縮刷版2013年4月上旬号


【4月10日】 今さら感は否めないけど他に大きな賞をとってないんだからこれはこれで“発掘”という意味は果たしたのかもしれない本屋大賞での百田尚樹さんの「海賊とよばれた男」での受賞。前に「ボックス!」でノミネートされた時に受賞していればとても美しかったんだけれど当時は「永遠の0」は出ていながらもほとんど無名だったから、書店員さんたちの関心もあんまり向いていなかったのかもしれないなあ。その時の受賞は湊かなえさんでそのまま人気作家になっていったし、2位は和田竜さんの「のぼの城」でこちらはすぐさま大ベストセラーになってしまった。

 そんな中での無名はなかなか取りづらいのも仕方がないけど、逆にそうした無名をも有名にするパワーを持った賞でもあったはずなのに、昨今はすでに有名どころがずらりと並んで年間ベストセラー大賞を決めるような感じになっているのは、発展しっと見てとれる一方で書店員さんの掘り出すパワーを感じたい身にはちょっぴり物足りない。誰も知らない何かがポコンとあがって読んでこれは凄いと驚いて誰もが投票して1等に輝く、なんてシンデレラチックなストーリーを思い描いてみたいんだれど、過去もそして今回もそういうことはなく、むしろどんどんと主流にお墨付きを与えるような賞になっている感じがする。

 今日付けの朝日新聞なんかによるともはや本屋大賞は直木賞より売れる称として認知されているようで、それを狙って出版社の側の攻勢ってのもなかなかに凄いことになっているんだとか。作家を連れての書店員周りは当たり前でノミネートが始まる半年も前にはゲラを送って読んでもらったりもするし、作家を囲む会なんてのも開いて作品に親しみをもってもらうというからもうちょっとしたカー・オブ・ザ・イヤー。いや自動車会社のアピール攻勢に比べれば実に大人しいものだろうけれど、それでもいろいろアプローチをかけられる中で書店員さんたちが何をどう思っているのかに興味がわいてくる。

 そうした攻勢を新聞のコメントで大森望さんは営業努力といった表現で、これは肯定しているというんだろうか、あるいは状況認識なんだろうか、ともあれ存在を認めていたりするんだけれど、そうした営業努力はあくまで営業のための努力であって、そうしたものの多いとか少ないとかが作品そのものの内容面における良いとか悪いとかいったものと、イコールかとうとそうでないのもまた自明。ようはだからどれだけの営業努力を受けようとも、逆に何もされなかろうとも書店員さんたちが、本当に読ませたい本ってのを選べばそれで良いってことだけなんだろー。あとはだからそこに期待するしかない、来年に何が入ってそこに驚きがあるかどうかを。

 すでに少し前から噂としてあがっていた「ファイブスター物語」の再開における諸々が10日発売の「月刊ニュータイプ」2013年5月号によって満天下にさらされて、読んでみてやっぱりこれはいったいどうしたことかという気分を味わったかというと実はあんまりそうでもないのは、モーターヘッドというか今日から新しくゴティック・メードと呼ばれることになったメカたちに気分を乗せて見ていた訳じゃなく、むしろデコース・ワイズメルだったりクリスティン・ヴィだったりダグラス・カイエンといった登場人物たちの動静を楽しんでいた節があったんで、モーターヘッドがゴティック・メードに変わりバッシュ・ザ・ブラックナイトかダッカス・ザ・ブラックナイトとなって名前もそして形までもが大きく変更されても、あんまり気にはならなかった。

 あるいはファティマって呼び名がオートマチック・フラワーズだなんて一言で呼びづらい名称に変更されても、そこにデコース・ワイズメルがいてバルンガ隊長がいたりする姿を拠り所に、しばらくの休載を挟んで生まれた大きな断絶を、すんなりと繋げることができた。もちろんダグラス・カイエンという稀代の伊達男の格好良さとともに憧憬を抱き羨望を持って眺めていたシュペルターのスタイルが、まるで変わって名前もデムザンバラだなんていったいどこから持ってきたんだって名称になったことに喝采を浴びせられるものでもないけれど、すでにカイエンはなく動かしているのもアウクソーとは違うオートマチック・フラワーズ。そこに接続があるよりもいったんのリセットというかリブートを挟んで新しい物語だと受け止め見ていった方が、気持ちもリセットされてすんなり受け入れられるような気がしてる。

 まあ、バッシュのダッカス化とかナイト・オブ・ゴールドのマグナパレス化とか、慣れていかなくちゃいけない名称の変更もあって大変だけれどそれも連載が続くうちに、展開とともに頭に刻み混まれていくんだろうと期待したい。だから連載、中断させないでね、永野護さん。ところで表紙のオートマチック・フラワーズがメインヒロインのラキシスではなく、多分「町」なのは何でだろう、クリスティン・Vの活躍が予見されているということだろうか、それならそれで多いに結構、映画「花の詩女 ゴティック・メード」でもその凛とした姿をさらしていただけに、大きく絡んできてくれると期待しよう。ユーゾッタもせっかくだから出してあげてね。

 とりあえず「カニ」だったアニメーション「あいうら」は5分の枠で作っていながらオープニングにカニがワシワシと登場した上にエンディングまであったりしていったい本編は何分あったか2分か3分か。けどその短い時間を派手さでうめず静かに女の子がお茶を飲み坂を駆け下りバスに乗り、たいやきを食べるシーンだけにつかって時間をゆったりと流れているように感じさせて、その時間を何倍もの体感に引き延ばしてくれていた。これが多分演出の力ってものなんだろうなあ、中村亮介監督の。あと光が差す道の描写は監督した映画「ねらわれた学園」との通じる明るさで映画を観た人にあの感覚を思い出させてくれるかも。それにしても足が太くて立派な割にヒロインの手が小さかったなあ、あの不思議なバランスが妙なエロさって奴を醸し出して居るんだろうか。要経過観察。

 もしも「パラノーマン ブライス・ホローの謎」の主人公がノーマンではなく「とある魔術の禁書目録」の上条当麻さんだったら街にゾンビがあらわれ跋扈し始めたとしてもその右手を差しだし「イマジンブレーカー」を発動させれば呪いや異能の類はすべて消去されてゾンビも存在を失って消えてしまうだろうし、すべての中心にあって300年もの間、呪いを発動し続けている存在には「そのくだらない幻想をぶち殺す」といって右手でパンチをくらわせれば、たとえ相手が大人でも子供でも美少女であっても吹っ飛びそして魔術の類も雲散霧消して、すべてが丸く収まったに違いないけどでも、それって基本的な解決にはなってないよなあ、だからノーマンがとった対話と説得は誰もが自覚してそして平穏の中に安寧が得られる最高の手法。それを子供たちに伝えることによって恐怖を暴力に変えて諍いを続ける大人たちへの懐疑を呼んで、平和な世界の到来に大きく近づける。その意味では実に素晴らしい映画であり、昨今妙に恐怖を暴力に変えて吹き上がっている日本の人たちにも見て欲しいところだけど、終わっちゃうんだよなあ、もうすぐ。また見に行きたいなあ。


【4月9日】 見てみたけれどもテレビアニメーションの「惡の華」、ロトスコープを使って演技した人間たちを、そのまま絵にして色を塗って作りあげたような映像が気持ち悪さを醸し出しているっていった話は半分くらいは大げさで、別に見ても普通によく描かれた人の動きだなあという印象と、あとキャラがアニメーション的に描かれていないからリアルでちょい生々しいといった印象を受けたくらいで、言われるほどの不気味さってものは感じなかった。浮かんだのは原恵一監督の映画「カラフル」との共通点で、実写をそのまま取り込んで色を塗ったような背景とか、人間と等身大の動きをして表情を見せて関係性を示してくれる登場人物たちの持っていたリアルさと、「惡の華」の持つリアルさはほとんど紙一重のよーな気がする。

 その一重の部分がリアルだけれどエンターテインメントとして成立させようとする原監督の意識と、リアルさをちょい残すことによって現実との乖離を際だたせて、そこに揺らぎめいたものを感じさせようとする「惡の華」の作り手たちの意識の差なんじゃなかろーか。気持ちとしてはそういった、突き詰めればよりクリアに人間の動きを優雅かつダイナミックに取り入れられるトロスコープの手法って奴を、ディチューンするように使って違和感だけを残すような使い方って、先人たちの頑張ってきたことに対する冒涜のような気もするし、そうした不気味さをことさらに書き立てて、作品性を称揚するような言及ってのにもちょっと違和感を覚えたりもする。たとえその不気味さこそが作品を通して訴えたかったことだとしても、そういう作品が認められるのかどうか、って部分でやっぱり手法のノイズ部分を使っていることで、称揚を抑えられてしまう。

 けれど、一方にリミテッド的にスタイリッシュな動きをするアニメなり、漫画の躍動感がそのまま映し出されたような動きをするアニメに慣らされて、ちょっとリアルだとそこにヌルヌル感を覚え不気味と断じてしまう心理的なロジックを、少なくない人が得てしまっている現状もあったりするだけに、人間っていうのは現実的にこういう動きをしていてこんな気持ち悪さを醸し出しているんだよってことを、改めて分からせる役割を果たすかも知れないって思いもあるし、何より見ていてグググッと引きつけられるものがそこに有る以上は、やっぱり使って意味があったんだろうなあ、ロトスコープを、「惡の華」という漫画を原作としたテレビアニメに。今はどちらかといえば話題先行で突っ走っているけれど、終わったときに内容に意味があってそれを支える“効果”だったんだと語られるようになれば、物置から引っ張り出されたようなロトスコープも本望なんじゃなかろーか。なんつって。

 いやあ感動のオンパレードだった講談社の「イブニング」の2013年第9号は、「CAPTAINアリス」でもうあとは墜落するばかりのジェット旅客機を操縦して荒れた海へと着水しようとしたその瞬間に、過去とのつながりが一気に結実して素晴らしい帰結を迎えそうになって感動がわき上がったのに続いて、「ジャポニカの歩き方」でも苦労の中で培っていった信頼が結実して、不幸へと向かわず幸せへとつながっていった姿が浮かび上がって感動を誘い、そして「敗走記」では逃げだそうとした漫画家が、それでも一念発起しキリギリスだって来年にまた唄いたいんだと歩きはじめる覚悟が描かれ、逃げ出したくてたまらない世代の感動を呼び起こして振るわせる。ほかにも「とろける鉄工所」で冴えないように見える溶接の仕事に対する敬意が捧げられ、「係長 島耕作」でも女性の決意が示され日常でも、非日常でもそこに居場所を定めたら頑張り抜くんだって思わせる。まあに感動の集大成だけれど、でもやっぱり眼は「もやしもん」の畜産の中山ちささんに向くのだった。可愛いなあ。

