縮刷版2014年1月下旬号


【1月31日】 やっぱりマスレ日本と名乗らざるを得ないのかマッスル日本。そのアグレッシブにしてアンタッチャブルな肉体を爆発させては、悪の組織・電柱組を追い込みそして悪でもないけど防衛軍のメンバーをもこてんぱんにして、読者の大評判を呼んだ異色異形のキャラクターがいったいどれだけの時を隔てての再登場となったのか。リニューアル版が出始めたた安永航一郎さんの「県立地球防衛軍」(小学館)の第2巻、その巻末に収録された描き下ろしのおまけ漫画に顔を出しては、同じように異色異形の怪人グリコーゲンXともども一部の女子にとっての美男子ぶりを披露しながら、ボソリと昨今の情勢を受けてマスレ日本と名乗っていると明かしている。隔てられた時の重さを見た思い。と同時にそれだけの時を背負ってもまるで変わらないギャグをとばしてみせる安永航一郎さんの鮮やかに軽やかな漫画センスに脱帽。この勢いで最終巻まで突っ走っていって下さいな。

 何か任天堂が健康事業への参入を模索しているって記事が出ていて、これをいよいよもって行き詰まった任天堂が今の基盤を捨てて余所へと向かおうとしていると見るべきなのか、そこに巨大なマーケットがありながら未だ開拓されていないと見て、自分たちのリソースを注ぎ込もうとしているのか、いろいろな受け止め方が出来そうだけれどひとつ言えるのは、そう任天堂が言い出すはるか昔に、コナミがフィットネスクラブのピープルを買収して、健康関連分野へと進出しているということ。もっともその時に、今みたいにゲームが全体定期に衰える一方で健康産業が安定的な収益を上げる分野になるとは誰も感じていなかった。ゲームはこれからの産業としてグングンと伸びているのに、どーしてまるで畑違いのフィットネス産業に乗り出すんだと、アナリストあたりから批判混じりの声が出た。そんな風に記憶している。

 それが、ぐるりと干支をひとつくらい回った現在、健康関連事業はコナミグループにおいてデジタルエンタテインメント事業に匹敵するくらいの事業規模を確保して、パッケージソフトの分野で今ひとつ、新しいプロパティを生み出せないでいるコナミの収益部分を支えていたりする。ウイイレがありパワプロがありメタルギアがありラブプラスがあってときメモもあるけれど、それ以外の大きなタイトルがだんだんと少なくなっている状況を10数年前にいったい、誰が予想しただろう? たぶんコナミ自身も予想はしていなかったと思うけれど、それでもゲームセンターという施設事業が自前でやるには大変な時代が来ると見て、そこでのノウハウを別の施設運営に注ぎ込めば次の段階に進めるぞと考えフィットネスクラブ運営に乗り出したのはひとつの開明だった。

 もちろん、そうしたフィットネスクラブにゲーム的な発想を持ったフィットネス機器を売り込んでいく、といった事業はあんまり軌道にのらなかったから、デジタルエンタテインメントとのシナジーが大きく計られたかというと難しいところだけれど、業務用ゲーム機の世界で取り入れたクラウド的なオペレーションが、フィットネスクラブでも機器をネットワークでつなぎ、利用者のデータを一元的に管理して利便性を計るといった部分で行かされたのは、コナミが経営に当たったから。そこに高齢化社会が健康への関心を煽って健康関連ビジネスの市場を持ち上げるようになった市場の追い風が重なって、ゲームが全体に厳しくなるなかで、コナミグループに一定の存在感を与えている。もしあそこでピープルを買収していなかったら? どこかのゲーム会社と合併していたかなあ。それでも生き残れたかは難しいけれど。

 翻って任天堂は、いったいどれだけの“覚悟”で健康関連ビジネスに足を踏み入れるのか。もとより「Wii Fit」というひとつのアイテムがユーザーの健康志向を刺激して、ゲームファンじゃないところに新たな市場を開いてWiiの普及に貢献したという過去はある。これも一種の健康関連ビジネスで、そのノウハウを利用しつつクラウドソーシングによってユーザーの健康を管理できるようなサービスを、ネットワークを介して提供していくような仕組みを作り上げるのか? そうでないとしたらやっぱりゲームならではのエンタテインメント性なりキャラクター性を持たせたソフトを作って、フィットネス機器と組み合わせて提案していくのか? とはいえ後者はコナミもやろうとしてあまりうまくいかなかった部分。健康を追求する人にとってそうした遊びの要素はかえって煩わしく思えるものだってことがいろいろな挑戦から伺えた。それは任天堂のプロパティを持ってしても崩せないだろう。だったらどこに。言うからには勝算もあるんだろうと思うから、今は岩田聡社長の施策を追いかけていくことにしよー。

 これは興味深い。スタジオジブリで「ゲド戦記」「コクリコ坂から」という2つの作品を手がけた宮崎吾朗監督が、映画じゃなくってテレビシリーズのアニメーションを、NHKのBS向けに作るって話が出てきて最初は著作・製作はNHKだけれど、スタジオはジブリをそのまま使って制作費の面をNHK側にお願いするのかなあ、なんて想像もうかんだけれど発表された文章なんかを読むとそうではなく、完全にジブリを出てポリゴン・ピクチュアズって別のスタジオで作品を作ることになっているとか。優れた絵描きがいっぱいいて作品のために邁進してくれて、上には宮崎駿御大もいるジブリの枠を離れていったい、どれだけの仕事ができるんだろうかって勝手な興味もある一方、ジブリ色の強いキャラクターなり物語が引っ込んだ場所で、「ゲド戦記」とか「コクリコ坂から」なんかで見せた吾朗監督の演出力なり画面の構成力がどう発揮されるのか、ちょっと今から興味が尽きない。

 3DCGだけれどセルルックっぽい映像は、基本的に2Dの絵をそれも一流のアニメーターたちを使って動かしてきた宮崎吾朗監督に裁ききれるものなのか、ってな関心も浮かぶけれどもそこは現場の3DCGになれた人たちが支えつつ、ネームバリューだけではない宮崎吾朗監督の才気を得て作品の形に仕上げていくことになるんだろー。でもBSだから見られないのだった。気になるのはそんな感じに吾朗監督が抜けたスタジオジブリがいったい何を作って、それで食っていくだけの稼ぎを得られるのか。2枚看板を使って作品をぶつけても、制作費と宣伝費で足が出てしまうような経営状態のジブリに必要なのは、コンスタントに稼げる作品を送り出すこと、なんだけれどもそこで一応の実績を積んできた監督を手放して、誰が何を作るのか、それはどれだけの稼ぎを得られるのか。ジブリってスタジオの今後を占う意味でもその動静に注目したいところ。麻呂が何かやっているのかなあ。

 完全無視とは恐れ入谷の鬼子母神。朝日新聞でジャーナリストの池上彰さんがとある新聞を挙げて、取材にも来ないで池上さんが細川護煕さんに東京都知事選への出馬を進めたなんて事実無根の話を書いて、いったいどういうことだと理由を尋ねようと連絡をとったものの最初はつながらず、ようやくつながってもそれが上に届いていないのか、未だに釈明の言葉がないって書いている。最初の部分で聞き間違いなり受け止め方の違いなりがあって間違いが生じてしまったというのは仕方がないとして、それが当人からすれば事実無根だと分かった段階で、ひとまず何かの対応をするのがジャーナリズムを標榜する新聞の責務。あるいは大意として間違っていないと言い張るにしても、そうした旨をまるで説明しようとしない上にこうして満天下で指摘されてもなお動かないというのは、世間に本当にジャーナリズムなのかと訝らせる理由になってしまう。それとも真実だけで構成されるジャーナリズムではないとでも言うんだろうか。ちょっと訳が分からないけど世間はすでにそう思い始めているからなあ、なんだあそこなら本当のことが書いてなくって当然だって。参ったなあ。


【1月30日】 その成果についてはよく分からないけれども今後、世界的に割烹着が流行るだろうことは確実かと思ったSTAP細胞とやらの開発成功ニュース。中心となって動いた女性科学者が、研究室で白衣ではなく割烹着を着ているってニュースが写真とともに広まっていたのを見たらなるほど割烹着、前が開かず後ろをとめる手術着なんかとおなじタイプのその衣装が、こうした研究に便利なのかどうなのか、着たことがないから判断もつかないけれども同じ白地でなおかつ食材なり試料なりを“料理”する作業に使うって意味では、白衣も割烹着も目的に大差はないのかも。あとは好みってことでこの成功を受けて演技を担いで着てみようって人が増えて来たりして。そしてファッションのシーンへと広がりスーツの上から割烹着を羽織るスタイルがはやり、サミットの場でも記念撮影に世界の首脳たちが割烹着を着て並ぶんだ。割烹着メーカーの株、買い占めておけば大もうけできたかなあ。

 「中二病でも恋がしたい」に「境界の彼方」と立て続けにあの「涼宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん!」を世に送り出して話題を呼んだ京都アニメーションによるアニメ化作品を生みだし、どちらもそれなりなヒットになっていたりするKAエスマ文庫から登場した秦野宗一郎さんの「無彩限のファントム・ワールド」(KAエスマ文庫、648円)もきっと、そのうちに京アニによってアニメ化されるんだろうなあ、ってそもそもKAエスマ文庫が京都アニメーションによって刊行されているレーベルで、そこで募集した作品をアニメ化することによって、他に原作を募ってアニメ化するのとは違った利益を狙おうって意識を持って運営されている節があるから、この「無彩限のファントム・ワールド」が本当にアニメ化されても驚かないし、むしろ既定路線といったところか。

 ただひとつ、言えることは過去の「中二病でも恋がしたい」も「境界の彼方」も原作から大きく違ったアニメになっているのとは違って、この「無彩限のファントム・ワールド」はまんま、アニメになっても存分に通用するビジュアルでありストーリーを持っているって事実。それくらいに高い完成度を持っている上にストーリーからキャラクターの、そしてシーンのビジュアルが浮かんで脳内をはね回ってくれる。設定自体はそんなに難しくはなくって、何かウイルスでも発生したか何かしてパンデミックが起こり、人間の脳機能が変化して今までは見えなかった幽霊とか妖怪といった存在を近くできるようになったとかで、とりわけ少年少女にそうした傾向が顕著に現れた様子で、中でもそうした存在に干渉できる特殊な能力を持った少年少女を集めることによって、人類に悪さをしたり生活を脅かしたりするような幽霊妖怪の類を退治させている。

