縮刷版2014年10月下旬号


【10月31日】 漂う予感はちょっぴり苦しく寂しく哀しいけれど、今はまだ静かに病室で推理する友人に支えられた少女の青春物語のステップワンだと思って読んでいける青柳碧人さんの新潮文庫nex初登場作品「ブタカン! 〜池谷美咲の演劇部日誌〜」(新潮社)。ブタカンとは豚の缶詰ではなくって舞台監督のことで、タイトルにもあるように池谷美咲って高校2年生の女の子が、ナナコって名の友人の病気という事態に誘われ代わって演劇部に入って舞台監督を務めるようになる、といったストーリー。どうして高校2年生で急に、っていうのは彼女が帰宅部だったからではなく、家の事情でアルバイト三昧で部活ができなかったから。それが解決して晴れてフリーの身になったタイミングで、演劇部にいたナナコが入院してしまい、だったらと代わりの舞台監督を頼まれた。

 幼い頃からの親友で、自分が落ち込んでいた時も代わらず励ましてくれたナナコが、見かけは明るいけれども理由の分からない難病で入院してしまったこともあって、引き受けざるを得ないと演劇部に行ってはいつも鼻血ばかり出している部長に指示され、早乙女という名の脚本家で演出で俳優でもある男子について、舞台監督の仕事を務めることになる。もちろん最初は素人で何をやるにも失敗続き。それでも周囲はちゃんとサポートしてくれて、あとは脚本が書けないと逃げ出してしまった早乙女をどうにかするってところで、病院にいるナナコのアドバイスとか支えもあって、そして素でぶつかっていった美咲の頑張りもあって早乙女は脚本を仕上げ、あとは学園祭での上演に向かってまっしぐら。

 とはいかないのがやっぱり演劇といったもので、1年生でバドミントン部と掛け持ちしている男子生徒の悩みをどうにか解決したり、美咲がキャストの男子生徒と仲良くするのを怒る割に協力する気持ちに乏しい女子部員のジュリアと文字通りに“腹を割って”話し合って彼女を味方に引き入れていくストーリーは、青春であると同時にそうした青春のもちれやらちょっとした事件やらを、病院にいながら洞察と推理で解決していくナナコって少女を探偵にした推理物でもある。やがて病気も進行して大変な事態になりながらも、残した言葉によって演劇部を導きアクシデント続きの舞台を成功へと誘った果て、ナナコの容態はどうなって、そして演劇部がどうなるかはこれからの話ってことになるんだろう。どうなるんだろう? 続きが読みたいけれどそれには続きを書かせてもらわないと。だから売れて欲しいこの小説。相変わらず文章は自在で読みやすく楽しくってためになる。上手い書き手だなあ。どうしてミリオンセラーにならないんだろうなあ。

 といった新潮文庫nexの新刊が今月は5冊が5冊ともライトノベルチックで買わなきゃいけないという感じで買ったらお金が飛んだ。小川一水さんの「こちら総務省特配課」なんて最初の「こちら郵政省特配課」の頃から買ってたりするんで3代目になるけどでもやっぱり買わなきゃいけない感じもあって買ったりしたけどこれ、やっぱりライトノベルだよなあ、それでいて新潮文庫nexはライトノベルレーベルじゃないっていうのは無理がありそうだけれど、レーベルではなくカテゴリーだという言い方をするならなるほどレーベルとはつけないで、ライトノベルだと言う方が良いのかも。それすら嫌がるってことはないと思うけど。っていうか朝日エアロ文庫とか集英社オレンジ文庫とか、キャラが立った作品を出すレーベルが後にも続きそうで買う方としてはちょっと大変。読む時間もない。でも一応は眺めておかなくてはいけないこの苦境を、こなせるのは独身で勤め人の中高年くらい。でもターゲットはティーン。このギャップをどうにかしないと版元も作家も読者すらもまとめてバタンキューになりかねないなあ。やれやれだ。

 自民党総裁の特別補佐といえば、安倍晋三総裁こと安倍総理のスポークスマンという立場にあってその役職にある人物が、総裁はこう言ったといえばそれは総裁が言ったこととしてどこだって報じて間違いはない。スポークスマンが言ったことでも裏を取るため当人にぶつけるとなったら、それこそホワイトハウス報道官が会見でオバマ大統領のコメントを紹介しても、それをいちいち大統領に確認しなくてはいけなくなるし、企業の広報担当者が社長はこう言ったといったことを、社長に確認に走っては業務に大混乱をきたさせることになる。そうならないための信頼関係を、スポークスマンはその言説を代弁する相手との間に持っているし、スポークスマンも報道担当者なり世間との間に持っている。でなきゃグチャグチャになってしまう。

 でだ。そのスポークスマンが虚偽を喋ってそれを報じて果たしてメディアは責任を問われるのか。どうして当人に確認しなかったのか。そんな声がさっそく出始めているけれどもそれを言うならまずは内閣総理大臣であって、自民党総裁の言葉を勝手に作って報道関係者に向かって話したスポークスマンが非難されるべきであって、虚言を持って政治と報道を混乱させて主上にいらぬ汚名を着せた責を取って、その立場を離れるべきなんじゃなかろーか。だいたいが一国の首相が国会という公も公な場でもって、メディアに対して謂われない汚名を着せるなんてことがあったら、普通の国ではその首が飛ぶ。飛ばなければそれは総理大臣が口を重ねて報道の自由がないと非難しているどこかの国といっしょってことになってしまう。

 でもきっと総理にそんな頭はないんだろうなあ、俺が思ったことを言って何が悪い? それが違っていたならそれは俺以外が悪いんだ、なんて思っていそうで気持ち悪い。実際に朝日以外が報じていたと知って以降も、朝日が捏造したと国会で繰り返すばかりだからもうどこか身体のどこかに異常が出始めているのかもしれない。捏造をあげつらった新聞に限らずほとんどの新聞なり通信社がそういう言説があったと伝えていて、どうして1紙だけと取りあげ公の場で侮辱するのか。ひとつにはきっとそういえば世間に受けるだろうって頭があるからなんだろし、実際にそうだそうだと騒ぐ人たちがいるから。本当に気持ち悪い言論空間。そして政治状況。何より内閣総理大臣とあろう立場の人間の言葉が軽すぎる。世間受けするからと自分たちの側に否がある言葉を吐いてドヤ顔できるその心性っていった何なんだろう。もう訳が分からないよ。

 あるいは本当は言っていて、それをスポークスマンが伝えたんだけれど当人は国会で追求されてあたふたとして言ってないと口走りつつ大嫌いな新聞を非難する言葉がそれでいっぱいの脳からこぼれおちてしまったのかもしれない。まさか精神が頑なにそれにとらわれ修正が聞かず諫言も届かなくなっていたりするんだとしたら、それは職務に関わってくることだけに信じたくはないけれど、でもどこか妙な言動も見えているからなあ。単に後には引けないとスポークスマンに罪をおしつけて、自分は知らん顔、なんてことだったりしたとしてもそれはそれで大いなる問題というか、情けないというか。さてもこの後にまだまだ追求は行われるのか。なあなあで終わるのか。これで誰も何ともなかったらいよいよこの国の言論は、そして政治は死に体も同然、お隣の国以上にぬとぬとしているってことになるけれど、果たして。


【10月30日】 レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」のバーが開かれ、シャーロック・ホームズにちなんだパブが開かれた早川書房1階にある飲食店「クリスティ」が、その名にちなんだアガサ・クリスティーのポワロ居酒屋にならないで、次に選んだのがフィリップ・K・ディック。その名も「PKD酒場」ってのが11月5日から12月26日まで開かれるそうで、行くとそこには飲むと酩酊して現実と虚構とが入り混じる「カクテル・ユービック」とか、何かが2つ乗っているんだけれどちょっと足りなさそうなんで追加注文すると拒否される「ふたつでじゅうぶんですよ丼」とかが売られているかというと、あんまりそうしたヤバげな物はなさそう。そもそも何が「ふたつでじゅうぶん」なのか分かってないし。エビフリャー? 違うよなあ。

 だったらハリソン・フォードが箸をつかってすすっていたうどんなのかというとそうでもなくって、「PKD風焼きうどん」とか「火星のミートボール」とか「アンドロイドはグリル羊の肉を食うか?」といった感じに並んでいるメニューは割と普通の食べ物っぽい。「火星のタイム・スリップ」がどうしてミートボールになるんだろう。原作読んで忘れているから繋がりがちょっと分からない。いっそだったら「高い城の男」にちなんだミュンヘンビールだとかフランクフルトソーセージとかを置くとか、「ヴァリス」にちなんだハギスを置くとかすれば何か企みも見えるんだけれど、そういう凝ったメニューを考えたところで、実際に出せるとは限らないでとりあえず美味いものが飲み食いできれば良いってことで。展示映画のポスターとか衣装なんかも展示されるそうなんで楽しみ。羊は歩いていたりするんだろうか。

 去年の同じ頃には200億円を超えていた営業赤字が2億円となって何かやりようによっては黒字にだって出来ただろうそれなりな数字を挙げて赤字だと見出しにとって、為替差益が乗ったとはいえ23倍もの143億円も最終黒字を見出しにとらないで任天堂の経営がさも揺らいでいるかのように書く新聞の任天堂嫌いは今に始まったことではないけれど、他がだいたい最終黒字から入って経営改善を報じている中でどこかネガティブな情報を与え続ける意味っていったい何なんだろうなあ、個人的な恨みでもあるだろうかなんて考えてみたり。とはえい任天堂が前のようなイケイケどんどんでないことも確かで、モンハンが出てマリオカートとかが出てくるだろうこれから、3DSやWii Uがどう改善していくかってところを見たいもの。そして岩田聡社長の健康も。各社が載せてる写真を見ると痩せ方が半端じゃなくその顔立ちもどこか健康から遠かった。大丈夫かなあ。頑張って欲しいなあ。

 気が付いたら異世界でそこで才覚活かして大成功、だなんて話もわんさかあって楽しかったりするだけれど、異世界が例えばアメリカの中北部にひろがるバッドランズだったりアフリカの密林だったりしても普通に生きてコミュニケーションをとって活躍していける訳ではない。世界はそんなに都合良くはできてない訳でそれはファンタジーの世界でも同様だ。だから九条菜月さんの「転落少女と破壊の獣 空なき世界<アルミナ>」(中央公論新社)で主人公の少女が、突然現れた兄を慕い彼が溺愛する自分を恨んだ異世界のお嬢様によって異世界へと続く穴に落とされ、気が付いたら密林にいてそこをどうにか出たら女の子だといって襲われそうになったりする危機に陥ったのも、当然といえば当然かもしれない。

 ただそこで、通りがかった子供に助けられいっしょに逃げては、その世界の文字を架空の文字だと思いながらも学んできたことが功を奏して書記のような仕事をあてがわれ、暮らしていけることになったのはひとつの僥倖。というかそうした能力がなければ暮らせず生きられず食べていけない世界の当たり前の厳しさってもが、しっかりと盛り込まれているのがこの作品の面白くてそして大切な部分。抑圧はされていないけれども周辺を跋扈する怪物から身をまもってもらうために異能の力を持った存在の世話になり、その変わりといった感じで税金を納めているという社会の仕組みも納得がいく。そうでなければ貴族とかなんてすぐに倒されてしまうだどうから。

