縮刷版2013年10月下旬号


【10月31日】 暗躍する奴らを相手にヴィントレーア姉さんもちょっと脇が甘すぎるというか、それを言うなら司教のコットローもだけれど王国の次代をめぐって起こった争いで、4人いた候補が2人に減ってそこから始まる熾烈なレースの檀上で、それなりな鍵を握っていた人物たちが不貞とは言えないまでも不道徳と見なされかねない振る舞いを、しては陰謀に長けた奴らの目はごまかせない。そことヴィントレーアは軍事力で推しきろうとし、コットローは宗教の権威で押さえつけようとしたんだけれどもやっぱりそれは無理だよなあ、アルメインはしのげてもそのさらに影で暗躍するあの目を逃げ延びるのは不可能だったってことで。

 そんな築地俊彦さんの「冥玉のアルメイン2」(ファミ通文庫)は、アルメインとかつて砂漠の国で組んで一仕事を成し遂げたヘルネーアって女性が1人の少年を連れて王宮を来訪。聞けば先代の王が生ませた子供だそうですでに一国の王位を継ぐ身でありながらも、アルメインの国の王位も受ける権利があると言っては司教に取り入り軍事力もバックにして、瀬戸際までアルメインたちを追いつめる。その手並みの鮮やかさ。いった裏にあるのは誰の遺志? そしてそれは本当に誰かの遺志? リアルな意志かもしれないといった迷いも浮かばせながら進んでいく物語、アルメインしか残っていない代王がそのまま就位するのか否かも含めて次の展開が楽しみだ。

 果たして良いのか良くないのか。日本でも「宇宙戦艦ヤマト2199」のテレビシリーズでの成功を受けて劇場版の続編が作られることになったそうで、やっぱりデスラーは脱出していたのか、スターシャがお腹をさすっていたのは冷えたからなのかといった謎がすべて解き明かされる展開に、今から期待がかかっているけどそんな日本を横目にエンターテインメント大国のアメリカでも、ヤマトこと「スターブレイザーズ」の実写版が作られそうだという話が浮上。監督なんかの名前も取りざたされてはいるけれどもまあ、過去に「エヴァンゲリオン」から「カウボーイビバップ」から実写化が取りざたされては消えていったのがハリウッド。今回もそうならないとは限らないけれど、そうはならずに作られてしまった「ドラゴンボール」という作品もあったしなあ。アメリカが先だから日本待てとかそういった横やりが入らないことだけを今は切望。出来はどっちだって良いやヤマトが空母ミニッツとかになってなければ。

 優勝まであと1勝となっていたメジャーリーグ野球の世界一を決めるワールドシリーズに出場中のボストン・レッドソックスが、気がついたら地元ボストンにあるフェンウェイパークへと戻って残り第6戦目を戦っては1戦を残す形でセントルイス・カージナルスを下して見事に優勝。2007年には西武ライオンズから松阪大輔投手を要してチャンピオンリングを手に入れはいるけれど、今シーズンは上原浩司投手を途中からとはいえ絶対的な守護神として仰ぎ、レギュラーシーズンからポストシーズンを戦い抜いての優勝だけに、日本から行った選手の活躍が見られたって意味からも前にも増して目に光る優勝ってことになりそう。やっぱりどこまで言っても投手陣の1人でしかなかったからなあ、松阪投手の時は。

 なるほどニューヨーク・ヤンキースでの松井秀喜選手のポストシーズン大活躍による優勝も見ていて流石と思ったけれど、もはや優勝が確定しているような場面で5点ものアドバンテージを持ちながら、クローザーとして上原投手を登板させるところにそれだけの信頼と、それから敬意ってものを抱いていたってことが見えてくる。そこも嬉しさが倍増しな要素の1つ。あと満塁の場面で起用された田沢投手も、上原選手とセットではない形でチームの信頼を受けているんだろう。要素の2。とはいえ昨今の松阪投手の現状を見るにつけ、いつまでも同じって訳にはいかないんのが投手の世界、来年も同じコンディションで同じチームで戦うとは限らない。それでもあとしばらくは是非に上原投手には第一線での活躍を続けて欲しいもの。リベラ投手が引退したヤンキースへと移籍、なんてこともあったりするのかな、それはボストンっ子が許さないか。

 トレーディングカードゲームが下敷きにはなっているけど、シュタゲのノベライズよりはオリジナル度が高いような気がした海羽超史郎さん待望の小説「プログレス・イヴ01」(ファンタジア文庫)は、主人公の護堂臣って少年のキャラがとにかくユニーク。魔法のある世界から異世界へと続く窓を抜けて、女王の名代として地球に派遣された妹を追い女王に楯突いて撃退され放逐されるように追い出され、地球の学園に入った臣。首につけた宝石みたいな翻訳機では、異世界の文化がドラマチックに示唆されるらしく走ってくる少女の場合は、パンを加えてはぶつかりパンツを見せてそして居室でこのパンツのぞき魔と糾弾してくる辺りまでが一気に情報として示され臣をも辟易とさせる。

 つまりは実直な性格なんだけれどそれ故かあまりに動じなさすぎるのか、昼になると家から持ってきた釜を使ってご飯を校舎の外れで炊き食うというからどこかヘン。おまけにそこに現れた、黒の世界から来た臣や妹の椎名とは違う、白の世界からやって来た機械少女もやっぱり米を炊いて食うといった具合に、ユニークな描写を咬ませつつ本編では異能が集まった学園で異能を持たない臣と、異能に不安がある地球人の少女が組んで戦っていく。その戦いの方法とかちょい複雑。あるいはトレーディングカードゲームのルールがそうなっているのかな、ちょっと調べたい。

 女王の代行に選ばれる位に力を持った妹の椎名とは違って、体力莫迦ではあっても異能はないと言われている臣だったけれど、そんな妹や白の世界から来た機械少女、赤の世界から来た戦士の少女に地球の少女で異能はあるんだけれどそれは運の良さだけだとう不思議な彼女を仲間にして、戦っている際中にいろいろと節ギアことが見えてくる。臣には何か力があるのか。彼を同じ境遇と信じていた地球人の少女は彼を受け入れられるのか。思惑があって女王代行として送り込まれた臣の妹の椎名はどう関わっていくか。戦った果てに何があるのか。そんな辺りを続く展開では楽しめそう。それにしても臣、女王に潰されても生きているってどれだけの体力の持ち主だ。「魔法科高校の劣等生」のお兄さまとは違った朴念仁の内にのぞく輝きを探っていこう。

 阿呆だとは分かっていたけどこんなにも戯けだったとは。園遊会にて天皇陛下に直訴の手紙を渡したというからこれはもう一大事、早速「平成の田中正造だ」と足尾の鉱毒が悲惨な状況になっていることを直訴によって明治天皇に伝えようとした田中正造を引き合いに持ち上げようとする自称めいたジャーナリストもいたりするけど、田中正造は議員として散々っぱら活動をして政府に対してアピールしながらも入れられず、もはや最後はこれしかないと議員を辞し、妻にも離縁状を送った上で身儀礼な格好でもって国の最高権力者であるところの明治天皇のところに走って阻止された。その決死というかもはや必死に等しい状況を自ら選んだ田中正造と、そこに天皇陛下が来たから手渡ししただけの人間を並べる目がジャーナリストとして果たして真っ当か。まあもとよりそうした騒動を報じてアクセスを稼ぐマッチポンプな人だから仕方がないけれど。

 それ以前にいったいこれまでにどこまでの“必死”で活動をしたのか、彼がただのタレントで俳優だったのなら、アピールする上での究極の手段としてありだったのかもしれないけれど、政治に直接関われるだけの立場を得て国会に議席を得たのなら、真っ当な方法での活動だってしようがあるにも関わらず、最後の手段と世に目される直訴を選んでしまう軽さ、安易さを世間はいったいどう見るか。格好いいとか見るのかなあ、でもやっぱり違う、だって今上の天皇陛下には議員の要求を容れて行動に移すことが出来ないんだから。それが象徴天皇制であり立憲君主制であり議院内閣制。国のことは議会で決めてそれを政府が実行する。その一角にぶら下がる政治家の身でありながら天皇陛下に手紙を渡して意志の遂行を願うのはやっぱり天皇の政治利用に他ならないんだけれど、そういう頭はからっきし、持ってないんだろうなあ。


【10月30日】 ゲームだったらちょいスキルアップした上で同じ経路をまた辿って同じ冒険ができるけれども現実は、同じことは繰り返せないし時間が経てばさらに状況も変わってしまう。これは現実ではないけれど、小説の中でもやっぱり経過する時間が2周目の冒険をまるで違ったものにしてしまった。竹岡葉月さんの「パナティーア異譚1 英雄のパンドラ」(ファミ通文庫)では11歳の時に異世界へと召喚されては、名無しの勇者として剣を振るって魔王を封印したリヒトとう名の少年が、現世へと戻って6年後、再び異世界へと召喚されて復活の兆しを見せ始めた魔王と対峙することになる。

 とはいえパーティを組んでいた仲間のうちの魔術師は出世してしまってその動勢が国政や外交に影響を与える立場にあって積極的には動けない。ならばと主人公のリヒトは他の仲間だった老師を誘い女性戦士を誘って魔王を封じる道具を取り戻そうとするものの、やっぱりそれぞれに事情があて結局少年は自分とそして、魔術師の屋敷を出たところで再会した、冒険の時も同じ歳だった盗賊あがりのイシュアンとともに魔王を封印に向かおうとする。行く先々で現れる魔獣っちを倒し辿り着いた場所でリヒトが見た者は。過ぎた時間は埋められないのだという事実を突きつけられつつ、それでも歩まざるを得ない厳しさを感じつつ、ならば進むのだという勇気を感じたい。悲劇のようで幸運のようなラストを経て続く物語は何を見せる? そこも楽しみ。

