縮刷版2014年3月上旬号


【3月10日】 親子の関係を描いた作品が幾つか見られたって意味では、東京藝術大学の馬車校舎でアニメーションを学ぶ大学院生たちの修了制作展では小野ハナさんという人の「澱みの騒ぎ」も、凄絶な親子関係がそこに描かれていて見て戦慄を覚えないではいられない。無職なのか働く気がないのか、いつも家にいて飲んだくれている父親に対して娘がまずとんでもないことをしでかし、そして朽ちていく日々の中でその影響から脱しようとして逃げられず、戻って打ち据え忘れようとしても忘れられないで絡め取られていく展開に、あるいは現実にも起こっているそうした嫌悪と依存でつながった親子関係がもたらす悲劇ってものを、改めて突きつけられた感じ。

 あれは遺影かそれとも記念写真なのか、フレームに収まって登場して、優しげで理知的な表情を見せている父親がどうしてああなり、どうして娘は踏み切ったのか。弱者が切り捨てられ真っ当な人でも生きづらい世の中で、一度底辺へと落ちたら二度と這い上がれない今の社会の問題ってものも、そこに見えて胸苦しくなる。ただの怠惰が招いた悲劇なのかもしれないけれど、そうした怠惰へと人を陥れる何かがやっぱりあるんだよなあ、だから消えない悲劇の連鎖。どうしたものか。経歴を読む小野ハナさん、といったんは大学を出て、VOCALOID向けのPVを作っていて、そこから藝大院に入って来た感じで何か今時。美大から直行とはまた違った社会や風俗に寄りつつ、風刺や伝言などを込めた作品を作っていってくれそうだけれど、果たして。

 笑ってはいけないんだけれど、どこかくすりというおかしさが漂っていたのがキム・イェオンさんって韓国からの留学生が作った「日々の罪悪」って作品で、美大に入ったものの美術の勉強なんかあんまりしないで日々を怠惰に暮らしていて、それをいけないことだと思って罪悪感にとらわれているんだけれど、だからといって改めようとしない女子の姿がかわいいイラスト風の絵でもって描かれる。男友達もいるけれどうまくいっているのかどうなのか。プレゼントをあげようとしたら断られたりと迷惑がられているんだけれど、家に泊まっても追い出されないあたりは腐れ縁。そんなダラダラとした日常って奴を見て美大生に限らず奥の大学生が、自分もそんな感じだよなあって思いそう。だからといって改めないところも共通か。何年かたってあのときもっとやておけばと思うんだけれど、じゃあ今からとも思わないんだよなあ。それが人間って奴ってことで。

 立体を動かすアニメーションは2作あって、1つは当真一茂さんの「パモン」で、髪の毛が自在に動いて胸毛で会話するという不思議な種族たちの日常を描く、って内容でもってフエルトか何かで作られた人形たちが、動いて狩りをしたり恋をしたり歌に合わせて踊ったりする。凄さとかとは違った楽しさが感じされる作品。もう1人はししやまざきさん以上にキャリアが長くてキャラ弁の世界で知らぬ人はいないらしい宮澤真理さんの「Decoration」。ケーキ作りの途中で生まれるキャラクターたちの動きと、作り出されるさまざまなお菓子の美味しそうな様を楽しめる。クリームが塗りたくられる場面とか、そうやって作られたキャラがクリームの模様を維持したまま動くところか、どうやって撮影しているんだろう。ケーキを動かしているんじゃなく、ケーキっぽいフィギュアを作って動かしていたりするのかな。こういう人も受け入れ学んでもらっているとは懐が広い藝大院。還暦過ぎても入れるのかな、いやまだ還暦には遠いけど。

 商業っぽさって面だと大城良輔さんって人の「だっぴするためにひつようなこと」が高校生くらいの学生を主人公にして、学校生活で感じている諸々って奴を表現していて若い世代に刺さりそう。どうもオタクっぽい言動でもってクラスでは決してメジャーな位置に立てない少年が、日々の鬱屈を覚えつつのたうちまわりながら生きている様ってのが学校での日常、自分の部屋での悶々とした仕草、町中でのふっと心を飛ばしてとってしまう社会からはずれてしまいそうな行為なんかによって描かれている。現実に居場所の無さを感じている若い人をある意味体言した作品。吉浦康裕さんの「アルモニ」にちょっぴり重なるオタク少年の日々で、絵柄には植草航さんを思わせるようなところも。より洗練されてくれば青春を描けるアニメーションの作り手として評判になっていくかも。少年には最後に良いことあったみたいだけれど、その後どうなったのかに興味。通じたか、鼻で笑われたか。

 藝大の院といえば、そこを修了して世界に雄飛しベルリンで銀熊を獲得した和田淳さんの新作映像が何かあさの「しまじろう」の番組内で放送されていて意外というか何というか。世界に冠たるアニメーション作家の活躍する場所がテレビの知育番組というこの状況は、世界のアニメーション界にとって有意義なことなんだろうのかと悩む一方で、そういう仕事をこなしていかないと短編アニメーション作家が活動する場所なんてないとも言える訳で、あの山村浩二さんだってNHKのEテレなんかで映像を作って見せていたりする。そういう仕事の傍らで作りたいものを作っていくことしか、今の日本ではきっと許されていないんだろうなあ、あるいは大学の先生とかになって教えつつ作品を作るとか。まあ仕方がない、作家だって専業じゃなく働きながら書いている人がむしろ増えているような状況だし。

 そんな和田さんの新作は、イソップ童話のロバ売りの話で親子がロバを弾いていると何でロバに乗らないんだと言われ、子をのせると親を歩かせるなんてと言われ親を乗せれば子を歩かせるなんてといわれ2人で乗るとロバに無理をさせていると言われロバをだったらかついで行ったら……なんてストーリー。自分の頭で考えず周囲に流されている中身空っぽの愚者の漫然とした態度を描くには、内心の見えない和田さんのタッチであり演出は最適。もとよりどこか寓話的な世界を描いてきたアニメーション作家だけあって、イソップの寓話が実にぴったりとハマっていた。このシリーズを作り重ねていけばひとつの作品集になり映画にもなってパッケージにもなりそうだけれど、「しまじろう」のコーナーは他のアニメーション作家が世界のお話を共作していくシリーズみたい。それはそれで面白いけど、和田さんにもも別の寓話を作ってもらう企画があったら面白いなあ。

 今度の相手は海底だ、とも限らなくって水上にも現れてはお姫さまのヘヴィーオブジェクト「ベイビーマグナム」をも追いつめていったりする中で、やっぱりあちらこちらへと振り回されるのがクウェンサー=バーボタージュとヘイヴィア=ウィンチェルの2人組。まずは深海1500メートルに鎮座し動かないまま敵の攻撃は海底火山の熱で暖められた水流を壁にして遮りそして自らの攻撃は確実に当てる新型ヘヴィーオブジェクトの弱点を探ろうとするものの、ちょっとした異音ですら察知しレーザービームをぶち当ててくる厄介なヘヴィーオブジェクトを相手に抜き足差し足の探索。そして失敗。だったらと弱点を探るべくクウェンサーは貴族の気まぐれで投獄される者たちが集まる刑務所に潜入して、ヘヴィーオブジェクトに詳しい女性をさらって脱獄しようとするものこの女がまた大変な玉だったという。胸は大きいけれど。

 そして浮上しては水の壁を作ってビームを遮る技まで見せた敵の新型を相手に苦しむお姫さまの「ベイビーマグナム」。そんな闘いの隙間でやっぱり徒手空拳でもってヘヴィーオブジェクトをぶち倒してきたクウェンサーとヘイヴィアの闘いが繰り広げられるといういつもの展開は、いったいどうすれば完全無欠に見える敵の新型を倒せるのかと思考するプロセスが楽しく、ぎりぎりのところで大逆転に成功する展開が面白い。ヘイヴィアの実家で雇われているメイド軍団の闘いぶりもなかなか。とりわけ眼帯をはめた軍曹みたいなメイドさんの、ヘイヴィアを表で罵倒しつつ内心で惚れているその胸キュンな振る舞いに触れればヘイヴィアだって惚れ直すかというと、刷り込まれた恐怖はそう簡単には抜けないか。勿体ない。過去の記憶が今になって蘇って人を誘い動かし勢力バランスを揺さぶる展開が、今後どう物語に影響していくのか。そんな楽しみも見えてきた鎌池和馬「ヘヴィーオブジェクト 七〇%の支配者」(電撃文庫)。SFだよなあやっぱりこれ。


【3月9日】 なぜ現れどこから来るのか分からないけれど、それでもやってくる巨大な怪物を相手に必死に戦う人間たちって設定にはうん、聞き覚えがあるけれどもそれは「ゴジラ」の昔からあることで、目新しいって訳じゃないから気にしない。そして湖山真さんの「神滅騎竜の英雄叙事詩」(このライトノベルがすごい!文庫)は災曜日という決まった日、1日だけに限って現れ日付が変わるとともに消える「災神」を相手に竜を扱う者が、街への被害を減らすために災神たちを遠くへと誘い遠ざけては1日が過ぎるまで踏ん張るという展開が、のべつまくなしの緊張を強いられる巨人相手の闘いとはまた違った空気感って奴を全体に与えている。

 とはいえ災神にはいろいろと秘密があるようで、女性だけをを妙に狙っては殺さず頬袋に入れてどこかへと連れ帰るというからちょっと意味深。美味いのか? あと災曜日になったら現れるとはちょい限らないかもしれない可能性を示してくれて、そうと決まって闘いに臨んでいる少年少女を戸惑わせる。そのうちの少年がコーキ・ヘイルでどことなく気弱そうで眼鏡なんかもかけていて、とてもじゃないけど竜なんかとは戦えそうもないのに、その街を守る集団の班長として少年1人に少女2人の上官として闘いに臨んでいる。というのも彼にはひとつ秘密があったんだけれど、それは読んでのお楽しみということで。

 そしてコーキにはフレデリカという幼なじみがいて、竜騎士を目指す学校を主席で出て戦っていたんだけれど訳あってコーキがいる街へとやって来て、さらに人気歌手の護衛として少女の部下2人とフレデリカとコーキの4人で別の街へと行って、そこで大事件に遭遇する。災神の謎めいた生態と、そんな災神を神とあがめる集団の存在、人間と竜の結びつきの深くて強い様、だからこそ崩れた時に起こる悲劇等々、いろいろな要素が絡み合っている世界観がなかなかに奥深い。あとは生真面目でなおかつ強さもあるフレデリカとコーキとの関係に、元からの部下が拗ねる場面も。そういう心情をフレデリカもコーキも分かっていないところが朴念仁というか。ともあれひとつの災厄は去ったけれど災神は消えた訳じゃない。その真相に迫るまで続くか難しい世界の1つのエピソードで終わるのか。次巻に期待。

 観客席へと続くゲートに「JAPANESE ONLY」と書いた旗と日の丸をぶら下げればもうそれは日本人以外入っちゃだめ、って受け取られるのは当然で、他にどんな意味を込めたと言い張ろうともそう受け取られてしまった以上は早急に状況を改善する態度を見せないと、そうした差別的な言動にナーバスな世界がどんな制裁を加えてくるか分からない。この期に及んで日本人プレーヤーだけの状況に異論を唱えようとしたものだとか、いろいろ言い募ったところで、もうそんな場合じゃないんだってことなんだけれど、分かってないのか分かりたくないのか擁護する人が案外と多いところにこの国で、こんなにも対外差別の言説がまかり通っている理由も伺えそう。昔はもうちょっと慎重だったんだけどなあ。意識が切り下がり言って当然という心理がはびこり始めたこの先、悲惨な世界が待っていなければ良いけれど。