 あとそんな世界に、昨日まで誰からも守られていた少女が突然放り込まれた訳じゃなく、事前い1度そんな世界があることを分からせ、自分の父親が異世界から来たらしいことを感じ取った上でもう1度、送りこませるといった段取りも偶然感とか唐突感とかご都合的といったものを感じさせない理由になっている。上手いなあ。そんな巧さの上にしっかりと作り込まれた社会でいったい、少女は無事に生き延びそして兄とか前に暮らしていたアパートの仲間たちと再会することができるのか、そしてどうやら失踪した父が握っているらしい謎は明らかにされるのか、異世界へと連れて行かれた担任の女性教師との再会はあるのか等々、展開が気になるストーリー。何か力めいたものを持っているっぽい少女の真の姿も含め、気になる続きを待って読んでいこう。

 最終日の庵野さんも見たかったけどこっちを買ってあったので「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第5章」から「マモルの部屋」のトークイベントは千葉繁さん古川登志夫さん冨永みーなさんが登壇して前立腺の話、っていうか熱海でのエピソード5で古川さん冨永さんが読むラジオの台本が掲示されてそれがほとんど前立腺と前立腺肥大に関するトークだったという。聞いていても分かったけれど聞き流してしまったそれを活字で読むと良くもまあここまで高密度でなおかつ掛け合いになった台本を書いたものだと押井守監督に感心。それだけ前立腺肥大に関心があったのかどうなのか。そういえば警視総監も視察に来て前立腺肥大で長いトイレだったからなあ。つまりはそうか実写版パトレイバーは前立腺肥大の啓蒙映画だったのか。とか。

 あとは昔は役者さんとの付き合い方あ分からずあんまり喋らなかったの「赤い眼鏡」の現場で俳優として声優さんを多く起用したことで話せるようになったといった感じ。押井さんの演出家としての成長というか進化の軌跡が聞けて面白かった。あとやっぱり役者さんと話した方が良いと思うようになったのは「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」あたりからで泉野明が少し大人になっているってことを冨永さんに話したとか。そして実際に絵としての野明も耳にピアスがあるという。気付かなかった。そこで押井さんは榊原良子さんと演技をめぐって話がこじれたそうでしばらく疎遠になったけど3年くらいで仲直りしたとか。

 そういえば「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊2.0」には人形使いで前の家弓家正さんに代わって榊原さんを起用しているもんなあ。何を演技について話し合ったんだろう。ちょっと知りたい。とかまあいろいろあって面白かったトークイベント。初の女性ってこともあって華やかに、でも楽しく、そして為になった。千葉さんは相変わらず声が大きくよく通る。ああいう声が出したいなあ。とかいった感じ。次回は誰がゲストだろう。やっぱり女性が良いなあ。でもそれに相応しい人いるかなあ。

 あと興味深かったのは、押井さんも千葉さんもエピソード9の「クロコダイル・ダンジョン」を妙に気に入っていたこと。これはだから先行するTVの迷宮物件とそして新OVAのダンジョン再びでの連続をズラした3回目の繰り返しからの変奏を、分かって面白がれるからで、僕なんかその前の2つを田舎で放送がなく貧乏でOVAも買えない環境で見ていなかったりするから、普通にパニック物で前に何かあるなあという想定からしか楽しめなかった。なので押井さん千葉さんほど深い味わい方は出来なかった。ただ同じ映像も2度目だとそれ自体が繰り返しになっていて、結構な味わいがあるなあと思ったりもした。どういう展開でどういう演技があるかが分かっていることも大きいかな。でもやっぱり同じ感じを楽しみたいので頑張って買おうTVとOVA。


【10月29日】 歴史認識という、ある意味で信念が入り混じった分野において、まだ幾ばくかの議論の余地がある部分で正否を争うというのなら、まだ分からないでもないけれど、明らかに虚偽と分かる言説でもって公党を批判するのはもはや、民事刑事において誹謗中傷であり名誉毀損だとして訴えられても不思議はない事態。それもきわめて敗訴の可能性が高い言説を堂々と掲げて未だ撤回せずに、「反日は許せない」などとアサッテの方から正当化を図ろうとしている人物を、不偏不党がとりあえずの資格になっていたりするNHK経営委員という職責に置いておいて良いんだろうかと世間が口に出し、メディアが騒ぎ政治が動かなかったら、もうこの国に正しい言論空間なんてないんだってことになりそう。

 というか、既にして公党の議員だった人間に、無根拠のデマをぶつけて誹謗し名誉毀損で訴えられ、民事ながらも敗訴した人間がどこかのメディアの間違いを、捏造だ何だとしつこく非難していられる言論空間自体がどこか歪んでいたりするんだけれど、あれはあれでこれはこれといった是々非々というのもある訳だから、まだ理解できないこともない。今回のこの一件は、たとえ事前にそうした可能性があるってメディアが報じたからといって、現実に起こっていないことをあたかも現在進行形のようにつぶやいて、真正面から堂々と誹謗したって意味合いにおいて、即アウトな事例だけれどでも、でもやっぱりこれまでどおりに有耶無耶で終わってしまうんだろうなあ。そんな社会に生きている。やれやれだ。

 くまモンだくまモンだ、くまモンが登場するかもしれないってんで、朝から原宿まで出てバンダイナムコゲームスが11月27日に発売する、任天堂のWiiと3DS向けゲームソフト「ご当地鉄道 ご当地キャラと日本全国の旅」の発表会を見物に行く。その前にソフトバンクの上にあるというマクドナルドに入ったんだけれど、原宿という絶好のロケーションであるにもかかわらず、あんまり混んでなかったのは午前中とはいえやっぱりその入り口とかの分かりづらさにあったんだだろうか。だってどこから入ればそこにマクドナルドがあるのかって分からないんだもん。地下鉄で階段を上る前に看板を見てそこにあるんだって気付いたくらい。でも歩道に看板とか出して引っぱっている訳じゃないから、地上に出てちょっと探してしまったよ。あの場所だから仕方がないのか、それともマクドナルドそのものが飽きられて来ているのか。週末にのぞいてその繁盛ぶりもしくは閑散ぶりを確認してくるか。

 さて発表会はといえば、ご当地キャラを引き連れ全国を回っていく双六ゲームに相応しく、全国各地から人気のご当地キャラがPRのために大集合してくれた。まずは熊本のくまモンで、そして兵庫のちっさいおっさんで、それから奈良のせんとくんに群馬県のぐんまちゃん、栃木県のさのまるといった全国区の知名度を誇るご当地キャラが横一線に並んでなかなかに壮観だった。そんなキャラたちがデジタル化され登場するゲームとか見ると何か自分でもやってみたくなる。よく企画したなあ、そしてすべてのキャラクターと話をつけて商品化した。そこがバンダイナムコゲームスの底力って奴か、これをいきなりアプリでやろうとしたってきっと難しかっただろうし。

 そんなキャラたちがゲームには実に122体、登場するそうで強面で知られる北海道のメロン熊や船橋が誇る人気ナンバーワンのふなっしー、そして千葉県民的にはとっても愛着のあるチーバくんといったあたりは当然として、宮城県のむすびんに福島県のきびたん、新潟県のレルヒさん、愛知県のオカザえもん愛媛県のバリィさん等々、見聞きしたことのあるキャラが勢揃いしているみたいで、そういうキャラに引かれて遊びながら今は知らないキャラに触れ、そして新しい土地に行ってみたいという気になれば、このゲームの狙いもきっと成立するんだろう。地域振興。それがなければただのキャラゲーに終わってしまう。果たしそういう気にさせるしくみが搭載されているか。これはやっぱりプレーしてみないと分からない。遊ぶか久々に。やっぱり使うならチーバくんかなあ、船橋市民だけれどふなっしー、見たことないし船橋で。

 原宿を出て山手線で目黒へと向かい、久々に目黒雅叙園へと降りていったらホリプロの建物が増えて大きくなっていた。あんなにいっぱいあったっけ。窓にタレントとかの写真が飾られ公演情報なんかも張られて、ちょっとしたエンタメ村って感じ。でもDK−96のポートレートは見あたらなかった。スターだったのに。でもって目黒雅叙園では、アマゾンが始めたというKDPアワードの授賞式を見物。キンドルの自費出版でもって人気の作品を出した人を表彰することになったって感じで、栄えある第1回目の受賞者にはハイパーメディアクリエーターの高城剛さな選ばれた、そうあのタカシロマン。数年前ならその姿が現れるだけでテレビカメラの10台20台が張り付き、芸能記者がぐるりと取り囲んで質問責めにしただろう人が、今はIT関係の記者ばかりが数十人、来てカメラはテレビなんていない会見に現れ普通に語っている。いかに世間的バリューが当人の資質とは無関係なところにあったかが分かる。

 僕らなんかはさすがに映像作家時代はあんまり知らないけれど、デジタルに関わるようになって3DO向けのゲーム「チキチキマシン猛レース」を作ったり、3D空間をモデルにしたネットワークサービス「フランキーオンライン」を早々と立ち上げて、そんなワールドを可視化してくれた近未来メディアクリエーターとして認識していたから、普通にそういう人だと接し、講演も聞いてその活動を眺めてきた。だから一連の騒動で時の人となった時は逆にあんまり、目立った活動をしてないってことで関心の埒外にあったけれどもこうやって、デジタルの世界で何かを成すようになって、そして表彰までされるようになったことはむしろ歓迎したいし、そこに一体未来のメディアの何があるのかも探りたい。

 とはいえ今回は、マルチメディアでもないしインターネットでもない、電子出版というちょっぴり地味な世界。活字にしたって漫画にしたって、それが電子化されて読めるようになることは流れとしては必然で、テクノロジーとしても新しくなく、そこにハイパーメディアクリエーターであるところのタカシロマンが絡むのは、むしろ時代に逆行しているんじゃないかとすら思ったけれど、当人の思惑はまるで違っていたし、むしろ今も新しいことに挑んでいると意欲満々だった。それというのも電子書籍というのをただ、電子化するだけとは捉えていなかった。どういう環境でどういう風に読まれるか。それを考えそこに相応しいコンテンツを提供する。そうすることで新しい読書環境を作り読書コンテンツを作り作家という存在の意味を変えていこうとしてる。そんな思いが感じられた。

 電子書籍って何で読む? スマートフォンとかタブレットとか。どこで読む? 電車の中とか待ち時間とか。そこで長大な小説なんて読むだろうか。漫画ですら長いかもしれない。なら短い間でさっと読める物、それを何度も繰り返せるような形態こそが相応しいと考え、メールマガジンからQ&Aのコーナーを抜き出し「黒本」「白本」として出した。そして不可能にも挑んだ。しがらみもあるしタブーもある紙の出版ではまず書けないことを書き、印刷して本にするには限度のある分量をそこに入れ込んだ。電子書籍ならではの中身でありフォーマットを、しっかりと考え形にしたからこそのヒットがあり、KDPアワードの受賞となった。そこがやっぱり優れているんだろうなあ、高城さんは。だから四半世紀、ずっと生き延びて来られた。あやかりたいけど僕にはそれだけの才覚もない。だから眺めて次に何をするかを見て面白がろう。次は何をしでかしてくれるかなあ。

