縮刷版2013年7月下旬号


【7月31日】 いよいよもって登場した「宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集[EARTH]」(マッグガーデン)は、僕がもしも30年若かったら毎日のようにヤマトのパース図とかメカとかキャラとかをトレーシングペーパー乗せてなぞって、絵を描く練習をしたくなっただろう位に大量で、大判でそして精緻な設定画が掲載されている資料集だった。あの独特なパースのヤマトを巧く描くにはやっぱり元の巧い絵を見ながらじゃなきゃダメ。かといって松本零士さんの漫画をそのままなぞるとどこか松本パース世界に入って独特の歪みとフォルムが出てしまう。ひおあきらさんならなおさらだ。

 これがアニメの場合だと、誰かの特徴が色濃くは出ていないけれど、誰でも描けるといった感じではない独自性がやっぱり残っていたりするもの。それを真似ることによってあの格好いい確度をどう描くのかを、学べるんだけれどもうこの歳で学んだところで次があるわけでもないからなあ。いや次を考えないといけない状況も案外にひたひたと迫っていたりするのかも。絵を描く勉強をして55歳での原画マンを目指すか、声優の学校に通って50歳でのデビューを目指すか。どっちがより現実的?

 それにしても「宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集[EARTH]」って発行元がこーゆーのに目ざとい角川書店とかではなくってマッグガーデンなんだ、漫画出版社の。もう随分と前に制作会社のプロダクションIGがマッグガーデンを傘下に持ってそことのシナジーなんかを模索して、自分のところのアニメを漫画にして載せたり逆にコミックブレイドの連載漫画をアニメ化した、ってのはあったっけ、あったような記憶もあるけどともあれそうした連携なんかを取ろうとして来た割に、目立った爆発はなかった。今回はスケールの大きなコラボがこーやって成立。100万部くらい売れれば定価も高いし相当に儲かりそうだけれど果たして。ガミラス編と地球編、どっちが多く売れるかなあ。

 中央公論新社から浮穴みみとゆー人の「御役目は影働き 忍び医者了潤参るとゆー本が送られて来たので見たら帯に「笹川了潤。美男、長身、医師にして上忍。しかし、三度の飯より検屍好き この忍び、目立つ。」という惹句が踊っていて、これはもう読むしかないと思った。なんて言うかいろいろ乗り過ぎ。そして目立ち過ぎ。まるで忍んでないのに忍なんてやろうとするから江戸に出て、グルーピーが出来て幟を掲げて周囲を囲み、そしてちょっとした活躍をまるで忍者のようだと囃し立てられる。正体が露見した訳でなくシュッとした振る舞いを格好良さの代名詞的に忍者みたいとある同心が評しただけなんだけれど、隠れ忍んでいる周囲は気が気じゃなかっただろうなあ。

 そんなキャラクターの描写も実は面白い「御役目は影働き 忍び医者了潤参る」。時代はほぼ幕末に近いようで、各地に蘭学を学んだ人もいるけれど一方で蛮社の獄なんてものも起こって取り締まられたりしている状況。伊賀の山で忍者としての鍛錬しつつ、育ての親から医術も学んだ上忍の笹川了潤が、実の父らしい男の突然の死を受け、その父親が務めていた江戸へ出て、とある大名の若様の下、江戸の治安を守るべく働くことになる。目下は父を暗殺したらしい勢力が相手。その首領で蘭学者ながらいろいろと画策し、周囲に凄腕も侍らせている男に迫る探索の過程で、殺人が起こり美男子で医術も収めた忍びの了潤が、持てる医学の知識を駆使し、周囲の忍びたちも動かして真相を突き止めていく。

 ただ医術の経験から真っ当でない死体の死因に迫るだけれなく、当時最新の化学や科学も駆使した調査を行ってみせるところが時代小説にあってちょっとモダン。姿の見えない敵の蘭学者はどこにいる? はるばる秩父にも赴きつかんだその真相!  といった具合に連作4編で語られる1つの大きなストーリーは、了潤という主人公の出生も含めいろいろと裏があって楽しめる。とりあえずまとまってしまい、事件も落着してしまってこのあとに続きそうもないけれど、幕末維新と流れる中で了潤がどう活躍し、彼を雇う若様がどういう態度を見せるのかってのにも興味があるんで、もしも可能なら続きめいたものが読んでみたいもの。どうなるかなあ。

 須藤元気さんといえば一種のエッセイ集とも言える「風の谷のあの人と結婚する方法」が出た時に、当時まだ担当していた「週刊SPA!」の書評用に回って来て読んで本当に格闘家? って思ったほどクレバーな文章で驚いたんだった。あとは「キャッチャー・イン・ザ・オクタゴン」って小説が出た時も読んでみて、乾いた語り口の中に格闘家ならではの激しさと切なさも込めた文体と物語の面白さに凄い書き手が出てきたなあと思ったんだけれど、そこからさらに活動を広げて、WORLD ORDERなんてダンスパフォーマンスユニットを作って世界で活躍するよーになるとはちょっと、想像を越えていた。でも確かエコ推進キャンペーンのキャラクターとして登場した時に見た須藤さんはいたって普通の人で、格闘もダンスも飛び抜けているって雰囲気じゃなかった。だからこそ余計に凄みを感じてしまうんだろー。

 そんな須藤さんが率いるWORLD ORDERが今年の4月にあの日本武道館で行ったライブパフォーマンスのブルーレイディスクとDVDが、いよいよ発売になったとかでそれを記念する上映会がTOHOシネマズ六本木で開かれたんで見物に。Youtubeなんかでは何度も何度も繰り返し見ていたそのパフォーマンス。それゆえに平面で据え付けられたカメラに向けて演じた場合にとても凄く素晴らしく美しく見えるよう計算されたダンスだと思い、だから裏側とか上側から見たらさっぱり訳が駆らない凡庸なダンスだと思うかもしれないなあと想像してたらこれがどーして、あの円形に360度ひらけた日本武道館の中央にしつらえられたステージで、須藤さんと6人のメンバーが横一線なり縦一直線に並んで定点カメラに向かって演技瑠するだけじゃなく、場所を入れ替え向きを入れ替えながら四方八方にアピールするダンスを繰り広げていた。

 「弱点をさらけだす」とゆーのが映像の中でMCに臨んだ須藤さんが言っていたことで、正面から見れば格好いいけどそれ以外は、なんて世間の声に対してそうじゃないんだってことを見せ、活動の幅とパフォーマンスのバリエーションを拡大させていくんだとゆー決意が全体から漂っていた。ステージにも工夫を凝らして様々な映像が出るようにしてあって、その上を歩くダンサーたちにシンクロして切り替えたりすることで、武道館の上の席から見ても、というかアリーナからでは分からないビジョンを上から見る人にだけ与えたりしていた。絶対的に安定した場所に留まり定点カメラに向って演技して良しとしない、探求心とチャレンジ精神。だからこそ格闘家から文筆家となり映画も撮りレスリングの指導もしながらダンスも作りあげるよーな、八面六臂の活躍が出来るんだろー。いやメンバーは7人だから7面14臂かWORLD ORDERの場合は。

 しかし不思議で魅力的なダンスパフォーマンス。派手なアクションはせずロボットのようにゆっくりと、時にテキパキとした動きをテクノでアンビエントなサウンドや歌に乗せて見せているその様は、ちょっとズレるかもしれないけれど往年のダムタイプを思い出した。ゆっくり歩いたり入れ替わったりする動きなんかが重なるんだよなあ。当人たちがそれを意識しているか分からないけれど、ただちょっとだけ激しいダンスを見せるシーンでメンバーの全員がとてつもない速度や確度でもって演じていたからやっぱり普通に踊れば踊れる人たちなんだ、WORLD ORDERって。それをああした演技の中に押さえ込んでみせるから、匂い立つ凄みってものが感じられるんだろー。今度は生でみたいなあ、そーしたらどんな匂いが漂ってくるんだろー。

 信用で商売していたメディアが、ペイドパブやステマをすれば、積み上げていた信用の分だけ効果はあるけれどでも、それは信用をラッキョウの皮のように剥ぎ取り売り渡しているだけであって、すべて剥がれ落ちたあとには信用も残らなければ身の少しも残らないということを、分からない莫迦が大勢いるから参る。目先の数字のつじつまさえ合えば良しとするその心理が、本当に大切なものをスポイルして結果、目先の数字すらとれなくなってしまうことにどーして気づかない? 気づいたら最初からやらないか、そーゆーことは。あと、同じ仕事でなおかつ不可欠の仕事であるにも関わらず、以後の採用を別にして賃金にも格差をつけた果てに来るのが現場の不穏でありモラルの低下でありその結果としての品質の劣化であり、格差が生む泥沼の紛争であることを過去の歴史が証明しているのに、気づかず知らん顔をして推進する奴らの莫迦っぷりもおおいに気になる。

 いったいぜんたい、その頭に詰まっているのは穴あきチーズかおがくずか。それにしても、10年に2度も脳味噌が穴あきチーズになってしまって周囲を巻きこみ崩壊へと導く様を様を見ることになるとは思わなかったかというと、案外に思ってはいたけど本当にそうなるとは思ってはいなかったかというと、やっぱり思っていたけれどでも、そうなって欲しくないと信じる気持ちはマイクロナノくらいあった。やっぱり信用してないか。できないよ。とはいえ、1個目の穴あきチーズは小さくて腐れ落ちてもまだ食べるところがあったけど、今度のチーズは大きすぎて崩れても誰も手を出しようがない。腐れ方も角だけじゃなく全体に及んでいるから、あとは放置して完全に消えるのを待つしかなさそう。そうした事態に最大限の責任を持ちながら、さっさと逃げ切る奴らも出て来そうだけど、追いすがって目にもの見せてやるから待っていろ、って言いたいなあ、言えないよなあ、詮無いし。


【7月30日】 Yanoo知恵袋に寄せられた質問より。質問者は都内の高校生。「『バレンタインで俺がチョコをもらえたらホワイトデーは倍返しだ!』と薄ら笑いを浮かべながらクラスで宣言したのに1個ももらえませんでした。なぜですか?」。答えて曰く。「薄ら笑いが気色悪いからでも、女子高生の間に『半沢直樹』が知られてないからでもありません。バレンタインは今、3倍返しが常識です。倍返しでは足りないのです。だから失笑されて当然です」。世間はなかなに世知辛い。そして次の質問。30代の働き盛りのサラリーマンより。「妻が『半沢直樹』にハマっていて、夜ベッドに入った後で『倍返しよ』と迫ってきます。おまけに昨夜は第4話の予告を見たのか『10倍返し』を求められました。1回に対して10回。とても体力が持ちません。どうしたらいいでしょう?」。答えて曰く。「最終回が億倍返しにならないことを祈りながら、体を鍛えておきましょう」。強壮剤が売れそうです。

 声優の斎藤千和さんがご結婚を発表されてそれはそれでとても喜ばしいことではあるんだけれど、いったいどの斎藤千和さんが結婚したのかという部分で少しばかり悩む。「ぱにぽにだっしゅ」のベッキーことレベッカ宮本なのか「境界線上のホライゾン」の葵・喜美なのか「物語」シリーズの戦場ヶ原ひたぎなのか昨今もっとも当たった役として引かれる「魔法少女まどか☆マギカ」の暁美ほむらなのか。その声の種類の多さにきっと人格も多岐に別れていて人によってはベッキーみたいな幼くて噛みそうなキャラが良いという人もいれば逆に葵・喜美みたいに色気全開で巨乳防御を発動させそうなグラマラス系が良いという人もいる。がはらさんみたく淡々と辛辣に喋ってくる人が良いという人もいたりするかな。でも「ケロロ軍曹」の日向夏美であるところの斎藤千和さんだけはダメだ。あれはギロロ曹長の憧れだから。奪ったら地雷が埋められる魚雷が放たれる爆雷が落とされる。御用心ごようじん。