 そうだ横浜に行こう。ってことで電車を乗り継ぎ横浜は馬車道にある東京藝術大学でアニメーションを学ぶ大学院生たちの修了制作展を見る。午前8時に出て午前10時前に到着ってことは、だいたい2時間か、僕が名古屋から豊橋に通っていたのとそう変わらないなあ、ってことは通えるか、いやそもそも入れないけど藝大院なんて。歳も歳だし才能ないし。いやでもアニメーション作りってどんな才能が必要なんだろうって時々思うけど、教科書の隅っこにぱらぱらマンガを描いてそれがとってもよく動けば才能があるとは限らないし、絵がとても巧いからといってやっぱりアニメーション作りに適しているとも限らない。絵を動かしたいという思いと、それで語りたいという意思が重なったところに、作品として優れたアニメーションが生まれてくる、ってことなのかというと、それも一概には言えそうもないからなあ、動きのすごさで見せるアニメーションもあるし。

 まあ、そんなことを確かめる意味もあってのぞいた藝大の修了制作展では朱彦潼(シュ・ゲンドウ))さんって人の「コップの中の子牛」というアニメーションが素晴らしかった。絵柄と動きと物語が溶け合ったアニメーションらしいアニメーション作品だった。中国の都市部に暮らしているお父さんと娘さんの話しで娘がなかなかミルクを飲まないのでお父さんがコップのそこには子牛がいるよと言って飲ませようとする、そんな会話からやがてお父さんの決して豊かではないけれどいろいろやって稼いでいる姿、そして娘を慈しんでいる心情なんかが浮かんできて、生きるってことの大変さと大切さを感じさせてくれる。

 絵柄がそんな日常を描くのに適している上に、牛が現れたり少女の空想や回想が現実へと変化していったりとアニメーションならではの自在に変化する動きの特徴をちゃんと入れ込んでいる。赤ちゃんは脇の下から産まれてくるといたその場面で、お父さんの脇からのぞく女の子の顔は実はレインコートの下からのぞいていたものだったとか。ハンドルを握るお父さんのちょいとたてた親指を娘に握らせ、それがハンドルだよと言うと自転車に車のハンドルのようなものがちょいと見えたりとか。そんなモチーフを挟みつつギュッと親指を握った姿を見せつつ、2人で賢明に生きる父を描いてみせた作品に、どこまで作者の経験が入っているかは分からないけれど、この国でもかつてあった貧しさと優しさを思い出させてくれまた、世界で今なお続く貧困の中の賢明を支えてくれる作品って気がした。もっと色々見てみたい作家かも。

 こちらは東京工芸大の卒展あたりで作品を見て気になってからその後も上映会なんかでいろいろ見ていた小谷野萌さんも修了制作展に出していて、その「Mrs.KABAGOdILLA−ミセス・カバゴジラ」もやっぱり、こちらは母親なんだけれど親とその娘の関係を描いた作品。シンプルでゆらぐように描かれた線でもって恐竜みたいな顔をした母親とその娘の関係が時系列とかをまっすぐにしないでわき出すように漂うように綴られていく。病院に入って点滴を受けたりしているカバゴジラな母親の姿もあれば家で一所懸命に書き物をして娘に部屋に入ってくるなと起こるカバゴジラな母親も。そんなかつての厳しさから弱さへと点じた母親の姿に何を娘は思うのか。自分が親でもそして子供でもいつか感じるその感情について予習させ、あるいは思い出させてくれる。

 会場の1階ホールにあった展示では、真っ白な紙ではなくってトレーシングペーパーのように裏が透けてみえる紙に原画を描いていたのが分かってなるほどあのどこかガサガサとした感じはそこから出ていたものなのかなあ、と思ったけれど正解かは知らない。これまでの水彩絵の具を滲ませたような鮮やかさとはまた違って、モノクロの中にほんのりと色が乗ったようなビジュアルは裏が透ける紙の下に色を塗った紙を置いて撮影して出したものなのかな、それが沈んだトーンの中にちょっとしたアクセントとなってふわっと浮かぶ不思議な暖かさを醸し出している、ように思ったけれど本当にそういう風に作られているんだろうか。メイキングDVDを買えば良かったかなあ。

 こちらもやっぱり東京工芸大の卒展から見ている久保雄太郎さんはこっちで勝手に日本のライアン・ラーキンと読んでいるくらいに線画でもって自在に動く絵を作り上げてみせる才能の持ち主で、卒展で見た「crazy for it」なんかはそれが爆発していて弾けまくっていたのが、藝大院に入って1年次として作った「石けり」なんかは師事している山村浩二さんの影響もあってか奔放さをおさえつつ自在さを残し、伸びたり迫ったりするパースを使って子供のちょっとした情景ってものを描いてみせた。そして修了作品となった「00:08」は、肩肘をついて頭をおさえた人物が片手を伸ばしてカップを取ってそれを戻すまでを8秒としてそれをカウント的な音楽に乗せてまず描きまた描いてそして描くうちにちょっとしたブレを入れて時間の隙間を伸ばしそしてその隙間がだんだんと大きくなっては激しく変化し躍動していく。

 目に見えているわずかな時間もそれをじっくりと伸ばしていけばどそこには広い隙間がある、ただ人間の目には見えないだけで。そんな時間に起こっていること、起こり得ることを拡張し膨張させて刹那の永遠って奴を感じさせようとした、なんて言っても良いのかどうなのか。なおかつ爆発するように変化する映像は無秩序のようで心に開放感を与えてくれるような感じがあって、時間という牢獄に閉じこめられているこの身をそこから解き放って、自由の中に発散させたいという思いを満たしてくれる。そんな作品。これを持ってまた海外を回ってくるのかな。ライアン・ラーキンの地元カナダでどういう反響を得るのかな。こちらも楽しみな逸材。

 そんな卒業していく院生たちに混じってなぜかししやまざきさんが1年次に名を連ねていてちょっとびっくり。すでにプロとして活躍していて作品も多い人なんだけれど、歳はまだ決して重ねてなくって藝大から院へと進学して学んでいる学生さんだったみたい。そういう人がテクニックと勢いの上に理論を身につけ進化していった果てにいったいどんな作品を作ってくれるのか。すでにして「ああ/良い」とか巨大な顔がむわっと動く手前で奇妙な人形がダンスする、シュールだけれど目が離せない作品だったりして、そんなインパクトのある作風がより洗練され完成していった暁に、どれだけのパワーを見せるようになるのか。来年の修了制作展が今から楽しみで仕方がない。でもやっぱり「YA−NE−SEN a Go Go 」みたいに単純で楽しい作品も作って欲しいなあ。


【3月8日】 2月の6日に始まった「マイマイ新子と千年の魔法」の英語版字幕入りブルーレイディスクを作っちゃおうぜキックスターターが、30日の募集期限を終えて見事に10万ドルの支援を獲得。予定が3万ドルだっただけに3倍以上の成果は、ああいったカートゥーンとはまるで違い、宮崎アニメのような躍動ともまた違った種類の日本的なアニメーションでも海外に受け入れられる素地があるんだってことをひとつ示したものと言えそう。海外でも人気の「BLACK LAGOON」の監督が作った作品だから、ハードでパワフルなアクション物かもと思って興味を示した人もいたかもしれないけれど、キックスターターのサイトに掲げられた映像とそれに添えられて流れるコトリンゴさんの楽曲を聴けば、とてもじゃないけどガンアクションとかとは無縁の麦畑が広がる田舎の出来事だって分かるだろう。

 それでいて1900人もの人が賛同をして支援を申し出た。日本が世界に誇ると良いながらも決してそのすべてが海外に紹介されている訳ではなく、ハイエンドな宮崎アニメや大友克洋さんのアニメやいわゆるエッチ系美少女アニメがOTAKUの間でそれなりに支持を集めてはいても、そういうのしか売れないんだという思いこみでそればっかりを輸出されては受ける方だってたまらない。日本に多々ある静かで優しくそして面白いアニメーションをもっと持ってきて欲しい、そんな声がこれをきかっけに海外から上がるようになってくれれば、日本のアニメにもさらなる道が開けるんじゃなかろーか。次はだから同じ片渕須直監督の「アリーテ姫」か宇田鋼之介監督の「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」なんかが海外に出ていってブルーレイ化されて、その流れで日本版のブルーレイが発売されれば嬉しいな、なかなか出そうにないもんなあ、やっと「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」が出るくらいで。

 残念ながら今回のブルーレイ化は海外での配給権を獲得した会社が海外での販売を条件に行うもので、アメリカ本土やイギリスや一部の地域以外では買うことができなくなったみたい。最初に130ドルのキックスターターに支援をしたけど、そういう連絡が来て個人輸入のような形も難しいみたいだったんで、無理することはないとキャンセルをして代わりにアートブックへの支援に切り替えた。ここで海外版が日本で発売されるようにすると今度は日本で既に多くが買ってしまったかもって思われて、日本向けのブルーレイディスクが出ないなんてことになりかねない。ここは自重し日本の版権保有者が日本で出してちゃんと売れるだろうと思えるくらいにまずは人気を盛り上げ、関心を高めることが重要なんじゃなかろーか。それにはこうしたキックスターターの成功を喧伝して作品の認知度を上げることが大切。媒体を持たない窓際ライターにはせいぜい日記に書くくらいだけれど、それでも何かに繋がれば。期待して待とう、5年でも10年でも。

 高校に入学する直前の春休みに、英語を教えてくれていた大学生の人に連れていってもらって神戸のポートピアを見た帰り、大阪の千里にある万博公園のそばに建つ国立民族学博物館へと寄って、中をいろいろと見た記憶がある。大学生の人が人類学を勉強していたってこともあっての立ち寄りだったと思うんだけれど、こっちもそういう歴史とか民族学とかに興味があって、いつか自分も学んでみたいなあと思っていたけ、どあいにくと英語が壊滅的でその学校には入れなかった。でもまあ歴史の方で英語がたいしたことなくても行ける学校に入れたから、それはそれで希望は叶ったと言えそう。まさかその中国史がメインの学校でインド史で卒論を書くことになって英語の資料を読み込む羽目になるとは思わなかったけど。よく書けたよなあしかし。書き直したけれど冒頭だけ。

 そんな国立民族学博物館では、中にオセアニアやら中南米やらの民族的な資料がわんさかとあってイースター島のモアイもあれはレプリカだろうけど置いてあった記憶があって、いつかまた行ってじっくりと見て気分だけ世界旅行をしてみたいなあと思いながら建ってしまった30余年。なぜか東京の国立新美術館にその国立民族学博物館がやって来ることになって早速のぞいたその展覧会「イメージの力 国立民族学博物館コレクションにさぐる」は、オンゴロの仮面というかガダラの豚というかオセアニアにアフリカから南米北米東アジア東南アジアに欧州まで、広い地域から民族の生活にまつわる儀礼に絡んだ品々がやって来ていて一種不思議な雰囲気を醸し出していた。