 やっぱり難しかったか幸福の科学大学の設立認可。教える内容をいろいろと認可条件に合うように変えてみたんだろうけれど、核心となる部分でやっぱり宗教色を色濃くしてしまって、その上に認可をせっつくような本まで出していたんだからこれはダメってなるのが行政として仕方がない流れか。土地を購入して建物まで建て見学会まで行ってあとは入試を実施するところまで来ていたんだけれど、来年4月の開学どころか強制するような行為を見とがめられて同じ法人では5年間、認可が下りないなんてことにもなってしまいそうで、もう引くかどうするか考えなくてはいけない瀬戸際に来てしまった。どうするんだろうなあ。それよりそんなところから、いっぱい広告費とかもらって宣伝していた新聞社が1つあったけど、懐具合が冷え込んでしまうことになるのかなあ。そっちはそっちで割と切実かも。普通に考えればのめり込むヤバさは分かっていたんだろうけれど、背に腹は変えられず突っ込んでいって共倒れ、と。いや宗教は信者がいる限り続くけど、新聞は売れなくなって広告もなくなれば潰れるだけだからなあ。明日はどっちだ。


  【10月28日】 気が付くとスタジオジブリが「宮崎駿監督作品集」のDVDボックスかBDボックスを買った人に、当初は入れる予定だったけれどメインの音楽を演奏した人に不祥事があって同梱が見送られた「On Your Mark」を別に配布するって発表があって、仰天しながらこれは今のうちに手に入れておかねばと、ヨドバシ秋葉へと走って6階のソフト売り場でBDの「宮崎駿監督作品集」を購入。4万9800円は今の直販ではなく間に業者が入ったアマゾンより安い感じで、途中8階で巨大な鶏の唐揚げが乗ったジャンバラヤを食べて戻ってアンケート葉書を抜き出し、購入証を葉書に張り付け宛先へと送付する。たぶんこれで大丈夫。

 というか、あまりに急な感じの「On Your Mark」の配布決定の、その方法があらかじめアンケート葉書に付けられていた購入証の郵送ってあたりにあるいは、発売元の意向で収録が不可能になりそうだってなった段階で、それならジブリ側で何とかするって考えて、葉書に余計な物を付けておいたのかもしれない。購入特典の応募用なら買ってすぐに送付して、たとえば購入者限定イベントに招待するとかしたはずだけれどそれもなく、しばらく間を開けての決定はその間の裁判の進み具合も観て、当事者がどういう判決を受けるかも見定めてから、自分たちの了解の範囲で配布できるよう、準備していたんじゃないかって穿った見方も浮かんでくる。

 それはつまり作品自体に罪はないっていう判断があったからだろうけど、それを言える環境ではあまりないのと発売元が、世界中から愛されることを目的としていてダークな評判を徹底的に嫌うグループだったってこともあって、すぐには行えなかったんだろう。そういう状況が是か非か、って考えるとこれはやっぱり難しいけどいったん、ボタンを掛け違えると永遠の封印作品となってしまう可能性もあっただけに、自社の判断であり判決が出た後といったタイミングでのこの配布は、たとえ作者が罪を負っても作品は出せるという状況を、取り戻すのに大きな意味を果たしたって言って言えそう。その意味では英断であり決断だった。

 この勢いで「ウルトラセブン」の幻の第12話も復活! といきたいところだけれど、こちらは作品そのものから放たれるメッセージ自体が問題視されたもので、そうじゃないと理解を求める求めない以前に権利元が欠番をどこか公式化してしまっているところがあるからなあ。スタジオジブリのように世間の大きな支持を集めつつ、横紙破りだって行ってそれが喝采を浴びるような立ち位置に円谷プロダクションも立っていれば良いんだけれど、こちらも正義のヒーローを売りにしている会社だけあって、誰かを悲しませるようなメッセージは、それが誤解であっても放つことは難しそう。でもあるいは作品に罪はないというこの流れで、発売されたBDボックスの購入者に無償で……ってなるかどうか。ならないかやっぱり。うーん。様子を見よう。

 ワイドショーが道行く人をとっつかまえては、「エボラ出血熱かも知れない患者が出たんですがどう思いますか」と聞いて、「不安ですねー」という声を拾い集めて流している。そりゃ不安なのは分からないでもないけれど、なぜ不安なのかという理由の最大要因となている情報不足を補うべきメディアが、そこに重点を置かずにひたすら危ない病気がやって来たから不安ですといった声を、代弁して流し増幅している状況の方が、よっぽど不安で仕方がない。いくら致死率が高くっても、正しく処置すればどうにかなる類の病気であって検疫から隔離へと向かい、治療を行えば回復することもあり得るし、そうやって先進国では何人も生活に復帰している。

 侮る必要はないけれど怯える必要もないのに怯えたふりをして脅かせば、それだけ数字が稼げるという判断のものと、煽り怯えさせ続けるメディアが結果としてこの国を混乱に陥れそうな気がしてならない。正しく情報を。正しく処置を。その道筋を粛々と報じる媒体の登場を。願いたいけどどこも煽り体質だからなあ、本来は冷静になるべきネットとか逆に数字によりシビアだったりするし。患者ですらなかった人間のプロフィールをあげつらって何か問題があったかのようにかき立てるところも出始めたし。関係ないしそもそも患者ですら人間がどうして非難される謂われがある? でもそうもいかないいまの言説空間。医師でありながら陰性だった人の経歴を論って日本非難に回るんじゃないかとつぶやいている人も見かけたし。それが病気かもしれなかった人間に医師が向けることばなのか。でも愛国無罪な空気がそれを許す。やれやれだ。本当にやれやれだ。

 今に始まった問題ではなく、それこそbjリーグが発足する以前から問題になっていた日本のバスケットボール界における運営上の問題が、長い話し合いを経ながらもまるで解決しなかったっていうのはいったいどういう理由があるのかまるでさっぱり分からない。プロ化を希望しているチームがあるけどそれを拒絶するチームもあって立ち上がらないリーグ。でも一方で日本のバスケットボールの強化という目標もあってどうにかしたいと考えていたなら、何をおいても調整を行いリーグを統一するなりすれば良かったのに、サッカーのようにはうまく回らずどこも解決できないまま、自体は間際でトップが辞任というかけつをまくって逃げ出すという醜態をさらしてしまった。

 ここに来て文部科学省とかに乗り出すかというと何もしていなさそう。男子と違ってひとつのリーグで頑張って、オリンピックすら見えている女子はとばっちりを受けて制裁を受けそうなこの状況に、女性の社会進出とか地位向上とかを歌っている安倍政権はいったい何をしているんだ。女性活躍担当相ってこういう時に活躍するんじゃないのか。ほとんど絶望的だけれど鶴の一声神の一括があって好転に向かうことを今は願う。というか今の内閣の副総理で財務大臣でもある人はこの前止めた会長の前にずっと会長を務めていたんじゃなかったっけ。その間にたぶん統一なりをはかろうとしたんだろうけど果たせなかったか、お飾りで何もやらなかったか、分からないけどその時に出来なかったことが今、尾を引いているなら内閣として何か指導すべきじゃないんだろうか。オリンピックを開催する国が恥ずかしいって観点も含めて。どうなるんだろうなあ。bjリーグだけで良いじゃんもうとか思うのは間違いなのかなあ。

 モニターがない、ということに驚きつつこれでいったいどんな映像画像が撮れているのか、という手探り感が何だか楽しそうだと初めて触れて思ったリコーの360度がぐるりと見渡せるイメージを撮影できる全天球カメラ「THETA」。以前から話題にはなっていたけど、その新型の発表会が日本未来科学館なんて場所であったんでのぞいてきたらこれがけっこう面白かった。というか今まで静止画しか撮れなかったってことにちょっと驚いた。新型は3分間ながら動画の撮影が可能で、撮ったデータをパソコンに取り込み専用アプリで加工すると、ぐるぐると見渡せて回せていじれる動画ができあがるって寸法。あと色も増えてカラフルになった。白1色じゃあやっぱり味気なかったもんなあ。

 んで、現場で手にとってよく見てこれ、モニターがないのにいったいどうやって撮影するんだろうってことに驚いた。適当に撮ってあとで見て驚くのか。それもまた楽しいし、使っているうちにだいたいこんなところが撮れていると分かってくるだろうところも、道具でありながら身体の拡張のそれも新しい感覚の拡張というビジョンをもたらしてくれそうな気がした。プロジェクションマッピングで有名な会社の人もいて、話すとフレームにとらわれない映像の可能性と展開といった意味合いで、物体をスクリーンに変え最近は水槽までスクリーンに変えた発想を何がいったい切り取られているか分からずそして自分で選び加工して自分ならではの表現へと持っていける、あるいは自分の想像すら超えた表現を生み出せるTHETAにいろいろと期待するところがあるっぽい。じゃあいったいどんな映像ができるのか。それは僕たちにどんな驚きを与えてくれるのか。そこにプロの映像屋さんたちのパワーとアイディアが活かされるので頑張って何か見せてくださいませませ。


【10月27日】 東京国際映画祭での特集上映「庵野秀明の世界」で行われている連続トークで、「アニメーター・庵野秀明」の回に合わせて行われたトークを聞いてそこでアニメ・特撮研究家の氷川竜介さんを相手にして語られた、庵野秀明さんによるアニメーターって仕事の面白さがとても響いた。曰く「アニメーターは、まず絵描きじゃないといけないし、カメラマンじゃないといけないし、俳優じゃないといけない。実写なら全部バラバラでスタッフがやっていることを、アニメーターは1人で出来る。役者をやりながらカメラマンをやりながら絵描きでもいられる。だからこそ面白い。アニメーターになろうという人がいたら、そのその面白さが分かれば続く」。



 映画ならアングル決めるのはカメラマンで、演じるのは役者で監督は全体の絵づくりをしてスタートの声をかけるだけ。あとは現場がそれぞれに才能を発揮して、それが結実したところに1本の映画ができあがる。それがすべて監督の思い通りになれば凄いけれど、そうでない場合もあって時に想像を上回る完成度を見せることもあれば、逆に構想とは違ったところに落ち着いてしまうこともある。けどアニメーターなら、絵を描いて描いて描きまくることによってアングルを決め、レイアウトを決め、俳優達に演技をさせてメカまで自在に操れる。声はさすがに声優さんが入れるけど、でもビジュアルに関してはすべてがアニメーターの思いのまま。こんな凄い仕事はない、こんな素晴らしい仕事はないって庵野さんは言いたかったんじゃなかろうか。

 「あとはよく物を見ることが大事。宮崎駿さんが凄いところは観察力。1度見た物は忘れないし、構造的に把握している。時々間違って覚えているけれど(笑)」。それが出来れば無敵のアニメーターになれる。アニメーターとして無敵になれる。「アニメーションって記号に落とす作業があって、記号化する時に何を残して何を捨てるのが1番効率がいいか、オリジナルの物を見て、そこから自分で考えてイメージを組み直さなくてはいけない」。これはディズニーでも仕事をしていた宮本貞雄さんも話していたことで、あそこでは時に実物の動物をスタジオに呼んで観察させスケッチもさせたりするとか。そうでない時代に宮本さんは動物園に通ってスケッチなんかを繰り返したという。庵野さんもまずは物理法則なんかをちゃんと理解した上で、それを崩すようなことをしないとめちゃめちゃになるといったことを話してた。

 観察があってその上になりたつデフォルメでありバリエーション。でも今の人はアニメで見た心地よいタイミング、あるいはフォルムをそのまま真似ていくだけだから、根が無く底もない。だからパッションが届かない。本当に凄いアニメーションには目を引きつけ話さないパッションがある。そして実写すら越える。庵野さん曰く「『王立宇宙軍 オネアミスの翼』が上映されたあと、業界の人から、これだったら実写でできるじゃないかと言われたけれど、これが実写でできるのか、特撮でやっても計算されたタイミングはテイクをどれだけ重ねたらできるのか。実写で出来ないことがアニメーターになれば出来るんです」。