 主人公で高校一年生の一条晴彦という少年も、そんな能力の持ち主として学校内に作られた脳機能エラー対策室の活動に参加することになったんだけれど、この能力がどことなく頼りない。スケッチブックに絵を描いてその場に現れた妖怪なり怪物を吸収することができるし、スケッチブックに描いた悪魔とか異形の神とか召還をして戦わせることもできるんだけれど、何しろ絵を描く必要があるから即座の対応が難しい。全体像が把握できないと絵にも描けなかったりするから途中、温泉に現れどっぷりとひたって動かない巨大な一つ眼の猿の絵も、下半身を描けないから対応できなかった。おまけに性格はエロ系で、一緒に活動している1つ年上で体術をメインに的を攻撃する川神舞の揺れる胸を見ようとしたり、振り上げた脚の奥にあるはずのパンツを見ようするから、いつも舞に叱られ殴られている。

 それでも貴重な能力者ということもあって、舞のほかにファントムを食らうことができる和泉玲奈、そして歌うことによってファントムを焼き尽くす力を持った水無瀬小糸らとチームを組んで、さまざまなファントムを退治して回るうちに、だんだんと晴彦自体の能力も成長し、果てはスケッチブックに描かなくても空中に描いた“絵”から悪魔なんかを召還できるようになったりする。そんなダメ系能力者の成長物語としても読める上に、晴彦がそもそもどうしてそんな異能の持ち主だったのか、ってあたりへの興味もさそって、ファントムが跋扈する社会の裏で起こっている陰謀めいた出来事にも迫っていける。そんな課程では舞であり玲奈であり小糸といった異能の持ち主たちが過去に感じた自分への周囲の拒否感なんかもあらわになって、特別な力を持つことの誇らしさと難しさって奴も感じさせてくれる。

 設定の面では、どうしてファントムなる存在が異能の持ち主には見えるのか、ってあたりからそもそも人間の脳はたまたま今のこうして現実と信じているものだけを認識しているというか、脳がそういう風に世界を感じさせているだけで、もしかしたら固まった世界なんてものはなくって曖昧な状態になっているんだけれど、そこに異能の力を持った少年少女は、ファントムという存在を知覚するのかそれとも作り出してしまうのか。分からないけれども感じてそして退けているだけなのかもしれない。その意味では、世界に対する自意識という面について踏み込んだSF的な設定と言えそう。クライマックスで戦う強大な相手が繰り出す記憶を吸い取り存在そのものを失わせてしまう力もそんな、記憶や認識が世界を形作っているって可能性を示唆する。いろいろと考えたくなる物語。いったん片づいたものの敵めいた存在はまだいそう。それらとの戦いを大きなストーリーとして自分を知ってもエロさは失わない晴彦が、デレはじめた舞や小糸や可愛い玲奈らを相手に繰り広げるドタバタ退魔劇を楽しんでいきたいもの。続くかな。続いて欲しいな。

 そして気がつくと第34回日本SF大賞の候補作が決まっていた。パッと見たラインアップは昨年末から今年のはじめにかけてネットの方でエントリー作品の募集が行われた時に並んだタイトルから、おそらくはこんな辺りが上に来るだろうなあと思った作品が案の定来たって感じ。たとえ普通の人たちがこれはと思った作品を推薦したとしても、ライトノベルや漫画やアニメーションといったもについては投票する日本SF作家クラブの人たちが読んだり見たりしている可能性があまりなく、自分たちの見知った範囲からふさわしい作品を選ぶとするならやっぱりSFの界隈に知られた版元なり作家なりが上に来るんだろうと思っていた。それがまんまそのとおりになったってだけのことなんだけれどもそれでも、かつてだったら果たして候補作になっただろうかと思われる若々しい書き手の作品が、ずらりと並んだことはすばらしい。これこそがエントリー制にした効果、なんだろーなあ。

 たとえば書き下ろしのSF短編を集めて10冊もの本にした「NOVA」ってシリーズは、著者がいて編者がいて出版社もあってといった具合に複合的な成果物である上に、編者にまつわる諸々もあってこうしたオープンな場にさらされなかったら果たして入っていたかどうなのか。それから宮内悠介さんの「ヨハネスブルグの天使たち」。去年「盤上の夜」で受賞したばかりの作家を普通は入れないだろうからやっぱりエントリー制故の候補入り。長谷敏司さん「BEATLESS」は作品としての重厚さは認められてもそのどこかライトノベル的なキャラクターなり展開を敬遠された可能性もあるし、ライトノベルから出てきて初めてハヤカワ文庫JAで出した「know」も見送られた可能性がある。って言っていたら何が残ったってことになるけど、そういうところでいろいろと入ってきたのが過去なだけに、やっぱり今回はオープン化ならではのラインアップってことになりそう。受賞作は何か? ってところは「BEATLESS」と「know」を考えたいけど果たして。選考委員とか発表時期はいつなんだろう。


【1月29日】 何がなにやら。女流棋士が独立して作ったLPSAって団体の代表理事を務めていた石橋幸緒女流四段が、突然にもLPSAの代表理事を辞めるどころかプロ棋士からの引退を発表。その前日だかには団体を支えていた中井広恵女流六段がLPSAを抜けてフリーになるって発表してて、それも何がなにやらだったけれどもおそらくは主導権争いに破れてこれから石橋四段の独裁が始まるんだろうなあ、なんて想像したその上を行く展開で驚いた。

 ちょっと前に話題になった、自分のところが育てた女流棋士が棋戦への参加を認められなかった、ってことから自身が対局を拒否し、棋戦から除外されてしまった事件もあって、つまりはそれだけ自分自身ですべてを仕切るぞ、独立独歩でやって行くぞって意志の現れなのかと思ったら、全部投げ出してしまった格好になってしまった。後に所属するメンバーだけを残して。それが昨今の混乱の責任をとって、自分が降りることで残るLPSAのメンバーが日本将棋連盟の女流棋士に合流して同じ棋戦に参加できるようになることを目指したものだったら良いけれど、だったらどーしてもっと前に例え自分に理があったとしても、それが通らないと分かった時点で矛を収めて事態の収拾を図ってLPSAをいう団体を存続させつつ共存共栄を計る方向へと行けなかったんだろう、ってちょっと残念な気持ち浮かんで仕方がない。

 けれどもそうはならず混乱は続き対立は続いた果てに中井さんが抜け、石橋さんが辞めてしまった。もったいないとしか言いようがない。なぜって女流棋士としての石橋四段は類い希なる才能の持ち主で、普通だったらタイトルの1つ2つを持って話題の里見香奈三段(女流五段)なんて寄せ付けない強さを発揮していたかもしれないけれどもあの分裂騒動を境にして棋戦から遠のきそして……。こんな事態が起こってしまった端緒に当時の米長邦雄日本将棋連盟会長による女流の切り離し政策があって、けれども途中で方針を曲げたか一部の女流を将棋連盟内に残すような切り崩しを行ったことで、残る人、残らない人といった壁が生まれてしまった。

 そのことを考えると、たとえ亡くなったとはいえその責任の一端を、追わせて文句のひとつも言いたくなる。いったい何がしたっかんだとも。とはいえ分裂してしまったのは仕方がないとして、当初は男性の棋士からも応援する人がいっっぱい出て、スポンサーもついてしっかり運営されていたのがどーして途中からゆがんでいってしまったのか。何かそれで行けると思ったのか。行けるからと思わせる人がいたのか。分からないけれどもこうなっていしまったからには仕方がない、あとは残されたLPSAのメンバーがちゃんと女流棋士として活動していけるようになること、それはLPSAが出来た時の理念に乗っ取って誰もが尊厳を持って経済的にもゆとりを得られるような環境で、将棋を続けていけるものになることであって欲しいけれど、そうはやっぱりうまくいかないのかなあ、せっかくニコニコ動画っていうチャネルを得て盛り上がってきた将棋界、だからこそ女流にもその恩恵が行き渡って欲しいと願う。心から。

 何がなにやら。女子サッカーのスペランツァFC高槻でキャプテンやってた奥田佐紀子選手が、急にチームからの退団を発表してしまったようで、それについて同じチームの所属していて、なでしこジャパンの代表選手として活躍していて女子サッカー選手の中でも高い知名度を持っている丸山桂理奈選手が、いろいろ憤慨している様子。ツイッターとかではチーム内にいろいろあるんじゃにかってことを書き連ねているけれど、それが何なのかはまるであっぱり分からない。ただ自分がそこにいて活動する上でとっても大切な選手であることは分かって、だからこそ会いに行って食事をしたことなんかを自分のブログて公開している。それがチームへの真正面からの批判になっていると分かった上で。勇気があるなあ。あるいは考えてないとか何も。

 だからあるいはこれから始まるシーズンで、出たり入ったりといった去就が明らかになるかもしれないけれど、それにしてもな一種の内紛劇。一方でINAC神戸レオネッサにはガイナーレ鳥取をJ3へとたたき落とした戦犯と名高い指導者が中国山地を越えてやって来る。強さとけなげさで注目されてた女子サッカーにいろいろと起こるネガティブパワー炸裂な事態が来るワールドカップとそしてオリンピックへの出場にどれだけ影響を与えるか。心配だけれど前にも通ってきた道だ。あの強豪だった田崎ペルーレが今、存在していないことを知っている身からすれば浮き沈みはいつものことを思いそこからでもなお上を目指してがんばっている選手たちを信じて、これからの成り行きを見守っていこう。ジェフレディースも結構抜けたしなあ。

 あのタツノコプロを日本テレビ放送網が買収するという報、前にもマッドハウスとか買収しているからテレビ局がコンテンツの充実であり版権の充実という面からそうした資産をもったアニメーションスタジオを買収することに驚きはないし、買収されたからといって提供する先が日本テレビだけになるんじゃないってことは、マッドハウスが別に日本テレビ向けだけを作っている訳じゃない現実が証明しているから不安はない。マッドハウスが買収された直後に人がごっそり抜けて、狙っていたっぽい細田守監督の制作スタジオとしての位置づけがガラガラと崩れてしまったように、タツノコプロから人が抜けて中身が形骸化する、って可能性もない訳じゃないけどそこまでガッチリ組んでるクリエーターって今はあんまりいなさそうだし。

 去年の最高傑作とも断言したい中村健治監督の「ガッチャマンクラウズ」は日本テレビの放送だったから最初から内輪。これは何年か前だけれどもリメイクされた「ヤッターマン」は確か讀賣テレビをキーステーションにして日本テレビでも放送されていた訳で、そうした関係なんかもあっての買収に至ったのかもしれない。元より少しは持っていたみたいだいs。それにしてもいろいろとアニメーションに熱を入れているなあ、日本テレビ。細田守監督も結局、「おおかみこどもの雨と雪」は日本テレビ放送網がバックアップをしたし、スタジオジブリはもはやほとんど日本テレビの系列スタジオ。プロダクションI.G.も押井守監督作品を始め日本テレビに結構作品を出していることを考えれば、今の先端の結構なところをがっちり握っていると言って良い。