 だって仮面だよ。人形だよ。きっといろいろ情念に想念がこもった儀式で使っていたものに違いない。そこに込められた思いなり受け継がれてきた念なりが、たとえ残ってはいないとしてもそういうものがあったと思うだけで、おいそれと見過ごせなくなる。長い年月を風雪にさらされて来た道祖神を日本人なら捨て置けない。そんな品々が本来の場所から離れた六本木のこぎれいな展示室ににょきにょきと立っている。読むと墓標だったり呪術用の人形だったり。もちろんそれを墓場から引っこ抜いてきたとはちょっと思えず、別にあつらえてもらったのかもしれないけれど、そうでない実際に使われていたかのようなトーテムであったりマコンデであったり仮面であったり人形であったりといったものには、やっぱり何かを感じないではいられない。よくもまあ日本に持って来られたなあってことも含めて。どういうやりとりがあったんだろう。そしてどういう研究に今役立っているんだろう。それを知るにはやっぱり行くしかないのかなあ、大阪に。

 今回の展示を見てひとつ気が付いたのは、国立民族学博物館が決して過去の種族民族の営みから文物を収集している訳じゃなくって、現代もなおアップデートされている生活にとけ込んだ民族の形を集めているってこと。会場にはビールの缶で作った東南アジアのおもちゃとかがあったし、これはどこの国なんだろう、アフリカかどこかかな、メルセデス・ベンツやイカや旅客機やライオンをかたどった棺桶なかが展示されていて、文明とかテクノロジーを受け入れた文化がそれらを何か力なり権力の象徴として位置づけ、儀礼や生活に取り入れているってことが分かった。英国国旗のユニオンジャックがモチーフに使われたアフリカの結社の旗では、ユニオンジャックは英国への基準ではなく、強いものの象徴として使われているとか。スターズ・アンド・ストライプを来て権威を示すミュージシャンみたいなもの? ちょっと違うか。

 あと内戦で国中に散らばった銃器を回収し、アートとしてオブジェにかえるプロジェクトなかも紹介。行き渡った銃器が小競り合いから果てしない内戦へと人を陥れる可能性なんかが指摘されている中で、平和になったその二度と手を汚さないような運動を、うまく回すためにそうしたことをしているらしい。AKカラシニコフの銃身が脚になった椅子とかあって何というかグロテスクなんだけれど、こうして固められることによってこれ以上の血を流させないという防波堤のような役目をひとつ、象徴しているとも見て取れる。字面のちょっと違う民俗学的なニュアンスも徐々に取り入れ、ワールドワイドに視点を広げて今まさに生活の現場で起こっていることを、政治とか芸術といったものとは違う目線で掴み、集め見せようとしている博物館。そうした活動の積み重ねがいつか世界に生きる人たちに過去を振り返り、今を改めるきっかけをもたらしてくれるだろうと信じたい。そのためには活動が続けられることだけれど、この財政厳しい中で国立民族学博物館はどんなんだろう。それも確かめにいつか行こう、大阪へ。太陽の塔もまた見たいし。

 発表されて欲しいと思いCP+で実物を見て買いたいと思ったものの、5万9800円くらいする値段に臆して買わずにいたPENTAXのQ10のエヴァンゲリオン仕様が有楽町のビックカメラで1万9800円で出ていると知ってどうしたものかと悩んだ末にやっぱりこれは拾っておくかと買ってしまう。発売からだいたい1年でこれだけの値下げ。ベースとなるQ10に後継機種のQ7が出ていたりエヴァ仕様っておとで特殊なユーザーニーズに限られる可能性があるってことで大幅値下げになったのかもしれないけれど、一方ではエヴァ関連グッズってことでプレミアがついてもおかしくなかったはずの品。それが新品でレンズ単品より安く売られていることの不思議さは一般に知られた作品と思っていても決してすべてに知られたものではないんだってことを証明しているんじゃなかろーか。赤かったり紫色だったりするカメラ、やっぱり使いづらいもんねえ普通の人は。レイ仕様の白いがは売り切れてたのは一般でも耐えられるカラーリングだったから、なのかも。とりあえずフィルターを付けてこれから活用。予備電池も欲しいなあ、あとレンズも……って考えると結構費用かかるかも。まあでも最初の値段を思えば。


【3月6日】 マウントレーニアホールで石川綾子さんの素晴らしいヴァイオリンの音色を聞きつつ、「にんじゃりばんばん」の演奏でぴょんと飛び跳ねる姿の可愛らしさを堪能していた一方で、東京ドームではザ・ローリング・ストーンズの日本公演の最終日が行われたみたいで、深刻の度合いを増すウクライナ状勢とかそっちのけで聞きに行ったらしい安倍晋三総理が、感想を聞かれてストーンズの曲になぞらえ「サティスファクション(満足)だ」って答えて記事になっていたけどちょっと待て。この曲って別に俺は満足だって歌っているんじゃなく、むしろ逆に俺はまだまだ満足してないぜって歌って前へと進む意気込みを込めた歌じゃなかったっけ。だからタイトルも意味合い的には「満足?」って感じで、それを自分のライブへの満足感に置き換えて語ったらまるで意味が違ってしまう。ここは記者に聞かれて「まだまだ満足してないよ、もっと日本のために頑張るよ、そう歌に励まされたよ」と言えば完璧だったんだけれど、それがすらっと言えるくらいに世間のことを知ってたら、こうも世界中から袋叩きにされるような総理にはなっていないよなあ。付け焼き刃は国を滅ぼす。

 なかったということを証明するのは悪魔にだって無理な話だと世間は分かっているんだけれど、ここに分かっていないおっさんが1人。役員にあたる理事から日付の入っていない辞表を就任と同時に預かったというNHKの籾井勝人会長が、そんなことは日本の社会で普通に行われていることだと開き直ったのみならず、そんなことをやってる企業なんか世間のどこにあるんだと突っ込まれて、自分で調べたらどうだと答えたとか。いやだから無いのを調べるのは困難で、あるいはあったとしても普通に知られていない企業でこっそり行われているのを引っ張り出すのはやっぱり難しい。あるというならその事例を会長が挙げるのが手っ取り早いし自分の持論の強化にもなるんだけれど、それをやろうとしないところに自信の無さが現れているって感じ。折しも東京新聞が上場企業を相手にどうなのと聞いた記事が出ていて回答を避けた5社以外の45社でゼロ。ありそうもないってことになったけれど、それでもあるところにはあるんだから探して来いとでも言うんだろうか。言うんだろうなあ。そうでもしないと自分を守りきれないから。悲しい人だ。

 もはやどっちでも良くって、佐村河内守さんが例え曲を自分で作っていなくても、設計図を書いたりイメージを伝えてお金を払ってそれを受けて曲を作った人がいたなら作られた曲は全部とはいわないまでも佐村河内さんの作品で、あとは取り分をどうするかっていうのはお互いの話で周囲がとやかく言う話ではない。耳が聞こえないということを売り文句にして大勢に関心を持ってもらったことが偽りだったのだとしても、そのことで音楽にゲタを履かせてもてはやしたのは、そうした“物語”が好きなメディアであり聞き手の人たち。真相を知ってそれでも良い曲は良い曲なんだからと誉めるのもひとつの態度だし、履かせたゲタの分だけ高く見えただけだと自分の聞く耳のなさを吐露するのもひとつの態度。自省するのは自分たちの方であって、被害者面してすべての責任を相手に押しつけるのは大人の態度として格好悪い。

 ましてや、完全に音が聞こえないということはなかったとしても、検査の結果とし「感音性難聴」として聞き取りづらいところがあると診断された訳で、耳が聞こえないふりをして世間を騙そうとしていたのではないと言えば言えてしまう状況にあって、メディアを中心に耳が聞こえていないというのは嘘だったんだというストーリーを作り上げ、その人格を否定しようとする動きが激しいのには、見ていて危ういものを感じる。音は聞こえる。声らしきものも聞こえるけれど、それがいったいどういう内容のものなのかが理解できないというのが「感音声難聴」というもの。だから記者会見で記者が立ち上がって何かを言えば、ああ何か言っているなあと理解して頷くことはできても、それが具体的にどんなことかは、前後から予測はできても正確なところは通訳してもらわないと正確には分からない。けれども世間は声に反応しているからちゃんと聞こえているんだと見て叩く。同じ症状で周囲に理解されていない人も多いだろう中で、こうしたメディアの突出は良くないことを引き起こしそうな気がして仕方がない。

 ハンディキャップを売り物にしていた、なんてことを糾弾してその人格をとにかく否定したいメディアの躍起で頑なで功名心にあふれた態度が、障害者であること自体に何か気恥ずかさを過任じさせるような空気を生みつつあることも気にかかる。佐村河内さんが出てきた会見でひとり、質問者が義手でヴァイオリンを弾く少女を舞台に立たせたことについて触れて、それで感動を誘おうとしたのはどういうことかと佐村河内さんを糾弾してた。対して佐村河内さんはハンディキャップを持つ人が自分の頑張っている姿を見せることによって、周囲を感動させることが出きればそれは素晴らしいといった旨を話していたけど、質問者はそうした姿ではなく演奏の内容そのものに感動すべきなんじゃないかと突っ込んでいた。もちろんそういう場合もあって、音楽のコンクールなんかで目が見えなかったりするピアニストが登場しても、それで得点を上乗せすることはなく純粋に演奏の内容だけで評価して、賞を与えることが過去にもあった。辻井伸行さんの音楽に目が見えるかどうかは関係ない。

 でも、ハンディキャップを持った音楽好きの人が、すべて辻井さんになれる訳ではないし、あの域まで達しなければ意味がないというものでもない。まもなく始まるパラリンピックというスポーツ大会があるけれど、そこに出場する人たちは何かしらのハンディキャップを持ちながら、それを時に器具によって補いつつ精一杯やれることをやってそこで競い合っている。あるいは自分を見せあっている。けれどもそれは実際のオリンピックに出場する選手たちに比べれば、当然ながら成績面で違いがある。陸上の短距離で義足をつけると反発係数の具合で実際に走るより速くなるケースあるけれど、それは一部で、だいたいはオリンピック選手に及ばないけれど、それを見て劣っていると思う人はいないだろう。そして頑張る姿に素直に感動するだろう。ハンディを持った人の音楽活動に演奏の質だけを問うなら、パラリンピックを見て感動してはいけない、なぜなら成績が及んでないとも言うのだろうか。それはなかなかに厳しい話だ。

 佐村河内さんの態度をとにかく糾弾したいがために、ハンディキャップを売り物にしているような態度をあげつらって、ハンディにに悩みつつ頑張っている人たちのひたむきさを否定するようなことを言ってしまう質問者の人の吹き上がりっぷりが、どうにも見ていて胸苦しい。ステージに上がらせられた義手の少女が、そうやって衆目にさらされることを嫌がっていたのなら、それは無茶な話として非難されるべきだけれど、そうでない、自分をもっと世間に知ってもらって、夢を与えたいという人がいたら誰にもそれを止めることはできない。自分だっていつ、そちらの側になるかもしれないのがこの社会。そうなった時に自分に希望を与えてくれる人たちの頑張りをもっと見たい、知っておきたいという気持ちを否定なんて出来ない。そう思う。

