縮刷版2013年1月下旬号


【1月31日】 「ヤングキングアワーズ」の2013年3月号、伊藤明弘さんによる「ジオブリーダーズ」のピンナップは箏井さんか、厚生省の衛生二課で入江の下に入ってしつこく生き延びている口数が少ない美女。どんな技を持っているって訳じゃないけど撃たれず倒れないままだった。あの乱戦の後もまだ入江の下にいるのかなあ、そして「神楽綜合警備」で生き残った田波の物語に絡んでくるのかなあ、というか続きは書かれる予定があるんだろうか。「月刊サンデーGX」で新連載が始まり漫画は描けるところまで回復しているようだから、あとはその気とそして体調か。読みたいよなあ、あの後を、そしてこれからを。「天にひびき」はひびきの胸の薄さを改めて確認、でも指揮できて嬉しそう。そういう者なのかなあ、指揮者って生き物は。

 ドタバタドタバタと未だ天地無用に鳴動中らしい柔道の女子日本代表監督問題。1月30日の時点で全日本柔道連盟の側に監督を辞めさせようとする気がさらさらなく、「蹴ったりしたことは深く反省している。未熟さゆえのこと」って上浦春樹会長が、監督の言葉を伝えそれを擁護するようなコメントをしていたけれども、その段階で浮かぶ奇妙さ加減。だってナショナルチームの監督だよ、国を代表する選手の上に立つ人間だよ、それが「未熟者」だなんてあり得ないでしょう、なおかつそうトップが明言しておいてさらに留任させるなんて考えられないでしょう。まるで常識からかけ離れている言辞を弄して、それが問題だってまるで気付かないところに、この問題のどうしようもなさって奴が垣間見えた。指摘されるまでそれが当然だって思っていたんだという。

 いやいや、決してそうではなくって、全柔連の事務局にはフランスで柔道コーチのライセンスを取得した人もいて、フランスがどれだけ厳密で厳格にそのライセンスを管理し柔道に相応しい人材を国家資格として送り出しているかが語られているから、内部的にはちゃんと分かってはいるんだろう、分かっている人に限っては。それによると、フランスでナショナルチームの監督になるのには、1級2級3級とあるライセンスの1番大変な3級が必要で、そして選ばれたナショナルコーチには国家公務員としての身分が与えられるという。これはフランスの女子チームでコーチを務めて帰国した溝口紀子さんってバルセロナ五輪の銀メダリストの人も話していたことで、しっかりした身分の上でしっかりした指導が出きる人を選んでいる。逸脱すれば当然のように排除される。だから信頼されて選手を預けられる。そんな仕組みが下の方まででき上がって、フランスを一大柔道大国へと押し上げた。

 翻って日本にはそんな免許制度って奴もなければライセンス制度って奴もずっとなかった。ただ講道館の段位があるくらいだけれど、別に黒帯を持っていたからて、そして五輪でメダルをとったからって選手を教えるのが上手いとは限らないし、フィジカルやメンタルのことについて詳しくて、そこから選手の能力を最大限に引き出す技に長けているって訳でもない。さらに言うなら監督は国家公務員でなく全柔連の職員でもないようで、どこか学校なり団体なりに所属しながら乞われてコーチをやっていたりする、って感じになっている。これでは何を基準に選ばれたかなんて分からない。情実か。才能か。才能だったらすでに出ているひとつの結果で判断されてしかるべきだったのに、そうはならず続投に至ったこでそこに何か情にまつわるものが見えて、それが選手達の不審につながった、なんて可能性も浮かんでくる。

 30日の時点で何の迷いもなく、それが当然といった面もちで留任を言ったのも、そんな情実でつながった関係を土台に培われた、あの世界ならではの常識って奴があったからなんだろうけれど、それは世間の常識というかむしろ世界のスタンダードからは大きく逸脱していたようで、外国からの特派員によって世界に打電されては、日本の女子柔道のトップコーチはバイオレンスな野郎だハラキリだとかった文字が海外のメディアに踊ることになった。柔道発祥の国でありながらこの体たらくは、世界に対して日本の前近代的で反スポーツ的な風潮をさらけ出してしまった。のみならず、2020年のオリンピック招致を目論む東京都とかJOCにとっても、大きな逆風って奴を食らわせることになった。困っただろうなあ猪瀬知事。

 そうした空気を感じ取ればすでに30日の段階で、何らかの方向性を示して収拾を図るはずなのに、そうではなく1日遅れてやっと当人が辞意を固め進退伺いを出したといった辺りに、ことの重大さを把握できていない雲上人っぷりが見て取れる。進退伺いってあたりもどこか客観的過ぎるかもしれないけれどもまあ、それがサラリーマン社会的な段取りだからしかたないとしておくか。ともあれこれで監督は交代といった方向に流れて次にいったいどうなるか、って辺りが注目だけれどこれほどまでに常態化した体罰の空気を浴びて育った人しかいない日本にいったい、次を受ける人材がいるのか、監督に限らず他の男性のコーチたちも含めて戒告処分を受けたってことは、もはやトップ全体がそうした風潮に“汚染”されているってことで、そうした人材を排除すれば今度は、今の段階でトップコーチに選ばれるだけの技量が足りていない可能性もあったりするから難しい。

人命軽視は我が社のモットー、あーらよっと。  こうなったらもう日本ではなく海外から、トップコーチを招いて海外流に合理性を尊んだコーチングをしてもらうしかないのかなあ、でもフランスから誰か覇権されてくるだろうか、フィリップ・トゥルシェとか、ってそれはサッカーだ。いやトゥルシェはあれでモチベーションを高めること、新しい選手を育成すること、そして選手をマスコミから守ることにかけては一流だかったから、分野こそ違え監督として置いておく分には案外に役立つかも。たたないか。あるいは柔道が得意と言われるロシアのプーチン大統領か。お金持ってそうだしなあ。頼めば喜んでやってくれおすだよなあ。彼なら体罰も不必要。そんなものふるわなくっても、その眼光に誰もがやろうって気になるし。やらないとリトビネンコかポリトコフスカヤにされちゃうし。って誰だそれ、いや誰というか……怖くて言えません。

 せっかくだからとパシフィコ横浜で始まった「CP+」ってカメラの展示会を見物したけど期待していたPENTAXの高級コンパクトデジカメ「MX−1」はとくに発表がなかった。最近はデジタル一眼をかついで歩くのが億劫で、ずとキヤノンの「G10」を持ち歩いてたりするんだけれどもフォーカスが遅くてときどき撮影に手間取ることがある。「G15」にアップグレードする手もあるけどPENTAX使いとしては何かやっぱり同じブランドで揃えたい気もあって発売されるかどうなのか、そして裏側の可変式モニターの出っ張り具合は我慢できるのかを確かめたかった。まあそれはないみたいなんでむしろ今は「PENTAX Q10 エヴァンゲリオンモデル」の方に関心か。

 いろいろな色を組み合わせられるQ10をさらにエヴァカラーで飾った品で初号機零号機弐号機バージョンがそろってる、ってもいずれも「新世紀エヴァンゲリオン」って感じで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」って感じじゃない、だって綾波が白いし。ただどこか色を重ねてもオモチャっぽさが漂っていたQ10にあって、これはこれでエヴァのカラーリングをしっかりと細部まで写し取っているようでなかなかに良さげ。全体のまとまり具合では綾波タイプが白に青アクセントなんかが入っていい感じだけれど、アスカ好きとしてはやっぱり弐号機バージョンに行きたいところ。こちらもこちらであの橙色をしっかりと取り入れていて持つとバカシンジガキシンジって叫びたくなる。レンズキャップも眼帯にしたくなる。いやそれはないけどでも悪くない。ただなあ、プラグスーツのレイやアスカが持てば似合うこれらも普通のおっさんが持つと派手なトイカメラに見えてしまうんだよなあ、やっぱり。それでもグッズとして買い求めるか否か。ちょっと考えよう、ヤマト2199の革ジャンも欲しいし。


【1月30日】 やっとというかようやくというか、「週刊少年サンデー」で連載されててなかなに面白い福田宏さんの漫画「常住戦場!!ムシブギョー」がいよいよアニメーション化ということで、蟲たちが跋扈する架空の江戸を舞台にして地方から上がってきた少年が、蟲退治のプロフェッショナルたちに混じって最初はやっとやっとだったけれど、だんだんと力を付けて成長していくってストーリーが今時あんまりなかったりするストレートな格好良さって奴を感じさせてくれた漫画だけに、テレビアニメ化されてもきっと少年少女の関心を誘って燃え上がるんじゃなかろーか。でも「ハヤテのごとく!」にしたって「めだかボックス」にしたって週刊少年漫画誌に連載されていても深夜とかってなってしまうからなあ、これはどういう扱いだろう、午後7時、コナン的盛り上がり、だったら期待したいんだけれど、さてはて。

 分裂の時の経緯とか、傍目には見ていてもそこにどういう思惑があったのか今となっては(当時もだけれど)知る由もないから、一部の女流棋士が当時の日本将棋連盟とそして米長邦雄会長に、何を言われどういう思いで分派へ至ったのかも分からない。ただ、出ると思われていた一部の女流棋士がそのまま日本将棋連盟に引き留められたか踏みとどまったかして残り、それまでどおりの女流棋士として活動を続けていくことになったあたりのゴタゴタとした感じから、当時の日本将棋連盟が女流という決していわゆる奨励会から4段に上がって認められたプロ棋士ではなく、女流というカテゴリーの中でプロと認定された人たちに求める立ち位置ってのが、それとはなしに感じられてだからこそ、一部の女流がそれを嫌って飛び出したんだろうなあという想像はついた。

 根底にはだから、日本将棋連盟を頂点とする日本の将棋界が、プロ棋士と呼ばれる人たちによって作られ運営されていることがあって、そのプロ棋士とはつまり認められたステップを踏んでプロになった人たちということがすべてであって、それ以外の例えば女流という制度の中でプロを名乗っている人たちは、厳密な意味でのプロ棋士ではなく従って日本将棋連盟にとっては半ば埒外の存在、運営に関わるような立場にもないといった判断が働くのも、システム的には無理もない。そうなりたければ正規の手続きを踏んでプロになれば良いだけのことだから、って言われて真っ向、反論できるだけの言葉はないだろう、だってとりあえず男性であろうと女性であろうと奨励会への、そしてプロ棋士への道は開かれているんだから。

