縮刷版2014年6月上旬号


【6月10日】 やっと見たテレビアニメ「魔法科高校の劣等生」の最新話はお風呂シーンで深雪が結構な大きさだと分かったけどでも、どうして湯船に漬かると全員が何か浴衣みたいなものを着ていたのかが分からない。そういう風習がある世界観なのだろうか。男もやっぱり何か浴衣みたいものをまとて湯船に漬かっているんだろうか。電波ではないパッケージの映像になるとそんな浴衣みたいなものが脱げているんだろうか。謎めく。かといってパッケージを買う懐はなし。報告を待ちたい。まあ着ていたら着ていたで中身を想像する楽しみがあるんだけれど。

 そして展開では冒頭のバス襲撃でも司波達也がこっそり何かを発動させてピンチを救い、そして終わりがけに九校戦の宿舎を襲った何者かを追っていた幹比古がミスをしたのを達也がカバーして見せていた。最強はどこまでも最強。そんな超人の存在が展開をつまらなくさせることもフィクションではままあるけれど、達也は超人であることを強いられ、それに憤ることすら奪われている身上の悲劇性が辟易とさせず同情とも違う関心を見る人に与えて引きつける、って感じかな。ともあれ次はいよいよ九校戦本番。字で読んでもピンと来なかった競技がどんなかをじっくり確認しつつ、滅多にないアクションを楽しもう。

 やっと見たテレビ紙芝居「幕末維新ダイ☆ショーグン」は夜叉神とスサノオによるロボットバトルが割とあってあんまり紙芝居でもなかったし、女湯のシーンとかも霧子と法光院との絡みがいっぱいあって止まっていたって目には毒なナイスバディがてんこ盛りだったんで気にならなかった。ってか法光院なんか久しぶりの登場のような。その艶めかしくも享楽的な声は聞くだけでゾクゾクとさせられるけど中の人もご結婚されて現実世界でもゾクゾクとさせているんだろうか、そっちは違う声になるんだろうかぷちことか。

 っていうかデビューした頃は中学生だったのがいつの間にそんなに大きくなったんだって驚きがあり、そんな成長を演技を通してずっと見ていた自分もなるほど歳を取るはずだという理解があって流れる時の早さをあらためて感じ入る。人がスターになっていった間、自分はいったい何をしていたんだろう。振り返れば情けなさも浮かぶけれどもまあ良い、人生まだまだ先はあるのでどうにか凌いで生きていこう。そして15年後にやっぱり思うんだ、俺、何やってたんだろうって。それも人生。

 これはすぐに見た「弱虫ペダル」はプリント勝負になって抜け出した箱根学園の新開隼人に追いすがり抜き返した御堂筋が新開の弱点をなぜか知っててウサギを轢いたトラウマがあって左からは抜けないだろうと誘っていたらあっさりとトラウマを克服して箱根の直線鬼を復活させて抜き去っていったという、そんな話。なんだそんなに簡単に克服できるんだったら悩む必要なんてなかったじゃんとか思わないでもないけれど、相手が挑発に長けた御堂筋だったからこそ後悔だの慚愧だのといった感情をぶち抜いて怒りと憤りが勝り鬼を復活させてしまったのかも。その意味では良い奴かもなあ御堂筋、かませ犬としては。

 でもそこはやっぱり主要キャラだけあって何かまだまだ秘密を隠している様子。太股を縛っていたテープを引きちぎってスプリントをかけ始めたけどさらにまだ秘密を隠しているのか。それはいったい何なのか。漫画読めば分かるけれども読まずにアニメで見続ける。とはいえ6月いっぱいで第1期は終わりだからインターハイ終了まで行ってその後は、しばらく休みをおいての第2期となるみたい。単行本は数出ているから話はずっと先まで続いている訳で、それがどうなるか、ってのを見てみたい来もジワジワと。あんまり待たせず第2期が始まって欲しいんだけれど。いつからだったっけ。

 いよいよ全米での公開が始まった桜坂洋さん原作の「オール・ユー・ニード・イズ・キル」こと「Edge of Tomorrow」はスタートダッシュにはつまづいた模様で週末興行で2876万ドルとそれほどふるわずランキングでも3位。やっぱりアメリカではトム・クルーズ主演の映画は当たらないジンクスが生きているとも言えそうだけれど、一方でロッテントマトみたなレビューサイトでは公開されて普通は落ちる評価が下がらず支持率で90%前後を行き来している。これはもう圧倒的な好評価で、例えばウォルト・ディズニーが「眠れる森の美女」の魔女を主演にした実写「マレフィセント」は支持率5割前後で腐ったトマトを投げつけられている感じ。

 興行はまあそこそこな映画でもレビューは最悪だったりするなら、逆に評価が高い映画はもっと行って良いんじゃないか。ってことで2週目以降の巻き返しに期待。ちなみに海外では中国韓国ロシア当たりで大人気だったみたいでワールドワイドの興行収入が早くも100億円を突破した模様。これで日本とかも加わり全米が戻って200億を超えていけば期待の続編ってのもあるかもなあ。どんな風に繋げるかは分からないけど。リタ・ヴラタスキの視点からの話になったりして。やっぱり目立つし彼女の存在。っていうか桜坂さんが書いていたという続編はちゃんと完成したのか。本になるのか。そっちがまず心配。中身がどうなっているかにも増して。出れば面白いのは分かっているから。

 東京おもちゃショーが始まる前に開かれている日本おもちゃ大賞の発表があったんで見に行ったらタカラトミーが強かった。携帯情報端末みたいなので取り犬型ロボットで取りトランスフォーマーでも取りポケモンメガリングでも取ったりしてと特別賞も含めて9部門あるうちの4部門で受賞していたけれどもポケモンも含めてキャラクター性に頼るだけれじゃなくって遊ぶことの面白さ、楽しさをちゃんと実現した製品だったところにおもちゃの未来が何か見えた思い。カワダのナノブロック+とかメガハウスの人体模型パズルとかも基本的だけどそこに遊ぶ楽しさを乗っけた製品だったし。ブロックだってパズルだって使い古されたカテゴリーだけれどアイディアを乗せるよちはまだまだあるってことで。

 対してバンダイは仮面ライダー鎧武の変身ベルトとかセーラームーンのムーンスティックとかキャラクター寄りではあっても、そのクオリティをぐっと高め、あたかも自分もセーラームーンであったり仮面ライダーになれるような感覚を味わわせてくれるといったところで興味を引きつける玩具になっていた。子供だましではなく大人だって誘われるクオリティ。キャラクター商品がこれだけ市場に溢れて食い合いにすらなっている中で、バンダイはそこに商機を見いだしているってことなんだろうなあ。そんなバンダイにあって新しい技術を使ってイノベイティブ・トイ部門の大賞を受賞したのが「ハコビジョン」。いわゆるプロジェクションマッピングを手軽に楽しめる玩具でなんだけれど、アプリと映像技術をスマートフォン側に持たせ、投影される側を安価で売って楽しませるというスキームも画期的。よく考えたなあ。スマホ持ってない自分には体験できないけれど、提供される映像によっては試してみたい。

 劇団スタジオライフを主宰する河内喜一朗さんが亡くなられたとの報。紀伊国屋ホールで公演中の「トーマの心臓」の会場に姿が見えず体調を崩されているという話は聞いていたけど、そんな公演の途中に亡くなられるとは演出の倉田淳さんや劇団員の心痛たるやいかばかりか。男性ばかりという特殊な構成を持ちつつ萩尾望都さんの作品を始め漫画を原作にした舞台を世に送り出して今はやりの2・5次元という分野にミュージカルではないけれど強い存在感を示していた劇団。これからさらに世界展開すら考えられる中での逝去はただただ残念というよりほかにない。漫画原作に限らず世界から持ってきたお芝居を演じシェイクスピアにも挑んだりと活動の幅も広がっていたしなあ。というか僕が最初に見たスタジオライフの舞台は「銀のキス」で漫画原作じゃなかったんだ。でも面白かった。また見たいなあ。「トーマの心臓」はまだ続き大阪でも公演が待っている。主宰の逝去を悼みつつ、劇団員の方には最後まで突っ走ってスタジオライフ演劇が持つ素晴らしさを、世にさらに広めてやって下さいとお願いする次第。また行こう。


【6月9日】 林隆三さんといえば“さすらい人”。ほかにいったい何がある? って言っているのは見渡すと僕ひとりくらいで、あとは「ハングマン」とか「森村誠一シリーズ」とか「たけしくんハイ!」とかが挙がってくるのは、やっぱり1978年にラジオを聴いていた人なんてそうはいないってことなのか。小林信彦さん原作の「ドジリーヌ姫の優雅な冒険」がラジオドラマになって、その中で林隆三さんはドジリーヌ姫の旦那さんとして登場してはさすらい人を演じてた。そのしぶい声で自分をさすらい人といい、何も言わずに出ていっては何かをやり遂げ帰ってくるそのハードボイルドな存在を、しぶい声でもって見事に演じていたっけ。今でもくっきりと覚えているのに世間は知らん顔。勿体ないとしか言いようがない。

 まあ僕だって同じ放送されてた大河ドラマの「黄金の日々」で、今井宗薫って丹波哲朗さんが演じた今井宗久の息子を演じていたことで役者として、林隆三さんの事をほとんど初めて深く見知ったようなもの。高倉健さんと薬師丸ひろ子さんが出演して話題になった映画「野生の証明」のドラマ版として高倉健さんと同じ役を林隆三さんが演じたのは1979年1月からだから、大河ドラマが終わって後となるんでそれで知ったということはない。そんな林隆三さんがラジオでどんな演技をするかと聞いていたら「あのねえ、ぼく、さすらい人」だっけ、そんなとぼけたことを大まじめで、それも格好いい声で言ってくれて印象に残らないはずがない。なので今もって僕にとっての林隆三さんはさすらい人。亡くなられて永遠のさすらい人になってしまったけれど、その活躍は永遠に僕の脳裏に残っているだろう。でもいつかまた聞いてみたいなあ、テレビドラマと違ってラジオドラマって消え物のようになくなってしまうからなあ。

