縮刷版2014年10月上旬号


【10月10日】 高田馬場にあった頃には1度も行けなかった金沢カレーのチャンカレこと「カレーのチャンピオン」が、九段下にあると知ったのは割と以前のことだけれど九段下なんてお祭りでもなければ行かない場所だけあってなかなか寄れずにいたところ、まだ九段下と半蔵門との間くらいにあるエンターブレインが半期に1度のゲーム市場に関するレクチャーをしてくれたんでこれを機会に行ってみようと探したら、通りに面した飲食店街って感じではない、奥まった場所のマンションとオフィスと学校が並ぶような閑静な場所にあってまず驚き。

 東京で金沢カレーの名を広めたゴーゴーカレーが新宿南口とか秋葉原といった、割りにナードでオタクな地域にあった関係で、そういう人種の食い物って印象が付いてしまっていただけに、番町とか九段下なんてあたりでいったい商売になるのかって心配も浮かんだけれどまるで無用にしっかりお客さんが入ってた。というか高田馬場が飲食店の激戦地って感じな中で撤退を余儀なくされた感じなのに対してここは、そんなにたくさんある訳じゃない飲食店の1つとしてしっかり根付いているといった感じになるのかな。カウンターだけの席も大きくないんで取り回しも楽だし家賃もそんなに高くないなら、東京という場所でもやっていけるってことなのかも。

 そんなチャンカレの味はなるほどゴーゴーカレーとは違って割りに普通のカレー感。塩っ気もあるような感じは神保町にあってカツカレーを食べさせてくれる「まんてん」に近いかもしれない。あそこは別に金沢カレーじゃなくキャベツも乗ってないけど、皿を変えスプーンをフォークに代えたら金沢カレーって言えそうだもんなあ、「まんてん」。カツの味もそういえば似ていたような感じ。ウインナーは小さいのを並べるんでなくフランクフルトみたいなのを縦に割って添えてくれた。もちろん揚げてある。なかなかの味だったんでまた来たいけれども場所も場所なんで次に来るのはいつになるのか、17日から20日が靖国神社の秋の礼大祭なんでそれを見に来がてら寄ってみるのもありなのかな。でも礼大祭じゃあ出ている屋台で粉もん集めてお腹いっぱいだし。半年先のせみなー時かなあ、その頃にまだエンターブレインって番町にいるんだろうか。

 浜村弘一さんの変わらぬ優しげでそして愛ある分析を途中まで聴いてから、九段下へととって返して地下鉄都営新宿線で新宿三丁目へ。東京メトロ半蔵門線との壁がとっぱらわれたホームで始めて新宿方面行きへと乗ったけれどでも、渋谷から大手町へと向かう人たちが降りたホームから出る新宿方面行きの地下鉄に、どういう人たちがどういうシチュエーションで乗るのか今ひとつ分からないのだった。渋谷から新宿ならJR山手線もあるし東京メトロ副都心線も走っているしなあ。曙橋とかそんな辺りを利用する人がいるってことなんだろうか。猪瀬都知事って何か思いつきで凄いことやったように自分では思い込むけど、実際の利便性は大したことなかったりするケースが少なくないからなあ、六本木から渋谷の深夜バスとか。歩くよその距離普通は。それかタクシー使うさ1時間に1本程度の本数なら。

 でもって新宿三丁目から歌舞伎町へと向かってナムコが新しくオープンした施設「アニON STATION」ってのを見物。これは楽しいわ。例えばライブに行ってアニソン歌手の歌を聴いて盛り上がるってことはあるし、カラオケに行ってアニソンを歌って盛り上がるってこともあるけれど、ここん家はそうしたものとはまた違ったアニソンの楽しみ方が出きるスポット。それは共感。あるいは一体感。そして臨場感。目の前でDJがならすアニソンのリミックスを聴きながらペンライトを振り回したり、チアーズって呼ばれる人たちが選んだ楽曲を聴いてどっちが良いかと投票したりとアニソンを聴いて口ずさんでそして喜べる。合間にはフードにドリンクを堪能して時々始まるカラオケタイムでは皆であの名曲を大合唱! 見ず知らずの人がいたってアニソンを介して友達になれる。いや別に知り合わなくてもその空間では同士になれる。ひとり寂しい人でもここならヒトカラだのライブだのじゃなくても、居場所を見つけられるんじゃなかろうか。

 デモみたいなことをやっていたんで聴いていたけど、DJさんの選曲が良いのか知ってる曲有名な曲流行ったアニメの曲を中心に流してくれて、もう聴いていてああこれは良いこの曲も最高だって感じに自然と体が揺れてしまった。拳すら振り上げたくなった。たとえ知らない曲だってそれを知っている人が周囲にいて、盛り上がっている姿をみればもうそれで十分に楽しい。それがアニソンなんだから。僕らの共通言語なんだから。日本人に限らず外国人だって来てアニソンをいつでも楽しめるスポットとして利用してみてはどうだろう。アニソン大好き外国人がいたとしたって、どこに行ったら聞けるって訳じゃないし、かといってカラオケに入って歌う訳にはいかない。「アニON STATION」ならいつもアニソンが流れていて、アニソンに詳しいチアーズがいろいろ教えてくれる。実地で行くクールジャパンスポット。国や自治体が推進したって罰はあたらない。

 こういう施設がが全国に増えれば、もっと外国人も日本を楽しんでくれると思うんだけれど、なかなか今ひとつ理解されないのか、取材もあんまり来てなかった。だってアニソンが楽しめるスポットだよ。DJがリミックスを聴かせてくれる場所だよ。リリースを見た瞬間にこれ最高、これ楽しいって思えた僕が異常なのか、それとも分かろうとしない世間が不思議なのか。クラブでアニソンだけのDJイベントが行われ、歌舞伎町でだってアニソンのクラブイベントがオープンで行われていたりした時代に、それ専用のスポットが出来て流行らないはずはない、って思うんだけれどなかなか分からないのかなあ、アニソン好きじゃないと。まあいいいずれこれがクールジャパンの尖兵となって世界に広がっていくだろう。その時はゲストで登壇してくれたアニキこと水木一郎さんも、全世界の「アニON STATION」を回って自分の歌が流れ皆が大合唱している姿にご満悦となって下さいなゼーッット!

 ちゃかぽこと記事に仕上げてそれから新宿ピカデリーへと回って「宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海」の前夜祭。とりあえずブルーレイディスクを受け取りしばらくしてから劇場へと戻り監督とそれから構成の森田繁さんの挨拶を聞いてそして上映へ。そこから始めるのかあとまずは驚きそして大胆なカットぶりに感嘆。このままガミラス出てこないんじゃないかと心配したけどメルダ・ディッツが現れ合流してそのアンダーウエア姿を見せ、またサーシャが火星へと落ちてきた時の横たわる姿を見せさらに森雪のアンダーウエアな後ろ姿とそれから西条未来の耳といった見所はしっかり残してあったんでこのカットは全面同意。素晴らしいと褒め称えたい。

 冥王星に惑星バランに七色星団にといったど派手な戦争シーンはちゃんと入れつつ間引くところは間引いて2時間ちょっとに治めたりするのは大変だっただろうなあ。最後があれっと思わされるけれどもきっと、そこは「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」に繋がる部分として残しておいたんだろう。あれがあってそれがあったからああなった、的な。それでようやく「宇宙戦艦ヤマト2199」は本当の航海を終えられるんだ。だってそうでなければいつまでも戦わされて、せっかく生き残った者たちの命も危うくなってしまうし、だいいちスターシャとの約束が守れない。もう戦わない、って決めたヤマトクルーに続編があったとしたらそれはつまり……ってことになるのかな。ともあれ楽しみになって来た「星巡る方舟」。初日に頑張って見に行こう。これってBDは売るんだろうか。やっぱり流石に後だよなあ。メルダ・ディッツは出るのかな。それも気がかり。見たいもん跳ね上がるアホ毛。


【10月9日】 そういやあufotable版の「Fate/stay night」が始まったはずだけれど見かけてないなあって思って調べたら、公式サイトの方に放送局が書いてあってそこに「TOKYO MX・とちぎテレビ・群馬テレビ・BS11にて全国同時放送」って文字を見つけてちょっとどういう顔をしたら良いのか分からなくなった。だって全国放送といったら少なくとも大都市圏の地上波でもって見られるようになっているのが普通。けどここで全国にネットしているのあ「BS11」でそれは地上波では絶対にない。MXも関東ローカルだし栃木に群馬は餃子と焼き饅頭のどっちが日本の名物に相応しいかを争っている激戦地。やっぱり全国と呼ぶにはちょっと遠い。

 なるほどネットではニコニコ動画でもバンダイチャンネルでもドコモのアニメdストアでも配信はされているけどそれは“配信”であって“放送”とは違う。一応はカバーできてもやっぱりテレビをつけたらそこに流れている環境とはやっぱり違う。見に行かなければ見られない。それってどうなんだろうなあ、ふらっと着けたらやってて面白いからファンになる、っていう出会いが最初っから拒絶されてしまっているこの回路。今やそうした層のリーチなんてあてにせず、最初っから狭い範囲で確実に受ける層にアプローチした方が効率的って考えなのかもしれないけれど、でもやっぱり期待したいふらりとした出会い。それを失うというか最初からオミットしている業界の、未来がちょっぴり心配になって来る。今は良いけどその先は。食いつぶしているんだろうなあ、過去の遺産を。

 それは科学技術も同じか。ノーベル物理学賞を日本人(中村修二さんもとりあえず日本人として考える)3人が受賞して沸きに沸く日本を見て、韓国の中央日報が「19対0、韓日ノーベル科学賞の数が雄弁に語るもの」って社説を掲げてこれまでに日本国籍を離脱した人も含めて19人の科学系のノーベル賞受賞者を出した日本を紹介しつつ、韓国は未だ0人だってことを嘆く文章を掲載している。そこには「理工系離れ現象が広がり、実績中心の研究が科学者を圧迫する雰囲気では、ノーベル賞はさておき韓国の未来の生きる術の責任を負うべき一般技術さえまともに開発され難い」って韓国の実利ばかりを追いかける風潮を指摘して、これを改めないと未来はないって訴えている。

