縮刷版2013年11月下旬号


【11月30日】 ってか何だあのリボンはレディー・ガガ。後ろにいるきゃりーぱみゅぱみゅのでっかいリボンにも勝る大きさでもって、髪質に会わせたかのように細い繊維を編んだリボンをくっつけそして、顔には瞼をつかってでっかい眼を描いて日本に少女漫画のキャクターを模したというかパロった扮装で登場しては圧巻のパフォーマンスを見せたりしてた。そのギャップがすなわちスーパースターの証ってことなんだろうけれどもどっちにしても日本のカワイイを表現する、それもきゃりーぱみゅぱみゅの前でやってのけるその凄みって奴に簡単しつつそいうした“意識”をさせるきゃりーぱみゅぱみゅというアイコンの存在にも、改めて感嘆してみたいりした冬の夜、お元気ですか、私は風邪で寝ています。

 なので29日の夜にあった『攻殻機動隊ARISE』border:1とborder:2」のまとめての上映会には行けず眠りながら榎宮祐さん暇奈椿さんによる「クロックワーク・プラネット2」(講談社ラノベ文庫)を布団にくるまり電気毛布で熱せられながら読んだら話がでっかくなっていた。元より地球が冷え切ってしまったんだけれどそれと天才が歯車仕掛けにして甦らせてから1000年、やっぱりきしみ始めた地球を時計技師が直そうとしているところに出現した兵器ともつかない高性能の自動人形を巡ったりしていろいろ起こった騒動が、京都に暮らす頭は凡人だけれど人一倍耳が良いのかそれ以上の何かを持っているのか、誰も直せなかった自動人形をあっさり直して手下にして、そして名家のお嬢さまにしてこちらは正真正銘天才な時計技師のマリーとその護衛の男を味方に京都がパージされそうになるのを防ぐ。

 そして世界が隠していた悪巧みを公開してしまったところから始まる第2巻は、リューズという自動人形よりも後に作られ攻撃力ではリューズより強い自動人形の妹が現れ4人組の前に立ちふさがる。まず場所は三重でそこで地下にもぐったところ稼働間際の巨大兵器が鎮座していてそれがやがて東京を襲うという展開。裏側にはさまざまな勢力の思惑が巡らされていどうにも止めようがない状況を、それでもナオトやマリーやリューズ、ハルターの4人は相手に先んじて行動することでどうにか止めようとする。テロリストだって世界が破壊されたら生きていく場所、ないもんね。

 そして現れた妹自動人形の最強にいったいどうやって立ち向かう? 姉のパワーもナオトの天才も用意には通じないところをその自動人形が持つ機能を利用しどうにかこうにか食い止めたものの、敵の進撃はとまらず東京に危機が訪れたところで2巻の終わり。いったい何がジェネラルと呼ばれる老人の心に火を着けたのか、それは将来において何を呼び込むのか。衰退に喘ぐ世界が再び生まれ変わるための布石になるのか、完全なる滅びへの未知へと向かうのか。そんな辺りも想像しながら正真正銘の天才かもしれないナオトの活躍ぶりを見守ろう、あの世界が滅びそうなおに自分とリューズのことしか考えていない適当さも天才たる所以なのかを想像もしつつ。リューズの妹シリーズはさらに登場するのかな。それはどんな技を持っているのかな。そっちも楽しみ。

 それにしても自動人形の癖して悪口雑言を良くもああまで吐けるリューズだけれどそこはロボットの自意識、すなわちゴーストについての探求がずっと行われてきた士郎正宗さん原作のアニメーション「攻殻機動隊/Ghost In The Shell」なんかにも描かれていたりして、何かをきっかけに自我めいたものが発言する可能性なんかについて触れられているけれども実際の可能性についてはちょっと不明。ただ広大なネットの膨大な情報を自在に操れる存在が人間すら上回る可能性にはちょっと期待したくなる、ってことでそんなシリーズの最新作ともいえる「攻殻機動隊ARISE2 Ghost Hispers」を川崎にあるTOHOシネマズで舞台挨拶も含めて鑑賞、試写入れて2回目ともなると展開は分かっているけれどもそれを知っていてなおあのシーンがどこに繋がりそして誰が誰によって騙されていたのか、なんてところが掴みづらい複雑さがあってまた観たくなる。買ったBDを観れば良い? でもやっぱりあの大画面で観たいよなあ、観られるうちは。

 娑婆に出て自由を謳歌する草薙素子、ってシチュエーションを踏まえて今回の竹内敦志監督は割と素子を生き生きと描いている感じ。後に公安9課の仲間になる面々にあるいは味方として出会い敵として戦ったりする展開から、それでも自分にとって有用な人材を見いだし誘う素子姉御の格好良さ、ってものも観られて面白い。もうちょっと後になるともう完全のボス猿というかメスゴリラというか、完璧な上司様って感じになっているから。今だとまだ同志的な間柄。首根っこは押さえられてもひとつ目的のために集い動く仲間って雰囲気が感じられるし。あと舞台挨拶で坂本真綾さんが言っていたけどこの頃の素子ってまだ脇が甘くって、それを周囲が支えていたりするといった感じ。これは冲方丁さんだっけ、あそこでサイトーを逃がすなんてあり得ないとか言ってたし。

 展開もうアクションアクションアクション。とりわけこれは石川光久さんが説明していたけれども竹内敦志監督がバイク乗りなだけあって素子がバイクを操る様とか人間とバイクのサイズなんかは実にリアルでスタイリッシュ。車を相手に自在に動き回っては銃を振りかざして戦う姿をやろうと思えばハリウッドだったら実写であってやってしまいそうだけれど、それだと逆にリアルさが濃すぎてしまって架空の未来って雰囲気が漂わない。アニメーションだから出せるリアルとバーチャルの狭間にある空気感。それが存分に出ているフィルムって感じかなあ。あとヴィヴィって女性のキャラクターへの力の入れ方は半端なくって、黄瀬和哉総監督が後で観て驚いたくらいによく動く、羽衣が。動いてないのに使われた原画数千枚とか本当か? って言うほどのそのシーンはやっぱりデカいスクリーンで観てこそ伝わるもの。だからまた行こう劇場へ。壇臣幸さんの声も聞き収めに。


【11月29日】 そして見た「ミスモノクローム」は喜久子を抱えてモノクロームさんが宇宙人によって絶滅させられそうになっている地球を歩くシーンから始まってそしてKIKUKOも倒れてこれで終わりかと思いきや、そこから長い年月を乗り越え風雪を耐え抜いたモノクロームさんが神と崇められ屋敷に暮らすようになって今に至るという、まるで時間は輪になったミライザーバンだ説を地でいくようなストーリーが繰り広げられていた。なるほどなあ、って感心するところじゃないけれど、とりあえずなぜ彼女があんなゴージャスな家に暮らしていたかは分かった。歴史は繰り返すのか否か。そんなあたりも注目して見ていこう残り話数を。

 「大都市再生組合(UA)が東京都町山市の町山田崎団地で続けていたヒグマ4頭を使った実証実験が30日、終わる。2週間で5棟の不法占拠者たちをほぼ食べ尽くし、正規住人の心を怯えさせる『予想以上の効果』(UA)も生んだ。『もっといて、こころぼそい』と記された正規住民の貼り紙も現れた。任務を終えて北海道の原野に戻るヒグマとの『お別れ会』が、同日午前11時から現地で開かれる。オス2頭、メス2頭のヒグマは、11月中旬から団地内の非正規住人に占拠された棟の間に放し飼いにされ、日中、日本人も外国人も問わず襲って食べ歩いた。夜になると自分で非正規住人が暮らす部屋に入り込み、台風のような勢いで不法占拠者たちを駆逐した」。

 なんていう夢を見た。本当は放し飼いにされたヤギたちが団地の庭に生えた雑草を食べ尽くしたというもの。それは楽しい光景だけれどフンとか世話をする人がいてこその安寧で、食べる場所だって日頃誰も使わない場所だからこその荒れ放題。それを見てくれのためだけにヤギに綺麗にさせただけで、人間がやれば澄むところを面倒がってヤギに任せた感がありありと漂う。でも、そうやって管理された自然を本物と勘違いするときっと間違いを犯す。クマは凶暴で人を襲い喰らうんだということを見せる意味でもどこかでやらないかなあ、クマ団地。可愛いとか格好いいとか近寄っていった人が1人また2人と消えていくその阿鼻叫喚が、人間にある原始の恐怖を喚起するから。

 なんか前夜祭の参加組はもう買えるってことで早朝に新宿のバルト9(ばると・きゅう)へと出むいて「攻殻機動隊ARISE border2 Ghost Wisper」のブルーレイディスクをサントラともども購入、ミニ色紙がもらえたりもしたけれども気になるのはやっぱり付属のフィルム、ってことで開いてみたらおっさんだった、それも髭もじゃの。つまりはハッカーなイシカワな訳でまあ渋いことは渋いけれどやっぱり素子か今回のARISE2に登場する外国からのエージェントとかが欲しい気もしないでもない。とはいえ今回のイシカワはそれが壇臣幸さんによる最後の声って意味合いもあって、追悼の意味合いなんかも含めてその顔を眺めて拝みたいって気もやっぱりある。本当、マッチしてたものなあ、あの声は。border3からはどうするんだろう、本格的に公安9課が動き出してイシカワも大活躍するはずなにに、たぶん。

 図書館にじわじわと食指を伸ばしていたりするTSUTAYAが今度はライブ事業に進出とかで渋谷にあるo−eastとかいった老舗のライブハウスの冠スポンサーになったかして、そこを拠点にイベントを打ちつつCDなんかを売る戦略に出るんだとか。でもなあ、ライブ会場に来る人ってもうすでにCDとか買ってたりするケースが多くって、そこで改めて音盤を売るってよりはむしろグッズ類を売って稼ぐと言った方がメイン。事務所なんかが中心となってグッズをせっせと作って並べて売っては1人あたり数千円からポール・マッカートニーだと6万10万なんてオーダーでグッズを買っていたりする。でもCDは買ってない。TSUTAYAがだから自分の店に変わってライブ会場をリアルなサンプルに触れられる場所だなんて考えて事業を展開すると思ったほどの成果を得られないって可能性も。そのあたりどうなるかちょっと興味。

