縮刷版2013年9月上旬号


【9月10日】 ホライゾンだからしょうがない。午前9時の書店オープンと同時にかけつけ新刊の載った平台をチラリとみればもうそれと分かる分厚さでもって他より抜きんでた高さを誇る山から1冊、むんずと掴んでレジへと持っていって購入してからすぐに読み始めて読み進めて読み続けて読み続けて読み続けてそして読み終えるまで何時間? まあ慣れてくれば誰がいったい誰かは分かるからいちいち記憶を振り返らなくてもいいんだけれど、これが慣れない人だとやっぱりこれ誰だっけ、いつ出てたっけ、何してたっけ、どうなってるんだっけと思い出しながら読まないといけないからきっと大変。1日では読み終えられないかいもしれないなあ、という川上稔さんの「境界線上のホライゾン6<下>」(電撃文庫)がいよいよ発売。

 当方はといえば枕元に第6巻の上と中を積み上げ発売された4カ月前2カ月まえとそれぞれにそれこそ2カ月かけて毎日のよーに読んでいたから流れも完璧、展開もばっちり。たぶんこんなバトルになるんだろうなあと予想も立てて待っていたら、予想を超える展開が繰り出されて来て驚きの連続。まずはネイトママンとハッサン・フルブシのカレー対決。詳細は置くとして当然にカレーの対決になるとは想像していたけれどもまさかああいった方法になるとは! そしてそんな結末を迎えるとは! やっぱりハッサン愛されているなあカレーの神に。そして王様に。そんな合間の伊達側として参戦していた伊達成実にも幾つか対戦。教導院でも副長クラスとなると戦闘系のトップな訳で彼女に挑んで勝てるのなんてアリアダスト教導院にもそうはいないのにまさか彼が挑むとは! 必死は強い。でも勝つとは限らないけれど。

 ほかにも意外なバトルが盛りだくさん。中でもやっぱり大久保忠隣/長安の戦いぶりは流石、武蔵でも珍しい襲名者でそれも二重の襲名をしているお嬢さまだけのことはある。いくら頭は良くても切れ者でも胸はペタンコでも本多・正純にはこういう戦いぶりはちょっと無理かもしれないよなあ。相手だって決して弱い訳ではなくむしろその勢力にあって最強に近い部類に属する戦闘系というか暗殺系のトップなのに。でもどうにかこうにかしのいでしまうから流石なもの。生徒会がだから普通に代替わりしていったら生徒会長なり副会長は大久保で決まっていたかもしれない。けれども世は激動の時代、彼女が第一線に立つ機会は遂に訪れないのであった、ってまだ決まった訳じゃないけど。

 それにしても彼女とあと柳生宗矩くらいしか下級生が出てきて活躍しないのがアリアダスト教導院の不思議さ。これが羽柴だと小学6年生の蜂須賀小六がいるし真面目さ一辺倒で常に頑張って頑張って頑張り抜いて最上・義光もうならせた可児・才蔵もいるし。何歳まででも学生やってられる教導院なのに下にどんどんと才能が出てくるけど武蔵はあの世代のあのクラスに集中している。やっぱりこの日って奴を考え集め鍛えていたのかなあ。それとも誰かの差し金か。そんな興味も浮かんできたけど本当かどうかは知らない。偶然ってこともあるし。ほかには加藤・嘉明の本気の戦いとそして立ち姿が描かれていたのが収穫。なるほどこれもなかなかのボディライン。そして強さ。武蔵野ツバイフローレンといったいどっちが強いのか。いつかやっぱりぶつかり合うのか。本多・二代と福島・政則みたいに。

 そんな二代の本気モードはちょっとおあずけ。それで巻を治めてしまえるんだから武蔵勢どれだけ強いのか。待機していた滝川・一益だって真田十勇士の筧に望月に海野だって抜いて行くんだから。でもその先に待つのは関東開放という戦い。そしてきっとどうにかして成し遂げるだろう大返しによってパリ水没戦から舞い戻った羽柴本体との戦い。そこで二代と福島が戦うんだけれどイラストにされるときっと見分けがつかないかも。表紙なんて最初二代かと思ったくらい似てきたし。でも性格は正反対か。不真面目って訳ではないけれど無神経さは抜群な二代といろいろ考えてしまいがちな真面目な福島。それではまだまだ適わないかそれともどうにか互角になったのか。それも興味だけれどもまずはノリキと北条・氏直とのいよいよ繰り広げられる戦いをお楽しみあれ。拳に愛を。

 リオデジャネイロであったIOCの総会に出席していた東京の招致団も帰国したみたいで、これで喧噪の五輪報道も一段落して、あとは7年後の実施に向かって日々漏れ出てくる制度だとか予算だとかいった話題を着々とこなしつつ、起こる都市開発の問題とかも紹介しながらまずはリオデジャネイロの夏季五輪をひとつ消化し、そこでさあ次は東京だといった具合に段階段階で盛り上がりつつ、1年前あたりから再び連日の報道なんかが始まることになるんだろう。今から毎日「東京五輪ヒャッホー」って報じていったところで「そんな先のことは分からないよ」と読者だって視聴者だって興味を示さないだろうから。せいぜいが1000日前くらい? それで十分なんだと思うんだけれど何かやっているんですと訴えたい勢力にとっては、それを看板にすることで何かやってますと言う材料にしやすいからなあ、五輪って。なんか読者視聴者と乖離した報道が垂れ流されないかと心配。今のトップ選手に「東京五輪ですね」とか聞いて「あたしゃそのころ引退だよ」と返されゲショゲショとか、そんなかみ合わない話とか出て来そうで。

 7年後の開会式とかマスコットが誰になるのか、って議論もまあ同様でそんな頃にいったい誰がクリエーターとしてトップクラスにいるのかちょっと想像が付かない。村上隆さんの名前がネガティブな方面から挙がってたりするけれど、果たして7年後にもトップでいられるのか……いそうだなあ、7年前からずっとトップを走り続けている訳だし。次が出てこないのはメディアが新しい人を発掘して紹介して称揚しようとしてないってこともあるけれど、それでも見渡して対抗馬になりそうなのが奈良祥美さんくらいとなると流石にね、2人はだいたい同じ年齢で経歴な訳で。あとはsuikaのペンギンとかデザインした人か、サンリオでハローキティを手がけているあの御大か。いや御大だって初代から見ている訳ではなくってディレクションして来た過程で自分の色を加えていった人だから、オリジナルで何か生み出すってことをする人ではないし。漫画方面の才能を読んで萌えキャラを作るのか、ゆるキャラ方面から拾ってくるか。いずれにしたってまだ先か、いやでもリオ五輪の頃には決まっているものか、ってことは3年後には決定? やっぱり村上さんか?

 しかし村上さんの名前が挙がっては、あり得ないとかいう声がいっぱい寄せられそれにれに当人が反論していたりしたのは興味深かったというか、決まった訳でもないし叩かれるいわれもないのにそういうタイミングで真っ先に名前が挙がってしまうのはいったいどういうことなんだろうとか。やっぱり今一番目立っているアーティストだからなんだろうなあ。でも村上隆さんが本気で自分の芸術をやったらポップアート以上に批判的で批評的な物になって、とてもじゃないけど五輪の方で受け入れてもらえない可能性が大。それこそワンダーフェスティバルに飾った3メートルの爆乳美少女を20メートルの高さに伸ばして国立競技場の隅に立ててくれたりしそうだし。これがニッポンの真髄だって訴えて。でもだからこそあり得ない。そういう類のアーティストだって認識があんまり、世間にはないんだよなあ不思議なことに。

 むしろ漫画やアニメーションの意匠なりデザインなりを時に“剽窃”して美味しいところ取りとしている人って思われがち。でも、村上さんが自分の作品として取り入れる時は、そうした意匠なりデザインなりスピリッツから重要な部分を抜き出し顕在化して指摘するという思考プロセスがあって作品化という運動がある。決して昔誰かがガレージキットを素組みして単色を塗って立ててアートあと言ったのとは違う。むしろそうした活動を見てこれは違うと憤って、自分自身でフィギュアを作ろうとして始めたのがHIROPONちゃんでありKO2ちゃんな訳で、そうした経緯を知らず調べようともしないで、イメージだけでパクっているって言う人が多すぎるからああした反応が出てしまうんだろうなあ。ネットってそう思いたい人のそう思えるような情報ばかりが増幅されて広まりやすいし。いずれにしても動き始めた東京五輪。その大波が訪れるころに果たして生きていられるか。生きている場所は存在するか。明日潰れたって不思議はない社会に、世界に僕たちは生きている。


【9月9日】 やっぱりというか様々な人が来るはずじゃなかったのにどうして来たんだろうと東京五輪2020に対して複雑な所感の述べていたりして、それが名古屋の時の期待感とは逆の不安感だったものだから流されやっぱり来ないんだろうかと思っていたところに、圧倒的な票差で勝利となってどこに気持ちを持っていけば良いのか迷っている様子。来てほしくなかった、と明言できるほどの反対の気持ちはないんだけれど手放しで来て良かったとは言えない複雑さを、何かにそらそうと例えば施設の問題なんかを挙げてほらやっぱり日本はこんなに五輪を開催するのに相応しくない国ですよ、だから僕等も来るとは思ってなかったんですよといった感じに、自分を正当化しようとしているんだろうなあ、まあそれはぼく自身も含めてだけど。

 だから最初、某おだじまん氏のコラムを読んで「立地の良さといい、交通の便の豊富さといい、歴史的な経緯といい、国立競技場ほどナショナルサッカースタジアムとしてふさわしい場所はない。ところが、現実に採用された五輪仕様の改築プランは、陸上トラック付きの巨大スタジアムだ。私のようなサッカーファンに言わせれば、お国は、千数百億ものカネをかけて、東京のど真ん中に廃墟を作ろうとしているということになる」という発言に、そうだそうだと賛意を示したくなったんだけれど、よくよく調べてみるとザハ・ハディドの設計した新しい国立競技場って、席が可動式になっていてトラックがある時は引っ込み、サッカーとかラグビーの時はせり出してピッチを囲むようになっていた。試合を見やすい傾斜が保てるかどうかまでは分からないけれど、臨場感だけは出せそうな気がする。きっとそういう可動式ではオールド・トラッフォードにはならないって言い募るんだろうけれど。そんなスタジアムは日本のサッカー専用競技場にだってないのにね。

 どうやら新しい国立競技場、そもそもが応募の条件が「臨場感のある観客席はもちろんのこと、スポーツだけでなく文化的利用も行う重層的なプログラムを実現するために、可動式屋根や可変的な観客席をサポートする最高レベルの技術が求められます」ってことになっていて、それから工期も含めて「2019年ラグビー・ワールドカップ開催に間に合わせる必要があります」ってことになっていた。サッカーやラグビーといった競技から、あとはライブのようなイベントも含めて臨場感を出せるような設計を、って相当な難易度だけれど誰も彼もそれをどうにかやりとげようとした様子。そして注文を出した側もそうしたスタジアムでなければ言われるように“廃墟”になってしまうと知っていたんだろう。