 あと系列にはしていないけれども東京ムービー新社、っていうかトムスエンタテインメントの代表作ともいえる「ルパン三世」と「名探偵コナン」の2作品をひとつは日本テレビ、もうひとつは讀賣テレビでもってしっかりと抑えてもり立て続けて、「コナン」では毎年のように映画を作ってヒットさせ、そして「ルパン」とのコラボ映画まで作って大ヒットさせてしまった。アニメーションに可能性を感じ、実績も上げているからこそこうした積極的な施策を打ち出せるんだろう。そして当てる自身もあるんだろう。ノイタミナなんて夜のアニメ枠を作って、いっぱい作品を提供して来た割には、がっちり組んだ作品を送り出してがっぽり儲けられていないフジテレビとは対照的。未来が読める人がいるんだろうなあ。その意味でも安心して良いかな、タツノコプロ×日本テレビ。とりあえず「ジェネレイターガウル」のBD化をやってくれないかな。経営が安定すれば出来るんじゃないかな。無理かなあ。


【1月28日】 ここんとこ何カ月かに渡って夜に納豆を食べるようにしているせいか、血液がサラサラになってぐっすりと眠れるようになって、そして朝の目覚めも良くなっているのかどうなのか。そういう効果がナットウキナーゼにあるかは知らないけれども、とにかく普通に目が覚めたので、支度をして午前10時に渋谷だなんて、昔だったら早朝過ぎてとてもじゃないけれどたどり着けなかっただろう発表会を見物する。「鷹の爪」で有名なFROGMANさんが新しい作品に挑戦するって内容で、発表された作品は何とあの「金田一少年の事件簿」。それが今日から「チャンネル5.5」って架空のテレビ放送局からウェブアニメとして提供されるとか。

 前にも「ルパン三世」とか「島耕作」とか名のある作品をいろいろやって無茶苦茶にして喝采を浴びていたFROGMANさん。それで仕事が回ってきたということはつまり「無茶苦茶やって良い」というお墨付きを得たものだと認識しているようなことを話していたけれど、実際にチラリと見せてもらった一編はなるほど金田一少年も出てくれば美雪も出てくるという普通に「金田一少年の事件簿」だけれど、公開アフレコで演じられた部分は推理なんてまるでない、ハッピー過ぎる展開と会話が繰り広げられていた。デラックスファイターの声で、ってちょっと違うかな、まあ普通にカッコイイ系のFROGMANさんの声だけれど、公開アフレコの時に遊びで吉田くんの声でもやってみせてくれたらこれもなかなか合っていた。次は総統でやって欲しかったなあ、今までにない卑屈な金田一少年が見られたかもしれないし。

 まあ、公開アフレコはつかみの部分みたいなもので、本編になればちゃんと推理もあって解決もある。そしてカロリーメイトがスポンサーについたってことはきっとしこにカロリーメイトがしつこく絡んで来る。過去に映画とかでスポンサーの商品をこれでもかと出しまくった前歴を持つFROGMANさんだけに、ストーリーの上でとてつもなく大きな役割を与えられているんだけれど、それは見てのお楽しみ、と。そんな番組には、美雪役の逢沢りなさんの他にFROGMANさん作品で古墳のコフィーとかも演じてた相沢舞さんも出演して謎のハリウッド帰りのナイスバディなTVプロデューサー、沢渡ひろこを演じるとかでこれがなかなかに色っぽい。声優さん当人は可愛らしい背格好なのにそんな声が出せるとは。すごいなあ声優さん。

 それを言うなら未だ明かされない役で登場する小林ゆうさんの方がすごいかな、長身でスリムの姿態を見せ、しゃべれば奥ゆかしさをのぞかせる静かな口調。なのに途中からテンションを上げて上げて上げまくっては爆発させて周囲のすべてを吹っ飛ばすから共演者たちもたまらない。特番か何かで一緒になった時にFROGMANさんは一気に老けたというからそのパワーは相当なもの。気合いを入れまくるというよりは精気を吸い取り自分のエネルギーに変えて燃焼させるタイプなんだろう。でも黙っていれば美人風、なんだよなあ。これはこれでとてつもなく怖い。絵を描けばさらに怖いけれどその絵が動いたらどんな感じになるのかな、そういう芸も見せてくれたらさらに話題もふくらむんだけれど、この作品。

 しかしここまでスポンサーに寄り添いスポンサーのために精一杯の見せ場を用意するFROGMAN的な作品製作スタンスなら良いけれど、普通のテレビ局ってのは別にスポンサーのためだけを思って番組を作っていないというか、むしろスポンサーではなく視聴者に向けて番組を作るのが普通なんで、時にそうした番組にスポンサーの思いが届かず逆に否定されかねない可能性もあって、そんな場合にスポンサーが降りてしまうといったことが発生する。ライバル会社の商品が誉められたとか。でも「明日、ママがいない」ってテレビドラマの場合は、別にスポンサーそのものを否定した内容ではなく、ただ世間に対して色々と物議を醸しているってだけの状況。それも最後まで見てみなければ結論が出せないドラマという作品であるにも関わらず、その是非を論じる前に話題になること自体がよろしくないとスポンサーを降りてしまったから何というか、腰が抜けているというか。

 そりゃあいろいろ言われて面倒くさいことは分かるけれど、そこで自分たちが手を引くことによって相手が自分たちにばかり阿るような番組を作るようになれば、今度は視聴者からそっぽを向かれて番組は衰退し、視聴率も落ちて自分たちはスポンサーとして露出するテレビという媒体なりゴールデンという時間枠をひとつ失うことになる。すでにしてネットも飽和状態になり雑誌なんて何も存在しないかのごとくなっている時代に、やっぱりテレビのそれもゴールデンっていうのは貴重な枠であり、なおかつ今回のようにとてつもなく注目が集まっている番組にスポンサーとして提供することによって番組を守り時間帯を守り自分たちを守ることにつながるっていう発想が、どーして出来ないんだろうか。

 今はちょっと激しすぎるからひっそりを首を潜め、過ぎに真っ当と思われるような作品が来たらまたスポンサーを再開しよう、だから高須クリニックの高須社長がいなくなったスポンサー枠を全部買うから寄こせと訴えても、かたくなに枠だけ守りつつ今は顔を出さないようにしているんだろう。もう卑怯としか言いようがない。でもね、こうやってひとたび異論を認めて手を引いたら次も異論があったらやっぱり手を引かざるを得なくなる。その繰り返しが果てしなく続いて、日本のテレビはとてつもなくつまらなくなり、自分たちも居場所を失ってしまって良いのか? 高須社長の横やりをひとつの挑発と受け止めだったら自分たちで全部守るよと取りやめるのを止める、侠気を持ったスポンサーは現れないのか? そんな侠気なんて微塵ないからさっさと手を引いたんだろーけど。世界はこうしてつまらなくなっていく。もう日本テレビはニコニコ生放送に番組流してペイパービューで稼げば良いと思うよ。

 ナメクジみたいな海面みたいなウェントリコス王の正体があんなだったとは、連載の途中でアニメーション化を企画して声優さんをおっさんに当てていたらどーなってしまったんだろうかと心配も浮かんだ市川春子さんの「宝石の国2」(講談社)だけれどそれならすでに「BLEACH」でもって黒猫の夜市さんが猫の時にはおっさん声なのに元通りの姿になるとちゃんと美女の声になっている例もあるから別にかまわないのかな、夜市ほどずっと出続けるキャラになるとも限らないし。出て欲しいけど。珍しくおっぱい大きいし、ほかは少年なのか少女なのかずっと分からないものなあ、先生は別にして。

 でもってそんなウェントリコスの狙いが明らかになった第2巻は、フォスフォライトにピンチが訪れるけれどもその心根の純真さがウェントリコスを動かし弟とかいうアクレアツスも納得させて無事帰還。ただし足を破壊されてしまって代わりにウェントリコスの貝殻からとられた何かが当てられちょっと前とは違った状態になってしまう。そのまま一気に急成長? 一方でフォスフォライトが海の中で聞かされた「にんげん」の話題が一部ながらも先生の耳に入って彼に動揺を与える。そもそも異端な存在の彼が畏れる「にんげん」との関わりは? 魂と肉と骨に分かれた人間が月人とウェントリコスのような存在とそしてフォスフォライトのような鉱物の子供たちを生んだのか。遠い未来の地球を描くSF的な設定がよりきわまってきたストーリー。その先に来る世界の命運は。完結まで目が離せない。


【1月27日】 ざっとした読後感は選評にあった吉野仁さんに近くって、事態がスムースに運びすぎる上に仕組みが単純で割にとっとと片づきそうな事件じゃないなかなあ、と思った「このミステリーがすごい! 大賞」受賞作の八木圭一さん「一千兆円の身代金」。有力政治家の孫を誘拐した犯人が突きつけた身代金は国家財政の赤字分。それをまるまるもってこいと要求する犯人は、同時にそうなってしまったことを国民の前で謝罪したなら子供は帰すと要求した。だったらたとえ見せかけでも、子供の命のためならと総理大臣なりが出て国家財政をこんな風にしてしまった責任は自分たちにもある、だからがんばって立て直していくから子供を帰せと呼びかければ、犯人だって言うことを聞かざるを得なかったんじゃなかろーか。

 けどそーゆー選択肢には向かわずに警察が犯人を捜索していく推理物になってしまう。小説としてのミステリーなんでそうならなければ話がつながらないってことはあるけれど、そこに違和感を覚えてしまうところに設定としてのズレってのがあるよーな気がしないでもない。つまりは言いたいことのために全体が引っ張られているという感じ。この場合は国民に借金を負わせて政治がいったい何をしているんだという憤りだけれど、一方でそうまでしなければ維持できなかった発展もあれば福祉だってある。そういうことへの思考をまるで見せないで、ただ国の所行が悪かったとだけ訴えるのって、国民としてあるいは有権者としての責任を放り出しているようで居心地が悪い。そこを突っ込まれれば頭が良くて責任感もある犯人だ。分かって解放しただろう。