 そうかポポビッチ監督はセレッソ大阪に行くのか。FC東京でどんな感じのサッカーを見せていたのかJ2な身では分からずそもそもそのJ2すら今年はまるで行けなかったからまるで分からないんだけれど、でも決して最下位を争うようなチーム状況ではなくって決してメジャーではない選手たちが揃ったチームを中位に押しとどめたってだけでひとつの功績。それがスターの揃うセレッソでいったいどんなサッカーを見せてくれるかにちょっと興味はある。願うならそりゃあジェフユナイテッド市原・千葉に来て欲しかったけれどもアマル・オシム監督を解任して以降、ヨジップ・クゼ監督はったけれども東欧趣味を極力廃そうとしている節が見えるだけに招きはしないみたい。実際に来なかったし。じゃあ一体誰が来るのか? ってのが目下の興味だけれどまずは目の前のFC徳島だっけ、そことのプレーオフに勝って昇格争いの“決勝”に駒を進めてもらいたいもの。今度こそ。今年こそ。

 太陽をかすめて大きく尾を引き輝くだろうと思われテレビ番組とか観測旅行とかも企画されていたアイソン彗星がその太陽に囚われ食われて消滅してしまった様子でテレビ番組も観測旅行も星と流れてしまった様子。NASAとか天文学者とかの精度の高い予測ならすでにあの質量では太陽にかなわず食われるだろうと考えられていたんじゃないかとすら思うけれども、それを言ったら何も始まらないので間際まで伏せておいた、なんてことはあるのかないのか。どっちにしても彗星が天に輝く姿は見られないってことで。そういえば大昔にハレー彗星が来たことがあって海岸へと車を飛ばして見に行ったことがあったっけ。何か星雲みたくたなびく雲みたいなのがあってそれかなあ、と思って帰ってきたけどいつか本当に、ほうきみたいに尾を引き空をよぎる彗星をみたいもの。そして翌日には目が見えなくなってトリフィドに襲われ食われるという。やっぱりそこか、SF者が行き着く果ては。

 いやいや最近はあれで彗星に見せかけた太陽系攻撃兵器であって人類を殲滅するには太陽が輝くなってしまえばいいと先に装置を送り込み、太陽の活動を停止させる挙に出たと。そして熱量を失った太陽からエネルギーを受け取れなくなった地球はすぐに冷え、そして人類はそのまま凍りついてしまう……って話を鷹見一幸さんが「宇宙軍士官学校 −前哨−4」に書いていたっけ。彗星の進行具合ですら掴みきれない人類が、そうした宇宙からの侵略を察知して阻止できるはずもない。今はこうして残念がっているけれど、気がついたら冬はなかなか終わらずむしろ冷え込み具合をますばかり……なんてことにならないと良いけれど。冬来たれりど春近からず。それだけは勘弁。


【11月28日】 サッカージャーナリストの田村修一さんが欧州でいろいろと取材をしている最中に聞いたことがなかなかの衝撃。あの世界でも屈指のサッカー情報機関として知られるフランスのスポーツ新聞「レキップ」が来年のワールドカップブ2014ブラジル大会に記者をたったの11人しか送り込まないんだとか。1994年のアメリカ大会には40人を超える記者を送った媒体だけれどその大会に実はフランスは出ていない。にも関わらずしっかりと記者を送って世界の趨勢を伝えようとしてそれを読もうとする読者がいたんだけれど今は、自国の代表が行ってすらこの人数。行かなかったら4人とか5人に留まったかもしれないって田村さんは聞いたという。

 たぶんひとつにはメディアの状況が劇的に変化してわざわざ自国から記者を送り込まなくても世界各国から集まるそれぞれの国々の記者達が、最前線で張り付いて取材したものがネットを介して瞬時にあちらこちらに出回るから、それを翻訳するなり購入するなりして掲載した方が手っ取り早いってこともある。自前のジャーナリストが育たないっていう問題はあるけれど先進国の産業があちらこちらの国へと移転されていくのと同様に、JAナーナリスティックな仕事もそうやってグローバルでワールドワイドな分業体制になっていくのかもしれない。

 そしてもうひとつはやっぱり紙の新聞なり紙の雑誌が読まれなくなっているということ。これも情報のグローバル化およびネット化と裏腹な問題ではあるけれど、紙の新聞を読んで溜飲を下げるインテリ層なりネットにはない味を求めたがる固定層が徐々に数を減らしている。これは日本も同じ状況で昔ながらの紙媒体に思いを寄せる層の高齢化が著しく、それに会わせて情報の中身を“高齢化”させては若い層の反目を買う悪循環に陥って、どんどんと数を減らしていたりする。あのフランスですらそうなら日本をや。考えると暗くなるけれどもそれでも「エル・ゴラッソ」のような媒体はちゃんと仕事を続けている。専門特化による生き残り、ってのもひとつの手なのかもしれないなあ、最近読んでないけど、J2だし、うーん。

 そんなブラジルのW杯では建設中のスタジアムにクレーンが倒れかかって屋根が大破という事態に。ただでさえ工期の遅れが取りざたされている中でのこのアクシデントは大会の開幕に果たして影響を与えるのか、っていうともう遅いんだろうなあ代替開催なんて。だから開かれるけれども屋根とかは仮設にしたりスタンドにしたりでおさえておく。それで無事に過ごせるんなら何もでっかいスタジアムを幾つも幾つも作る必要なんてないんじゃないか、って話になってそれは日本の国立競技場の建て直しなんかにも向いてきそう。すでに案の一部を修正する方向性が打ちだされているけれどの、あの広さだからこそ意味を持っていた曲線が狭い範囲に押しこめられて圧縮された形になってそれで良いのかザハディさんは。アンビルドの経歴を1つ重ねるよりそれでオッケー出すんだろうなあ、今は。ショボくてそれでいて恒久。なんどいう無駄を。

 堤清二さん亡くなる。流通業界を担当したときにはもう西武百貨店からもセゾングループからも退いてお目にかかる機会はなかったけれどもそれ以前の、1980年代から90年代にかけてのある種の文化をパルコを率いた増田通二さんとともに作り出した立て役者として、自分を形成する少なくない部分を担ってくれていたんだなあと思うと感慨も深い。まだ池袋にあったセゾン美術館では不思議な現代美術を満たし、パルコに作ってくれたパルコブックセンターでは文学から芸術からサブカルチャーから様々な書籍をそこから買って読んで自分の糧にした。リブロポートから出たトレヴィルの本って今の先端を行く人たちが多く関わっていた。孵化器のような役割を果たしていたって言えるかも。僕はあんまり行かなかったけれどもセゾン劇場等々は言うに及ばず、日本の演劇文化の一翼を担った。

 そういう人だからこそ経営者として失敗して一線を退いてからも、慕う人が大勢いて今に至ったんだろう。もちろん辻井喬という名での文学者としての活動もその地位を確固たるものにしていた。堤義明さんがまるで面に立てなくなっているのと比べると、随分違う扱いだけれどそれだけ文化を担った人ちう意味合いでの、賛辞が真っ当にあるんだろう。そうそう堤清二さんと言えば氏家齋一郎さんがあれは務台光雄さんだっけかの不興を買って日本テレビを追い出された時に引き取ってセゾングループ最高顧問という名の職に就けたのが堤清二さんだった。東大で共に共産党として戦った仲であり、脱党して未知を別れてからも経営者として交流した仲。だからすぐに引き取った。

 それで雌伏3年、氏家さんはセゾングループ最高顧問を務台さんが亡くなるまで務めてそして、1991年に日本テレビに復帰して改めてスタジオジブリとの関係を徳間康快さんとの関係もあって深めていった。徳間さん亡きあとは氏家さんがパトロンとなってジブリを支えて今や日本テレビの金看板としてジブリブランドを持つに至った。だからこそ生まれた高畑勲監督による傑作「かぐや姫の物語」。それを僕たちが見られるのだと思うと堤さんにはやっぱり感謝すべきなんじゃないかなあ。あそこで氏家さんが全部投げだし退いたまんまだったら高畑さんに「かぐや姫の物語」を作らせる声は出なかった訳だし。高畑さんだって作らなかっただろうし。

 そして同時に徳間さんが去り氏家さんが去って堤さんも没した今、こうした文化を育て継続させ発展させていくだけの度量を持った経営者がどこにも見あたらなくなったなあ、なんて思えてくる。どこかの新興IT企業からプロデューサー見習いとして入っている創業者の人だって、会社を潰してまでジブリを支えようって気はないだろう。徳間さんはそれをやった。氏家さんは力で押した。今は誰が? そう考えると宮崎駿監督の引退も高畑勲さんの生涯における大作の完成も、ひとつの時代の区切りとして意味を持ちそう。後はもうないのかもしれない。それでも作られる何かを精いっぱいに支えていくしかない。何が来ても。どうなっも。

 天下を取ったゆるキャラも凄いけれども知性のレベルでいうなら「ジャフバくん」はなかなかなもの。その胸に輝くバッジはひまわりの花を模していて、それはすなわち弁護士だという証でもあるということは、つまりあの最難関といわれる司法試験を通って司法修習生を終え、弁護士登録を果たしたということに他ならない。まあ日本弁護士連合会こと日弁連が広報キャラクターに据えるくらいだから元より知性のレベルは確約されている。問題はその巨大が裁判所の弁護士ブースに入れるか、でもって裁判長に向かって「異議あり!」と叫ぶことができるかだけれど、その愛くるしい顔立ちでもって裁判長を向けばもう絶対に弁護側の正解と思われることだろう。ならばと検察の側もゆるキャラを投入して来そう。その名も「けんじくん」。何か普通だなあ、名前だけだと。

 そんなジャフバくんを引き連れ日弁連の会長さんが街頭に出てひまわりの花の種を配るイベントを見物。弁護士って敷居高くないんだよ、もっと気軽に相談してよと呼びかけるために行われたイベントでもう敷居が低いから弁護士界の頂点に立つ日弁連の会長ですら通りがかりの人に種を渡してる。とはいえああいう場ってもらってくれない場合もあって結構その時に気分が凹むもの。けど笑顔を絶やさず最後まで種を配ってみせた山岸憲司会長に拍手。弁護士がやるならと検事総長と最高裁の事務総長も並んで法曹のトップが法律への意識を盛り上げるイベントでも開けば良いのに。そこに並ぶ「けんじくん」と「さばきくん」。何だ「さばきくん」って? 閻魔様のゆるキャラか?