 名古屋がプロ野球で盛り上がった1974年。中日ドラゴンズが読売巨人軍のV10を阻止して優勝を果たし、名古屋では板東英二さんが歌う「燃えよドラゴンズ」の歌が流れまくって1番高木が塁に出てから星野や松本稲葉といった選手たちに至るまで、中日ドラゴンズの選手の名前が、名古屋でそれほど野球に興味を持っていない子供たちの頭にも強く激しく刷り込まれた。そしてこれは名古屋にいたって王貞治選手と並んでその名前が知れ渡っているスーパースターの長嶋茂雄選手が引退を決めて、後楽園球場で「読売巨人軍は永遠に不滅です」の言葉を残してグラウンドを去っていったその1974年に、こちらは監督としてのユニフォームを脱いで球界の現場から去っていった川上哲治さんのことは、実は割と二の次になっていたような記憶がある。

 もちろんV9を達成した監督であるし、漫画の「巨人の星」にも出てきて星飛雄馬選手を指導した人物として子供にもその知名度は知れ渡っていたけれど、どこまですごいかってことになるとちょっと、実感がわかなかったような気がするし今もやっぱり偉大さという意味では王選手、長嶋選手といった人たちの後ろに下がって感じられる。そこがやっぱり活躍を見せられる選手と、采配を振るう監督の差といったところなんだろうなあ。だから実感を伴って球界の至宝といった認識が出てきたのは、プリティ長嶋と後に名乗ったコメディアンが長嶋選手に扮した傍らに、まだ若いけれどもカツラを被った人(渡辺信一さん)が川上さんに扮して並んで「来たかチョーさん待ってたドン」といった並びでテレビに出まくっていたのを見たあたりから。そうやってからかわれるくらいに存在感があったんだと思い、そこでの評判が本人にフィードバックしてドンとしての印象を強くしていった。

 そのあたりからドンという印象と、そして解説者の超大物といった雰囲気から他の誰とも違った立場にあった川上哲治さん。巨人OBの中でも頭抜けた存在感を発揮しては、何か球団に事あればやっぱり重しとして働いていたけれどもこの数年は、どちらかといえばナベツネこと渡邊恒雄さんの方が重みを増していた感じ。そして死去、93歳は大往生といえるけれどもやっぱりもうちょっと長生きして、ナベツネのカウンターとして存在していて欲しかったかなあ。同じ世代を活躍した選手では存命はフォークの神様の杉下茂投手くらいか、あとは皆さんなくなった。選手ではONも存命だけれどやっぱり広岡達郎さんに何か語って欲しいかな、監督と選手として確執もあったしその後に球界のために働きもした。愛憎うずまくその感情こそが語られるに相応しい言葉ってものを、紡ぎだしてくれるだろうから。合掌。

 名鉄の東岡崎で降りてまずは上にある展示をながめ、それからバスでしばらくいった場所にある民家というか古い商店街が廃屋になりかかているのを再利用したというか、低い天井の中で畳と柱に囲まれたスペースに現代アートが並ぶ光景を見てから歩いてシビコというかつて繁盛しながらも今は残るショップも少ない百貨店の上に言って、まさしく廃墟といった雰囲気の中で叫び咽ぶような言葉が放たれる展示を見たりすることによって今は衰退の気配にある岡崎の市街地へと人を招き、存在を改めて感じさせる展示がとても良かったと思った「あいちトリエンナーレ2013」。会場の間を行き来するベロタクシーのまったりさと相まって、不思議な時間を経験させてくれた。

 そして名古屋。白川の名古屋市美術館についてはちょっぴり展示が足りなかった気もしたけれども、その分を屋外につり上げられた泥舟の家が存分に埋めてくれた。朝に並んで夕方近くまでの整理券がすぐに捌けてしまう人気は、近隣にあるプラネタリウムに優らずとも劣ってはいない。名古屋でそんなものに興味を示す人がいるということにも驚きだったけれども、そこから長者町へと歩いて見たボウリング場を改装した会場の展示が質量ともに充実していて、そこにだったら1日だっていられるかなあと思わされた。安息日に街を封鎖するあれはユダヤ教の人たちの映像とか、何が起こっているか目が釘付けだったし、名和晃平さんの巨大な泡が空間を埋め尽くした作品は、吸い込まれそうな気がして戦慄した。他にも多々あった作品群。それを見に集まった大勢の人たち。会場に行けばそんな熱気が感じられたし、作品そのものの持つ熱量も横浜トリエンナーレにこれは優ってはいても劣ることは絶対になかった。

 そんな「あいちトリエンナーレ2013」を地元の中日新聞が大批判したらしい。それも終わってから記者たちが名こそ連ねながらも誰が何を言ったか分からないようにした匿名での座談会にして記事にするという案配。そこには作品が震災に対するメッセージとして単純であったとか地元にとってあまりメリットがなかったとか出来合の作品が見られたとかいった言葉が並んでいたけれど、実際はそうではなかったり様々な葛藤の果てにそうせざるを得なかったりと背後にはちゃんと事情があって、それを知ってさえいれば出来る発言ではなかったと関係者が怒りのツイートを並べていた。

 なるほど見る方にはそんな背景なんて関係ない、どう感じたかが重要ではあるんだけれど少なくとも記者たちは、取材という手段を通じて作品なり作家のことを詳細に知られる立場にある。その権利であり責任を放り出して、印象から批判するのが正しい態度なのかどうなのか。地元への強大な影響力を持つメディアがそんな素人みたいな意見を、すべてが終わってしまった後に載せることが果たしてメディアとして適切か。メディア論とも絡んでこれからもいろいろと議論を巻き起こしそう。ただ言えることは、実際に見た人間ならとてつもなく感じさせられるところが多かった展覧会であり、だからこそ愛知県美術館のように大勢の人たちが集まり会場を巡っていたりしたし、長者町のようなビルが並ぶ会場を言ったり来たりしなくてはいけない場所でも、地図を手に持って歩く人の姿が大勢見られた。それだけの集客があった展覧会がただ非難されるばかりであるはずはない。だからこそ反論が待たれるし、それに対する回答も待たれるけれど、果たして受けるか中日新聞。戦わずに逃げそうだよなあ。


【10月29日】 劇場版「魔法少女まどか☆まぎか[新編]叛逆の物語」が初週の週末興行で1位を獲得したそうで、2位には「プリキュア」の劇場版が並んでアニメが上位に君臨するという、この時期ではちょっと珍しいかもしれない現象。3位は初週と2週目に1位を取った「陽だまりの彼女」が続いていたりして、落ちてはみたもののそれでも上位に張り付いているのは結構な話。ミリオンセラーを記録した原作がさらに売れて売れまくったその流れで、同じ作者でそれから「陽だまりの彼女」と同じ西島大介さんが表紙を手がけた「いとみち」(文庫版)も売れてくれれば、少しは解説をやった人の名前も世間に広まってお仕事が増えたりするんだろうかと、淡い期待を噛みしめながら6畳1間のベッドで唯一の暖房器具となってる電気毛布にくるまる独身男48歳でありました。

 しかしやっぱり不思議だったなあ、「劇場版まどマギ」の「新編」のあのナイトメアを撃退する歳のお茶会シーンは、見ている方も気恥ずかしいけどやってる方も相当な気恥ずかしさを覚えながら演じたに違いない。そんな辺りの秘密も聞いてみたいけれどもそれはブルーレイディスクが出てオーディオコメンタリーが入るのを待つしかないのかな。早速あのシーンを真似て「めちゃイケ」あたりが何かやって来そうな予感。それだとビジュアルも想像できてしまうんで、先手を打って堺雅人さんと香川照之さんと北大路欣也さんと石丸幹二さんと及川光博さんが会議室で円卓を囲んで、不正融資の責任を「ちーがーうー、わたしはむじつ」とか歌いながらなすりつけ合う動画を誰か作ってやって下さいな。

 おお、ついに決まった、アニメーション作家の水江未来さんが1年がかりで毎日1秒のアニメーションを作るという、およし画期的にして革新的にして革命的にして考えられない企画を成し遂げ作りあげたアニメーション作品「WONDER」が、いよいよ来年の新春にヒューマントラスト渋谷で劇場公開されることになったそうでまずは目出度い。それだけじゃなくって他に過去の作品なんかも上映されるみたいで、個人的には音楽も含めて大好きな「AND AND」が劇場のおお金なスクリーンで見られることも含めて期待が膨らむ。どんな作品になっているのかなあ、「WONDER」。予告編を見る限りに置いては細胞の乱舞に留まらず色彩の絢爛へと至っている感じ。爆発してそう。早く見たい。見た過ぎる。

 とはいえこれは終着点ではなく出発点。ここから始まって世界の映画祭を回っていろいろな賞を受賞してこそキックスターターで上映用フィルム制作資金を募った意味もあるっていうもの。世界から資金を集めつつ、世界に作品の存在を知らしめることが出来たんで、きっと順調に世界を回っていくと期待したい。NFBってカナダ国立映画制作庁の人も支援しているそうだし。そんな「WONDER」といいトリガーの「リトルウィッチアカデミア2」といい、湯浅政明監督でプロダクションI.Gがついてる「Kick− Heart」といいキックスターターが介在して世界から資金を集めた作品が、最近は相次いでいる感じ。国とか通したり会社とか通すより作品力を世界に見せて自力で訴え資金を集め、流通すらも確保できるクラウドファウンディングがもたらす新しい形、そして本質的な形のクールジャパンって例として、まとめ紹介したい気分だけれど窓際どころか窓外なんで、何も出来ないのでありました。大きなメディアはだからこうした取り組みを、掘り出し積極的に紹介しようよ、ANIMAXの社長でアニメを欧州に広めた滝山雅夫さんのMIP TVでの特別功労賞受賞も含めてさ。

