縮刷版2013年8月下旬号


【8月31日】 銀座へと向かう途中に秋葉原によってONE UPって雑貨を売ってる店で時々展開しているテーマにそって作られたフィギュアなんかを売る「パンデモニウム」イベントに出ていたくずしまきんんさんの「いちごファラオ」を1つ買う。ずっとデザインフェスタに出ていてあとワンダーフェスティバルなんかで同じフォーマットの初音ミクなんかを出している人なんだけれどちょっと前から秋葉原での「パンデモニウム」にも参加し始めて今回が回目。前は血まみれないちごフィギュアである意味ちょいグロな可愛い系フィギュアの延長にあるデザインだったけれど、今回は「古代」ってテーマを与えられて何を作ってくるのかと思ったらファラオだった。エジプトの。

黄金のファラオ様  元よりどこかスフィンクスとかミイラが入った棺桶みたいな頭の形をしているフィギュアでああったけれども今回はパステルカラーでいつもだったら塗られているそれを黄金のマスクよろしく金色を吹いてピカピカに仕上げ、なおかつズボンというかタイツみたいな部分を横縞にしてどことなくエジプトのファラオっぽい色彩に仕上げてあった。胸と頭には内臓と脳味噌を飛び出させる代わりにこれは多分ピラミッドを張り付けてあってそんなフィギュアが立つ大地は砂漠というか荒野というか。そうやって屹立した姿はもうほとんどエジプトのファラオ。手を合わせて拝みたくなる。次はいったいどんなアレンジが来るんだろう。デザインフェスタには落ちたみたいだし「パンデモニウム」に間断なく出てくれると良いな。

 そして銀座に行って「united bamboo」ってショップをちょい取材、というか写真撮影。昔はジュンが展開していたらしいけれども去年にオンワードがアジアでのライセンス権を買って新たに展開を始めることになったらしくって、その路面店としての第1号ショップがマロニエゲートに今日オープン。マロニエゲートってどこだっけと思って行ったらいつも東急ハンズをのぞいているあのビルだった。1998年に青木千帆さんって人がニューヨークで立ち上げたブランドらしくそこにシンがポールだかの人も加わってNYコレクションなんかにも出品。トラディッショナルなテイストにちょっぴりモダンなテイストも入れたラインが特徴らしくダッフルとかモッズとかいったコートがあったりして、伝統の落ち着きとモダンな煌めきってやつを着る人に与えてくれそう。

 あと「ル バック」っていう雑貨のラインもあってキャンバス地のトートバックとかスマートフォンのケースとかネックレスとかステーショナリーなんかもずらり。それこそ600円のものから20万円のものまであってと幅も広いから、服を買うぞって覚悟を決めて行かなくってもこれあるかな、あったら買っちゃおうかなって軽い気持ちで寄って眺めることが出来そう。まあどっちにしたって僕には縁はなさそうだけれど。巾着風にフラップがついたポケットもついてバックルが間に入ったストラップもついた小さめのバックは吉田カバンことPOTERとのコラボ品。いろんなアーティストとのコラボも特徴らしいんでシーズンなんかを抑え情報を集めてのぞくと意外な一品が手にはいるかも。どっちにしたって僕には縁遠いんだけれど。着せる知り合いも贈る知り合いもいないから。嗚呼。

 「綸言汗のごとし」と言って一度口から出た言葉は汗と同様にもはや体の中に戻すことはかなわない、翻って上に立つ者は常にその言動が及ぼす影響を考えて物を言い、言ったからにはその責任をしっかりととらなければいけないのだということがちゃんと理解できていたなら、政治資金を集めるパーティーを開いた政治家がその場所で言ったことがどういう風に切り取られるか分からないから取材は入れない、代わりに自分で撮影して編集したものを配信するだなんて間抜けな真似を、普通だったらしでかさないんだけれどその政治家、もはや普通をとっくに通り過ぎてカルトな領域へと足を踏み入れているからどうしようもない。

 言って拙いことを言うかもしれないと恐れる政治家がいったい誰の役に立つ? 言いたくなければ言わなければいいだけのことなのに、それが出来ず言いたいけれど言えば反発を喰らうと分かって言うことを聞かせないなんてことが、まかり通ったらもはや誰もそんな政治家なんて信じないはずなんだけれど、妙な人気だけはあって言ったことはマスコミの操作によってねじ曲げられていると信じる人も周囲に幾らかはいるからなあ。まあそれがカルトのカルトたる所以なんだろうけれど。まあ聞かせたくなければ入れなければ良いだけのことで、それによって信じられない人が増えるのも自業自得。オープンな場でしゃべれない臆病者だと思われればそれまでというおとで。

 一方で聞きたければマスコミだってパーティ券を買って入れば良いんだというのは、ちょっと判断に迷うところであってそれが政治資金として特定の候補者の利益になるからちょっと買えないというのは正論的な判断。内容については出席した人に取材して聞けばそれはそれで十分ということもあり得る。ただ本当に必要なコメントであったらそれがとてつもない高額な資金を要求される場であって、なおかつ特定の人間の利益に資するような場でも取りに行かなくてはならないこともある。今回は自分の言葉にすら自身の持てない人間がどうせいつもと同じようなことを言うだけの場だと認識すれば、行かずに済ませるってことも可能だったということだろー。

 要するにそれが金をはらっても聞きそして伝える価値があるかないか。そういう政治家ではもはやない、ってことなんだろー。そのままフェードアウトしていってくれれば万々歳。でもまた引っかかるメディアが出てくるんだ。それが下らないところで競争をしているメディアの残念さ。あちらがやればこちらもやれと護送船団ヨーイドンで駆け抜けそして良いように利用され、結果として政治資金を出す以上に相手に利するような報道というかPRを繰り広げていたりするんだ。困ったものです。しかし本当にそういうことくらいしか話題がなくなって来た感じ。堺市長選とかあるけどそれがだからどうしました、といった風に世間も流している。薄まる存在感。メディアも市民ももう騙されないぞと脇を締めてかかってくれれば良いんだけれど。

 3年と8カ月って期間が作家にとって長いかというと純文学系ならまあそれでもどうにか忘れられないで面倒を見てもらえるかもしれないけれど、年に3冊から最低でも2冊は出していかないと、途端に忘れ去られてしまうライトノベルの作家にとってゃもう永遠にすら匹敵する年月。それを動じないで乗りきっただけあって新井円侍さんって人の「シュガーダーク 埋められた闇と少女」(角川スニーカー文庫)に続く小説としての第2弾、「巡幸の半女神」(講談社ラノベ文庫)は繁栄を極めかけたその時に襲ってきた、神にも匹敵する強大な力を持った存在によって追いつめられた人類が、人型ロボット兵器のようなものを作って反攻にでたものの敵もなかなか強大で、仲間が1人減り2人減った果てにたった1人残った男が戦闘で失った意識を取り戻すと、そこには花が咲き乱れていて1人の少女が彼の面倒を見ていた。

 いったい何者? どうやら普通の人間ではないらしい。むしろ敵となっている神に匹敵する存在に近そうな少女は自分を半分人間で半分神だと良い、人間を滅ぼそうとする動きが嫌で逃げ出してきたのだという。最初は信じることが出来なかった男は、自分の分身ともいえるロボットに乗り込みその場を離れ、そしてかろうじて命脈を保っていた村落へとたどり着いてそこで襲ってくる巨大な虫、マンイーターを相手に戦うことを迫られる。やがて追いついてきた半神半人の少女とともに村落を出た男は、仲間の敵とも言えるすべてを灰に帰る力を持った女神と対峙する。果たして勝てるのか。勝って世界を救えるのか、といった興味を誘いつつ続く2巻で神とはいった何者で、何が狙いなのかってあたりも明らかにされるんだろうなあ。今はちょっと謎過ぎる。宇宙人とも言えないし。かといって神と言い切るには存在が高邁さとはかけ離れているし。

 そうした敵の設定の不思議さに加え、主人公が操るパワードスーツもSF的なガジェットとして面白そう。同じ遺伝子を持った生命を違うかたちに培養して作りあげた巨人。それを制御するのに同じ遺伝子の強大である人間が乗り込み操るという形はロボットが他の誰かに利用される可能性を防ぐ一方で、血のつながりめいたものが生み出す不思議で強大な力の可能性って奴を感じさせる。シンクロすれば強くなるといった感じ。それがいったい世界にはほかにどれくらい用意されていて、侵攻してくる神を相手に立ち向かえるだけの強さを持っているのか敵はより強大で、主人公の帰る場所を奪ったようにすべてを灰に変えてしまうのか。そうだとしたらとても勝てそうにないんだけれどそこで意味を持つ半神半人の少女の存在。組むことで相手を抑え自らを高めた戦いの果てに来る平和を願いたいけれど、果たして。

 ぶろんぶろんぶろろろばばばばばばば、と全員が口でエンジン音を真似る中をロープで引っ張られた零戦があっち行ってこっちに戻るだけ、なんてことはなかった所沢航空公園での零戦のタキシング実施イベント。今日で終わりってことで大混雑の零戦をさっと眺めた後でしばらく会場内で休憩してから外に出て、40分ほど並んでそして入った会場には展示してあった場所から引っ張り出された零戦が鎮座していて今にも動き出しそう、というか動き出せるように準備がしてあって待つこと10分ほど、現れた外国人の人が乗り込みそしてエンジンを始動させると、ブロロロロロロロババババババという音でもってエンジンが鳴り響きプロペラが回ってそして零戦が駐車場の上をゆっくりと動き始めた。

 いやあもう感動的。聞くと終戦時にサイパン島で濾過区されたものが巡り巡って今の所有者の所に渡った見たいで、太平洋戦争時のオリジナルの機体でオリジナルのエンジンを持ったものは他になく、つまりは当時の再現を聞けるのはこれが唯一らしいということでその音と、その走りをしっかりと耳に刻み目に焼き付ける。意外とこまわり聞くんだなあ、狭い駐車場を走って回って戻って元の位置にピタリと納まったりしたし。1月くらいから展示してあったこの零戦は、今夜にもバラしてアメリカの博物館に戻すそうで最終日だけあってタキシング見学会は流石の満席。みんなやっぱり「風立ちぬ」で興味を持ったのかなあ。ともあれ来て良かった。いつかまた見られるだろうか。今度は空を飛ぶ所を。


【8月30日】 名前からして一級の天才だなんて不遜も甚だしい壱級天災だけれどいざ、事件を前にしたときに見せる推理力はやっぱり半端ではなかった様子で、本家の「龍ヶ嬢七々々の埋蔵金」を飛び出して単独のストーリーとして登場した鳳乃一真「壱級天災の極めて不本意な名推理」(ファミ通文庫)でも、悪魔が繰り出す謎を相手に優れた直観とそれを補強する観察力を披露したり、意外な行動力も見せたりしてはいつか本当に起こるかもしれない事件を阻止して、悪魔の企みから世界を守る。ってそれほど大袈裟な話でもないんだけれど、目の前で人が無碍に死んでいくのはやっぱり辛い。だから架空の世界でいつか起こる事件を模した殺人が起こってそれを解決することで、現実の事件を防げるのだとしたら敢えて事件が起こってそこで颯爽と現れ、名推理を披露してひとり悦にいるようなことはしないで、架空の世界で目一杯に動いて謎を解き、現実を救う。

 冒頭から警察の留置場に閉じこめられては、そこでエア名探偵ぶりを見せてほくそ笑んでいるほど自己顕示欲が強い壱級天災。かつて龍ヶ嬢七々々が何処からか持ってきて封印した悪魔を本から解き放ってしまっては、悪魔の挑戦を受けることになって当初はやっぱり見栄が先走ったか事件だったら起こせば良いと啖呵を切っていたけれど、連れて歩いている美少年だけれど服装は女の子という星埜ダルクが巻きこまれ、彼が何かしでかすか彼がどうにかなるかもしれないと分かった途端に、悪魔を相手に事件の謎をさらりと解く。もしかして恋なのかそれとも。そういう感情を見せないところもまた可愛いらしさのひとつ。本編では現れ邪魔ばっかりしているお騒がせキャラに描かれているけど、案外に他人を思うところもあるんだなあ。

 学校でもそんな悪魔の仕業が起こって生徒が1人死んでしまうかもしれない事件でも、彼が所属していた謎めいた部活動にいってそこでひとり超然として壱級天災と互角に渡り合う性格と知性を持った伏見妃凜が巡らしただろう画策を解き放ち、そして彼女の秘められた心にも気づいてあげてはそれをネタに強請り……って酷いことするなあ壱級天災、でもそれがあって2人はぐっと近づけたんだから良しとしよー、本編の主人公の八重重護だけがライバルってのも人生においてつまらないし。ちなみに重護はちょっとだけ登場しては上条当麻さんに負けず劣らない不幸な目にあってます。さらにロボット作りの天才少女の柊スイナがこちらにも登場して事件に絡んで来たり。その天才ならではの性格を見抜いて引っ張り込んだ壱級天災はやっぱり凄い探偵なのかも。だからこそ本編でももっと活躍を。あるいはこのスピンオフでのさらなる大活躍を。架空世界で女の子になるダルクをもっと見たいしね。可愛いんだこれがまた。

