縮刷版2013年8月上旬号


【8月10日】 やっと見られた「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」は、ウルガルの軍団長がクレインにラダと一気に2人も減ってしまってた。あれだけ居並びながら順繰りに戦いに出してそして、やられ倒して乗り越えつつラスボスへと辿り着くよーな展開を、半分のクールが過ぎてなおかつ1カ月が過ぎてもとっていなかったらこの後いったい、どーするんだと心配してたらまとめてポイ。可愛そうだけれど仕方がない、弱いんだからとジアート殿下だったら言い捨てるだろうなあ。でもって気づかれたテオーリアの存在にいったいジアート殿下はどー出るか。対話が通じる相手と分かってもなお遺伝子の本能のために戦い滅ぼすのか。仲間同士で協力し合ってより大きな力を発揮する地球人類の戦いぶりに感銘を受けて真似するのか。逆にそこにつけ込むのか。どっちにしたって多分あと2カ月。うまく着地させてくれたら今年2013年でも傑作のアニメーションとの称号を与え、讃えたい。それでクロキ・アンジェってどっちなの? 付いてるの付いてないの?

 こっちはちゃんと付いてる「青年」というか、18歳ならまだ「少年」な爾乃美家累ちゃん。豊洲の高層マンションにいる時には眼鏡にもじゃっとした頭でパーカーなんかを着てぐだっているニート風スタイルだけど、外に出る時は可愛く着飾って顔にもしっかりお化粧して、すらりとした長身でもって高邁そうなスピリッツを発しながら天下を睥睨してくれちゃっている。その足下に跪いてその靴で踏まれたって良いとすら思わせる存在感。問題はそんな時に振り上げた足の奧に履いているものがちゃんと女性用なのか、ってところだけれどそこはきちんと気をつかっているだろうと信じたい。上は着けているのかな。たとえ平べったくっても、シャツが脱げた時に真っ平らでも着けていればそれなりに見られるものだから。最近はほら、ゼロから谷間を作る仕組みもとてつもなく発達しているし。

 それにしても現代的で本質的なテーマを扱っているよなあ「ガッチャマン クラウズ」は。基本的にはSNSを使って情報なりリアルな助けを求めている人たちをうまくマッチングしてあげることで、明るく楽しく平和で無事な社会を作りたい、そうすることによって権力がトップダウンで何かしなくても世界をバージョンアップできるんだと信じる気持ちでガッチャマンたちも、累もGALAXのメンバーたちも動いているんだけれど、そんな中に混じってくる突出した考えの持ち主によって、扇動され引きずられることによって綻びが生まれ強い者、利口ぶっている者が弱者を引っ張り導き“異端”は排除して秩序ある社会へと持っていこうとする動きが出てきてぶつかり合う。これって何か「マジェスティックプリンス」の地球人とウルガルとの関係にも似ていたりする。

 でもってガッチャマンたちはもう性善説の権化のように仲間が信頼し合い、長所を出し合うことによってより大きな力を発揮できる、けれどもちょっと追いつかないところだけはCROUWDSが出てきたり、ガッチャマンが戦ったりして補っていってあげるんだけれど、そこに絡んでくる謎の宇宙人ベルク・カッツェ。人間の中に眠っているちょっとした悪意や不満を引っ張り出しては暴走させて世間を混乱に陥れ、不信感を煽ってヒーローの、それも悪のヒーローの登場なんかを待ち望んでいたりする節がある。過去に星々を巡り歩いて、ぶつかり合わせて破滅へと導いた過去なんかもあるみたいで、そんな性悪説のご本尊みたいな奴を相手にいったいガッチャマンたちはどう戦うか、ってのが本筋として進んでいくんだろう。累くんはそんな狭間に立ってさて、いったいどちらに転ぶのか。本質は然なんだけれど憤りが募れば悪に転がりそうな雰囲気があるものなあ。まあ良いそれでも可愛いは正義、ってことで僕は着いていくよ累くんに、というよりLOAD GALAXに。たとて付いていたって。うん。

 さてと頑張って起き出して外に出て暑さに刺されながら東京ビッグサイトへ。なぜか金曜日ではなく土曜日が開催初日となったコミックマーケットで、とりあえずアニメスタイルのブースに行って「少女革命ウテナ」の画集を買おうとして、西館の4階にある企業ブースに向かおうとしたのが間違いの元だったというか、例年だったら4階へと直接上がる外階段を使ってまずは上へとゾロゾロと歩き、そこで大量に行列ができるブースについては外にあるフロアに行列を作らせ、スロープに行列を作らせしつつそうでない、空いてるブースには直接たどり着けたものが今回、なぜか外階段を使わせないでビッグサイトの正面エントランスしか使わせなかったものだからもう大変。国際展示場駅の前に行列ができていたのはまあ、よくあることだと思ったものの逆さ台形の下まで着てそこからエントランスに辿り着くまで数十分、さらにエントランスに入ってから西館の1階に降りるまでも数十分がかってその間、外と違って風も吹かない空間にびっちりと閉じこめられる羽目となる。

 そこまでは西館1階の同人誌を目当ての人も一緒で、企業ブース目当ての人といっしょになってさぞや大変だっただろうと同情。そして企業ブース目当ての人は西館アトリウムを中央突破し、西館外にある駐車場をぐるりとゆりかもめの本社がある辺りまで歩かされ、そこで折り返させられるという流れになっていて炎天下を散々と歩き回されたラスト、4階まで上がる階段を上らされてほとんど富士山の9合目、もう体力が尽きかけているところでの運動にゲージゼロ近くまで体力を持っていかれる。まあそこは普段から冷房を使わずというか使えない状態で寝ていて、汗腺が開ききっていて汗もバンバンと出る身だったから体温の急上昇も防げたけれど、慣れない人でいつもの距離感でいた人は、いくら暑熱対策をしていたといっても予想を上回る導線に相当、参ったんじゃなかろーか。どーして今回初日だけそういう風にしたかは不明。大行列ができるブースを西館外の駐車場に並ばせスロープで持って行かせたかったのかな?

 まあそれでも上まで辿り着いてそこから目当てのブースのために行列を余儀なくされる人もいたかし、並んだ挙げ句に完売ハイサヨウナラとなった人も少なからずいたみたいなんで「よく頑張った」と行って差し上げたい。明日はどーなるんだろ。でもってアニメスタイルのブースまで行って、ピンクの色に薔薇が紋様された紙袋に入った「少女革命ウテナ」の画集を購入。8000円は高いけれどもそれだけの中身はある1品。ここで買えないとしばらく先になるんで行列はしょうがない。いやでも予想外の長駆はちょっと余計だったかな。問題は買って手に提げている紙袋の中に腕から汗がしたたり落ちて画集の表紙を濡らしてしまったことか。これから行く人はそういうのを予想して、よく雨の日に買い物をしたら紙袋に着けてくれる雨よけのビニールを、持参して上から被せてみてはいかが。汗の跡もまた戦いの記録だと思いたいなら別だけど。

 帰って眠って「美少女戦士セーラームーン」のフィギュアーツを受け取ってそして外に出て秋葉原まで来てゲーマーズで小説なんかを買う。おいおい「第1回キネティックノベル大賞審査員特別賞」って仁木英之さん、そんなにGA文庫に書きたかったのだろうか賞金が1億円くらいあったんだろうか「僕僕先生」シリーズって実は売れてなくって稼ぐにはライトノベルだってなったんだろうかといろいろ謎めく「不死鬼譚きゅうこん 千年少女」発売中。「大坂将星伝」だって内容からすれば濃密の歴史小説なんだけれどもそんなに世間を騒がしている風がなかったものなあ。やっぱり新潮社の「僕僕先生」シリーズで何か賞をとっておくべきだったか。同じくファンタジーノベル大賞出身で、「しゃばけ」シリーズが人気の畠中恵さんといい、それなりにファンを獲得している作家なのに今ひとつ、世間の認知度が足りてない。もったいないなあ。


【8月9日】 えっと「ヌエ」て言ったら差別なんですか、それは誰に対する差別なんですか、「ヌエ」に対する差別なんですか、それとも対象にされた人にとって差別なんですか。さっぱり訳がわからないよ。なるほど現在はそういうニュアンスにとられかねない言葉を使って溝手って参議院議員が、参議院議員選挙を評したことは良くないけれど、それと過去に輿石民主党幹事長を「ヌエ」と言ったこととは、ニュアンスがまるで違ってる。さまざまな部位から作られ、いったいどこに属しているか分からない架空の動物が「ヌエ」。それを例示することによって輿石氏の立場を言い表したのだとしたら、それは単なる例えであって差別的なニュアンスはどこにもない。妖怪と言われることがそもそも差別なら「昭和の妖怪」と安倍ちゃんのおじいちゃんを評することだってできないんじゃないか。そんなことをいちいち挙げて貶めようとするテレビ朝日がぬらりひょんなのか。書いた記者がこなきじじいなのか。こんな物言いも「差別」とやらになるのかねえ。

 すでに1日分を先行抽選でもって当てていた東京ドームでのポール・マッカートニーの日本公演、せっかくだからとチケットぴあのプレミアム会員が対象になっていた募集にも応募してもたら今度は前より席的に良いアリーナ席のが当たってしまって、これで2回、ポール・マッカートニーの顔を拝みに行ける可能性ができた。あとは当日に所用とか入らないことを祈るだけか。しかしあれだけ応募しまくっても山下達郎さんにはまるで当選しなかったのに、こっちは2回応募して2回とも当選とゆー高確率、ってことはつまり山下達郎さんの人気はポール・マッカートニーをはるかに上回るってことなのか、いやいやそれはキャパシティが小さいところでやるからなんだけれど、山下達郎さんが東京ドームとかでやることなんてあり得ないからなあ。今回はだから諦めてポール・マッカートニーときゃりーぱみゅぱみゅで秋を埋めよう。

 そんな気分だから本格的には参戦はしなかったチケットぴあでのポール・マッカートニーの日本公演プレセールは、午前10時のスタートから東京ドームの3本がものの3分で売り切れになったみたいでやっぱりプラチナ以上の人気だったんだってことを確認する。よく当たったなあ。福岡のヤフードームも10分くらいで一応売り切れになってそのあとはしばらく売っていた様子。やっぱり大阪公演がまだ決まっていなくてそちらを待っている人が多いってことなのかなあ。まあでも程なくして福岡もソールドアウトになったみたい。あの伝説のザ・ビートルズに加わっていたメンバーでありメーンでもあった人間が、目の前に来て歌ってくれるなんて機会をこれからの人生でいったい何度、得られるかって考えたらやっぱり今回がラストチャンスと見ておくのが良さそうだし。どんな演奏をしてくれるかなあ。実はよく知らないんですザ・ビートルズもポール・マッカートニーも。