 ツイッターの検索窓に「NHK」と「メキシコ」を入れて検索してみたら、「メキシコの様な親日的な国との首脳会談は、NHKも報道しないので、フェイスブックでお知らせします」とかき込んでいた総理大臣さんのツイートの上にニュースの紹介として「メキシコ TPP交渉参加支持へ NHKニュース」とゆーのが現れて、何かとってもお尻のあたりがムズムズしてしまった今日この頃。そしてフェイスブックには案の定にNHKはケシカランといったコメントがズラリと並んでいたりするんだけれどもその中に、ニュースやってたじゃんという指摘もちゃんとあったし当人も「やってました」と言っていたりして、つまりは当人には伝わっていたりするのに、トップで訂正をせず別に項目を立てて改めもししないまま、知らない顔をしてそんな発信を続けていたりするのは何というか薄気味悪いというか。

 つまりは一国を与る総理大臣さんがまるで虚偽のデマを公然と堂々と全世界に向けて垂れ流していた訳で、たとえ訂正されてもその脇の甘さをメディアは真正面から非難してこのウソツキめ、中二病めと嘲り糺してしかるべきなのに、とある新聞は「NHKにチクリ」とかいってそれを言う総理大臣さんの態度をむしろ正当化しようとしていたりするかた何をかいわんや。これが例えば前の総理大臣さんだったら、何をどれだけ叫んで怒ってこのウソツキめと糾弾したか。見る人でなくても見ればバレバレなお追従めいた態度な訳で、これはさすがに拙いと真っ当な思考力を持つ人は右も含めて唖然として、辟易として離れていっているのに、何あんまり気付いている感じがしないのが悩ましい。まあ、目的があるなら嘘でも流しても無罪だってな態度もバリバリに、あり得なかった話を書いて裁判して負けてなお自省も自重も窺わせない所があるからこれも、当然といえば当然のスタンスか、参ったなあ。

 いやあ凄い。そしてお目出度い。世界最大の映像コンテンツの見本市「MIPTV」が50周年を記念して世界の映像コンテンツを動かした5人を選んで表彰するってことになったんだけれどそこに日本からアニマックスの社長でソニー・ピクチャーズエンタテインメントの執行役員をしている滝山雅夫(正夫)さんが堂々、選ばれていたようで今日明日にも現地でスピーチなんかをして表彰されるとか。他の面々はといえばCBSインターナショナルの重鎮だったりフランスのM6ってテレビ局のトップだったりBskyBとかBETAフィルムって映画とかやってる会社の凄い人だったりと世界の放送とか映像とかの重鎮が、ずらりと並んでたりする、そんな中に日本からはテレビ局の偉いさんではなくってアニマックスとかミステリチャンネルのトップの滝山さんが入ってたことを、人によってはどうしてなんだと訝るかもしれない。テレビ局の偉い人たちだって何でって思うだろうなあ。

 でも知っている人が聞けばそれも当然と思うのは、滝山さんが今の欧州で日本のアニメーションがこんなにも隆盛を極めていることの下地を創った人だったから。1980年代というまだ欧州には国営放送しかなかったような時代に日本から、テレビアニメの番組を持ってあちらこちらのテレビ局を回って売り込んであるいたのが滝山さん。それこそ電車を乗り継ぎ肺炎になっても治さないまま伝のないなかをアポイントをとって訪問し、その時は売れなくってもいずれテレビ局が民営化され数多くの局とかが出来るだろう時代を見越してネットワークを築いて回った。その成果があってこそ日本の数々のテレビアニメがイタリアフランスイギリス等々の国々に売れてそこで大勢のファンを得て、今の日本に対する関心の高さであったり感触の良さの礎を築いた。欧州にとっても新しいコンテンツが入ってきては大勢の人たちを熱中させた、その功績を重くみたからこその今回の栄誉賞受賞ってことになった。

 それこそクールジャパンで海外にアニメを売りたい漫画を売りたいとか言って偉い人たちががん首そろえて霞ヶ関で益体もないことを言っているけれど、それより四半世紀以上も昔に滝山さんはひとりクールジャパンを実行していた訳で、その苦労も気付いたネットワークもすべてが日本にとっての大きな財産なんだけれど、そういう意識を持って政府で滝山さんを見ている人が少なすぎるのが寂しいというか、だからこそ今どきのクールジャパンがどこか空虚なものになているというか。そりゃあ滝山さんだって仕事だったんだろうけれどもパイオニアとしての熱情は人一倍あったはずで、そうした熱を今一度、燃やすためにも政府は滝山さんなりアメリカにタツノコのコンテンツを売って歩いた成嶋さんなりを招き話を聞くべきなんじゃなかろーか。せっかくこうして名前も出て世界から喝采を浴びている訳だし。でもそれが話題になっていないのもこの国の先達の功績に対する鈍感さであり、ドメスティックな有名人しか認知できない拙さでもあったりする。巧くいかないよなあ、これじゃあ。どうにかならないものかなあ。


【4月8日】 ふと気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉がJ2でもって3位に入っていて、あのガンバ大阪よりも上にいたりするのにちょっと吃驚。スタートダッシュに躓いて、もはやこれまでとか一時思ったけれど案外に今年はと期待できるかも、ってもこも春までのことで、夏に入って秋になったらやっぱりいつもの中位やや上へと下がって今年もダメだろうなあと諦めの中で、来年の監督の顔を想像したりしているんだろー。そういうものだ、J2暮らしって。しかしどうしたファジアーノ岡山が2位なんて。そんなに凄い選手がいるでもなく凄まじい強化を行ったていう感じでもないのに。これが津山ホルモンうどん効果か。それともやっぱり吉備団子か。こういう地域から未だJ1に来たことのないチームが上がって頑張ってくれるとJリーグも活気づくんだろうなあ、鳥栖とかほんと、よくやってくれてるし。あとは四国からもJ1が出ればなあ、一平くんをナビスコカップで見たいなあ。

 ふと気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉レディースが2連勝していたけれどもそれ以上にこの2試合で巨大な山根恵里奈選手が連続出場していたのにちょっと驚いた。初戦は船田麻衣選手でなるほど代表には選ばれたけれども上村崇士監督はゴールキーパーは今年も山根選手ではなく船田選手で行くと決めたのかって見ていたら、なぜか切り替えて山根選手を持ってきた。アルガルベカップでの活躍を見たっていってもあそこではほとんど攻められない中でずっと立ってただけで長身ゴールキーパーならではの高さも課題だった球際の強さも見せてくれた訳ではなかった。だからまだまだ未知数なところをその可能性に今年はとりあえずかけてみたってことなのかも。これで試合慣れしてポカを減らしプレッシャーにも勝てるようになれば最強のゴールキーパーが誕生する。あとは怪我に気をつければ。こればっかりは技術でどうなるものでもないだけに。次もやっぱり山根選手かなあ、1度くらいは見ておきたいなあ。

 いよいよ始まったらしい「常住戦陣ムシブギョー」のテレビアニメーション。録画してなかったんで見られなかったけれどもちょっぴろエロもありつつ戦う少年のまっすがを描いて上から下まで広い世代に話題になりそう。始まる前はなんだ「ムシブギョー」ってそれは虫の御奉行様が主人公で、昆虫の世界でおこる諍いの中に身を投じては見事な捌きを見せてこれにて一件落着とやる展開の中、に虫たちの生態を描きこどもたちに虫の世界への理解を深めてもらうという学習アニメか何かと思っていた人もいたかも。いないか。でも誰もが見たり聞いたりしている「週刊少年ジャンプ」の漫画と違って、「週刊少年サンデー」の漫画って、どことなく押し出しが弱くって最近は売れ行きも芳しくなくって、世間にあんまり知られていなかったからこうやって、アニメ化されてそれも夕方の6時台なんて子供も見られる時間に放送されて、大勢の口に上るってのはやっぱり展開として大きそう。これで知ったって人もいるだろうから、単行本の売れ行きへと跳ね返っては雑誌にも向かい一気に挽回、ってなれば昔ながらの「少年サンデー」ファンとしては嬉しいかも。

 というか長く続きすぎている「名探偵コナン」は別格としても、ここ最近、「マギ」がアニメになり「絶対可憐チルドレン」のスピンオフで「THE UNLIMITED 兵部京介」がアニメになって、「少年サンデー」の発信力が割に高めになっていた、そんなところに来た「ムシブギョー」ではり「ハヤテがごとく」であり「アラタカンガタリ」でありといった具合に連発される連載作品のテレビアニメ。いずれもテレビ東京系という地方ローカルではない場所で放送されたりすることも、展開としてなかなかの大きさでこれで視聴率もついてきて、評判もあがればさらに他の作品もってことになるかもしれない。何しろこの先にはヒット確実な「銀の匙」のアニメ化が控えているし、「機動警察パトレイバー」の実写化なんて話もある。いっそだったら「陸軍中野予備校」の実写化も、なんて思ったけれどもこれはさすがに無理かなあ、でも「HK 変態仮面」が今さらの映画化なんで古くて忘れ去られた作品でも復活とかあって欲しいなあ、「ジャスティ」とか、漫画オリジナルでの「さすがの猿飛」とか。

 雌伏を経てもこうやって、持ち直してくるところは流石に小学館って感じだけれど、そう自力に頼れるところばかりでもないのは、文藝春秋社が新しく「文春ジブリ文庫」なんてものを創刊して、スタジオジブリを中心にしてアニメーション関連の書籍なんかを出し始めるのを見ると分かるというか、そりゃあなるほど文芸には強くてもエンターテインメントにはからっきしって思われがちだけれど、あれでかつては文春漫画賞なんてものを出して漫画家さんたちを表彰していたし、それより「週刊文春」誌上で赤塚不二夫さんの「ギャグゲリラ」を連載し、そして手塚治虫さんの「アドルフに告ぐ」を連載して時代にギャグと大河の双方で歴史的な作品を刻み混んだ。漫画雑誌なんかも作っていろいろ世に送り出していたんだけれども最近は、そうした自前で何とかするパワーってのもなくしてしまったのか、出せば確実と見込めるジブリに頼りすがるっていった印象。新潮社があれで「@バンチ」を出し続けているのと比べると、見かけは前身でも中身は後退か良く言って停滞した感じが否めない。