 「平成5年度『コンテンツ産業強化対策支援事業(アニメ産業を中核とするコンテンツ産業国際展開促進事業)』に係る委託先の公募について」なんてお触れが経済産業省から昨日あたりに急に出て、年度内開催のそんな事業があったら手を上げろ、受かれば1億円まで出してやるとかいった話になっていたそうでいったいそんな急に国際的な見本市なんて出来るところがあるのかと考えて誰もがそうだと気がついた。「東京国際アニメフェア」があるじゃないか。主催こそ東京都からズレて日本動画協会が担当していたりもするけれど、中身は東京がだいたいメーンとなってるアニメ関連企業がわんさか集まり新作を見せたり商談をしたりするとゆーイベント。会場も東京ビッグサイトとまんま経産省の狙いにあてはまっている。開催期間も見事に年度内。海外から来るお客さんの扱いにも慣れ事業報告書だって完璧なのを作成・提出できる。

 もうピンポイントでそこを狙ったよーな提案。っていうかそこしか応えられそうもない提案がこの時期にこーやって出されるっていうのは想像するなら東京都が半ば下がっていると同時に東京都がそこにいることで被っている諸々の心配事を払拭するのに国の看板をもらった方が良いんだけれど、それにはやっぱり段取りが必要とゆー開催側の思惑と、そしてクールジャパン戦略だということでいろいろやりたいんだけれど具体的にどう動けば良いのかまるで分からないというか、すでにあるのに横入りしていった誰が得するんだとゆー常識的な判断が働いたというか、だったら今あるものに国が支援できるよーな制度って奴を作ってしまえば万々歳、これで晴れて主管を国に移して東京都の色を薄め、アニメコンテンツエキスポへとスライドした面々を引き戻して大きくまとまれるぞ、なんて考えが双方に働いたってことなのかもしれない。あくまでも想像だけれど。

 いずれにしても真相は不明。まあ結果が出ればどういうことかも見えてくるし、結果としてトレードショウ自体が大きく発展していけば誰もが喜ぶことになるからこれはこれで出来レースだの裏取引だのと呼ばれたって構わないんじゃなかろーか。問題はだからそうやって大きく進んだアニメフェアが本当にトレードショウの場になるかっていうことで、海外からはるばるニッポンのアニメ買いに来ましたこれオモシロイです売ってくださいと言ったお客さんに対して、いやいやこれは海外販売をどこそこの製作委員会に入っている企業に渡してしまっているんでそこが窓口になっていてパッケージメーカーが(あるいは放送局が)どうこう言えるものではないんです製作委員会全体の合意も必要ですからそういう機会がればまた来てくださいでは意味がない。

 どこからいらしたどんな方にも責任を持って対応できる体制って奴を整えお待ちしています、って形を作らないと盛り上がらないんだろーけれどそれが出来れば世話ないか。TIFFCOMとかはどうなっているのかなあ。むしろみんなMIP TVに引っさげ出かけていって売り買いしているものなあ。まあおそらくそんなあたりの改善も進んでいるとは思うしそういう機会にもなるので是非にお国のアニメフェアとして盛り上がって欲しいもの。でもってついでにてんでばらばら感がさらに増してきたコ・フェスタこと国際コンテンツフェスティバルもぎゅっと引き締めてもらえれば。せめて1カ月くらいに集めれば良いものを3カ月くらいにわたってあれやこれやとダラダラやってて連携もないコ・フェスタ。面白そうな講演会も消えてしまって個人がコンテンツ業界の機微に触れる機会がまるでなくなってしまった。

 核になっているはずの東京国際映画祭の弱体化も甚だしい状況で、2003年にコン・リーさんで2005年がチャン・イーモウさんだったコンペ部門の審査委員長が、今年はチェン・カイコーさんに決まったって話が先だって伝わってきたりとどこか出遅れ感があり、なおかつ地域もまたしてもといったところ。なんか話題性が及んでない。でもって来年あたりはアニメを増やすとか言っていたけど、遅きに失した感もあるし、せっかく定着してきたものを潰して置いて何を今さら感もある。本気ならすぐにでもプログラムを組めば良いのにどこかの劇場を借りきって。そいういう機動力もないのに思い付きで言うから後で取り繕う必要も出てくる。本気で来年、アニメ関係を強化できるのかなあ、バックにいるらどう角川歴彦さん次第かなあ。

 でもやっぱり、東京国際映画祭がちゃんと立ち直っていくためには、もらってうれしい権威であり、作品を出してうれしいマーケットを作ってそこから価値を高めていく必要があるってのは明々白々。そうしたことに無頓着だったのか、それともバブルが始めて回せるお金が減ってしまったのか、東京国際映画祭だからとやて来てはプレミアを行いレッドカーペットを歩く超絶スターってのがとんとご無沙汰になっている。新作映画の公開が今、目白押しなのはつまり映画祭に会わせようとはしないってことでもある訳で。出るなら今や釜山の方が上って感じになっているものなあ、あるいは上海とか。困ったもんですまったくもう。そんなこんなをまとめて見直して欲しいんだけれど果たして安倍政権にそこまでのゆとりがあるか。シリア問題で下手打てば世界から蹴飛ばされるんだけれど、分かってなさそうだもんなあ、もうアメリカしか見えないっていうか。困ったもんですとてつもなく。

 前に見たアニメアニメのインタビューだとザッカリー・クイント監督、「マン・オブ・スティール」で参考にした日本の作品のことを「BIRDY THE MIGHTY」とゆーアニメだってことを応えていたんだけれどもシネマトゥデイに出た新しいインタビューでは「『テツワン』というと、みんながアトム? って聞くんだけど、僕はこっちにインスパイアされたんだよ」って感じに漫画としての「鉄腕バーディー」のバトルを参考にしたってことを話している。いったいどっちのバーディーなんだろうって疑問がまず立って、それから漫画だとしたらいったい初期のサンデー増刊に掲載されていたバージョンか、それとも新しく「ヤングサンデー」で始まって「スピリッツ」に移って「月スピ」に最後が載った方なのか、ちょっと分からなくなって来たので誰かザックに会う人があったら聞いてください「あなたの読んだその漫画に『粉砕バット』は出てきましたか」と。


【8月29日】 なんか朝方になって「ニンテンドー2DS」なんてものが出るって話が出回っていいて、一体これはなんだ何の冗談だ、「3DS」が既に世にある時代に今さら「2DS」なんて逆行するようなネーミングの品を、あのお堅くで前向きな任天堂が出すはずないじゃないかと思ったら本当だった。驚いた。3DSのソフトが遊べるんだけれど3Dにする機能が省かれていて、なおかつ携帯端末みたく真ん中でぱたんと折り畳めるようになっていない。ちょい厚めのタブレットに画面が2つあって横にボタンがついたという簡易版。これで3DSのゲームもDSのゲームも遊べるんだから3DS用に出た脳トレ系の3Dが不必要なソフトを遊びつつ昔のDSのソフトも遊んでみたい人には最適なマシンかもしれない。そういう人がどれだけいるかってことまで分からないけれど。

 っていうかそういう人は既に「ニンテンド3DS LL」なんかを買って3D機能を使わないで遊んでいたりするもので、だったらいったいどーゆー層に買ってもらいたいのか、って辺りがちょっと見えないところに任天堂の戦略にしては珍しい不確実性なんかを感じてしまう。枯れた技術の水平思考が昔っからのポリシーったって、それは技術であって製品については時の最新がやっぱり表現されていたのが任天堂。けどこれは確実に後退している。なるほどゲームボーイを超小型化したゲームボーイミクロなんて品もあったけれど、これなんて次の世代へと移っていった後に、ソフト資産を生かそうと作ったもの。今は3DSが最先端にある携帯ゲーム機市場で後退なんてあり得るか、ってことなんだけれどそれだけ厳しいってことなのかなあ、Wii Uも値下げするみたいだし。

 任天堂にはそれでもやっぱり最先端って奴をおいかけて行って欲しいもの。3DSが来たなら次はやっぱり「ニンテンドー4DX」で、買うと匂いが出てくるとか煙が撒き上がるとかしたら楽しいんだけれどそれでゲームが面白くなるかっていうと……。かといってセットに動く椅子を付け天井から落ちる金だらいをつけ現れる貞子をつけたらいったい幾らになるのか。貞子なんて使って2カ月だものなあ、かといって捨てる訳にはいかないし。むしろ本当に没入感を持って立体の空間を移動できるような3Dゲームって奴を作って欲しいもの。いつか「ヴァーチャルボーイ」で狙おうとして果たせなかったその境地に、ヘッド間運テッドディスプレーなり眼鏡型のディスプレーも出始めた現在なら挑めるよーな気がする。やって欲しいなあ、それで遊びたいなあ「ポケットモンスター」とか「マリオカート」とか。

 例えば「ネコネコ映像などを運営するブランコは、9月2日よりエンジニアの生活習慣改善のため『女性看守弁当』システムを導入する。毎朝、タイトスカートにヒールで眼鏡の『女性看守』から『この豚野郎どもめ!』と罵倒され、手にした鞭で打たれながら『クズでも食ってろ』とお弁当を受け取ることができる」ってシステムだったら冗談めかした中に辛辣さを感じてもらえたかもしれない。あるいは「ヘラヘラ通販などを運営するデマンドは、9月2日よりコールセンターの従業員の生活習慣改善のため『ミッチー弁当』システムを導入する。毎朝、キラキラした衣装の『ミッチー』こと及川光博さんと一緒に『バラ色の人生』を歌い踊り、及川さんから『輝いているよベイベ』と言われながらお弁当を受け取ることができる」ってシステムだったらさすがは成長企業とそのゴージャスぶりを世間にアピールできたかもしれない。

 でもジャージはの女子マネはダメだ。たとえ社内から募った人ではなくってそれを専門にする女性たちを雇ったのだとしても、ジャージ姿の女子が体操をして男性が多いエンジニアを鼓舞し、そしてその手からお弁当を渡すというシステムにはどうしても、ジャージ姿の女性というフェティッシュがそこに存在して、セクシャルな要素でもって大勢の人たちの関心を集めようとしてい部分が否定できない。効果があるかどうかってのは二の次で、そういった一種の媚態を話題の中心に据えようとしていること自体が、逆の立場にある層からはセクハラだと思われても仕方がない。目の前で性的なものが“消費”されている訳で、その様を見たくないのに見せられるということは、エロ本を目の前で読まれているとかエロ動画を横で眺められていることに匹敵するくらいの拙さを含んでいる気がしてならないんだけれど、そういうところに本当に気づいてないのかなあ、ドワンゴは。普通は気づいて止めるものなのに、堂々とプレスを招いて披露し担当者が解説までしているんだから何をか況や。果たしてこの先も続くのか。2日に1回は食堂のおばちゃんがやって来るのか。分からないけれどもこうやって会社って、一時の話題で盛り上がりつつ、それによって将来の信頼を失いながら、やがて沈没していくんだろうなあ。まったくもって。

 「ダイナミックフィギュア」で日本SF大賞の候補にもなったんだっけな三島浩司あんによる「高天原探題」(ハヤカワ文庫JA)を読んで真っ先に浮かんだのが諸星大二郎さんの「暗黒神話」で、武っていう少年が運命に導かれるように日本中を旅しながらだんだんと神に近づいていくという展開が、古代史の文物を独自の解釈で見せようとした設定とも重なって子供心に歴史への興味を誘われたけれど、この「高天原探題」も人が神に近づこうとしている話で、それをボーイミーツガールというフォーマットに入れつつ、神に向かうか人に留まるかといった部分を出して読む人に選択を迫る。

 あちらこちらに土盛りが現れるようになった世界。とりわけ日本ではそうした土墳から見るとそこに存在していることを意識させなくなってしまう力を振るう人が現れ、またシノバズという妙な存在も現るようになって、そして見た人を行動不能にさせる事件が起こり始めていた。どうやら動機というものを奪われてしまったかららしく、人によっては食べる動機すら失って命の危険に陥ることもあって、政府は事件が多い京都あたりでそうした事件に挑む部隊を作ることになった。それが通称「高天原探題」で、シノバズによって認識不可能にされないよう注意して近づき、鉄の棒でシノバズをぶったたいて沈黙させて来た。とはいえプロでも油断すれば落ち、そして玄主と呼ばれる人が化けた者が相手だともっと大きな被害が起こっるため、常に危険と背中合わせの戦いを繰り広げている。

