縮刷版2013年12月上旬号


【12月10日】 朝っぱらから朝日新聞のサイトで「特定秘密保護法は、何が秘密なのかが分かりません。それだけに、企業はこれから、政府の顔色をうかがい、原発輸出や資源確保など『富国強兵』にかなうことに突き進む可能性があります」という大学の偉い学者先生が特定秘密保護法について話した言葉を読んだんだけれど、何が何だかさっぱり分からない。国防だの外交だのナーバスに扱わなければいけない情報を国が秘密にしたら、企業がそれに触れるかどうかと怯えながら仕事しなきゃいけなくなるってことなんだろうか。原発輸出をやらないから、資源確保に及び腰だから国是にかなってないから逮捕する、なんてことを官憲が言い出すことがあるって意味なんだろうか。どっちにしたってまるで繋がらない。

 それとも企業が日々何かしらの活動をしているとして、時に官憲なり政府なりがその企業に自分たちの言うことを聞かせたいと思った時に、特定秘密保護法っていう範囲も深さもまるで見えない法律の網ですくってみて、企業の日々の活動がちょいとひかっかったぜと言って脅かして、自分たちのやりたいようにやらせるってことなのか。それはそれで大問題だけれど、そうなるロジックってのをちゃんと言わないと、この人なにを被害妄想してるんだって思われ阿呆扱いされるのがおち。今回の特定秘密保護法に反対しようとするメディアのロジックのことごとくが、中間がまるっと抜けて理論がまったく伴っていない、弾圧という結果と法律の成立を無理矢理結びつけようとしたものばかり。だから誰も納得せず理解せず、支持もしないで反対の大きなうねりを作りあげられなかった。

 東京新聞なんかは実際に流行ってもいなかった「ひみつのアッコちゃん」に絡めた替え歌「ひみつのアベちゃん」がネットで大流行しているなんて書いて、すぐさまその記事が出るまでたったの3件くらいしか話題にしていなかったことを指摘されて赤っ恥。そういう戯れ歌が流行っていることを媒介にして特定秘密保護法や安倍総理を批判したいという意図そのものは理解できない訳ではないけれど、このネット時代につけばすぐに嘘だとバレる記事を平気で書いてしまうところに目的のためには方法なんて良いんだよ、ってなりふり構わない姿勢が伺えて居心地が悪くなる。そして将来が不安になる。

 もちろんライトの側だって解きにこじつけを振りかざして左側の真っ当な意見を封殺にかかることがあるけれど、少数意見のせめてもの抵抗であってそれが世論を形成することはあまりない。でも今回は国の未来すら窺わせるような大切な案件。それを有りもしない話をでっちあげたり、論理を無視していたずらに不安を煽るような記事ばかり出して世間の反発をくらい、結果として推進派の後押しをするような事態になっている。とてつもなく頭の良い、そしてふところも裕福で考え方に余裕のある人たちがどうしてこうも稚拙な文章とか言葉を吐くんだろう? そこが幾ら考えても分からない。あるいは頭がいいからこそ、わざと自身の阿呆を晒すことによって、敵とみなしている官憲なり政府の味方を結果的にしているのだろうか。その狙いは? あるんだよなあ新聞社には。左右を問わず国から与りたいおこぼれが。やっぱりそういうことなのかなあ。

 ふと気がついたら、昔どこかで背中合わせに仕事をしていたことがあった大門小百合さんってジャパンタイムズの女性記者がジャパンタイムの編集担当執行役員になっていた。つまりは一般の新聞の言うところの編集局長って奴で、ジャパンタイムズでは初らしいし日本の新聞全体をとってもたぶん初。過去に大勢の女性記者はいたし千野境子さんのように部長から取締役になったという人もいたにはいたけれど、編集のトップといった職に就いた人はいなかっただけにこの英断に驚くと同時に、それだけのキャリアを持った人はちゃんとそれだけの場所に行くんだなあと感嘆することしきり。ハーバードに留学とかしてたものなあ。問題はそうした大門さんの編集局長としての仕事ぶりが、どういった方向へとジャパンタイムズの中身を導きそれが世間にどれだけの影響を与えているかを読めないこと、だって英語だもん。ただそれだけに海外にはストレートに伝わりやすく、あるいは日本を代表する言説として受け止められる可能性だってありそう。その責任は重大だけれどやりがいも多そう。だから頑張ってとエール。まあ覚えられてないだろうけれど、あっちは編集局長でこっちは窓際から窓の外。下を見れば断崖絶壁で落ちるばかり。嗚呼。

 ああ、これは凄い、確かに凄いと言えるミステリーが第12回「このミステリーがすごい!」大賞から登場するみたい。初稿のプルーフとして読んだ梶永正史さんって人による「警視庁捜査二課・郷間彩香 特命指揮官」(宝島社)は親の後を継ぐようにして刑事になった30あたりの女性が主人公で、警視庁の捜査二課で警部補として主任代理の立場にあるけれども彼氏はおらず部下から信頼はされても親しまれているような感じはなし。それでいて身だしなみには気をつかってブランド服とか着込んだりするとこもあるから決して仕事の虫って訳ではない今頃の今どきな感じのアラサーっぽさって奴を見せてくれているんだけれど、そんな彼女が何故か渋谷で怒った銀行強盗による立てこもり事件の現場指揮官を負かされる。

 何でまた。犯人からの使命だから。そして出むいた先で先輩刑事に疎んじられたり警察庁から来た得たいの知れない男にうろちょろされたりした果てに、いろいろと明らかになっていくという展開はアラサー女性の思いが滲むと同時に日本の過去に起こり今に津ながらる因縁が浮かび上がって社会に爪を向ける。ミクロでありマクロな味が絡み合って醸し出される極上の味覚。生き生きとしたキャラクターたちによって繰り広げられる物語が、次にどう転ぶのかを常に楽しませてくれる。その大仕掛けを1冊で終えてしまうのは勿体ないけれどもきっとほかにもいろいろと材料は用意してあるんだろう、といった可能性も鑑みつつシリーズとして登場するのか、別の作品へと向かうのか、いずれにしても作者の才能って奴がどう発揮されるのかを待ちたいけれどもまずはこの1冊。売れるだろうなあ。ドラマ化だってあるかなあ。それくらいに面白いんだよこれ。彩香には誰が良いかなあ。

 どういう段階にあるのかは分からないけれども風の便りによれば2015年のコミケットSPは千葉県千葉市美浜区にはる幕張メッセが使われることになるとかで、そういえば2010年のコミケットSPは水戸で開かれて見物に行ったなあとか思い出したりもしたけれど、そういう地域活性化という手段を置いても5年に1度のスペシャルを、かつてコミケット会場として使われながらもその後、使用しなくなった幕張メッセにするという状況からは来る2020年にやってくる東京オリンピックで会場とかに東京ビッグサイトが使われて、コミケがひらけなくなることを想定してその代替会場として首都圏ではベストな場所として、幕張メッセが挙がるだろうことを想定して下準備を兼ねて開いてみる、っていった判断があるのかも。

 開催が決まりながらも使用を断られて大変なことになったという過去があるってことは伝聞で知っているし、今なおそうした“追い出し”の原因となった表現の問題がかつての条例レベル以上の厳しさでもって燻っていることも知っている。かといって他に場所もないといった時に幕張メッセで開催するには、どこかにある蟠りをどうやって解すべきか、そして何を取り入れて開けるようにするべきか、って辺りを詰めていく上で2015年のコミケットSPという特別なイベントが好機として利用されるってことになるんだろう。これは千葉県に限らず商業出版の分野でも表現のたがが一方で緩み、それに対して厳しい規制も行われ恥めている状況で、自分たちが欲しい場所がどうやったら維持できるのかを誰もが改めて考え直す機会に来ていると言えそう。そこにクリアすべきひとつの段階として幕張メッセでの開催があってそこから次へと向かう道が生まれる、なんて言ったら言い過ぎか。いずれにしても大きな実験。決まったらその先行きを注視しよう。「DAI−HONYA」みたいな事件だけは勘弁ね。


【12月9日】 視聴率で10%台は堅持したみたいな「安堂ロイド」の第9話、しばらく前に消滅したはずのサプリが復活していたり、大島優子さん演じるところの沫島礼二の妹・七瀬が精神病院みたいなところで雁字搦めに拘束されているわと数回見ない間に展開がグッと進んでいてクライマックスに近づいている感バリバリ。ボスがそんな七瀬もしくは別人格の礼子でそしてラスボスが礼子によって作り出された桐谷美玲さん演じるアンドロイド娘だってことは分かったけれど、どうして沫島礼二と安堂麻陽が狙われるのか、ってあたりはちょっと飛ばした部分が多すぎてはっきりとは分からなかった。

 ただ2人の存在は未来からの多大な干渉をはねのける原動力にはなっているようで、それを希望の旗頭としてサプリなり、前に破壊された筈の公安部長の角城なりが安堂ロイドを助けて戦っている様子。逆に言うなら謎のアンドロイド娘たちが守っているものがいったい何で、それによって未来の世界がいったいどんな風になっているのかを、遡って知りたいところだけれど再放送もなければかなわないから発売されるだろうブルーレイボックスでも買って確かめよう。とりあえず井上真樹夫さんが石川五エ門でもキャプテンハーロックでもないその素顔で登場して、強い意識を持った政治家を演じている場面を再見。存在感たっぷりだったその声が、実は井上さんのものだと改めて確認したいから。

 そんな「安堂ロイド」の緊迫する戦いの裏では、NHKが太平洋戦争へと至る過程での日本やアメリカ、ソビエト、ドイツといった国々が繰り広げていた情報戦話とかやっていて、結論としてたくさん情報取りすぎてもそれが疑心暗鬼を生むだけで、結果として戦争への道は止められなかったって訴えていたのが耳に痛かった。もう負けるって確実に分かっていたはずなのに、アメリカと戦争しちゃうんだもんなあ、情報なんて何の役にもたってない。今だって日本でも情報を重視するとか言い始めているけれど、その情報をどう使うかってことが重要なのに、為政者の頭の中にあるのは何をやりたいか、ってことだけ。戦争やりたい、他国をギャフンと言わせたいからそのために必要な情報を並べろとか。だから日本版NSAだっけ、そんなの作って全世界から情報集めるとか言ったところで、結果的には取捨選択されて為政者のやりたいことのアリバイ作りにしか使われないだろー。すべては人次第。その人がアレな訳で。お先まっくろくろすけ。