 けど、そうならなかったところに発端となった人間たちの頭の悪さ、というか幼さが見え隠れする。まあ幼くて青臭いってのは半ば仕方のないことなんだけれど。一方で純粋でまっすぐな内容だからこそ、訴えたいメッセージをしっかりと世の中に伝えることには大きく貢献しているかもしれない。だからこの話はミステリーとして評価するよりもひとつの学習小説的にとらえた方がいいのかもしれない。読み終わって物語の中で誘拐事件によって国の大変さが世間に伝わり、世直しが始まるかっていうとそういう可能性はまるでいし、読み終えた人が何か行動に移そうと思うこともない。経済にウブな人間ではない、勤め人なり学生だったらもはや誰がハンドルを握っても操縦できないくらいに大きな国になってしまっているって分かっているから。誰かが痛みを被らなければ改善しないその事態を、自分を捨ててまで治そうなんて思う人は今はいない。それでもひとつの可能性を蒔くことで、未来に何か残せたら。そういう意味合いを持った読啓蒙の書。それがこの作品なんだろう。

 なんか興味があったんで、ワーナー・ホーム・ビデオとタカラトミーが組んで立ち上げるというアニメーションとトレーディングカードゲームの発表会見をのぞく。世代が10台後半から上は30台を狙ったカードゲーム、って話にいったいそういえばこの辺りの層ってどんなカードゲームを遊んでいるんだろうと考えたけれど、思いつくのは「ヴァイス・シュヴァルツ」くらいで、それも熱心にやっている層があるって感じではあんまりない。目立つカードゲームといえば「ヴァンガード」であり「バディファイト」といった小学生から中学生あたりが中心の層。「デュエルマスターズ」も「遊技王」もそんな感じ? だからタカラトミーとワーナーの立ち上げる「ウィクロス」ってのにどーゆー層が入り込んでいくのかがちょっとつかみづらかった。

 逆に言うならそういうふわふわとした層を、再びなり新たにカードゲームに引っ張り込むための仕掛けがこの「ウィクロス」でありアニメーション「セレクター・インフェクテッド・ウィクロス」ってことになるんだろー。少女たちが何か願いがかなうと聞いてカードゲームに手を出しバトルをするという内容のアニメーションは、美少女キャラがさまざまなパターンで登場する上にバトルという要素もあって一定層の人気を得そう。J.C.STUFFが作るならクオリティに間違いはないし監督はテレビシリーズ「STEINS;GATE」の佐藤卓哉さん。シリーズ構成はヒットメーカーの岡田麿里さん。まずまずの座組でスタートするオリジナル作品にお客さんがつけば、そこからカードゲームに興味を持つ人が出ても不思議はない、って判断か。

 イラストについてもそれなりな人たちをそろえているから、コレクションカードとしての需要なんかもありそう。何より最初に入った方がカードゲームは圧倒的に有利ってことからとりあえず、飛びついておこうって人を誘って最初は盛り上がるかもしれないし、盛り上がって欲しいなあ、ちょっと珍しい展開なんで。アニメーションについては印象、ちょいホラーっぽかったけれども本編があのまんまで行ったらカードゲームどころじゃないから、美少女たちがにぎやかに駆け回るよーなシーンもちゃんといっぱい用意されていると信じよう。声優さんも加隈亜衣さんとか佐倉綾音さんとかきゃぴっとして人気の出そうな人をそろえているし。でもなあ、TOKYO MXって入らないんだよなあ、我が家。早いところ地上デジタルに切り替えないとアニメの話題からついていけなくなるなあ。すでに見れていない作品が山積みだし。

 ちょっと前に星一徹こと加藤精三さんがなくなられたと思ったら、今度は磯野波平であり佐渡酒造でありダイス船長であり錯乱坊であるところの永井一郎さんが死去。そのレパートリーの広さと活動歴の長さにもう、物心ついたころからその声を聞いて育ったって感すらある声優さんなだけに、訃報に対する思いには深いものがある。年齢が年齢なだけにいつかはという覚悟はあったけれど、つい最近も「HUNTER×HUNTER」の劇場版に出演なんかしていたから現役感はばりばり。だからやっぱり突然のといった思いは否めない。

 そのお顔を拝見したのは2011年10月10日に開かれた「東京アニメワード」の功労賞くらいで、その時はサザエさん一家で40年間やって来た加藤みどりさん麻生美代子さん貴家堂子さんと並んでの受賞だった。ちなみに一緒の受賞にはアニメーターの荒木伸吾さんもおられて、そこから数ヶ月の訃報。残念だったなあ。でもってサザエさん一家そろってのショットも珍しかったけれど、もしかしたらそれが表舞台で見せた最後くらいだったのかもしれない。だとしたら貴重な機会に居合わせた。そこからお父さんが欠けてしまっていったいこれからどうするんだろう? なんて関心はさておいて、アニメーションの世界に命を吹き込んだ方として、そして声優という仕事の地位向上に取り組まれたという意味で、とてつもなく大切な存在だった永井さん。今はその軌跡を振り返りつつ今はお疲れさまでしたと遠くから、お声をかけて送りだそう。合唱。

 愚鈍というか愚劣というか、言いたいことのためなら事実だってねじ曲げる癖のある媒体だってことは過去に数多ある事例が証明してはいたけれども、それが普通の記者が書いた記事ではなくって、会社を代表する社論として繰り出されたということはもはや会社全体が、言いたいことのためには事実はんてどうだって良いと考えているという現れだと、世の中に宣言したようなものって言えそう。子供の権利条約云々から最近の子供たちは自己主張ばっかりで世間知らず、だから甘やかすなという論旨。その論拠として持ち出されたのがいつかの国際会議で日本の高校生が学校の制服強制は子供の意見表明を阻害するものだと訴えたら、制服を着られない国もあるんだよとたしなめられたという話だけれどこれ、週刊文春が作り上げた有名なデマとして当時から問題視され、海外から来た人が釈明したなんて後日談もあったりする。

 そんないきさつを知らなくたって、何かを訴えようとする時にその材料として持ち出すならば原点を探してその当時のいきさつを調べ上げておくっていうのが基本中の基本。けれどもそうした作業はまるですっ飛ばして、言いたいことが言えるならたとえデマでもお構いなしといった態度で臨んでいるから何というか、もはやジャーナリズムという枠組みをこえたプロパガンダとなり果てている感じもあるけれども、考えてみればもうずっとプロパガンダばかりやって来たから誰も気にせずああまたか、といった態度でスルーしてたりする。あるいはとっくの昔に見切りをつけられ誰からも読まれていないというか。信用されておらず読まれておらず外国に知られていなければ、誰からも異論は出なくってそれで世の中に論が通ったと信じてやまない内弁慶。気分はそれでハッピーだけれど数字は正直だからなあ。どうなるか。その先の選択は。


【1月26日】 寒いんで寝てすごそうかとも思ったけれども布団の中だと外に出した手とか悴んで寒いんで、布団を抜け出し鞄に月村了衛さんの新刊「機龍警察 未亡旅団」を詰め込んで電車に乗ってお出かけ。朝飯替わりにと船橋駅の構内にできたそば屋で、試しにとかき揚げそばを頼んだけれどもまあ、普通に立ち食いそば屋って感じ? でもそばは割にしゃきしゃきしてたしかき揚げもしなびていなかった。ちゃんと作って出してる感じはJRの駅構内にチェーン店としてひろがっている他の店よりは良いかもしれない。めとろ庵と比べるとどうだろう、最近めとろ庵行ってないし。カツ丼も出してくれるみたいなんで今度食べよう。船橋駅には昔構内に丼屋があって牛丼とかカツ丼を食べさせてくれたんだ。結構美味しかった記憶があるけどなくなって久しく、どんな味だったのかはっきりと思い出せないんだ。池袋の地下にあったスナックの汁気たっぷりな牛丼の味、秋葉原デパートで売ってたきじ丼の味ともども、だんだんと忘れていくんだろうなあ。そういうものだ。

 ペラペラと本をめくりつつもそのままでは東西線で行ったり来たりする羽目になるんで大手町で降りて東京ステーションギャラリーへと回って、看板とか見て気になっていた「プライベート・ユートピア ここだけの場所 ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在」って展覧会を見物する。ステーションギャラリーに入るのは改装以後では植田正治さんの展覧会以来かな、って直前か。入って荷物をロッカーに入れてまずはエレベーターで3階へ。看板にもなってた泥人間というか石膏人間めいた写真はマーカス・コーツって人の作品でシェービングクリームでも塗りつけたようなものらしい。でも写真でそれを見てもやっぱり石膏像の出来損ないにしか見えないのだった。鳥の格好をしてあちこち回っているパフォーマンスは何だろう。意味があるのかもしれないけれど、理解するまでには至らなかった。今度ゆっくり見に来よう。

 って割には暗室で上映されていたエリザベス・ブライスの映像インスタレーションは、途中に挟み込まれる女性の合唱めいた映像に引きずられるように見てしまったなあ。前半はなにやら教会においてある椅子とか飾りまどとかの解説っぽいんだけれど、画像が出て文字が出て繰り返されてパシッとした音が鳴らされてと意味はよく分からない。後半はマンチェスターかどこかのデパートであった火災の映像と証言者と燃える椅子と出火原因の調査なんかの映像を挟んで、やっぱりパシッとした音をならしたりする、そんな3つのパートに何か関連があるのかもしれないし、ないのかもしれないけれど見ているとやっぱり引き込まれる。人間って何かそこに説明的なものがあるとついつい目を向けてしまう習性があるのかもしれない。そういう意図ではないんだろうけど。カタログ読めば詳しく説明があるかな。でも最近は持って帰っても置き場所がないので買わないのだった。また見に行って詳しく読もう。

 面白かったのはジェレミー・デラーってアーティストによるビデオ映像というかニュースドキュメンタリー的な映像で1本はゲイギミックを売りにしていたレスラーの試合とか舞台裏なんかを綴ったドキュメンタリーとも言えるもの。それのどこがアートなんだろうとも思うけれどもそうした裏と表、過去と今を結合させてその場にキッチュな絵画ともども見せることによって時空間を圧縮し、感じさせようとしたものなんだろー。知らないけど。でもってもう1本は企画屋というかプロデューサー的な働きをしたもので、ブラスバンドの聖地ともいうらしいストックポートで活躍するウイリアムズ・フェアリ・ブラス・バンドというチームにアシッド・ハウスっていうエレクトロニックなジャンルの楽曲を演奏させてみようとう企画を立ち上げ実現させるまでをおったBBCのニュース映像を流してた。