 ただ現実問題として、女性のプロ棋士というのは未だかつて誕生していないし、これからすぐに誕生するといった気配もない。明らかに男性ばかりの中に入って女性が戦うことに物理的なハンディがあるといったら、体力に自身のない男性にも逆に体力の有り余っている女性にも失礼になるからちょっと言えない。何時間もの間だまって戦っているだけに見える将棋のどこにアスリートのような体力の差異が現れるのか、といった質問に答えるのも難しい、まあ現実にはそういったハンディはあるんだけれど、それを言っては始まらない。ただ心理的には、男性ばかりの中にあって戦う女流は結構厳しい。練習量でも差が出そうでそういった積み重ねが男性に比して女性が戦いづらい環境を生みだしていると言えるのかもしれない。なら囲碁は、ってなるけれどもあちらはあちらで歴史の中から女流を育て送り出して来た結果が、今の一定数のプロ棋士と同等の女流棋士を持つに至っているから。

 じゃあどうして将棋はそうならないの? ってなるとそれは将棋の事情なんだろう。あるいは矜持か。それともプライドか。それなのにどうして女流棋士という仕組みを日本将棋連盟の中に持っているかといえば、それは女流棋士という存在が持つ世間に対するアピールの力がありまた、体力等を考えないなら棋力に劣らない人たちも結構いるという現実から、女流棋士という存在を完全に排除できないといったところがあるんだろう。でもプロ棋士ではないこの宙ぶらりん感が、何というかジグジグとしこった挙げ句に、日本将棋連盟では面倒を見きれないといった話から分裂して、自前でどうにかしろとなり、一方で全部抜けられては女性へのアピールに困るといった話もあって、残される人もいたりといった状況が、生まれ分裂へと至ったのかどうなのか。その辺りはまあ想像。

 そして平行して走り始めた日本将棋連盟の女流棋士と日本女子プロ棋士協会(LPSA)の女流プロ棋士だった訳だけれども、それぞれから棋士が出て棋戦に参加していただけの状況だったらまだ良かったんだけれど、ここでLPSA側が認めた女流プロ棋士を、果たして“総意”として従来通りの女流棋士と同様に扱うべきか否かってところで齟齬が出たのが、今回のLPSA側による「マイナビ女子オープン」への参加拒否へとつながっていってしまった様子。ここで日本将棋連盟の側がそういう女流もプロと認めますよと折れれば収まったとも言えるし、スポンサーにもなっているマイナビがそういう女流の参加も認めましょうとなればやっぱり収まったのかもしれない。そういうことがマイナビに可能なのかはわからないけれど、だってマイナビって日本将棋連盟といっしょになって「週刊将棋」とか出していたりするから。

 とはいえ、誰をプロと判断するかはもっとも重要な問題で、そのあたりを事前によく話し合って、囲碁の日本棋院と関西棋院の関係のように、段位を相互に認め合うような環境を、作っておけばよかったのに、どうもその辺りの話し合いをすっ飛ばし、LPSAが自分たちの権利であり自治といった言葉でもって、突っ走ってしまったって印象。独立する団体としてそれは当然と自認しているのかもしれないけれど、どこからも認められない資格を資格と言ったところで通用しないのは世の常。国家資格とかではなくても歴史を背景にした段位を、そほど年月も経っていない団体が認めたから全員認めろといっても、なかなか通用しないものなあ。だったら戦って勝負をつけろ、ってなるのが武道の世界だろうし、囲碁の世界でも確かそうやってすりあわせを経て今がある。文部科学省が認めたのは将棋の普及に勤しむ団体としての活動であって、その段位にお墨付きを与えた訳じゃない。そこを分かっているのかどうなのか。なんか微妙。

 可愛そうなのはそうした狭間にあって、LPSAに棋力を認められて女流プロ棋士となった人が、とりあえずの棋士として活躍する場をなくしてしまったってことで、それなら日本将棋連盟の女流育成会に行けばいいじゃないか、ってなるとそれもまた筋がズレた話になってややこしい。このもつれた状況を解きほぐすには、やっぱりLPSAが認める女流プロ棋士と、日本将棋連盟から来る女流棋士との関係が相互に認められるようになるか、あるいは、日本将棋連盟が分裂状態を収拾してひとつにまとまった女流棋士の存在を認め、プロ棋士とまではいかなくても存在と地位を認めて普及促進に努める覚悟を決めるか、まあいろいろ思い浮かぶけれども、それらが容易ではないからこんな問題が起こって騒がれるんだろう。どうにかうまい道はないものか。これで景気が良ければLPSAオッケーって感じにスポンサーもついて、独立リーグ的なものを運営していけるようになるんだろうけれど。難しいなあ。ずっと難しそうだなあ。

 まず矜持を問うなら礼に始まり礼に終わる武道の世界に生きるものであってなおかつことさらに礼節が重んじられる柔道家であり、さらに言うなら法令の遵守をそれこそ私生活に至るまで求められる警察官という立場にあるのなら、教え子たちに暴力を奮い、暴行を働き、それでいて結果を出せず、奮った暴力を教え子達から告発され、それも1度ならず2度も方向を変えて訴えられたにも関わらず、粛々として割れ関せずといった顔でその地位に留まろうとすることは、とてもじゃないけど恥ずかしくって情けなくってできるものではない。それこそ柔道に詫び、武道に詫び、警察に詫びる気持ちで水道橋の講道館と、九段下の日本武道館と、そして桜田門の警視庁の前でその首たたき落とされても甘んじて受けるくらいの心境に、至ってしかるべきなのに、どうにも当人にはそうした意識があるのかないのか、反省して戒告処分を受けて終わりとしたいらしい。

 あるいは当人にはその気があっても、その彼を支え惨敗でもその地位に留まらせた上役の人たちが、自らの失態を突っ込まれ足を引っ張られることを嫌に考え、部下の失態をなかったことにはできないものの、軽度のことですまそうと計ったのかもしれない。でもそんなことは世間には関係ないし、知った話でもない。失態をしでかしたものが自省せず、他も共に自省を見せずに諾々とその状況を保とうとしていることにもはや世間は何の同意も示せないだろう。そもそもが告発という手段を経て至ったこの状況で、告発した者とされた者が同じ場で切磋琢磨なんかできるはずがない。片方は怨みを抱き片方は恐怖を抱いた関係がより強くなってぶつかりあうだけだろう。ならば喧嘩両成敗といくかというと、それは一方的に権力でもって虐げられて来た側に理不尽。江戸時代の上意は斬首でもあるまいし、それが事実なら改めるべきを改め救うべきを救うのが人間として大人として当たり前の対応なのに、それができない全日本柔道連盟に明日はあるか? 大変だなあ、柔道も将棋も。

 ふと気がつくと完売だの出荷まで数週間だのといった情報が流れ込んできたんであわてて近所に出かけて映画「グスコーブドリの伝記」のブルーレイディスク初回限定版を確保、まあ大手町あたりでこれを買う人なんてそうはいないしなあ、その意味では助かる、ただアニメが全部入るって訳じゃないから難しいけれど、「コードギアス 忘国のアキト」は入ってなかったし、「図書館戦争」の劇場版はまだあるなあ、これはいつか拾おう。中身はまだ見てないけどブックレットにはカットにされた震災前に描かれた絵コンテなんかもあるそうで、それを見ればあのスーッと終わったエンディングとは違うスペクタクルからのカタルシスって奴も確かめられたりするのかな。でも映画がああなってああ終わったからこそ来る余韻ってのもあるからこれはこれでひとつの結末なんだと思うことにしよう。震災がそれを招いたというのは悲しいことだけれど。震災を経て紡がれたひとつの心の形をそこに見てそして踏み出すのだ、僕たちは、前で、明日へ。


【1月29日】 えっともう中学生なんだっけ、というか見た目は高校生みたいにスタイリッシュになってたザ・チルドレンだったけれども戦い終わって兵部京介に跳ね返された3人が3人ともわんわんと泣き出して皆本にすがりついた辺りは小学生からずっといっしょに戦っては苦楽を共にした間柄って感じ。いいなあ皆本。一方で兵部はリミッターすら外したザ・チルドレンを相手に軽く捻ってしまうくらいのパワーを出していたけどそれっていつまで続くんだろう、歳も歳な訳で。時を止めているから出きる技でもああも使えばいつかは使い切るんじゃなかろーか。そんな「THE UNLIMITED 兵部京介」は運んできた船に何か秘密がありそうだけれどそれは何なんだろう。そんな展開とスパイの活動で楽しめそう。しかし加納紅葉は良い胸してるなあ。蕾見不二子も爆乳だなあ。そっちをもっと見せて欲しいなあ。

 上野にある国立西洋美術館が古くなったからといって、そこにあるロダンだのルノワールだのセザンヌだのといった収蔵蔵品ともども、竹橋にある国立近代美術館へと統合なんてするはずもなければできるはずもない。現実的には近代美術館にはそんなスペースがもうないけれど、たとえ竹橋を背後の北の丸公園も含めて大々的に再開発してスペースを確保したからといって、国立西洋美術館には国立西洋美術館として過去に集めてきた所蔵品もあれば、松方正義さんから寄贈された松方コレクションもあってそれらを収集して保存し展示していく目的が、あの場所とそこで働く人たちにはある。

 一方で、近代美術館には日本の近代を中心として西洋も含めた19世紀から20世紀21世紀へと連なる美術を収蔵し展示しながら企画も行っていく使命がある。そんな人たちにいきなり印象派だのそれ以前のルネサンスだのゴシックだのといった絵画や美術を理解し運用していけって言ったって出きるはずがない。させてはいけない。大阪市の橋下徹市長が、天王寺にある大阪市立美術館を古くなったからといって閉鎖して、そこの収蔵品ともどもまるっと抜いて、新しく中之島に作ろうとしている大阪市立近代美術館に統合させようというのはつまり、そんな傍若無人を押し通そうってこと。でも。

 同じ“美術”って名前がついていたって、中身も違えば質だってことなるものをまとめて収蔵し分類して展示し発展させていくなんてことができるはずがない。やってもいけない。物理的強権的にやれば出きるかもしれないけれど、そこに降ってかかるだろう同じ“美術”だという名目の下での合理化によって、失われる人材、散逸する作品も出てくるだろう。だって中之島の近代美術館とやらに市立美術館の収蔵品を全部もっていくなんてことは無理だろうから。それとも建物は残してそこを倉庫として使う? だったら補強して補修して従来通り美術館として使った方が建物も生きるし、観に来る人だって喜ぶ。行ったことはないけれど、窺い知るあの空間のかけがえのなさはとてつもないらしいし。

 むしろパリのルーヴル美術館のように、古い建物を補修をしつつ、新しいガラスのピラミッドのようなモニュメント的なものを作って活性化を図るのが行政の手腕って奴なのに、古ければ壊せ重複しているならまとめろってのは、合理化の名を借りたただの暴力に過ぎない、というかそれによって得られた大阪市という場所への安心感なり信頼感なりがまるっと損なわれて失われることで、とてつもない未来への損失を生むかもしれない。年度末決算で帳尻さえあってれいばそれで良いだなんて企業みたいな会計を行政がやるのが妥当なのかどうなのか。遠く100年のビジョンを抱いて町作りって奴をどうしてできないのか。結局のところ合理化であり統合といった言葉によって生まれる、何かやってますぜ的なアピールが、ただ欲しいだけなんだろう。中身なんてどうせ誰も気にしてないんだから。