 吉野匠さんによる異世界に召喚されて美少女に囲まれながら俺TUEEEE! 小説の「ユート 拉致から始まる異世界軍師」(このライトノベルがすごい!文庫)は文字通りに異世界に拉致されたユートという名の中学生の少年が、侵略に遭っている国のお姫さまに頼まれ軍師になって大活躍するっていうストーリー。冒頭から軽く現実辛いから異世界行っちゃえとなりそこで大臣怪しいけれどお姫さま可愛いし頼られているんで頑張ろうってなり、軍を率いているのはとっても強い美人で最初はユートを信じてなかったけれどお姫さまの助言もあって一緒に頑張るようになり、そして古代から伝わる人造人間とホムンクルスも見方になって攻めてくる敵に立ち向かうといった感じに、屈託もなくかといって浮つきもしないでサクサクと進んでいくからスイスイと読める。

 剣道とか経験もしてなかったのに軍人の美人と渡り合えるくらいの剣術が使えるようになったりするし、たいして知識もないけど敵の侵略に対して策が浮かぶのはご愛敬。大人向けだとそりゃないぜってなるけれど、小中学生だったらこうあったら良いなあって思う展開がそのままあるから読んでストレスが溜まらない。そして御姫さまがまた策士だったりして策謀もどうにか凌いで国を建て直すことに成功するんだけれどそこから先がまだありそう。いったいどういう風に持っていくのやら。上の階から縄ばしごで降りてくるお姫さまのパンツが下から見えてしまったり美人の軍人の衣服が透けて見えたりするのを感じるユートの視線を読者も共有してドキドキするあたりも小中学生の願望に答えている感じ。その意味ではライトノベルというよりヤングアダルトに近いかなあ、って違い良く分からないけど。といかく抜群の安定感。次も楽しめるだろう。

   その実在性はともかくとして、皇統の祖とされる神武天皇の祖母にあたる豊玉姫命が、出産に当たって夫の山幸彦に産屋を見るなと頼んだにも関わらず、のぞいた山幸彦の目に入ったのは八尋にもなろうかという鰐というから多分鮫の姿。それを後で知った豊玉姫命は恥じて生まれたばかりの子と夫を置いて海に還ってしまったけれども、名残があったか妹の玉依姫命に頼んで子の世話を頼むと、長じた子はその玉依姫命と結ばれ4人の子を産んだ。その1人が後の神武天皇ということはつまり皇統に脈々と鰐なんだか鮫なんだかの血が受け継がれているということになるけれど、それを別に国民は不満に思うことはない。神話とはそういうものだから。

 でも他国にさげすまれるように、今の皇室には鰐なり鮫なり龍なりの血が流れているのかと聞かれれば、神話というものをひとつのアイデンティティとして捉える身からそれが何か問題なのかと言い返すし、科学的歴史的な認識から異属との統合なり交配を経て、実験を確保していっただろう過去の暗喩として捉える身からあり得ないとも言うだろう。それが良識と節度を持った人間の態度というもので、そして良識と節度とそれなりの知能を持った人間なら、そもそもが神話を捉えて相手を誹謗し卑下するような言動はとらない。にも関わらずいっぱしの全国紙でそれなりな立場にいる記者が、朝鮮の神話を持ち出して北朝鮮の為政者には「クマの血が流れていることになってしまう…。東アジア大陸は“神話”に満ちている」と書いて、その民族的なアイデンティティを小馬鹿にするようなことを言ってのける。恥ずかしいとしか言いようがない。

 そもそもがこの記事は、尖閣諸島問題をひとつのきっかけにして日本に中国脅威論が一種神話のように起こっていることを指摘した中国を批判する目的で書かれたものだけれど、ここで中国が「神話」といった理由を普通の頭で類推するなら、一種逆らいがたいニュアンスを持って世評を支配し施策を引っ張るような雰囲気を差してのことであって、それは安倍政権の施策が神性不可侵なものとされ、批判が許されない空気感を何とも如実に言い表している。けれども記事は中国が例示した「神話」とは「根拠がなく、事実を隠蔽したでっち上げの喩え」だと勝手に断定して、そこからどれだけ中国が勝手に神話を作りそれで国民を縛ってきたかを持ち出し糾弾する。入り口からして間違っているのにそこでさらに暴走気味に、「日本神話は『日本人としての価値観の源泉』で普遍性を伴う」と書き「日本神話の価値は『日本人としての価値観の源泉』にあるが史実も多い」と書いて、あたかも歴史の真実となり科学的にも確立されているような物言いをする。

 朝鮮の建国神話で祖とされる壇君について「メスのクマと結ばれて檀君が誕生した。檀君が平壌を都と定めたのが紀元前2333年。その後、中国に統治され、山に隠れて山の神になった、という。寿命は1908歳だったとか」と書きつつ、「檀君が初出するのは1280年代で、中国の史書には一切記録がない」と書いて、その実在性に疑義を向ける。でも神話なんだから実在が疑われても当たり前。そして独立性を持ち始めた国がアイデンティティの確立のためにモンゴルとか突厥とかで盛んな獣祖神話を取り入れ何かを言い始めたことを、後付だと小馬鹿にする必要もない。日本だって別に神話が史書に記録されている訳じゃないんだから。

 寿命だって1908歳には及ばなくても127歳という当時としては考えられない長命を神武天皇は得たことになる。それを史実だ科学的だとでも言うんだろうか。言うんだろうなあ、余所はすべて間違いで、日本はすべて正しいと思いこんでる人だから。そう言わせる空気に溢れた媒体だから。別に北朝鮮にしても中国にしても韓国にしても、問題があるならそれを真正面から堂々と論じて論破していけば良いし、そのための材料って奴もあるだろう。なければ探してそろえるのがジャーナリストという奴だけど、そうじゃない、相手の揚げ足を取るような真似をして話しをでっちあげ、おもいっきりそらした上に小馬鹿にして自分たちを持ち上げるような態度ばかりをとるから、読んでいて誰もが不愉快になる。信頼性だって下がっていく。というかすでにない信頼性が地の底へと沈んでいく。その果てに何が来るか? 答えは明白なんだけれど分かってないんだよなあ、当人たちだけが。困ったなあ。


【6月8日】 あの日以来の日曜日。晴天だった6年前とは違って、雨となった秋葉原のソフマップ前交差点には、花束が積まれて時折通りがかった人が立ち止まり、そっと手を合わせて去っていく。朝には被害に遭われたタクシー運転手の人がお参りに訪れ、メディアもついての報道があったようだけれど、午前11時くらいになると取材しているのは新聞記者が1人くらいで、もうカメラもテレビカメラも見あたらない。それはそれで静かに悼めるのだけれど、一方で記憶がだんだんと風化しているという思いも浮かんで、寂しさと哀しさに胸が騒ぐ。

 交差点で赤信号を待っている人には、いったい何があったんだろうと尋ねたりする会話もあって、答えてほら、確か事件があったんだよといった声が返されていたけれど、そんな若い人たちが立っているその場所で、その足下で幾人かの命が失われていったことは、多分もう知らないと思うし、きっと知ろうとも思わないだろう。風化する以前に、記憶としてすら存在していない出来事。やがてその“事実”すら薄れてしまい、どこかの路肩に備えられた花束と同じように、自分たちとは無関係の、そして関係を問う必要もない事柄になっていってしまうのだ。

 交差点から横断歩道を渡ったビルでは、秋葉原のイメージを借りて世間に名前を売り、秋葉原を踏み台にして全国区となっていったアイドルグループの、昨日行われた総選挙に関するイベントが盛況に開かれている。そこに集まった人たちの足や関心が、ほんの短い距離、1本の道路を挟んだ交差点の角に果たして、どこまで向いているのだろうか。自分たちはただアイドルグループが好きなだけで、そこが事件のあった場所に近く、そして事件が起こってからちょうど6年目だということは、関係がない話だと言ってしまえばそうかもしれない。でも、そんなアイドルグループが拠り所にした秋葉原が、大きく揺らいだ出来事だったことは間違いない。

 今、こうして自分たちが好きでいられるのも、多大な犠牲を噛みしめながら、それでも自分たちの居場所だと頑張って守ってきた人たちがいたから。そう思えば、何かしらの関わりを感じても特別に不思議はないだろう。でもそうはならないのはきっと、知らないからなのだ、交差点で会話していた若い人たちのようにそこで何が起こったのかを、どれだけ大変だったのかを。せめてアイドルグループの誰かがそこに、気持ちを添えて言葉を、心を、身を向けてくれれば状況は違ったのかもしれないけれど……。それも難しいか、彼女たちの一挙手一投足は観られすぎていて、何をするにも毀誉褒貶がつきまとう。純粋な気持ちが勘ぐられては可哀想だし、意味がない。

 だからせめて、あの6月8日に何かを感じ続けている人たちが、これからも忘れずに感じ続けることで、記憶を失わせないようにしていくしかない。もしかしたらあそこに立っていて、被害者になっていたかもしれないという思い。一方で、追いつめられて迷い惑った挙げ句にあそこに向かい、加害者になっていたかもしれないという可能性。どちらに転んでもおかしくなかったし、これからだって転び得る身なのだからと自覚して、問い思い続けるしかない。メディアは無関心になっていっても、それは自分たちの気持ちとは関係のない話。だから僕は、僕たちは可能な限り思い続ける。足を運び続ける。また同じ日曜日が巡って来るまで。そしてその後も。永遠に。

 しかしここまで来たか我武者羅應援團。味の素スタジアムで行われたAKB48の総選挙で結果発表前に登壇しては熱い熱い応援をしてその場にちょっとした感動の嵐を巻き起こした。最初はいったいどこの芸人が出てきたんだと思った人も、そして自分語り鬱陶しいと思った人も、ひたすらに愚直に純粋な思いで応援したい、それもAKB48だけでなく彼女たちを支えてきたファンも含めて応援したいという思いに溢れた言葉を聞いて、嬉しく感じ心動かされた様子。これはまさしく我武者羅應援團がめざしていたこと。莫迦にされても鬱陶しがられても、応援したいという思いを胸に諦めず、引くこともしないで応援し続けてきたことが、その言葉に、その体に溢れて聞く人見る人を納得させる。

 実に10分以上もあって普通だったら聞いているうちに飽きるものあけれど、知らずどんどんと引き込まれていって最後はいっしょにAKB48を応援し、集まったファンを応援してそして自分自身を応援しているような気持ちになれる。そこが凄い。何でだろうなあ、やっぱり真剣だから、そして愚直だからか。こうやってメジャーな場所で大舞台を踏んだことで、有名になってもっと大きな場所での応援を依頼されるようになるかもしれないけれど、だからといって我武者羅應援團は変わらないだろうし、誰かが求めれば、あるいはそうでなくても彼らが応援したいと思えばそこに行って応援するだろう。選り好みをせず、上下も左右も関係なしにあらゆるものを応援して来た、応援し続けて来たことがその言動に強さを与えている。それを曲げては根本が崩れる。だから変わらないし、もとより変わったとも変わろうとも思っていない、そう思いたい。次はどこで何を応援しているかな。