 だからきっと臨場感については設計上では大丈夫だと思うんだけれど、問題は予算とか工期の関係で「可動式やーめた」ってならないかってこと。日本って国はそういうことが割とあったりあするからなあ、とりあえず試合が見られりゃいいんだろうって感じに。偉い人には違いが分からんのですよって感じで。あとはフルに入れて8万人とか入るスタジアムが五輪の開会式とか陸上競技とか以外に果たして万人になるのか、ってこと。サッカーだって最近は代表の試合が即座にソールドアウトになるってことがないからなあ、どうでも良いカップ戦とか練習試合に8万人も来るとは思えない。そしてラグビー。ワールドカップでもワラビーズとオールブラックスの対戦だったらまだしも他の国でいったいどれだけの観客が集まるか。

 日本で1番入るだろう早稲田大学と明治大学の試合がまるで学生の球転がしに見えるような凄まじくパワフルでスピーディーな試合を、出場して来る国ならどこだってやってのけるはずなのに、それが観客動員には結び付かないのがこの国。学校に紐付けされていないラグビーファンってのがいったいどれだけいるんだろうって考えると益々不安になってくる。こうなると日本ラグビー協会も五輪ブームに便乗するとか新しい競技場だよさあ見に来てご覧と誘うとかする前に、学校名に頼らないラグビーそのものの面白さを感じて貰うような宣伝をしないと本当に拙いことになるぞ。「週刊少年ジャンプ」で高校1年生が類い希な威素質を発揮しトップリーグに入って縦横無尽に活躍し、そして日本代表に呼ばれて世界相手に走りまくるとかする漫画を連載し、それをアニメにして放送してラグビー人気を盛り上げるとか……しないか、というかできないか、10週持たずに打ちきりになりそうで。ラグビーファンを育てるラグビー漫画のファンをまずは育てるにはラグビー人気を盛り上げるそのためにラグビーファンを育てるためのラグビー漫画を……堂々巡りだ。

 五輪報道の大波にまぎれてすっかり指摘するのを忘れていた「ガッチャマンクラウズ」は爾乃美家累くんの素っ裸が素っ裸が素っ裸が。それも背中側からだから前に着いてたりいなかったりするかが分からず想像の中ではいろいろな物が見えたりして楽しかった。ああいうところが巧いよなあ、現実をつきつけないで妄想力の中で人を引きつけ縛り付ける。そりゃあ過去に1度真っ平らなのを見せてはいるけれど、単に胸が不自由な人だったかもしれないじゃないか、って言い訳できるものなあ、生えているかどうかさえ見せなければ。見せればそこで番組終わりだけれど。ただ相当に無力感を味わっている塁くんをいったいガッチャマンたちはどうやって立ち直らせるのか、そして立ち直った塁くんは戦力となってベルクカッツェに立ち向かっていけるのか。快復から再挑戦となるかやっぱりヒーローは最初からヒーローってことになるのか。分水嶺となりそうな今週来週。目が離せない。

 イッセーってあれで結構朴念仁なのかもなあ、リアス・グレモリーのことを尊敬してます敬愛してます下僕として突いていきますとは言っても愛しています大好きですとは言わないその線の引きっぷり。1番近いと周囲から思われていてもリアス自身は自分が1番遠い場所にいると思ってどこか悲しげな表情を見せていたのにイッセーが気がついた様子はない。でも仕方がないよリアスは魔王の妹で大悪魔、でもってイッセーは眷属でそれも下っ端のポーン。どう考えたって釣り合わないけどそれを釣り合って欲しいとリアスは希う。適うとしたら赤龍帝の目覚めか。それだと世界も滅びるか。何かよからぬ勢力も蠢き初めて事態はグッと進展しそう。男の娘もどうにかこうにか周辺に馴染んで来たみたいだけれど、その本領が発揮される時は来るのか。こちらも目が離せない。話す気はないけど。いろいろと見えまくっているアニメな訳だし。エンディングのダンスするキャラたちの動きが相変わらず素晴らしいなあ。

 神戸らんぷ亭でご飯の上に牛丼の具とハンバーグと目玉焼きがのっかった子供だったら大喜びしそうな丼を子供だからもりもり食べてそして「風立ちぬ」の3回目。やっぱり最高傑作だった。今さら書くこともないけれどもだいたいの流れを知った上で見てもまるで飽きない面白さ。そして場面場面でぐっと引きつけられる表情とか演技とか。隅々にまで監督の感性が息づいたこのフィルムを最後に身を退きたいと言われてそりゃダメだなんてとてもじゃないけど言えはしない。どうもありがとう御座いましたと頭を垂れるだけ。あるいは最後のセリフが「生きて」ではなく「来て」だった時に受ける余韻を味わうためにアフレコをやり直したバージョンを作って欲しい気もするけれど、決定的に代わると思うと同時に感動という余韻は変わらないかもと思うとやっぱりどっちでも言いような気がして来た。そういう意味では「風が吹いたら」の渋谷洋一さんの鈴木敏夫プロデューサーに逆らうような「違わない何も違わない」という弁は正解なのかも。だてに半世紀も(それほどでもない)インタビュアーはやってないよなあ。また行こう。


【9月8日】 そして目覚めたら延々と投票をやっていて、1回目でどうにか切られず済んだ東京の代わりにスペインのマドリードがトルコのイスタンブールと票が並んでこれは拙いと決戦をやったところでマドリードがダウン。こうなると東京とイスタンブールでいったいどっちに傾くのか、世界でも屈指の古都で欧州では最大規模を誇る都市であり東洋と西洋を結ぶ架け橋のような場所でオリンピックが開催される意義はとてつもなく大きい。ただ最近は反政府デモが起こったりシリア情勢の悪化でとばっちりを受けそうだったりと内外に不安定要素もあってそれが7年後にどこまで解消されているのかってのが問題になっているといった声もあった。

 東京は東京で福島第一原子力発電所の事故が尾を引いてその処理が進まず漏れ出た汚染水が世界の環境を悪化させているんじゃないかといった指弾もあって立場は弱い。そこをわざわざ出むいていった安倍総理がちゃんとどうにかすると言ったことが奏功した様子で決選投票となった結果は東京が圧勝。放射線の問題さえオミットされれば安全で安心でちゃんと設備も開催までも間に合うだろう東京に気持ちが傾いたってことがあるのかもしれない。という訳でオリンピックが東京にやってくる。世界の最高峰が東京に集まる。こんなにスポーツ好きとしては素晴らしいことはないんだろうけど、そのとばっちりを都民が受けて不便を被り負担も増しては本末転倒、なのでその辺りをじゅうじゅうコントロールしつつ開催を進めていってくださいな。千葉県民にはまるで関係のない話だったりするけれど。

 ところでやっぱり気になるのが開会式とか閉会式を誰がいったい演出したり誰がいったい歌ったりするのか、ってところで前の冬季五輪長野大会の時には浅利慶太さんが和の心をバリバリに見せる演出をやってそれはそれで荘厳で良かったんだけれど一般的には相撲取りが寒空の中を裸で出てきて四股を踏んだり諏訪大社にならんって御柱を立てたり伊藤みどりさんが着物姿に化粧も濃くして聖火を点灯したりする姿を世界がどうみたんだろう、っていった話があちらこちらから上がったっけ。とはいえ当時は劇団四季もバリバリやってて浅利さんは日本を代表する演出家だった。さすがに2020年ともなると手がけるのは無理だろうってことでその代わりとなる人材をぐるりと見渡してもいないんだよなあ、これがまた。

 演劇だったら三谷幸喜さんなんて名前もありそうだけれど喜劇の人ででっかい舞台を手がけたことはあんまりないし、野田英樹さんでも蜷川幸夫さんでもミュージカルで鍛えられた浅利さんのような絢爛さはちょっと出せそうもない。いっそだったら引退を発表した宮崎駿監督に総合演出を頼んでスタジオジブリのキャラクターが総出で選手たちを歓迎する、なんてことになったら海外の人にも受け入れられそうだけれど当人が引き受けてくれるかがやっぱり最大の難所。ましてや新しい映像作品をと言われてとてもじゃないけど受けてくれるとは思えない。そりゃあ御大が出馬して体操着姿でランドセルを背負った幼女が空中を跳ねる映像を本家本元ならであのクオリティで作って欲しい気持ちはある。でもそれはやっぱり五輪の開会式ではかけられそうもない。

 今この瞬間なら秋元康さんなんて名前がぐわっと挙がりそうだけれどさすがにねえ、2020年にAKB48が健在かどうかなんてちょっと想像が付かないし、そうした集団で歌い踊ること意外の歴史や文化を披瀝するようなストーリーを考え形にするなんてことはできそうもない。それがやってやれそうなのはやっぱり宮崎駿さんかあ、「もののけ姫」って映画でまさにそういう日本の歴史の再確認をやってのけた訳だし。誰かが直々にお願いをして引き受けてもらうしかないなあ。でも誰が? 総理大臣じゃあ鼻であしらわれそうだしなあ。詔勅だってその反骨が拒絶しそう。やっぱり子供たちか、1000にの可愛い子供たちがお願い宮崎監督と毎日毎朝挨拶に行けばあるいは気持ちを傾けてくれるかも。やって欲しいなあトトロが練り歩き巨神兵が佇みメーヴェが空中を舞う開会式を。

 「キャプテンハーロック/SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK」を見た。まずは2Dを。だって暗いっていうし、それで3Dだとさらに暗くなりそうなんで。でもって印象はこれはこれで面白いんじゃないかと。そりゃあハーロックは莫迦だしアルカディア号に乗り込むヤマも優柔不断の莫迦だしその兄のイソラってのも信念はあって仕事もできるけれど女に対してはやっぱり莫迦。どこか動機なり情動なりってところに違和感があってもうちょっと頭つかって動いてれば何も起こらなかったし事態もここまで悪化しなかったし誰も死ななかったかもしれないし地球は青かったかもしれない。でも人間ってのは真面目なほどに莫迦をやってしまうものでそういった真っ直ぐさが生んだ悲劇を後悔に変えて抱え込んでる奴らの悶々が、それでもいつか晴らされる時が来るんだと信じて歩き続ける大切さって奴を教わったような気はする。でもやっぱり莫迦だよなあ、とくにハーロック。だから誰もが映画にこれ違うって思うのかも。いったい何のために生きて戦っているんだこいつ的な。

