縮刷版2013年12月中旬号


【12月20日】 ムーンライダースのかしぶち哲郎さんが亡くなられたと聞いて、よく名前は聞くけれども具体的にはどんな活動をして来た人だったかと調べたら、1986年に自殺を遂げた岡田有希子さんの幻のシングル「花のイマージュ」を作詞作曲していた人だった。きっとレコーディングにも立ち会っていただろうから、その時にいったいどんな雰囲気だったのか、ちょっと聞いてみたかったなあ。せっかくだからと更にいろいろ調べたら、岡田さんが亡くなられた当日に今は亡き芸能リポーターの梨本勝さんが四谷にあるサンミュージックからリポートしている映像があって、まだ毛布が被せられた遺体を誰とは知らずマネジャーかもしれないと話してからエレベーターで事務所に乗り込んでいったあたり、今の芸能界に気を遣うレポーターとかメディアの多数な状況では、ちょっとありえないかもと思ったり。

 エレベーターを降りたらサンミュージックの当時の相澤社長の姿が見えて話しかけようとしたら会議室に入っていかれて、仕方がないと背後の扉をあけてそこに見知った記者がいたので聞いたら岡田さん本人だと告げられ絶句……するかと思ったら変わらず奧にいた副社長の人に経緯をインタビューし始めるその仕事ぶりに、馴れ合いでもって突っ込まず、それに慣れて突っ込ませないまま逃げ切るメディアと事務所の昨今の関係って奴が、何とも胡散臭く思えてきた。向かう側も受ける側も堂々として、馴れ合うところは馴れ合い切り結ぶところは切り結ぶ。そんな関係があったんだなあ。後ろで警察が聴取させろよと脅しても引かないあたりはさすが梨本。そんなリポーターが今いたら、最初は義憤で後に芸能界の闇と新聞界の弱腰を、ひとり歌でもって訴えた茂木健一郎さんの孤軍奮闘によるミスインターナショナル問題も少しは変わったかもしれないなあ。かしぶち哲郎さんから随分と離れたけれど、そんな時代からずっと変わらない音楽をやり続けて来た偉大なアーティストに、改めて合掌。

 ピアノに弦楽四重奏というシンプルな構成でもってスローな曲ばかりを選んで唄っても、KalafinaはやっぱりKarafinaという独自の音楽世界を聞かせてくれるのだなあ。渋谷にあるBunkamuraオーチャードホールを会場に繰り広げられたKalafinaのクリスマスをテーマにしたプレミアムライブ。なぜか最前列という位置ながらも、立たず腕も振らないままただひたすらに奏でられる伴奏に重ねて響く3人の歌声に聞き入ってしまった2時間ちょっと。賛美歌に始まってオリジナルの楽曲も入れつつクリスマスソングも混ぜて唄われた歌を、真下で全身に浴びるようにして受け止めるという至福の時間を過ごすことができた。

 その時間はKalafinaって存在の凄さを改めて見せつけてくれたけれど、これをどうしてNHKのBSをかは放送しないのだろうか。めざましでやったところで2分じゃあその凄さの真髄は伝わらない。PerfumeをあれだけフィーチャーするNHKが、Kalafinaはあんまりやらないんだよなあ。そこが謎。脚を出してないからか。いやでもクリスマスのライブでミニスカートじゃおかしいじゃん。今回はWAKANAにKEIKOにHIKARUの3人は、足首まで届く長いスカート丈の腰回りを細く締めたドレス姿で登場。それぞれが巧さを持ちつつ独自の響きを持った声でもって時にソロで高らかに強く可愛らしく唄い、時に重ね合って広がりを深まりを作り出しては聞く人たちを荘厳で絢爛とした音楽の空間へと誘いこんで包み込む。

 いつもホールツアーとかでやってる、激しい演奏とアクションのついたライブでもそうした独自の世界への誘引は存分にあるけれど、その歌声に聞き入ってしまう度合いが高いこうしたアコースティックなライブは余計に没入感が強くなる感じ。誰もが圧倒されて何か余計な声を出すとか自分の我を通して立ち上がるとかってことができないくらい、空間に溶け込まされている。アンコールも終わってようやく見送りのスタンディングオベーションをするために立つ人が出るくらい。それほどまでに圧倒的な時間って奴を作り出せてしまうグループになったんだなあ、Karafinaは。いやまあ昔からだけど。それくらいの存在がデビューから6年を経て未だ紅白とかとは無縁ってどーゆーこと? それがザ・芸能界。あるいは服部克久さんが言うところの「これが日本の音楽の現状」って奴なのか。そうかもなあ。

 そう6年。2007年末に「劇場版空の境界」の第1作が公開されてから6年間を走ってきたKalafinaにはたくさんの楽曲があって、そこにはこうした静かなライブで浪々と、切々と歌い上げるに相応しい楽曲がいくつもあって、それらが次々に繰り出されては巧い歌の心地よさってやつを存分に味わわせてくれる。あまりライブではやらかなくなった「うつくしさ」のよーな曲も演ってくれて、これは前とはまるで違った、ストリングスのうねるような旋律を得て唄われて耳新しさってやつを感じさせてくれた。もちろん「空の境界」シリーズの曲も。メインの旋律を取り入れつつ詞を載せたって感じの「seventh heaven」や、最新作「未来福音」のエンディングに使われている「アレルヤ」なんかがあって、そして驚きのあのエンディングのアコースティックアレンジ版が。前にもやっているって言えばそうだけれども、ピアノとストリングスをバックに唄われたそれは力強さも含みつつ、切々とした感じが出ていて耳にこれまた新しさって奴を与えてくれた。

 オーチャードホールなんてクラシックがよく演奏される場所で、天上も高いホールを相手に少ない編成ながらも3人の声を奧の上まで届かせて、空間をその音楽で満たしてみせたKalafinaの、その実力のほどをいつものファンたちだけじゃない、声楽やクラシックやらをやっている人たちにも聞いて貰いたいなあと思わないでもないけれど、いつもとは違った面を見たいというのもまたファンの欲張りな心理って奴で、クリスマス前のオーチャードっていった場所であってもいつもの格好で詰めかけては、いつもと違ったスタンスでKalafinaに聞き入るいつものファンが得られた至福を、ここはむしろ喜ぶべきなのかもしれない。

 それにしてもやっぱり3人が3様なKalafina。天上へと突き抜ける澄んだWAKANAの声に、躍動感や情感をたっぷりと含んだHIKARUの声、そしてまん中あたりにドンと座って底から突き上げ前へと出てくるKEIKOの強い声のそれぞれが、ピンを張っても凄い上にそれがアンサンブルでは絶妙に重なり合って音楽のカタマリを作り出す。そうなると分かって組ませた梶浦由記さんを偉いと讃えるべきか、期待以上のアンサンブルを作り出しなお先へと進むKalafinaの3人を素晴らしいと讃えるべきか。どっちもなんだろうなあ。この先どこまで進むのか。どこまで登るのか。楽しみに見守っていこう。

 「死にゆく者の罪なら許してしまえるように、試合中のチームメイトのことならばどんな重荷も背負ってやりたくなる。打者の孤独はそうした憐憫の情を引き起こすほどに深い」という文章は、普通に読めばベースボールに真正面から向き合っているアスリートが、その心情を吐露したものに他ならないんだけれどもこの言葉が、女ばかりの後宮に女装して潜り込んでは皇帝の命を狙っている暗殺者の少年の心から、漏れ出ているというところがやっぱりおかしいというか。そんなおかしさがいけしゃあしゃあと繰り出されては平気な顔でライトノベルですよと訴えてくる石川博品「後宮楽園球場」(集英社スーパーダッシュ文庫)が間もなく発売。一足先に読んだけれども後宮は後宮で誰もが美をめぐってしのぎを削っては皇帝の寵愛を得ようとし、あるいは皇帝への怨みを晴らそうとする一方で、後宮に姫ごとにチームがあってそれもメジャーからAAA、AA、Aあたりまでに細分化されていて、それぞれにリーグ戦を本気で戦っていたりするところが読んでいてクラクラするというか。何でこれらが並び立つのか、混ざり合うのか。分からないけれどもそうなっているから凄いとしか言えない。話題になること請負の1冊。年の瀬に衝撃を浴びたまえ。


【12月19日】 胸の痛みが肩の痛みも誘発したのか寝られずのたうち回りながらも、どうにか痛み止めのロキソプロフェンが効いたか痛みも収まって来た中を無理矢理寝て起きたら、やっぱり痛みが引かずむしろ肩なんかは痛さが増して歩くだけで痛みが走るようになっていたんで、これは拙いかもと病院に行こうと近所の船橋総合病院が何時からやっているかを調べたら、今年の5月に移転していたことが分かって大慌て。いったいどこだと調べたら東武野田線すなわちいずれアーバンパークラインとかになる鉄道で船橋から1駅の新船橋という片方にイオンモールがそびえ、片方には野村不動産が開発したマンション群が並ぶ地域に移ってたんで電車を乗り継ぎそっちへと向かう。

 降りて歩いてすぐに見つけた病院は、円形だった前とは違って普通に大きなビルって感じでそのまま市民病院とか大学病院といっても差し支えないくらいの規模。待合所も整備されてて外来が見て貰う部屋を集めてその前に来院者にいてもらって順に番号で入れていくって感じでこれなら自分がいつ頃呼ばれるか、そしていつ呼ばれたのかが分かって待っている間の不安感って奴が解消されている。とはいえ初診で痛みの理由もまるで分からないからどこに行ったらいいのかがまず分からず、最初は内科を希望したけど胸の痛みとか動悸の速さとかを告げるとそれは循環器内科が良いんじゃないかという話になってそっちに予約を移し、待って待ってまずは心電図をと取りにいっておそして血圧も測って待って待ってようやく辿り着いた診療室にいたのが美人の女医さんだった。そりゃ動悸も速まるわ。

 って訳ではなくってずっと速い状況が続いているのは何か分からず、それでも心筋梗塞系の病気があるとヤバいんで血液検査をしたらそういった兆候は見られず。やっぱり美人の女医さんのせいかって話にもって行けたらどれだけ自分的には楽しかっただろうかなんて考えたけれどそれを外に向かって言えるほどの勇気もなし。そんな奥手な心理が読んだ神経症か何かかなあ、なんて想像もしつつとりあえず、動悸の著しく速いのをどうにかしようと薬を貰いつつ痛み止めももらうことにして退散したのが午後の2時とか。最初に入ったのが8時半とかだから随分といたよなあ。まあでも総合病院だからってそんなに回されることは普通はない。血液検査の結果待ちとかいろいろあってのこの時間だから仕方がない。

 そんな時間も手持ちのタブレットとかでニュースはちゃんと見られたから割とさっさと過ぎていった感じかな。何しろあの猪瀬直樹東京都知事がついに辞任を発表とかで、まあしょうがないなあと思いつつ初期の段階で妙に突っ張らずにうまくすり抜けられなかったんだろうかという残念さも浮かぶ。こと政策に関する手腕ならそういうのを調べ抜けを糺してきた実績なんかもあって十二分の活躍できそうだったけれど、そこに至る前に政治の部分でいろいろとみそを付けすぎた。5000万円をもらったんだとしても返したというならそれでチャンチャン、領収書とか記載漏れとかすいません忘れてましたと莫迦を装えば良かったのに、妙にこだわりどう見たってさっき作りました的な借用書を引っ張り出しては折り目がついてないじゃん、どうやって贈られてきたのかね、って突っ込みを喰らって訂正しまくっては自滅した。