 えーと、よく分からないけれども「セイントフォー」が復活するみたいでそれも3人だけで、1番目立っていた眼鏡っ娘は脱退の経緯がいろいろあったか復帰はあり得ず、かといって今さら声優の界隈で活躍している岩男潤子さんが入る訳にもいかなさそうってことでいったいどういうステージになるのか、気になるけれどもケネディハウス銀座でのライブはすでに満席完売みたいで相当に期待がかかっていそう。店のオーナーが「不思議TOKYOシンデレラ」を手がけた加瀬邦彦さんってのもきっとひとつの縁なんだろう。決して懐メロに陥らずアイドル時代をまんま見せるって訳でもない、今の3人娘のポップスグループとしてお「セイントフォー」が見られるんじゃなかろーか。翌日あたりのワイドショーが放送したりしないかな。それを見て次にライブがあったら行くかどうかを考えよう。

 もやは「グリコ・森永事件」に匹敵するくらいに凶悪で社会的に大問題な事件だと言えるのに警察はいったい何をしているんだ、そしてメディアはどうして大々的に報じないんだという思いがいよいよ募ってきた「黒子のバスケ」を巡る騒動。同人誌即売会が中止においこまれたり関連同人誌の頒布自粛においこまれたりしていた間はアンダーグラウンドな趣味があおりをくらった程度だと世間も認識していて、それが世間的な話題にあまりされない状況を生んでいたのかもしれないけれどもコンビニエンスストアから関連の菓子類が撤去され、そしてTSUTAYAの店頭から関連の商品が撤去されるに及んでもはや威力業務妨害であり、そして社会秩序に対する挑戦として刑事のみならず公安レベルが動いて摘発に乗りだして不思議はない。とは思うんだけれど世間の反応はやっぱり今ひとつ。どうだって良い老司会者の退任をやんやと報じている。本気で被害者が出ないとやっぱり動かないのかこの社会は。流石に動き始めるのか。分水嶺かを見極めたい。

 パワプロ神の思し召しがあったので東京ドームで日本シリーズの第3戦を見物。見ていた感想をいうと巨人の杉内投手はもう投げるテンポが悪すぎて、1球投げるのに帽子をぬいで額を脱ぎロージン手にとりセットして投げてから何歩か前に出て受けとりそこからマウンドに下がって帽子を脱いで額を拭ってロージンを手に取りセットしてといった感じ。1球投げるのに何分かけてるんだ的な。それが最初っから不安定さを醸し出していた。元よりそういうテンポの投手なのかもしれないけれど、トップバッターから10球近く投げさせられるなど球数も多かったし、やっぱりしっくり来てなかったんだろう。続く小川投手が好投しただけに残念な試合になってしまったなあ。まあここで捨てて次に心を入れ替える考えか。ドームでは折角だからと阿部捕手の弁当を食べる。1500円したけどボリューム多すぎで腹が死んだ。阿部捕手は毎日あんなのを食べているのか(違います)。


【10月28日】 熱心なリスナーという訳ではなかったけれど、でもポプコンが好きで「コッキーポップ」も見たり聞いたりしていたからデビュー曲でヒットした「花ぬすびと」なんかも良く聞いて、深淵な声を持った人だなあという印象で眺めてた。あとやっぱり出身が愛知県だったから番組とかにもよく出ていたという印象。FM愛知なんかでキャスターもしていてそこでは確かゲストでやっぱりポプコン出身の相曽晴日さんも招いて歓談なんかをしていたんじゃなかったっけか。共に女性で共にシンガーソングライターで共にポップスを歌うってところから仲も良かったみたい。そんな明日香さんが死去。癌で長く闘病しながら、それでも歌い続けていたらしい。

 49歳はほとんど同じくらいの年齢で、ここまでずっと歌い続けていたっていうことがひとつの驚きだけれどそれなら相曽晴日さんだって、新しいアルバムを何枚も重ねライブもあちあこちらでやっていて、僕も何度か脚を運んだことがあったっけ。明日香さんも今は地元に戻っていたみたいだけれども北海道にいたりして、全国でライブを行っていた感じでファンもあちらこちらにいた様子。それだけに今回の訃報にはいろいろな声が集まっては、その歌声がもう響かないことを残念がっている。悲しがっている。「花ぬすびと」以外だとCMソングとして流れていた「お菓子の城」とかほか初期の何曲かしか知らないだけに、最近はどんな歌をどんな歌声で聞かせてくれていたんだろうかと、そんな興味が今さらながらに浮かんでしまう。

 でももう聴けない。来月には母校の名古屋音楽大学でコンサートが予定されていて、そこに向けてピアノのレッスンもしていたというからとても気丈でそして前向きだったんだろう。いつ果てるかもしれない体から、それでも後に続く人たいに自分の精一杯を見せたかっただろう。それだけに悲しさもより強く募る。そんな明日香さんの歌声を聴いてみたかったという思いと、だったらどうしてもうちょっと早く、気づき直していなかったんだろうという思いがまぜこぜになって心を刺す。せめて残っている音楽があって、それが音源化されていなら手に入れてみたいもの、聴いておきたいもの。配信でも良いしクラウドファウンディングを使ったCD化のような動きでも、起こったら是非に心を載せさせて戴こう。合掌。

 そこは生きるものたちが紡ぎ、生きたものたちによって紡がれた物語に歳月がもたらした綻びを、繕い元通りにして送り出す工房なのかもしれない。村山早紀さんの新刊「ユリユール」(ポプラ社、1600円)は、本を修復する赤髪の魔女がいると噂の工房に迷い込んだ少女の物語。そこで少女は、訪れる者たちの本を直し心を癒し安寧へと導く魔女の技を見る。物語が詰まった本を直す職人の話であると同時に、人生という物語に生まれる迷いや悩みを治すセラピストの話でもあるって言えるかも。過去を後悔する心が埋められ未来へと導かれていく様に少女もまた、抱えた過去を受け止め前へと歩み出す。幻想と真実が混じり合う不思議な時間を味わおう。

 「安堂ロイド」は第3話にして視聴率が13・2%だそうで20%近くあった1回目からズンズンと落ちている感じ。でもまあ27日限っていうなら裏番組が強すぎた。だって狂言「釣狐」だもん、顔に面を被った白蔵主がやって来てあれやこれや会話し罠を捨てさせるもののその罠に惹かれ本性を明かしてしまってそしてやるまいぞやるまいぞと追いかけられて終わるストーリーは、冒頭の人間になりきろうとした真摯な演技があってそれがだんだんと白熱していってそして狐の本性をのぞかせ最後は狐そのものになってしまうという、いくつもの変化をみせなくてはいけなくって狂言師にとっては身にまとった狐の衣装ともども、精神力と体力を相当に削がれる演目になっている。見る方だって相当な緊張を強いられる。

 それが裏番組で延々と放送されていたんだからもう目は釘付け、「安堂ロイド」がどんな展開になろうと他にチャンネルなんて……って違うだろう、27日の場合はプロ野球の日本シリーズで田中のマー君が巨人を相手にビュンビュンと投げて完投勝利を掴んだ試合があってそっちに誰もが見入ってしまったって感じ。それで13%ならむしろ上等。流石はキムタクのアンドロイドぶり、そして展開の先の話からなさっぷりってのがありそうだけれどでも、いい加減登場する女性キャラクターの莫迦っぷりに辟易とする人もいそうだし、来週はさらにグッと下がるかも。

 充電してる間は飯も炊けず風呂にも入れないからって電気ショック棒とチェーンソーを買って帰って安堂ロイドを切り刻もうとするってどういう了見だ。つかその電気はどこからとった。行動に論理性も何もない上に展開にも粗が見える。言っちゃダメだと言われているのに沫島の妹にあれはアンドロイドだと言って妹の命を危険にさらすのも間抜けだし、それを聞いてしまった妹の方もそういうものかと理解し誰にも言わないと誓えばいいのにモヤモヤとした中で尋ねて来た刑事に言いそうになる。最高学府で研究職に就いてる人間にしてはお粗末な思考回路。ちょっとあり得ない。

 あと安堂麻陽の部下の女性も仕事ではポカするは言動もユルいわととても一流企業の広報スタッフ部門の人間とは思えない。部署のミスが会社全体のミスと受けとられかねない部署にそんな間抜けがいてはダメだろう? って真っ当に社会を生きている人なら誰でも感じることを、平気で繰り入れてしまうところにドラマを造っている人間たちの、社会との乖離ってものが相当ありそう。それがギャップを生んで視聴者を遠ざけている、といったところか。アクション中心になっていけばそれでも見られそうだし、設定で現在と未来がどう繋がっていて、それがどう巡ってこの状況を生んでいるのか、って部分もまだ見えて来ないだけにそうした謎へと迫る部分が興味を引きつけ、視聴者を保つかも。だから攻めて莫迦はなくして見て心がザワつかないようにして欲しいとお願い。


【10月27日】 そうそう神宮外苑で開かれている「東京デザイナーズウィーク2013」では若手クリエーターがブースを構えて販売なんかもしているテントがあって、そこで見かけた「ATSUSHI INOUE」ってブランドを展開している井上篤さんってシューズデザイナーの人が、なかなかに意欲的な靴を作っていて見ていて楽しかった。ロンドンで少し学んだとはいってもほとんど独学で靴を作っているらしく、全体に手作り感にあふれている上に色使いや張り合わせ方なんかが独特で、1つとして同じ靴が存在しないところが面白い。はけばこれ何いったいどこで買ったのって大勢の目に止まること間違いなし。けど1つ1つを手作りしているんでショップとかで買える訳ではないし値段も相当。そこに価値を見いだせる人にはこれほど嬉しい品はないのかも。