 初のアスキー・メディアワークス以外からの刊行となった野崎まどさんによる小説「know」(ハヤカワ文庫JA)はなるほど、読めば納得の野崎まどという作品だった。それは「[映]アムリタ」から「2」へと至った作品でも示された、人間の脳が持つ可能性が、果たして限界を超えてしまった時にどんな奇蹟が起こるのか、あるいはどれほどの災厄が訪れるのかを推察し、考察して想像して描いた作品という意味で、読めば知識というものへの激しい欲求が誰の脳裡にも浮かぶ一方、それがもたらす恐怖も浮かんで惑わせる。人はいったいどこまで行けるのか。行った先に何があるのか。想像するだに興味深く、そして恐ろしい。

 まず提示されるのは極度に情報化された世界で頭に電子葉というものが埋め込まれるようになった人間は、<情報材>というものを介してあらゆる場所であらゆる情報にアクセスできる可能性を技術的に体得。とはいえ誰もがどの情報にアクセス出来ては混乱も生じると、人によって制限がつけられランク0からランク6までの段階で、すべての情報を明かしながらほとんどの情報にアクセスできない0を最下層に一般人レベルの2、そのちょい上の3といった通常レベルがあってさらに、政治的な機密なんかに触れられるレベル4以上があってそしてレベル5ともなると情報庁っていう官庁でも一握りの権利者として、自分のプライバシーは厳然として守りつつたいていの情報にアクセスせきるようになっていた。ちなみにレベル6は内閣総理大臣級。そうはいない。

 そして主人公の御野・連レルは情報庁の審議官としてランク5にあって情報に関する問題をテキパキと、というか天才過ぎるのであっさりと処理したり彼には及ばないまでも有能な部下に任せたりして日々を送っていた、そんなある日、まだ幼い頃に数日だけ参加した大学が主催するプログラミングのワークショップの最中に、<情報材>を世に送り出した天才的な科学者であり、エンジニアでもある教授から薫陶を受けていたことに関連した事態に巻きこまれる。ワークショップの最終日にすべてをなげうって失踪した教授は関与していた会社で研究していた成果をすべて持ち出し残りは破棄していた。その行方を追う会社が連レルのところに訪ねてくる。一方で連レルは教授の行方に訳あって気づき、そしてひとつの事件を経て彼が残した少女と行動を共にすることになる。

 繰り出されるのはあらゆる情報を自在に咀嚼し操るという存在。例えば「攻空機動隊」なんかだと普通の生活しているそのかたわらで、ネットを介して情報を引っ張り出して検索したり紹介したり会話もしたり誰かにハッキングしたりして、自分をどこまでも拡張してみせている。「know」の登場人物たちも電子葉を使いランクの差こそあってもそうしたネットに外部化されている情報を、外部とすら意識しないで条件の合う範囲で利用してたりする。見た目は個体でも見えないネットワークを介して巨大な情報の塊の中にいる。それが「know」という世界においける人間という存在になっている。そんな社会の姿と、それでも存在する”格差”がもたらす歪みめいたものを、ここから考えつつスマホを持ちARがやがて登場するだろう現在から将来にかけての社会の変化を、想像してみるのがまずは良さそう。

 一方で、そんな情報のそれこそすべてを飲み込み理解可能な人間が現れたとして、いったい先に何が起こるのか、それはどういう形をとって生まれ育ち息をして立ち回り、何を考えて自分をどこに導こうとしているのか。ネット上のデーターベース等に限らず人間ですらひとつの情報体として認識して利用し吸収してしまえるような存在は、はっきり行って怪物以外の何物でもないけれど、それを世界を脅かすためには使わないのならいったい何のために使うのか。それが人類に何をもたらすのか、といった部分でいろいろとと提示される回答がある。その正否を検証する楽しみもあれば、人類にもたらされるだろう超越が何を意味するかを思索する楽しみもある。とてつもなく視野が広くとてつもなく彼方まで手の届いた物語。読んで人はどこを目指す?

 土屋アンナさんを見たのは多分2回で、1回目は東京ゲームショウの会場で開かれた「バイオハザード ディジェネレーション」ってフル3DCGの映画のプロモーションに来場した時で遠目ながらもあの「下妻物語」に出ていた有名人が歩いているだなあと思って眺めていた記憶がある程度。そして2度目はハローキティと土屋アンナさんとのコラボレーションが発表された時で、そんなに広くはない部屋で間近に土屋さんの姿を見ながら子供の事をいろいろ話していた母親としての姿とか、ロックなデザインを手がけるクリエーターとしての姿を見つつ気っ風の良さ性格のストレートさってものを割と感じ取った記憶があって、だから舞台稽古を理由も無しにボイコットしては製作者側から損害賠償を求められるような、曲がったことをしでかす人だとは思えなかった。

 だから即座に理由を申し述べた反論が土屋さんの事務所から出て、そして原案となった人の悲痛とも言える説明の言葉がブログに掲載されてなるほどどういう事情があったのかと納得してしまったというのが今の状況。もちろん一方の主張ばかりで、向こうには訴えるに足る条件ってものが揃っている可能性もあるからはっきりしたことは分からないけれど、原案の人の言い分が妥当と見るならそこには口約束で自分に都合よく事を進めたい側の思惑めいたものが見えてちょっぴり気分がささくれる。不思議なのは間に立って調整してくれるべき出版社の人が、どちらかといえば製作者の方に荷担して事を進めているような節があることで、企画にも協力としてそんな編集者の名前がクレジットされている。

 過去に「筆談ホステス」とか何冊か、障害を持った人のノンフィクションを出して評判を取った人。ということは障害者の気持ちに寄り添いその思いを最大限にかなえてあげようとする“良い人”であって不思議はないのに、今回の場合はそうした方向から事態の収拾を図ろうとする動きがあんまり見えてこない。それとも違う思いから何冊もそうした本を手がけたのか、って想像も膨らむけれども詳しいことはいずれ明らかになるだろうから今は、現実に苦しみながらもひたすら上を向いて生きている人の気持ちを最大限に尊重し、その時間を目一杯に幸せで満たしてあげることを誰もが考えるべきなんじゃなかろーか。食い物にして良い時間じゃないし、妨げていい道じゃないんだから、それは。絶対に。


【7月29日】 なんかいきなり敵が強くなり過ぎてどーなるんだ敵な「ハイスクールD×D NEW」はエクスカリバーを持って逃げた神父たちを追っていたらその親玉が現れそしてエクスカリバー計画の責任者も登場してリアス・グレモリーや兵藤一誠たちの前に立ちふさがる。木場祐斗は復讐の怒りに燃えて単独で先行しそれを助けようとしていた一誠や、こちらはシトリー配下の匙元士郎もどーやら行き詰まってしまったけれどもそーやって、シトリー側を引っ張り込んだこでクールな眼鏡のソーナ・シトリーが前線に出てきて空中で回転を決めて飛び降りてくるシーンをもちろん、まくれあがったスカートの下も含めて見せてくれたので今回もとっても目に良かった。とはいえ堕天使は本気で学園を攻略にかかったみたいで戦いは激戦へ。どーなるか、って原作読めば良いんだけれどそれでは楽しみがないので1歩1歩、アニメを見ながら展開を追っていこう。

 寝起きか寝始めか曖昧な深夜早朝にヤンキーススタジアムがテレビに映って何だと思い見ていたら、松井秀喜さんの引退記念セレモニーが行われるって話だった。そーか今日だったんだ。ヤンキースタジアムでの55試合目とか何とかいった理由もつけたりと、向こうのそーした企画はいろいろと配慮が効いていて憎らしい限り。たった1日限りの契約を行った上で“選手”としてあの場に立ってもらうというのも日本じゃあんまり考えられないことだけれど、それもこれもグラウンドという場に立てる身分というものを、きっちりと考えそのために必要な段取りをちゃんと着け、松井さんだけに限らず同じグラウンドに立っている選手たちをも含めて尊敬の対象にしよーという、ひとつの意識の現れなんだと思いたい。

 それに比べて中継していたテレビはちょっぴり下品ちうか、そりゃあ松井さんを中心に据えたい気持ちは分からないでもないけれど、試合の端々に松井さんへのリスペクトが現れているとか松井さんの影響が雰囲気に表れているとかいっていちいち持ち上げる。けどたぶん選手たちはセレモニーが終わればあとは自分たちのジョブであってそれは目の前の試合を精いっぱいに戦うこと、ジーターが復帰してソリアーノも加わってイチロー選手も絶好調な中でさあ、ここからの反撃を目指すんだって一丸になっているヤンキースの選手たちにとって数年前に球団を出て、そして今は引退している松井さんのことなんて敬意は持っていても直接の影響なんてないと思う。試合後にもしも松井さんが見てましたけどどーでした、なんて聞かれたらきっと答えただろうなあ「そんなの関係ねえ」って、いやそれでも紳士たちだからお行儀良く「嬉しかった」と言ったかも。

 問題は、情の部分と実の部分をまるで切り分けをしないで、情の側ばかりからスポーツのことを伝えるメディアが多いってことで、そんな日本のスポーツ報道は結果として人間のストーリーばかりになって、試合そのもの、プレーそのものの凄みと面白みが伝えられず、見る側の意識も向上させられないで来ている。「Number」くらいのボリュームがあればヒューマンストーリーを乗せつつプレーの質についても解説できるんだけれど新聞はそういうスペースもないからどーしても、人の話になってプレーの質がよく見えない。テレビはそれでも最近は、技術解説を入れて何が凄いか示そうとしている中で、紙メディアの速報性も解説性もともに下落していったいこの先どーなるか、って考えると夜も寝られなくなってしまうなあ。でもどーしよーもないんだろうなあ。それが時代の変化って奴で。

 昔はテレビで結構やってた東映動画こと現在の東映アニメーション制作による劇場兄ニメーション映画に深く関わって日本のアニメ黎明期を支え引っ張り後進も導いた森やすじさんの展覧会が、丸善のオアゾ丸の内で開かれているってんで見物に。例年は「アルプスの少女ハイジ」のキャラクター作画なんかで知られている小田部洋一さんの展覧会が開かれているんだけれど今年はちょっと目先を変えてきた、その理由までは分からないけれどもともかく小田部さんよりさらに先輩にあたるアニメーション人の展覧会には、日本最初のカラー長編アニメーション映画「白蛇伝」の原画もあればストーリーボードもあればセル画なんてものまであってと東映アニメーションギャラリー並の貴重度。ほかにも「少年猿飛佐助」の原画なんてものもあっていったい、どーやって集めて保管していたんだって気になってくる。日本の文化財産がアニメーションだとしたらこれらはもう、国宝といって良いものだけに。

 それはだから初期においてあまり省みられることのなかった“材料”で、それをちゃんと森さんの側で保管していたってことなのかも。ほかにも高畑勲さんの参加で有名な「太陽の王子ホルスの大冒険」のセル画とか、そこに登場したヒロインのヒルダの原画なんてものもあって目が釘付け。「風立ちぬ」が絶賛公開中の宮崎駿監督が画面設計とか原画なんかも確か担当した「どうぶつ宝島」のストーリーボードには、縛られながらも縛った先にいる海賊をぶんぶんと振りまわす豪毅さで評判のキャシーが縛られた姿で描かれていてその妙なツンとした可愛らしさに目を奪われる。その毅然とした強さと真っ直ぐさを持ったキャラは、どこか「未来少年コナン」のモンスリーに重なるんだよなあ、あるいは宮さんもそこから影響を受けたのか、逆に宮さんの思いが込められたキャラだったのか。去年に池袋でのオールナイトで見たけど、また見たくなって来た。

 しかしユニークだったのはガラスケースの中に「漫画の手帖」って同人誌の第7号が置かれていたことで、もちろん特集が「森康二」だから当然なんだけれどもその号は、他に今のふくやまけいこさんこと福山慶子さんや、細野不二彦さんや高橋葉介さんなんかも参加しては「ルパン三世カリオストロの城」について描いたり何かしてたりしている。そして表紙にはしっかりと「ろりこんライブラリー」の文字。発行された1982年の頃はまだ、そうしたカテゴリーについて堂々とではないけれど、どこか崇高で高踏な“趣味”ととして語り描くことが出来たんだ。良い時代。その後につけられた様々なイメージで、もう使えなくなってしまったなあ、そしておそらくは永久に。何か寂しい。