 美術館巡りが好きな人間としては大坂も天王寺は余りにも遠くって、市立美術館にも実は足を運んだことがない。逆に中之島には世界的に貴重な東洋陶磁美術館があって通りがかると寄って油滴天目茶碗とか眺めて古きを楽しんでいたりする。あの近くに美術館博物館が固まれば回るに至便、上野みたいに一気にいろいろ見られて便利かもって思うけれどもそれでもやっぱりあの70年80年の伝統を持って収蔵と運営をして来たという大阪市立美術館を閉鎖し統合するのは空間を維持し未来につなげるという意味でももったいない。というよりこれはタリバンによるバーミヤンの石窟破壊にひとしい行為だって言っても良い。

 例えば東京都庭園美術館が古くなったからって東京都があそこを閉鎖し収蔵品を写した上で建物を壊すかというとそれはあり得ない、だって建物自体が貴重なんだから。東京都はほかに東京都美術館を持っていて東京都現代美術家を持っていて東京都写真美術館もあって江戸東京博物館だってあるけれど、それぞれがそれぞれに立場を持って役目を果たしている。そういうものだよ。同じ“美術”だの“博物”だのといった言葉にまとめられないんだよ、人間の営みによって積み重ねられてきた歴史ってのは。大阪市立美術館だって同じ。あの年代のあの空気感を保ったまま今に至るあのパッケージこそがひとつの財産であり、美術なんだから、残し維持させることで更なる価値を生み出すんじゃなかろうか。それを気にせず瞬間の判断、それも自分の利になりそうなことだと進める神経が国に行ったら、もうそこらじゅうから伝統は剥がされ合理化の名の下に弾圧されることになるんだろう。おやどこかの国で起こったことみたいだ、たしか文化大革命とか言ったっけ。

 パンダは白と黒がはっきりしているからパンダかというとそうでもないのは、上野動物園に見に行けばすぐ分かる。もう白と黒とが土で入り混じって境目なんかはっきりせず、おあけにサラリーマンより矜持がない姿で寝そべっているから土にまみれて汚れがついて、全体が灰色がかって見える。でもパンダはパンダ。その価値が揺らぐことはない。むしろ明確にしろと黒とがはっきりとしたパンダの方が、どこか妖しげに賢しらに見えてしまう。曖昧さこそ生命であり存在。生きているという実体をそこに感じさせるのだ。ってことと森田季節さんの新刊「ウタカイ」(一迅社)とどういう関係があるかというと、単に物語の中にパンダを見に行ってそこに灰色のパンダを見る描写があるって程度のことなんだけれど、そのパンダの白黒つけられない曖昧さこそが恋なんだ、って教えてくれてもるからまんざら無関係でもないのかも。

 そんな「ウタカイ」は歌を詠むとそれが具現化して相手を襲い自分を守る力となってぶつかり合うという一種の異能バトル。歌聖高校って名前の学校に通う高校1年生の登尾伊勢はそんなウタカイでも屈指の力を持った歌人で、学内では最大のライバルともいえる先輩の朝良木鏡霞を相手に最初は勝利し、次も勝利してセンバツ大会へと進む権利を手に入れる。とはいえ伊勢と鏡霞は単に先輩後輩とう訳ではなくって恋人同士。なおかつどちらも女子。ってことはすなわち百合なんだけれどそうした2人の間に通う愛と恋の気持ちが歌で交わされる中から、純粋に立場も省みずただひたすらに恋心をぶつける伊勢の歌の「力」ってものが見えてくる。もちろん鏡霞もそうした恋心を詠むんだけれどどこか先輩であり聡明なだけあってそこにロジックが混じるのか、ストレートな愛を詠う伊勢にかなわないところがあって、それが歌人としての鏡霞のプライドをちょっぴりぐらつかせる。

 全国大会に進んだ伊勢が強敵を相手に恋とか友情とかを詠んでぶつけて勝利を重ねていくのにも、鏡霞は喜ぶ一方でそうした恋情が他の人に向けられるおとに嫉妬心を抱く。白黒つけられない灰色の気持ち。それがだからパンダのような曖昧で割り切れない心ってものなんだろう。恋ってままならないなあ。そんな恋情のストーリーの一方で、相手する歌人たちがそれぞれに眠りを誘ったり自然体で挑んできたり暗さに引きずり込もうとしたりと多種多彩でなかなかな異能バトルっぷり。そうした能力を現す歌もちゃんと詠まれていて読むとたしかにそんな気持ちにさせられる。全部書いたのかなあ、森田季節さんが。言葉が力をもって相手を倒し倒されるという異能バトル展開はSFだし、恋心を歌で読んでぶつけあう様は純文学。そうしたジャンルに親しい人なら読んで損はなくむしろ喜べるはずなんだけれど、届かないんだろうなあ、百合で「百合姫」連載だし。勿体ないけどでも読んで欲しいなあ。


【1月28日】 というか僕等の世代は8歳9歳といった年齢で「週刊少年マガジン」の「バイオレンスジャック」を読んで、そこに描かれた「人犬」というキャラクターの驚愕し仰天した経験を経ている訳で、それが美少女になった会田誠さんの「犬」シリーズを観ても、まず浮かんだのは「ああ人犬ね」っていったもの。そこに立脚してあの永井豪さんの漫画が持っていたグロテスクさや残酷を、会田誠さんは雪月花のモチーフの中にマイルドに表現して、ビジュアル的なグロテスクさを踏み越えて浮かぶ愛おしさって奴を感じさせ、観る側の嗜虐的な気持ちとか支配欲なんかを喚起させては、それに気付かせ慄然とさせる作品として、まさに芸術の芸術たるポジションへと置き換えていた。巧いなあと思った。

 そんな「犬」のシリーズは18歳未満は、入場禁止の部屋に入れて隔離してあるし、そもそもが絵なので実在の誰かがどうにかされたという意味合いでの児童ポルノには当たらない。あと写真の作品もあるけれども、これはモデルがコスプレ声ちゃんという昔むかしロフトプラスワンにいたりして、そこでDVDも出してたりするタレントの人でなおかつ撮影されたのも20歳を越えていた頃のはずだから、猥褻図画か否かといった判断にはかかりそうだけれど、それも18歳未満は入場禁止という制限の下に置かれたもので、やっぱり法律がどうこうできるものではない。巨大フジ隊員とキングギドラの絵も同様。それはそもそもモチーフが児童ではなく、そして児童が観られる環境にもない。

 だからそういう方面からの攻撃には、存分に耐えうる展示をしっかりと選んである「会田誠展:天才でごめんなさい」でありながら、そこに何が置かれているかだけで判断して決めつける団体にかかれば、公共の場に相応しくないものといった言葉で糾弾される。そもそも森美術館は公立公設の美術館じゃなくって、森ビル株式会社が持っていて運営している施設。そこに入るのはそれを観たいという意志をもった人たちであって、何を観るかはその人が決定していたりする。観たくなければ観なければ良いというだけのものに、どうして公衆にさらされているようなものとして非難を浴びせるのか。その前提がまず間違っている。観て不愉快になる人がいるというのなら、それはあらゆる表現について言えること。美形が歩いていてもそうでない人には不愉快に思えるし、長身が出ていたらやっぱりそうでない人には辛く思える。でもそれをいちいち咎め立てる人はいない。

 そういう一般論からかけ離れたところに、手足を切られた少女たちを描いた「犬」のシリーズとかがあったりするという見解は、確かにそうかもしれないけれどもそうした表現を個人が行い、私設の場でもってスポンサーも付けず個人サポーターや法人サポーターの勧進によって運営されている展覧会な訳で、それをどうして外部が非難できよう。もはや場への非難を超えた表現への非難であって、そしてそうした表現への非難は表現の自由が認められたこの国においては通らない。もちろん描いた側にそうした物を描く人間だという意識が向けられれば、当人にはそれを引き受ける責任はあるけだろうけれど、その責任だって自分が意図して描いたものだから引き受けるてはみるけれども、だからといって止める気も引っ込める気もないと言えばそれまで。後に続く議論はない。

 海外ではどうだなんって言ったところでここは国内。その基準は通らない。あるいはイスラムでは仏像とかいった宗教的偶像物が禁止されているからといって、どこのお寺に仏像を飾るなと言えるのか。もしも会田誠さんが海外に本格的に雄飛して、森美術館に展示した作品を引っさげ全世界を回った時にどういう反応が起こるのか、それとも起こらないかを観ればその作品が、どういう意味合いを持ったものななのかも分かるだろう。自分たちが嫌だから展示されるのは嫌なんだという、そんな曖昧で漠然としたロジックをぶつけて揺らぐような作品ではないし、作家でもない。何しろ天才なんだから。それでごめんなさいなんだから。まあアートと猥褻の関係なんて今に始まった訳じゃなく、散々っぱら言われていることであって蒸し返されるのも面倒くさいけれども、そうやって言われるたびにロジックを重ね認められていくだけだろう会田誠さん。次はどんなものを見せてくれるかな。

 3人と1匹が3人と1匹も偶然に懐に漫画とかメダルとか鉄パッドとかバッジとか入れているはずないんじゃんか、というのも野暮な「イクシオンサーガDT」は飛行艇に乗ってお輿入れ先を目指す姫を狙って暗殺の魔手が伸びたものの対話を通して今は活かしておくべきだってなった模様であっさり退散。とはいえその前に当人としては同行者たちを全部抹殺していたと思ったはずでそれで1人だけ姫を残すってのも残酷と言えば残酷な所業だよなあ。あるいは案外と死んでないと思ったとか。血とか出てなければ反対側にも弾が抜けた様子はないし。暗殺者なら見て死んだかどうか分かるはずなのにそうでないのはそうだと分かって進んでいったということにしておこうかこの際。やがてたどり着くその場所から紺はどこに向かうのか。そもそも彼は何のためにこの世界へと連れてこられたのか。そんな当たりが残り2カ月で明らかにされていくのかな。見ていこうズルズルと。