 なるほど自覚はしているようで、別の新聞なんかはすでに座台まで用意して学内からノーベル賞受賞者が出て欲しいと知ったしている学校もあるってことを紹介しているけれどでも、こうした韓国内の政府とか企業とかに対する訴えは、そのまま現代の日本にも当てはまるんじゃなかろうか。なるほど理工系を尊ぼうという政策は打ち出しているけれど、それは基礎研究を熱くするよりも目先の成果ばかりを追い求めたもので、基礎的な研究には予算がつかずやがて蔑ろにされていく。その果てに来るのは、19から増えないノーベル賞受賞者数だったりするかもしれないんだけれど、そういう意識なんてまるでなさそに安倍ちゃんは理工系教育万歳とか言っちゃっているからなあ。隘路にはまって自縄自縛に陥らないと良いんだけれど。でも駄目だろなあ、安倍ちゃんだけに。

 そんな韓国のニュースを調べていたら、「思い出の光州7080忠壮祭り」なんてものが光州市で開かれると知って興味津々。なぜか官憲だかに見えるコスチュームの人が、女性の短いスカートが膝上どれくらいなのかを計っている写真とかあって、いったい何をしているんだろうと想像したけどおそらくはそういう態度を1970年代80年代にとっていた官憲がいたんだろう、それが今の記憶となり思い出となって残っているんだろう、だってこの祭りは1970年代や80年代の文化や光景を今に蘇らせて懐かしみながら楽しむお祭りらしいから。観光公社だかが出してる文章によれば「『思い出の光州7080忠壮祭り」は光州を代表するストリートカルチャーの祭典。『7080』とは70〜80年代に大学生だった人、すなわち1950〜60年代生まれの世代のことで、このお祭りではその時代の思い出が体験できる機会として当時の文化が再現されます」ってなている。

 だからスカートの丈を計るのも金属製の洗面器をかぶって風呂敷のマントを翻して街を走り回るのも、そんな世代に生まれた人がちが子供の頃に見た原風景。それを大人になって楽しむのってやっぱり面白そう。ところで光州といえば80年代にものすごい民主化運動が起こって100人とか200人に近い人が亡くなった場所だけれど、それはそれとして子供たちは普通に青春を過ごしていたんだろうか、だから今になって思い出として振り返られるんだろうか、まあでも日本だって1970年代の学生運動を過ごした人たちも、いざ思い出となったらモーレツにゲバゲバでハレンチなカルチャーを全面に引っぱりフォークだロックだといって楽しむだろうから一緒かな、悲惨な過去は過去として追悼しつつ楽しい思い出は思い出として今に味わう。そうやってこれからを生きていく。

 参ったなあ。言論の自由はそれとしてだ。「懇ろ」という言葉を「女性の品格を傷つける誹謗中傷で、聞くに堪えない。国会の品位をおとしめる発言で許されるべきではない」と批判する政府の官房長官は、だったら女性大統領の品格を傷つけ新聞の品位をおとしめる記事も許さないのか。やっぱりそれはそれなのか。何か言論の水準に錯綜が起こっていて、どうにも位置取りを掴みづらい。「『宿泊先まで知っているっていうのは、懇ろの関係じゃねえか』こんな品性を疑うようなやじが、こともあろうか国権の最高機関である国会で叫ばれた。7日の参院予算委員会。民主党の野田国義参院議員が、山谷えり子国家公安委員長に対して放った“セクハラ”やじのことだ」と書きながら、その同じ筆がこう書いて“セクハラ”を許容する。

 「当該コラムに韓国大統領を誹謗中傷する意図はまったくない。内容は韓国旅客船セウォル号沈没事故当日、7時間所在が明確ではなかった朴槿恵大統領の動静をめぐる韓国国内の動きを日本の読者に向けて伝えたものである。これは公益に適うものであり、公人である大統領に対する論評として報道の自由、表現の自由の範囲内である」。元ネタの新聞にもなかった話を載せて揣摩憶測を重ね、男女の仲だと誘引することが侮辱ではないと言うなら、「懇ろ」だって親密な関係だと言ったに過ぎず品格を傷つけるものではないってことにならないか。ならないんだろうなあ。そういう分裂したスタンスが、世間から見ていったいどう見えるのか、ってあたりに半歩下がって目を配らないと未来に禍根を残しそうだけれど、今しか見えてないのが何か大変そう。そして気が付くと……。時代が変わろうとしているのかもしれないなあ。

 デジタルハリウッド大学で開かれた、アニメーションで色彩設計を手がけられている辻田邦夫さんの講演をのぞいたらこれがとてつもなく面白かったよ。色彩設計の人が作品ごとにどうキャラクターの色を決めしてるかって話から、特効や撮影処理を経て最終的な画面がどうなるかを考え色を作っている話、そして色が良かったと言われるより話が面白かった、また見たいと思われる方が嬉しいという話まで多彩な話が繰り出された。最後のは集団作業で生まれる作品としてのアニメーションで色がとか作画とか突出して目立ってしまうところがあるのはバランスが崩れているという意識の現れ。それだけトータルとしての作品に気持ちを注いでアニメの人たちは関わっているんだとわかった。これからはそんな意識で見ようと思ったよ。

 それにしてもノイタミナで放送された「墓場鬼太郎」あんなにピーキーな色で最初は塗られてたのかと驚いた辻田邦夫さんのデモ。そこにフィルターが乗ってあの水木テイストな画面になる。色によってはフィルターで飛んでしまう色もあるからそこまで考え元の濃さとか決めなきゃいけない。大変だけど面白そうな色彩設計のお仕事。そして帰りがけにちらと伺った、どうやったらそんなに色のアイディアが出てくるんですかという話に辻田邦夫さん、色々見よう、遊びに出ようって言ったことを話してくれた。アニメだけ漫画だけテレビだけ見ててもシーンにあった色のパターンは浮かんでこない。自分にどれだけ感覚を作れるか。経験しかない。経験を積もう。これからの人たちは。外に出て。


【10月8日】 赤崎勇さんのノーベル賞受賞できっと1番沸いたのは、名古屋にある名城大学なんじゃなかろうか。一応は名古屋大学の方にも籍があってそこには名古屋大学時代にとった特許によるお金で作られた記念館みたいなものもあるようだけれど、今の現役としての身分は名城大学らしく記者会見もそこで行われたし、何よりプレスリリースを通じて全世界に「Meijo Univercity」って名前が喧伝された。他にアメリカンフットボールで全国大会に出たところで、あるいは女子駅伝が全国で優勝したところで一向に広まらないその名前だったけれど、ノーベル賞はさすがにノーベル賞だけあって、全世界がその名前を取りあげざるを得なかった。やっぱり凄いなノーベル賞。

 でも国内的にはやっぱり無名のままだったりするのが、実家のある天白区に拠点を構える大学であり、また東海学園女子短期大学が東海学園大学になる前は実家から最も近い大学だったことでもあり、なおかつ弟が商学部を卒業していることもあってなかなかに忸怩たるものがあったりする。まあ個人的にはどうでも良いけど。これがもしもカーボンナノチューブで飯島澄夫さんが先にノーベル賞を受賞していたら、名古屋大学じゃないけどまた受賞って歓喜の中でなおいっそうの栄誉も得たんじゃなかろうか。

 でも飯島さんは外れて果たして今後とれるかどうか。確か数年前にフラーレン絡みの受賞が出ているからなあ。でも分からない、いつかそこに至った時に今再びの名城大学の受賞となって世界にその名がカリフォルニア大学バークレー校並のネームバリューで広まるんだ。それもそれで痛快。だって名城だし。だもん。だよなあ。何でこんなに凄くなったんだ。地元民でもさっぱり分からない。そんな感じにノーベル物理学賞の受賞で沸きに沸き立つ日本のメディアをかたわらに置いて、ネットでは今日も今日とてノーベル化学賞が発表になって何だろう、極微細なものまでくっきりと映し出す顕微鏡を発明だか開発した人たちが受賞したみたい。

 ところがその発表が行われた時刻のテレビはノーベル物理学賞を赤崎さんの下で働いていて受賞した天野浩さんをようやくつかまえたメディアがインタビューを流していたりして、化学賞への話題へと一向に踏み込まない。新聞だって速報を打たずにノーベル物理学賞絡みのトピックを重ねていくばかり。偉大な発明であってもあるいは発見であっても、日本人が絡まないとこれほどまでにメディアは冷淡なのかと思い知らされた次第。だったら中村修二さんだって国籍的には米国人ってことになるじゃん、それをどうして一所懸命に報じるんだって話になるけど、どうやら怒りで捨てたというより米軍絡みの仕事を取るには米国籍が必要だからといった選択かららしい。そのあたり合理的。でもって気持ちは日本人という答えはうん、日本人には受けるだろうなあ浪花節であり同時に合理性も尊ぶ人間と見て。

 それはそれとしてカリフォルニア大学サンタバーバラ校へと移って15年近くになる中村さんが、これまでの間にいったいどれだけの仕事をしたのか、ってあたりを誰も報じてくれないのが気になって仕方がない。裁判にまでなった404特許というか青色LEDに関する特許を取得したのは20年も昔の話で、それをひっさげ鳴り物入りで海外へと移籍した中村さんだけれど、それだけでいつまでも食っていけるほど研究の世界はあまくはない。ましてや海外の大学は成果が出なければすぐに追い出される中で、15年近くにわたってしっかりとそのポジションに居続けているあたり、何かちゃんとした業績を上げているってことなんだろう、水から水素を取り出しやすくするとか、より効率的な青色レーザーを生み出す技術の開発とか。決して一発屋ではなかった中村さん。それに比べて分からないのが天野浩さん。弟子で助手なんだけれど具体的に何をして、今何をしているのか。そんな辺りを指摘してくれる記事が読みたいなあ。それがあればこれからの20年で、何が生まれてくるのか分かりそうなものだし。

 なんてこったと嘆息しつつ悲しみつつ、その悼む家弓家正さん。所属事務所によれば9月30日に亡くなられていたそうで、すでに葬儀も終わってしまった今となっては最後の仕事が何だったのか、「世界ふしぎ発見」のナレーションがどうなってしまうのかが知りたくて仕方がないけれど、でもやっぱり振り返るのはその業績。真っ先に出てくるのは「未来少年コナン」のレプカでその悪辣さそのふてぶてしさを体言するような声でもってコナンを相手に振る舞う悪党を演じて見せてくれた。でもどこかに小物感も漂うのが家弓さんの美麗で美味すぎる声の演技。「風の谷のナウシカ」に出てくるクロトワも、クシャナの補佐でぶいぶい言わせている割にはどこかショボい雰囲気も漂わせていて、それが家弓さんの声によく合っていた。