 そう自滅。誰だってそれで言い抜けられるとは思えない言い訳を、あの頭が良さそうに見える猪瀬さんがどうして繰り出しては訂正の嵐になったんだろうかと、そっちの方が不思議に思える。誰かにそう言えば大丈夫と言われそのとおりにしていたら泥沼にはまってしまったのかなあ、というかその場合はハメられたって言うのが正しいか。勿体ないけどそういう尾籠な策を弄しすぎるって意味ではやっぱり不適任だったのかも。自民党政権に対して刃向かうようなことをした、あるいは東電の敵になったから切られたんだって陰謀論も出まくっているけど、そんな深慮遠謀があればこうまで訂正に訂正を重ねる無様な真似はしない。単純にプライドが邪魔して頭を下げられないまま自滅しただけのこと。それだけでやっぱり、相応しくなかったってことなんじゃんかろーか。うん。

 後任にはいろいろと名前が挙がっているけれども中に文部科学相の人がいたりしてこりゃあちょっとなあとか思ったり。だって親学の人だよ。そしておそらくは日の丸君が代の人。そんあものをトップに立って振りまわしていったら東京都の教育はいったいどうなっちゃうの? って誰だって思う。まあ東京は私立もいっぱいあってそういうのとは無関係に独自の教育をガンガンとやっているから良いのかもしれないけれど、そうでない都立だってやっぱり山ほどある訳で、そこから生まれる人材が妙に偏ってしまっていった挙げ句に迎えるこの社会がどんな感じになるのか、って考えるとどうも寝覚めが悪くなる。東京都民じゃないから誰になったって平気、って言えるほど東京都って日本に占めるあらゆる事柄の割合が、小さくないんだよなあ。石原時代に硬直した表現規制の問題も、ようやく雪解けに向けて動き出したばかりなのに。そこでは表現の分かる都知事がいてくれた方が良かっただけにやっぱり勿体ない、か。もったいないとらんど。

 そんなアーティストがいるのかと今さらながらに知ったアリアナ・グランデって20歳のアーティストが何か来年1月に日本でライブをするんだけれどそのときにきゃりーぱみゅぱみゅに会いたい、って話してたってニュースが新聞とかに載っていて、人によっては同じレコード会社が仕込んで日本のきゃりーに話題を付けようとしたんじゃない、なんて話もしていたけれども調べたら、アリアナ・グランデの所属レコード会社はリパブリックでユニバーサル系だから、ワーナー所属のきゃりーぱみゅぱみゅとはいわば敵対関係。そんな相手をどっちもわざわざ仕込んで対面させる訳がないからやっぱり好みだったってことなんだろー。ケイティ・ペリーもユニバーサルだけどきゃりー大好きって広言してるし。そんな感じにスタイルとして広まっていくきゃりーぱみゅぱみゅ。日本での毀誉褒貶なんて関係ないよなあ、世界がそれと認める以上は。

 良く意味が分からない餃子の王将の社長さん射殺という状況。怨みを買ったことがあったかあるいは何かの間違いか。これだけ大きな会社の代表が何か怨みで射殺されたら動く警察の数だって半端なくなるだろうから、組織めいたところが率先して動くなんてことは考えられない。だから個人的な怨みってことになるんだろうけどそれだとあまりに行動が裏に寄りすぎている。拳銃で射殺だなんてそんなこと、普通の人が出来る訳ないものなあ。なのにやってしまった訳で。過去にいろいろあったところでライバルチェーンが鉄砲玉を送り込むなんてことがあるはずもなし。だからやっぱり間違えられたって可能性を思いたいけどあの時間帯にあの場所に来る人が他の誰かなんてことはないからやっぱり狙いはただ1人。その理由は。まったく訳が分からない。解明されるのを待つしかないか。


【12月18日】 相変わらず非道いというか、女子高生たちが銃をガンガン撃っては人を1発2発で殺していくは、蹴っ飛ばして首の骨をゴリっと追ってやっぱり殺してしまうはと、もう出てくる女子高生たちのすべてが完璧なまでに殺しの技術を完璧なまでに会得して、気に入らなければ銃で撃ち拳で殴り脚で蹴りそして毒で殺すんじゃないかとすら思えてくる。あんなにいっぱい殺して一体、死体とかどうしているんだろう、普通じゃない数の死体が出て一体、どうやって始末しているんだろうとすら思えてくる。

 けどそこは暗黒裏社会、そういうルートもしっかり整えられては魚の餌なり木樹の養分になっていたりするんだろう。何て素晴らしいエコシステム。そんな高橋慶太郎さん「デストロ246」の第3巻」冒頭で紅雪だっけ、CIAのエージェントがラスベガスで一仕事やってから東京かどこかで伊万里が基香って殺し屋を追いかけ跳弾で仕留めたあたりに繋がって、何が起こっているか瞬間分からなかったけれどもどうやらサハリンマフィアの元締めだった「お姉ちゃん」を紅雪がラスベガスで始末し、その手下として洗脳されつつ使われていた基香をまず倒して日本に来ているサハリンマフィアを伊万里が殲滅したってエピソードだったみたい。

 そして以後は万両苺とその愉快なボディーガードたちが、売春の組織を任せているせつなって多分神奈川県警がどこかの偉いさんの娘の反抗を受けて向き合うという展開で、下克上を目指したせつなは手下のマリアだけじゃなく、透野隆一が妻を毒殺した犯人を見つけるために南米から連れ帰った翠と藍の2人も引き込みそこに伊万里も加わって万両苺を暗殺にかかる。幼い頃からの知り合いで仲間として活動していても必要とあらば裏切るこのドライさ。やっぱり女子高生って怖いなあ、って思わないでねこの作品に出てくる女子高生が異常過ぎるだけなんだから。

 もっとも、そこはヤクザ組織の娘としてたたき上げてきた苺だけあってなかなかしぶとくなおかついろいろ秘密も知ってたようで、元よりせつなに完璧に従うつもりなんてない翠と藍の離脱とかも含めて事態はせつなにどんどん不利に。そして……ってところでやっぱり立つのは義理人情か、それとも使える人材かどうかってドライな判断か。分からないけれども凶暴で凶悪な女子高生たちは分裂せずにますますふくらみ、世界へと広がっていきそうな予感。あっちでは紅雪が待ち受けているけどせつなにもシールズの技を仕込まれたマリアがいるから対等以上に戦えるかな、藍と翠の銃撃を凌いだくらいだし。って見ていると苺が情報屋として使っている梅花が実にまともに見えてくる。普通に弱いし。米軍に渡りをつけて飛行機手配するくらいのことは平気でやっちゃうんだけれどね。やっぱりまともじゃなかった。

 一方で苺のボディガードの南天はますます怪力ぶりを発揮。いったいどうしてそんな力が? って理由も明かされなるほどと納得、別に苺が調合した薬でビッグX化した訳じゃないんだな。ちょっと伊万里が目立たなかったけれども事態は透野隆一の妻を殺した相手を遂に苺が明かして翠と藍に火が着いた様子。日本をグチャグチャにしかねない事態に果たして伊万里はどう動く? そこに苺はどう絡む? 山ほどの死体の果てに見える女子高生に君臨された日本の、世界のビジョンを待ちたい。

 例のミス・インターナショナルを巡る問題は日本初のミスに輝いた女性が日本のメディアが集まる司法記者クラブで会見しても記事にしたのは出身地の佐賀新聞くらいで、これは多分地域注意ってことで共同が流した原稿をそのまま受けたんだろうけれども他のメディアがまるっと沈黙したのはやっぱり不思議。共同電を受けているスポーツ新聞だって少なくないだろうにとりあえず載せてもその後はどんどんと削除しているらしいという話も伝わってきて問題の日本という場におけるメディア環境の上での難しさ、面倒くささって奴を見せつける。ってつまりは誰もが分かっていることなんだけれど、それを認識していてなお動かないってところが怖いよなあ。

 それを初(うぶ)な脳学者の先生はストーカー被害に遭っている女性にどうして世間は動かないんだって真正面から批判していたりして、何てナイーヴなんだと思う一方でもしかして本当に闇の社会がどうしたこうした、ってシチュエーションに気づいてないのかって疑問も浮かぶ。ナイト然として立ち上がったら向こうには暗黒の闇が広がっていてそれでも脳学者の先生はどこまでも突っ走っていけるのか。そういう方面に最初っから立ち入らないようカマトトぶっているだけかもしれない。一方で動画配信会社の偉い人は何でテレビでやんないの? って疑問を呟いているけどそのテレビにコメンテーターとして出演しているのは誰なんだ。動画配信ってすっげえメディアを持っているのは誰なんだ。そこを使わず外野からイカガナモノカと呟くそのスタンスを、見て誰もがやっぱりなあと思ってしまう、その構図が恐ろしい。直接の法も暴力も及ばなくても秘密は秘密として守られ続けるってひとつの例でもあるし。

 だから日本では埒が明かないと海外のメディアが集まる場所で会見を行ったのは実にクリティカルでおそらくはAP通信の配信とかだろうけれどもちゃんとそれを受けて大手のメディアが取り上げいろいろと記事にしていたりする。アメリカのネットワークもあれば有名な女性誌もあったりとその幅は多彩。そこには日本の芸能界って場所がどういう仕組みで運営されていてそれに従わないとどういうことになるか? って可能性が紹介されている。まさかと思ったところで目の前に、そうした圧力を受けて主催者が自粛してしまった結果、次代への引き継ぎをさせてもらえなかった人がいる訳だから論より証拠。闇の勢力との繋がりにうるさいアメリカあたりが口を出してきたらいったい、どういう事態に陥るか。外面を良くしたい安倍総理だからケネディ米駐日大使から何か言われたら即座に動くかなあ、動かないかやっぱり面倒くさいと考えて。そんな次代のミスがテレビに出ていて話したのはコメンテーターの顔がどうかということ。そこで聞かず触れもしないメディアがまさしく、何を言えないのかって状態を表しているのだった。

 至道流星さんの「東京より憎しみをこめて2」(星海社FICTIONS)のストーリーがようやく動き始めたようで、汚職の冤罪をかけられ経済産業省を退職においこまれた純情ウルフとこ月成拓馬は、ヤクザの娘ってことで好きな絵の仕事を辞めざるを得なかった海音寺詩乃と元アイドルの妹雪奈と出会い、彼女たちが六条会総長だった父親の収監後に自分たちで世に復讐を果たそうと立ち上げた組に入って、ヤクザとしての道を歩きはじめるまでが第1巻。そしていよいよその筋のものとなった拓馬は、その筋のものらしく入れ墨を入れさせられようとして刃物を当てられ気絶して、相変わらずのへたれぶりを見せつける。それでもそこは学問エリートだった拓馬は傘下だった組長の紹介でギャンブルが当たる装置と言わる品を売る会社で働きそこに凌ぎの道を見つける。