 電撃小説大賞の応募作から結果的には落選したけど面白い物を引っ張り上げて刊行する手法の中から出てきた奈坂秋吾さんの「バベルスターズ」(電撃文庫)は、人間と動物がともに知恵を持つ世界でその間に子供が作れるようになったものの、ミクスと呼ばれる混血はどこか差別され虐げられているという、割にシビアな世界が舞台。そんなミクスが集まる学校でひとりの少年がミクスのために大ハッスル。誤解され自信も韜晦しながらミクスの為に動き回り、ヒュマとミクスが共に通う学校を潰そうとするミクスを差別するヒュマの企みを交わし学校を守ろうとする。

 少年にはある秘密があって、それは世界のずっと続いている差別と混乱の責任をも背負うようなものだったけど、それを押し隠して少年は務めて明るく立ち回り、ミクスたちに迫る危機を救う。もう数百年というレベルで存在し続けていながら、ミクスに対する差別がなくならないのは何故なのか、って思わないでもないけれど、現実を見渡せば未だ世界に残りなお強まる人種差別、異種への嫌悪などが存在する。平穏なんてなかなか得られないけれど、その無様さは指摘し続けなければならない。そのために何が出来るのか。この世界のどうしようもなさを認識しつつ未来を切り拓くための方法を示してくれる物語とも言えそう。動物が入ったミクスの愛らしさとか見れば愛おしくなるのになあ、普通は。でもやっぱりまだまだ苦闘は続く。これからも。現実も。そこを超える意志を得たい。


【7月28日】 出自とかまったく知らない渡辺僚一さんという人の「少女人形と撃砕少年 −さいかいとせんとうの24時−」(スーパーダッシュ文庫)が、一千万不可思議な話だった。何で一千万不可思議かは本文参照のこと。でもって内容はと言えば、どーやら夏休みに何かあったらしい中で、生き残ったらしい1人の少年が周囲に怯えつつ仲間を失った悲しみを引きずりつつ、取り戻した平穏な日々を味わっていたところに夏休みの喧噪がフラッシュバック。追い打ちをかけるように……という展開。

 それは、夏休みの抗争で失った、シロという名の見目麗しい自動人形が現れて、前と変わらない姿ときわどい言動で少年を驚かせ喜ばせおののかせるとゆーもの。誰かが裏で画策して、シロとそっくりの自動人形を送り込んで少年をはめようとしているのか。それとも純粋に復活して来たのか。激しい疑心も渦巻く中、それでも取り戻せた関係を少年とシロは確かめ合う。とはいえそれで済む筈がないのも道理で、やっぱり蠢いていた画策の中で少年は自分の力を振るい頭も働かせて真相を暴き、そして生き残りの道を探っていく。

 お話的には以前、どうやらヘルメスの心臓というものをめぐる戦ってのがあって、そこで少年は殺人鬼的に人を壊す知識があり能力もあって、それで戦いの渦中でシロとゆー自動人形の少女といっしょに暴れ回っていたらしい。敵には謎の老人やらロリばばあやらがいて、少年を戦いや対話を繰り広げた様子。そうした経緯が、少年が時折陥って思い出すフラッシュバックや回想の描写からパズルを埋めていくよーにして理解し、今の状況を認識して読む必要があるところに、通り一遍の筋書きを描いていく小説との違いって奴を感じる。なかなかにテクニシャン。そして異色。

 それが成功しているかどうかというと、やっぱり気になる過去ってものがある以上は説明の足りていないところもあるんだろうけど、それもまた想像する楽しみのひとつなだけに難しい。調べるとどうやら著者が関わったノベルゲームに似た世界観のものがあるよーだけれど、登場するキャラも状況の設定も違うので直接繋げるってことは難しそう。参考程度にしつつここはやっぱり特殊な世界観を持った作品があって、その後日譚繋を独立して描くとゆー挑戦を行った希有な作品、つまりは”その後の日常”を軸にして“最後の非日常”を追うのが相対する上で正しい態度かも。

 なによりシロという自動人形の言動が、「物語」シリーズの戦場ヶ原ひたぎ的にクールで赤裸々で、エロくて楽しく読んでいてぐいぐいと引き込まれるし、少年の妹の兄思い過ぎる言動にも、同じくどーやら夏休みの戦いを生き残ったらしー三日月という少女の振るまいも、愉快で読んでいてその姿が目に浮かぶ。シロを見て三日月が即座にとった態度と、そして長く生きているのに学園祭にこだわるその言葉が、生き様として妙に切なく甘くて苦い。ずっと戦って来たんだなあ。といった具合に、会話劇の妙と見えない設定を追う楽しみを味わいたい、「少女人形と撃砕少年 −さいかいとせんとうの24時−」。超異色作。ちなみにイラストは馬越嘉彦さんだけど、表紙と口絵はとても綺麗に描かれていてそして本文イラストはラフ画のよう。どっちが本当の馬越さん?

アウェイにしてホームなワンフェスにおける村上隆  「超攻速ガルビオン」のブルーレイボックスを受け取ってそしてご近所の幕張メッセへとワンダーフェスティバルを見に行ったら、訳の分からないことが起こっていた村上隆さんによるカイカイキキのブース。見上げるよーに巨大な美少女フィギュアが鎮座していたその上に、その美少女がとてつもなく巨乳出前かが見になってそれが前方へと垂れ下がる一方で、後ろは短めのスカートが当然ながらまくれあがってお尻の割れ目までしっかりと見えてしまうという造形。エロがグロに迫る手前、オタクとアートが混然となって得体の知れないフォルムを作り出してた。ただただひたすらに圧倒されるそのボリューム。のめりこみたくなるその胸。言葉もないくらいに素晴らしい。

 いやまあ、大概のワンフェスに来る人たちは、刷り込まれた「村上隆=オタクの敵」めいた言説を脳裡からまるで払拭しないでそれを見て、ひとつにはオタクの願望をカリカチュアライズしたよーな造形に、何か煽っているんじゃないかと反発を覚え、一方でアートな癖をしてワンフェスなんて場に出てくるんじゃないよといった縄張り意識から、異論を唱えたりしてるんだけれど、そんなワンフェスを仕切っている海洋堂が、村上さんと仕事を始めたのは実に15年以上も昔のこと。あの岡田斗司夫さんを仲介にしてHIROPONちゃんとはまた違う、等身大の美少女フィギュアを作るんだというプロジェクトの為に出会った両者の併走があって、今の村上さんの一般への浸透は果たされそして海洋堂の世界における認知もグッと上がった。

 その場に行けば分かるそんな併走の事実ですら、拒否する人には村上さんの搾取だと映るのならんもうその眼を洗って来いとしか言えないけれど、そーした煽り上等なスタンスで、誤解や非難も含めて取り入れ作品全体の雰囲気を作りあげ文脈を形成していくのが多分、村上隆さんであり現代アートというものなんだろー。だとしたら一緒になって村上隆というアーティストを作ってしまっていることにもなりかねない非難の言動。そういう構図も傍目には実に愉快。まあそれに気づいても非難を止めないってのもひとつの信念なんだとしたら、そういう人はだったら何がオタクでフィギュアでワンフェスなのかを身をもって、造形でも購買でも良いから示す必要があるんじゃなかろーか。

 それにしても皮肉なことに、世界だとどこの美術館でもきっと諸手をあげて歓待して展示してみせ賛辞も浴びれば物議もかもすだろうこれらのフィギュア作品が、日本では村上さんにとって意識としてアウェーと規定しているワンフェスの場でしか展示されないとゆーこの矛盾、この不思議。そういえば東京都現代美術館での大々的な展覧会からはや12年、干支で一回りをしたにも関わらず、その後にあれだけの規模の展覧会が開かれていないのは何故なんだ。本人が口うるさくて展覧会が面倒ってことなのか海外に散逸しているコレクションを集めてくるのが費用的に面倒なのかやっぱり作品として、あるいは作家的に国内では認められない存在になってしまっているのか。

 いやいや、世界が歓待している存在を価値として認めないってのはあり得ない話だろーからやっぱり、その内容において物議をかもすと判断されてのことなんだろー。そしてそーゆーことを一切問われず、むしろ主催者側の理解の上で展示できるワンダーフェスティバルって場が、アウェーにしてホームというこのねじ曲がった状況が生まれてしまった。とっても奇異で、それでいて納得も出来る状況。その背景にあるのが、頑なで意固地な日本のアートシーンの怠惰だとしたらとてもつまらない話だし、逆にそーやって自分をトリックスター的に見せて、それとしての価値観を高めていく村上隆さんお戦略に、結果として荷担してしまっているのもみっともない。

 だから早く、どこでもいーから大々的に村上さんの個展をやって、美術館的な権威の中に取り込んで、同一の価値観の中に貶めてやったらどーなんだ。そーゆー取り上げられ方が嫌だといっても散々っぱら、自分は無視されているんだと言っているなから無視されてないじゃんってことを見せるチャンスだと言って引っ張り込めば乗るしかない。逃げていることになる訳だから。そして、ぐるりと囲まれたホームにしてアウェーな美術館的な権威から、さらなる逸脱を試みていく村上隆さんと、それを緩そうとしない美術館側の“戦い”が、日本のアートシーンも、そして村上隆さんの作品も鍛え高めていくことになると面白いんだけれど。あと個人的には、あの3メートルの美少女を、小ぎれいで取り澄ました首相官邸の前とかに置いてみたい気が。これがクールジャパンだ、これこそがクールジャパンなんだと言い募って。

 何かハングルで横断幕を出したみたいだけれど日本人なんで読めません。それとも世界の人はすべてハングルが読めるはずだと信じているのか? そこだけがちょっと分からなかった東アジア選手権でのサッカーの日本対韓国におけるひとつのアピール。読めるとは思ってないんだとしたらそれは国内向けのアピールであって対戦相手を無視した身勝手な態度だし、読めると思っているなら独善的であってそしてスポーツという場でフェアに戦うという真理をどこかに置き忘れてきた態度。そこに気づかないほど抜けていない人たちなはずなのに、突っ走ってしまうところにひとつ、気分的に面倒なことになっている状況が垣間見える。自縄自縛というか。そんな先に来るのは何だろう。積み上げて限界を超えたところに咲いた花だとしたらあとは咲き乱れ枯れるしかないんだろうなあ。面倒だなあ。


【7月27日】 蒸し暑さに目覚めて支度をして新宿へと出むいて、まずは新宿シネマートで夜にドリパスの企画で上映される「スカイ・クロラ」のチケットを引きだし、それから新宿ピカデリーへと行って2度目となる「風立ちぬ」を観る。今回は「ハル」の上映後に空く1番スクリーンという最大のシアターでの上映で、あの悠然として空を飛ぶカプローニの3枚翼の飛行機とかが、こっちに覆い被さってくるよーに見られたのがなかなかに壮観。そしてスクリーンが大きいだけに細かいところにまで目が行って、そんな3枚翼の飛行機の横を跳ぶ小型機にしっかりドーラとその旦那が乗っているのが確認できた。探すとマンマユート団の面々のいたかもしれないなあ。そしてカプローニの女房はとっても美人だ。歴史上でも美人だったかは知らない。だってあれはカプローニの夢の王国なんだから。

 そんな飛行機を作画で描かせてしまう宮崎駿監督の剛腕ぶりも凄ければ、描いてのける作画スタッフも凄いというか。見ていて何か命があるよーな印象を受ける。もちろんフル3DCGで描いたっていろいろと工夫すればそれが宮崎アニメの飛行機とか宇宙船とかのよーに生きて見えないこともないんだろーけれど、そこにこだわるより先に人の動きや表情に力を傾けなくてはいけないところもあるだろーから、なかなか手が回っていない。なので例えばもうすぐ公開される「キャプテンハーロック」なんかも、アルカディア号の感じに悠然として迫るよーな迫力が、予告編を見ている限りでは感じられない。かといって人間の動きもどこか紐で操っているよーなんだよなあ。現代にこれで大丈夫なのか。予告編から大きく進歩しているのか。その意味でも公開が待ち遠しい。試写なんて回ってくる身でもないしね。

