縮刷版2013年1月中旬号


【1月20日】 今日こそはと秋葉原に出かけて行ったものの買う物もなければ買う金もないんで駅前のゲーマーズをさっと眺めるだけにして、すぐに昭和モダン食堂に入ってカレーとスタミナ焼きのセットを頼んでもりもりとかき込んでから淡路町まで歩いてVELOCHEにこもって「SFが読みたい2013」のための原稿書き。いわゆるライトノベルのSF状況とかをふり返って10冊を選ぶ内容だけれど、大量にあってそもそも選べるはずもない中から割とライトノベルってレーベルに依拠しない作家とか版元から出てきた作品とか、ライトノベルでもマイナーなレーベルから出てきた作品なんかを選んで昨今の意外なところに潜んでいるSF的マインドって奴を掘り起こしてみる。

 まあそういう努力もライトノベルの読者にはSFであるかどうかは関係のない話だし、SFの人には知らない名前や知らない版元ってそれだけで食指が伸びないものらしいから、どれだけ影響を広げられるかは不明。日本SF作家クラブに名前が載ってる作家だけがSF作家じゃないんだってことくらいはせめて訴えたかったけれど、日本SF作家クラブに名前の載っていないレビュアーがSFを語ったところで届かないのもまた現実なのであって影響の届く範囲はやっぱり小さいものになるんだろう。それでもやっぱり知らせておきたいその存在。言葉として刻めばいつかどこかにどういう形であっても届くし残ると信じて今日もマイナー&マージナルな作品の発掘発信に務めるのであった。せめて野崎まどさんの「2」くらいは日本SF大賞に絡んでくると思ったんだがなあ。来年は黒史郎さんの「未完少女ラヴクラフト」(スマッシュ文庫)を日本SF大賞に届かせたいなあ。

 そんな「未完少女ラヴクラフト」は物語たちについての物語だってのが読んで覚えた印象。なるほどH・P・ラヴクラフトによって創生されたクトゥルーに関する世界とかほかのファンタジーに関する世界なんかがそこにぶち込まれては主人公の女装が似合う少年が知人の顔に穿たれた穴から落ちた世界に再現されていて、あれはそうかあそこからの引用か、これはそうかここからの登場かといった世界観とかキャラクターへの関心を喚起しながら読むことが可能だけれど、そうした作品について詳しくなくても心配は無用、ただクトゥルーとう世界観がひとつあるという認識さえあれば描かれているのはそこにあるそういうものだという理解が及び、翻っていった原点はどういったものなのかって興味をかき立てられる。ページの下に着けられた語句の解説なんかが原点を教え意味を教えてくれるからなおのこと、ガイドとしてとても良い感じになっている。

 なおかつ単なる知識の羅列に留まらず、少年が現地で出合ったラヴという少女、これがラヴクラフトの転生というか何というか不思議な存在である上に「愛」という言葉についての認識を言語災厄とかいった現象の影響で喪っているらしく、それを取り戻すとともに世界を正常に戻すために少年と共に冒険をしてくストーリーが怪物との対決あり、ある出来事がきっかけとなって、発する声が人を殺めるようになってしまって、化け物のように蔑まれているヴィオラ弾きの女性との邂逅があってそして少年が憧れて止まない英雄も登場し、果てに世界を糺し元いた世界への帰還を果たすといった大団円も待ち受けているから読み終えてホッとした気分になれる。喝采すら浴びせたくなる。知識のひけらかしに陥らずそれでいて知識も試される物語。多くの物語から得られた情報とその真髄から物語の意味を探る物語。読めばきっと好きになる。物語の世界を味わい浸って楽しむことを。クトゥルーが好きになるかは、まあ人それぞれかな。

 普通は時代小説の棚に行って探すだろうし人によっては一般文芸の棚を探すかもしれないけれども見つけられないでいそうな仁木英之さんの「大坂将星伝上」(星海社FICTIONS)を1発で探し当てられるのはそのレーベルがどういう位置づけでどこに置かれているかを知っているから。つまりはライトノベルってことなんだけれどそもそも星海社FICTIONSがどういう存在か、知らない人の方が多そうなのが現実でここはやっぱり普通に時代小説の棚に積んでおいた方が「冲方丁、賞賛!」の文字も映えるから良いんじゃなかろーか。内容についてはもうバリバリの歴史物って感じて大坂夏の陣で奮戦して散った毛利勝永にスポットを当ててその生涯をたどる戦国英雄伝。3分冊の1冊目ではまだ10歳でようやく父親たちが島津平定を成し遂げ小倉に城を構えたところで龍造寺家から12歳の嫁をもらうところまでが描かれる。

 12歳の美少女で時に甲冑をまとい戦う豪傑姫を迎えるなんて羨ましい限りだけれども10歳で2歳上では姉さん女房というより本当に姉といった感じであれこれ愛でるってより引っ張り回されそうで可愛そう。まあそういう人生もありだけど。物語的にはこの後に文禄・慶弔の役があり秀吉が死に関ヶ原があって国を喪い食客として世話になっている最中に父を亡くしそして大坂冬の陣夏の陣と来て豊臣秀頼に招かれ大活躍、といった歴史をたどるんだろうけどその勇猛さは案外に知られず、真田信繁(幸村)と十勇士や後藤又兵衛、木村重成といった名前が先に立つけど勝永の方が最後まで陣を守り戦い抜いては秀頼の最後を看取ったりもして本当に活躍したって人らしい。そんな“名誉回復”とともに信繁やら又兵衛といった豪傑たちの活躍も、いずれ拝めそうな物語の刊行が今から楽しみ。「境界線上のホライゾン」には出てこない名前だよなあ。


【1月19日】 どっか行こうと家を出て本屋に寄ったら「月刊サンデーGX」が出ていてその表紙が「BLACK LAGOON」のレヴィだったんで買って貪り読むことにしてどっか行くのを止めにする。当然だな。表紙には伊藤明弘さんの新連載「ABLE」だなんて文字まであって何だこりゃ、本当か、本当に再起したのかこの2人がなんて驚きがどれくらい凄いかはちょっとやそっとじゃ言い表せない。たとえるならセンター試験会場まで走っていって窓に向かって「おいおい『BLACK LAGOON』が載ってるぜ、でもって伊藤明弘さんが新作描いてるぜ、試験なんて受けてる暇ねえぜ、さっさと出てきて本屋へ走ろうぜ」って叫びたくなるくらいの驚きだけれど、それやると本当にそうする受験生とか出そうだったんで止めにする。それくらいの出来事。過言じゃないぞ。絶対に。

 まあ「BLACK LAGOON」については連載の本格的な再会は4月号からで、その前哨戦といった感じだったんだけれど中断となった最後のエピソード「The Wired Red Wild Card」の第5話が載っててなおかつ連載初期のエピソードと、中断前の新章の第4話までがまとまった小冊子も挟み込まれていて予習復習に最適の構成。よく「ヤングキングアワーズ」が連載の止まる「ドリフターズ」でやったり、他から引っ張ってきた作家の別の作品なんかを冊子にして入れてPR代わりにしていたりするけれど、それと同じことをやってくれたのは、位置づけて的に似た他誌の展開なんかを見ながらそうした方が良いって思ったからなのかな。いずれにしても有り難い。これで中華眼鏡がインド眼鏡に陥れられ八方ふさがりになって走り出すところまでを思い出せた。

 しかしインド眼鏡のジェーンもあれで結構なタマというか、もともとマフィアの下で偽札作りなんか手伝ってた程だから真っ当なハッカーじゃないことくらい分かっていたけど、1人の人間をハメて組織に追われ始末されるところまで追い込んで平気なんだからそういう人間ってことで、ロックあたりから激嫌われそうだけれどそんなロックもロベルタ狂乱編を経てすっかり人間的に裏を持った陰謀屋になってしまったからなあ、他人のことは言えないと。それがたとえロベルタと仲間たちを救い光の下へと戻すためであったとしても。命をマップの上に並べコマのように動かし危険にさらす段階ですでにネジがぶっ飛んでるってことで。一方の中華眼鏡も軍の傘下で動いているんだからジェーンのことは言えないんだけれどそれでもやっぱり真っ当で真面目すぎてハメられて大慌て。そして逃げ出す過程でロックとレヴィに遭遇し、そこに襲いかかる元いた軍からの始末人にさて、ロックの情け心はどう動く、って辺りから始まる再開の行方は? 次で終わってはいまた来年、にはならないで。

 そして「ワイルダネス」のまんまの連載再開とはいかないけれども新作として始まった伊藤明弘さんの「ABLE」はどこか「ワイルダネス」と似た空気感を持ったアメリカだかメキシコだかって感じの路上で突如始まる銃撃戦。人ひとり撃ち殺された場面に歩く男が車に戻ろうとして襲われ降りてきた男に撃たれようとして隠れそして落ちていた銃を広い窓越しに相手を射殺し走り去ったその直後、ピックアップトラックの幌で覆われた荷台から縛られた女性が巨乳のタンクトップ娘。誰? ってところで続いているけどそこから何が始まるのか、セリフのいっさいないサイレントな漫画でありながら、ガンアクションを見せるためのリハビリも兼ねた作画物って訳ではなさそうで、ストーリーもあって展開を期待できそう。来月も載るのかな。そして「ジオブリーダーズ」の再開は。どうやら「神様ドオルズ」は来月で終わってしまうんで、そんな後を埋め尽くして行く意味でもこの「ABLE」と「BLACK LAGOON」の復帰は相当に意味がありそう。「デストロ246」は容赦の無さが加速気味。酷いが凄い漫画だ。健康的な作品ばかりがとってるマンガ大賞に叩き込みたいな。