 赤瀬川源平さんが一万円札を模写した時だっけ、あの精緻な印刷物を大きく拡大してそれを精密に模写したものはまあ、作品として認められても表側だけとか一色だけのお札をするために原版を作って印刷したら偽札作りと間違われ、そのまま裁判になって負けてしまったという“事件”がかつてあったっけ。いくらアートとしての行為だと言っても、そして他にもニセ札に近い玩具のお札はある中でどれだけ自分たちのは突出しているのかいないのかを訴えたところで、いったんそうと決めた官憲の思いは覆せなかったとでもいうのか。見れば明らかに玩具と分かるものでも、そうしたことを行う行為をこそ官憲は問題にしたんだろうし、逆に赤瀬川さんたちはそうした行為にこそアート的な意味を持たせようとした。かみ合うはずはなかったってことで。

 そんな闘争に比べると、今回起こったという昆虫が交尾している場面を描いて四十八手のような注釈をつけて並べた“図鑑”が実は、元にある写真なんかを参考に描かれていたものだったことが露見したという一件は、それが商業の場で出版されてしまったという時点で、写真を撮影した人たちがはらった苦労なり資金なりへの敬意とかをまるで考えていなかったという部分を咎められても仕方がない。ただこれがアート作品として、写真を参考にしながらも交尾する昆虫の不思議なビジュアルを、大きなキャンバスに拡大して模写して描いたら果たしてどうだったのか。アンディ・ウォーホルじゃないけれどキャンベル缶なり有名なスターのポートレートなりを拡大し、様々な色で写した絵をアートとして世に広めたことに少しは類似する振る舞いとして、理解されないまでも考慮されたんじゃなかろーか。

 あるいはデザインのひとつのアイディアとして、ネット上に散見させる昆虫の交尾の写真を絵にして描いてそこに四十八手の注釈を付けて並べると、どんな不思議な雰囲気が醸し出されるかということを学内で課題の1つとして提示したとしたら、同じように学生の活動として許容されたかもしれない。作った側もそういう意識の中で写真を元に自分なりのアイディアを付けていったんだろうと思うけれどもそこでそれを自分の作品だという思いを抱いてしまったことがひとつあり、そうした思いに対して出版社が何かしらの是正を求め、諫めを入れた上で商業出版として可能なものとして万難を排する努力を怠ったことが、今のような自体を生んでしまったような気がする。

 絵の巧さとデザインするアイディアはあっても、その元ネタが拙かったというか。だから作者にはこれをひとつのきかっけとして、何が良くて何がいけないかを理解した上でその画力とアイディア力を使った作品を、世に問うていって欲しいもの。ネット時代だけあっていつまでもしつこく言うような輩は大勢いるだろうけれど、自分の力さえあれば、やがて認められるってことは幾つもの事例が証明している。まずは今の一件を綺麗に収めた上で次に作り出す何かを期待して待っていよう。しかしなあ、現役の女子で藝大生が交尾の画を、って役満にドラ載せたような煽りでもって売りだそうとした出版社の意識はやっぱりどこか不粋だよなあ。それに引っかかって煽ったネットのメディアも。そこですかさず叩きに回って安全圏に逃げるんだから益体もないというか。それもまたネット時代ならではの炎上の形なんだろうけれど。

 魔術師はサーカスの曲芸師だった妻を事故で喪い娘も病気で喪って失意のうちにサーカスを去り世界をさまよい歩いた果てに、ひとり故郷の日本でホテルに勤めて悔いつつ余生を送っている。老作家は病弱だった妻のためにと端正だった筆を曲げて評判に走って名声を得て金も得たけれどもその代わりに本意だった文章を綴る場を喪った。そしてアイドルは理知的だった自分を曲げて誰からも好かれる道化を演じてそれを喜びつつスターへと近づいたものの事故で命を無くして今は幽霊として街を彷徨っている。聞けばどれも決して幸福とはいえない境遇。むしろ同情を抱きたくなるけれども、そんな彼ら彼女たちの苦しみや哀しみを感じることで生きること、生き続けることの大切さへと思いを馳せる。村山早紀さんのシリーズ第2作「竜宮ホテル 魔法の夜」はそんな物語。

 魔術師は置いて引きこもったホテルの一室で、サーカスに残った息子とその妻の間に生まれた孫娘が日本に来ていて、祖父に会いたいといってパーティ会場を抜け出したことを知ってホテルを飛び出そうとする。老作家は主人公の女性作家がかつて自分が名乗っていた、そして今は使わなくなったペンネームによる文章を褒められたことで自分が本当にやりたかったことを思い出し、今を間違っていたとは思わないまでも過去を諦めないでいることを思い直す。そしてアイドルは死んでしまった自分を儚むことで今にこうして生を受けている者たちへと生きることへの思いを植え付ける。悲しいけれども嬉しい。寂しいけれども暖かい。決してハッピーエンドばかりでなく、そして癒しばかりではない厳しさを持っているからこそ、ハッピーである大切さ、暖かさを求める意味を思い知る。深いなあ。そして重たいなあ。だからこそ読んで欲しい、甘さに流されるだけではない、苦さを噛みしめた先に来る味わいを求める人たちに。


【12月8日】 ふと気がつくと池辺葵さんの「繕い裁つ人」という漫画が実写映画になるって話が転がってきていた。確かにアニメーションよりは実写に向く作品。とくにファンタジーが出る訳でもなく祖母が営んでいた洋裁店を受け継いだ女性が優れた服を作ったり古い服を繕ったりして評判になりながらも、大きな場所へと出ていくことは頑なに拒んで街にあって服を愛する人たちに答え続けているというストーリー。何十年もジャケットを着る人とかいなくなり、この季節に来たら来年はまた別のを着るようなファストファッションの連なりに溺れがちな現代にあって、その服への思いに溢れた内容は珍しくもあり、そして大切でもあったりする。

 そんなストーリーだけに派手な演技も賑やかな音楽もいらない。淡々としながらも切々と服に対する思いを貫く女性を描いて欲しいなあ、という気がするけれどもそういう地味な原作を地味なまんまで映像化してくれるほど、今の映画界って甘くはなさそうだからなあ、原作に出てくる藤井って百貨店のバイヤーをだから人気の男性アイドルにして、市江ってヒロインの繕い裁つ人をやっぱり大手事務所のモデルさんとかにしてその話題性だけでお客を集める作品になってしまいそうな気も。そうでないからこそ滲んでくる切々とした思いが伝わる漫画なのになあ。さてもどうなるか。お手並み拝見。

 そんな「繕い裁つ人」の池辺葵さんによる漫画「どぶがわ」(秋田書店)また心に深く染みてくるストーリー。とりわけこの歳になって独り者で狭いアパートを本とかDVDとかフィギュアで埋め尽くしてより狭くしながら布団にくるまるように寝ている人間にとって、いつか来る独居老人としての日々なんかを思わされて身につまあれる。もっとも、そんな不安を余所にアパートに独りで暮らす老女の日々は、案外に充実したものなのかもしれない。低地を流れて悪臭が流れ出してくるような川の側にあるベンチに腰掛け、老女はいつも妄想する。メイドに傅かれ家族に囲まれ美味しい食事をとったりお茶を飲んだり。それで1日を過ごしている。

 家に帰れば何もなくって、ひとり寝るだけの布団の周囲に童話やファンタジーを並べ夜に手にとって読んでは夢の世界へと遊ぶ。そして朝になればベンチに腰掛け洗濯物を干しながら妄想の世界へと心を静める。その繰り返しが果たして寂しいものなのかどうなのか。本人にしか分からないことだけれど、でも他にやりたいこともなく、願うこともない身にとっては日々がしっかりと送れていることは、それで幸せなのかもしれない。もっとも周囲から見れば妙なおばあさんで、道を行く子供はどぶがわから漂ってくる臭気が嫌だと役所に文句を言い、ベンチもとっぱらって草刈りをして綺麗にしてくれと訴える。もっとも、そうやって言い続けた文句がだんだんと変わっていく。きっかけは老女。その言葉に触れ毎日を静かに送る姿に触れるうちに、ささやかでも居場所があることの大切さがその身に感じられるようになっていく。

 クレームを受ける役所の公務員も老女の存在がちょっとだけ日々を買える。長い生活から生まれたギャップから妻との関係がギクシャクしていた公務員だけれど、老女のふりまく風のようなものがその妻に伝わり公務員にも届いて2人の関係を改め治す。そんな感じに「どぶがわ」という漫画では、社会の片隅で、あるいは底辺で慎ましく生きる人たちの日々が繕われ解されていく。ある少年は親の離婚で部活を辞めて一戸建ての家を出て、老女と同じアパートの別の部屋に暮らすようになって彼女の日々に触れる。やはり同じアパートで暮らす青年は、レンズ磨きの仕事に毎日精を込めて取り組み、それが世界で認められたことにささやかな喜びを感じつつ、老女が口ずさむ歌に心を解れさせる。

 道を行く少年は雨の日に傘を持って立ち寄ったベンチで老女の隣に座り、昔話を聞いてそして彼女から「これからいろんな景色が見られるなあ」と言われる。それは少年を励ましたものなのか。まだたっぷりとある余命を羨ましがったものなのか。はっきりとは言えないけれども、そのどちらかもしれないけれども少年はそこに感じ取る。末路へと向かう臭気のような苦しさではなく、未来から漂ってくる香気が誘う可能性というもの。少年はそそこに辿り着こうと決意する。

 本が数冊と布団に食器類だけしか身の回りにはなく、食事は安くもやしラーメンか何か。そんな老女の暮らしを幸福だと普通の人はやっぱり思えない。そうなることへの恐怖すら感じてしまうけれども、たとえ物質が周囲に堆く積まれていたってそれを手に取る心の余裕、たっぷりの時間がなければ意味がない。自分が自由になる時間で自分の自由な妄想によって世界を歩み、そこで幸せな気分に浸ることの方があるいは、人間にとっての幸福なのかもしれない。そんな幸福を彼女が感じていたからこそ、周囲もそのおこぼれに与ったのかもしれない。彼女が去りしあの町は、もうギクシャクすることはなく、静かにそして確実に歩んでいくだろう。未来へ。そういう存在になれることが、もしかしたら人間にとって最高の幸せなのかもしれない。