 「ルパン三世 カリオストロの城」でもしも家弓さんが石田太郎さんではなしにカリオストロ伯爵を演じていたら、ああいった重厚さを出せたかどうか、今になって思うとこではあるけれど、役にはまった声を出すのがプロってことならきっと存分に演じてくれたことだろう。その筆頭が押井守監督による映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」の人形使いで、女性のボディへと追い込まれながらもそこから出てくる家弓さんの淡々として抑揚がないけれど、でも何かを含んでいるような理知的な声は悪党とはまるで違った謎めいた存在としての雰囲気をしっかり醸し出していた。後に2・0で榊原良子さんが人形使いの声を当てるけれど、それはなるほどピッタリではあってもそれ以上の奥深さってものを感じさせなかった。榊原さんが悪いんじゃなく家弓さんが凄すぎた。そんな偉大な声優さんがまた1人。悲しいなあ。でも仕方がない。僕たちは存分に楽しませてもらった。あとはその素晴らしさを僕たちが伝えていく番だ。ありがとう。そしてさようなら。

 大統領の身の下話を憶測で書いたからといって、外国の新聞社の支局長が事情を聞かれて在宅ながらも基礎されたという話を、標準的にとらえるならば権力を相手にその動勢を探って指摘した記事に対して、名誉毀損などを問うのは言論の自由に対する挑戦であって、決してあってはいけないことだと言える一方で、当初に主張していた他の媒体に出ていいた話を翻訳しただけだといった弁明が否定されて、どうも出所の怪しいというか出所があるのかすら疑われる風聞を引っぱってきては、誰もそうは言ってなかった身の下の話として書いて、大統領である以前に1人の人間であり女性である人物を、愚弄し貶めた言説に対して何か対処をしなければ、言論の自由を言い訳にしてどんな悪辣な言説が蔓延るか分からないといった可能性もあるだけに、いろいろと判断が難しい。ともあれ起訴されたんら次は裁判。そこでどれだけ正当な事由を説明できるのか、それによって相手がいかに無茶かを証明して欲しいもの。できるものなら。できるかな。


【10月7日】 台風一過のさわやかな風吹く中を、幕張メッセへと出向いて「CEATEC JAPAN2014」を見物。昨日に内覧会があったんだけれど台風の影響で記者発表とか中止になって見られるものも見られなかったからなのか、初日となった今日もそれなりにメディアが来ていてプレスルームとか賑わっていた。日程が進んで行くに連れて人がいなくなっていくのがCEATECのプレスルームで、最終日とか数人しかおらず使い放題になるんだけれど、今回はその日まで行くかどうかっていうと、そこまでして何度も見たいものがないってのがないんだよなあ、しょぼいというか地味というか。

 昔だったらそれこそハイビジョンがどうとかあって、HDDレコーダーがあったりして、次世代ディスプレーの覇権を競ったりオーディオの次代を探ったりするような展示があって、見て凄いと昂奮もしたんだけれど、今年は4Kが8Kといったものでなるほど見れば高精細ですっげえ臨場感だと思わされるけれど、それがすぐに我が家に入ってくるものではなく、この身の延長にあるものとして情を寄せることがあまりできない。かといって裸眼3Dもゲームの3DSですら楽しみ方が今ひとつ分からないのに、ちょっぴり目に鍛錬を与えるような裸眼3Dが、いったいどこまで家庭に入ってくるのか、って考えると同様に情を添えられない。

 手術の現場とかでは立体であることの意義もあるようで、業務用として発達はしていくけれど民生用としては果たしてどこまでの普及を見せるのか。等身大くらいに立体視のキャラを再現できるディスプレーもあったけど、体をちょっとふると映像もちょっとふれるくらいでは、面白がれても感動には辿り着かない。つまりは驚きが足りないのが今回のCEATECであり、かといって物欲も涌かないのが今回のCEATECでもあるといった感じ。いや驚きって意味では前にニコニコ超会議2012で披露されていた「スケルトニクス」が、会社も立ち上がって第5世代へとバージョンアップされて登場していて、見た人乗った人に驚きと感動を与えてたけれど。

 でもスケルトニクスってエレクトロニクスとは無縁の工学製品な訳で、それがCEATECで受けるのはやっぱりちょっと違う。ここに最新のIT技術や電子技術が乗って次世代のスケルトニクスが生まれる、その接点となるなら出展に意味はあったのかもしれない。果たして企業の人たちは見て何を思ったか。学生出身ベンチャーの遊びだと思ったか。でも新しい物って小馬鹿にされ見向きもされない中から生まれて来る。大企業が鳴り物入りで送り出した集団ダンスロボットが、動かず1つ消え2つ消えたりしているデモンストレーションを横目で見て、ベンチャー企業が驚きと感動を与えている様に触れることで次に繋がる何かを思いつくかも。そんなCEATECになれば今回のこのショボさも報われるってものだけれど、果たして。

 いつか取るとは思っていたけど、こんなタイミングとは思わなかったノーベル物理学賞の赤崎勇さん天野浩さん中村修二さんのそろっての受賞。いわゆる青色LEDの発明であり、その量産化であり青色レーザー実用化への道をつけた功績ってことで、それがいったいどれだけの便利さをこの世の中で発揮しているか、体感している訳ではないけれども、ブルーレイディスクのようなメディアが実用化されたのは青色レーザーが実用化されたお陰だし、ライブ会場のビューイングとか街頭ビジョンとが巨大な上にくっきりと見える状態で実現しているのも、やっぱり青色LEDのお陰ってことで、結構な恩恵をもしかしたら僕たちは受けているのかもしれない。白く見えるLEDだって光の三原色がそろって成し遂げられた訳で、これの方がむしろ凄いことだったのかな、電球から蛍光灯を経て次の灯りを生み出した訳だから。

 それはそれとしてやっぱり色々言われるのは中村修二さんを巡るさまざまで、ノーベル賞物と当時から言われた発明をしながら、果たしてどれだけの報いがあったかって問題で会社と揉めて訴訟にまで発展した挙げ句に、中村さんは国を出てカリフォルニア大学サンタバーバラ校へと移ってしまった。市民権も取れたようで国籍も変えてしまったのか、紹介ではアメリカ人となっていた。中村さんにそこまで思わせ、決断させてしまった日本という国、そして日本の会社組織ってものが抱える難しさが、改めていろいろ問い直されてくるだろう。何しろ会社はその発明はたいして収益になってないとか言って、中村さんのプライドをずたずたにするような所業に出てしまったくらいだから。そこまで揉めに揉めてしまった理由がちょっと分からないけれど、でもやっぱり双方に含むところが多かったんだろう。

 折しも企業が社員の発明を会社のものとして社員に真っ当な対価を払う必要がないようにする法律めいたものが議論され、策定されるかもしれないって噂されている状況で、たとえ会社のサポートはあったとしても、それを超える社員の本気の取り組みとそして何より才能が、とてつもない発明を呼んで会社に収益をもたらした時にはやっぱりそれなりの報償をもらうべき、そうでなかったから中村さんは出てしまった、勿体ない話だってことになって、やっぱり企業は人なり、その才能を伸ばす方向で動き、貢献があればそれに存分に報いるべきだって風潮がこれを機会に生まれて来れば嬉しいんだけれど、それはそれでこれはこれだと、企業の懐を肥やすことしか安倍ちゃん政権は考えていなさそうなんだよなあ。未来はやっぱり暗いかも。

 あとは大学って場所が何十年も先を見据えて研究をできる場所で有り続けるか、ってこと。青色LEDは今ではあちらこちらに普及しているけれど、将来が果たしてあるのかってことは研究している当時はやっぱり誰も分からなかった。それを諦めないで赤崎勇さん天野浩さんは研究して、中村修二さんは実用化へと持っていった訳で、そうした未来に投資するような行動を、大学がやらなきゃどこがやるってことなんだけれど、目先の利益にとらわれ過ぎて、今すぐ何かに使えるような技術を発明しろできなければ取りつぶしだなんて風潮が濃くなっていった果て、おそらく日本からノーベル賞は出なくなってしまうだろう。未来のために今を無駄にする余裕ってのを持たせなくっちゃ。それが安倍ちゃんには出来そうにもないから悩ましい。何を言うんだろう、この受賞に際して。

 しかし凄いなあ名古屋大学は。前も益川さんに小林さんが物理学賞をとって、同年に下村さんが化学賞をとって3人が出そろったなんて時もあって、それを記念して名大の中にノーベル賞展示室なんてものまで作ってしまったけれど、今回の受賞者も今でこそ名城大にいるけど名古屋大にも籍がありそうな赤崎さんに、名古屋大教授の天野さんと2人が出た。受賞の対象も名古屋大時代の研究だったりする訳で、いったい何でこんなにノーベル賞受賞者を頻出するのか、研究されるかもしれない。野依さんも出身は違うけど名古屋大でずっと仕事をしていた人だしなあ。やっぱり土地柄が良いんだろうか、のんびりとしてあくせくしておらず成果をすぐにとか言わず自由にさせる。そんな名古屋大メソッドを各地の大学も導入したら……のんびりし過ぎて逆に益体もないものばかりが生まれるか。それもそれで楽しいけれど。

 週刊東洋経済が新聞業界に関する特集をやっていたんで買って読んでみたけどううん、身近なところの話があんまりなくって読んでもためにならなかった。そりゃあ今は朝日叩いていれば何か世の中が動いているような感じがするけど、それですぐに潰れる朝日でもないし順位が変動する感じでもない。読売が何10万部を1年で落としているけどやっぱり半減するようなことにはならず、そんな2強と老舗の毎日、経済の日経あたりがスクラム組んで業界の上位を突っ走っていくだけなんだろう。一方で地方は岩盤の如き地方紙の存在が続くという、そんな狭間で全国紙4位を自称している新聞は全都道府県のベスト3に入れず一切の存在をオミットされている。リニューアルしたネットはニュースよりコラムがトップに来るような設計でそれを読んで新なるを聞く気にはちょっとなれない。実用性の乏しいネットと存在感が希薄な紙でいったい未来は開けるのか、って考えるとううん、考えると夜寝られなくなっちゃうんで考えない、考えたくない、考えたって仕方がない。寝よう。