 さても見たけど「パシフィック・リム」、すでにワーナーの試写室で日本でも最速の3D上映を見ていたんでとりたてて改めて驚くこともなく、ただひたすらに凄い怪獣vsロボット映画とメキシコ人がハリウッドで撮ったもんだという感嘆と賞賛があふれ出る。小さい予告編で見ていた時はそのイェーガーと作中では呼ばれるロボットの動きが、どこかスピーディーな上に軽さもあって格闘ゲームのキャラクター然として見えてしまったんだけれど、そこは映画だけあって巨大なスクリーンに見上げるように登場しては、迫力のサラウンドの中を重低音を響かせ歩く様はまさしく巨大ロボット。たとえCGでもってだいたいが造形されていたって立体感はしっかりあって錆びとか塗りとか質感もリアル。だから見ていてまるで違和感もなくその重量、その質量ってものを感じることができた。もう浴びるほどに。

 そしてカイジュウの秘密も、それなりに出現の理由が説明されていてそれが割にSF的に深くって、それをよく調べ上げて予測しなおかつ退治へと向けて動けたものだと、2人の科学者たちの想像力と科学力に感嘆する。彼らがいなければ世界は救われていなかった。その意味でもイェーガーに乗っていなくても立派に英雄なんじゃなかろーか。誰か有名な映画評論で映像プロデューサーの人が、怪獣が出てくる理由がアバウト過ぎると言い「出現不明にした先達に学べ」なんて叫んでいたけどどこがアバウトだ、過去にあった怪獣ものをひっくり返したってこともあでシリアスにサイエンティフィックに怪獣の設定を行った映画なんてないんじゃないか。だいたいが原点とも言える「ゴジラ」だってその誕生には南洋での核実験が深く関わっている。理由不明どころか深いテーマをはらんで生まれた怪獣に、次元をまたぐような存在理由を設定し、なおかつより高次な存在すら示唆してみせた「パシフィック・リム」に、感嘆こそすれ誹謗なんて絶対にできない。そこがどうして分からないのかなあ。分かりたくないんだろうなあ。過去への思いが深すぎて。

 ルームランナーもどきって、あれほどまでに巨大ロボットの“歩き”について考えた設定もないんじゃないか。「ジャンボーグA」ならつながった線を動かせばそのまま動いたけれど流石にそれでは細すぎる。肉体を駆使し精神も繋げて、けれども足りないからこそ2人をペアにして登場させるという着想。そーすることによって2人にそれぞれのドラマがあり、2人の間にコミュニケーションも生まれてストーリーが動き出すという効果。実によく考えられているとしか言い様がない。間抜けだって? だったら座席に座って1人操縦桿を前後させながら叫んでいれば良かったのか? ってこと。たぶん見ていて陳腐だっただろうなあ。そんな訳で完璧すぎる展開に、少し不満があるとしたらやっぱり自己犠牲の精神が見えてしまったということか。1人には理由があっても1人が巻き添えになったっぽいのはいただけない。救う道はなかったのかなあ。でも仕方がない、若さ故の過ちを他山の石をして僕たちは生きるんだ。

 吹き替えはもう完璧というか、感情を思いっきり込めるタイプではない杉田智和さんによる太くて浪々とした主人公の声に、あのつぶらで凛々しさも持った林原めぐみさんの声が重なってコックピットに絢爛さが生まれる。だからこその主役メカ、だからこその主人公ペアといった感じ。そこに絡む面々のこれまた豪華で確かなことといったら。強靱な使命感に燃える指揮官を演じる声はこの人しかないといった玄田哲章さんで、老体ながらも息子を引き連れ頑張るイェーガー乗りに気骨と達観を持った池田秀一さん、その血気盛んで浅薄さも持った若者を浪川大輔さんという組み合わせはなるほど、愛で結ばれながらも通じ合わない悲劇を含んだ親子に相応しい。胡乱な金持ちのケンドーコバヤシさん。自身のこれまた見るからに胡乱な風体が声に乗り移って、重なり合っていい味を出している。ただのお笑いタレントじゃないんだよ。

 そして圧巻の博士たち。古谷徹さんに三ツ矢雄二さんの2人が掛け合いしのぎを削って怪獣の謎に迫るのを、聞いていて誰が吹き替えだと思おうか。演じる役者が出している声。そのキャラクター性までをも載せて発した声。そう思うだろう。そう思わせるだろう。それこそが2人。スラップスティックな2人の芸ってものだ。そんなキャスティングをよくぞ揃えたものだよなあ、古谷さんと池田さんが出ているからといってライバル関係には配置せず、それぞれにベストなポジションに置いたところも素晴らしい。こういう吹き替えを僕たちは待っていた。そしてこれからも待ちたいんだけれど、きっと起用はなかなかされないんだろうなあ。別にアニメ声優だからといって、突飛さを求められる世界で今、それはそれで必要な演技を聞かせてくれて、とても目立っている人たちでなく、淡々と芸を磨いて来た声優さんたちも大勢いる。そういう人たちも含めてわざとらしいとか言って拒絶するのは違うんだけれど、そういうことによって自分たちを持ち上げたい動きがある以上、受難は続くのかも。「マン・オブ・スティール」のいぶし銀のセレクトはだから必聴かも。「スーパーマン」に興味はないけど、見に行くか。


【8月8日】 そういや初日の7日に松屋銀座で始まった「エヴァンゲリオン展」に行ったんだけれど、初日ってことで混雑するか、それともまだ知らない人たちも多いから空いているかどっちかと思ったらどっちでもなく、まあまあそこそこの入りだった。ざっと見ても見られるくらいの混雑度で、物販でもレジまでかれこれ数十分とかならないくらいの。とはいえ物販で取り急ぎ欲しいものもなかったんで、会場出口付近にある図録売り場で3000円のを1冊所望。パラパラっと見たらこれが何と原画がそのまんまのサイズで掲載されている奴で、切り取ってトレス台に乗せて上からなぞって絵の勉強をしたくなって来た。そのためには2冊買うしかないんだけれど。いやそれくらいやっても価値ある1冊なんだけど。

 さっと見た時には例の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の眼帯アスカが見つからなかったけれども中のページにあれは最初の宇宙空間あたりで待ち受けている場面とそれから、ビーストモードで歯茎を見せてギリギリとしている場面なんかがあってどちらもベスト。どうせだったらここから抜いてTシャツとか作ってくれれば買うんだけれどグッズの方はイメージビジュアルにもなってるお澄まし顔の5人がデザインされて描かれているだけだもんなあ。ちょっとそれは。図録ではほかにこれはどっちなんだろう「新世紀エヴァンゲリオン」の方かもしれない葛城ミサトさんの「サービスサービスゥ」なポートレートの原画とか、これは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の「序」あたりらしいアパートで布団に大の字になっているミサトさんの原画なんがかあってミサト好きにはたまらない1冊。でもすぐにオバさんとなってしまんだけれど。それもまた凛々しくて素敵なんだけど。

 マリはあれはエントリープラグ内でコックピットに着座して、何か得たいの知れない飲み物を飲んでいたりする場面かなあ、足の伸び具合がレイアウト的にデフォルメ効いてて描き方の勉強になる。パースってああ付けるんだとか。そんな名場面が抜きまくられている図録なんだけれど展示の方はそれに輪を掛けて山ほどの原画もあれば設定がもあってともう目移り。決して広い会場でもないのに1300枚だっけ、1300点かな、まあともかく凄まじい量の展示があるから見ようと思えば半日くらいなら入って出てこないでいられる自信はある。とはいえやっぱり夏だけあってお客さんもひっきりなし。展示の前を列になって動いていくその頭越しに見る格好になってしまうんで1時間もいるととっと暑苦しくなってくるかも。せめてコミケが終わって上京者が引けば空くかなあ、でもずっと混んでいそうな気が。だから各地に展開した機会がうまく揃えばそこで見ることにしよー。来年には横浜にも戻ってくるみたいだし。その頃ってもう最終編、公開されてたっけ?

 そうか60万ドルとは恐れ入ったよ「リトルウィッチアカデミア2」のキックスターターによる資金集め。当初は15万ドル集まればスタートできるって話だったけれどもそんな額は初日に楽々集めきってあとはどこまで増えるか、ってのが注目の的。そして結果として4倍くらいの額を集めてしまった訳だけれどもさて、この金をいったいどー使うのか、ってところが目下の関心事で、たとえばブルーレイディスクなんかがくっついてくるコースだと、その分はさっ引かれて残りが製作資金だとか心意気への支援めいたものへと使われるんだったっけ? それが60万ドルだといったどれくらい、直接の費用に関わらない部分へと回ることになるのか。過剰なまでのクオリティアップに使われるって可能性もないでもないけど、それは決して必要不可欠なことではないからなあ。あるいは「3」「4」といった続編へと回される? それならそれでオッケーだけれどでもやっぱり気になる大成功パターンの会計学。心意気への賛同と思いどうとでもしてくれと、開き直って見守るのが1番気楽なのかもしれないなあ。

 もちろん最初に出たときに買ったのを持っているし、もしかしたらこれにサインもしてもらったかもしれないけれども案の定、部屋のどこかに埋もれてしまって出てこないのであったということで、復刊ドットコムより待望の復刊が成った今敏監督による一種のエッセイ集「KON’S TONE −『千年女優』への道」を購入してみる。それこそ「PERFECT BLUE」の制作に悪戦苦闘していた時代を経て、新しく始まった「千年女優」とゆー作品に挑みこれを形にしていった軌跡って奴がご本人の軽妙にしてクリティカルな筆致でもって綴られた本。読めばアニメーション映画っていうものがどーゆー段取りで作られ、そこに置いて監督がいったいどーゆー仕事をしているのかってのが分かってとてもとても勉強になる。っていうかよくキレず逃げないで作りあげたものだよ「PERFECT BLUE」を。それくらいに凄かった制作状況。今となっては良い思い出? って言えたら良かったんだけどなあ、今敏監督自身が思い出になってしうなんて……。読んで改めて思い出そう。リアルタイムで更新を追いかけていたあの頃を。

 ポケットに入れていた携帯電話がブルブルと震えだし、同時に周辺ではバイブにしていない携帯電話から緊急地震速報を告げるアラーム音が鳴り響く。ネット上では奈良あたりでマグニチュード7とかそんな巨大な数字が踊って関西で巨大地震か、と顔を上げるとテレビの中では甲子園の野球大会が何の変化も見せないで平然と行われている。直下型だとしても奈良で巨大な地震があれば大阪府をまたいで兵庫県に被害が及ばないはずはない。当然に甲子園も大揺れに揺れるはずなのに、そうでないのはあるいは誤報かと思って待っていたらだんだんと状況が見えてきて、せいぜいがマグニチュード2・3とかって地震が和歌山であった程度で、誰も体に感じる地震を体験していなかった。まずは安心。とはいえ一体? これを誤作動だと思い込むと次に何かあた時に反応が鈍くなる。かといって動き過ぎるのも疲れる。どうしてこうなったか、ってことをだから究明して教えて欲しいものだけれど、一体何があったんだろう、地震計でもけっ飛ばしたか、奈良で鹿が。