 木所マネージャーだった。亀山助清さん、という名前に始めてお目に掛かってその声を聞いたのは、「魔法の天使クリィミーマミ」に登場する木所マネージャーという役でのことで、画面に出てくる気弱そうなキャラクターそのままの声音で綾瀬めぐみの叱咤におどおどとし、森沢優が変身したマミを業界の先達として引っ張っていったマネージャーを演じて見事にそのビジュアルとボイスとを一致させてくれたっけ。亀山で助清という名前もまたどことなく、飄々としてふわふわとした雰囲気を演じるに相応しいものだった。すべてが一体となった特殊で特別な声優さん。他に代わりなどなくずっとずっとその声で活躍していってくれる声優さん。だったはずなのに病魔は誰彼と選ばず襲いかかる。死去。58歳。若すぎる。「宇宙船レッド・ドワーフ号」ではクライテンというロボットの声を演じてやはり気弱で自己主張がなく優しい雰囲気をもったキャラを見せてくれたっけ。それもまたピッタリだった。それだけに惜しい。惜しまれる。けれどもどうしようもない運命に、憤りつつ今は忍び悼んで送りたい。合掌。

 結論から言うなら男装した美少女が恋愛詐欺を働いて少女を悲しませては火の中へと飛び込ませる残酷な話、って取って取れなくもない部分がるけれどもそこは人間と人形の、相容れぬ恋ならいつか辿った破局の道。恋に惹かれつつ離別する苦しみよりも恋に破れて身を投げ出す方が相手にも良かったんじゃないかって思うことにしたら、追い込んだ彼女も救われただろうか、なんてことを思ったエドワード・スミスさんによる新シリーズ「紳堂助教授の帝都怪異考」(メディアワークス文庫)。最初こそ帝大に勤務しつつ探偵のまねごとをしている助教授が魔神を操ったり鬼を斬ったりするのを脇で少年の助手が見守りノートに記録している話にだったけれども後半から、助教授があんまり活躍しなくなってもっぱらアキヲが媚薬を飲んでドギマギしたり、美少女にあってドギマギするような話になっている。推理なり怪異の探求なりは脇。まあそこで来そうと先達も多いんでここはアキヲってキャラの個性とその冒険を軸に描いていくのが見ていて楽しいかもしれないなあ。何せアキヲは……。しかしホント、罪作りな奴だよ。


【1月27日】 ようやくやっと見た今年に入ってからの「絶園のテンペスト」は逃げても逃げても人が金属になって死に絶えていく世紀末的な展開と、それから始まりの樹と絶園の樹との間でめぐらされる理(ことわり)の、いったいどっちに乗って世界は動いているのかを、推測しつつ繰り広げられる破綻と間隙を探すような言葉のやりとりばかりで、逆転に次ぐ逆転の面白さはあっても、見ていて披露もなかなかなものだった前半から一変。エヴァンジェリン山本といっしょのおせちを食べたり、彼女に振られてそれをどうにかしたいっていう思いだけで、強大な魔法を使おうと考えている弱気な少年が真広に蹴り飛ばされりするコメディタッチになっていて、息詰まる展開に張っていた肩の力もすっと抜けた。

 戻ってきた葉風は葉風で吉野を相手にラブコメディ。根が音質育ちのお嬢さまでそれが命を失う危険というか、すでに1度失っていたものを取り戻すことができた感謝を恋心に横滑りさせつつ、それを意識しないでポッポと体温を燃やしていたのをふらりやってきた潤一郎からストレートに指摘され、さあいったいこれからどうなるかと思ったところに鋭い指摘。彼女がいる吉野に惚れるってことはその彼女を殺すことになるよ、って。でもその彼女とは愛華な訳でそれはすでに死んでいて、だからいくら葉風が想ったところではじまりの樹の理は動かない。

 あるいは過去に遡ってそれを発動させた結果がこの恋心となり成就へと導く? だとすればはじまりの理は過去すらも変えるってことになるけれど、それなら最初っから愛華なんて世に生み出さずに吉野と葉風が出会い恋する世界を用意する。ああでもそれだと吉野に葉風が惚れないか。そもそも愛華を殺したとされる絶園の魔法使いが新しく現れた気弱な少年ではなく吉野かもって話もあるし、その吉野が愛華を殺すはずもないって矛盾をいったいどこに開いて解きほぐすのか。そんな興味も津々だけれどやっぱり難しい話はなしにして、コメディタッチで進んでいって欲しいもの。あの真広にシスコンとはよく言った。夏村も哲馬おエヴァンジェリン山本も感動してたなあ、そんなに怖かったのか彼らと彼女にとっても真広って。

 とくに変化はないものの動くとヤバいかもという予想はついたんでひたすらに籠もって家で寝続ける。途中目覚めて「スマイル! プリキュア」の最終回を見たけどなんか全然笑ってなくって延々と泣き続けていたような。それでも最後は何か力が発動して地球に迫るアクシズを……じゃなかった巨大な何かを押し返したようでそれで地球も救われ一安心。謎の小動物とは別れて悲しかったけれどもまた出会えて良かったねえ、これで再びプリキュアとなって中学高校大学と闘い続ける5人であったという、そんなオチもあったりするのあ違うのか。毎回横滑りしていくワールドだからちょっと分からない。いやオールスターズってあるしつながった世界で幾十人ものプリキュアたちが溢れかえっているのかもしれにあ。また新しく加わるし。今度は4人? 3人? 「ONE PIECE」はニコ・ロビンのバストが大きかった。ナミさんはお腹冷えないんだろうか。

 なんという魔球ぶりというか。まあ当人的にはいつもの巡航速度で営業中ってことなんだけれど傍目にはやぱり異様に捻れた見解だとちゃんと映っていろいろと言われているスィート&ビターな新聞コラム。だってねえ、あの例の会見に現れて先生は悪くないですってかばった運動部のキャプテン8人の言説に対して「それくらいしないと治る見込みがない重症ならともかく、少なくとも会見に現れた生徒たちを見た限り、まっすぐに育っている」って書いちゃってるんだよ。あの会見で誰もが思ったのは、人ひとり、それも自分たちの隣にいた仲間が死んでいるのに、その責任の所在がどこにあったかを考えず、考えても触れないようにして、自分たちが見逃していた慚愧も、原因となった体罰をふるった顧問たちへの憤りや疑問も、どうして抱こうとしていないのかってこと。まっすぐに育っているならまず考える。彼はどうして死ななくてはならなかったのか。自分たちは彼を救えなかったのか。自分たちは正しかったのか。それがないのに真っ直ぐとはいったい、どこの世界の真っ直ぐだ、体育会系的師弟関係における上意下達的世界での真っ直ぐか、矢印が下を向いて絶対に上へとは向かわない。

 「間に『仕掛け人』がいて生徒は言わされただけでは、と嫌な感じもしたが、それは誤解だった。関係者に聞くと学校を介さず生徒たちから会見を申し入れたとか」って書いているけど、申し入れは生徒でも、その生徒を会見の場へと送り出す存在はなかったのかどうか。そんな辺りには触れていない。学校は介さなくても別にとりまとめて段取りを教えることは可能だし。まあそれはどうでもいいことで、学校が介在していようといまいと、というか介在していないからこそなおのこと、言動としての責任意識、贖罪意識の見栄なさって奴が気に掛かる。これが“体罰”とう名の“恐怖”によって支配され、その隙間に優しさという“餌”を投げ与えられて懐柔された人間の見せる、従順で没個性的な姿だとしたらなおのこと、コラムでは憤って誹り非難すべきなのに、まるっと味方についている。結局のところ大人は、従順で口答えせず殴ればいうことを聞く子供が大好きなんだってことだ。

 それは同じメディアグループの、これも巡航速度がライティー過ぎる爺さんのコラムにも言えることで、前に国に憤り切腹した少年を讃えるコラムを垂れ流してはひんしゅくをかったその筆が、今度は体罰オッケー、1発殴れば言うことを聞かせられるぜイエイッ! ってな感じの言説を垂れ流しては、周りを唖然呆然とさせている。体に傷の付く体罰はもってのほかとか言っているけど、良いかよく聞け、体罰の恐ろしさってのはは体に痛みを与えることだけじゃない、心恐怖をあたえることなんだ、だからそれが1発で体に傷がつこうとつくまいと関係ないんだ。心に負った傷はそとからは見えないけれど、それは確実に人間の暮らしを左右する。良い方向に働くことだってあるかもしれない。でも悪い方向に進むことだってある。そんな時に責任をとれるのか、体罰を加えた方も、それを言説でもって推奨した人間も。

 暴論覚悟、炎上上等とばかりに暴力的な言説を垂れ流す人間だっていてもいい、でもそれは少なくとも言論機関に所属する人間がやっていいことではない、だってその言説がもたらす結果に責任なんてとれないんだから。精神とか教育とかに専門の教育を受けた訳でもない人間が、過去に受けてきた経験を踏まえて喋ったところでそれは個人の思い込みに過ぎない訳で、それを言論機関という場にいることを利用して、振りまいて果たして真っ当なのかどうなのか。そこを抑え諌めるべき存在がないことも問題なんだけれどもまあ、そうした問題は現実に問題化して経営の首をジリジリと絞め始めているからなあ。困ったなあ。いや僕が困ることでもないんだけれど、おや僕も困ることになるのか。うーん。ともあれ、現場が生徒の犯行にいっさい抵抗できないという“嘘”だけは撤回すること。正当防衛は認められるし警察沙汰にだってなっているんだから。それとも時代劇のドラマ的誇張を“嘘”と言い切る“野暮”は平気でも、自分の“嘘”は認めない? 武士だねえ、揶揄的な意味での。

 親ばかというより孫娘ばかな銀河第一武侠の仕業がここまで及んでいるとは八針来夏さんの「覇道鋼鉄テッカイオー3」(集英社スーパーダッシュ文庫)。体がだんだんと冒されていく少女の病を抑えるために童貞しか使えない童子神功とやらを無理矢理マスターさせられた上に、ルゥランって少女を思う心までをも植え付けられたカザン少年が、それでも今の少女への気持ちは本心からでたものだと想うに至りつつ、少女の病を治す方法を求めて銀河を旅するストーリーにようやく光明が。少女を直す方法を教えてくれる場所があってそこへと向かうことになったんだけれど、そこに現れたのがカザンの義姉。カザンを愛しく思う気持ちが彼を歪めた銀河第一武侠への怒りとなり、そしてルゥランへの憤りとなって拳を向けようとしたその時、本心ではルゥランと愛し、それと同じようにミザカ姉も愛しているはずのカザンの心を、ただ一身にルゥランだけの無事を想い、仇なす存在は排除しようとするどす黒さで塗りつぶす。