 納豆パワーなのか単純に早寝が聞いているのか日曜日でも午前7時には目が覚めてしまったので、せっかくだからと下北沢へと出むいてトリウッドで今日から限定上映が始まった「寫眞館/陽なたのアオシグレ」の上映を見に行く。五反田での試写に池袋での上映を合わせて4回とか見ている感じだけれどもでも、あの新海誠監督の伝説を生んだトリウッドで見るっていうのはちょっぴり意味が違うような気もしないでもない。石田康祐監督もだからこれで伝説を作ってメジャー街道を驀進して欲しいって気もしないでもないけれど、それにはやっぱり「陽なたのアオシグレ」が伝説になる必要がある。12月は日曜日に1回だけの限定上映っぽいけれど、1月からはレギュラーの上映も始まるみたいなんでそっちが連日の札止めとなるよーな伝説を生んで欲しいもの。でも見るとなかむらたかし監督っていう超ベテランにして超天才の静かな中に凄みを讃えた「寫眞館」に驚かされ泣かされるんだろうなあ、大半が。まだの人はこれを好機と絶対に行くべし。

 ガイナーレ鳥取とカマタマーレ讃岐の間で行われていたJ2とJFLの入れ替え戦は讃岐が勝利したようで見事にJ2昇格となってこれで四国にJ2のチームが3つ、誕生したと思ったら何とすぐさま徳島ヴォルティスが京都サンガとのJ2昇格プレーオフ決勝に勝利してJ1行きを決めてしまってこれで四国にはJ2が2チームにJ1が1つと九州に迫るサッカー王国っぷりを見せてきた。九州はサガン鳥栖がJ1にほぼほぼ定着していてファーレン長崎にギラヴァンツ北九州のアビスパ福岡に大分トリイータとまあ、どこがJ1に上がっても不思議はない程度の実力を持ったチームがひしめき合っている。四国の躍進をみて自分たちもを思い頑張ってくればなかなかの激戦を楽しめるんじゃなかろーか。

 しかし四国で自分たちが1番だと幕末的な発想を多分持っているっぽい高知が戦列に加わっていないのは、高知県民的にやっぱり忸怩たる思いがあるんだろうなあ、南国高知FCがJ3を狙っていたけど却下されたみたいだし。名を「いごうっそう」から取って「アイゴッソウ高知」とかにしてJ3参入を目指すみたいだし落ちてしまうことになるガイナーレ鳥取と「がいなvsいっごうそう」な方言ダービーを繰り広げてくれる、って光景も期待できそう。とか言いつつだったらジェフユナイテッド市原・千葉はいつになったらJ1に上がれるんだって気分ももわもわ。すっかりJ2が板について蒲鉾になりかかっているのをどうにか、ひっぺがして上に持っていきたいけれどもそれをやるだけの脳味噌が、フロントにはなさそうだからなあ、徹底的に鍛え上げて走力に劣らないチームを作りあげないといけないのに、何か昔に比べて選手たちの線が太いんだよなあ、ジェフ千葉。来年も同じ監督同じフロントならやっぱりJ2かなあ、上がったところですぐ落ちそうだしなあ。参ったまいった。


【12月7日】 そして気がつくと、ワールドカップ2014ブラジル大会での日本代表の対戦相手がコロンビアとコートジボワールとギリシャに決まっていたようで、いわゆる欧州のサッカー大国ってところと当たらない組み合わせを僥倖と喜ぶべきかというと、対戦相手はどこも強豪揃いで1つとして簡単に勝たせてくれるチームなんてない。それどころかコテンパンにやられる可能性だって多分にあるんだけれど、サッカーといえばイングランドにドイツスペインイタリアフランスオランダといったところが強豪と思い込んでいる日本のメディアは、そこと当たらずラッキーとかって報道をこれからもそして戦前も繰り返すんだろう。ブラジルアルゼンチンもいないし。

 でもコロンビアは南米予選をアルゼンチンに次ぐ成績で抜けてきたチームで、率いるは知将ペケルマン監督。かつてバルデラマ選手やらイギータ選手エスコバル選手といった凄い面々が揃って優勝だって狙えたと言われた1994年のアメリカ大会に勝る成績を収めるかもしれない好調なチームを、ブラジルでもアルゼンチンでもないからって蔑ろになんて出来るはずがない。というか南米から出るウルグアイだってスーパースター揃いの強豪な訳で、2010年のパラグアイにも歯が立たなかった日本がかなう国なんて1国もない。じゃあアフリカは? これもやっぱり強豪揃い。その中でもコートジボワールと当たってしまった。言わずとしれたプレミアの得点マシーン、ディディエ・ドログバ選手を筆頭にヤヤ・トゥーレとコロ・トゥーレの兄弟もいたりとやっぱりスター揃いのチームになっている。

 なおかつ2010年の南アフリカ大会で、親善試合に臨んだ日本代表によってドログバ選手は骨折させられ本大会での活躍を制限された。その怨み。その因縁。日本を相手にした初戦で本気になって晴らしに来るだろう。もうひとつのギリシャ。いつかのEUROでもって堅守を誇って優勝したあのイメージを鑑みるなら、守備を固めて日本なんて寄せ付けない中でパワープレーから1点を奪い逃げ切るだけの力も技術も秘めている。だいたいがオリンピアコスを始め世界に名だたる強豪チームが国内にあって、サッカーが弱いはずがない。経済問題はあってもことスポーツになると血が騒ぎ肉が踊るのはどこもいっしょ。むしろそれに賭けたい国民の思いを背負って向かってくるだろう。勝てるなんておこがましい。粉砕されなきゃ良いけれど。

 そりゃあ個人的にはイングランドでもスペインでもドイツでもオランダでもフランスでもイタリアでもクロアチアでもどこでも、サッカー強豪国と呼ばれるチームを本気の戦いをする姿を見てみたいって気はあって、それが予選ではかなわないのは残念なところ。とはいえいつかのドイツ大会みたいに、ブラジルに粉砕されてしまうのも寂しい話なんでここはとにかく逃げ切り寄せさせないまま予選リーグを抜け出しそこで、トルコとかパラグアイといったチームを侮る訳ではないけれど、本気の勝ち抜きに挑んでくるイングランドなりドイツなりスペインといったチームを相手に堂々の戦いを見せて欲しいもの。そこで粉砕されてこそ日本の真価ってのも分かり、何をすべきかってのも見えてくるはずだから。侮って幻想の中にまだやれたはずだと思い込むのはもう沢山だから。

 お隣韓国はベルギーにロシアっていつかの日本代表みたいな相手が並んでそして、残る1つもアルジェリアだからこれがチュニジアだったらまるで2002年の日本になるところ。北アフリカって意味ではまるで一緒か。それだけに勝てるかもって気にはなっているだろうけれどもロシアは強いしベルギーだってやっぱり強い。昨今の韓国代表の様子をあんまり観察していないからその強さは分からないけれども、安心をして舐めてかかったらやられることは確実なので、そこは長く出続けている経験を生かした戦いでもってリーグを抜けてアジア枠の堅持に勤めて戴きたいもの。スペインとオランダ、イングランドとイタリアとか欧州どうしの凄い戦いも見られそう。どうやら中継もNHKと民放が頑張ってくれたみたいで普通に見られそうだけれどもそれまでにテレビ、買い換えた方がいいかなあ、未だにアナログなんだよなあ。

 せっかくだからと「東京ミネラルショー」を見に行って新世界「透明標本」なんかを観察、人気だなあ、鉱石や宝石や化石といったものが中心にならぶミネラルショーにあって生の標本を売るのって果たしアリなの? って最初は誰もが思ったし出している側だって思ったに違いないけれども、もう5回とか出ていたりするとすっかり風景にも馴染んだみたいで第2会場の入り口正面だなんて絶好の場所にブースを構えて入ってくる人たちの目を釘付けにしている。昆虫の標本とか動物の骨格標本とか他にも似た傾向の品はあってもやっぱり透明標本は存在も雰囲気も独特。他にない価値ってものを感じているから主催者さんも石類を出しているディーラーさんも、あって不思議のない存在として受け入れているのかもしれない。

 ずっと主戦場にしていたデザインフェスタから「新世界」は引いてしまったこともあって、主宰する直接冨田伊織さんから「透明標本」を買えるのってもうミネラルショーくらいになってしまったこともあって、ずっと追いかけて来ている常連さんも続々と訪れている様子。そんな相手も驚かせるようなエビとかカブトガニとか用意していたりするところがまた巧い。今は道具も薬剤も手に入りやすくって色々な人が作っているけれど、そうしたセレクトとそれから色合い、そして生物を扱うことへの敬意ってものも含めた総体的なアートとして、屹立しているからこそこうして支持を集めるんだろう。9日まで開催中だから時間を見てまた行こう。何か欲しいけどでもやっぱり、高いんだよなあ、アート系なんかはさらに高いし。

 著作権表記が作者と版元の連名になっている件については未だにその意味が分からないぽにきゃんBOOKSだけれど、とりあえず子安秀明さんって人の「ランス・アンド・マスクス」ってのを読んでううん、まあ悪くはないんだけれどもこれだけのページを重ねてこれくらいしか話が進んでないのって良いのかなあ、とは思った。基本は同居した幼女が実家に政略結婚させられそうになったのを居候の騎士が助けにいくってだけだもん。騎士が例えば凄い格闘技の使い手で肘から角とか出してバッタバッタとなぎ倒すとかいった展開はなく、運動神経が良い騎士だって程度で大活躍を見せてしまう。なおかつ騎士だからといってその愛馬がとてつもないパワーを発揮する感じもない。というか現代に騎士って何なんだ? そんなた突っ込みすら浮かぶんでくる。

 物語的には騎士が居ていい世界観にはなっているらしいんだけれど、それも絶滅寸前らしいからやっぱりどこかかみ合わない。現代に騎士がいて馬を飼っていて従騎士がいてお付きのメイドのような存在までいて、そんな名家の出身の騎士がなぜか家出をして彷徨っていたところで少女を救ったんだけれど、その時はなぜかマスクを被っていて、そして行く当てもなく彷徨っていたところを助けた少女に誘われ居候になった時にはマスクがないから誰とは気づかれない。とはいえ少女が危機におちいった瞬間にマスクをつけて助け出す。それでもやっぱり気づかれないという都合の良さはまあ、魔法少女も含めて変身ヒーロー&ヒロイン物にはよくある話だけれど、それほど変身している訳でもない、ただの騎士がどうしてそんな力を発揮できるのか、ってた辺りがやっぱり気になる。そこが気になりさえしなければ、「紅 −Kurenai−」にも近い青年と幼女の関係を描いたストーリーとして読んで楽しいかもしれない。ってなところで。うん。