 新刊も山のように出ていて買い込んだら重くて歩くのが大変でそれも遠出を止めた理由。近所のVELOCHEに入ってその中から至道流星さんの「大日本サムライガール4」を読み始めたけど帯にある左翼アイドルってのが冒頭から活躍するかと思ったらそうはならず。まずは神楽日毬をメーンパーソナリティに据えた討論番組の企画なんかが挙がってそれに日毬は大喜びしているんだけれどマネージャーの颯斗はどこか浮かれていると渋い顔。それを邪魔だと感じて怒る日毬だったけどやっぱりというか視聴率は次第に下がっててこ入れにアイドルを呼んで座談会をして回復はしたもののそれでは趣旨が違って今度は本来のファンが離れそう。

 さあ困ったなあ、というところでブレイク気味に関西から声がかかって行ったテレビ局で出合ったのが槙野栞という少女。高校に通っていそうな歳なのに公認会計士の試験に合格したくらいの頭脳を持ち、なおかつ日毬とは対立する社会共産党の機関紙にコラムまで持っているマルクス主義者というから大変だ。というより加えて関西ならではの東京モン何するものぞという精神をそれからサービス精神が混じり合って楽屋の段階からヒートアップ。それをたしなめる颯斗だったけれども本番ではさらにヒートアップして真っ向からぶつかりあっていい感じに盛り上がる。これイケるじゃんと颯斗は栞をスカウト。そして家を訪ねて驚いた。その父親は筋金入りの左翼だった。そして味わった。栞がどれだけ地元のドヤ街に暮らす人たちから信頼され愛されているかを。

 そんな展開の中で繰り広げられる左右の論争だけれど、寄って立つイデオロギーが対立するものだという固定観念からぶつかる日毬と栞なのに、言っていることは同じ、大阪の沈滞は国に頼り動かないし動けない地元の問題でもあってそこをどうにかすることが日本のためになるという意見。つまるところ左右の間に立って頑なに存在を堅持する戦後民主主義のそれも官僚機構と政治権力とが結託して保身を計るというか、そういう意識すらなくひたすらな前例踏襲に陥って身動きのとれない状況が、宜しくないんじゃないかってこと。そこを浮かび上がらせつつさて、東京に来た栞とアイドルとして先を行く日毬が左右からいったい何をどう言い日本を変えていこうとするのか。お手並み拝見。そして願うならそうしたお手並みを真っ当と感じて動く政治があることを。ないかなあ。しかし泣いたよ栞が送り出されるシーン。それも含めて映画で映像で見たい作品だなあ。どこか映画化に名乗りを上げないかなあ。でも誰にも出来ないか日毬も凪紗も。

 バックに自衛隊だなんて戦闘集団を持った防衛大臣が名指しで「国賊」だなんて言った日には、自衛隊の特殊部隊がその意を忖度して暗殺にだって向かいかねない重大事かもしれないって意識が、行った側にもなければそれを報じるメディアにもすっからかんなところに、言葉の持つ重みがどんどんと切り下がっている感じ。綸言汗のごとしだなんて言葉は当に忘れられて汗だろうと引っ込められなかろうと言ったら言ったもん勝ちな風潮はやがて行動が伴ってこそって先んじる行為へとエスカレートしていって、そして引き返せないところまでこの国を追い込むんだ。いくら元総理でそれが中国で何を言おうと、刑法を持ち出して死刑だなんて言うのも言論への挑戦。それを言論機関が平気でするんだから怖いというか、もはや自らを言論機関だなんて思っていないというか、いや逆だ、周囲はすでにそうは思ってないんだった、まあそりゃそうだ。

 何たってそうやって元総理を誹りたい後段の文章を作るために、前段にはアルジェリアで起こった人質事件でアルジェリアの政府と軍が攻撃をしかけて人質の幾人かの命が失われた件について、「確かな事実を改めて思い知らされた。世界は、とくに中東は、『ヒトの命は地球より重い』と信じていた戦後の日本人が思い描いてきた『世界』とは違うことを」と書いてそれが世界の常識だから受け入れろと言わんばかりの論調を繰り広げえいるんだから。

 「アルジェリア軍は、日本はむろん米英にも事前通告せず、テロリストたちを急襲した。拘束されていた人質にも多数の死傷者が出たとの報を受け、安倍晋三首相は電話で抗議したが、後の祭りだった」と書いてはいても安倍総理のその言が手ぬるかったのではないかとう批判はなし。「『人命第一』を訴える安倍首相の言葉は、まったく残らなかったことだろう」って書いたって届かず亡くなったんだったら意味はない。そこを挙げて国際社会での存在感を高める努力を求めるかと思ったら、元総理を誹る方へと筆を曲げてそっちに落とす。アルジェリアで亡くなった人質の命は元総理の発言より軽いのか。軽いんだろうなあ、それがこの政権と、それを翼賛するメディアの心理、ってことで。


【1月18日】 「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」ではなく「グスコーブドリの伝記」でもなく「ももへの手紙」でもなくって「おおかみこどもの雨と雪」が毎日映画コンクールのアニメーション映画部門を受賞したのはまあ、作品の質と興行成績から言えば文句なしの結果で、これで細田守監督は「時をかける少女」「サマーウォーズ」と手がけた最近の長編映画で3連覇を成し遂げたことになるってのは、とてつもない偉業ってことになるんだろう。とはいえ先達にはほとんどの作品でアニメーション部門を受賞し「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」では全体トップのグランプリを獲得している宮崎駿監督もいたりするし、原恵一監督も「クレヨンしんちゃん 嵐をよぶアッパレ! 戦国大合戦」とか「河童のクゥと夏休み」と「カラフル」で3度受賞してたりするし、過去にそうやって1人に固まる傾向があるのも確か。

 ふり返ってみたら最近のスタジオジブリの作品は「借りぐらしのアリエッティ」も「コクリコ坂から」もなぜか入ってこない(ノミネート制だから、かな?)状況があって、その中で細田守監督の撮るものすべてが受賞、なんことになりそうな予感すら漂い始めているけれど、それだと次にスポットを当てたいクリエーターが見えて来なくなる懸念もあるから、その辺り広い視野でいろいろ送り出していって欲しいもの。「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」とか審査員推薦でも文化庁メディア芸術祭に挙がって良かったよ、あとは東京アニメアワードかな。そして来年はジブリから宮崎高畑両御大の作品が来るけど、毎日映画コンクールに参加して来るのかな。来たら何が対抗になるのかな。

   浮かぶのは顧問の暴力によって生徒が1人、自殺へと追い込まれた部に所属する部員たちが、たとえ顧問の強権を前にして身なんか動かせるはずはなく、先輩なり同窓なり後輩が自殺に至ったことに責任なんて取りようがないんだと言ったとしても、その結果、1人の命が失われてしまったという事実を前にして、それまでの日常を続けたいと思ったりするものなのか、という疑念。これは、クラスメートがいじめで自殺したからといって、そのクラスが解散させられることもなく、机の上に花瓶1つ乗せられたり、それすらもなく机ごと痕跡が払われて継続していったりする状況を思えば、とりたてて奇異なことではないのかもしれないけれど、だからこそ改めて立ち止まって考えてみて、何が足りなかったのかを思い、これからどうあるべきなのかを探ってみる必要がある。そんな気がしている。

 なのに、むしろ逆向きに動いているような心の流れ。責任はなくても後悔はあるなら立ちすくむはずの足が、止まらず歩き始めるのみならず、原因となった暴力すらも必要なものだったといったニュアンスで受容して、前と変わらぬ日々を取り戻そうとしているところに、この問題が単に暴力による肉体的物理的な影響に留まらず、心理面精神面においても相当に深いところまで食い込んで、取られる態度や発せられる言説を左右している様が見える。これはいったい何なんだろう。それを異常と認めてしまっては、それに浸り沿って歩んできた自分たちそのものを、否定することになってしまうとセーブが働いているのだろうか。あまりに衝撃的な出来事に、単に認めたくないと思考がストップしてしまっているのだろうか。

 後者なら語れば動きそうな気もするけれど、前者だとなかなかに思考は頑なそう。それをリセットする意味でも、大きな衝撃として休部なり廃部、さらには入試の停止といった荒療治が必要だと、そう考えての見解なのかもしれない。まあ多分に橋下徹大阪市長の場合は思いつきと思い込みから後先考えず広がりも考慮しないで叫んだだけのような雰囲気もあるけれど、すべてが否定される意見でもないのは、それらを受けた側の変わらない頑なさからも見えてくる。もちろんフォローは必要で、入学を希望していながらこの瀬戸際のような時期に行く先を閉ざされそうになる生徒には、別の場所を用意してあげるなりしないといけないし、現状の生徒たちにはその活動がしっかりと発揮されるよう、環境を整えてあげないといけない。