 書店に寄ったら何か四六版といったサイズのソフトカバーで多分ボーカロイドをテーマにした小説が山積み平積みされていて、もうどれを読んだら良いのかワカラナイくらいの状況に。PHP研究所が粛々と出していたころはまだヒット曲の上澄みから題材を選んで、それなりに書ける人に書かせていた感もあったけれど、最近は人気楽曲ならそれ出せやれ出せといったばかりに書かせ出してたりするよーな空気があって、果たして読んでどれくらいに充実しているのか、判断がつかず手が出せない。そもそもが高いんだよなあ文庫に比べてソフトカバーは。「ココロ」とか「クワガタにチョップしたらタイムスリップした」とか「人生リセットボタン」あたりは、それでも読んで小説としてのまとまり具合に納得できたんで、探せば真っ当に読めて面白い奴もあるはず。問題はそれを見つけるための書評が圧倒的に少ないってことなんだよなあ、一般文芸の書評の人とか、新聞の書評欄とかまず取り上げてくれないし。僕がやるしかないのか、せめて歩みは遅くても。


【8月7日】 なんかジョニー・デップが出演している映画「ローン・レンジャー」の入りが最悪だそーで北米では100億円にも届かずウォルト・ディズニーは150億ドルとかもっととかの損失を計上する予定にしたとかいった話も伝わってくる。過去に何度も題材にされてきただけあってアメリカではなじみのストーリー、例えるなら「座頭市」とか「水戸黄門」に等しい定番なはずなんだけれどそれでも客が来ないってのは何だろう、日本で「座頭市」や「水戸黄門」を今さら映画にされても誰も行かないってことなのか。そんな北米の不評を受けた訳ではないんだろーけど日本でも「風立ちぬ」とかに押され気味であんまり成績が振るってない。やっぱり「ローン・レンジャー」って見聞きしたことがないタイトルの映画にいきなり行くのは気が引けたかなあ。いっそだったら昔懐かしい「ハイヨー、シルバー!」にしておけば「ああ、あの西部劇か!」と思い出してみんな駆け付けたかもしれないのに。みんなって誰だよ。

 ディズニーといえば数年前にもやっぱり「ジョン・カーター」を作って大コケさせたことがあったっけ。アメリカではなじみのエドガー・ライス・バロウズによる「火星のプリンセス」を原作にした壮大なスペースオペラで、結構ストーリーも面白かったし大ヒットしたって不思議はないなあ、なんて思った時にはすでにアメリカでは大惨敗を喫してた。まあ日本でもそーだったけれどこれもだから「火星のプリンセス」としておけば、可愛い美少女が出てきてカッコイイ男に誘われ守られるラブストーリーが繰り広げられるんだと、期待して行った人がいたかも。「ジョン・カーター」じゃあアメリカの昔の大統領がいったい何やってんだ? って思われてしまう。でもって行ったら出てくるのがマッチョ寸前のパワフルプリンセス。そのギャップに悶絶して「あれは行くべき」と被害者を増やす口コミが広がって、大ヒットしたんじゃなかろーか。「ジョン・カーターvsローン・レンジャー 金星の大決闘」とか作らないなああ。

 何かセガがみなとみらいの方で新しい施設を作るとかって聞いたんで、地下鉄を乗り継いで東横線を経由してみなとみらい線にも入って到着したみなとみらいはちょっと前に来た時とは様変わり。広々としていたはずの横浜美術館の前に巨大なビルができて中には小ぎれいなショップとそれから飲食店が並んで、隣にあるクイーンズスクエアとかを圧倒する勢いを見せていた。同じ埋め立て地なのに幕張地区とは大違い。やっぱり港ヨコハマ、観光地なんだなあ。でもってそのビルの5階に当該の施設「Orbi Yokohama」ってのはあって19日が正式なオープンなんだけれど、それより早く公開するってことで集まったマスコミに混じって見物、エントランスは何かキッザニアに似たところがあったけれども中はどちらかといえば日本科学未来館といった感じで、自然と動物に関する映像をメーンとしたアトラクションって奴を体感できるよーになっていた。

 そう体感。BBCワールドワイドっていうBBCグループの中でネイチャー系の映像作品を作っていたりする会社がいっしょになって立ち上げた施設だけあって、そこが作りあげたヌーの大移動の映像だとか、アフリカを流れる巨大な川の上空をなめるようにして撮影した映像だとかがあってまるでヌーの群の中にいる気分、アフリカの上空を飛んでいるよーな気分を味わえるよーになっていた。極めつけは横40メートル、縦8メートルもの巨大な婉曲したスクリーンでもって大自然の様子が繰り広げられるシアターで、多分南極か北極あたりの1年をとらえた映像を流しつつ前からミストを出して極寒の地に自分もいるよーな気分を味わわせてくれた。これで本番になると匂いなんかも出すとかで、立体音響に加えて皮膚から鼻からさまざまな五感をふるわせる、面白い体験をさせてもらえそー。でもどんな匂いが出るんだろう、アフリカ象の匂いとか? どんなんだそれ。

 プロジェクション・マッピングなんかも使ってオブジェとか壁とかに映像を映しだしている場所もあって、おそらくはセガなんかがアトラクションで培った技術を、BBCワールドワイドの持つ高品質のネイチャー関連映像なんかと組み合わせることで、価値の大幅な拡大なんかと計っているみたい。日本だと片方は片方で極めてしまってなかなか融合しないんだけれど、ただエンターテインメントなだけではもはや来てくれない中で、学べて楽しめる施設ってものが重要と考え、共に持っている技術やノウハウや資産があることに気づいて、協業することになったんだろー。その成果は見たところ十分に出ている感じ。帰りがけにはHANSAのリアルな動物のぬいぐるみとか、奇譚クラブのネイチャーテクニカラーシリーズのフィギュアとか、本家な冨田伊織さんによる「透明標本」なんかもショップで買えるし、自然好きなら1度は足を運んでみるのが良いんじゃなかろーか。9月くらいまではまだ近くにマンモスもいるしね。見て来れば良かったかなあ、マンモス。

 理科好き女子のグダグダとした日常を描いた「℃りけい」って漫画の原作の人と同じ名前とゆーか、まあ同じ人なんだろー青木潤太朗さんによるライトノベル作品「ガリレオの魔法陣」(スーパーダッシュ文庫)がむちゃくちゃスタイリッシュでエキサイティングな話だったんでそーゆーライトノベルを探している人は絶対に読むように。手で必死で描いていた魔法陣を科学技術で映像装置も使って描けるようになって、それで魔法を発動させてはエネルギー源の代わりに使って暮らしが便利になった世界が舞台。そーした技術を使い悪さを起こす奴らを取り締まるべく、日本人の少年と彼が使っている見かけ美少女が科学的な魔法を駆使して戦うとゆーのが主なストーリー。とはいえ美少女は人間ではなく、魔法陣をうまく使えば人間に似た映像人間を作り出せるという技術があって、主人公の玲縷が扱うシャオとゆー少女も、実はそんな映像人間だったりする。

 とはいえ、単純なプログラミングとゆーにはとても人間っぽいところがあったりするシャオ。その誕生にはいろいろと秘密があるんだけれどそれは読んでのお楽しみとして、そんな玲縷とシャオのペアが挑むは、貴重な技術を盗んだテロリストと傭兵をさらに襲って傭兵を殺し、テロリストの少女をさらって逃げた犯罪者。遺産魔法陣と呼ばれる古い技術を持ち逃げしていて、結構な強敵になっているその犯罪者を相手に玲縷とシャオは果たしてどう戦う? といった展開がひとつに繰り広げられ、そこに組織的には別なところに所属しているプログラマーならぬホログラマーであり戦いの方も受け持つ少女とその相棒の映像人間も関わって魔法陣に関するさまざまな知識が開陳される。これがなかなかに面白い。

 例えばネイティブアメリカンとか、あるいは中国の古代文明なんかが残した遺産魔法陣なんかはその後の虐殺だとか文化大革命なんかの煽りで失われてしまっていたりする。そーゆー国々を仲間にしているグループがそれぞれにあったりする一方で、欧州の非英語圏の国々が所属しているグループには古くからの魔法が受け継がれていて、結構な遺産魔法陣を駆使できるよーになっていたりする。そんな3つくらいのグループに分かれた世界が、馴れ合いしのぎを削り合いしているとゆー状況設定があり、そうした中で虐げられている民族が反攻のためにテロを起こしていたりして、ご近所だけで収まるよーな話にはならずシビアでリアルな世界情勢ってものを感じさせてくれる。そこがちょっと面白い。

 天才に見えても実はとてつもない努力家で、それを広言はしないけれども指摘されるとついついほだされてしまう名門の出の魔法陣を使う少女とかもいて、キャラクターの設定に結構な深みを与えていたりする。ラスボス的に出てくるとんでもない強さを持った女性とか、いったいどれだけのドラマを抱えているんだろー。今回はひとまず互いに引いたけれど、いずれぶつかり合うだろー中でどんな戦いが繰り広げられるのか、ちょっと楽しみ。何より桜坂洋さんの「よくわかる現代魔法」の続きがまったくまるで動かない中、魔法を科学で描いてみせた作品として興味をそそる。魔法に縛られた女性の懊悩を見せ、少年の成長も描かれていてと読み所も多々。あとは続いていってくれることを願いたいけれど、さて。「よくわかる現代魔法」みたい止まることだけは勘弁。


【8月6日】 コンビニだとかハンバーガーだとか居酒屋だとかラーメンだとかお弁当だとかいったさまざまな飲食物に関わるチェーン店でアルバイトが冷蔵庫に入っただの食べ物を粗末にしただのといった画像を繰り出しては問題になっていたりする昨今。それもこれもこの暑さが原因でなおかつ忙しさに直撃されては「やってられるかー」となって暑さを避けて冷蔵庫に入り、空いた腹を凍りついたソーセージで満たしたくもなる。けど暑さ寒さも彼岸まで、8月も後半に入りやがて秋がくるに連れてそーした行動は減っていき、そしてやがて冬が来れば今度は寒いからとピザ屋では石釜の中に飛び込みハンバーガー屋では鉄板の上に寝そべりコンビニではおでんの汁に頭を突っ込む店員が続出しては寒いんだなあ大変なんだなあと思わせてくれることだろー。期待して待とう、その決死を。