 実写と見まがうばかりのリアルな描写でありながら、自在なタイミングですべてを操り動かすことができるアニメーションの力。それをもっともっと味わって欲しい。楽しんで欲しいと誘いっているんだけれど、付いて来られる人がいるのかなあ。いないからこそ立ち上げたんだろうなあ、「日本アニメ(ーター)見本市」を。とはいえ、いくら頑張って優れたアニメーターを養成して、すぐれた表現を世に送り出したところで、それを凄い素晴らしいと感じ取れるだけのリテラシーが今、受け手の方に欠けているのも実際だし、そうした受け手を見て、送り手なりスポンサーなりも難しくて分からない表現を避けようって動きになっていたりするのも実際のところ。

 そうやって自らストライクゾーンを狭めていった果てに何が残るのかって辺りの危機感が「日本アニメ(ーター)見本市」の創設に合わせて作品を解説する番組の創設にもつながったような気がする。世間の耳目は新作アニメの公開にばかり集まっているけど、個人的にはむしろそっちの方が重要だって思ってる。何でもありのアニメーションをディレクターたちに作らせるたところで、見ても分からない作品をずっと凄い凄いと思い見てくれるほど世の中は優しくない。でもそうやって作られた作品には必ず凄いところがあるはずで、ただ世間はそれの見方を忘れてしまっているか、教えられていないだけだったりする。

 だったら教えて進ぜよう、というのが翌週の生放送番組ってことで、そんな作品のここをこう見ろという教えを学ぶことで、今も過去も未来も含めてアニメーションってこういう見方があるんだと分かるようになり、それが多彩で豊穣なアニメーション環境を醸成するようになるのだろう。昔は見る側もそうした企みなりを発見して面白がれる心のゆとりがあったのに、今はどうして目を向けなくなってしまったんだろう。声優さんが凄いとか版権絵が格好いい可愛いという方向にメディアも流れて、アニメの見方をなおざりにした結果、ってことなのかなあ。それをどうにかしようと始まったこの企画。メディアはどこまで取りあげるか。取りあげてないみたいだなあ。せめて僕らだけでも応援し、支えていければと思うけど、果たして。

 豊穣さという意味では、短編アニメーション、自主制作アニメーション、インディペンデントアニメーションといった分野にも向ける眼が育成され醸成されて欲しい、って気もあるんだけれど一般も、メディアも含めてあんまり関心がないのはベルリンで和田淳さんが受賞した時、あるいは加藤久仁彦さんがアカデミー賞で受賞した時だけは騒いでも、それ以降に誰がノミネートされようと、誰が活動しようとまるで無関心といった雰囲気があることからも伺える。それがが残念というか情けないというか。だから例えば東京芸大院の卒業制作の中にあってすごいインパクトがあった「コップの中の子牛」という作品が、あちらこちらでグランプリとか取りまくってもどこも報じようとしないし、気にしようともしない。その監督の朱彦潼さんが「SAMURAI賞」とかいうのを東京国際映画祭で受賞した北野武監督に質問をして、例の大手が仕切るアカデミー賞への苦言を引き出したにも関わらず、誰が質問したって話しはまるで紹介しない。

 そんな朱彦潼さんが、中国からの留学生で、決して安定した立場ではない上に制作というより不透明なことにも挑戦し続けたいにも関わらず、どうにもままならなかったりする状況への不安なんかを綴っていたりするのを読むに付け、庵野秀明さんたちの不安であり不満であり危機感といったものと重ねてこっちの方も、考えていかないと全体として豊潤にはならないなあとも考えてみたりする。なるほど発表の場は増えているようだし、ANIME SAKKA ZAKKAのような場も出来て、そこに大勢があつまって盛況で、そしてICAFとかイントゥ・アニメーションといった上映イベントにも大勢の観客が押し寄せる現状だけを見れば結構、インディペンデント・アニメーションの分野も繁盛しているように見えなくもない。

 ただ、そこにいるプレーヤーたちが誰もが成功している訳ではなく、年が変われば次の学年が持ち上がって注目され、卒業した人たちは何処かへと去ってその後の消息は……といった感じになる。それは観る側に追いかけ応援していく甲斐性がない現れとも言えるし、翻って追いかけ続けるより新しい人を見つけた気になる方にかまけてばかりの自分の至らなさでもあるんだけれど、応援したくてもその受け皿がない状況も一方にあったりする訳で、作品が掲出され支援が募られるようなプラットフォームが常態化すれば、共に前向きな環境も生まれると思うんだけれど、そうはなかなかなっていない。どこかにボトルネックがあるんだろう。それは何? 考えていかなくちゃいけないなあ、「日本アニメ(ーター)見本市」がどうなっていくのかも含めて。どうなっていくんだろう。

 森高千里さんだ森高千里さんだ森高千里さんを生で観られるってんでライブ開場へと駆けつけ12列目だなんてファンクラブでもない先行でとった割りに良い席から眺めたステージの森高千里さんは年齢が今幾つになったかなんて関係ないし気にもさせないくらいに輝いていて神々しくって可愛らしくって何より歌声が綺麗だった。デビューから27年、喋り越えこそ重ねた年季ってのも混じっていない訳ではなかったけれど、歌い出せば昔と変わらずハイトーンで澄んだ声でかつてのヒット曲から人気曲から話題曲までやってくれる。まさか目の前であの曲のあのダンスが観られるとは。そしていっしょにあのフレーズを歌えるとは。ずっと映像でしか観ていなかった人、そして映像でしか参加していなかったライブに本当に参加できる日が来るとは、生きてて良かった。劇場でライブBDの発売記念上映会を観てその素晴らしさを思い出し、駆けつけようと思って本当に良かった。これがあと1回、観られるんだら今年は良い年だ。それも千秋楽。思いっきり歌い踊って来よう。でも途中で座る。そのためにライブハウスで座席が用意してあるんだから。そういう歳になっている。オール。


【10月26日】 「式日」の上映の後に行われた庵野秀明監督と氷川竜介さんいよる対談で、庵野さんがしきりに電柱の撤去と電線の地中化に対して反対の声を上げていたのが面白かった。曰く電柱は機能美に溢れていて無駄なものがなく、そして電線が消えたらただでさえつまらない東京の光景が余計につまらなくなるとか。それを先に主張している政治家にもぶつけたと話していたけど誰だったんだろう、東京国際映画祭のオープニングに来ていた安倍総理だったらちょっと愉快。まあ聞くような相手じゃないだろうけど、それでも向かっていく庵野さんの熱さというか、光景に対する美意識にはちょっと感動した。

 もちろん狭い道でそこを人も車も歩くような場所が電柱によって余計に狭められ、事故の温床になっているような場所なら電柱を撤去して電線を地中に埋めることは必要だろうし、京都だとか川口のようなちょっぴり古い街並みが広がっている中に電柱が立っていて電線が張り巡らされているというのは興ざめなんで、撤去して地中化するっていう手もありらどう。ただ京都なんて京都駅なんてとんでもないビルを建てて御所の方から南を見渡した時の景観を台無しにしている。東寺とか西寺とかの建物が見づらくなっていたりするようだしなあ。まずは京都駅の地中化を言ってから出直して来いっていうか。まあ言っても詮無いけど。

 ともあれ景観なんて“主観”を元に語るから、京都や川口はともかく渋谷とかご近所あたりまで電線は地中に埋めろって話になるけどそれでどれだけスッキリするか、というか電線と電柱ってそんなに景観の邪魔になっているんだろうかというのが庵野さんだけじゃないけど個人的に思うこと。それを美意識とは思わないけど空気のようにあって当然という頭でいるから、あんまり邪魔とは思わないしそれがコスト削減に役立っているなら、あっても悪い話じゃないような気もする。あとアニメの「lain」に電線と電柱が出で来て作品の重要なモチーフになっているから、ずっとあり続けて欲しいなあとは思うけど、それは光景の中に機能美を持って立つ電柱や電線への庵野さんの愛とはちょっと違うかな、通信というテクノロジーの象徴としての電線であり電柱だったし、「lain」では。

 あと面白かったのは氷川さんの言葉も含めて電柱は真っ直ぐには立っていないことへの拘りも面白かった。CGなんかでどれもが同じように真っ直ぐ立てられている光景を見ると、これは違うって思ってしまうんだとか「愛が足りない」とも。つまりは1本1本が微妙に傾いたりズレたしりて立っていて、それらが電線で結ばれる中に揺らぎのようなものが生まれそれでいて統一された感じもあったりして、光景の中にリズムめいたものを与えている、そんな電柱だからこそ良いってことなんだろう。これは分かる。真っ直ぐであっても画一的であっても人の世界には揺らぎがある。それが人に安心感を与える。電脳世界が作られた時、そこはやっぱり計算の上に成り立った画一的な光景になるんだろうか。それって何か、住みづらそうだなあ。

 読んだぞアサウラさんの「生ポアニキ」(オーバーラップ文庫)。正直「生活保護」という人の生存において最後のセーフティネットとなっている精度をどこか軽んじ、受給している人を侮蔑的に扱ってそれで受ける人を萎縮させ、生存を脅かしている「ナマポ」という言葉は大嫌いで、これを使った小説もだからやっぱり認めたくないって意識も働くけれど、そこは「生ポ」と言葉を変えていたりする上に、中身も生活保護のような国が弱者に対して行う救済制度を肯定的に捉え、その上で新しい弱者として恋愛弱者を設定したことで起こるドタバタを描いて、弱者が救済されるのは当然の権利で、それによって幸福になれる人がでてくるって感じに描かれているから「生ポアニキ」は面白いと認めたい。恋愛弱者に与えられるのは恋人。そして主人公がそれに応募したら来たのがマッチョなアニキでそして、本当は来るはずだった美少女も現れちょっとした騒動が起こるという。

 ガチなマッチョ好きだと思われたりそうではないと誤解を解いてもいつしか頼れるアニキに引かれていったりといった展開。筋肉こそがすべてを解決するというマッチョ過ぎる設定も気にならないでもないけれど、勇気がない少年に足りないものと考えた時にはそれはありだし、強くなれれば変わる世界も確かにあるってことを知らせる意味でも必要な設定。一方で少女と恋愛関係を築けたら幸せになるかというと、それはやっぱり相手があってこそのもの。相思相愛になれるかどうか、それにはお互いが理解を深め合う必要があるんだろう。少年にそれはできるのか。そしてやってきた少女には。そんなところも読みこどこ。しかし現実、マッチョなアニキの健康で爽やかでそれでいて力強い姿に接したら人間、男性女性を問わず靡いてしまうものなのかもなあ。格好いいもん、アニキ。

 毎週1本、新作アニメーションが見られるってだけでも凄いのに、それを作っているのが多分業界でも屈指のアニメーション作家だったりクリエーターだったりしそうな予感でこの先がとっても楽しみなプロジェクトが立ち上がった。その名も「日本アニメ(ーター)見本市」は庵野秀明監督が代表を務めるアニメーションスタジオのスタジオカラーと川上量生さんのドワンゴが共同で始めたもの。採算とかはとりあえず関係無しに今どきのテレビだとか映画なんかではまず見られないような種類のアニメーションを作ってもらい、ネットとかアプリを通して配信していくことになっている。