【10月6日】 参ったというかやれやれというか、ネットを中心にまったくいやな言論空間が出来てしまったなあと思う昨今。炎上上等で奇抜な物言いをして煽りをくれてアクセス稼いでヒャッハーと歓喜しほくそ笑むような、下品で下衆な真似をネット生まれの掲示板系でもなく新興のバイラルメディアでもない、それなりに真っ当と思われた新聞から経済誌からがネット向けのメディア上で平気でやって来る。読めば怒りは増して憤りも生まれて嫌な気持ちになるんだけれど、それを喧伝すればするだけ相手の思うつぼにはまってアクセス稼ぎに貢献しまうという罠。かといって無視したらそれはそれで気持ち悪い言説が蔓延って、それを讃える人たちでもって特殊な言論空間が生まれてしまう。どうしようもない。

 「ベビーカーは必需品とは言えない。だから、運搬を手助けしない日本男子を責めることはできない。この意見、どこか間違っているでしょうか?」ってもう最初っから間違いだらけの文章を、わざと挑発的に書いては誘っていたりするその態度の鬱陶しさ。間違っている以前に口に出してはいけない問いであって、言葉になんて出さずにぐっと飲み込み頭で考えそして結論を自答すべきなんだけれど、それをしないでへらへらと世に問いかけては期待通りの反感を集めて炎上を招いてほくそ笑んでる。それを見て他のメディアも煽り上等の文章でアクセス稼ぎに走った果て、言論空間の真っ当さは崩れて煽り上等な言論ばかりが蔓延り、それらを読んで人の心性は歪み沈んでいく。

 目先のアクセスという利益にはつながっても、目に見えない価値たる信頼性、安心性といった部分を切り売りしているその果てに、何が残るのだろうか。考えると恐ろしいけれど、そういう踏みとどまりすらアクセス数という大波の前には押し流されてしまう。もうどうしようもない。それは新聞系のネットメディアも同様というかそれ以上。どこだっけかの新聞がやってるサイトに載った記事。「国防軍反対デモ 改憲案に異議唱え20回 参加者数は赤穂浪士並み」だなんて見出しで掲載されたのは、デモを茶化したいがために張り付きルポして結局茶化して叩くというどうにも挑戦的な記事だったりする。

 権力を相手に振るう筆であるべき公器が、権力に挑む微力を相手に振るって笑って嘲っているその不気味さ。本当に気に入らない相手なら、真正面から堂々と論争を挑んで答えを引き出し、それに反論を加えれば良いのに、遠巻きにして言動だけ見聞きしてそれに難癖を付けては嗤っている。こういう塵芥のような文章が、大手を振って新聞という媒体の冠の下に掲載されては、それなりな支持も集めたりする状況を見るにつけ、もはや日本えは香港みたいな真っ当さを求めて行動し、それに大勢が参画することなんて起こり得ないとも思ったり。いつか振り返ってその振る舞いの不誠実さに気づき後悔し、改めるなり病んで沈んでいくなら世界も救われるけれど、ますます酷くなっていく言論空間。それがもたらす社会は。そして人心は。未来なんてもうないのかもしれない。

 俺TUEEEEにも程があるっていうか、人類を滅亡へと追い込もうとしている魔王を1体のみならず2体もちょちょいと始末してみせる少年が、世界から疎まれ虐げられて滅ぼされようとしても世界を恨まず人類を嘆かないでやっぱり人助けに邁進するのはやっぱり自分が誰よりも強いと分かっているからか。そこから生まれる余裕か。圧倒的に強いってことはだから大切なんだなあ。中途半端に強いのが競争を生んで潰し合いを招くんだなあ、ってことを思った海空りくさん「アルティメット・アンチヒーロー」(講談社ラノベ文庫)。火の7日間だか何かの時に悪魔が現れ世界中の国々を滅ぼし残り10カ国ほどになったところで人類から英雄が現れ悪魔を撃退、したんだけれどその強さに恐れをなしたか反逆者の汚名を着せて活動を縛り能力まで縛って町中へと放り出した。

 それでも誇る強さは半端なく、抹殺しようと送りこまれた軍隊を返り討ちにするくらいの強さを見せては半ばアンタッチャブルの存在となっていた少年を、迎え入れたのが悪魔に挑む人材を養成する学校。そこで少年はS級の魔術師を誉れが高い少女が率いるチームに入って、仲間ながらも未だ魔法の力を開花させていなかった少女の問題を解決し、そしてリーダーの少女に自信を持たせて日々の仕事に挑ませようとした矢先、前にも増して強さ邪悪さを誇る悪魔が現れ世界を滅亡の縁へと陥れる。いやだって英雄がいるから良いじゃんと思ったら、何か宗教団体が裏で画策して新たなヒーローを生み出そうとしていて、抑えの効かない前の英雄を用済みとしようとしたもののそこは強さを持っていただけあって、自分がいなけりゃ悪魔は退けられないといった立場を取り戻しては敵に挑んであっさりと退ける。強すぎだろう少年。

 けどその強さをひけらすことはないし、ピンチの人がいたら行って助けるような善人ぶりを見せていたりするのは元よりの性格なのか、強者故の余裕なのか、分からないけれども良い人だったその英雄を、それでも排除したがる陰謀が巡らされる中でいったい少年はどうなってしまうのか、って辺りが次の巻が出れば描かれることになるんだろう。世界は彼の力を欲しつつ疎んでいたりするという、政治の嫌らしさが存分に出ていて人間の醜さに辟易とさせられるけど、一方で高潔で公平な少年の振る舞いを見ていると、人間って捨てたものではないなあとも思えてくる。いったい人間ってどっちなんだろう、ってあたりで強さが余裕となり得る可能性を思い出す。そういうことなのかなあ。ちょっとでも弱くなったらやっぱり懸命に縋り付こうとしてかえって問題を大きくするのかなあ。そんなあたり、キャラをどう動かすかで作家の人の筆裁きに期待だ。


【10月5日】 死はとてもパーソナルなもので、それぞれの死を他人が感じ分かることは絶対にないのだけれど、一生懸命に歩いて登り、ようやく辿り着いた山頂で、絶景を眺めながら親しくなった人といっしょに、おにぎりを食べている時の幸せな感情が、次の瞬間に一転して恐怖へと変わり、急かれ惑いながら断たれていく時の心情を、想像すると身がすくみ、胸が詰まるのだった。とはいえいくら同情したところで、当人にとっては何の意味をなさないのが、生とは断絶されてそして不可逆な死というもので、残された者にとって出来ることは同じように幸せが断ち切られるような瞬間を、繰り返して起きないようにすることくらい。たとえ全てがなくなる訳ではなくても、限りなくゼロへと近づけられるよう、己を律し僅かづつでも他を糺して生きて行けたらとそう思う。

 西院さんが活躍しなくて、少し残念だった気もしないでもない野崎まどさん「なにかのご縁2 ゆかりくん、碧い瞳を縁を追う」(メディアワークス文庫)は西院さんお代わりに登場したフランスから来た縁結びの家系に生まれたリシュリュー君がその美形ぶりでもって学内文化系サークルのアイドルを務めつつ、ゆかりを相手に縁結び競争を挑むという展開から、いったい縁結びとは、あるいは縁切りとは何のことを言うのかが見えてくる。それは見えない糸を繋ぐといった即物的なことではなく、感情を動かし時に諦めすら促すす行為全般のこと。自分は凄いと威張る一方で実は縁があんまり見えていないリシュリュー君が、それでも前向きな明るさで人を促し動かした果て、結果として縁が結ばれていく展開を見るにつけ、ただ糸と糸をくっつけるだけのゆかりくんの不甲斐なさが浮かび上がってくる。

 ひとつの離別を経て強靱になったリシュリュー君に比べて何も変わらないゆかりくんに勝ち目はるのか、それ以上に将来は。なんてことが読めるのかな、第3巻では。っていうか野崎まどさん、正式な「第2巻」ってこれが始めてになるのか。「「映」アムリタ」から「2」へと至る一連の作品はそれぞれに独立した作品だったもののなあ、っていうか独立していたのが「2」で一挙に集約されてしまった感じ。そういう展開を好む人だけあってこの「なにかのご縁」も「2」の世界観へと集約されていくのかどうか。ちょっと考えてみたくなった。収録では漫画家を諦め実家へ帰る先輩が同じ漫研出の女性と結びついた一方で、漫画家との縁を切る展開が青春していて良かった。何かを諦めて人は何かを得るのだという、そんな教え。何にも得てない自分はどうしたら良い? 努力しろ。そうですか。

 聞いた名前だなあって記憶を掘り起こしてルービックキューブ少女が出てきた「under −異界ノスタルジア−」(電撃文庫)の人だったと気づいた瀬那和章さんのメディアワークス文庫からの新刊「夜蝶の檻」がなかなかに伝奇していて読み応えたっぷり。明治維新が起きそうになった時代に、江戸幕府は徳川慶喜がリーダーシップを握って妖魔を生み出す術を使って異形の軍隊を作り出しては、維新を目論む相手を退け、外国すらうち払いつつそれなりな開国を果たして後、妖魔が生まれないように封じてみせたもののそれでも残った妖魔たちが、日本各地を跳梁跋扈。これを退治するために退魔衆が組織され、その中に女性剣士として類い希な強さとそして人に明かせない秘密を持った桔梗も入って、全国各地を回り妖魔を斬り捨てていたという、そんなイントロダクション。

 そして、パートナーとなる楓という少女も連れて東京へと戻ろうとしていた桔梗に、ある任務が下って桔梗は旅の一座と合流し、旅を続ける途中で殿江静馬という侍と出会う。実直そうな侍だったけれど手にした刀に問題があった。妖刀。罪をもった者を100人を切れば何でも願いがかなうというその刀を持って、静馬は各地を旅していた。100人を切った先でいったい何を願うのか。それはかつて自分が犯した罪ほろぼし。けれどもそんな静馬や桔梗の前に、とてつもない力をもった軍服を着た鬼が現れる。かつて静馬の住んでいた村を襲って知り合いを皆殺しにした鬼。そして桔梗たちの組織の追っ手を惨殺して江戸幕府への復讐を画策する鬼。そんな鬼を相手に戦いを挑む静馬と桔梗の行方は。楓という少女の存在意義は。いろいろと濃い設定をコンパクトにまとめひとつの流れの中に描き出した秀作剣豪伝奇小説。桔梗の戦いはまだ続き、そして楓はそれに寄り添い続ける。果てに何が来る? 続きを追っていきたい。