 さて「風立ちぬ」。冒頭の夢に出てくる飛行機が子供が想像したなんて言い訳はきかないくらい妙だと難癖つけてるお髭の大金持ちとかいたけどそんなに妙かなあ、翼は空想的なのに胴体とかちゃんと飛ぶように描かれているのがヘンっていったことが書かれてあったけど、まず言っている意味が分からないし、飛ばないような飛行機をあの場面で出すのはさらに意味がない。飛行機であるというひとつの概念を、夢を見る主体者であるところの堀越二郎ではなく、観客の想像の中に掴み描いたものだと思えば不思議はない。ディテールに難癖をつけるなら例えば列車の引っ張る客車がえらく短いねえとか、いくら何でもあんなに地面は持ち上がらないとかいった感じに、リアルじゃないところなんて現実世界が舞台になった場面でもいくらだってある。けどそれは見た目の収まり具合を考えてのことで、そうやって空間をねじ曲げ作り手が見せたい画であり、観客が見て面白い画を作れてしまうのが手描きのアニメーションの良いところ。そこに異論を挟むくらいなら最初から、実写でも見てろというのが与えるに相応しい言葉かも。

 そして庵野秀明さんの声はやっぱりとってもマッチしていた。周囲が芸達者な中でひとり淡々と、けれども決意をもって生きていく人物を描く上であの声に優る声は多分ないし、あってもそれは違う映画にしてしまっただろう。場面場面で少しづつ込める感情をもし、掴めず棒読みだと言う人がいたならそれは派手派手しい世間に感性が慣らされてしまって微妙な中にニュアンスを感じ取って忖度する心がすり減っている現れ。それは菜穂子という女性を評する時にも言えることで、二郎に恋され呼ばれ暮らしやがて去って綺麗な思い出だけを残すという、都合の良い女性だといった見方が割とあったりするけどなかなかどうして、軽井沢のホテルに来て自分の置かれている状況を噛みしめている時からすでに短い先を感じて、それを精いっぱいに生きるんだという決意をそこに秘めている。

 だからプロポーズされたら即断し、可能性にかけて療養に向かったものの迫る暗雲に絡め取られて埋もれてしまうのはまっぴらと、決断して動き短い時間の中で最大限の記憶を堀越二郎の中に刻み込む。自分という存在を忘れないでと迫るそれは一種の呪い。それを臆しもせずそうなんだと認め受け入れ愛してあげる堀越二郎の方がよほど、女性にとって都合の良い男性に描かれているんじゃなかろーか。そんな菜穂子の決意は二郎の上司の黒川の妻にも伝播して、即座の祝言にも即断して応じてあの名場面へと繋げていく。夜に提灯を持って縁側を歩き、戸の前で口上を述べて受け入れてもらうのを待つあの所作は、名古屋に独特なのかあの時代に一般的なのか、押し掛け女房という形から特殊になっているのか普遍の中から要点を引っ張り展開に合わせてああしたのか。分からないけれども強く印象に残る場面。外国の人も見てきっと思うだろう、菜穂子の決意と決断に引かれ導かれる二郎の幸せを。

 そうやって始まったつかの間の安息もやがて来る時間の前に終焉する、その終わり方も実に素晴らしい。あっさりとあっけないとかいうけどあの場面にこめられた凄まじいかばりの決断の強さ、重さが淡々と進む展開の中にいろいろと想起されて見ているだけで胸が暑くなる。「第三の男」のラストシーンのすれ違いとはまた違った離別の後継。その後にエピローグ的に来る夢の中での再会と、続く永遠の離別は堀越二郎という主人公にどんな呪いを与えたのか。その後、ってのが描かれないだけに想像するしかないけれど、ひとつの時代を生き抜いて得た満足を噛みしめながら生きていったんじゃないんだろーか。実際の歴史では堀越二郎は戦争のあとにまた飛行機作りに戻って、YS11って国産旅客機を作りあげるんだけれど、そういうものに映画の堀越二郎が関わっている姿が想像できないんだよなあ。それともカプローニみたく散々っぱらやりたいことをやり抜く方へと向かったか。それもまたひとつの可能性。狭く小さく考えるんじゃなく広く大きく考える方が映画を観る上で絶対に楽しい。だから僕は全面的に肯定する。そして絶賛する。「風立ちぬ」を。宮崎駿監督を。

 新宿から四谷へと回り歩いて麹町まで出て、城西大学ってところであった第2回国際SFシンポジウムを見物する。1970年に小松左京さんを筆頭にして世界中から著名なSF作家とかが集まって開かれたシンポジウムから43年。今また日本でSFについて洋の東西を超えて人がぶつかり合う、って触れ込みな割には今日来ていた外国の人はパット・マーフィーもパオロ・バチガルピもアメリカで呉岩さんは中国人。ドゥニ・タヤンディエーはどーやらフランス人らしーけれど作家ではなく研究者って位置づけで、ロシア東欧あたりからの作家の人の参加は見られず。ちょっと残念。

 そのあたりは高野史緒さんが企画の段階で来臨を誘ってみて起こったいろいろな事情なんかも絡んでいそうだけれど、一方で果たして誰を呼ぶってのもあったのかもしれないなあ、ペレーヴィンとかソローキンとか来ればそりゃあ凄いけれど、SFプロパーって感じではなくSF的な土壌の上で会話が成り立つか、ってあたりが若干疑問。それもまた文学観とSF観とのぶつかり合いが起こって面白いんだけれど、いずれにしても世界屈指のロシア作家が来るとは思えないだけにこれはこれで仕方がないことなんだろう。そういう事情も含めてそれが今の世界SFマップってことで。

 さて式次第はといえば、まずは翻訳について沼野充義さんとか新島進さんとか増田まもるさんとかがいろいろと喋っていてとりあえず、翻訳されたものを元に翻訳するのはあんまり宜しくないということは分かった。村上春樹さんなんかは英訳からの各国語訳を割と認めているみたいだけれど、あの小説はどこか英語を意識して書かれてあって日本的土着的ニュアンスを省いているからそれでも良いのかも。手っ取り早く刊行できるしそれで一気に稼げるし。けどやっぱりそれでは削られる部分とかもあるらしく、とりわけスタニスラフ・レムの小説がロシア語経由で翻訳されていた時代は、ロシアでの検閲なんかも入って原型が失われていたところもあったとか。それにこれだけ語学が発達して各国語を書けて話せる人も増えているなら、そいういう人たちを使おうよっていうのが沼野さんの見解。まあ、しゃべれたり書けたりしても文学を翻訳できるかは別の話なんで、その辺りは英語訳なんかを参照できる監訳の人を着けることが必要なのかもしれない、と。まあそんな感じ。

 そして2部はといえば、出席者の6人が何か自分の所感を話す大会になっていたみたいで、谷甲州さんは小松左京さんといっしょに「日本沈没 第2部」を書いた時を振り返ったり、「エリヌス 戒厳令」を書いた時の話をしてたりしたんだけれど、それが全体を通した主題になっていた感じでもない。続く夢枕獏さんも「沙門空海」のシリーズを10数年かけて描いたとか、空海と宮沢賢治が自分の尊敬して頭の上がらない人だといった主張をしつつ、かつてはアントニオ猪木もそんな中に入っていたけど秋に向井亜紀だとか駄洒落った話を見て、尊敬から外したとかって話をしてた。面白いけどSF、関係ないよね。あと空海の小説が今、中国で映画化されていて、巨大なセットを作る人たちの巧みぶりに、その中に混じりたい喋っていたけどやっぱり近況報告だった。

 そんな中にあって呉岩さんは、中国で日本のSFがもっと翻訳されるには、エージェントをつけるなりして著作権の在処をまとめてくれ、それから作家がもっと来てくれって話してた。来ればニュースになってそれが10億人の目に留まりとてつもない数が売れる。物価は違うけど桁も違う中国を考えるならそうすべき、なのかもしれないけれどやっぱり腰が重いのかなあ、対中国。ボイルドエッグズなんか台湾向けにガンガン出しているけどこれは版権を持って交渉がし易いからなのかな。ちょっと気になった。

 パット・マーフィーとパオロ・バチガルピの話はそれぞれに面白かったけど、やっぱり近況報告とか創作への考え方とか。そんな6人の話が終わったあとでいったい、どういう横軸を明示して対話を盛り上げたのか気になったけれど、時間がないので会場を出て、新宿で開かれる「スカイ・クロラ」のリバイバル上映へと向かって、そして劇場ではとてつもなく久しぶりに草薙水素のボウリングのくいっと入る腰つきを見る。あれは良いものだ。そして奇しくも今日にまた見た「風立ちぬ」なんかとの共通点も感じてみたり。ひとつは戦闘機というモチーフで「風立ちぬ」は作る側、「スカイ・クロラ」は乗る側の話だけれどもどっちも戦闘機載りの矜持とか、犠牲的な精神といったものとは無縁に進んでいくところが面白い。

 見ていて戦闘機に乗る行為が少年少女の憧れを生むような描かれ方でもないし、それで戦い死んでいった存在に同情をしたくなるよーな内容でもない。そういう職業として描かれていないとこりに何だろう、世代は違っても押井守さんと宮崎駿さん、ともにライティな感性を嫌っているところがあるってことなんだろーか。これで年末に「永遠のゼロ」なんかが公開されて、同じ戦闘機物、空戦物として比べられるとなったらどちらもアレレって顔をするんじゃないかなあ。共通点のもう1つは煙草で、「風立ちぬ」ではもういっぱい煙草を吸うシーンが出てきてあの時代の喫煙率の高さって奴を見せつけてくれるし、「スカイ・クロラ」の方でも誰もがのべつまくなしに煙草を吸っては煙を吐き出してみせる。

 ただ「風立ちぬ」の方は本当に嗜好品めいた感じがあるのに対して、「スカイ・クロラ」はそれが常態化して一種ののスタイルになっているような描かれ方。立ち止まれば煙草を取り出しくわえ火を着け、摺ったマッチは放り捨て、吸い終わったら吸い殻も放り投げるというその時間を、他にドラマなんか描かないで進められるといった感じに、一種小道具的な存在にもなっていた。現実の生活でも煙草ってそれがなければ生きられないっていうものではなく、空いた時間をそれで埋めるよーなところがあって、けれども禁煙の空間が増えて煙草で時間を潰せない人が携帯に向かいスマートフォンに向かっている、なんてことも言えたりしそー。そんな世代が増えたとき、「風立ちぬ」の煙草のシーンとか、「スカイ・クロラ」の煙草のシーンはどう映るのか。20年くらい先になったら聞いてみたい。煙草なんて存在すら許されてないかもしれないけれど。


【7月26日】 見てなかったけどプレシーズンマッチの横浜F・マリノス対マンチェスター・ユナイテッドの試合では何か30分しか出ていなくって、そして得点もとってなければ大した仕事もしていない香川慎司選手がそれでもマン・オブ・ザ・マッチを受賞したとかで話を聞いて失笑したら、サッカーの現場でも横浜FCの山口素弘監督が異論を唱えていた。曰く「あのマン・オブ・ザ・マッチはないんじゃない? ありえないでしょ。選手がかわいそうだよ」。フルタイム出た選手もいるし得点を奪った選手もいる。だいたいが勝ったのはマリノスの方で、それで負けたチームのそれも途中出場の無得点の選手がマン・オブ・ザ・マッチになるなら、いつかワールドカップが負けたチームに与えられたって不思議じゃない。それが商業主義にまみれたものになった暁に。