 もちろんジブリから押しつけられるものじゃなくって自分たちで企画もし、開発もしているんだろうけれども、それだったら他にマッドハウスもあればプロダクションI.Gもあったりと出しておかなきゃいけなさそうなアニメスタジオはいくらだってある。けどでもそれらはプレゼンテーションに時間がかかる。ジブリならほうらジブリですよとやれば世間はちゃんと分かってくれる。楽なんだ。でもなあ、やっぱり自分たちで物作りをしている人たち、そしてメディアというプラットフォームを持って勝負している人たちが他の人気、他の価値に頼るのってのはやっぱりちょっと違うよなあ、自分たちの力と技で価値付ける楽しみ。それがなくして出版なんってやってられるのか、って話でもある。でも儲けなきゃそういう仕事もできないし……ってことで文春にはジブリ文庫でしこたま儲けてそれで「プラスマッドハウス」の文庫化なんかをお願いしたいところ。とても良いムックなのに今じゃあなかなか手に入らないんだよこれら。

 将棋の米長邦雄さんが勝負に勝つには若い女が必要だなんて韜晦気味に言った艶話を、朝っぱらから紳士淑女のページでもない1面コラムで開陳してみせる下品さは、いつものオヤジのそれも相当に古くさい感性が現れているだけなんだと思えばそのとおりなんだけれど、その流れで「チェスの世界では、コンピューターはすでに1997年に世界王者を倒している。開発が比較的遅れていた囲碁でも、わずかなハンディをもらうだけで、トッププロと互角に打ち合うソフトが現れた」という具合に昨今の、コンピュータとプロ棋士が戦う電王戦でプロ棋士が連敗したことを取り上げていたりしたのには、少しばかりの違和感。

 「陸上競技の金メダリストが、レーシングカーとトラックで対決する。人工頭脳との対局が、同じような『暴挙』となる日が、早晩やってくるかもしれない」なんて具合に、パワーと計算というまるで畑違いの分野での人間と機械との対決を直結させてみせる筆遣いは、短いなかで何か言おうとして足りてないって印象を与えてどうにも芳しくない感じ。そりゃあF1マシンと人間が競争するのは「暴挙」だけれど円周率の計算ではなく将棋という限定された計算分野で人間と、コンピュータが競争するのが「暴挙」となるのはまだ先なんじゃなかろーか。って思うんだけれどこの数年での進化具合は凄まじいからなあ、将棋ソフト。やっぱり名人竜王が出ていって叩きのめすしか人間の凄さを分からせることはできないのかなあ、いや羽生さんはすでにコンピュータで動いてますとか言われて頭とかパカンと外されても困るけど。


【4月7日】 録画はしたけどまだ見ていないフジテレビの「ボカロ歌謡祭」に対して、マニアックなボカロの人から今さらボカロって何だって説明されてもって意見が出ていたようだけれど、テレビで今回初めてボカロに接する人にボカロって何だって教えることを否定したら、その先に続かないんじゃないかっていう気もしないでもない。それを言うんだったら機動戦士ガンダムのオープニングで、最初の頃は毎回のようにジオンとの開戦とコロニー落としの描写が永井一郎さんのナレーションで説明されていたのも、「俺知っている」といってけっ飛ばすべきか。それをやったら先週見落とした人は分からないからってもう見なくなってしまって、新しい人が入って来なくなってしまう。

 知っている物を見に行くんじゃなく知らない人にも見せて入ってきてもらうメディアを相手に、どういう言説を向けるべきかっていった間合いめいたものが、このネットで何でもアクセス可能な時代に、とれなくなっている人も出てきているってことなんだろうなあ。なんてことも考えた「ボカロ歌謡祭」に関する反応。とりあけよっぴーこと吉田尚記アナウンサーのテレビメディアが未だ持つメジャー感といったものへの言及には、ネットがいくら発達したってそこにわざわざいかなければ見られないし見ようとしないメディアとは決定的に違って、全国津々浦々に遍く情報を一世に届けられるテレビというメディアの持つ本質的な強さってものが伺えて面白かった。

 ラジオだってそりゃあ全国津々浦々に届くけれど、テレビほど身構えて映像も含めて見てそこから発信される情報を浴びるってことはないからなあ、何とはなしに聞き流しんがら情報をつまむといった感じ。だからこそテレビは未だ王様なんだけれども問題は、その王様であることに依存し過ぎてネットから入ってきた人たちとの間に意識のギャップを生んでいること。さっきのボカロなんて今さら説明しなくてもという人の意見もその延長で、取り上げるのが何かにつけて遅すぎるんだという意識を今、いろいろな人がテレビに対して抱き始めていたりする。

 テレビは確かにメジャーではあるけれど、それは電波に乗せて受像器に対して映像を送り出せるというインフラとしてのメジャー感であって今、その上に載っているコンテンツがメジャー化というと決してそうではない。というかテレビに関わっている人たちはそれがメジャーだと思っているけれども少なくない人たちがそれはもうメジャーでもなんでもないんだということを感じて、次なるメジャーへの可能性を探し求めているのに、テレビの側では確定されたメジャー感に頼ることによってメジャーになれるんだという信仰の元に、実績があって数字がとれそうな人間なりコンテンツなりを並べていく、その上澄みをすくって重ねるようなスパイラルが結果として乖離を呼んでしまっている。

 インフラとしてのメジャーさに自信を持って、これをもっと利用して、今はマイナーでも自分たちがメジャーにして多くに喜んでもらうような活動をしていけば良いのに、「ボカロ歌謡祭」みたいな、って思うんだけれど、マイナーなカルチャーを取り上げていったい数字がとれるのか、って言われたときに今は我慢だけれど未来の数字は確実にとれますって、言って通じる環境でもないんだろう、今のテレビ界って。昔はこれ誰ってなタモリさんをいきなり昼の帯番組に起用したりする度胸はあったのに。そこにいろいろな素人とか駆け出しとかをぶち込んでメジャーに押し上げていくことをしていたのに。今はタモリさんというメジャーにぶら下がり、なおかつゲストもメジャーで固めて知っている人の数字をちまちま積み上げようとしている。そこに未来はないよなあ。

 まあそれは新聞とかにだって言えることで、全国津々浦々に新聞を届けられるというインフラと何百万部という部数を背景にしてメジャーな情報も伝えつつ、一方で市井の人たちの話を取り出しマイナーな人たちの活動を掘り返して乗せてはそれをメジャーなインフラに乗せて全国へと押し出して来た。大勢がそこから生まれ何かを作りあげていったんだけれど今は、有名な人を出さなければ部数は維持できないんだと考える守りの発想ばかり。よっぽど題字に自信がないんだろうか。まあ仕方がない。それでもテレビはこうして「ボカロ歌謡祭」のような番組を作って世の中に問うことだけはやって来た。あとはこういったものを続けていくこと。カルチャーの違う現場に放り込まれた吉田尚記アナも大変だろうけれど、次もあるなら頑張って続けていって欲しいもの。そうならければ見捨てるだけさテレビを。新聞もか。

 天気晴朗なれど風強い中をせっかくだからと上野の国立科学博物館まで干し首を見に行く。っていうか昔も見た記憶があるんだけれどいつの間にやら展示から外されていたようで、理由が残酷だからなのかどこかから抗議があったからなのかは知らないけれどもやっぱり人体が絡む展示ってのには、いろいろと異論も生まれてくるんだろうなあ、スペインだかにあった黒人だったかの人体剥製も論議を呼んで遺族の元へと返されたし。だからこうして今ふたたび、アマゾンの干し首が展示されるのは貴重かもと思い見に言った「グレートジャーニー展」はなかなかの盛況でそして話題の干し首なんかもちゃんと3つ、並んでおいてあった。小さかった。

 いやあ昔呼んだ何か世界の脅威を集めた実録本にも相当に小さくなるって書いてあったけれども本当に、拳くらいの大きさになっていて、それでいて目鼻はちゃんとあって髪もしっかり生えている。どうやって作ったんだろう? という興味も浮かぶけれどもその技術、今でも受け継がれているんだろうか。ちょっと気になった。それで作られて売られているとなるとちょっと不気味だけれど。そんな干し首関係のグッズもあるかと思った売店にさすがに干し首キーチェーンはなく残念、っていうか当然の反応か。逆にこれもミイラなんだけれどもチンチョロのミイラについては周囲を像のようなもので覆われていることもあってかグロさがなく、むしろ可愛さが浮かぶってことで「ちんちょろちゃんクッキー」とか「ちんちょろちゃんフィギュア」なんてものが作られていた。干し首と同じ人間なのにこの違い! って言ってやっぱりね、見た目がね。

 折角だからと国立博物館へと回って円空展。中部地方だと学校の授業の時間い使う彫刻刀のパッケージに円空の仏像が描かれていてどこか構築的な円空仏の持つフォルムの美について刷り込まれていたりするんだけれど、全国的にはいったいどこまで知られているのかと心配したら最終日ってこともあって結構な数の人が入ってた。運慶快慶とかいった偉い仏師たちの掘る美麗に端正な彫刻たちとはまるで違った、それこそ現代美術の彫刻に近いシンプルさで掘られた仏像を当時の人はどう思ったんだろう。これだけ後世に伝えられているところを見るとやっぱり、斬新でそれでいて暖かみのあるデザインだと受け止めたってことなのかなあ、まあ日本には具象を極めたものもある一方で意匠化されたものを喜ぶ空気もあった。円空仏なんかもそうした意匠化されデザイン化されながらも画一的ではない存在感で、見る人たちを喜ばせて来たのかも。どんな時代でも人は斬新を求めているってことで。