 そして1年でも途切れてしまうその学科が、その学校にこれからも永続的に必要なのかどうか、必要だとしたら過たず運営されていくための環境をどう整えてあげるのか、議論されていかなくてはならないんだけれどそういう前向きな議論にはなってないのが現状だからなあ。橋下市長のパーソナリティを批判する言動がやっぱり根強く残っているのはこれまでの活動言動に引っかかるところが多すぎたってことだものなあ。せめて今回ばかりは筋を通し未来を作ってあげれば良い仕事をしたと喝采も浴びるのに。入試の中止といえば1969年だっけ、東大の入試が学生運動の煽りで中止となって多くの受験希望者が行く道を断たれたけれど、それで影響を被った今のそれなりな地位にある人たちは何か意見を言っているんだろうか。進路なんていくらだってあるとか。やっぱりやるべきだったとか。探してみよう。

 なんだ安いじゃないか「宇宙戦艦ヤマト2199」国連宇宙軍フライトジャケットの5万2500円。前に「スカイ・クロラ」で押井守監督の監修によるフライトジャケットが発売されていたけど価格は何と8万5000円とかそんなもの。素材や凝った作りの割にどこか安っぽく見えたのは腰回りに入れたシャギーが安いジャンパーなんかと共通の匂いを感じさせたからで、それに比べてヤマトの方はシンプルにしてなおかつプリントとかパッチなんかをしっかり作って、映画に出てくるフライトジャケットそのものって感じを作りだしている。これで5万2500円ならむしろ安いんじゃないのかなあ。これがプリントがバーガガールのような感じに描かれた森雪とかだったらキャラクターグッズとして嬉しいけれど、それで5万2500円は出せないって気も。あくまで映画に出てくるプロップのレプリカという位置づけだから安く感じられるのかも。懐具合を身ながら決めようポチるか否かを。

 せっかくだからと東京藝術大学の馬車道校舎にあるアニメーション学科が始めたアニメプロデューサーを招いての連続講座を見物に言ってユーフォーテーブルの近藤光社長の話を最前列で仰ぎ聞く。業界話ってより業界でどう活動していくことが最善かって方向に寄っていた話はこれから社会に出て業界を目指そうとしている人には耳に痛くもあり、けれどもとても参考になったんじゃなかろうか。徳島に5万人が集まるようになった「マチアソビ」だって会社の下でやってるカフェだって新宿のダイニングだって徳島の映画館だって、全部が自分たちの作ったものをお客さんに楽しんでもらいたい、それが感じられる場所を作りたいと始めたことで、宣伝とか儲けとかいった発想はない。参加する人たちも企業も一般の人も含めてそうした思いを共有して、楽しい場所を作り楽しい作品を感じたいという気持ちがあるから続いていることで、そうでなければ金がかかって仕方がないし面倒だって増えるもの。同じ目的意識を持ってそれを共に実現していこうって心意気を醸成し、持続していくことが大事なんだってことを教わった。オタクは金離れが良いからそこで儲けようなんて発想があったら続かないし誰も来ないってことで。でも分かってないんだよ分かってない人たちは。参ったねえ。


【1月17日】 芥川賞直木賞の発表に絡んだ訳ではないけれど、ネットから出てきた「カゲロウデイズ」という作品がどうして直木賞や芥川賞がとれないか、なんてことを書いている書籍紹介サイトがあったんだけれど、それがどうにも迂遠というか隔靴掻痒な言説で、読んでいていったい何をどうしたいのかが聞こえて来ず、尻がムズムズとしてくる。直木賞になるには小説家として活躍をして単行本として出版されることが必要だし、芥川賞なら文芸誌と呼ばれるところに発表されることが必要。それが両賞について書く上での“常識”だし、知らなくても調べればそういう仕組みになってるんだと分かるだろう。

 だったら、まずはネット発で人気が出た「カゲロウデイズ」が両賞の選考の俎上に上がることはなく、刊行されていても文庫だから無理だというところから話してそれを超える方法論を提示するべきなのに、内容から直木賞だの芥川賞だのといった振り分けを行ったりしているから妙というか、知っててわざと知らないふりをしているというか。そもそもがフォーマットの問題であって内容の問題は二の次なのに。まあそれでも普通の人は直木賞がどういう人が候補になって芥川賞がどういう作品が候補になるか、知らずに人気のある賞だからと思って見ていたりするようで、こういう記事でも知るひとつのきっかけになるんだろう。だったら「カゲロウデイズ」にもはや直木賞も芥川賞も不要とぶち上げたり、ネット小説のベストセラーを歯牙にもかけない(ライトノベルもそうだけど)両賞に存在価値なんてないんだと訴えたりするのが、そうした作品への愛情の表明になったんだけどなあ。ちょっともったいない記事。

 42歳のクルム伊達公子さんが全豪オープンの2回戦に勝って18年ぶりに3回戦進出を決めたそうで、試合は見てないけれどもストレート勝ちは相手がランキング90位の選手だからといって、伊達さんの方は100位とさらに下な訳でそれで勝つんだからやっぱり凄い。他の大会ではナブラチロワ選手がさらに上の年齢で勝っているけど、全豪では伊達選手が最年長記録を作ったばかり。それが1試合勝つごとに更新されていくんだからこれからの展開が興味深い。さすがに次は相手も強くなるだろうし、伊達選手にも疲れが出てくるから難しいけどそれでも期待したくなる。でも22歳の森田あゆみ選手も勝っているからなあ、途中で当たったらどっちが勝つんだろう。それも興味。あるかな日本人対決。

 「おいおい待ってくれよ、いくら何万円もするチケットが即座に売り切れるような凄いバイオリニストだって、朝の駅前なんてところで顔も分からないように弾かれて、それに聞き入ってる暇なんてないよ、だって朝だよ、通勤ラッシュの真っ直中だよ、そんな時間に駅前で弾いてるバイオリンの音が良いのかどうかなんて判断できないよ、たとえ良い音だと分かったとしても、会社に行こうとしている時に立ち止まって聞いてなんかいられないよ、そういうものだよ、何か間違ってるよその実験、もしもだよ、それがバイオリニストじゃなく壇蜜で、バイオリンを弾くんじゃなくってパンツを脱いで投げてたって誰も目もくれないよ、そういうものだよ通勤ラッシュって」「いや俺は止まるよ」「俺も止まるね」「俺だって止まる」。たぶんそういうものだろう。

 すでに超人気になったももいろクローバーZのライブに行って1万5000人もの観客が歓声を上げている姿を見て「私は涙が出てきた」と書くおっさんコラムニストがいたりするのを見つけてやれやれ。「喪われた二十年がようやく終わりこの国に真っ当な時代がやって来るのではないかと」思ったらしいんだけれど決して短くない時間を頑張って来て頑張り抜いた結果として、1万5000人が集まるステージの場に立ったももクロのプロセスに感動しないで到達点を見てそこでのアクションとリアクションの激しさを、取り上げてそこに「けなげさ」とやらを見て、それが「日本再生に必要だ」なんて訴えるのはももクロのこれまでの頑張りと、それを支えてきたファンたちに何か失礼な気がしないでもない。

 上っ面だけ見てんじゃない。そして日本を語る材料にするんじゃない。なんて思うんだけれどそれでも有名コラムニストに取り上げられたからとファンは喜ぶのかなあ、ちょっと分からない。個人的には人気に便乗するように見られるよりは、これから伸びそうな、けれども今はまだ頑張っている多くのアイドルたちを見つけて一生懸命に応援しながらともに伸びていくのを観る方が、有意義だし気分的にも嬉しいんだけれど。同じように小林よしのりさんもAKB48を激しく応援しているけれどもその視線はコラムニストとはちょっと違っているような。つまりは純粋でストレート。何かを語る材料とせずその頑張り、そのパフォーマンスそのものを応援しているという感じ。実は大差はないのかもしれないけれど、どっちにしても権力と発言力を持ったおっさんが、上から目線で人気者を引っかけるのには慎重さ必要ってことで。

 なんか報われないなあ神様が。大森藤ノさんという人によるGA文庫大賞の大賞受賞作「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」(GA文庫、620円)は神様が地上に降りては「ファミリア」なるものを作って力を与える変わりに稼いでもらい食わせてもらったりする関係が出来上がった世界が舞台。幾つかの神様は「ファミリア」を冒険者たちの組織にして街にあるダンジョンへと構成員を向かわせては、モンスターを狩らせてそれから出る魔石を金に換えることで収入を得ていた。人気のある「ファミリア」は構成員も増え腕っ節の良いのも多くいてなかなかの稼ぎっぷり。そこに普通の人間がいきなり入ろうとしてもなかなか入れないようで、主人公のベルという少年は地方からやって来たばかりでどこの「ファミリア」からも入団を断られ、困っていたところで誰も構成員を持たないというヘスティアに出合い、誘われて一も二ものなくその傘下に入った。