 審判の判定を繰り返してテレビで流してそれは間違っていると批判したり、監督の試合後の会見で審判に対する批判を言ったらそれを公式的なメディアの会見記事から削除したりと、審判をめぐるタブーがJリーグにはよくあるって指摘されて批判もされていたりする。それはあるいは全てのカテゴリーを通じて審判への敬意ってものを醸成するために必要で、子供たちが真似をして試合で審判にクレームを付けまくるよーになっては拙いといった判断も働いているんだと理解できる。とはいえ一方で記事で指摘されているよーな小ずるいプレーに対する判定のミスを認めないことで、小ずるいプレーを認めて良いのかといった問題があったりするから難しい。それはそれでいけないといいつつ、審判への敬意を保つ方法、って奴があれば良いんだけれど、それだと何かが抜け落ちてしまうからなあ。

 だから間違いは間違いとして正しつつ改めることを認める雰囲気って奴を作っていくことが、そうした問題の解決には必要なんだろう。とはいえそれをやったところで全く活躍しなかったスター選手が、何かの都合でマン・オブ・ザ・マッチをとってしまうことはやっぱりあってはいけない。それを見てサッカーのファンは絶対に訝り、嘘臭い競技なんか見ていられるかと離れていくし、子供たちだって活躍もしないのに表彰されるおかしさに気づいて、そんなことなら自分がサッカーなんてやる意味がないと思って止めてしまう。今を縮め未来を奪う行為をけれども、瞬間を稼ぎたい奴らは平気で繰り出し未来の可能性を先食いする。そんな積み重ねが今の不条理を生んでいるんだとしたら、ここは厳として異論を延べて改める方向に向かうべきなんじゃなかろーか、なあセル爺。見てないかブラジル戦でも日本代表戦でもないし。

 もう遠い遠い昔に出たライトノベルミステリの嚆矢ともいえる「平井骸惚此中ニ有リ」シリーズを、このライトノベルミステリというか軽ミステリ全盛の時代に、なぜどこも復刊しないのかって意味からも注目している田代裕彦さんの新刊「『蒼天のサムライ 第一部 端琉島脱出戦」(オーバーラップ文庫)が登場。まったくもってミステリではなくむしろ戦記でファンタジー。榊一郎さんの「蒼穹騎士」は音速を超えたジェット機が化けた竜を相手にジェット機乗りが挑む話だったけど、こちらはプロペラ戦闘機に竜を操る騎士たちが挑む話だから設定的に裏表って感じだと言えるかも。

 その世界で四将家が皇家を盛り立て半ば傀儡にして営まれている天津煌国には、他国が零戦とかメッサーシュミットみたな戦闘機を作ってパイロットを乗せて空戦を繰り広げる中で、生きて意識を持った竜をパートナーとして駆り戦う竜士たちが存在していた。竜洞マスミも竜士として端琉島に任していた、そこに奇襲をしかけて来たのが敵国のグロース帝国。端琉島を守る軍の指揮官で四将家の出でマスミとは古くからの知り合いらしい竜部シンヤは、マスミらとともに難を逃れたものの島に残されたとある人物と、それから住民たちを救うべく、逃げ延びた竜士や竜に似てはいても知性はない鳥竜を駆る竜騎兵たちを束ね、島を占領しているグロース帝国に反撃する。

 マスミの周囲には四将家で竜部と中の悪い狗部のお嬢さまがいて、権威を笠に着ていろいろとつっかかって来たりする一方で、竜部シンヤの妹でマスミを幼い頃から恋慕うアユネという竜士の少女もいたりとなかなか賑やかだけど、そんなデレないツンと幼なじみから両腕を引っ張られるようなラブコメ的な展開はまるで皆無。国と国との駆け引きめいた策略が巡らされる渦中にマスミらは放り出され、その中で生き抜くため、そして大勢を救うために精一杯のことをする。竜が強いといっても戦闘機も性能を上げ、パイロットも腕を上げていて空戦では圧倒できないようになり、物量では向こうの方がが上でだんだんと苦戦を強いられて来ているマスミたちが、それでも戦いに望み空戦を繰り広げる心と技の物語を堪能できる。

 竜と人との関係にも話は及び、心から結び付いた竜と人とは離れられないにも関わらず、過去に竜を失った経験を持つマスミの特殊さが浮かんで来るし、後の歴史から勇者で英雄なはずのマスミの名前が戦史から消されたり、国に逆らう裏切り者とされたことにも興味が及ぶ。世界の有り様や歴史の大きな流れといったものがどう描かれ、そして場面場面では竜と対峙する自分の立ち位置に苦悩するマスミはいったいどうなってしまうのかといった想像も浮かぶの「蒼天のサムライ 第一部 端琉島脱出戦」。ひとまず難を逃れたマスミにシンヤに狗部のはねっかえりの関係とか、そこに割ってはいる皇女様の将来とかをまずは気にしつつ、今後の展開を読んでいこう。どのくらいの長さで続くかな。ちゃんと完結してくれるかな。

 雑誌「CUT」で懸賞に当たって一足早い試写でそして最速らしー3Dでの試写を、これはまだ吹き替えではなく字幕で見てきた。50年前あたりに日本で全盛だった怪獣というジャンルで、40年前のロボット物に見られた自己犠牲的精神を打ち出しつつ、30年前なら革命的だった敵の驚くべき設定を取り入れ、20年前にはやや古典になりかけていたロボットのデザインを採用し、10年前にこれだと進撃の何とかよりも早いと胸を張れた設備なんかも出しつつ、そして現在の最新の技術でもって作りあげた映画と言えば言えるのかも。確かに面白いし引き込まれるし設定もストーリーも良く出来ていて、実写でそれをやってくれたとゆー驚きと感動は存分に感じる。

 その巨大な感じに圧倒される意味でも、映画館で割と席は前目で観るべき映画。予告編だとCGにしか見えないものが、劇場だと巨大さに圧倒され立体的なサラウンド音響に全身を打たれて、そこにそれがいるよーな感覚を味わえるから。けど実写から離れた時に、日本のアニメーションではもっといろいろな企みが廻らされて3周とか30周してもはや何でもありとなっている所に、今さら過ぎる設定なんかをもって来られて、それが誰も彼もの絶賛を浴びて大人気になるのはちょっと釈然としない。よくやってくれたという感動、してやられたとゆー苦笑が賛辞に回っているのだとしても、日本は日本でもっと進んでいるところを誇らないと。送れているんじゃないのと言ってさらに引っ張ってあげないと。その意味では凄いぞ「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」なんか、日常にギャグとか入れながらも本編ではいよいよ敵の本格的な知恵も使っての侵攻が始まって人類が瀬戸際を迎えているんだから。どーなっちゃうんだろこの先。理解し合える日は来るのかな。アサギの胃に穴が開く前に。


【7月25日】 朝からツイッターのタイムライン上に中村隆太郎監督の訃報が散見。どうやら小中千昭さんが「映画秘宝」の執筆者近況にその旨を書いているとかで早速確かめに書店へと行って「パシフィック・リム」が表紙のそれを買い、記事なんて読まずに最終ページを開いて読んだらそうだった。前々から体調面に不安があるよーなことを誰か言っていたかして、そういうこともあるんだろうかと思っていたけどそれにしても唐突。さらに夜になって中村監督の作品「ちびねこトムの大冒険」の公式ツイッターが6月29日に死去していたことを知らせてこれで一応の確認もとれて、亡くなってもうしばらく経つことが分かった。遺族の意志なり本人の希望なりがあって広く知らせないで欲しいといったことだったらしい。

 とはいえ「serial experiments lain」で安倍吉俊さんも含めたトライアングルで世界が驚く作品を中村監督とともに作った小中さんが、あるいは口をつぐんだままでいることは出来なかったのかそれともこのタイミングでならという話になっていたのか。分からないけれどもこうやって公表されたからこそその偉績を偲べる訳で、そうでなければ次の作品への過度な期待ばかりをふくらませて、いつまでも待ち続けていたに違いない。それも僕にとっては悪くない人生な気もしないでもないけれど、それだと「lain」をありがとうと御礼を言うことも出来ないままになってしまう。こうして不訃報を知った今、改めて凄い作品を僕に見せてくれて、ありがとう御座いましたと頭を垂れて、目をつぶろう。

 しかしマッドハウスを創業して中村隆太郎監督と仕事をしていた丸山正雄さんのフェイスブックなんかを読むと、告知は3カ月くらい前のことだったそーでそこから闘病に入ってのすい臓癌による死去というパターン、同じマッドハウスを根城にしていた今敏監督とも同じ流れで妙な因縁めいたものを感じてしまう。もちろん両者に何か関係があった訳でもないし、仕事上でのつき合いがあったかも知らない。共通点があるとしたら僕が大好きな作品で今、ベスト5を上げろと言われたら確実に入る「lain」とそして「PERFECT BLUE」を、ともに1998年に世に送り出した2人ってこと。そんな偶然は欲しくなかったけれども、言っても2人とも戻っては来てくれない。だから願うのはもうこれ以上の哀しい偶然は、誰も起こさないで欲しいということ。健康でいて。そして作り続けて。臥して頼む次第。

 今日はもう行かなくて良いんだと気を抜いていたら何か写真部員への依頼が滞っていたとかで誰も行ってくれそうもないんで写真部員はまず使わないPENTAXのK7を担いで3日連続での渋谷公会堂へ。8月19日だかにパシフィコ横浜で開かれる日本高校ダンス部選手権全国大会への出場校を決める関東甲信越地区の予選が開かれていて、昨日までに既にBIGクラスで11校、SMALLクラスで6校が出場を決めたのを見ていただけに、最終日にどこがどんな演技で勝ち上がるのかを見逃すのは、どこか気持ちも落ち着かなかったからこうやって堂々と見られるのは丁度良いといえば丁度良かったんだけれど、それでも本来はそうでなかった事態が起こり得るとゆーのは、仕組み上あんまり宜しくない。細かい綻びがひとつにあって、そして余裕の無さもひとつにはあって滞ってしまったんだとしたら、これは未来に向けてあんまり楽しい展開は得られないかもしれない。困ったなあ。

 まあ心配しても仕方がないんで、前の2日間と同じ位置について舞台の下から演技を見つつ撮影をしつつ高校生たちのダンスの現在って奴を目の当たりにする。みんな巧いなあ。そしてダンスってものへの熱気が高まっている感じが伝わってくる。去年に比べてぐっと増えた出場校の数もそーだけれど、演目もほとんどプロのダンサーやダンスチームがやっているんじゃないの? って思わせるくらいに構成も良くそしてダンスも巧くなっていて、そんなムーブメントがこれからの10年続きつつ発展していけば、日本は世界でも有数のダンス大国になるんじゃなかろーか。学校教育のカリキュラムにダンスが入ってダンス人口も否応無しに増えざるを得ない状況。そこに吐き出し口としてのダンス選手権が容易され、なおかつ高等学校体育連盟のお墨付きまで得たなら、野球だのサッカーだのといった青春の美名の下に尊ばれているスポーツたちと並列に語られ、むしろ誰でも入りやすく将来性も有望なスポーツとして、より発展していくだろーことは明白。そんな機運を捕まえ大会をサポートする新聞屋のスタンスや良し。けど全社一丸となってって印象でもないところに、なかなか本気さが見えない。そうこうしているうちに大手にパクっと食われてしまうんだろー。続かない、悲しみ。

 さて本番。昨日は決勝大会に神奈川県の高校がいっぱい残ってさすがは会場のパシフィコ横浜がある本場と思ったけれど、今日は圧倒的に東京が強かった様子。わけても印象が強烈だったのが明治学院東村山高校のBIGクラスで、ダンサーの女子が全員ゾンビ! それもとてもドレッシーなゾンビが乱舞するとゆーゴージャスさ! 裸足でソフトに踊る内容も良かったし、衣装やメイクが醸し出すインパクトもとてつもなかったけれど、そんなインパクトのみに頼らず、ブーケの奪い合いめいた物語性も入れこんで見ていて楽しめるよーにしてあった。そこは巧かった。ダンスでは3人揃ってのピルエットとか印象に残ったなあ。ゾンビといえば昨日も2人で出てきた鹿沼商工の2人とか、別の学校の少年が巻きこまれゾンビめいた存在にされるBIGクラスの演技とかもあったけど、何か流行っているのかな。