 そして渋谷へと回りヒューマントラスト渋谷で坂口拓引退興行と銘打たれたレイトショーの2日目に上映されることになった北村龍平監督による「VERSUS −ヴァーサス−」を見る。これで何回目だろう、初見となったのは2000年7月に開かれたインディーズムービーフェスティバルでの上映会で原宿にあるスタジオでもって上映されては圧倒的な迫力って奴を見せつけてくれて1度で北村監督のファンにさせられた。次は10月末くらいの渋谷パンテオンでの東京ファンタスティック映画祭でその時の日記によればプロデューサーの人がのっけから「北村龍平を世界に」と言ったほどに世界標準で凄い映画だったってことが満天下に示された。さらには2001年9月8日に渋谷のシネ・アミューズで始まった公開の初日に行って舞台挨拶とともに映画を観たんだった。

 そんな感じに節目節目で見ていた映画だけれど今回は、映画の中で圧倒的なアクションとそして存在感を放っていた坂口拓さんの引退興行という場であり、そんな坂口さんを相手に対峙する不死身の男を演じてここから一気にブレイクしていった榊英雄さんが挨拶に登壇するというやっぱり節目の上映。なおかつ35ミリフィルムを持ち込みすでにデジタル上映となっているヒューマントラスト渋谷に映写機を持ち込んでのおそらく最後のフィルム上映という節目を見たのはやっぱり相当にこの映画が好きなんだってことなのかも。だって見ればもう好きにならずにいられない。今でこそ榊英雄さんは黒木司令で元橘いずみさんの旦那だし、映画で沖雅也さんが松田優作を演じているような格好良さを見せてくれた松田賢治さんは仮面ライダー斬鬼で世に知られ辺見えみりさんと結婚してさらに世に知られているけれど、当時は誰もが無名。ヒロインを演じた三坂知絵子さんが実はネット界隈で1番くらいに有名だったくらいに誰もが上を向いてあがいていた時代の、だからこそのはい上がろうと必至に食らい付いていく姿って奴がフィルムに焼き付けられていて、そのパワフルでエネルギッシュな雰囲気にグググッと引き込まれてしまうのだ。

 きっとそんな深い想いと強い思い入れがあるからこそ、忙しい合間をぬって榊英雄さんも舞台挨拶に登壇してくれたんだろうなあ、本当に急に決まった感じだったから、2日前くらいに打診されたって話してたし、それで来るんだから相当だよなあ、松田賢治さんも声をかけられたみたいだけれど多忙で来れず、それはちょっと残念。そんな榊さんはあの頃、すでにデビューはしていても売れっ子とはいえない状況だった中で、山にこもってずっと映画をとっていて、それもノーギャラで出演していて、合間には料理までするコックぶりを発揮していたくらいだったんだけれど、それを苦とも思わずやり抜いた結果が今につながっていると信じている様子。確かに今みても格好いいもんなあ、喋りも佇まいも。坂口拓さんについては嫌いとかいいつつ作品は好きだし交流もあるようだし、これでもしも2年後くらいに復活するなんてことになったら殴りに行くとか喋っていたからやっぱり繋がっているんだろう、いろいろと。ともあれ良かった「VERSUS」を、いつかまた映画館で観たいけれど、フィルムを上映してくれる劇場なんてあるのかな、あったら絶対に行くけどな。<BR>

【4月6日】 「コララインとボタンの魔女」の時は監督のヘンリー・セリックにインタビューもして、3DCG全盛の世間にあってストップモーションアニメーションは今だしっかり根付いている上に、最新のテクノロジーでもってよりスムースになめらかになっていることを訴えようとしたけれども、それと同じスタジオが作りあげた「パラノーマン ブライス・ホローの謎」は、もはやストップモーションといった技術かどうかなんて気付かないくらいに滑らかで、スムースな動きになっていて、知らない人が見ればピクサーなんかがやっているフル3DCGによるアニメーションのひとつかと思ったかもしれない。だったらいっそ3DCGで作れば良いんじゃないの、1つ1つ人形を動かしながら顔も付け替え表情を豊かにして撮影して、それをコンピュータで修正していくくらいなら、全部を最初っからCGで作ってしまった方がはるかに速くてそ、して完璧に動きを作り出せるんだって意見も生まれてきそう。

 たぶんそういうことでもあるんだろうけれど、ストップモーションでリアルを少しづつ動かし、カメラも移動させながら撮影してつなげた映像には、全部をコンピュータ上でコントロールして作り出した動きでは拾えない何かがきっとあるはず。それが見ている人に実写のような奥行き感とか広がりなんかを感じさせ、動いているキャラクターたちの生命感ってやつを醸し出させているのかもしれないし、違うかもしれない。今ならそうしたアナログ的なブレすらもデジタル上で表現できるのかもしれないし。そうした差異なり同じっぷりを感じるなら、「パラノーマン ブライス・ホローの謎」をまったく同じ者をフル3DCGで作ってもらって見比べるしかないからなあ、無理だろうけど。苦労して撮り溜めていったストップモーションだからこそ、ってな作り手の自己満足ではない観客が見て感じるだろう何か。その何かがあるから今なおこうしてストップモーションアニメーションが作られているんだと信じたい。

 しかしストーリーとしても切なくて優しい話だった「パラノーマン ブライス・ホローの謎」は、ヨーロッパだけでなく「セイラムの魔女」の話もあるようにアメリカでもあった魔女狩りの伝承を今に伝える田舎の町に暮らすノーマンって名の少年が、ゴーストを見れてしまう体質で家にはおばあちゃんがいて町を歩けばいろいろな幽霊立ちが立っていて、それにいちいち話しかけているから家族も学校の子供たちも誰もがノーマンを気味悪がる。もちろんノーマンには悪気はないんだけれど、そんな自分の体質を隠しておくには正直すぎてできなかった、そんなある日、ずっと魔女を抑えていたという大叔父の代わりに、自分が魔女を鎮める仕事を追うことになる。町でも恐れ疎まれている魔女を相手にしたそんな仕事をするようなノーマンは、日ごろの言動もあって恐れすら抱かれ始めていたけれど、それでも自分しか出来ないと頑張ろうとしていじめっ子によって邪魔されて、それによって町がパニックに陥ってしまう。

 自分たちには見えないけれど、恐れだけが伝わっているものに対して人は恐れを暴力にかえて外に向け、倒し虐げ封印しようとする。200年前にもあったそういうことがつまりは魔女狩りなんだけれど、敷衍してみれば今の世界も同じ人間たちであるにも関わらず、自分たちの理解が及ばない、あるいは理解したくない相手を悪魔だの魔女だのと呼んで恐れ、攻撃して殲滅しようとする。科学だ文化だといってもまるで代わらない人間の、そんな弱さと醜さをこうやって映画の中で改めて示してみせたところに意味があったこの映画。それでいて決して説教臭くなく、1人の自分を信じ、誰かを信じたいと思った少年の勇気ある行動によってすべてが明らかにされ、そしてすべてが終結へと向かうことによってほんのりとメッセージ的に示される。その展開は圧倒的にエンターテインメントしていて、コミカルなやりとりもあればスリル満点のアクションもあって、ちょっぴりのお色気なんかも散りばめられているから全然飽きない。人形なのにお尻がみんなセクシーなんだよなあ、女性たち。

 そして辿り着いたエンディングは、それでいったい救われるの? 本当にそれでいいの? って想いが相手への同情とともに浮かんでしまって、切なさが胸を焦がすけれどもそこで憤っては憎しみの連鎖は断ち切れない。理解し納得して心を静めたその先に、平和はもたらされて安寧が訪れ愛が育まれるのだと知る。そんなメッセージ性を持ってなおかつゾンビ映画のようなサスペンスがあって、コメディもあって楽しめる上に、ストップモーションアニメーションのひとつの到達点って技も見せてもらえる「パラノーマン ブライス・ホローの謎」は、誰もが見て置いて損がない1本。ご存じピクサーの「シュガーラッシュ」なんかも公開されているけれど、それにも劣らず勝るくらいの傑作なんじゃなかろーか。劇場も少なくなって来ているし、上映回数も絞られているけれども絶対に見よう、劇場で。泣くぞ。そして笑えるぞ。日本ならあの後に「やっぱり戻って来ちゃったテヘ」とかいって少年の家に転がり込んでは、時々強い霊能力を貸して一緒にゴーストバスターズみたいなことを始めるんだよなあ。そんな展開のTVシリーズもあれば見てみたいなあ、あの可愛そうな少女に幸せを感じてもらうためにも。うん。

 六本木のTOHOシネマズから原宿でオープンした「チャールズ&キース」の様子伺いを経て新宿へと回りとりあえずテアトル新宿でもって13日に始まる「AURA 魔竜院光牙最後の戦い」の舞台挨拶付き上映のチケットを確保する。2列目、っていっても来るのは監督の岸誠二さんと脚本の上江洲誠さんとあと音響監督の人というおっさんづくしで見目麗しい美少女声優さんもイケメン声優さんすらも並ばない舞台挨拶に、はたしてニーズがあるのかどうなのか、目下の所は不明だけれど僕としてはむしろうしたクリエイティブな仕事をした人たちが、どういう想いと技術を込めてその作品を仕立て上げたのかってところが知りたい気持ち。最後の最後で声を入れる声優さんはもちろん書かせないパーツだけれど絵を動かし物語を作るスタッフの方が圧倒的に作品に携わり貢献している訳だし、という風に自分を納得。

 でもその日は早朝から「宇宙戦艦ヤマト2199第五章 望郷の銀河間空間」の上映があって舞台挨拶も見たりブルーレイディスクを買ったりするから夜の「AURA」の上映まで立っていられるかが目下の課題。人気も上々なようで舞台挨拶のチケットはすでに売り切れ、やがて来週には当日の上映回の前売りなんかも始まって争奪戦も繰り広げられるんだろうけれど、幸いにして舞台挨拶付きの回のこちらも2列目なんかを確保はし、やっぱりおっさんばかりの出演者を眺めることになっていたりしてその回を無事に見通せるかどうかってあたりもやっぱり課題になって来そう。新見薫さんの柔らかそうで触れるとプニプニしてそうな腰回りとかふんだんに拝めたりする第五章だけにちゃんと起きて見たいんだよなあ、まあそれは頑張っていったん帰宅して夕方まで寝るってのもひとつの手か。頑張ろう。それまでの1週間をどうにかして乗り切ろう。