 独学での靴作りといったら新海誠監督の映画「言の葉の庭」なんかが公開された直後で、自分でも靴のデザインとか製造とかやってみたいって人もいたりするかも。かといって靴の学校に通うのは映画でもあったけれども相当にお金がかかる。そうでなくても材料代はかかるし木型を手に入れるのだって苦労がありそう。足形だって人によって大きく違うところをちゃんとそれなりに合わせて作らなきゃいけない。それでもやってみたいという人がこうして現実に存在しているのを見るにつけ、靴というアイテムが持つ魅力ってものへの思いが改めて見えてくる。そういえば一時西船橋にあった二天一流総本舗って店も大塚製靴だっけ、そこで学んだ人が独立して工房を立ち上げ1つ1つ手作りしながら大きくなっていったんだっけ。

 「ATSUSHI INOUE」の井上篤さんもだから頑張れば工房を持って商品を並べ注文を受けて作っていけるようになるのかも。そういう頑張りを応援する仕組みとして、クラウドファウンディングのキャンプファイアが「夢を実現したい! 8人の若手ファッションデザイナーを応援する為の合同展示会を開催!」ってのを設定して支援を募っている。井上さんだけでなくいろいろなデザイナーがいて服とかいろいろと持ち寄っている。主宰の人の「原宿や渋谷の路地から人が減り、以前のような活気が少なくなっている事・低価格志向が進み、今ある国内ファッションブランドが苦しい状況に立たされている事に焦りと危機感を感じています」という言葉はなるほど実感。突破する仕掛けとしてクラウドファウンディングが働くか否か。興味を持って見ていこう。見るだけか。さてどうするか。

 張れたんで上野から秋葉原あたりを歩いて体力を消費しつつその脚で神田まで出むいて早川書房の本社で始まったハヤカワポケットミステリの全点展示を見物、日曜日だと周辺はたいてい閑散としているはずの通りに人がちらほらと見え、そして会場にも行く人かがいてそれなりな賑やかさ。あれで結構なファンがいるってことが分かった。というか自分で全点を持ちながらも見に来る人がいるってところが、今なおポケミスが続いている力の源泉って奴なのかも。けどあれだけが並んだ部屋っていったいどれくらいの広さなんだろ。当然ほかの叢書も持っているだろうしなあ。有名な人なのかなあ。

 そんなポケミスの居並ぶタイトルの初期とかには僕でも知ってるミステリ作家の作品が並んだりしていて、当時の人が毎月のタイトルの登場を心待ちにしていたことが分かる。だってそれくらいしかなかったんだから。少しづつでるのを貪るように読んでいってそれが5年10年と重なった時に相当な通になっている、そんな時代を過ごした人達が今のミステリ界を支えているんだろう。ライトノベルみたいに毎月でる量が半端じゃないと共通体験なんて出来ないし、未来に繋げていくこともほとんど無理。消費されていく一方だけれどそんな中から記憶だけでも良いから残したいいタイトルを、見つけ記録していくことが出来れば僕としては本望か。そのためには読まないと。頑張って1日1冊は。そりゃ読み過ぎだよ。いやそうでないと追いつかないのだライトノベルは。お金が……。

 日中記者交流というのが20年ほど前にあって、10人くらいで日本から中国へと招かれては北京瀋陽大連上海広州深セン香港と回ったことがあったけれども、その時の思い出といえばやっぱり途中に立ち寄った瀋陽で、到着した夜にドーハの悲劇があってNHKの中継を見ていて呆然としたことがやっぱり最大。あと瀋陽で、老辺餃子の本家に連れて行かれて余る喰らいに餃子を食べさせてもらったことか。新宿の店ででてくる量なんておやつ代わりにもならないくらいの量。あれは凄かった。

 そんな記者交流では早朝6時起きとかして大抵の場所で工場団地とかドックとかに連れて行かれたけど、でも向こうの招待なんだから、向こうが連れて行きたいところに連れていかれるのは当然なこと。折しも。トウ小平による南巡講話から2年弱の時期で、中国全土で経済に関する改革開放がキャッチフレーズになってあちらこちらで投資促進への活動が活発になってていた。どこに行っても工場団地に連れて行かれたのはそういう背景があったからで、今と違って日本に対する感情もそれほど悪くなく、中央の党も地方の党も一枚岩で働きかけをしていたっけか。

 そんな中でも凄かったのはやっぱり上海。連れて行かれた当時ただの原っぱだった浦東新区が、今は超高層ビルが建ち並ぶ中国でも最大の近代都市になってしまっている。1900年代初頭の薫りが今も残る外灘(バンド)から対岸に見えるテレビ塔の東方明珠なんて、1993年当時は土台しかなかったけれども今では立派にスカイツリー並の観光地。5年10年とかってスパンじゃなく50年100年かけて作りあげていくって壮大な話を聞かされて、何と気の長い話だろうと思ったけれども実際に20年かけてあそこまで作り、なお発展中という現実があの国の、いろいろと問題はあってもそれを押さえつけうる凄みとなっている。

 とまあ、真っ当な記者ならそう感じて当然なところを、とある1面コラムを執筆の御方はは蘇州に連れて行かれたけれども寒山寺にはなかなか行けず、工場団地に連れて行かれて辟易したって話を書いている。何というかご招待を受けた先でご主人への挨拶をすっ飛ばして飯を出せ風呂を用意しろって態度はちょっと大人げない。そして当時の経済改革開放政策から想定するに、その壮大ぶりから実現を疑う見方は出来ても、そして国営企業の体質を変えられるのか、党が強い体質から汚職は起きないかという心配は出来ても突然のルール変更を強いて日本が叩き出されるという予想は立たなかった。

 つまるところは現在の情勢について物申したいがために、当時の行程から話に都合の良い部分を引っ張り出しただけのことで、それが結果としてホストへの敬意を蔑ろにする傲慢さって奴を醸し出してしまっている。ちょっと恥ずかしい。普通の頭で冷静になって考えればそう思って当然なんだろうけれど、相手のワルクチを書かなきゃいけないという心理がそうした自らに不徳をもすっ飛ばしてしまうところに何かどうしようもない虚ろさを感じて気持ちが萎える。明治が粉ミルクで撤退したことも向こうのせいにしているけれど、これは震災以降の風評から日本産を輸出出来なくなって海外生産を回してコストが上がり、勝負が出来なくなったから。責任を負うならそれは日本の企業であり説明をすべき日本の政府なんだけど、もちろんそういいった言及はなし。言いたいことのために都合の良い事象を並べる牽強付会。困ったねえ。


【10月26日】 蛇足、と言ってしまえばそうなのかもしれない。あの、残酷さを含みつつも美しい終焉を迎えた物語のその先。描けば絶対にそうならざるを得ないと分かり、それは決して誰もが幸せの中に優しく終えられる物語にはならないと分かっていてなお、作ってしまった以上は誰も彼もが望んだとは言い切れない、哀しみと苦しみと痛みに溢れた物語がやって来てしまう。観ればきっと思うだろう。どうしてそこまで自分を追い込んでしまったのかと。どうしてそこまで彼女に執着してしまったのかと。彼女の幸福を願い、彼女の行動を讃えてその理(ことわり)に身を浸して自分を終えることは出来なかったのか。そこが多分、この「新編」を認めるか否かの分かれ目になるのだろう。

 言えることは、そう出来なかったからこその前段、遙かな時間をかけ、彼女が幾度となく立ち向かっては阻まれ倒されていくのを間近に見て、戻って何度も何度もやり直した挙げ句に、ひとつの均衡した状態へとたどり着けた。そこが美しい終焉。彼女が望んだあらゆる者たちに等しく幸せが振る舞われる世界。だから傍目には誰もが満足を得ているように見えた。けれどもそこへと至らしめた執念が、その程度で消えるはずもなかった。だから進んでしまったのが「新編」。その意味では訪れて、描かれて必然の物語だったとも、言えるのかもしれない。

 動き出してしまった以上は仕方がない。禁断の領域へと踏み込んで、踏み越えてしまった以上はもう止まらない。行き着く果てにあるのはもはや、すべての幸福ではなくどちらかの幸福。先に優しさで宇宙を包んだ彼女は、再びその状態を作り出そうとして足掻き、そんな均衡を是とし切れないで身を昇華させ、あるいは堕落させて自らの幸福だけを願った彼女は、抗い叩き伏せ敗れてもなお抗おうとするだろう。決着を見ることはあるのか。あるとしたらそこに広がる地平に立つ人影はほかにあるのか。想像するしかないけれどもそれを、今一度ビジュアルにして見せてくれる可能性が得られるのだとしたら、苦しみしか見えないそんな未来を覆すような歓喜を、与えて欲しいのだけれど、それこそ蛇足にしかならないか。動き始めた必然は行くところにしか行かないものなのだから。

 という全体への印象はさておいて、個々のビジュアル面で語るなら、ティロフィナーレのお姉さんは相変わらずにぽよんぽよんで、それがスクリーンにいっぱいに映し出される冒頭とか、走って行って顔を埋めたくなったけれども、そこにあるのは固いスクリーンだろうから遠慮。テレビシリーズだともう悲運の人でほんとバカとしか言えなかったあの青い娘が、割と大活躍してくれているのが嬉しいかな。そのあたり、円環の理を司る彼女はしっかりとすべてに幸福をもたらそうと配慮している。赤いリンゴ娘もそんな青い彼女と良い関係。微笑ましい。あって欲しかった姿。そう誰もが捉えるのも当然だろうけど、だからこそ黒い彼女は、埒外にいる自分が居たたまれなかったのかもしれないなあ、執着を手放して得た均衡は自分にとっての幸福ではないと気づかされてしまったのかもしれない。