 流行っていると言えば怪盗と警察の追いかけっことうーテーマも昨日と今日とで存在してた。BIGクラスとSMALLクラスの両方で残った都立高島高校のBIGクラスでは手錠を守った官憲めいた集団の中から1人だけが上着を脱いで白黒の横縞のシャツを見せたりするとゆー内容が、官憲に混じった怪盗が正体を明かした場面のよーに思えた。本当かは知らない。そして昨日に決勝進出を決めた百合丘高校ってところが、BIGクラスで似非紳士っぽい集団の中で1人だけ、興に乗っていたら周囲の全員が官憲めいた姿になって銃を向け、捕縛に乗り出す展開だった。つまりは両者、パターンが逆。でも集団と個人といった設定には共通点もあったりするところに、何か演目を決める上での流行があるんだろーかと思ってしまう。そーゆーものなんだろーか、ダンスの世界って。

 スモールクラスは何か選ぶのが大変だった見たいだけれど、そんな中に選ばれた神奈川県立川崎北高、ってところが男子3人組でブレイクとかカタカタカタカタと全身を小刻みに揺らしたりして、そんな1つ1つの技が切れててもいて、観客の関心を引きつけ続けた。たった3人なのに魅せられるダンスってあるんだなあ。だからこその決勝大会進出なんだろーけれど。それを言うなら都立富士森なんかは、ストリート風のファッションに身を包んだ男子と女子の2人だけでダンスして、SMALLクラスの予選を勝ち抜いてしまった。昨日も2人組が出ていて落ちて商売的に大人数の方が良いだなんて差配があったりするんだろうかと想像していたんだけれど、巧ければやっぱり取るしかないってことなんだろー。


【7月24日】 地下鉄に乗って眼に飛び込んできたちばてつやさんめいた絵に引かれ、読んだ中吊り広告のコピーが「好きな娘の既読スルーに僕ブルー」。NOT TVってところがやってる多分メッセンジャーか何かの機能をPRする言葉なんだけれど、その内容が醸し出すネット界隈での振る舞い方の面倒くささに気分が萎える。この場合は彼女にラブレターを出したのに返事がもらえません的な、男子の哀しい日常を描いた言葉ってとれないこともないけれど、半歩下がって見た時に、既読をスルーする行為のやっちゃいけない事なんじゃない感って奴を押しつけられているイメージが漂い、そこに押しつけがましい空気って奴が浮かんで来る。

 既読ならすぐに返事を返さなきゃいけないというプレッシャー。その繰り返しが妙な同調圧力めいたものを生んで上っ面の馴れ合いをもたらす。逆らえないし逆らわない方が無難に過ぎるといった雰囲気は、一方で知らず圧迫されて潰れてしまう心を生み、一方で自分の意志とは関係なしに巻きこまれ、あるいは主体となってとんでもない行為を招き寄せる。その結果が例の事件にあるのだとしたら、やっぱり軽々に使って良いコピーじゃないって思えて来るけど、広告は扇情的であっても突き刺さる言葉の方が良いという判断が優先される。そうやって上澄みばかりが掬い上げられ、濃さを増していった挙げ句に訪れる世界は、社会はいったいどんなものなのか。切り離せその身をネットから。遠ざけろその体をネットのある場所から。

 アメリカだっけ、日本より激しく新聞の経営が苦しくなっていたりしていて、想像するなら不動産だの映画だのといった事業が展開可能な日本と違って、その公正性を担保するため厳しく副業めいたことなんかが禁止されているか、新聞社の矜持としてあんまりやらないよーにしているからなんだろーけれど、それでもやっぱり潰れてしまっては意味がないと、あれやこれやコストカットに乗りだしている様子。そのひとつとしてシカゴの新聞社がカメラマンを全員解雇して、記者が写真も撮るよーになったらしーんだけれど、その結果、何が起こったかってことをシカゴの大手紙「シカゴトリビューン」と、ピューリツァー賞を受賞した人も含む写真部員を全員解雇した新聞社の紙面なんかを比較した記事が出ていて、見たら確かに酷いというかやっぱりというか。

 例えば何かの優勝トロフィーを掲げた写真が一方にあって、それはいかにも優勝を喜んでいる感じなんだけれど、もう一方はトロフィーを抱えて運んでいる写真で、優勝が嬉しいのか迷惑なのか分からない。やっぱりプロにはプロの仕事ってのがあって、それはカメラがデジタルになったからといって容易に身に付くものではないし、迫力のある写真を撮るのに必要な望遠や広角といったものも揃えるのは容易ではない。そしてその“決定的瞬間”を狙ってカメラマンは対象をずっと追いかけそれこそ何日だって粘ることもあって、それでようやく撮れた1枚こそが雄弁に何万字もの言葉を上回るメッセージを放つ。

 そこまでの写真でなくてもやっぱり、見た目ってものは重要でそれが優勝を喜んでいない、優勝したという事実だけを伝える写真だったらやっぱり見る人は嬉しくない。そんな気分が積み重なって新聞への興味は薄れ、信頼は失われてそして……。コストカットが結果として新聞カットにつながりより一層のコストカットを招いて更なる新聞離れを呼ぶとゆーハイパーデフレスパイラル。そんなこと真っ当な頭で考えればやる前から分かっていたことなんだろーけれど、目先の数字が重要な経営にはそーゆー判断がもう出来ない。今が良ければそれで良い。未来なんか知ったことか。それで働かされる下はたまったものじゃないだろー。身を縛られ堀に投げ込まれるよーなものだから。

 これは対岸の火事ではなくって日本でだって既におこっていたりすることで、経営が苦しいからと写真部員を親会社の写真部に異動させて、そっちて予算的に面倒をみてもらいつつ、子会社の媒体向けに派遣するよーな形をとってほぼ専属という形で運用しよーとしたけれど、親会社には当然に親会社の都合があって、その管理の元でシフトを決められることになって結果、子会社が都合よく運用できなくなってしまって紙面作りに影響が出たってこともなかったわけではないって、そんな噂を聞いたことがある。

 そうせざるを得なかった時点ですでに傾きも大きかったんで、結果的にすべてがくっつけられてしまう事になったらしーけど、その後に親会社までもがこの厳しいコスト競争の中、人員を減らし始めて足腰が弱って、必要な情報を拾うよりも扇情的なコラムで盛り上げる道を選んでそれに同意する人いない人の差が埋まれ、いろいろと大変な状況を招いているから難しい。それでも生き残る方が良いのか、矜持は守って滅びるべきなのか。分からないけど少なくとも、今滅びられるのは困るでせめてあと12年は保ってくれたら。還暦だしそのころ僕たちは。

 そして昨日に引き続いてカメラマンとして! 渋谷公会堂へと赴いて「日本高校ダンス部選手権関東甲信越予選」の様子を撮影したり見物したり。その日に行われる演技の中から何校かが8月にパシフィコ横浜で開かれる全国決勝大会に進むことになってて昨日も小編成のSMALLクラスで2校、BIGクラスで4校が決勝に進出したんだけれど今日はBIGにSMALL合わせて50校くらい演技があった中からBIGは7校でSMALLは4校が選ばれ栄えある決勝へと駒を進めた。あの巨大なパシフィコ横浜でいったいどれだけの演技を見せれば観衆を沸かせることが出来るのか、ちょっとビビりそーだけれどもそんな中にあってBIGクラスで全国決勝大会進出を決めた横浜創英高校はちょっと世間を驚かせられそうな予感。

 決勝でも同じ演目で挑むとするなら、初めて見るだろー人のことを考え驚きを妨げないため詳細は言わないけれど、つかみから誰もが耳にした言葉を流し引きつけそこでコスチュームもメイクもマッチさせたダンサーを出してインパクトをまずひとつ、強烈に与えてくれる。そして、世界で知られたあの曲とかを確か持ってきて、ああこれだこれだよと耳目を惹きつけるけれど、そこで繰り広げられた特徴的な踊りではないオリジナルを乗せて魅せてそして元の国民的番組へ。そんな巧みな構成に加えて、BIGクラスでもさらにMAJORが付きそうなくらい大勢いるダンサーが、それぞれに必然を持って動いていてしっかりと統制された巨大なショーを見ているよーな気にさせられた。無駄に多いんじゃないあ。そこがすごかった横浜創英。

 せっかくBSフジが協賛だかに入っているんだから、もし同じ演目を決勝でも見せるんなら撮ってフジのワイドショーで流せば良いのに。決して他人事ではない内容なんだから。そうでなくても決勝またこれを見に行きたいなあ。そう思わせる内容。要チェックだ。あと神奈川県からだと神奈川県立川和高等学校の衣装は何をモチーフにしたか聞いてないけどバックトゥザフューチャーのドクみたいに見えた。アフロとかゴーグルとか。緑色も目立ってた。あと予選通過が決まって檀上に来た時に何を踊ったか思い出せるくらいに印象が強かった。アフロ集めとか面白かった。振り返ってみるとみんな笑顔なのが韻書撃てて着でもあったかな、川和高校は。その意味ではチアダンスに近いのかもしれないけれど、統率的ではなくってコミカルでストーリー性もあってと独自な感じ。そこが受けたのかもしれない。

 ダンスそのものの巧さについてはまるで分からないけど、そーしたストーリー性のあるものが選ばれているのは何だろうなあ、技を極め合うダンスバトルとはまた違った“何か”がああいった場には求められているのか、それとも単に今回の時流なのか。昨日の桐光学園のSMALLクラスはダンスの力強さで抜けたんで一概には言えないか。それでもやっぱりパワフルにブレイクダンスとか見せてくれたところが決して、多くは残っていないところに何かひとつの傾向ってのが見えなくもないとゆー印象。決勝では果たしてどーなるか。そんな所にも注目したい。個人的には栃木県から来た鹿沼商工の2人組みが演じたゾンビなダンスが良かったんだけれど、やっぱり2人では足りないか。足りなさすぎるか。でも頑張った。1人増やして冬の3on3に挑んで欲しいもの。でも3年生だと12月は受験が……。そこをダンスにかけてこそのダンスゾンビだ。なあ。


【7月23日】 ふうん「Edge of Tomorrow」になったのか「All You Need Is Kill」って桜坂洋さんの原作ライトノベルをワーナーがトム・クルーズの主演でもって映画化しているプロジェクト、公開が2014年の春から6月へと後にずらされたこともあってちゃんと公開されるのか、心配もしたけどこーしてアメリカのコミコンで改題が発表されトム・クルーズとエミリー・ブラントがまとうパワードスーツのポスターが公表されたのを見るにつけ、企画はちゃんと進んでいるんだと思えて安心する。

 ここまで来てさすがに公開は延期とかセルスルーになったなんて話はないと思いたいけどそこは伏魔殿なハリウッド、状況が転がれば何が起こるか分からないだけにポストプロダクションも終わって試写が始まり評判が出始めるまでは注意して状況を眺めていこう。でもって「Edge of Tomorrow」ってどーゆー意味だ。「明日の境目」? なるほどリープする話に相応しいっちゃ相応しいか。「愛こそすべて」をもじったタイトルは格好いいけど意味的にそぐうかっていうとそうでもなかったし、うん。

 「もやしもん」が抜けてしまって寂しい「イブニング」ではしまたけひとさんが“島津の退き口”を現場に取材して描いた「敗走記」もいよいよ完結となって無事、島津義弘は薩摩へと帰り着いては伊井直政の取りなしもあって復活して明治維新までつづく薩摩藩の体制をしっかりと固め直した様子。とはいえ過程では大勢の家臣や武将を死なせてしまい甥で勇猛果敢な島津豊久も失ってしまったけれどもそうした苦闘は後につづいた系譜を思うと無駄ではなかった、ってことになるのか大きな歴史の中で1国が残ったのどうのと考えるなら意味が無かったと考えるのか。とはいえ薩摩があったからこその明治維新であり今の近代日本でもあったりする訳で、その辺りを考えるならやっぱり必要な戦いであり死屍累々だったのかもしれない。特攻めいた戦いぶりを美化はしたくないけれど、必要だったと認めざるを得ない矛盾。これだから歴史って難しい。

 それにしてもちゃんと歩いたしまたけひとさん。途中に挫折から脱落しよーとした場面なんかもあったけれど、踏みとどまって歩き通したからこそのこの連載、そして単行本化。もちろん漫画なんでフィクションとしてのドラマが埋め込まれている可能性はゼロではないけれど、それでもちゃんと歩いたことだけは事実だし、それには結構な苦労も伴っただろう。何よりそれなりな年齢になった大人が自分の“敗走”を島津義弘たちの姿に重ねて描くってことが相当な苦衷。自分をさらけ出すような内容を普通だったらギャグでも描けないのにこれは超シリアスな中に葛藤から憤怒から卑屈から何から何までぶちまけてある。そこが実に響く。

 これも前の号で終わった武田一義さんのガン闘病漫画「さよなら球ちゃん」といー、オブラートにくるまず感動に呼びかけることもしないでただ、自分の無様をさらけ出してみせたからこそ浮かぶ感慨もあるんだろー。そんな漫画が相次ぎ載ってそして終わったこの夏は、漫画にとってひとつの“事件”だったと言って良い。まずは完走、おめでとう。そして期待だ、単行本の展開に。その後のメディアミックスなんかに。「イブニング」ではあと「オールラウンダー廻」で180センチのマキちゃんが180センチのアフリカからの留学生相手に奮闘中。体力みなぎる相手でも技で押さえ込んでいる感じ。目の前に廻るがいるのにヘンな姿、見せられないもんね。恋する乙女は強いぞう。乙女なの?