 なんか朝から新聞業界が大騒動。ウォーターゲート事件をスクープしてニクソン大統領を辞任へと追い込んだワシントン・ポスト紙があのアマゾンを創業して今世紀屈指の大金持ちになったジェフ・ベゾスによって買収されることになったとか。アマゾンとゆー企業ではなくベゾス個人ってところがポイントで、何かひとつの企業によってそれを利用し利用されて大きく手広く商売しようって意図ではなく、その活動を尊重しつつオーナーとして持てる才覚財力を利用して、発展させていこうっていった考えがあるんだろーと想像される。あるいは企業の傘下に入ることで被るネガティブな印象を避けようといった意図か。メディアの持つ中立公正なスタンスを損なうことも損なわれることも嫌いそーだし、あちらの国民は。

 問題はだからジェフ・ベゾスがこれからいったい、どーやってワシントン・ポストの事業を立て直していくか、ってあたりで当初、日経なんかがシリコンバレー発の情報として送ってきていた記事によれば、ベゾスは新聞事業から撤退して放送事業とか教育事業にシフトするって感じになってたけど、その後に続々と送られてくる記事だとベゾスは新聞を新しいアイディアによって立て直す、社員は解雇せずそのまま雇用し編集も任せるといった内容になっていた。想像するに今までのワシントン・ポストのオーナーは赤字続きの新聞事業をベゾスに売ってそこから“撤退”し、儲かる事業に集約する一方でベゾスは新聞に“進出”してそこで新しい何かを付け加える、ってことなんだろー。

 ただそれがよく見えない。ネットを使おうにもそれで大きく伸びることがないのは今までが証明している。販路を広げようったって基本、地域ローカル紙でしかないアメリカの新聞がワシントン以外の例えばニューヨークとかロサンゼルスで売ろうたって売れるものではない。ワシントン発の政治ニュースを売ろうにもそれで稼げる範囲なんて微々たるもの。世界からニュースを集めてくる体力はもはやアメリカの新聞にはそれがニューヨーク・タイムズであっても持ち合わせていない。あるのはAPのよーな通信社か経済を軸にしたウォール・ストリート・ジャーナルくらいか。

 だからやはり考えられるのは紙とゆー媒体をこれ以上伸ばすことはしないで、ワシントン発のワシントン向けの新聞として存在感を維持しつつ、低落している読者の数を紙から別の何かへとシフトさせて補っていくことか。そこにベゾスが持つ例えばKindleのよーな読書端末の前面利用なり、サイネージのよーな情報ネットワークの構築なりがあるのかもしれないけれども、そーやって思いつくことなら誰かが既にやっているはず。けどやられておらず効果もないってなるともーちょっと、別のやり方があるのかもしれないなあ、そのブランド力を極限まで研ぎ澄ましつつギリギリの範囲で非営利に近い形で運営していくといった。だからこそ大金持ちのベゾスが個人で参画し、お金の代わりに栄誉を得るのを選んだとか。さてはて。

 いずれにしても重要なのは新聞でありワシントン・ポストとゆー中立公正を地でいく存在のその価値を既存したり切り売りしたりするよーな愚作はまず犯しそうもないってことか。配信するニュースの中にどこかの企業が宣伝めいた言説の代わりに広告なり購読なりを確約する、あるいは仄めかすことを受け入れるとか。でもそれをやったらいずれ中立公正であるべき言説にどこか企業に阿った言説が混じっていると気づかれ、その信用が大きく揺らぐことになる。そーなったらあとは墜ちるだけ。そして穴埋めしよーとしてさらなる紐付きの言説を入れこみ余計に信用を削ぎ落としていくとゆー暗黒のスパイラルが待っている。

 食うためにはそれが必要、雇用のためにやるしかないと、偉いさんもその追従者たちも正当化しよーとするけれど、しょせんは今を支えているだけで未来を先食いしているだけのこと。真っ当な言説を貫くことでせめて信用を維持し価値を保とうとする努力を完全に放棄してしまっている。まあそれもお金が入って来ないからで、そこをベゾスは個人の思いと世間の期待を受けて下支えして、せめて現状を維持できるだけの状況を整えた。そういうノーブレスオブリュージュな態度が日本にもあれば良いけど、考えるのはネット通販のコンテンツにニュースを載せるつつ薄め切り売りした情報をつけて一時の信頼性を得ることくらいか。やっぱり道は共倒れ。それが日本のメディアの未来だとしたらやっぱりもはや見切りを付けるしかないのかなあ、あるいは黒船の到来か。来てくれないかなあベゾスさん。マードックでもこの際良いか。

 銀座で開田祐治さんの「聖戦士ダンバイン」のイラストを集めた展覧会が開かれているってんで見物に。並ぶのは1983年だからもう30年も前に描かれた、主にオーラバトラーのプラモデルの箱に向けて描かれたイラストたちで、そのどこか有機的というか生物的なフォルムとそしてメカニックなパーツを持った不思議な形をしたオーラマシンたちが、さまざまなポーズでクローズアップして描かれているビジョンにあの時代でも独特で、そして今なお独自性を持った“ロボット”の存在って奴を強く思い出す。レプラカーンとかドラムロとかボチューンとかボゾンとかビアレスとかいった名前も独特だった。本当に画期的だった。でもあんまり続かなかったのはやっぱり「機動戦士ガンダム」の大ヒットとそれを元にしたモビルスーツの奔流が、オーラマシン的なフォルムを押し流してしまったからなのか。

 ストーリーだってなるほど“皆殺しの富野”の名を実に言い表しているよーにクライマックスにかけて一気に脱落が相次いで驚きの連続を味わわされるけどでも、全体を通したストーリーでは異世界に引っ張り込まれた反攻少年が戦いの中で恋をし、正義を覚えそして反発を受けて悩みつつやっぱり戦うんだ世界の為に、愛のためにと突っ込んでいく主戦と、その傍らで蠢くさまざまな親子の愛憎なり恋人どうしの恋情なりが、見る者の心をグッと引きつけてくれた。でも新しい人だと再放送もないから、そーゆーストーリーもこーゆーメカの存在も知る機会すらない。それがちょっと寂しいだけにこーやって、お蔵だしのよーに存在を認知させる機会があるのはちょっと嬉しい。賑わい盛り上がればあるいはもっと他の場所で、もっと一杯のダンバイン関連の展示が行われ、一気にブーム再燃、と行けば良いんだけれど果たして。

 まあ通常運転でしかないんだけれど、それにしても凄さ際だってもはや言説としてすら維持できない状況に陥っているのかもしれない某紙。一応は看板にしている1面コラムでもって、8月6日らしく広島のことを取り上げつつ、原爆投下についてアメリカの側にもその非道さを感じている人がいると紹介したのは良いんだけれど、最後の段になって「ただ、気になることがある」と言って、そのアメリカ人が「最近の朝日新聞紙上で、核廃絶だけでなく、脱原発、憲法9条堅持、そして米国の軍事政策への反対を呼びかけていた」ことを挙げ、「余計なお世話だ」と言い募っている。他人の言説に余計なお世話と言う方が余計なお世話とも気づかずに。

 とうか自分たちにとって都合の良い、耳障りの良いことは讃えて、そうでない言説は余計なお世話っていうのは、狭量さも甚だしくって見聞きする人の身をおののかせる。これじゃあ広い読者の獲得は無理かもなあと思わせる。「きょうと9日は、何より原爆の犠牲者を哀悼する日でなければならない。政治を持ち込まないでほしい」って言うけれど、反原発を拒否するのも憲法9条を忌避するのもやっぱり政治的な意識によるもの。だいたいがアメリカ人は6日か9日に朝日新聞にそうした思いを語った訳でもない。何も言ってない相手に向かってやめてくれと言う方が、それこそ余計なお世話って奴なんだけれど、そのことに気づいていないところがやっぱりというか、夜郎自大っぷりも甚だしいというか。これじゃあベゾスだって買わないよなあ、買ってもどうしょうもないからなあ。


【8月5日】 何か名古屋じゃ「世界コスプレサミット2013」ってのが週末に開かれていたそうで、中心部にあたる大須を実に1000人ものコスプレイヤーが練り歩いたっていうからちょっとしたもの。コミックマーケットに参加するコスプレイヤーは1万人を超えるそーだけれども、ひとつの街に瞬間的に1000人もの人が並び歩くだけでその賑わいは相当なもの。ましてやコスプレイヤーともなれば衣装もゴージャスで動きも派手派手しい。パレード光景たるやきっと名古屋まつりの織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の地元が生んだ三英傑によるパレードに負けず劣らず、目に刺さるよーなものになったんじゃなかろーか。そういえばこの三英傑も一種のコスプレだっけ。伝統があるんだ名古屋にはコスプレの。

 それにしても凄いイベントになったものだよ「世界コスプレサミット」は。元々は2005年に開催された愛知万博「愛・地球博」の中のイベントとして、確かテレビ愛知が中心となって始めたもので、当時はいくら世間がコスプレだとかクールジャパンだとかいったものに関心を見せ始めていたとはいえ、どちらかといえばキワモノ的な扱いだったよーな気がする。むしろ会場内に作られた「となりのトトロ」に出てくる「サツキとメイの家」の方が、アニメ関連では人気だった様子。それでもテレビ愛知はしっかりとイベントを成功させただけに留まらず、翌年からも開催を続けてその都度、東京で外務大臣だったっけかを海外から来た参加者が表敬訪問するよーな話題作りも行ってきた。

 何度かは海外から来た参加者の会見を秋葉原でもやって、通りを練り歩くコスプレイヤーを撮って伝えた記憶がある。実に秋葉原には相応しい光景。だからこそ大須には果たしてそぐうのか、って思いも浮かんだし名古屋というどちらかと言えば保守的な地域で、そうしたイベントが続くのかって疑問もあった。それが回を重ねるごとに大きく育って今回は1000人がパレード。そして栄で開かれたチャンピオンシップにも世界から参加者たちが集まってはそれぞれに練り上げられたコスプレ衣装をまとい、寸劇なんかを繰り広げた。日本でも屈指の暑さを誇る名古屋で、決して屋内とは言えない広場であれだけの衣装をまとい演技をする。その根性たるや。讃えたい。

 ここまでくれば世界も“Nagoya”をコスプレの聖地として認め、いつかあの舞台に立つことを夢みて研鑽を重ねるよーになるだろー。受けて名古屋でもコスプレという文化がグローバルなイベントとして認知され、それに関わることが誇らしいことと思われるよーになって、誰もがコスプレに挑むよーになるだろー。何てハッピーなシチュエーション。それを東京の秋葉原のよーないかにもな場所じゃない、名古屋ってところがやり遂げてしまった背景を、調べることによって次の何かを狙っている地域は成功から普及への糸口を掴めるんじゃなかろーか。あと必要なのは運営面で主催者が妙な商業色とか出さないことかなあ、もはや公益なんだと己に任じて振る舞う必要があるかも。それがあれば行政も応援してくれるし企業もサポートしてくれるし、何より世界も認めてくれるから。