 構造においては良く練られているなあという印象。とある映画をやっぱり想像させられる人多数で、そこにひとりの執着が絡んでいるといった設定にも似通った部分があるけれど、とある映画ではそこからの脱出こそが最大のテーマになっていたのが、この「新編」では気づきがあって、誰がそれを望んだかがあって、その望みが執着となって暴走した果てに訪れる、どす黒い感情がそこかしこに満ちた世界というところが大きな違いか。だから見終わっての解放感はなく、どこか旧作の「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版エンドを想起させるところもあったりする。そう考えるとやっぱりあるのかもしれないなあ、この先が。蛇足感を覚えさせずそれでいて執着と願望の対消滅にも至らない、驚きって奴を用意してくれていると嬉しいんだけれど。それこそ「責任とってね」って奴で、再起動させてしまった立場として。

 混雑する新宿ピカデリーを出て雨の中を信濃町から「東京デザイナーズウィーク2013」って展示会を見物に行く。絵画館と道路を挟んだ広場にテントを張ってのイベントはこの時期設営とか大変だったんだろうなあ、庭には作りかけの学生のアート作品とか転がっていて可愛そう。でも仕方がない、屋外を選んでしまった以上はそういう仕打ちも含めてアートに変えるってことで。テント内はだいたい快適。企業の新しいデザイン商品なんがならぶメインのテントにはコートで有名なサンヨーが「100年コート」ってシンプルな素材にシンプルなデザインでもって長く着られるものをといったコンセプトで作ったコートを出していて、これがなかなかの格好良さだったけれどもトレンチならバーバリーとかアクアスキュータムとか定番がある中で敢えて打ちだす意味ってのを、理解させるにはちょっと時間がかかるかな。

 コートのサンヨー、ってひとつのブランドとしての認知があって、そこが作る100年通じるコートなら、っていう理解があって通じる存在感なんだけど、過去に「バーバリー」とかってファッションブランドの看板で売ってしまい、サンヨーってコーポレートブランドを奧にやってしまったところから、再起動させるのってきっと大変だろうから。キューピーならマヨネーズだし味の素なら味の素。企業名がブランドに近いところにあってそこの売りが1発で伝わるようになるのって、長い時間がかかるしそれを維持するのも結構大変。サンヨーがだからかつて持ってた「コートのサンヨー」のブランドイメージを、世の中に再度認知させたところに「100年コート」の価値もグッと増してくると思いたい。あるいはこの「100年コート」がブランドのイメージ再構築に役立つかどうか。見ていこう。着たいけどそれは遠慮、この値段ならバーバリーを買う……ってなってしまうところがやっぱりあるんだ世間には。

 アートのテントでは王建揚って人の写真がとっても気に入った。キッチュさがあっても散らかってはいない部屋とかで裸の少女が乱舞する、といったビジュアルは雑然とした汚部屋をそのまま持ってくるフォトジャーナリスティックなアプローチとはまた違った、それぞれが持つ現代性であったりフォルムであったりが組み合わさって今という時代を時にリアリスティックに、そしてときにファンタスティックに表現しているような感じというか。極めすぎればシュールに陥ってしまうし、留まればただの雑然になってしまうところを、良いバランスで形にしている。これは受けそう。ただ作品によってはジャーナル寄りになったりシュールに傾いたりもしていて、そうしたぶれも含めて全体像を認識していく必要はありそう。画集とか取り寄せてみるかなあ。


【10月25日】 ゲームが発表されたあたりから、そのナイスバディでなおかつ秘書風な眼鏡もかけたビジュアルに惚れ込んだ割に、ゲームは買わずプレーもしてなかった「ベヨネッタ」だけれど、こうして劇場アニメーション映画「ベヨネッタ ブラッディフェイト」として公開されるに至ったことは、実に喜ばしいというか、ゲームだとやっぱりCGのキャラクターになってしまって、見た目も対戦ゲームのキャラって感じに落ち着いてしまって、それもそれで麗しくはあるんだけれどもやっぱりフラットな画面を縦横無尽に動き回って、見切れたり現れたりする姿を見せてくれるアニメーションの映像の方が、案外にエロティックだったりするのだった。

 そして映画「ベヨネッタ ブラッディフェイト」は、期待に違わずナイスバディ過ぎるおねえさまが1人にならず2人も出てきて、ピチピチなボディスーツ姿で手を振り上げ脚も開いての大バトル。時には全身におそらくはスーツとしてまとわりつかせていた気なり何なりを化け物へと代えて襲ってくる天使を喰らい蹂躙するから、当人たちはもうすっぽんぽんでスクリーンに大きく踏みとどまってくれていたりする。見せられない場所は見えないように工夫はされているけど、そうした配慮も含めてエロティック。触れればどんな感じだろうかと想像をかきたててくれる。触れる前にかみ砕かれ撃ち抜かれるんだろうけれど、その両手両脚の拳銃によって。

 ストーリーは多分ゲームをなぞっているんだろうなあ、天使と悪魔みたいな関係があってその間に生まれた娘が今は天使を駆ったりしているというストーリー。襲ってくる単発のジャンヌが何者で、そしてバーにいるガンスミスとかが何を目的にしていて、それから「うるぅぁあああ」と喋るおじさんが何者か、ってあたりの説明があんまりないないまま展開が進んでいくから、脳内であれやこれや組み合わせていく作業がちょっと要ったけれども、それも含めて画面に見入る理由を与えてくれた感じ。木崎文智監督は前の「アフロサムライ」でもそんな、まずバーンと状況があって戦いがあって、そこから背後関係を徐々に明かしていってラストにバトル、って感じに組み立てていたからそういう手法が好きなのかも。

 映像に関しては陰影の濃さは「アフロサムライ」の方が上って感じで、デフォルメも超聞いていて、それに比べると「ベヨネッタ ブラッディフェイト」はまだ明るめで日本人が観てもすんなり受け入れられそうなキャラ描画って感じ。それでも濃さは日本的なものの3倍増しだし佇まいもいちいち格好いい。この作画で「ジョジョの奇妙な冒険」とかやったらさらにファンも増えたかもなあ、とか思う人も出てくるかも。バトルは本当に良く動くんで、ともすれば何が起こっているかを理解するのが大変かも。決して抜いたり飛ばしたりはしてないから、追って見ていけばちゃんと繋がっているんだろうけど、そこを見極めるにはあと数回、劇場で見てみる必要があるかなあ。なので通おう劇場に。コスプレなベヨネッタさんとか見に来てないかな。

 なんか安倍政権が作家の百田尚樹さんをNHKの経営委員に推薦するとかいう話が流れてきてちょっと仰天。いやまあ、その作品は好きな方で「ボックス!」とか読んで感動したし、「週刊SPA!」で書評も書いたし、その後の活躍も見ていてとっても嬉しかったんだけれども一方で、作品以外のところで発する言葉とその思想には当方とは随分に隔たりがあったというか、そのこと自体は悪いことではないんだけれどもそうした言動のロジックに臆したところがなくって、アジテーションとかプロパガンダといった方面では作家的なアピール力がとても利いてはいるんだけれど、中立性公正性が取りあえず求められている報道を持ったメディアに対してだと、そのロジックにはちょっと乱暴なところもあったように感じていた。

 だから、自身が自身の作品でもってどれだけのことを訴えようとかまわないし、批評の分野で何を言っても世の中的には自由なんだけれどもこと思想が見識を越えて突っ走って貰っては拙そうな場所に、果たして置いて良いものかって懐疑が浮かんで拭えない。というか、そうした場に入ってしまうと、次作をそこでドラマ化だとか出来なくなってしまうんじゃないかって気も。そこはファイアウォールを立てるとか言ったところで、李下に冠を正さずの故事にもあるように、やっぱり双方が遠慮してしまうだろう。だから百田尚樹さんにはフリーハンドでどこのメディアともつきあえて、何でも書けて何でも言える立場ってものを貫いて欲しいんだけれど、そういう気分になってくれているんだろうか、それとも自作より自説が受け入れられたことを喜び颯爽と経営委員の座に納まるんだろうか。気になるなあ、その動向も、NHK側の対応も。安倍政権はいずれにしても薄気味悪さ100倍増し。手前の陳腐な思想をそういう場所に押しつけ格好いいかい? ってことで。

 何か売り切れ続出な上にもとより特別な雑誌ってことで、街中でも取り扱いが多い方じゃない「アイデア」ってグラフィック専門誌の2013年11月号を購入、目当てはそれが売り切れの理由になっている「『あまちゃん』のデザイン」ではなく、「きゃりーぱみゅぱみゅのグラフィックス」で開くとほとんどデビューあたりからこれまでのCDとかCMとかに使われたグラフィクデザインが、ぞろりとそれなりな紙質にそれなりなインクの質でもって掲載されていてもう目に突き刺さる。本当にいろいろやって来たんだなあ。そうした挑戦に当人がまるで負けていないところがまた素晴らしい、などと贔屓目に見てはいるけれど、でも良いものは良いんだから仕方がない。

 そんなきゃりーぱみゅぱみゅに加えるように、「でんぱ組.inc」とか「私立恵比寿中学」とかいった、このところ台頭してきたアイドルなんかもぐわっと紹介していたりして、そこに載せられたビジュアルコンセプトなんかが紹介してあって今どきのアイドルってのは相当に練られた戦略の上にビジュアルが作り込まれているんだなあ、ってことが見えてくる。ロシア大好きを表明している上坂すみれさんとか、ロトチェンコというかロシアアバンギャルドをそのデザインのあちらこちらに取り入れていたりして文字通りにアバンギャルド。アイドルファンにそれが分かるかは謎でも別に良いのだ、そこから新しいビジュアルとして伝わっていけば。