 もとより詐欺に近いというか、正直詐欺の商売だからつけ込む余地はいっぱいある。なおかつほとんどがヤクザではなく堅気の奴らが詐欺紛いでひともうけしようと手がけている商売。そこに本職のヤクザとして暴対法の編み目をかいくぐりながら接触して行き、脅し傘下におさめて顧問料なりを得ていく方法で稼ぎを得ようとした拓馬たち。背後関係は調べてケツ持ちがいて横取りしたなと難癖を付けられ抗争が起きないようには注意をしていたものの、中にはヤクザに駆け込み喧嘩をふっかけてくる者もいたりして拓馬をボコる。潔く退散? そこが堅気とヤクザの違うところで、舐められたら舐められっぱなしになりかねないと組をあげて乗り込んでいって相手と悶着を起こしつつ、手打ちを行いまとめあげてから再びしのぎの道を究めようとする。今どきだったらそうは考えず相手の組織と利益を分け合い、どちらも得をとろうとするものを、詩乃はやっぱり父親への憧れもあり、またプライドもあって昔ながらの正面突破を計ろうとする。

 それはとっても格好いいけどとっても危険なこと。ただでさえ女性が勝手に組を嗣いでいるような状況を快く思っていないヤクザも大勢いるなかで、父親の後に総長となった五代目のところに呼ばれていよいよおしまいといった場面に直面する。とはいえ内心ではやっぱり真っ直ぐに憧れるのが仁侠を自認するヤクザたち。逃げず立ち向かっていくその性根を認められ、場を収めてそして次へと向かうところにあの業界の、ただ人情だけでもなく、かといって打算だけでもない難しさと面白さってものが見えてくる。これなら普通の企業の方がよっぽど怖いよ、騙すし脅されれば権力を持ち出すし。一方で拓馬は拓馬でエリートならではの調子の良さが炸裂して、成功以上の失敗も重ねてしまいそう。そこではやっぱりプライドをかけたヤクザならではの制裁が待っていて、拓馬をひとつ成長させる。頭に乗る性格もこれで矯正されてエリートならではの頭脳が回り始めた先に、いったいどんな“復讐”が繰り出されるのか。ちょっと楽しみになって来た。


【12月17日】 そしてジェフ・レディースでは上村崇士監督の退任が発表されていて総監督として残ったりU−18の面倒を見たりはするそうだけれど一旦は指揮の最前線からは退く様子。ブログなんかで頻繁にレディースの選手を厳しく知ったし千葉県における女子サッカーの環境に苦言を呈したりして物議もかもしていたようだけれども、そうやって出てくる物議はどれもサッカーそのものの進展にとって前向きなものばかり。そこに倣って誰もが前を向いていけばジェフに限らず千葉県全体の底が上がって行くんだけれど、って思ったけれどもやっぱりトップのチームがいうと、下にはやっかみが生まれてしまうものなのかも。ともあれお疲れさまでした。今年は敗れてしまったけれども去年の皇后杯での決勝進出、忘れません。でもジャンボ、どーしてトップチームには行かないんだろう? そこは不思議。

 FCバルセロナが本拠地とするカンプノウに9万人が集まってバルセロナ五輪のサッカー決勝が行われて見た自分は大昂奮を味わったと書いたコラムを読んだ。そして2002年のワールドカップ日韓大会の時にどうして首都にナショナルスタジアムがないのかと聞かれたと書いてあるのを読んだ。その上でコラムでは国立競技場を8万人どころか10万人だって入れるようなスタジアムにしてくれという威勢の良い声がスポーツ界から聞こえて来ないことを嘆いていた。カンプノウはナショナルスタジアムではく首都のマドリードから遠く離れたバルセロナにあってむしろ時の政権に反意を抱いてその思い出スタジアムに誰もが詰めかける。国威発揚の要としての大規模スタジアムという意味合いでの建設を推進したい思惑を持ったコラムならそれには異論がある。

 けれども8万人10万人を埋めて当然といった意識を持ってスポーツを振興している競技団体があまり見あたらないというのは同感。もちろんそこには競技団体だけでなく、マスコミも含めて競技の面白さを伝え観戦する楽しさを感じてもらおうとする努力が足りていないような気もする。大勢集まったから報じますじゃあ時既に遅し、っていうか昔はマスコミがコンテンツとして大勢が集まる競技すなわち野球を推進して世に広めた。それと同じことをやれ、って訳ではないけれども昔ほどスポーツの中継に熱心ではなく、むしろ美味しいところだけかすめとろうとしている雰囲気があるのはやはり拙い。育て広めていくような動きを見せないと、2019年に来るラグビーのワールドカップですら5万人を新しい国立競技場に集められないぞ。お手並み拝見。

 明け方あたりから妙に左胸が痛く横になっても左右のどちらを下にしても取れない痛みは息を吸うとキリキリと来るんでこれはヤバい心臓周りの病気なのかそれとも雁字搦めになって寝ている環境から筋肉がこわばって血行を疎外し神経を圧迫して痛みが出ているものなのか、よく分からないんでとらいえずナボリンを貪りつついろいろネットを漁るとやっぱり左肩と左胸の痛みはちょい、ヤバいこともあるかもしれないと分かった一方で単なる筋肉痛だという話もあって、どっちにしても調べてヤバければさらに大きな病院に行けばいい、筋肉痛なら湿布をもらえればそれで良しと診療所に行ったらとてつもない美人の女医さんが座ってた。ああ驚いた。

 症状を説明するとやっぱりいろいろ疑われるんで心電図をとりましょうとなって、しばらく洗っていない臭い足を見せる恥ずかしさとそして美人の女医さんを目の当たりにした昂奮から、動悸がとっても速くなってそれが心電図の検査にもろ出てしまってどうしたんですかと聞かれて「貴女の美しさのせいです」と言ったかというととてもじゃないけど言えなかった。そんな顔も地位もない。情けないったりゃありゃしない。まあ最終的には心臓周りではなくって普通に筋肉痛か神経痛だろうということになってロキソプロフェンの湿布と錠剤をもらって貼り囓ってとりあえず痛みも鎮まったようだけれどもそれでも直らないならやっぱり見て貰わなくちゃいけないと、思い美人の女医さんが回診に来る曜日を頭に刻み込む、ってそりゃ全然緊急じゃないぞ。死んでも美人に会いたい。それが男の本懐。うん。

 もう何回目になるんだろうか、すっかりと定着した大学読書人大賞の来年の受賞を目指す候補作が出たようで20作品から投票によって選ばれ上位5作品が並びそれを元に推薦文の募集が行われ討論会が行われて決まるという仕組みはこれまでどおり。しばらく早川書房が独壇場となっているだけに今年は何が並んだかと見たらやっぱりハヤカワは強かった。まずはハヤカワ文庫JAから上田早夕里さんの日本SF大賞受賞作「華竜の宮」が来てその存在感をSF界隈に見せつけた野崎まどさん「know」がきて、「マージナル・オペレーション」シリーズだけじゃない多彩さを魅せた芝村裕吏さん「富士学校まめたん研究分室」が入って並び立つ。ちょいライトノベル色が入っているけど専門のレーベルからは江波光則さん「鳥葬 まだ人間じゃない」が入った程度。小野不由美さんの「十二国記」も新刊が入ったけれど新潮文庫だからなあ。それ単著で入るのかって問題もある。ちょい難しい?

 女性に強そうなのは窪美澄さん「アニバーサリー」と江國香織さん「金平糖の降るところ」かな。あと男女ともに人気は朝井リョウさん「何者」か。ハヤカワの独壇場を阻止しようと東京創元社も頑張っていて米澤穂信さんの文庫化された「折れた竜骨」が入りテレビドラマ化された作品も出た似鳥鶏さん「昨日までの不思議の校舎」が並んで立ちふさがる。」ベテラン系では伊坂幸太郎さん「マリアビートル」か2度目となる森見登美彦さん「ペンギン・ハイウェイ」。ガイブンではSF枠からチャイナ・ミエヴィル「言語都市」が来たけどナボコフ「絶望」、ジュノ・ディアス「こうしてお前は彼女にフラれる」ともども最終枠に残れるか、ってあたりが問題になるかなあ、って読んでないけどどれも。

 最終候補に残ったら討論会場に来て座って様子を眺めていそうな東浩紀さん「クォンタム・ファミリーズ」があったけど「クリュセの魚」じゃないところが文庫化をオッケーにしている大学読書人大賞ならでは。東さんと並ぶ知性系だと千葉雅也さん「動きすぎてはいけない」が入ったけど思想書は弱いからなあ、やっぱり。京極夏彦さんが柳田國男を題材にした「遠野物語remix」とか有栖川有栖編「小説乃湯 お風呂小説アンソロジー」が受賞したら誰が授賞式に来るんだろう。全員か。柳田国男もか。でもやっぱり強いのはハヤカワブランドってことでボカロにも関わりがある宮内悠介さん「ヨハネスブルグの天使たち」が強いかもしれないなあ。最終候補は3月くらいには出そろうだろーから要注目。どれが来ても2014大学読書人大賞、面白くなりそうだ。

 そして4度目となる「攻殻機動隊ARISE border:2 Ghost Whisper」をバルト9で竹内敦志監督らのトーク付きで見る。4度目ともなると見どころも分かって来ていて例えばオープニングのほぼ最初で草薙素子が唇を指でさっと撫でるあたりの唇の柔らかそうな感じから義体といっても割にプニプニに作ってあるんだああってことが分かる。バイクにまたがって走る素子のお尻も丸くてやっぱりプニプニしてそうだし。あれでカチカチだったら触って幻滅して旅に出たくなるだろうなあ、荒巻だって。あとは電脳空間にいる時のアバターのヴィヴィー。本体がちょい歳上って雰囲気なのがアバターだと若々しくなっている。たとえ中身はアレでもそこはちゃんと見栄を張りたかったのかなあ、そういう気持ちこそがゴーストってことで。トークではCGの使い所とか聴けてロジコマの表情付けなんかの苦労が分かって面白かったけど、抽選会はやっぱり当たる気がしないなあ、KINEZOでの発券だとやっぱりダメなのかなあ。


【12月16日】 そうか12・6%とは最後にちょっぴりだけど回復したんだ「安堂ロイド」。予定調和なんてものがまるで見えず原作もないからどこへと着地するのか分からないって興味が普通の人にはあっただろうし、SFとかタイムトラベル物とかに慣れ親しんでいる人ならどういう結末があるんだろうと予想はできて、そこへどう落とし込んでくるのか、あるいはまるで違った展開を描くのかって興味も抱けたから、誰もがちゃんと見ようと居ずまいを糺してテレビの前に座ったんじゃなかろーか。その結果のこの数字、だったらこうして終わって全体が見通せた後、改めて第1話から放送したらどういう風に繋がるのかを確かめながら見たい人を誘ってさらに高い視聴率を確保できるんじゃなかろーか。アニメにはそうやって再放送で視聴率を稼いで世に残る評価を得た作品も数多くあるんだし。