 そんな不思議人間たちの出し入れから醸し出されるあっちいってドタンバタンこっちいってドタンバタンな紆余曲折ぶり感が時としてストーリーへの没入を妨げぼんわりとした気分にさせるかもしれないけれど、一方でビジュアルに関してはかの映画「ファイナルファンタジー」の時代から表情については当時もそれなりに凄かったとは言えるけれどもさらにフェイシャルキャプチャとかも導入して役者の演技がまんまそれなりに反映されるようになり、そしてモーションについても役者の動きを取り入れそれを映像化した時に違和感がないように処理する技術も発達して、見ていてほとんど不思議と思う場所がない映像に仕上がっていた。ミーメって宇宙人の動きがぎこちないのは人類と違う存在だってことなんだなあとも思った。

 そうなるとこの映画を映像的な意味で“成功”へと導いたのはキャラクターたちをそれぞれに演じて動きを採らせ表情を採らせた役者さんたちでもある訳なんだけれどもパンフレットにそうした役者の演技ぶりはちょい掲載され、それをどう技術的に処理したかは書かれてあっても、誰がどう演技してどれだけ苦労しつつそれでも良い物になったって話はまるで書かれてない。大きく割かれているのは主演やメインのキャラを演じた声優さんたちでそれも役者から来てる小栗旬さん三浦春馬さん古田新太さん蒼井優さんにはコメントをもらっていても本職の声優の森川智之さん沢城みゆきさん坂本真綾さんは経歴と写真だけ。なんだこの差別はって思ってしまう。役者が演じれば良いかどうかってより役者が声を演じた方が広いバリューがあるよっていった態度で臨まれると本当に作り手として最高のものを目指したのか、それとも違うバリューをそこに入れてより広く届く方を選んだのかが気になってくる。

 いずれにしたって体当たりの演技をして動きを見せて表情も見せたモーションピクチャーのパフォーマーさんたちには何が大変で何が面白いのかを是非に聴いてみたいもの。いずれこういう手法がより広がっていった時に、体をつかって表現する人の重要性って奴を高めておかないと結果として良い物にならないから。しかしイソラって役を劇団スタジオライフの曽世海司さんが演じていたとはなあ。大ベテランで萩尾望都さん原作の「11人いる」「続11人いる 東の地平、西の永遠」ではマヤ王バセスカとか演じてたっけ。そうだと思ってみるとイソラの佇まいにも曽世さんの雰囲気が見えるかも。

 そんな感じで「アップルシード」の頃からずっと続けてきたモーションキャプチャーに新たに加わったフェイシャルキャプチャーの技術は作品を重ねるごとに上がり作り方のノウハウも溜まった結果が今回の見て違和感のないキャラクターたちの演技であり表情。これは一朝一夕では積み上がらないものだけに荒牧さんにはこれからもどんどんと作っていってもらいたいもの。「アップルシード」とか「エクスマキナ」みたいにキャラに寄せるよりはこうやってフォトリアルでなおかつ不気味の谷間を意識させないキャラを作って何かやる。その何かがうまくハマれば日本からだって世界に負けないフル3DCGのアニメーションが生まれてくるだろうし、「ハーロック」は既にそうなっていると思う。ハーロックが莫迦過ぎることは別にして。

 メカはどれもこれも格好良かったなあ、流石は「クローンウォーズ」で確かドゥークー将軍を作り出した竹内敦士さんだけのことはあってアルカディア号はより凶悪になり他のメカも独自性の中に重厚感を持たせてしっかりとあの世界に馴染ませてある。そしてSF的な武器なりの設定。星をぶち壊したり宇宙を歪めたりするようなすごい道具や兵器なんかを出してあって見ていてこりゃすげえって思えてきた。あのスケール感だからこその大技。でもどれもこれも外れるんだけれど。ってなもんで適当に思うところだけ綴っていった「キャプテンハーロック/SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK」。見て損はなくケイの裸とか必要ないのに拝めたりしていろいろと嬉しい作品。細かいことより技術の確かさとあとはクライマックスからエンディングへと至る“継承”の物語を味わうことで僕等にも自由を愛し自由に向かい自由を広げていくことが出来そうな気がしてくる。まずはだから見ておこう。そして考えよう。誰が1番莫迦だったのかを。


【9月7日】 笑えば良いのか怒れば良いのか。大阪で府知事とかいう偉い人が自分の所属する勢力に対抗する堺市長を牽制するかのように、堺市にある大仙陵古墳こと仁徳天皇陵を電飾で飾ろうぜなんて言い出して各方面から浴びせられる罵倒に嘲笑。世界遺産という栄えある舞台へとステップアップしたいとう目的を持ってなお、世界遺産の真髄ともいえる現状の維持とその継続といったものと、まるで正反対の電飾ピカピカを言い出す間抜けも間抜けなら、たとえ世界遺産でなくても天皇陵というとてつもなく神聖さの漂う場を、己の立場のアピールのためだけに派手に飾ろうとか言い出す独善ぶりもやっぱり阿呆。けどそのことに当人が気づいている節がないところに、大阪という地域の一体どこに向かっているのか分からない迷走ぶりが浮かび上がる。

 なるほど世界遺産でもエジプトのピラミッドなんかは夜にライトアップされてとても綺麗だし、上を熱気球が行き交って上空からその勇姿を眺められるような“観光地化”がされている。でもそういう動きは世界遺産って制度が出来るはるか前からのものだし、今のエジプトにピラミッドを造った王朝は残っていないから誰かが祭っているということもない。中国の皇帝の陵墓もそれと同じ。掘って眺めて遊んでたりしても皇帝の方から文句が出ることはない。過去の遺産。まさしく遺産として世界が認め愛してその継続を願っている存在になっている。翻って日本の御陵は未だ続く天皇による王権の下で祭られている存在で、つまるところ現役バリバリのお墓な訳で、それを観光地にして電飾でピカピカにしたいというそんな主張を、この国が受け入れられるはずがない。

 もちろん神聖にして犯すべからざるものとして祭り上げ、学術調査すら認めない宮内庁の方針が正しいかどうかという問題はある。それを天皇家が望んでいるかそれとも拒否しているかどうかは一般では確かめようがないし、当の天皇家だってはっきりとしたことは言わないだろう。それが象徴となってしまった天皇家の立場だから。ただそうしたお気持ちに仮に歴史を正確なものとしたい意識があったところで、宮内庁が忖度して認めるとは思えないところが問題であって、それを解きほぐす方法をまずは考えていくべきなのに、一足飛びに電飾ピカピカじゃあ誰も受け入れられないだろう。段取りってものがあるんだから世の中には。

 あるいは単なるライトアップと言いたかったのかもしれないけれど、それだって近所の意見が必要。あとライトアップされたってピラミッドほどくっきり浮かぶものではないし。そんな具合に突っ込めば、いくらだって突っ込める施策を堂々と披瀝しては失笑と苦笑と嘲笑を爆笑を買う人間を首長に仰いで日々を送る、大阪という地域の苦難を遠くから思うにつけ、どうしてそういうことになったんだろうという疑念が浮かんでしかたがない。だいたいが前の知事を入れて2人目な訳だし。よっぽどその前が酷かったのか。まさかここまで間抜けだとは思わなかったのか。どっちにしたって実像は見えた。見えすぎるくらいに見えた今、選ぶべき時が来たんだけれど果たして何か変わるのか。見てみたいその行方を。

 精神科医では著名で先輩の春日武彦さんとも対談してますます話題になりそうな風野春樹さんによる「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」(本の雑誌社)という評伝をあの月蝕歌劇団を率いる演出家で劇作家の高取英さんも読んでいたことが分かってなるほど、大正の浪漫と狂気が入り混じった絢爛にして惑乱の世界を劇にしたらとっても楽しいに違いないとか思ったけれどでも、月蝕歌劇団は暗黒の宝塚とも呼ばれるくらいに女性のキャストが多い劇団。そこに男子を持ってくる訳にはいかないからやっぱり島田清次郎を演じるのは女性ってことになるとしたら果たしてどんなドラマが考えられるか。やっぱり女性でありながら性別を隠し文壇にデビューし華々しく活躍しながらそれが原因で外に諍いが起こり、内に葛藤が生まれて狂気へと陥っていく展開、なんてものになったらちょっと見たいかも。もちろんマッチは擦るけどね。そういえばしばらく言ってない月蝕歌劇団。今はどんな演目なんだろう。ちょっと調べてみようっと。

 なるほど基準値を下回っている食品を妙に不安だからと輸入停止にすること自体に異論はいくらだって出てくるけれど、そうした数字では割り切れない不安って奴を果たして完璧に解消する努力をしていたのかというと、まっ先にしなくてはいけない対策をなおざりにして偉い人は地球の裏側で益体もないことを入っているし、全責任を負うべき企業は未だ抜本的な対策を打ち出せないまま、国に対策を丸投げして遁走しようとしている。おまけに未だに本当に全てが明らかにされたのかどうか、はっきりと分からない状況にあって彼の国がいささかの反発の心情を含むとはいえナーバスになっても不思議はない。少なくともそうしたくなる理由はあってその責任はこちら側にある。

 けど彼の国がおそらくは先天的に大嫌いな輩が筆を振るっているとある新聞の1面コラムは、己の側の責任をまるで無視するかのようにすべては彼の国の過剰反応でありそのことによって問題を大袈裟に世界に喧伝しようとしている、といった論調を繰り出しては、だったらこちらも彼の国のスマートフォンは買わないことにするとか言い出した。おいおいスマートフォンが何かしたのか。スマートフォンを使うと空気が汚れたり体調が悪くなったりするのか。相手が過剰反応ならこちらは無関係も甚だしい逆恨み。それも極めて低俗な。そんな子供でも最近はやらないようなイジワルを平気で1面でもって宣言するその新聞が、しばらく前にそんな1面を覆っていった広告にどこに国のポップスグループのPRを載せたのか。その掲載料でどれだけ懐が潤ったのか。スマホを買わないというのならまずは自らの収入に締める彼の国からの割合を返上すべきなんじゃないのか、なんて思ったところでそれはそれでこれはこれ、とか言うだけだろうからなあ。恥ずかしいなあ。

 はるばる来たよ神奈川県伊勢原市。たぶん小田原方面へと抜ける途中で通過したことはあるけれど、降りたのは今回が初めてでいったいどんなとこかと会場まで行ったら、中規模のちゃんとしたホールでそこで「なんだこれくしょんツアー 〜きゃりーぱみゅぱみゅの宇宙シアター〜」の初日って奴を見物する。午後の1時からスタートしたグッズ販売の行列にまずは1時間くらい並んでTシャツとか買って、並んでいる間に汗でぐしょぐしょになった前のワールドツアーの時の長袖Tシャツから着替えてそして、近所の図書館で本とか読みながら時間を潰してそして迎えた開場時間。すでにグッズは買ってあるから行列には並ばずホールへと入って9列目なんて絶好の場所に陣取る。周囲が若い女の子ばかりだったらどうしようとか心配したけど、隣は男子で周辺にも男子が多くお父さんとかもいて子供を連れていたりと実に幅広い。もちろんティーンの女の子たちも。こんな客層のアーティストなんて他にいないよなあ、ってところにその立ち位置の独特さって奴が伺える、きゃりーぱみゅぱみゅ。