 金をつり上げて来たとか、手柄を自分のものにしようとしてるといった佐村河内さんによる新垣隆さんへの批判は、共同作業をしていた人たちにつきもののもめ事であって、それは2人が解決すれば良い話。周囲がどちらの見方をして相手方を悪し様に言うのは何かズレている。そうした善悪の判断でハンディキャップがあると見せかけていた、という部分が理由となるなら今いちど、本当はどこまでハンディキャップの持ち主だったのかをしっかり理解しておく必要がある。けどメディアはもはや彼は世間を騙していたという方向でストーリーを作り、ハンディキャップを持ったアイドルが非難するのを気が早いと諫めもしないで、その尻馬に乗って叩こうとしている。世間に理解されづらいハンディという意味では共闘できたかもしれない2人を分断するこの手口は、都合によって善悪を切り分けるメディアの悪弊でもあって、それがここでも猛威を振るっている。その先に来るものは。怖いねえ。

 死んだと思ったら生きていたNMG文庫から出た西紀貫之さんの「苛憐 魔姫たちの狂詩曲〜棘姫ととげ抜き小僧〜」が面白かったよ。巣鴨のとげ抜き地蔵の名代となって、人心を惑わすトゲを抜く力を与えられた高岩禅次郎という少年と、ヨーロッパの森からやて来た棘姫という見た目は少女の魔女ターリアがペアを組んで、トゲに惑わされて少女たちを喰らった古流神道の女総帥に立ち向かうという話。個性を持ったキャラクターたちの会話のテンポが楽しいのと、バトルの描写が明解なことが読んでいてストレスなくストーリーを頭へと入れてくれる。ターリアに仕えている服部シズカというお姉さんのターリアへの心酔ぶりと、禅次郎をまじめな口調でからかう様がとにかく愉快。平気で下着になった姿を禅次郎に見せつけ誘ってその様子をターリアに見せて憤らせるとか、なかなかの策士ぶりも見せてくれる。残酷すぎる展開があって後、遺された者たちに遺恨が残らないか気になるけれど、それも含めてトゲとして抜いて解決して消える去り際も良い。次もあったら読みたいなあ、禅次郎とターリアとシズクの3人漫才を。漫才なのか。


【3月6日】 国立霞ヶ丘競技場で行われたサッカーの日本代表とニュージーランド代表の試合を雨の国立競技場ではなくって家で見る。だって寒いじゃん。そりゃあ最後のコクリツっていう惹句に興味がなかった訳でもないけど今の代表って果たして見るに値するチームなのか? ってあたりがずっとモニョってなかなか脚を踏み出せない。いつもの面々がいつもの試合をしているだけ、って感じがあってそこから先にどうなるかって展望が見えない。それはジーコ監督が率いたドイツでのワールドカップの時と同様。海外組にこだわるあまりにへそを曲げて夜遊びをして放逐された面々が、戻っていたらどれだけの上積みになったのか。思い出すだけむなしいけれどでもやっぱり思い出す。中田英寿選手の全盛期はあれでつぶれてしまった感。

 なるほど青山敏弘選手と山口蛍選手の2枚が並んだボランチは目新しかったししっかり仕事もしたようだけれど、どうせ本番は調子を戻した遠藤保仁選手と長谷部誠選手でしょ? って言われて否定できないくらいザッケローニ監督の選手の固定化ぶりって凄いからなあ。新戦力の上積みが期待できない中でいつかのコンフェレデレーションカップの二の舞を演じるだけって気が今からしてる。大迫勇也選手だってドイツでいったいどれくらいの仕事をさせてもらっているのか。香川真司選手なんて試合に出してもらえていないじゃないか。それなのにスタメンレギュラーが確約されている日本代表なんて意味があるの? とはいえ選手選考まであと2月、始まったJリーグでの調子なんて見ないで今のまんまでえいやっと行ってそしてこてんぱんにされるんだろうなあ。終わったかなあ日本のサッカー人気。

 女子のなでしこジャパンも新戦力が出てきていないって意味では同じか。始まったアルガルベカップのピッチに並んだ面々のだいたいがこれまでに見てことのあるような選手ばかり。大野忍選手に大儀見優季選手に宮間あや選手に坂口夢穂選手に沢穂希選手に川澄菜穂美選手に近賀ゆかり選手と3年前4年前にも見たような名前がずらり。それでアメリカと互角に戦ってしまうんだからやっぱり最高のメンバーなんだけれど、そんな世代がごっそり抜けてしまった後にいったいどうなるか? って考えるとちょっぴり不安になる。ちょっぴり入れ替えたとしても今なら安藤梢選手や丸山桂理奈選手が加わって来るだけになりそうだし。

 一時期は未来の得点王だなんて目されていた岩渕真奈選手も、期待されていたほど伸びてこないし、U−17でドリドリやってた横山久美選手もその後あんまり出ないまま、今シーズンはACパルセイロレディースから上を狙うという感じ。期待の新鋭で伸びたのって大儀見選手くらいだもんなあ、それもずいぶんと前の話か。まあでも男子ほどせっぱ詰まっていないんで、ワールドカップの予選に向けて別でやってるU−23からの昇格組が合流して来て、本当の次世代なでしこジャパンが出きるんだろうと思いたい。巨大な山根恵里奈選手はポカもあったけどおおむねよく守っていた。あのセーブがなければ4点は奪われていただろー。俊敏さが増してボールに向かう勇気も見えた。良いキーパーになったなあ。あとは経験。積み上げろこのシリーズで。

 そうかもう8年になるのかな、パルコギャラリーでの展覧会「都会犬」から数えて久々になるタカノ綾さんの個展「すべてが至福の海にとけますように」が元麻布のカイカイキキギャラリーで始まったんで見に行ったらとてつもなく素晴らしかったのでみんな昼ご飯も食べずにダッシュで駆けつけるように。団地に工場に発電所が廃墟のようなたたずまいを見せ、繁栄から衰退を経て崩壊へと向かっているような文明を背後に、浜辺で少女たちが戯れ横では祭りが繰り広げられるのを動物たちが見つめる絵。背後には空がひろがり雲がたなびきそして宇宙が広がっていて、火星に木星に土星が浮かんで悠久の広がりを感じさせつつ、すべてを混沌の至福へと呑みこんでいくような様を横長の巨大なカンバスに描く。

 そんなメインの絵と対をなすよう、畳が敷かれた座敷の奥には浜辺から海を眺めたこれも横に長い大きな絵。ボッティチェリのヴィーナスのように中央に女性が立って足下でカップルが愛を確かめ合う、その後ろでは彗星が空から落ち海に浮かぶ祭りの船が燃え、鯨やイルカが浜に打ち上げられて息絶えようとしている。終末のビジョン。でも滅びへの鬱々とした恐怖はない。むしろ必然として起こり女神によって誘われ導かれていく穏やかな滅亡といった感じ。もちろんこれらはパッと見た感じから受けた印象で、より深くより細かく見れば変わるし描かれた意図も違うかもしれない。滅びよりもむしろ再生を意図し、震災で混沌とした浜辺から人々が立ち直っていく姿を描こうとしたものなのかもしれない。そんな多様な解釈と解読を呼ぶタカノ綾の絵たち。巨大なカンバスに散りばめられた多彩なモチーフの、どれひとつとして無駄なく画面に配されていて、シュールだけど優しい世界をそこに描き出す。画集でもネットでも分からない、現場に立って眺めてこそ分かるその浴びせかけられるような感覚。行って確かめたい。

  ほかにも個展では大きく描かれた女性が車の窓を半開けにしてこちらを見る絵があって、車の窓ガラスに町並みが写ってたりして大胆かつ繊細な構図を持った絵とか、コンビニのファミマの前でトラックから降りてきたような女性が中央にひとり立ち、左右に見切れて1人づつ立っているのをそれこそ地面すれすれの視点から煽ったような構図の絵とかあって、画面構成に工夫を感じさせた。もう巧すぎる。花がちりばめられた中を座って猫を肩に載せてこちらを見るポートレート風の絵もあったし、描いた絵の上に別の絵を描いたセル画を重ねてイラスト風に仕上げた絵もあったりと多彩にして多才。心に浮かぶ風景やシチュエーションをおもむくままに自在に描いていた感じがあった8年前とはまた違う、絵という物に向かい合った感じが伺える展覧会だった。

 黒と白の女神だか天女だかが中央に大きく向かい合って周囲を様々なモチーフが踊る曼陀羅みたいな仏画みたいな絵もあったなあ、背景がどこか着物の柄っぽかった。1番大きな絵にも歌川国芳のクジラと海みたいな様式が取り入れられていたりして、そうした和のテイストなんかも取り入れようとしているみたい。その絵に立つ祭り衣装の4人組がまとった浴衣か法被か何かの柄とか素晴らしかった まあいろいろ書いても尽きないくらいにいろいろ浮かんでくるものがあるカイカイキキギャラリーのタカノ綾の個展に行かずんばこの春は終われない。そして1度だけでは終われないのでまた行こう。会期中には画集もできあがってくるそうだし。

 ニコニコ生放送なんかで話題になっている超絶技巧の美しすぎるヴァイオリニスト、デビあやこと石川綾子さんさんのライブが渋谷であったんで見物に行く。横浜アリーナで開かれたきゃりーぱみゅぱみゅのライブで2日続けて出演しては「にんじゃりばんばん」をヴァイオリンで弾いてその圧倒的な巧さで両日併せて2万4000人を釘付けにした人。いったいどんな演奏をするんだろうといってのぞいたらやっぱり完璧なまでの技巧でもって、今度はボカロ曲なんかをいっぱい弾いてくれた。「千本桜」とか。今回はボカロ曲を集めたアルバムを出したそうでそのお披露目もかねたライブってことでアルバムからの曲が中心。デジタルな音質でボカロらしい歌声が乗った原曲とはまた違ったヴァイオリンの音色で奏でられた楽曲は、本来のメロディアスな部分とかが際だって聞こえて良い曲はなるほどやっぱり良いんだってことを教えてくれた。

 オーストラリアでトップクラスの実力を誇っているヴァイオリニストがクラシックのコンサートでソロとか弾くんじゃなく、マウントレーニアホールって元は映画館だったらライブハウスでキーボードとベースとドラムとギターを従えボカロ曲中心のライブをする。れがクラシック界のひとつの現実って側面も一方にはありながら、クラシックだろうとボカロ曲だろうとポップスだろうと良い曲なら認めどん欲に取り入れつつ、ヴァイオリンならではの技巧や音色に載せて聞かせてヴァイオリンの良さを広めようとするそのスタンスこそが現代ならではのミュージシャンの生き方なのかもしれないと教えられた気分。ライブではほかにピアソラを演奏したりヴィヴァルディを演奏したり「天空の城ラピュタ」の主題歌「君を乗せて」を演奏したりと八面六臂。もちろん「にんじゃりばんばん」も演奏してくれて途中にぴょんと飛び跳ねる仕草なんかを挟んでとっても可愛らしかった。適度に盛り上がって声援も飛ぶ良いライブ。クラシックではありえないけどアイドルとも違う落ち着き具合が心地よかった。機会があったらまた行こう。