 その栄えある初回はあの舞城王太郎さんを監督に迎えて鶴巻和哉さんをアニメーション監督とし亀田祥智さんをキャラクターデザインと作画監督に据えて作った超大作! とは分数的には言えないけれどでもクリエーターの顔も凄いし声優さんも山寺浩一さん林原めぐみさんと超弩級。もしこれを普通に作ればいったいどれだけの制作費がかかるんだろうって算盤数えてみたくなる。でも金にはならないのはお話的にも分数的にもそのまま何かになるようなものじゃないから。でもやるのは「アニメーションって袋小路の所に来ていて、新しい物を商売抜きでやらないと厳しい」という庵野秀明監督の状況認識があったから。「今なら間に合う」という切実な思いにスタジオカラーの取締役にもなってる川上さんが乗って企画が始まりそして、題字をお願いに宮崎駿監督のところに言って追い返されても2度目はとどまりしっかり描いてもらったとか。

 その色を塗ったのが鈴木敏夫さん。何とゴージャスな題字なんだろう。それに答えるだけの評判を呼ぶか。評判だけは呼ぶかなあ、面子は凄いし。ただそういう評判よりもやっぱり主目的は「表現の規制のない自由な捜索の場を提供し、企画開発R&D、人材育成を行いこの先の映像制作の可能性を探る」こと。そこから次の才能が生まれ作品が生まれ商売になっていけば良いんだけれど、それには受け手の側もそうした挑戦を引き受け共に楽しむだけの度量がいるからなあ。そこがひとつネックになってる。ストライクゾーンが妙に狭いというかそれしか萌えたりしない受け手ばかりになりつつある世界に、昔のようにアニメだったら何でも面白がって特撮だっていっしょに楽しんでそこに可能性を見いだすような視聴者を得られるか。そういうサポートを行う意味でもニコニコ生放送で番組を作ってこちらは視聴者の“教育”も行っていこうとしているんだろう。両輪は揃えた。あとは作品ってことでさて何が飛び出してくることやら。今からとっても楽しみだけれど、庵野さん界隈ばかりじゃなくインディペンデントなアートにも寄ったアニメーターも取りあげていって欲しいなあ。


【10月25日】 たぶん来週当たりから殺し合いが始まるんだろうかと思いながら見た「結城友奈は勇者である」ってテレビアニメーション。4人が何か勇者に任命されて町を脅かす何かと戦っているって感じのところに新たに登場したのはとっても強い本勇者。アッという間に敵を倒してそして4人に説教するけどその実寂しがりやで、構ってもらえると嬉しいというツンデレさん。そんな5人がチームとなっていよいよ敵を相手に戦うって展開がただ「けいおん!」めいた日常で終わるとも思えず5人のメンバーの中に猜疑心が生まれ競争も強いられる中で血で血を争う戦いへと向かっていくんだろう、そうでなければ今っぽくない、って思うけれども果たして。上江州誠さんと岸誠二さんってそういうのが好きだったっけ、もっとストレートに感動を呼ぶ話にする人たちだったっけ。

 なんというとばっちり。とある有名漫画家の後を継いでその有名シリーズを描いている漫画家の人の親族が、息子が有名な漫画を描いているからと安心させて詐欺を働いたってことが報じられているんだけれどでも、世界的に名前を知られた原作者でもなければ、その身内でもないただの作画担当者の、それも当人ではない親族が起こした事件でどうしてその作品をデカデカと掲げ、原作者の名前も引き合いに出しながら報じる必要があるんだろうか。それは世間に広く知られた漫画で信用を誘ったから事件において重要な鍵になっているという言い訳も出来るんだろうけど、それって裏を返せば世間に広く知られた漫画が関わっていますと添えることでニュースのバリューを上げてアクセスを誘うやり口と動揺な訳で、どこかなりふり構ってないような焦りが感じられて仕方がない。

 最高権力者たる公人なら、揶揄されようと誹謗されようと甘んじて受けよという論調はなるほど、それだってやっぱり限度といったものがあってそれを越えてしまったかどうかってあたりが問題になって今、もめていたりする。その割には日本から行った政治家は触れもしなかったという部分があって何かはしごを外されかけている感じもあるけれど、それはさておきこちらの一件。有名な漫画とはいえ原作者ではない、作画担当者のそれも当人ではない親族が起こした件で、漫画にも、そして作画担当者にも決してポジティブではない印象が付くような報じ方は果たして妥当かどうなのか。突っ込まれると面倒なことになるような気がする。

 「『母のことであり、私にはやましいことはない。自分のあずかり知らないことで、コメントのしようがない』と話している」って談話まで載せていて、まさにそのとおりなんだからそうだよねって報道を引っ込めるなり、そのあたりをぼかして事実関係だけを淡々と報じるのがかつての真っ当なメディアのやり方だったのが、今はもう時の話題になればオッケーってな勢いでもって突っ走っている感じが高まっている。その結果として起こる信頼性とのトレードオフが何をもたらすか、って考えると夜寝られなくなっちゃうけれど、寝ている暇もないくらいに現場はギリギリしているってことでもあるんだろう。明日はどっちだ。

 どっちでもなくただどうどうと流れ落ちていくだけ、ってのは誰のSFが描いた未来のビジョンだったっけ。東は東でやってしまえば西も西でやらかしているからそんな未来も確実かって思えてくる。これが載ったのは夕刊紙でもなければスポーツ新聞でもない、一応は全国紙を標ぼうする新聞の題字を掲げたサイト。そこに堂々「で、午後10時ごろと午前0時ごろの2回、客の入りをみながら行うというショーは、当然SMである」って語られるルポが載る。「常連客らが参加してショーが進むと、なんとなく慣れてしまう。ここ1週間はマスコミが気になるので記念撮影禁止というが、マスターに促され、ロウソクやムチを手にしながら、女性とともに記念撮影時並みにニコッと笑う客らをみていると、雰囲気が和らぐのだった」。

 ピーアールか。何かを正当化しようとしているのか。いくら元となった一件の本質は果たして妥当かという場所に対して政治資金が拠出されたことは妥当か否かが問題になっているとはいえ、そうした公序良俗から外れたと黙される場所に行ってありのままに見聞きした事を書き記すことによって正当化がはかられるとも、逆に容疑が固まるとも思えない。結論だけを書き記せば良いもの情動を誘うようにして細かい動作を描き感想まで挟む。もう凄いとしか言いようがない。

 言い訳としては紙媒体ではなく、ウエブサイトだからってことになるのだろうけれど、だったらアサヒコムなりヨミウリオンラインなりに同じようなSMバーのルポが載るかというと迷うところ。同じ題字を傾げた媒体として同一視される可能性を含みほかは活動しているものが、ここん家は東も西もイケイケで、だから例の前支局長によるアクセス稼げそうな揶揄コラムも載ってしまって迎撃されるという繰り返し。どうしたものか。前に ブラジルW杯の時に、児童買春の方法めいたことを細かく紹介して顰蹙を買い、削除した過去もあるだけに、何か歯止めが利いていないというか、より広い範囲での周囲が見えていないとしか思えないけど、そこで反省しない結果が今だとしたら、未来はやっぱりあり得ないなあ。どっどどう。どどうどう。

 休日はどんな具合と日本科学未来館で開かれている「デジタルコンテンツエキスポ2014」の様子を見に行ったらお医者さんごっこも車ボコボコゲームも学生とかが列をつくって楽しんでいた。デイジーの車ボコボコゲームは1人だけでも2人でも楽しめると分かって再チャレンジする高校生もいたりとなかなかの人気ぶり。女子高生が元気な玉をぶち落としたり亀がはめる波を発射したりする姿を遠巻きに見ているだけでも楽しそう。お医者さんごっこの方もあれで不思議な感覚が体験できると評判だけれど、ブースの人には何で女性版もないのかって声が届いた欲しい。男性のあそこに聴診器。それが女子の夢なら叶えてあげてくださいソリッドレイ研究所さん。

 まさか15年ぶりのリベンジを堂々と口にするとは押井守監督。東京国際映画祭で最新作「GARM WARS The Last Druid」のワールドプレミアがあってジェネラルプロデューサーにしてバンダイナムコゲームスの偉い人になった鵜之澤伸さんとともに登壇した押井守監督は、「諦めずにやってきて良かった」とまで言って完成を喜んでいた。振り返ればあれは1997年10月28日のことだから17年も前のことになる「デジタルエンジン構想」の発表会。大友克洋さんの「スチームボーイ」とそして押井守監督の「G.R.M/ガルム戦記」というデジタルを使った2作品のアニメーションが作られるってことで結構な人数を集めてホテルかどこかで発表会が行われた記憶があるんだけれど、その当時からすでに押井ファンであると同時に押井さんらしさへの納得もあったようで、その構想を聞いてこんな感想を抱いたみたい。

 「押井さんはさんざんウワサされていたファンタジー大作『G.R.M/ガルム戦記』をやっぱり初めて公開、といってもスタッフにイメージを伝えるためのパイロット版アニメと一部の実写パートだけで、アニメはパイロットだけあってCGの動きにぎこちなく、実写はなんだかビデオ作品を見ているようなチープさがあって、大友さんのよーな『ものすげー』といった感じは受けなかった。まあこれは押井さんの実写作品に愛のない僕としては仕方のないころで、『アニメ的な企画を強引に実写でやる、デジタルがそれを可能にする』とか押井さんが話すのをを聞きながら、(だったら、わざわざ実写で撮らんでも、アニメでやればいーのに)とゆー考えが頭について離れなかった」。

 その後、技術が進んで実写であってもCGによって自在に合成されてアニメーションのように自在な絵作りが可能になった現在、アニメ的な企画を実写でやることなんて普通になってしまったと「GARM WARS The Last Druid」のプレミア上映で押井監督が話していたのを聞くに付け、経た時間の長さってものを改めて思い知ったけれどもそんな時代に中断からだと15年の時を隔ててどうしてこの企画を作り上げたのか、って辺りにただの執念以外の何かがあるんじゃないかとけど思えてくる。それは何なのか。映像的な実験でもないし犬への愛だけでもない。あるいは「スカイ・クロラ」で考えた箱庭の中で繰り返される戦争というゲームのその外側にある、巨大な思惑というか意志めいたものを世にさらけ出してさあ、今君たちが生きている世界は本当に自分たちの意思によって動いているものなのかと問いかけてみたかった、のかもしれないしやっぱり犬が撮りたかったのかもしれない。どっちだろう。

 そして間をおいて庵野秀明監督の実写映画第2弾となった「式日」を見終える。前に見たのが2001年1月7日だから実に15年近く経っているけど今回見てこんなにかっちり撮られてた映画だったのかと意外に思った。前に見た時は何か場当たり的に撮られていてメリハリもなく繋がっていて最後に山場があったかなあ、って印象だったけれども今回はどのシーンもほどよく手際よくまとめられてて寝るかと思ったら寝なかった。むしろ次に何が出てくるか、何が起こるかって緊張と期待が胸に踊った。ちなみに前に見た感想は日記の2001年1月7日付にあって「ただでさえ過剰過ぎる情報が詰め込まれている画面だけに、気分的には無い方がかえって映像から心象を読みとろうとする意図が働いて画面に集中できただろーと思った、岩井さんの演技にウザったくも重なる松尾さんのともすれば慇懃に響く心象描写のモノローグの、高踏過ぎて逆に陳腐さを漂わせる使い方なんかを見るにつけ、庵野監督にあまりにも『アンノ的』なるものばかりを求めようとす る世評への痛烈な皮肉を交えたこれが1つの解答なのか、それとも映画にこだわる自分を冷静に客観視して描いた半ば自虐的な気持の現れなのかと考える」って書いている。