 セイバー背負ってKalafinaを東京ドームシティホールで見た。1階バルコニーC2扉あたりはステージにも遠くはなく正面に向かいやや左で見やすく音も良い。そしてずっと座っていられたのはおじさんに嬉しい。アリーナはスタンディングで大変だけれどそれは若者の特権って奴で。横に関係者席があって梶浦由記さんらしい人がいた。「空の境界」に「魔法少女まどか☆マギカ」に「Fate/Zero」と2000年代2010年代に話題となる作品に携わっているこの人を世間はもっとフィーチャーすべきではないだろうか。なのに新聞とかは違う人へと向かっていくんだよなあ、不思議。そしててライブはWakanaの声がよく出ていた響いてた。やっぱり巧いなあ。映画「まどマギ」に使われた「ひかりふる」とかもう素晴らしくって聞き惚れた。Hikaruの可愛い声も響いていたけどそのどっちとも合わせて全体を持ち上げつなぐKeikoが実は1番凄いんじゃないかという気も。

 三者三様にして三位一体という希有性。それがKalafina。CDも響くけどそのクオリティをバンドサウンドでやってしまうライブもやっぱり凄い、誰もが1度は行くべき、そして1度いけばもう2度3度と行きたくなる。それがKalafina。楽曲がいっぱいかかった最新のアルバムConsolationはまだあんまり聞き込んでなかったけれどどれも新しくて懐かしい感じでKalafinaらしさをぐっと引き出してた。これからじっくり聞き込もう。マミさんのテーマに歌をつけた「未来」はかかるとやっぱり盛り上がるね、マスケット銃の乱舞が目に見えるようだよ、心の中で「ティロフィナーレ」って叫んでるよ、うん。とうわけでまた行きたいKalafina。とりあえず中野サンプラザを頑張って行こう。

 牽強付会というかつまり言いたいことを言うために、あれやこれや材料を集めてきて無理矢理に繋げる文章なんかは読んでいて、腹の奥が見えて鬱陶しく思えて来るものなんだけれど、とある新聞1面の歴史あるコラムはそうした牽強付会や自家撞着といった言葉すらまだロジカルなものなんだと思えるくらいに、ひとつの言いたいことを言おうとして思い浮かんだイメージをそのままペタペタと張り付けるような感じで組み立てるから、もはや支離滅裂。まったくもってコラムの体を成していないんだけれどもそれでも堂々の1面を飾っていられるから、世の中はまったくもって平和というか、それでよく屋台骨が傾かないというか。いやきっと傾いているんだけれど、体もいっしょに傾いているから気がつかないだけなんだ、本当に倒れて地面に討たれて粉々になってしまうまで。参ったねえ。

 ということとはまるで関係ないんだけれど、とある1面コラムにあった「東京都町田市では、教育委員会が朝鮮学校生徒への防犯ブザー配布をやめたが、当たり前の話である。かの地出身の同胞は『差別はけしからん』と騒ぐ前に、胸に手を当ててよく考えてほしい。子供に罪はないが、悪夢の発生源をいまだに崇拝している親たちの責任は重大である」という文章。いやもう「差別はけしからん」としか言えないし、それよりこの国に暮らして税金だって納めているだろう人間の安全安心をどうしてそうも軽くみられるのかって想いしか浮かばない。アメリカの日系人が戦時中に受けた差別を非難なんて出来やしないし、ましてや対象は文字通りに「罪のない」子供たち。それを知ってて書いててそれでいて安全安心を取り上げる無情をして平気なメンタリティーが、怒りと憎しみの連鎖を生んでいつまでも終わらない諍いへと繋がる。断ち切らないといけないんだけれど、それだって悪いのは向こうだって知性も思索もない言葉で、突き放してそれが正義と悦にいるだけなんだろうなあ。未来は暗いなあ。粉々も近いかなあ。


【4月5日】 珍しく放送されたばかりで「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」を見た。今って2013年だよなあ。銀河美少年がアプリポワゼしながら得体の知れない敵と戦い勝ち抜いていった果てに地球とか救っちゃったりするような巨大ロボットアニメーションが作られ大受けしていたりする、そんな時代にあって地球を襲う緑り色だか青色だかしてはいてもやっぱり地球人と同じ異星人を相手にロボット5体が合体こそしないけれどフォーメーションを組んで戦うというストーリー。1970年代とまでは言わなくても1980年代にいっぱい作られては楽しませてくれた、そんなワクワク感が帰ってきたと言えば言えたりするし、今どき大丈夫かって気もしないでもなかったりするしと、いろいろ感情が浮かんでストレートにこれは最高って喝采を贈れなかったりする、そんな50歳近い大人が1人。

 散々っぱら攻められてもうこれは瀬戸際って時点で地球方面から援軍となる主人公たちを送り込めるっていう距離感からするなら、そこを落とされたらもう守れないどころかすぐさま攻め込んで来られて地球終わりじゃん感が強いし、それこそ出先の重要な基地をひとつ囲んで落とすくらいの戦力をあいてに才能があるとはいってもたったの5機のロボットが、出ていって戦術的にどうにかなっても戦略レベルで劣性をひっくり返せる訳ないんじゃないって感じもやっぱりあって、いろいろ思うところはあるんだけれども1970年代とか1980年代のロボットアニメにそんな思考はまるでなくって、攻めてこられたからやっつけるんだという単純さが、かえって毎回のスリルと興奮って奴を与えてくれた。そう思えばこれはそんなワクワク感の再来。リアルとか気にせず普通に攻め合いを楽しめば良いってことなんだろう、うん。

 平井久司さんの描くキャラクターではあっても過去の「ガンダムSEED」とか「ファフナー」の頃のせっぱ詰まった感じからややはずれてちょいコミカル入ったキャラで口とかヘの時になったりロの時になったりして見ていて楽しく、ヒタチ・イズルとアサギ・トシカズの間の差異もちゃんとあって見分けはついて誰がどんな性格か、そしてどういう風に戦うかってのもだんだんと見えてくるから迷わない。イリエ・タマキの背丈は低くても胸が巨大な感じは今はまだ掴めなかったけれどもいずれ明らかになるだろうし、その分はおやっさんと呼ばれている整備士長の西園寺レイカがガバッと開いた胸元にしっかりと深い谷間をのぞかせてくれるから成分的に十分以上。5機あるロボたちの整備班もそれぞれに特徴があって楽しそう。やや情報過多ではあるけれども、繰り返し見ながら噛みしめていけそう。どこにどう帰結するか。悲劇となかく愉快でスリリングなストーリーになるのか。楽しみながら見ていこう。

 せっかくだからと「フォトカノ」も見る。今って2013年だよなあ、何か1990年代の終わりごろから2000年に入ってからのギャルゲー原作なアニメーションが今に復活したって雰囲気がもわもわあって、そーゆーのが大好きだった身にはもう見ていて楽しく嬉しく恥ずかしくも好ましい感じ。なおかつ絵がしっかりしていてキャラクターたちも可愛いからこれは毎回ちゃんと見よう。下から撮るとか上から撮るとか隠れて撮るとかいったのが得意な部員がいっぱいの写真部を選んでしまって主人公、フォト部の彼女とか今までの知り合いとかにちゃんといい顔が出来るのかって思うけれどもそこはちゃんとしっかりそれぞれに、攻略していくことになるんだろう。個人的には生徒会長の眼鏡っ娘が一押しで、次が前髪枠のステルス少女なんだけれど前髪はサブキャラで同じ部員で攻略不可みたいだからここは生徒会長押しで、ってアニメだからメインヒロインは決まっているんだろうけれど。それとも傑作だったアニメ版「To Heart」みたくそれぞれにドラマを描いていってくれるかな。これも毎週しっかり見よう。

 何かいきなり平積みになっていたんで手に取ったらカバーの上にカバーがかかっていたのでめくったらおっさんが全裸で描かれていた。なるほどこれはこのままだと引く人もいたりするかもなあ、でも新刊ではちょっと珍しい帯風オーバーカバーをつけた作品は。という香月日輪さんの「全裸男と柴犬男」(講談社ホワイトハートX文庫、600円)は警察の生活安全課に勤務している智宏って名の刑事の部屋になぜか現れすぐ消えた全裸男。いったい何事、とは思ったものの気にせずに到着した所轄の警察署で呪われているらしい刀を手にした鑑識が暴れ回る事件が起こる。もっともお化けなんてまるで信じていない智宏は鑑識に普通に近寄り刀を真剣白刃取り、さあ抑えてと周囲を見渡すと誰も近寄って来なかった。どうやら相当に呪われた刀で見えない人でも毒気か何かにあてられ近寄れず、かといってさすまたのような機材も途中で曲がってしまって使えない。

 これであとは力が尽きて智宏が切り伏せられるだけ、って思ったところに現れたのが警視庁の本庁にあるらしい超常現象を専門にした遊撃捜査班。そこの面々がやって来ては悪霊を祓ってその場は収集。そして智宏は見えないことと度胸の良さを買われて遊撃捜査班へと引っ張られることになる。そこにいたのが何故か全裸で現れた京介という男。どうしてだ。という理由はあんまり語られないけれどもまあ、ひとつの運命だったことで。そして遊撃班を率いるオネエ言葉を操るけれども実はノンケでそして家族が警視庁のおえらいさんばかりというエリート一家に生まれた警視とか、顔がピースマークみたいな笑顔だけれども戦うとムエタイとか駆使して強い女性とかに囲まれホストが客を締めようとした事件なんかに駆り出され、ホストに執心していた女の起こした事件なんかを解決したりする。

 林トモアキさんの「レイセン」よりはリアルに近いところで妄念とか怨念とかが渦巻く心霊現象を扱っているのがひとつの特徴。出てくるキャラクターは破天荒で大らかで読んでいてとっても清々しいけれど、一方で起こる事件はなかなかに悲惨でホストの周辺では本当に何人も死んでいたりするし、京介が知り合いだったというドメスティックバイオレンスを受けている若い人妻にはとても悲しい運命が待ち受けている。軽い小説だったらそこを何とか避けて助かるようなストーリーに持っていくんだけれど警察とはいえ訴えられてこなければ動きようのない現実を踏まえ、そしてドメスティックバイオレンスに合う女性がどこか依存していて離れられない心理も踏まえて悲しいけれども現実にある結末を描き、その中に一筋の光明だけを残して悲しみと、切なさと少しの安心を与えようとしている。どうにかならなかったのか、という疑問はだから現実の世界でどうにかしようとする行動に変えるしかないんだろう。続くみたいでこれからの展開に期待。しかし金持ちと天才ばかりだなあ、そんな中で智宏はどう生きていく?