 せっかくだからと金子修介監督の「ジェリー・フィッシュ」を横浜は黄金町にある映画館「ジャック&ベティ」まで見に行ったらこれがなかなか良かったよ。女による女のためのR−18文学賞から出た作品の映像化で、これが共に初主演という大谷澪さん花井瑠美さんが文字通りの体当たり。主体性を持って好きとか気持ち良いとかどういうことをかを求める大谷さん演じる夕紀って少女と、主体的なようで相手の快楽を自分の喜びにしている花井さん演じる叶子って少女が出会いそして……。開放的なようで主体的なようで実は叶子は男子に求められても女子を求め女子に求められても男子を誘う。それはたぶん相手の主体を自分の体に写しているだけで、むしろ夕紀の方が暗そうに見えて自分でいろいろ求めてる。

 そんな2人だから起こる擦れ違い、求め合い、重なり合って、けれども満たされない不思議な関係が瑞々しくもナチュラルに描かれる。自分はいったいどちらの側にいるんだろうと、女性の観客が見たら考えそうだし、男子も自分が向かいあっている女子が本当は何を思っているのかを、改めて問い直してしまいそう。本当に自分を求めているのか。自分が求めている相手を演じているだけなのか。そんな複雑な役柄を、大谷さんも花井さんも初主演なのに実にしっかり演じている、それぞれのキャラクターの性格までをもそこに寓言かさせている。凄いとしか言いようがない。

 そして、その惜しげもなくさらされる裸身も含めて、何度も言うけど体当たりの演技を見せてくれる。それはもうすっぽんぽんにまでなって。2人ともスレンダーなのにちゃんとメリハリもある大谷澪さんと、どこか中性的な雰囲気を漂わせる花井瑠美さんの、どちらが自分の好みかは見て考えよう。それこそBDが出たら買ってじっくり見たいけど、いつ出るか分からないから今は劇場で観られる機会に見ておくこと。とりわけ大谷さんはこの後にあのベストセラーライトノベルの実写映画かという話題性たっぷりな「僕は友達が少ない」での星奈役が控えている。そこではどこか躁気味だけど内実は虚ろなお嬢さまて役をこれも見事に演じてくれている。そんな演技派の片鱗を、「はがない」では制服に隠されるボディを味わいに行こう劇場へ、横浜ジャック&ベティへ。


【12月6日】 映像だったらお金を出した会社とかもあるだろうから、そんな会社が著作者になるってことは分からないでもない。でも、小説っていうのは誰が書いたかってことだけが重要であって、著作者も作家その人ひとりになるのが当たり前だし、それ以外はあり得ないと思っていたら、何か新しくポニーキャニオンから創刊された「ぽにきゃんBOOKS」ってライトノベルの新レーベルでは、巻末の奥付にある著作権表記が「(C)著者/ポニーキャニオン」って感じに、版元が著作者に名前を連ねていた。どういうことなのかさっぱり分からないけど、もしかしたら小説の作成にあたってポニーキャニオンが相当なお金を出資しているってことなんだろうか、だから権利を折半かどうかは分からないけれども共同で持つことになっているんだろうか。いろいろ考えたけれどもやっぱりさっぱり分からない。

 ライトノベルの場合だと、イラストを寄せる人の力も相当にあるってことでスニーカー文庫みたいにイラストの人の名前が、奥付の著作権表記で作者と並んでいたりするケースもある。でも版元が並んでいるってケースはあんまり見ない。だからこそその意味が知りたいところではあるけれど、聞いたところで教えてくれるほど気楽な関係なんてないんで、ここはひたすら想像するだけに止めておくとして、やっぱりいつかの映像化なんかを見込んだ時に、原作者の1人としてそこから収益を得られるようにしているか、あるいは原作者の1人としてメディアミックス展開にいろいろ意見を言えるようにしているのか、なんて可能性が浮かぶ。原作者がノーといったら進まない展開が、その1人として権利を持つことで容易になるといった感じ? それが小説なり本の著作権展開として正しいかどうかは分からないけれど、本を出しても稼げない時代にいろいろ展開して稼ぎを厚くするって意味からも、そういう方法はひとつの解決策になるのかも。でもやっぱり気になるなあ、その真意。

 そんな「ぽにきゃんBOOKS」から、とりあえず表紙に「パンツ」とか帯に書かれて興味を引かれた明秀一さんって人の「閃光のホワイトアウト」ってのを読んでみたけどうん、これはまあ面白かったかな、SF的に。リアルワールドに重なるよーにバーチャルワールドなんかがテクノロジー的に存在している日本で、そうしたバーチャルワールドにあってエクスウイルスっていうバグみたいなウイルスみたいな悪い存在と戦う魔法少女って存在があって、その活躍はネットで中継なんかもされるみたい。そこでの支持が力にもなる仕掛けもあるらしく、魔法少女によっては大勢の支持を集めようと過激な姿を見せたりもするけれど、そうした風潮に逆らうように、言動は渋めでむしろ罵倒するような口振りを見せて戦う詩織って名のがいた。どうも以前に妹がバグに食われ消えてしまったみたいで、その姿を負いつつ日々戦っていたという。

 ただやっぱり相手も強くなっているらしく、バーチャルワールドの開発に携わったエンジニアの女性が少女にボディガードめいた存在をあてがった。それがユキ。エンジニアの弟君。もっとも魔法少女にボディガードの男なんて人気に関わるだろうと思ったらさにあらず、ユキはもう見るからに女の子という容姿の持ち主で、魔法少女の格好になって見えそうなパンツを見られれば、もっこりが出ると抑えて動き回ってそれが逆に観客の昂奮を誘ってなかなかの人気ぶり。それをガードする詩織からは変態扱いされ、それでも任務と目的のために戦っていた2人の前に強敵が立ちふさがる、という展開。あれだけ管理がガッチリしているはずのバーチャルワールドになんでウイルスなんか発生するのか? ってあたりに何者かの作為が想像できそうって部分が、桜井光さんの「殺戮のマトリクスエッジ」とも重なりそう。それだけに状況が明らかになっていく今後が楽しみ。強敵の攻撃で服を破かれつつそれを力に変えて戦ったユキの末路は読んでなるほどな展開。あるよなあ、そういうこと。

 ライトノベルシーンは何とはなしに触っていても、音楽となると山下達郎さんとジャンクフジヤマさんときゃりーぱみゅぱみゅにあとはKalafinaやらSCANDALといったところくらいしか聞かず、ほかはアニソンばかりという人間なだけに、何がいったいどうなっているのかを語る言葉も、その土台となる知識もない。だからこそ今の音楽シーンについてある程度、俯瞰できるような視点が欲しいと五反田にあるゲンロンカフェって所に行って、音楽関連のライター業で活躍するさやわかさん、宇野維正さん、柴那典さんって3人によるトークイベントを見物する。まずはさやわかさんによる概略めいた説明があって、そこでAKB48とかEXILEとかジャニーズといったグループが産業めいた活動によって数字を取っている状況の、その是非ではなくそれが成立している「面白さ」って奴を聞き、ひとつ視点が変わる。

 そんなの音楽じゃないと批判するんでも、売れてなんぼのビジネスだから良いじゃんと迎合するんでもない、ちょっと引いてそういう状況がこの日本で成り立っていることの不思議さを、日本の音楽関係者はもっと自覚した方が良さそう。今や世界が配信になている時代に、日本だけがCDってソリッドなメディアを使って大きな商売をしている。これってとっても凄いこと。だったらいっそガラパゴスのようなこの状況を、世界に向けて利点としてアピールして日本でならCDという特異なメディアで勝負できるんだと、海外アーティストに思わせ日本へと脚を向けさせる。それが日本の音楽シーンの豊穣を読んで世界をリードしていく、なんて未来すら想像させてくれるトークだった。本当にそうなるかは知らないけど、でも本がこれだけ普及して物への感傷が根強い国。ひとつの文化資産としてその企画から製造から展開まで、残って行きそうだなあ。

 そんなトークイベント、自分自身の好きか嫌いかなんてものも底流におきつつ一方で産業として成立していることへの是認といった意識もはらみつつ繰り広げられた中でやっぱり、AKB48のような存在への意識とか、ボーカロイドというか初音ミクが形作る音楽シーンへの意識とかでは世代的な違いもあるからなのか三者三様な感じがあったのに、中田ヤスタカさん関連のとりわけきゃりーぱみゅぱみゅを据えて繰り出される音楽やそのシーンについては、3人ともポジティブに感じられたのが面白かった。 宇野維正さんはきゃりーぱみゅぱみゅが本当に好きそう。大宮のツアーファイナルも見たそうだけれど、のライブ評をどこに書いたのだろう。「もったいないとらんど」への緻密な音楽分析も含めての激賞コラムとか読むと、ライブの構成やステージから放たれるその音楽性をどうとらえたのか興味有る。探してみよう。

 あとトークで興味深かったのは、これは柴那典さんが感じていることで、大資本に属してデカいことやるのもインディペンデントに作り手売りすることも、本人がそれを良しとするなら全部あり、そうした誰もがハッピーにやりたいことをやれているのが今の音楽シーンだとかで、これって大変そうに見えて実は案外にひらけているのかもしれない。音楽的にどうなのかは別だけれど。あと柴さんはボカロについて割と肯定している口振りだったけれど、僕としてはボカロについては初音ミク、というひとつのキャラにすがり楽器なんだけど属性容姿まで規定した中で作りそれを尊ぶ風潮がある一方で、楽器に徹してオリジナルな音楽活動をボカロの上でやる人たちもいる、その区分け切り分けが難しくってシーンを俯瞰しづらい。ミクだから聞くって人も少なからずいるし。

 でもそうした音楽的にどうよって話も、世代によってガラリと変わるもので今の中学生とかが良いと感じる音楽を、上が音楽的にどうよと言ったところでだって良いんだからと言われればそれまで。これはライトノベルにも当てはまること。そんな時に批評は必要か、何のためにあるべきか、って考えたり。まあその辺もミクをキャラではなく楽器の代名詞的に使いオリジナルな世界観を作り人気になっているPもいるから、時間がすべてを変えていくだろう。もはや10代とか「初音ミク」であのビジュアルを思い浮かべなくなっている、なんてことはあるのかないのか。いずれそうなるのかどうか。考えたい。そんなこんなのさやわか×宇野維正×柴那典トーク。今のシーンを産業面から感情面から品質面からそれらを総合させた全体面から見る上でさまざまな軸線をくれる良いイベント。片面から見ても説明できないキメラ的なシーンを大づかみできそうな気になった。ちょっと本気でいろいろ聞いていこう。やっぱりセカイノオワリから、かな。