 「そーいったメタな視線をも取り込んで1つの作品だと認識させてしまう辺りが、ブームを作って以降、常にブームであることを求められる庵野監督たる所以なのかも。何かあんまり誉めてる感じがしなくなって来たけど気にしない。長く伸びた天蓋の上の通路とか、建設途中の高架の下とか古い列車とか『絵』になる風景を取り入れ見せてくれるあたりは『エヴァ』でもそーだったけどさすが庵野さん。その素晴らしいビジョンを認めるにやぶさかではないけれど、物語に乗せて見せられた時の見せようとするリズムがちょっと自分とズレてるのかもしれないと、見ていて感じた違和感の理由について考える。手振れの激しいカメラワークも少しは影響しているのかな。兎にも角にも徹頭徹尾、絵にこだわる庵野さんらしい映画でありました。加古隆さんの音楽は毎度のことながら津々と心に響くなあ」。

 そんな当時は感想だったけれど、上映後に氷川竜介さんと登壇して行われたトークイベントで松尾スズキさんのモノローグは当時の自分の思いそのまんまと庵野さんが話していたのを聞くに付け、ある程度、受けた印象と重なっていたかなあと思ったその一方で、リズムについても当時のエヴァ以降の期待感バリバリな中で見て感じたユルさから、時を隔てて今に普通に実写映画として見て感じた穏やかさへと変わってきたのかもしれない。歳を食ったとも言うけれど。そして美術については見事の一言で、普段暮らしている5階とか地下とかそのまま廃墟を利用した現代美術かって思わされた。あいちトリエンナーレで岡崎のビルの空いた空間とか使って見せてくれたようなビジョンに重なるというか。それが15年近く前の映画で使われていた。誰のセンスだったんだろう。改めて見て1本の映画がまるまる現代美術じゃんとすら言いたくなった。第1印象も大切だけれど見返す勇気も必要ってことで。パッケージ買い直すか。


【10月24日】 1話とか2話とか多分まだ見てないけれど、原作読んでいるんでストーリーは知っているアニメーション版「甘城ブリリアントパーク」を見たらまだ元子役スターの高校生がスカウトされたかテーマパークの支配人になってどうにか建て直そうとあちこち回りながら問題点を的確に指摘していた一方で、姫騎士さんは実直が硬直した態度でキャストとかに接して軋轢を生んでいたという、そんなギャップをどうにか埋めようとして埋まらずぶつかり合う少年と姫騎士さん。でも目的は同じならきっと上手くいくということで、どうにか解決の道も見いだせた様子。そうやっていずれ成功という果実に辿り着く成長と達成の物語を、アニメでは楽しんでいけるんだろう。

 原作も1巻あたりはそんな逆境からの大逆転劇があった上にお姫さまの呪いという部分も乗って切なさも感じさせてくれた一方で、モッフルたちキャストのあれで見かけと違った親父っぽさエロっぽさを前回にした言動なり仕草が楽しくもあるんだけれど、アニメ版ではこの話数に限ってはあんまり人間くささというか親父っぽさは見せてなかったのは調整が入っているからかたまたまか。居酒屋で集まり愚痴をこぼし合う姿とか、やっぱり視聴者の幻滅を招くから入れてないのか今回はたまたまないだけなのか。前のを見返してみないと。あと原作は2巻以降、大きな展開よりも小ネタを重ねて進めていく感じがあるんで、アニメは1巻のストーリーあたりを中心に進めていくのかな。お姫さまの呪いという大きなテーマに挑むのかな。その辺りも興味。ちょっとしっかり見返そう。

 劇場公開が近づいているもののストーリーについてはとんと疎いんで勉強しようと、「王子降臨」に「王子再臨」の手代木正太郎さんによるノベライズ「楽園追放 mission.0」(小学館ガガガ文庫)を読んだらサイバーパンクだった。なるほど早川書房がそれを中心にしたアンソロジーを出すわけだ。ちなにみハヤカワ文庫JAからは本家のアニメーション「楽園追放―Expelled from Paradise―」のノベライズが八杉将司さんによって書かれているけどやっぱりライトノベルの人間なんで、ライトノベルのレーベルから読むのが筋というかハヤカワ文庫JAをまだ買ってなかったというか、そんんあ理由から手代木さんを先に読んだという次第。

 んで結論から言えばうん、こっちから読んで良かったかも。映画や小説で描かれる世界の前史的位置づけで、本編ではヒロインになってる三等システム保安要員のアンジェラが、まだ新米のシステム保安要員としてディーヴァと呼ばれる電脳世界を脅かす存在に対峙するってストーリーが描かれる。ディーヴァとはナノマシンの暴走が起こって壊滅的な打撃を被った地上から、人類が宇宙へと移住しては電脳空間に意識を移し、そこに仮想世界を作って暮らすようになったという、その仮想世界のこと言う。ラグランジュポイントだっけ、そんな場所にとどまっては狭い宇宙ステーションの中にメモりを積んで人間を、情報に変えて生き延びさせている。おおサイバー。

 当然にすべてがデジタルによって表現される世界には、豊富にメモリーを持っているものが優雅に自分を表現でき、またあらゆる快楽も得られるというヒエラルキーがあるようで、アンジェラが師事することになった先輩保安要員のメット・マルティネスって女性も、エージェントとして優秀な能力を発揮しながら、その目的は自分が手柄を立て、ほかの誰にも手柄を立てさせないでメモリーの割り当てを増やし、自分の地位を上げるということ躍起となっている。もっとも“人間らしさ”はあるようで、通信で住むような会話を電脳世界ながら対面で行い顔を向き合って話をし、夜は歓迎会と言って飲みに連れ歩く姉御肌のところも見せる。何だろうこの性格。

 それはメットがかつて地上に生まれ落ち、肉体を持って生きる苦労を味わって、そしてディーヴァに移り住んだことにあるようで、直接のコミュニケーションとは無縁に育った、肉体をもはや持たないアンジェラたちとは、どこか違ったメンタリティを持っているって言えそう。これが実はストーリー上でも大きな鍵となる。そんなメットだからこそ、死もなく病気もなく貧困もなく飢えもない電脳空間から、もう2度とうち捨てられたくないという思いも強いようで、ひたすらに能力を発揮し仕事をこなし他人をけ落とすようなこともしたんだけれど、その姿に正義感と真面目さをまだ持ったアンジェラは反発する。

 そして、時に突出して頑張ろうとして失敗するのを、それが自分の失点になるからを救うような行動にも出るメットにやっぱり疑問を覚えるけれど、それでも危険を顧みないで自分を救い、世界を救おうとするところもあるメットにどこか信頼も抱くようになる。そんな、正義感からなのか打算からなのか、分からないままエージェントとして優れた能力を発揮するメットというキャラクターを上司にして、アンジェラと2人でディーヴァに現れ人を襲う悪性のウイルスのような存在を探し、追いつめていくサスペンス。ディーヴァに暮らす人々に感染し、突如発症して人を巻き込み取り込み増殖する謎のウイルスの正体へと迫った果てで、アンジェラはそこにあった“渇望”に気付く。

 意外な展開があり裏切りがあって、それを乗り越える物語の向こうに、本家としての「楽園追放」があるようで、そちらをより深く楽しむ意味でも、そしてディーヴァという世界に暮らす者たちが持つメンタリティを知る意味でも、読んでおくべき1冊。電脳空間を舞台にした物語ということで、バグめいたものにとらわれた登場人物が見せる振る舞いの独特さとか、圧縮されて隠されたウイルスが人間のアバターを突き破って現れ世界を浸食していく様とか、現実とはちょっと違ったビジョンって奴をしっかりと見せてくれている。これと比べると八杉将司さんのノベライズは、電脳空間から出て血肉を持ったアバターに意識を移したアンジェラが地上を舞台にディーヴァを脅かす敵を探して戦うという設定で、電脳空間ならではのサイバー描写がちょっと足りない気がするけれど、原作がそうなんだから仕方がないのと、こちらはこちらで人工知性の可能性、それが人間へと進化するなり人間と認められる可能性について考えさせてくれるという意味でのサイバーさは持っている。電脳バトル好きなら手代木、リアルワールドの銃撃戦なら後者ということで、それぞれの「楽園追放」を読んで合わせて未来に人類に起こり得る変化について考えてみては、いかが。

 アガサ・クリスティー賞の贈賞式に行ったけど別に殺人事件は起こらなかった。当たり前だ。そんな題名の本を書いた人も来ていたようだけれど、無名な僕ではその場に居合わせたところで登場人物になれるはずもないので気にはしなかったし、向こうも気にはしてなかったのできっとこのまますれ違っていくんだろう。まあライトノベルじゃないからあんまり縁はなさそうだし。今度の受賞者は松浦千恵美さんという人で音楽業界から大学職員となりながら小説を書いていたそうで、結構な思いもあったのか授賞式でのスピーチで涙ぐんでいたのがちょっと印象的だった。ライトノベルだとみんな笑顔で何か面白いことを言おうやろうとしている感じがあるからなあ。その両端が面白い。作品は受賞した時には「傀儡呪」だったけれど、刊行時は「しだれ恋桜心中」となるみたい。人形浄瑠璃が絡むお話だけれど伝奇とはならずミステリにとどまっているのかホラーが見えるのか。読んでみよう。


【10月23日】 やっとこさ読み終えた木崎ちあきさんの「博多豚骨ラーメンズ2」(メディアワークス文庫)は1巻で野球のチームを組んでた北九州の殺し屋グループが何か仲良すぎて、そんな間に殺し殺されるような依頼があったらどうするんだろうと思っていたところにそうした事案が起こって大変そう。でもどうにかくぐり抜ける道があったのは単純に仲が良かったからなのか、お互いに認め合う関係があったからなのか。何もできない腑抜けの斉藤ですらちゃんと守られている感じがあるのは彼に野球の才能がそれなりにあったからなのか。

 分からないけれどもそんな仲間に入れない殺し屋たちの運命の残酷さを見るにつけ、人間関係ってものの重要さを改めて思い知る。新登場の猿渡にはそんな関係が出来るのかな。出来てるみただいしきっとこれから対決という名の馴れ合いが始まるんだろうなあ。気にして読んでいこう。そして今回も林ちゃんはしっかりと可愛いなあ。って中身は兄ちゃんだけれど妹のためを思ってかそれとも本人の趣味なのか、ずっと女装をしてそれも着飾ってキャバクラにまで務めたりして本気のところを見せていた。いっそ膨らませたり切っちゃったりすれば良いのに。そうすればもっと綺麗になれるのに。今でも十分? だもんなあ。そこはフィクションの良さってことで。

 一昨日に1日滞在したお台場というか有明というか青海あたりに今日も朝から出かけていって「デジタルコンテンツエキスポ2014」を見物。毎年いろいろなテクノロジーが出ていて楽しいんだけれど、今年は全体に完成度の高い物が多くってそのまま商品とかサービスとか製品とかになりそうな印象すら受けた。というかすでに稼働しているものもあったりして、CEATECで大評判だったスケルトニクスなんかは、すでにハウステンボスでアトラクション用に使われていたりするそうで、CEATECでの稼働を見てエンターテインメント業界の人からも新たに声がかかったとか。そして今回のデジタルコンテンツEXPOにも登場していて今度はテクノロジーを見に来た企業とか研究機関の声がかかって新たな発展をしていくかも。