【3月5日】 示現流を使う神話的英雄の力を受け継ぐ少年が高校に2番で入ったのに分校に落とされ同室になった翼のある少女と赤マントという辻斬りを捜しつつ本校にはい上がるため学園を牛耳る生徒会長に闘いを挑み……っていかん、えんため大賞を受賞した2冊がごっちゃになった。朝凪シューヤの「奈落英雄のリベリオン」と高瀬ききゆ「神武不殺の剣戟士 アクノススメ」は表紙がともに少年少女の剣劇なら、裏表紙も前者が「だが彼の前に立ち塞がったのは学園最強、雷神の子孫・九鳳院ジュリで……!」で後者は「と語り、殺す気で来る千歳。迎え撃つ龍人。だが、彼は不殺主義者で−−。」といった感じにあらすじ紹介の煽りが似ていて、遠くから見たらちょっと間違える人なんかも出てしまうかも。

 ただ中身は別物でそしてどちらも面白い。まず第15回えんため大賞優秀賞の「奈落英雄のリベリオン」は神話や伝説で活躍した英雄の子孫に眠る力を引き出し使えるようにする学園に歴代2位の成績で入学した伊集院伯也という少年が、なぜか本校から落ちこぼればかりが集められた分校に送られ吃驚仰天。どうして自分がとは思いながらもそこで出会った翼を持った少女とか、同じ分校に通う生徒たちと接触しながら自分にはやれることがあるんだと奮い立って本校への昇進試験に挑むことになる。とはいえ分校を差別することによって本校の生徒に緊張感を与えることを狙って作られただけあって、そこが本校に勝つのは半ば御法度。過去に挑んだ分校生たちもひどいハンディを与えられた試験にことごとく敗れ意欲を削られていた。

 けれども伯也は違った。まだ来たばかりということもあるし成績2位という実力もあって昇進試験でどんなハンディを付けられてもひるまずこれをうち破っていく。立ちふさがるのは学園を作った財閥の娘で成績歴代1位の九鳳院ジュリ。そのすさまじい力をうち破って伯也は、そしていっしょに戦った分校生でとてつもないスピードで飛べる翼を持ったくらみは本校行きと勝ち取ることが出来るのか。本当は強いんだけれどその強さを認められない生徒がやっぱりとてつもない強さを発揮しはい上がっていく楽しさはあるけれど、それならどうして最初に分校へと落とされたのか、ってあたりがやや謎。理由はあるけどそういう手前勝手な判断をするようなお嬢様にも見えないんだけれど……。まあ仕方がない、金持ちが全部真っ当な性格とは限らない、むしろ逆な場合もあるってことで。英雄の力が現代でどんな力になるかも楽しめる1冊。ひとまず片づいたけれど続けることはあるのかな?

 そして第15回えんため大賞特別賞の「神武不殺の剣戟士」は帯刀が認められ剣術も盛んなまま明治維新を迎えたような世界にあって剣術を学び極める学校に入った少年少女が帝都を脅かす辻斬りの赤マントを相手に闘いを挑むというストーリー。示現流を使う清水龍人にはどこか偽悪敵なところがあって自分を悪党と言って大らかに振る舞うものだからまじめな生徒からはいらぬ誤解を受ける。赤マント探索の意味合いも持った警邏の途中でその赤マントと間違えられて学園も才媛と名高い剣士、星村千歳に挑まれるものの斬って捨てることが認められていてもそれはできない龍人は、示現流の技で千歳を退けりあえずの理解を得る。

 一方で止まない赤マントの殺戮に龍人も千歳も業を煮やして闘いを挑む。けれども圧倒的な剣技を見せる赤マント相手に果たして2にんは勝てるのか。これまた最強に近い少年がその腕を隠しながらも隠しきれない強さで少女たちもそして読者も引きつけるといった設定。あとは龍人と同室になった身長が2メートル近くあるけど心は乙女の剣士とか、生徒会の副会長でなぜかいつも台車を黒子に押してもらって動く和風の美女とかいった不思議でそして強いキャラクターたちが目白押しでなかなか楽しい。とりあえずはこちらも決着がついたけれどこれで終わりとは思えない犯罪の発生。それに挑む龍人と千歳と仲間たちの闘いって奴が見たいもの。続くかな。続いて欲しいな。

 気味が悪いというか始末に負えないというか、そのいかにも善意のカタマリのような顔をして知らず現代人の中に江戸への郷愁とともに忍び入っては歴史的な定説になりつつある「江戸しぐさ」って奴があろうことか文部科学省による道徳の教材に採用されてしまったから大騒ぎ。いやまだ世間の一部しか騒いでないけど教材でも教科書でも歴史をねじ曲げるような記述は断固認めないって吹き上がっている新聞社あたりが、ここは絶対に譲れないと大騒ぎしてくれれば世間も気づくだろうけれど、一方でその新聞は安倍ちゃん政権にベッタリな訳でそんな政権が教科化を狙おうとして「心のノート」から格を上げた「私たちの道徳」にケチをつけるなんてことは絶対ないから、このまますーっと副読本として子供たちの教育に入り込んで行くんだろう。気持ち悪いというか支離滅裂というか。

 だいたいが歴史的な事実を書けやゴルァと叫んでる新聞社がかつて全力で応援していた歴史教科書が、歴史的科学的には証明もされていない神話の時代のお話をさも歴史的事実のように書いてはそれを信じ込ませようとしていたりして、当然のようにそれに反発するどころかむしろ大々的に支持して今なおそうした神話を事実として教えようとしているからなにをか況わんや。「口語訳 古事記」がベストセラーになった三浦佑之さんが「神話と歴史 − 『 新しい歴史教科書 』 の神話記述をめぐって −」って文章で「神話を事実としての歴史にすり替えてしまうのはとても危険なことだ。しかも、今回のように教科書自体に意図的なミスリードがある場合にはなおさらである」って警鐘を鳴らしているけど聞く耳なんてまるでない。「古代史研究者のほとんどが否定している初代天皇神武の実在性について、一言のコメントも付けないというのは歴史教科書として失格だろう」と言われてもそれが国民のためだから、なんて言い抜けでもって既成事実化しようとしてる、そんなスタンスが政権の進める道徳の教科化、そこにおける「江戸しぐさ」なるものの称揚に逆らうなんてあり得ない。むしろこれから全力で応援していくことになるんじゃなかろーか。

 三浦さんは書く。「結局、彼らがほしいのは『事実』なのだというのがあからさまに窺える文章になっている。それも、自分たちに都合のいい『事実』だけがほしいから、歴史を自虐的に糾弾するのはやめようと言っているにすぎないということは、たとえばマスコミでも話題になった『南京事件』の扱い方に端的にあらわれている。戦争での日本人の犠牲者数や苦痛はくわしく記述しながら、南京事件については、東京裁判で取り上げられただけで事実については議論が多いというように、公正さを装った他人事ですませようとする」。自虐はダメといいつつ他虐には頬被りするその無様さが、世界から笑われ怒られているのに自尊心に凝り固まって吹き上がって果たして未来はあるのか。ないだろうなあ。この指摘から干支が一回りして改められるどころかますますひどくなる政治と言論。もうこれが日本なんだと諦めるしかないのかなあ。

 5月30日が公開だからもう完成して試写も始まっているってことになるのか桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」を原作にした映画「Edge of Tomorrow。雑誌のGQなんかが既に見た人によるレビューと監督への質疑応答なんかを載せてて、翻訳サイトなんかを使いながら読むと割に好意的というか辛辣なのかもしれないけれど悪い風には書かれていないというか。よく死ぬ話で「エイリアン」みたいに暗いかというとそうでもなくって「fuuny」って言葉で面白がってくれているのは、どこかコミカルな部分もあって死んでも死んでも生き返って戦うその展開が、悲惨さではなく前向きさを誘う映画になっているってことらしい。だから安心して見ていいってことになるのか。ともあれ楽しみ。あと3カ月。


【3月5日】 しかしロシア、冬季五輪は終わったものの今度はパラリンピックというスポーツの祭典を間際に控えながらソチとは同じ黒海に面したクリミア半島に進駐してはウクライナとの間で帰属をめぐってドンパチやらかしそうな感じ。平和の祭典パート2がこのまま果たして開かれるのかどうなのか、余談を許さない状況にあるんだけれどそんな話はどこかに吹っ飛んでいるところにこの国の、パラリンピックってものへの“おまけ大会”的な視点が見える。何しろ日本で2020年に開かれるパラリンピックでも実行委員会の会長を務めている人が27時間もかけてソチのパラリンピックに行くのは面倒くさいってな言動を見せて平気な国だから。

 っていうかその会長というか森喜朗元総理はロシアのプーチン大統領と「ヨシ」「ウラジーミル」って呼び合う仲らしいからその伝を使って世界平和を実現すれば歴史にだって名を残せるのに。安倍総理もそんな森元総理を特使としてパラリンピック前に派遣すれば良いんだ。彼ならきっと面と向かってあの強面のプーチン大統領に向かって言ってくれるだろう。「ハラーショ、ウラジーミル、おまえのヨシが神の国から来て遣ったぞ、なんかクリミア半島に進駐するそうだけれどちょっと待て、今時戦争なってはやらない、これからはイットだイット、その技術を使えばどこどだってツーカーだ、だいたいお前は大切な時に限って転ぶ、今回だって転ぶだろうから戦争なんて止めておけ」。聞けばプーチン大統領だってクリミアへの矛先をはずすだろう。代わって日本に向けるけど。ハラーショ。

 本屋大賞をめぐって作家の海堂尊さんがいろいろと書いているのが面白いというか面白がっていてはいけないというか。最近の本屋大賞は売れる本ばかりを並べた上でとてつもなく売れる本を1位に押してはさらに売れまくるようにする一方で、その他の本はたとえ候補作に入ったとしても売れずさっさと平台からどかされ、結果として1冊のミリオンとほか少部数の本を生み出すだけの賞になっているって感じの話で、それで書店は潤っても作家さんは潤わず、書店の棚はやせ細って小説は衰退していくばかりってな意見が繰り広げられている。本当にそうなのかというと、割と候補作でも平台にしばらく並べられている本はあるようだけれど、1位になった本みたいに延々と並べられ延々と増刷されるってのはあまりないか。そうでないのは受賞しなくても普通に売れていた本だから、「ビブリア古書堂の事件手帳」みたいに。

 本屋大賞っていうのはもとは、数ある文芸賞がありそれ以上にさまざまな本が刊行されているにも関わらず、直木賞の受賞作ばかりが売れて他の良い本が売れない状況を何とかしたいって書店員さんたちが、本当に読んで欲しい本を並べて賞を与えて作家さんを持ち上げようとして始めたもの、ってことだったような記憶があって、だからというか1回目では、芥川賞作家ではあったけれどすでに遠い存在になっていた小川洋子さんの「博士が愛した数式」に賞を与えて大きく盛り上げ、後に発売された文庫がミリオンに達するような大きな作家へと“育て上げ”た。2回目はやっぱり自力はありながら大きな賞を逸し続けていた恩田陸さんの「夜のピクニック」を取り上げ授賞させて、後に直木賞候補の常連になるくらいの場所まで押し上げた。

 そんな感じに知る人ぞしる作家をリフトアップしていた感じだった賞が、第3回で既に超ベストセラーになっていたリリー・フランキーさんの「東京タワー」を授賞させたあたりから、世間ですでにはやり始めている本が候補にならび賞を取るような感じになってきたような印象。あくまで印象だけれど、その頃から「本屋大賞」という称号が本の売れ行きと重なるようになって出版社もすごく意識するようになったような気がするし、選ぶ方でもより売れる本を選んで良いのかな、って気分で臨むようになってきたような気がする。特に書店員さんにも運営している人にも出版社にも知り合いがいないから、あくまで印象でしかないんだけれど、初期の知る人と知る作家を世に送り出そうっていう“気概”とは違った意識でもって、本が選ばれているという、そんな印象。