 目覚めると雨がざあざあと降っていたけど、でも見たいから仕方がないと電車に乗り継ぎお台場まで行って「第10回痛Gふぇすたinお台場」を見物する。もう10回かあ、6年くらい前から通ってきたけどこれほどまでの風雨にさらされたのは始めてで、会場について歩き回るだけで靴は濡れ、服には雨が染みて下着まで濡れてくる。でもまだ歩き回っているうちはそれほど寒さは感じなかったけれど、1時間ほど経って会場を後にして、ゆりかもめに乗ったとたんに吹く空調の風に濡れた服を冷やされ体温を奪われていく感じ。這々の体で家へと帰り着いたらすっかり芯まで冷えていた。低体温症ってこうやってなっていくんだろうなあ、最初は平気とおもっていても、だんだんと冷やされそして気が付いたら手遅れに。風雨侮るべからず。

 そんな会場に帰れず居なくてはならないオーナーさんの方が大変かというと、車に入って座っていれば風雨はしのげてエンジンをかければ音楽だって聴けるというから実は極楽。ただそれでは来てくれた人たちのお世話はできないと外に出て誘ったり、周囲を回って他の痛車たちを見たり仲間たちで語らったりしてけっこうな時間、外にいたみたいだからやっぱり雨露に当たって大変だったかもしれない。まあでも今までとはちょっぴり違った貴重な時間だったかも。それでもやっぱり快晴の下で自慢の痛車を見て欲しかっただろうし、こっちも見て回りたかったなあ、コスプレの人とかも大変そうだったし。次は春かな。ニコニコ超会議とくっついちゃうのかな。

 さて種類的には「艦隊これくしょん」がやっぱり目立った今回の痛Gふぇすたinお台場。前回にお台場で開かれた時に行ったのがいつだったか覚えてないけど、その頃はまだ存在していなかっただろタイトルがこうやって生まれ賑わい痛車というメディアにも乗って広がっていく。当然の流れとはいえるけれどでも、選び選ばれるコンテンツの中で抜きんでるのは大変なことで、そんな中に強い存在感を「艦これ」は確保していたってことになる。ただのブラウザゲームと思っていたら知らず賑わうこの状況。何が分水嶺だったなろう。ちょっと気になる。あとアニメでは「ガールズ&パンツァー」がいっぱいいたような。あんこうチームに黒森峰女学園もいたけどアンツィオ高校はあったっけ、ドゥーチェの娘さんも歩いていたけど気が付かなかった。晴れていればじっくり見たんだけどなあ。

 「ラブライブ」とか「アイドルマスター」といった辺りは定番で、あとはやっぱりボーカロイド系が人気。「デート・アライブ」が何台かいたけどライトノベル系からアニメ化されて人気に火がついた? ちょっと気になった。ラノベ系はやっぱり「とある魔術の禁書目録」及び「とある科学の超電磁砲」がまとまって停まっていて長い人気の程を見せてくれた。鎌池和馬さんはいよいよ「ヘヴィーオブジェクト」がアニメーション化となったみたいで、小説的には最高に面白いけれがアニメ化で火がつけばさらに増えて「おほほ(中の人)」仕様とか「巨乳フローレイティア」仕様の痛車が街に溢れてくれると思いたいけど果たして。ヘヴィーオブジェクトに改造した痛車とか走っていたらそれはそれで驚異の世界だけれど。いや無理か、大きすぎるものなあ。

 そして五反田へと回ってゲンロンカフェで「島津戦記」の刊行を記念した新城カズマさんと海猫沢めろんさんのトークイベント。予約が5人しかいなくていったいどうなることかと思ったけれど、ふたを開ければ7人くらいは来ていてなかなかの賑わいを見せていた、主に壇上が。聞く人の少なさはやっぱり台風が近づいていたからか、新刊でありまた税抜きで2200円と高額でなおかつライトノベルではなく歴史小説ってところがファンの興味を引きづらかったのかもしれないけれど、参加してその成立過程なんかを聞くに連れてやっぱり新しい歴史の味方、そして時代の切り取り方って奴がそこにはあってこれをきっかけに歴史小説のタームが切り替わるんじゃないかとすら思わされた、大げさではなく。

 それは歴史論文の世界では普通に使われていることであっても、小説の分野で経済とか東西交流といった情勢をちゃんと鑑みマクロのレベルにまで影響として及ぼさせて描くのはなかなかないことで、それをやってみせたということがまずあって、なおかつ鄭和であったりフェリペ二世であったりスレイマンであったりといった戦国史ではあまり関係なさそうな名前をそこに取り込んで世界的な広がりを持たせたってことで戦国が世界と地続きだったことを理解させたということがあったりもする。これ以降に出る小説はなぜ島津が戦乱の世を生き延びたのか、信長がどうして天下統一の手前まで行けたのか、そして将軍家や公家や他の戦国大名たちはどんな思惑なり背景を持って動いていたのかを、単に布陣として描くだけではなく、経済であり流通であり交流といった面も含めて考えなくてはならなくなる。大変だけれどそれをやった先にこそ、司馬遼太郎を超える文学が生まれるんだけれどみんな司馬遼太郎が好きだからなあ。のぼうが村上水軍が嬉しいんだよなあ。まあ面白いけどそっちが。でも新城史観もやっぱり面白いってことで対立しながら干渉しあい高めあっていって欲しいもの。続編期待しています。それには「島津戦記」がもっと」売れなきゃいけないけど。


【10月4日】 日本橋あたりの電源が使える喫茶店で益体もない原稿を打とうかと総武線の船橋駅で電車に乗って西船橋まで行ったら、地下鉄東西線が事故で妙典までしか行ってないと分かって日本橋へと出るのを諦め、そのまま総武線に乗り直して両国まで向かい江戸東京博物館で「東京オリンピックと新幹線」展を見ることに。そして両国駅で降りると鬢漬け油の香りが漂い関取が歩いている姿が見えて、でも秋場所は先日終わったばかりだと両国国技館の方を見ると、中に人がいて前に幟も立っていて、近寄ってそうか今日が琴欧洲親方の断髪式だったんだと理解する。

 国技館の前にはチケット売り切れの張り紙もあって、未だ衰えない人気の程も伺えた琴欧洲親方、前に新宿高島屋のお中元だかお歳暮の売り出しにキャンペーンキャラクターとして登場したこともあったけれど、あれって10年くらい前だっけって調べたら2006年のことだった。それでも8年前。当時すでに大関だったからあとちょっとで横綱の位置も見えていたんだけれどもその後、ケガとかもあって浮かばず在位47場所と長く大関を務めながらも角番を経て位を下げての引退となった。もっと早くに辞める手もあったかもしれないけれど、それでも取り続けたのは立派だし、だからこそ今に至るまでの人気を保っていたんだろう。

 その人気と大関に上り詰めた実力を活かして後進の指導に当たって欲しいもの。モンゴルばかりの中で欧州からまた何人か、凄い力士が出てきたら角界もさらに賑わうだろうし。日本はいないけど、でも良いんだ強ければ、それで。そして国技館前を通り過ぎて江戸東京博物館へと入って「東京オリンピックと新幹線」展。ちょっと前まで「種田陽平×思い出のマーニー」展をやってた会場で、あの時は仕掛けの大きさと場内をぐるぐると回る導線に結構な広さを感じたけれど今回は部屋を大きく使ってもっぱら棚でもって普通に展示していて、構成的にはあっさりしている感じ。だからパッと見ようと思えば見られるけれど、鉄道とかに興味がある人がいけば新幹線を中心にした展示には、結構楽しめるものがあるんじゃなかろうか。

 誰だっけ矢田貝さんっていう新幹線について事務方として検討を重ねた人のノートとか、建設にあたっていったいどんな問題が起きるかってことを見通し調べたようなことが書いてあるらしく、そうやって前代未聞の大事業をひとつひとつ積み上げていった果てに昭和39年、今から50年も前にあの時速200キロを超えるとてつもない鉄道が誕生したんだと思うと頭が下がる。何か無計画で勢いに乗って始めたものの、途中で問題点が噴出でとん挫したり、強引にねじ伏せようとして問題が帰って大きくなる場合が今は多いものなあ、2020年の東京オリンピックだってそんな感じだし。

 1964年の東京オリンピックはそれ以前、皇紀2600年を記念して1940年に行われるはずだった幻の東京オリンピックをひとつの叩き台にしつつ、東京という場で世界に誇れるイベントをどう立ち上げどう見せどう楽しんでもらうかってことが、外連と見てくれといったものをまるで無縁に真摯にかんがえられていたって印象。例えば世界から来るアナウンサーが喋り安いようにと今なら普通のヘッドセット型マイクを開発して騒音の中で喋ってもちゃんとマイクが拾うようにしたとか。そんなことやっていたんだと驚くけれど、でも実用的。これが今なら記録が視線で確認できるようにとグーグルグラス的なものを無理に作って配って誰も使わない憂き目にあうんだ絶対に。

 あとはやっぱり国立競技場を中心とした周辺の整備計画みたいなものとか。あの巨大なスタジアムを作りつつも周辺にある絵画館とか神宮第一第二球場とか秩父宮ラグビー場とか東京体育館とかとの調和をくずさず、コンパクトな中に治められていたんだなあと、あの辺りを立体にした模型を見て思った。もしもここのザハ・ハディドの設計した巨大なスタジアムを置いたらどんな感じになるんだろう、って気になったけどそういう“未来志向”の展示がないのはあくまで1964年の五輪を紹介するイベントだったからか、それとも過去の真摯さと今の外連とを混ぜたくないって展示側の意図が働いたのか。まあそれはないか、江戸東京博物館は東京都の施設な分けだし。