 例えば電気通信大から出たベンチャー企業のメルティンMMIが手掛けている「高機能筋電義手」なんかは筋肉を流れる電流なんかを察知してそれを義手に伝えることで指を動かしていたりして、これがスケルトニクスに積まれてサーボモーターとかも搭載されるようになったら、今は全身の動きをそのまま伝えているだけのスケルトニクスがよりジャンボーグAとかパシフィック・リムに近づくような気がしてきた。もちろんあれだけの重量を動かすには相当な動力のサポートが必要で、それをどこに求めるかって問題はあるけど、さまざまな技術があそこで出会い何か生まれる予感を与えてくれたってことは確か。果たしてコラボレーションはあるのか。勝手に期待していよう。

 あと面白かったのが東京工業大学大学院の小池研究室から出ていた「アクアフォール ディスプレイ」って作品で、プロジェクターで映像が映し出されているスクリーンがよく見ると流れ落ちる水とそしてわき上がるミストで作られていた。途中でスクリーンを突き破ってアヒルのフィギュアなんかが現れたりするギミックがあって、これを例えばアミューズメントパークのアトラクションとかに使えば、映像の奥から本物のオブジェクトが現れたりする驚きを与えられそう。キャラクターが出てきても良いけれど、出はいるの度に濡れてしまうのは避けられないからちょっとキャラを考えないと。

 あと凄かったのが東大の石川・渡辺研究室が出していた「勝率100%じゃんけんロボット」。また吹いてるとか思ったけれど本当に勝ち続ける。カメラがとらえた人間の指の動きを高速で割り出し高速でロボットに伝え高速でロボットを動かしていることで実現している技術。人間が近くできないくらいのタイミングで後出しをしている訳だけれど、人間だって動体視力の良い人が相手の手を見て瞬時に自分の手を決めるのと同じと言えば同じ。それをさらに高速でやっているから誰にも分からないってことになる。すごいなあ。話していたのは、これを使えば急に飛び出してくる人とかを見て瞬時に判断して車を止めるような安全装置への応用が出来るかどうかってこと。人間の手の動きを割り出すアルゴリズムに並ぶ障害物を認識するアルゴリズムがあるのか、って辺りは課題だけれど遊んでいるようでしっかり役立つ技術が出てくるところにこのイベントの意味もあるんだろう。将来が楽しみ。

 真面目ばっかりじゃ面白くない、って訳でもなくってこれらもしっかり面白いんだけれどやっぱり、ゲーム性を帯びて目の前にある作品に心が奪われるのが娯楽を求める人間の性質ってことで、デイジーって会社が出してたキネクトでもって人間の動きを読みとりキャラクターをゲーム画面にも取り込んだ上で車をぼこぼこに破壊して楽しむ「NARIKIRI SHOWDOWN ふはははは、見ろ! 車がゴミのようだ!」とかは体も使うし心も晴れてなかなか爽快な気分を味わえる。ソリッドレイ研究所の「オタク文化+VR技術」はタイトルもそうだけれど中身も凄くてVRの美少女に聴診器を伸ばして胸に当たると鼓動が鳴り響く。こちらも奥行きなんかをキネクトでサーチしているみたい。今ある技術でどれだけ愉快なコンテンツを作って乗せられるか。そこにエンターテインメントの醍醐味があるってことを見せてくれた2つ。そのままでなくても上手く転がっていってくれると嬉しいかな。

   さすがにこの雨の中を見に行く体力もなかったんで東京国際映画祭のグリーンカーペット行きは遠慮して仕事をしていたら流れてくる情報にレッドカーペットって文字があって、おいおい東京国際映画祭は環境に配慮した運営を目指してレッドカーペットの替わりに環境配慮型のペットボトルリサイクル素材を使ったグリーンカーペットを敷いて、その上を歩いてもらうことになっていたんだろって見たらレッドカーペットだった。何でやねん。誰か文句でも言ったのかプロデューサーとやらに就任した偉い人がやっぱりカーペットは赤ですよとでも言ったのか、分からないけれどもひとつの主張でもあったそれを改めるのはやっぱりどこかやるせない。

 ちょっぴり世界の映画祭の中で存在感が落ちているのをどうにかしたいって思いがあって、そのためにいろいろ頑張っているのは感じているけど、別に見てくれを世界標準に戻す必要はない。ようするに中身の問題であって世界が羨ましがるような作品を集めてプレミアできるか、それに付随するスターを集められるかってところであってレッドカーペットがグリーンカーペットだからって、作品が来なくなりスターが歩いてくれなくなる訳じゃないんだけれどでも、そうは考えない人がいたんだろうなあ、カーペットはやっぱり赤でなくちゃって。あるいは赤くてもしっかりと環境配慮型素材なのかもしれないけれど、だったらそこを訴えてくれないと。他に主張する場所もないならせめて環境を訴え続けるのが日本なのに。まあ仕方がない。あとは作品本位でどこまで世界と互していけるか。気にして今年を見ていこう。

 あえて言うならカスだけど、はっきり言えばクズだろう。とある記事。鹿児島にある川内原発の再稼働を反対する人たちをあげつらって貶めるような内容がまず拙劣だけれど、そのやり口が何というか卑怯極まりなくって原発推進派だとしてもこんな記事に応援されるのは御免だって思えて来るに違いない。どうって川内原発の再稼働に関する説明会に来た人で、中に入れなかった人が扉を叩き続けたことを書き、それがとがめ立てられなかったことを紹介しながら問題視してみたり、そこい来た人が地元の方言じゃないと言ったからといって、当人たちに確かめることなく「自称市民」と断じてみたりとやりたい放題。印象操作でもって反対派の人たちが何か特別な種類の人間ではないかってことに持っていこうとしている。

 そりゃあそうかもしれない。でもそうだと決まった訳ではないなら、調べて聞きただすのが新聞記者ってものだろうに、ただの印象と無関係な人の感想でもってそうだと決めつけていくその手口は、間違いと知らず書いてあとで分かって謝ったどこかの新聞より質が悪い。っていうかほとんど捏造じゃんこれ。それで余所の新聞がどうだとよく言えたものだ。タクシー運転手に反対派はただ暴れたいだけって言わせたのだって、本当にそう言った運転手がいたのかどうか分からない。いたのだとしても、だったら反対派に「ただ暴れたいだけなんですか」と聞いてバランスを取るのが真っ当なジャーナリズムって奴なのに、ただ批判するための材料だけを集めて並べてみせるその手口。イエローとつけてすらジャーナリズムと呼ぶことがはばかれるくらいに足りていない。

 あまつさえ最後に警察白書を引っ張り出して、左翼暴力団云々の項目を書き出しては川内原発で異論をとなえていた人たちが、さもそうであるかのように印象づけようとする。聞いたのか? 確かめたのか? いつかの首相官邸前に反原発団体が集結したデモで、抗議のプラカードに「ハングル文字も散見されたという」って、これも自分で確かめた訳ではない、そして川内原発の問題とはまるで離れた首相官邸前の件について書き添えて、何やら異国が入りこんでいるような印象まで付け加えたりするこの手口が可能なら、どんな真っ当な人間だってどんな真面目な運動だって、左翼的だ何だと難癖を付けられる。それが新聞という一般には公正で中立だと思われている媒体の上でもって繰り出される。これを末世と言わずして何を言う? 「鹿児島で、過激派がどこまで関与しているかは不明だが、反原発活動を総じてみれば、常軌を逸した活動の背後には、政治的な意図が透けて見える」。不明だが透けて見えるって何だいったい。もはや論理ですらない空想による決めつけを、書く方も書く方なら載せる方も載せる方。完全にたがが外れている。底が抜けているんだけれど、そのことに気付いてないか気付かないふりをしてやりまくったその先に来るのは何か? やれやれだ。本当にやれやれだ。


【10月22日】 昼に「GARM WARS The Last Druid」を見た昨日は夜までお台場のアクアシティにとどまって今治豚玉子飯をかっこんでからメディアージュにかけつけジャパンコンテンツショーケース2014のP&I上映で「THE NEXT GENERATION パトレイバー」のエピソード10「赤いレイバー」を見たんだけれど、すでに第5章の予告編なんかで明かされているように前にコンビニエンスストアでカーシャたちを相手に戦い泉野明に股間を蹴られて悶絶した例のテロリストが、なぜか再登場してはいろいろするってストーリーの上に、しっかりと軍用レイバーが絡んでパトレイバーとの戦いって奴を見せてくれていた。

 といっても真っ向勝負で組み合おうものなら、相手の銃器によって蜂の巣どころか木っ端微塵にされてしまうパトレイバーだけに、戦い方には工夫があったりしてなかなかにスリリング。第5章のパンフレットで田口清隆監督が先取りして書いていたように、パトレイバーと軍用レイバーの動きを従来の3倍と5倍遅くした、って意味もその重量感と緊張感を見れば理解できた。加えて新潟の夜を2人で過ごす羽目となった塩原佑馬と泉野明のあれやこれやなやりとりとかもあったりして、別の意味でいろいろと緊張させられるというかスリリングな展開を楽しめるエピソード10。熱海の露天風呂の時に比べてより見えるといえば見えるし。あと目立ったのがレルヒさん。前に女子サッカーのオールスターで各地から集められたゆるキャラに混じっていたのを見たけどそうか、新潟に縁のキャラだったんだ。アルビレックス新潟の応援に来ていたのかな。そんなのが見られるエピソード10。高島礼子さんは怖いけど、その下で踊らされない後藤田さんもやっぱり怖い人、なんじゃないのかなあ。

 そうかと後になって気付いたりしたのは昨日、ジャパンコンテンツショウケース2014のライブで見たKAO=Sってグループでボーカルとか剣舞をかを見せてくれた川渕ゆかりさんが、あのフル3DCGで話題になったアニメーション映画「キャプテンハーロック」でヒロインのケイってキャラクターのモーションアクターをやっていたことで、なるほどその圧倒的なパフォーマンスが作中でのケイって海賊の女の子のアクションにつながっているんだとしたら、声を当てた沢城みゆきさんより先にキャストとして紹介すべきなんじゃないかとも思ったりしたけれど、こういう映画の場合ってモーションよりも声が優先、というか声した紹介されないケースも多々あって何か寂しい気がしてくる。

 だってそこに映し出されて演じているキャラクターの仕草はモーションを担当した人のもので、その動きがあったからこそキャラクターが見てCGだけれど生命観のある存在になった。表情なんかの不気味の谷を越えるのはCGクリエーターの力かもしれないけれど、たとえ表情なんかがリアルに近づいても動きの部分に人間からのキャプチャーを利用しているなら、そこにかけられた労力ってものをもっと尊重すべきだし、敬意を払っても良いような気がする。まあいずれはそうした動きすらも部品化され声だって人工合成されて顔立ちは有名俳優なり女優のベストだった頃が選ばれずっと使われるようになるんだろう。
 アリ・フォルマン監督の映画でスタニスラフ・レムの「泰平ヨンの未来学会議」を原作にした「ザ・コングレス」でそんな未来の映画界のビジョンが描かれていたけれど、今はまだ人間の動きや表情に重きを置いているなら、もっとしっかり紹介してあげても悪くはないんじゃなかろうか。いやそう言われるまで誰だったのかしっかりと把握していなかった自分の不明を恥じるべきなのかもしれないけれど。 確か映画のエンドクレジットにはモーションアクターの名前も登場して、そういう意味では映画ではちゃんと遇してはいるみたいだけれどでも、サイトに登場するのは声優さんたちだけなんだよなあ、そこが変わる日は来るのか。誰が声を当てているかで見に行くんじゃなく、誰がモーションを演じているかで見に行くような時代がくればそうなるかな。なるのかな。