 そうそう名古屋と言えば1999年くらいから「にっぽんど真ん中まつり」ってのが始まって、とてつもない規模でいわゆるよさこいソーランみたいな祭りが繰り広げられる。これも学生たち創案してボランティアベースで広がっていったもの。今では200万人とかが押し寄せる名古屋でも有数のお祭りになってしまった。保守的な雰囲気がありながら実は進取の気風もあってノリも良く、提案されれば「いこみゃー!」「やったろみゃー!」と盛り上げる土地柄だったりするんだ名古屋って。そこから次に何か生まれるとしたら何だろう? ちょっと気になる。1988年に名古屋オリンピックを開催する気でいたらソウルにもっていかれて落ち込んだ気分を、名古屋デザイン博では埋めきれないまま悶々としていた中から幾つもの文化事業が生まれて、そして大きく育った。東京もだから五輪招致に拘らず、失敗したらしたで別の何かを始めたらいかが? 立ってるだけじゃなくって動くガンダムを作るとか、八谷和彦さんのメーヴェを一気に完成まで持っていくとか、巨神兵を歩かせるとか。

 何かネットなんかで話題になってたアニメーション監督とアニメ関連ライターの人の対談は、写真が載っているから正式に取材の窓口があってそこを通して入って記録して撮影して載せたものだとすっかり思ってたら、どーやらそうじゃないっぽい。だってそれなりに名の通った媒体だよ、過去にさまざまなイベント会場で全文起こしとかやってひんしゅくを買いまくってたギガなんとかじゃないんだよ、まさか了解ととってないなんてことはないだろうと誰もが思って当然。でもそうじゃないっぽい。当人たちはまったくあずかり知らず、そして中身には初歩的な間違いがいくつもあって、それを対談の当人たちが言ったことにされているからたまらない。自分が間違ったみたいに思われる訳だし。

 あるいは報道として入っていたのかもしれないけれど、それにしても全文起こしに近いことはやって良いかというとなかなかに微妙。これはギガなんとかがやったことで、徳島で開かれているマチアソビってイベントの様子が写真も含めてほとんどまるまる、紹介されていたことがあったけど、天下の往来、公衆の面前でやってたりするんで通りがかった人が親切にも全文まるまるアップとかやってくれたんだー的な解釈で逃れられないこともない。でも某対談は、有料イベントとしてクローズな場所で行われたもで、そこに入って個人が頑張って記憶してご報告の範囲で中身を伝えてみんなで共有して喜ぶんじゃなく、商業媒体での記事としてまるまる載っけてしまている。

 仮に認められた取材だったとしても、昨今、イベント系だと取材の人に全文はやめてニュアンスにしてねといった告知があったりするのが大体だったりする。来てくれた人に悪いし、間違いだって増える可能性があるから。だから現場ではそりゃそうだだよねと真面目に制約を守るんだけれど、時としてこーやってガバッともっていかれた挙げ句、間違いだらけで異論が出て、もう取材は認めませんってことになって写真はオフィシャル、コメントは整形されたものを配付、とかってことになっていく、というか既になっているのが最近の状況で、報道する側からすれば取り回しが面倒でしょうがない。

 そりゃ僕だって散々っぱら間違いはやったし誤脱脱字はしょっちゅうだけどでも、それを伝えることで何か状況が進んでくれたらって気持ちはたぶんあった。今だって頑張っているメディアだって少なからずある。そんなメディアの意気に対応して現場も報道への信頼を醸成し、チェックとかなしに文言も写真も掲載を認めていたものが、ひたすらに瞬間のアクセスに走るメディアがあって、その乱暴狼藉に引っ張られてどんどんと状況が傾いていく。なおかつ煽りくれるような見出しが踊って中身との乖離もひどくなると、もはや取材が成り立たない。そんな感じにギチギチと悪くなるメディア状況。過去に積み上げたメディアへの信頼を切り売りしているようなもので、もはや水面下となってしまい後はひたすら墜ちるだけ。どうしたものかなあ。

 近所の本屋に「ONE PIECE」の女性キャラクターを中心にしたグッズが並ぶ一番くじが入ったんで回数を分けて何本か引いてみる。とりあえず7回まで引いてビビのフィギュアが当たったから元はとったよーなものだけれども本当はナミが欲しくって、あとジュエリーボニーにも興味があるんで残っているうちはあと何回か挑戦してみる所存。フィギュア以外のグッズが陳腐なアクセサリーだったり小さいフィギュアだったりとあんまり欲しいのがないのが難だけれど、クッションがあるのはちょっと良さそうでフィギュアは無理でもクッションくらいは狙いたいもの。女性キャラではあと何があれば嬉しいかなあ、ニコ・ロビンよりナミよりモネかなあ、シーザーの下にいてドフラミンゴの部下だった。結局死んじゃったの? 彼女。それが気になって夜寝られない。


【8月4日】 阿佐谷ロフトAでの「アニメスタイル」イベントでは小黒祐一郎編集長による「風立ちぬ」への絶賛も。その主張のだいたいはクリエーターとしての宮崎駿監督とエンジニアとしての堀越二郎の重ね合わせから、二郎が家族に対してエゴイストだという訳ではなくって愛情を示したい示してあげたいと願いながらも、一方に仕事というものもあって両立されられなかった懊悩を、夜の離れに帰ってきた二郎が菜穂子の手を握ったままで計算尺を操作し図面を引きつつ、煙草も吸いたいと願い許されるといった描写の中に、ギュッと描いているとかいった話で、なかなかに興味深かった。ちなみに小黒さんは手を握ったまま仕事するなんて中途半端なことはしないで、やるだけのことをやってそれでも時間を作り、朝の散歩に連れて行くとか。幸せだなあ、アニメ様の奥様は。

 ともあれ決して長くはない、あの離れの夜のシーンにいったいどれだけのメッセージをどういう意図のものに込めたのか、あるいは意識せずともそういう形となって現れたのか、宮崎駿監督に直接聞く機会なんて多分ないんだろうけれどもそれが意図してであっても、意図しない自然と出てきたものであっても、そうやっていろいろと読ませるシーンにしてしまったのはやはり宮崎駿監督の天才の成せる技。それを私小説的な観点から監督自身になぞらえて解釈することも可能だし、堀越二郎というキャラクターのスタンスだと見て取るだけでも可能という二重性を持っているところに、「風立ちぬ」とゆー作品が持っているとてつもない深さって奴がある。

 これがコンペティション部門に出品されて、果たしてヴェネチア国際映画祭の審査員とか観客の人たちがどこまでそんな二重性を読み込めるのか。単純にカプローニってイタリア人が出ているから嬉しいねえと話題にして終わりだったりするのかな。審査員に入ったとかゆー坂本龍一さんが宮崎駿監督の暮らしとか心情とか家族とかミリオタな所とかロリ系な感じとかを理解し説明して説得に回るなんてことが出来るとも思わないし。まあでもヴェネチアってのは正解で、これがベルリンだったらユンカース社におけるドイツ人社員による日本を見下した描写が、観客とか審査員の心情にあんまり効果的に作用しないだろーし。そこまで考えているとしたらしたたかだねえ、日本テレビもスタジオジブリも。さてもさて。

 「猫物語」ってことになっているんだっけ、今の「物語」シリーズはひとまず羽川翼から生まれた猫が虎と戦っていたところに、颯爽と阿良々木暦が現れ虎を対峙し翼に嫉妬や羨望や退屈や怒りや諸々の感情って奴を戻して彼女をとってもやっかいな存在にしてしまったけれど、そうでもしないとまた現れては、嫉妬の焔で自宅を燃やし学習塾の跡地を燃やしそして戦場ヶ原ひたぎの家まで燃やそうとしてしまうから仕方がない。心の焔が心の中でガンガン燃やして直接相手にぶつけるのが良いってことで。でもひたぎにぶつけたらきっとガンガンと例の口調で返されそうだし、神原駿河じゃ気にとめなさそう。ファイヤーシスターズじゃあぶつける相手が違うし八九寺真宵は迷ってなければ見えないし、ってことでやっぱり溜まって挙げ句に暴走するんだ、虎とか猫とかがまた。

 しかしストーリーでは淡々と綴られているだろー描写に、さまざまな絵を構築的に絡めてよく物語を作りあげるものだと毎回感心。ひとりしゃべりのバックで世界中を放浪する翼の映像なんかを混ぜ込んだりしていてこれは、後に翼が世界を回る仕事に就くとかってことを表してもいたりするんだろーけれど、本編の語りとはまるで関係がない。にも関わらず重ね合わせてみせるところに、セリフと映像の“複合”作品としてのテレビアニメーションがあるんだってことが見えてくる。ラジオじゃできないこの企み。もちろん小説でも。どういう頭の構造でああいった“画”を見せることになったんだろうなあ、アニメーション監督とか演出とかって人の想像力って、実写の人とは違ったところにあるのかな。それは宮崎駿監督でなくても。

 とあるメディアの主に関西発の言葉を伝えるコラムで、例の麻生太郎副総理による憲法改正にはナチスの手口がどうしたこうしたという講演に、世界中から非難が集まっているということに対して「『あほやなあ』『すんまへん』ですむのに、大事になってきた。いや、野党や一部マスコミは大事にしたいようだ」って書いて事態をささいな失言のレベル、さらには冗談だったという状況に持っていこうとしている。アホやなあ。冗談には言って楽しいことがあっても言って行けないこともある。ナチスに関するジョークはその最大限たるもので世界でも屈指の反ナチスの人権団体が口を挟んできたのはつまり、それだけ事態が重たいってことの現れ。だから当人は引っ込めたんだけれどそれを回りが擁護するのはすなわち反ナチスの事件団体に挑戦していることに他ならない。その覚悟があるのか? ってことだけれどきっと気にもとめられないなろうなあ、媒体がマイナー過ぎて。

 上野の東京都美術館で「福田美蘭展」を見る。年譜で福田美蘭さんが50歳になったか今年なるんだと知って、流れた歳月って奴を感じ取る。なんか20代でバリバリと前衛をやってる才女ってイメージがあったものなあ、かつては。そんな積み重なってしまった歳月は、並べられた作品から受ける印象にも現れていて、同じ上野にある上野の森美術館で開かれていたVOCA展あたりで作品を見て感じた、既成の概念とか権威とかいったものを裏返したり、その枠組みを広げてみたり捻ったり弄んだりする手法から浮かぶ格好良さが、このネット上で繰り出されるさまざまなMAD映像にパロディ画像の氾濫の中で、どこか過去っぽく大人しくさえ映って見えた。