 せっかくだからと東京都現代美術館で昨日から始まった展覧会「ミッション[宇宙×芸術]コスモロジーを超えて」を見に行ったら美女を連れたカップルとか美少女とかがいっぱいいた。宇宙ってそうか美女に美少女を引きつけるのか。いや現代美術がそうかもしれないけれど、過去に数多の展覧会を見に通った東京都現代美術館はだいたいが閑散としていて美女に美少女どころか人がいない状況が大半だった。こうやって大勢が詰めかけるくらいになったのはやっぱり何かフェイズが変わってそこに美女や美少女の足を向けさせる雰囲気なりが生まれたからに違いない。まあいくら美女だの美少女がいようとも自分とはまるで関係がないんだけれど。声かける訳にいかないし。触るなんてもってのほかだし。

 そんな展覧会は宇宙そのものに関する展示もあれば、宇宙にインスパイアされたアートもあったりと混淆する中から宇宙が持つ不思議な魅力を感じられるといった雰囲気。だいたいが月面を歩く宇宙飛行士の写真からして神秘的でやっぱりこれスタジオでセットで撮ってるんじゃないかと想わせるくらいの鮮明さ。30万キロも離れた場所と繋がっていることへの戦慄が浮かび、今はそこと切れてしまっていることへの残念さが漂っては今一度、宇宙に目を向けようって気持ちを惹起する。そして大平貴之さんによるメガスターを使って四角い部屋に強引に星空を写す展示では、それでも膨大にして鮮明な星々を見上げているだけで、宇宙にはこんなにも星があるんだと知らしめられて身がすくむ。天気輪の柱こと天の川が立つ様なんて実際に見る機会も都会ではなかなかないからなあ。平日の午前中から行って半日寝転がっていたいかも。

 他の展示は光が輝いていたりする割に意味がすぐには掴みにくくって、後から出るカタログ替わりの本を読まないとちょっと理解が及ばないけれど、神秘的で深淵な宇宙を感じさせるものであったことは確か。そこに宇宙と具体的な繋がりがあったら、なおのおと宇宙への興味を引き出せるかもしれない。分かりやすかったのは「なつのロケット団」が前にアーツ千代田3331で展示した、自主制作ロケットの残骸とか関連機材なんかで打ち上げに失敗して燃えて「ひなまつり」が「ひまつり」になっていたりしたものも置いてあった。燃えたカメラとかも。ともあれ博物を思わせながらもそちらに寄らず、かといって芸術に寄りすぎないで何らかの形で宇宙との関わりを持たせた展覧会。見ればきっと得られるものがあるだろう、会場に来ている美女に美少女を見て心躍らせるといったことも含めて。うん。


【6月7日】 劇場で観たのは高校生くらいの頃、名古屋で「モスラ」「ラドン」とともに3本立てで一挙上映されるイベントがあった時が最初で、そして劇場も含めて観たのはそれ1度っきりだったりする怪獣映画の王様「ゴジラ」。DVDとか出ていても実は持っていなくてテレビで観たこともないけれど、その割にストーリーめいたものが強く印象に残っているのは、劇場で観たただ1度きりの機会を、席に座れず隅っこの方で階段に座っていながらも、しっかりと捉えて目にくっきりと焼き付けていたからなのかもしれない。集中力もあったんだろうなあ、今と違って安易に何かで見返したりすることもできない時代だったし。というか席がなくても客が入れて通路に座って観られたというのがひとつ、時代を現しているかも。昔はそれが許されたし、入って何度も同じ映画を観られたんだよ。面白い時代だったなあ。

偉大なスターとスーパースター  そんな「ゴジラ」がデジタルリマスターとなってスクリーンに登場する上に、上映場所が日比谷という近所にゴジラの像が建ってる場所で、なおかつ「ゴジラ」に人間側の主演として出ていた宝田明さんが舞台挨拶に登場するとあって、これは逃せないとチケットを確保し雨の中を勇んでかけつけ会場へと入り、復刻版のパンフレットやらスチールがセットになった冊子を買いゴジラのフィギュアが付いたドリンク……はどうせゴミにしてしまうから買わず、席に着いて待つことしばらく。予告編なんかを経てそして日本ではまだ公開されていないハリウッド版「ゴジラ」のちょっと長めの予告編を観て、渡辺謙さんが鮮やかな発音で「ゴジラ」と言っているのを確認してからさあ本編だ。何十年ぶりになるのかなあ、30年ぶりくらいかなあ、つまりは60周年の「ゴジラ」の半分か。

 ってことはあるいはその3本立ては「ゴジラ」の公開30周年なんかだったんだろうかん、なんて考えつつ始まった映画は、船が襲われる謎の事故が多発しそして島が襲われいよいよもって巨大な怪獣が現れ、それが日本本土へと向かい東京を蹂躙。けれども決死の覚悟で挑んだ科学者によって退けられつつ、それでも今のような人間の乱行が続けばゴジラはまた現れるという警句を持って終わるという、すでに見知ったものだったけれどもそのいちいちすべてが目新しい。まず画質。モノクロなんだけれど奥行きもくっきりとしていれば、陰影もはっきりと分かって滲みも潰れもない。それこそ色でも着いているように見えるくらいにスクリーンの中がリアルに感じられた。これがデジタルリマスターの威力という奴なのか。

 面白いのはくっきりとし過ぎて映画に登場するゴジラ襲来を伝える新聞の見出しではなく本文が、適当な文言を並べただけだと分かってしまったこと。「エロ本」なんて言葉がゴジラ対策と関係あるはずないもんなあ。文字通りに見え過ぎちゃって困ったことに。あと特撮が特撮として分かるなあと思ったけれど、これはリマスターされていなくても分かったかもしれないものなのかどうなのか。ゴジラをくい止めるために作られた感電用の電流網が、シーンに合成されているなあとちゃんと分かったし。ただあからさまに開き直っているという感じはなくって、気にしなければ気にならないくらいのマッチングは維持されていて、当時から映画界がそうした技術をちゃんと蓄積していたんだと感じた次第。そこからいったいどれだけ進歩したかというと……これはだから特撮の問題というより、マーケットが限られ制作費も青天井には出来ない日本映画界の問題か。

 一方の人を使った“本編”はもうしっかりとドラマが作られていて、巨大な災厄に日本が襲われさあどうするといったことへの対応を、さまざまな人がそれぞれの立場で考え行動に移そうとしている姿がちゃんと描かれていた。間抜けはいない。突出した輩もおらず民主的な判断の上で甲論乙駁、しっかりと議論が戦わされ一方で科学者の葛藤、正義の押しつけめいたものが浮かび上がって、自分だったらどうするだろうかと考えさせる。核兵器にも勝る破壊力を持った兵器を作ってしまった芹沢博士が、それを隠蔽したいという気持ちも分かるし、目の前の巨大な怪獣をどうにかしないと、大勢の命が失われるという気持ちも分かる。一方でかつてない貴重な動物を研究することで何か人類に大きな福音がもたらされるかもしれないという可能性も分かる。どれもしっかりと正しい。けれどもちょっとづつ間違っている。

 そんな様々な思考の果てに、やっぱり目の前に降りかかる災難は退けなくてはいけないという結論に至ったのは、それが自然だからなのか戦争から9年近くが経っていてもやっぱり記憶に残っていて、どうにかしなくちゃいけないという気持ちが誰の中にもあったからなのかもしれない。結果、1人の科学者の命がその天才的な頭脳とともに失われたとしても。うーん、やっぱり誰も彼をも救いたい。そのためには人類が過ちを繰り返していてはいけないのだと知るしかないのかも。60年も前に現在に通じ今なお有効な問いを投げかけていた映画。それが「ゴジラ」。だからこそ今なお大勢を引きつけるものがあるんだろう。映画の中で国がパニックを回避するため危機を隠蔽すべきか、それともすべてを明らかにして国民の判断を仰ぐべきかといった議論が、堂々と国会で戦わされていたけど、これなんて2011年3月11日以降にも観られた光景。あそこから変われなかった日本は今、果たして変われただろうか。それを考えるためにも大勢に観てもらいたい作品。ハリウッド版「ゴジラ」公開の前に、是非に。

 終わっていよいよ登壇の宝田明さん。映画に登場してくる20歳の好青年とはまるで違ったダンディーなおじさまの姿はテレビなんかでおなじみだけれど、それが80歳と聞くと若いなあとただただ感嘆。背筋なんかピンと立ってたし。そんな宝田さんがひとしきり思い出を語った後、登場したのが何とハリウッド版「ゴジラ」を手掛けたギャレス・エドワーズ監督で、レジェンド宝田に花束を渡すと変わりに宝田さんがカタカナでしたためた「ゴジラ」と書かれた色紙を受け取り、読んで自分に読める唯一の日本語だと話してご満悦。そして2人でのトークへと移ってギャレス監督、宝田さんの体からモーションキャプチャし動きを取り込んだといった本当か嘘か分からない話なんかをした後で、世界でヒットしても日本でヒットしなければ意味がない、僕を泣かせないでね、だからみんな宜しくと観客にプレッシャーをかけて来た。オッケー、それはだったら受けるしかない、だから満足させてくれよ、そう願いつつわざわざ来日してくれたギャレス監督に拍手を贈る。公開が待ち遠しいなあ。

 会場を出て銅像に挨拶し宝田明さんの手形にタッチしてから、帝国劇場の地下にある丸亀製麺でうどんをすすってから都営三田線で西巣鴨まで出てにしすがも創造舎で昨日から始まった「ANIME SAKKA ZAKKA RETURN」を見物する観客は役3人とか4人とか。雨だし場所の秋葉原じゃないからこんなものか。文化好きな眼鏡の美少女が混じっていた、って書けばそういう娘さんを目当てに来る人もいるかな。さて今回の上映かの目当ては「やさしいマーチ」の植草航さんが、「カラスは真っ白」っていうインディーズのバンドが出した楽曲に合わせて作ったPV「fake!fake!」って作品。前の「相対性理論」にも似て可愛い女の子のボーカルによるポップなリズムの音楽に合わせて、少女の妄想とも夢とも付かないビジョンが繰り広げられる。