 今でこそ東京ブラススタイルみたくブラスバンドでアニソンやったりする試みなんかが割と普通に行われているけれど、それは日本だからであって、英国みたいにお堅い国の英国ならではのユーフォニアムとコルネットが主軸となった編成のお堅いブラスバンドが、旧来からある楽曲ではないロックやポップスの、それも先鋭的なカテゴリーにはいるアシッド・ハウスなんかを演奏するのはやっぱり異端。メンバーにもそれが面白いのか、そしてどう見られるのかって不安もあったあろうけれど、やってそれなりの評判を得て満足な顔をしているのを見るとやっぱり、当人たちにとっても面白かったんだろー。CDも出したみたいだし。でもあんまり深くないとはいってたなあ、そんなにブラスバンドが演奏するクラシカルな楽曲は奥深いのか? まあそういう編成のために書かれた曲だからテクノとは違い音の“深み”は違って当然だけれど、音楽の深みかどうかは分からない。ってことで聞いてみたいな「アシッド・ブラス」。普通にレコード屋に置いてあるんだろうか。山野楽器をのぞいてみるか。

 サラ・ルーカスって人のシンディ・シャーマンとか森村泰昌ほど凝ってないセルフポートレート作品とかも見つつ、これも表の看板にあったライアン・ガンダーの捕まった火星人みたいな作品もみつつ全体としてこじんまりとはしつつもそれぞれにウィットがある英国流の作品って印象を持った展覧会。ブリティッシュ・カウンシルがそういう掌品を主に集めて全世界に展開しているからなのか、英国の現代美術の潮流がそうなっているのかは定かじゃないけれども東京ステーションギャラリーっていう、こぢんまりとして古き良きテイストを残した場所にはふさわしい展示とは思った。煉瓦の壁が階段にあって展示室を出たところにはドームを見上げ駅の雑踏を見下ろす吹き抜けもあって。全国を回ってきた展覧会だけれど個人的には1番の場所で見られたかな。近いしまた行ってうろうろしつつ休憩室で面の雑踏を見下ろしながらしばらくぼーっとしていたい。

 ってな感じの東京ステーションギャラリーの休憩室でしばし読書。もちろん「機龍警察 未亡旅団」。なるほどチェチェン紛争から生まれた女性ばかりのテロリスト集団が今度は日本を襲うという話。なんでチェチェンが日本を? って思わないでもないけれど、ロシアに協力したことで日本も標的になったというのがひとつの理由。でもそれくらいでわざわざ日本までやって来るのか、それを成したからといって自分たちに何の見返りがあるのか、チェチェンが良くなるのか、ならないだろう、ロシアが気まずくなるだけで、ってあたりにもはや目的をはき違えた、テロのためのテロと化した昨今の情勢って奴が見えてくる。

 加えて今回のテロにはひとつ、別の目的もあったみたいだけれどもそれも果たしてそこまでの憤怒を覚えるものか、いわば個人的な感情に過ぎないもののために仲間全員の命をさらし存在すらも掛けて挑むものなのか、って疑問も浮かんで離れない。冷徹にして計算高く目的のためには手段を選ばないにしてもその目的は大きくて高い。それが彼女たち「黒い未亡人」のはずだろう。なのに。というあたりで浮かぶ<敵>の影。その日本のみならず全世界すら網にかけて脅かそうとしている存在が、触手を伸ばして彼女たちを否が応でも動かざるを得ない状況へと追い込み日本へと追いやり、そこに将来有望な政治家の存在をも乗せてまとめて動かすことによってひとつ、何かを成し遂げようとするなり利得を得ようとしたのかもしれない。そうと考えなければ動機があまりに単純で、そして行動がシンプルでなおかつテロリストとして得られたものが小さすぎるのだ。

 とはいえそこまで深く陰謀に迫ると話も複雑化してしまのだろう、今回はそうした陰謀を割と描かずむしろ前面に立たされ自爆を強要され、あるいは自主的にやっていると思わされる少女の兵士たちのむごたらしさを描くことによって戦争の、紛争の胸苦しさを感じさせようとしたのかも。平気で少女たちを使い捨てる「黒い未亡人」の幹部たち。対して子供たちを死なせないため、そして生きさせるために子供たちを集め鍛えて戦いの場に送り込む「マージナル・オペレーション」のアラタ。どっちがより残酷か。どっちがより正義なのか。ちょっと考えてみたくなった。併せて読むと良いかも。そしてやっぱり気になる<敵>の目的。そのあたりにぐっと踏み込んだ話を、たとえ戦闘が少なくなっても読んでみたいかも、「機龍警察」シリーズ。果たして何が出てくるか。怖くもあり、そして何より楽しみ。


【1月25日】 フォアグラかあ、なるほどちょっぴりの抗議に簡単に屈する社会ってのの息苦しさが、昨今いろいろと感じられるようになっていて、例えばドラマの「明日、ママがいない」に対する抗議でまだ、全編が放映されていなくって番組の評価も定まっていないうちに抗議があること自体がいけないことだとでも言うのか、スポンサーが降りてしまう事態が起こったり、何かのCMにクレームがついて放送が取りやめになったりしたりして、受け取る側の寛容さがだんだんと薄くなっていることに気持ちの悪さを覚えつつ、やっかい事をさけてさっさと逃げ出したする送り手側の腰の据わってなさにも絶望したりしてる。ドラマを止めようとしない放送局は、だからその意味では腰が据わってる。

 なのでフォアグラ弁当に抗議があったからといって、発売を取りやめたコンビニチェーンの弱腰ぶりを、非難したくもなるけれどもただ、物がフォアグラってあたりにやっぱり注意をしておく必要があるのかも。この一件でいろいろと浮かび上がって来たけど、フォアグラってのは最近、欧州ですらその生産方法が残酷だからという理由で、結構な国が生産を禁止していて、中には店舗での売り買いすら禁止する国も出てきている。アメリカでもカリフォルニア州で禁止されたりして、現地のフランス料理店ではいったいどうしているんだろうという疑問も浮かぶ。テリーヌとか出してないのかな。あとはどうやって食べるんだっけ、食べたことないから分からないや。

 だから、今のフォアグラは大半が本番のフランスで作られ、消費可能な国に輸出されているんだけれど、世界がこんな状態だから消費も減っていて、そういう波にまださらされていない日本が安く輸入できるようになったからってこともあるのか、輸入してコンビニ弁当に取り入れようとしたら、昨今のグローバルスタンダードに直面して大慌てしたといった感じ。いやいやこれはフランスの食文化を尊重したものであって、生産方法については不問だと言い切って強行する手もない訳じゃない。ただ、関係の深い欧州ですらフランスがやる分にはかまわないけどうちではやらないと言ってるのに、日本が無視するのは、やっぱりまずいような気もしないでもない。

 命を奪うということについては、動物性の食べ物なら皆同じだから禁止すべきだ、なんて話を広げるとあらゆる食べ物が食べられなくなるから、そんなことは誰も言わないし言えないと分かっている。そんな中であえてフォアグラがその生産方法の残酷さでもって問題視されている、ってことをやっぱり強く意識する必要があったし、これからどんどんと気にしていくことになるんだろう。とはいえそこの境目だけはきっちりしておかないと、日本の鯨はどうなんだ、韓国の犬はといった知性とか愛玩性を理由にした部分への外からの突っ込みに答えられなくなってしまう。それぞれに伝統的な食文化である訳だし、絶滅への配慮もなされている。むしろ捕りすぎによって生産数が落ちてしまった鰻をもっと、何とかすべきって声を上げるべきなんだけれどでも、やっぱりやるんだろうなあコンビニは、夏の土用の丑祭りを。

 朝に目がさめたんで近所の幕張メッセで開かれている「次世代ワールドホビーフェア」を見物に行く。エンターテインメントの前線から離れて久しいけれども、せめてこういう場所をのぞいておくことで少しはこれからのトレンドをつかんでおきたいという下心。決して走り回る女の子とか見たいって訳じゃないぞ。そもそも小さすぎて手が届かない訳で。んでもってざっと見た感じではコナミの「オレカバトル」が大人気。ちょっと前からにぎわってきてはいたんだけれども今回はブースも大きめな上にそこに入るための整理券をもらとうと、子供たちが親も連れて長い長い行列のその先まで歩いていく姿が見えた。そうなると予想してあらかじめ遠くに入場列を仕切る場所まで作ってたりして、主催者としてもその人気ぶりを認識しているってことなんだろう。つまりは「コロコロコミック」が。これは強い。そしてしばらく突っ走っていきそう。

 筐体型ではないけれどカードゲームは安定の人気みたいで、タカラトミーの「デュエルマスター」にもお客さんが入っていたし、ブシロードが「ヴァンガード」に続いて送り出してきた、おそらくはより下の年齢層を狙ったカードゲーム「バディファイト」にも試しにやってみようとブースに入る子供たちの姿が結構いたりして、これからの市場をいろいろと左右していこう。絶対王者だった「遊技王デュエルマスターズ」とかって今もちゃんと人気はあるのかな、テレビアニメはやってるみたいだからちゃんとそれなりにファンはついていると思うんだけれど。軽く15年は超えて続いている訳だからそれはそれですごいこと。「バディファイト」はどこまで終えるか。つか出しすぎじゃないかブシロード。「ヴァイス・シュヴァルツ」って今どーなっていたっけ。

 玩具ではバンダイがまたぞろメンコのおもちゃを出してきていた。ビー玉にベーゴマにヨーヨーといった昔からある玩具の現代版といった玩具なら、「ビーダマン」に「ベイブレード」が出たり「ハイパーヨーヨー」が出たりして過去に成功例が幾つもあるけど、メンコについては過去にどこだっけ、コナミもいたっけ、いろいろ手がけては失敗の連続だった。何しろ紙切れを地面いぶつけて相手のをひっくりかえすというシンプルな遊び。そこに技術の要素を入れてかっこよく見せるってことができなかった。高速で発射させる器具なんて作れないし、形をいじって地面い充てたときの風の起こりを強くしたら勝負の公平性がそがれてしまう。テクニックを競おうにも3回転とかさせられる訳じゃないし。

 そこでバンダイではメンコの素材をいじり形もいじりフィールドもいじって角が当たったら反動でひっくり返るようにした、みたい、いやじっくりとは見ていなかったから分からなかったけれど、長方形ではなくあれは変形の六角形だっけ、そんな形をしたちょい厚めの樹脂製のプレートを下に置き、同じ物を上からぶつけてひっくり返すみたい。こうなるともはやメンコというよりは薄型のビー玉といったところか。改造とかパワーアップとかが可能かもよく見てないから分からなかったけれど、うまくぶつければ良いってところでテクニックがいりすぎた紙のメンコよりは子供たちにも受け入れやすいかも。バンダイでは別に水鉄砲の新型なんかも導入してたし、昔ながらの遊びの現代化でもってこれからのシーズン、乗り切ろうって考えかな。ジダーリングも復活させないかな。