 なんとまあ恐ろしい銀河第一武侠のその技よ。かといって絶対的な強さを誇る銀河第一武侠を追いつめることなんて出来ない現状で、どうやってカザンの“乱心”を抑えるかが課題としてつきつけられてルゥランたちを迷わせる。そこに寄せられたカザンの気持ち。読んで爆発するルゥラン。そして叫ぶ。「かかって来んかい童貞野郎!」。まあそこまで過激な言葉ではないけれども、そう言われたに等しいカザンくんは後できっと落ち込んだころだろうなあ。本当なだけに。でも結局のところルゥランの病を根治させる方法は見つからず、対症療法的なそれは大勢の命に関わってくるから使用不能。だって大勢の気を吸い取り寿命100年分を得ようってものなんだから。だからといって治療法が皆無って訳ではないから、それを探して旅は続き、そして銀河第一武侠の伸びる指先をかわすなり、挑むなりする展開が待っているんだろう。その時2人はどうなる? 完結まで付き合うぞ。


【1月26日】 目も覚めたんで幕張メッセで開かれている「次世代ワールドホビーフェア」へ。もう10年以上通っているけれども品を変えながらも子供の玩具への興味って奴は衰えるところを見せないというか。最初に行った頃に子供だった来場者はもう中学生とか高校生とか下手すりゃ大学生になっているんだろうけれど、そうした人たちが卒業したって玩具の世界は続き、そこに向けて玩具メーカーや出版社やゲーム会社の企画開発は続く。終わりを見せない戦いに勝ったところだけが伸びていく、そんな勝負にある意味で勝ち続けている任天堂ってのはやっぱり凄い会社だよなあ、「ポケットモンスター」の1発がやっぱり強すぎるってことで。あと「ドラえもん」もちゃんと人気。そんな中に割って入った「イナズマイレブン」と「ダンボール戦記」のレベルファイブはだからやっぱり凄いんだ。どこまで引っ張れるかその凄さ。

 ざっと観た印象では混雑していたのはコナミデジタルエンタテインメントの「オレカバトル」とかいうカードゲームか何かでアーケード向けのカードゲームを中心にいろいろ展開しているみたい。それなのか別の「ドラゴンコレクション」の方なのか、カードが何かがもらえるってんで行列がホールの奥に長く長く伸びていた。午前10時前でそれだからきっと午後前あたりはすさまじい行列になっていたかも。「遊戯王デュエルモンスターズ」だって決して衰えてはいない中で次から次へといろいろと出す。安定しているなあ。気になったのはバンダイが出すという「ウォーターファイト」という品で何でも手にした銃でもって撃って楽しむシューティングとか。いったい何を撃つのか、ってもうバレバレだ、ウォーターだ。詰まりは水鉄砲なんだけれどスタイルを挙げゲーム制を整えることによって関心を誘おうという目論見。ヨーヨーにベーゴマにビー玉が玩具になるんだから水鉄砲だってゴム鉄砲だって紙飛行機だって玩具になる。そんな繰り返しからヒットが生まれる、かもしれない。しかしどうなんだろ。

 今度は綾波レイの顔かたちを持った何かが描かれたポストカードがもらえるってんで、ユナイテッドシネマ豊洲へと回って「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を観賞、そんなに広くないスクリーンだったから最前列でも見上げる感じで視野に収まって全体を浴びるように観ることができた。ここ良いかも。期間中に時間が合ったらまた行こう。まあ9回目だか10回目になるから今さら言うこともないんだけれどもやっぱりアスカ可愛い。あとマリあんまり役に立ってない。宇宙では撃っても援護にならず途中で抜けるし、ブンダーでも綾波の乗った零号機を撃ったら首が飛んだのに生きていた。セントラルドグマの底でも何か撃ち込んだらそれが十三号機に吸い込まれていくという始末。いったい何のためにいるんだか。そこはビジュアル要員ってことで。アスカじゃ足りないところをちゃんと補ってくれているし。でも次はいっぱい観たいなあ。おっぱいじゃないぞ、いっぱいだ。

 これだけ何度も見てようやくブンダーの中での人員の座っている位置なんかを把握、長良スミレってそうかミサトたちがいる指揮所の真正面に一度って舵取りをしていただなあ、右に寄ったところに立っていたかと思った。ヤマトの艦橋で島がいる場所なんか別にセンターじゃないし。そしてよく見ると席が1つ空いていた。誰かあとで座るんだろうか、それが座ってブンダーはさらなりパワーを発揮するんだろうか。いやしかしあれだけ人間がいて誰が何をしているのか分からないというのも。長良スミレは操艦って分かるし大塚明夫さん演じる高雄コウジは機関関係を見ているって分かる。徳川機関長みたいな。じゃあその後ろで「ゥエーーーッ!」って叫んでる北上ミドリは何やってるんだろう、索適? じゃあ青葉シゲルは? 戦闘指揮? 日向マコトは? ミサトさんのスカートの中を見上げてる? ズボンだから見えません。多摩ヒデキはさらに分からないよなあ、声はするけど具体的なところは何なんだろう。あるいはあれだけいる人間のエナジーパワーが吸い取られて動かされているのかも、ブンダー。次はもうちょっと誰が何しているか確認しながら見よう。まだ見るのか?

 青山にあるギャラリーの「GoFa」で「彼女のカレラ」の麻宮騎亜さんが「麻宮騎亜 原画展 2013 The favorite world−CARS」って展覧会をやっていると聞き銀座を経て遠征、ご当人もおられるような雰囲気の中をズラリと並んだ「彼女のカレラ」の表紙絵を1枚1枚眺めながらこの頃は麗菜もまだ新米のポルシェ乗りで言動も何もかも初々しかったなあ、とかぱるこ先生だこの人厳しそうで結構人情もあって良い人なんだなあ、なんてことを思い出しふり返りながら眺めてちょっぴり感涙にむせぶ。何か妙な紙面改革によって紙上での連載が終わって電子化されてしまったのみならず、そこからも除外されてしまうという憂き目にあいながらもこうして原画展が開かれ、それを支持する人がいっぱい集まってくる現実が、編集って現場の目指す意識とファンなりクリエーターなりの思いとの間に生まれつつある乖離って奴を思わせる。

 まあ編集は編集で以前のような感覚でもってマスな市場をを狙っていたんだろうけど、漫画にとってそういう時代でもないんだろう、「週刊プレイボーイ」って誌上においてアイドル目当てでやって来る人にフックのある漫画ではなかったってすれ違いも、あるいはそこでの盛り上がりに欠けてしまう状況を生み出したのかも知れない。前と違って「週刊プレイボーイ」の読者が車に関心が高いって思えないし。でも漫画単体で見たら結構な人気でだから単行本も売れていた。なのに連載を打ち切られるという仕打ちは、そこがネットという個別のタイトルを個別で展開しやすい媒体であったこともあって、ちょっと違和感を覚えた。本当に求めるファンと、それに応えるクリエーターが結びつくことができる環境が整っている今ななから、別に他の連載と齟齬があっても、続ければ良いんじゃないか、って思ったけれど、そこが感覚の違いだったんだろう。とはいえファンはファンとしていいて、だからこうやって原画展が開かれて、大勢が訪れる。嬉しいことに連載の再開も果たされそうで、そうやってファンと作品を結びつけていく動きがあちらこちらでお降りながら、出版の“革命”は進んでいくんだろう。どうなるか。連載の行方も含めて楽しみ。

 夜になったので朝日新聞社の小原篤記者が書いた「1面トップはロボットアニメ 小原篤のアニマゲ丼」(日本評論社)の刊行記念トークショーに行く。当初あんまり人が入らないんじゃないのかって思われていたら当日になって絶大な効果を発揮する情報源があって一気に人が増えた模様で見渡すと知り合いも幾人かいながらまるで知らない勉強したくて来たような人もいて真剣にメモをとっていた。真面目だなあ。勉強して朝日新聞に入ってアニメの記事をガンガンと書くようになってくれたまえ。でも小原さんの後継者が育っているかというとこれだけアニメだ漫画だクールジャパンだと騒がれながら手を上げてやりたがっている人が他にあんまりいなさそうなのは何だろう、そういう人しか新聞社に入って来ないのか、新聞社という仕組みの中で文学だ映画だ演劇だ芸術だといった太い枠線に囲まれたフィールドでそれこそが新聞記者だといった気分になってしまうのか。だからますます乖離していくんだけれどそれに気付かないんだよなあ、ゆでガエル的に。

 そして毎週掲載の長大な「アニマゲ丼」の執筆にどれだけ費やしているかというとだいたい4時間とか5時間はかけて書いてそして5度6度と推敲しているんだとか。だからあれだけポップにキッチュでそれでいてアカデミックな記事になる。この日記なんて書いたら推敲なんでいっさいなし、誤字脱字にあとで気付けば訂正する程度だから読みづらく中身は適当で矛盾もたっぷりあるんだけれど、本にすることなんてないだろうから別に良いのだ。こっちはこっちで3年4カ月、毎週2ページを大きい記事1本中くらいの1本小さいの1本でライトノベルの書評1本漫画の書評1本とあとトピック的な新製品紹介を1本、書き続けたけれども新聞というフォーマットでオチとか付けずに書いたからそんなに苦労はなかった。コラムで毎週ネタを拾いそれで枕もオチもつけて書くのって大変だろうに、それを3年とか4年とかやってるんだっけ、凄い凄い。いつかそれくらいのところまで達したいけど、書く場所なんてないからなあ、だからこうやって日記に書いている。でも日記なんで売れはしない読まれもしない。まあ自分の一生の備忘録なんでこれでいいのだと自分に納得しておこう。


【1月25日】 冗談ニュース。「日本政府は本日、新聞やテレビ、雑誌といったメディアが取材の際にいっせいに押し掛け、取材対象者やその周辺の日常を脅かすいわゆる“メディアスクラム”の発生を防ぐために、メディアの“メディアスクラム”的な取材方法を禁止する条例を施行させる方針を固めた。メディアは取材者の家の前に集団で張り込んだり、出てきた取材対象者に集団でカメラやマイクをつきつけたり、近隣の家や近親者のところに連日連夜おしかける取材方法をとれなくなる。一方で報道の自由にも配慮して、政府は新たにメディアラインアウトの仕組みを導入することも合わせて決定した。これは取材者が取材対象者の両脇に縦列して並び、出てくる対象者がその間を通り抜けるのを競い合ってつかむというもの。つかんだ1人だけが取材・報道する権利を得るという」。いやそっちの方が危険だって。

 定年前だけれど定年まで待つと退職金が下がるから定年前に辞めてしまう教師に対して文部科学省の政務官の人がどうして辞めるんだ教師の誇りがないのかとか言っているらしいけれどもその政務官、元教師だったんだよねヤンキー先生って呼ばれて話題になっていたんだよね、だったらどうして教師辞めたの? 教師としてずっと生徒たちといっしょに寄り添い走っていくことをしなかったの? そんな人が教師の魂だの教師の矜持だの教師の誇りだのと言ったところでまるで誰の心にも届かない。それこそ今も横浜の夜を歩き続ける夜回り先生の方がよっぽど生徒たちとよりそって生きているなじゃないのかなあ。そういう自分がかつて通った道を否定するようなことを言い、それが間違っているとか突っ込まれる可能性があるとかまるで思わない人が政治家やって政治の割と中枢にいたりするこの末世。滅びも遠くないかもなあ。