 そんな高天原探題に入った寺沢という青年が物語の主人公。 かつて寺沢はすべての発端となった第1号玄主が“誕生”する場に行き合わせた、というか半ば誕生に手を貸す形になって、そこからシノバズも現れるようになったけど、その責任感というより自分で土の中から引っ張り出して助けた第1号玄主の少女に会いたいという動機から、寺沢はまず京都市の公務員になり、そこから探題へと出向という形で加わって、日々の戦いを繰り広げながらも清美という名の第1号玄に会える日を待っている。そしてなかなかたどり着けなかった清美とようやく会い、誰もがすぐにその存在を認識し続けられなくなる彼女と普通に会話をしていた寺沢は、清美との中をだんだんと深めていく。もっとも。

 強いいましめを自分に課すことで、玄主やシノバズを認識し続けられる授戒者という存在が現れ、それが玄主を一種の神だと認め落ち上げるような風潮が出てきたことで、第1号玄主の清美に接触しようとする動きが強まってくる。騒動も起きてその中心と目されてしまった清美を危険だからと処分しようとする動きも出る中で、寺沢は彼女のためにいったい何をするのか。そんなストーリーを中心に、さまざまな人間が絡んで物語は進む。寺沢と同じように清美を見ても衝動が強すぎて彼女を認識し続けられるクスコロこと久須衣という少女とか、清美の兄とか寺沢の先輩たちとか。それぞれの思いや思惑を受けつつそれでも寺沢は清美を求め清美も寺沢にすがろうとする。

 浮かぶのは何者かが人を神の境地へと導こうとする意思であり、そうした意思をおしのけてでも誰かといっしょにいたいと願う人間らしい情念。どちらが正しいのではなく、どうしたいのかという部分から選び取られた未来はなるほど美しく、そして羨ましくもあってそこに何者も入り込む隙間もない。入れば馬に蹴られて死んでしまうという、そんな間柄。それにしてもそもそも土墳はどうして清美を飲み込み、そこから救われたことで彼女はら玄主となったのか。清美を助けた寺沢はどうして力を発揮するようになった清美を見ても忘れることがなかったのか。誰もが破壊せず戒めを持って生き続ける世界は素晴らしいのか違うのか。個別の謎から世界の謎までいろいろ巡らされる「高天原探題」。面白いよ。


【8月28日】 仕事はしているようだし本も出ているような記憶がするけれどそれが秋山瑞人さんのだったかどうだったかすらおお出せないくらいにちょとt、存在が希薄になっている古橋秀之さんが何とテレビドラマになって登場する。違った古橋さんの作品「ある日、爆弾が落ちてきて」があのフジテレビの看板ドラマ番組「世にも奇妙な物語’13 秋の特別編」の中の1編としてドラマになって放送される。登場するのは大鷲の健こと松阪桃季さんで自分を爆弾だという女の子を前にしていろいろと不思議に思ったりするという展開があるんだけれどラストは不思議というより奇妙というより感涙必至。だから見る人は手にハンカチを用意のこと。他の作品がゾンビだ幽霊だって絶叫系になったらそれでよだれも拭けるし。

 ちょっと話がとっちらかたり間合いがユルくなっている感じもあった「戦勇。2」は何か急にテンポが良くなって引きを使ってタイトルから本編へと持たせたところでロスと勇者クレアシオンとの関係なんかが描かれながらもそこに飛び込んできた勇者アルバの場違いっぷりがくっきり示されさらに鮫島って学ラン熱血男の強いのか弱いのか分からない描写も乗っかってもうギッシリ。でもってオチもつけずに次へと続く展開でもって引きを作ってさて来週。どうなるか分からないけれども個人的にはルキたんがいっぱい出ていればそれでオッケー。あとはヒメちゃんかなあ。でもだいたいが鎧着ちゃってるからやっぱりルキたんもうちょっと目一杯に。それにしてもいったいどこへ向かっているのか。完結するのか。しなけりゃ「3」作るだけか。それでも良いけどね。

 いやあ読んだけど小説版「ガッチャマン」(脚本・渡辺雄介、小説・和智正喜、角川書店)、映画だと説明されきってなかったところがいろいろと書いてあってあの世界がどうなっていてエージェントたちがどういう立ち位置でいったい何を考えていてそしてベルクカッツェが何者でそれがどうして映画のようにああいった人選になっていてそこでいったいどういう決断があってそもそもどういう思想的背景があってそれからラストに近い戦闘シーンはちゃんと皆が揃って戦いましょう仲間なんだから的な展開があっててんでばらばらってことはなくってそして最強なはずのカッツェがどうして敗れてその後にどうなったのかってことなんかが全部書いてあるから読めばなるほどの1冊。ゴッドフェニックスの椅子が高機能オフィスチェアな理由までは書いてないけど。だから見た人が読めばいろいろ面白がれるんじゃなかろーか。それからまた見に行けばなおのこと。映画が苦しかった人は是非に。

 というか本編を見れば予告編で感じた妙な苛立ちも解消されるんじゃないかと思うけど。例の「俺は1000万人の命を救うために1人を犠牲にするという考えを否定する」というセリフが醸し出す、正義の味方なのにどうしてそのために動けないんだ、たとえ仲間だってその1人の犠牲で世界が助かるならそれを貫くのが正義の味方だし犠牲になったって本望じゃないか、って突っ込みも本編ですぐに続く「全員を救う」というセリフを聴けば、健はエゴイストでもなければヒューマニストでもない、純粋な正義のヒーローなんだってことが分かるだろー。事実健は危地にあったジョーを救い全員を引き連れ帰還を果たした訳だし。それがその後にどういう展開を迎えるのか分からないという期待というか不安というか諸々も残ったけれど。

 あるいは全員を救うなんて出来そうもないことを言うことがそもそも甘っちょろいのかもしれないけれど、でも例えば川上稔さんの「境界線上のホライゾン」の葵・トーリだって誰かの犠牲の上に成り立つような世界を否定し全員を救うと断言してる。それがひとつのポリシー。そしてなおかつそうできるという自身があるなら言って良いセリフだし、信じて良いポリシーなんじゃないのかなあ。でもどこかの映画評サイトはそういったことに触れずこのドアホウがと低い点数を付けていた。その方が読者を呼べるのかもしれないけれど、それで事実を曲げるのってやっぱり不誠実だよなあ。ともあれ悪し様に言うことが妙なカッコ良さを生んでたりするような風潮だけは真っ平御免、そうした意見に倣い同じような意見を連ねるのもあんまり面白くない。諸手を挙げて誉める必要もないけれど、でも良かったところを探して積み上げていけばそれなりな点数に達するとは思うので、毛嫌いしている人も騙されたと思って劇場へと足を運んで騙されてください。良い方に。それとも悪い方? それも自分自身の判断ということで。

 ようやく読めた森田季節さんの「烈風の魔札使(マージ)と召喚戦争1」(オーバーラップ文庫)は現実世界のゲームでの強者がその腕を買われ異世界へと言ってゲームでもって争っているその国々で勇者になって大活躍するという展開。無敵のゲーマーだった兄と妹が異世界へと飛んであらゆるゲームでもって行われる国盗りを勝ち抜いていくという榎宮祐さんの「ノーゲーム・ノーライフ」(MF文庫J)に近いところもあるけれど、「ノーゲーム・ノーライフ」では既存のゲームに限らずあらゆる事柄がゲームにされているのと兄と妹が知略でもってクリアしていくのに対し、「烈風の魔札使と召喚戦争」はとりあえずトレーディングカードゲームに限定されていて、それを異世界ではリアルな効果を呼び起こす手札として使っていたりするから、あるいは「カルドセプト」をテーマにした冲方丁さんの「ストーム・ブリング・ワールド」シリーズに近いのかも。

 あるカードゲームで60何番目という結構な全国ランキングを得るに至った高校生の少年だけれど、そこに誘いを掛ける美少女あり。眉目秀麗の才媛らしい彼女だけれど実はそのゲームで9位なんてとんでもない場所にいて、少年に挑戦をしてその実力を見た上でそのカードゲームが現実の戦闘で使われている世界へと送り込もうとする。とはいえそこはへそ曲がりなのか少年は、美少女によって敷かれた歓待される国への召喚を否定して助けを求めて召喚の窓を開いた騎士の少女に応えてその国へと行ってしまう。見てくれはただの高校生で実力も不明な彼に従う騎士は少なかったけれど、戦いの中で実力を見せ国を救ったことで認められていく。そこに立ちふさがるのは少年を異世界へと送り込んだ9番の美少女。いったい何者? その正体が開かされる時を期待しつつ、紡がれる物語の中で繰り広げられる戦いを楽しんでいこう。

 いやあ面白いんじゃないか杉井光さんの「神曲プロデューサー」(集英社、1300円)。ライターからミュージシャンになったけれども特に凄いところがある訳でもなく、それでもオリジナルのCDは出してもらえて折角だからと自作のPVも作ってあげたら妙な評価を受けてデイリーの配信チャートで1位になってしまった。その前に30日間ずっと1位だった海野エリコっていう天才的なシンガーソングライターを押しのけた格好で、悦に入るもののPVの力なんじゃないかと落ち込んだりもする主人公。ところがそんな彼を自分の1位を奪ったからといって海野エリコが訪ねてきては何度も繰り返し聞く良い曲だと言って誉めたたえ、そこから恋人って訳ではなく友人に近い関係が始まっていく。

 1位になった曲がどうやら随分と前に流行った歌手の歌にそっくりだという評判が立って、けれどもそんなものは聴いたこともなく偶然だよくあるコードだと言うものの、周囲は大物歌手にはばかって主人公の言うことを信じず曲も削除してしまう。怒ったのがエリコで自分が良いと思ったものが認められないのは嫌だといい、それに押されて主人公も自分の気持ちに訴えに行き、そこで受け入れられそうにもなかったところにエリコが現れ手助けをするような形で大物歌手に主人公の才能を結果的に認めさせる。本気で作った本気のものなら本気で訴えないと。そこで曲げてしまうのは自分の才能も、喜んでくれたリスナーも否定することになる。当たり前だけれどなかなか出来ないことをやってのける痛快さ、って奴がストーリーからあふれ出る。

 そんなこんなで作曲からサウンドプロデュースからいろいろな仕事を手がけるようになっていった主人公だけれどひとつ難題が持ち上がる。英国でダンサーとして活動しデビューも決まっていながら揉めて日本に帰ってきて、そこでデビューすることになった少年をプロデュースすることになった主人公。なるほど天才的なセンスで曲も作るし歌も歌うんだけれどそれのことごとくが商業というベースに乗りそうもないもので、そうした勢力を代弁する形でプロデュースに臨んでいる主人公を迷わせる。どうしたら良い。だったらと自分の力をそこに載せて自分が信じる方向へと誘導しようとしたら少年は怒り落胆もして去っていって仕舞った。音楽が出来ないなら音楽を止めるといったエリコの言葉そのままに。

 才能は存分に認め伸ばしてやるべきだったのか、それとも自分たちの望む妥協点へと落としてもらうべきだったのか。言えることは、本当の才能を本気で出そうとする者にとてそれは命にも替えがたいものであり、また信じるに足る結果を呼ぶもの。だから少年は突っ張ったし、才能に自身がない主人公は蹴ろうとして反発をくらった。けれども実は主人公にも才能はあって、それを少年は認めてプロデュースを依頼した。同じ感性の持ち主だと思っていたら違ったことへの落胆も大きかったんじゃなかろーか。だったら主人公はどうるすべきだったのか。曲げて歪めるべきだったのかそれとも。途中で誰かに迷惑をかけようとも結果さえついてこれば誰でも納得する。そこまで信じて導いてあげるべきだったのか。そんな辺りを考えさせられるけれどもひとつ、言えるのは出て来たものが最高なら誰だってひれ伏すとうこと。落ち込んだり迷ったり悩んだりするより、作り示すしかないんだその才能を。挫折を味わい主人公も変わっただろうし自身も持っただろう。そんなプロセスを噛みしめ、あらゆるクリエーターは才能を信じて前に進め。足を踏み出せ。


【8月27日】 なんか日本マクドナルドの原田泳幸社長兼会長兼CEOが退任したみたいで2003年だっけかにマックとかつて呼ばれたアップルを経てやっぱりマックと略されるマクドナルドに来たことが、話題になったなあと思い出してはみたものの、その後の戦略ってところであれやこれや新商品を出して話題は作ったもののそれが一時のキャンペーンで終わるケースが繰り返され、その間に既存店の定番メニューは値段が上がったりセットばかりになったりと訳が分からない状態になって少なくないお客さんを話してしまって長期の低迷なんかを呼んでいた。最近は店頭でのメニュー撤廃なんかが大きな誤算で、まあ実際にセットメニューばかりを食べている方にすれば上の看板から選べば良いだけなんだけれどもいろいろと安い商品を組み合わせたい人には不便なことこの上なかった。あと言葉が不自由な方とか。

 そんな声を馬耳東風と聞き流したこともイメージを悪くしたかなあ。なるほど経営としては直営店舗を減らしてフランチャイズの比率を増やし本社のコストを下げて利益を生み出したって功績(それがブランド全体にとってどれだけメリットのあることかは分からないけれど)はあるし、何より原田さんの就任以降あらゆる店舗が綺麗になってそこに入ってずっといたいって思えるようになった。前はせまくてそして散らかっている印象があったからなあ。その意味で経営者として決して無能ではないんだけれども一時の成功体験が染みついて、それをやれば誰もがついていくるという確信を抱いてしまったことがあるいは、施策の投げっ放しになってしまったのかもしれない。吉凶のどちらが出るかってのも時の運みたなところがあるし。