 だから受賞した本はさらに売れて大きく売れていくけれど、そうでない本は平台からさっさとどかされ数千数万のオーダーにとどまり埋もれ消えていく……。それを海堂さんは残念に思っているのがあのブログになったんだろう。そういう海堂さんだって結構売れているんじゃないの、という声もさておきだったら本屋大賞はどうあるべきか、なんてことを考えたところでここまで有名になってしまった本屋大賞が何か変質することもなく、今まで以上にエンターテインメント系小説の年間ベストとして運営されてはその年に結構売れていたりする本をよけいに売れるようにすることになるんだろう。

 50万部の本が200万部になれば150万部が増える訳で、1万部の本を10万部にしたところで9万部しか増えず、本屋さんも出版社もあんまり嬉しくないからね。ただ1万部の本が200万部になるとかすれば199万部の増加だし、1万部の本が10冊あってそれぞれ20万部になるとかすれば190万部の増加といった具合に、広がるパイは1強他弱と同じかそれ以上。だから売る方も本屋大賞にノミネートされたこと、それ自体を持ち上げ世間にアピールして売ろうとし、版元も受賞作でなくてもノミネートされたことを喜びアピールしていけば、全体に盛り上がっていけるんだと思うけど、そういう風になっていくのかな、なってはいけないのかな。ともあれちょっと様子見。ちなみに今年は神7と噂の万城目学さんに「とっぴんぱらりの風太郎」でとって欲しいけど、どうかなあ。

 「いいやま・みつる」ではなく「はさま」と読むらしい飯山満さんの「蒼銀のユーリア1 Gunpowder Valentine」(オーバーラップ文庫)って本を読む。何か身体に生まれながら不思議なところがあって、人智を越えたパワーを発揮する上に誰かにキスするとその相手も良ければ超人、悪いと怪物に変えてしまう能力も持っているらしい少年が、それ故に怪物を排除したい組織から狙われるというストーリー。かつて家族を襲われ本当は従姉妹だけれど姉と呼んでる少女だけが生き残り、今も身内になっている天田蓮という少年は、高校に入ってとりあえず普通の生活を送っていたけどそこに現れたユーリアという銀髪の少女。蓮につきまとっては彼をガードすると言い、そして実際に蓮を遅う者たちが現れその中にはかつて家族を殺した鎧姿の人物もいて蓮を燃え上がらせる。

 敵は強くて銃器も平気で売ってくるけど、ユーリアも手にデザートイーグルを捕りだして反撃する、そんな最中でもやっぱり追いつめられていく蓮は切り札として唇を指し出し少女たちに能力を与えて難局を乗り切った先、本当の敵が現れ蓮を驚かせそして窮地へと追いつめる。果たして反撃の道はあるのか。そしれ蓮の運命は。なんてシリアスな設定だけれど当人はいたって平静としていて、そこに現れる少女たちは敵も味方もどこか超然。それが殺し屋としての不気味さも醸し出すけど、深刻さではない乾いたおかしさも感じさせてくれる。気になるのはどうやら蓮の秘密を知っているらしい姉かなあ、何しろかつてキスしているし。何か能力を持っているのか。今回は戦闘に絡まなかった彼女の本格参戦が見られるだろう続刊に期待。


【3月3日】 17歳だなんて話は別にそのことを大きな物語としてキャラクターと密接に結びつけ、誰もがそう信じなくてはいけないと強制しているものではなくって、当人のひとつの思いとそれを受けたファンとがともに“お約束”として育み了解しているだけのこと。現実がどうであっても内輪の共同幻想の中で盛り上げていくことによって共に楽しい気分になれば良いだけのことなんだけれど、時に本気で大きな物語に身を寄せそれだけが事実だと思いたがる人も現れて、それが崩れ去ったといって憤って暴走したのか例の事件は。それとも違うのか。

 状況を見るにつけて別に17歳だからという幻想が崩壊したことを憤っている感じではなく、ただ募らせてこじらせた思いこみがズレてしまった時に自分の居場所をなくした感覚に陥り、それならと自分を発憤させて見て欲しい感じて欲しいと突っ走っただけのことだとも思えてくる。会ったこともない女優に自分を知ってもらいたいからと誰かを殺した男の話もあったっけ、それを直接本人にぶつけただけでこういうのってアイドルでも声優でも関係なしによく出てくる。設定が行き過ぎたとか声優のファンが奇妙だとかいった話では全然ない。だから気を付けるのは警備であり周囲の警戒。身内だからとちょっとの暴走も許さず自分の快楽だけを発憤させる場にもせず、対象を応援し盛り上げようとする心意気を、示していけば良いんじゃなかろーか。でも出るんだ自分だけが目立ちたいのが。厄介は続く。

 サフィール3が落ちてこない。だからどうしたと地上にいる大半の人は思うだろうし、宇宙を観ている人でも全員が全員、これはいったいどういうことだと思うとは限らない中で気がついてしまった人々がいた、ってところから幕を開ける藤井太洋さんお「オービタル・クラウド」(早川書房、1900円)が見せてくれるのは、今あるテクノロジーを少しばかり延伸したところに現れる世界のビジョン。そこから人類が新たな可能性を得てより外へ、そして未来へと飛躍する可能性が示される展開が読み終えてとっても胸に響く。人類にはまだまだやれることがあるんだと思わせてくれる。

 サフィール3とはイランから人工衛星を打ち上げたロケットで、衛星を周回軌道に投入した後で2段目がデブリとなって地球を周っていたものの、そろそろ大気圏に突入するのではと観られていた。そうしたデブリの突入で起こる流れ星の発生を予測して、ウェブで提供している「メテオ・ニュース」をきりもりしている木村和海という青年は、予測がうまく当たればサイトへのアクセスを稼げると思ってデータを集めて落下時期を調べたらどうも動きがおかしい。落ちて来ない。むしろ上がっている。どういうことなんだろうと思いつつ、その時は北米の戦略軍が提供しているデータを流しておいた「メテオ・ニュース」を読んでいる男がセーシェルにいて、天体観測をしていてとんでもないものを観てしまう。

 サフィール3が「メテオ・ニュース」の流したデータの場所に現れず、憤りながら自前で調整した望遠鏡の先に現れたロケットの周囲で光が何度も瞬いた。これは事件だ、とは思ったもののかつて有力IT企業を店子に持って支援する変わりに株を受け取り、公開によって大金を得て配当も出るようになって、今はセーシェルに引っ込み、とてつもない電波望遠鏡を備えて宇宙を観ては、撮影した天体写真を流したりユニークなニュースに仕立てて流して毀誉褒貶を得ながらも、それなりに評判となっていた「Xマン」ことオジー・カニンガムは、サフィール3を軌道上に投入された兵器か何かと疑わせる話をでっちあげ、「神の鉄槌」と命名しては、それっぽい画像もネット上で募って添えてサイトから発信。そこに含まれた情報を今度はCIAが気にしてかの国の謀略かもしれないと調査を始める。

 一方でオジーは自らの観測結果を「メテオ・ニュース」の情報が間違っていたという文句に添えて和海へと送りつける。それを観た和海は膨大なデータを「メテオ・ニュース」のIT面をサポートしてくれている女性、沼田明利のかつてJAXAにいたという叔父からコーチを受けて育んだ天才的な情報処理能力に支えられて解析して、サフィール3の上昇は真実であり、そしてとでもない事態が宇宙で進行していることを突き止める。そして狙われる。そう、それは偶然でもなければ事故でもなかった−。そして始まる冒険と謀略、探求と対決の物語。木村和海に沼田明利にオジー・カニンガムに加えてコンピュータもネットも仕えないイランで電卓を叩いて計算しながら宇宙に夢を抱く男がいて、アメリカの北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)で宇宙を監視する軍人がいて才覚と情熱で空に挑む起業家がいて、それぞれの行動と思考と能力とがウェブのように繋がり、パズルのように組み合わさって世界を変えようとする動きに挑む。

 オービタル・クラウド。タイトルになっているこの言葉が意味する事態が浮かび上がって受けるものにはは、ひとつには現行のテクノロジーが進化していった先に得られる大いなる恩恵であり、そして底知れない恐怖がある。というより先に恐怖として進行していた事態は、無能な政治家による無意味な権勢欲の発露がテクノクラートの失望を招くことによって失われる国益があり、また脅かされる世界秩序があるのだと示唆して今の政治主導を名目にした政治家たちの人気取りに過ぎないパフォーマンスが、この国の社会や経済や文化をとんでもない方向へと引っ張っている事態への警鐘を鳴らす。同時に、世界で進行している諸々の事態の背後にどこかの誰かによるどんな思惑が動いているのかといった想像をかき立て、改めて周囲を見渡し手元のパソコンや端末すらも怪しむ気持ちを惹起する。

 天才的な頭脳によって巡らされる思考が、社会秩序にとってネガティブに働いた場合に起こる事態を避けるには、いったい何が必要なのか。それはクライマックスを経て天才を受け継いだ日本人と、天才を返上されたイラン人とで分かれた道からも想像できる。誰でも使えるフリーオフィスを拠点にパソコン1台とネットへの接続環境を得て情報を集め技術を借り知恵をもらって鍛え上げた頭脳が生んだ人類を未来へと飛躍させる可能性。ネットから遮断されコンピューターの仕様すら禁じられた中で、得られる書物からの知識とニュースだけを元に計算機と紙と鉛筆だけを使い作り上げた理論が、時代から大きく取り残されていると知って絶望した感情が生んだ暴走から破滅への道。環境だけが天才を育てるのではないと思いたいけれど、より良い環境の中でこそ天才はより天才へと昇華していける。だからこそすべきことは何か。開放と接続。連携と協同。遍く世界でそれが日常となることを願わずにはいられない。

 幸いにして世界は善意が勝り、挑戦の意欲が秘密主義の壁を越えネットの存在が隠匿の悪弊を駆逐して、誰もが自由にその情報を得てその可能性に挑めるようになった。恐怖の象徴にもなりかねなかったオービタル・クラウドが、人類の未来を約束する存在になった。そこまでを描いたストーリーのその先は果たしてあるのか。才能を持った者たちが集まり政府すら対立を越えて結集して始まった壮大な試みのその先に待っている、より大きくてより素晴らしい世界の訪れはあり得るのか。それが描かれれば藤井太洋さんは小松左京にもなれるし、アーサー・C・クラークにもなれるだろう。来るべきファーストコンタクト。あるいはワーストコンタクトの果てに銀河へと飛躍してく人類のビジョンが与えられるだろう。

 けれども、そうした物語なら小松左京がいてアーサー・C・クラークもいる。ならば藤井太洋さんはこれから何を描くのか。きっとこれからも描いてくれるだろう。テクノロジーの未来を、それが善意と協同によって駆動していった果てにもたらされる幸福を。読んで僕たちは決意する。その託宣を実行しよう。出きるはずだ。僕たちに与えられているのは電卓と紙と鉛筆だけではないのだから。世界と繋がり理解しあえるインフラと言葉があってテクノロジーがあって、なにより藤井太洋さんという作家がいる。迷わないで挑め。とどまらないで進め。邪魔する者を退け、手を取り合って未来をその手につかみ取れ。