 いやあしかしマスコミのトップに権力の犬が座るとは、そしてそのことを当人がまるで意識していないというか、恐ろしい時代になったもんだよこの国は。NHKの新会長となった籾井勝人さんだっけ、会見でいろいろと脇の甘い話をくっちゃべってくれたようだけれども従軍慰安婦問題についての見解については、ひとつの歴史認識であり、だからといって日本が許されるというものではないという意識さえちゃんと持っているなら目くじらをたてるほどのものではない、って気もする。持ってない可能性が高いけれど。あと言えば問題になるという前例が豊富にあるのに、聞かれたからといって答えてしまう莫迦っぷりは見過ごしがたいけど。問題はむしろNHKの報道姿勢で、朝日新聞によると「海外向け国際放送については、尖閣諸島、竹島という領土問題について『明確に日本の立場を主張するのは当然。政府が右ということを左というわけにはいかない』と述べ」たところ。これも尖閣に竹島といったテーマなら当てはまるけれども後段、「政府が右ということを左というわけにはいかない」という意識が他の事態にまで広がっていったらどうなるのか、って不安を醸し出す。

 さらには「特定秘密保護法について『世間が心配していることが政府の目的であれば、大変なことですけど、そういうこともない』『あまりかっかすることはない』と述べた」あたり、政府の意向をどっぷりと汲み取っていっさいの不安はそこにないと言わんばかりのスタンス。けど実際、いろいろな不安が浮かんでいてそれをあらゆるメディアの人間が表明している中で、有力メディアのトップが平気な顔をしているというのはやっぱりあんまりよろしくない。読売新聞の記事では「『政権の意向を持ち込むつもりはない。放送法があるが故に距離を保てる』とした」らしーけど読売だからそのあたり、手をゆるめて表現しただけで、政権の意向は持ち込まないけど政権の意向と同じ考えを示す可能性だってない訳じゃない。前言がまさにそうしたスタンスをとりかねないことを示してる。昔だったらもうこれで命運は尽きたんだけれど、今は何事もなく居座って、のまま権力の言うがままに報じ伝えていくんだろうなあ。参ったなあ。まあ積極的に安倍総理の犬をやってるメディアもあるから今さらなんだけど。本当に参ったなあ。


【1月24日】 なんかAKB48に「チーム8」ってのが出来るそうだけれども、研究生から引き上げたメンバーをこれまでのメンバーに加えてシャッフルして新しいチームを作る従来の方法ではなくって、全国のテレビ局なんかと協力して各県から1人づつメンバーを選び出してはチームを組ませ、全国各地に派遣するって方法を採るらしー。メンバーを目指して研究生としてがんばっていた娘たちにとっては、何やってたんだろう自分はって気分も生まれそうだけれど、地方で地道にアイドルを目指してがんばっていた娘たちには、もしかしたらチャンスかもって気持ちが芽生えて来ることも。その意味では後ろ向きなだけじゃない施策だとは言える。ただ。

 各地でがんばっている娘さんたちには、すでに各地に生まれているローカルアイドルに入って活動している娘もいたりしそうで、そこからひとり抜け出して、ブランドバリューの高いAKB48へと移ろうとするケースが続出したらいったいローカルアイドルはどーなってしまうのか。AKB48って巨大な看板をひっさげやって来られて、それまでどおりの活動をしていけるのか。いろいろと不安もよぎる。一方でAKB48のファンとして活動して来た地方在住の人たちにとって、応援してきたメンバーではなく新しく全国からかき集められた娘たちが、はいAKB48ですよと名乗ってやって来たところで、心から応援できるのか。彼らは誰かメンバーが好きじゃなかったのか。AKB48という看板を応援しているから中身が誰でもかまわないのか。AKB48というシステムそのものをを支えたいと考えているのか。

 ファンそれぞれの立場によって温度差もありそうだけれどでも、システムといったところで従来の研究生からトップ目指してがんばるといった者ではなく、全国総ざらえをして1人を選び集めるコンテストのようなもの。それでも良いのかって疑問は浮かぶ。でもメディアはそうした内部の葛藤や受け手も不安なんて無視して、AKB48というブランドさえあればそこにファンはつき、記事も読まれると考えて目一杯に喧伝していくことになるんだろう。地方に生まれたローカルなアイドルのコミュニティをぶち壊して、AKB48といゆーひとつの色に染め上げる。その先、アイドルブームが終わった後には何も残らないという焦土作戦であっても、メディアは次のネタを見つけて移っていけば良いだけだから。巻き込まれる娘たちが1番、大変かもしれないなあ。それで愛知県からは誰が出てくるのかなあ。SKE48から鞍替えとか目指す娘とかいありするのかなあ。

 群馬県に降り立ったことがあるか、って聞かれて記憶を探っても東京(というか千葉だけど)に出てきて20余年のうちに山下達郎さんのコンサートを聞きに栃木県の宇都宮に行ったことはあっても、隣の群馬県には前橋も高崎も直接足をおろしたことはないような気がする。新幹線で通ったくらい。過去においては修学旅行で軽井沢あたりをうろついたときに、浅間山の鬼押し出しあたりをうろついたかもしれないけれどそこを群馬県の代表というとちょっと違う。せめて尾瀬なりに行かなければ群馬とはいえないとするならば、自分はあまりに群馬県のことを知らずにいる。そこがどれくらいの秘境なのかも。栃木県との間で紛争が起こる可能性すらあるようにワイルドな土地柄であるということも。

 幸いにしてライトノベルのうちのアサウラ「デスニード・ラウンド」に栃木群馬間紛争という言葉が出てきて、何かを争っている土地柄だということを想像させてくれたし、槙岡きあんさん「オーディナリー・ワールド」シリーズでも群馬県と栃木県からそれぞれ出てきた少年少女が、地元の名誉をかけて言い争う場面があってやっぱり因縁を持った土地柄なんだなあということを知らせてくれた。とはいえ単純に純粋に群馬県だけのこととなると、ちょっと分からなかったけれどもそこに現れた日下一郎さん「“世界最後の魔境”群馬県から来た少女」(スマッシュ文庫)が、群馬県という場所の秘境ではあるけれどもよくよく見れば見所はあり、美味しい食にも恵まれた場所なんだってことが見えてくる。

 その中には尾瀬もあれば草津温泉もあり、焼きまんじゅうもあれば子供洋食だってある、っていうか何だ子供洋食って? 埼玉県は行田のゼリーフライなら知っていたけど、子供洋食っていう食べ物についてはこの本を読むまでまるで知らなかった。何でもジャガイモを焼いたかどうにかしたものらしいけれど、そこにお肉と糸こんにゃくを加えて似ると肉じゃがになってしまうというハイブリッドな食べ物。ちょっぴり個性が緩そうだけれど、それだけ素朴で純粋な味わいを楽しめるものなのかもしれない。いつか食べに行きたいなあ。タルタルカツ丼については最近、神戸らんぷ亭がメニューに加えてくれたけれどもここのは普通に卵とじのカツ丼の上にタルタルソースをかけていたから、本家みたくソースだけがかかったカツ丼の上にたるたるをかけるのとはちょっと違うか。やっぱり食べに行くべきか。

 とはいえ別にご当地グルメでもないこの話、古くから群馬に眠り続ける群馬王を目覚めさせようとその名もコヨトル・ウェウェコヨトル・ショチトルコヨトルというどこの南米っ子なんだって名前の少女が現れては、高校に通う少年たちを襲い名物をばらまいては去っていったりする展開から、彼女の狙いを横からかっさらおうとする女スパイの暗躍があり、それを阻止しようとする少年たちの群馬潜入があってと、逃走と探索、そして戦いのストーリーを楽しめる。その間には他の名産品もたくさん。そして群馬に伝わる伝承なんかもたくさん。読み終えた時にあなたは誰にも負けない群馬通になれることだろう。なってだからどーなるって訳じゃないけれど。まゆ玉うどんって美味しいのかな。おっきりこみって味噌を入れるとやっぱりほうとうになってしまうのかな。

 ああそうか、今は過去になぞらえるならインパール作戦のまっただ中にあって、攻勢を狙ってあちらこちらに手を広げてみたものの、世はそんな戦線拡大が許される情勢にない上に、最小限の勝利に必要とすべき人員や弾薬や糧食すら補給できないまま、前線にはひたすら疲弊が溜まってこのままでは、というよりすでに餓死者が出始めている状況であるにも関わらず、ここで退くと言ったら自分に責任がかかるかもしれないと畏れて、最高司令官の牟田口廉也中将がさらに上官の河辺正三中将と会談しながらも、どちらも撤退すると言い出せないまま、さらに被害を拡大させようとしている感じってことなのか。

 そこから教訓を得るなら、後世にその無能ぶりが歴史の本の上に刻まれ、小説などでもそう描かれたことを考え、被害がすでに出始めているとは言っても、まだそれほどではないうちに撤退を計るのが、上に立つ者の役目なんだってこと。もっとも、それを決断できる聡明さをたとえ一人が持ち得ても、総意といった部分で責任問題が気になって、明解な決断を下せないでいる間に、さらに大勢の人が前線で矢折れ弾尽きてバタバタと倒れていって、さらには一地域での敗戦にとどまらず、国もろともの敗北という決定的な瞬間を迎えることになるんだろー。もうそれはほとんど確実なんだけれど、でもやっぱり動かないんだろうなあ。ど何の話だ。それは言わないお約束。


【1月23日】 「@バンチ」の2014年3月号に掲載されている浅田有皆さんの「ウッドストック」がこれまた感涙の1編。アメリカでのフェスに出てブンダーカマーとのバトルをしたものの1票及ばずデトロイトロックフェスへの出場を逃したチャーリーは、ボーカルのスゥがソロ活動を始めたこともあって活動を停止しひとりぼんやりしていたところに起こった東日本大震災。かといって音楽活動をするだけの心境に達していない楽は被災地へと出向いてボランティア活動を行っていたところにニコという名の美少女ボーカリストが現れ楽の心を揺さぶる歌を唄って彼にギターを手に取らせる。

 そして始まったセッションから楽はかつてのチャーリーのような空気を感じ取ったもののそのまま続けて良いのかやっぱり悩んでいたところにニコが自分自身を明かしてそしてやりたいことをやり抜くことで周囲に元気を与えることができるんだということを知り、ボランティア活動後の2人のセッションが始まりそれがネットを伝わり日本だけでなく世界へと広がっていく。被災者自身ではないからいったい歌がどれほどの力を、勇気を与えてくれるものなのかという実感はないけれど、もしそうだったとしたらこういうドラマも現実にあったんだろうなあということを、AKB48のドキュメンタリーなんかも思い出しつつ考えてみたり。そんな楽とニコの前に現れた2人。さあ始まるぞ。そして飛び出すぞ。今度はどこへ。相手は。スゥの立場は。いろいろ楽しみな展開。