 光ったのはやっぱり遠藤憲一さんが演じる公安の刑事のあの叫び、そして土下座。命令されて駆け付け安堂麻陽に対する射殺命令を下された警官隊も、そんな叫びを耳にして、人を殺してそれで稼いだ金で食えるか、銃を撃った手で子供を抱けるかと問われて踏みとどまる。あり得ない、って言えば言えるけれどもあって欲しいシチュエーション。だから感動する。そこから未来への希望が繋がる。安堂ロイド自身の戦いにもそんなところがあって、自らを腐らせながらも謎の処女を抱きかかえて中空へと飛び、爆散してすべてを終える。自己犠牲を讃えるって事ではなくって、その後にちゃんと生き延び現れ事後を安堂麻陽に託すあたり、繋がっていくことでしか得られない、断ち切られてしまっては何も残らないというメッセージを世に感じさせていたよーに思った。

 だから見ていて鼻白まないでいられた「安堂ロイド」。桐谷美玲さんも途中はスタントだっただろうけど一所懸命にアクションのつなぎを演じたりしてスカートから脚が除いたりしてなかなキュート。そしてサプリ。途中退場を物ともしないで復活しては、時におどけ時に怒り時に嘆きながらも安堂ロイドを助け、人間を助けようとする献身ぶりを本田翼さんがとことん演じて見せてくれた。その演技のインパクトから見るに、他でもいろいろ活躍していけそうな予感。あとは大島優子さん。二重人格で兄思いでありながらも兄にコンプレックスを抱いている複雑な役、そして本性が出ると冷酷になって殺人すら厭わない豹変ぶりを演じきった。「メリダとおそろしの森」での声優演技は巧かったけど、こうして実際の演技を見てもなかなか行けるじゃないのかなあ、前田敦子さんとは違った位置に建てそうな予感。

 真打ちはやっぱり木村拓哉さん。ニヤニヤとしてどこまでも優しく、かといってつかみ所のない天才といった雰囲気を沫嶋礼二の時に見せ、そして安堂ロイドとなってからは決して笑わず怒ることもなくかたまった表情に目力を乗せて戦うアンドロイドを演じてみせた。声の出し方ひとつとってもまるで違う役をよくやったなあ、これは草薙くんでも香取くんでも絶対に出来ない役どころ。まさに当たり役だって思うんだけれど世の人は過去にあった、他にいくらでもありそうな役柄を評価するんだろうなあ、そこが勿体ない。だからこそ映画化とかって可能性にも言及したくなるけれど、あの面子が再び揃い動き出すには相当なプッシュが必要で、それだけのムーブメントがあったかと言うと……。だからここはブルーレイなりDVDのボックスが売れに売れて、続編を作らないと拙いって気にTBSとか芸能事務所とかをさせたいところ。だから買いたいけど、幾らになるんだろう。そこが心配。高いのかなあ。フィギュアとかおまけにつかないかなあ。

 明けて「黒子のバスケ」に絡んであちらこちらの脅迫状を出していた人物について、いろいろな情報が出てきた。どうやらほ事件のすべてを自分がやりましたと言っているようだけれど、それだとしたらいったい何がそうした執着の根っこにあったのかってところに興味が移る。もっとも、聞こえてくるのは何か自分の好きな作品が貶められたことへの怨みめいた話。それが例えば「スラムダンク」なのか「ハーレムビート」なのか「ダッシュ勝平」なのか「リアル」なのか分からないけど、野球で今どき「ダイヤのA」が人気だからといって「ドカベン」の熱烈なファンが怒って中止を求めるようなことはない。だって野球が好きだから。そして野球漫画が好きだから。

 他のバスケットボール漫画が貶められたって感じたとか言っても今、続いている漫画なて車いすバスケの「リアル」とかあるいは「あひるの空」くらいしかなくってちょとカテゴリーが違う。だから半分以上は言い訳で、最初はそういう気持ちがあるにはあっても突っ走っているうちに、それを自分の中での金科玉条にしてしまって、そうした無理矢理な理由を原動力に身を動かしたってことになるんだろうなあ。あとは世間が騒ぐことへの愉快な気持ち? それでイベントを潰され同人誌を発表できなかった人たちには可愛そうとしか言いようがないけれど、問題はそうした他愛のない理由から起こした行動が、これほどまでに世間を縛り商業活動すら縛ってしまう可能性。突っぱねつつ安全を確保するような方法があれば良かったんだけれどそういう道を探らず危うきには近寄らない気分が広がり多方面での自粛を生んだ。どうすればそんな連鎖を防げるか、ってところもこれを機会に今一度、考えてみることが必要なのかも。

 「アラビアのロレンスが死んだそうだ」「映画の冒頭でオートバイ事故で死んで葬式まで出してもらっていたのに、また死んだか」。なんて冗談も飛びだしてしまいそうになるくらい、歴史上の人物であるところのT・E・ロレンスとイコールで結び付いていた感じが強い俳優のピーター・オトゥールが81歳で死去。遠い昔に天白区の外れにある家から自転車で名古屋駅まで出て映画館でリバイバルの上映を観たこともあったし、テレビでも民放なりNHKなりで見たくらいに好きな「アラビアのロレンス」だっただけに、その主人公を演じたオトゥールも好きな俳優の1人だった。あとはアリを演じたオマー・シャリフか。調べたらオトゥールと同じ歳でなおかつ存命。オトゥールの死をどう受け止めているかを聞いてみたい。どこか書いて伝えてくれているのかな。

 とはいえオトゥールが他に何を演じたかという記憶はあまりなく、情報として「チップス先生さようなら」とか「将軍たちの夜」とか「カリギュラ」に出演していたとは知っていても、オトゥールが出ているからと敢えて見ようとは思わなかった。だってロレンスのイメージを崩したくないじゃん。だからその演技を映画の中に位置づけて見たのは、「ラストエンペラー」のレジナルド・ジョンストン役がその次くらいで、そして最後。若さはなく好々爺とした雰囲気を醸し出しながら、それでも英国紳士らしい凛とした姿を見せてくれていたっけ。数々のアカデミー賞を受賞した作品だけれど、主演のジョン・ローンも助演のオトゥールも受賞はなし。「アラビアのロレンス」でも獲得できないままで終えたオトゥールには内心、忸怩たる思いもあったのかなあ。名誉賞ではない賞を取らせてあげたかったけど、もう無理は言えない。今はただその生涯を、演技を讃えたい。向こうで本物のT・E・ロレンスに会っていたりするのかな。

 ufotableがこの年末に贈る長編アニメーション映画「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」をバルト9での先行上映会で見る。最初に声優さんと監督と音楽の人の挨拶があって後に副監督とキャラクターデザインの人とそして近藤光プロデューサーを迎えたアフタートークもあったりと至れり尽くせり。これで2000円なら安いよねえ、もっと大きな会場でやれば良いのに3番シアターちょっと小さすぎ。でも仕方がない、もっと入るところはもっといっぱい稼げる作品を回すから。

 そう稼げるか、って意味でこの企画はなかなかに挑戦的。だって魔女っこだよ。魔法使いだよ。宅急便やったりするのがいたりリトルな魔女っこたちが学校で学んだりするアニメも過去にあって最近もあったりするなかで、割と被りがちな企画を持ってきてそれも決してメジャーとはいえない原作を元にマニアは誰でも知っているけど一般層にはあんまり広まっていないスタジオが作って世に送り出す。いったいどれだけ稼げるんだろうかと訝ってしまう人が多くても仕方がないし、そもそも企画を立てようと考えることにどうしてといった懐疑を挟む人だって出来そう。

 でもやってしまった。何でだろう。平尾隆之監督の熱意か近藤光社長の思いか。分からないけれどもそうした無茶も交じった企画をこうして通して完成へとこぎ着けバルト9ほか全国規模でのロードショーへと至らせたのには企画者の思い込み以上に作品を愛し、支え広めたいという大勢の思いがそこに重なったからに他ならない。つまりはそうした思いの受け皿に鳴り得るくらいのサイズを持ち深さを持ち何より内容を持ったアニメーション映画ってことだ、この「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」は。

 どこか森深い場所でクラスヨヨとネネの姉妹。のろいやなんてものをやって解いたりかけたりしているんだけれど何の拍子か別の世界とつながってしまってその先へと姉なんだけれどちっこいヨヨが落ち込んでしまう。辿り着いた先は……これもまあ見てのお楽しみ。そこでの変化の謎とか、そもそもどうしてヨヨさんの方がネネちゃんよちっちゃいのかとか不思議な部分がたくさんあって、原作読んでないと分からないし原作を読んでも映画の設定は分かりづらいところが幾つか。でもそういうのをこうかなあと想像しつつ見て見終わったあとにそうだったかもと思い返してまた見に行って整合性を確認するとかいった楽しみを、味わえるって思えば苦にならないし苦にしちゃいけない。そういうものだ。

 そんなストーリーから描かれるのは魔法って万能だけれど万能じゃないってこと。そして人間は限界があるけど限界なんてないってこと。何か矛盾しているけれど、そんな矛盾に囲まれ人間も誰でも生きていて、そしてそんな矛盾をぶちこわせるだけのパワーを持ってるってこと。ヨヨはだから魔法だけじゃないってことに気づくし、彼女が相手にした少年は魔法の凄さって奴に気づく。お互いがお互いに認め合い、確かめあって掴んだひとつの知見はそのまま見ている人の知見となって、何かに縛られるより自由でいた方がいいよって思いへと至らせる。

 そんな作品はufotableだけあってよく動く。そしてよくデザインされている。ビスタサイズよりさらに横長のシネスコサイズの画面は引いて奥行きが生まれる空間設計になっていてそこを魔法使いたちが乱舞し、スペクタクルな状況に瀕した世界が混乱してそしてヨヨと少年の大活躍が繰り広げられる。演じる声優さんたちも女性キャラ役は時に可愛く時に懸命で時に健気。受ける少年役の沢城みゆきさんはもう巧いの一言。これで同じ時期の別の映画ではバスト88ウエスト55ヒップ99の美女怪盗を演じてしまうんだからもうバケモノとしか言いようがないよ。まったくもう。

 語れることはまあまだいくらだってあるけれど、とにかく見ればこれは立派にオリジナルの企画でそして画期的な映像で勇気をもらえるストーリーを持った長編アニメーション映画だと分かる。2度見ればまた違った思いを得られる。故郷への思いとか娘への思いとか、そういったものを抱え遺していくことの寂しさも。すべてを噛みしめて感じよう、今を生きる大切さを。それも精いっぱいに生き抜くことの面白さを。ただなあ、やはり直面する子供たちに見て欲しい長編アニメーション映画がそんな子供たちになかなか伝わらないという「マイマイ新子=虹色ほたるシンドローム」。冒頭にトトロマークを出したところで昨今はそういう作品も減っているんだよなあ、ジブリ。ブランドではなく作品単位でリーチさせる手はないか?