【11月27日】 そうそう「かぐや姫の物語」では山で姫と翁と媼がタケノコを穫りに出かけるシーンがあるんだけれどそこで収穫されるタケノコが何か成長し切って伸びてしまったタケノコばかりなのが気になった。あんなの固くて食べられないよ。普通は朝に落ちた葉っぱをよち持ち上げるくらい頭を出したタケノコの周囲を掘って根っこを鍬か何かてぽっきり折って収穫するもの。昼ですらすでに味にえぐみが出るくらい気遣いが必要なのに映画では、もう背丈が伸びきったものを切り取り集めて篭に入れていた。まさか78歳の高畑勲監督が、タケノコの掘り方を知らないとは思えないから映画的に見て分かりやすい描写にしたんだろうなあ、とは思うけれども本当のところは知らない。誰か尋ねておくれ。

 大丈夫だ。むしろ大いに期待だ。あの「ルパン三世」が小栗旬さんの主演で実写映画化されるって噂はずっと流れていたけれど、それがいよいよ発表となって監督にあの「VERSUS」の北村龍平監督が迎え入れられた。アクション。そしてバトル。血と汗とが飛び散り肉体と肉体がぶつかり合い、弾が放たれ剣が閃く喧噪の中で男たち女たちの熱情が行き交うドラマが繰り広げられる。そんな映画を撮り続けてきた北村龍平監督が「ルパン三世」を撮るんだからこれはもう最高、次元大介のマグナムに石川五右衛門の斬鉄剣がどう描かれ、峰不二子のエロスと銭形警部の執念がどう絡み合ってあの空間を埋め尽くすのか。そんな中をひょいっと抜けてルパン三世がどう暴れ回ってくれるのか。今から楽しみで仕方がない。

 プロデューサーが山本又一朗さんってのがまたふるっている。小栗旬さんが所属する事務所の社長さんでもあるけれど、一方で日本映画にあって独特の面立ちを持った作品をずっとプロデュースし続けてきた異才。代表作は製作を担当した「太陽を盗んだ男」だけれどほかにも北村龍平監督を起用して「あずみ」を作りそして小栗旬さんを使って「クローズZERO」「クローズ2」を作って合わせて50億円の興行収入をあげた。そりゃあ「TAJOMRU」のようにちょっぴり地味なものもあったけれども作品の中に流れていた緊張感は凄まじいものがあった。そこで見せた小栗さんの凛とした姿、「クローズ」シリーズの暴れ回る少年ともまた違った小栗旬さんの魅力を、いっぱい引っ張り出してくれるに違いない。「キサラギ」の気弱そうなアイドルオタクのキャリア警察官とも違った。

 何よりやっぱり北村龍平さんのパワーがどこまで発揮されるのか、それを役者たちがどこまで受け止めるのかってところが1番の鍵になるだろう。玉山鉄二さんの次元大介はあのニヒルさをどこまで表現できるのか、綾野剛さんの石川五右衛門はクールさの中に秘めた熱さを剣に乗せて振るえるか、浅野忠信さんの銭形警部はうーん、これはちょっと想像が付かない、クールというより虚無的なイメージの浅野さんが熱さのカタマリのような銭形警部をそのまま表現したってつまらない、ならば……想像が広がる。黒木メイサさんの峰不二子はもう他にないくらいの完璧さ。とくにボディ周り。あとはあの淫靡で周到で時に純情さも見せる藤子のセリフをどこまで繰り出せるか、ってあたりか。

 全体に長くなる傾向があるのは多分、撮ったフィルムへの思いが強すぎるからでそこをテンポ良くばっさばっさと切ってつないでいける編集さんがいれば完璧度合いはぐっと上がる。それこそ「VERSUS」で圧巻のハイテンションを作り出し「ゴジラ FINAL WARS」でも快調さを堅持させた掛須秀一さんが入ってくれれば見ていてもうめまぐるしくもスタイリッシュなフィルムが出来そう。そうではない、どこか淡々としてノワールの雰囲気漂う映像にするならそれはそれで良いかも、「スカイハイ劇場版」のような。ともあれあらゆることをやり尽くしてしまって、その後がいつまで経っても生まれないのか、生み出せなかった日本版最後の「ゴジラ」の監督を務めたその貪欲さで、「ルパン三世」の芯までしゃぶりあからさまにして世間に見せつけてやって欲しいもの。他の誰も続編を作れないくらい。そして北村龍平監督でしか続編が見たくなくなるくらい。まあ大丈夫だろう。それが北村龍平監督だから。

  とある国の学習指導要領なんかを挙げて「『愛国心』の養成を歴史教育の眼目と位置づける同要領が、過去の独裁者や戦争を肯定的にとらえているためだ。膨大な人的犠牲といった歴史の暗部を矮小化する姿勢には『人や社会を軽視した国家至上主義が鮮明だ』との批判が強く、現政権による自己正当化の思惑が垣間見える」と書いている新聞があって普通だったらああ、朝日新聞が日本のライト化著しい日本の学習指導要領を非難しているんだなあと思うだろうけれども実際はそうではなくってライト化著しい新聞が、遠くロシアの学習指導要領を非難しているという記事。その言説自体はまるで正しいんだけれどもだったら、日本の極めてライトっぽさが強まっている学習指導要領にもどうして同じ口をきかないのか。

 人や社会を軽視した秘密保護法案めいたものを作って恥じない国家至上主義。首相の独裁をサポートするようにセーブ役となるべき内閣法制局を叩きに回るキャンペーン。あらゆる強化に愛国心の情勢を醸し出すよう求め道徳を教科に格上げし、そして外国とかでしでかした様々な事柄を無かったこと、あるいは仕方がなかったことだと言い募っては、自分たちの立場を正当化しようとしている輩い対して本来だったらさらに激しく非難を向けてしかるべきだけれども、そんな意識はまるでなし。むしろ積極的に応援している訳でこのヤヌスのような二面性、鵺のような節操のなさが果たして世間にちゃんと認めてもらえるか。そこが心配なんだけれど現実はやっぱり厳しいようで。どうしたものか。どうしようもないものなのか。うーん。納豆食って寝よう。

 原宿にあるエヴァンゲリオンストアで例の「エヴァンゲリオンと日本刀展」の開催記念でやってるスタンプの最後を推してコンプリート。ポストカードを頂戴したけど絵柄は例のメインビジュアルになってる和服で刀剣を持ったエヴァのキャラが並んでいるのと、それから海洋堂のエヴァンゲリオン関連フィギュア展をコラージュしたものの2枚だからまあ、有り体といえば有り体かも。でもやっぱりこういうのは達成したってことが嬉しい訳でそれからマリにアスカにレイにカヲルの4人がちゃんとスタンプになって押されているのを手に取りながめるのが楽しいから別に良いのだ。エヴァストアはアスカが被っている帽子とかも売っていたけど頭が入るか不明だったので遠慮。そんな帽子を被って眼帯をしたアスカの小さいフィギュアがあったんで、プラグスーツのマリも合わせて買って1000円オーバーでポストカードサイズのカレンダーをもらったらカヲルくんだった。ううん。また行って何か買って今度はアスカをもらいたい。眼帯ないけど。

 エドウインが事実上の倒産というか、ADR事業再生といって意味は分からないけれども債権を圧縮か何かして事業分離もした上で立て直すようなことになるみたいでとりあえず、今までのような展開が出来るかどうかは分からないけれどもその高いブランド力を持ってきっと立ち直って来ることだろーと信じたい。前に似たような事態になったボブソンだって創業家の会社が商標を買い戻すような形でブランドを維持して今もちゃんと商品を販売していたりするし。ビッグジョンはまあ普通にずーっとジーンズを続けているって感じかな。ユニクロとかGAPとかいったファストファッションのブランドもジーンズを繰り出しているけれど、品質ではやっぱり専業メーカーが上。買ってすぐに裾上げしてくれてそして値段も手ごろになれば、見直されると思うんだけれど果たして。エドウィンとトイズフィールドのコラボみたいな企画は流石に出てこなくなるかなあ。それだけは残念。


【11月26日】 気がついたら「ゆるキャラサミット」が終わっていて浜松市が聞くところによると大手広告代理店を使い市民を動員してまで1位に押そうとしていた「天下大名家康くん」が2位に落ちてラーメン大好き「さのまる」が1位になっていたとか。ザマミロとかは言わないけれども現実問題、徳川家康なんて実在の人物がキャラ化したものなんてはっきり言って面白くない上に、老後を過ごした駿府でもない、まだ歳若い自分に拠点とした浜松のキャラとしてどう見ても爺さんの家康を推すこと自体がどこか捻れてる。他にキャラとかいないのか、って見渡したけれどウナギとかミカンでは他にもいっぱいいるからなあ、ウナギの生産は今や愛知の方が上みたいだし。

 むしろこの屈辱を浜松城の居た頃に経験した三方が原の戦いで、武田信玄に粉砕され追われ味方の武将を多く失いながらかろうじて逃げ帰った浜松城で、家康が描かせたという「しかみ像」になぞらえ「しかみ大名家康くん」として世に問えば、失敗から学び増長を自戒する気持ちを世に訴えかけられるんじゃなかろーか。デザインは今の「天下大名家康くん」からちょい、いじれば簡単に作れるし。というか本気でそういうのを作れば今の、どうにも金権まみれとなって誰からも愛されなくなってしまったキャラのイメージを、一新できると思うんだけれど、どうだろう。中日新聞の記事によると実際に、そんな話もあるみたいだし、ちょっと期待していたり。さてはて。