 驚いたのがライムベリーってラップのグループで、プロデューサーの人の名前が載っていて桑島由一って書いてあった、ってそりゃ「神様家族」の桑島さんじゃん、そういやあアイドルのプロデュースをずっとやってるって言ってたっけ、相当に人気になっていたのか。追いかけておけば良かった。なぜってどうやらライムベリー、8月の公演を最後に活動休止してしまったみたいだし。そんな桑島さんの話が載ったページには懐かしの「ノーディスクレコーズ」の表紙が。格好いい文章と格好いいデザインをそこでも見せていた桑島さんだけに、ビジュアルでもさぞや凝ったものを見せてくれていたんだろうなあ。そしてもちろんこれからも。ちょっと本気でその活動、チェックしていこうっと。


【10月24日】 やっぱりというか当然というか、やらせ問題が告発されたフジテレビの番組「ほこ×たて」について、テレビ局が信頼の回復が行われるまで来週以降の番組の放送を休止するって発表した。いやだって信頼の回復を計りたいんだったら真っ当に収録された真剣勝負の「ほこ×たて」を見せればいいだけのことで、それはすなわちこれまでのポリシーとして来たやらせなしのガチンコ勝負をそのまま放送すること。でも出来ないってことはつまり来週放送分の内容にも、どこか放送したら嘘だ演出がと言われそうな部分が多く含まれているってことで、それは番組自体がもはやそういう色にどっぷりと染まっていたって証明でもある。

 ってことはもはや回復は不能。これからどれだけ真剣勝負をうたいガチンコ対決を標榜したところで、失われた信頼は取り戻せない。そういう風に観られてしまう以上は出場する方も出ることを拒むだろう。後が続かない以上はこのまま再開とはならずに年内打ち切りとなって、そして来春から新しい番組がスタートするんだろうなあ、やっぱり。あれだけ真剣勝負を歌い視聴率をとって来た番組が、どこで踏み間違えたんだろうか。局の指示なのか現場の制作プロダクションの考え方なのか。そういう部分まで踏み込んで事態を明らかにしないとまた起こるだろうなあ、同じ事態。とはいえ所詮はバラエティー、これがテレビ局全体の致命傷になるってことはないんだろう。だってやらせ厳禁な新聞だって虚偽を載せても潰れることなく偉そうな論陣張ってたりするんだから。日本のメディアってものがその質も、そして一般からの信頼も、共に凋落しているんだろうなあ。どっちの明日も厳しいなあ。

 朝からネットも賑やかにきゃりーぱみゅぱみゅの新曲「もったいないとらんど」のPVがアップされてこれがなかなかの面白さ。ダンスがあるのは当然として出てくるガジェットにピンクいろしたうんちがあったり顔を隠したビキニの美女(顔見えないけど)が出てきたりと、これまでとはちょっと違ったキッチュさってのが前面に満ちている。っていうか「PON PON PON」とか「CANDY CANDY」では全開だったそれらがちょい、最近のタイアップもたっぷりな曲ではスポンサーに遠慮してかおしゃれな感じに寄っていた。今回はそれが一気に巻き戻ってキッチュとグロテスクの中に可愛さって奴を乗せて見せた感じ。これは海外でも受けるかな。さすがに下品過ぎるかな。そこがまた興味をそそる。

 面白かったのは途中にアニメーションのパートが挟まれることでまるで萌えっ子になったきゃりー姫が現れ殴って吹き飛ばすといったエフェクト全開の作画になっている。いったい誰が描いただどこのスタジオが仕事したんだって誰もが思ったけれど、PVを撮影した田向要さんが明らかにしたところではらっパルとう人が手がけたみたい。自主っぽかったりジングルっぽかったりする場所で短いけれどもインパクトのあるエフェクトたっぷりのアニメーションを作って来た人。「ゆゆ式」とか商業作品の原画なんかも手がけているらしいけど決して超大物ってところではない人を持ってきて、強烈な映像をそこにはめ込んでしまうところにあのチームの凄さって奴がある。これでらっパルさんも世界的に注目されるのかな、そしてキックスターターでお金を集めて世界デビューとかってしちゃうのかな。ちょっと興味。そんなクールジャパンの窓口にきゃりーぱみゅぱみゅがなっている。それもやっぱり面白い.

 キッチュと言われようとおばかと蔑まされようともやりたいことを真剣にやていればいつか花開く、ってのが日本が世界に誇るポップカルチャーのお家芸。その真髄って奴が有明の日本未来科学館で土師股「デジタルコンテンツEXPO2013」ってところでも観られて流石ニッポンと感動した。題して「アホ毛向き同一性保持エンジン」、出は泣くって「こだわり物理エンジン」は、東京大学五十嵐研究室だなんて知の国内的な最高峰に所属する学生さんたちが作ったもので、3次元CGで描画されるキャラクターがただ物理法則に従っていたんでは観てどこか楽しくない動きや表情になってしまうところを、観て不自然ではないけれども観てれうしい表情なんかを付ける機能を持っている。

 そのひとつがアホ毛。漫画でもアニメーションでもキャラクターの頭からぴこんと飛び出しては垂れ下がっている毛のことだけれどもこれを3DCGで作ったりすると、その形は針金でもいれたか石膏で固めたかのように固定されてしまって、例えば向かって頭の右にアホ毛が垂れているキャラクターが、右を向くとアホ毛は向かって奧へと垂れ下がってよく見えなくなってしまう。それではキャラクターの特徴が崩れてしまう。そこでこのアホ毛向き同一性保持エンジン、じゃなかった「こだわり物理エンジン」の登場。アホ毛の向きを決めておくと、顔が右を向いても左を向いてもアホ毛は同じカーブを描いて頭から生えてる。そしてアイデンティティーが保たれる。

 これが鉄腕アトムの髪型だったり島村ジョーの髪型だったりした場合でも、利用できそうな感じ。2Dとかで描かれたキャラの印象が、3DCGでも保たれるというのはファンにとっても作り手にとっても、ものすごく重要なことなんだけれども普通のアニメとか漫画を観ている文にはそれが普通になっているから気づかない。3DCGになって分かって今は手で動きを付けたりして制御しているんだけれど、それが自動的に行えるようになるのはとても画期的で革命的、なんだけれども普通の人には伝わりにくいだろうなあ、この価値が。取材に来ていたNHKはちゃんと取り上げただろうか。同様にスカートが決してまくれあがらず中が見えないようにすることも可能とか。名付けて鉄壁スカート保持エンジン、出はなく同じ「こだわり物理エンジン」だけれどこれなんか、リアルタイムで描画する格闘ゲームなんかに実装できそう。いや見えるからこそ嬉しいんだという意見もあるけど、見せたくないキャラもいるからなあ、そこはだから話し合いで。

 もうひとつ、面白かったのは東芝が出していた音声合成技術で、何でも10分間くらい音声を収録して入力してあげると、その声質から抑揚から際限した声を音声合成で作り出せるんだとか。アメリカのオバマ大統領に自在に喋らせたりフランス語なんかを喋らせることも可能で、それがオバマ大統領の声質だけでなくニュアンスも含めて再現できる、ということらいし。完璧かどうかはまだ分からないけれど、手軽に出来るようになると偽のメッセージなんかも作れてしまうからちょっと注意が必要かも。声紋鑑定とかすれば分かるんだろうけれど、普通の人の耳に鑑定装置はついてないから。

 そんな音声合成はイントネーションを手でつけていくことも可能で、「ありがとうございます」をフラットに言ったり「ま」のところだけ跳ね上げて観たりと自由自在。「まーす」と伸ばすことも可能とか。「ありぁっす」ってコンビニ店員風に言わせることも出来るのかな、それは結構面倒そうだけれど、全国からボイスサンプルを集めて入力しておけば、そうしたイントネーションで合成された声でもって喋らせることも出来てしまう。いずれそのうち自主制作のアニメーションでネットから声優さんを募り声を送ってもらうとかしなくても、自分で打ったテキストを合成音声で自在に喋らせ1本の作品に仕立て上げることも自在になるのかもしれない。アホ毛も音声も自由自在に作りあげられる、僕たちはそんなすごい時代に生きている。


【10月23日】 テレビにやらせがあっていけない訳じゃない。バラエティとかそこに作為を入れてそうと仄めかしつつそうと感じさせないような流れでもって見る人を、夢の世界へと瞬間だけれど誘ってあげるという、そんな番組があっても良いし実際にいくらだってある。報道でもドキュメンタリーでもない番組ならそれは合って当然の演出だ。でも、そうした虚飾がないところに昂奮を生み出してきた番組が、実は作為にまみれてましたと分かったらそれはやっぱり宜しくない。ガチだからこそのスリル。そして感動。そこに頼って視聴率を伸ばしてきた番組が実はやっぱり嘘でしたでは土台が根底から崩れてしまう。そういうものだ。

 だからフジテレビ系の「ほこ×たて」で作為があったことが関係者からつまびらかにされたことは、番組にとって致命的ともいえる事態なんじゃなかろーか。そうとは感じていない、あれは最初っから演出ありきでしたと言い訳したらなんだずっと嘘をついていたのかといわれるし、あそこだけでしたと説明しても他もそうとは限らないという疑いを晴らすには届かない。1つやっていれば2つ3つやっているというのが世間の見方。そこを突破して疑念を晴らせるか、ってあたりで番組の命運も決まってくるんだろう。やっぱり続けるのは難しいかもしれないかなあ。