 既に伊勢原どころかツアー全部が完売しているっぽくって21開場の23公演を埋めきるそのパワーはなるほど特定のファン層ではなくこうした子供から大人までっていった層に支えられているんだろー。これでいい歳をしたおじさんでも安心して見に行ける。とりあえず名古屋に市川にNHKとそして大宮を見る予定。そして来年の横浜アリーナも。体力持つかなあ。それいぜんに仕事が保つかか。もはや末期だものなあ。ツアーの内容に関してはこれから見る人も多いので今はないしょ。ミュージカル仕立てのところもあっていろいろと面白い趣向が凝らされていた。声の出演とか。聞いたらやっぱり驚くよなあ。あと内容じゃないからこれは書くけどワールドツアーがまた決まったそうで今度はシカゴにシアトルとかも行くらしい。あと欧州にアジア。韓国も入っていたけれど今度はちゃんとやってあげたい見せてあげたいファンの人たちに。あともちろん日本もだけれどやっぱりライブハウスになるのかな、それともホールで行くのかな。そんなところにも注目。ますます大きくなっていくなあ。


【9月6日】 そしていよいよ明日の深夜というか明後日の早朝に迫った2020年の夏季五輪開催地の決定は、かつて「ナゴヤ」という言葉の代わりに「ソウル」という言葉を耳にして、崩れ落ちる大勢を見ていたりする身には何というかエンターテインメントしていてとってもワクワクさせられるイベントではあるんだけれどでも、この期に及んで東京は安全東京は大丈夫福島の原発事故は東京には関係有りませんといった態度でアピールし続ける人たちの、今を損ない未来を失っていることをまるで分かっていないところが気になって仕方がない。あるいは絶望すら浮かんでやるせない。

 蓋然性から言うなら福島第一原発から漏れ出た汚染水が直ちに東京の環境に影響を与えることはないんだろうし、農作物や水産物に被害が及ぶってこともないんだろう。それくらいに海は広いし大きいし深い。ただ、問題はそうした汚染水の漏出をずっとここまで隠蔽してきた東京電力という会社が他に何かもっと重大なことを隠蔽しているんじゃないかという不安感、そしてそんな東京電力に対してまるで無力というか腫れ物に触るようにというか、遠くからやいのやいの言うだけで抜本的な対策に乗り出せない国なり政府といったものの弱腰ぶりへの諦めが、世界の日本に対する気持ちを大きく萎えさせていること。そこを分からず今は安全だと言い募ったところでまるで信用はしてもらえない。必要なのは安全だ大丈夫だからと言うことではなくて、自分たちは信用に足る存在だと訴えること、なのにそれが未だ出来てないから誰も信用しないし、その言葉も信用されない。

 だいたいが東京五輪は被災地に元気を与えるイベントになると言って招致を呼びかけていたのはいったい誰だ。それが福島第一原発の問題が出た途端に東京は関係ありませんと来た。おいおい福島は被災地ではないのか、そこを支援するために東京で五輪を開くんじゃないのか。見捨てられたような気分にさせられてきっと福島の人たちの気持ちも大きく損なわれただろう。結局のところは一時が万事で五輪を日本で開催する、その1点をのみ集中してすべての辻褄を合わせようとするから無理が出る。第一に必要なのは東北の復興、そして日本の活性化、そのために必要なことをやった上で五輪があれば猶というならやれば良い。世界も応援してくれるだろう。だけど……。結果をご覧じろ。個人的にはイスタンブールが良いんだけどなあ、009たちの秘密基地もあるし。

 そうか2003年6月の発売だから買って使い始めてもう10年は経っていた真っ赤なスケルトンカラーのG−SHOCKフロッグマンのイルカクジラモデルがベルトをとめるピンの腐食でぶっちり。ソーラーにして電池を替えなくっても永久に使えると思っていただけにちょいガッカリだったけれどもこれなら直せるとネットでカシオのサポートセンターを探して秋葉原にあると分かって近所だと持っていったらその場で数十分で治してくれた。無料。有り難いありがたい。その後もいろいろなカラーが出たけれども透明感のある赤ってのはこれくらい。クジラの尾の身バージョンだって自嘲してはいてもやっぱりその美しさは他の同型に優るとも劣らない。なんで治って良かった。今はフロッグマンも値段が上がってちょっと買えなくなってしまったからこれをずっと使っていこう。あと10年は保つよね。そうでなくたって保たせるさ。貧乏だし。

 本気だったし本気ってことが伝わった。宮崎駿監督による引退会見。テレビも随分と中継していたし、ニコニコ動画はフルで中継していてその1時間半に渡る会見のほとんどすべてを聴くことができた。それだけ聴いていると中には呆れかえるような質問もあったりするんだけれど、誰もが宮崎監督をリスペクトしていて作品のこと本人の気持ちなんかを丁寧に聞いていて、それに対して宮崎監督も鈴木敏夫プロデューサーもスタジオジブリの星野康二社長も優しく丁寧に逃げず明確に答えていたんでまるで飽きなかった。ちょっと珍しい会見かも。芸人がリポーターをやったりして自分をそこで売り込むんだって感じの自己主張を見せることもなかったし。メディアも流石にネタ化は出来ないってことか。そういう神聖化が進みすぎるのもちょい、問題かもしれないけれど。

 本気ってのはだからやっぱり自分の制作スタイルからすれば、残りが何年あったところで1本の作品を作るのにはもう足りないってことが自覚されたってことで、そこが過去に幾つもあった引退発言とは決定的に違うところ。それを分からず分かろうともしないまた作るよ宮さんはそういう人だよ作りたければ戻ってくるよとメンタルな部分から分析して書いて、記事として出して話題に乗っかる節もあったけれど、常日頃から宮崎駿監督の作り方を見ていればそういうメンタルではなくフィジカルでテクニカルな話かもしれないと分かったはず。それに触れずにどっちかなあって盛り上げ誘う記事でアクセス稼ぐってのはやっぱりちょっと苦手な手合いかなあ。それがネットって場所で言説を広めるために必然だってことは分かるけど。

 「描かないと表現できないから、眼鏡を外して延々とやっていくんだけれど、それで集中していく時間が年々減っていくことは確実なんです。『崖の上のポニョ』の時に比べると、机を離れるのが30分早くなったし、次は1時間早くなる。加齢によって発生する問題はどうしようもない。苛立ってもしょうがない」。会見で宮崎駿監督が話していた、こんな言葉が集中力という部分とそれから肉体的な部分での衰えってものを如実に現している。でも、5歳も上の高畑勲監督はまだまだ現役だし、宮崎駿監督によれば彼は「まだまだやる気」らしいんだけれど、自分がそんな高畑監督になれないとも分かっているから今回の引退になった。

 絵コンテは切るけど演出は任せたり、作画は作画監督に投げたりして自分は全体を整えるくらいに留め置く。それが杉井ギサブローさんやりんたろうさんも含めたオーバー70歳な監督のやり方なんだけれど、そこは宮崎駿監督、「違うやり方が出来るならとっくにやっていますからできません」と断言。「僕のやり方で一代を貫くしかない。長編アニメーションは無理だと判断しました」。なるほどこれは仕方がない。じゃあ短編はって質問にも「ありません」と断じていたりしたのが興味深いところで、じゃあ何をやるのかってことはまだ秘密とか。ただ1点、はっきりしていたのは「三鷹の森ジブリ美術館」の展示物を描き直すこと。12年が経って随分と色あせてしまっているものもある。それを治すことによってパッと明るくなれば「子どもたちも喜ぶんです」。そういう顔を見に来ている髭のおじいさんとかいたら楽しいんだけれど。あるいは庭の草むしりをしている。見たいなあ。そんな宮崎駿監督を。

 面白かったのは演出家ではなくアニメーターという立ち位置にこだわっていた部分。「アニメーターはなんでもないカットが描けた、風が描けた水の処理や光の射し方がうまくいったで二、三日は幸せになれる。二時間くらいという時もあるけれど。監督は最後に判決を待たなくてはならない。胃に良くない。アニメーターの時が良かったし、最後までアニメーターとしてやって来たつもり」等々。そんな宮崎駿監督から鉛筆を取り上げて何が残る? ってことなのかも。そんな宮崎駿監督も、昔は昔は割と早いスパンで作っていたこともあって「1年間隔でつくったこともあるよね」とか。「『風の谷のナウシカ』も『天空の城ラピュタ』も『となりのトトロ』も『魔女の宅急便』も、演出をやる前に手に入れていた材料が溜まっていた。出口があったらドバドバと出ていく。その後は何をやろうか探さなくてはいけなくなった」。作り始めて出口が見えていることはなくなったと最近の作品について話していたこととも重なって、試行錯誤が長くなっていることもこれでおしまいとしたい気持ちにつながったのかも。

 「『ルパン三世カリオストロの城』は4カ月半で造った。寝る時間を抑えてでも保つぎりぎりまでやると4カ月半でできたけれど、それには長編アニメーションをやるのは生涯に1回あるかないかというアニメーターの献身もあった。それを要求し続けるのは無理なんです。年もとるし所帯もできる。これは両方選んだ堀越二郎を選んだのは面当てではありません。そういう訳で時間がかかるようになった」と宮崎駿監督。長く同じ場所で続ける難しさってものが伺える。あと鈴木敏夫さんの『風が吹いたら』に書かれてあったような『ナウシカ』の現場での絞りっぷりなんかから考えると、よくジブリはあれだけ長い期間を同じ面々で動かせられたと感心してしまう。それこそが宮崎駿監督であり高畑勲監督のカリスマなんだろうけれど、それが抜けたらどうなるか。来年に予定されている1つの企画の正否、ってのが重要になって来そう。その前に高畑勲監督の「かぐや姫の物語」があるんだけれど。宮崎駿監督もまだ「見てません」。どんな作品になるんだ?