 誇りというよりはむしろ自分のスタイルとして例えばもらえる差額が50万円くらいだったとしたら、早く辞めないで3月末まで定年を全うして辞める方が格好いいかなって思うかもしれない。養う誰かもおらず将来も年金とかまあ出る職種だし、おおよおそが地元にそれなりに根ざした暮らしをしているんだったらそれで自分の見栄を満たせるなら安いもの。中には教師としての責任とかいうよりそういった方面から辞めずにいる先生なんかもいるかもしれないなあ。まあそれはそれ、人それぞれ、辞めたくないけど辞めないと今後の暮らしに影響が出るから生徒たちに心を残しつつ、辞めていく人がやっぱり多いんじゃなかろーか。早々に簡単に割り切れるものじゃないよやっぱり、人間なんだから。生徒だって先生のそうした暮らしを考えると止められず、かといって見捨てられた気分も拭いきれない複雑な思いにかられそう。そんな、誰もが手放しで喜べずかといって憤りもできな悲しい状況を、生んだのはいったい誰なんだ? ってところを突き詰めないと、なあ、政務官殿、大臣殿。

 問うわけで誰もがそんな悲しみを笑いに変えられる提案を。「先生を流産させる会」とかってとんでもない名前の集団がつくられ問題になったことがあったけれどもこれをもじった「先生を早く辞めさせて多くもらえた退職金ですき焼きを奢ってもらう会」というのを作って早期退職を先生と生徒たちが結託して笑えるお祭りにしてしまおう。100万150万円といった退職金が余計に出るならその1割でも10万15万円。クラスの40人に2000円のすき焼きを奢って騒いで先生は早く辞める居心地の悪さを払い、そして生徒たちは早く辞めてしまう先生への憤りを抑えて誰もが丸く収まるという寸法。どうだ。ってそういうベタな関係も成立しづらいのが昨今だしなあ。というかすき焼きっていったい今いくらくらいで食べられるんだろう。今半だと4000円とか5000円だから40人だと結構な出費。よしわかっただったら回転寿司だ、って1人で100皿食べる豪傑が10人出たら大変か。まあそのあたりは良識の範囲で。

 秋葉原でジャンクフジヤマの新譜を前にiTunesで買っていたにも関わらずクリアファイルのおまけとあと、綴じ込みの5月にSHIBUYA−AXであるライブの先行購入の案内に気をとられて買ってしまってそれから前に出ていたインディーズでのアルバムも買って、その足でガード下にあるかつやに行ってカツ丼の竹でも頼もうと通りがかったマツモトキヨシの前で何やらエヴァ祭り。参天製薬から出ている目薬が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の公開に合わせてエヴァ仕様になってしばらく経っているけどそれに新作のシンジとカヲルも加わったからなのか、買えばグッズがもらえるキャンペーンってのをやっていて近寄り何がもらえるんだろうと眺めたら、何と4つ買えば店頭に飾ってある幟がもらえるというではありませんか。とりわけプラグスーツ姿のアスカが目薬を差している絵はそのスタイルその表情ともベスト。眼帯をしていないのは「破」までとしてそれでもやっぱり欲しかったので、4種類の目薬をかってクリアワイル2種類にメモパッドとそして幟をもらってガッツポーズ、今日は良い日だ。でも目薬なんて使わないからなあ、これから花粉の季節だけれどそれほど酷い症状は出ないし。まあいいや使う時もあるだろうから日替わりで人を変えて眼に射そう。キャラによって見える世界も変わるのかな?

 そういや集英社スーパーダッシュ文庫って昔に「殿がくる!」ってライトノベルを出していて、あの織田信長が現代にやって来てはその八方破れな性格と進取の気風で政治に経済に進出していくって話をやっていたっけ。面白かったんだけれどその後、どうなったかというとあまり続かなかったような感触でちょっぴり早かったかなあと思わないでもなし。現代人が信長のシェフになったり信長と入れ替わったりする話はあんなに出ていたりするのに。そんなスーパーダッシュ文庫の伝統を今に甦らせたかのように登場したのが田辺わさびさんの「始皇帝、日本に起つ!」で文字通りに中国は秦の始皇帝が現代の日本にタイムスリップするって話。とはいえ普通にあのままの始皇帝が来たって焚書坑儒をやったり兵馬俑を作ったりして狭い日本じゃ大騒ぎ。そうではなくって別の次元の始皇帝がやって来た。それはおっさんでも兄ちゃんでもなく美少女。ちんりくりんだけど美少女がお風呂場に落ちてきて我こそは始皇帝だと言い張った。

 さいしょは訝った家主の少年だけれど、話を聞くに信じるに足る情報がわんさか出てきてそう思うしかなかった。どうやら徐福っていう家臣が開いた魔法のゲートをくぐったらここに出たってことらしいんだけれど一緒に来たはずの宰相の李斯は見あたらない。でもそこは始皇帝だけあって順応が早く夜の内に家電製品の使い方はもとより情報機器の使い方も覚えてネット通販とかでDVDを買いまくったりなにしたり。その順応の速さは「殿がくる!」の信長以上。とはいえ株を売り買いしたりする才覚はなく世話になりっぱなしなところにようやく時間差で李斯が落ちてきて、その毒舌っぷりで家主の少年を見も汗させる。加えてもう1人の家臣も見つけた魔法のゲートに飛び込んだそうでやって来ては全裸をさらす。なぜって全が好きだから。しょんな面倒な連中をなだめ率いて少年は、徐福が今どこで何をしているか探すというのが取りあえずの展開。現代に来て困ったとか迷ったとかいった当たり前の設定はすっ飛ばし、テンポよく進めた上で身も蓋もない状況を描いてみせるその筆はコメディー作家の才あり。この後にいったいどれくらいの騒動を起こすか。期待して待とう続刊を。


【1月24日】 「こんばんわ、ニュースストリームです、さて冒頭で当番組の報道方針について説明させていただきます。昨今、話題となっている女性声優の方に関する報道ですが、ご本人は自称年齢での報道を『おいおい』のリアクションも含めて希望しておりました。ですが、私共はベテラン声優としてのお立場を鑑み、また、その実年齢を急に知らされる方が受けるだろう衝撃の大きさを勘案いたしまして、常に実年齢で報道させていただくことといたしました。ではニュースです。人気声優の井上喜久おいこらなにをするやめろじゃまするなどてぽきぐしゃ……」「はあいみなさん、元気ですかあ、井上喜久子、17歳です」「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい(番組公式ツイッター)」「おやあ、声が小さいなあ、じゃあもう1回、井上喜久子、17歳です」「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい(番組公式ツイッター)」

 いろいろあった余波が続いて3年眼となる「東京国際アニメフェア」はやっぱり「アニメコンテンツエキスポ」が他方で開催されて内容にいろいろと勿体ないところも出てきそうだけれどそんな中にあってあのガイナックスが「ガイナックス流 アニメ作法 〜人の群がアニメを創る!」ってタイトルでもって大きなブースを展開するとか。前に今日とでの国際漫画ミュージアムで展示されたものだそうで、今また放送が始まり盛り上がる「天元突破グレンラガン」とか「ふしぎの海のナディア」なんかを送り出したガイナックスが、30年の活動で築き上げてきたコンテンツビジネスのスキームを紹介するという。「王立宇宙軍オネアミスの翼」とかそれ以前のDAICONFILMとかの資料も展示されたりするのかな。だとしたらちょっと見てみたい。シンポジウムとかもあると良いんだけれど、喋って欲しい庵野さんとかカラーに行っちゃったし、今石さんもトリガーだし……。でも残された資料はとてつもなく貴重だからそれを見るだけでも。行こう。

 あとは何があるんだっけ、コスプレをしている人は前か歩いていたりしたけれども今回はコスプレを楽しめるエリアと更衣室を設置して外から来る人たちに答えることにするんだとか。ACEではそんな余裕がないもんなあ、場所的にぎっちぎちで。だからそういう人が流れてきたりするのかな。あと「鉄腕アトム」の放送から50年という節目はそのままテレビアニメの50年。これを記念した展示があるというから何が並ぶか期待。「selial experiments lain」が並んでいれば個人的にはそれで良いんだけれど。なんだそりゃ。アカデミックチケットというのはアニメビジネスを学びたい人にとっては良いかも。学生がビジネスデーに来られないってのは勿体ないという超えもあったし。どうせたいした物販はないんだからそういうの目当ての人は来ないだろうという判断で。でもやっぱり来るんだろうなあ会見目当てとか。その辺をどう差配するか。賑やかならそれで良いのか。ちょっと観察。

 まあ阿呆なんだろうなあ文部科学大臣の下村某。もちろん気分として3月末の卒業式とかを待たずに退職する先生の意識ってものに対して何か言いたい気分はあるし、それで払われる月給ともらえる退職金の減額分の差額が100万円を切るようなら残っておつとめを真っ当するのが格好いいんじゃないかとは思う。でも一般企業と違って5000万円1億円とかいった退職金が出る訳でもなく、再就職だってなかなかままならない中で退職後の生活を考えるなら100万円が50万円だって欲しいところ。それがすっ飛んでいってしまうような制度を作って教師の側に我慢を強いる県とかがまずど阿呆だし、そうした自治体を避難するべきところを教師に矛先を向ける文科大臣は超弩級の阿呆ってことになる。言うべきことが間違っていると。そんな意識を世間一般も抱いているから思ったほどに教師とか公務員への批判が向かない。にも関わらず直情的に教師批判へと向かってしまう反日教組脳が教育のトップに座っているこの苦しみが、将来の国造りにおいて禍根を残さなければ良いけれど。

 という訳で(どういう訳だ)ジャンクフジヤマさんの新しいシングル「シェダル」をitunesの方から買って聞いてみたら山下達郎さんが「砂の女」を歌っていた……って感じさせるくらいに雰囲気を持ったライブバージョンのジャンクフジヤマさんによる「砂の女」が入ってた。いやあ似てる。大元は鈴木茂さんなんだけれどそれを1994年だかのツアーで達郎さんが歌ったものが確かライブアルバムか、あるいは何かのボーナストラックに入っててそれを何度も繰り返し聞いた耳に、ジャンクフジヤマさんの「砂の女」が重なって聞こえる。ただファルセットに鳴る部分の抜けは達郎さんの方が経験もあるからなのか滑らかで、対してジャンクフジヤマさんの方は懸命でパワフル。聞き比べると達郎さんが圧倒的って感じでもなくこれからどんどんと迫り超えて行けるかもしれないって感じさせた。いやあ凄いシンガー。元からあるオリジナリティに生来の巧さと何よりその声を活かした活動を、繰り広げていって欲しいもの。さあ行くんだ、あの空の向こうがわへ。