 なんか教室から没収した銃を先生が間違えて撃ってしまったって話が流れていて、てっきりアメリカの話で子供が学校に銃を持ってくるのを先生たちも頑張って止めようとしているんだなあ、なんて思っていたら日本の話だったよ驚いた。何だそりゃ。家にあったのをモデルガンだと思って学校に持ってきた、それをモデルガンだと思って没収した、弾を抜いて撃ちそして弾を入れて撃ったら暴発した、と。まずもって家に拳銃があるのが異常だしそれを子供に見つかる場所に置いておくのも異常。モデルガンだと思った子供が学校に持っていくのはまああることで、それを先生が没収するのも普通だけれど、入っている弾が本物かどうか、ってのは調べて分かれよとは思う。

 でも無理かなあ、エアガンが全盛な今の時代に、モデルガンだと薬莢だけが入ってるなんて状況を知っている方もあんまりいないだろうし、モデルガンなら銃口は潰してあるのが普通って分かる人もそんなにいないだろうし。自分に向けて撃たなかったのは幸い。あと人に向けてとか。それにしても福岡ってそんなに銃が蔓延っているのか、子供がモデルガンだと思ってもそれを学校に持っていこうと思うくらいに誰もが銃に親しんでいるのか、もしかしたら酒場じゃあカウンターにガンベルトを外してずしゃっと置いて「バーボン」と頼むのが普通なのか、外に出ると道を風に吹かれてタンブル・ウィードがごろごろと転がっていったりするのか。どこのアメリカだ。いや西部ならまだ男の世界だけれどメキシコあたりだと銃撃と爆発と誘拐と虐殺が日常となっているからなあ。どこへ行く福岡。ラーメン屋の出汁は何の骨だ。

 海軍省の記者クラブに所属する記者が海軍の要望を多分に取り入れ竹槍なんぞ揃えたところで戦争にゃ勝てない、海洋飛行機をもっともっと増やせと新聞に書いたら竹槍でも良いから手にして揃えて空襲に備えようとする意気込みを国民に植え付け一丸となろうと訴えていた陸軍出身の東条英機の怒りを買って新聞が発禁となり、書いた記者が召集されて戦地に送られそうになったという「竹槍事件」はなるほど言論の自由に対する軍部なり政府なりの弾圧という形に見えるけれども一方で、海軍の言論を借りた横やりに陸軍が余計なお世話を憤った“政争”とも言えてそんな狭間にあって書いた記者は召集されつつも除隊となり、そして再度引っ張られそうになったところを海軍がさっと横から持っていって戦争を生き延びさせた。

 いろいろあったけれども命あっての物種というもの、その意味では「関東防空演習を嗤う」を書いて信濃毎日新聞の主筆を追われ、ひとり「他山の石」を発行しつつ弾圧も受けながら病をおして言論を続け、太平洋戦争の開戦間近に没した桐生悠々の方がジャーナリストとしてよっぽど筋を通したと言えるし、一方に荷担し一方を貶めようとした記事でもあった「竹槍事件」を真っ向から言論の弾圧への代表例として、取り上げ世間に喧伝することに気持ちが引っかかってしまう。何より召集された記者が年輩だった関係から、どうしてそんなロートルをという批判を繰り出し結果として同世代のご老体を戦場へと引っ張り出させては、全員が硫黄島へと送られ玉砕させられるという事態を引き起こしてしまう。何というおぞましい結果。これを知った記者はいったいどういう気分になっただろうか。とても気になる。

 言論の自由と引き替えに、250人とかの本当だったら戦場へ行かずに住んだはずの命が失われることになってしまったこの一件を、果たして認めて良いのか否か。それでも言論の自由は金科玉条、絶対無比に守られるべきだと言い切る自信はちょっとない。もちろん言い続けないとこうやって、切り崩されて後退していく可能性もあるだけに、間違っているとも言い切れないんだけれど、だとしたら言論には自由がある、けれども言ったことには責任も伴うんだということを、誰もが身に切々と感じながら言って行く必要があるんじゃなかろーか。それでもなお萎縮せず、桐生悠々のように自分自身を駆けて貫ける勇気と気概を持つ必要も。こんな時代にこそ政府の欺瞞もメディアの去勢もまとめて衝いた桐生悠々「畜生道の地球」が、ふっと手に取って読めない言論の不自由さの方が問題だよなあ。

 そして見た高畑勲監督による「かぐや姫の物語」は紛うことなき「かぐや姫」であって、それ以外のなにものでもないけれども、引きはしないで足しまくるくことによってこの波乱に満ち生命に溢れた地上で生きることの幸福というものを、存分に感じさせるストーリーになっていた。木々が伸び草が青々と茂り虫が飛び動物たちが歩き回る森や林や山や里。そんな乱暴だけれど優しい世界に生まれ落ち、友達と駆け回り両親と寄り添い生きる姿をたっぷりと描いたことによって後半の、お付きの者たちに囲まれ豪華な屋敷に何不自由なく暮らし求婚もたっぷりとある日々の“何もなさ”って奴が、くっきりと浮かび上がって見えて来る。

 誰もがストーリーを知っている話だけに、誰の頭にも完璧なまでにストーリーが入って結末だって分かっているだけに、途中の居並ぶ名家の御曹司たちを無理難題によって蹴散らす痛快さと、その先に来る離別の哀しみへとどうしてさっさと向かわせないと、誰もが思いそうだけれどでも違う。前半の竹よりこぼれて翁の手に入り媼に抱きついて泣き叫ぶ赤子の頃から、はいずり立って歩き端っては騒ぎ泣き嗤う幼少の頃へと至ったあの山の日々が、とっても大きな意味を持ってくる。だから高畑監督は原作ではすっとばされがちな山の日々をじっくりと描くことにしたみたい。そのことが姫に自我をあたえ傅かれるだけのお姫さまでもなければ高飛車なだけの姫君でもない人間としての女の子って奴をそこに現出させ、多くの感情を沿わせる。

 そうでなければ生まれ落ちた時から金銀財宝を月より恵まれ、ゴージャスな家屋敷に暮らすようになって翁媼の庇護を受け、都のお歴々の寵愛を得てそして帝にまで愛されながらも無理難題を言って追い返し、最後は翁に媼の恩すらふり捨てて月へとかえる我が侭な女を主人公として認めることが出来るはずがない。悲劇のヒロインですらない。むしろ悲劇なのは手塩にかけて育てながらも奪われていく翁に媼、そして寵愛を袖にされた帝や命すら落とした求婚者たちってことになる。お前いったい何しに来たんだ。そう叫んでやりたくなるけれどでも、地上での暮らしを本気で楽しみ慈しみ離れたくないと願い、それが都で奪われそうになったからこそ哀しみそれが月へと戻るきっかけになったという風に描くことで、自由を求めただけの少女への同情が生まれ、分かってやれなかった周りを含めた大人たちに自分を重ねて謝罪の言葉を送りたくなる。不思議なことに。

 だからこそ見て誰もが納得の顔をして映画館を出られるんだろうなあ、そうでなければポカーンとなってしまう筈だから。絵柄の特殊性がいろいろ喧伝されているけれども「日本昔話」みたいなアニメーション番組だと今風とはまるで違った実験的な絵が幾つも使われていたことを、大人たちはちゃんと分かっているからそうした童話的民話的な絵柄が映画に使われているだけって普通に思える。むしろ今どきの線が綺麗なアニメーションばかりを観て育った若い層、それこそがアニメだと思い込みがちな若いライターあたりが特別呼ばわりして喧伝し凄い凄いと言ってるような節すらある。これが凄いなら「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」なんかもっと凄かった。最初っから荒れた線で隙間すらあるような原画っぽい絵に色を着け、動かしてたんだから。

 途中の大平晋也さんが手がけたパートの凄まじさを見たら、「かぐや姫の物語」なんて実に可愛いアニメに見えるだろう。だからプロデューサーが妙に喧伝し、それに周囲が同意して持ち上げたがるような作品じゃあ決してない。普通のことをやりきったパワーは讃えたいけど特別視はしない。当たり前のことを当たり前にやった。それだけのことだと思う。それが案外に凄いとうところに今の映画状況なりアニメ状況の大変さもあって、だからこそやっぱり凄いんだと言ってしまっても良いんだろう。その意味では評価にいろいろと回路をはさまなくっちゃいけない映画。ただこれだけは言える。姫はスタジオジブリ史上、そして日本のアニメーション映画市場でも屈指の可愛らしさを持ったヒロインだと。宮崎駿監督のどの作品ですら超えてしまうそのヒロインを、古典から導きあの絵柄によって現出させてしまった高畑勲監督の力を今、改めて噛みしめたい。そしてまた、出会わせて欲しいと頼みたい。


【11月25日】 発売された「ミステリマガジン」の2014年1月号からライトノベルミステリーのレビューコーナーが1ページに拡大されて、文章量も多くなったけれどもそれでも足りないくらいい濃密な本を紹介。城島大さんの「ちっちゃいホームズといじわるなワトスン 緋色の血統」は講談社BOXなのに箱に入っていないという偽装商品ながらも中身は充実のゴシックミステリ。あのホームズの孫娘が登場しては若いワトスン青年の悪口雑言に耐えつつ推理を重ねつつ結論は導き出せず、けれどもその真っ直ぐさが周囲を動かし多くの人を救う。マニアが読めばもっといろいろ察するところもありそうだけれど僕はホームジアン(英国ではシャーロキアンをそう言うそうな)でないから分からない。でも雰囲気は味わえた。マニアもそうでない人も是非。

 そして「SFマガジン」も一部に改編があったけれどもこっちは1ページに詰め込んでいた文字数を減らして活字を大きくするという老人対策。まあ年々に読者層が上がっているという噂のSF界隈だから仕方がない。いずれ大判になるかそれともハズキルーペがセットになるか。すでに青背もJAも大きくなっているものなあ、ちょっぴりとはいえ。そこでは「代償のギルタオン」とそれから「メックタイタンガジェット」の2冊と「富士学校まめたん研究分室」とあとやっぱりボックスじゃない講談社BOXから「ギャルゲー探偵と事件ちゃん」を紹介。ギャルゲーマニアの少年には事件を擬人化する力があるけれど、事件が解決したら消えてしまう彼女たちから話を聞きだし事件を解決する少年に葛藤はないのか? そこが気になった。ちょっと不思議な小説。興味のある人はご一読を。

