親会に出ればさらに倍増し。そんな単価のトークイベントを仮に8回聴いたとしたら、2万円から2万5000円くらい軽くとんでいってしまうだろう。

 そしてSF大会は2日間でだいたい8コマくらいの企画が聴けてそれに加えてディーラーズルームをのぞいたりホールでのライブペインティングを眺めたりアートショウのオークションに参加したりと他の楽しみもついてくる。有名人とだっていろいろとすれ違えて頼めばサインだってもらえるかもしれない、そんな機会だと考えるなら案外に高い物ではないような気もしない。ただ見たい企画が1つ2つといった辺りだとちょっと出せないなあと思うところもあったりするから、主催の人には頑張って企画の充実を図ってもらいたいところだけれど実はSF大会、そうした主催者が何かを推進するといった仕組みではなく、参加者自身が何か企画することになっているところにただの参加者ではなく、企画者としても参加する人たちの悩みがありそう。

 目一杯に参加費を払って参加したのはいいものの、あちらの企画こちらの企画と呼ばれてろくすっぽ大会を回れないまま2日間が過ぎてしまって、それで同じ金額を支払わされてはちょっとたまらなと思うだろう。ゲンロンカフェでもライブワイヤーでも企画の側に登壇すれば出演料がもらえたりするのかどうなのか、聴いたわけじゃないけどすくなくとも出費はないし、自著なりの宣伝だって行える。ロフトプラスワンなら飲み代は観客の支払った入場料なり注文した金額から払われるからやっぱり持ち出しは不要。それがSF大会では同じだけ払ってなおかつ何も聴けないという状況に陥らないとも限らない。そこが残念に思っている企画側の人もいたりするんだろう。

 それも含めてSF大会なんだと割り切り、あちら側に立てるのもひとつの栄誉でありそこから何かの仕事につながれば良いと思うのもひとつの手。ただそうではなく、星雲賞のようにそこで授賞式が行われるから呼ばれて来たけど参加費とか払わされてはかなわない、という理屈は成り立つ。さすがにそうした理不尽を求める主催ではなかったようだけれど、だったら同伴者はどうなのかってところにマージナルな問題も起こってたりするのが昨今といったところなのかな。星雲賞の授賞式には同伴できても受賞をどこか記念するような企画があったらそれを聴くのには当人はともかく同伴者は参加費を、てなるとやっぱりちょっと痛いだろう。

 そのあたりの融通はどうなっているのか、どこまでを範囲とするのか等々、これからも議論されながら進んでいくことになるのかな、まあどっちにしたって向こう側に立つ機会はなさそうなんで、費用と内容を見合いながら参加したいと思えば行くことにしよう。来年は鳥取県の米子だからちょっと行けそうもないけれど。聴くと都市型でやるんでホテルとかも別に抑えなきゃ行けないし、交通費だって往復で5万円は飛んでいく。無理だなあ。その次は伊勢志摩か。これもやっぱり遠いなあ、っていうか伊勢志摩のどこなんだ、鳥羽か志摩か賢島か。伊勢ってことはないだろうけど。

 悪徳と喧噪の渦巻く街で異能をもったヒーローヒロインが大暴れ、って展開だと漫画なら「血界戦線」なんかが最近人気だし、アニメーションならやっぱり「TIGER&BUNNY」なんかが頭に浮かぶ。「タイバニ」に関してはそこにヒーローたちのショービジネス化なんてテーマも絡んで、絢爛とした雰囲気の中にその活躍と、立場にたいする葛藤なんかを描き出してくれていたっけ。それに比べれば伊崎喬助さんって人が書いた「スチームヘヴン・フリークス」(ガガガ文庫)はどちらかといえば「血界戦線」寄りでなおかつ主人公たちはあそこまでの正義っぷりも見せてくれない。そういう正義を掲げたヒロインチームもいたりするけれど、主人公は何でも屋として頼まれれば悪事に近いことだって働くニコラスとザジの2人組。ニコラスは奇術師の異名をとるように武器を操り取り出し繰り出して敵を翻弄、そしてザジは全身を金属の鎧で包んだ巨体でもってパワフルに敵を撃退する。