 しかし凄いな剛力彩芽さん「ビブリア古書堂の事件手帖」で違うんじゃないぷりを指摘されまくったと思ったら、今度は実写版の「黒執事」でもってシエル・ファントムハイブ的な役回りをあてがわれては世間からやっぱり違うんじゃないっぷりを言われまくっていたりして、それほどまでに次から次へと違うんじゃなさそうな役を任されるのか、あるいは任せて欲しいと行っているのか、そのマネジメントを担当している部署にストラテジーに関してちょっと聞いてみたくなって来た。いったいあなたたちは剛力さんをどうしたいのか、って。個人的には「ビブリア」の栞子さんは表紙のイメージをすっ飛ばせばあれはあれで良かったし、今度の役だってシエルそのものじゃなくって男装の令嬢みたいだから剛力さんにはピッタリ。ただ原作のイメージから遠く隔絶したところに放り出されて、それぞれに原作に多大なファンを持つ作品だったりする関係から異論を言われまくるのって辛いんじゃなかろーか。それをでもねじ伏せるだけのパワーを持っているからこその抜擢なのかもしれない。だから見続けるしかない、次にいったい何に挑戦するのかを。


【4月4日】 もちろんどういう流れの中で出た発言かっていう文脈が大事なことは理解しているけれども、直前より実際に会議を聞いていた人のツイートから「ノー・ギャラ」という言葉が聞かれていったい、何を言っているんだろうと誰もが訝っていたところに現れた会議の内容を伝える記事に、「民間議員で『AKB48』プロデューサーの秋元康氏は『日本中の優秀なクリエーターにひと肌脱いでもらうべきだ』と指摘。アニメや芸術の関係者に、ポスターやキャッチコピーづくりに無報酬での協力を求めるよう提案した」と書いてあって、クールジャパンという日本の文化や才能を世界に売り込み市場を広げようとする活動に、本気と書いてマジにノー・ギャラで人を駆り出そうとしているんだと分かってもちろん世間からは非難囂々。

 大阪のどこかの区だかでPRポスターのデザインにクリエーターをタダで使おうとして、クリエイティブを舐めているのかと非難を浴びて、引っ込めた事例をそのままま国のレベルで繰り返しただけのことだけれども、前はまあ貧乏な自治体が少ない予算をやりくりするなかで、一般の才能を世に出すお手伝いが出来ればっていった親切心の行き過ぎだったと、理解しようとして理解できないこともなかったのに対して今回は、それこそ何十億何百億といった予算をもらって日本の文化を世界に広め、日本という国を広報しそれらが産業として大きく成長していく可能性を作ろうとしている、いわば国策としての活動にそうした予算を切らず才能だけをタダ取りしようとしていたからもう質が違う。だから誰も擁護をしてないし、状況を斟酌して本意を探ろうとする動きも見られない。

 流れを読むなら例えば日本酒を例に挙げて海外へと展開する時に、日本の漫画やアニメやアートといった分野のトップクリエーターにポスターなんかを描いてもらうとか言ったって話も出ているけれど、それだってやっぱりプロフェッショナルを無料で使うことには変わりがない。というかクリエーターにとってまるで無関係な分野の称揚に、どうして無報酬で貢献しなきゃいけないんだって話の方が先に立つ。これが例えば自分たちの未来につながる分野だったら、今は堪え忍んでも未来を刈り取るという意味から低価格で仕事を請け負うことだってあるかもしれないけれど、それだって無報酬はありえない、だって海外から安くみられるから、無報酬で仕事をするアマチュアだと思われてしまうから。

 つまるところはクリエーターへの敬意ってものがそこに見られないから、囂々たる非難を浴びてしまうんだろう。なぜ無報酬なのかというロジックも見せず組み立てもせず、自分たちは国のお金や企業のお金をふんだんにつかって海外のイベントなんかに出ていったり、店を出したりしているのにどうして提言する時には、無報酬だなんって言ってしまうのかという矛盾にも、説明がないところが疑心を生んでいる。そこにいったいどういう思惑があったのか、預かり知らないけれどもやっぱり国が国として世界に向けて日本を発信していこうとする以上は、相応の予算をつけて相応のクリエーターを集め、相応の対価を払って相応の物を作ってもらうことが1番、適切で且つ効果も高いんじゃなかろーか。そうやって生まれたものには誰だって海外だって敬意を払い受け止める。一方で下の方からは昨今台頭してきたネットを使って無報酬というよりもいつかの報酬を目指したプロモーションとしてのコンテンツを、積極的に発信してもらう。そのために例えば著作権のパブリックドメイン化を推進していろいろと使いやすい環境を整えてあげるとかした方がよっぽど有意義なんだけれど、そういう話にはならないんだよなあ、お国って。

 会議では角川歴彦さんも何か喋っていたみたいでインドネシアとかシンガポールとかだっけ、そっちの方にオタクな教養を持った人たちを講師に迎えて学校とか作ったらどうかなんて話をしていたけれどもそういうシステムが良いかどうかはともかく、中国がやってる孔子学院みたいに日本のポップカルチャーなりをカリキュラムとして教える講座を世界の大学とか研究期間に日本の資金で寄付講座的に作っていくとかすれば今すぐにじゃないけれど、そこで学び触れた人たちの輪が広がり何らかの成果を生むって可能性は感じていたりする。親近感だけでもいいや。それこそハーバード大学オタク講座みたいたのを作って、日本の有力なオタクの人を講師に仕立てて月替わりでも良いしシーズンごとでもいいから講義をさせつつ、部屋を作ってそこに最新の日本のアニメだの漫画だのの作品を情報も含め提供していけば、ひとつの研究拠点となっていきそうな気もするけれど。やらないかなあ、サンデル教授の授業より人気でるんじゃないかなあ、きゃりーぱみゅぱみゅの原宿ファッション講座とか。

 クライマックスで飛び出した「お前が見ようとしない世界、俺が代わりに見せてやるよぉっ!」ってセリフは、それが巻を重ねて敵を圧倒する際の決まり文句となっていったあかつきに、「お前」の「お」と「世界」の「せ」と「代わり」の「か」をとって「おせか」と略されるようになるんだろうかと、そんなことを思ったり思わなかったり。つまりは土屋つかささんの「超粒子実験都市のフラウ Code‐1 #百万の結晶少女」(角川スニーカー文庫)は多分に「そげぶ」が決まり文句となっている作品の影を感じさせてしまうところがあって、科学の研究が盛んな学園都市ならぬ最先端の科学テクノロジーをふんだんに利用可能な先進都市を舞台にして、そこでレベル5ならぬ、高い異能を発揮してそれなりな地位を与えられている少女がいて、彼女が関心を寄せる能力的にはあまり高くないと見なされている少年がいて、そんな彼のところに10万8000冊を丸暗記はしていないけれど、最先端のテクノロジーによって作り出された一種のアンドロイドに似た少女が転がり込んできて起こる大騒動って構図からして、ひとつの既視感を抱かせてしまう。

 けどでも「フラッガーの方程式」ではないけれど、面白いという設定は常に過去から現在を経て未来へと受け継がれていくもので、そうした構図の上にいったい何を描くかといったところでまた差異は出せるということで「超粒子実験都市のフラウ」は人間ではない少女と、人間の少年との間に愛は成立するのかという命題が投げかけられてはその解答をこれから探っていくことになりそうで、何だって感情移入が可能な人間がロボットに愛を抱くことはフェティシズム的にあるとしても、感情を持たない計算の上で発言しているだろうロボットに愛という感情が芽ばえるかどうかという問題について、どういう応えが出されるのかにちょっと興味が及ぶ。あと粒子のようなもので出来ている少女の構造とか、アイドルなんだけれど科学者でもある女の子の双子の活躍とか、何より無能に見えてとんでもない異能を持っていた主人公の少年の正体とかにも。そのあたりを描き込んでいくことによって先達とは違う楽しさを、味わわせてくれそう。だから読んでいく、最後まで。

 なるほど「自ら信じる政策があれば、一度や二度の失敗にへこたれることなく、実現に向けて飽くなき挑戦をし続けてほしい」といった感じに安倍ちゃんの新しく官僚になった人たちへの訓辞を紹介している某紙の某人はつまり、ありもしない妄想を記事にして罵詈雑言を書き連ねたらそれが名誉毀損で訴えられ、当然のように裁判で完敗したとしてもそれは1つの失敗であって、決してへこたれないでこれからも安倍ちゃんを讃え続け、敵を罵倒し続ける覚悟を自ら示してみせたってことになるのかな。政策の失敗はトライしてのエラーだけれど名誉毀損の完敗はまったくもっての出鱈目が鉄槌を浴びたもので性質がまるで違うんだけれどそれでも失敗という言葉にまとめて過去に流して今を生きる。それだけ自ら信じる政策というよりこれは政治家への思いが強いってことなんだろうなあ。いやあ凄い。凄い。凄すぎてやってられねー。


【4月3日】 そうか、「ハヤテのごとくCuties」は来週からか放送開始か、今回はヒロインごとにルートがあるのか、どんなフラグが立とうとも最後はお嬢さまって分かっていてもやっぱり見ちゃうんだろうなあ、でもヒナギクさんには幸せになって欲しいからやっぱりナギは妹で、マリアさんはお姉さんってことでヒナギクルールを一直線で。でもって「戦勇。」は何か続くみたいで中途半端に終わってそれもヒメちゃんの中の人まで現れ、ルキちゃんとかは消えちゃってまるで放り投げ。でもまあ7月から第2期があるから良いか、内容忘れないためにもブルーレイは頑張って買おう、なんかこういう5分アニメって気楽でいいなあ、それでいて充実していて詰まって。ヤマカンさんが巧いのが原作が良いのか。次は「あいうら」かあ、これはこれで楽しみ、中村亮介監督どんな手管を見せてくれるか。