 「同時に、12時間机に向かっていても14時間向かっていても、耐えられた状態ではなくなった。けにむかっていても14時間向かっていても耐えられた状態ではなくなったんです。机に向かっていられたのは7時間が限度。机に向かって書くのは、この年齢になるとどうにもならなくなる瞬間がある」。これは最初の集中力と体力の問題の繰り返し。だから「鉛筆を置いたら帰っちゃうこともやりました。片づけて変えるとか諦めました。ここでケリを付けるとかしないで、やりっぱなしで放り出して帰るんです」。続かないことをやったら反動が出る。それなら最善のペースで仕事しようとしたんだけれど「それでも限界ギリギリ。これ以上続けるのは無理」。だから引退。なるほどとっても分かりやすい。それでもやっぱり本当? って言いそうな空気にこんな言葉。「それ以上続けるのは僕の仕事のやり方を理解できない人」。メンタルだとか自意識とかいった部分に材料を見て、今はそう言っているだけと分析したがる声がこれで封印されるかな。

 あとこれは引退というより作品作りにあたっての言葉で最高に興味深かったこと。つまりは声について。庵野さんとアルパートさんを起用したことについて宮崎駿監督。「モノクロ時代の日本の映画で、暗い電気の下で生きるのに大変な思いをしている男女が出てくる映画を見ていました。それと比べると、今の失礼ですがタレントさんんたちの喋りをを聴くと愕然とするんです。何という存在感のなさだと。庵野もアルパートも存在感だけです。乱暴だったと思うんですけど その方が映画にぴったりすると思いました。菜穂子は本当にみるみるうちに菜穂子になった」。キャピキャピとしたのが嫌いなのかどうなのか、ってのはちょっとここからはくみ取れない。

 東京スポーツのヤマカン×中村亮介監督×伊藤智彦監督の対談でも触れられていたこと。自分たちの作る絵に合うのがああいった声優さんたちの声優演技なんだとしたら宮崎駿監督のあの絵に合う声は何なんだろうってところで庵野さんはあり得るってことになっていた。自分のイメージする映像にマッチする声。それが庵野さんでありアルパートさんだったんだろう。あとは音響について。「この『風立ちぬ』の映画はドルビーだけれど周りから音は出さない ガヤガヤザワザワは2人で済みました。昔の映画はそこで喋っているところにしかマイクが向けられない。喋っても映像には出てこなかった。その方が世界は正しいんです。24チャンネル(?)だなんだであっちにも声、こっちにも声となって情報量は増えているけれど、表現のポイントはずれている」。それは音協監督の人も感じていたことらしく、そして鈴木敏夫プロデューサーにも通じた事柄らしく、だからああいうモノラルな音響になったのだと。結果として劇場でそういう音響がどうだということがまるで気にならなかった。だから本当なんだろう。他の映画でも通じることかは分からないけれど、提示されたこの問題意識がどう引き継がれていくのか、興味有るなあ。

 そして最後に。「この前ある青年が訪ねてきて、丘をカプローニが下っていくその先に何が待っているかと見ると、恐ろしいと思ったと言われました。びっくりする感想だけれど、今日のものとして受け止めてくれた現れです。そいういうところに僕たちはいるんです」。幸せだとか明るさだとか強引に未来に見たがる勢力が一方にあっても、これからを生きる若い人には不安と不満がいっぱい。それをくみ取ってこその政治であり大人なんだけれど、できそうもない上にさらに悪くしようとしているからなあ。だからこそ作らないまでも宮崎駿監督には発言はしていって欲しいんだけれど……。「熱風」で憲法9条について発言したのも鈴木敏夫プロデューサーが中日新聞に喋ってそれで狙われ刺されるかもしれないなんて話になって高畑勲監督と宮崎駿監督も喋れば3人だから的も散らばるって話から出たものだって言うくらいから、目立って何かを言うこともなさそうかな。ともあれお疲れさまでした。


【9月5日】 なんか意味不明なところから実写場ん「機動警察パトレイバー」のキャスト情報が出回り初めてどうやらまのえりこと真野恵里菜さんとそれから筧利夫さんが揃って出演することになっていて、筧さんが持ち前の明るさを発揮して現場にファイテンのネックレスなんかを差し入れてくれるんだとか。それはそれで微笑ましいことだけれどいったい筧さんが何の役をやるのかってところで浮かぶ疑問。年齢からすればやっぱり後藤隊長ってことになってあと、真野さんが泉野明で共演らしー福士誠治さんが篠原遊馬ってことになりそーなんだけれどでも、どっちかといえば寡黙で薄ぼんやりとしている後藤隊長が、いつも賑やかでトークはマシンガンのよーな筧さんとはちょっと結び付かない。あとやっぱり身長。決して高いんではないけどでも小さくはない後藤隊長を筧さんではちょっぴりセッシュウが必要になるんじゃなかろーか。

 あるいはこれは「機動警察パトレイバー」とは言いながらも中身は大きく変えてあって舞台は2020年くらいだけれどその時代は日米安保条約の更新に絡んで全共闘が機動隊と対決してから50年とゆー節目にあたって再び日本は虐げられる学生たちの反乱が起こって不穏な空気が漂うなか、普及し始めたレイバーをダッシュしたネオ全共闘が武装して国会あたりに突入しようとしていたその時、警視庁にあって機動隊レイバーチームを率いる後藤ならぬ山崎一平隊長がデモ隊と対峙。そして戦闘に立つ美しくも強靱な魂を持った泉野明ならぬ神林美智子と出会いそして互いにひかれあっていくという、そんな展開の方が配役的に相応しいよーな気がするんだけれど、どうよ。福士さんは全共闘作戦参謀部長の桂木圭一郎ってことで。これなら見たいなあ。しゃべりまくり走りまくる筧さんが見られる訳だしなあ。

 そういやあ「飛龍伝」といえばこの10月に青山劇場で今回は桐谷美令さんをヒロインの神林美智子に起用しての「「飛龍伝21 −殺戮の秋−  いつの日か、白き翼に乗りて」が開幕するってことを思い出してチケットを探したらまだ売っていた。おかしいなあ。いつもだったらすぐさま売り切れになる芝居ななけれどやぱりつかこうへいさん自身が演出して作りあげた芝居と、その薫陶を浴びるように受け同じだけの熱量を持った芝居を作れる岡村俊一さんが演出した芝居ではやっぱりバリューに差が生まれてしまうってことなんだろうか。主演が桐谷美玲さんで勇ましそうな上に北区つかこうへい劇団出身の神尾佑さんが多分山崎一平役を務めるからにはまとまりも出そうな気がするけれど、やっぱり筧利夫さんのあのパワーには及ばないのかなあ。あるいは北区つかこうへい劇団の解散公演で「飛龍伝2000」の山崎一平を演じた逸見輝羊さんの鈍くさそうだけれど熱い演技とかにも。まあとりあえず折角だから見に行こう。

 第1回目で仁木英之さんという類い希なる資質を持った新人、とは何をおっしゃる鰻どんぶりと誰もが思うくらいに「僕僕先生」を初めとした数々の作品を書いて大人気となっている人が受賞者リストに名を連ねていて誰も彼もが仰天した「キネティックのベル大賞」の第2回受賞者ってのが発表になっていて、見たら今度は木本雅彦さんというこれまた類い希なる資質を持っているだろう新人が、って言ったらやっぱり怒られそうな「星の舞台からみてる」や「人生リセットボタン」といった話題作人気作を世に出してきた人がやっぱり受賞者に名前を連ねていていったい、どうしてとりたてて世間に知られてもおらず受賞したからって江戸川乱歩賞のようには世間も取り上げてくれない新人賞に作品を出すんだろうかと考えた。気がついた。賞金500万円。これは大きい。

 いやでも確実にとれる訳でもないんだから、むしろ普通に日々の仕事をしていた方が良いように思うんだけれど、でもやっぱりそれでは人生面白くない。日頃の仕事で書いている媒体からいろいろと制約も受けているうちに、もっと自由自在に筆を振るえる場所が欲しいとライトノベルなりゲームシナリオの賞に手を伸ばしてみたってこともあるのかも。それともビジュアルアーツのゲームが真底から好きだったとか。ってことでふと気がついた。仁木さんといえば日本ファンタジーノベル大賞の出身者。それがビジュアルアーツの賞に応募している。そしてビジュアルアーツにいたシナリオの涼元悠一さんといえば日本ファンタジーノベル大賞の出身者。今は離れて作家活動もあんまりしてない彼の才能を、眠らせておくのは惜しいと500万円をぶら下げ復活を促した、なんてことはないよなあ、有るわけがない。でもせっかくの機会だし涼元さんにも復帰といってもらいたいなあ。無理かなあ。

 水中ニーソでも見に行くかと原宿に行ったらギャラリーがお休みだったんで仕方なく原宿あたりを散歩。キディランドに行くと「アマールカ」ってチェコ生まれのアニメーションでもう随分と経つんだけれど最近日本にも入ってくるよーになった作品の関連グッズに大きなコーナーが出来ていた。じわりじわりと人気が出始めている感じ。やっぱり可愛いし楚々としているしアマールカって女の子が。そういうところが女性層に受けているってことなんだろー。本当は本編の映像もいっぱいの人に見て貰いたいんだけれどNHKのEテレとかでやってくれる気配もなし。ただ吉祥寺バウスシアターで9月28日から日本公開用に編集されて音楽もつけられたバージョンが上映されるみたいなんで、それで触れてもらって更なる人気となれば善哉。出来れば見に行きたいけど何時くらいから上映なんだろ。おやすみ上映会ってタイトルだから深夜で見たら寝ちゃうとかだったらちょっと困るかな。それもアリかな。


【9月4日】 言えば逆に勘ぐられるような言葉を放って平気なところに、ひとつ狭い目的だけを見て突っ走る時に現れがちな、周囲の懸念を無視して独善に陥りがちな態度ってものが見えてやれやれ。JOC日本オリンピック委員会の会長にして五輪の東京招致委員会の理事長でもある竹田恒和さんが、目下のところだだ漏れ対策がまるで出来ていない東京電力福島第一原子力発電所の汚染水が漏れ事故について、「東京は影響を受けていない。大気と水は毎日チェックされ、安全だ」だなんてことを書いた手紙をIOC国際オリンピック委員会の委員に送っていたらしい。

 なるほど東京で開催される五輪がそうした汚染水の影響を受けていたら、そこでやるのはちょっとねって気分にもなるんだろうけれど、それは安心だと言われたところで漏れた汚染水は太平洋を漂いパシフィックリムへと拡散中。薄まり過ぎているとはいっても、それが平気で行われてしまっていることに、辟易としていた気分のところに東京は安全と言われていったいどう思うか。お前らの都合さえ良ければ世界がどうなったって良いのかって思われたら損することも甚だしいのに、そうした配慮がまるでなされていないところに現在の、日本政府とか偉い人たちの危機意識の無さって奴が伺える。