 それは日本でのマクドナルド事業の創業者とも言える藤田田さんにも当てはまったことで、100円バーガーだっけセットメニューだっけ、景気がどんどんと悪くなる1990年代の後半に徹底した価格戦略を打ち出して世の中の目をユニクロと同様にマクドナルドへと向けさせて急拡大していったことがあった。そしてある程度景気が持ち直して来るなかで、お客さんの懐にも余力ができただろうなあと考え値段を引き上げる方向へと進んだんだけれども思いのほか景気の腰は弱かったのか、先行きの不安を払拭するほどに経済やそれを動かす政治が信じられていなかったのか、値上げはお客さんの離反を生んでマクドナルドは苦境に陥り藤田さんは退任を余儀なくされた。

 あそこで景気の浮揚が連動していたらどうだったのか、ってのは後付でしかないし景気動向を読み間違えたのも経営者として失策だけれどでも、それもどこか紙一重のところがある。少なくとも決断できる経営者だったしそれは原田さんも同様だったけれども時にその決断が間違った時に、潔く去っていった藤田さんのようには原田さんはできずかれこれ10年近くを過ごし、そしてなおも日本マクドナルドホールディングスのトップで在り続ける。それが果たして何を意味するのか。日本の事業会社のフロントが代わったところで何か決定的な違いが生まれるものなのか。そもそも日本的な事情を分かった施策を打ち出せるのか。その辺りを見ていかないと今回の一件の可否はちょっと判断できない。まずは何が出てくるか。名古屋バーガーとか来ないかな。味噌ダレに漬けたカツをアンコとクリームが挟んでたりする。なんだそりゃ。

 なんか泣けた。まじ泣けた。じわじわと染みだしてくる涙があった。たぶんそうなるんだろうと分かっていても、そうなるからこそ泣いてしまう自分があった。からて、っていう名前の人による「マカロン大好きな女の子がどうにかこうにか千年生き続けるお話。」(MF文庫J)に入っているのは、作者がネットとかで公開してきた短編たちだけれど、こうやって本にまとまってニコニコで人気の絵師さんなんかも加わって作りあげられた1冊。その表題作はそのまんま、マカロンが大好きな女の子がどうにかこうにか1000年を生き続けるというお話なんだけれど、そうやって生きようとする目的がマカロンを食べたいからじゃなく、知らず消えて1000年後に飛んでしまった友達の女の子に会いたいという動機が泣けた。

 だって1000年後だよ、人間の寿命の10倍だよ、普通は無理、でも女の子はあきらめないで、というよりあきらめるなんて感情を知らずに周辺にいた科学者たちに1000年生きたいといい続けて特殊な技術で不老不死にしてもらう。あるいはなってしまう。でもそうなれたのは1人だけ。周辺にいっぱいた似たような処置を受けた子供たちはどんどんといなくなってしまう。その事が何を意味するのか女の子は知っていたのかどうなのか。知らなくても会えなくなる残念さは感じていただろうけれど、でも女の子には1000年を生きて消えてしまったみーこに会う、という目的があったから後ろは向かなかった。施設を飛び出し1000年を生き続けた。いろいろなことを経験しながら。

 もうそれは本当にいろいろなことで、ホームレスみたいな暮らしをしていてマカロンをおごってもらったりと普通の(普通でもないか)日常もあれば宇宙人が攻めてきて地球の人口の大半を殺してしまったこともあった。温暖化か何かで陸地がなくなったり酷い病気がはやったり。でもそんな苦しい地球に女の子は知らず意図しないで救済の種を撒き、人類を宇宙へと導き、そして1000年の先につながる未来を作る。でも……。そうやって辿り着いた1000年の先に果たして地球は存在するのか。人類は存在するのか。激変する環境に生きる僕たちにこれから訪れる未来のとてつもない可能性って奴が、この物語から漂い出す。そして責めたてる。このままで良いのかと。

 どうしようもないのかもしれない。不老不死の少女にだってどうしようもなかったくらいだし。だからといって諦めたたらそこですべてが終わる。1000年を生きられても1000年の先はやって来ない。だから前を向く。精いっぱいに生きる。そうやったからこそ少女はたぶん、願いをかなえたんだろう。その喜びを他の人類が知ることもできたんだろう。永遠を生きることがもたらす離別の苦。永遠を生きることで見える世界の変遷。そんなSF的な主題を含みつつ、けれどもあっけらかんと永遠に近い年月を歩んでいく少女の明るさに、触れて心を喜ばせてくれる物語。だから終わりににじみ出す涙は感涙の涙。喜びの涙。わき上がる感情とともに滲むそんな涙を目尻に感じて顔を上げよう、空を見よう。

 対して同じ「マカロン大好きな女の子がどうにかこうにか千年生き続けるお話。」の最後に収録されている「嘘つきセミと青空」は、号泣にして轟涙の短編なので、電車とかで読む時は周囲に注意しよう。自分はセミ子ですという女の子が、大学に入りながらも馴染めず第一志望を受け直そうと考えている男子の部屋を訪ねてきて、そして夜になったらやってくるという数日間を過ごす話。少女の正体はまあ想像どおりだし、その身に訪れる運命も想定の範囲内。つまりはよくある話なんだけれどそれでも泣けてしまうのか、セミがしたことがその身を捨ててまでも主人公の迷いを晴らして決意させたから。なおかつそんな主人公の迷いが今を生きる若い人たちにどことなく漂っていたりするものだから。

 何かに成りたい自分。けれども何者にもなれそうもない自分。だったら諦め今を楽しく生きられれば良いんだけれど、そう割り切るほどに自分を捨てきれない苦悩というのに苛まれて人は身動きがとれないまま無為に時間を過ごしてしまって、気がついたらもう後戻りができなくなっている。いや、別に何歳からだってはじめることはできるんだけれど、それすらも気づけないで迷い悩んでいる世代に、そんなことで良いのかと道を諭してくれる物語。セミの好意に応え生きる尊さを知ることで、僕たちはそこから足を踏み出し、歩き出すことができるのだ。

 ほかの2編も命の切なさについて考えさせてくれる話。「彼女はコンクリートとお話ができる」の女の子が本当にコンクリートとお話しているのかは分からない。ただ彼女が現れてかたわらに立ってくれたことで不治の病に冒されていた少年は残り少ない日々を自暴自棄にならず淡々と、けれども確実に過ごすことができた。不思議な宇宙人ぱらぽろぷるん君の恋の話も貫かれた恋の果て、訪れた離別にも精いっぱいに生きたことが癒しとなって耐えられるのだということが見えた。登場する幾つもの目やら足やらをもった宇宙人たちがいったいどういう姿をしているのか分からないけれど、そんな彼を好きだったという少女がまるで少女なのは何だろうなあ、そういう種族もいるんだろうなあ宇宙には。そしてぱらぽろぷるん君の弔意の旅は別の星へと至ってそこでひとつの終結を向かえるんだけれど、それは別の話。

 ネット上で活躍していた人を出版の世界へと引っ張り込んで紙の本で出させることが割と増えてはいるし、そうやって生まれた作品がかつてのケータイ小説の頃みたいにひとつの傾向に偏り過ぎてそこで飽和状態を起こした挙げ句に雲散してしまうようなこともなく、さまざまなジャンルの物語が綴られては出版競争の中で選ばれ刊行されている。もちろんレベルにはいろいろあるけれどこの本に関しては読めば分かる懐かしさと切なさと愛おしさと苦しさと、そして嬉しさが滲む物語が軽めで楽しげな文章によって綴られていて、すんなりと入ってきてはじんわりと心を潤わせる。巧みな書き手を捕まえてきたものだ。この後はそしていったい何を書くのだろう。気にしたい。ネットは流石に追いかけないけどね。

 ふと気がついたら渋谷にあるJTの「たばこと塩の博物館」が9月1日をもっていったん休館となるみたいで、その後は2015年あたりを目処に墨田区方面へと移転されてJTの敷地内で営業を再開することになるんだとか。こぢんまりとした中にいろいろと世界の喫煙具なんかを置いてあってそれから土屋陽三郎さんの灰皿コレクションもあったりして、世界屈指の博物館になっていたとは思うんだけれどあの場所はなるほど商業的な一等地、置いておくのはやっぱりもったいないってことなのかもなあ、東京電力の展示場もそういやあ近くにあったけど今どうなっていたっけか。「たばこと塩の博物館」ではあとよくミティラー画の展覧会もやってて夢枕獏さんが小説「上弦の月を喰べる獅子」のタイトルに使った絵も展示されていたっけか。何度か見た。新潟のミティラー美術館にあるものらしいけれどもそっちって今営業どうなっていたっけ。だからこそ貴重な場所だった。まずはご苦労様。「空の境界」で協力に名が上がっているんだけれど出てきたことはないんだよなあ。それでも聖地なんだろうか。


【8月26日】 いやあ、見たけど実写版「ガッチャマン」、面白いんじゃないのとってもこれは。運命だとか使命だとか言われてそれならしゃあなしと思う反面で、そんな押しつけがましいものに諾々と従っていられるかという気持ちもこれありなのは人間誰だって同じもの。たとえ世界が滅びようとしていたって、その全責任を俺ら私らに押しつけるなよ的な? そんな懊悩と葛藤が時にダークサイドに墜ちることもあって、それが「ガッチャマン」という映画で表現されている世界だったりする訳で。その意味ではどこか「スター・ウォーズ」のジェダイとその暗黒面との関係にも似ていたりするような世界観。前段があって今後があるって意味から原作者が「エピソード4」とかこの作品を言っていたりするのとはちょっと違うかもしれないけれど、やっぱり「スター・ウォーズ」っぽさは感じてみたりする。

 なるほど剛力彩芽さんがもう日本にだってギャラクターが侵攻しはじめて明日をも知れない状況なのにあちらこちらを回ってブランド品を買いあさったり、弟の甚平を相手にハッキングするなら三つ星レストランのレシピも持ってきてよ健に作って上げるんだからと言ったりともう軽さ炸裂なんだけれどもそんな世界より色恋といった軽さが、世界の命運と個人の思いを天秤にかけなくてはならないシリアスになりそうな展開を救って、見ていて楽しく微笑ましいものにしてくれている。きっとだからバランスを考えての性格設定なんだよ。そんな軽さを見せながらもフッと運命に縛られた自分に悲しむところも見せてくれたりする人間らしさ。超人ばかりじゃない。それが分かって気持ちを寄せることができた。

 それから初音映莉子さん。いい味。いてくれて万全。どういう役かは分かっている人には分かっているだろうけれど、知らない人もいそうだから言わないで置くとして、ビジュアルクイーンを一身に背負って頑張ってたってことだけは断言したいその登場シーン以降、圧倒的に素晴らしかった空中戦からしばらくたって戦闘シーンがまるでなく、気持ち通い漂いはじめていた気持ちがぐっと引き締まった。目が釘付けになった。今はただひたすらにありがとうと言いたい。でも、映画は美少女だの美女をまるっと袖にして、大鷲の健を演じる松阪桃季さんと、コンドルのジョーの綾野剛さんが妙にいちゃいちゃしくさってくれる方へと大勢の目を向けさせ、その心をキュンキュンとさせる。

 つまりはそういう関係性を描くというより仄めかした映画でもある「ガッチャマン」。それさえあれば世界なんてって世のとある趣味嗜好の女性たちと、一部男性たちも含め感嘆させ吸引する設定を、周囲に剛力さん初音さん中村獅堂さん岸谷五郎さん鈴木亮平らを配置してもんわりと誤魔化していたりするところが映画という一般性をも考慮しなくてはならないメディアの仕方がないところか。でも全部ひっぺがせば女なんて世界なんて人類なんて地球なんてどうだって良いんだ、ただお前がいてくれれば的というか、それはちょっと濃すぎるけれどもそうやって見ないではいられないくらいに要素がてんこ盛りになっている。もう行くしかない、そういう趣味嗜好の人たちは。そしてラストに近い脱出シーンでメロメロになるんだ。

 本当を言うならやっぱり中盤に戦闘シーンがなくってダレてしまうこととか、潜入シークエンスに妙に時間をかけてテンポを悪くしたりとかいろいろ不満もあったりしたのも事実。倉庫での再会も2人の会話で引っ張って周囲がまるで動いていないように見えて時間の感覚がズレてしまう。そこはだから編集でつまむなりしてテンポを上げてほしかったけれど、代わりになるバトルシーンがないとやっぱり引き締まらないからなあ。あそこでだからベルクカッツェと追いかけてきた健との間でひとしきり戦いを繰り広げさせ、カッツェの強さを示して欲しかったけれどそれだと終盤の驚きが不必要になるからなあ。難しい。あとはゴッドフェニックスのシートがなぜか高機能オフィスチェアになっていたのが小道具として妙すぎた。背もたれとかヘッドレストがメッシュでひじ掛けがついた飛行機のシートって……。きっと少ない予算でやりくりしたんだろうなあ、映画がじゃなくって映画の中の組織が。そう思おう。