【12月15日】 そうそう、國學院大學での村山早紀さんいよる講演と、それからヒューマントラスト渋谷での映画「ゆめのかよいじ」の舞台挨拶が付いた上映の間に道玄坂にあるTOHOシネマズ渋谷で「ルパン三世vs名探偵コナン THE MOVIE」を観たんだけれど、これがほぼ満席。土曜日の夕方、そして渋谷ってベストな時間ベスト過ぎるロケーションってことを差し引いても、テレビアニメーションのそれもまるで支持する世代が違ってそうなキャラクターたちがコラボする、ある意味で怪しげなタイトルにこんなに人が集まるってことが意味するのは、それぞれのキャラクターの長い時間やって来たことがもたらす幅広い世代の支持って奴。諦めず続ければちゃんとこういう恩恵がある。お台場のテレビ局にはそれが分からないんだろうなあ、ああいや「サザエさんvsちびまる子ちゃん THE MOVIE」で映画作れない訳じゃないえけれど、作れるかどうかは知らないけど、面白いどうかも以下同文。

 でもって「ルパン三世vs名探偵コナン THE MOVIE」は、ルパン三世が実にルパンらいし上にコナンもあれでガキんちょぶってはいても中身はしっかり高校生探偵・工藤新一のメンタリティを持った“大人”だってことを示しつつ、そのガチンコの対決をしっかり描いてどちらのファンにも楽しめる作品になっていた。とりわけルパン三世。時には銃だって撃つし刑事を騙すことだって平気でやるけど、それは官憲と悪党だけが対象。裏にしっかり義侠心めいたものを持ちながら、表にはださず悪者として飄々と生きているルパンの格好良さってやつがにじみ出ていて、こうしたお祭り的な作品によくある、オフィシャルなのにカリカチュアライズされ過ぎたルパンに辟易とさせられるようなことがまるでなかった。嬉しいなあ。

 コナンの側も子供っぽさを時に利用して大人では入り込めないような場所へと行ったりするずるがしこさ。アイドルが泊まっているホテルで出会った次元大介がどこにいるかを想像し、そこに赴きしっかり相手にくっつき話を聞きだし調査もしながら事件の先へと進んでいく。あのクールな次元がタジタジになるなんてもう大笑い。まあさすがに手にしたマグナムで撃ち殺すって訳にもいかないからなあ、そこは次元もルパンも同様。銃を向けたてワルサーのセーフティは解除しない。それを見透かしそう告げるコナンもなかなかな度胸だけれど。

 五エ門はまあつまらない物を切ってしまう役ってことで。そして峰不二子。謎の女で稀代の大盗賊が最近ちょっぴり甘さを見せていることを、物語の中で灰原哀に指摘させるってのはメタ的であるけれども同時に本質的。一方で「峰不二子という女」という作品がしばらく前にあって、昔ながらの不二子って奴を世間に改めて見せつけてくれた後だけに、不二子の本質って奴をここで改めて仕切りなおして、これからの展開に入れこんでいくって宣言だったのかも。そんな不二子と哀との直接対決は……哀の勝ちかなあ。

 そりゃあ胸も下もツルツルでペタンコで、代わって不二子はバスト88ウエスト55ヒップ99とFBIの捜査官も資料を観ないで言えるくらいにナイスバディを誇ってそれを、哀といっしょに入ったお風呂の中でたっぷりと想像させてはくれたんだけれど、目に見られるのは胸の谷間くらいで肝心な部分部分は見えなかった。見せたらそりゃあ映画として拙いけど。レーティングが上がってしまうから。その点で哀はお風呂から上がって何も身に着けていない背中をこちらに向けてくれた。もちろん背中の下までも。それは……。だから哀の勝ち。願うならあと10年、大きければ良かったんだけれどそうはいかないのが悲しい運命って奴で。でもその薬とやら、ずっと同じ大きさのままなのかなあ、その辺がよく分からない。

 ストーリー自体には前のテレビスペシャルなんかが関連していて、何か暗殺された女王さまがいたり、毛利蘭に良く似た王女がいたりとてつもない可能性を秘めた鉱石が出てきたりしたエピソードが、今回の映画のストーリーに関連していたりして、ルパンの動機とかコナンのルパンたちへの意識なんかを知るにはそれをもっと良く観た方が良い気がしたけれど、そうした過去を想像しつついったい何があてあの2つのキャラクターたちが接触し理解し、共闘すらするように至ったのかを考えてみるのも面白いので先週だっけ、放送されて録画したそのTVスペシャルを観るのはもうちょっと後にしようかな。それとも観てからまた1度、劇場に今回の映画を見に行った方が良いのかな。ちょっと考えよう、2週間で打ち切りにはなりそうもないくらいにお客さん、入っているから。

 タソガレ文庫はもはや黄昏ているのか? だって見ないもん店頭で、ってことで珍しく見つけた竹書房のホラーレーベルなタソガレ文庫から刊行のつくね乱蔵さん「ぼくの手を借りたい。」が面白かった。霊感のある女子大生と霊を実体化させられる男子大学生のペアがいろいろ霊感事件に向かう話で、女子大生のキャラが「閻魔様も泣かせる」といわれるくらいに強気でSっぽくって何か命令されたら誰だって言うことを聞いてしまいそう。そんな彼女も大学で心霊めいたことを担当しつつメディアでも大活躍しているゴッチーこと後藤田教授には逆らえないようで、霊体に触れて引きずり出すことが出来る同級生の青年を連れて、アパートに霊が出るとか自殺者が何度も何度も自殺を繰り返すとか病院に少女の霊が現れエナジーを吸い取るとかいった事件の解決に向かう。

 そんな折りに教授から持たされるお助け袋に入っているのが、まずは教授の名刺で顔写真が入ったそれを見せると2人の学生を胡乱な目で見る大人たちも、途端に顔を崩して何でもペラペラと喋るようになる。有名なんだなあゴッチー。おまけに名刺の裏にはスクラッチがあって削って当たるとゴッチーと旅行に行けるらしい。それも知れ渡っているらしく名刺をもらった誰もが即座に裏返してスクラッチをゴリゴリと削り始める。何てサービス精神旺盛なんだゴッチー。そうして情報を得た2人がいざ、事件でピンチになった時にもやっぱりゴッチーのお助け袋がものを言う。

 中に入っているのはわら人形だったりブードゥー人形だったり市松人形だったり喋るフランス人形だったり。もはや呪いのアイテムがそれでもちゃんと役に立つ。そこがゴッチーのすごいところ。どこで集めたってことも含めて。そんな一種パターン化された解決のアクションと、学生2人にゴッチーのキャラ、そして霊が絡んだ悲しいドラマを三位一体で楽しめる作品としてこれはなかなか良いかもしれない。シリーズ化されてあまつさえテレビドラマ化なんてことも考えてしまうけれども無理かなあ、竹書房のレーベルだもんなあ、ゼータ文庫だって雲散霧消したもんなあ、「ヤクザガール・ミサイルハート」よく復刊したよなあ。

 「安堂ロイド」を見ようと思ってつけていたテレビで例の「黒子のバスケ」を脅迫した事件の犯人が捕まったとの方が流れてニュースとか調べたら、どうやら犯人は手紙をポストに入れようとしているところを捜査員に確保されたそうで証拠がズラリと入っていたからにはひとつの犯人だとは言えそうだけれどそれでどうしてあそこまで、執拗に脅迫を続けたってところだけはまだ未定。大学に硫化水素の発生装置まで設置するのはちょっと執着の度合いが過ぎる。ただの愉快犯にしては大げさなそのスタンスに怨恨なんかを感じ取った人も少なくないだけに、まるで無関係の兄ちゃんがすべての犯人だと断じて良いのか別にいて、その後追い便乗として乗りだしただけなのか、これからの捜査の進展が待たれる。コミックマーケットへの脅迫文も入っていたらしく投函されていたら面倒も大きくなっていただけにまずは一安心。あとは司直の追求を。徹底的な検証を。

 敢えていうなら言うなら下衆の極みな某コラム。「寺川綾、水着を脱いだそのあとは 美しき転身、新たなスタート」って見出しでもって、このほど引退を発表した水泳選手の寺川彩さんについて取り上げたその内容は、スポーツ選手であり五輪のメダリストである人物の引退を取り上げながら、そのスポーツ選手としての凄みについては欠片も触れず、ただその美貌のみを触りなめ回すように紹介してこれからはそれで食っていくんだろ? 的なニュアンスで記事にしていいる。同じことを職場で同僚に言ったら、あるいは学校で生徒に向かって言い放ったらセクハラとして訴えられ人生すら失えかねない言動を、堂々と新聞社の看板がついたウエブサイトで言ってのけてしまうから凄まじい。

 飲み屋の酔っぱらいオヤジが喋る下品な会話以下。それが一応は公立中正を旨として、社会の木鐸を自認する新聞の看板がかかった場所で繰り出されるというこの気持ち悪さ。もとより「なんとか放題」とか「なんとか御免」とか銘打って繰り出されるここん家のサイトのコラムのことごとくが、飲み屋の酔っぱらいオヤジ以下の暴言ばかりだったりするからたまらない。新聞紙面には絶対に載らない、載せられる訳がない差別意識丸出しのコラムを、ネットだから許しているというこのスタンスが媒体としてのライフを削っているということに気づかないのか運営は? アクセス稼げりゃオッケーと思っているんだろうなあ。そしてアクセス数万能を信じる経営が認めている。結果どうなる? すでにそうなっているんだけれど、気づかぬはヘッドばかりなり。東京五輪は迎えられそうもないなあ。


【12月14日】 横山愛さんはマッドピエロにそっくりだった、というのがとりあえず「ベヨネッタ ブラディフェイト」の上映千秋楽に行われたトークイベントに登場したキャラクターデザインの横山愛さんを見て思った印象だけれど、そんなマッドピエロの下から割に普通のよくある人間の女性の顔が現れたのには2度吃驚。さらにその下から……というギャグはなくって、どこにだっていそうな女性があの美麗にして淫靡な女たちにセクシャル炸裂な男たちを描いているんだってことが分かって、アニメーションって奴が持つ奥深さ、アニメーションに関わっている人たちの底知れなさを知る。現場で描いている時にはどんな格好表情をしているかを見た訳じゃないから、下はジャージに上はトレーナーで捻り鉢巻して汗流しながら顔を原画に近づけガリガリ描いているかもしれないけれど。どこか手塚治虫的。「ブラックジャック誕生秘話」の。

 首からぶら下げていたあのプレートが、いったい何のおまじないだったか聞きたい気もあったけれどそれは聞かず。そして横に座っておられたこちらはキャラクター原案の島崎麻里さんが、すらりと細身の美女だったのには同様に驚いたけれどゲーム「ベヨネッタ」を手がけた後にゲーム会社をちょい離れていた所に、偶然にも監督の木崎文智さんと連絡がついて、映画に参画したという話が面白かった。島崎さんがいたからこそのあのゲームで描かれたキャラクターのイメージが損なわれず、さらに淫靡さと凶暴さを増してスクリーンに現出したと思うと感慨深いものがある。何かがすごいものが生み出される時ってこういう奇跡が起こるんだよなあ、たいていは。

 島崎さんは冒頭にステンドグラス風な絵でもって綴られるプロローグ的な部分の背景を描いているそうで、言葉の背後に映し出される賢者と魔女の反目から恋愛といたり子が生まれながら引き裂かれ奪い合い……といったストーリーを示す絵があって、大きく世界観の理解に繋がったってことを思うとその参画はとっても大きかったって言えそう。エンディングの麻衣さんが唄う歌の背後に映し出されるラフなキャラクターたちのイラストも島崎さんの手によるものなのかな、まだ幼いセレッサと同様に子供のジャンヌがとっても可愛いので、彼女たちのそんな時代が描かれた映像とかあったら嬉しいんだけれど、無理だよなあ、今から来年1月発売のブルーレイディスクに入れる訳にもいかないし。