 ただそれでも過去にどれだけの真摯さで新幹線が作られ、東京オリンピックが開かれたのかってことが分かる展示であることは確かかも。全体としては新幹線系の展示が充実していて、0系って呼ばれる新幹線新幹線した車両の先頭部分にある丸い蓋とか、ばったんこと背もたれを動かして向かう方向を変える椅子とかもあってああそうだ僕はこれに乗って移動してたんだって思い出す。最初に乗ったのは小学校6年生くらいに静岡へと登呂遺跡や久能山や日本平を見に連れて行ってもらった時か。奈良京都への修学旅行はバス移動だったから新幹線は乗ってないはず。2度目はいつになるのかなあ。もう覚えてないや。

 最後に0系に乗ったのがいつかも覚えてないけど、きっと乗ると今でもあの独特の社内の雰囲気って奴を思い出すんだろうなあ。2020年の東京オリンピックの時にはいったいどんな新しいテクノロジーに出会えるんだろう、って思うともはや何も生まれてこない現実に直面してやや足踏み。それだけ進みすぎているってことなんだけれど、でも常に新しい物を求めていないと済まない気になっている自分を振り返ってみてそれも寂しい話かもしれないと自覚する。新しさより豊かさを求めたいけどそれも無理っぽい状況で、外連たっぷりな無駄の塊であっても新しさに縋らざるを得ない物質文明に生きている。その先に来るものは。今一度足下、考え直したいなあ、田舎に帰って、晴耕雨読で。

 そうやって見終えて外に出ると、今度は総武線が止まっているって話も流れ込んで来たんで、江戸東京博物館の中にあるベンチに座って新城カズマさんの「島津戦記」(新潮社)をひたすらに読書。明日5日に五反田のゲンロンカフェで新城さんと海猫沢めろんさんを招いてのトークイベントが開かれる上に、来場の予約人数がたったの5人でこれは下手に会場に行ってトークを聞くだけでなく質疑応答なんて事態になって、何も聴けず何も答えられないのはちょっと拙い。せめてあらすじだけでも掴んでおかなくてはと、途中まで読んであったのを一気に読了まで持ち込んで思ったこと。こりゃ凄いわ。

 島津義久義弘歳久家久って4兄弟にスポットをあてた小説っていうから、その4人が切磋琢磨し時に対立もしながら島津を戦国の世に生き延びさせる戦いを描いた歴史スペクタクルかと思っていたらまるで違う。人物を中心に人情でもって歴史を描いて惹きつける手法とは正反対に、経済でもって世界を俯瞰し政治でもって切り分けその上に人を載せて思考させ行動させて生まれていく歴史の片隅を切り取り描きつつ世界の動勢を見せるという大技が炸裂していた。なるほどこれは確かにイベントのタイトルが「司馬遼太郎を乗り越えるには」になる訳だ。

 なるほど世界は人間だけで動くものではなく、人が生きて物が動けばそこに経済ってものがかならず生まれる。というか経済なくしては歴史は動かないっていう認識をまずもって描いてみせた歴史小説ってことになる。実際のところ経済絡めて歴史を見るのは史学科とかで論文書いてる人だったら別に普通の視点で、それがなくちゃ論文とは認めてもらえず書き直しを食らうことになる。だから英雄も名宰相もなく淡々と事実を重ね動勢を見つつ部分に人の決断を見て時代を分析することになるんだけれど、それは決して楽しい読み物にはならないところを、「島津戦記」は冒頭に宗教の対立を廃し、幻想的なビジョンを絡めて想像力を乗せて夢を見させる。だから読んでいて面白い。

 人の決断もその情実的な背景も、そりゃあ人が動かす歴史なんだから必要だけれど、経済があって世界がそれに流されている状況もちゃんと見ないと見えない物もある。そして政治という糸も。それらをしっかりと見極め縦糸横糸として使い織り上げた全体から見た南九州という絵柄。それが「島津戦記」というひとつの形になって現れたといった感じになるのかな。血気盛んな若者が突っ走って歴史が動いてヒャッハーな司馬遼太郎の史観というか文芸的な筆裁きを楽しむことは自由だし、娯楽としてそれは正しいけれどそれでもって歴史は動かないし作られないってことを知るきっかけをくれるかもしれない。

 だからといって、世界経済にこそすべてがあるんだと達観し、俯瞰し過ぎてしまうとブローデルを筆頭とするアナール学派であり、それを受け継いだウォーラースティンの世界システムになってしまう。それはそれで興味深いけどそこにエンターテインメントとしての面白さも生まれないし、人が動かす歴史の妙味って奴も見えてこない。覇権への意志って奴。それがなければアレキサンダーだって織田信長だって無意味になってしまうから。そうじゃない、人の情動でありこの場合は日本の武士たちのメンタリティをちゃんと取り入れ、生きる上での矜持って奴を見て家族の絆にも言及したあたりに司馬遼太郎よりもウォーラースティンよりも少し進んだ部分があるのかも。

 振り返ってみると織田信長も張居正もフェリペ二世もキャプテン・ドレークやエリザベス一世もだいたい同じ頃に生きて活躍していて、ちょっと前だとスレイマン一世なんかもいたりしてそれぞれに世界に覇を唱えようと戦っていたりした、そんな彼ら彼女たちが経済っていう世界システムによって否応なく繋がっていたとしたら、そしてそれが行動なり施策にも影響を与えていたとしたら、世界は他にどういう動きをした可能性があるんだろう。織田信長だ羽柴秀吉だ徳川家康だ毛利元就だ武田信玄だ上杉謙信だ島津義久だちった戦国武将たちの覇権争いですら、世界システムの動きの中で見たらどんなビジョンがそこに生まれるんだろう。そんな歴史小説の新たな可能性について気づかせてくれた1冊。ああでもそれはすでに川上稔さんが「境界線上のホライゾン」でやっているか、歴史再現という形を借りながら。ラノベやっぱりすげえ。


【10月3日】 今週に入って2度ほど噂の虎ノ門ヒルズに行く機会があったんだけれど、道路がズバンと南から来ているのが途中でぐにゃっと曲がってそこにビルがにょっきりそびえ立っている光景って、いったいどういう都市計画があったんだろうとか考えてしまう。道路も車道を広げず妙に歩道が広いまんまでそこで別に商売をする訳でもなく、中途半端に柵がならんで両脇を普通の家だか商店だかが並んでいるという、まるでハイソな高層ビルと庶民の街のようなコントラストを想定してこの建物が造られたのか、それとも何か全体の街作りへと向かう途中なのかと思わされる。

 道路については反対側に回ると虎ノ門ヒルズの下へと潜るように環状線だか何かが入っていて幹線道路としてはそっちをメインにしつつ地上はゆるやかに車を流す道として位置づけたのかもしれない。そしてゆるやかな街のランドマークとして地下を走る道路の上に虎ノ門ヒルズを建てさせそこから街作りを始めようとしているのかもしれないけれど、傍目には道路をせき止め無茶な都市計画を中途半端に推し進めようとしている風にしか見えない。六本木ヒルズが周辺を巻き込み一気に街として立ち上がったのとは大きな違い。その差を意図しているのかそれともそれぞれに別々の思惑があるのか。六本木ヒルズが最初はどこか枯れて乾いた雰囲気だったのが、10年経ってすっかり馴染んでひとつの丘になっているのを見るにつけ、虎ノ門も何かこれからちゃんと動いて大きな丘になっていく……とは思えないなあ周辺の街並みを見ると。細々としすぎているものなあ。

 そんな街だからこそ虎ノ門ヒルズの登場を機に盛り上がろうって気運もあるようで「カモ虎課長」なんてキャラクターが立ち上がっては体も悪いのを押して虎ノ門のPRに頑張っている様子。今日も今日とて愛媛県が伝統工芸品なんかを中心にすごいものがいっぱいあるよってPRをしに東京までやって来たのをとらえ、革靴を鳴らして会場までやって来ては愛媛県が売り出し中のキャラクター「みきゃん」を相手に絡んで雰囲気を盛り上げていた。ゆるキャラといって良いかは分からないけど気が抜けるキャラであることは確かなカモ虎課長。そのプロレスラーみたいな雰囲気でもって動き回るだけで場も和むというか、ほんわかした空気が醸し出される。これが同じ虎ノ門でもヒルズが誇る「トラのもん」ではゴージャス過ぎて本来のゲストの「みきゃん」がかすんでしまうから。自分を売りつつ相手を押し上げる接待上手のカモ虎課長。さすがサラリーマンの鏡。

 そんな虎ノ門ヒルズで開催中の「愛顔のえひめ『すごモノ』フェア」ってのを5日の日曜日まで開催中。行くとあの有名なみかんジュースが出る蛇口からみかんジュースを組んで飲めたりするけどいったいどうやって出しているんだろう、もしかして地下を通って愛媛から水道管を伸ばしてきたとか、それともどこでもドアとか使っているとか。ちょっと不思議。あとは今治のタオルに砥部焼きの陶磁器に菊間の瓦に宇和島の真珠にといった具合に愛媛が誇る伝統工芸なんかが揃ってる。意外だったのが真珠で、普通は三重県とか加工なら神戸が挙がるけれども国産の真珠の産地ちう意味では三重県よりも宇和島の方が有力らしくそこに神戸も伊勢も買い付けに来るって開場前に開かれたトークイベントで宇和島出身の茶道家の人が話してた。

 タオルに至ってはもはや世界の美容師さんやらスタイリストさんが使って嬉しい今治タオルとして認めているとかどうとか。おろしたてのタオルでも水につけたら何秒かで沈むくらいの吸水性の良さがないと今治タオルと認められないその品質は、肌触りの良さとなって赤ちゃんの肌着なんかとして重宝され、そして世界のタオル関係者がひれ伏すぐらいのものになっているという。凄いけど、そういう凄さが世に伝わっていないのが問題で、だから安倍総理なんかが打ち出した地域創生って政策が大いに役立つかというと愛媛県の中村時広知事は自分はそういってばかりだから中央から疎まれると笑いながらも県として、あるいは市町村としてやれることは十分にやれるから、政府はそれに口を出さないで邪魔をしないようにして欲しいというのが要望だった。