 なんか第35回日本SF大賞へのエントリーに、テレビドラマの「安堂ロイド」がずらりと並んで鬱陶しいと言った人がいたとか、それを受けて何てSF界とは了見が狭いんだといった声が出たとかって感じにいろいろとかまびすしいんで、ようやくそのエントリーを見てきたらなるほど「安堂ロイド」を推す声は多かったけど、それ以前にエントリー自体がまるで少なく、募集のスタートから40日とか経っていてこれで良いのかって気が逆にして来た。見たところ日本SF新人賞から出た話題作ってのは入っているみたいだけれど、これなんてSFとして超絶凄かったっていうよりSF新人賞作品だから読んでみたよって人が割と多めにいたってことがら出た感じで、これが出るならあれがなぜ出ないんだ、むしろこっちだってあって良いはずじゃないかっていった作品の名前がまだ出てない。籐真千歳さんとか。藤井大洋さんとか。芝村裕吏さんもか。小川一水さんもないなあ。未刊でも1冊は対象期間中に出しているはずなのに。

 だっていわゆる本戦へと進むのは、ここにノミネートされた作品から日本SF作家クラブの人たちが投票か何かを行って選んだ得票上位の作品な訳で、つまりはここにノミネートされていなければ次に進むことはあり得ない。自分の作品こそが相応しいと思うのなら作家の人は自薦でもいいからぶっこむべきだし、あげつらった作品がこれは無いって思うのだったら、自分でこれぞと思う作品を並べればいいだけのことなのに、別に多数決でもないんだから同じ作品を複数エントリーするのは迷惑っていうくらいで、替わりに何かすごい発見のある作品が挙げられる訳でもない。何かちょっと不思議。

 個人的には「安堂ロイド」はあの時間帯にドラマとして結構ハードなSF設定を持ったストーリーを繰り広げたって意味で、ファン層を広げつつ新しい提案も行った画期的作品だと思うからノミネートに異論はない。たくさんのノミネートだってそういう思いを抱いている人が多くいるんだということを、候補作を選ぶ権利を持っている日本SF作家クラブの人に知ってもらう行為として悪くはないと思ってる。だいたいが日本SF作家クラブの会員だから、遍くSF作品をメディアを問わず読んでいるかとうとそんなことはない訳で、一部にはやった新人作家のSFだとかベストセラーの作品なんかを読んでいるだけに過ぎなかったりもする。

 そういう目配りから、作品が狭い範囲で選ばれることを防ぐ効果もあるのが、一般からのエントリーの公募な訳で、そこでただ知ってもらうだけでなく、強い思いがそこにあるんだと分かってもらう効果がそこにはあるんじゃなかろうか。ああそうなんだ、って思ってもう。いやそれでも自分は違うという会員がいるならそれはそれで立派な意志。そういうせめぎ合いの中からより相応しい作品が最終項補作へとノミネートされていくためのプロセスだと、思えば別に起こる必要もないんじゃなかろうか。内部の人が手作業でやってますから大量エントリーは迷惑です、って言われればそれも理解したいけど、遠慮しすぎて分かってもらえないのもまた寂しい。塩梅を考えつつノミネートを行っていくことで、より相応しい作品が日本SF大賞にノミネートされ、そして選ばれることを期待しよう。梅田阿比さん「クジラの子らは砂上に歌う」とか。それは僕のいちおし。


【10月21日】 そして気が付いたら大臣が2人辞めていた。まあ小渕優子経済産業大臣の場合は明らかに政治資金規正法にひっかかる部分があるんで、辞めるのもやむを得ない話だけれどでも、秘書がやったとか後援会がやってしまったと言ってそっちの責を問いつつ、自分は知らなかったと言いつくろい、そして修正報告をしてそのまま議員として過ごして次の選挙に当選して、禊ぎは澄んだとかってことで復活して来るんだろう。それが日本の政治家って奴だから。松島みどり法務大臣の場合はちょっと可哀想といえば可哀想で、団扇かチラシか何かってあたりのモヤモヤ感を出しつつ、次からは気を付けますで抜けらるんじゃないかって思っていたら、追求もしつこかった上に小渕さんの話が絡んで彼女1人を捨てては傷も大きいってことなのか、共倒れしてダメージを分散してしまったといった感じ。

 じゃあ復活できるかっていうと、地元に盤石ば地盤を持つ小渕さんに比べてしょせんはメディア上がりのエリート女史、選挙区であれ比例であれ嫌われれば次の目もなくなってしまうのがオチで、次は厳しいことになるだろう。次の機会すら与えてもらえないかもしれない。そんなあたりで政権を守ってくれたという義理が働くかどうか。安倍ちゃん次第かなあ。それにしても女性閣僚のうちでは比較的、言動としては真っ当だった2人がピンポイントのようにダメージを食らって政権からジェットソンされるのは何なんだろう。靖国には参らず右翼との付き合いもなく、女性の問題差別の問題に開明的な考えを持ってそうな印象だっただけにちょっと惜しい。残る玉がまたライト方面をファールになってバックネット裏まで切れそうな右寄りなだけに、なおのこと勿体ないけど、だからこそジェットソンされてしまったのか、なんて穿った見方もできてしまうくらい今の政権は偏ってる。こうして本当の身内だけを寄せて固めていった果て、何がいったい起こるのか。怖いなあ。「ワイルド7 魔像の十字路」でも読んで気持ちを楽にするか。楽にならないよ。

 なんだ良い奴じゃん、って思うかというとやっぱりどこかでねじれてしまったとしか思えない「弱虫ペダル」の御堂筋くん。インターハイの2日めでゴールを目前にしてよぎったのは、まだ子供だった頃に入院している母親を訪ねて自転車で20キロを走って会いにいっていたという昔の思い出。そこで誉められ照れてはにかみながらも、自分が頑張れる世界を見つけて一所懸命にやって誉めてもらえて、さあ次こそ見てもらえると思った矢先の離別。それでも頑張ってレースに出て1等賞を取ったのは良いけれど、きっとその先に母親に喜んでもらうという目標が抜けてしまって、ただ1位になるということだけが、強く心と体に染みついてしまったんだろうなあ。それが何が何でもっていうあの言動へと繋がってしまったという。それもプロのアスリートとして悪い資質じゃないけれど、でも突拍子も無さ過ぎるキャラクターにはなかなか感情も添えづらい。そこに見せた過去の姿。人間味が出てある意味で良かったけれど、結局神様は見ていたっていうことで、最後に抜かれて3位でゴール。さあどうなる。そしてどうするインターハイ最終日。本当の戦いはこれからだ。

 お台場の方で始まったんでジャパンコンテンツショウケース2014を見物に行く。TIFFCOMって映像の見本市にTIMMって音楽の見本市と、それからTIAFってアニメーションの見本市めいたものが合わさったものだけれども、TIFFCOMだけで六本木でやっていた頃と比べてどこか場所が遠くなったからか、沈滞ムードが出ていてそして、アニメーション関係とか何かお義理で出しているような雰囲気も漂って、一昨年あたりはこれはもう駄目かなあ、COFESTAともども雲散霧消していくのかなあって心配したけれど、今年は朝からなかなかに盛況で、どこのブースに行ってもちゃんと外国人が来て日本人がいてコンテンツの売り買いめいたこをやっていた。

 そこで商談がバンバンと決まっているかは分からないけれど、英語のパンフレットも各社作って並べてたし英語字幕入りの映像も流れてて、ちゃんとそこで商売するぞっていう気分は感じられた。あるいはしっかりマーケットになっているのかも、TIFFCOMに限っては。TIMMについては大手については各社がブースを出しているだけ、って感じがしないでもなかったけれども、そんな間に混じってインディーズ系とかアニメミュージック系とかアイドル系がなかなかに元気というか、アニサマを運営している会社もあればイグジットチューンズも出ていればランティスも出ていたりと、アニソン関連が並んで世界からの食いつきの良さ、あるいは世界に向けて押し出していく先鋭としての位置づけみたいなものを感じ取れた。

 それを言うならアソビシステムも「もしもしにっぽん」のブースを出してプロジェクトをアピール中。きゃりーぱみゅぱみゅの衣装とか置き映像も流しつつ世界に日本のポップカルチャーを紹介してく意志って奴を見せていた。それが果たしてどこまで受け入れられるのか、そして肝心の費用は潤沢なのかが気になったけれど、だからこそ出展をしていろいろな所から支援とか協賛を得て伸びていこうとしているんだろう。今年の盛況の中で良い商談はまとまっただろうか。ちょっと聞いてみたいところ。

これがカオスだ!   アイドル系では「でんぱ組,inc」のグッズとか並べたブースもあったり、アイドルめいた人が座っていたブースもあったりとなかなかにカオス。そのカオスって意味ではその名がそのままKAO=Sっていうグループがブースを出していて、メンバーも来ていてライブまで行って世界に繰り出そうと頑張っていた。言ってしまえば和風プログレ。ギターに三味線に尺八に太鼓といった和がちょっと多い和洋折衷のサウンドをバックに女性ボーカルが着物姿で踊りつつメロディアスな歌を唄い、そしてハードなインストゥルメンタルに乗って踊り剣舞を見せたりして観客の関心を買っていた。

 時間に限りがあって楽曲数は少なく、川渕かおりさんってボーカルで剣舞で居合いもやる人の歌をそれほど聞けなかったけれど、特徴をまず出しつつこれだけのことが出来ると分かってもらって、そしてライブでは歌あり剣舞あり舞踏ありのパフォーマンスを見せてくれるんだろう。それはなかなかにカオス。でも楽しそう。和装といえば和風ロックの和装侍系音楽手段MYST.ってのがあって、居合いも見せてくれるけど、それと並べて世界に言ったら結構受けそうな気がするなあ。問題はそうした人たちを海外へと向かわせるに足る金があるかってことか。自分たちだけで行って演じてもお金にならなければ意味ないし。そういう意味でもジャパンコンテンツショウケースっていう場に出て、海外の関心を誘って呼んでもられるような環境を、作ろうって頑張っているんだろう。果たして成果は。期待したい応援したい。

 せっかくだからとスクリーニングで「GARMWARS The Last Druid」って押井守監督の最新作を観る。世界のオシイの最新作が観られるんだから、わんさか人も詰めかけ席もいっぱいかと思ったらそうでもないのはTIFFではなくTIFFCOMのスクリーニングだからか。でも観ればなるほどこれは押井守監督の作品以外でも何ものでもなく、人生を押井守監督に捧げた人ならその時間をしっかりと押井漬けにされることだろう。とりあえず内容を語るなら犬だった。あと「スカイ・クロラ」で語られたような永続する箱庭というビジョンをまた観られたような気がした。あっちはエンターテインメントとしての箱庭だったけど、こっちは何だろう、もっと壮大な実験的な感じか。そんなあたり、まだよく掴めなかったんで映画祭の場でちゃんと観よう。チケット買ったし。これ売り切れているんだよなあ、やっぱり期待、背負っているんだなあ、押井守監督って人は。


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