 羽根川牧人さんのファンタジア大賞金賞受賞作「心空管レトロアクタ」(ファンタジア文庫、580円)がとっても面白いので読むように。どういう訳かは分からないけれども電気を使うと怪物が現れるようになった世界では、電気文明を一旦終えて文明の水準を落としながらも心の力、すなわち心空子を動力に変える「心空管」なるテクノロジーを新たに発明。これを使ってどうにかこうにか復興の途上にあった。とはいえ絶滅した訳ではない怪物、<邪禍>の襲来によって両親と妹を奪われた主人公のクウゴは、街を離れて今は島に暮らしつつ、両親の研究を受け継ぎ管律技師になろうと目指していた。

 ところが、電気文明のかけらも残っていないはずのその島に、なぜか<邪禍>現れては島民たちを襲おうとする。もっともそのときは、発生を予見してやって島に来ていた心空機士たちが<邪禍>を撃退し、これからも守ってやると言うものの、その代わりとしてクウゴを都市の学校に引き取り心空機士にすると言い出す。とうのも<邪禍>との戦いで、心空機士たちが持ってきていた5つの心空管を搭載してとてつもない力を発揮することになってはいても、前の持ち主を失ってから誰も使えなかった剣をクウゴが発動させて、強大な力を発揮していたからだった。

 そしてクウゴは都市へと連れて行かれて心空機士を要請したり若い心空機士たちが通う学校に入って鍛錬に明け暮れる日々。もっともちょっとした<邪禍>の襲来を受けた時、島での危機では動いた剣がなぜか全然使えなかった。いったいどうして。その理由が明らかになった時、クウゴとともに戦う少女の心空機士メリナの過去も浮かんで重なり合い、強大な敵を倒す力となる。真空管ならぬ心空士というガジェットがユニークで、それを使ってさまざまな装置を作りだして使っている街の様子が面白い。心が燃料なだけに思いを乗せるらしくそれによって使い勝手が違っているところもただのエネルギーにはない特徴。だからこそ適正が求められるってことなんだけれど。

 それから設定もなかなかに奥深そう。電気を使わなくなったはずなのに<邪禍>が滅びない理由、それを解消するために求められている、クウゴの父親たちが開発に取り組みながら意半ばで世をさり、何者かによって保管されたテクノロジーの可能性、そんな世界の裏で暗躍する十三貴族の本当のねらいなんかが見えて来た時、世界は単に<邪禍>と人間との戦いにとどまらず、欲望に駆られた人間を相手にした解放の戦いにも発展していくことになるんだろう。クウゴに目をかけたギルグリン・ミッドフォードという名の十三貴族は果たして見方かそれとも。そんな憶測を喚びつつ次への展開を期待したい物語。今はとにかく少年と少女が出会い戦い、成長していくドラマを堪能したい。

 まあ。とは驚かなかったけれどもしかしヤンキースが田中将大投手に7年161億円とはまた大盤振る舞いをしたものだ。25歳だから32歳とかそんなものまでヤンキースにいたとしていったい何勝くらいできるものなのか、というかそもそも今年にいったいどれくらい勝てば認めてもらえるのか、去年勝ちすぎただけに端境期にはいって落ちそうな気もしないでもないし、それ以上にボールがやや大きめになるアメリカのリーグに対応できるのかどうかってのも心配なところ。WBCで成績を残したダルビッシュ投手と違って確かそんなに成績は残していなかったんじゃなかったっけ。それも含めてこれからのキャンプ期間中に調整していくことになるんだろーけど、日本と違って投げ込んで調整ってないからなあ、それで松阪大輔投手も調子をおかしくしてしまった。適応できるか否か。それが分かれ道かなあ、ダルビッシュ化するか井川化するかの。さてはて。

 行き当たりばったりというか外面を良くしたいがために甘言を弄しては後でつっこまれておたおたするというか、そんなことばっかりを繰り返してきた安倍総理がダボス会議なんて別にサミットでもない場にのこのこと出かけて行っては記者に問われて靖国神社にはヒーローはいないって答えたとか。あそこは戦争で亡くなった人たちを慰霊する場であってその行動を英雄として奉まつる場所じゃないってことでその意図自体は海外から批判されている靖国参拝は戦争行為を行程するようなものじゃないと言いたかったんだろうけれど、一方で靖国神社は国のために戦って死んでも英雄として奉ってあげるから一所懸命戦ってくださいよと背中を押す装置として機能して来た。

 そこに奉られた人たちはだから英雄としてたたえられることを望んでいたし、神社自体もそういう意図で奉ってるし、遺族も英雄として誇りに思っている。それなのにあなたたちは英雄じゃないって国の偉い人が断言してしまって、遺族や靖国神社はどうして怒らないのか、靖国神社の英霊たちに敬意を払っている人たちはどうして憤らないのか。そこが何だか分からない。きっと安倍さんは自分たちの見方なんだと信じてその行動をけなすことは出来ないって心理があるんだろうけれど、でもあっちにいい顔をしてこっちをないがしろにするようなことを後先考えずにやってのける人をどうして信じていられるのか。他のあらゆることがそんな感じに支離滅裂なのに、未だ応援し続ける人もいるす後を推すメディアもいたりする。どうなってしまうのかなあ、この国は。


【1月22日】 ちょっと前に突然現れて評判となったサイトのドメインからして東京殿様とは、イカしているというか先走っているというか、はっきり言うなら無茶苦茶尊大なんだけれど、それがまた似合ってしまうところが先祖伝来のお殿様といったところかなあ、細川護煕さん。ここまで引っ張って来たけれどもどうにかこうにか間に合ったみたいで東京都知事選への立候補を表明して、もちろん原発は脱原発を目指して今は再稼働を抑えていこうという立場を示している様子。それから東京五輪については辞退といった過激なことはしなくって、震災に遭った東北の復興もそこに絡めた中身にする一方で、大規模施設の建設なんてのは見直すことも視野にいれているみたい。

 原発については、代替エネルギーの確保という問題をクリアにしない限りはやっぱり不足の可能性もあって、真っ向から賛意を示せないという状況はあるけれど、放射性廃棄物という将来に禍根を残す物を出す存在であることだけは変えられないのなら、やっぱり脱原発に向けて進んでいくことは必要。そのためのリーダシップって奴を、政府に変わって示してくれたら世間も理解を示すんじゃなかろーか。五輪の東北との連携っていうのはううん、具体的な何かがまるで浮かばないんだけれど、実際にあっちで開催する訳にはいかないのならその実体を世界に知ってもらい将来の復興なり世界の防災につながるような企画を打ち出していければ理解も深まるだろう。あとは施設の見直し。葛西のカヌー会場とか巨大過ぎる国立競技場の設計なんかを、とりあえずは見直してくれれば喝采も送られると思うんだけれどそこまで言い切ることが出来るかなあ。投票までの言動、注意していこう。都民じゃないけど。

 そう僕は都民じゃないから家入一真さんという飛び入り参加の候補が何をしでかそうとしているかについても、判断を下す立場にないのがちょっぴり寂しいというか。過去にいろいろと見せていたネット上での振る舞いにたいしていろいろと異論もあったりして毀誉褒貶、持った人だけれどもネットで自分なりの事業を立ち上げ軌道に乗せてきたっていうひとつの実績だけはあるし、それを利用して最大限に効果的な言説を世に送り届けることにも長けたところがある。期待してみたい部分もあるし、期待を集めそうな可能性もあるけれども一方で、世間的には決してポジティブには受け止められていないホリエモンを背負っているところが、どう見られてしまうかという部分もあるからなあ。僕はホリエモンの言動は好きで、あの時にちゃんと受け止めていたらフジテレビだって今頃は、なんて思いもするけどでも、世間はやっぱりそうは思わないんだよなあ。どうなるか。そこも注意。でも都民じゃないんだ。

 言われれるがままに住宅やらアパートやらマンションやらを建設している積水ハウスの発表会に行って、4階建て複合型多目的マンションとやらの話を聞いてくる。ジャンルじゃないところの話を聞くと本当に勉強になるもので今どきやっぱり相続税対策としてこうしたマンションなりアパートの建設に需要があるようで、単純に一戸建てを相続するよりも中に賃貸とか店舗とかを含めておくと相当な額の節税になるらしい。ただし作る建物がデカくなれば当然建設費も高くなる訳で、その分をちゃんと賃貸なりで回収できるか、ってところが重要になって来るんだろう。そのためには立地が大事。田舎に建てたって店舗はシャッターが閉まりっぱなしで賃貸はがらがらでは意味がない。そんなところも含めてちゃんとコンサルティングしてくれる人が必要になってくるんだろうなあ。しかし4階建てかあ、4階に住んで2階3階を賃貸に出して1階で探偵事務所を開くとか、そんな暮らしが出来たら最高だけれどなあ。どんな貴族だそれ。

 いやいや貴族ってのは領民を虐げ、そして領民から殺されては領民を明日へと誘う機能を持った存在のことを指していて、決して優雅に高等遊民を気取っていられる訳じゃない、ってのは葉巡明治さんの「魔物ワールドは二週目令嬢(キミ)が作ったのだ!」(集英社スーパーダッシュ文庫、600円)における貴族の設定。だから冒頭でリテトエトという貴族の少女は、領主を含めた家族を領民たちに襲われ殺され、自身もその身に危険が迫りながらも執事、ではなく黒服を来ていつもリテトエトに付き従っていた少年のセバスチャンが身を挺して護ってくれたお陰で逃げ切りひとり海に出る。そして気がつくと孤島にいたリテトエトを取り囲んでいたのは、人間にはまるで見えない魔物たち。といっても凶悪そうな面構えではなく、小さくて可愛かったりするんだけれど中には巨大な怪鳥もいて、その鳥によってリテトエトは海から拾われ島へと運ばれて来たという。

 こうして生き延びたリテトエトは、貴族として人を虐げ時に殺めたりもした過去を捨てて二周目となる人生を送ろうと決めて、まずは魔物たちに自分が食われることがないようにと、自分の有用さを示すために木の実をとったり魚をとったりして魔物たちに食べさせ、それによってアドバイザーとしての存在を認められて、そこに居場所をつくっていく。離ればなれにはなったものの首から提げたペンダントのせいか、セバスチャンの声も聞こえて魔物たちとの暮らしで何をしたら良いかをアドバイスしてくれる。これでどうにかやり直せると思ったものの、そんなリテトエトを貴族だったという過去が襲いその身を、そして心を苛む。