 何しろ少女のキャラクターが可愛い上に、登場するクリーチャーたちも不思議な可愛さを持っていて、けれども殴られたりはじかれたりするダークで暴力的な展開もあったりと、「やさしいマーチ」にも増して独特の映像世界って奴を見せてくれる。何度も繰り返してみたくなる作品。DVDとかにならないのかなあ。まあでも「やさしいマーチ」と違って最初からネットに映像が上がっているんで、家で見られるのは僥倖、「やさしいマーチ」は相対性理論バージョンがなかなか公開されず観るために愛知県は武豊のアニメーション映画祭まで出かけていったからなあ、あとは様々な上映会をはしごして、そのお陰で新しい作家の作品をいろいろ知ることが出来たっけ、ひらのりょうさんとか沼田友さんもそんな中で出会ったんだっけ。

 今回の「ANIME SAKKA ZAKKA RETURN」は3グループに分けて上映があるみたいで、今回は植草さんの新作以外は前にだいたい観ていたという印象。小野ハナさんの「澱みの騒ぎ」は東京芸術大学大学院のアニメーション学科卒業制作で確か観た作品で、少女がいきなり父親をロープで吊してみせたりしたその後に、わき出る不安が形になって育ち広がっていくような展開が目に焼き付いた。大桃洋祐さんの「farm music」は何で観たんだろう、ガラス瓶の中にハマってヒゲをネズミに弦楽器にされる猫が可愛いんだこの作品。中内友紀恵さん「祝典とコラール」は、前のANIME SAKKA ZAKKAに流れていたんだっけ、跳ねる碁盤みたいなのが妙に愛らしい。碁盤か将棋盤かは知らないけど。

 Koyaさんの「CHACA POCO」もやっぱり観ていた記憶、下手っぽい得が動く途中に妙にリアルな女性のメタモルフォーゼとか挟まるのが目に残る。そしてぬQさん「ニュ〜東京音頭」は、ネットでは観ていたけれど上映会で観たのはこれが始めてかも。変幻自在に動き回る少女と青年の旅の物語。iPhone盗難記念映像が挟まっていたけどこれは実話かどうなのか。ラストは姫田真武さんによる「ようこそ僕です選」。その歌声と展開にとにかく圧倒され爆笑し引きずられがちになるけれど、映像の方は見た目キッチュな上に変幻がリズミカルでクール。計算されつくされているって感じが見えてきた。自身が登場してその上に絵を重ねる作品とかもタイミングばっちりだし、絵はそれぞれにちゃんと巧い。けどやっぱりキッチュさシュールさポップさに引っ張られてしまうというその味が、さらに発展し混ぜ合わさって生まれる世界がどうなるか。ちょっと期待したくなって来た。何を見せてくれるかなあ。

 池袋界隈でアニメを盛り上げるイベントの一環として行われた「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」と「おおかみこどもの雨と雪」の連続上映に合わせて行われた杉井ギサブロー監督と細田守監督の対談を聞き終える。最新作の「グスコーブドリの伝記」がどうして上映されないんだと嘆きつつ、企画の方が是非に「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」をということだったと話しつつ「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」が好きな人に「グスコーブドリの伝記」の評判が悪い話を紹介しつつ、自分が教えている京都精華大学アニメーション学科の生徒たち全員に「グスコーブドリの伝記」を見に行かない理由を聞いたらしい杉井監督が素晴らしいと思った。んでほとんど連続して公開された「おおかみこどもの雨と雪」を見に行くから2本は観られないから「グスコーブドリの伝記」を見に行かなかったと答えた学生が結構いたらしいことに腰が抜けた。

 それでアニメーションを学びたい学生か。これが時代という奴か。好きなら普通はどんなアニメーション映画でも見に行くものだがなあ。貧乏な高校生の時だって封切られるならたいてい見に行ったものだけどなあ。ちなみに僕は「グスコーブドリの伝記」を劇場で5回観た。ぬいぐるみも買って杉井ギサブロー監督にサインももらった。宝物だ。さてトークショーではそんな「グスコーブドリの伝記」のあたらなさを残念がりつつライバルだった「おおかみこどもの雨と雪」を激賞する杉井ギサブロー監督に面前で細田守監督が恐縮している様が可愛かった。そりゃそうだ、VHSからDVDからビデオ録画まで持ってる「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」の監督が面前で誉めてくれるんだから。そのほめ方も医者と獣医のどっちに行こうか迷うちょっぴりコミカルなシーンとかしっかり目に止めつつ子供について描いた映画の必要性って本質をちゃんと捉えて誉めているんだから。

 対して細田守監督は「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」の切れ切れぶりを激賞。杉井ギサブロー監督はユルいでしょっていっても違うどこも見逃せないという細田守監督。確かにそうだよなあ。最初は慣れないけど見込むほどに見逃せなくなる。そんな映画なんだ。実は「グスコーブドリの伝記」もそういう映画なんじゃないかとふと思うようになった。今観て来年観て10年後に観ると改めて深さを感じるかもしれない。観ないと。そのためにBD買った訳だし。そんなトークで面白かったのは、音響であの「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」の列車の中で鳴っているゴトンゴトーンという走行音は柏原満さんに頼んで赤ちゃんがお母さんのお腹にいる時に聞こえる心臓の音なんかをイメージしてもらったとか。そして上がってきたあの音。「効果音に感情を込められる人」と杉井ギサブロー監督が評して柏原満さん。その音が何で作られていたかは不明らしく氷川竜介さんがいずれ解き明かしてくれると期待。

 ほかに宮沢賢治作品が持っている普遍性みたいなものはあらゆる時代に通じるものだという説明や、原作があるものならそれを楽しみたければ原作を読めば良いのであってアニメにするなら、あるいは他のメディアにするならそれに合わせつつ時代を取り入れたものにした方が良いんじゃないかという杉井ギサブロー監督の説明が興味深かった。「グスコーブドリの伝記」はその辺りが顕著に出ている映画だけれど、やっぱり間に311が挟まったことで相当に同時代性が入ったんだろうなあ、だからいろいろ原作読んだ人が観て不思議に思う部分が出てくる。でもそれが実は深みを増しているんじゃなかろうか。そこに気づくまでにはまあしばらくかかるのかも。そうこうしているうちに時間が来てサイン会になって「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」のBDのディスクとそしてジャケットにもサインを頂く。前にDVDにも頂いているから揃ったよ。いつか「グスコーブドリの伝記」にも頂きたい。次回作も観たい。その日は来るか。来る。そう信じたい。


【6月6日】 雨がざあざあ降っていた。6月6日だからしゃあないか。そんな雨の中を最終日となった「インテリアライフスタイル展」へと行って、もっぱら日本発でいろいろと試しているようなブースを観る。まずは大阪にあるスターライト工業ってところが出していた、カーボン素材を使ったカバンってのにちょっと感動。いわゆる炭素繊維って奴があって、それはそれはとっても強い素材なんだけれど、それを京都の西陣織の技術を使って編み込んで模様がついた布にした上で、カバンに仕立て上げたmの。見た目は黒いカバンでそこに模様が浮き出ていて、なかなかシックでとってもジャポネスク。持てば見た目以上に軽い。海外だと防弾素材を使ったカバンなんてものが売られているけど、こっちはミリタリー色はなく、それでいて同じような防刃効果もあるとあって展開はいろいろ出来そう。

 今回はデザインなかも自分たちで整えて試作品という形で出したみたいだけれど、素材の良さを観てもらった上で、外のカバン会社が使ってみたいと思えば使ってもらえるようなことも考えているとか。一方で部品メーカーとしてずっとやって来た中で、自前のブランドを立ち上げてコンシューマー向けの商材として展開することもあるかもしれない。本業はもういろいろな部品をやっていて、自動車系が多いけれど印刷工場の紙なんかを巻いてあるロールをぐるぐると回す心棒なんかにも軽くて丈夫なカーボン製のものが使われているとか。そんな縁の下の力持ちのような会社が、自前の技術でファッショナブルな方面へと向かうのは、例のジュラルミンでカバンと作ったりしているエアロコンセプトなんかとも共通する動き。職人のこだわりが新しい方面で花開くのは是非に応援したいところだけに、スターライト工業には巧い具合に商品化へと結びつけて欲しいもの。様子を見守ろう。

 似たようなことでは会社名は忘れたけれど、浄化槽の中にいれるようなプラスチックの細い糸みたいなのをくしゃくしゃにした上でつなぎ合わせて編み目というか隙間のいっぱい空いた板みたいにしたものを、パーティションの壁に使ったりランプのシェードに使ったりしているところがあった。通気性はあって持てば軽いし障子紙みたいに破れたりもしない。照明の前に間仕切りのよういしておけば間接照明みたいになるし、それでいてプラスチックがキラキラと光って良い感じになる。色着けも自在で青かったり赤かったりするものもできるとか。熱にはちょっと弱いけれどLEDをつかえばそのあたりは解消できて、実際にランプとして安全性を確認された上で販売されている。技術を新たな方向へ。アベノミクスがどうとはいっても製造業には厳しい昨今、こうした挑戦って奴がこれからも増えていくのかも。

 伝統工芸の新しい展開というのもテーマにあって例えば石川県の山中という場所が得意としている轆轤をつかっての木地作りの技術でもって新しいデザインをした食器とか器なんかを出しているところがあってなかなか。紅茶を入れる茶筒は見た目どこかの某TENGAを想像させる太さ長さをしているけれどもちゃとぱっくり蓋が開いて中にお茶っ葉を入れた上で密閉できるようにピタリと蓋が閉まる上に、そんな蓋にお茶をいれれば4杯分の茶葉がちゃんと計れる優れもの。国内外でデザインの賞をとってて海外でも結構な人気らしい。薄く性格に削れる技術があるからこその品。同じ技術で小物入れを作ったりワイングラスを作ったりもしていた、ってグラスじゃないか、でもガラスでも難しい細い脚を作っているところが職人芸。これはデザインした人も驚いていたからやっぱり凄い技術なんだろう。

 そんな山中の木工技術と富山県は高岡の金属加工技術を組み合わせたぐい飲みってのを作っているところもあって、持つと何か手に馴染む重さ。木だけだとどうしても軽くなってそれはそれで不思議な感触だけれどちょっと不安という人には、金属の分だけそこに重みがあって手にしっくりと乗るこっちの方が有り難いかも。もともとが金属器なんかを作ってる会社らしく複雑な形の香炉なんかを作って海外にもお土産品として重用されていたようだけれどこのご時世、やっぱり新しいことを考えお隣の石川県から木工を持ってきてハイブリッドな品に仕立て上げたとか。試してみること。そして作ってみること。そんなチャレンジから再生していく日本の伝統工芸。ほかにも南部鉄器のリニューアルがあり和紙のランプシェードとかカバンへの展開もありと新しい挑戦がいっぱい観られた。これだからインテリアライフスタイルは面白い。来年もまた行こう。