 一方で繰り返すけれども冒頭のスピード感にあふれた飛翔と重量感にあふれた戦闘は最高。「マン・オブ・スティール」の予告編とかでスーパーマンが相手をぶん殴るシーンの重さと迫力に感嘆して、日本じゃこれは出せないよなあと思ったけれどもなかなかどうして「ガッチャマン」も頑張っていた。CGIを担当した白組が頑張っていたのかそれとも演技指導が良かったのか。ともあれ注目のシーン。だからこそもっと見たかった。スーツについてもこれはこれでOK。どうやって着るんだろう? って考えてしまったけれども考えないことにしよう。毀誉褒貶多々あるのは理解するけれど、これはこれで十分じゃないかなあ。何しろこの後に「タイガーマスク」が控えているんだ、どう見たってガッチャマンスーツみたいにプロテクター以上のスーツを身に纏ってプロレスするなんてあり得ない設定を、堂々持ち込んでしまっていそうな映画。それを見てみないことには「ガッチャマン」がどうとかは言えない。絶対に。だから待とうその公開を。いつだっけ。

 「ウェッジ」って経済系の雑誌が「日本経済の最大リスク要因はエネルギー 今こそ原子力推進に舵を切れ」という特集をやっているって中吊りで見たんで読んでみた。なるほど科学技術の結集によって超天災でも事故を防げるようになるって話も出ていたりして、それは確かにそうなんだけれど、もしもそれでも事故が起こってしまった時のコストを考えてるかがまるで見えない。現実に福島第一原発では汚染水が漏れたり汚染された地下水が海へと流れ出して世界から酷い国だと思われはじめているのに、一向に解決する方策が見つからない現状を踏まえてどうして安全だって言えるのか。ちょっと普通は言えないよなあ。それを解決するのが科学だって話もあるけれど、だったら放射性廃棄物はどうするんだって問題が一方に立ち上がってくる。

 そこで「ウェッジ」はトイレのないマンションと言われている原発だけれど、トイレは作れるって中吊りでデカデカと書いてあって、そうか作れるのかそれはいったいどういう方法なんだろうと雑誌を開いてみたら、記事じゃあ20行そこそこで、固めて埋めればいいという方法ばかりでそれをどこに埋めるんだという点は知らんぷり。一方で石炭だの原油だのを使った火力発電所からだって有毒なものは出ていてそれは原発ほど安全に管理されてないよって話をしていたりするんだけれど、それはそれで管理するとしてじゃあ原発はどこに集めてどれだけ管理するんだ、って話をしないのは不手際も甚だしい。直接的な廃棄物に比べればまだ安全性も高い汚染水ですら漏れないように管理するにはそれなりな費用がかかる。いわんや炉心に近い部分とかどうするんだ、それはいったいどれだけ管理すれば良いんだと考えた時、かかるコストは半端ない。

 それについては小泉純一郎元総理がドイツとかフィンランドとかを視察して語った言葉ってのが毎日新聞に載っていたりしてこれが実にクリティカル。フィンランドがようやく作りあげた各区廃棄物の最終処分場を見た小泉元総理が、感想を聞かれて言うには「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」。そのとおり。安全性は高められてもその後に回すつけの膨大さを考えた時、今を境に引いて新しいことへと挑戦するしかないってことを、直観というか体感として分かっているんだろう。なおかつ立場的にも言いやすいんだろう。それとも現役でも言ったかな。とはいえ政府にとっては鬱陶しい言葉。なので遠からず自民党筋とか政府筋とかから、小泉元首相はそんなことは言ってないです的な現政権及び産業界の意見を代弁したようなコメントが出てきて、それを安倍ちゃん大好き新聞とかが喧伝してネットを中心に「また毎日がー」といった反応を盛り上げ、メディア批判に文脈をすり替える可能性も少なくなさそう。下らないけどそれがメディアであり今の政治。惑わされずに考えよう、何が真理かを。

 紅玉いづきさんの「サエズリ図書館のワルツさん2」(星海社FICTIONS)は千鳥さんという就活中だけど落ちてばかりの女性がすがるように図書館のボランティアとなって、その中で自分がやりたそうなこと、本の修復という仕事を見つめ感じて進んでいこうとするストーリー。それがだいたいのメインになっている。最初っからこれと決めて突っ走るんじゃなく、今の自分に不安があってやりたいことも見つからない中でぼんやりと未来を描き自分の想いを探りそこへと続く道をたぐり寄せていく展開が、若くしての決意なんてできない人間の心理を掴んでいて良かった。22歳とかそんなものでくっきりと未来を描いている人間なんて多くはいない。選択肢が広がり豊かでもいられる現代ならなおのこと本当の道なんて分からない。でもそれで良い。何となくぼんやりとした中から探り選び掴目めば良い。そんなことを教えられる。

 大戦争で朽ちた世界に生きる大変さのような描写は少なく、専ら千鳥さんの自分探しとワルツさんの犬びっくりが描かれる新刊。ワルツさんが本の在処について分かるようになっていて、その場所まで追っていくという展開もあったけれどそれが何かミステリ仕立てになっているってことも今回はなかった。SFっぽいのはだから、本がデータになればもう紙の本なんて入らなくなるの? といった近未来に起こり得る現象についての問いかけで、そこで本は本であるから本なんじゃないかといった答え、やっぱり中身が最重要で見てくれは何であってもかまわないという答えが入り混じって本好きを惑わせる。ましてや本の修復に生涯をかけてきた老人にとって、死刑宣告にも等しい言葉なのかも。だから諦めようとして、それでも諦めさせない気持ちがそこに載って動き出す。やっぱり形があって修復すれば永遠とはいわないまでも残る本が良いんだよ。データなんて10年後に本当に読めるのか分からないってのはCD−ROMで存分に味わっているし。そんな本についての思考を楽しめる1冊。おまけの掌編では意外な人物の意外な過去も明らかに。自分が自分でいられる場所って大事だよねってことで。


【8月25日】 ジョーさんでもやっぱりかなわないのかベルクカッツェには。鎖みたいになって自在に振る舞う相手に手も足も出ずつかまれ投げられ潰されそして心の奥を刺激されて挫折の心を誘われる。例の手帳すらはがされてしまってもう実質的には死んだも同然になったところをうつつちゃんが来て手かざしをして治してはいたもののはたして再起は可能なのか。でもそんな仲間を見てもはじめは動ぜずむしろ楽しげにベルクカッツェを相手に問答をして相手の妙な興味を引きだしその場を引かせて戦闘はひとまず終結。被害も多そうでいったいこれからどうするの?

 ってところが「ガッチャマン クラウズ」興味なんだけれどJJ様はまるで動かずパイマンことパンダ野郎は逃げ出す始末だしなあ。やっぱりだから挑んで敗れて手駒のCROWDSを破壊された爾乃美家累をガッチャマン側に引っ張り込んでその崇高で前向きな心を戦いへと向かわせるんだ。見たいなあ変身シーン。服が全部敗れて裸になってふくらみが……ないんだ上には、そしてあるんだ下に。それはちょっと。それはともかく真正面からベルクカッツェに向かっていったってことはダークサイドに取り込まれるって訳じゃないのか。それとも絶望した心をとりこまれて悪の女王さまと化す? それもまたひとつの興味ってことで。

 しかしやっぱり凄い演技っぷりの宮野真守さん。どこにどぶか分からない感情、それこそ四方八方に向けられ移り気でありながら執着的で偏執的でもあるけれど分散的でもあるその妙過ぎる性格を、キャラクターの表情もなければキャラクター自体が登場していないシーンで延々と演じてみせてまるで破綻を感じさせないところにしっかりと、その難しいベルクカッツェって役をつかんで気持ちに入れていることが伺える。対するはじめ役の内田真礼さんも自分の本心を見せず、っていうかそれが裏も表もない本心だけをずっと語り続けてベルクカッツェのとっちらかって筋の通ったキャラクターと対峙してみせる。

 そのやりとりの機微から浮かぶコミュニケーションの難しさと、けれどもあるいは彼女だったら何かしてくれるかもという期待。それを声から感じさせてくれるところにプロフェッショナルな声優さんたちの凄さって奴を改めて思い知る。そんな方面からも楽しませてくれそうな「ガッチャマン クラウズ」。これがあって「ガッチャマン」の面目も保たれたっていうか。実写版映画ってそんなに凄いのか? 予告編を見ている限りはガッチャマンスーツはアンドロイドマツケンの延長みたいだし南部博士は新春かくし芸大会の英語劇に出てきたマチャアキの変装レベルだし。これで美少女とか出てこなければ最悪だけれどその辺、カッツェなりジュンが頑張ってくれているのかな。いつ見に行こうかな。

 そうそう宮野真守さんといえば今日が最終日だった「アニメロサマーライブ2013」にオープニングから登場しては水樹奈々さんとコラボしたり、「うたのプリンスさま!」のチームに混じって登場したりソロで出てきたりと大活躍。どちらかといえば女性シンガーが多くてそれを目当ての観客も多いアニサマだけれど今年はそんな「うたプリ」メンバーに入っている鈴村健一さんもソロで歌ったりして女性ファン的にも楽しめる内容になっていた。鈴村さんの唄を生で見るのははじめてだったけれど、これが実に巧かった。というかロックシンガーみたいだった、「ポルノグラフティ」のリードボーカルみたいな声質で。なのに演じると木訥な好青年が多かったり。嫁さんは美人だし。うーん不思議な才能。

 まもこと宮野真守さんはもう身長が高い上にマスクも甘くて目立つめだつ。ダンスも見せてくれたし男性声優でアイドル的な人気を持ちアーティスト的な活動ができる今は筆頭に位置しているんじゃなかろーか。他にいるとしたらGRAND RODEOの谷山紀章さんか、でも谷山さんの場合は完全にロックユニットとしてやっていてアイドル的なところは微塵も見せないから。来年早々に埼玉アリーナでライブもやるみたいでどんなど派手な舞台を繰り広げてくれるか、ちょっと楽しみ。サポートに入っているドラムの人のパワフルでお茶目な姿も楽しいし。でも行かない、というか行けないよ女性ばっかりギッシリの会場に。いつかまた何かのアニメ関係のフェスで見よう。ANIMAXのライブには出たっけ?

 そんなアニサマで今回見ていて強く印象に残ったのはやっぱり小松未可子さんのシンガーっぷりかなあ、元より歌の世界に生きていた人が声優もやるよーになったところがあったけれど、最近はそっちの活動がメインになってて「モーレツ宇宙海賊」での加藤茉莉香とか「レントヘッド」の近衛アンサーとか演じて男女両方を行けそうな技巧っぷりも聞かせてくれている。でも会場で歌われた「神様のいない日曜日」のエンディングテーマ「終わらないメロディーを歌いだしました。」は深々とする空気感の中に伸びやかな声が静かに響いてとってもメロディアス。目を開かないで没入して歌う姿はどこかトランス入っているような雰囲気すら感じさせた。

 顔立ちも整って歌は抜群。そのままアーティストをメインにして「カウントダウンTV」とかでも歌ってもらえば一般にも広まりそうな気がしたけれど、それと本人が望んでいるのかアニソンのややアーティスト寄りで行きたいのか。分からないだけにちょっと先が気になる。まずは行ってみることだけれど、安全かなあライブとか。あとはやっぱり水樹奈々さんが登場して歌った「宇宙戦艦ヤマト2199 第七章 そして艦は行く」のエンディングか。すべてが終わった後に流れ切々と歌われるあの歌の解放感がまんま会場に響き渡って、長いライブの終幕を飾るに相応しい空気感を醸し出していた。いやまあその後も何曲か歌ったんだけれど今回はこれが聞けたのが嬉しかった。ちょうど映画見たばかりだし。シングルいつ出るんだろう。エンディングだけ集めたアルバムとかは出ないんだろうか。

 いやもう愚劣としか。あるいは稚拙としか。ここん家が掲載している「曲論」だの「言いたい放題」だの「至極御免」だのとタイトルにつけけたネット向けコラムのことごとくが、中学生の作文以下といったレベルで読んでいったいお前は何が言いたいんだと思ったり、あるいは言いたいことのために都合の良いエピソードだけ並べて書いたコラムなんて読んで誰だって牽強付会っぷりに苦笑するぞと思ったりしてはいたけれど、しかしこれはもはやヒューマノイドが書いたことすら怪しいレベル、あるいは8ビットのコンピュータがふとした弾みで生みだした日本語に見える言葉なのかもしれないとすら感じたんだけれど、でも現実にそれが乗っているのは名のある一般紙の看板を背負ったウエブサイトだから困ったこのというか、もはや症状は末期を過ぎているというか。