 とはいえやっぱり素人がなったばかりの冒険者では、ダンジョンにいってもたいして稼げずそれ以上にはぐれモンスターに遭遇すれば殺される可能性も大。実際に潜り込んだダンジョンで突然現れたそのフロアではあり得ない強さを持ったミノタウロスに遭遇し、追いかけ回され死にそうになっていたところを別の「ファミリア」に所属する美少女剣士に助けられる。その強さ美しさに一目惚れしてしまったベル君。けど「ファミリア」が違うということは讃える神様が違うということで一緒になることもつきあうことも難しい。それでも思い続けるベル君を、身近に寂しく思う目があった。それがヘスティア。見た目はロリだけれど胸は大きく可愛らしいヘスティアを、けれどもベル君は神様だと讃えて恋人のようには見ようとしない。

 それが不満なヘスティア。おまけにダンジョンで出合った美少女剣士に感心を向けてしまうというから腹立たしい。なおかつベル君の力には、そうした懸想の大きさが力量になって現れるという仕掛けもあってダンジョンで美少女剣士を思い、あるいは街で世話になった飲食店の娘を思い、ダンジョンの受付にいる世話人のエルフを思ったりしてナイフを振るう事に強くなっていくベル君を、神様は頼もしく思う一方で寂しく悲しく思っている。なんという贅沢な。なんという罰当たりな。3日3晩土下座してヒュパイトスって武器作りが得意な神様にお願いしてベル君専用のナイフを作ってもらうくらいの保烈婦吏が届かない神様が何か健気で可愛らしい。そこに気付いてベルがヘスティアと向き合う時がくるのかそれともやっぱり他に気を向けるのか。妖しく立ち回るフレヤって魅力の神様もいたりしてベル君も、ヘスティアの前途も多難だけれど、幸せになって欲しいなあ、どちらにも。


【1月16日】 目覚めると何だから「攻殻機動隊ARISE」って新しい「GHOST IN THE SHELL」のテレビアニメーションシリーズが発表になっていたんだけれど関わるスタッフが黄瀬和哉さんでシナリオに冲方丁さんという並びに作品としてのクオリティの高さは何となく感じられたりしたものの、そのキャラクターデザインが過去の攻殻たちとも違うしもちろん士郎政宗さんの描く絵とも違っていて、それをいったいどういう文脈に落とし込んで攻殻らしく見せるのか、ってところがどうしても気になってしまう。

 というか攻殻って何をもって攻殻らしさが感じられるんだろう、ワイヤーがぞろぞろくっついたナイスバディな美女の絵か、士郎さん的キャラクターデザインか、電脳空間に絡む事件の描写か。それで言うならそれらを完璧に満たしていたのがゲーム版「攻殻機動隊」のオープニングアニメーションで北久保弘之さんが監督したそれは1997年だなんて時期にデジタルで作られ3D空間の中を動き回るフチコマがいてそしてワイヤに繋がれた草薙素子がいてそのデザインは士郎さんそっくりで、展開も現実と非現実とが重なり合った電脳世界を感じさせるものだった。

 そのまんまで1本2本、作品が作られたんなら劇場版の「機動警察パトレイバー」みたいな社会性を含んだ作品とは違った、原作の楽しさを存分に再現したテレビ版「機動警察パトレイバー」のような関係が、そこに生まれて押井守的なワールドが士郎政宗さんのワールドと重なった劇場版とはまた違った、原作の漫画のようにポップでクールでスタイリッシュでごちゃごちゃとした世界を楽しめたかもしれない。ただテレビ版は押井さんに負けずストーリーに社会性を織り込んだ神山健治さんの手で作られそういう方向に走ってしまって未だ作られない原作通り。今回もやっぱり違う方向へと行きそうで、それはそれとして期待しつつもやっぱりいつか、あの感動を味わわせてくれたPSゲーム版オープニングの「攻殻」を、北久保弘之さんの手でドラマ付きで見たいなあ、15年待ったんだからさらに15年だって待つ覚悟。

 相談に行ったのはボーイング787。「ちょっと前からヘンなことばかり続くんです。燃料が漏れだしたりバッテリーが燃え上がったりコックピットの窓ガラスにヒビが入ったり。今日なんてどこかから煙が出て飛ぶのが怖くなって目的地から遠く離れた場所に降りちゃいました。どうしてしまったんでしょう」。応えて辻本源次郎さんは言いました。「それは嘉永4年に流行病で死んだ庄屋の娘の霊のせいですね、お祓いして供養してください」。いやまあそんなことはないだろうけれども、っていうか「2時のワイドショー」の心霊写真ネタを知っている人がもはやどれほども存在していないだろうけれど、でもやっぱりお祓いくらいしてみたくなるボーイング787の相次ぐトラブル。原因はきっとあるんだろうけど、それが解消しても不安は残るからなあ、やっぱり揃ってお祓いに行くのか、ずらりと並ぶその機体、壮観だなあ。

 45歳のライトノベル作家が誕生したと思ったら75歳の芥川賞作家が出てしまって世の中別に適齢なんてものはないんだってことが証明された恰好。まあその作品がそこに相応しければ何歳だろうと120歳が3歳だろうと関係ないわけで、だったら年齢なんか隠して作品だけを並べて優劣を決めれば良いじゃんとか思うんだけれどそうもいかないのが文学書の難しさであり面白さ。45歳のライトノベル作家ってのはそれだけで1つの話題にできるし、75歳と史上最年長での芥川受賞はさらに話題性抜群。作品云々ではなくそのキャリアでもって衆目を集められる。

 それが文学にとって正しいかどうか、って議論は当然あるんだろうけれどもかつて石原慎太郎がそのブルジョワっぽい雰囲気もコミで受賞したって過去があり、綿谷りささんとかまた川上未映子さんといった年齢ビジュアル経歴なんかが先に立ってしまう作家の受賞もあったりしたから、今回はそれが年齢の高さという要素にかかって大きく働いたと考えても不思議はないんだろう。書いた作家にとっては本当にどうでもいいことなんだろうけど、読むようとか出す方とか与える方にとってはそれが重要なんだってことで。直木賞の方は順当に朝井リョウさんが受賞して若手として順調にステップを上がっている感じ。「等伯」の安部龍太郎さんは読んでないから分からないけれど、重厚さとかで宮城谷昌光さんや北方謙三さんの支持を集めたのかな。選評を待とう。

 悪の組織の怪人は正義の味方の英雄に必ず敗れる。そんな運命とも常識とも絶対的な真理ともいえそうな事柄に挑む悪の組織の怪人を描いた和泉弐式の「VS!!」シリーズが3の「VS!!3 アルスマグナの戦闘員」でいよいよ完結。相手のモモレンジャー、じゃない姫宮桜って娘とリアルで知り合いつつデートもしたりしつつ仕事となれば戦闘員21号として悪の組織の怪人を支え英雄たちに挑んでいた少年は、かつて失ったジャバウォックって怪人が残した言葉も胸に潜めつつ、いつかは勝つんだという意気込みで英雄たちにぶち当たったものの2巻で新しく生まれた怪人リヴァイアサンを押し立てても英雄には届かず21号は彼らに囲まれる。もはやこれまで、かと思ったもののとてつもない再生能力を備えた21号は頭を吹き飛ばされても死なず英雄組織で研究材料にされてしまう。

 そこでも死なず殺されないまま密かに脱出の機会を狙う21号。残った22号の協力とそしてリヴァイアサンの助けもあって正義の味方の既知を抜け出し相手の鎧の秘密もつかんで対抗手段を考えて挑んだバトル、その行方は。悪の組織の怪人だからといって悪をなすのが目的ではなく正義の味方と戦えればそれで良いという21号のスタンス、そして無辜に傷つけられ消滅させられることを厭い無理ならとことん生き延びてやろうと画策する21号のスタンスは、運命だからとか常識だからといった理由で死んだり無理をしたりする人間たちへのひとつの警鐘。最前を尽くせ。常識を覆せ。そんなメッセージが放たれてやる気を誘う。それで仮に正義の味方に勝てたとしたら。あとは燃え尽きるだけかというと相手がさらに勝とうとしてくるのを超えようと頑張れば良い。燃え尽きている暇なんてない。そんなことも教えてくれるシリーズ。八方ふさがりだと思い諦めている人へ。頑張れ。


【1月15日】 初回の視聴率が14・3%だったらしいテレビドラマ版「ビブリア古書堂の事件手帖」のその数字がどれくらい高いものなのか、それとも低すぎるのか判断する基準は持ってないけれども今時のテレビドラマが10%台にあれば万々歳とされる中で古本という題材と、そして剛力彩芽さんというどちらかといえばこれからの女優の初主演というハンディを得てもなお14%以上を得ていたことはやっぱり誉められることなのかも。あの人気俳優の小栗旬さんが主演して石原さとみさんも出ていた同じ月9枠の「リッチマン、プアウーマン」の初回は13・9%だったらしいしその平均は12・4%。それと比べてトントンの数字を出していくのがとりあえずの目標ってことになるのかな。次は何%くらいとれるかな。