 ゆりかもめで国際展示場前から新橋へと向かいそこから大雨の中を歩いて試写室まで行って待望の映画「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を観た。いやもうトム・クルーズが格好良のなんのって。というかトム・クルーズがどんどんと格好良くなっていくんだ映画の中で。もはや青春スターなんてものが出来る歳でもないトム・クルーズだけど、その彼が青春によくある成長の物語って奴を演じて見せてくれていた。つまりはそういうことが可能な設定なんだ、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」って。だからトム・クルーズも出たいと思ったのかなあ、自分が輝いていく様を世にアピールできる映画ってことで。

 もちろんゲームで死んではリスタートしていく繰り返しを体験している人には、周知の感覚なのかもしれないけれど、普段あんまりゲームをやらず、桜坂洋さんの原作も読んでいない人には自分を取り戻していく映画だって感じて、自分もトム・クルーズといっしょに成長していけるんだって感覚を味わい楽しむのかも。これは受けそう。そして原作を知っている人たちは、そうかこういう風にアレンジするのかと感心するだろう。それはとっても前向きで明るくて、原作が持つ切なさの漂う勝利感とはちょっと違った開放的な感覚を味わえるようになっていた。まさしくトム・クルーズ・ザ・ヒーロー。見終わって笑顔になれて気持ちよく劇場を出られる映画って言えそう。それもまた世界で受ける要因かも。 陰惨でハッピーじゃないエンディングなんてやっぱりあんまり観たくないし、それだと後が続かないし。

 ともあれ面白い映画だった。これからいよいよ北米とか中国でも幕が開くけど台湾とか韓国でも好調なスタートを切っているみたいだし、ヒット作が少ないと言われているトム・クルーズ映画にあって格別のヒットが期待できるかも。出演者ではなるほどトム・クルーズも格好いいけどリタ・ヴラタスキを演じるエミリー・ブラントがなかなかに戦士していて格好良かった。彼女にもまだ新兵のころがあったのかなあ、それはどんな顔をしてそしてどういう経験を経てあそこまでの勇士になっていったんだろう。そんな話がスピンオフで作られても良いかもしれない。あとエミリー・ブラント顔ちっさい。トム・クルーズの顔が大きいということではないと思うけれど、機動スーツからのぞく顔が小ぶりでスーツがその分大きく見えた。何十キロもある機動スーツを着てあのクールな表情で演じ続けるのって大変だったろうなあ、トム・クルーズと違ってすでに歴戦の勇士になっている設定だから。ともあれストーリー良く見た目良くラストシーンも良い映画。また行こう。IMAXで観たいし4DXでも観てみたい。ギタイの体液とか顔に降りかかるんだろうか。

 何が何だか。ぼっち飯とかいってひとりで昼ご飯とかを食べる姿を見られるのが嫌だからって食堂を使わなかったりトイレで食べていたりする人がいたりするって話が前からあったけれど、学習院大学では逆にそんなひとりで食べる姿を堂々と見られるような「ぼっち席」なんてものを食堂に導入したそうで、長い机が真ん中でパーティションで仕切られて向かい合わせに座っても相手が見えないようになっているとか。学食なんてものは混雑ってても明いてる席があればそこに座ってさっさと食べて立つのが流儀で向かいに誰がいようと隣に誰が座っていようと気にしないのが普通だったんだけれど、今はそういうことが我慢ならないのかもしれない。それで世の中に出て食堂で相席とか言われたら発狂するかもしれないなあ、全部が全部カウンター席な訳ないし。ああでもファストフードに行けばカウンター席しかなかったりするから大丈夫なのか。貧しい食生活になりそう、っていつも昼飯晩飯ひとりで食べてる僕が言うことでもないか。仕方ないじゃないか友だちいないんだから。なあおい。


【6月5日】 ああそうか天安門事件から25年だったのか。あの夜はCBCで「イカす! バンド天国」なんかを確か見ていたら鈴木史朗アナウンサーだったかが登場して北京の天安門広場で起こっていることなんかを伝え始めてそしてNHKなんかを切り替えて見つつホテルから見える光景なんかの中継を夜通し見ていたんだっけ。どれくらいのことが起こったかは結局のところ不明で数百人が死んだとも広場では誰も死んでいなくて別の場所で銃撃されたとも言われているけど結果として、民主化と呼ばれるものが行われないまま中国は保守派が実験を握り上海閥から江沢民が主席となって反日による国内引き締めをやった結果、今、それを浴びた世代のが中心となった経済やら社会の関係にぎくしゃくとしたものが出始めている。

 経済発展は確かに進んで上海なんて四半世紀でまるで様相が変わってしまったけれど、その結果生まれた持てる都市住民やら沿岸部都市の人たちと持たざる内陸部の人たちとの差なんかが激しくなって政情をガタガタとさせている。何かを持ち上げるために何かを犠牲にするのは一時ドーピングのように利いてもあとに禍根を残すのだ。それを日本は高度経済成長で知って多少はまともになったはずだったけれど、最近はやっぱりガタガタ都市始めているからちょっと厄介。とはいえ中国はそれ以上に厄介な悩みを国内に抱えていてこれからどこへ向かうのか、外に勇ましさを鼓舞して内をまとめようとしたところで世界が許さないからなあ。経済の強さで許されてはいてもそれすら崩壊したらいったい。19世紀と違って租借され占領されるような国力でもないし国民性も違うけど、だったらと見放されたらあの人口あの国土がどう暴走してしまうのか。その影響は東アジア近隣に及ぶだろう。だからやっぱり気にしておかないといけない国。罵倒でも反発でもなく冷静に。そうさせないような配慮を持って。

 ちゃんと動いて面白い、って意味ではこの春スタートのアニメではやっぱり1番かもしれない「ソウルイーターノット!」の最新話をやっと見る。カボチャを育てる回だけれどもその合間に短いエピソードが挟まってはねねちゃんの睡拳が炸裂しつつストリップが繰り広げられようとしたり、ねねちゃんの忘れっぽさが得体の知れない屋台の玩具やナマケモノを呼び込んだり、そんなねねちゃんの案外に確かな運動神経が発揮されてはアーニャのバット先端ではじき返す打法が敗れたりしてとねねちゃん大活躍。間に挟まってつぐみは未だにアーニャがねねのどっちを職人に選ぼうか迷っているものの期限として切られた死武祭は迫る。魔女の策謀も巡らされる。3人娘の成長を描きつつ事件めいたものも混ぜて毎回楽しませつつ先への興味も引っ張る良い構成。アニメならではのものだとしたら作った監督さん偉い。この先にいったいどんな結末が待っているのか。単行本読んだら速いけどこれはアニメで展開を待とう。ナマケモノ可愛かったなあ。声誰が演じていたんだろう。

 事件そのものが持つ残酷で非道な面は絶対に否定できず犯人には確実に捕まって欲しいものだけれど、現状で容疑者に関連して取りざたされる証拠がだんだんと後退気味になっているのが気になるところ。最初のうちは部屋にあったビデオの中に被害者と思われる女の子が映っていた、なんて話しが巡っていたけれども最近になって押収したパソコンのたぶんハードディスクを洗ったら消された画像の中にそれらしい子が写っている画像があるらしいといった具合に、確定ではなく曖昧さの3段重ねのような情報になって来てそれで本当に逮捕し立件して公判を維持できるのか、ちょっぴり不安になってしまう。

 警察には過去に先走っては証拠が固まらずえん罪にすらなってしまった例もあるだけに、ここは慎重な対応が必要だけれど問題はそうした発表を鵜呑みにして決めつけその身辺なり人格なりを総攻撃しているメディアの報道ぶり。だんだんと証拠が後退していった果てに状況だけになり挙げ句……といった段階でどう言い募るのか。そうはならない確証をメディアも掴んでいるなら別だけど、今のところ横一線で発表だけを流している感じだし。本当に成り行きを見たい一件。しかし変わらないなあメディアって。商売だからかなあ。社会正義とかじゃなく。

 めざましテレビで「オール・ユー・ニード・イズ・キル」の情報を待っていたら「Kalafina」が登場して香港でのライブの様子を伝えてた。集まる観客の熱意はまるで日本と変わらず、おまけに日本語が通じるみたいで舞台からのコールにちゃんとしっかり日本語で答えていた。偉いというか凄いというか。好きな歌ならそれをちゃんと聞きこんで理解する。別に海外仕様にする筆ようなんてないってのはきゃりーぱみゅぱみゅの海外ツアーが証明しているし、そんな感じに“ありのままで”世界に出ていくアーティストがこれから増えて、そして成功していくんだろう。それにしてもサインが欲しいと3回分、くじ引きに並んだ男性に喝采。ちゃんと当たって良かったね。

 そして「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のトム・クルーズとエミリー・ブラントへのインタビュー。楽しそうに明るくそしてしっかりと答えてくれているってことはつまり、それだけ作品がお気に入りなんだってことだろなあ、2人とも。別の映像だと40キログラムとかある機動スーツを着るのにエミリーは最初、泣いていたそうだけれどやっているうちに慣れていくのは映画も同じ。そうやって培われた経験とは別に、積み重ねられた記憶が悲しみを呼ぶっていうトムの意見が映画のひとつの本質を付いているようだった。ゲームでリセットを繰り返して強くなってクリアしたならプレーヤーは嬉しい。でも積み重なった思い入れをそこで失うとしたら果たしてクリアしたいかどうか。そんな葛藤がきっと映画からも感じられるんだろう。早く見たいなあ。機動スーツも1度くらいは着てみたいかも。

 松戸に菜園があるのは有名な話だけれど、柏にも科学の粋をこらいた野菜工場があったとは。みらい、っていう名前の会社が手掛けている野菜を屋内で作る工場のあたらしいのが出来たってんで柏の葉まで行って見物。知らないうちに駅前がゴージャスになっていた柏の葉キャンバスの前にある小ぎれいなオフィスで話を聞いた後。バスで移動し柏の葉サッカー場に行くときにバス停を降りる東大の何かをさらに過ぎた奥にある建物に入るとそこにはラックがびっしりと組まれて中でレタスなんかがせっせと作られていた。土はなく水と光だけでちゃんと育つ野菜たち。それ美味しいの、って言われて食べたらちゃんと味もあったし歯ごたえもあった。価格がどうかは分からないけど屋外が不安とか寒くて無理とかいう場所でもちゃんと野菜が作れるのは凄いかも。エネルギーがこれで太陽光とかだったらなお最高だけれどそれだと外で作った方が早いのか。ひとつ未来を見た感じ。いずれ人間も工場で……ってそれは無理か光合成ができないから。できるようにすれば……ああそれが「シドニアの騎士」か。人類が想像に追いつけるのはいつの日か。