【12月5日】 それにしてもと思うのは、衆院の委員会とかで法案が審議のまな板に乗ってあれこれ言われ始めから、世間というかその界隈が急激に騒ぎ出し、それを受けてメディアも騒いでますよと騒ぎ出して、何か大変なことが起こっているんだなう、とやったところでそれはもはや審議のまな板に乗って調理されるのを待つばかりで、今から引っ込めたりすることがどれだけ不可能なのかは、過去のそうした法案審議の採決具合を観ていれば明々白々だったりする。にも関わらず、ここに来て少なくない人たちが国会を取り囲んだり、映画とか文学とかの偉い人たちがこぞって反対のメッセージをだしたところで、いったい何が変わるというのか。世間にやってますよ反対運動とか伝わるったところで、肝心の法案は審議停止にはほぼ絶対に追い込めず、衆院も通り参院も通って法律となって試行されて国を縛る。結果的に何の役にも立ってない。

 そりゃあ慎重に慎重を期して審議してくれると思っていたはずの国会が、妙に急いで法案を遠そうとしているのを見て、これは拙いと慌てて反対運動を強化した、ってこともあるかもしれないけれども一方で、今の政権がそうした法案をそういう風に強行突破で成立させようとしている節があることは、もうずっと見えていた。だったらもうちょっと反対にもやり方があって、早くから凄い人たちが並んでパレードでもしてこれはヤバイと一般の人にも分かるようにするとか手はあった。憲法改正について日本で最も支持を集めているアニメスタジオの両監督がPR誌に堂々の寄稿を行って、それが世間に大きな釘となっていることを見れば似たようなことだって出来たんじゃなかろーか。でもそうはならなかった。全部間際の後出しジャンケン。なおかつ絶対に勝てないという。

 どうすれば良かったのか、どうしようもなかったのか。それはだから政権選びの時からどうにかしないといけなかったはずなのに、ひとつ目の前のことをイケナイことだと騒いでその対象を悪の権現の如くにみなして騒ぎ立て、それがメディアによって利用され増幅されるかたちで対象の失脚へとつながってしまって、今のどうしようもなくどうにもならない政権が現れてしまった。いやいや根っ子はもっと前からあって、国営マンガ喫茶とこき下ろされた総理大臣がそれを煽られ誹られ引きずり下ろされたけれどもでも、今となってはクールなジャパンは国家戦略でもあって内容の吟味さえされればそれはあって悪いものではなかった。

 是々非々に。それが出来ないで是か非かの2分法でもって処断しまくった果てに現れるだろう到達点が、何をしでかすのかを誰も想像できなかったのだろうか。想像したって動かせないくらいに雁字搦めの制度が作り上げられてしまっているのだろうか。そっちの方がむしろ問題、多様性が尊ばれずひとつの問題だけで処断され排除されてそして、大勢が決まってしまうこの状況にこそ言葉を発して変えようとするべきなんだけれど、それももう遅いか、それこそ多様性を求める意見が排除される体制が、既にそこに出来上がってしまっているんだから。「遅すぎた」。後藤隊長じゃないけれども前線から遠のいたところで反対ごっこをしていたら奧ではガチガチなカタマリが出来上がっていたという。もう変えられない。あとは転がり落ちた果てに砕かれ砂粒となるばかり。嗚呼。

 をを。いつの間にハリウッドで製作中の映画のタイトルが「エッジ・オブ・トゥモロウ」になっていたりした桜坂洋さん原作の小説「All You Need Is Kill」が映画の公開を目指してコミカライズされて週刊ヤングジャンプで連載されるみたい。描くのはあの「DEATH NOTE」で「バクマン。」の小畑健さん。あの緻密な絵でもってシリアスで虚無的な展開がどう描かれるのか。今から興味が尽きないけれども果たして展開は映画に準拠したものとなるのか原作そのままなのか。主人公の年齢に差異があるだけにそのあたりどういう取り上げ方になるのかがちょっと気になる。映画は公開日も決まってポストプロダクションが進んでいるみたいなんでよくある企画だけってことにはもうならない。ヒットするか否か。それだけが問題だ。大丈夫だとは思うけど……。それ以前に桜坂洋さん、何か仕事はしているのかな。早く書いて欲しいな「よくわかる現代魔法」の続きとか、新作とか。

 実際の展覧会を見たのは初台で開かれていた第2回目からだからコンプリートではないけれど、それでも回を重ねて17回目まで来た「文化庁メディア芸術祭」は、ついに海外からの応募が国内からの応募を上回るという状況に。想像するならメディアアート作品とかを中心にしてアート部門に集中しているんだろうとは思うけれどもそれはそうした作品を顕彰する仕組みが海外なんかにもあんまりないから、なのかなあ、アルス・エレクトロ二カってあるけど一般が公募できるようなアート展なのか分からないし。だから遠い日本で国がちゃんと選んで表彰し、展示までしてくれる展覧会っていうのは貴重でそこでの栄誉が世界での活躍に繋がると思えば、何をおいても狙ってくるんだろう、審査する人も大変だろうなあ、ただでさえ意味性が難解な上に言語の壁もあるような作品も見て講評しなくちゃいけないんだから。

 だからカールステン・ニコライって結構なビッグネームも応募してくることになる。その作品はブラウン管の上を振り子のように磁石を移動させて現れる干渉模様を撮影するってもので、面白いかっていうと……。ただ目には見えないものを視覚化して存在を明らかにするというのは昨今の、幽霊のように忍び寄って来る放射線とか不況とかファシズムとかいった様々なものへの得も言われぬ不安を、可視化することによって感じ取りそれへの賛否をはっきりする意味からも必要な行動。そこへの道筋を与えてくれるって面からもまさに「今でしょ」な受賞なのかもしれない。

 そしてエンターテインメント部門はアイルトン・セナのアナログな走行記録を元に1989年の鈴鹿でのセナの走りを再現しようっていうもので、エンジンの回転数とかアクセルの踏み込み具合とか速度とかからエンジン音がこれくらいってのを割り出しそして鈴鹿サーキットの上に並べたスピーカーで再現してみせるというのは、壮大でバカバカしくそして懐かしくて面白い。ビッグデータとかいって膨大な情報から何かそこに生命のような統計のような傾向のようなものを割だそうとかって話も出ているけれど、この作品は過去に残された記録からでも記憶の奥底に眠っている思い出を引っ張り出すことが出来るんだという事例。映像でも残っているんだろうけれど、それがある意味で一面的に成らざるを得ないのと比べると、記録から割り出す現実に想像の力を乗せることでよりリアリティーを持った過去を甦らせることができる。

 今回は本田技研のプロモーションの一貫として作られたものだけれども他のプロジェクトに残された記録なんかから、記憶を喚起する過去を甦らせて欲しいもの。アイディアがあれば受賞チームへ。会社か何かなのかな。そしてアニメーション分門は国内に傑作も多々あったけれども韓国からベルギーに養子として渡ったユンさんと、ドキュメンタリー作家のローラン・ボアローさんが作った「はちみつ色のユン」が受賞。ベルギー人の家庭に国際養子として引き取られたユンだけれど、肌の色も髪の色も目の色も違うその容姿から家族の間でぎくしゃくし、周囲との関係でもいろいろ言われたりしながらそれでも家族の愛情を感じ、周囲の理解なんかも覚えて成長していくというドキュメンタリーとフィクションが入り混じった話になっている。

 これは多分日本人でも海外に行って感じるだろう事、あるいは日本人が海外から人を迎えて感じる事で、特別さの反対側にある自分をどうやって確立し、いじけず誇りもせずに周囲と対等の関係を築いていくか、見かけは違っても中身は同じなんだということを理解し、血が繋がらなくても家族なんだと思えるようになるか、って辺りを考えるきっかけになりそう。受賞作品としての上映もあるだろうから是非見たい。優秀賞は納得のラインアップでそして新人賞に久野遥子さんの「Airy Me」が入ったのが納得、だって凄かったもんあの変態的に動いて変化してく絵は。同じく新人賞の姫田真武さんもインパクトが凄い。見れば脳髄を焼かれる。去年だか推薦作だかに入って流れていたのを見せられただけで脳髄が焼き付いた。きっと審査員も脳髄を焼かれて推してしまったに違いない。

 マンガ部門は今さら感も多々あるけれど、今だからこそ感もやっぱりある荒木飛呂彦さんの「ジョジョリオン−ジョジョの奇妙な冒険Part8−」が受賞。ここのところの海外ブランドとのコラボレーションとかも含めて一般層への知名度もグングンと上がっている上に、作品があの震災への荒木さんの思いなんかも含んでいることもあってこの受賞となったみたい。マイナーな作家を世に出すことに流れがちでそれも当然素晴らしく、今回も九井諒子さんの「ひきだしにテラリウム」が優秀賞を取り今井哲也さんの「アリスと蔵六」や町田洋さん「夏休みの町」が取って存在が大きく世に伝わったけれどもそうしたピックアップしたい気持ちをねじふせ、これこそが大賞と思わせる力を「ジョジョリオン」は持っていた、っていうことで。会見に望まれた荒木さんは今もって若々しくて健康そう。何より二枚目。それでいつも笑顔で漫画を描き続ける人間性。メディア芸術祭に限らず国が文化遺産として顕彰すべきなんじゃないかなあ、もはや。


【12月4日】 せっかくなので噂のスマートフォン版「ドラゴンクエスト」をダウンロードしてずっとやっているけど、レベルが12まで来たもののさっぱりどこにも行けないまま、あっちろうろうろこっちろうろうろしながらお金を稼ぎレベルアップしつつちょっと遠出しては死んで王城へと転送される繰り返し。クエストめいたことをまるで考えずに行き当たりばったりなのでそれも仕方がないんだけれど、いい加減飽きてきたんでそろそろちゃんと街を巡って秘密を聞き出しクエストの完了に向けて動き出したいところ、ではあるけれどもやっぱりちょっと難しそう。とりあえずレベルを20まで上げるところまでうろうろするか。どうすりゃ廃墟となった街でキラキラと光る何かを誰にも邪魔されないでとれるんだ?