 リテトエトを恨む人間たちの島への襲来。絶体絶命となる中で彼女が選んだその道はやっぱり貴族としての振るまい、つまりは自己犠牲によって領民たちを、この場合は魔物たちを救い導くというものだった。本当はそうしたくなかったのに、そうせざるを得ない運命を課せられてしまうことって、大なり小なり人生にはいろいろある。そんな時にいったい、自分はどうしたら良いんだろうという迷いに対して、リテトエトの葛藤や懊悩、そして決意からさらなる決断へと至る道が、自分の選ぶ道ってものを教えてくれるような気がする。同じにしなくても良いけれど、自分自身を捨てる必要はないってことだけは確か。やりたいことをやり抜いてそれから、選んだって遅くはないんじゃないのかなあ。

 魔物たちのどこかズレた言動は「人類は衰退しました」の妖精さんたちとも重なるけれど、あれほど支離滅裂ではなくって魔物としての欲望を果たすために今を生きているといったベクトルはあって、人間が死んで生まれ変わった存在かもしれないという可能性も乗って、その生き方と生き様への興味を誘う。あとはやっぱり貴族という存在の現実とはまた違った機能の設定。権力者が権力の保持にのみ走りがちな昨今、その権利には責任も伴うんだということを寓意的に見せてくれる。予定調和に陥らず考えさせ感動もさせるストーリーはライトノベルというよりはほとんど文学。表紙絵のかわいらしさに敬遠する人もいそうだけれども気にせず読んでそこに寓意と決意を見て欲しいなあ。ラストは本当に泣けて来るから。悲しさと、うれしさで。

 モーニングツーを買ったら「もやしもん」が終わっていたというか「もやしもん」が終わったからモーニングツーを買ったというか、1年間の農大生活を終えていよいよ沢木直保が家業のもやし屋を継ぐという決意をするところまでを結果として描いた話になったみたいでその際には自分が菌を見えるという力に対するちょっぴり後ろめたい気持ちがすっと抜け、あってもうれしいしなくてもかまわないけれどでも、あとしばらくあってくれたらもっともっと菌のことが好きになるという意識の確認もあって大きく成長した感じ。過去には結城蛍の決断があり、長谷川遥の自立があったりとそれぞれの成長も描かれて来たけれど、最後になってようやく主人公のそれがあってだからこその大団円といった感じになった模様。実に言い終わり方。これ以上は続かないよなあやっぱり。ともあれお疲れさまでした。次はどんな漫画を描いてくれるかな。楽しみ。


【1月21日】 今週の10分アニメ「となりの関くん」は机磨きの回だったけれどもそんなアニメの主題歌「迷惑スペクタクル」の早口パートをしっかり淀まず歌いきる花澤香菜さんが相変わらずすごいと思ったのでCDの「なりの関くん うたのCD」を買って聞く。やっぱりすごい。何回くらいのテイクでこれだけのことをやったんだろう。普通は噛むよなあ。でもって『となりの関くん うたのCD』には世界的ドラマーの神保彰さんが参加した「Set Them Free」ってエンディング曲も入っていて、ショートバージョンでは例のデスクトップドラムver.を堪能でき、そしてフルサイズでは圧巻のドラミングを聞けるのだ。カラオケバージョンではなお鮮明に。いつもながらすごいドラム。ほんとにアニソンか? ファンクじゃないのか? 企画した人偉い。キングレコードのこれが底力って奴か。

 魔法少女の賞味期限は短いようで、小学生の女の子たちが長ければ1年というのもあるけどほとんどは3ヶ月から長くて半年といったサイクルで魔法少女となっては、戦い町を守ってそして役目を終えて引退する。表向きは。けれどもそれで終われるほど魔法少女の仕事に魅力がない訳ではないし、魔法少女が不必要とされている訳でもない。だから魔法少女を引退した魔法少女たちは非公認の魔法少女として雇われ戦い対価をもらって過ごしている。中には何年も何年もそんな仕事を続けている非公認魔法少女もいて、歴戦の勇士として尊ばれ敬われ畏れられる。そんなことがある世界が舞台。奇水さんという人の「非公認魔法少女戦線 ほのかクリティカル」(電撃文庫、630円)という物語の。

 牧瀬琢磨という高校生に彼女ができた。美守ほのかというごくごく普通に見える女の子で、可愛らしくて楚々として、いっしょにデートに出かけてもキャッキャと騒ぐことなんてしなくて、彼女が買って来たお菓子をショッピングモールのフードコートでテーブルに積み上げ食べたりする。あんまり家が裕福ではないらしくお店に入って食べ歩き、なんてことはしないみたい。それもまた初々しいなあと思って見ていた矢先、ほのかを誰かが訪ねてきて、そして何者かがほのかを襲う。見た目はテレビアニメでみるような魔法少女たち。着飾って武器を持って。そんな魔法少女を見れば普通は驚くところを、ほのかはすべて知っているとばかりに受け流しては、その姿のままで襲ってきた魔法少女たちを退ける。あっさりと。

 クリティカルほのか。そう、美守ほのかはかつて魔法少女として戦隊を組み活躍していた魔法少女のチームの最強メンバーで、そして公認としての役目を終えたあとも傭兵の魔法少女となって悪い者を倒す手伝いをしていた。対価としてもらったお金は魔法力に変えて妹と2人、バラバラにならずにいられる暮らしを守るために使っていた。それは結構な魔法力を必要とする。だから戦い、戦い続けるうちに美守ほのかは、クリティカルほのかは強くなっていった。けれども今回だけはちょっと事情が違っていた。バッドソウル。悪しき魂によって染められてしまった魔法少女たちが宇宙を攪乱にやって来た。ほのかを魔法少女にした<星>の世界の女王までもがバッドソウルに冒され、退治に来た魔法少女たちを悪に染め上げ反旗を掲げて迫ってきた。

 そして始まるほのかの戦いでは、バッドソウルに染まっていない傭兵の魔法少女たちも参集して次から次へと現れるバッドソウル組を迎え撃つ。まさしく非公認魔法少女戦線。その戦いのシリアスさは「魔法少女育成計画」だの「魔法少女禁止法」といった昨今人気の魔法少女バトルロイヤル物のひとつに重なるけれども一方で、魔法少女の活動期間がテレビアニメの短期間化なんてものをふまえて1クールだとか、年齢もとある人気魔法少女アニメになぞらえられて小学生がせいぜいだとかに限定されているところに、現実のアニメ事情を取り込んだ魔法少女パロディとしての雰囲気ものぞく。皮肉っているというか。

 そこが徹底したシリアスさ、運命の残酷さを求める人にとって果たして受け入れられるかは分からないけれど、読んで悲惨さに慟哭しなくても済むところは、残酷が苦手な身としては案外にありがたい。ほとんど無用の長物な、返信もできない少年が1人、参画しているところにも意味を持たせてあったりと、構成への配慮も感じられる。今はとりあえずバッドソウルに染まった魔法少女たちを退け地球の平和を守り、生き延びもした美守ほのかだけれどこの先に新たな敵が訪れ戦う羽目となるのか、それとも別の誰かを主人公に同じ非公認魔法少女の運命と戦いを描く作品にするのか。いずれにしても続きを読んでみたいところ。それにしても「魔法少女地獄」とか「魔法少女禁止法」とか「魔法少女育成計画」とかも出て人気だなあ魔法少女暗黒闘神伝。全部ぶっこんでバトルロイヤルしたら誰が勝つの?

 いつものことだけれどもピントがはずれたポン酢な新聞に記事が載っていて辟易。任天堂の赤字をあげつらってその戦略を避難する記事なんだけれども「ゲーム専用機で熱心に遊ぶ『ゲーマー』を獲得するため平成24年12月にWiiUを発売した」なんて出てきておなかがよじれる。別にそうではなくってWiiのユーザー層を次のフェーズへと移行させるために出したもの。どちらかとえいばネットワーク機能を強化して、ホームサーバー的な役割を与えようとしたって感じじゃないのかなあ。だから決して「『性能不足』」でソフトが開発されない訳じゃないし、そもそもがグラフィカル的な性能面の進化をすでにWiiで捨てている任天堂にとって意味がない。特徴的なインターフェースを生み出しその上で何が遊べるか、どんな遊びが出来るのか、ってところに注力してソフトを開発して、そしてミリオンを記録するソフトを何本も出してきた。ただまだ数がそろってない、だから売れていない、といったところ。

 「ソフト開発会社の間では『性能的に時代遅れのゲーム機』との評価が定着し、最先端のネット対応ソフトを開発しても動作しないなど開発効率が悪く、敬遠されがちという。このため、魅力的なソフトが登場せず、本体も売れないという悪循環に陥っている」ってあるけどそれじゃあPS3向けのソフトがめちゃくちゃ売れているかっていうとそうでもない。むしろWii U対応ソフトより売れてないくらい。なるほど据え置き機が思わしくないのは事実だけれど、低性能だからソフト会社が逃げてるって訳じゃなく、PS3とかも含めた据え置き機向け全体に当てはまる傾向。そんな中で任天堂は自前で人気のタイトルを幾つも供給できる強みがある。PSがクラウドで云々って任天堂だってダウンロードで昔のゲームとか売っている。その面ではとりたって大きくは劣ってない。

 だいたいが携帯ゲーム機市場で任天堂はPSPとかPS VITAにいったいどれだけのスコアを付けて勝っているのか。そういう指摘を何もしないで据え置きゲーム機の問題ばかりを、それもピントはずれの要素でもって書いて恥じない新聞の、いったい何がやりたいんだろうか。何もできないからこうなってしまうんだろうなあ。PS4vsWii U、あるいはSCEvs任天堂という、決してそれが適切とはいえない図式の上で任天堂の苦境を報じるためのストーリーを組み立てようとした時に、性能差というものは書き手としてフックにしやすくデスクあたりへの説明もしやすいといったところか。高性能のゲーム機にソフトメーカーはなびき、弱者は負けるという単純な図式。でも単純に性能差で即断できないところに任天堂の持ち味はある。

 それはゲーム機とゲームソフトをいわばセットで開発し送り出している“ゲーム会社”であるということ。そこを語らずして任天堂の底力は語れないということは過去、PSに推され64やGCが苦境に立ちながらも再起した歴史を見知っていれば思いつくのだけれど、そういうことは書き手にとってどうでもいいことなんだろー。勉強する気もないし。あとは叩きやすいところを叩けば受ける、というネット時代のアクセス万歳な心性が書かせているという見方も。それで確実に落ちている信頼は、如実に収益に現れていて、そして足下ぐらぐらぐらぐら。まあいくら叩いたって内部留保のたっぷりな任天堂より先につぶれるのは借金まみれの新聞な訳で。だから叩けば何か出る? 出るかねえ。


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