 挑戦であり攪乱であり転換であったりといったものを、芸大で学んだ高い技術と東西の美術に関連した史観の上に成り立たせてみせた作品が醸し出していた反攻に対し、いろいろな賞賛が当時はあっただろうし権威を蔑ろにしているだの、ちょっとイジっただけだのといった憤りや反発もあっただろう。そうした裏表の評価をひっくるめてプラス方向のベクトルへと転じて、作家性を高みへと押し上げていたものが、昨今のネットなりデジタルツールなどを使い、誰でも自在に冗談を飛ばして嘲笑の度合いをオープンな場で競えるこの時代に、狭い場所なり特定の位置に綺麗に収まってしまっているように、福田美蘭さんの作品が見えてしまったのかもしれない。

 風景の中にマクドナルドだとかケンタッキーフライドチキンだとかHMVだとかいった企業のロゴが混じった作品は、騙し絵みたいな楽しさはあっても、そうした企業に対して何を言いたいのか、っていった主張がやんわりとしか伝わってこない。これだったら前にだれかがやっていた、マクドナルドなりセブンイレブンの看板をそのまま持ち込み巨大なオブジェとして展示してみせる方が、日常の風景を違う場所に持ち込み違和感を覚えさせるって意味で効果があるように感じる。企業のPR団扇を張り付けた画は、テレクラのポケットティッシュを厚め並べたあれは会田誠さんだっけ、誰かの作品が持つキッチュさも含めた現代性を足して超えているのか、って悩みが漂う。レンブラントだっけの肖像画の両脇についている丸が、実はドラえもんの両手だったという画はアイディアとして面白いけれど、芸として面白いねって言葉を超える説得力を、なかなか引っ張り出せない。

 アニメーションの画像を、美術的な表現の中に混ぜ込むってことをやっているのはなるほど、時代と地域を超越して現代のイコンを過去の象徴と並べ描くって意味で挑戦的ではあるんだけれど、そこで混ぜ合わされているのがディズニー・プリンセスたちっていうのは、ちょっとお上品すぎる気が。そこにはこうした作品が持つ美なり形式への賛辞はあっても毒が足りない。確かにひとつのスタイルだしワールドワイドなんだけれど、日本には会田誠でありMr.であり梅ラボといった最先端のポップカルチャーが持つ意匠なりその展開力なりを、作品の中に混ぜ込んでグロテスクな美を表現して除ける人たちが現れて来ている、そんな中で福田美蘭さんのはちょっと足りてないよーな印象を受けた。

 それは作品に時代を超越する強度が足りなかったのか、変幻する価値観の中でポジションを修正できなかったのかは分からないけれど、ただ同じよーなことでもずっと定点に留まりやり続けている、ってことは僭越だけれどとっても評価したいところ。価値の転倒なり混ぜ合わせから見えるおかしさと不思議さと美しさってのが、福田美蘭さんの作品には一貫して流れている気がするんで、それをやり続けることによって時代が再びその作品と併走を始め、長い活動によって存在感も高められていった果てに、時代を裏返した作家として位置づけられ評価されるんじゃなかろーか。草間彌生さんだって1990年代以降、っていうはほとんど2000年代に入ってからだもの、ここまで爆発的なポピュラリティを獲得したのは。福田美蘭さんも草間さんとはまるでタイプは違うけれど、その活動が持つ執着と沈思が世に伝わって、時代の中で強度を獲得していくんんじゃなかろーか。

 ああ。ああ。やっぱり良い。素晴らしいKalafinaのライブを東京国際フォーラムにて、堪能する。すでに初日を中野サンプラザで見てはいたけれど、ぐるりと2カ月、各地を回って戻ってきた東京の、室内では最大規模のホールを埋め尽くした聴衆を相手にどこまでも、どこまでも響かせ届かせる歌声を聞かせてくれたよ。アンサンブルも完璧に、ソロも歪まずWakanaは朗々と、Keikoは深々と、Hikaruは煌々と歌い上げてくれていたよ。どの歌もどの曲も素晴らしかった。とりわけ今回は「DOOR」という曲のソロが胸に突き刺さるように響いてきたよ。フルートの赤木りえさんを招いての生のフルートをバックにした「光の旋律」には心が躍ったよ。

 素晴らしいユニットになったなあ。とてつもないユニットになってしまったなあ。これでどうして紅白に出られない? 歌番組が特集しない? 否、そうした世俗のテレビ音楽の価値観など超越したところに屹立し、浸透して拡大しているのだ既に、Kalafinaは。だからテレビで話題にならなくても、ネットで騒がれなくても聞く人は知っている。聞いた人は分かっている。その凄さを。その素晴らしさを。だから聴く。CDを。だからら通う。ライブ会場に。それで良い。それだから良い。それでも。まだまだ耳にしていない人がいるというのは残念。勿体ない話なのでまずは聴こう、そのアルバムを、あるいは見よう、そのライブの映像を。

 そうすれば分かるだろう、アンサンブルの重なりが生み出す豊穣の音場が、その体を器にして発せられる声の重なりが生み出す多次元の音楽空間が、どれだけのものすごさなのかを。それはロックではない。アニソンでもない。ポップスでもないしクラシックでもない。音楽。Kalafinaという音楽。日本で生まれ、育まれたその音楽を人々に、そして世界に。そして気がつくと世界のいずこでも、あらゆるシーンでKalafinaが口ずさまれている。そんな日が訪れる時を夢みて、というよりそれを現実へと変えるべく僕たちはKalafinaを聞き続ける、追いかけ続ける、訴え続ける、語り続ける。永遠に。永劫に。


【8月3日】 せっかくだからと最新の004号が発売されたばかりのアニメスタイルのイベントを阿佐谷まで見物に行く。おお! これが「悪の華」バージョンの「アニメスタイル004」か! 店頭で売っている「とある魔術の禁書目録 エンデュミオンの奇蹟」が表紙になっているのとは違って、黒くて暗い感じが何というかとってもシュール。本当はアマゾンとかでも売りたかったけれど、表紙のバージョンが違うものを同じ値段で並べて売るのは難しい、クリアファイルでも付けて別商品にしないと扱えないってことだったので諦めたとか。イベントとかあればまた売るのかな。通販は1500円の本で送料6000円とかかかって果たして売れるかどうかで迷い中とか。欲しい人は欲しいだろうなあ。

 そんな「アニメスタイル」が次の005号からリニューアルされるという話が小黒祐一郎編集長からあって、もっと刊行ペースを速めて薄くするかそれとも分厚くして半年に1度にするか、いろいろ思案しているらしい。今くらいでも丁度良いかな、ってこっちは思っていても、作り手の方では時宜にかなった情報をタイムリーに伝えたいという思いと、たとえ待ってもたっぷり沢山伝えたいという思いが交錯して、どっちにするか迷っているっぽい。そういうのを1発で解決するのが電子出版でありウエブマガジンってことにことになるんだろーけど、でもそれだと画面だとか原画といった画像をくっきりと綺麗に大きく見せられないって悩みが生まれる。

 モニター上で見る映像作品で、最近なんてモニター上で作られてたりもするのがアニメーションなんだから、別にモニター内に完結してたって良いんじゃない? とゆー声もありそうだけれど、やっぱり原画なんかは紙に手で描かれたものが多いし、画面だってそれを印刷物として隅々まで見て味わいたいとゆー欲求が誰にだって残ってる。原画集とかビジュアルブックとかが出たら買ってしまうのも、そんな所に理由がありそう。あとは家によって環境の違うモニターでは、伝えたい品質で伝えられない可能性があるってこともあるのかな。印刷物ではひとつ、色味とか解像度とかも整えられた形で統一できる。だからたぶん、小黒編集長も紙にこだわり続けるんだろー。ずっと紙で仕事をしてきた人だし。

 ここで興味深い話が。仮にリニューアルされるとして「アニメスタイル」が今のB5という版型で続くのか、それとも大きくなるのか逆に小さくなるのかといった辺りで、実はB5がアニメの画像とそしてテキストを並べて伝えるのに最適なサイズなんだとか。あるいは原画だけならもうちょっと大きめでも大丈夫なんだけれど、スチルとして提供される場面画像なんかはこれ以上の版型になると、解像度が足りずページいっぱいに伸ばせないらしい。中には4KとかフルHDとかで作ったものを印刷に耐えるサイズまで落として渡してくれるところもあるらしーけど、ほとんどはそれこそ放送されたものをキャプチャした方が綺麗なくらいに提供される素材の解像度が低く、例えばニュータイプくらいのサイズの版型で、それを1ページにドカンとか、ましてや2ページ見開きでドンだなんてことは出来ないらしい。

 むしろアナログ時代のセル画の方が、存分に耐えられる綺麗さを出せたとか。アナログの情報量ってやっぱり凄いんだなあ。これが原画だったら、スキャンの按配でどうにでも解像度をいじれて、版型の大きい雑誌でも見て耐えられる画を作れるから、そっちを使う方が増えているんじゃないかといった意見も。まあニュータイプとかアニメージュとかアニメディアといった雑誌は、キャラクターなりをフィーチャーした版権イラストを載せて一種、グラビア誌としてファンに楽しんでもらっていることもあるから、場面を大きく伸ばして見せるってことも、あまり必要とはしていないのかもしれないけれど。

 ただ、やっぱりアニメーションという映像化された作品そのものを紙媒体で伝えたいという思いに立つなら、誰もがモニター越しに見ているあの画を、あの瞬間をとらえて載せたいもの。だから「アニメスタイル」では素材を集めて紹介することに拘っているんだけれど、デジタルが中心となったアニメ制作事情がそうした願いを認めなくなっている。デジタルだったらサイズなんて自在じゃね、って思ったんだけれどそういう訳にもいかないというか、そういう所で撮影処理された素材を抜き出し高解像度の画面スチルとして作っていく手間はなかなかかけられないというか。世の中なかなかままらならい。

 その点で、「アニメスタイル004」で特集された映画「とある魔術の禁書目録 エンデュミオンの奇蹟」では、制作したJ.C.STAFFって会社が何と6000枚近い場面スチルを高い解像度で用意してくれたそうで、そのことごとくが原画に対応した部分だそうで中割とかなく動きも形もしっかり。そして物量が多いから欲しい部分のことごとくがそこに入っていて、パンする場面なんかだと1枚絵として入っていたそうであの絵が欲しい、あの場面を載せたいと常に思って雑誌作りをしている身にはとてつもなく嬉しかったとか。聞くとJ.C.STAFFには撮影部もあって、データが身近にあって取り出しやすかったみたい。素材を合成してエフェクトなんかもかけた絵もいっぱい入っていたのは、そーした仕事を見て欲しいっていう撮影スタッフの情熱か。使ってあげられる媒体はなかなかないけれど。それこそフィルムブックとか、ビジュアルストーリー本とかを作れば素材も存分に活かせるのに。やらないかなあ、アスキー・メディアワークス。