【6月4日】 オマージュじゃねえだろ。って突っ込みはすでに散々っぱら入っているけど、それくらい考えればすぐに分かるようなことを知ってか知らないふりをしているのか、「実写版『パトレイバー』で機動戦士&太陽の牙オマージュ!」だなんて書けてしまうライターさんが存在し、それを載せてしまう媒体が存在することに、昨今の知性を巡る状況の厳しさって奴がひしひしと漂う。新聞なんかは既に某紙辺りを中心に知性に反するような言動が増加し、マッカーサーの遺伝子改造で云々だとかいったトンデモな記事が掲載されていたり、ブラジルで売春するなら子供が交じっているから気を付けようとそれを認めるような記事が訂正されたとはいえ一旦でも掲載されたりして、底が抜けて地の底まで落ち果てているんだけれど、そうでない媒体も似たり寄ったりといったところに来ているみたい。

 オマージュってのは少なくとも対象に敬意を払いつつ、それを模しつつ自分なりのメッセージを載せることであってそこには前向きの愛がある。でも例の「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第二章」のエピソード2「98式再起動せよ」のラストシーンに登場した2体の98式AVのポーズは、ガンダムでありダグラムといったものが作品の中で見せていたポーズの、それも戦いを終えて朽ち果てかけたりさび付いてしまったシーンを模したもの。そこには懐かしいロボットアニメの名シーンをパクってパロってみましたという意識はあっても、過去に数多あるロボットアニメから影響を受けて今がありますありがとうといったリスペクトの意識はない。それどころか富野由悠季監督なり高橋良輔監督が作り出したロボットアニメの名場面を引っ張り出して、君たちこういうの好きでしょうって観客を煽ってみせたようなニュアンスすら漂う。

 それをいうに事欠いてオマージュっていうのは何だろう、文脈を読み違えているのか「パトレイバー」側なり押井守総監督なりが偉大な先輩アニメーション監督やロボットアニメに喧嘩を売っているようなアングルを作り出して波風を立てるような雰囲気を作らないよう配慮したのか。オマージュって言っておけばパロディでもギャグでも許されスルーされる温い状況、覚悟ない言動を受け手の側も許容している空気って奴を、押しつけられているような気がして嫌になる。パロディであり挑戦であると言って互いに技を出し合いぶつかり合うのを、ニヤニヤと眺めながらそれでもどっちも僕は好きだよって思うのがロボットアニメのファン心理。そこに勝手な美談めいたストーリーを作って押しつけて来ないで欲しいんだけれど、そういう感覚も若い書き手には分からないのかなあ。どうしたものかなあ。

 そんなことについての話があるのかそれともないのか。「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第二章」の上映後に押井守総監督が出てきて喋る「マモルの部屋」が第一章に続いて開かれるみたいなんだけれど、発売から2日が経つのに今ひとつ席の埋まりがよろしくないのは今回もゲストがおっさんばかりだからなのか。ってもあの作品に女性なんて泉野明役の真野絵理菜さんかカーシャくらいしかいないしなあ。いっそだったらヘッドギアの面々を呼んであれやこれやと喋ってもらってチクチクつっつけば富野御大高橋御大に喧嘩討ってる押井さんにもバランスがとれて良いような気がするけれど、それくらいでへこむようなら実写版なんて撮ってやしないか。第三章ではせめてやっぱり女性が欲しいところ。何か佐伯日菜子さんが出演しているそうなんで読んで喋ってもらえばさぞや会場もエコエコアザラクになると思うんだけれど、ってどういう雰囲気だそれ。

 「カラフル」なら前に買ったCDで聞いているけど今回は「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ【新編】叛逆の物語」のオープニング映像がおまけのDVDに入っているってことで買ってしまったClarisのアルバム「PARTY TIME」。でもって早速オープニング映像を見てやっぱり涙ぐむ。ほむほむ。ほむほむ。まるで情報を入れないで見た時ですらすでに踊る4人と離れたところに暁美ほむらがいて何があったんだろうと思ったけれど、全部見終わったあとにまたオープニングを見直すとそこにこの映画のすべてが詰まっていたというか。ほむらの置かれた悲しくも痛ましくて残酷すぎる立場って奴がくっきりと描かれていて、どうしてそんなところに実を追い込んでしまったんだろうと同情が浮かび、だからこそあんあ結末を迎えてしまったんだろうという理解が浮かぶ。誰かがちょっとだけ分かってあげられたら。でも仕方がない、そうなってしまった彼女を解き放つ術はあるのか。いずれ描かれるだろう「魔法少女まどか☆マギカ【改変】昇華の物語」に期待しよう。あるかなあ続続編。

 「日本原」さんの作でトム・クルーズが主演ってことになるのかなあ、なんて日本版お「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のポスターを見ながら思った人の数を考える。そりゃないか。いやでも「日本原作」ってどういうことだろうって普通は思うよなあ、そこには人名が入るものだし。でも入ってないのは桜坂洋さんって作家の名前をそこに出しても世間には通じないから日本の何かが原作だって教えて興味を持ってもらおうっていう宣言側のスタンスがあるからなんだろう。でもそれで興味を持つものなのか。日本のいったい何が原作か分からないのに映画を見に行こうって思うものなのか。もしかしたら「週刊ヤングジャンプ」に掲載されてた小畑健さんによる漫画版をそれだと思う人もいたりするのか。どっちしにたって原作の人にはちょっと可愛そうな話。「日本作家桜坂洋原作」って入れてあげれば良かったのに。それだと「日本作家桜坂洋原」という人名だと思うかもしれない? かもなあ。

 石鹸屋さんの店頭にフカヒレのためにサメを捕るのに反対って看板が出ていて戦闘的だなあと思ったら、伝統的にサメ漁をしている気仙沼あたりから文句が入って規模を縮小するとかしないとか。実際のところフィニングと呼ばれるヒレだけ切ってサメを生きたまま捨ててしまう残酷な漁法については世界的に問題になっていて、禁止するところが多くそれどころかフカヒレそのものを取り扱うことを禁止する州なんかがアメリカには出てきて、フォアグラ同様に取り扱いが縮小傾向へと向かっている。そうした運動への参画という意味合いなら石鹸屋さんの表明は正しく、どこからも文句を言われる筋合いはないし、サメを全部利用することを旨とした気仙沼のサメ漁には反対をしていないとも言っているんでそれを報じないで外資系の石鹸屋さんと気仙沼との対立を無理に煽ろうとしているのは、キャンペーンを張っている毎日新聞に妙な思惑でもあるんじゃないかと勘ぐってしまう。

 とはいえ石鹸屋さんが寄付するといっている団体には、気仙沼のように伝統的かどうかなんて関係なしにサメを獲るのはいけないことですそうじゃないですかという主張もあって、そこに寄付するってことは間接的に気仙沼にも反対しているってことでその矛盾をつかれるとちょっと弱いかも。そういう考えは一方にありながらもフィニングにも反対しているんだからそっちの側に寄付するだけですといったって、団体の体はひとつだしなあ。あるいはフィニングに反対するような動きをしている団体が国内には他にないことが、他に選べずそこと対象にしてしまった理由なのか。海外ではもはやサメ漁全体が禁じ手となる中で、そういう運動をしている団体にとって例外なんってものが存在すること自体が意味不明で、そんな団体の日本支部も同じ思考に凝り固まっているとも言えそうだし。フィニングに反対したいけど伝統的な漁法なら良いじゃんという団体を誰か石鹸屋さんに教えて差し上げてくださいな。


【6月3日】 動かないにも程があるのにも慣れたけれど、オープニングでしっかり動いているのを見るとやっぱり霧子とかにはしっかり動いていて欲しかったなあと思わないでもない「風雲維新ダイショーグン」は、謎の快男児こと坂本龍馬が登場、って名前言ってたっけ? あとグラバーにフルベッキなんかも登場しては、日本を食い物にする外国人とかって誹謗されてたりしてちょっと可愛そう。でも霧子を裸にして亀甲縛りにしたんだからそれくらい覚悟の上だろうと。いやだから歴史上のグラバーでもフルベッキでもないんだってば。そんな霧子が龍馬から問われて見せた恥ずかしがっている顔が良かった今回。でも風雲急を告げつつあるストーリーでは来週あたりに江戸と戦いがありそう。どうなる徳川慶一郎。新撰組また出てきてくれないかなあ。

 なんか良い人じゃないかペンギン皇帝、って人じゃないけどペンギンだけど。どうやら異世界から来たってことが見えてきて、そっちの異世界からちょいちょいと四天王だか何かを読んでは、反撃ののろしを上げ始めた模様。迎える地球側はいちゃいちゃしてうざいカップルくらいしか対抗できる勢力がなさそうだけれど、ペンギン帝国側が謎の兵器を使ったらずっと眠っている前半戦のヒロインがピクッとしたから、きっと前半戦のヒーローとの繋がりなんかがある装置だったんだろう。でもって異世界から帰還するなり復活するなりして来そう。その場合はペンギン皇帝は退治されるか追放されるか。いい人なんだからそこは助けてあげたいなあ。だから人じゃないんだってば。

 案外にメンタルが豆腐のような今泉俊輔。前に負けた御堂筋に並ばれ煽られ誘われ叩かれるたびに、顔色を変えペースを乱すのは自分にそれだけ自信がないからか、それとも御堂筋の力を知っているからなのか。でもそんな御堂筋ですら寄せ付けなかった箱根学園のスプリンターこと新開隼人。チームには胸の左右の筋肉に名前を付けてる体力莫迦で、「神奈川の最速屋」とすら呼ばれている泉田党一郎もいるのに、彼を当然のように抑えてエーススプリンターに選ばれているんだからよっぽど速いんだろう、前傾姿勢の御堂筋ですら追いすがってもかるく置き去りにしてしまうし。とはいえ敵はあの御堂筋、これから一波乱ありそうだけれどそれでも正義は勝つってところを見せないと、誰も真っ当に自転車に乗らなくなるから御堂筋には消えてもらうことになるんだろう。それにしても小野田坂道どこ行った? 主役なのに1度も出てこないなんてありなのか。ロードレースが全員が主役? とはいえなあ。