 曰く「アイドルグループAKB48も一生懸命に汗をかいているが、芸能界、ステージという虚構の上で開催される総選挙での一生懸命は、ゲーム感覚で、どこまでもひとごとでいられる。だが甲子園でのそれは、見るものに迫ってくる。本気で生々しい汗を、今の若者は敬遠しているような気がしてならない」。おいおい甲子園の野球だって英語でいうならゲームだろ、だから終わったときにゲームセットっていうんだろ、という突っ込みはさておいて甲子園で学生たちがスポーツをしている汗と、アイドルグループがステージ上で歌い踊って流す汗に差なんてないどころか、むしろプロフェッショナルの世界で何のバックアップもないなかを、練習してメンバーになりそこでステージに上がる資格も得て歌い踊って稼いでいるAKB48の流す汗の方がよっぽど本気で素晴らしい。

 甲子園の汗なんて言ってしまえばアマチュア野球の、それも高校生に過ぎない奴らの部活の延長。敷かれたレールの上、はめられた枠組みの中で切磋琢磨している汗がプロフェッショナルの血涙混じった汗にいったい優るのか。同等とすら言うのも難しいとすら思うんだけれど何であれ目的に向かって越中する人たちの汗に優劣はないと見るならそれは等価であって、優劣を付けて語るものではないし語れるものでもない。それを何の根拠もしめさず語ってしまえる脳の回路はいったいどんな短絡か。そもそも回路があるのか。それ以前に脳があるのか。開いてみたくなる。空っぽだったらどうしよう。

 さらに曰く。「昨年の紅白歌合戦で、美輪明宏さんが歌った「ヨイトマケの歌」に反響が大きかったのは、この歌を聞いて、本物の汗の大切さに気づかされた人が多かったからではないかと考える」。もう戯けかと。炭鉱町でそれこそ明日の命すら知れない中を必死で生きている人たちのこれこそ本物中の本物とも流す汗が、たかだか甲子園で球遊びに勤しんでいる子供たちの汗に等しいと言ってしまえる神経が分からない。神経の存在すら疑わしくなる。いやだから炭鉱町の汗も甲子園の汗もそこに優劣はつけたくないんだけれど、でも考える方はやっぱりそこに差異を見るだろう。

 工事現場で流す汗にしろ、サラリーマンが夏の最中を背広姿で外回りしながら流す汗にしろ、そこにある生きるために必死になっている姿を甲子園の球児の汗と比べられていったい誰が嬉しいか。だれが共感なんてできるのか。そういった考えなしにただ1点、甲子園を褒め称えたいという気分から情報をかき集め都合の良い部分だけを並べてつなげた文章に、深みも重みもあるはずがないし意味すら存在していない。だからあちらこちらから突っ込まれまくっているんだけれど当人だけが、そして媒体だけが誹らぬ顔でアクセスが多いと悦に入ってる姿を想像するともう、未来なんてものの存在が信じられなくなる。明日にだって消滅したって不思議はないけど、でも案外にしぶといんだよなあ。どうしたものかなあ。


【8月24日】 そして午前0時から始まった今敏監督を追悼するオールナイトは、「パプリカ」で千葉敦子とそしてパプリカを演じた声優の林原めぐみさんを迎えただけでなく、マッドハウスで今敏監督を支えたプロデューサーの丸山正雄さんと、そして今敏監督夫人の今京子さんも登壇して実に1時間近いトークショーが繰り広げられて、そこで丸山さんと今敏監督の「PERFECT BLUE」での出会いから、へそ曲がりな今敏さんが何をやらかすのかを想定しつついろいろと企画を投げていった話をしつつ、例の「夢みる機械」についても言及。とはいえ詳細はなく、やりたいことはやりたいけれども当人がやって3年かかるから、それを別の人間がやると30年はかかるといった話になった。これを実現が難しそうととるかそれでもやってくれるんだと見るか、受け止め方にもいろいろありそうだけれど願えばいつか思いは叶うと信じて願い続けたい。

 まあでも肝心なのは、今ある今敏監督の作品を忘れずに見続けていってあげること。こうやってオールナイトが組まれ、しっかりと観客が満員に入るのは素晴らしいことでそれだけ今敏監督が認められていたと思うと同時に、新しい人にもちゃんと伝わっているんだということも見えて嬉しくなった。ただ今回の「千年女優」と「パプリカ」の上映はいずれもフィルムで、だから去年はまだ設備が残っていた「バルト9」でも最大のシアター9ではなく今年かろうじて設備が残っている250人前後のシアター8になってしまったことは残念というか、ファンは増え見たい人は多くなっているにも関わらず、上映できる環境がどんどんと減っているという作品の寿命とはまた別の理由が、映画そのものの首をしめてしまわないかとちょっと心配。池袋にある「新文芸坐」はフィルム上映施設が残っているから、アニメの古い映画なんかもオールナイトで上映されるけど、「ドリパス」が使う劇場じゃないからなあ。素材と設備のますます広がる乖離をどうやって埋めるのか、素材をデジタルに移すといってもその金は……。クールジャパンとかいってる国が何とかすべき問題なんじゃないかこれ。

 さて「パプリカ」はいったい見るのは何回めだろう。前回見たのは同じ今敏監督の追悼オールナイトだったっけ、家にはパッケージもDVDとブルーレイがあるから見ようと思えばいつだって見られるんだけれど、終盤で巨大化するすっぽんぽんの千葉敦子を見上げるように楽しむには、やっぱり劇場が最適なんだ、ってそこかい見どころは。あとはパプリカの腹に手がめりこんで、皮が1枚剥がれて中からすっぽんぽんの千葉敦子が出てくるところか。人気だな千葉敦子。いや僕的にってことだけれど、その怜悧な感じと別にパプリカという人格も盛っていたりする二面性がやっぱり魅力。ツンケンとしたところがある科学者美女って意味だと、「宇宙戦艦ヤマト2199」の新見薫も似てはいるけどあっちはヤマトじゃ白衣を着てないし、妙にベタっとしたところまるし。スタイルと眼鏡は魅力なんだけどなあ。いやだから千葉敦子を楽しむ映画って訳じゃないんだけれど、そういうフックが1つでもあればいつまでだって見ていられるというのが映画の魅力。だからこうして愛され続けるんだろう。別に全員が千葉敦子をフックにしている訳じゃないんだってば。大半はそうだろうけど。これ絶対。

 そして「千年女優」は何時以来だろう、渋谷のシネセゾンが閉館になるときに行われた劇場作品4本とそして「オハヨウ」も含めた5作品を一挙オールナイト上映した時以来か。「新文芸坐」のオールナイトでは「千年女優」は確かかからなかったんだっけ、どういう事情かは知らないけれど。ともあれ「千年女優」をシネコンという最強の音響環境を用意できる場所で見られたのが最大の収穫。気分としてはもうなくなってしまった三軒茶屋中央劇場という昭和の香りが色濃く残った劇場で少ない観客の中、薄い背もたれの椅子に座って見た時が映画の内容とのマッチ具合もあって最高だったけれど、音響ではやっぱりシネコンが優る。そしていろいろとあったラストに流れる平沢進さんの「ロタティオン (LOTUS−2)」の雄叫びのような歌声が館内に響き渡るにつけ、見てきた映画の感動がジンワリと浮かんできて、得も言われぬ心境になるのは最初に恵比寿の東京都写真美術館で、文化庁メディア芸術祭の1つとして初上映された時と同じか。あの時は後ろに座っていた今敏さんに「完璧でした」と言ったものなあ、誰こいつって思われただろうけど。

 そんな初見からやっぱり変わらないのはラストシーンにおける千代子の一言。それが誰かを思い追いかけ続ける女性の永遠に変わらない恋心というものへ感情移入していた人たちを、たぶん凍りつかせるものとして非難されることもあるってのは承知しているけれど、でもこれは愛とか恋とかの映画ではなく、“女優”がテーマの映画。その役になりきりあらゆる状況で演じきって観客を、悪い言葉でいうなら騙す女優が平地に有り体に存在する色恋沙汰なんかに拘っているなんてはずがない。そういうものに耽溺している風体も含めて世間に対して“演じて”みせているのが女優というもの。だからこそその生涯を終えて彼方へと旅立つ千代子が、それでも振り返らず阿らないで発する言葉として、あれほど相応しいものはないし、あれ以外に相応しい言葉なんてないと、僕は思うんだけれど世間はやっぱりこだわるのか。もしも違う形で世に出ていたらどういう印象を受けたかなあ。10年以上を経て今に引きずる作品にはならなかったかもしれないなあ。こればっかりは判断できないや。

 それは宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」でも言えそうで、ラストシーンにおいて戦争の痕跡を傍らに丘を歩く堀越二郎に対して、幽霊となって復活したかのごとくに現れた菜穂子が「あなた、生きて」と呼びかけ自分は去っていく、あのシーンはつまり戦争というものに荷担する道具を作ってきて、それに関して内心穏やかではない感情を持っていた二郎に対して、それでもあなたは自分が信じる道を歩いてきたのだから、それを続けるべきなんだ、自分はもうそこにはいられないけれど、あなたはあなたで生き続けなさいという献身と情愛の感情が、あふれ出るシーンとして映画を見終わろうとする人に感動を与え、感涙を誘った。けれども、絵コンテの段階では、「生きて」は語感こそ似て意味はまるで正反対の「来て」になっている。死んだ菜穂子が「来て」ってそりゃ一緒に死ねってことなのか、あるいはもう既に二郎は死んでいて自分の方に来れば悩みなんか忘れてしまえるよって誘っているのか、分からないけれども受けてカプローニと二郎が自分たちも行こうと言っていたりして、それは菜穂子とはまた違う罪を背負った者が行くべき場所に行こうと言っているのか、これも分からないもののともかく映画とはまるで違った印象になる。

 帰って眠って起きてまたしても新宿へと行って、「新宿ピカデリー」で2回目となる「宇宙戦艦ヤマト2199 第七章 そして艦は行く」。前から2列目で見上げるような大きさでもって片足を上げて篠原を蹴落とす水着姿のメルダ・ディッツを見られてとてもとても良かった。問題はあのイスカンダルの海にひっそりと忍び込んで潜行していたフラーケンが、こっそりと潜望鏡を伸ばしてメルダを見つつ「あの無骨なディッツの娘にしては美しいが、本当に奴の娘なのか」と呟くシーンで、おいおいお前他にやることあるだろうと突っ込みたくなった、というのは冗談です。っていうかフラーケンどこ行ったんだ。あと感じたのはコスモリバースシステムの中核となるエレメントについてで、あれは初期設定の変更が可能なのかどうなのか、そしてあの後にちゃんとそうなるという確信があったからこそそうしたのか、だとしたら1人を救いつつ1人を見捨てる態度は評価すべきなのかどうなのか、ってことか。考えるといろいろ浮かんでくるけど今はまだ言わない。デスラーってどうしてあそこまでしっちゃかめっちゃかなことをしでかしたのかも。愛? 正義? それにしてはやっていることが妄想的なんだよなあ。いずれ出る分析を待とう。とりあえずブルーレイは予約。2回見たんで用紙が1枚残ったけど買い足すかどうするか。考えよう。


【8月23日】 まいったぜ、イズルのアサギへのあの一言。割とシリアスに深刻な顔をして胃を痛めながらも真実を開かしたアサギもきっと、それを聞いて「へ」ってな気分になっただろー、っていうか実際そういう表情になっていたし。いやむしろ驚くのはその父方のDNAが誰でありまた母方のDNAがイズルの場合は誰かであってつまり見かけに寄らずあの娘さんて相当な感じなの? それともイズルたちって割と促成栽培されて数年で世に出てきたりしているの? 分からないけれども問題はそんなイズルのテロメアが短くなって死すら想定に入ってきているところ。あっけらかんとしながらも深刻な設定を混ぜて引きつけるところに「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」の凄さって奴がある。これはもう本気で今期ナンバーワン。2位は「波打際のむろみさん」かな。「ガッチャマンクラウズ」はどこまで追いすがるかな。

 持ち前のガンアクションにキャラクター性も乗って、ちょうど良いバランスとそして爆裂した展開で世間の話題を集めるか、と思ったら案外にしっとりとした滑り出しだったアサウラさんの「デスニードラウンド」シリーズだったけれど、群馬栃木間戦争とか北海道独立戦争とか何か深い背景設定がありそうな上にドナルドじゃないマスコットが不死身となって大暴れする展開の容赦無さでもって読んだ人の脳を粉々に粉砕したみたいで、ジリジリとファンが増え始めていただろうところに登場した第2巻「デスニードラウンド ラウンド2」(オーバーラップ文庫)は、これまたピーポ君ではないP君とゆー着ぐるみが登場しては大暴れするのを、警備会社に入った少女とその友達や仲間たちが迎え撃ち叩きのめして退ける。いやもう徹頭徹尾のガンアクションにバトル大好き読者は喝采を上げることだろう。