 あるいは最初は本当にガチだったけれど、ゴールデンに進出して期待がかかる一方でネタも枯れて来たため、演出もありになっていたのか。だとしたら視聴者にもどこかに責任があるのかも。誰もが矜持を持って事に臨み、逸脱があったら厳しく接する覚悟が薄れた果てになあなあの共犯関係が生まれた結果の演出騒動。それでいったい幾つの番組がエスカレーションの果てにマンネリ化して潰れていったのか。と考えるとコンセプトはまるで一緒なのにずっと続いている「開運! なんでも鑑定団」はすごいよなあ、あそこに作為は入れようがないものなあ、発見の状況とは別にして、偽物を本物と言ったら成立しないものなあ。テレビ番組の難しさでもあり面白さ。そんなことを考えさせられた、1日。

 地球に隕石が落ちてくる訳でもないし、世界が大恐慌に訪れる訳でもない。家が火事で燃えるとかってこともないし身内に不幸が相次ぐってことでもない。ドラマチックというにはほどとおい、誰にだって普通に訪れ過ぎていく日常なんだけれどもそんな日常の中にちょっとづつある心配事が、実は生きている人にとってものすごく大変なのだ。気にしないでいようと思っても、それは毎日のように降りかかっては積もっていって、やがて自分を埋めてしまう。あるいは切り刻んでバラバラにしてしまう。そうならないためにどうすれば良い? 繋がりを持つこと。それで前向きになること。尾崎英子さんって新人の「小さいおじさん」(文藝春秋)という小説は、そんなことをふんわりとしたストーリーの中から伝えてくれる。

 登場するのは主に3人の女性で年齢は28歳とかそんなあたり。中学校がいっしょだったのかな、それでも決して仲良し3人組だった訳ではなくって何となく、見知っていたという程度で喋ったことすらあまりなかったかもしれない。それから14年とかそんなもん。1人は住宅会社に入って設計の仕事をしていて、注文があれば図面を引くけど風水にやたらとこだわるお客さんの物腰は柔らかいけれども絶対に譲るものかといった頑なさに辟易としながら、それでも仕事だからと図面を引く毎日を送っている。家を出てひとり暮らし。そんな実家には兄と母親がいるけれど、どうも最近母親の様子がおかしいと、やはり同級生で今は家業のスナックを手伝っている友達から連絡があった。飲んだり歌ったり。そんな姿は今まで見たことがなかったからちょっと驚いた。

 もう1人は結婚していて子供もいて主婦業のかたわら近所のカフェでパートをしている女性。夫よりも子供が可愛いという感じだけれどもそれはまあ、よくあること。ただ済んでいるマンションの近所にタワーマンションが幾つもできて、そこの住人たちからどこか見下されているような気持ちがあって集会とかに出て友達になって語り合うとかいった息抜きがあまり出来ずにいた。ママ友が欲しい。そんな気分を抱えて毎日を過ごしていたある日、中学校の同窓会に出てクラスでは人気者だった朋美という女性が、近所の神社で「小さいおじさん」を見たという話を伝え聞いて、それをきっかけに彼女と繋がりができないかと、神社を訪れ様子を見てそしてメールを送る.

 最後がその朋美。アルバイトを経て出版社の契約社員となって主に総務系の仕事をしていたけれど、すでに彼女がいる編集者とつき合っていたのが上司に露見し会社を辞めなくてはいけない羽目となって今は実家で何もしないで暮らしている。別れることにも辞めることにもとりたてて不満はなかったように見えるけれどもただひとつ、心に引っかかっていることがあった。それは別れた彼氏が結婚して子供も作りながら、飲食店の爆発事故に巻きこまれる形で命を失ってしまっていたこと。当然お葬式には顔を出せないまま、残された携帯電話の番号を時々ながめ、けれども押せない気持ちをずっと引きずって生きていた。

 そんな3人の女性たち。あるいは誰もが自分とどこか重なる部分を感じるところもありそうな、普通の女性たちが普通に抱えているもやもやが、描かれていて多くの人の共感を誘いそう。そしてそんな3人の女性たちが辛いなあ、苦しいなあ、嫌だなあと感じている諸々を、すうーっと晴らしてくれるところに多くの賛同を得そう。もちろん女性に限らず男性も、老いも若きも読んでいろいろ感じるとこのある小説。建築家の女性の兄に母親がずっと押しこめていた感情とか、今の時代なら別に気にするほどのことではないんだけれども、当事者となったらやっぱり大変。それをため込んで潰れそうになっている身が、救われ解放される。小さいおじさんは」をきっかけにして。

 本当にいるかどうかなんて関係ない。だってそもそも都市伝説であり、なおかつ鬱屈した気分から出た根拠のない話でしかない。けれどもそうした伝説が伝説として成り立って、広がっていくにはやっぱり理由がある。求められているから。望まれているから。そうした期待に答えて「小さいおじさん」はちゃんと皆を導いてくれた。救ってくれた。だからもう嘘じゃない。不在でもない。もしも心に不安があったなら、そして苦しんでいるのなら神社に行って探してみよう、「小さいおじさん」を。もしも見つからなくっても大丈夫。本屋さんにけばそこにある、「小さいおじさん」という物語が。ひらけばそこには見えるだろう。小さいおじさんが駆け回っている姿が。本当に? 本当だとも。

 せっかくだからとTIFFCOMをのぞいてアニメーションの英語のパンフレットなんかをかきあつめてくる。東京国際映画祭にはマーケットがなくちゃダメだと多分、当時のチェアマンだった角川歴彦さんあたりの肝いりで設置されたものだけれども10回くらいになるのかな、そうこうしているうちに結構な規模になって来場する人も増えてきたようで、ここでアニメも含めて扱われるならそれより以前にスタートしていた東京国際アニメフェアにおいけるマーケットも、もう役目を終えたんじゃないかって気もちょっとしてきた。今度のアニメジャパンでマーケットの扱いがどうなるかも見えて来ないし。

 だからむしろ積極的にTIFFCOMにアニメのマーケットも統合して、より大きくして打ち出していくくらいのことをすれば良いし、そうしたいって考えもあるのかもしれないけれど、TIFFCOMといっしょにやってる東京国際アニメ祭みたいなマーケットは、規模もブースも小さいんだよなあ、ちょっとスタンスがかみ合ってない。番組販売のイニシアティブをどこが持っているか、って違いでもあるんだけれどスタジオだって権利を持って番組販売をしたり、新しい仕事を受けたりする機会としてのマーケットを強化するなら、海外からまとめて人が来て、1度にそこで色々話せる場ってのがあって良い。TIFFCOMがそなるかどうなのか。それには映画祭からはるか遠いお台場でホテルの下を使いやってて良いのかってちょっと思った。どうするのかなあ。来年に注目。


【10月22日】 将棋の王座戦があって羽生善治王座が見事に防衛に成功して同一タイトルの通算獲得記録を更新。21期は大山康晴十五世名人の王将位獲得20期を上回ったそうで、別にタイトル通算獲得数も81期というこれも大山十五世名人の80期を抜いて数字の上では将棋界の頂点に立った。素晴らしい。とはいえ将棋界で最高位とされる竜王位にも名人位にも今はない羽生三冠王なだけにちょっと寂しい気持ちも。王座戦ではフルセットにもつれこんだ上に前の対局では持将棋から指し直しという対局も経ているだけに、強い相手にギリギリの戦いを強いられているといった感じ。それがだから名人竜王といった対局相手ではギリギリの末に敗れる方へと傾いてしまっている。そこをふたたび乗り越えられるのか。そこがきっとこれからの羽生三冠王の生き様の上で、大きな比重を締めていくんじゃなかろーか。まずはA級順位戦でトップに立って来春の名人戦に挑んで欲しいもの。今のところ4連勝で負け無しだし、大丈夫かな。

 永遠なんてものが存在しない以上、いつかは終わるとは思っていたけれどこのタイミングというのはやっぱりちょっと意外だった「笑っていいとも!」の来年3月での終了話。飛び入りの鶴瓶師匠がタモリさん相手に尋ねて帰ってきた返事として公表された形をとったのは記者会見とかするのは照れくさいし、かといってどこかにスクープさせるのもみっともない、それなら番組の中でサラリと流してそうなんだって驚かせつつ思わせたいという、タモリさんならではのダンディズムめいたものが働いたのかもしれないなあ。SMAPの中居さんもいっしょにいたみたいだから大御所が揃い踏みしてのその光景が、次の番組を意味しているのかどうなのか、ってのも気に掛かるところ。鶴瓶師匠が司会で中居くんも並んでそして、面白い葉書を読んで笑った観客がマッチョな男達に担ぎ出されていくような番組になったりして。それどこのトツガバ。

 それにしても1982年から31年間、よくも続いたものだよなあ。還暦を迎えた人出すら人生の半分以上、「笑っていいとも!」がやっていたことになる訳で、そこに及ばない僕なんかだとあと14年を過ごさなければ「笑っていいとも!」がなかった時間と釣り合わない。それくらいに凄い番組をメインで仕切ったタモリさんというタレントは、やっぱり半端ない人なんだろうけれど、それをそうと感じさせないところもまた凄さ。解読本も出ているけれど、それだって全てが書き表された訳ではないし、それよりなにより未だ現役として活動していくだろうそのタレント人生が、どんな新しい凄さを書き加えていくのか。もう興味を持って見ていくより他にない。