 そんなところにこんな施設があったとは。白銀台の駅を降りて目の前に立つ今は封鎖されている感じの国立公衆衛生院のクラシカルにモダンなビルを横目に見つつ、道路を歩くと正面にやっぱりクラシカルにモダンなビル。そこが目的地の東京大学医科学研究所。かつて北里柴三郎のために作られたという組織がルーツにあるそうだけれど、管轄が内務省から文部省に移管されて東大の下に入ることに反発した北里柴三郎が、飛び出して独自に北里研究所を作ったというから今の東大医科学研究所にとって北里柴三郎はあんまり重きを置かれていないってことになるのかな。入った大講堂に胸像があったけれどそれは4代目所長の長與又郎だったし、2階の会議室前にあった胸像も2代目所長の青山胤通で初代所長ではなかったし。

 会議室の中にも胸像はあったけれどこっちは日本人ですらなくパスツール博士。あるいは探せば構内の1番いい場所に胸像どころか銅像でも建っていたかもしれないけれど、目立ってないってことはやっぱり目立たせない何かがあるのかも。いつかまた行って探してみるか。白金台なんて年収が2000万円で車は外車に乗ってる人しか歩いていけなさそうな雰囲気があるから、よっぽどじゃないと行けないけれど。そんはハイソな地域にある医科学研究所に何しに行ったかというと、「モバゲー」のDeNAが何か遺伝子検査の事業を立ち上げるとかで東大医科学研究所と一緒に発表するってんでその見物。内容はといえば新会社を作って個人の遺伝子を検査し結果を教えるというものだった。

 何でもアメリカとかでそういう事業が流行っているそうで、いよいよ日本でも本格的になりそうなのを見て参入を決めたみたい。自分に何か遺伝子上の問題があって、検査によってそれを指摘されて人生絶望になるのは嫌だなあと思いながらも、そういう指摘を受けることでいち早く対策が立てられるといった意見もあるだけに、やっぱり需要はあるんだろう。とはいえ取り扱い難しそうな事業。それこそ個人が文字通りに遺伝しレベルで丸裸にされてしまう訳で、情報の管理にも慎重さが求められるけれど、そういう事業をネット系の企業がやってやれるものなのか。セキュリティとかちょっと気になった。

 とはいえアンジェリーナ・ジョリーが自分に乳ガンと卵巣ガンのリスクがあるということを、母親や叔母の死因なんかも勘案しつつ遺伝子上の問題をして突き止め自信に治療を施したことを見るにつけ、必要性は結構高いってことは分かる。彼女の場合はたぶんけっこうな確率でそうなることが見えていたっぽいから。とはいえそれがどこまでのリスクなのかという問題、そこまでしなくちゃならないのかという疑問、遺伝するなら自分の家族や子供にいつどの段階でどう告げ、どう対処を求めるのか、なんて問題も山積みなだけに、いきなり日本で事業として始めてどういう運用が成されるのか、否応なしに注目したくなる。

 どういう用途で検査をしてもらうのか。どういう結果が生じるのか。それを見つつ日本でも遺伝子検査というカテゴリーが新たな産業として興っていくんだろう。怖いのはこれを国が制度化して個人情報だけれど医療リスクちう観点から抱え込んだり、企業がリスク排除のために入社志望者に検査を義務づけたりしないかってこと。とんでもない話だけれど個人を蔑ろにしがちな国も、そんな国が持ち上げる企業もやりかねないから心配。しっかりとした監視をしていかないと。でも気づかずやってしまうんだ、今の国は。でもってメディアも国に媚びて黙りを決め込む。その先は。大変な世の中がやって来そう。

 莫迦が書いて阿呆が通して普通に真っ当な人が売る新聞も珍しいのか今はそれが普通なのか。だから新聞が売れなくなっているってこともあるだろうけどここまで戯けが過ぎるのも珍しいかもしれない某紙専門委員様による「ダグラス・マッカーサー米陸軍元帥は遺伝子工学の権威?」だなんて書き出して始まる記事。メタファーとして教育だとかすり込みだとかを「遺伝子組み換え生物」って言いたいんだろうけれど、そう言って何がくっきりと見えてくる訳でもなし、むしろ遺伝子という科学の先端を行き厳密性が求められる上に取り扱いが難しく、間違えれば優生学として糾弾されかねないトピックを、益体もないたとえ話に用いて悦に入っている姿が丸見えになっているだけに恥ずかしい。

 あまつさえ「元帥による戦慄の『遺伝子組み換え人体実験』。憲法改正は『遺伝子組み換え人間』を漸減させ、真性日本人を増やす狼煙と成る」と来たものだ。何だ「真正日本人」って。自分たちの意見に逆らう奴らは日本人じゃないとでもいうのか。まさしく優性思想。多様性を認めず持論だけが正しいと思いこんだ視野狭窄ぶりに溢れかえった文章が、平気で繰り出されては誰も止めようとしないんだから、これは組織全体がそうした思想に犯されていると言って言えるのかも。傍目から見れば「ムー」以下の非科学的で非論理的で反歴史的で反人道的な文章が、守り立てられる組織が向かう先なんて、想像したくもないけれど、それが無関係に過ぎていってくれる訳ではなさそうだからなあ。ああ困った。


【6月2日】 「お友達よ」「お友達よ」「お友達よ」。そんな3度の司馬深雪によるセリフを聞いていた時がたぶん今シリーズとしての「魔法科高校の劣等生」で最大にサスペンスフルでスリリングば場面だったんじゃないかと後になって思いそう。直後に移動中のバスへと向かって燃え上がる車が迫ってくるシーンがあったけれど、あんなの司馬達也と深雪がちょちょいと解決してしまうから別に怖くも何ともない。けれども九校戦を前にメカニックと選手が集まった場面で達也のことを既に知ってて名字ではなく名前で呼ぶ少女2人を周囲がはやし立てた時に、深雪が「お友達よ」と3度、強調したことに含まれるその燃え上がるようで底冷えするような心境を思うと、とてもじゃないけど生きた心地がしなくなる。

 というかはやした周囲の人間はよくぞ命があったもんだ。普通だったらその場で絶対零度へと叩き込まれてすべての分子運動を止められ命の危機へと陥れられるものだけれど、目の前にお兄さまがいてはさすがにそういう無茶は出来なかった模様。命拾いしたよなあ。同じ事は2人の父親に付いていた執事だかにも言えること。あれだけ達也を愚弄しながら深雪に木っ端微塵にされなかったのは父親がいて達也もいたから。いなければ今頃は分子レベルで凍り漬けにされているだろうなあ。ある意味で最強。でもそんな深雪すら抑えると同時に、かつてない飛行魔法なんてものを形にした魔法工学技師、トーラス・シルバーこと司馬達也の方が強いんだろう。どこが劣等生なんだ。そんな2人のベタベタしつつ激しく戦う場面がこれから繰り広げられる。楽しみにして観ていこう。でもやっぱり「お友達よ」×3にはかなわないだろうなあ、恐怖の総量は。

 すでに1度観ているけれども「THE NEXT GENERATION パトレイバー第2章」、総監督の押井守さんを招いてゲストも読んで上映後にトークを行う「マモルの部屋」ってのがまた開かれるみたいなんで早速チケットを確保する。別に真野恵里菜さんも来なければカーシャ役の太田莉奈さんも来ずハンガーで空手の形を決めている誰ともしらない美女も来ないイベントだけれど今回は、劇場アニメーション版の「機動警察パトレイバー THE MOVIE」を1作2作と手掛けたプロダクションI.G.の石川光久社長がゲストで登壇するってことなんで、いったい石川さんが今回の実写化に何を思っているのかを聞いてみたい気が満々。失敗しているとか成功しているとか1枚噛ませろとかどうして噛ませなかったのかとか。そんな裏話から今後のアニメーションとしての再展開の可能性、あるいは押井アニメの再起動めいた話が聞ければ最高だけれど話してくれるかなあ、そこは司会者の口の出しどころってことで。

 原作を書評していようが同じ作者の近刊の解説を書いていようが映画業界的にはまったく知られていない人間に試写の案内が来るはずもないので「All You Need Is Kill」の国内完成披露試写めいたものには行かず行けない代わりって訳ではなく、最初っからそっちに行く予定だった新潮社による「第13回女による女のためのR18文学賞」の授賞式を見物に行く。去年に続いて2度目だけれども選考委員に三浦しをんさんがいてご尊顔を拝することが出来るのもこんな機会くらいだってことで足を運んで1年ぶりくらいのお姿を拝見。履いていたあれは下駄なのか何なのか。ヒールがついているんだけれど前は鼻緒という形は静岡に本拠を持つみずとりって会社が作っている女性向けの下駄で数年前にインテリアライフスタイルって展示会で観たか何かしたかで記憶に残ってる。あと神田にあるSHIOYAって店でも扱っていたっけ。モダンだけれどクラシカルで和装洋装に合いそう。何より涼しい。履きたいけど流石に男性は仕事では無理かなあ。

 そんな三浦さんからは持っていたエヴァンゲリオン仕様のアスカバージョン「PENTAX Q10」について聞かれる。目立つもんなあこの色は。あと小ささは。そういう意味できっかけづくりにはなるカメラ。性能もこれでなかなか。とりあえず映画「WOOD JOB!」が面白かったと伝え文庫版「星間商事株式会社社史編纂室」の解説のチョイスがベストだったとお伝えすると、他にいないでしょうという声が。いわゆる腐った女性たちについて書かれた小説の解説を書ける麗人は確かにやっぱりいないよなあ。その意味で単行本版から大きくグレードアップしてなおかつ値段はリーズナブルになった文庫版「星間商事株式会社編纂室」は買いだ。ちくま文庫だから早々絶版ってことはないだろうけど、いつまでもあると思うな文庫本。なので手に入る今のうちに買っておくか。