 事件の発端はどうやら1人の少女の死。いじめられていたか何かしていた彼女が相手を恨んで書きつづって残した言葉を受けてなぜか正義の味方のP君が立ち上がる。恨んでいた相手を引っ張り込んでは監禁して、足を撃ち腹を割いて中にスマートフォンを突き刺し絶命させては海へと投げ捨てたり鎮めたり。前にもそうして殺害した人が沢山いるようだけれどそれをどうしてP君が、といった辺りは単純に正義の味方だからという理由では収まらない心情があり、そしてそもそもどうしてP君が、といったあたりに警察にもある秘密の組織の秘密のお仕事が浮かび上がってそこで作られた着ぐるみが、とてつもない力を持って本来なら警備あたりが中心だった仕事を逸脱して、そのパワーを己が信じる正義に向けてふるおうとしたことで事件は起こった。

 そんな対象の1人に、とてつもない謝金を抱えて生命保険にたっぷりはいらされ、そして銃規制がなくなって誰もが銃を持てるようになった日本で傭兵のような警備員のような仕事に就かされたユリという少女の学校での友達が入っていたことが、1巻目でハンバーガーチェーンの超人マスコットを相手に戦った彼女や他の仲間たちを巻きこんでのバトルへと発展していく。見た目はフワフワとして巨大なP君だけれどその中身は科学技術の結晶で、バイオテクノロジーも使って1人の人間を巨大で強靱な着ぐるみと一体化させ、戦わせることが可能となっている、そのうちの1体がどうやら開発した警察の業務を抜けて復讐に走ったらしい。その理由にも実は1つの悲劇と自嘲があるんだけれど。

 ともかく半端のない強さを持ったP着を相手にユリは仲良くなった宇佐美玲奈という少女を守りながら戦ったり逃げ回ったりするはめとなる。仕事ではなければ動いてくれないドライな関係の仲間を当てにするのは難しいかもしれないという状況。けれども内心ではユリを救ってあげたいという気持ちの矛盾にどう折り合いを付けるのか、ってあたり繰り広げられる底抜けの笑顔っていうのが気に入った。見ていれば気持ちよくなれる相手の笑顔を失うってのはそう、お金が減るより悲しいことなんだ。そんなこんなで一党とP君のバトルが始まりやがて決着を付けるストーリーから読んだ人は誰か悩んでいる人がいたら積極的に救ってあげよう、無関心こそが相手を1番絶望させるのかもしれないと考えよう、なんてこを思わされる。あとP君の倒し方。それを学んでおけば次に何が来たって安心だ。次も着ぐるみが相手とは限らないけど。でも2回続いたからそれが定番になっていったり。誰が最強なんだろう。

 「愛する人よ、自刃か、然らずんば死か、しばしの間、涙を湛えて、微笑せよ」と言葉に聞き覚えがあって、記憶をひっくり返して、それが1995年にNHKで放送されたドラマ「涙を湛えて微笑せよ 明治の息子・島田清次郎」に使われていたタイトルだったことを思い出す。タイトルを付けたのが脚本を手がけた早坂暁さんなのか製作したNHKなのかは分からないけれど、記念碑に選ばれたその1文から読みとれる、苛烈でありながらも繊細で苦渋を超えて突き進もうと足掻く青年の姿こそが、島田清次郎という作家を現すに相応しいと考えたのかもしれない。精神科医の風野春樹さんが書いた評伝「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」(本の雑誌社、2500円)の終章で、この墓碑銘を添えて結末としたこともだから、そうした島田清次郎像との重なりを感じたからなのかもしれない。だからこそ墓碑銘に選ばれたのだとも言えそうで、島田清次郎自身が好きだったという裏側にも、時に傲慢ながらも内奥は繊細で、自分をどう見せたいか、見て欲しいかを考えてこの言葉を生みだしたからという理由があったのかもしれない。

 その生涯については波瀾万丈で、ドラマでもそう描かれていたし風野春樹さんが最初に島田清次郎という作家を知ったきっかけになった、そして同世代の少なくない人がやっぱり同様に島田清次郎の存在を知らされた森田信吾による漫画「栄光なき天才たち」の一編にもこちらは絵でもってそう描かれていて、遠く金沢で苦境に喘ぎながらも文学を目指し、新聞社に入って健筆をふるいながらも作家を夢みて上京し、そこで認められて幾つもの賛辞を絵ながら「地上」を出版して一気に大ベストセラー作家となってそして交流を深め、外国に遊んで見聞を広めてまさに世界の帝王たらんとした一方で、傲岸不遜な態度が見とがめられるようになって友人を失い、慕ってきた少女を相手に事件を起こして文壇から抹殺された果てに狂気を発して精神病院に入れられ、そこで死んだというそんな評伝が、「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」にもより詳細な形で綴られる。

 漫画ではさっと流されドラマではもちろん触れられもしなかった、当時の文壇に生きた人たちが残した日記や作品の片隅から島田清次郎の動勢を選び抜いて書き連ね、その言動がやはりどれだけ当時の人を辟易とさせたのか、といった辺りを浮き彫りにしているのが流石というか、ライフワーク的に研究してきただけのことはあるというか。登場して来た時の生田長江や堺利彦による賛辞は記憶だと漫画にもあったけれど、芥川龍之介の評とかあったか思い出せないし、読んだ人による絶賛の投稿なんかも拾って最初のスターぶりを伝え、一方で事件を起こしたあとに止まる場所もなくなった彼が、泊まり歩いたかつての友人や師らの家で見せたふるまいが、“被害”にあった人間たちの日記などから拾われていて、やはりそうとうに頭に来ていたらしいことが伺える。いやどうだろう、それはしがみつく当てのない彼がそれでも必死に手を伸ばした姿が、傍目には滑稽で傲慢に見えただけなのかもしれないし、元より誰かに気に留めて欲しい彼が、それを傲慢さでしか表現できないセンシティブさを見せていただけのことかもしれない。

 そう繊細で臆病。誰かの目が気になり誰かに愛してもらいたいと願いそのためには自分を推しだし自分に感心を持ってもらい無関心でいるなり背中を向けるようならより強く自分を出してしまってそれが奇矯な振る舞いと受け止められる悪循環。成功している時はそれでも成り上がりの傲慢さを周囲も笑って流したところを、落魄した身となると途端に鬱陶しがるというのも厳禁というか寂しい話というか。でも仕方がない、それを稚気だと認め受け入れるだけの度量をもった友人知人を結果的に遠ざけてしまって来た訳だから。自業自得。問題はそうした状況が精神病院に入って後、しばらくして心身が持ち直しはじめた時にも続いてしまったことで、ここで誰かが手を差し伸べ、奇矯さを抑えつつ才能を伸ばしていたら果たして今に残る大作家になっていたかどうなのか。難しいかもしれないなあ、彼は狂気の中に死んだのではなく体を病んで死んだのだから。

 漫画でも杉森久英の「天才と狂人の間」でもあまり触れられていなかった、そんな精神病院での島田清次郎の様子について多く触れられているのもこの「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」の特徴で、誰が訪ねてきてどこが書きたてたかをちゃんと調べて紹介している。新聞雑誌を探りいろいろな人の記述を追ってあつめた努力たるやいかばかりか。それはただ一言に「狂人」という言葉で括られてしまい、世間から抹殺されてしまった人間であっても、本人はちゃんと生きて思考し行動していることを、日々の職業から見知っていて“なかったこと”にできなかったから、なのかもしれない。そして精神科医としての知識を生かして、「早発性痴呆症」と診断され漫画にもそう書かれていた島田清次郎の症状が、現在でいうなら「統合失調症」であって治療の余地はあり、直れば普通に暮らせることを知って現実には訪れなかった“その後”に思いを馳せてみたかったからなのかもしれない。

 もうひとつ、興味深いのはこれも漫画で紹介されていた一編の詩、「明るいペシミストの唄」についての指摘でなるほど「わたしには信仰がない。わたしは昨日昇天した風船である」から始まって「でも太陽に接近する私の赤い風船はなんと明るいペシミストではないか」で結ばれる詩について「かつてのような傲慢な態度はすっかり影を潜めており、静かな絶望と諦観が胸に迫る優れた詩だと思う」と評価する一方で「これまでの清次郎の作品と比べると、どこか技巧的すぎる気がするのである」とも指摘している。この詩が外に出て雑誌に掲載された経緯に、偶然隣に放り込まれた人間が受け取ったということがあるならその間に、本当にやりとりがあったのかそれともどこかで誰かの手が入ったのか。ずっと島田清次郎の生涯を追いその作品に共通する真っ直ぐさを受け止めた身にはどこか、違和感が浮かんだのかもしれない。

 もちろん原稿が残ってない以上は想像でしかない訳で、それが事実かどうかも不明。あるいは歳を経て諦観を得つつ自嘲も覚えつつ、再起へと居住まいを正したからこそ生まれた一編なのかもしれない。どうだろう。いずれにしても世を去って80年も経って調べ尽くすには時代が離れすぎた作家。というよりあれだけ大ベストセラーとなり一世を風靡しながらもものの5年ほどで消えてしまってそして戦後、ずっと口に上らす省みられることもさして多くはなかった作家についてここまで改めて調べ直し、なおかつ独自の視点も加えて評してみせたその努力たるや、よほどの情愛を島田清次郎に対して持っていたのかと考えるよりほかにない。たった1人、母親だけが愛した島田清次郎を時を超えて愛した1人の精神科医がいて、その筆先から紡がれた像からいったい、どれだけの愛する者たちが現れて未来へと、島田清次郎を運んでいくのかが今は楽しみだ。

 深夜早朝にかけて上映される今敏監督のオールナイトのチケットを請け出しに「バルト9」に行ったついでに今日のプレミアム上映にあわせてグッズの販売も始まっていた「宇宙戦艦ヤマト2199 第七章」のパンフレットとかを手に入れに「新宿ピカデリー」には長蛇の列が。さすがに人気の作品だけのことはあると関心しつつぐるっと見渡してとりあえず新見薫さんが描かれたクリアファイルと防衛大学校の校章とあとプラモデルもはじめて買ってとりあえず劇場を後にする。クリアなヤマトはやっぱり買っておかないとなあ。後はプレミアム上映に戻ってきてそこでブルーレイの購入シートをもらえば第1章からのコンプリートはほぼ完了。とはいえ上映時間も短くされていたりするだけに完成はいつになるのか。テレビの放送には間に合うのか。興味も覚えつつ戻りそして夜。

 始まった「宇宙戦艦ヤマト2199 第七章 そして艦は行く」のプレミアムナイトでアベルト・デスラーのもういったいお前何がしたいんだ的作戦が炸裂してそしてヤマトのこれまた超格好いいじゃん的攻撃が放たれやがてイスカンダルでこれはいったいどこのネルフ本部だ的な少数精鋭ぶりを見せられその後に帰ろうとして帰るんだけれど道中いろいろあったりする展開が、前と同様に語られるんだけれどそうした結果は同じながらも過程がいろいろ違っていたり意味づけも代わっていたりして、より理解と納得の得られるシークエンスになっていた、ように思った。いろいろと間引かれているんだろうけれどもちゃんとつながっていたから完成版はより完璧な展開が見られるんだろうと期待。とりあえず言いたいことは2つ。水着万歳。そして薮ーーーっ!