 原作の人気ぶりから待望の、話題の、注目のライトノベル「僕は友達が少ない」の実写映画って奴を試写にて鑑賞、うん、僕はこういう映画が大好きだ。実を言うと平坂読さんの小説では「ホーンテッド!」が好きだったけれども舞台が日常になった「僕は友達がすくない」の方はピンと来ず、だから原作を僕はそれほど読み込んでおらずアニメの方もじっくりとは観ていない。だいたいの感覚でキャラクターの特徴と配置は知っている。あとビジュアルも。そんな気分で見た僕にとって、これの実写版の映画は青春において発生する寂しさとか虚しさとかを描きつつ、それを乗り越え喜びとか楽しさを得ようと足掻くストーリーとして胸に響いてくるものがあった。願望が顕在化してしまうような大げさな描写は、なるほどライトノベルかもって思われそうだけれど、そういう展開にある程度の納得性を入れつつ、だからこそ感じられる切実な思いって奴が伝わってきた。良い映画だと思った。でも。

 原作が心から好きな人、ライトノベルというジャンルを愛してそれだけを読んで育ってきたような若い人たちが、どんな気持ちを抱くかはちょっと分からない。とりあえず、プレスシートに飯田一史さんが「ラノベネイティブによる最初の実写映画」と書いているから、その言葉を信じて、映画を見に行ったラノベネイティブのとりわけ「はがない」ファンの人たちが抱くだろう感情があるとしたら、それはそんな言葉を発した飯田一史さんが全部受け止めてくれるだろうから安心して見に行って、そして存分に向けると良いんじゃないかな。僕はまだ会ったことがないけれど飯田さん、ライトノベルを分析した本とかも出しているくらいで、ライトノベルにとってもとっても詳しいライトノベルの神様みたいな人だから、その言葉はきっと神様の言葉に等しいはずだし。うん。

 まあ、ネイティブではないけれどもライトノベルを好んで読んでいる人間として思うところがあるとしたら、ことさらに「ラノベネイティブ」とかいう言葉を作ってライトノベルが分かっている世代がライトノベルを分かっている世代に向けて作った映画だキタコレとか、言うのはライトノベルとか読んでない人たちに向けてはあんまり効力を持たないし、過去にあったライトノベル原作の実写映画への意見にもなりかねないなあってことかなあ。あの滝本竜彦さんの「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」の劇場版なんて、今にして思うと本当に良く出来ていた映画だった。市川隼人さんに浅利陽介さん三浦春馬さんを起用して、なんとなく過ぎる中にポッカリと開く青春の空虚を描きつつ、雪崎絵里ちゃんの絶望も描きつつ、派手でスタイリッシュでヘビーなアクションも見せてくれた。原作好きとして楽しめた。心から。何度も見に行ったもん、あのクライマックスの感動を味わうために。

 それから橋本紡さん原作の「半分の月がのぼる空」の実写映画。原作まんまの映像化ではないけれどでも、出会い触れあい近づいていく青春の喜びをちゃんと描きつつ“その後”に来る空虚まで見せつつ、けれども繋がっている今をしっかり見せてくれた。号泣物だった。劇場にはいつも若い人がいっぱい溢れていた。良い映画だったよなあ、これも。あるいは本田透さんの「ライトノベルの楽しい書き方」の実写映画。ネットでいつも高評価がついていて、見に行ったらなかなか楽しめた。動く竹達も見られたし、ファンは嬉しかったんじゃなかろうか。「魔法少女を忘れない」は……ちょっと原作との乖離があったかなあ、あの原作が持ってた切なさがちょっと出切ってはいなかった。その意味では是非にアニメーション映画化でのリベンジを果たして欲しい気が。

 遥か昔を振り返れば高畑京一郎さんの「タイム・リープ」の映画は、リープ物の傑作だと今も思っているけれど、あんまり評価されていないんだよなあ、主役を演じた佐藤藍さんって最近、何やっているんだろう。とまあ、ライトノベルの実写映画化はその時代のライトノベルの人気を、映画というメディアの枠組みに入れつつラノベならではの味を見せて来た。「ラノベネイティブ」とやらが作ろうと、そうでない人が作ろうと原作の味を映画という表現に入れ観客という存在に向けて繰り出すことには何の違いもない。その意味で「僕は友達が少ない」の実写映画は映画として、青春の好奇と寂しさ、願望と虚しさが入り混じった青春映画として見れば良い。そう思うしそう断じる。そうでない心底からの「ラノベネイティブ」はどうすれば良い? 行って見て感じたままの言葉を発すれば良いんじゃないかな。うん。

 そして紅白歌合戦にきゃりーぱみゅぱみゅが2年連続での出場。今回は何を歌ってくれるだろうか、やっぱり「にんじゃりばんばん」かなあ、それに「もったいないとらんど」もくっつけるようなメドレーかな。Perfumeは可愛いし格好いいけど紅白っていう限定された空間でその良さを見せるのは難しいのでしっかりと脚だけはアピールして欲しいと今年も。ももいろクローバーZは去年の感動を越えられるかどうか。ってか今年そんなに楽曲単体でヒットしてたっけ。そこだけは謎。むしろlinked  horizonの出場の方が事件かも。だってアニソンだよ、「進撃の巨人」の主題歌の人だよ、それが出る、これは水樹奈々さんが出ること以上にアニメを、アニメソングを楽曲として認めたって意味になる。来年からもそんな具合にヒット作の歌い手さんが並んでくれることを期待。アニソン枠じゃなく、ちゃんとしたヒット曲を引っさげて。うん。水樹さんはTMとのコラボかなあ、やっぱり。


【11月24日】 大宮でのきゃりーぱみゅぱみゅのツアーファイナルでもやっぱり歌われた「もったいないとらんど」が、何度も聞き込むにつれてとって味が出てくるというかくるくると変わるメロディーが連なり重なって、そしてメインとは違うメロディーが入りまた戻るといった感じをちゃんとつかめて来ると、ひとつのゴージャスな映画でも観ているような気分にさせられる。最初聞いたときは辺なメロディだなあ、そしてめまぐるしいなあという部分がどうしても耳を貫いてしまうけれど、そこからだんだんと耳に馴染んで来てそして耳の奧へと刺さってくる。それだけいろいろと工夫がこらされている楽曲なんだってことなんだろー。これだから中田ヤスタカさんのきゃりーぱみゅぱみゅへの楽曲は侮れない。聞き流せない。捨てられない。

 繰り返されると不思議と耳に付く、ってところからも、1年を通じて優れた楽曲を表彰する「輝け!日本レコード大賞」って業界でも最大の音楽賞で、きゃりーぱみゅぱみゅの「にんじゃりばんばん」がまずは作品賞に入っていたりして、年末のレコード大賞を競うことになったんだろー。他を見渡すとAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」とかAAAとか氷川きよしさんとか入っていたりするけれど、でも実はネット界隈を彷徨っていても例のダンス映像すら見てない僕は「恋するフォーチュンクッキー」がどんな曲だから知らなかったりするし、他のアーティストも同様だったりする。そんな中でまあファンとして聞き込んでいるとはいえ普通の人でも多分知っている部類に入るのが「にんじゃりばんばん」。そういう意味での“国民性”であり“大衆性”ってものを、きゃりーぱみゅぱみゅの楽曲は得ているって言えるだろー。ほぼ確実に。

 あと優秀アルバム賞として「なんだこれくしょん」も入っていて、これは既に最優秀アルバ無償としてゆずの作品が獲得しているからそっちの受賞はないけれど、一緒にサカナクションとか泉谷しげるさんとか並んでいるうちの1枚に入っているということは、年間におそらくはたっぷりと出るアルバムの中でも、秀でた存在感って奴を感じてもらえたってことになる。事務所側の政策としてジャニーズのアルバムは入ってないのかAKB48にアルバムってなかったのか分からないけれど、そういう音楽事情の中で最優秀も含めた5枚のうちの1枚に輝いた、去年みたいな企画賞ではなく。これはきっと音楽業界的にもレコード会社的にも事務所的にも凄いことなんだろうけれど、当人も事務所も変わらずふわふわと自分たちのやりたいことをやっている、もちろん中田ヤスタカさんも。だからこそ去年も今年も変わらず続いて来年も、きっと同じペースでそして認知度を広げていくことになるんだろー。見守ろうその広がりを。

 朝方に目覚めて録画してあったこれは「恋物語」ってことになるんだろーか、「物語シリーズ」の新章はいよいよ高校卒業も見えてきて阿良々木暦が撫子に食い殺されてしまう時も近づいているのが心配で心配で仕方がない戦場ヶ原ひたぎさん。あろうことか自分にとっては敵とも言える貝木泥舟を呼び出し、なぜか沖縄の空港のラウンジでお茶を飲み合いかけ合いながら貝木が暦とひたぎのために動くための条件って奴を模索する。金があれば動くけれど、そんな金など用意できそうもないひたぎを前に思考した挙げ句に辿り着いた結論は○。その思考プロセスにおいて貝木の先輩にあたる臥煙伊豆湖がどれほどの意味を持つのか。伊豆湖の登場が前の章で一瞬で何でも知っていることくらいしか分からなかったからちょっと想像がつかないけれどもまあ、そんな辺りも語られるんだろう。映像で描かれるとは思えない、語りメインになりそうな章だけに。三木眞一郎さんはしかいこういう悪党も巧いし「キルラキル」の変態も巧いなあ。もう真っ直ぐに真っ当なヒーローの役は回って来ないのかなあ。あったっけ。「VIRUS」くらい?