 横溝正史小説家決定! 市川昆映画化決定! って文字すら未来に踊りそうな猟奇ぶり。いやまあ事件そのものは小さい集落にあっておそらく、折り合いが悪くて居心地の悪かった男が暴走して暴発した挙げ句に近隣の人たちを殺めたという、コミュニティーに時折起こるよーなものなんだろーけれど、それでも決して広くない集落で見知った顔を幾人も殺め、そして火をかけ燃やしてなおかつ奇妙な言葉を残していくところにいささかの昂奮なり異常なりが見てとれる。なぜそこまで踏み込んでしまったのか。それは個人の資質によるものなのか場所がもたらした陥穽なのかそうした要因が複合的に絡まってのものなのか。何より未だ捕まっていない犯人の行方も含めて、これからの究明に誰も彼もが興味を抱きそう。そして出版から映画化へ? でももう古尾谷雅人さんはいないんだよなあ。いやまあそれは金田一耕助物ではなかったけれど。

 ううん、例の広島で起こった陰惨にして哀しい事件、いろいろと騒がれているようにはLINEそのものに罪はないとはいえ、LINEみたいなリアルタイムで今を共有できて己をさらけ出せるツールがたとえば観られていることへのおののきよりも、観られていることへの応答として日常からかけ離れた行為を喚起し、扇動し増大させていく効果を発揮するということはないのだろうかと考える。それが突拍子もないことであればあるほど賞賛なり反応は集まりそれを感じてなおいっそうの行為へと突っ走った挙げ句に起こる事。それは「歌ってみた」であり「踊ってみた」といったポジティブな切磋琢磨に向かう場合が大半だけれど、一部にネガティブな暴威をもたらす可能性はないのだろうかとも考える。

 もちろんネットだろーとリアルだろーと、最終的には人間が守るべき倫理が歯止めをかけるという意識がないでもない。とはいえ昨今、そうした倫理自体がどこか希薄になっているて、そうした意識が扇情に乗って暴走した果てに辿り着いた凄惨が、例の事件なのかもしれないとしたら、そこでLINEという固有名詞を外して、ネットというツールがどういう働きかけをしていたのかをちょっと考えてみたくなる。つまりはニコニコ動画みたいなサービスに「殺してみた」ってタグが存在し得るかどうかっていう話。もちろん今の時点でそんな倫理どころか法律すらぶっとんだタグが存在するはずはないけれど、クローズな空間で特定少数がアクセスできる状況でそうしたチャネルが誕生することが、今のネット状況では不可能ではない。

 そうしたチャネルを背景にして起こる皆の競争意識。あるいは抜けられないという強制下でのチキンレース。降りたら負けよ、みたいな。実際に実況はなかったとしても、そうやって行為を拡散させて観賞させ得るツールの存在を意識に入れてしまうことで、後でどう騒がれるかも含めて考え止められなくなってしまう、なんてこともあったりするのかと、そんなことも考えているのだけれど、漠然とし過ぎて実証できないのだった。単純にそれが使われたからそれは悪いツールというのではなく、それがもたらしたコミュニケーション状況、そして今の誰かに見られ誰かを見ている中で目立ちたい、あるいは仲間はずれにされたくないとゆー同調圧力めいたものが複合的に働いたときに起こり得る事柄を、誰か研究して出さないかなあ。きっと需要はあると思うんだけどなあ。


【7月22日】 観てこれは良いとインパクトを与えるものではない。そんな感じだった「宇宙戦艦ヤマト2199」のオープニングの変更は、誰かが得をしたい気持ちからそれを起用したんだろーけれど、評判は呼べず反発を招くどころか話題にもされない状況のまま3カ月が過ぎて、誰も知らないうちに埋もれていって仕舞いそう。もしもここでインパクトを与えたかったのなら、オープニングは新たに作画して歌詞なりテンポなりにマッチしたものに仕上げてみせるべきだったのに、とられた手法は今までの映像から人物が動いている部分とかを主に切り抜いてつないだだけ。その登場にも脈絡はなく誰が敵で味方かの区別もないまま、羅列されているだけで観ていてまるで引き込まれない。

 唯一、メルダ・ディッツがヘルメットを脱いでそこでアホ毛がぴょこんと立つシーンだけは本編でも印象的だっただけにハッとさせられるけれど、それがどーしてそこで使われそれも他より長めに使われたのかという理由は不明。メルダに山本玲を並べ対比させるよーなつなぎ方でもしてあれば別なんだけど、そーでもないし。あとドメルがやたらと出ていて、沖田艦長とドメルとの接近からすれ違いのにらみ合いがまるまる抜かれているけれど、でもドメルって遠からず退場するんだよね、そのストーリー上。なのに手下も含めて結構な使われよう。あるいはまた別の映像を作ってくるのかなあ、だったらせめてテンポに合わせ切り替えストーリー性も持たせて欲しいもの。そーゆーの得意なスタッフいるでしょう? いないの?

 参院選の結果がだいたい分かって、そして自民党が大勝して、いつかの小泉改革政権の時みたいに追い風ムードがまた吹く中で、いったい何をするのか、何をしでかすのかといった所が目下の関心事。経済についてはとりあえず景気を上向きさせる方向に働くだろうけれど、その向こう側に見えるTPP参加を含めたグローバル化によって、おそらく日本の農業は酷い有り様になり様々な産業が衰退へと辿って、そして大企業ばかりが儲かり政治はそれを助長するスパイラルが進んだ挙げ句に、東京にだけ繁栄の摩天楼がそびえあとは荒野が広がるだけという、ディストピアを地でいく世界が待っていたりするんだろう。

 大半は社会的な弱者と追いやられ、その中ですら弱者はより弱者を虐げ、少しでも自分の得になろうとして過激に立ち回る。おこぼれに与ろうとして人心は乱れ、徳の心は消え、そして荒んで歪んだ心を外へと向けて発散させようとする動がきが噴出しては、近隣諸国との軋轢を生んでさらにこの国を滅びへと導く。見えているのに止められない。そんな気持ちをかの時代にも多くが抱いていたんだろう。今よりよほど前向きでパワフルな人も多かったあの時代ですら止められなかった傾斜を今の、諦めと無関心が覆ったこの国が止められるはずもない。そして一部のみが特権に与り、勝ち馬に乗ろうと群がった挙げ句にこの国を導く。何処へ? それは歴史がすでに証明している。どうしたものか。どうしようもないのであるか。まさに叫びたい気分。「誠実にして叡智である、愛国の政治家井でよ」と堀越二郎は1945年8月15日の日記に書いた、同じ言葉をを今また。

 それにしても、ネット選挙っていったいどれだけの効果があったのかと、振り返って観て思ったりもしたこの結果。ネットだけを舞台に選挙戦を戦ったという自民党の東京プリンはしっかり落選しているし、ネットを中心にブラックな話が伝わり広まってこれを通してはいけないだろうと非難された御仁は、10万とか越える得票数でしっかり当選している。ネットで流れる情報なんて選挙に行く人の耳にはまるで届いていない、むしろ普通に一般メディあなりワイドショートなりで取り上げられては名が知られ、関心を持たれている人の方に票が傾く、ごくごく普通の選挙結果になったって印象がしてならない。自民党が勝つということがそもそも、その政策が持つ意図なり結果とは無関係に、ただ勝っているから勝つんだといった、トートロジー的な状況の現れでしかないんだけれど。

 例の東京選挙区の人だって、ネットではその語る内容への疑義が山のように出され支える層にも真っ当でない筋が混じっていて、当選させて果たしていいんだろうかといった声が当選させたいという声に負けず劣らず渦巻いていた。さらに追い打ちをかけるよーに、メールのアドレス集めとゆー公職選挙法にひっかかるような事をやらかし、正義を口にする割にどうにも出鱈目な所が多々ある人物だって印象が強まったにも関わらず、いざ選挙となるとあっさり当選を果たしてしまった。ネットで呼びかけ大勢が支持したってよりも、普通にテレビで観たことのある有名人が真面目そうに何か喋っているから入れておけ、といった心理が働いたって印象。そこにネット選挙解禁の影響はまるで見えない。

 こうなると何がいったい政治を変えられるのか、って考えるだけ無駄になって来そうな思いもあるけれど、小泉内閣の人気であれだけ盤石に見えた自民党への支持が、数年であっさりと傾き、崩れ政権交代へと至ったとゆー過去もあり、またそうやって政権をつかんだ民主党が、これも数年であっさりと地に沈んだごくごく最近の事例もあったりする。軽佻浮薄は一方に勝たせするけれどもそれをいつまでも続けさせるとは限らない。ちょっとした踏み間違いでゴロンと変わる可能性もあったりするだけに、そーした状況を睨んで現在の政権がそろそろと政治を動かしてくれれば僥倖、むしろいつ変わるか分からないなら今やっておけとばかりに、あれもこれもゴリ押しして来たらそれは問題。どっちに転ぶか。どうも後者っぽいのが面倒だよなあ、今の奴らの言動を観ていると。

 それで中盤はどこに? 視聴率ではどんな選挙速報も押しのけあの時間帯でトップに立っていたところに日本人のサッカー日本代表への関心が未だ薄れていないことが証明されたものの、そお内容はといえば中盤でボールをチェックできず相手に持たせそしてディフェンスラインはズルズルと下がって相手に斬り込まれえぐられ放り込まれたりする繰り返し。そんな中から2度のPKが生まれそして飛び込みざまの蹴り込みが生まれて中国に3点を奪われてしまう。日本代表だってそりゃあ3点はとったけれども相手が前掛かりになった裏へとうまく走ってとったといった感じ。これが例えば本気で守備を固めてくる中東相手だったとしたら果たしてああも易々と得点を奪えたのか、ただでさえ間延びしたラインが相手にスペースを与えてしまてもっと派手に得点を奪われてしまっていたのではないか。そんな想像が浮かんで拭えない。

 そりゃあ遠藤保仁選手だって激しくチェックにいって潰す選手ではないけれど、そのあたりは長谷部真選手がカバーに入るし、前戦から本田圭佑選手だって戻って激しく守備する感じ。最前線からのフォアチェックを常にしていれば疲れてしまうのも道理だけれど、それがないなら中盤がしっかり潰しておかないと、サイドを抜かれ回され入れられといった攻撃を呼んでただでさえ浮ついたディフェンスラインはずたずたにされてしまうし、実際にされてしまっていた。観ればもうどうしようもなく主体性がなく、そして統率力もないチーム。誰かがリーダーシップを取るとか、全員で同じ意識を持つとか、そーゆーことが出来ない人間ばかりが集まった感じで、それが上に行ったらどうにかなるとも思えないだけにザッケローニ監督も、ここから誰かを引き上げる、なんてことはしなさそう。もっと下の世代、意識も高く技術もあってしっかりと守れ走れる選手の登場と台頭に、期待するのが良さそう。いるかなあ、そんな選手。