 1カ月ぶりくらいに玄関先から発掘された浅倉秋成さんの「フラッガーの方程式」(講談社BOX)を読み始めたら面白くって一気読み。何か得体の知れない科学者が作り出したというフラッガーシステムは誰かを主役にして深夜アニメーションとかライトノベルとかラブコメディの漫画のような経験を与えてくれるという装置。例えば道を歩けば誰かが走ってきてぶつかるわ、学園の生徒会長に目を付けられて婚約者を退ける代わりに恋人のふりをして欲しいと言われるわといった感じに次から次へとハッピーでラッキーな事態が訪れる。おっと見ず知らずの少女が父母のいない家に現れ自分をお兄ちゃんと呼んでずっと居座り続け、あまつさえ夜にこっそりベッドに入ってくるなんてこともあった。超ラッキー。

 けど騙されてはいけない。それでほだされればすべては終わってしまう。主人公の東條涼一が望んだのはクラスメートで特に目立ちもしなければ超絶美少女でも超絶お金持ちでもない佐藤さんという少女との恋仲。それをかなえるべくして村田静山などという妖しげな男が出して来たフラッガーシステムとやらのデバッグテストプレーヤーとなって自分の名前を登録し、1カ月間のフラグ立てまくり生活へと突入したものの前述のように待ち受けるフラグの罠、罠、罠。突然に佃煮屋なのになぜか売り出した「食べるラー油2」がまるでパクリなのに勝手な続編なのに売れ出して大金持ちになった少女に誘われ佃煮を似ていたというおっさんが急に執事になって涼一を羽交い締めにして家へと連れていかれてしまう。

 それをどうにかかわした後には、魔術を研究しているというボーイッシュな少女に無理矢理部員にされては内側からは開かない反対オートロックの部室に閉じこめられて魔術の特訓をさせられさらには別の魔術組織に狙われ突然に5階までが廃墟にされてしまった病院へとさらわれて行った先輩を助けに乗り込み、本当に繰り出された魔法を相手に戦い羽目となったりする。いったいどこまで世界を改変するんだフラッガーシステム。それでもどうにか村田静山を説得して名前が陳腐だからヒロインには向かないという静山に頼み込んで佐藤さんとのフラグ立てに勤しむ涼一。そこに落とし穴が待っていた。

 彼がデバッグテストに当たって1カ月後のエンディングに望んだのは感動。それは決してハッピーエンドとは限らない。何が起こる? それは読んでのお楽しみとして、決められたフラグはなるほど普通の小説で繰り出されては実にありきたりで陳腐なものに思えてくるけれど、こうしてメタ的な存在としてフラグを取り入れた時にはなるほど日常生活にはあり得ないくらいの無茶が繰り出されは、それをお約束として楽しむ気持ちをアニメファンもライトノベルファンも漫画のファンも持っているんだあと気付かされる。どうして受け入れられるのか、きっとそうなると分かっていても平気なのか。それがまさしくフラッガーシステムが浮かび上がらせたポイントってことになる。

 例えば、カレーライスは昔も美味しかったけれど今だって食べても美味しい訳で、そのカレーライスは同じかというとちょっとは違う、けれどもやっぱり美味しく食べられる。それと同じように同じメニューでレシピだて違わないのにちょっとしたスパイスの変化で何度でも何十年でも楽しめるというのはそのままアニメだとかライトノベルだとか漫画だとかにも当てはまる。同じように見えてちょっとは違って、けれども得られる感動は似ていて、だからといってつまらないとかありきたりではないという、そんな喜び。だから文句を言わず呆れもしないで楽しもうじゃないかってことを、「フラッガーの方程式」は教えてくれている、と思うんだけれどやっぱり大げさ過ぎる展開がやっぱり面白いんだよなあ、そんなエスカレーションの罠にハマっていると言えば言えるかも、学校に彼氏をとられたくないって文部科学大臣とか変えて学校を3時間にしてしまうなんて無茶も過ぎるだろうってば。まあいっか、面白いから。

 大気汚染で123万人が1年間で死んだとかゆー中国の話を聞くにつけ、やっぱり人口の多い国はスケールが違うぜって思ったものの日本の10倍と考えてそれから換算したらに御で10万人とかが大気汚染で死んでしまったって勘定になってこれは1960年代から70年代の公害がもっとも激しかった時にだってちょっとなかった数字なだけに、中国の状況の凄まじさってのがニワニワと伝わって来る。まあ白髪三千丈のお国柄だからちょっと大げさに言ってるんでしょって見方も出来ない訳じゃないけれど、ああいった国の不利になることは隠そうとするお国柄なあけあって、これもどちらかと言えば控えめな数字だと見るならもっとそれこ何百万人って単位で被害が出ていたって不思議はない。こうなるともうあの国だからって見下げたり揶揄したりするのを超えて人として、世界としてどうにかしなきゃいけないレベルになっているかも。別に市民は意図してああいった国に暮らして被害を受けている訳じゃない訳だし。かといって産業が絡み経済が絡んだ話だし、先進国では手が出せないかもしれないなあ。国連か。いや国連だって内政干渉になることは。どうしようもないってことか。難しい、世界って。

 政府の人の良識って奴を考えてここは絶対に長嶋茂雄さんに国民栄誉賞を与えたいけどそれではタイミングがってことで松井秀喜さんを紛れ込ませたんだと思ったんだけれど事は逆でまず松井さんの名前が挙がってそれなら長嶋さんもということになったらしいという話に吃驚仰天、なんと長嶋さんに失礼な話なんだと考える人も思わなかったんだろうかそうだとしたら二度吃驚。そもそもが松井さんの存在感はともかく日本人に希望だのといった部分で考えるんなら先人たちがとうに果たしていたりするし、成績面ではなるほどワールドシリーズでのMVPという“勲章”はあるけどチャンピオンリングだったら前に伊良部さんが獲得している、出場機会はなかったけれど。

 でもその後に井口高津田口松坂岡島といった面々が獲得していてそれほど珍しいってものではなくなった。唯一無二にして絶対といった格には遠いにもかかわらず、出したいと考えるスタート地点からボタンが掛け違い、それならと長嶋さんを引っ張り出して来たところで2度掛け違い。むしろ最初っから長嶋さんを祝したいとやった方が世界だって納得したんじゃなかろーか。結局はそんな手前の都合だけで動く政府ってことなのか、まあそうだろうなあ、TPPにしたって主権回復の日だって反対する見方なはずだった面々から挙がる声をまるで聞こうとしないんだから。そんな自己顕示欲の強い政府が向かう先には自惚れにあふれた総理大臣によって売られるこの国って寸法か。それを堂々と非難しないメディアもメディア、まとめて消えていってしまうんだろうなあ、遠からず。


【4月2日】 そうか誌名も変更かってあとがきめいたものを読んで思った「チェンジH peach」だけれどもトランスとか女装といったカテゴリーの漫画ばかりを集めつつそれぞれに主題やストーリーを持たせた作品を掲載しては単行本にまとめ商売に乗せたのはなかなかに偉いと讃えたい。だいたい買ってるし、って単にそーゆーのが好きなだけってこともあるけれど。んで「チェンジH peach」ではとりあえずお子様ランチという人の「転生少女」が絵柄的になかなか気に入った。普通に漫画を描いていけそうな人なんだけれどそれだけに描かれる少女は可愛くてグラマラス。繭に入って性徴を得る設定とかユニークだけれどそれでどうして主人公は少年から少女になってしまったのか、妄想したのが良くなかったのか、そんなあたり続きがあるなら読んでみたいし新作で描いてくれてもオッケー。次に始まる新雑誌とやらに載るかなあ。

 あと「チェンジH peach」ではやっぱり今村陽子さんのレトロな時代のトランス物が絵柄も可愛くって好きかなあ、着物ってそうかがに股で着ると足がむき出しになるのか、んで胸が縮んでしまった理由は? それも続きを。龍炎狼牙さんのは身に誰か男がはいって自分の体をいじくりまわすのを意識してしまている少女の話。男ってそうだよねそうなったら引っかき回すよね。佐野タカシさんの「女装子女 プリズン」は前も描いていた女尊男卑な世界観で虐げられる少年たちのストーリー。今度は学園じゃなく刑務所みたいなところでやっぱり女装させられ男性器がキュッと絞られるのに男子はおののき女子は嘲笑を向けるというMとSが入り混じった展開が面白い。吉富昭仁さん「バランスポリシー」は一夏の1日を長く描いているなあ、じわじわと来る。もっと読まれて欲しいなあ。

 噂らしいし伝聞らしいしエイプリルフールであってもやっぱり気になった東京都現代美術館の改修話。というか展示内容がクールジャパン絡みになるという話が途中から、現代美術館として閉館の後に展示替えといった話になっててそれを起点に閉館はなく、事実関係としてはどうやらしばらく改修のために休館するということになって、なんだ閉館はされないのかと安心している声も上がっているんだけれど、それこそいったんの休館ののちに都とかが望む形に改修して再オープンするという可能性を補完するもので、現代美術が脇に追いやられるかもしれないって可能性については完全否定はできないどころか、むしろそうなるかもしれないって気分の方が強くなってきた。

 そもそもがあんまり儲かっていないといった声が上がっていた施設で、けれどもまあ現代美術なんて印象派だのピカソだのルネッサンスだのといった客を呼べる見せ物とは違っていて、儲けなんかを考えたら扱うのがそもそも無理。とはいえそうやって今を伝え、記録し歴史の上に将来のルネッサンスかもしれず印象派かもしれずシュールレアリズムかもしれないものを刻んでいかなければ、貴族や金持ちがパトロンとなってそうした美術を保護し育成して来た昔みたいに誰かがパトロンにならなければ、現代美術なんてものは時のキッチュな現象として消費され雲散霧消してしまう。

 それをだから公設の美術館なんてやる必要があるのかといったところは議論の分かれるところだけれど、1国に匹敵する予算規模を持った東洋一の都市という矜持があるならそこにひとつの投資をしてみるのも悪くはない。その意味もあっての東京都現代美術館の開設だったんだろうけれどもやっぱり理解は及ばず儲からなさを腹に据えかねた石原慎太郎都知事が樋口広太郎さんやら氏家齊一郎さんを館長に据えて一般受けする展示を行うようにした、その結果が氏家さんと関わりの深いスタジオジブリが中心となってのアニメーション絡みの展示でこれがまたスタジオジブリの看板もあって多いに賑わい、なんだこれなら客が入るんじゃないかと上の方にも世間にも思わせてしまった。そりゃあ入るさポップカルチャーなんだから。興行なんだから。