 あれこれランク付けしたり認可をしたりしてそれで国が権威を示して世に打ち出そうとするのはなるほどやってる側には気持ちいいけど、現場にはいらぬ軋轢も生んで迷惑なだけ。それなら地元が頑張ってみんなで世に打ち出していこうとするスタンスを、応援しつつ資金面でサポートなんかをして欲しいていうのが既に何年もかけて、すごい食とかをデータベース化して世にアピールし、のみならず海外にだって討って出ている愛媛県いんとっての本音だろう。サイクリングロードだって「しまなみ海道」って世界が認めるものを作り上げ、台湾のジャイアントにも認めてもらって今治にショップなんかを出してもらった。そこに国の意向も差配もない、全部が愛媛の考えと行動によって実現した。なら他の県だって出来る。それをあるいはPRという意味で世に喧伝するのが国がやれることであり、やるべきことになるんだろうなあ。無駄金を地方にばらまくくらいなら福祉なり医療なりに使って欲しいというのも知事の言。聞いて安倍総理は何を思う? 聞いちゃいないか自分がすべてのお坊ちゃんだから。

 せっかくだからと池袋に移転したエヴァンゲリオンストアを見物。整理券が出たようで持っていない人は行列を作って待機になったけれども10分ほどで入場できたんでぐるりと見物、パルコの一角で原宿に比べて狭い狭い狭すぎるって感じだけれどそれでもひととおり、品物はあるからまあ良いのか、でもってニットキャップを買ってレジへと持っていったらあと200円でオープン記念のショッパーがもらえるってんで手近に缶バッジなんかを加えて5000円オーバーにしていろいろともらう。シンジとカオルの仲むつまじい姿を描いたバッジをいったいどうしろと、って思うけれどもまあ良いか、このあと2人はセントラルドグマに降りていってはカオルの首がポンすると思うと胸も踊るというか、そういう世界観でもないけれど、絵柄的に。

もしもし日本にいらっしゃい!  たった1週間で新宿バルト9の上映が終わってしまった金子修介監督の美少女アクション映画「少女は異世界で戦った」だけれど今週は連日トークショーがあってそのたびに来場者に写真撮影をオッケーにして世に広く喧伝してもらおうというスタッフ&キャストの想いに答えるべく、ここに広く11日からの横浜ブルク、そして25日からの渋谷シネパレスでの公開を伝えて首都圏での動員拡大を期待するのだった。だってバルト9じゃ夜の9時からの1週間。これで来られる人なんていったいどれだけいたんだろう。もしもその後の興行で賑わえば再び新宿バルト9へと戻り金子修介監督が見て欲しいと臨んだ小中学生の子供たちにも見てもらえる時間帯で上映されるかもしれない。だから頑張れ各地のファン。

 そんなトークショー、今日の登壇は花井瑠美さんに加弥乃さんの美少女戦士からの2人とそして敵の戦闘員のハヤテさんに女幹部の三田真央さん。三田さんどえらい美女なんだけれど1999年ごろにセーラームーンのミュージカルで土萌ほたる演じてたらしい。見えないけどでも美少女だったなあとは想像できるのだった。戦闘シーンでは1度退場となってクランクアップしたんだけれどまた出たいと白服戦闘員に混じって戦っていたという。そんな活躍を間近に目で見よ劇場で。ハヤテさんはとにかく切れるアクションを見せてくれた。段差のあるところからくるりと横回転して降りるあたりの格好良さ。そんなアクションをいっぱいいっぱい見せてくれる映画だ。アクション監督の根本大樹さんの冴えもやっぱり間近に目で見よ劇場で。

 しかしやっぱり太っ腹。こうやって撮ってもらって宣伝しれもらえば効果があると思ってもらえるのが有り難い。今どきの現場なんてプレスですら撮影は禁止であとでオフィシャル下げ渡しとか常態化しているものなあ。写真チェックとか出して帰ってくる面倒を覚えなくてそれは良いシステムではあるんだけれど、もとより写真チェックって何なんだって気分もあるからなあ。どう写ったって顔は顔だろ、とか。思うんだけれどそういうパーソナルな部分をも気にすることもまたスターたる所以なので一概に否定できないだけあって難しい。まあそこは今のところあんまり直接関わる分野じゃないんで、どういう状況になっていくかを様子を見ていこう。とりあえず「少女は異世界で戦った」の金子修介監督及びスタッフとキャストは太っ腹。スレンダーだけど太っ腹。だから喝采。そして賞賛。もちろん映画そのものにも。また行くぞ。


【10月2日】 なんとMr..好きだったのかファレル・ウィリアムスat「Happy」。世界的なシンガーでプロデューサーな訳だけれど、その人のアルバムからの1本「It Girl」にPVが作られそれをkaikaikikiに所属するアーティストのMr.がメインとなって手掛けている。もちろん美少女尽くしのその映像は、最近の「美少女の美術史」なんかでも展示されてる巨大な絵に描かれているような美少女キャラをMr.がデザインしてそして、ファンタジスタ歌麿さんって極彩色のキッチュなビジュアルを作ることで知られているクリエーターも加わって仕上げられていて、見ればなるほどハッピーにラッキーでちょっぴりセンチメンタルな少女の夏の日ってものを描き出している。

 アニメ風だったりゲーム風だったりとさまざまに変化するその調子の中で、「YA−NE−SEN a GoGo」で知られるアニメーション作家のししやまざきさんが描けた、ししやまざきさんらしくぬるぬると動てむわむわと沸き立つロトスコープなファレル・ウィリアムスが踊っていたりと変幻自在。2Dの美少女アニメっぽさ炸裂のパートは清水空翔さんが手掛けているらしく、Mrの絵柄をしっかりとした萌え系の美少女アニメーションに仕立て上げている。日本人が見ればいかにもなビジュアルを、外国人がファレル・ウィリアムスのPVを通じて見ていったいどう思うのかがちょっと興味。クールジャパンと見るかキッチュと受け止めるか。1億2億に達すれば支持されたってことになるけどはたして。

 しかし驚いたのはMr.ってクリエーターの世界観が、ファレル・ウィリアムスに限らず世界でしっかりと受け入れられ、支持されていること。親分に当たる村上隆さんんの引きってのもあるんだろうけれど、もはやそれ以上に根強いマニアを得ているような気さえする。いろいろなオタク的な意匠を村上隆さんはとりまとめてパッケージにして世界に持っていったけれど、それは確かに世界のアートやセレブの収集心を誘ったかもしれないものの、あくまで表層をクールと感じ集めるものだった。Mr.への支持はちょっと違う。Mr.の内からあふれ出る思いをぶっちゃけたこれに、心の内に情念を滾らせたアーティストやクリエーターが惹かれている、そんな気がする。改めて凄いなあと喝采。佐賀町のギャラリーでデビューを見てから18年、貫けばいずれたどり着ける地平があり、そして飛んでいける空があると教えてくれた。頑張ろう、僕も。

 新潟県の加茂市の市長さんが子供の自転車による事故死を受けて大変に悲しい事態を繰り返さないためにも子供はあまり自転車に乗らないようにしようと呼びかけていろいろとひんしゅくを買っている。もちろん子供に亡くなって欲しくはないという思いの強さは分かるし、必要でもないならやっぱり自転車に乗るよりはバスとか使って移動した方が安全ですよと誘いかけたくなる気持ちは分かるし、子供を亡くした親にもきっと分かってもらえる部分はあるだろうけれど、問題は自転車にだけある訳ではなくって増えすぎた自動車にもあったりする。だっていくら自転車が増えたところで自動車が走ってなければ事故なんて起きないんだから、ぶつかるような。

 昔に比べて自動車が増えたからもう自転車で走るのは無理だよって市長さんは呼びかけているけれど、きっと細いだろう道をわんさか自動車が走るという、そんな状況が問題ならせめて朝夕は自動車が少なくなるよにして交通の安全性を高めるなり、市街地には自動車が入れないようにして、自転車を交通手段のメインにするなりといった施策を考えるのが、未来的で進歩的なんじゃないのあなあ、欧州ではそういう所も出ているし。危ないのは自転車ではなく自動車。でもそっちを取り締まろう少なくしようって話に向かわないところにどこか無理がある。それは出来ないっていうなら自転車に乗らないことだってできない。どっちを取るかではなくどっちも共存できるような街作り、ルール作りに取り組んで欲しいんだけれど、そういう発想はないのかなあ、あれば妙な意見は出さないか。やれやれだ。

 ううん。しばらく前にブログでもって槇文彦さんが新しい国立競技場に反対していることを批判している文章があったらしく、今になって読んでみたんだけれど何だろう、批判のための批判な感じがしてちょっと気持ちが衰える。「こ日本の建築家たちはあくまでもザハ・ハディド案のデザインが気に入らなかったのである」ってあったけれどもでも、反対している人たちは、国立霞ヶ丘競技場の跡地に建つのが大きすぎると思っていろいろ言ったんじゃないかなあと。デザインはそれはそれでスゴイと思ってたんじゃないかなと。でも実現性はどうなのってプロとして思ったんじゃないかと。

 だから「建築設計コンペ時のザハ・ハディド案は、敷地をはみ出して鉄道や高速道路をまたいでいることが批判されたが、これは後の縮小案で既に解決済である」って言われても、それで最初の先鋭的なデザインがまるで違ったどん亀みたいにされてしまって、これはザハ・ハディドのデザインじゃないんじゃんて言っていたりもする。最初の案をどこか別の湾岸に作るんだったら誰もがオッケー、そうじゃない神宮の森に相応しいデザインにしようぜって言っていたら折衷案でトンデモなものが出てきたから困っているんじゃないのかなあ。つまりは最初っからボタンの掛け違いがあったってこと。場所と、そしてデザインのバランスという。

 「大体、『新国立競技場』のザハ・ハディド案に反対している人々は同時に『反原発』『反自民』『反安倍』である」ってのは何なんだろう。そう言っちゃうとだったら自分は反・反原発であり反・反自民であり反・反安倍の立場なの? って突っ込まれそう。そんな泥試合。でもそういう物言いが今の世間、とある層には受けたりする。だからこういう意見が出てくるという。やれやれ。一方で古い国立競技場は取り壊し業者の選定なんかで未だ揉めてるみたいで工事に入れていないのかどうなのか。この前に近所の東京体育館に行ったけど派手に動いている様子もなかったし。そうやってダラダラと引き延ばされている間に間に合わなくなって遠くブラジルW杯のスタジアム問題みたいなことが起こったら世界に恥ずかしいんで、ここはスパッとスタジアムは別に作ると言っちゃえば言いのに。どこに? 名古屋とか。地方創生。ならんか。なら船橋とか。オートレース場跡地。交通不便がネックだなあ。