 中央公論新社の第9回C☆NOVELS大賞で特別賞を受賞した沙藤菫さんの「彷徨う勇者 魔王に花」が胸にキュンキュン来る話だった。千年の昔、ふとしたことから助けた人間の男に恋した魔帝は、千年に1度、人間1000人を世界樹に食わせ魔物(グル)たちの糧となる実を得る儀式の生贄として用意されていたその男とともに、世界樹は本当に人間を必要としているのか、他の何かで代用できないかと研究するもののかなわず、男は人間の手により首を跳ねられ、魔帝は激怒し嘆き暴れたその最中、世界樹の実を帯びた人間1人の血でもあがなえるということが分かり、世界樹の実は成って伝承はひとまず成立する。

 そして男の子供を身ごもっていた魔帝は、7人の魔王と呼ばれる子を生み育てそして千年後が廻ってくるその。末子の魔王アランは雪山で助けた少女に一目惚れして、蛇の鱗や羊の角といった特徴を無くし、人間に見えるようになる薬を飲んでオリガという名の少女を街へと送り届ける。魔王だけれど“いい人”でひたすらに恋情を述べ優しさを見せるアランに関心を向けるものの、オリガは実は勇者として魔帝と戦う運命に。魔法の影響で少女との恋仲が得られないと砂になる運命のアランは、そんなオリガとの恋を成就させられるのかと自身は悩み、アランを思う家族も焦る。オリガもオリガで世界樹の実を帯び強くなった代わりに、命を食われる運命にあって未来がない。

 それでも最善を目指し、グルは人間を世界樹の生贄に捧げずオリガは世界樹に食われずかといって世界樹に身も投じず、アランも魔法の副作用で砂になることがない道をさぐっていく展開が、刹那的で悲劇的なストーリーへと物語を陥らせずに読んでいて心が温まる。妙に家族思いでアランの窮地は救いたい、でもその恋も成就させたいと葛藤する魔帝や兄や姉たち一家の姿が様がほっこりと来る。どこか人間くさいのはやっぱり、魔帝がかつて人間を愛し子たちもそんな人間の血を半分は受け継いでいるからか。最後の最後まで続くピンチを果たしてアランは、オリガはどうしのいでハッピーエンドをその手につかむか。ご堪能あれ。

 外には木鐸だの正論だのをぶち挙げておいて、中身は社会に向かって正義とは絶対に言えない不誠実さがまかり通る二枚舌。本来の目的を外れてしまった以上、もはや存在する価値など皆無なのに、正義を売り渡してでも存在し続けることを目的化して汲々としているその無様さを、傍観するしかない状況をいったいどうしたらいいものか。一生に何度も見られるものではない風景が、見られると思うとそれもまたひとつの経験ではあるけれど、すでに一度なりとも経た事柄を、拡大再生産している状況を見るのは悪夢以外の何物でもない。今はただ絶望しかない。バルス。言ってやりたいなあ、あの場所で。


【8月2日】 たぶんそれは人間そのものなんだろうなあと、市川春子の「宝石の国1」(講談社)に出てくる宝石人(とでも言うのかな)たちの様々っぷりを見ながら思った人もきっと多そう。主人公のフォスフォフィライトを始めダイヤモンドとか辰砂とかボルツことカーボナードとかモルガナイトとか出てくる名前の宝石は、硬かったり脆かったり柔らかかったり強かったりと鉱物なのにてんでばらばら。美しく輝くものもあれば鈍く光るものもあってと見た目も違うし価値だって違うんだけれど、それって人がそれぞれに違ってるってことを意味してるような気がする。

 地球が滅びかけて海へと帰った生物が、長い年月をかけて結晶となって再び岸辺へと打ち上げられてそこから人間の形を取るようになった世界では、そうやって生まれた宝石のような少年たちを狙って、月から月人たちが集団になって襲いかかってくる。宝石の少年たちは金剛という先生の指揮下にあってそれを迎え撃とうとしているんだけれど、全員が全員、戦っている訳じゃなくって服を作ったり医療を担当したりとそれぞれが自分の特徴に合った仕事を割り振られている。戦うのは体から毒液が流れ出しているシンシャとか、硬さではナンバーワンのダイヤモンドとかその係累でねばり強さも併せ持ったボルツとか。

 そして主人公のフォスフォフィライトは、誰よりも脆くてちょっとした衝撃で壊れてしまう特徴から、当然のように戦闘の最前線には出されず代わりに先生から、博物誌を作るように言われる。それは宝石の国に生きている少年なり世界の様子なりを記録していくというもの。当人はそんな役目を不満に思いつつ、でも先生の一喝で崩れてしまう自分に出来ることはそれくらいだと思い、あちらこちらを回っては、戦っている者たちの戦いぶりなんかを間近で見る。夜しか外に出ないシンシャは自分のその体質から皆といっしょにいられず、かといって夜に月人たちはやって来ないため連れて行かれることもない、その誰にも必要とされていない自分に苦しんでいる。

 ダイヤモンドは硬さとそしてキャラクターとしてもそう描かれている美しさもあって人気のようだけれどでも、脆さも一方にあって同じ仲間のボルツが前線に常に立って戦うことに心を痛めている。それはそれぞれの宝石が持つ特質を表したものでもあるけれど、人間が持っている寂しがりやだったり脆弱だったり強靱だったりといった性格を、写したものでもありそう。そうやって様々な人たちが同じコミュニティにあってぶつかり合わず、ひとつ目的のために頑張っている姿から、読者は単純なキャラクターの描線の可愛らしさ、コミカルさも見せるフォスフォフィライトの楽しさとは別に、人としてどう振る舞えば良いのかも考えたりするんだろー。

 月人のしつこさも、その仏教的な様式も独特だけれどそこは市川春子さんだけあって、例えば「地上最強の男 竜」を描いた風忍さんのよーな曼陀羅がそのまま漫画になったような濃さはなく、ちょっぴりのグロテスクさを醸し出しつつ耽美な雰囲気ってものを漂わせている。キャラクターたちの可愛らしさや凛々しさは過去の幾つかあった作品から大きく進歩。誰をとっても人気が出そうな容姿に性格を持っているけど気になるのは本当に男の子ばかりなのか、それとも女の子も混じっているのか鉱物なんで性別はないのかってことか。ダイヤモンドなんて可愛らしすぎるものなあ。あと金剛先生の秘密か。ひとりだけおっさんでパワフル。でも宝石なんだろうか? 金剛石ってダイヤモンドだし。この先の展開とともにちょっと注目。

 そりゃまああれだけ喫煙のシーンがばんばんと出てくれば「風立ちぬ」って映画における喫煙の意味性を検証したくもなるだろーし、そーすることによって話題の映画の話題性に乗っかって新しい話題を提供して注目を集めることも出来るんだけれどでも、考えようによってはあの時代の光景をちょいオーバーではあっても描いただけって言えば言えないこともない。あとは宮崎駿監督本人の煙草好きの現れって奴で、何しろ2001年に三鷹ジブリミュージアムがオープンした時、自分の仕事机周りを再現した展示コーナーにやって来た宮崎監督、あろうことかそこに置いてある灰皿を使ってぷかぷかと煙草を吹かし始めた。たしか禁煙じゃなかったけジブリミュージアムって。

 だから喫煙シーンが多いからって、そこに何かの意味性を込めすぎたってこともなく、単純に時代を表している、って見れば良いだけのことなんだけれど、それでは話題に乗っかれないから仕方がない。いっそだったら帽子も取り上げ列車で堀越二郎の帽子が飛ばされ菜穂子がナイスキャッチし、そして軽井沢のホテルでは菜穂子の帽子を二郎がキャッチする交換から深まる恋情を軸に、帽子について語ることだって可能かもしれないけれど面倒だからやらない。あの時代、帽子って普通にみんな被ってただけって言えば言えるし。今はあんまり被ってないよなあ、若者はファッションで被っても勤め人は被らない。被ればいいのにカッコイイから。禿だって隠せるし。そっちが本音。

 螺鈿でも蒔絵でも漆塗りでも何でも、職人というのは、それぞれにそれなりの経験を積んでようやく一人前になれるもので、一朝一夕に生まれてくる者ではない。職人を目指す者はだから既に名を挙げ腕を振るっている職人のところに弟子入りしてから、何年も何十年もかけて修行を重ねて腕を磨き、世間も自分も納得のいく細工を作りあげる高みへと到達する。そこで初めて職人として認めてもらえても、自分では更なる高みがあるからと修行に励む。それが職人魂というものだ。

 あるいは料理人などの場合も、最初は洗い物から始め、やがて竈の番となって焼き物なんかを見たりした果てに、ようやく包丁を握らせてもらい、料理人としてのスタートラインに立つ。いきなりすべてを任される料理人なんていないしいたら不思議。町中のファストフードの店にはそういう場合もあるけれど、それは料理というより加工に近いものだからね、レンジで温めたりするだけの。ところが、そんな悠長なことは言ってられない、螺鈿も蒔絵も今すぐ欲しいという客がいるから、たとえ1年2年の修行であっても、形さえそう見えるなら作らせてしまえという商売人がいて、まだ未熟な腕で作られた品物を、どんどんと店先に並べようとしていたとする。

 むしろ職人として高い評価を受けた一方で、工賃も高くなる熟練した職人の品を少しばかり並べるくらいなら、腕前は劣っても安く使える未熟な修行者を雇って作らせた方が、利幅も大きくなると考える商売人もいるかもしれない。料理でも同様で、見よう見まねでも形になるならすぐに板場に立たせて料理を作らせ、安い賃金で荒稼ぎしたがる飲食店のオーナーがいるかもしれない。そして何年か経って腕前が上がってきて、いよいよ歴とした職人になれる、料理人になれるというところでさっさとお払い箱にしてしまう。技量が追いついていないならまだしも、それなりの将来性を見せ始めていたとしても、やっぱり雇い止めにしてしまう。なぜなら腕前を上げてもらっては、職人や料理人に支払う賃金が上がって、大きく稼げなくなるから。