 アカデミー賞が発表になって日本から出品された短編映画アニメーション部門の森田修平監督「九十九」は残念ながら受賞を逃した模様。受賞した「Mr Hublot」はどこかスチームパンクな雰囲気をまとったキャラクターたちが何か繰り広げているっぽいストーリーのアニメーション。昔観た「9」って短編映画でも思ったけれどもメタルで退廃的な世界観の表現が素晴らしくってこれを日本で作ろうったってそうはいかない、だからこそ「九十九」のように日本ならではのストーリーと美術デザインでもってアピールする必要も生まれてくるんだけれど、それで追いつけるかというとなかなか大変ってことを改めて思わされた。加藤久仁生さんはどちらかといえばストーリーで突出した感じがあったから受賞できたんだろうなあ。水江未来さんの「WONDER」がもしも来年ノミネートされたらどんな反響が出るんだろうか。ちょっと興味。

 長編アニメーション部門はやっぱりディズニーの「アナと雪の女王」が受賞。だってすごいもん全編は観ていないけれども映画館で流れる「Let It Go」のプロモーション映像を見るだけで、どれだけのリソースをぶっこんでキャラクターと背景を描写しているかってことが伺える。歌い出すキャラクターが息を吸い込むと胸が上下してさあ歌うよって気分を感じさせてくれる。そして放たれる声が耳を打ってあの世界へと引きずり込む。やがて雪に覆われた世界に城が立ってその中を堂々と歩くときは背筋も伸びて足もしっかりとモデルばりのウォーキング。そんなキャラクターの変化をあの短い時間の中に描ききることが果たして日本のCGスタジオに出来るんだろうか。造形ではリアルでなくてもキャラクターとして、世界としてリアルを感じさせてそこに観る人を誘えるだろうか。出来ないからこその宮崎駿さん的な作画の美学が生きてくるんだけれど今回は及ばなかった。来年にもしも「かぐや姫の物語」がノミネートされたらいったい、どんな評判を巻き起こすか。これも楽しみ。大いに楽しみ。


【3月2日】 寒いんで家にいられないんで、荷物をまとめて電車に乗って、渋谷まで出てそこから東急井の頭線で1駅乗って神泉まで行って降りて歩いて松濤美術館でハイレッドセンターの展示を見る。ハイこと高松次郎さん、レッドこと赤瀬川源平さん、そしてセンターこと中西夏之さんの3人がユニット名になっている前衛芸術集団で、1960年代から70年代の日本でハプニングというか意外性のあるパフォーマンスを見せてはそれを芸術だと言ってやんやの喝采を浴びつつ、眉を顰められたりもしたという。「東京ミキサー計画」なんて本に当時のいろいろが載っていたりしたのを読んだこともあるし、アバンギャルドとかフルクサスといった前衛芸術の展覧会にも時々作品が出品されているから見たこともあったけれど、こうしてまとまった展覧会に行くのはもしかしたらはじめてだろうかどうだろうか。

 松濤だなんてこぎれいでハイソな建物が並ぶ場所とは正反対に、はいれっどがやってきたことはとにかくキッチュというか、当時の社会が持っていた制度なり常識をちょいとズラしてみたり隙間を衝いてみたりしたようなことばかり。駅のホームでひもを引きずるとか入れない展覧会場を作るとか銀座の路上を白衣姿でぴかぴかに磨き上げるとかいった具合に、世間のそんなこと普通はしないだろうっていう良識の裏を衝くようなことをしてからかってはいるんだけれど、そのからかいかたが上から目線の揶揄というより、自らをからかわれる存在においてそれを大まじめな顔をしてやってのけることによって、ひょっとしたらそれってまっとうなことなのかもって思わせて、何がまともで何がおかしいのかっていう境界を、ぐだぐだにして見せてくれた。

 一方で何がアートで何がアートではないかってことも問いかけられた。山手線でひもを引っ張ろうが草月会館から物を放り投げようが、それは行為であってアートではない、って当時だったら思われたことを、これがアートですって大まじめにやることで世間にそうかもと思わせる。違うといったらじゃあ何がアートなんだと説明することになるけれど、それで出てくるゴッホだのロダンだのって名前が本当にアートなのかと言われて果たしてそうだと断言できるのか。綺麗な絵とか格好いい彫刻とかがアートというけどそんな基準なんて時代によって変化する。人が何かをしでかすこと、人の心を動かすこと、人が関心を寄せること、そんな諸々をアートと説くなら何をしたってアートではないか、それとも違うのか。そう考えさせることがすなわちアートなのだ、なんてことも示そうとしたのかも。単純に面白がっていただけかもしれないけれど。

 それにしても「シェルタープラン」とか今みてもどこか格好いいよなあ、ハイレッドセンター。帝国ホテルの部屋を使って関係者とかアーティストに招待状を出して尋ねてきた人たちを、大まじめに診断してはベッドに寝かせたり裸にしたりして寸法を採って、それをもとにその人がすっぽり収まる縦長の立方体を作って、6面にそれぞれの方向から見たその人物の写真を焼き付ける。専用のシェルター。あるいは棺桶? 何かから身を守ろうとうしたって役に立つものではないけれど、でも人間なんて究極的にはそのサイズの生き物でしかない訳で、虚飾も財産もすべてを吐き出したときに残る自分自身という奴を、そこに焼き付けることによって感じさせようとした、なんてことがあるのかどうか。

 核戦争の恐怖だって、今よりはるかにあった時代。不安をかかえどこかに逃げ延びたいなんて思ったところで、せいぜいがその身1つ収まるシェルター1個が分相応だなんてことを分からせようとしたのかも。映像とか展示をみるとオノ・ヨーコがいて横尾忠則がいてナムジュン・パイクがいてと、当時の芸術の最先端で活躍している人たちが参加していてそれだけハイレッドセンターの活動を仲間たちが面白がっていたことが分かる。でもってそれは誰もやらないこと。なおかつ世の中に何かを投げかけること。どこかのアイドルのプロモーションビデオを真似てダンスして、ネットで流して俺たちサブカル愛してますとかやってるのと、何千万円とかかけてホテルをつかってばかばかしくも面白いことをやるのとどっちが格好いい? って感覚も今は廃れてしまったなろうなあ。せいぜいが防護服を着て該当に立ってありもしない恐怖を見せつけ不安を煽るくらい。それもアートと言って良いのか悪いのか。原点に還ってハイレッドセンターを見て改めて考えよう、アートって何なのかを。

 与党の副幹事長だなんて要職にある人間が国会という場でぶち上げた「憲法自体が憲法違反」だっていう日本国憲法への見解が斬新すぎて世界中から注目の的。なるほどその発言趣旨を読むなら、前文に「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」ってあるのに、日本国憲法は占領軍がいろいろ考えて英語で作り上げた草稿をもとに日本側が議論し作り上げたものだから、国民の声が反映されていないとかいった主張で、筋が通っているように見えないこともない。もっとも、当時の帝国議会は貴族院もあったけれども衆議院は選挙によって選ばれた人たちが議員としていて議論し成立させたものであって、形式はちゃんと整っていたりする訳で、内容が理にかなっているなら誰が作ったかんてことは関係ない。押しつけられたって思うのは負けを認めたくないプライドのなせる技でしかない。

 そんな無理筋の論を振りかざした上に、はマッカーサーが上に立って作った憲法であるにも関わらず、ソ連のスターリン憲法なんてものの影響を受けたところがあるぞなんて言っているから愉快というか。サヨク的な思惑がそこに込められていることを暗に示唆してサヨク嫌いな世論に働きかけようとしたんだろーけどちょっと待て、マッカーサーといえば赤嫌いで有名で、朝鮮戦争の時には原爆使おうだなんて言い出して更迭されたほど。そんな人間がいてスターリン憲法だの共産主義だのといった思想を、自分たちが元ネタを書いた憲法に混ぜるなんてことを本当にするのか。するはずないって考えれば思い浮かびそうな話だけれど、そういうスターリン憲法参照説ってのがどうやら憲法のとりわけ改憲を意図する人たちの間にはあるようで、右側に立つ学者さんなんかも書いててそれが自民党に重用されて、副幹事長のああした発言の元ネタになっているって感じ。

 でも当時の帝国議会の会議録なんかを調べた人によれば、スターリン憲法から引いているといわれる「勤労の義務」については左よりの人たちというよりは、むしろ右よりの人たちが議会でその項目を盛り込むことに熱弁を振るったってことらしい。あるいは兵役というものが義務から落ちてしまった戦後の中で、労働奉仕の観念を広く国民に持ってもらうために勤労を義務としたんじゃないか、って話もある。働かざる者食うべからず、なんて信念はソ連的っていうより昔からある日本的なもの。それを言葉にして盛り込んだって考えるならきわめて日本的な憲法って言えるんじゃなかろーか、今の日本国憲法って。

 けれども、それが戦後の左翼台頭の中で四民平等ブルジョア排撃の意識を支える意味から「勤労の義務」が持ち上げられたってことらしい。その検証の真否ははっきりないけど、諸説あることは確かであるにも関わらず、自分が信じたいような説だけを信じておおっぴらに発言してしまう自民党副幹事長の何ともいえない度し難さ。もちろんそうした思想の人は昔からいたけれど、公的な立場で公然と言うようになったのは最近のことで国を左右する立場にある人が発言して恥じない風潮ってのは、ここ最近急激に高まったもの。なおかつそれが特定層に限らず支持されてしまうような空気がここのところ急速に広まりつつある。こりゃあ本気でヤバい方向に引っ張っていかれかねないんだけれど、それを撃つだけのカウンター攻撃が見えないんだよなあ、メディアにも、そしてアートにも。フォーチュンクッキー踊ってる場合じゃないよなあ。


【3月1日】 2月の終わりがあんなに暖かかったのに、3月の最初がこんなに寒いってどんな詐欺だよ今年の季節。明日は明日で雪まで降るとかどうとかでこの勢いだと梅が咲くのも遅くなるのか、それとも来週終わりにはまた春の陽気で梅どころか桜まで咲き始めるのか。お花見の時期選びは難しそう。そんな朝の振るえる布団で録画しておいた「キルラキル」をまず観たら鬼龍院皐月さまがすっぽんぽんで駆け回っていた。

 本当にすっぽんぽん。ありえないくらいにすっぽんぽん。ヌーディストビーチよりすっぽんぽんっていったいどうよ? でも目には麗しかった。けどすぐに服をまとってしまった。それも神衣鮮血を。どうして? それは纏流子のものじゃなかったの? いろいろ進んでどんでん返しのお話は逆転からの満塁ホームランでも狙うのか、やっぱり元の鞘に収まり共に手を取り宇宙を救うのか。残り我数も少なくなって来たけどすべて毎回がクライマックス。見逃せないぞ1秒たりとも。

 それでも行かなくてはと布団を抜け出し電車に乗って角川シネマ新宿へと向かい「アニメミライ2014」の初日の初回を見物、スクリーンの2だから席数も多くなかったけれどそれでも満席になるってのは凄いかも、第1回目とかって確か大泉学園のTジョイまで見に行ったけれど流石に満席にはならなかったもんなあ、まあちょっと部屋は広かったけど。パンフレットも今回は用意してあってそれぞれに監督の人による作品の意図とか設定がの一部なんかが掲載されている上に、過去の作品の解説もあってガイドブック的な読み方ができる。