 もちろんそうした現在のポップを過去の浮世絵だのといったポップと並べて日本を代表するカルチャーと位置づけ、収集して保管して展示し歴史に刻んでいく作業は必要で、それを東京都現代美術館が業務のひとつとして行ってくれるんだったらこんなに嬉しいことはない。ただ、その一方で現代美術というカテゴリーも同じように人気を評価軸によって選んだり斬り捨てられたりするのはどこか、文化としての片輪を失っているような気もしないでもない。あるいはまったくの杞憂に過ぎず、東京都美術館みたいに改装の結果、とても居心地の良い空間になってくれるということも考えられるけれども現時点においてもそれほど、改修する必要性が見込めない新しい建物を、この時期にわざわざ改修する意味を考えた時に浮かぶ可能性としての内容変更。その結果起こる取捨選択にはちょっと気をつけていきたいもの。どうなるかなあ。

 百合なのはまるで気にならないけれども紺野キタさんの「女の子の設計図」(新書館)、表題作では離婚した母親と父親のそれぞれに連れられ別れていた年子の姉妹が姉の方で父親に再婚相手ができて居づらくなったってことで、母親の方へと移ってそこで妹とも一緒に暮らすことになったんだけれどその妹が女の子然とした姉とは正反対に長身でボーイッシュ。並ぶとまるで男女のような組み合わせの間柄で、最初は時々は会っていてもしばらくぶりの同居に距離感がつかめずギクシャクしているだけかと思ったら、その間に再開の喜びを越えた感情が通い始めてこれはちょっと不思議な話かもって思わせる。しばらくぶりの再開とはいえ他人ではない姉と妹とのそういう関係って、実際に起こり得るものなのか、あるとしたらやっぱり離れて育ったこととタイプに違いがあることが大きいのか。いろいろと考えてしまったし、今もちょっと考えている。どっちにしても法的な幸せは望めないけど心身が幸せになれば良いってことで。

 他の作品では見知らぬ少女のそれも先輩が自分の中に男の子が産まれて出会った少女に恋してしまったといったボーイ・イン・ガール・ミーツ・ガールな話があってこれはなかなかにありそうな展開。自分がそうだど気付く瞬間ってのが彼女にも訪れたってことで。ただそれが恒久的な感情なのか、ビジュアルや仕草に絆されて浮かんだ幻想なのかはちょっと判断がつかないけれど。あと多分これは自殺してしまった少女をいじめていただろう少女のところに死んだ少女が現れるというか、あるいは悔恨が幻想を見せているというか、そんな不思議なシチュエーションの中で対話が繰り広げられる話が好きという感情を素直に良い洗わせられない関係の儚さってものを感じさせる。多分にあるストレートな百合とは違って心情をえぐり内奥を見せるような作品が多いのが特徴か。寄宿舎物の「ひみつの階段」もそういう意味では健全な百合ではあったけれどもこういう、ドロドロとした話もそういえば得意だったんだよなあ、紺野さん。なかなかな1冊。

 やってられないだろうなあ、あそこん家の人たちは。だってありもしない話を脳内で練り上げた挙げ句に批判のための批判というか罵倒のための罵詈雑言を繰り出した挙げ句に事実無根と指摘され、調べればそうだと分かってはいそうでしたすいませんと謝れば収まったところを、頭も下げずにいたら今度は訴えられてそれでも退かずにいたら案の定の完敗。それも当然な話なんだけれど、そうやって言論としての価値を著しく貶めたにも関わらずいまだその言論を繰り出しては、やっぱり似たような罵詈雑言を前と変わらぬ立場で繰り出されては、真っ当に真面目な言論を繰り出している人たちにとって迷惑なことこの上ないんじゃなかろーか、一緒くたにされるというか、それで船まで沈んでしまったら一蓮托生な訳だし。もちろん悪口雑言でも、そこに根拠があるなら乱暴で下品だとはいえ言論のひとつではあって、好悪はあっても認めるに吝かではないけれど、直前に根拠もない虚偽を繰り出し完敗した口がそれをやっちゃあ拙いし、やらせる側もあんまり良くない。にも関わらずそうなってしまう不思議。世界は謎に満ちている。


【4月1日】 別にエイプリルフールでもなく「イクシオンサーガDT」はマリアンデールの玉が移動してエレクの元へといってそれで万事丸く収まるというエンディング。中身はマリアンデールの遺伝子を受けた精子が詰まってんじゃないのって思ったりもしたけれど、あれって血液が変化してそうなるものだからやがてエレクの方が勝ってだんだんと、そっちの遺伝子を持っていたものに切り替わっていくと考えていいのかな、そもそも現実世界で移植が可能か分からないけれど、ブラックジャックならやってのけるかも。

 でもって姫に殴られほっぺたをひっぱたかれても現代へと戻った紺はそれが夢だったのかと思おうとしたら触れた頬にその跡があって、すべて現実だったと気付く。それが彼の運命を前向きなものへと引っ張ったかというと、どうもそのまま10年を過ぎてDTのまま、再び異世界へと招かれ成長しきった姫と再会して戦いに身を投じる、ような話もあったりしたようななかったような。まあエイプリルフールだし。君は生き延びることができるか。なんて凄い声の人を使ったなあ、最後までその意味ではゴージャスにコミカルだった。ああ面白かった。

 んでもってエイプリルフールのネタはあんまりあちらこちら探して見はしなかったけれど、流れてきた静岡県がサイレントでヒルな県となってしまったのには笑った笑った。たしかに映画の新しいのが日本での公開を控えていて話題性という意味ではあったけれど、それをひっかけて県がまるまるタイアップしてしまうってのはユニークであり目新しい。根がホラーな話なだけにこうやって明るいところで話題をもらって映画への興味をもってもらえれば、公開の曉には大勢が映画館へと足を運んでそこでレッドピラミッドに切り刻まれ、バルーンナースに脳天かち割られる悪夢を見るくらいに怯えるんだ。ああ愉快。けどいったいどういう映画になるんだろう。前の実写版は見たけどあれも結構怖かった。今度のもやっぱり怖いかな。ナースはCGでもエロいかな。

 その資格があるかどうかではなく、今のトピックとして長嶋茂雄さんに国民栄誉賞を与えるというのははっきりって唐突で、例えばアテネ五輪を率いようとして率いきれなかった頃に与えたんだったとしたらひとつ、節目にもなったかもしれないけれどもその後に続く病気による第一線からの引退に、タイミングを失ってしまってあとは亡くなってからといったことでしか、国民栄誉賞を与えるタイミングはないような気がしていた。そこに松井秀喜さんへの国民栄誉賞を引っ張り出すことで、恩師ともいうべき野球人の長嶋さんに堂々の国民栄誉賞を出せるようになり、且つ長嶋さんを挙げることで日米のリーグで活躍した松井さんにも賞を出すことができるという、相互が関わり合っての合わせ技みたいな一件だって言えそうな今回の国民栄誉賞騒動。

 なるほど松井選手だったらむしろ大リーグに挑戦しては123勝を挙げてノーヒットノーランも2度達成、日本球界の希望のみならずストライキで沈滞していた大リーグの人気復活の起点にもなった野茂英雄さんこそ国民栄誉賞に相応しいと言えば言え、そこに野茂選手を育てイチロー選手までをも育て上げた仰木彬さんも加えるべきだって、誰もが訴えたくなるのも仕方がない話で、「松井にやるの? 野茂でしょ!」と何かのCMみたいに叫んだ人も数も相当数に登りそうだけれどもそこはそれ、誰かにあげたい誰にあげよう長嶋さんが良いけれども唐突だから引退したばかりでタイミングも合う松井さんも乗せて2人に栄誉賞なら良いんじゃね的思索の結果だから野茂さん仰木さんが入り込む隙はなかったってことで。

 そう思うと実に不思議な国民栄誉賞。もらって嬉しいだろうけど、与えて嬉しいだろうけれども見て喜ばしいかってところで悩みも招くかな。しかしこうやって国民栄誉賞が騒ぎになる度に手塚治虫さんにどーして国民栄誉賞が与えられなかったんだろうと思うこと仕切り。昭和を代表する漫画家であり世界にその名を知られる漫画家であり多くの後進を世に送り出して日本を漫画大国にしてさらにアニメーション立国にもした立て役者なのに、そうした賞をは無縁のまま1989年2月9日に世を去った。まあでもその頃は昭和天皇が薨去されてから1カ月ちょっとで流石に国民栄誉賞だと騒ぎ浮かれる気分にはならなかったんだろうなあ。

 そうこうしているうちに世の中も落ち着き今上天皇の登場もあって明るくなって来た時に、亡くなった美空ひばりさんを讃えて国民栄誉賞が与えられ、さらに国民を多いに盛り上げた大相撲の横綱、千代の富士関に国民栄誉賞が与えられたのは流れとしては不思議はない。ちょうど谷間にあって見逃されてしまったような気もする手塚さん。決して漫画が国民栄誉賞に相応しいとは思われていなかったんだとは思いたくない。かといってこれも今さら出せないしなあ、国民の日として「手塚治虫の日」を作るしかないよなあ、誕生日は文化の日だから亡くなった日とか、アトムの誕生日とか。2003年4月7日か。もうすぐ10歳だ。

 せっかくだからと「とある科学の超電磁砲S」の第1話の試写をのぞいたら佐天さんが相変わらずに初春のスカートをめくってた。そういや昨日のアニメコンテンツエキスポでも流れてたプロモーション映像にそんなシーンが映ってたっけ。気付いてなかったんだめくられてたのを初春は。そして展開はやっぱり格好いいお姉さまな御坂美琴だけれども、同じ常盤台中学に通うレベル5が絡んできてはいろいろとありそう。一方で一方通行ほかのレベル5も出てきそうだし原作にいたかどうかなキャラもいっぱい出てきそう。本編にはない展開を本編の外伝的に楽しめるのがこのシリーズの特徴なら、今回はより新鮮な気分を味わえそう。期待大。まあ東京MXなんで見られないんだけどね。なんかそんなんばっかだな。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る