 そうやって最初は、がっぽりと稼いで稼ぎまくってほくそ笑んでいた商売人もオーナーも、ふと気がつくと客が誰も来なくなって慌てるようになる。それはそうだ。たとえ体裁は取り繕ってあってもやはり、新米と熟練者では螺鈿だとか蒔絵だとかの完成度が違ってくる。素人に毛が生えた程度の細工を最初は安さで買っていても、本物が別にある以上はそちらに目が向くようになる。誰だって欲しいのは見てくだけのものじゃない、本物の工芸品なんだから。料理の味だって同様に、駆け出しとプロの料理人とではまったく違ったものになる。安いけれども実は粗悪で粗雑な品物であり、味だと露見してそれをガンガンと指摘されるようにもなって、商売人はさすがにこれは拙いと熟練の職人を使い、料理人を使おうとしても後の祭り。なぜなら職人も料理人も一朝一夕で得られるものではないのだから。

 目先の利益ばかりをを追って後継を育てずに来たつけは、後からでは絶対に取り戻すことが出来ない。それは職人や料理人の世界に限らず、技能を必要とされるすべての職分に言えること。考えなくても分かる筈のことなんだけれどこのご時世、未来に不安を抱えながらも品質を維持して切り抜けることが出来ないか。品質を勘違いしている人たちが上に立っていたりする場所では、こうしたことがとかく起こりがちになる。目先の利益、というより自分の保身に汲々として未来を先食いして、とにかく今日を、せいぜいが明日を乗りきって後は知らぬと遁走を画策する輩が多いという現れ。嘆かわしいというより他にない。せめて公正を持って世に正義を唱える職分でだけは、起こって欲しくないと思いたいし、起こるはずがないと信じたいけれども、果たして。


【8月1日】 まったくもって騒々しいというか何というか、熊本県のキャラクターとして広く日本中に知られた「くまもん」を前にドイツにある老舗のテディベアメーカーのシュタイフが、ぬいぐるみにしたらたちどころに売れてしまったというニュースが話題になったけれど、今度は世界的な知名度を持つフランスのガラス器メーカーのバカラが、くまもんをクリスタルの像にして販売し始めたとかで、やっぱり高い人気を得ているという。テディベアならくまもんだって熊なんで分からないこともないけれど、クリスタルなんてただ形をなぞっているだけのもので、見た目が美しい訳でもない一種の高級キャラクターグッズを、どーしてそうも買おうとするのか。人気であることと、高級であることの相乗効果に目が眩んでいるとしか思えない。まあそういうところが重要なんだけれど、こういうビジネスって。

 いっそだったら次はイヤープレートで有名な陶磁器メーカーのロイヤルコペンハーゲンが、くまもんを描いた絵皿を作って売り出すとかすればやっぱり飾りたいという人で大量の注文を集めそう。あるいは陶製の人形で知られるスペインのリヤドロが、柔らかいタッチの造形でくまもんの陶磁器人形を作るとか。これは外観とかも含めて結構な可愛らしさを醸し出しそうで、実現すればちょっと欲しいかも。そしてとどめはイタリアのファッションブランド、ジョルジオ・アルマーニがくまもんの柄をしたコートを売り出すとか。もちろんオートクチュールだ。どんなデザインになるかちょっと見てみたい気もするけれど、着こなせる人も限られるだろうなあ。他にあるとしたら何だろうなあ、ティファニーとかルイ・ヴィトンとかかなあ、でも個人的にはくまもんをモチーフにした2×2×2のルービックキューブがちょっと欲しい。昔あった2×2×2のハローキティのキューブはそれこそ、画期的なばらけ方をしたから。出あないかなあメガハウス。

 髪の毛が薄くて腹が出ていて汗かきながら目を原稿用紙に近づけペン走らせていたおっさんが草ナギくん? これだからフジテレビって奴ぁ……ってキャスティングについて誰もが思った「BJ創作秘話」がドラマ化されるというニュース。手塚番で鳴る壁村耐三編集長が佐藤浩市さんというのも格好良すぎるセレクトで、どちらかといえば美男美女をさっぱり廃して、暑苦しくも汗くさい男たちが最前線でぶつかり合っては、傑作の漫画を世に送り出してきた様を描いた漫画のコンセプトを根底から揺るがしかねない。でもだからといって手塚治虫をスギちゃんが演じて壁村編集長を松重豊さんでは視聴率が……それはそれで取れるかも、暴れたら凄そうだしなあ、松重さん。

 しかし「現代の新米編集者が往事の手塚治虫のもとにタイムスリップしてくるという、ドラマオリジナルのストーリーが展開される」とゆー展開はやっぱり余計過ぎるかも。だって別にそれだったら原作が「BJ創作秘話」でなくたって、誰もが普通にいろいろな作品なんかで見知ったエピソードばかりだから、参考にして作れるんじゃないの。というかそーゆーエピソードを集め取材も行い描かれたのが「BJ創作秘話」な訳だから、そこにオリジナル要素なんて乗せるのは単に知名度って看板を借りているだけに過ぎない。ちょっと失礼な話。でもまあ仕方がない、それなら例えばやってくる編集者をBLコミック誌の腐女子にして、キリコとブラックジャックのイケナイ場面を描かせよーと手塚治虫を説得するよーな場面を描いて欲しい物。

 あるいはその新米編集者は講談社に入ったばかりの太田克史さんで、当時から転がしていたでハーレーにまたがり革ジャン姿で虫プロに乗り付け、そこから1週間の徹夜もものともしないで手塚治虫に食らい付いてはついに原稿を取ることに成功。けれども読んでそのイケてなさにダメだしをして描き直させてそして、ようやく完成した新しい原稿を受け取る直前にタイムスリップして現代に戻ってそして単行本を読み返してみた太田さんは、欄外にこんな書き込みを発見するのであった。「太田が悪い」。そういう面白さが果たして発揮されるかなあ。現代の編集者気質と壁村さんの時代の編集者気質を対比してみせるよーな展開があったらオリジナル要素を入れる意味もあるんだけどなあ。

 徒然に思うこと。テキストに関わる仕事として存在する「校閲」は、単に誤字脱字を見つけて直すだけに留まらず、その文意が正しいのか、記載された内容が事実に即しているのか、社会通念的に許される表現なのか、何かの権利を侵害していないかといったところまで踏み込んで読み込み、精査して間違いがあったら指摘して糺していく。そうすることによって最終的な形となったテキストは安心のクオリティが絶対的とは言えないまでも担保される。以前、新潮社の校閲の仕事ぶりが話題になったように、その精緻さを見ればテキストが世に出るまでにどれだけの日本語であり社会であり専門でありといった関門をくぐり抜け、どれだけの精査を経ているかが伺える。

 校閲は機能ではない。技能なのだ。とはいえ、世間にそうした校閲の凄さが伝わるのは、先の新潮社における事例が人口に膾炙されるような場合あった時くらいで、一般には筆者が間違えず、編集が糺せばそれで済む話、だから校閲など誤字脱字を見つける程度の“生きた国語事典”程度の認識した持たれなくなっている。なおかつ最近は、自動的にそうした誤字脱字等を見つける機能も電子的に搭載され、不要といった空気がそうしたテキストを世に送り出す側にすら、漂うようになっている。校閲などもういらない。とはいえ参考程度にはなるだろうから、外に委託するような形で残しておけばいい。そんな風潮が漂い始めている。

 大きな間違いだ。誤字脱字はなるほど自動的に見つけられるかもしれない。けれども文意その物が持つ例えば差別的であったり、あるいは論理的矛盾であったりというものは自動的には見つけられない。そして筆者はそうした矛盾や差別をそう感じていないからこそテキストに表すのであって、別の誰かが公正な視点から指摘しなければそのまま通ってしまっては、刊行物なり刊行元の評判を大きく、時には壊滅的なまでに落とすことにつながりかねない。だから人としての校閲が必要であり、それも絶対的に損なってはいけない技能だと断言できる。

 だからもし。校閲を単なる機能としか見なさず、外部化して事は足ると思っている人が読者の側のみならず、刊行元にいるとしたらそれは品質という最も大切なものを否定し、投げ捨てようとする考え方だ。あるいは単行本等のようにしばらく時間をかけ、調べ尽くせるものなら外部に専門家を置いて事々に雇うこともあって良いかもしれないけれど、日々に留まらず時々刻々にテキストを世に送り出して行かなくてはならない分野の刊行元で、そうしたフローに熟達した校閲を外部化し、のみならず育成すらも外部に任せるようになったとして、起こるのはいったいどういう事態だろうか。考えるほどに恐ろしい。

 現実、そうした事態が進行しているとは聞かれないし、起こる可能性も真っ当な人間たちが営む、というより真っ当な人間以上に聡明さが求められる分野ともいえる、出版報道等の事業を率いる人間たちが、考えれば子供にだってすぐに分かるような愚作を打ち出すといった話もない。あったらそれこそ大変だ。アメリカの新聞社がカメラマンを廃して記者に写真を撮らせるようにしたことに負けないくらい、興味を持って見られるニュースだ。だからあるはずがないのだけれど、ただ、全体にテキストの刊行という分野が経営的に逼迫している中で、いずれ起こり得るかもしれない事態でもあったりするかもしれないだけに、警戒しておくことが必要だろう。仮にもし、そうなってしまった先に来るのは瞬間の浮揚と、そして永遠の凋落なのだから。ともあれ今はまだ大丈夫。たぶん、大丈夫。

 お目にかかったことはないし、詳しいその働きぶりとか発揮された才能なんかを調べた訳でもないけれど、「仮面ライダー」に「秘密戦隊ゴレンジャー」といった作品を東映で多く手がけて僕たちに、等身大の特撮ヒーローという存在を教えてくれたプロデューサーの平山亨さんが亡くなったことは、やっぱり素直に残念であり哀しいこと。この方がいなかったら僕たちは果たして特撮好きであり変身ヒーロー好きであり関連するジャンルとしてのアニメ好きでありSF好きになっただろーか。「ウルトラマン」だけではやっぱり足りなかった成分を、「仮面ライダー」が与えてくれていたことだけは確実で、ここから等身大の変身ヒーローが生まれ戦隊ヒーローが派生し不思議シリーズなんかも出てきては、僕たちの試聴体験を豊にしてくれた。

 アニメのセーラームーンからプリキュアといった変身ヒロインも生まれてきたんだと思えば、今のこうしたジャンルの隆盛にも大きな役目を果たしたと言えそう。テレビの娯楽を作り上げ、大きく変えた立て役者の1人として政府はそれこそ国民栄誉賞を与えてその死を悼んでも良いんじゃないのかなあ。でもやっぱり「誰それ?」的な反応なんだろうなあ。いつまで経ってもそれだけが哀しいけれど、でも良い、僕たちの血肉になっているし新しい世代にもしっかりと受け継がれている平山さんの企画とそのフォロワーたち。だから今は黙して弔いつつ、平山さんが残した数々のフォーマットを、アイディアを、そしてスピリッツを受け継ぎ広め伝えていくことで報いたい。合掌。


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