 秋葉原へと出てコトブキヤと海洋堂で「エヴァンゲリオンと日本刀展」と連動したスタンプを2つ集める。カオルとマリが集まり会場の綾波を入れてこれで3つ。明日にでも原宿のエヴァンゲリオンストアに寄って最後のおそらくはアスカを押して何かもらおう。何がもらえるんだっけ。でもってガンプラエキスポには寄らずUDXの4階にあるアニメセンターで「ニュータイプ」の表紙展なんかをざっと眺める。あれは「機動戦士Zガンダム」だったのかなあ、それが表紙になった創刊号って奴に記憶はあるけれどでも、本当に記憶があるのは創刊第3号のリリス・ファウだったりするのは、それだけメカではなく頭がキャラに寄っていたってことなのかも。だからガンプラにもハマらないで今に至る。何であんなにみんなガンプラが好きなんだろう。というかメカが好きなんだろう。ガンダムとザクとドムがあれば十分じゃん。なあおい。

 秋葉原駅の構内にあるそば屋でカツ丼を食べたらカツカレーに乗せるような薄いカツをとじたカツ丼だった。そば屋らしいなあ。でもって京浜東北線から横浜線を乗り継ぎ横浜アリーナへと向かって「ANIMAX MUSIX2013」を観賞、去年が見られなかっただけに1年ぶりになる上に、今年はアニマックスの15週年ということもあって2日間だなんてゴージャスなイベントになっていたりして、初日と2日目のどちらを見るにしても大変なメンバーによる浴びせかけられるようなアニメミュージックを味わえるんだけれど、23日はきゃりーぱみゅぱみゅのライブがあったから断念して2日目に。でもこっちもこっちで勢ぞろいしたメンバーが迫力と感動のアニメミュージックって奴を聞かせてくれた。

 お目当ては……やっぱり小松未可子さんかなあ、夏のアニメロサマーライブでもってピンで登場しては「神様のいない日曜日」の「終わらないメロディーを歌いだしました。」を聞かせてくれてそれが実に耳に残ってまた聞きたいなあと思っていた楽曲。そりゃあCDでだって聴けるけれども、大観衆を前にスポットを浴びながらまるで動じないで淡々と、そして朗々と、さらには燦々と歌い上げるその楽曲はやっぱり生で見たいし聞きたい、できればこうした大観衆が集まるフェスで。そんな期待に存分い答えてくれるパフォーマンスを見せてくれた未可子さん。こうなると今度はライブハウスのような小屋でどう歌うのかも知りたくなって来た。行くかなあどこかの機会に。あと「魔女っ子姉妹のヨヨとネネ」の主題歌も披露。そうか歌うんだ。映画は相当に面白そうだけれどジブリ作品じゃないからやっぱり的な扱いを受けるのか。受けるんだろうなあ。それが日本のメディア。何とかしたいけど窓際ならぬ窓外では如何ともし難いのであった。嗚呼。

 如何ともし難いといえば今の音楽シーンでチャートを見れば並んでいるのは集団アイドルか大手芸能事務所の男性アイドルユニットばかり。そんな中にアイドルに片足乗せていたこともあって、ビジュアル的には抜群な上にシンガーとしても優れている小松未可子さんが入り込んでシンガーとして存在感を得られるか、っていうとそういう時代でもなかったり。演歌なら幅広く根強く人気を得られるし、ディーヴァ系って呼ばれそうなソウルフルなシンガーだと主題歌なんかに起用された数曲は人気を呼んぶ。でも後が続かない。それがアニメミュージックに片足を乗せて声優としても活動することによって着実に、アニメやアニメミュージックが好きな層の関心に引っかかって来る。だからそこで本来持ってる実力の程を見せつけ、ややもすれば一般層にも広がっていけるかもしれない。そうでなくても基礎票はばっちり。ライブをやれば観客も集まる。歌っている身としてこれほど嬉しいことはないんじゃなかろーか。

 やっぱりANIMAX MUSIXに登場したOLDCODEXとかも、もう本当にパンキッシュにハードなロックを聴かせてくれるユニットで、何でアニメミュージックなのって最初に聞く人には思わせるくらいなんだけれど、主戦場は「黒子のバスケ」とかをはじめとしたアニメの主題歌だったりするから不思議なもの。まあいくらハードにロックをやったところで、今はバンドじゃないボーカルとペインターという組み合わせではライブ活動だってなかなか大変そう。だったらアニソンというカテゴリーに片を寄せつつファンを得つつ、好き勝手な音楽を貫くってのもひとつの手段かもしれない。所属がランティスってことでトップがレイジーのポッキーだからラウドだってメタルだってパンクだって超詳しい。そうした感性に引っかかりつつ今の音楽シーンで音楽を貫ける居場所、ってことでアニメミュージックは大きくて、そして確実で、何より楽しい場所なのかも。このあたりちょっと考えてみたい。


【11月23日】 日付が変わったところで「攻殻機動隊ARISE border2 Ghost Wisper」の舞台挨拶付き上映の予約が始まったんで、朝1番に見られる川崎のTOHOシネマズを確保。でも出足あんまり早くなかったなあ、沢城みゆきさんが来られないのがやっぱりひっかかったんだろうけど、坂本真綾さんが朝1番に見られるんなら行くしかないってことで。でもって見渡していたら、何とバルト9で第1話も含めた上映が行われる前夜祭もあるとかで、黄瀬和哉総監督とか出て来ることになってて折角だからとそっちも確保。第2話自体は既に試写で見ていてすっげえアクションに謀略がたっぷりで面白いと分かっているけど、1回見て分かるような安易さではないから2度、3度見たって平気。それくらいでようやく頭に全体像が入ってくる。だから上映が始まってもあと1回は行くつもり。BD見れば良い? スクリーンで見慣れると家のテレビじゃ見られない。そういう風に出来ている。

 なんて言うんだろう対数的? 等比級数的? 知らないけれどももう急激な勢いでエスカレーションしていった果てに規模が月から地球太陽銀河宇宙からその外へと広がっていった中に人間の出会いと離別と葛藤と信頼のドラマまで入れた「天元突破グレンラガン」の凄みを既に見ていると、毎回が唐突な展開に見えてあれでなかなかこぢんまりとしているなあという印象になってしまう「キルラキル」。見ている間は本当にほんとうに楽しいんだけれど、見終わってどこまですんげえもの見たって驚けるだろうか、そこんところを判断に迷っていたりする今のところ。いきなり総選挙ならぬ総戦挙ったってバトルロイヤルな訳で四天王が改めて名を挙げるだけでそこに逆転のドラマも何もないもんなあ。

 だからきっとこれから流子が四天王を相手に戦ってそして勝ち残って皐月と戦うんだろうというストーリーまで見えてしまっているけれど、そこで鬼龍院皐月ですら傀儡であって裏にとてつもない存在があるとかヌーディストビーチ何とかって組織が現れ世界を巻きこんだ戦いへとエスカレーションしていくのか、そうなれば少しは驚いてこれは「グレンラガン」を越えたって思えるのかな、思えないかな。同じ中島かずきさんが脚本で監督も今石洋之さんなのにこの違いは、やっぱりSF魂を爆発させることが生き甲斐なガイナックスが作ったか、すっごいアクションを見せるのが好きっぽいトリガーが作ったかの差なのかも。どっちが好きかっていうとやっぱり前者、だってSF者だから、そういう風に出来ているから。

 起き出して新宿のバルト9へ「ベヨネッタ ブラッディフェイト」の初回上映を見に行く。ゲームが原作で映画化なんて突然決まって情報だって行き渡っていなくておおまけに「かぐや姫の物語」だなんて化け物級の封切りもあったりする日に、いったいどれだけのお客さんが入るんだろう、同じ木崎文智監督の「アフロサムライ2」くらいにそこそこの入りで終わってしまうんだろうかなんて不安もあったけれども蓋をあけたらこれが吃驚、バルト9でも2番目に大きな8スクリーンが満席になるくらいにお客さんが詰めかけていて、なおかつその後もどんどんと席が埋まっていた。どういうことだ? やっぱりおまけに何かもらえるのが良かったのか? でも知らない作品のクリアポスターなんてもらったって嬉しいはずもなし。つまりはそれだけ待っていたファンがいたってことの現れなんだろー。

 そしてそんな期待を裏切らない映画だったってところも評判を呼んでいたりする理由かも。僕自身はゲームはプレーしてないけれど、ゲームの存在は知っていてキャラクターのビジュアルなんかについても知識がある。なおかつ東京国際映画祭での上映も見ていたりするからストーリーについても頭にしっかり入っていて、その意味から何が起こっていてそしてキャラクターたちがどう絡み、どこへと向かっていくのかに迷うことなく2度目の観賞についていけた。そうではない、ゲームから入って来た人にとってはまさにゲームのキャラクターがよりエロスをまとってそこに現れ暴れ回るという面白さ。音楽なんかも使われているそうで耳に慣れた楽曲と映画ならではのアクションを、伸び伸びとしてはち切れそうな姿態のアップともども味わえたんじゃなかろーか。その意味ではゲームに浸りきっていた人たちが羨ましい。まさに! これぞ! って気分を味わえただろーから。

 それにしても「アフロサムライ」の頃からの日本にはないタイプのビジュアルは健在で、これがこのまま「ジョジョの奇妙な冒険」のテレビシリーズでも使われたら本当に漫画のままのスタイリッシュなテレビアニメになったかもなあ、とすら思うくらい、ってジョジョのテレビ見てないけれど。アクションに関しても止め絵でバーン! とかってことにはしないでちゃんと戦い撃ち合いぶつかり合う姿が描かれていて1度では何が起こっているのか目がついていかないかもしれない。その意味ではさらりと1度目を見たあとで2度目3度目と劇場に通うのが良いかも。ナイスバディなベヨネッタの姿態を存分に拝めるし、ラストシーンのとんでもない攻撃を恥ずかしがらずに眺めることができるから。あれやっぱりテレビじゃ放送できないよ。おまけをくれたけどこれは今日で終わりかな、クリアファイルよりちょい小さめのクリアポスターって感じで、僕のにはジャンヌが描かれていたけど人によってはベヨネッタのお風呂姿もあるらしい。羨ましい。でもダディのアップもあるそうなんでそこは運に任せよう。