 何かセレッサって描くのが難しいらしくって、作画も手がけた横山愛さんはセレッサを担当したけどどうしても巧く描けなかったって話してた。でも映像を見たらそんなことはなかったし、半ば謙遜だとは思うけれども一方で、声を担当した沢城みゆきさんの巧みさってのも相当に効いてたんじゃなかろーか。マミィ……って泣きじゃくりながら言っても鬱陶しさはなく、むしろ抱きしめてあげたくなるその物言い。だからチェシャ、じゃなくルカだってベヨネッタに置き去りにされた彼女を助け連れていったんだろー。単に子供好きなだけだったかもしれないけれど。

 そんな多士済々をまとめあげ作りあげた木崎文智監督が、誰よりもやっぱり作品の完成度に大きく貢献した人であることは間違いない。自由にやらせるようで手綱は締め逃がさず才能を投入した。だから日々劇場を人で埋め最終日にも大勢が詰めかける映画が出来上がった。喝采を贈りたい。次は何をやるんだろう。やっぱりアメコミっぽいものなんだろうか。どっちにしても追いかけていきたいアニメーション監督。クールジャパンのまさしく先陣なんだけれど、その割に露出が少なすぎるんだよなあ、今回の映画化ん時だって新聞とかどこも取り上げなかったもんなあ。それは「アフロサムライ2」の時もいっしょか。僕は行ったけど他ではあんまり見なかったものなあ。ジブリだけがアニメーションじゃないんだって、いい加減覚えたらどうなんだ。無理かなあ。とか言いつつ15年。やっぱり無理かなあ。

 1話1殺な展開を踏むかと思ったら、情報部長の犬牟田宝火があっさり退きそして文化部を引き連れた蛇崩乃音が出てきて、巨大なモビルアーマーと化して纏流子を襲って次週となったその続きを、まるまる30分使ってやるかと思ったらあっさり倒され、けれどもそこはそれ、四天王だけあって進化を遂げて流子を追い込んだもののやっぱりやられてしまってジャージ姿の無星となって、万艦飾マコの側でいっしょにバトルを見学しているという体たらく。そして残る時間を最後の四天王にして前に1度、流子を追い込んだ猿投山渦がその真価を発揮するかと思ったら、飛び込んできた謎の少女が猿投山を指1本でねじ伏せそして流子の前に自分こそは父の敵だといって立ちふさがる。

 何という怒濤の展開。それでもなおかつ先の見えないこのストーリーを、作り手はいったい後何話で描くつもりなんだろうなあ「キルラキル」。鬼龍院皐月の母親が現れ鳳凰丸礼なんてビジュアル的に特徴のあるキャラも加わり混沌さを増す作品が、帰結するのはいったいどの地平? オリジナルってこれだから楽しい。グランクチュリエとかって役職の針目縫だっけ、流子と猿投山との戦いに飛び込んできた少女の他にもきっと似た役職の人とかいそうで、そららが次の相手として立ちふさがるんだろうか。立場から言えばただの娘で、そして1つの学園の支配者に過ぎない皐月なんて足元にも及ばなさそうな存在がずらり出てきて、話はもはや学園バトルでは収拾つかない。だったらいったいどこまで広げる? 日本か、世界か、太陽系が銀河系か宇宙かその外側か。「グレンラガン」にあて「キルラキル」にはないと不満だったそんなスケールアップが今改めて生まれてきそう。もう見逃せない。

 せっかくだからと國學院大學で開かれる村山早紀さんの講演会に行こうと渋谷から歩きはじめたら遠かった。渋谷恵比寿に青山広尾といった地域に囲まれもうシティ感バリバリって所在地からだと思われそうな大学だけれど、渋谷から歩けば10分以上はかかり恵比寿からでも似た感じで広尾からなら20分、表参道からだとやっぱり20分とかかかりそうな“空白地帯”に作られた大学にいったいどうやって皆さん通っているんだろう? それでも私鉄沿線に移転した郊外のキャンパスに通うよりは近いし楽しいんだろうけど、帰りに渋谷とか行けるし。こんな良い場所ならさぞは人気なんだろうなあ、とは思うけれどもやっぱり青山通りに面した青山学院にはかなわないのかなあ、青山が国になるだけで変わる気分。言葉って不思議だ。いやそういう問題じゃないってば。

 そんな國學院で児童文学研究会が主催しての村山早紀さんの後援では、例えば神を信じるかどうか、サンタクロースを信じるかどうか、っていった話なんかが語られてそれを受けて学生さんから神を信じる信じないといった言葉が出てきていろいろと新鮮。この歳になると擦れて神もいなければ幽霊もいないと“分かって”いるつもりになっているけど、そうしたものを信じたい気持ち、信じなくてはいけない切実さといったものがどこから生まれるのか、って辺りを忘れてしまいがちになる。まだ若く未来もあって他愛のないことでも悩んでしまう年頃の子供たちにとって、超越者としての神様っていいうものが持つ、導き手としての存在意義を感じることで何を求めているのかを、少しは知れた気になった。だかといってそれを役立てるような文章も書いてはいないし商品も作ってないんだけれど。

 子供の頃はお金もなくって本も買えなかったけど、それでも古本屋でかったものとか図書館で借りた本をじっくりとどこまでも読み、それから音楽も買ったレコードを何回も何回も聴いたんだけれどお金が出来て本だってCDだっていっぱい買えるようになって、実際に買ってもいるんだけれど昔ほど読まないし聞かないといった話はうん、大人になると誰もが感じる人生の矛盾。それをいつかまとめて読むんだ聞くんだと老後を夢みていたりするんだけれど、この世知辛い世の中にそんな機会は訪れないまま朽ちていくんだろうなあと思うとちょっと虚しくなる。

 そうならないために何ができるか。今の時間を精いっぱいに使う事かなあ、村山早紀さんほど忙しくもないし。もう書くことで人生の時間を埋めているような村山さん。ラスボスを倒した後のような経験値上げみたい、とい言葉は半ば韜晦で本当は読みたい人のために書き、自分が表したいことのために書いているんだとしても一方で、デビューできたという達成感を越えて何かを残し続けることの大変さって奴も感じさせてくれた。そうなる若い人も多いだけに改めて、村山さんの止まらない著作活動を思いつつ、自分が与えられた時間で何を出来るか、何をしなくてはいけないかと考え直してみよう。寝ることかなあ。

 この日記でも上に応援のコメントを書いてリンクも張って1年以上に渡って応援して来た大野安之さんの漫画を原作にした映画「ゆめのかよいじ」が、東京でもようやく公開となって夜のヒューマントラスト渋谷へと駆け付ける。舞台挨拶もあって監督の五藤利弘さんも登壇してなかなか感無量な様子。3年も前に撮られた映画だけれど、中に地震のこれは中越地震なんだけれども出てくるところがやっぱり引っかかってしまったのか、東日本大震災を経て1年ほどが過ぎてようやくロケーションが行われた新潟県での公開となったけれども東京ではずっと公開される機会がなかった。

 石橋杏奈さんに竹富聖花さんは、その後にそれぞれ活躍しているんだけれどまだ、初々しさを残していた2人がいったいどんな演技をしているか、何よりあの大野安之さんの傑作とも言える漫画をどういう映画にしているか、ってところで興味があっても確かめる術がなかったのがこうしてようやく巡り会えた。これは行かねばと駆け付けそして見た映画は、思いの外に漫画「ゆめのかよいじ」のニュアンスをすくい取っていた。田舎に来た少女が古い後者で出会った少女は過去の人。いろいろあって今はこうしてひとり残ってそして都会から来た石橋杏奈演じる宮沢真理が来るのを待っていた。というか待っていたのは違う少女だけれどそっくりな真理の姿に帰ってきてくれたと現れそして夢想の世界へと誘っていく。

 そこでは百合的な、原作が最初に刊行された時にはまだそれほど今ほど一般化されていなかった女性同士の関係がくっきりと描かれほんのりとした甘酸っぱさを感じさせてくれたりしたけど、今時は先週に見た「ジェリー・フィッシュ」のようにさらに進んだ肉体の関係までもが映画に描かれる時代。それを直接描くより思いを抱き続けた少女が巡り会えた真理に向けて発する思いの切なさと、それをどう受け止めようかと悩みある時は拒絶し、ある時は引かれついて行こうとする心の揺れなんかをしっかり描いていた感じ。あと田舎の優しさや古い校舎の持つ味なんかを漫画ではしっかり描いていたけれど、そこは残しつつ今をしっかりと生きてそして未来へと繋げていくことの大切さってものを、映画ではより濃く描いていた感じ。だから観て過去に溺れるより前へと進む気概ってものが沸いてきた。

 漫画だともう少し社交性があった宮沢真理だけれど、映画では東京で家庭にギクシャクしたところがあって心が壊れてしまったまま、それを癒しに田舎に来たって設定になっていて、他人とのコミュニケーションがうまくとれず、むしろ死の方へと心を傾けてしまっていて、それが彼女にその町を漂ういろいろなものを見せてしまっている感じ。けれども少しづつ、他人が頑張って生きている姿を見たりしてフワフワと漂うような自分を地面へと引っ張り下ろして、逃げず生きていくって気持ちを抱くようになる。漫画が描かれた時代とは大きく違ってしまった、壊れやすくて痛みやすい心をどうやって元通りにするのかを、あるいは教えようとした映画なのかもしれない。どれくらの期間公開されているか分からないけれど、何があっても負けずへこたれないで生きていく大切さを知り、そのための勇気をもらえる映画、ってことで今、大勢の人に見て欲しい。是非に。絶対に。


【12月13日】 なるほど可愛い素子に可愛そうなバトーに格好いい荒巻に肩身の狭いイシカワに感じの悪いサイトーに空回りするボマーと来てそして甲斐甲斐しいパズからさらに空っぽのロジコマと、見事に「カ行」で揃えたそのキャラクター裏設定。 「攻殻機動隊ARISE border:2 Ghost Whisper」からキャストが一部登場してトークを繰り広げた上映イベントではプロデューサーの人からそんな性格付けが明かされて、っていうか確か舞台挨拶の時にも脚本の冲方丁さんから聞いたような覚えがあるけれど、ともかくそんな話を聞いて振り返るとなるほど確かに誰もがそんな感じだなあって思えてくるから言葉って不思議。いやこの場合は言葉に合わせて演じきった声優さんの凄さでもあるんだけれど。

 篭の鳥から抜け出してようやく自由を満喫する草薙素子はいろいろ画策もするし戦えば圧倒的な戦闘力を見せるけれど、時々へまもやって命の危険に陥ったりするところは何かとってもかわいげがあるし、そんな素子にすら抑えられて負け犬呼ばわりされるバトーはもう本当に可愛そう。そして素子を軍から拾い上げて自由を与えつつ手綱も締めつつその成長を喜ぶ荒巻は格好いい。border:2の事件だって荒巻の機転があったからこそ相手の思惑を押さえ込むことができた。イシカワは何でも知っているぜ俺、って態度を見せながらも実は操られていたところはハッカーとしてどうよ、って感じで肩身が狭く、サイトーの感じの悪さは金で躊躇せずコロリと転がるところが感じ悪さ炸裂。女性ファンにはモテないね。