 そして試写として見た「機動戦士ガンダムUC episode6 宇宙と地球と」の印象を端的に語るとしたら「女は怖い」。それはオードリーもマリーダさんもマーサ・ビスト・カーバインもミコット・バーチもみんなみんな怖い怖い怖すぎる。たとえ世話になって憧れていた人であっても親に近い存在であっても偉い人でも敵兵でも、気にせず気にしたところで関係ないとばかりに我が道を行き我が思いを貫いて突き進んでいく。天上天下唯我独尊。それによって男は引っ張られ引きずられては最後の地へと向かうのであったという。まあもとよりガンダムってのがそうした女性の強さと包容力で出来ているところがあってララアに始まってセイラさんミライさんハマーン・カーンにレコバにプルとみんな自分の思うがままに生きてそれに男たちを巻きこんでいる。「UC」もそんなガンダムの列に漏れずしっかりと女性たちが強くあり激しくあって男たちの身を竦ませる。怖いなあ。けど綺麗だ。とりわけオードリーことミネバ・ラオ・ザビが素晴らしい。その顔をスクリーンいっぱいに仰ぎ見に行くだけで映画館へと足を運ぶ価値がある。行こう3月2日。そして見よう。劇場イベント上映のスタートを。


【1月23日】 届いた「@バンチ」をぺらりぺらり。「南国トムソーヤ」は本当に来て台風で船が欠航のなかを小学生たちが寝泊まりしながら遊びほうけいているところに何やら悪巧み? それ以前に部屋に何かいたりするのをしっかり見つけられる島の子の敏感さに驚嘆。そういう風に生まれて育つとそうなるのかなあ。そして「ウッドストック」はいよいよブンダーカマーの登場だけれど歌わず何やら民族っぽい音楽をバックにこれから歌うって感じ。どうなるやら。「寿司ガール」は何か泣けた。魚をさばくことで食べること食べてあげることの意味を知る少女。その少女のそばにたスズキさんに起こったこと。生々流転。けれども目標は失わず進む大切さを教えてもらった。全巻揃えようかな。

 ふと見渡すと内閣記者会が安倍首相と菅官房長官にアルジェリアでの日本人犠牲者の名を公表せよと迫っているって話が伝わってきたんだけれど、どうして日揮というひとつの企業の犠牲者に冠して新聞が政府に公表を求めるのか理屈が今ひとつ分からない。そりゃあ把握はしているだろうけれども大本の日揮がそれを嫌がり遺族が嫌がっているなら政府が飛び越えて公表できるはずもない。そんな権限もないのに求めるってのは何だろう、公共の福祉転じて利益の前には人権なんてものは蔑ろにされて当然だぜって改正憲法の骨子なんかを、内閣記者会と政府が裏で手を結んで予行演習的に実施してみようとしているのか。

 そりゃあ人間だもの、誰がどういう生涯を経て彼の地にたどり着いてそこで何をしていてそれがどうしてああなったのかってことを知りたいし、起こってしまったことに対して周辺がどういう思いを抱いているかを知ってその悲しみを感じたい、野次馬的に。でもそれはあくまで野次馬としての好奇心的感情を満たすためであって遺族の側にとってはそういった外野の感情の一切が何の関係もない。誰か新聞の読者なりテレビの視聴者が悲しんで涙を流したところで遺族の悲しみがそれで癒される訳でも中和されるわけでもない。むしろ共有してほしいのは怒りの方でそうした怒りが集まり重なって再発しないような取り組みへと、向かえば心も浮かばれるってものだけれどそういう風にはなてない。

 相手の悲しみを共有させることが役割だなんて叫んで同意を求める新聞屋なんかの見解はだから個人のやっている野次馬的な行為をそうとは示さず何か高尚で、意味在るものにしたいんだっていう意識の現れに過ぎない。でもそれを認めてしまうと、過去何十年かの間に積み重ねてきた数々の行為の、おそらくは嫌な思いを抱いたものを、それでも正義のためだと自分に言い聞かせてやり抜きなおかつ、自分の下にもやらせて生きてきた人間の、人生そのものが否定されてしまいかねない。だから悪かったと言わないし、悪いことだとも言わない。これって体罰を食らったり見逃して来たあの学校の生徒たちが、それでも体罰は必要だとか先生は良い人だと言っていることに何か似ている。認めてしまうと自分たちの体罰への我慢が無駄になるし、見逃していたことが悪になる。だから認めない。認めようとしない。

 自画自賛の正義を振りかざして求めるから齟齬が出るし状況をつぶさに知ってしまっている一般からもそれはないんじゃないかって意見が出る。だから自分たちで全部調べて調べてあげて、それから報道するかどうかを自分たちの最良で決めればいい。政府が発表しましたからなんてお墨付きの下に責任を回避するような真似をしなければいい。反発を食らうと知り、遺族は嫌がっていると知っても自分たちの読者のためだと言って掲載を強行するならすればいい。それには当然ながら反発をくらい怒りを浴びるという結果が伴われる。朝日にように名前は出さないと言って取材してそれでしっかり名前を出して載せたところのように、取材で嘘をつく会社でありそれで何のお咎めもなければそういう会社なんだという認識が世間に広まり経営に影響が出る。自己責任。自業自得。そういうことだ。

 ただいくら遺族の感情を慮るといった理由でも、その人物が前の代表取締役副社長で今も最高顧問として会社の経営に携わっている重要人物だとするとちょっと公表しないことが是か否かって基準も変わってきそう。もしも今なお経営に大き関与しているとしたら、その安否はこれからの経営にも関わってくるとても重大な事項であって、それで収益が変動したり、株価が大きく変わるようなことなら速やかに事実関係をディスクローズする必要がある。代表取締役とかいった権限の強い役職からはもう離れている、いっかいの名誉職かもしれないから何ともいえないけれど、話だと現地でブリティッシュペトロリアムという大きな大きな石油資本の副社長と会う予定だったとかどうとか。こうなると単に知人に会いにいくリタイアしたおじいさんという範疇を超え、経営を左右する力を持った人って可能性も出てくる。そういう人の安否をも秘匿すべきか否かは、一般人の匿名を守るかどうかとは次元の違った話になる。これからの展開と対応なんかを見ていきたい。

 なんか発表会があるらしくジャンクフジヤマさんを聞きながら東京スカイツリーの下にあるホールへと出むいて佐藤慶太さんと木谷高明さんのツーショット姿を見る。思えばいつだったか忘れたけれども東京証券取引所の記者クラブでタカラが当時まだ木谷さんが社長をやってたブロッコリーと資本提携するって発表を見てから久しく。共に紆余曲折を経ながらもこうして佐藤社長はドリームズ・カム・トゥルーって前にもやってたのと同じ名前の玩具企画会社を立ち上げ続々と新商品を展開し、そして木谷さんはブロッコリーを離れて立ち上げたブシロードでカードゲーム事業を成功させ、そして新日本プロレスまで手にしてやりたかったことを前以上にやり尽くしている。そんな2人が近づいて一気に何かが出る、って訳ではないけれども今もって上を向くことを忘れない2人のこれからが、ちょっと楽しみになって来た。「進撃の巨人」カレーとか1000円は高そうだけれど中身気になるし、食べてみようかな。まさか……。それはないそれはない。


【1月22日】 気が付くと日本アカデミー賞の優秀アニメーション賞が決まっていたようで、とりあえず並んだ5作品は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」と「ももへの手紙」と「ONE PIECE FILM Z」と「firend もののけ島のナキ」とそして「おおかみこどもの雨と雪」。まあ想像するなら「おおかみこどもの雨と雪」が受賞しそうなんだけれども、常連として実写ではよく入っている山崎貴監督によるフル3DCGとなった「もののけ島のナキ」なんかが来ると、日本じゃダメダメ扱いされてるピクサー的3DCGアニメーション映画に脚光が当たるんじゃなかろーか。でも本当なら「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」に入ってきて欲しかったなあ、やっぱり見られてないんだろうなあ、決定的に。

 昨日は気付かなかったけれども大阪市で、高校の体育科の入試を普通科にふり返るって話が教育委員会で決まったあとに、その学校の生徒たちが出てきて記者会見みたいなものを開いて伝統が途切れてしまうとかどうとか言ったってニュースを朝に知る。なんだそりゃ。何でも部活のキャプテンめいた人たちが出てきたそうだけれどもどうして生徒が出てきて会見しなくちゃいけないのか、釈明するにしても反論するにしても出てくるのは当該の教師でありその周辺であり上司としての校長であり教頭だろう、ってのが真っ当な考え。それが今だ誰1人出てこないどころか誰1人として懲罰を受けたといった話が伝わって来ないのは、調査中であり進行中の問題としても根本の原因をどうにかしようって意識がまるっと抜けていると見られても仕方がない。

 そこに輪をかけるようにして生徒たちの自分たちの学校も先生たちも悪くはないという発言。それはつまり1人の人間を死に追い込んだその学校のシステムの、あるいは人員の誰1人として悪くないってこを主張しているに等しいんだけれど、それを記者の側から突っ込んで聞くとあるいは生徒は「そのとおりです私たちはちゃんとやってました先生たちもちゃんと教えくれました亡くなった生徒は可愛そうですけれど彼にもどこか至らなかったところがあったんだと思います」と答えてしまって火にガソリンを注ぎそう。そんなことは思ってないって言おうとしたってそうやって、会見までして先生と学校を擁護して自省も自重も見せていない時点でそう言っているに等しいと世間では捉えるだろう。

 というか同じ学校に通っていた同じように運動に勤しむ同じキャプテンの1人が死んでしまって、そのことに臆さず自らの責任をあるかどうかは別に考えようとすらしていないように見える時点で、世間の抱く真っ当な感慨から大きく外れてしまっている。まずはそのことに気付かなくちゃいけないのに、気付こうとしないところがこの問題の根深さって奴を示している。そうまで思いこまされているのか。もしかして洗脳されているのか、等々。「女子生徒は『心に負った傷は深く、私たちを支えてくれるのは同じ傷を負った先生しかいない。新しい先生に入れ替えては、亡くなった子の思いを帳消しにしてしまうように感じる』と訴えた」とはいったいどういう言動だ。まるでさっぱり分からない。