 現実において大学の学生会がどれくらいの権限をもっていて、そこに所属していることが将来の就職とかにもどれくらい有利なのか分からないし、むしろ学生会なり学友会なり学生自治会が、その独立性を全面に出しつつ、背後で思想的な組織の支援なり指令なりを受けて活動していた実体を踏まえて、社会にとっては好ましくない組織として見なされ、所属していたことが就職などには逆にマイナスに働くことだってあったりするから、判断は難しいところ。あくまで仮定として架空の存在として、高校や中学の生徒会に類する学生から選ばれた公明正大な代表としての学生会があって、そこが権限を得ながら義務を果たして学生のためになる活動をしているんだとしたら。強豪の部活動に負けず社会に認められ引っ張りだこの存在になっているかもしれない。

 そんな、おそらくは架空の学生会を現実の大阪大学に存在させてしまったのが秋山浩司さんの「さがしものが見つかりません!」(ポプラ社)という小説。文学部とか文系の学部とかが集まって、メーンキャンパスと見なされている豊中があり、工学部なんかがある吹田があって、そして統合した前の大阪外語大学が外国語学部となった箕面の3つのキャンパスを持った大阪大学には、それぞれのキャンパスに学生会があって生徒たちを仕切りつつ、学生たちの尊敬を集めて是非に参画したい組織だと思われている。本当かよ? だからこれは架空の小説に出てくる学生会。そういうものだと思って読んでくれ。

 でもって個々にはそれぞれのキャンパスに所属する学生たちから尊敬を集めながら、お互いが主導権をめぐって争いなんかもしていたというから面白い。とりわけ吹田にとって豊中は敵のような存在で、学長は吹田にいるのに学園祭のような華やかなイベントは全部豊中が持っていく。何という業腹な。だから豊中へと出かけていってはデモなんかを起こしてその活動を妨害しようとしている、もちろん非公式に。そんな諍いにまるで関わる気がない工学部に通う主人公。1年次の豊中での日々もずっとアパートに籠もって学校に通うくらいで追え、2年になって進んだ吹田でも似たよな日々が続くかと思ったらそうはならず。前に豊中にいた時にレンタルDVD屋で話しかけてきた物部という男と再開して、MLFなる名の妙な会へと引っ張り込まれる。

 吹田のキャンパスの誰も来ないような場所にあるハウスを勝手に使って作られたその団体。物部のほかに花子さんという女性が1人いるだけの会に3人目として引っ張り込まれた青年は、まずは豊中に行って学生会の名簿を見て写してこいと命じられ、それをどうにかこうにか果たしたら今度は吹田キャンパスの学生会の会長を追い落とそうとする豊中の学生会の企みを暴く計画に引っ張り込まれ、妨害に成功したもののあきらめない豊中側の攻撃をかわし、撃退するバトルに半ば巻きこまれてしまう。

 どうやら物部という男は豊中の学生会にも吹田の学生会にも縁がありそうで、妨害工作にしても高校時代からの知り合いらしい吹田の学生会会長を助けるプロジェクトでも見事な手腕でそれらを成し遂げる。その有能さと故に多くから信頼されながら、一方では身勝手さもあって反発も受けている物部が、学生会に入らず、というかかつて豊中の学生会会長に2年で付きながら、今の学生会会長に譲って学校を辞め、入学し直して工学部に入り、吹田へと進んで作ったMLFなる会が目指していることとは? ちょっとした興味が浮かんでくる。

 もっとも、ラストに明らかになるそれは実に能天気でハッピーでフラワーな青春物語。つきあわされた青年が可愛そうになるけれども、その人にって重要なことは誰にとっても重要なこととは限らない。昔から言う。人の恋路を邪魔する奴はどうしたこうしたと。そんな意味からも物部の行動は納得できるかというとやっぱり納得できないよなあ、吹田にとっても豊中にとっても。まあ互いに潰し合ってくれれば孤高を行く箕面が上に行けることになるんだけれど。

 そんな大学内の学生たちの騙し騙され合うような面白いストーリーと、そして吹田の学生会会長なら吹田、豊中なら豊中という姓(かばね)を名乗って活動するという現実にはあり得ないけれどもあったら楽しそうな設定を持った物語。ひとまず物部の目的が果たされてしまって続きは書かれそうもないけれど、この設定を活かし広げてこの大学での別の時代、あるいは他の大学の物語を綴っていくって手はありそう。さてはていかに。しかし大阪大学っていろいろと面白そうだなあ。だから現実の学生会ではないんだってば。そうなのか。

 たぶんこの文書「按■要求成效」だと思う中国の人民解放軍総参謀部による新年恒例の軍事訓練指示、それをとある新聞とかが日本を超ターゲットにして戦争に備えるよう全軍に指示を出したっていったニュアンスで記事にして日本に伝えてそれをまた通信社なんかが追いかけるように記事にしたりしているけれども果たして本当にそこまで踏み込んだ内容なのか、去年といったいどこが違うんだろうかと2012年の軍事訓練指示とか2011年の軍事訓練指示とか2010年のとか2009年なんかを引っ張り出してみたけれどもどれも中国語なので読めないので違いが分からない良い男。

 とはいえこれらを読み比べて精査すればそれが本当に今年から態度が急変したのかいつものことで警官が犯罪に備えよといっているのと同様、軍隊が戦争に備えよと言っているだけなんのかも分かるだろう。もしも本当に戦意が高揚しているんだとしたら、事前に伝えた記事として英雄になるけれど、普段と変わってないのにそれをさも日本への戦意とあおり立てて日本の側の反感を高めようとした意図をもっての記事だったとしたら、結果として対立が深まり悲惨な闘いへと突入していった時に、記事が果たした責任ってのはとてつもなく思いものとなる。それは人の命のそれも半端でない数の命に関わる事態。その責任を書いた人間は背負って生きていくのか。行くんだろうなあ平気の平左で。そうでなきゃあ偉くなれないんだよそこでは絶対に。

 恒例なんで東京ドームのふるさと祭りに言って津山ホルモンうどんを食らいそれから丼選手権へといってチケットを2枚かってひとつはカニトロ飯だっけ、鳥取かどこかの丼を食べもう1つは南信州にあるらしいソースカツ丼を食べてとりあえず打ち止め。ソースカツ丼はなるほどカツもやわらかくソースも染みて美味しいんだけれど別に南信州に限らず全国的にあるからなあ、昔は福井で名物だったような記憶がるし。それでも美味いものは美味いんだからしょうがない。コインを1枚投入して帰参する。時間があってもお腹は1つ、入る量も限られている中で平日1200円の入場料金が安いかというとそうでもないけど、津山ホルモンうどんなんてあんまりこっちでは食べられないから仕方がない。時間があったらもう1回くらいのぞいて違う丼を食べてみよう。豊橋のカレーうどんは来てないなあ。食べたいなあ。


【1月14日】 そうだオートサロンに行こうと調べたら昨日で終わっていたんで、だったら秋葉原に以降を家から出たら雨が降っていた。話だと大雪があちらこちらで降ってるって伝わっていたのに雨ってのは地域の差かと安心して総武線に乗っていたらだんだんと雨が雪へと変わっていって周辺は真っ白に。さらにお腹が痛くなってきたんで秋葉原の混んだトイレを探すのも面倒と、通りかかった両国で降りてしばらく前から始まっている「尾張徳川家の至宝展」をまずは見ようと降りたら本格的な雪になってて歩くのにも困るほど。それでも隣の国技館では相撲が行われて相撲取りたちが浴衣に雪駄か下駄といった薄着で歩いている姿にさすが天然肉襦袢、と思ったけれども寒いものは寒いんだろうなあ、人間だもの。

 逃げ込むように入った「尾張徳川家の至宝展」だったけれどもこれがなかなかの見物。徳川美術館って尾張徳川家が代々集めた大名道具や書画文物の類が戊辰戦争の戦火に焼かれず太平洋戦争後のGHQによる財産没収にも合わないでちゃんと残って今に伝わっているからもうどれもが貴重品揃いの目品ばかり。太刀とかあれば刀とかもあって正宗だの孫太郎だの村正だのといった銘が彫り込まれていて当時の武士が見たらそれこそ垂涎の的になりそう。だからこそ徳川家康当人が持ったり尾張徳川家初代の義直が持ったりしてたんだろうけどそんな徳川家の面々が手にした、あるいは由来があるといった品々が眼前に並んでいるこの奇蹟。なんか身震いがしてくる。

 徳川家康が描いたと言われる絵とかそれが本当かどうか分からないけれど、でもそう思わせてくれるだけであの時代のあの偉人たちと今とが繋がって来る。物語の中にいる人たちじゃないんだ。そしてそんな人たちによってこの国の今があるんだ。それが歴史の面白さ。博物館や美術館はだから面白い。あとやっぱり見物は嫁入り道具として持ってこられた撒き餌のすごい品々とそして源氏物語絵巻。嫁入り道具は見ればその絢爛さに圧倒されるし源氏物語絵巻は1000年近く昔に描かれた絵や文字が今も残っていることに驚く。もちろん国宝。後期とは絵が変わるんでそうなったらまた見に行くか。一休さんの書とか狩野探幽の水墨画とかも普通に飾ってあるから驚き。それで一部ってんだからいったい徳川美術館にはどれだけの品々があるんだろう。名古屋に住んでたんだからもっと行っておけば良かったなあ。数度しか行ったことないんだよなあ。