 そうか来日するのかローリング・ストーンズ。オーストラリアでの公演が明らかになった辺りで日本にも来るんじゃないかと噂はあったけれどもここに来てようやくの発表となって、ちょうどポール・マッカートニーを観たばかりでもあるし彼が所属していたザ・ビートルズと合わせて20世紀の伝説を、間近に観られるこれがもしかしたら最後かも知れないチャンスということでとりあえず幾つか申し込んでいく。ポールみたいに当たるかな、当たらなくてもまあいいや、ほとんど聞いたことないし、ってそれはビートルズやポールも同様か。それでも観ておきたい世界遺産。果たしてどんなパフォーマンスを見せてくれるのか。外国人のアーティストは幾つになっても本気だろうからきっと凄いステージを見せてくれるだろう。期待して待とう。まずは当選のお知らせを。

 当選といったら東京ドームでのクリスマスに行われるPerfumeのライブが追加で当たってしまってちょっとドキドキ。まあ席なんかはきっと2階席とかで後ろのほうで踊るPerfumeの脚すら見えない場所なんだろうけれど、どんな演出がなされてそれがどういう風に会場を盛り上げるのかを知るなら遠くから離れた場所で客観的に観るのが良さそう。そういう意味では一種の参加権。そこで繰り広げられるステージが世界に出たらどうなるかを、ちょっと前に観て本当に数人のメンバーとシンプルなセットだけでその歌声を、メッセージを僕たちに届けてくれたポール・マッカートニーのステージと比べて考えよう。とりあえず席がどこになるかがドキドキ。スタンド前方だと良いけれど。真後ろとかでも悪くないかな。どこなんだその席。

 「ルパン三世」の実写版について北村龍平監督が何か石川五エ門に刀を持たせて今どきの世界を歩かせるのはおかしいからやらせないって言った話が回ってきて、それで良いのかといろいろぶったたかれていたけれども当該の記事を読んだら何のことはない、北村監督本人が語っていた訳ではなくって映画評論の誰かがそう言ってたって話を拾っていただけ。内容において正確性が本当にあるのか曖昧過ぎて只の釣り記事なんじゃないかとすら思えてきた。釣ってなんぼのタブロイドだし。だいたいが「VERSUS」って映画で刀と銃とが入り混じってバトルする話を映画にしている北村監督が、その得意技を封印してスーツ姿に小型なでも持たせた五エ門なんて造形するはずがない。あるいはそうであってもいざとなったら手にした刀を振りまわしては誰も彼も斬り捨てなぎ倒して進んでいく狂乱のサムライを描いてくれるだろう。

 むしろアニメだの何だので散々っぱら人の手垢にまみれたルパン的な表現ではなく、現代的に斬新なルパンを造形してくれたほうがなんぼかマシ。隠し芸大会の物真似演劇にはならない可能性を北村龍平監督なら示してくれるだろう。だったら五エ門が刀を持っていないことくらいどうということはない。逆にドキドキとして待つ方が先なんだけれども文句を付けたい人たちは北村龍平監督だから、色男ばかりがキャスティングされたからと文句を言う。だったら日頃からルパンの特番を観ているのか、それを観て本当にこれで良いと思っているのか。そもそもルパンって何なんだ。そこを考えるならいろいろなルパンがあって良い。そういうふところの深い素材なんじゃないのかなあ、ルパンって。だから何も気にせず北村龍平監督の才能を信じて完成し、公開されるのを待つことにする。きっと驚かせてくれるだろう。ただ長すぎるのだけは勘弁。そこは編集にお任せして。

 というかこっちの企画のほうを世間は心配するべきなんじゃないのか、実写版「進撃の巨人」が再び動き出したみたいで、前のよーに現代を舞台に何かメタっぽいものを撮ろうとしていた節が伺える中島哲也監督ではなくちゃんと特撮バリバリのSFアクションにしてくれそうな樋口真嗣監督を起用。脚本の協力者にウェイン町山さんこと町山智浩さんも入って2015年公開に向けてこれから製作が進んでいくらしい。メンバーについてはこれ以上はないと理解。ただし問題はやっぱり予算と技術で、日本のいくら優れたCG技術を使ったところでその予算規模から考えるならハリウッドの小品にすら及ばない出来になるだろー。

 だって日本で「かぐや姫の物語」が50億円ですっげえって言われているけれど、ニール・ブロムカンプ監督の「第9地区」だって30億円とか当時られてそれでようやく宇宙船の凄さって奴を表現している。これが「エリジウム」なら100億円超であれだけの不思議な空間を実在のもののように描き上げた。巨人が出てくる映画だったら「ジャックと天空の巨人」が2億ドル弱。200億円とかいうお金を注ぎ込んでようやく巨大な存在をその重量感も含めて表現せしめた。それだけの大金を日本の映画に、いくらベストセラーだとはいえ漫画が原作の映画に注ぎ込む度胸もなければそもそも原資が存在しない。

 中島哲也監督の構想ですら満足に実現させられないファイナンス状況で樋口監督の構想を、そしてファンの期待を実現するような製作資金が集まるか、そして技術が取り入れられるか、って考えるとちょっとやっぱり疑問だなあ、むしろ海外の技術に頼って映画化を進める「ルパン三世」の方が見た目にハリウッド的になりそう。そういう可能性を鑑みつつもなぜか矛先は北村龍平監督へと向かう。そこが映画界の優しさっていうか甘さっていうか。まあ今のところはまあ何も動いていないし映像だって出来上がっていない。アニメーションの最高品質の出来をそのまま映画化してくれた有り難いっていう声が出るのも理解できるくらいの状況だけれどそれも映像が出来てくれば、どんな評判だってねじ伏せてしまえるだろう。だから早くパイロットを。そしてファンたちに落胆ではなく期待を。

 億千万年こそ移動しなかったものの今回も時間があっというまに重なっていった「ミス・モノクローム」は幕張メッセのホールで行われたっぽい番組でマネキンの物真似をやり続けたモノクロームさんがアイドルの握手会を観て自分もやりたいと言いだしやり始めたらその握力を見初められアームレスリングからボクシングを経てプロレスリングまで至ってあちらこちらで戦い勝利を収めてトロフィーとかベルトを持ち帰ったという展開。どれだけの時間が過ぎ去っても変わらずコンビニは賑わい店長兼マネージャーも側にいる。変える場所があるって良いなあ、ってそこで終わってしまったら話が進まない。いったいどこへと向かわせるんだろう。やっぱりKIKUKOとの再会? その先も想像ができないなあ。まあ観ていくだけさ、まったりと。


【12月3日】 せっかくだからと金曜日で上映が終わる「空の境界/未来福音」をテアトル新宿へと見に行ったら、夜の9時10分からという遅い時間だったにも関わらず、割とお客さんが入っていた。公開が確か夏あたりでそしてこれまでよくぞ引っ張ってきたものだけれど、それでも途切れない客層にアニメーションとしての、あるいは原作も含めたその世界観への関心の深さが伺える。キャラクターへの愛情もあるだろうし残酷さと優しさを兼ねそなえたストーリーへの共感もあるだろうけれど、そんな一翼を梶浦由記さんの音楽が担っていることについてもやっぱり、考えておいた方がいいかもしれない。

 第1章となった「空の境界/俯瞰風景」で突きつけられたあの、どこか遠くの方で響いているような、けれどもすぐ近くで囁かれているようなボイスが交じった深淵で荘厳な主題から始まって、展開が激しくなれば激しい音楽が高らかに響き渡り、明るくなれば明るい心情に添うような音楽が輝くように響き渡る。決してストーリーを邪魔しない、それでいてストーリーになくてはならない音楽たちが一体となってあの、ダークだけれど切実な世界観というものを作り出してきた。もしも別の作曲家だったら? そんなことはもう考えられないくらいに「空の境界」と梶浦由記さんの音楽は、重なり合い混ざり合って存在している。存在し続けている。

 これは「魔法少女まどか☆マギカ」のシリーズにも言えそうなことで、どうしてあの賑やかで華やかそうな魔法少女物に、「空の境界」の時に危うげで時に儚げで、とてつもなくスピーディでスリリングな梶浦サウンドが? あるいは「NOIR」のような情動を弾けさせるような梶浦サウンドが? って思った人も最初はいただろうけど、ストーリーが進むに連れてその残酷で切実で、悲壮感にあふれ慟哭に喘ぐような世界観が浮かび上がってくるにつれ、そこに添えられる音楽としてマストでありベストなものだという理解が確かなものになった。時に心情を弾けさせるシーンで奏でられる明るい音楽。そして悲劇へと向かう過程で低層から突き上げるような暗い音楽。その差異はすなわち「まどマギ」という作品が魅力として持つ差異であり、それを表せる作曲家として梶浦さんは他に代えがたい存在だったって言えるだろう。

 そう思うと2013年に話題を作った「空の境界/未来福音」であり「劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」という2つの作品を共に手がけている作曲家として、日本の音楽シーンがもっと注目しもっと持ち上げもっと讃えてもっと世に訴えるべきだとすら思えてくるけれど、それで引っ張り回されて本来の活動が鈍っても困る。知る人と知る、という人が世に知られることへの嬉しい半面、ちょっと俗世にまみれて嫌かもという心情の寸前にある今がだから、1番ファンにとって心地良い時間なのかもしれない。「NOIR」のブルーレイボックス化というトピックもあって、過去の傑作群に触れるチャンスも増えてるし。

 とはいえそんな活躍を世間が放っておくはずもなく、既に「歴史秘話ヒストリア」のシリーズで実績があるNHKが何と朝の連続テレビ小説「花子とアン」に梶浦さんを起用し来年4月からスタートするという。そこでいったいどんなサウンドを見せるのか、朝に相応しい壮快さと煌びやかさにあふれたポップなサウンドか。そんなはずがない、人の情動に添い展開のスリリングさを煽り、見る者の心の奥底へと届くサウンドを作ってきた梶浦さんだけに、朝のお茶の間に驚きと感動をもたらす音楽を作り出してくれると信じよう。どんな音楽になるのかな。梶浦語にあふれて誰もが口ポカーンかな。

 気がついたら「日本ファンタジーノベル大賞」が25回をもって一時休止だそうで、まずは残念という気持ちと共に読売新聞社、清水建設というファンタジーにもSFにもあまり関心がなさそーなところが主催していて、よくぞ今まで続けてくれたものだという感謝半分、懐疑半分の気持ちも募る。だってメリットないもん、読売新聞社はそれでも新潮社からの出稿というのが期待できるけれど清水建設はファンタジーノベル大賞の作家の作品を使って何か新しいビルとか建てられる訳でもなければ、未来に向けたビジョンをそこから放っていますというメッセージを打ち出せる訳でもない。

 完全なメセナ。あるいは慈善事業に過ぎないことを、やっぱりあんまりメリットの見られない三井不動産販売の後を受けてどうして引き継いだのか。誰かの何か強い意志なり意識があったんだろうなあ。だからこその感謝でもあって、清水建設がここで退くことへの一切のネガティブな感情は浮かばない。ありがとう御座いました、と言いつつ一方でこうした思弁思索を含んだSFともミステリーとも言えて言い切れない、境界を行ったり来たりするカテゴリーすら曖昧な小説群を世に送り出して、エンターテインメントのジャンルにひとつの棘みたいなものを刺して世の中の流れが一辺倒になることを抑えてきた日本ファンタジーノベル大賞の作品群であり作家たちが、世に出る機会を奪われたということには寂しい思いと勿体ない思いが募る。