 せっかくだからと上野に回って上野の森美術館で「エヴァンゲリオンと刀剣展」を見物、岡山で始まり岡崎とか関とかあちらこちらを周りながらも関東にはなかなか来てくれなかった展覧会。すでに型録を買って読んで何が展示してあるかは知っていたけど、改めてみて細工こそ現代のアニメをモチーフにしながらその刀身その彫金には匠の技術が使われている様子に、日本って国が持つ伝統工芸技術の現在地であり現役ぶりが伺えた。いつか何かことあればこうした巧たちが腕をふるって刀を打って世に送り出し攻めてくる敵を迎え撃つ、なんてこともあるのかな。でも相当に思いから日頃の鍛錬が重要かも。ストアではプレートにそんな匠たちが名前を掘ってくれるサービスがあって折角だからと真鍮に我が名を掘ってもらったり。片仮名4文字で「リウイチ」は簡単過ぎたかなあ、でも記念になった。また言って今度は漢字を掘ってもらうか。

 そして大宮ソニックホールできゃりーぱみゅぱみゅのツアーファイナルを観賞、9月7日の伊勢原で幕を明けた時はまだ暑くてグッズ売り場に並んでいるだけで汗が出てシャツを買ったばかりのものに取り換えたくらいだったけれども23公演を終えた今はすっかり秋も深まりコートでも寒いくらい。そんな期間を北海道から鹿児島まで走り回ってよく歌いよく踊りよく喋って自分を表現し続けた。まだ20歳なのに凄いよなあ、グループでもない単独でこれだけをやりぬくなんてやっぱり凄いアーティストなのかも、きゃりーぱみゅぱみゅ。あと宇宙ダンサーもきゃりーキッズも頑張った。これでひとつ終えたけれども次、来年には横浜アリーナの2DAYSが待っていてそして2月からは海外ツアーなんてものもスタートする。止まってられないし止まる気もないその姿勢。どこまで走り抜けるのか。どこまでたどり着けるのか。ますます目が離せない。

 屑とか下衆とかいった言葉を浴びせたところで、自省する気なんてまるでないから無駄無駄無駄。そもそもがありもしないビラを妄想して罵詈雑言を浴びせた人間が裁判で完膚無きまでに敗れてなお先頭に立って罵詈雑言をまき散らしている組織。そう書けばどうなるかを勘案するより、そう書けばそう伝わるということを最優先し、そのために趣旨も捻じ曲げ本意も無視して切り貼りをして、書きたい形にしたてあげるなんてことはごくごく日常的な手口であって、それを悪いとか申し訳ないとか拙いとか思うはずがない。なるほど相手にも発信力があって世間にその下衆っぷりが広く伝わってしまったけれど、裁判で負けてなお改まらない態度が直るはずがない。このまま知らぬ顔してそう思いたい方面にだけ向けてそう思って欲しい記事を書いては真っ当な方面からそっぽを向かれていくんだろう。結果? 既に出ているよ。


【11月22日】 ヘフナーのバイオリンベースが似合うミュージシャンのトップがポール・マッカートニーであることに異論を唱えられる人なんて全世界のあらゆる時代を探したっていないだろうけれどもそんなポール・マッカートニーがユニオンジャック柄をしたヘフナーのバイオリンベースが似合うミュージシャンとして宇宙で1番だということに、異論を唱えられる存在は神も含めていないんじゃないかなあ、なんてことを思った21日の東京ドームでのポール・マッカートニーの日本公演最終日。過去の大阪や福岡でも使用しなかったそれは聞くところではエリザベス女王の即位60周年記念コンサートで使用したものだそうで60本が作られうち10本が日本でも売られたそうだけれど、弾いている人は見たことがないし似合わないから弾かなくて良い。絶好の組み合わせを見られたってことで19日みたいに「Jet」の演奏はなく楽曲的なサプライズはなかったけれど、「イエスタデイ」のサイリウムづくしと共に演出上のサプライズは幾つもあったと思い受け止めその演奏を、その空間を今一度振り返って噛みしめたい。

 振り返ると例の「イエスタデイ」でのケミカルライトでスタンドを埋め尽くした演出にポールが渋い顔をしたとかいろいろな流言が飛んでいたりするけれど、見ていた限りでは別に起こりもせず淡々と歌いそして引っ込もうとしてギターを渡されまだやるのと言いつつ演奏に移るというこれも初日と同じ演出でもってラストまで突っ走っていったから、成功したとも言い難いけど失敗したとも言えないんじゃなかろーか。とはいえ初日には口にした福島のため、という言葉は言わなかったなあ、あるいは初日に福島の被災者が招待されていたからなのかどうなのか。面白いのはそんなケミカルライトを配った袋にどのタイミングで灯すかということに加えて、どうやって使うかが懇切丁寧に説明してあったこと。アニソンのイベントなんかに出入りしている若い人には自明過ぎる使い方だけれど(指全部に挟むとかいったことじゃないよ)、ポール・マッカートニーのファン層ともなるとやっぱりどう使うんだ? って訝り迷う人もいるかもしれないって考えたのかも。スイッチどこにあるんだとか。これで少しは広まったかな。次の機会なんて多分ないだろうけれど。

 そういえば漫画家の竹宮恵子さんが京都精華大学の学長に就任するって話が昨日あたりに流れてきていて一応は現役の漫画家が教授をやっているってことだけでも昔から思えば凄いことなのに、学長にまでなってしまうなんて日本という国はこれでなかなかやっぱり開明的で先進的な国なのかもなあ、なんて思ったり。精華大事態が漫画ミュージアムを京都市内の中心部に設置したりしてそれを打ちだしていくんだという意識を早い段階から持っていた感じで、トップに漫画家の人が来るのはある意味当然だったのかもしれない。学長といえば意味的には同じ法政大学の総長に江戸の研究で知られる田中優子さんが就任するって話も流れてきていて六大学で女性で有名人ということでこちらも話題になりそう。学生運動が今も続いていたりしてロックアウトとか結構賑わっていたりもする学校だけれど、週刊金曜日の編集委員もしている田中さんの総長就任で何か変わるのかな、それはそれとして大学の管理強化は進むのかな、そんな辺りも関心を持って見ていこう。

 学術的な分野では漫画とかアニメーションとかいったポップカルチャーへの注目は高まり地位の向上も進んでいるように見えるのに、クールジャパンとか口では言いつつ行政の現場ではそうした活動をパージしようとしているのは、表現規制への取り組み強化が進んでいたり、東京五輪の開催を良いことにしてコンビニとか本屋さんから気に入らない漫画とかを撤去させようとするかもしれない可能性が浮かんだりすることからも伺える。コミックマーケットの会場になっている東京ビッグサイトだって果たしていつまで使えることやら。改装なんかを意図して2019年あたりから改装に入ってしまいかねないものなあ。でも目下の問題はコミケほどではないけれど、同人誌即売会が毎週のように開かれ少なくない人を集めてきた東京都立産業貿易会館が浜松町、浅草ともにしばらく使えなくなってしまうこと。古くなったから改装するって名目だけれど使っていて問題がある訳でもなく、新しくしたからといって何かが始まる訳でもなし。なのにどうして? ってところがまず引っかかる。

 地震の心配もあるし改装は仕方がないといった意見があるとして、果たして改装後に元どおりの機能を有して同人誌即売会とかの会場として使えるようになるのか、なんてことを考えるとやっぱりいろいろ難癖をつけてくるかもしれないなあ、なんて不安を抱くのはやっぱり行政の側がここに来ていろいろと規制の度合いを強めているように見えるから。不安は憶測を読んで批判を招き苛烈な言説を呼びかねないだけにここは都の側にもそうした意図はなく、改装後は従前どおりに同人祖即売会でもドールイベントでも使用可能にしてくれるってお墨付きを、出して欲しいんだけれども果たして。台東館については玩具メーカーによる展示会がいつも開かれていたりGEISAIも会場になっていたりするだけに同人誌即売会とは別の問題も起こりそう。どこを使うんだろう? 東京国際フォーラムは高そうだしなあ。都内の企業にとっては死活問題。そういう辺りを勘案した代替地の提供を是非に。

 頬に両手を当てて「むーん?」と考え込む美少女の素晴らしさに感嘆した竹内佑さんの「キルぐみ」(ガガガ文庫)に今度は長身にしてグラマラスな美女が登場して目を奪われそうになったけれどもそんな美女が身近にいたら、そして割と薄くてちんちくりんなスタイルだったら妹としてへこむようなあ、なんて同情心も沸いてきた「キルぐみ2」(ガガガ文庫)。でもそんな三月音子が望んでいたのは同情なんかじゃなければ姉への反発を肯定してもらうことでもなく、自分の姉への好意を認めて貰いつつ自分も自分として受け入れられること。万能の力を得られるきぐるみを得ながらそれを使いクラスメートを撃破していくことを厭う大垣内歩だからこそ、音子の心情に気づいてあげられたのかもしれない。という感じに理解者を増やしていくけれども立ちふさがる敵があり。性格も歪んでクラスメートを殺すことも使役することも厭わない敵に果たして歩と逆木原赤糸は、そして音庫は勝てるのか。現れる天使の正体は。ますます興味の続刊。今度はいつ頃出るのかな。


【11月21日】 とあるスポーツ新聞の記者が「サッカー原稿にプレー以外の要素はいらない、という記者もいる。だが、それは違う。そのプレーを生み出した選手の内面、エピソードを提供することこそがスポーツ新聞のサッカー記事に求められている」って書いて昨今、そうした生の選手に触れさせないサッカー協会の体制とかについて異論を唱えているけれどでもなあ、“そのプレー”について関連付けられてない身辺雑記ばかりだから、そんな記事なんて必要ないって言われていることにどーして気づけないんだろう。「○○選手は家では子煩悩で愛妻家のお父さん。朝早くからゴミを出し掃除をして練習へ出かけ昼は愛妻弁当を食べて栄養バッチリ、帰れば娘をお風呂に入れて宿題も手伝ってあげる彼だからこそ、この大事な決定的なスルーパスを出せたのです」なんてサッカー記事が載ったとして、読んでサッカーファンは喜ぶか? 喜ばないから読まれなくなったんだよスポーツ新聞は。