 外に出たら雪はさらに降り積もって歩くと靴が沈むくらい。そこを下駄で歩くお相撲さんなんか凄い。高下駄にならないんだろうか。両国駅に来ると電車がめっきり減って千葉方面は津田沼行きだけになってそして遅れも目立ちはじめてたんで、これは下手に動くと帰れなくなる可能性があると考えそこから船橋へと引き返す。さらば雪の秋葉原。メイドさんたちはやっぱりミニスカートで呼び込みをやっていたんだろうか。近所のデパートで駅弁フェアをやっていたんでざっと見て味噌カツ弁当とか貝の陶製容器に入った弁当とか目玉おやじの茶碗に入った弁当とかいろいろ出ていたけれども冷たいのでパスして普通に総菜屋で炒飯とメンチカツとサラダを買って昼食に。カップラーメンも買い込んで部屋に籠もって外に出ないようにして眠り評判もいろいろあったドラマ版「ビブリア古書堂の事件手帖」が始まるのを待つ。

 そして見終わった印象は「これはあり」だったドラマ版「ビブリア古書堂の事件手帖」。古書店があんなに広くて明るくて閑静な住宅街にあっていったい誰が客として来るんだ的な問題はあるけどそれはトレンディドラマに出てくる人たちがその歳ではとても住めないような広い都心部のマンションに住んでいるようなもので、リアリズムよりも見せる上での美術的な感覚を優先したんだと思えばそれで納得、だってドラマなんだもん。そんな古書店の中で繰り広げられる話については持ち込まれた漱石全集の1冊に書かれてあった漱石のサインとそして献呈の宛名らしい人名から、店主がいろいろと想像を巡らせ推理をしてその謎に迫るというストーリーから本についての知識が分かり、漱石の「それから」という物語についての中身が分かり、そんな本に関わった人間にいろいろあったドラマが分かって面白かったし楽しめた。

 つまりは原作にあった要素がちゃんとそこに描かれていた、ってことなのに表紙に描かれたイラストレーションのイメージと、主演する剛力彩芽さんのイメージがまるで違うからってことだけであれやこれや言説がわき上がってこれはまるで違う話になるんじゃないかって煽りが放送前から起こってた。なるほどイラストに引かれて読んだ人にはそれは重要なことだったかもしれないけれど、そこに描かれたパーソナルなビジュアルなりスタイルに関する情報が、原作で言い表されているエッセンスにどれだけ不可欠な要素か、って考えた時に小説は小説としてそれで引っぱりたい意図もあってそういうキャラ付けをしたんだけれど、テレビドラマという場所ではそうしたキャラ付けではないタレント性というもので引っ張れると制作側が判断した、それが剛力さんというイラストのイメージとは違う人の起用に繋がったんだんだと思う。

 そんな剛力さんが演じた篠川栞子という古書店の若き店主はおっとりというかおどおどとしたところがありながらも本が好きで本に関する知識が豊富で本について語り始めたら止まらないくらいの人で、ってことがちゃんと分かってそれはそれで原作どおり。立ち居振る舞いも元気溌剌といったCMなんかで見せるものとは違って静かでそれでいていろいろ考えていそうなところもある役をちゃんと演じ切っていた、と思うけれどもそれなら最初からそういう雰囲気を持った役者を当てればすくことという意見には理解。ただそうした役者の存在と剛力さんのバリューを天秤にかけた時に剛力さんを起用しそうした演技をしてもらうちう手があって、それを見事にやり遂げたって言えば言えるだろう。だから悪くなかった。むしろ正解だったと思う、ドラマ版のこのキャスティングは。

 そしてAKIRAさんが意外というかとても良かったドラマ版「ビブリア古書堂の事件手帖」。だってGTOだよ、グレートティーチャーオニヅカだよ、それがスラックスにセーターだなんて地味な恰好をして眼鏡かけて昼間っからする仕事もなくハローワークに通っている失業者を演じてそんなに違和感がないんだから驚いた。ぶつけてくるような主張はないけどかといって主体性がない訳でもない、ただちょっとだけ運のなさそうな青年を演じて見事にハマっている。この役れをたとえば向井理さんがやったら、高良健吾さんがやったら、松田龍平さんがやったら、大東俊輔さんがやったら……それはそれでマッチしたかもしれないけれどおあのうだつのあがらなさは出なかったような気がする。

 AKIRAさんだってやるまえは無理目ぽかったのにやってみたら合っていた。だから驚いたし、うまくなったと思った。普段は日焼けして肌店ながらダンスしている人とはとても思えない。それともそういう方面からの脱却を目指しているのかなあ、俳優業が増えているのはそういうことか。鴨居に頭をぶつけるのも体当たりで頑張った。あの老人もぶつけていたけど誰だったんだろう、まさかAKIRAさんの2役? それはないか。北川弘美さんはまだあんまり出てなくてただの賑やかしになっていたけどいずれ絡んで来るんだろう。高橋克実さんもその憤然とした感じがよく出てた。野卑でなくかといって上品でもない感じ。好かれないけど嫌われない程度をちゃんと踏んでた。そんな3人がそろって次に挑む事件は。そしてその後は。いろいろな本について学べてそして本に関わった人について知れるドラマを見せて欲しいもの。安田成美さんはいつ頃出てくるのかなあ。月9が久々に楽しみになってきた。


【1月13日】 PLOのアラファト議長の暗殺疑惑がどうやら疑惑じゃなさそうだ、なんて話も浮上してきてそういやどんな亡くなり方をしたんだっけと調べたら、閉じこめられていた大統領府で嘔吐だの何だのといった急な体調不良を起こして倒れて入院してそのままガザ西岸地区からフランスへと運ばれたものの回復せず、そのまま亡くなったんだとか。基幹的には1カ月。毒殺に近い感じだけれど、普通の毒だったら即死とかってなるのに、こうやって治療不能のまま不可逆的に衰弱して死に至るのはいったいどういう毒なのかってことになる。

 もちろん誰もが抱いた疑問で、調査したらポロニウム210が検出されたらしくって、なるほどこれなら放射性物質が体を蝕み死に至らしめる。前にロシアから英国に亡命して来た元情報部員のアレクサンドル・リトビネンコが同じポロニウム210によって暗殺されたこともあったし、運んで食事に混ぜるとかすれば相手をほとんど確実に殺害できる“毒”として、割と業界(どんな業界)では一般的に使われるようになっているのかも。とはいえ製造には手間もかかりそうだし運搬にも厳重な管理とかが必要なんで使える人たちも限られる、ってことになるとリトビネンコはともかくアラファトを暗殺したのはどこなんだ、ってことで素直にイスラエル、ってなるんだけれどイスラエルにそうした技術は果たしてあるのかそれとも。揣摩憶測がまた飛びそう。

 45歳でのライトノベル作家デビューが珍しい買っているとすでに電撃ゲーム小説対象時代に田村登正さんが50歳を越えて『大唐風雲記』でデビューしているから記録でもはないんだけれども昨今の20代から30代が中心の状況ではやっぱりちょっと珍しいかも。とはいえ講談社BOXってレーベルがいわゆる文庫のライトノベルよりは若干上目の世代をターゲットにしていることから思うに45歳でもその中身がワイルド&クールでも、とくに気にせず普通の大人が普通に読んで普通以上に楽しめるんじゃないのかなあ、なんて思ったてりさんによる「サリー&マグナム OF THE GENUS ASPHALT」。

 何しろマグナム主人公がおっさん、というには語弊があるけどマッチョ系でガテン系な兄さんで空調設備の会社から仕事を回してもらってエアコンの取り付けだのに出かけて小金を得てはそれでしばらく食いつなぐような生活をしている自由人。でもってときどきは占い師の知り合いからお化け退治のような仕事を請け負っては報酬を得ていたりする。つまりはそういう才覚の持ち主で、人間には見えない妖怪変化の類、ここではバグと呼ばれる存在を関知し会話すらできる能力の持ち主だってことで、子供の頃はそれで面倒もあったけれどもいつしか黙っていることを覚えてとりあえず、排除もされずかといってそれを大金に変えることもしないで日々をダラダラと過ごしている。

 あとは女性関係? マグナムって相性は鍛え上げられた肉体以上にそっちがマグナムだってことでもあるんだけれどそんな直裁的な表現を使いなおかつ本編でも突っ込むだの突っ込まれるだのする描写があったりするところが、45歳の作家に寄る講談社BOXの1冊といった趣を感じさせる。さらにそんなマグナムに相棒として加わるタイトルロールのもう1人、サリーがこれまら筋肉質のスリムな長身をレザーパンツにタンクトップで包んだいい男で、なおかつ口を開けば出るのかオネエ言葉だというこの設定はもはやティーンに作品を売ってしこたま儲けるだなんて可能性から背を向けて、ハードにセクシャルな方面からの喝采を得ようとしたものだとしか思えない。そしてそれは成功してる。面白いんだよこの作品。