 いったいどこへと持っていけば良いのか。角川のホラー大賞とは雰囲気がちょっと違うしハヤカワSF新人賞でもSF濃度の有無で弾かれそう。東京創元社は短編が基本でやっぱりSFプロパー色が濃い中で、境界を漂いながらどっちにも発展していく可能性を持った小説を、広い育てる装置が失われてしまうのは将来に結構な禍根を残しそう。日本ファンタジーノベル大賞がなかったら、森見登美彦さんはいったいどこからデビューしただろうか。あるいは高野史緒さんは世に出て後に江戸川乱歩賞を受賞するような作品を書くに至っただろうか。

 そして酒見賢一さん。あるいは歴史小説のジャンルに進出したかもしれないけれどでも、あのどこか虚構を含んで事実とも真実とも違うけれども深層をえぐり出しているような小説を確立し、世に存在感を示せたかと思うと難しいんじゃないかって気がしてる。文学に寄れば虚構を重んじられ歴史小説に寄れば虚構はことごとく廃されドラマティックであることが求められる。それは酒見賢一さんとはちょっと違う。北野勇作さんの諧謔を含みつつ思弁を重ねた不思議な世界。佐藤亜紀さんの絢爛として衒学的にして洞察を含んだ世界。SFのカテゴリーに絡みとられフォーマットに当てはめられるとか、歴史小説のドラマ性に引っ張り込まれて簡単な物になってしまったんじゃなかろーか。

 「僕僕先生」の仁木英之さんとか「しゃばけ」の畠中恵さんとか「陽だまりの彼女」の越谷オサムさんとか、挙げれば続々と連なる流行作家群。賞とかとはちょい縁遠いけれどもしっかりとしたファンを持って存在を確立している作家さんたちを多く世に出した賞が他にあっただろうかと考えた時にやっぱり、そのどこか“なんでもあり”な雰囲気は大きな意味があったんだろー。SFだって“なんでもあり”なのかもしれないけれども今は案外に“SFとは”的な雰囲気に絡みとられて少し不思議系が出てこない。そいういうのはライトノベルに流れているんだけれどそこも“ライトノベルとは”的な意識の蔓延が昔の自在さをスポイルしている。電撃は違うけど。だからやっぱり早急に、どこかがそのフォーマットをまんま受け継ぎスポンサーとなって復活へと至って欲しいけれど、メセナではやれない昨今の経済事情。ならばここは社内に「ファンタジー営業部」を持つ前田建設に名乗りを上げて欲しいんだけれど、いかがっすか。架空建築物ファンタジーばかりになる可能性はあるけれど。

 東京国際フォーラムでSCANDALホールツアーファイナル、って今回のツアーはここだけ参加、5000人のキャパは武道館とか大阪城ホールに告ぐキャパだけれども気にせず4人でぶっ飛ばす。ドラムが下がらず幅広いステージに向かって左からベースのTOMOMIにボーカルのHARUNA、ドラムのRINAと来てギターのMAMIと一列に並ぶ配置が面白い。いつも奥まって姿が見えないRINAがこれだとたっぷり見える。というか席が2階正面の2列目まん中で1列目はお約束の関係者席、誰も立たないから見通しよくステージ上を見ることが出来た。何て運が良いんだろう。

 そして楽曲はかつてやってた曲からガラリとかわっておそらくは新譜「STANDARD」からを中心にセレクト。それでも耳に馴染んで聞こえるところあ音楽性の高さというか演奏力の向上というか。とりわけやっぱりドラムのRINAの叩きっぷりが凄い。他に音を被せたり引っ張ったりできないパートなんだけれど最初から最後まで途中のトークでの合いの手も混ぜながら叩ききる。あの細腕でいったいどうやったら2時間以上も叩き続けられるんだろう。50肩で腕が上がらなくなっている身には羨ましいというか学びたいというか鍛えたいというか。凄いなあ。

 MAMIのギターも迫力が増している感じ。ストロークを中心に旋律も混ぜてみるといった感じ? でひょく表現できている。HARUNAのボーカルといっしょのギターはどっちかっていうとリズム刻んでいるという感じならMAMIのは音の層を作り出しているといった感じが。あるいはポリスのアンディ・サマーズみたいにリズミカルに旋律を重ねる奏法とか聞いてみたい来もするけれどそれだとロックバンドとは違ってくるからなあ。TOMOMIのベースも引っ込んではいるけれどもちゃんと下を支えている。もっと旋律を響かせて聴かせるって手もこれもありだけれど4人でSCANDALな訳でそこは全体のカタマリとして聞くのが良いんだろう。そう思おう。

 とにかくレパートリーが広がっている感じ。スタドラとか豆腐小僧とかの主題歌あたりもやってくれれば嬉しいんだけれどそうでないのは成長している明かしと認めたい。それでも鋼の瞬間センチメンタルはやってくれたなあ。あれは盛り上がるからなあ。会場が。そしてラストはDoll。タオル回しを恒例に締めて次は年末のフェスとかを経て来年に大阪城ホール1日とそして横浜アリーナ2DAYS。ANIMAX MUSIXでMAMIだっけかがコケたのを真上から見ていた因縁の場所。そこでのワンマンがどれだけ盛り上がるかに注目。行くよ絶対。


【12月2日】 ようやくやっと読み終えた為三って人の「ストライプ・ザ・パンツァー」(MF文庫J)は、すでに巷間いろいろ言われているから何がどうだか言ってしまっても良いんだろうけれど、でも後ろのあらすじなんかを読んでも帯の「純情美少女と心優しい宇宙生命体のハートフルピュアコメディ」って文章を読んでも、そこには触れていないところを鑑みるとまずは読んで最初にその設定の奇矯さに驚き、そして繰り出される数々のシチュエーションに呆れ慌てて脱力することも含めて楽しみ方だと思って、ここでは明かさないことにする。まあタイトルから想像は可能かもしれないけれど、敢えていうなら決して「パンツアー・フォー!」と叫んで戦車が突進するような話ではないってこと。じゃあ何だ、ってだからそれは言わない言いたくない。

 展開としてはひとりの少女が交通事故に遭って、瀕死のところを宇宙生命体が身を寄り添って命を注いで助けるっていう展開。一種「ウルトラマン」的なストーリー。でもってそんな宇宙生命体と半ば“合体”する形となった少女は、宇宙から来た謎の存在が起こす事件に挑みつつ、一方で消えてしまった義理の兄を捜そうと懸命になる。それこそ惚れていたくらいに好きだった兄。その行方不明と宇宙生命体の登場が重なってひとつのポイントに辿り着いた時に少女が見せたひとつの行動が、好きだということとと恥ずかしいということはなかなか両立しないって事実を指し示す。そりゃあねえ。そうだよねえ。なおかつそれがそうなっていた訳だしねえ。ビジュアルを想像すると吹き出すけれども、そんなイラストが登場してなお吹き出す。

 ストライプがパンツアーしている主人公格の宇宙生命体とは別に、ピラミッドが2つ連なりネコミミのような形にも見えたりする宇宙生命体も登場して宇宙って奴が持つ可能性の広さって奴を教えてくれる。それから少女に寄生した形の宇宙生命体が、繊維質のその身を伸ばして縮めることによてエネルギーが生み出され、少女にチャージされるという展開の面白さ。文章で読むほどにそのシーンが頭に浮かんでいったいどんな動きをするんだろうかとワクワクしてくる。だからこそアニメ化されてそういう場面を見せて欲しいという気持ちも浮かんで消えない。そういえばテレビでは意識を持った制服が少女にまとわれ血を吸い力を発揮するという設定のアニメーションが放送されていたっけ。大人気になっているけれどそれを上回るビジュアルショック、展開の驚嘆を招くこと確実。なので急ぎ企画書をまとめて映像化に動き出せ。「ストライプ・ザ・パンツァー」。土橋真二郎さんの「OP−TICKET GAME」に匹敵する2013年のライトノベルの収穫だ。

 現時点で決まっている声優活動は続けるっていうことは、それがなくなった時点で音楽活動ともども一線からちょい退くって解釈は十分になりたつなあ、中島愛さん。というか声優で強い印象を残した役が、最近だと「問題児たちが異世界から来るそうですよ」の春日部耀って少女の役くらいだし、「艦隊これくしょん」だって決してメインを張っているといった感じがない、というかメインがない作品だし。一方で音楽についてはその声質の面白さとそれから歌声の煌びやかさでもって、世の中にそれなりな存在感って奴を与えていた。そこからまず退くっていうのが正直、理解できないんだけれども想像するなら「中島愛=ランカ・リー」という固定観念が強くある世界で、オリジナルのシンガーとして歌い続ける大変さって奴を、妙に感じてしまったのかもしれないなあ。

 それは「シェリル・ノーム=」という等式で絡められがちだったMay’nさんにも当てはまることだけれど、彼女の場合は圧倒的な歌唱力でもって「マクロスF」から離れた楽曲をどんどんと出していってひとつの世界を築き上げ、そして今なおライブ活動を積極的に行って「部長」の相性で親しまれていたりするところから、あんまり引きずっていなさそう。声優としての部分を遠藤綾さんが担ってキャラクターと完全にイコールで見なされなかったことも、幸いに働いているのかもしれない。中島さんに望むならむしろ飯島真理さんのようにキャラクターを外し声優ではなくシンガーとしての道を歩んで欲しかったんだけれど、現状はそうはいかず。ならばいったいどこを目指す? って辺りで見えない明日を探る活動がしばらく続くんだろう。でも僕たちは待っている、その歌声が響く時を。誰もが望んでいるその歌声が届く日を。いつまでも。いつまでも。

 試合への敬意より伝統の重用ってことになるんだろうなあ、関東大学ラグビーの対抗戦グループで帝京大学が慶応大学を0点に抑える圧倒的な強さを見せて優勝を果たしたみたいなんだけれど、その試合が行われたのは聖地ではあってもキャパシティ的には小さい秩父宮ラグビー場。そして優勝の目はあったとしても帝京が敗れることが前提にあった早稲田大学が、明治大学を迎えた試合は隣の国立競技場でもって5万人近い観客を集めて行われ、そこで松任谷由実さんが「ノーサイド」ってラグビーがテーマになった歌を唄ったって話がスポーツ新聞をでっかく飾り、時に1面すら飾って華々しく報じられている。帝京大学の優勝を脇において。