 すぐに手にとって観られるような環境ではないけれどレンタルDVDなんかも出ているようなんで興味を持った作品があれば借りて観てみると良いかも。おすすめは黄瀬和哉監督による「たんすわらし」。今回の4作品も含めた16作品でもやっぱりベストは「たんすわらし」。観ると泣くよ、本当に。「おぢいさんのランプ」もだけど。1回目って凄かったなあ。いやでも4回目となる今回の「アニメミライ2014」も粒ぞろいって意味では同等か。とにかくどの作品も力一杯に作られていて見ていて感心できたり感動できたり感嘆できたり感銘を受けたりできる。

 まずは「パロルのみらい島」だけれど、制作したシンエイ動画がかつて、Aプロといって宮崎駿監督や高畑勲監督なんかを要して元気なアニメーションを作っていた時代を思い出させるよーなキャラクターの動きと展開を楽しめる作品になっている。どこか「ど根性ガエル」的というか。そういうのを観て育った人には懐かしさもあるし、最近のアニメーションしか観ていない人には新鮮さもあるかもしれない絵柄でもって、冒険に出かけた先で少年(?)が不甲斐なさを覚え、勇気を芽生えさせる成長の物語って奴を描いてみせる。楽しくない訳がない。4編で完成度って意味合いではこれが1番かも。ただ「リトルウィッチアカデミア」みたいなムーブメントを興すかというと、やっぱりキッズ向け過ぎるところが難しいかなあ、普通にテレビシリーズとかに出きれば面白いかも。

 そして「大きい1年生と小さい2年生」はとにかくキャラクターの表情が豊かで観ていて嬉しくなったり楽しくなったりする。大きい1年生の男の子が木々に覆われてトンネルのようになった坂道を上るのが怖くて後込みしているのを小さい2年生の女の子が引っ張り上げようとして必死になった時の顔がとってもユニーク。一方でそんな女の子が男の子にプレゼントを贈れて嬉しがったり家の中でおすましした自分を鏡に映して微笑んだりする表情はとてつもなく可愛らしい。

 男の子の方もおどおどとしながらも「しっかりした子」と誉められ頑張ろうと決意したりとちょっとの間にしっかりと成長していく。そんなことが表情にも態度にも表れていて観ている30分の間に自分も一緒に成長した気になれる。そんなアニメーション。昭和の40年代初期だろうか、畑と森が残った東京近郊の風景って奴も味わえる。Eテレあたりで流すと子供たちが食いつきそうだし、似た傾向の絵本をアニメ化してオムニバスにして劇場公開しても良さそう。やらないかなあ、A−1 Pictures。

 そして「黒の栖−クロノス」。あのSTUDIO 4℃が「アニメミライ」に参加するってことだからどれほどにハイエンドな動きと内容を持った作品になるんだろうと眺めていたら、作画に関してはオーソドックスというか新鋭を集めて作ったものかなあ、といった感じに抑えられたものになっていて、その上で学生を中心とした日常的な動きとアクション場面のスピーディさなんかを描かせ学ばせようとした、のかな。キャラクターとしては市子さんっていう敵方というか死神っぽい側にいるタイトスカートのお姉さんがちょっと気になった。どういう経緯であのチームに参加したんだろう。そもそもあのチームって何なんだ。そんな裏設定も含めていろいろと膨大に用意されていて、そんな一部を見せられたって感じなだけに、ここは本格的なチームを組んで作画陣も凄腕をそろえてシリーズとして再生させてみる、ってのもありかもなあ。

 さいごに「アルモニ」。問題作。いや最初は普通に学校内でのオタクグループとおしゃれグループの対立めいたものを描く「AURA 〜魔龍院光牙最後の闘い〜」めいたストーリーを想像していたんだけれど、そこから半歩くらい踏み込んで、オタクが勝利したかに見えたら、実は強烈な中二病がすべてを飲み込もうとしていたなんて話になっていて、ちょっとだけ恐怖心が走った。あのまま巻き込まれてしまっていいのかと、彼女の夢を真に受けて寄り添っていっていいのかと。いいのかなあ、美少女だし。あの後で彼女が暮らすでどいういう立ち位置になっていくのか、少年はそれをどう受け入れていくのか。無視するのか寄り添ってともに生きるのか。気になるけれどそこを描かないで想像にとどまらせておくのがひとつの美学、なのかも。ちょっぴり痛くて切ない展開になりそうなだけに。

 「さかさまのパテマ」の吉浦康裕監督の作品だけに、撮影によるカメラワークとか凝っていて奥行きのある絵なんかが見られたのも収穫か。たしかアニメミライに絡んだトークイベントで作画監督の碇谷敦さんがそんな吉浦さんのこだわりに刺激されたとかって話していて、ただ若手に作画の体験をしてもらい学んでもらうだけでなく、従来にないコラボレーションを実現することによって、持ってるノウハウの流動化なんかもはかれる場として「アニメミライ」には意味があるんだってことが見えて来る。だからこそ続いて欲しいけれど、これは大丈夫としてではいったいどんな作品が出てくるか。これは分からない。だから面白い。期待して待とう、1年後を。

 「魔女の宅急便」が公開されたし角川シネマ新宿では「赤×ピンク」も上映されて興味を引いたけれども何か今日が発表日の「日本SF大賞」に「NOVA」の編者として候補として上がっている大森望さんが西葛西の焼肉屋で待機会をやっているということで、午後3時にいくと大森さんだけでなく「know」で候補になっている野崎まどさんもいてちょっと驚いた。早川書房からは藤井大洋さんの「Gene Mappaer」と宮内悠介さん「ヨハネスブルグの天使たち」も候補になっていたからそろって待っているかと思ったけれど担当編集が違うらしく、一緒に待つことはなくって別にどこで待とうかということになって、せっかくだから一緒に待てば良いやということで合流したらしー。

 ここで2人がともに獲得すれば、一網打尽に受賞者インタビューが出きるぞ、って思ったもののすでにそうした記事を書く身でもない窓際どころか窓外にぶら下がる提灯持ち。だからいったい待機会とはどんな雰囲気で行われるのか、電話がかかってくるまでびくびくしながら振るえているのか、それとも剛胆さを見せて賞なんでどーだっていいんだぜわっはっはと笑っているのか、どうなんだってことを確かめる意味で言ったら普通に焼肉パーティだった。まあそりゃそうだよな。

 でもって待つこと2時間、日本SF大賞の選考時間も終了に近づく午後5時前くらいになって、まずは大森さんが電話を受け取り「NOVA」の日本SF大賞特別賞受賞決定を知り、同時に酉島伝法さん「皆勤の徒」の大賞受賞と宮内さん「ヨハネスブルグの天使たち」のこれも特別賞受賞を知って、その場にいる大森さんへの喝采と、野崎さんへの残念が入り交じるなかで待機会の最初のクライマックスを迎える。特別賞、ってものがどういう基準で出されるのかが今ひとつ、過去を振り返ってもよく分からないだけに今回の「NOVA」が特別賞なのか、そして宮内さんも特別賞なのかがちょっと分からないけれど、前に「異形コレクション」が特別賞をとっていたりとアンソロジーの場合はプロジェクトとしてとらえその功績を称える的な意味合いから特別賞が与えられることってあるみたい。

 とはいえ編集者がいても作家がいなければ1冊の本にはならない訳で、それぞれの作家が全霊をこめて書き上げたものを、大森さんが精査し時に没すら食らわせながら集めあげたアンソロジーとして、それぞれの作品も含めての受賞と考えることだってできそうで、そうした個別の作品への評価ってのが、今回の受賞にどれくらい加味されているのかは聞いてみたいところ。でないと作品を寄せた意味がなくなってしまうから。それは宮内さんの特別賞にも言えることで、単体の作品集でありながらどうして特別賞なのかがやっぱり今ひとつ分からない。

 それは去年の「屍者の帝国」にも思ったことで、伊藤計劃さんの残した冒頭を元に円城塔さんが仕上げた一種のプロジェクトとして見て特別賞を与えたって考えられないこともないけれど、そこにある「屍者の帝国」は立派に1冊の小説な訳で、それへの評価を軸に考えるなら与えるならSF大賞だし与えないなら何も与えないのがわかりやすい。宮内さんにもそれは言えることかなって気がする。「皆勤の徒」ほどではなかったのか。並び立つけれども2年連続はちょっとという判断が働いたのか。これも選評にどういう理由付けがあるのかを見てみたいところ。

 今回から日本SF大賞は、ノミネートの段階で大勢の“人気”が割と出やすいシステムになったこともあって、その時期のSFスターが上位に来やすくその結果連続ノミネートって例も増えていきそうな予感がある。だからこそ2年連続は不味いのか、だから特別賞なのか、別の理由があるのか、ってあたりを示してくれるとその賞の意味合いってものをつかみやすくなる。新生となった日本SF大賞はいったいどういう性格の賞なのか。それを測る上でも今回の決定はいろいろ話題になりそう。

 「皆勤の徒」の受賞はうん、文句はないかな。好きかどうかって選び方なら「know」が良かったし長谷敏司さんの「BEATLESS」だって面白かったけれどそうした越境からの話題性で賞の“変化”をアピールするよりも王道を貫くオーソドックスさを選んで日本のSFの心意気を見せようって意識が働いたのかも。結局同じかよって思われがちあけれども、去年までのシステムでは果たしてデビュー1作目という「皆勤の徒」は候補になり得たか、ライトノベルから来た野崎まどさんが候補に入り得たかといった考えもある。

 それだけに、候補としてあの6作品が並んだことをまずは今回の改革の大きな成果と意識するところからはじめて、その上でどういう作品がとることで世間がSFとSF大賞に注目するか、他のカテゴリーで書いている人たちにSFとSF大賞への関心を持ってもらってSFを書いてもらうかを、考えていく方がSFのためだしライトノベルやエンターテインメントも含めた面白い小説の読み手にとっても良いんじゃなかろーか。改革、大成功の巻。

 とか考えてたら焼肉屋には藤井大洋さんと宮内悠介さんも合流してそして長谷敏司さんもやって来てと候補6人のうちの大阪にいるらしい酉島さんをのぞく5人が1カ所に揃ったということに。受賞者もいれば落選者もいて悲喜こもごも、普通ではとても同じ場所に置いておけないはずの人たちが1つのところに集まるこの“異常”こそがSFであり、ともにこうしたジャンルを盛り上げていける楽しさを感じて喜びあえるところもまたSFなのかもしれない。直木賞の受賞者と落選者が同じ居酒屋で飲んでるなんてこと、ありえないもんなあ。

 そんな不思議な光景をみつつ藤井大洋さんの背後に亡霊のように座り込んでITとかネットワークに知見なんかが漏れてくるのを聞いていたら夜も更けてきたので退散。しまった「オービタル・クラウド」にサインをいただくのを忘れた。まあまたいつか。そんなこんなで更けていったSF大将の夜。文字化けじゃなくって「大将」って焼肉屋でSF大賞の発表を待った夜。面白かったし勉強にもなった。来年もこの中からまたノミネートされそして受賞した人が出ると、貴重な夜の経験もさらに貴重なものとなって身の糧となるだろう。だから頑張ってと言おう。輝いてと願おう。


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