 とはいえ正義の<トライデント>は、ニコラスたちが何かしているのを見とがめ割って入ろうとするけれど、一方でニコラスとザジも自身がミスティックと呼ばれる異能持ちになったきっかけに関わる問題だけに譲れない。悪党ではなくどちらかといえば正義の味方どうして争ったりもした果てに、浮かび上がってくる、秘密結社の残党たちによる悪の企み。果たしてニコラスは防げるか。そしてザジの真の姿とは。群像劇とまではいかないけれども群雄割拠な様子で、様々な登場人物たちの動きを描いて絡ませつつ、ひとつの物語を浮かび上がらせていく手法が見事。そして、キャラクターに魅力を持たせその生い立ちに謎を持たせてすべてが明らかにされる未来への興味を誘う展開も巧い。バトルシーンの迫力もたっぷりなスチームパンクなアクションエンターテインメント。続いて欲しいけれどどうだろう。願うなら映像化だって期待しちゃうけど。


【7月21日】 なんか淡々と進むというか展開がゆったりしているというか。アニメーション版「魔法科高校の劣等生」は九校戦の新人戦で第一高校が第三高校とモノリスコードで対戦して、第一高校の司波達也がついに再生の魔法を発動。ほとんど完全に自分が達也を傷つけてしまった、もしかしたら死なせてしまったかもと立ちすくんだ一条将輝ことクリムゾン・プリンスの隙をつくように、復活した達也が耳元で指ぱっちんで相手を鎮め、そして向こう側ではカーディナル・ジョージこと吉祥寺真紅郎が西条レオンハルトに倒され第一高校が勝利して、それで1話が終わりという実に贅沢な作りになっていた。

 戦闘シーンはスピーディーだったけれど同じようなことを繰り返してやっている割にはそれが何なのか分からず説明もなく、そして前後に入る会話も特に切り捨てたって展開に影響しないんだけれど、しっかりと拾ってあって何だから無理に時間を埋めているような感じすらする。小説で読めばどんな展開にも説明があってそれがどういう意味を持っているのかもしっかり分かるんだけれど、それを絵で説明しようとすると誰か解説役が必要となって流れに無理が出る。かといって描かなければなおのこと何が行われたのか分からなくなるから難しい。

 あとやっぱり2クールって尺の中にどこまで描くかが決まっているところから逆算すると、この回にこれだけの時間を費やさないと余ってしまうって判断もあるのかも。もし、これだけの余裕が「境界線上のホライゾン」にあったら、第2期の英国編お呼び三征西斑牙編もきっとじっくり描けただろうなあ、座っている本多・二代をガン見する英国学生に見えているのは下腹部だとぶっちゃけ相手を沈み込ませる展開とかも。まあそれを振り返ったところで仕方がない、元の小説の売れ行きがアニメの期間も決めているんだとしたらやっぱり「ホライゾン」はマニアック過ぎるから。でもやっぱり第3期の映像化は欲しいなあ。2クールでじっくりと。無理かなあ。

降りていきなりこれだもの  何か天気も良かったんで、昨日の日本SF大会でもプレゼンテーションがあったばかりの茨城県は大洗町にでも行こうと午前7時前に家を出て、東武アーバンパークライン線でもって柏に行ってそこから常磐線に乗り水戸まで行って鹿島臨海鉄道大洗線に乗り換えたら午前9時25分に現地についた。だいたい2時間半。意外と近かった。乗り換えに余裕を見ても3時間くらいで行ける距離ならもっと早くにいっておけば良かったと思ったけれど、何しろ「ガールズ&パンツァー」の放送が入らないデジアナ変換のテレビなんで内容を知らず行こうというモチベーションもなかなかここまで涌いてこなかった。でもOVAの「これが本当のアンツィオ線」を見てだいたいの展開を知って面白さに気づくと、これを好きなファンがどれくら集まり現地がどれくらいの盛り上がりを見せているか気になって来るもの。だからやっぱり見ておこうかと腰を上げて向かったという次第。

 到着した大洗駅は「ガルパン」の立て看板も出ていて待合室にはグッズも並んでいて、そこは御輿が何の飾りも無しに置いてある東武鷲宮駅とはちょっと違った賑やかさ華やかさ。そして駅前にはいきなりラッピングバスも止まっていた辺りに、町が「ガルパン」をそれなりに守り立てているって雰囲気が伺えた。でもって歩き出すと、点在する店ごとにのぼりを立てたりポスターを貼ったりといった感じに、それぞれの店で取り組んでいるという感じ。ある店では戦車の模型を飾り別の店では割烹旅館の入り口にキャラクターのPOPを立て戦車の看板なんかも飾って自分たちがそれに関わっているんだということを示す。立ち寄る人にも親切に受け答えをして不審がらないところは、「らき☆すた」でもって賑わっている埼玉県の鷲宮町(現久喜市)にある店々とも共通していて、それの規模がより大きくなったって感じがあった。