 今でこそいろいろ感想文ばかりで中身がないって言われている金子達仁さんだって、昔は選手の内面に斬り込むルポルタージュを得意としていて、そうした分野を切りひらいて今のスポーツ誌の書き方に大きな影響を与えたけれど、そうしたルポルタージュだって別に選手のプライバシーに迫ったものじゃない。選手の内面があのプレーにどう影響したかが関連づけられていたから、読んでサッカー記事として面白いと思われた。アトランタ五輪での前と後ろの分裂とかは、それぞれのサッカー観の違いが混然となってあの結果が生まれたと金子さんのインタビューによって知れたから話題になった。それを知らずただ、選手の口から出る日常話を選手の性格が見えるからと書いて良しとするその心性があるうちは、スポーツ新聞のスポーツっぽい報道が、価値あるものと尊ばれることはないだろうし、記事への非難コメントが連ねられ続けるだろう。そういうものだ。

 落下してきた柱からあふれた災厄で人が消えた世界で、生き残った男が少女と旅をするストーリーを描いて退廃に咲く愛を見せた「灰燼のカルシェール」の桜井光さんによるライトノベルの単著「殺戮のマトリクスエッジ」(ガガガ文庫)が登場。電子化され電脳化された東京湾上の人工都市を舞台にして、殺戮と戦いのストーリーが紡がれる。移住して来て出られないことを条件に利便性の高い電能を仕込まれた住民たち。安楽の暮らしが約束されていたはずなのに、そんな電脳をハックするかのように暗闇へと誘い、そして電脳ごと食らいつくす怪物「ホラー」の出現が噂されようになっていた。

 本当なのか噂なのか。同様にそうした「ホラー」を倒す「ランナー」という一種のハンターの存在も噂されていながら、誰もそうした存在を見たことがなかった。噂に過ぎなかったから? 違う、徹底的に管理されていたから。「ホラー」は実在していて街の人気のない場所に現れては、そこに誘い込まれた人々を喰らっていた。今日も「ホラー」によって少年少女がまとめて食われようとしていた、その時、敵の余りの強さに集団で行動することが求められているはずの「ランナー」にあって、単独で「ホラー」を駆る少年、小城ソーマが通りがかって生き残りの少女を逃がし、そして圧倒的な力「ホラー」を倒す。

 どうもただ者ではなさそうな小城ソーマ。けれども彼には、2年前より遡っての記憶がなかった。目覚めてそして「ランナー」として戦うこと、その右腕に仕込まれたなぞの機構、それだけを持って生きてきた小城ソーマが、襲われていた人間を救い逃がしてそして「ホラー」を劇はした現場に、ククリという名の1人の少女が突然現れそのあまソーマに懐いてしまう。いや、それより状況は凄まじかった。凄腕のハッカーでもある小城ソーマの電脳のアカウントと融合してしまって、もはやククリを身辺から50メートル以上離せなくなってしまった。そして始まる奇妙な同居生活。学校にも連れて行って同級生たちの好奇を誘い、同級生の少女は家まで押し掛けククリとソーマの世話を焼く。

 結果的に妹として存在するようになってしまったククリはけれども、そういう存在ではなかった。ではいった何者なのか。そしてソーマ自身は? 謎を探るために潜入した場所で小城ソーマは知る。ククリの正体を。そして自たちの境遇を。電脳によって拡張された感覚が時に利便性を持ちながら、一方で混乱をもたらすシチュエーションがとても未来的。そんな人工の海上都市を舞台に繰り広げられているる「ホラー」と「ランナー」の戦いが持っている意味と、そこに現れたククリであり、小城ソーマといった存在が将来において果たす役割が、これからの展開で明らかになっていくかに興味を惹かれる。続刊はきっとあるだろうから読んでいこう。そして確かめよう、ソーマとククリの未来を、その生を。

 来た来た来た来た! そんな戦慄をいずれ味わうことになるだろう地球圏にあって、今はまだ人類を敵とみなしてすべて根絶やしにしようと戦いを挑んでくる粛清者の襲来に備え、銀河を滑る存在たちの導きによって宇宙軍を創設して士官をまず養成し、そして兵士の養成へと移っていった有坂恵一たち地球の軍人たち。やがて送り込まれてきた兵士候補生の少年少女の中には、戦闘に優れながらもそれをやや威張り突出する少女もいれば、逃げてでも行き伸びることに長けた少年もいたりと千差万別。そんな性格を見越し技量を見抜いて組み合わせながら最善のチームを作ろうと有坂恵一は腐心し、兵士の間でも少女は突出がもたらす危険を感知し少年も拙い部分を改めながら成長していく姿が鷹見一幸「宇宙軍士官学校 前哨4」(ハヤカワ文庫JA)には描かれる。

 とはいえ事態は切迫しはじめているのか、地上では宇宙をさすらう移民船の中でもアクシデントに対応できるような人材の抽出が始まり、また太陽系の縁に粛清者の探査機が現れたら即座に迎撃できるよう警戒網が作られ女性オペレーターたちが配置されては実際の任務に辺り始めた。そして戦闘の成績が最優秀がらも宇宙軍士官候補生になれず地球に戻ったリーが戦士としての優秀さを認められ、誰よりも早く宇宙人たちが持ち込んだ戦闘機を与えられて哨戒任務に就き始めた。地球人たちに粛清者の狙いも明らかにされ、太陽を破壊し一気に惑星を冷やして文明を滅ぼすという企みを知って戦慄しながらも、対応する方法はあると知ってその準備に邁進し始めたその時、状況は大きく前身する、当然のように、過酷な戦いへと向けて。

 理性でもって適材適所を求める宇宙人の思考が、現在の人類にそのまま受け入れられれば素晴らしい今を生みだし未来もひらけるんだろうと思うけれども、プライドが邪魔してなかなかうまくいかないのが現実。そうした事態への警鐘も含んでいるところが読みどころでもある「宇宙軍士官学校」は、同時に戦闘にあって過去に慣れたりせず今を見て最善を目指す必要性も訴えていて、戦う人たちにも大いに参考になりそう。熟練の経験が物をいう場合もあれば慣れに沈んでしまう場合もあるということ。無理強いするより自分の頭で考えつくことに人は納得するんだという宇宙人ならではの教え方のメソッドも面白い。上に立って人を導くマネージメントの仕事に従事する人たちに読んで欲しい本だけれど、SFでありライトノベル作家の書いたものだけにあんまり読まれそうもないんだよなあ、ビジネス書に強いレビューの人とか読んで紹介すれば良いのに、成毛ちゃんとか、SF好きそうなのに、でもやらないか、金になりそうもないし。

赤く染まるイエスタデイ  しかし人類が遺伝子操作によってリフトアップされたことを、原罪的に受け止め一種の遺伝子組み替え大豆とも見なし、そうした存在を不遜ととらえそれを糺そうとする粛清者を一種の神を崇める可能性なんかに言及しているところが深いなあ。なるほどそうかもしれないけれど、作り出されてしまった遺伝子組み替え大豆がその運命を受け入れ自然主義者によって滅ぼされても当然と思うかというと、既に意思を持ってしまった遺伝子組み替え大豆は諾々として滅びる道を選ばない。だから戦おうと決意するその意識がどこまで強さとなって地球を、太陽系を粛清者の攻撃から救うのか。そんなあたりが描かれるだろう今後に注目。やっぱり苛烈な戦いになるんだろうなあ。未来が明るいと良いなあ。

 そして東京ドームへ。もう見られないかもしれないポール・マッカートニーの日本でのツアー最終日を奇跡的にとれたアリーナ席で見守る。とくに初日と変化はなくって最初に着てきたコートがツアー初日と同じ赤だったことくらいで曲目も同じだったように思うけれどもただ、「イエスタデイ」がアンコールで登場する時に赤いサイリウムを振りましょうと配られたのが違ってたかな、この日はスカパーで放送するためにカメラも入っていたからそういうことへの演出なんかも意図されたかも。当人にとってどれだけ嬉しかったかは分からないけどでも見た目には赤い波の中で切々と歌い上げられる「イエスタデイ」はそうとうにビジュアル的に綺麗なものになるだろう。そういうこともまあ、あって良いかな。

 歌声はしかし6本目となるのにまるで衰えないどころか掠れもしなければ沈みもしないでずっと出っぱなしってのがやっぱり凄い。71才なのに。さけび怒り嗤い歌い上げていくその豊かな表現力もあの年齢にしてはな感じ。日本でいったいどれだけの歌手がああいった歌声を出せるのか。美空ひばりさんが存命だったら70才過ぎてもきっと唄っていたかなあ、どうかなあ、山下達郎さんはあと10年の先にどんな声を出しているだろう、なんてふと考えた。そしてメッセージ性も豊か。「バック・イン・ザ・USSR」ではソビエトの宣伝映像を交えつつ「FREE PUSSY RIOT」の文字を出してプーチン政権下にあって非難的な演奏をしてとらえられている女性バンドのプッシーライオットの解放を求めてる。

 実際に書簡も出したりしているんだけれど動じないなあ、プーチンは。あるいはソチ五輪に絡めて自由をアピールするための材料にとってある? そういう五輪に日本はまるで無関心、むしろ東京五輪を成功させるためにロシアに媚びたりしていたのかも。だから誰もそうしたメッセージを出そうとしない中でポール・マッカートニーは5万人×6回の公演を経て日本の人にそうした事態への憤りを示して見せた。受けて僕たちは何ができるだろう? 政府なんかあてにできない、むしろロシアより非道な政体を作ろうとしているくらいだし。だからせっかくのポールのメッセージをメディアは利用し喧伝していくべきなんだけれど、ゴシップかタイアップでしか芸能なんて書けない日本のスポーツ新聞には何もできず、相変わらずお高くとまっている一般紙ではロックなんてやっぱり脇役。そして世界は暗黒に。そうならないためにも見た僕たちが語りネットで広めて世界に言葉の杭を打つ。それだけが世界を正義へと導く。


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