 ボマー。何かしてたっけ。そんな中にあってborder:1の頃からパズは素子に気づいて迫りその凄さを体感して見方につくとすぐ決めてから、呼ばれればやって来て荷物を運んだり素子がピンチになった時には身を挺して銃弾を受けてなおかつ手にした銃で敵を討つ。なんとまあ甲斐甲斐しい。女房にしたいくらいだ。じゃあトグサは、ってところを考えるとそこが浮かばないんだけれども「カ行」ってことを考えるなら「考えすぎるトグサ」って感じ? ロジコマの空っぽ具合はもう見たもの聞いたことに新鮮な驚きを見せて喜ぶあたりが元の空っぽさを示してる。でもだったら吸収すれば利口になれる? それはずっと空っぽのままなんだろうなあ、だからあっけらかんと素子についていけるのだ。

 そんなborder:2も観るのが3回目となると素子が高速で赤いバイクを知らずオレンジ色のバイクに乗り換えていたことにも気づけたし、作画枚数が異様に多かったという素子とヴィヴィの電脳会議の場面もなるほど乙姫よろしく羽衣がひらひらと揺れている。それもバンクっぽい動きじゃなくゆらめいて解けて消えていくような感じ。そこまでするのかって驚いたけれどそこまでする必要があったんだろうなあ、黄瀬和哉さん敵に、あるいは竹内敦志さん的に。そんな作画とかCGについてのトークが今度の17日にも開かれるみたいなんでやっぱり行ってどれだけborder:2が凄い作画なのかを聞いてこよう。ロジコマに乗って中空をスパイダーマンしながら素子が逃げるバトーを追うシーンとかいったいどういう空間モデルをつくってそこを動かしつつカメラワークを考えたのか。人間業じゃないものなあ。それをやった人間たち。何が飛び出すか乞うご期待。

 発達し過ぎた科学は魔法と区別がつかないと、長くスリランカに暮らしたSF作家が言ってはみたけど魔法と区別がつかない科学がその後、いったいどれだけ生み出されたかと見渡してもあまり見つからないのは、やっぱり科学では越えられない魔法の世界が世の中にはあるからなんだろう。コンピュータにしたってバイオにしたって科学の集積の上に成り立っているってことは誰でも知っているし、少なくない人がその仕組みをちゃんと答えられる。ブラックボックスになっているところなんて何もない以上はやっぱり魔法と呼ぶのは憚られる。とはいえいつか観たいもの。もはあ魔法としか呼べない科学の姿を。それまではこうやって物語として描かれる発達しすぎた科学によって生み出された魔法の凄さを味わおう。

 その物語は哀川譲さんの「魔法少女試験小隊」(電撃文庫)。魔法少女ってあるからてっきり魔法を使って変身したり、異能を振るったりする少女たちのストーリーかと思ったけれど、ここでいう魔法とは発達しすぎて科学では説明しづらくなっている技術のこと。そして少女たちはそんな魔法の産物であるところの一種のパワードスーツ、アウトフィットを身に纏うことで、とてつもない力を発揮して日常から軍事まで様々な場所で活動している。どうやら男子だって纏うことは可能なようで、主人公の戌井春人はそんなアウトフィットを開発する現場でテストアクターとして働いていて、それなりの適性を示していたけど、妹を引きずり回しすぎて壊してしまってそれが心に引っかかってアクターとしての現場から身を退いてしまう。

 一方のヒロインともいえるアティリアは、ドイツにあってアクターとして優れた能力を発揮していて今回、とある品物を運ぶためにドイツから日本に渡ることになった。ところが、空港へと向かう途中で何者かが操る赤いアクターに襲撃されてピンチになる。偶然にもその場を春人も父親とレクサスで走っていて、荷物を持ってアティリアを逃がそうとする彼女の仲間から半ば託される形でいっしょになって逃亡したもののそ、の先まで追いついてきた赤いアウトフィットを前にしてアティリアが手にした荷物が開いて作動する。それが<オルキヌス>。アウトフィットの中でも真の第三世代といえるものを身にまとってアティリアは敵を退け、そして渡った日本で、同じ学校に入って来たのか入らされたのかはともかく、春人をパートナーにするようにして<オルキヌス>の真の力を目覚めさせる開発に勤しむことになる。

 相当な強さを誇っても、どうやらそれだけではない<オルキヌス>。その開発者の娘と彼女の友人が学校にはいて、最初は春人たちとの間に剣呑な空気も漂うけれど、春人の実力を認めて仲間となって<オルキヌス>の覚醒に挑んでいた先で、再びドイツで現れた赤いアウトフィットの襲撃を受ける。いったい何者? その目的は? 兵器として使われがちなアウトフィットを作り出したこと、それがもたらした悲劇への範囲を示すなら<オルキヌス>を破壊するのが妥当と見るか、それとも別の方法があるのかといった問いかけがあって春人を、アティリアを、そして読む人を考えさせる。

 魔法のような道具だけれど、使えばそこに夢と希望が広がることもある。使うのは人間。その人間がしっかりと道を過たずに進むことで、兵器でも喜びの道具に変えられるのだと知ろう。目先の難題は片づいたようだけれど、話はまだ始まったばかりでいったいどこまで広がるのか。美少女ばかりの中に珍しく適性を持った男子が1人、それが見にパワードスーツをまとって戦うというどこかで聞いたシチュエーションでも、世界が政治から軍事から社会から経済に至るまで設計されているから、美少女たちとのラブコメに溺れて話が進まないってことはなさそう。母親への思いを利用された少女は別にして、未だ不明な本当の敵の正体とか、世界の行方なんかも想像しながら今はようやく始まった<オルキヌス>を巡る少年少女の物語を味わいたい。

 世界三大成沢といえばゲームライターとして活躍した成沢大輔さんとそれから「ジオブリーダーズ」で可愛い顔をして銃撃もばっちりなハウンドの成沢あゆみとそして北朝鮮でナンバー2を張る張成沢だってことに決まっていたんだけれどその一角が何かいきなり銃殺されてしまって大変そう。今の最高指導者の叔母さんの旦那さんという身内でそして要職についていながらあっさり失脚してそして裁判いんかけられ即機関銃で粉々にされるいっていったいどういう国だとは思うけれど、それを過去に繰り返して今がある訳で今さらどうということも言えなさそう。ただジリジリと許容の範囲が狭まっているような雰囲気はあってそれがさらに進んで誰も彼もが疑心暗鬼を生む状態に陥って、明日に彼が今日に彼女とのべつまくなし断頭台、ならぬ銃殺刑に処せられていった果てにいったい何が来る? 外へと向かう暴発か内へと進む虐殺か。どっちいしたって良い話じゃないよなあ。でもどうすれば良いんだろう。まるで見えない北朝鮮。それがもう70年近くも続いている。世界史って不思議。


【12月12日】 目覚めると本田圭佑選手がイタリアはセリエAに属する古豪にして強豪のACミランに移籍が決まっていた。すっげーーーーっ、って15年前なら思ったかもしれないけれどもすでにイタリアではインテルミラノで長友佑都選手が堂々のレギュラーを張っている。まあスクデットはまだだけれどチャンピオンズリーグに出られる位置に今はいるから、このまま食らい付いていけばあるいは今シーズンに優勝なんて目も……ちょっと厳しいかなあ、でもまあ既にそこそこやっているし、スクデットそのものならとっくの昔に中田英寿選手がローマで成し遂げているから初じゃない。本田圭佑選手に与えられるのはだからACミランに入団した最初の日本人選手、って称号くらいか、今のところは。

 だから驚き喝采を叫ぶのはかつて欧州の今でいうチャンピオンズリーグを2連覇したりトヨタカップを連覇したりした前世紀の全盛期を知る人たちくらい。バリューとしてはやっぱりイングランドのプレミアリーグで香川慎司選手がマンチェスター・ユナイテッドに所属してレギュラー定着とはいかないまでも、中心選手として活躍して優勝したことの方が大きいような気がするんだけれど、今のメディアで筆を振るう面子はやっぱり1990年代の残滓を背負っている人が大半だから、ミランで10番というバリューをこそ世界一だと思っているか思い込みたいんだろうなあ、だからニュースとしてデカくなる。ヴォルフスブルクやドルトムントで長谷部誠選手や香川選手がマイスターシャーレを掲げたことよりも。バイエルンミュンヘンで宇佐美貴史選手が掲げたら……それでもミランの10番が大きくなりそうな感じ。

 現実、今のミランはどうにもこうにも浮上できない状況でセリエAでは中段くらいにあってなかなか上に来られない。バロテッリ選手がいたりシャーラウィ選手がいたりと未来のイタリア代表のフォワードを背負って立つ、とうよりすでに立っている選手が所属しているし、あのカカ選手だって今はミランにいたりするんだけれどどこかやっぱりかみ合っていないんだろうなあ、ディフェンスだろうか中盤だろうか、そんなチームに中盤でどっしり構えている上に前戦にチェックし後段に戻って守備もするダイナモのような本田選手が加わって、視野の広いパスも出していったら果たしてどうなるか、というかそういう自由が認められるのかそれとも一角として決まった仕事だけをやるように求められるのか。そんな所でも今後の活躍の度合いに変化が見られそう。監督の腹づもりや如何に。まあ年明けの海外サッカーが面白くなったことだけは確か。見られないけど情報だけは集めよう。ジェフ千葉どうなるんだろうとかってことも含めて。

 こうして見るとプレミアリーグにセリエAにブンデスリーガでそれぞれ優勝した日本人選手がいるんだけれど残るスペインのリーガエスパニョーラだけはまだ、日本人選手のめざましい活躍が見られない。降格を防いだ大久保嘉人選手の活躍もそれはリーグの優勝を争ってのことじゃない。そうなるにはだからレアル・マドリードかバルセロナ、あるいはアトレチコ・マドリードなりバレンシアなりといったチームに日本人が入ってレギュラーを取らなくちゃいけないんだけれど過去にそこへと近づいた選手が見られないのは何なんだろう、あそこのスタイルに日本人が合ってない? でもやってるサッカーに違いはないしむしろパワフルなプレミアとか堅守のセリエAとかに行くより日本人のアビリティを活かせるんじゃないか、って思うんだけれどそれよりやっぱりテクニックの問題があるのかなあ、トラップが誰も彼も性格だもん、落としてそこをかっさらわれるなんてことがない。日本だと代表クラスでもそれがある。その違い、なのかなあ。基本大切、ってことで。久保建英くんだっけに期待しよう。