 野崎まどさんの「なかのご縁」のうさぎさんは縁を結んでくれる神様にも近いどーぶつで、その愛らしさでもって自治会の万能お母さん女子までをも籠絡してしまっているけど、ひらの泉水さん描く「探し物はウサギですか? いいえ、宇宙生物です」(一迅社文庫)の宇宙生物でそれも侵略者。へたに扱うとちょっと怖い。指先に鋭い爪を伸ばして迫ってくる妹の後ろには首から血を流して横たわる妹が。目の前の妹は実はニセモノで、過去に地上へと落ちてきて、以来人間の中に忍び込んで擬態し侵略してきたウサギに似た宇宙人が化けていた。迫る危機に現れたのは幼なじみの美少女で、手にした刀でウサギを撃退してそして明かす。自分は宇宙人と戦える一族の末裔であると。そんな少女を助けて少年が始めた宇宙人狩り。コミカルな会話劇の向こうにシリアスな敵とのバトルもあってスリリングな展開を楽しめる一冊。知性もあって行きたがってるウサギを割と冷徹に殺していくものなあ。それが生存競争って奴で。


【10月1日】 何というか相変わらずというか。「御嶽山の常時監視は民主党が仕分けしたって虚言をしたのは某町村長で私じゃありません、私は聞いた話を書いただけです捏造でも誤報でもありません。それはそれとして従軍慰安婦の強制連行を主張する吉田清治氏の虚言を載せた朝日新聞は誤報で捏造にまみれた酷い酷い新聞です」ってことになるんじゃないかと思った某国会議員によるツイート問題は当人がとりあえず撤回したみたいでひとまず終息。国会の場で追求されるとなるとやっぱり問題も大きくなると考え事前に撤回したようにも見えるけれど、これでちゃんと気が付き不用意に煽りをくれるような真似を謹んでくれれば、学歴から来る知性を活かすことも出来るんだけれどそれより先に持論が溢れてしまう口だからなあ。誰かチャックさせないのかなあ。さつきちゃん。

 だから食べるために捕ってるんじゃないって言ってるだろう政府は。それなのに日本人は食べるために鯨を捕っ来たんだから食べないのはおかしいとか言い出して、自民党に続いて外務省でも鯨をメニューに加えさせたりするど阿呆が偉い役職に就いているところにこの国の政治のグダグダぶりってのが伺えてやれやれだぜと脱力する。日本は調査捕鯨という名目で近海ではない場所まで出向いて鯨の命を奪うことを認められているだけで、食文化だから継続が不可欠といった理由は世界の誰も受け入れない。それを外務省だなんて世界に向けた日本の窓口となるべき役所でもって、訴えて良いのかどうなのか。自民党本部ならまだ政党という政府ではない集団の意向と捉えられたものが、外務省では国を挙げて鯨を食いまくりたいと思っていると世界に受け止められる。今度はしょぼい報道で終わらないような気もするけれど。さてもはても。

 とりあえずは凄いですねえと言っておきたい「SUGOI JAPAN」。読売新聞が何を思ったかクールなジャパンの漫画やアニメーションやライトノベルやエンターテインメント小説なんかをピックアップしては投票してもらい、世に喧伝しようとする試みを始めてその全貌がだいたい明らかになったみたいで、それぜに50作品とかをピックアップして並べた努力にまずは感嘆。この10年という制約をつけても、というかむしろこの10年だからこそ選ぶにも余る数の作品が発表されてはムーブメントにものって大勢に強烈なインパクトを残してきた。今に近づくに連れて記憶も鮮明になる中で、過去のものも含めて公平に見て選ぶという作業は誰がやっても異論が出るだろうことは確実で、文句を言われる覚悟も持って誰もがセレクトに臨んだことが類推される。それは自分の感性をも問われる話だから。

 アニメーションで言うなら宮崎駿監督の最高傑作と断言して良い「風立ちぬ」とか入ってないし高畑勲監督「かぐや姫の物語」もやっぱり姿が見えない。世界ですでに有名だから外して良いのかって話なのかそれともジブリに何か遠慮でもあったのか、分からないけどちょっと気になった。そして片渕須直監督の「マイマイ新子と千年の魔法」も入ってなくって、代わりといては何だけれど「BLACK LAGOON」が入っているのはファンとして嬉しい一方で、作品の世界的な広がりを考える上で既に有名な「BLACK LAGOON」より「マイマイ新子」を選ぶべきなんじゃないかって気も浮かんで仕方がない。同じ意味で「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」が入ってないのは残念、あれこそ日本を世界に見せる意味で重要な映画だから。

 映画あとあと「伏 鉄砲娘の捕物帖」とか入ってないしユーフォーテーブルが作ってこないだテレビ放送されて大評判になった「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」もやっぱり入っていなかったりする。それを言うなら細田守監督は「おおかみこどもの雨と雪」ではなくって「サマーウォーズ」でもなくって「時をかける少女」ってのが不思議だけれど、どれも入れたい中でどれを選ぶかってなった時にその名を世に知らしめた作品を入れるのはひとつの判断だから仕方がない。でも「ヨヨネネ」は未だ知られざる才能を世に問う作品として入って欲しかったなあ、「リトルウィッチアカデミア」は入っているのに。あと気になったのは、いちファンであってもパッケージ会社の人間が選考に携わっていることの是非。公平性は担保されているといったて、そして実際に面白い作品が多かったとはいっても当該メーカーの作品がいっぱい入っているといらぬ誤解を受けてしまう。李下に冠を正さずというか。

 だからパッケージメーカーの人にはノミネーター程度に止めて最終選考は公平性を見せても良かったと思うけれど、そこは読売新聞が力入れてやる事業なだけあって、ご近所の貧乏会社から何か言える訳でもないのでやっぱり粛々と挙げられた候補の中から業腹であっても選ぶことになるんだろうなあ。とりあえず目星をつけたのは「BLACK LAGOON」と「ノエイン もうひとりの君へ」と「コードギアス 反逆のルルーシュ」。選べるならさらに「ガールズ&パンツァー」とか「魔法少女まどか☆マギカ」を「新編 叛逆の物語」まで含めてとか思うけれども3つしか選べないのが悔しいというか残念というか。しかし何で「ちはやふる」は入ってないんだろう。漫画にも入ってないんだよこれが。何かあったか何もなかったか。ちょっと気になる。

 ライトノベルについてはまるで関わってないんでどうしてそんなセレクトになったんだって文句は言えるけれど、出てきた作品への文句は別にないんでこれもやっぱり粛々と選ぶだけ。もうSUGOIとしか言いようがない「境界線上のホライゾン」とかセラ・バラードをアニメで(実写でも)見たい「円環少女」とかC☆NOVELSファンタジアの路線に燦然と輝く「<本の姫>は謳う」とかを並べつつ他にもあれもこれもと選んでみたくなるけれど、気になったのは時雨沢恵一さんが今なお中高生に絶大なる人気を誇っている「キノの旅」ではなくって目下展開中の「男子高校生で売れっ子ライトノベル作家をしているけれど、年下のクラスメイトで声優の女の子に首を絞められている。」だったこと。刊行スタートが2003年では入れられなかったと分かるけれど、でもだからといって「首締め」になるのかなあと思うと別の誰かでも良かったんじゃないかという気もしてくる。作品本位か作家本位か曖昧。まあでも仕方がない、でないと収集付かなくなるから。とりあえず「ソードアート・オンライン」が1位になるんだろうなあと予想しつつ、頑張れ「ホライゾン」。

 おおこれは面白い。人も来ないような公園のブランコの下で首だけだしてすっぽりと穴にはまっていた七三分けのおじさんを見た高校生のきよ子は、出して欲しいのかそうでないのかいまひとつ分からないおじさんを見捨てることは出来ないと、家に帰ってショベルを持って公園に戻ろうとしたら車に跳ねられ気を失って、そして病院で目覚めたら公園で首だけ出してうまっていた七三分けのおじさんが幽霊になって現れた。どうやら死んでしまったらいし。誰にも発見されないまま低体温症か何かで命を奪われてしまったらしいけれど、その責任は雨がかからないようにと傘を掲げて帰ったきよ子にあるとシチサンなおじさんは言い、そして彼女が病院から退院して家に戻り学校に行くようになってからもつきまとうように現れる。

 でもちょっと不思議。恨んでいるようなことはいっても、取り殺すといったような脅迫はしない。そして何か別の場所が気になって仕方がない様子。そもそもブランコの下で人がひとり死んでいるのに世間ではまるでニュースになっていない。落とし穴に落ちたというシチサンの言い分にも奇妙なところばかり。本当にシチサンはいたのか、そして死んだのか、その理由は、いったい何がしたくて幽霊となって戻ってきた、等々の謎が浮かんではきよ子に迫り、それを解決しようと動き回るきよ子の前に現れた人たちから、シチサンの本当の姿が見えてくる。それは……といった感じに進むボイルドエッグズ新人賞受賞作の小嶋陽太郎さん「気障でけっこうです」(角川書店)。

 三浦しをんさんに滝本達彦さん万城目学さんを送り出したボイルドエッグズが、徳永圭さんや尾崎英子に続いて売り出そうとしている新人作家が小嶋陽太郎さん。まだ大学生らしいけれどもその描くストーリーには毎日を普通に生きている女子高生が直面した不思議がああり、一方で毎日を懸命に生きている人たちの苦労があって、その接点として幽霊がいるような感じで世間の世知辛さって奴を見せてくれる。達観しているなあ。でもってどうしようもないその状況を、それでもどうにかしたいと頑張った姿がそこにあったと思うと、気障なだけじゃあダメじゃんとも思えてくるけどそれでも精一杯に頑張った姿勢は評価したいもの。結末はちょっぴりほろ苦いけど、でもきっと良いことあったと思いたい。しかしきよ子はともかく友人のキエちゃんが不思議だなあ、あそこまでワイルドでストレートなのは普通に性格なのか、それとも神様でも乗り移っていたのか。ちょっと気になった。笑って驚けて泣けてそして楽しめる物語。月末くらいに出るのかな。評判になると良いな。シチサン誰が演じたらピッタリだろう。それもちょっと気になった。


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