 そこを忘れて調子に乗っていると、手痛い反撃を喰らうから要注意。五輪に限らず投資とか引かれたら大変なのに、国が抜本的に何かしようってことになっていないのも辛いというか苦しいというか。予算を出したところでそれが抜本的な対策になるとは思えない。タンクを頑丈にしたところで地下水はわき出て汚染されてそして増えていく。濾過して綺麗にしようったってそれにも限度。なおかつそれは20年とかいった廃炉に関わる時間の限り続いていく。もう永久。そんな大事にあって東電の責任を国が肩代わりするようにして果たして世間は納得するか。世界は理解できるのか。無理だろうなあ。けど政府は莫迦なのか民主党が悪いと言い、そして御用新聞は菅元首相が悪かったと言い続ける。それで何かの解決につながるのか。内側を向いて慰めあってるだけ。気がついたころには新聞は世間から見放され、国は世界から見捨てられる。困ったねえ。新聞はともかく国が見捨てられるのは。

 漫画で新人で書き下ろしの単行本とは珍しいというか、それだけ期待の作家ってことになるんだろうか、最近は「電脳マヴォ」にも作品を寄せている町田洋さんの「惑星9の休日」(祥伝社)がとても素晴らしくって涙が出た。惑星9ってどこか田舎っぽいところがあるけれど、とても穏やかで暮らすには楽しそうな星を舞台にして、いろいろな人が喋ったり出会ったりしている短編を幾つか収録。その描き出される線のシンプルさと、淡々としつつ異色なところも混じってちょいギョッとさせるエピソードの繰り出し方は「二十五時のバカンス」や「虫と歌」の市川春子さん的。あるいはほのぼのとしてちょっぴりの驚きもあるって意味では坂田靖子さんにも近いかも。そういうのが好きな人はだから読んでみると良い。

 おそらく現実には絶対にあり得ないんだけれど、恒星に対して地軸が垂直な惑星では極点には日が当たらなくって、それで穴の中に街が氷付けになっていて、そこでは人間が歩きながら氷付け氷付けになっている姿も見ることができる。引っ張り出せば溶けるかも、なんて思った人もいて実行してみたらサラサラと崩れて砂になってしまったとか。だから今もかたまっている女性に恋をして、見に通う青年は引っ張り出すような真似はしないでただひたすらに穴の淵から女性を見守っていた。そんなエピソードを冒頭において惑星の不思議を連作で描いていく手法と、そんな惑星から醸し出される不思議感はこの本に推薦文を寄せているたむらしげるさんが描きアニメにもなった「ファンタスマゴリア」に近いところがある。もうほとんど覚えてないけどあれも不思議が一杯だった。

 さて「惑星9の休日」は、膨大な上映後のフィルムが保管された倉庫で働く爺さんはどんな映画にも良いところがあると若いバイトに諭していたりする「UTOPIA」が2編目。大金になるという幻のフィルムを探して強盗が来るけど、ラベルが貼られた缶には違う映画が入っていて強盗たちはガッカリ。でもそれも良いところがある映画と爺さんは言う。何かほのぼの。そしてクリエイティブへ敬意が見え、何よりすべてに対する好奇心の素晴らしさって奴が浮かんでくる。まもなく離れるという月にかつて行ったことがあるという老人が、ウエイトレスに語った月での不思議なできごとを描く「衛星の夜」。邂逅があって離別があって。永遠に1人でいるってどういうこと。それでも生き続ける方が良いのか悪いのかを問いかけられる。

 重力制御承知なんてとんでもないものを発明できる天才だけれど、奥手の青年が彫刻家の夫と死別した女性に恋をして先輩とかの余計なお世話を受けつつアプローチしていく「それはどこかへ行った」なんて、引っ込み思案な僕等にキュンキュン来る。少々のトラブルを経験しながらもふんわりとしてゆるゆるとした日常を送る青年と少女が出てくる「午後二時、横断歩道の上で」、今は大女優となった女性が故郷の惑星9に戻り幸せを探していた頃を思い出す「灯」。どれも読むと心が軽くなる。突拍子もなくって唐突なところもあって、それでいて読んでいて面白く説得されるようなところもあるけれど、基本ゆるゆるとしてふわふわとした感じなのは、からてさんの「マカロン大好きな少女がどうにかこうにか千年生き続けるお話。」にも連なり重なっているような感じ。こういうのが売れると世の中もゆるくてふわふわになるのに。SF的でファンタスティックでセンスオブワンダーな1冊。是非にお試しを。

 せっかくだからとインターナショナルギフトショー東京へといってあれやこれやと見物。豆しばぱみゅぱみゅを電通が本格的に仕掛けていくような感じになっててグッズも増えていれば展開も多くなっていた。一時の人気じゃないって感じたってことなのかな。AKB48くらいにデカく盛り上げてくれれば面白いけどそれで見づらくなるってのも困るし。ほどほどに。そしてブシロードがブースを出していて「マイリトルポニー」を大々的に展開していた。アニメーションの方は4月からスタートしてその豪華な声優陣と展開の面白さで評判にはなっていたけど玩具の方が本国ハスブロとの連携もあってなかなか入って来ていなかった。明日5日からは一部の店舗で先行も始まるみたで、これをきっかけに大きく盛り上がっていけばちょっと面白いかも。そういやきゃりーぱみゅぱみゅも好きだって行ってたな「マイリトルポニー」。いっそ豆しばぱみゅぱみゅりとるぽにーとか出せば良いんじゃないか。何が何だかってことになりそーだけど。

 玩具あたりはあんまりめぼしいものがないっていうか、バンダイもタカラトミーアーツも全体にブースが小さくタカラ本体からの出展はなかったような。昔は玩具からもギフトっぽいものがあってそれを売り込んでいたんだけれど、キャラクター全盛な植えに定番回帰な流れもあってあんまり熱を入れなくなったのかも。ちょっっと残念。代わりって訳ではないけれど、青山の骨董どおりに店を出しているグラディスかジャパンが遠くメキシコで手作りされていてマイアミからニューヨークへと渡って大人気らしいtwooliesってぬいぐるみを出していてこれがもうとてつもなく可愛らしい。ウールの布とか糸とかで作られたぬいぐるみはデザインがユニークで色彩も1つ1つ違っていて、選び持つ楽しみってものを味わえる。ワニとかはりもぐらとか最高。あと牛とか。顔が特に。値段もそんなに高くないしプレゼントとか自宅で愛でる用とかに欲しくなった。でも家に置いておくと潰れてしまうんだよなあ。物が多くて。買って誰かにあげるか。誰に? いませんそんな人。泣けてきた。

 とある新聞の看板が掲載されたウエブサイトに掲載されている編集委員ってそらなりの肩書きがついた人間が書く文章。それがのっけからこう来る。「最初に結論を書く。『はだしのゲン』は特に後半、偏向し、日本をあしざまにいうことはなはだしい。公立学校の図書館に置くべき本ではない」。おいおい待ってくれ。言論機関の人間が言論の自由を認め守ろうとするどころか、内容に偏向があるから見せるべきではないという。でもその偏向っていうものは誰がどうやって決めたのか。自分の頭あるいは自分の周囲が称揚して商売にもしている基準に添っての偏向を、他の一般に当てはめ適用するなんてことが言論の自由であるはずがない。

 僕自信、例えば「はだしのゲン」の後半に描かれている残酷すぎる描写が果たして子どもたちに見せて良いもんのかどうかという、映画のレーティングに近い区分から考えた方が良いとは思っている。公共の図書館ではなく学校の図書館はそうした年齢制限があって悪いものではないと考える。でも偏向とやらを理由に見せるなと言うのはちょっと違うし、それを冒頭から連ねる言説はカス以外の何物でもない。それが堂々、新聞の看板を背負って発信されている。どうしてこんな稚拙な言論ばかりがそこからバラまかれるようになってしまったんだろう。終わりが近い? そうなんだろうなあ。だから聡い者は去り、あるいは聡さから言説を取り上げてもらえず窓際へと追いやられてしまっている。残るは一部に受けの良いものばかり。それが内向きに言説をぶつけあって果たして未来はあるのか。せめて年は越したいけれど……。難しいなあ。


【9月3日】 Art LAB Akibaで展覧会が開かれている近藤智美さんが表紙になった「ART collectors」の2013年9月号を読んでいたら、今回は新人アーティストが大特集されていて、近藤さんもそんな中の1人としてアトリエなんかを公開していたけれど、それとは別に幾人かの見知った顔や名前も見つけたその1人が牧田愛さん。2012年のアートフェア東京2012に出品しているのを見かけてハーレーっぽいバイクのクロームメッキされた部分だけを選び抜き出すようにしつつ、それを対称にしてみたり変形もさせてみたりしながら個人の想像力をぶち込んで描いた作品が、技術としての巧みさとモチーフとしての目新しさ、そしてトータルとしての完成度からとっても気になって気に入って表参道でも開かれた個展も見に行った。

 ただでさえ描くのが面倒な映り込みの激しいクロームメッキのパーツ。円形になったそこに部屋の様子なんかが歪曲して映り込んでいるところまでをしっかり描き上げていたりして、近寄れば色の寄せ集めに過ぎないものが下がるとちゃんとバイクのパーツっぽいものに見えてくる。いったいどうやって按配を取っているんだろうかと不思議に思える作品。見れば誰もが気になり気に入るだろうなあと思っていたら、今年のアートフェア東京2013にも同じ画廊から出ていて変わらない雰囲気の作品をだしてて、それがだいたい売り切れるという人気ぶりを見せていた。こんなことなら去年買っておけば良かったと思うのは世の常。そういうところで大枚はたけない貧乏が情けない。

 人気にはどうやら東京藝大の院の修了展に出した作品が、藝大買い上げとなったことも影響しているみたいでいわば藝大のお墨付きを得たアーティストってことでコレクターの間にも評判が立ったみたい。そんな後押しを受けて晴れの新宿伊勢丹で開催となった個展が「ART collectors」には紹介されていて見たら日付が9月3日まで。これはやっぱり見て置かねばと立ち寄った新宿伊勢丹では、並べられた作品の少なくない枚数がお買いあげになっていて割と新人に対してそれなりに強気の価格でこれは相当に注目されているんだなあってことが伺えた。こんなことならまだ安かった去年に……と言っても詮無い話。ただこの注目度を見ればまだまだ人気は上がりそうなんで気になった人、気に入った人は手を伸ばしておく今が最後くらいのチャンスかも。

 去年あたりまではまだバイクのパーツってことを意識させてハンドルだとかタンクなんかの形状がちゃんと分かるように描かれていたけれど、そうしたモチーフを引きずりつつも最近はフィンの上にはられた目玉みたいなパーツの形状を残しつつれが歪んで変形したものとか、幾つかのパーツが抜き出され歪み連結しているような不思議な形状のオブジェを絵にし始めていてこれが何か一種独特な雰囲気を醸し出している。クロームメッキのパーツは金属であるが故に当然無機質。けれども丸みを持って歪み変形して増殖していくような雰囲気には有機的な生命感があってそうしたギャップというかあるいは融合といった主張が、見る人の目に単なる巧みな絵であること以上に何かを感じさせて放さない。