 スポーツ関連学科の刷新で自分たちが否定されたように思い「傷を負った」というなら、それは事態の重さを噛みしめられていない証拠だし、生徒がなくなって心に傷を負ったと言っているのだとしたも、それを教師が動揺に傷を負ったと考えている時点で世情とは乖離する。先生は傷を負ったんじゃなく、傷を負わせた側。たとえ直接手を下していなくても、同僚として止められなかった責任は下にあて抑圧されて言いたいことも言えない生徒よりもはるかに思い。桁違いに激しい。そんな教師を入れ替えることは思い出を帳消しにするんじゃなく、責任を明確にすることなのに、同じように痛みを追った存在として認識しているところに、抑圧から生まれた依存なのかそれとも服従なのか判然とはしないけれども、教師の側に取り込まれ利用されているような印象が垣間見える。というおり誰が言わせたんだ。誰がやらせたんだ。尾木ママも憤っているこの会見の経緯ひとつをとっても、絞ればあの学校に漂う空気の面倒くささが伝わってくる。いったいどうしてしまったのか。そしてどうなるのか。もめそうだなあ、まだまだ。

 大変であり陰惨な事態が見えてきたアルジェリアでの日揮が関わった天然ガスプラントに対するゲリラの襲撃とそれに対するアルジェリア軍の攻撃のあれやこれや。思うにあそこをどこか軍隊なり軍事会社なり民間警備会社なんかが守っていたんだろうか。守っていたとしても相手が本格的な武装を携えたゲリラだったらやっぱりかなわず数で押されて新入を許していたんだろうか。決して平和ではない紛争地でなおかつ近年さらに不穏さを増していただけに対応なんかが気になった。あれが仮に中国系の大星海公司の傘下だったらカレン・ロウちゃんが守って拳銃にナイフを着けた技によって誰もゲリラなんか寄せ付けなかったかもしれないけれど、カレンちゃんが抜けたらバルメ1人に蹂躙されるような会社だからなあ、大海公司。無駄だったかも。というよりカレンちゃん自身も山でバルメに蹂躙されてたんで案外に頼りないのかも知れない。やっぱり雇うならココ・ヘクマティアルの私兵たちだよなあ、あの人数で1個中隊。それって何人分?

 そしてヤマトーク。「宇宙戦艦ヤマト2199 第四章 銀河辺境の攻防」を見てそしてヤマトに関わる人たちが繰り広げるトークを聞くというイベントに何とあの「宇宙戦艦ヤマト2199」のオープニングの江kんてを手がけている庵野秀明さんという人が来てヤマト愛を喋るってんでこれは行かないわけにはいかない。別に何か映画の監督もしているって話だったけれどそれについては今回は禁句、近場にあって似たような劇場だけれど系列が違う場所でやってる映画だし、ああ大人の事情。でもそっちに関わっていなければ本当にヤマトにどっぷりと浸っていたかったらしく、それこそ出渕裕総監督と2人で老後の楽しみとしてやるって話もできていたとか。そうなったら監督は庵野さんで出渕あんはアドバイザー。そんなヤマトも見たかったけれども時代は出渕監督にこの時代にヤマトを作れと命じた。そういうものだよ巡り合わせって。

 しかしすごかった幼少時代の庵野さん、第1話こそ見られなかったけれども少年サンデーとあと冒険王? それがタブー気味になっているのは分からないけどその記事で前の「宇宙戦艦ヤマト」の存在をしって第2話目の本放送を家にあった白黒のテレビで親と妹が「アルプスの少女ハイジ」を見ている影でイヤホンを突っ込み見ていたというから凄いというか。なおかつ3話からはカセットレコーダーを買って貰って音声まで録音していたいうから筋金入り。再放送になるとβマックスを持っている友達に録画させてはすり切れるまで見て消させて次を録画させ、見て見て見抜いたという。それくらいやって始めて張ってくるんだなあ、構図もセリフも演出も。今そうやってそこまで繰り返し見られる作品って何があるんだろう、って考えた時に豊かさってある意味で罪なのかもって思えてくる。話題の作品の話題の部分をつまんでつないで話題になって。それを見て真似てさらにその真似が続いた果てに出来るもの。そこに魂はあるのかな。もちろん魂を持ったクリエーターはいて魂を込めた作品を作っている。それを見逃さないようにしたいもの。今だと何だろう。えーっと……。「宇宙戦艦ヤマト2199」か。そうなるか、やっぱり。


【1月21日】 なんだかんだで帝都に着いてはいこれまでよ、かと思ったら「イクシオンサーガDT」、そこからさらに先に進めと同じ言葉を繰り返す道案内のキャラみたいな女の声で姫の許嫁が住む国を目指すことになったとか。まるで話も進まなければ秘密が明らかになった訳でもなく、ただ帝都の地下にうごめく得体の知れない集団の存在が明らかになたくらい、ってそれセングレンとマリアンじゃん。もう1人のゾロ風なのは帝都の偉いさんか誰かか。いずれにしたって賑やかし程度で本筋にはまるで絡まないのに、それでも見て笑わせ楽しませてしまうところにこのアニメーションの本質があるってことで。筋なんかどうでも良いんだよ。けどそこにやって来るかつての的一行。これも各個撃破で1カ月使って2月をやり過ごすってか。まあそれもありかな「イクシオンサーガDT」なんだし。

 やっと見た「ちはやふる」2期の第1話はうん、とっても良い出来でこれが日曜朝7時半とかから放送されていたり平日午後7時から放送されていたらみんな見るんじゃないかと思ったけれども相変わらずの深夜帯でそれも前より深くなっているってのはどういう訳だ。パッケージが売れたからそれで良いって判断なんだろうけれどもあの持ってる雰囲気が多くに伝わらずアニメーションって面白いんだねって感想が余程見たい人の範囲内に留まるのってとても勿体ないことなんじゃないかなあ。相変わらず提供バックは何も文字が被らずナレーションもなくワンシーンが繰り返されるだけ。それが一種のギャグになってて毎週楽しめそうなんだけれどでもやっぱり、寂しいよ、あれだけの傑作アニメーションが。こういうすれ違いって奴を解消する術ってないのかなあ、それとももはや地上波テレビっていうもの事態は時代遅れのマイナーウインドウと成り下がっていると判断されてしまっているのかああ。うーん。

 しかし相変わらず丁寧な作画であり演出であって第1期と変わらないクオリティと雰囲気をちゃんと繋げてくるのが凄い、って「生徒会の一存」の1期と2期を見てそのキャラクターデザインの違いに別に気付かず気にもならない人間が言うことでもないんだけれど。ともかくたとえばオープニングでジャージ姿の千早がかるたを取る姿をテンポよく3段で見せるシーンは出崎統監督の3段パンでなくちゃんと角度を変えて見せてそれでいて速度を合わせて見せてくれるから何かとってもスピーディーな雰囲気が感じられる。ジャージ姿のバックから見た千早が可愛いとかそんな意見も出そう。何を見てるんだ。いや見るでしょ。そして電車の中での太一と菫の会話のとことか、一方は立って背を向け他方は座ってうつむき気味の関係性に通う言葉がその狭まらない間を強調しつつそれでも追いかける少女の強さってやつを見せてくる。ここ泣くね。本当に泣くね。

 そんな場面でただのミーハーじゃない、真剣に1人を思う少女の声を演じた潘めぐみさんが実に良かった素晴らしかった。これは1つのエポックになり、そして未来のスターになる。お母さんのような特徴的過ぎる声質ではないけれども普通に聞こえて普通じゃない張りと艶、それがキャラクターと結びついた時に爆発する何かがあるんじゃなかろーか。どんなキャラが合うかなあ。千早瀬戸麻沙美のさんも千早で明るさ爆発のキャラを演じ「輪廻のラグランジェ」のランで寡黙だけれど内に何かを秘めつつギャグもやれる不思議なキャラを演じてその存在感を見せつけた。花野菫って恋多く執着心旺盛な今時っぽいけど芯は固い少女を演じて潘めぐみさんどこへ向かう? 毎週楽しみ。筑波秋博の入野自由さんも楽しみだなあ、あんまりやりそうもない役柄だけに。どうなるかなあ。

 そんな「生徒会の一存」もやっと第1話と第2話を見たけどやっぱり前とどう違うのか分からない。「みなみけ」だったら無印に「おかわり」に「おかえり」で何となく違っているというか「おかわり」は確実に違っていたんだけれど、「生徒会の一存」ってそんなに違うものなのか、「ハヤテのごとく!」ですら違いに気付かない僕にはやっぱり分からない。そんなものだよマニアじゃない人の目って。いろいろ事情っぽいところから今回は声優さんまで変わっているようだけれど、すでに前の声とか覚えてないし。記号が整い位置づけが整い声が合ってればそう思うものなんだ。とはいえそうじゃない人もいるんだろうから難しい。まあ、同じことを同じようにやり続けるのが「生徒会の一存」なんでその内容に違いもないみたいなんで楽しめそう。後に何も引きずらず見て笑ってそれでまた来週。アニメらしいアニメだなあ。パッケージ売れるのかなあ。

 まず考えるなら深い深い海の底の隔離された都市にあって割と重要な施設の屋上に、突然現れた迷子の少女の身元がどうとかいう前に、明らかに不審人物じゃないかってことで出生のデータからIDから顔認識から何から何までひっくり返して該当しないその少女を、真っ当な存在を考える方が無理筋だけれどそういうことも含めて上は、知って受け入れたんだと考えればあんまり気にならなくなる。そういう存在、それが普通の暮らしの中でどう変化していくのか、それが人類にとって、あるいはだいだいやじるし君にとてどんな影響をもたらすのかを考え認め泳がせた、と思い読んでいくことで未来に広がる暗雲と、それを乗り越えようとする人類のパワーって奴が見えてくる。ってことで富士見ファンタジア文庫から出た武葉コウさんによる富士見ファンタジア小説大賞受賞作品「再生のパラダイムシフト リ・ユニオン」はまずのイントロを経ていったいどこに向かうのか。乞うご期待。

 マンガ大賞2013のノミネート作品が発表されたみたいで印象からすれば吉田秋生さんの「海街Diary」がたぶん入りそうで続くのが森薫さんの「乙嫁語り」になるのが初期のマンガ大賞的ストーリー、けど「銀の匙」が受賞したあたりから推測するに読ませたいってより読まれてる漫画が割と上に来るようになって来たんで今回は別のランキングでも上に来た「俺物語」か「テラフォーマーズ」が上位に来てそれに「暗殺教室」が絡んで来るってのが今のところの想像。でも個人的には押切蓮介さんの「ハイスコアガール」か岡本健太郎さん「山賊ダイアリー」なんてのにも陽が当たって欲しいかも。「山賊ダイアリー」とか実写映画かできそうだし、ってするとやっぱり言われるんだろうなあ、残酷って。でも食べるために撃ちさばくその行為を否定したら人間、生きていけなくなるってことも教えないと。その辺に関心。「ちはやふる」とか「3月のライオン」的なお勉強系は「ボールルームへようこそ」か。これもあるかな。「あさひなぐ」とかもう来ないんだなあ。


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