 妖怪変化を相手にバディとなったマグナムとサリーが協力して事件を解決していく展開、って感じで吸血鬼を相手に闘い囚われていた半透明の少年で実は少女にもなれるユキってのを助け出したり、ギシギシと揺れる屋敷に行って普通の人には見えない巨大なタコが屋敷いっぱいに充満しているのをどうにか小さくして解放したりと大活躍。そこにマグナムが子供の頃から知り合いだった電婆とか、新しく知り合ったアスファルトのバグらしいサリーのせいで地上に出られなかったと逆恨みしながら今はバグとなって地上を闊歩できることを喜び改新したセミのバグとかと連れだって、わいわい楽しくやっている。

 オッパリっていうあだ名で今は美人占い師として稼いでいる女性とは高校生の頃からの因縁があってマグナムと激しく対立している一方で、美奈子という所沢に引きこもっている占い師とはいい仲にありながらも相手は狐を従え街には来ないでマグナムの元にはなびかない。そんな女性関係にサリーが横やりを入れてくんずほぐれつ、なんてコミカルな展開で流して行くことだてできたはずなのに、この「サリー&マグナム」ではバグがどうして現れて、それが見えるマグナムとはいったいどういう役回りで、何が起こってそしてバグたちが大変なことになろうとしているのを、マグナムが救いサリーも助けてひとつの解決を見るって大きな設定が仕込んである。

 サリーがかつてアメリカで大暴れしていたバグだということ。そして日本にやって来て今はマグナムのそばにいるということ。それらが重なり合って見えるマグナムの危機でありバグたちの危機に挑むマグナムのそのストレートでシンプルな態度がまた格好いい。的には容赦なく見方には熱いその態度にはサリーでなくなってユキでなくたって惚れるかも。オッパリはどうして惚れないのかなあ、いや惚れていたのか、けどフラれた怒りが今も尾を引いているってことなのか。今回はその姿が文字で説明されただけだけれども次があったらイラストで見たなあ巨大な胸とか。ひとつの残念を得ながらも解決した事件の先に何かあるのかどうなのか。あるいは一太刀浴びせられたオッパリの本気の復讐が始まるのか。読ませて欲しいその続き。

 高崎とおるさん原作で寺岡春之介さん著ってどうしてライトノベルに原作と著者がいるんだろうかとか思ったりもしたけどまあ、そういう分業だってあるんだとう的な感じで読んだ「地獄野球☆ワイルドウィッチーズ 美少女だらけのチームでプレイボール!?」(KCG文庫)を読んだ。地獄で美少女だらけのチームが野球をする話だった。なんか地獄では野球が盛んで地獄力ってのを駆使してアストロ球団の超人野球を超えるようなとてつもないプレーをする面々がリーグではないトーナメントな闘いによるシーズンを過ごしているんだけれどのそのチームに、有望な野球選手だった兄を事故で喪い、その責任も感じた少女が、優勝すれば願いが聞き届けられるという地獄野球に人である身を捨て参加した。

 といっても魂を地獄に引きずり込まれるというよりは、死なず老いない体になっただけってところが割とハッピー。それでも家族と同じ時間を過ごしてはいけない悲しみも一方に抱えつつ、兄を取り戻したいという願いで参加したチームの最初の試合で彼女はめった打ちに合う。何と30対2。地獄に来たばかりで慣れない身ではどんな変化球でも投げられるという能力を生かし切れなかった。そしてチームはオーナーの気まぐれで優勝を何度も重ねていた1軍がマッチョな女性ばかりだからと解雇され、見た目の良いのだけが残されたもののそれでは勝てず勝てない以上はそれなりに有望だった選手もここにいる意味がないと離脱を表明して解散の危機に。

 これはまずいと思ったのが少女とは長馴染みで死んだ彼女の兄とも知り合いの少年。オーナーに頼み込んで自分も地獄野球に関わらせてくれと良い、けれども美少女だけしか認めないオーナーの考えもあってそのままでは参加できなかった少年に与えられた少女の肉体、そしてどんな球でも球種が分かればホームランに出来るという地獄力。それを得て少女の納得ももらい2人はチームを鼓舞し少女がその潜在力を見せて離れそうな同僚も引き留め始まったシーズンに望む。なるほど地獄で野球をする話し。魂が消滅するとか世界が滅びるってこともなく、娯楽としての野球が繰り広げられては野球小説を読んでいるような楽しさを味わわせてくれる。まだ何も成し遂げていないだけに次回作もきっとありそう。そこではどんな相手が現れるのか。チームメイトたちにはどんなドラマがあるのか。読んでみたいなあこの続きも。「地獄蹴球」とかってのも作れそうな気がして来たぞ。


【1月12日】 メルダ・ディッツが人間とまるで同じDNA配列を持った存在だというなら、それはおそらく遠く離れた銀河系と大マゼラン星雲との間に生命の行き来があって、そこから生物学的な進化というよりもはや、文明をどう築き上げていくかといった差異で、地球人とガミラス人とおそらくはイスカンダル人なんかも含めて発展していったと見るべきなんだろうなあ、あるいはガトランティス人なんかも含めて知的生命体は同じ存在だという理解すら成り立ってしまうのかもしれないけれど、そういった、科学で抑える部分においては無視してそいううものだという理解から始める方が正解だったりするのかも。だとしたらわざわざDNAが同じとかって描写をやらないか。同じ人類だ、だから憎しみ合うのはおかしいよという道徳に持っていく理由付けってだけでなければ、うん。

 だとしたらガミラスフォーミングって何のためにやってるんだ、という疑問もまたしても浮かんできた「宇宙戦艦ヤマト2199 第四章 銀河辺境の攻防」は、前の第三章で帰る船を失ってしまったメルダが発した戦争は実は地球からしかけたって話をめぐって島大介がそんなはずあるかと子供のようにダダをこねる一方で、そう信じたくない気持ちはあっても喋ってみればなかなかの武人なメルダの真っ直ぐな態度からこれはそうかもしれないといった所感を抱くようになった古代進。だから沖田十三艦長が自分は逆らって解任されたという話から暗にそれが事実なんだということを聞かせても、憤らず反発もしないで受け入れそして自分も時に命令を無視してもやるべきことはやるって行動へと結びつける。

 それが対潜哨戒任務。新見薫がナイスバディをくねくねさせながらダメよそれはって行って真田もそっちの具申を受けて古代案を却下したけど、でも一理あると思ったか徳川の具申を受けて沖田を艦橋から外してフリーにして、行動を起こさせるチャンスを与えた、ような気がしてる。なかなかの策士だなあ、真田さん。そんな真田をただひたすらに敬愛しているだけかと思った新見だけれども2人の会話にたびたび出てくる「あの人」ってのが案外に新見の思い人? それはもしかしたら古代守? 分からないけれども守だったら、そして前のシリーズと同様な展開が待っているとしたらイスカンダルに到着して血の雨が降るかもしれないなあ、新見とスターシャとの間に。ともあれあまだまだ隠していることも少なくなさそうな新見女史。次は是非に入浴シーンを。あるいは尻のクローズアップを。

 しかしやっぱり異色でそして面白かった第14話。ストレートな髪に長い耳をした少女が出てきてもしかしたら「ラフィールと呼ぶが良い」だなんって行ったらそりゃいったいどんなアニメだってなったけれども別にアーヴではなくミーゼラ・セレステラと同郷の人とかで、名前もミレーネル・リンケといって遠くから自分の精神を飛ばしてヤマトの中に入り込んで攪乱していた様子。あれであのままヤマトがワープして敵の手に落ちていたら果たしていったいどうなったのか。そのままデスラー総統の元に連れていかれたのか同じジレル出身が2人しか残っていない理由なんかを鑑みつつヤマトを支配下にいれて反乱とか起こしたのか。絶対の忠誠というのはやや引っかかるところも見えるような気がするミーゼラの今後の言動なんかにも注目しよう。

 村井さだゆきさんはこういうシュールで幻想的な展開をやらせると最高だよなあ。前の第三章ではロボットの気持ちめいたものを絵本の物語も絡めて描いてこれまら異色っぷりを発揮していた弐で、ただ戦闘が繰り返される展開にこういう話が加わると見ていて心が落ち着き冷やされ居住まいを正される。ここに小中千昭さんが加わればさらにシュールさも際だちそうだけれど、そんなのばっかだと旧来のヤマトファンから非難囂々だろうからこのくらいが適当ってことで。それにし可愛そうだったなあミレーネル。あそこまで追いつめながら……。どうして逃げられなかったんだろう、大本で接続を切れば良かったのにそういうことは出来なかったんだろうか、戻って来なければ行きっぱなし? それをやるだけの理由があったんだろう。けどミレーネル、過去にユリーシャなりイスカンダルの人と何かあったんだろうか。見てとっても怯えてた。イスカンダルってガミラスにとってどんな立ち位置なんだろうか。そんな辺りも気になる2199。ガミラスに、イスカンダルにどんな結末を用意しているんだろう。完結が楽しみだ。