 新作になるとさらに歪みも進み色味にもバリエーションがつけられより増殖していく感じ。横長の3枚はいずれも同じ絵に見えながらも上に被さっているパーツが少しずつ違っていて、そして色味もちょっとずつ違う。別のやっぱりフィン横の目玉みたいなパーツを並べた絵もやっぱり3枚あって色味がちょっとづつ違っていたりして、それでいてどれもがクロームパーツのように輝いて周囲の映り込みもちゃんとある。いったいどうやって感じを掴んでいるのか、っていうのは創造するにPC上でのシミュレーションもあるんだろうけれど、それを見たって実際に筆を取って描けるかというと別の話だし、フォルムなんかも勝手にソフトが変形をやってくれる訳ではない。意識して動かしそして色の感じを掴んでそれをカンバス上に定着させる。そんな作業と創造の果てにある作品だからこそ多くの人の心をとらえて放さないのだ。だんだんと変形していくモチーフの一体、この先に来るのはパーツ怪獣かそれとも……。そんな意味も含めて活動が楽しみ。画家自身も美人だそ。そういうパーソナリティの部分でも注目されていくのかな。関心を持って眺めていこう。買えるともっと良いんだけれど。

 もんわりとした空気めいたものが漂っていてそれにはある程度の傾向はあっても特別な指向性はないんだけれどもそこに1滴、凝固剤めいたものを垂らした途端に曖昧だった方向にベクトルが生まれて特定の意識の元に語られるようになり、あるいはそこから特定の意識を組みだして語るようになる、ってことを今朝の「あまちゃん」とそれを見ていた人たちの反響なんかから思ってみたり。昨日にドラマでは2011年3月11日の東日本大震災を描いてそして、被害を被った人たちが復興に向けて歩み出した様子を描く一方で東京でアイドルをやっている主人公やその周辺がいったい自分たちに何ができるのかと悶々とするという。

 見てそうした空気はあったよね、自粛ムードの中で誰もが迷っていたんだって声があがったけれど、直後ってのは交通も回復していない上に電力不足の可能性も乗っかりイベントなんて行える状態ではなかった。余震もあったりと危険性が言われるなかで開催なんて難しいんじゃないのという安全上の懸念が働いて、中止になったイベントも多かったけれどそれは世の中がこんなんだから自粛しようといった空気に押されたものではなかった。そもそもが関東だって被災地で建物が崩れて人が亡くなっていたりする。そうした中で社会、それはエンターテインメントも含めたものとして動きたくても動けない状況にあって、けれどもどうにか動こうとしていたんだじゃないのかなあ。

 でもテレビを見ていて演技とかセリフなどを受けて見た人の間に「そういえば自粛ムードがあったよね」って感覚の核が空気に出来ると、ぐっとそっちに意見が寄ってしまってそうじゃないんじゃないの、日常の中でそれぞれがやれることを考え実行していたんじゃないのって意見を脇に追いやる。地震や津波で誰もが大変だったことを思い出して大変だったよねえって気分も出始めているけれど、現場は2年半が経ってもまだまだ変わらないまま大変な状態が続いていたりもする。過去形ではなく現在形で進行形の事態への思いをドラマという空間に再現させて咀嚼させ、消費させて昇華させてしまっては意味がない。そこはまだ1カ月近くあるドラマの中で指摘され描かれ今なおといった気分にさせてくれると良いんだけれど、果たして。いずれにしてもマスメディアって強くて怖いよなあ、気分をひとつのベクトルにギュッとまとめてしまうんだから。注意注意。

 大国の要人を勝手に死なせてしまったり、実体のない出任せを書いて訴えられて完璧なまでに敗訴したりと内容面でも間違いが多々頻発していた上に、誤記とか誤字なんてものもしょっちゅうやっているにも関わらず、他の政党機関紙に関わっている人がツイッター上でベニスをペニスと誤記してしまったことをあげつらっては、その政党機関紙の大批判を繰り広げて平気な神経っていうのは何なんだろう、ただの無神経というのも及んでいないくらいに鬱陶しくて薄気味悪いその心理状態が、新聞の看板の元に堂々と世の中に開陳されてしまっていることのみっともなさを、人はどうやって受け止めれば良いんだろう。それこそエンガチョしたいんだけれど、それをやったら相手と同じレベルに下がってしまうんで、ここは理知的で冷静な読者にならって無関心を決め込みつつ、世間より退場を願うのが良さそうなんだけれど、なかなかしつこいからなあ、こういう輩って。要人を死なせても裁判に負けてもやっぱり居残っていたりするように。まあ関係ないけどね。

 歌舞伎座の裏にある小諸そばで盛り蕎麦とカツ丼のセットをかき込み向かった先で見た「小鳥遊六花・改 劇場版 中二病でも恋がしたい!」は六花好きとかダークフレイムマスター萌えとか見るとぽわぽわできるかな。そのセリフ回しとかその表情とかその声音とか。もう2人の特徴がしっかりと出まくっていて中二病ってものが持つイタさと、それでもそこに溺れてみたい関心とが入り混じって不思議な気分にさせてくれる。なるほど映画、って意味だとそりゃあ「AURA 魔竜院光牙最後の戦い」の方がストーリーラインもあってクライマックスもあってカタルシスもあるって意味で立派に映画だけど、もとから映画として作っているからそうなって当然。「中二病…」はTVシリーズの総集編プラスアルファとして見ればなるほど振り返り味わってそして次へ……って架け橋になっているんじゃなかろーか。僕自身は原作版の方の世界でも奇特なファンなんで、アニメが摘まれ過ぎでも得に異論はなく、ビジュアルがどう表現されているかって部分で例えばモリサマーがのたうちまわったり六花がチョップ喰らったりする表情を存分に味わえて良かった。舞台挨拶が当たったらまた見に行こう。


【9月2日】 なんか唐突に宮崎駿監督の引退がニュースとして流れて、アニメーション関係者も少なからずいるツイッターのタイムラインなんかはもうあれやこれやと言葉が飛び交いなかなかに賑やか。「もののけ姫」の時に大きくぶち挙げた引退宣言に始まって、過去に幾度となくもう辞めるといった発言もあった宮崎駿さんだけに、今回もそんなひとつでようやくにして快心の作品を作りあげたからにはもうこの辺でリタイアしたって悪くないんじゃないと思い喋ったものの、やっぱりやり残したことが気になって、知らずコンテを切って企画が動いて監督を務めてたりするんじゃないのか、なんて期待も漂っていたりする。希望的な観測ではやっぱりそういうのがファンとしてベストな流れとも言えて願望混じりでそういうシナリオが想定されている。

 1997年6月25日の日記を読み返すと、「もののけ姫」の完成披露会見に出た宮崎駿夫監督について「『もののけ姫」の後、自分でメガホンを取る、とは言わないか、ともかく監督という立場でアニメに関わるようなことはあんまりしたくないみたい」ってその発言を受けた印象を綴ってあった。あと「『つけものの石みたいにのっているとろくなことがない』って、シニアジブリなんて50歳以上しか参加できないチームを作ってけやきの森に建物を作って、そこで隠居をきめこむつもり」ってことも言っていたらしい。結果はそれらは全部嘘になって「千と千尋の神隠し」なんかが作られそして今へと至る。当時の宣言も後に解説があってせっかく新作を作ったばっかりで「次は」なんて聞かれて腹立間切れに「引退」を口にしたといったとかいった話が伝わっている。今回もそうであって欲しいと誰もが思っている。ただ。

 「もののけ姫」の時だったか「千と千尋の神隠し」の時だったか覚えてないけれど、絵描きとして手の動く限りは描き続けたいという願望めいたものを宮崎駿監督が仄めかしていたって記憶がある。そうしたポリシーが他の人たちに絵だけ任せて自分が演出なり総監督として上に立って差配するということができない状況を生んでいて。結果的に最近の長い期間を明けての映画作りにつながっていたりする。そんな一方で年齢も重ねて眼が悪くなり手も動かなくなって来て、描きたくても描けない状況が近づいているか、あるいは既に起こっている。だからといって誰かに任せて、それで自分が監督である意味があるのか、ってなった時に引退ということを決意したとしても実はあんまり不思議ではない。かろうじて「ハウルの動く城」でも「崖の上のポニョ」でも「風立ちぬ」でも手は動いたけれどそれも限界。となったらここで潔く引退を言っても良いんじゃないかと決めた印象がある。

 タイミングとしてヴェネチア映画祭に「風立ちぬ」が出品されていてコンペティションの発表がちょい先で、そんなタイミングで引退を言われたらやっぱり審査員たちの気持ちもぐっと「風立ちぬ」に傾いてしまいそー。あと100億円越えが視野に入り始めた興行収入にもうぐっと追い込みがかかるし。そういういかにも賞を狙います収益も目指しますといったあからさまな態度が宮崎駿監督の美学にかなっているかというと、あんまり目立ちたがりではなさそうな印象もあるけれど、自身がもう限界かもしれないというタイミングにちょうどあたってそれだったら作品に最後の華を飾らせてあげたいと思っていろいろ仕組んだとしてもおかしくない。あるいはプロデューサーなり社長の人なりが宮崎駿監督の思いを組んで動いたとか。そのあたりは6日の会見とやらで明らかにされるんだろうけれど、とりあえずはヴェネチアの結果が楽しみ。何か取るかなあ。取らないかなあ。

 少し不思議なのは引退はあくまでも長編の製作からであってといった前置きがついて、だったら短編とか絵コンテ切りとかイメージボード描きとかいったところで映画なりアニメーションには関わってくれるんだろうかといった話が飛び交っていることで、けれどもニュースとか新聞報道とか観る限りにおいてスタジオジブリの星野康二社長は「「『風立ちぬ』を最後に、宮崎駿監督は引退することを決めました」といったことした言ってない。英語での報道だと「Miyazaki has decided that “Kaze Tachinu” will be his last film, and he will now retire」ってなっててやっぱり「風立ちぬ」を最後にして引退しますといった意味になっている。つまりは完全引退。なんだけれどやっぱりいろいろ期待が浮かぶのは過去の経緯もあれば当人の趣味嗜好もあるとファンたちが考えているってことなんだよなあ。果たしてどっち。そこもやっぱり会見で明らかに。体調に急変が予想されるとかじゃないと有り難いんだけれど。少なくとも良き導き手として宮崎吾朗監督を初めとした後進の上に立っていて欲しいから。