【8月22日】 例の「スーパーマン」というか「マン・オブ・スティール」の公開に合わせて来たらしーザック・スナイダー監督が何か聞かれて答えて映画に日本のアニメや映画からも影響を受けているそうで、そこで固有名詞として「鉄腕バーディー」を挙げたとか。どの「鉄腕バーディー」なのかは分からないから昔の三石琴乃さんが声をあててた時代のものか、それともリメイク的に始まった漫画を受けて製作されて千葉妙子さんが声を担当している「鉄腕バーディー DECODE」及び「鉄腕バーディー DECODE:02」を指しているのか、判断できないけれどもどっちにしたってバーディーなんで、それに影響されたってことは「マン・オブ・スティール」、普段はボンクラな女子高生に天から降ってきた宇宙人が合体して、いざという時に変身して戦うことになるんだけれども全身タイツのモッコシを、鏡に写して見て中の女子高生が赤面するという話になっているんだと思いたい。さてどうなるか。見に行くしかないかなあ。

 「はだしのゲン」を学校図書館に置くべきかどうかという問題の難しさはそれが図書館法によって自主独立が認められた一般図書館とは違って、学校図書館法に教育を目的としている旨が記載されていたいりするからで、見た目にエロだのグロだの多い作品を大人のコードではオッケーでも、やっぱり子供にはと思う人がいたって当然で、だからこそ映画なんかはPGとかR指定なんかがあったりするんだけれど本にそれをやるのはやっぱり検閲だらちょっとやれない、けどそれはオールフリーとは違ってやっぱり見せる側に判断が任されているんだという理解なら、ひとつの基準としてやっぱり拙いんじゃねという判断があっても仕方がないと見たくなる。それすらも含めてオープンにして子供に判断を任せるべき、というのは何かなあ、教育を放棄し過ぎな気もするんだよなあ。難しい。

 どっちにしたってどこかの誰かが言っているような、日教組が勧めるような本だから置くのはまかりならんという意見は論外も論外で、それは日教組が勧める本だから置くべきという意見と裏表の関係でしかない。ようは自分がどっちの側にいてどっちを敵視しているかとうだけのこと。あと自分が読んであんまり感動もしなかったし勉強にもならなかったと言って不必要を言うのも、自分の感性の貧しさを広言しているだけだからあんまり言わない方が良いんだけれど、「はだしのゲン」は日教組が勧める本だから大嫌いだ、日本を悪くいっている本だから置くべきじゃないということを訴えたいという目的の前に、自分の感性の貧しさまでをも補強材料にしてしまっているという感じ。牽強付会というか何というか。そんなんばっかだから信頼も何もかも失っていくんだよなあ。未来よ。

 しかし本で「はだしのゲン」を読ませるより今ならシリアでいったい何が起こっているかをつぶさに見せて、それがいったい何を原因にして起こっていることで、いつか日本にも起こり得ることなのか、起こるとしたらどういう経緯を辿るのか、世界でそういったことをが起こらないようになるために、日本として人間として何をしたらいいのかを考えさせた方がよっぽど、未来のためになるような気がしないでもない。もう見るからに恐ろしい映像がネットを通じて入ってきていて、さすがに放送時ですらモザイクだったりボカシが入れられたりするくらいに悲惨な映像だったりして彼の地における多くの死が、リアルなものとして伝わってくる。それはもう泣きたくなるほどに。どうして止められないのだろう。どうして止めさせないのだろう。そればっかりを考えるけれど日本のメディアを見ていても、それは分からないしそもそもがシリアのことすら多くが触れられない。だからこそのネットの活用なんだけれど、そういうリテラシーを持って教育する場所ってのが果たしてどれだけあるんだろう。やればやったでいろいろ言われるんだろうし。参ったね。

 僕は宮崎駿監督の2万字インタビューとやらが載っている「CUT」を本屋に買いに行ったと思ったら、いつの間にか「風立ちぬ」の原作版が表紙に載ってた「SCALE AVIATION」9月号を買ってそこに掲載されている宮崎監督の飛行機談義を読んでいた。何が起こっているか分からないだろうけれど僕にはとてもよく分かっている。どんな本なんだろうと手にとってめくった場所に載ってた時東ぁみさんののグラビアが目に入ってこれはもう買うしかないと思って中を開いたら宮崎監督が喋ってたんだ。つまりは時東ぁみさんのついでかよ。でもだって時東ぁみさんだよ、2006年頃とかに眼鏡っ娘アイドルとして大々的に世には出てきたけれど、その後あんまり聞かなくなってどうしたんだろうと思っていたらしっかりこうやって活動中。なおかつスリムなのにグラマラスになっていた。もう谷間なんてものすごい。そんな時東ぁみさんは「ノーズアートクイーン」として登場。いつかその姿を飛行機の先端に描きたい。でなければ革ジャンの背中とかに。

   それはそれとして「SCALE AVIATION」の9月号、面白いよとてつもなく。読んでないけど「CUT」だときっと戦争がどうとか技術者の魂がどうとか喫煙がどうとか美少女がどうとかいった話に触れてあっていつもの宮崎駿監督の持論が滔々と展開されていそうだけれど、そこは飛行機模型の専門誌だけあって「SCALE AVIATION」で喋る宮崎駿監督は、もう模型と飛行機についてしか喋らない。もちろん「風立ちぬ」についても喋っているけれどそれも登場する堀越二郎の実在がどういった人で、何を考えどう作っていたかといった話。だから映画を観て現実の堀越二郎についてちょっと考えた人が読むとその間を、監督がどうつなごうとしているかってことが見えて面白い。海軍に言われようが親会社に言われようが分かりましたと言ってあとは自分のやれることをやる。そんな人間だったんだじゃないのという思いがあのシーンにつながったらしい。

 あと「風立ちぬ」がよく零戦を作る話とか勘違いされていて、それで零戦が出てこないと起こる意味不明な事柄ともこれは関わるのかもしれないけれども宮崎駿監督、鈴木敏夫プロデューサーから「宮さん、我慢してますよね、今回の映画は」と零戦の描写が最後にしかないことを聞かれて「我慢していないですよ、零戦を出す間で何時間かかるか分からないから(笑)」と答えてそれが目的ではなかったっぽいことを仄めかしている。続けて「あのね、零戦に夢中になって、零戦がなんとかかんとかって人は、みんな程度が悪いんですよ」とまで言ってのけて一同の「(爆笑)」を誘ってみせる宮崎駿監督。つまりは「みんな、本当は知りたくない幻影のなかに世っていたいという」。

 そして「だから僕は、零戦は出さなきゃいけないと思うんです。本当に最後の瞬間に出すんですけど、だけどもう一機も帰ってこなかったという形で……。」。もちろんその強さは認めながらも万能ではない戦闘機としての実状を認識して、戦艦大和と同様に記号化され祭り上げられないようにしたいという思いがあの、ラストシーンの残骸につながったのかもしれない。「零戦でキャーキャーいうのはあまり望まないですね、僕は(苦笑)」。ほんとぶっちゃけ過ぎ。だから読んでいろいろ分かる。目立たないし値段も張るけどファンなら是非に一読を。中にいっぱい漫画版「風立ちぬ」も載っているし。何より時東ぁみさんも載ってるし。これが1番大事なこと。ほかは「風の谷のナウシカ」に出てきたトルメキアの重装甲コルベットとか、古賀学さんが出した「水中ニーソ」がA−10って飛行機とコラボしている画像とか。それの意味は分からないけれど飛行機も女性も水中だと綺麗だということで。


【8月21日】 漫画雑誌が集めた景品を当選者に発送していなかったってんで、秋田書店が消費者庁に指摘され、そりゃ大変だって話になってはいたものの一方で、業界じゃあよくある話だなんてことも漂ってきて、そこをどうにか正常化していきましょうってことでシャンシャンと収束していくのかと思った問題が、一夜明けたら何かとてつもない大事に。過去にそういう仕事を担当して、こりゃおかしいと言っていたらプレゼントを横取りしたのはお前だろうと言われ、解雇されてしまった人がいたということが判明。順序を考えるならそういう人がいて、ユニオンに相談なんかもしている中で、消費者庁にも話を振ってそりゃあ拙いということになって公表されて、それをお墨付きとしてユニオンを通じて世に訴え出たってことになるんだろうけれど、問題はそれを受けてなお解雇と景品の未発送とは無関係と、会社側が言ってのけてしまったところにある。

 もう最悪。そして最低。事実関係については調べてみないと分からないし、裁判の過程できっと明らかにされることでもあるんだろうけれど、話の流れから想像するにやっぱり会社としてあるいは組織として、お天道様に顔向けできなさそうなことをやっていたのを指摘されて、潰しにかかったと見る人がやっぱり多そうだし、その方が蓋然性として納得できる。つまり世間はきっとそうだと思ってしまっているってことで、なのに違うそうじゃないんだとここで言い募ったところで、現実に消費者庁から指摘された問題がそこにある以上、弁明も申し開きも真っ当だとは受け入れられず、むしろ開き直って個人に罪を着せようとした非道な組織だという認識を、世間に植え付け広めることになる。少なくともエンターテインメントを扱い娯楽を扱いそして出版という、世にメッセージを放つ仕事がそういう振る舞いをして大丈夫か。これはだから会社の存在そのものを揺るがしかねない問題なんだけれど、そう自覚できていないところが何というか。だからこそこういう自体を招いたというか。いろいろと大変だろうなあ編集者の人たちも。そこで描いている作家に漫画家の人たちも。

 ああでも奈々巻かなこさんという人の「イーフィの植物図鑑1」(ボニータコミックス、429円)は、無茶苦茶に面白いんだよなあ、いやもうとてつもなく。1度死んでしまったけれど、「妖精の草(ドワーフプランツ)」という謎めいた植物を体内に入れることで、表向きは生き返ったアリオという名のプランツハンターの父と、父について歩いていたことで植物に詳しい娘のイーフィの物語。普段からよく植物に接することで、プランツハンター並に植物に詳しくなったイーフィは、植物の生を慈しんでいるんだけれど、必要とあらば人間のために使ってしまわなくてはならず、それが原因で植物を枯らしてしまうことすら受け入れなくてはならない狭間で生きている。父には生きていて欲しい。でもそれには「妖精の草」が1株を残して枯れてしまうような行為が必要だという矛盾。それは植物を人間のために使うプランツハンターの、あるいは生きるものすべての使い使われる関係への疑問と理解が絡む。

 ストーリーは、国によって公認されているプランツハンターのシドライアンが、イーフィの父アリオを生かしている植物に興味を抱いたことで動き出す。暮らしている国では異種族ということもあり、また奴隷上がりでもあって差別されていて、かつて自分を使ってくれていた大公にも良いように扱われているシドライアン。たった1人、植物庁長官を務めるクラーリスという男だけはシドライアンの才能を認め、友人として仲良くしているけれど、そんな関係にクサビをいれるかのように、大公の思惑もあってアリオ復活の鍵となっている「妖精の草」を採取するよう、シドライアンに命令が下る。そして始まる「妖精の草」探しは、そのまま旅するアリオと娘のイーフィの探索にもつながっていく。付き従うはおばさん傭兵のデラマンデ。アリオと過去に何かあったっぽい彼女の参加で、いったどれだけの騒動が真樹夫凝るのか、なんて興味がいひとつ浮かぶ。

 それ以前に「妖精の草」を体内に入れることで復活はしたものの、喋らず周囲に関心も向けない植物のようなアリオが、今回新しく「妖精の草」を入れたことで、少し変わった動きを見せることがイーフィを訝らせる。何か世界に起こっているのか。行く先々で植物に絡んだ知識を生かし、植物によってもたらされる問題を解決したりもしているイーフィの成長と成功の物語を一方に抱きつつも、そんなイーフィが抱える葛藤も描き、シドライアンを取り巻く差別の問題を描き、そして国がめぐらせる謀略を描いてとさまざまなフェーズでドラマがあって楽しめる1冊。もしもアリオとシドライアンが出会ったら何か起こるのか。世界はどうなってしまうのか。人間と植物は対等なのかそれとも相互に依存しているのかといったテーマについても考えながら、読んでいきたいし読ませてくれそう。だから続いて欲しいんだけれど、大丈夫かなあ、ボニータとか秋田書店とか。

 「橋本愛、数学で難事件を解決! NHKで連ドラ初主演 相手役は高良健吾」ってネットニュースを見出しを見てまず思ったのは「そうかいよいよ青柳碧人さんの『浜村渚の計算ノート』シリーズもドラマ化かあ」ってことだけれど、記事を読んだらまるで違って民放のドラマなんかでミステリー物なんかをよく手がけている蒔田光治さんとかゆー脚本家によるオリジナル作品「ハードナッツ!」とゆードラマだった。っておいおいそりゃあ数学ミステリーに特許も何もないけれど、40万部とかゆー部数でもってそれなりに浸透している「浜村渚の計算ノート」についてまるで無関係な顔をして、数学が得意らしい女子大生が「連続爆破テロ、密室殺人、企業脅迫事件など、数々の難事件を“数学”で解決してしまう」とゆー話を、ドラマにして果たして他からあーだこーだ言われないのかどーなのか。そこがちょっと心配とゆーか、見てまるで同じアイディアとか出てきたどーなるんだろうとゆーか。始まってみないと分からないとはいえ放送までまだある期間のうちに、そんなあたりに関する情報が出てきて「これは違うな」と安心して、そしていつか「浜村渚の計算ノート」がドラマ化される時を待ちたいものだけれど、果たして。

 何というかみっともないというか末期というか瀬戸際というか。例の福島第一原発で起こった大量の汚染水漏れ事故に関しては、当然のようにたいていの新聞はトップだったり脇だったりと差はあるけれども、1面でもって取り上げていたりするし、企業の広報誌と揶揄されることがあっても、日本を代表する経済新聞ですらちゃんと2面の総合面でもってしっかり取り上げていたりするんだけれど、そんな真っ当な判断を横目に、とある一般紙はなぜか1面では報じず、2面の総合面にも入れないで、後ろから数えた方が早い社会面でのみ展開していたりする。そういうバリューの判断がもちろん主体としてあっても良いんだけれど、客体としてある判断によればもはや国難ともいえる事態を、そうやって矮小化して報じて世間は納得するのかどうか。夕刊段階ではその危険度はレベル3まで上がって、もはや世界が顔を背けたくなる事態を、そうと認識できていないのか認識する気がないのか。分からないけれども確実に世間の気分からは乖離している。その結果起こることは、というは起こっていたりすることは。考えるまでもないんだけれど、そういう事態からも目をそむけて向かうはやっぱりメルトダウン。あとはいつ来るか、ってことかなあ。明日か。明後日か。


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