 窓際なんでNTTが小学生向けに開いている情報通信サービスの体験イベントなんかも見物に行ったりして子どもたちがスマートフォンを扱ったりインターネットの検索をしたりする姿を観察する。大人ならもう普通に使っているネットにスマホだけれど、さすがに小学生ともなると持たせてもらえず体験もさせてもらえないみたい。けど情報だけは入ってくるスマホっていったい何だろう、ってのを体験させてもらえるとやっぱりとっても嬉しいみたい。買って買ってとせがまれるんだろうなあ、家に帰ると。とはいえニンテンドー3DSを使ってネット経由でダウンロードとかARを使っての遊びなんかしている小学生もいたりする訳で、実はスマホ的な体験を済ませている子どもは少なくない。それをそうと感じさせないで遊びの中で体験させてしまうところが任天堂の強くなのかも。Wiiでも巧くやっていたんだけどなあ。Wii Uはちょっとゲームに寄りすぎた。「もっと簡単に、そして気軽にネットへ」を取り戻さないと。


【7月21日】 参議院議員選挙の日。なので早朝にむっくりと起きて午前7時の投票時間に投票所へとかけつけ、参院千葉選挙区とそして比例区に投票をしてさて、朝も早いしどこかへ行こうかと思い立って新宿ピカデリーで朝の9時から映画「ハル」がやっているのを思い出し、電車に乗って昨日につづいての新宿ピカデリーへと向かう。なぜかピカデリーでも1番大きな1番スクリーンでの上映で、何でまたとは思ったけれどもその後に1日、「風立ちぬ」が入っているのを見ると別のスクリーンで先に始めて少し時間をずらして1番スクリーンに入れると、朝に時間が余ってしまうんでそこで回して置こうという考えがあったのかな。見る側としてはラッキー。だって大きなスクリーンでくるみって娘の臆したり悲しんだり喜んだり笑ったりするとっても良い表情を見られるんだから。

 一方で、そんな大きなスクリーンでガラガラなのも可愛そうって心配しもあったけど、上映が始まってみると意外やそこそこの埋まり具合だったのはまだ、この作品を見ていない人がいてそして、口コミで面白さが伝わってて来たからなのかも。やっぱり映画って前宣伝より後の口コミが大きいのかな。でも今はシネコンで明確に売り上げが出てしまう関係もあって、スタート時の成績が悪いとすぐに上映が打ち切られてしまう。それを無理しても引っ張れば生まれる効果があると分かって興行も、いろいろと配慮してくれるようになると嬉しいんだけれど。新宿ピカデリーはまあ松竹の館で「ハル」は配給が松竹だから上映がつづいているのかもしれないけれど。いずれにしても週内は1番スクリーン。もう1回くらい見ておきたいかも。

 映画についてはやっぱりストーリー上に納得できない部分が多々あって、もう随分と公開されて経つから少し踏み込んで話すと、時夫っていう染め物職人のおじいさんの示す情愛が、どうしてそちらへと向かうのか、ってところがどうにも納得できない。いわば敵に近い相手のためにどうしてそこまで尽くすのか。過去にいろいろあったとしても、直近は意図があったかはともかく追い込んでしまった原因ともいえる存在に、同情までして助け導く必要はない。にも関わらずあそこまでのことをするのに、何かひとつでも理由をつけて欲しかった。最期の願いだったとかどうとか。あるいはとてつもなく同情するより他にない事情があったとか。あったかなあ。

 そんな時夫が口にする「あいつ」に「あの子」という二人称の使い方も少しずれてていかにも誘導的。聞けばそう思うけど実はとなった時に聞けば、そう思った理由がまるまる嘘になってしまう。なのに平気で使っているのがとても気になる。まあそういった部分を省くと作画的にも浮かぶ心情的にもとても良い映画。町家の2階から近づいて来るキリンの頭を見たくるみが階段をそろそろと下りて飛び降りる絵とかもう可愛くって楽しくって、そこだけを見たくて何度も通ってしまっている。それからエンディングに流れる日笠陽子さんの「終わらない世界」の素晴らしさ。バックで流れるポートレートの嬉しそうで楽しそうなくるみの表情がまた楽しくて、だからこそ泣ける。ああいった絵だけを集めた画集が欲しいんだけれど、出ないよなあ、やっぱり。せめてBDにデジタル画集的に収録されることを願おう。いつ出るんだろうBDとか。

飛びたいなあ、こいつで空を、平和な空を  せっかく早い時間に新宿まで来たんだからと、西武新宿線に飛び乗って所沢航空公園まで出かけて「風立ちぬ」で大活躍していた堀越二郎さんが開発に携わった零戦の展示を見る。いやあ零戦だ。やっぱり格好いいよなあ。あのまるっとした主翼の形とか、太からず細くもない胴体のラインとか。完成された美があるけれどもよくよく近づくと薄いジュラルミンかなにかを張り合わせて作っているよーな機体は、ドドドドドって機銃でも浴びればすぐに穴があいて火を吹いて落ちてしまいそう。それを初期には性能で避けて回ったとしても、相手だってすぐに合わせてくる訳で、最終的には物的にも人的にも物量がものを言って相手に上を行かれてしまう。

 頭脳と根性だけでは勝負できない経済の世界。最前線に立って世界中の情報に触れる機会もあっただけに、堀越二郎さんもその違いがもたらす結果ってのを存分に予測していたんだろう。だからなのか、展示には堀越二郎さんが1945年8月15日、つまりは終戦の日に書いた日記ってのにもあって、そこには「そもそも先進欧米諸国のブロック経済主義がこの戦争の根本原因ではなかったか」って書いてあるけど、それで欧米の締め付けを非難するのかと思いきや、続けて「日本が、否、日本の軍部とそれと結ぶ政治家が、外交で平和的に打開することをせず、武力に訴える所まで短気を起こしたことが戦争のの近因ではなかったか」と書いている。

 そこには、日本の経済事情をテクノクラートとして存分に理解し、「社会的訓練の未熟、過剰な人口と狭い国土。自力では解決できぬ致命的な経済上の問題を抱えている」ことを認識した上で、だから世界の中でどう振る舞えば良いのかを忘れ、対応を謝って居丈高になった挙げ句に国を滅ぼしてしまった為政者なり軍部への批判的なスタンスが垣間見える。何しろ1945年8月15日といえばその正午まで戦争をやっていたまっただ中。相次ぐ空爆で市民の間に厭戦気分は漂っていたとしても、指導部への明確な非難めいた意識は果たしてどれだけの人の頭に浮かんでいたか。後に戦争と戦前の体制を敵視する教育とやらの中で、すでに反戦の意識は生まれ軍部に対する非難は渦巻いていた、ってな考え方が広まり、けれどもそれは戦後教育の中で植え付けられたもので、日本の自虐につながっていると訴え排斥したがる人も昨今、増えていたりする。

 けれども、そんな戦争を兵器の開発現場に立って、最前線から見ていた堀越二郎が終戦の当日に「日本に壊滅をもたらした政策を指導してきた者が全員去らなければ、腐敗の種は残る。『誠実にして叡智である、愛国の政治家出でよ』。これが願いである」と書くんだから、やっぱり批判的な意識はジグジグと広まっていたんだろう。上は無茶をやっていると誰もが気づいていた訳で、決して戦後教育の何とかによって戦前戦中の政策なりが貶められている訳ではない。そのことから目を背け、過去を肯定して自分を強くみせたところで、この狭い国土にひしめく国民を維持することなんてできやしない。ならば拡大か? ってまるで戦前と同じことをやろうとしている。何というか間抜けというか。

 それを堀越二郎さんが言うことか、零戦を作って世に送り出し、それに乗せて若者たちを特攻させて多くの命を奪った人間が言うことではないって意見もあるそーだけれど、別に軍部の指導者でもなく会社の重役でもない、一介のサラリーマン技術者が現場で何を言ったところで、政策が変わるはずでもないし実際に変わらずそれで爆撃機は4発にしたいところを2発にされて性能が落ち、戦果に大きな差が出たって話が別の技術者にあったりする。まあそれでも戦局が変わった訳ではないだろうし、堀越二郎が零戦を作らなかったからといって、戦争の行方が変わった訳でもない。日本に物資は涸渇していたし、三菱以外にも飛行機を作っていたところは幾つもあったのだから。

 問うべきはだから「戦勝国民にも日本国民にもこの反省がなければ、日本の前途は長期にわたる経済および道徳の混乱がつづくだろう。日本人はもとより世界人類にとっても得策ではない」と堀越二郎が日記に書いたように、とりあえず日本は反省してみせ、世界も許して手を携えながら発展して来た戦後をまるっと否定して、実際にはなかった過去の栄光とやらにすがろうとしている御仁が、この国を引っ張っていたりすること。なおかつ選挙でさらなる支持を得てしまったこと。それがもたらすのは何か。堀越二郎に再び同じよーな日記を書かせる愚だけは避けたいけれど、そう思う人が多くいたらこんな状況にはなっていない。知らないだけなんだとしたら今、こうやって堀越二郎への注目が集まっている中で、彼の心情はどーだったのかを知って考えることが必要。映画にも少しは仄めかした部分はあるけれど、それに絡めて本人のこうした言動を、紹介するよーな機会なり媒体があって欲しいなあ。

 そんな展示にはなぜか空飛ぶ円盤に関する研究ノートみたいなのもあって、1947年7月4日の夕方、米国アイダホでアーノルド・ボイズらが飛行中に飛行機の窓から円盤の群が飛んでくるのを目撃した、という事例を引き、他にも「下面が滑らかで上面に凸起物のある物体」が飛ぶのを認めた飛行士たちがいることを挙げて「空飛ぶ円盤」なる存在を紹介している。1947年というと日付は違う6月24日にケネス・アーノルドが自家用機から円盤を見てそれが「空飛ぶ円盤」と名付けられた、という俗に言うアーノルド事件が歴史には伝えられていて、堀越二郎の記述とはズレるけれども当時と今とでは情報が伝わる速さも確度も違うから、いろいろな情報が混在する中でそれでもひとつの状況を認め、その可能性について飛行機屋として興味を引かれ、考察を重ねたに違いない。その結論は……それはノートを読んでのお楽しみ。展覧会はまだしばらくやっているし、8月末には零戦のエンジンに火を入れるイベントもやるらしいんで、興味のある人、「風立ちぬ」で堀越二郎という人に興味を抱いた意人は、是非に行ってみてはいかが。

 とって返して池袋で「風立ちぬ」の原画展、といってもアニメーションで言うところの原画ってのはまるでなく、鉛筆で描かれた絵が何枚も連なってそこに動きが見えるよーな雰囲気なり、それを宮崎駿監督がどう修正して結果として動きや表情がどう変わったかってことなんかを、知れる場所ではなかった。代わりに宮崎監督の構想ノートめいたものがあったり、美しい背景を並べてあったりしてアニメが醸し出す雰囲気ってのを観た人は再体験し、そーでない人は先に味わうことができる展示にはなっていた。キャラクター表なんかもあったし。

 ただやっぱり観たいのは、どこか絵はがき的なそーした展示ではなく、絵コンテがどう描かれているかであり、原画がどう描かれそれがどう修正されているかであり、色指定なんかがどうなっているかであってその重なりとしてのアニメがどうなっているかといった制作プロセスに関わる部分。映画が落ち着いたらその辺りを再構成して展覧会をやってくれると嬉しいかも。来年の夏の東京都現代美術館、ってのがひとつの線かなあ。零戦なんかも展示しちゃったりして。やりかねんなあジブリなだけに。


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