 デビューしてまだ2年とかそんなもんで六本木ヒルズの森美術館で平Kar手板「LOVE展」に作品を出して多いに注目をされたかあるいはこれからされるだろう近藤智美さんってアーティストの人の個展「延命治療室」ってのが浅草橋と秋葉原の間にあるArt Lab AKIBAで始まったんでちょっぴり見物。マンバをやっていたという経歴から転身して絵を始めてそれも独学で描いているにも関わらず、とてつもなくリアルな絵を描いてしまう特異な才能が存分に発揮された去年の「入れ子犯罪」って個展からちょっと変化をつけて、漫画なんかをモチーフにした作品もあれば具象なんだけれど印象派的に周辺を曖昧にしてベタっとぬったものもあったりとなかなかに多彩。「くりぃむレモン」って昔懐かしいエロアニメのヒロイン「亜美」をカレイドスコープみたいに張り付けた絵もあったりして、ポップカルチャーあるいはオタクカルチャーをモチーフにしつつもそこに独特の感性を混ぜ込んだ作品が楽しめる。

 1番大きな自画像に自分の引退をセリフで入れた作品は民主党の岡田幹事長だかの会見場面をモチーフにしたもので、得意にしているリアル系の自画像と現実をひねったシチュエーションが重なり合った作品として関心を集めそう。いっぽうで残飯を漁り貪る女性が漫画みたいに描かれたその下に、ネズミによってはらわたをむさぼり食われる少女が描かれた大作は汚いものでも喰らって生き延びる貪欲な女性と、それが出来ずにネズミの餌となる潔癖な少女の対比めいたものがそこに浮かんでいて、人間いったいどちらに進むべきなんだろうかと考えさせられる。自尊心を削っても生き延びるべきか否か。ほかには3連作になってて棺桶を運ぶ遺族が描かれた絵があって棺桶は白抜きになって運ぶ人たちは足元がぼかされていたりするモチーフにどういう意図があるんだろうかとちょっと聞いてみたくなった。アート的でありオタク的でもありサブカル的でもある作品を描ける多才。観ればきっとどれかに何かを感じ取るだろー。14日まで。

 そりゃもちろん安達祐実さんの写真集「私生活」は買ったけれど何かタイトルのとおりに生活している感じがあって面白かったよ。ポーズをきめてあられもない格好をしているグラビア系の写真集と違って日常の中でユルんだところを見せたり着替えている姿をさらしたりしているって感じ。あと寝ていたり。そういう意味では荒木経惟さんのアプローチに近い部分も感じたけれどもあそこまで、私生活を私写真に昇華させる術はまだなくってむしろ日常のちょい延長といった段階で留まっているのは写真家の特徴なのかあるいは生活が近いということの現れなのか。それでもシャツごしにブラをつけていない胸が透けて見えたりしてその丸みにちょい萌えたりもした写真集。それにしても変わらないなあ安達さん。年齢の割に若いというか永遠に歳をとらない遺伝子の持ち主なんじゃないかというか。キンドル版の方も買ってみるかなあ。


【9月1日】 そういえば14日から上映が始まる「コードギアス 亡国のアキト 第2章 引き裂かれし翼竜」ってのの先行プレミアム上映会ってのがあって申し込んだら当たったんで零戦見に行った帰りに池袋で観て来たんだけれどもいろいろと面白そうな展開があって第3章への期待が膨らんだ。詳しくは観てのお楽しみってことだけれど印象を言うなら前半は捕まえて味方に引き入れた佐山リョウと成瀬ユキヤと香坂アヤノのイレブン3人組をめぐって一悶着あってそして、前線へとアキトにそれから指揮官のレイラ・マルカルも含めた5人が放り込まれてそこで前作の冒頭を上回るような凄まじい戦闘シーンが繰り広げられ、前半のぼんやりとした雰囲気を一気に吹き飛ばす。

 もちろん前半も丁々発止のやりとりがあったりして目を離せないんだけれど、後半はスピード感もあれば展開も急速度で目をつぶるとあれ今いったい何があったんだって思い出せなくなるんで瞬きにすらも要注意。まあ気になれば何度も見に行けば良いだけのことなんだけれど、毎度毎度混むからなあ、このアニメ。とりあえず注目は本格的に参戦してくるブリタニア側のシン・ヒュウガ・シャイング卿とその乗機となるナイトメア。「R2」にいろいろ出てきたナイトメアたちの豊富なバリエーションすら上回るとてつもないゴージャスにて豪快な姿を見せてくれるから。ああする必要がいったいどこにあるのか、って謎はさしおいて。名前にヒュウガって入っているところも注目かなあ。そこがこのシリーズの大きなポイントになりそうだし。

 そんなシャイング卿を演じる松風雅也さんもまじえた舞台挨拶もあったんだけれどもう爆笑というか、レイラを演じる坂本真綾さんからして冒頭からあんまり活躍できなくて足手まといで御免ねって作品での役の立ち位置について感想を言えば、イレブンチームのユキヤを演じている松岡禎丞さんは妙な挙動で観客を沸かせてしまったりと、ストレートな感想の羅列にならない展開に司会の人も展開を迷ったんじゃなかろうか。まあそこは慣れたメンバーだけあって話た飛んでもしっかりまとめて楽しませてくれたんで、そういう面々が演じる映画をまた見に行こうって気にもさせられた。予告に出ていたC.C.が今回はいなかったけれども代わりに皇帝(の銅像)も出たし「反逆のルルーシュ」との繋がりも見えて来た。そして……。といったところでそこから何が始まるか。来年早々くらいだろうけど楽しみにして待とう。もっと先になるのかな。完結だけはお願い。

 やっと観た「物語」シリーズのえっとよく分からないけれども阿良々木暦が過去に行って八九寺真宵が交通事故に遭うのを助けて元の世界に戻ったら滅びていたという展開。どうやら別にいろいろあった展開が八九寺の存命によって切り替わってしまいそれが世界を滅亡させるというか人類を全部ゾンビにしてしまったらしい。何かが動けばすべてが代わるという、これも一種のバタフライ効果? かといって元どおりにしたところでその先が全て同じようになるとは限らないのもまた歴史。八九寺真宵が交通事故に遭っても怪異にならなければ、とか。そんなパラドックスにどうやって決着をつけて話の時間軸を1本にまとめるのか。悲劇はそこから消えるのか残るのか。原作をほとんど手にとってないだけにアニメが全て。楽しみにして放送を待とう。

 せっかくだからと「キャラホビ」を見に行ってアメリカ陸軍軍楽隊のブラスバンドの演奏を見物する。以上、って何か去年もそんな感じだったような気がするなあ、特段に買わなくてはいけないものもないし取材するべきステージも入ってないというかもはや窓際なんで取材の案内自体が来ないし個別のブースったってフィギュアの新作が飾ってあるくらいでそれを観てワクワクする年でもないし……って思っていたけどボークスだっけかのブースに出ていた「RAIL WARS! 日本國有鉄道公安隊」シリーズのヒロインのフィギュアにはちょっと目を奪われた。なかなか良い出来。バーニア600さんのイラストの雰囲気を見事に再現していた。出たら買うかなあ。というか「RAIL WARS!」シリーズの表紙とあと2枚を含めた8枚のイラストがタペストリーになって売られてた。鉄道と美少女の組み合わせというバーニア600さんならではのモチーフがぐっと生きてるタペストリー。部屋に余裕があったら買ったけどもはや張る場所どころか仕舞う場所もないのだった。表紙絵で我慢。しかし創芸社クリア文庫からここまでのヒット作が出るとは。これだからライトノベルって面白いねえ。

 少女向けのレーベルとして長い伝統がある上に赤川次郎の「吸血鬼はお年ごろ」シリーズを30年以上にわたって出し続けていてミステリーにも縁遠い訳じゃないコバルト文庫から登場した相良穎さんという人の「西洋人形は夢を見る 瑠璃色の事件手帖」(コバルト文庫)は割とストレートに事件があって探偵役がいて謎解きがあってとミステリー展開が楽しめる上にちょい伝奇的な要素もあって物語世界の謎を追う楽しみもあって追いかけていきたい1冊。神撫月灯斎という名の稀代の人形師が亡くなり、孫という娘が今は二代目を名乗っていたけどその当人がまるで作り物の人形のような可愛らしさ。それでいて世間知らずでおしとやかさから縁遠いキャラクターになっている。そんな彼女が一方の主人公で、そしてもう一方の主人公は千崎という警察官。とある豪邸で起こった当主が殺され人形が傍らにあったという事件の手がかりを求めて神撫月灯斎の居を訪ね、そこで二代目月灯斎を名乗る少女の撫子と出会う。

 千崎は撫子を連れて屋敷に行き、そんな撫子に従うは玉響という名の青年も含めた3人は、到着した屋敷で当主が殺害された現場に人形があり、そして「月」の血文字を見る。これは月灯斎を指したものなのか。命ある人形を作るという月灯斎が手がけた人形が犯人ということか。そんなはずはない、そして千崎の妹が使用人としてその屋敷で働いていて、部屋の鍵も持った第一発見者としてあるいは犯人かもと疑われる状況の中、推理が巡らされて謎が解き明かされる。状況からの観察、血文字の意味などを探求するのはミステリー的要素。そして集中する際に撫子が普段の大正ロマン出来な袴を捨てて可愛い洋服に着替え人形のように玉響に抱かるのもひとつの様式。一休さんの座禅とは違って見た目にも可愛らしさが浮かぶ。

 それと同時に浮かぶ疑問。もしかして彼女は人形なのか? 初代の月灯斎が全霊を込めて作りあげ、孫と偽って傍らに置いている生きた人形ではないのか? そんな懐疑を振りまきつつ、それについての答えも出しつつ意外な方向へと話を向かわせることで、初代の月灯斎という人物の奇特さめいたものが浮かぶ展開。その奇特さは2つ目の事件へも繋がり、月灯斎の人形を集めている重松という老人の家で起こる殺人に影を落とす。初代月灯斎の負の遺産を引きずる中で起こり続ける事件の裏に暗躍する影があり、二代目月灯斎こと撫子と、いつの間にやら良い関係になった千崎の前に立ちふさがる。

 探偵に対するライバルという意味では怪人二十面相的な部分があり、最初の事件にも絡んでその裏に初代月灯斎との因縁めいたものが浮かび上がって来て、単純な探偵と怪盗の鼬ごっこを超えた愛憎のぶつかり合いめいたものが話の軸になって行きそう。これからもエキセントリックなライバルとの対決を大軸に進んでいくことになるんだろうか。2話目についても吊り橋が落ちて閉鎖された地域で雨の日に起こった殺人事件、そこで犯人と言い張った人物がそうでない理由から推察される真犯人、といった段取りも整っていて推理する楽しみはあり、また伝記的因業的な背景も楽しめるシリーズ。だからこそ読みたいこの次を。いつ出るんだろ。


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