 さて今回の受賞者は本賞が1人に読者賞が1人というパターン。講評によれば他の候補作も含めて一人称のものが多くって、読みながらどういう風に一人称を書くのか、それがどういう意味を持つのかってことを三浦さんももう1人の選考委員の辻村深月さんも考えたという。とりわけ辻村さんはミステリーの書き手なだけに一人称で語るミステリーによって描ける範囲や内容について改めて考え直すきっかけになったみたい。そんな受賞作は仲村かずきさんによる「とべない蝶々」が作中に女の子の服を着る男の子、すなわち男の娘って奴が出ていて興味を引く。yomyom掲載だといわゆる萌えとは無縁のイラストが掲載されてて慣れない目には不思議に写ったけれど、そういうのがないネット版だといろいろ想像も浮かびそう。じっくりと読もう。読者賞の滝田愛美さん「ただしくない人、桜井さん」はのっけから何か緊張感が漂っていてどこに連れて行かれるか分からない。これもじっくり読んでみたい。映画化されるならやっぱり大賞の方かなあ。

 その映画化では去年は「ジェリー・フィッシュ」に主演した2人の女優が登壇して華やかだったけれど、今年も今年でとてつもなく美人の人がいたんで主演する女優さんかなあを遠巻きに観ていたら何と監督の人だった。杉野希妃さんといって映画のプロデュースなんかをしていた人らしいけれども、あの敏腕プロデューサーとして名を轟かせ、今は吉本興業関連の映画を手掛けている奥山和由さんに誘われて監督もして主演もすることになったらしい。作品は去年の受賞作の浅香式さんによる「マンガ肉と僕」って作品で内容は覚えてないけどタイトルからして面白そう。それをあの美人過ぎる監督が美人過ぎる女優としてどう撮りどう演じるのか。そこにR18的な要素って奴は入ってくるのか。「ジェリー・フィッシュ」が文字通りにR18の映画として公開されて鮮烈すぎる女の子同士の絡みを見せてくれただけに期待も膨らむ。でも監督が主演女優をどうこうする1人2役は観てもあんまり楽しくなさそうだしなあ。公開を待とう。


【6月1日】 うーん、別にアニメーションの世界に詳しい訳ではないんで、第15回広島国際アニメーションフェスティバルのコンペ部門に日本の作品が1本も入らなかった件について一体どういう作品が日本から応募されていて、それがどういう審査経過を辿って落ちたのかは分からないし、そうした審査に残り得る作品が応募されていながらも、何か理由があって落ちたのかということも分からない。日本で開かれる世界的なアニメーションフェスティバルに日本の作品が残らないということが良いことなのか悪いことなのかも判断できないし、そういう事例が例えばフランスのアヌシーなりクロアチアのザグレブなりカナダのオタワでもあったのかも知らない。

 ただ感覚で言うなら日本の短編アニメーションは学生の作品も含めて世界中のコンペティションに参加していて優秀な作品が多くあり、それらがこぞって応募すれば残らないなんてことはないと思うだけにそれがまるで通用しなかったことに日本のアニメーション作家なり、アニメーションに関わる人たちにとってショックというか何か得たいの知れない物が感じられても不思議はないような気がする。あるいは日本で開催するんだから日本の作品をやや厚めにして日本から来る観客の興味も引きつけてあげればって意見もあるようで、そういう意見にはある意味賛成でそうやって国内的な関心を盛り上げつつ、世界に対する窓となって日本に世界の潮流を吹き込むような場になって欲しいと思う。

 そうでなくてもいわゆる“アニメ大国”な日本では、短編アニメーション作品に対する理解が今ひとつ進んでないような気がするし。実はとんでもない“アニメーション大国”であるにも関わらず。一方で世界のアニメーション映画祭と肩を並べるような大会にするには、国籍とか関係なしに純粋に作品だけで勝負すべきだという意見も分からないでもない。そんな厳正さの結果として日本が入らなかったのなら、それは現在地を改めて見直して精進する糧にしなさいとアニメーションの神様が与えた試練なのだと見られないこともない。ただそうなると、海外のコンペティションに日本の作品が少なからず入っている理由が分からなくなるんだよなあ。

 ともあれ決まってしまったことは仕方がないので、残れなかった日本のアニメーション作家は沼田友さんよろしく路上にiPadを持って立ち、来る人に自分の作品を見せる「広島国内アニメーションフェスティバル」を勝手に開いてみてはいかが、って言ってみたいけどそれもまた費用もかかるし根性もいる話だし。ただせっかく世界から集まるアニメーションの関係者に、日本の作品を観てもらえないのは残念なので劇場でも借りて日本の作品を積極的に流すようなイベントはあって良いような気がする。東京だと割と四六時中、イベントが開かれているけれど西日本だとそういう機会もなさそうだし。それがあったら言ってみようって気も起こるかなあ、SF大会を逃して広島行きの機会を失っていただけに。1度は行かなくちゃいけない都市って気がしているんだよなあ。

 ワールドカップも近いしアニメーション映画ってこともあるんで見ておくかと、市川妙典の元ワーナーマイカルシネマズ、今のイオンシネマに出向いて「ゆうとくんがいく」を見る。ストーリーはA.C.ミランを相手にカップ戦の第1戦を1対2で敗れたインテルミラノの長友佑都選手が、試合で相手の巨漢ディフェンダーにまるで歯が立たずセンタリングは頭を越えられず、ドリブルも阻まれた挙げ句に奪われ、カウンターから1点を奪われるような展開に自分の力の無さを感じ、責任を感じてチームを離れて海の見えるナポリへと旅に出て、そこでかつて華麗なテクニックでならした元イタリア代表のロベルト・バッジョと出会い、彼のアドバイスと猛特訓を受け再起していく、といったもので見ればなるほど長友佑都選手が世界屈指の名門クラブ、インテルミラノでレギュラーのディフェンダーをやっていられる訳が分かった。

 嘘じゃないって。いやインテルもミランもバッジョも出てこず長友みたいなYUTOって選手が出てくるくらいだけれど、彼が壁にぶちあたって迷っても最後は自分自身の鍛錬によって頑張り抜き、走り抜いて突破していく姿は大学時代に二軍で太鼓を叩いていた落ちこぼれが、それでも走って走って走り抜いてレギュラーをつかみJリーグでプロとなって活躍し、日本代表に抜擢されて左サイドバックのポジションを確保し海外に移籍しインテルへとたどり着いた長友選手の姿に重ならないでもない。見ればなるほど頑張り抜く大切さって奴が分かるけどでも、外国人が見たらやっぱり日本人選手は東洋の神秘めいた猛特訓をしているだって思われるだろうなあ。って教えたのバッジョ(もどき)じゃん。イタリア人も猛特訓とか好きなのかな。ともあれ愉快な映画。白組が制作しているけれど3DCGバリバリってよりはフラッシュのように軽めで楽しくそれでいてちゃんと動いている感じ。サッカーとパスタが気になる人は見ておこう。

 八針来夏さんの「覇道鋼鉄テッカイオー」と並んで、童貞エネルギーがロボットを動かすライトノベルの双璧だった「神童神装 DT−O」シリーズが今どうなってしまったのか、分からないけれどもその作者の幾谷正さんによる新シリーズが立ち上がった模様。その名も「アーマードール・アライブ 死せる英雄と虚飾の悪魔」(講談社ラノベ文庫)は、人工知能を乗っ取り人類を攻撃するゲーティアなる存在によって文明社会が崩壊し、滅亡の瀬戸際まで追いつめらながらも、人類は人工知能に頼らない技量を磨きつつ、一方で対抗策となる存在を送り出して反抗に出ようとした。それが自我を持ってゲーティアの誘いに乗らないようにした人型兵器の機甲人形たちだった。

 ピノキオになぞらえられてか、ゼペットと呼ばれる科学者が生み出した7体の機甲人形のうち、嫉妬の名を持つレヴィアと組んで敵を追いつめ英雄となった少年。けれども人工知能に“声”を届ける電波塔への攻撃の際に考えてもいなかった事態が発生し、結果敵勢力を大きく削りながら少年はレヴィアを失ってしまう。そんな少年の操縦技量を買った軍は、英雄としての存在を隠し訓練生からやり直すことで、彼に機甲人形を与えて戦場へと戻ってもらうことにした。そして少年は名を愛生文楽と変え、メフィストフェレスという名の機甲人形をパートナーにする。

 レヴィアを唯一のパートナーと認め、彼女を失ったことを悔いていた文楽にとって、メフィストフェレスはパートナーにしたくなかった。けれども仇を打ち世界を平和にするには仕方がないと受け入れた。ところがどこか違っていた。どうやらメフィストフェレスにはレヴィアとは違う秘密があった。そこに絡むのは、レヴィアを失わざるを得なかった理由と、瀬戸際からさらに崎へと追いつめられた人類がすがらざるを得なかった残酷なテクノロジー。知って文楽は悩み迷う。レヴィアとの関係は決して忘れられない。けれども敵は迫る。その敵が……という怒濤の展開が読んでいてまず面白く、そして人工知能ではゲーティアに奪われるから意志を持った人工知能を生み出してしまえとなる設定がなかなかにユニークで興味深い。

 意志があるかないかの違いをどうやって見分けるのか。そこにはどんな差があるのか。チューリングテストとかヴォークトカンプフテストのようなものがあったりするのか。そんな辺りが分からないけど何か設定があったら面白いけど結果的にそれでも越えられない壁があるってことでもあって、彼我の差について改めて考えてみたくなる。最後にラブコメチックな展開にいくのはライトノベルとしてご愛敬。ただ、そこへと至る過程で示された残酷な運命がダラダラとした関係を許さない。人類にだって後がないシビアな環境で少年はメフィストフェレスや機甲人形たちとどんな関係を築いていくのか。人類の未来は。展開に期待。

 酒に酔ってちょっぴり羽目を外すことは人間だからない訳ではないけれど、それによって何か事件を起こしたら悪いのは人間であって酒ではない。人事不省に陥るくらいまで飲む人間こそが悪いのであって何か事件を起こしたのなら全責任は人間が追うべきであって一切の酌量は認められない。だいたいが過去にそうやって酒でもって道を踏み外した例は枚挙にいとまがない。情報に接する身ならなおのことそういう事例を良く知っていながら、自分がそんな事例に加わってしまったことに、他の誰が擁護したって自分から身を省みて恥じるべきなんだけれど、そういう殊勝さはあるかなあ、あればあんな地位には駆け上がっていないか。つか周囲にいた同僚だか部下だかは何をしてたんだ。止めなかったのか。だいたいが警官の目の前で悪事を起こして現行犯逮捕をされて、容疑否認とはどういう了見だ。その心理は分からないけど事実は事実なだけにとっとと認めて悔い改めなさいと言っておこう。周囲もちゃんと悔い改めさせろと思うけど、妙に甘いからなあ、それでグズグズに土台がゆるみ歪んでいるにも関わらず。どうするかなあ。


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