 なんかもらえるからと木場の109シネマズに行って「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見る。たぶん8回目。だいたいもうすべて展開も分かってしまうんだけれどやっぱり見入ってしまうよなあ、そのピリピリとした関係性とか移ろう心理とかに。あれだけ心酔していたカヲルから「やめよう」って言われてもなおシンジがロンギヌスの槍を抜きに行った心理がつかみづらいけれども直前に自分が世界を破壊したと教えられ、けれどもそれを立て直せるんだと慰められたシンジにとって自分を正当化できるのは駄洒落じゃなくって槍でやり直すことだけだったんだろうなあ、だから止められても抜きに行った、と。もう周囲も見えなくなってそればっかり。けどやってみたら世界はドカンでカヲルも頭がボカンではもう気持ちも立て直せないだろう、そんなシンジを立たせて引っ張っていくアスカがやっぱり可愛いなあ、健気だなあ。さてしかしどうやって立て直すのか。それを描くのか「シン・ヱヴァンゲリヲン新劇場版」。また14年後にすっ飛ばすのか。ともあれ待つよ、その公開を。

 そして今日から都内では唯一の上映としてリスタートした「ねらわれた学園」を角川シネマ新宿で。60席もない劇場だったけれどもそれが満席になるとはなあ。だってピカデリーで上映していた時だって60人が入るなんてことはイベントでもなければなかった訳ですでに封切りから2カ月くらい経っていてそれで1度は上映も終わった作品にこれだけ人がつめかけるってのはやっぱり口コミか何かで評判が広まった結果だろうか。一気に盛り上げ初速でドカンといってあとはそれをどこまで引っ張るか的興行がメインの世の中で、それから落ちたら這い上がれない仕組みになっているけどそうじゃない興行の方法があるんだってことを、「時をかける少女」の時みたいに思い出させてくれた。こうやってじわじわと続けていけば伝説になるような気もするんだけれど、それをやってくれるかなあ、どこかの劇場が。初日に配ってたミニ色紙が復活してたけどもらったら花澤キャラで前と被った。どうしよう。枕元にでも入れて良い夢見るか。出てくるか。


【1月11日】 遂に明らかになった「宇宙戦艦ヤマト2199」の地上波での放送スタート。いつかそういう日が来るとは思われていたけれども昨今の放送事情もあってか実現しないまま、劇場で何話か分をまとめて特別上映してそして同時にブルーレイディスクも発売する方法で、これまでに第三章まで公開されて話数的には10話までが上映&販売済み。明日12日からは第四章として第11話から14話までが上映されてブルーレイディスクも発売されては銀河辺境でのガミラスとヤマトとの息を飲む闘いが繰り広げられる訳なんだけれど、その公開を前にしてのテレビ版放送開始宣言が果たして吉と出るか凶と出るか。

 まあいずれは誰もが放送されると思いつついち早く見たいとかけつけてた人たちばかりだがら、4月以降で時間的には6月末から7月にかけてになりそうな話数の放送を待ってることなんてないか。とはいえテレビ放送となると一般への浸透も期待できそう。これまでファンがいくら大騒ぎしたところで「宇宙戦艦ヤマト」を現代風にリメイクしただけって印象から見ていたのは過去の作品を知る結構な年の人たちが大半。それはブルーレイディスクの劇場版を手に入れるために朝早くから劇場前に並ぶ人たちの顔とか体格を見ればすぐ分かる。

 そうした人たちが懐かしさを新しさを味わっている一方で、若い層は最初っから見る気もなければそもそも情報すら欲してないってことなのか、そうした層がメーンとなったアニメ雑誌が表紙に取り上げることはなく、記事もそんなに大きく扱われているってことがないらしい。声優さんは人気者が多いしキャラクターだって現代風になっているのに、それでも突破できない壁があった。それが地上波での放送で中身が知られることによって、大きく広がる可能性がある。見ればただの絵柄だけを変えたリメイクじゃなくって、戦争責任の問題とか人種差別の問題なんかを織り込んだ、深みを持ったストーリーになっているって分かるから。

 しかしそんな「宇宙戦艦ヤマト2199」の地上波放送スタートを伝えるスポーツニッポンの記事もやっぱり大人向けのメディアがかつてファンだった人たちに伝えるような内容でちょっと辟易。かつて凄い作品があったけれども今は忘れられているけれどもそれが日曜日だなんてアニメがたくさん放送されている日に投入されるなんてこりゃ凄くない? ってな論旨になっている。「新作ヤマトが新たに走り出すのはアニメが激戦の日曜日。フジテレビの『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』、『ワンピース』、テレビ朝日系『プリキュア』シリーズなど人気作品がひしめく」。なるほど確かに日曜日にはアニメが多い。深夜にだって山ほどあるし。

 でもねえ、日曜午後5時に放送される「宇宙戦艦ヤマト2199」と時間が重なっているアニメなんて1本たりともありはしない。裏番組が強いからそちらを見てこちらを見ないなんてことにはなり得ず“激戦”どころかむしろ“共闘”が期待されそうなのに、そういう論旨に持っていけないのは何だろうなあ、記事としてのバリューを上げるためにそういうアングルを作らないといけないって意識が働いたからなんだろうなあ。それでは若い人には届かない。中身でありキャラでありメカといったものからアピールするような報道を、テレビ放送スタート前にどこかしてくれれば有り難いんだけれど。自分は不可能なだけに。

 朝から「ヤングマガジン」が発売延期になるとかって報が流れて何があったんだと大騒ぎ。理由は河西智美さんの写真に不適切なものがあったってことらしいけれどもそれって昨日あたりにスポーツ新聞がこぞって掲載していた手ブラをさせた写真でしょ? すでに周知のものがどうしてダメなのってことになるけれど、スタンドで報道として提供する新聞に検閲はできなくても雑誌はその内容が青少年の育成がどうしたこうしたって条例でもって制約され制限される可能性を持っている。今回そうした勢力が動いて何かを言ったかどうかは分からないけれど、自主的に判断をしてそうなる可能性があるって感じてこれは拙いと取りやめたのかもしれない。コンビニとかそういう話に敏感で、指定とか受けたりするとその号だけじゃなく、ずっと扱ってもらえなくなるからなあ。でもやっぱりヘンな話。周知のもので新聞で流布されているものがダメってのは。検閲を許すとこうなるって一例と見るべきなのかもなあ。それはやがてあらゆるメディアへと……。怖いなあ。

 ふと気付いたら米アカデミー賞のノミネートが発表されていて、アニメーション部門の選考に名前が挙がっていた子安さん声バリバリな例の神秘アニメーションは外れ宮崎吾朗監督による「コクリコ坂から」も外れて日本勢は全滅。短編アニメーション部門で入ってた大友克洋さんの「火要鎮」もはいっておらず日本人関係だと「白雪姫と鏡の女王」で衣装を担当していたらしい故・石岡瑛子さんが入っているくらいでそういった興味で見るのは大変そう。ただアニメーション部門はティム・バートンが手がけたディズニーの「フランケンウイニー」が入った一方でピクサーが手がけた「メリダとおそろしの森」も入っている。

 ティム・バートンので「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」を監督したヘンリー・セリック監督が「コララインとボタンの魔女」を手がけたライカ・エンターテインメントが、「コラライン」みたいに人形を動かしながら撮ったという、日本ではもうすぐ公開予定の「パラノーマン ブライス・ホローの謎」が入ったりとなかなかの充実ぶり。これが獲ったら公開にも弾みがつくんだけれど、同じようなタイミングで公開された「コラライン」がノミネートされていながら獲らなくって興行にちょい、勢いが出なかっただけにガンバテ欲しいもの。ほかの2作のうち「シュガーラッシュ」もディズニーだしなあ。でも「メリダ」には負けるかな。「ウォレスとグルミット」でお馴染みなアードマンの「ザ・パイレーツ! バンド・オブ・ミスフィッツ」だけ雰囲気が違うだけに(「パラノーマン」もCGではないけど見た目CGっぽいんだよ)これが獲ってくれたら面白いけど、「ワンマンバンド」の時に話を聞いた「メリダ」のマーク・アンドリュース監督にも獲って欲しいんだよなあ。さあ何が来るかお楽しみ。

 そして試写に続いて2度目となる「宇宙戦艦ヤマト2199 第四章 銀河辺境の攻防」は良い尻アニメーションであった。とくに森雪。コスモゼロだかのコックピットでハーモニカを吹く古代の横にやって来てコックピットのへりに腰掛けたりして横向けばそれがあり、また止まったエレベーターの通り道にある梯子を古代といっしょに降りていくシーンで下を行く古代が見上げればそれがあったりしてもう目にその丸みその質量が飛び込んできて心躍らされた。触れないのが返す返すも残念。新見薫女子もあれでなかなかの量感があって良さそうだけれどあの人歳、幾つくらいだっけ。山本もまあそれなりに。でもスポーツ系だから丸さ柔らかさとは違う感触があるんだろうなあ。それはそれで。何のこっちゃ。


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