 ただ、ありもののキャラクターグッズを並べるだけじゃなく、それぞれの店が自分たちのオリジナル商品を企画するなりして話を持ちかけ実現し、取り扱っているというのも「らき☆すた」と共通。あちらは鷲宮町商工会が頑張って店を周り話を持ちかけ仲介もしていたけれど、大洗の場合ってどうなっているんだろう。ともあれそれを受ける側に認める度量がなくては成り立たないのがこうしたキャラクター商品で、「らき☆すた」の場合も権利元が現地の頑張りを認識して版権を下ろしていたりしたけど大洗の場合はそうした前例なんかも踏まえつつ、町がキャラクターをいつまでも愛してくれるような展開を、しっかり考えて実行しているからこそオリジナリティあふれる商品が並び、それをバイタリティあふれる町の人たちが売って、ファンもそれに応えるといった関係性が出来上がって、今の“聖地巡礼”を成り立たせ継続させ、なお一層盛り上げているんだろう。

 なんてことを考えながらとりあえず肴屋本店前まで行って、こりゃあ戦車も突っ込むカーブだと了解しそのまま歩いた先にある山戸呉服店でアンチョビ姐さんのポップを眺めつつアンツィオ高校の校章入りタオルなんかを購入。もちろんここん家のオリジナルだそうで化粧箱にも入ってご進物にもどうぞな感じだったけれど明けてアンツィオ高校って何だって思われるかな普通だと。OVAが出る前だとほとんど出番も少なかったアンチョビ姐さんがここに来てメインキャラクターの地位にまで上り詰めて店としてはあるいは大喜びかも。

 そのまま歩いてマリンタワーまで行ってのぼって見下ろしたらさんふらわあが泊まっていた。フェリーと言えばさんふらわあ。太陽マークのさんふらわあ。昔は名古屋港からも出ていたけれど実物を見たことはあったっけ、それが間近に見られるって意味でも大洗は凄い場所なのかもしれない。隣にあるショッピングモールにも市場があってそこにも「ガルパン」グッズがいっぱい。でも東京でも買えそうなものだったんで見た目だけ似せているけれどヒレがあるあんこう型のあんパンを買って食べたらあんこがなかなか美味だった。これこそ東京でも売って欲しいかも。そして歩いて駅まで戻る途中の梅原屋さんでこれもここだけというチームのマークが背中にいっぱい入ったロングTシャツを購入する。

 着心地の良さそうなバレーボール部復活のポロシャツにも興味があったけれど、とりあえずそこまでの間に結構お金使いすぎだったんで今回は自重。また行ったら今度こそ買おう。そこから近所のみむら時計店でゲーム部員が描かれた眼鏡拭きを買ったけれど、ここん家のPOPは風紀委員の誰かだったから店でもそっちを推してた。やっぱり買うべきだったかなあ。まあそれも今度の機会と思わせるところに、リピーターが生まれ繁栄も生まれるもの。まずは欲しいと思わせる品を用意し、そこにしかないと感じさせることによってまた来たい、そして今度こそ買いたいと思わせる。一過性で終わらず一回性で終わらせないための努力の大切さって奴を教えられた“聖地巡礼”だったってことで。

 回ればまだまだ回れたけれどもそれもいずれまた来る機会にとっておくことにして、駅まで戻り記念乗車券を買ってから鹿島臨海鉄道に乗って水戸まで戻り常磐線でがたごとと柏まで行き船橋へとついたのが午後3時。家を出てから8時間の間で結構な密度を過ごせたと思うと大洗、これはこれで楽しいかも。これが例えば安房鴨川だったらどれだけの濃さを感じられただろうかと、思うとやっぱり鴨川の“聖地化”には何か行き違いがあったんだろうかと思わないでもいられない。いや現地に行けばこれはこれで何か楽しめるものが今なおあるのかもしれないけれど、そうした情報の密度がやっぱり薄くなってしまっているんだよなあ、それこそ鷲宮にも届かないくらい。勿体ないというか残念というか。ただ作品が終わったからといって諦める必要がないのは「らき☆すた」が証明している訳で、もしも本当にそれを糧にしたいというなら今度は町なり地元なりが、権利者に頼らず自ら立ち上がって盛り上げたいという意欲を見せることが重要なんじゃなかろうか。そんな動きがあるなら今度は鴨川にも足を運ぶつもり。千葉県民としてやっぱり盛り上げたいじゃないか鴨川を。うん。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る