 そうか去年だったらもう「日本SF大賞」が決まっていたんだあとカレンダーを見ながらつくため息。徳間書店が後援を降りて後、果たしてどこが支援するのかそもそも続くのかっていろいろ言われていたしおそらく、内部で努力もしてたんだろうけれども結果としての現状は去年をもって途切れてしまっているといった雰囲気。あるいは未だ水面下で何か動いているのかもしれないけれど、見えたり聞こえて来ない以上は行われないものとして話を進めると、やっぱり残念であり無念であり悔しくもあり腹立たしくもあり。SFというジャンルの作品のいわば年間チャンピオンを決める賞は見渡してもこれが至上。星雲賞もあるにはあるけど投票数の少なさとその偏りから見るに広く世間に訴え堂々と問えるかというと難しい。ファンによるファンのための賞。それはそれで素晴らしいけどそれだけでもある。

 日本SF大賞だって選んでいるのは作家とか評論家で、いわば内輪ではあってもそこには外に向かって訴えかけるだけの重みがあり、そして訴えを受け入れるだけの素地がメディアなんかにもあった。過去より営々と積み重ねられてきた賞がだんだんと重みを持って着たこともあるだろうし、時代がそうしたSFのようなカテゴリーの作品をひとつ重要なものととして世間が受け入れ始めたこともあるだろう。だからこそ続けなくてはいけなかった。続けることに意味があった。新人賞のようにある程度、煮詰まってしまったり周辺事情が許さなくなって終わる賞も一方にはあるけれどもこうやって、カテゴリーの最高を決める賞だけはなくしてはいけなかったのに、今のところそれが続けられる気配が見えない。それとももう存在しないのか。遠く外野にはまるで窺い知れないけれど、そんな外野だからこそいったい何をしているんだろう? って訝りが浮かんでくる。

 いったい2013年に、範囲的には2012年の9月から2013年の8月までにいったいどれだけの優れたSF作品が世に問われたか。酉島伝法さんの「皆勤の徒」とかはきっとデビュー作でありながらもその徹底的に制御され統御されて紡がれた異形の世界観によってSF的な想像力をかき立てられるとして選考に乗ってきただろう。これは刊行時期的に来期に回るんだけれど菅浩江さん「誰に見しょとて」も、化粧と人間の関係を未来への可能性も含めて描いてのけた。これが取らずして何が取る? といった快心の作品を世に問いながらもその年に限って日本SF大賞が行われない、あるいはずっと行われないのは来る作家にとって何かひとつの未来を喪った気分を味わわせそうだし、受賞者として作品を積み上げ賞の強度を高めてきた作家の人にも何か失礼にあたりそう。だからこそ何が何でも続けて欲しかったんだけれど……。こればかりは外野の彼方ではどうしようもないので何とかして欲しいものと遠くから吠えておく。わん。

 滅葬もない、という言葉はないけれども茜屋まつりさんの「滅葬のエルフリーデ」(電撃文庫)には登場して異次元から来るのかどこから来るのか一読では理解できない難しそうな的を相手に少女たちが戦艦とかになり少年がそれを指揮して戦うストーリーでその強敵を相手に戦う行為を確かそう呼ぶものとして使われている。なんかとってもおどろおどろしいけれども放っておいたら世界が、地球か、宇宙が壊れてしまいかねない事態に人類は幽霊のような敵を相手に戦える能力を持った少女たちを生みだし、その少女たちの力を分け与えた少女たちをさらに作り出しては戦いに備えていた様子。最初に登場するネット上で少女が戦艦となり少年がそれを操るゲームはだから前哨戦。本番に備えて優秀な人材を確保するための。

 そうやって選ばれてきた少年少女たちは江戸海すなわち222・2キロメートルの直径ですっぽりと関東が銚子沖に転移してしまった後に出来た海の上に作られた人工島にある学校に通っているけれど、そうしたエリートたちとは違って江戸海の側に暮らしていた主人公の少年も、学区が近いからという理由でその学校に通い始めた訳だけれども、そこに遠く外国から凄い力を秘めた少女がやって来た。名をエルフリーデ。でもあんまり利口そうじゃない。強そうでもない。そして選抜ではなく一般コースに通っている。どうして? ってあたりに秘密があってそれが少年と出合い能力をそして記憶というか過去を引っ張り出されていくという展開。そこに少年がネット時代にパートナーにしていていて今はエリートな少女が絡んできて恋のバトルが始まるのか。

 そう思ったら、本当の敵が攻めてきて少女の戦艦の中に死者も出るというシリアス展開。人類はもうダメなのか、ってところで少年のシビアでそしてシリアスな力が発揮されたりして、戦いは本番へと向かうという辺りでまずは1巻の終わり。少女を戦艦に見立てて戦わせたり沈んだら永久にお別れになってしまうといった、某ゲームが醸し出す空気感に似た雰囲気も持ち合わせて狙っているなあと思うけれども、それを知らず読めば状況の設定自体が持つ複雑で奥深そうな凄みとか、少女たちが戦艦などになって戦うバトルのスリリングな描写とかオリジナルの読みどころはたっぷり。キャラクターの性格付けもメリハリが利いていて読んでいて飽きないし誰かにきっと恋できる。主人公の妹であっても……ちょっと怖いか。なおかつそこに加わるラスボス級少女。なおかつ仄めかされる悲劇の予兆。ならば続きを読むしかないんだけれど、出るかなあ、出て欲しいなあ。


【12月11日】 前にもそういやあチラッと流れたトレーラーから大きく進歩して、ハリウッド版「ゴジラ」の予告編がいよいよ登場。ビルにでっかく開いた穴とか食い散らかされた列車とか、前に見たトレーラーのビジョンを残しつつもそこに登場人物たちが加わって、巨大過ぎる怪獣と戦う人類といった物語の構図が浮かび上がってきた。のっけから全身をアーマードスーツで固めた一群が空挺として空から落ちていったりしたけど、どうして地上からメーサー砲とかで攻撃しないのか、戦闘機とかで向かわないのか、って辺りも敵の怪獣の持つ強さを想像させる。近寄れないんだろうなあ、きっと。かといって遠くからICBMを落とすわけにもいかない。じゃあどうやって戦う、ってところで生身の人間が活躍する素地があるのかな。それがあの空挺部隊かな。なんてことを考える。

 そういえば、かつての「ゴジラ」だって最後は人間が発明した武器を人間が直接送り込むことによって、どうにかこうにかゴジラを鎮めたっけ。オキシジェンデストロイヤー。平田昭彦さんが演じる芹澤教授がそれを手にして向かったような展開を、今度は誰かが演じることになるんだろう。もしかしたら宝田明さんとか? それはないかなあ、でも渡辺謙さんも出演しているみたいだし、何かしらの大きな役とか演じてそうで、そういう面からもちょっと期待したくなる。なによりあの巨大な感じ。尻尾の付近を飛ぶヘリコプターだっけかの実に小さく見えること。そうなると怪獣はいったいどれくらいの大きさになるんだろう。100メートルでは利かなさそうだけれど、そんな物体が立って歩くってことも異常。ならばどういう説明がされるのか、って設定とそして何よりハリウッドレベルでの特撮が、描き上げて繰り出すストリーはきっと全世界を満足させるだろう、前とは違って。来年5月の公開が今から楽しみ。

 こうならないようにするための転換点は過去にいくらだってあったはずで、それこそ福田康夫元総理の政権をしばらく続けることが出来れば、その後の麻生太郎元総理の政権を安泰の中に終えてそして谷垣禎一総理なり高村元彦総理なりを経て、例えば河野太郎総理といった政権を次々に繰り出すことによって日本を保守でありながらも中道を行き謝罪外交ではないけれども居丈高でもない外交を打ち立て、アジアを安定の中に導いていくことだって出来たかもしれない。愛国心だの秘密保護法だの共謀罪だのといったものは議論にすらあがらず閣議にも上らず、当然ながら国会でも審議されるることなく雲散霧消しいていったんじゃなかろーか。けれども福田政権も麻生政権も周囲のギャンギャンとうるさい声によって潰され、そして誕生したのが民主党政権だけれどこれが誕生しなければ、って思いはその後の体たらくを見れば今なお浮かんで仕方がない。

 とはいえ誕生してしまったものを潰す訳にはいかないのなら、そこで担ぎ上げた人たちを支えていくことによって今のような状況へと至らせないことはできた。鳩山由起夫元総理はなるほど言動にどこか突飛なところがあったけれど、それは天才ならではの説明不足によるもので、周囲がしっかりと支えていけばあれでなかなか優れた勘所を発揮して、拙い状態へとは陥らせない運営が出来たんじゃなかろーか。菅直人元総理も同様で、原発事故に際しての危機感を最大限に発揮してとてつもない事態を防いだことは、それが多少の混乱をもたらしたかもしれないとしても補って余りある貢献だろう。あそこで誰もが逃げ出していたら、いったい関東に何が起こったか。それ1つで攻めるにあたらないことだと分かるのに、頭が頓珍漢なメディアは未だに激しく粘着してこき下ろしている。そうすることでしか祭り上げたい現職総理の顔が立たないとでも考えているのだとしたら、よほど現職総理は低い場所におかれているってことになる。現に伊藤博文から数えても最低に近いことをやりまくっている訳だけれど。

 そんなお歴々を拙いなあとは想いつつも、仕方がないこれ以上のことをされるよりはと支えていれば良かったのに、世間は目の前で起こっていることはすべて気に入らないことだと不満をぶつけて引きずり下ろし、首をすげ替えてきた。その中で特定の勢力にとって耳障りのよい言葉が誇張され、それに引きずられ煽られた人気が世間の流れを作ってしまって結果、今の政権が誕生してはもうやりたい放題のことをやっている。誰の責任だ、ってもう選んだ僕ら国民の責任以外の何者ではなくって、そこに例えメディアの煽りだの何だのが介在したところでそれが本当か、胡散臭いのか見極める手段はいくらでもあった。けどそれをしないで怠惰に流れ煽りに載せられて選んだ政権が何をしようと、もう自業自得としか言いようがないんだけれど、それで世界が滅びてしまってはたまらない。過去はともかく今、何をできるかを考え今度は将来にわたる戦略を練って攻める相手に挑まないといけないんだけれど、そんな戦略あるかなあ、「艦隊これくしょん」が得意な人なら勝てる戦略を生み出してくれるかなあ。

 なんかメールでバンダイというかメガハウスがやってるメガトレショップから昔出た「機動戦士ガンダム」のキャラクター、ランバ・ラルのフィギュアが復刻されるって話が届いて何でまた今頃、って想ったけれども考えてそういやここんところしばらくツイッターのタイムラインでラインバ・ラルがどうしたこうしたって話が流れてきているのを見ていたことに気づく。ガンダムビルドファイターズ。そこにラルさんっておじさんが登場しては昔のグフのプラモデルを使っていろいろ活躍しているらしい。昔からのファンならそれだけで大喜びで改めて中年(35歳らしいけど)の太っ腹だけれどもシャアなどいう若造にはない強靱な肉体から放たれるパワフルでエネルギッシュな魅力って奴を感じ取って、その足元に傅きたくなるだろうし新しく知った人もだれこのおじさん格好いい、ってなっているんだろう。そんな層を改めてねらい打ちするこの復刻。素晴らしいけどそれ以上に前にこんなものを作っていた方が素晴らしい。おまけに売れたんだよなあこれ。今どきの二枚目ズラリなアニメには存在しないキャラクター。また見たいよなあ。THE ORIGINで再認識させたいなあ、こうした脇役の存在を。


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