 そんなことが他のスポーツであり得るのか。そもそもが大学ラグビーってカテゴリー自体がそのスポーツにおける頂点ではなく、関東って地域も限定されている上にリーグも対抗戦という範囲に限られたところで行われている首位決戦でもない試合がスポーツ新聞のトップを飾ること自体が異常なんだけれど、人気があれば仕方がないというならソレは認めよう。でも果たして集まった5万人はそのままラグビーの人気を現しているのか。最後の国立での伝統の一戦、というおよそスポーツの本質とはかけ離れたバリューを取り上げ盛り立て囃し立てたところで、ラグビーの人気拡大には繋がるどころかむしろ枠を限定してしまう。これで対抗戦が国立ではなくなり小さい競技場で粛々と行われた果てに人気を失った先、2019年に来るラグビーのワールドカップでスタジアムを埋め尽くすだけの観客を動員できるのか。どうにもこうにも疑わしい。

 本当にラグビーが好きな人なら、そしてナショナルチームが世界の予選を勝ち抜き集うワールドカップをその目で見られる機会があれば、何をおいても駆け付けるだろうし、ラグビー自体をしらなくても、そういうバリューを感じ取って何だろうとのぞいてみたい気にかられるあろう。問題はそこにバリューがあることを、今の大学ラグビーの対抗戦の早明戦至上なメディアや空気がうまく伝えられるのか、ってところ。まず無理だろう、だって方法論を持たないんだから、学校名とかアーティスト名に頼るくらいしか。残る年月も乏しくなる中でいったいどうするのか。お手並み拝見といきたいところだけれど、観客が動員できなくて恥をかくのは僕たちだからなあ。何とかしてほしいけれど。全部の試合でユーミンに「ノーサイド」を唄ってもらう? 試合直後の疲れた選手を立たせるような真似をしてまで。

 「モッブ★ハンター」とか「怪傑委員会」の頃から多分、読んでいるから上條敦士さんといったら江口寿史さんばりのシンプルな線でもってスタイリッシュなキャラクターがコミカルな言動をする爆裂ストーリーの人、って印象が先にどうしても立ってしまっていたけれど、「ZINGY」を経て「TO−Y」あたりからその線がさらにファッショナブルになっていって、時として訪れたユーロビートだの何だのといった音楽的なファッションとも相まってオシャレで先鋭的な漫画を描く人、って感じになってそれが今の上條敦志さんのイメージを形作っているって印象。吉祥寺の「リベストギャラリー創」で開かれている展覧会にもそうしたスタイリッシュなイラストレーションが並び、リスペクトする漫画家さんたちもシンプルな線に美形のキャラが並ぶ感じで今のイメージをそのまま膨らませるような空間を作りだしていた。Tシャツとかも売っていたけど美少女の裸の上半身ではちょっと着られそうもないんで遠慮。同じ版画もあったけれど今の手持ちではちょい無理なんで見送り目に焼き付ける。これからも漫画を描いていって欲しいもの。江口さんとは違うんだってところを見せてくださいお願いします。


【12月1日】 暦の上ではディセンバー、と書いてもまるで何の感慨もないのは自分が「あまちゃん」をまるで観ておらず、まったくのめり込んでいないから。というか放送が終わってだいたい2カ月、特定の盛り上がっていた人たちの周辺では未だに火が燻っているようだけれど、そうでない一般の視聴者層にはもはや過去になってしまって今は「ごちそうさん」を観て楽しんで、視聴率も稼いでいたりするみたい。そもそもテレビ番組っていうのは観ている間は楽しんで、そして終わったら次へと移るという類のもの。NHKの朝の連続テレビ小説なんてその最たるものなはずなのに、特定の方向に向いた言論空間だけは未だ引きずって盛り上がりを見せている。

 でも世間がそれで再放送だ続編だと盛り上がる節はなし。そうしたギャップはつまりメディア界隈での盛り上がりと現実の黙殺という、昨今の社会で顕著になっている温度差って奴を表しているんだろうなあ、特定秘密保護法とかもそんな感じ、メディアやネットの一部は盛り上がっているけど、一般にはまるで実感がないんだから。そこで盛り上げるための活動をメディアがもっとすべきだったという意見もあるし、そうだとも思うんだけれどだったらどんな言葉で一般に語りかければ、その重大性を分かってもらえたのか。そこをやっぱり間違って、相変わらずの政府は悪だ庶民は善だといった二分法で騒いだから、誰も感心を抱けなかったってことなのかも。滅びるしかないのかなあ、日本より先にメディアが。

 初詣にいったら、中から美少女が飛び出してきて抱きついてくれる神社があったら、誰だって通うよお賽銭だって万冊はずむよ、って思うんだけれど相手が髪の毛を蛇にして誰か知らないお兄ちゃんを3月にぶっ殺すとか不穏なことを言う美少女だと、たとえ神様でもちょっと遠慮したいってことなんだろう。だから千石撫子変じた神様の社には初詣のお客さんが誰もいなかったという感じ、貝木泥舟を除いて。でもそんな彼があげたお賽銭だって「赤瀬川」って入っていたあたりを観るに偽札だし、参拝したのもいろいろと訳あり。そんな身で果たして阿良々木暦をぶっころすことした考えていない撫子ちゃんを説得できるのか、って辺りを楽しみに観ていこう「恋物語」。これでとりあえずシーズン2は終わりかな。

ぐえっ  そうだハシビロコウを見に行こう、と思い立って電車を乗り継ぎモノレールも経由して千葉市動物公園へ。「陽なたのアオシグレ」って石田康祐監督の短編アニメーション映画でとてつもない強い存在感って奴を見せていた鳥で、メインの白鳥なんかよりもずっと陽向くんって少年がシグレちゃんって少女に向かう時の大きな力になっていた、ってそれは陽向くんの妄想の中でだけれど、普段はまるで動かず鳴きもしない鳥であっても、そういう所で何かしてくれるかもって想像させるくらいの存在感って奴があるんだろー。そう思って見に行った実物はやっぱり動いていなかった。

 元がアフリカの鳥だけあって、外が寒いのかずっと室内にいてガラス越しにしか見えなかったけれど、そこでも胴体はまるで動かず顔だけあっち向いたりこっち向いたり。雄なんか体は向こう向きだったんで、振り向いた顔でようやくあの睨むようなおどけるような顔に対面できたけれど、それがまるでアニメとそっくりで、じっと観ているとその目に引き寄せられ、吸い込まれそうな気分になって来る。雌の方はちょっとだけ目が小さい感じで可愛さが出ていたけれど、それでも特徴的な顔立ちは変わらず。番(つが)いで並ぶとどんなだろうと思ったけれどハシビロコウは、1匹が動くと他も動いて等間隔を保つらしいから並ぶなんてことはないみたい。なんて奥手な鳥なんだ。それでどうやって番うんだ。謎。

 ハシビロコウが人気になるまでは千葉市動物公園を支えたレッサーパンダの風太くんは、すっかりお歳をめして棚の上でごろんとずっと寝てばっかり。代わりに生まれたばかりのあれは孫になるレッサーパンダの子供たちが走り回っては愛想を振りまいていた。立ちはしなかったけれども別に立たなくたってレッサーパンダはカワイイのだ。子供だとカンガルーが何か子供を生んだばかりということで、観ていたらやたらをお腹を膨らましたカンガルーがいて、そしてそのお腹からニョッキリと脚が突き出していた。もしかして脚が6本あるカンガルーだったのか。いやだから有袋類なんだって。そこに子供がいるんだって。それにしても大きな脚だったよなあ。大きすぎて出られなくなっているのかも。それちょっと怖いかも。

 シマウマが脚を怪我したりプレーリードッグが土に半分埋まっていたりしたのを眺めつつ、千葉市動物公園を後にして目指すはフクダ電子アリーナ。徳島ヴォルティスを相手にプレーオフを戦って勝つとJ1昇格をかけたプレーオフ決勝に進めるって試合があったんだけれど残念ながら本番は徳島。フクアリではそのパブリックビューイングが開かれゴール裏に集ったサポーターたちが、向こう正面にあるビジョンを身ながら声を張り上げ拳も振るって応援したけどダメだった。相手が上位にあるためハンディがつけられていてジェフ千葉は勝たなければ決勝へと抜けられないという試合。にも関わらず1点を先制され追いついたけれども勝ちきれないという体たらく。シーズンの終盤を観るような不甲斐なさにこれなら5年連続J2暮らしもやむを得ないって思えてきた。

 だって点が奪える雰囲気がしないんだもん。相手ががっちりと固めたエリアの周辺まで持っていってはポゼッションめいたことをするんだけれど、選手がちまちまと動いてないからすぐに寄せられあるいはカットされてボールを奪われる。これがバルセロナなら選手が細かく動いて相手に詰める隙を与えない。走りのチームで慣らしたはずのジェフがこんなに動けないチームになっていたとは。ちょっとガッカリ。サイドバックは頑張ってオーバーラップするんだけれど、それを中央で受ける選手もいないし戻したところでまたこねてクロスを入れるのが遅くなるから相手に固められて得点につながらない。そんな光景はジェフがJ1からJ2へと落ちるあたりで存分に見た気がするけれど、変わってなかったんだなあ、未だに。

 振り返れば江尻篤彦監督がJ1からJ2にチームを落としてしまった時に、ガラリと監督も変えて選手も揃えてチームを何が何でも1年でJ1に上げるなって意気込みを見せるべきだったんだけれど、J1時代の終盤にまるで勝てなかった監督を生え抜きだからと残した時点で、今のこの低迷は予見できていたのかも。あるいはそれ以前にずっと勝てなく成っていた原因をオシム監督の退任に伴い就任したアマル・オシム監督の解任に求めるなら、そこからずっとチームのフロントの迷走が始まっていたのかもしれない。それは今も続いていて、監督をすげ替えてもすげ替えてもチームは奮わずJ1には上がれず。継続が足りないったって継続できる内容でもないものなあ。

 さてどうする来年。いよいよスポンサーの堪忍袋の尾も切れそうだけれどひとつ、楽しみがあるとしたら、すっかりJ2仲間となってしまった水戸ホーリーホックのスポンサーに、あのバンダイビジュアルが入って「ガールズパンツァー」とのコラボをやってくれそうなことか。シャツとか売るのかグッズとか作るのか。それを手に入れに水戸のホームまで遠征する気が沸いてきた、って意味でもJ2に留まったことに意味があるかも。そういうものか? それしかないんだ楽しみが。参ったなあ。


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