 あと、いずれ有名になって出たい、なんてことは思わなかったけれども1度くらいは本番を見ておきたかったかも。東京に出てきて(千葉だけど)20数年経つからそのすべてで「笑っていいとも!」はやっていて、そしてスタジオアルタに行けばそこにタモリさんがいて番組を司会していたわけで、それなのにこれまでに1度もタモリさんを見たことがないというのはちょっと残念かも。会見とかに出てくる人じゃないからなあ。そんな僕の「笑っていいとも!」の思い出は、南海キャンディーズの山ちゃんこと山里亮太さんの話を聞きに取材に行ったその日に、翌日のテレフォンショッキングの出演を依頼する電話がかかって来たのを生で見ていたことか。目の前で聞く生「いいとも!」。告げる身になれない人にはそれでも貴重な時間だった。ありがとうタモリさん。そして残り半年を突っ走ってくださいな。

 とりあえず「ミステリマガジン」でライトノベルながらもミステリのレビューを隔月でやっているということもあって誘って頂けた「第3回アガサ・クリスティー賞」の贈賞式を見物に行く。雲の上のさらに上に鎮座する会長の人が来ていてそういえば一昨年は記念講演会で質問をしていたなあと思い返してそうかクリスティーが好きなのか、でも会社じゃそういう雅を理解する人も周辺にあんまりいなさそうで大変だなあと思ったりもしたけれど、こちらとてSF上がりでライトノベルがメインでミステリーは乱歩横溝とそれからドイルが精一杯、あって島田荘司さんからの新本格と言った手合いでは会話して覚えを目出度くして貰うことも不可能なんで、遠巻きに見つつ眺める程度に抑える。まあ向こうだって地べたのさらに下をはいずり回るこちらなど、知りもしないだろうから安心だけれど。エレベーターに乗り合わせることは時々あるけど。

 そんな第3回の受賞は初めてこれがデビュー作というまっさらな新人の三沢陽一さん。東北大学の院とか出たのか研究者をやっているのか、とにかく凄い人っぽいけど経歴的に瀬名秀明さんとかと重なっていたりするのかな、面識はあるのかな、気になった。その作品は有栖川有栖さんの講評によると候補作では最初はそんなに点数が高くなかったけれども絞られている中で新本格以前の本格に挑んでいるところがあってクリスティーっぽいと評価が上がって1等賞を得たとか。そういうことってあるなあ。五輪の開催地だって最初は2番手でも決選投票で上に来たりするし、ってちょっと違うか。飛び抜けたところはなく目立たないけど過不足もないから落ちないという中で突飛なのが折られ足りないのが弾かれると知らず浮かんでくるというケース。それがだから通俗かそれとも万人受けかは読んでみないと分からない。プロが読んで納得の1冊ってことだから多分大丈夫だろうから読んでみよう、時間があれば。ラノベ読むのが忙しくって。

 ようやくやっと石川博品さんの「ヴァンパイア・サマータイム」(ファミ通文庫)を読み終える。なるほど出自が違う男女がすれ違いながらも心を交わし関係を深めていくという純愛ストーリーを、人間とヴァンパイアという設定の上に重ねて不思議な世界観を醸し出していて読んでふわっとした驚きと喜びを得られる話になっていた。昼間に生きる人間がいて、夜に生きる吸血鬼がいる。それも6000万人ほど。人口がどれだけか分からないけど生きている人の半分が吸血鬼だとしてそうした2種類の生命が昼と夜とを二分して暮らしている状況が、どうして成り立ってそしてどうして理解し会えているのかという説明はない。その意味では設定そのものに迫るSFちうより特定の設定の上で繰り広げられるドラマを味わう寓話って言えるのかも。

 そして物語は自宅のコンビニで働いていた高校生の少年が、夜に成って学校に通おうとする少女を見初め知り合いになって起こる交流を描いていく。少年がクラスメートの机に入っていた、吸血を示唆するような置き手紙を見てそれが昼間の人類にあてての脅迫なのとかまずは思い、犯人探しをする中でコンビニに通ってきている少女に相談を持ちかけ彼女にヒントを与えそして彼女が動いて理由らしき物に迫るというミステリ的な展開を経て、2人は昼と夜に別れながらもコンビニでの接触を拠り所にして中を深めていく。少女の家のお泊まり会に行ったり一緒に遊びに出かけたり。

 そんな交流につきまとう昼と夜、人間とヴァンパイアの壁って奴を悲劇としてとらえ、うち破るなり逃避すると言ったドラマへと持っていくことはせず、受け入れ認め会いつつ最善を目指すところが熱さが滲む青春小説とはまた違う、妙なさわやかさと優しさを感じさせてくれるところか。吸血鬼がコウモリをペットにしているのが普通だ、って養護教員がサラリと言ってのける展開とか、声高に世界の差異を叫ばずそういうものだと誰もが認識している世界の落ち着きって奴を感じさせる。それだけにやっぱりどうしてこういう世界が成り立ったのかを、知りたい気分も残るかな。


【10月21日】 なんかやっぱり莫迦っぽいなあ柴咲コウさん、じゃなくって彼女が演じる安堂麻陽という女性キャラクター。第1話でも神経が不安定なのかかないそうもない相手に喚き叫んで立ち向かっていったと思えば、落胆して地下鉄に飛び降りようとしたりと直情的なところを見せていて、それなりな企業の広報責任者っていったキャリアな感じをまるで見せてくれない。第2話でもそれが歴史を変えることだから喋ってはいけなということを、大島優子さん演じる沫島教授の妹に喋ってはなんて傲慢な人間なんだと逆に誹られ非難される。

 ようするに自分1人が知っていてはどうにも収まらないことを、誰かに喋って共犯関係を得ようとしたもの。それが相手を危険に陥れるかもしれないと知りつつやってしまうところに、人間としての弱さと狡さが見えてしまってどうにも好きになれない。そんな意見も割とあるようで見ていてどこか不愉快さを感じさせる彼女の存在が、視聴率に影響しなければ良いんだけれどもすでに結構なポイントを落として15%くらいになってしまったらしいしなあ。ちょっと困った。でもそんな彼女をのぞくと全体に緊張感があって適度な生き抜きもあって面白く、次にどうなるんだろうって興味は抱かせてくれる。

 引き出しから出てくるって「ドラえもん」のまんまパクリみたいな設定も、それが未来から現世に来るという一種ステレオタイプなイメージとして伝わり定着してしまった状況において、一周回って古典的な表現を敢えて使っているんだと思わせられるし、そうではない安堂ロイドがエネルギーをチャージするシークエンスで、お尻からケーブルを伸ばしてコンセントに突っ込むような無様さは見せないで、ベッドにおそらくは電磁波かなにかを誘導してそこからエネルギーをチャージするような仕組みを取り入れることによってスタイリッシュさを醸し出し、次の展開にも結びつけている。そのベッドで人が寝られるのか、って謎は残るけれどもまあ良いか。そんあポイントもあるだけにやっぱり惜しい安藤麻陽のキャラクター。いずれ修正されえクレバーな上に純粋なところも見せて視聴者を引き込んでいってくれると良いんだけれど。

 哀しみを乗り越えて進む程度の強さでは、神高槍矢さんという新人が書いた「代償のギルタオン」(集英社スーパーダッシュ文庫)という小説はきっと受け入れられない。哀しみを決して忘れず世界を向こうに回しても絶対に引かない壮絶な強さがなければ、この「代償のギルタオン」を読んでも挫けてしまう。代償で動く超兵器を巡る物語。読み終えた人のきっと全員が慟哭に咽び、憤怒に呻いては作者出てこいどうしてそうしたそうしなきゃいけなかったんだと叫んで血涙を振り絞るだろう。それくらいに凄絶にして残酷。だからこそ胸打つ問いかけがある。正義とは? それを成すこととは。果たしてどういう受け止め方をされるのか、今から少し楽しみでもあり怖くもある。作者に罪はないんだけれども、やっぱりちょっとあんまりだもなあ。だから可能なら救済を。導きを。続いてくれると嬉しいな。

 止める手だては法的にはまるでないんだけれど、やらないで欲しいという気持ちも随分と分かるだけに頭が迷う。SKE48の松村香織さんという人が、雨降りしきる名古屋ドーム駐車場で1000枚のデビューソロシングル「マツムラブ!」を手売りで販売したところ、それが早速ヤフーとかのオークションに出されていて、これはいったいどいういうことだと松村さんがネットなんかで訴えたという。入札しないでくれとか流してやって欲しいとか、言ってしまえばそれはオークションという場に対する業務妨害になりかねないんだけれど、一方で名前まで入れて渡したCDをその名前も入ったまんまで売る輩がいたりするということに、憤り嘆き悲しんでいろいろと訴えたくなるのも当然だろー。

 ファンとしてはだから、そういう事案に対して目しつつ遠ざけ見ないふりをしていくのが態度だし、当事者としては涙し嘆くのがひとつのスタンス。その複合から当然とも言える結果に至れば良いんだけれど、魚心あれば水心あるのがああいった世界だからなあ。実際にそれなりな値段で入札があって落札もあるくらいだし。流石に99億円とか21億円で落札したとは思えないけれど。そういう高額入札で手を上げないとうのもひとつのルール違反なだけに、あんまりやって欲しくない。でもそれだと守れないモラル。そこに頼れないなら別に何か方法を考えて、それが敷居を高くしてしまう悪循環が起こらないとも限らないだけに、やっぱりモラルだけは堅持して欲しいんだけれど、果たして巧くいくのかどうか。人間の資質が問われている。そう思おう誰もが。

 1年ほど前に買ったiPad miniの前面ガラスが土曜日に大宮でマルセル・デュシャンの「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」になったので、交換しようと最初はビックカメラに持ち込んだら在庫が来るまで間があると言われ、それならと予約だけしておいたアップルストアへと日曜日に持ち込んだらやっぱり交換となって1万8800円でとりあえずの新品に。これが高いかどうかは判断に迷うところだけれど、町中のショップに持ち込みでガラスだけ修理したって部品代だけで1万円はかかるし、工賃を入れたら2万円近くなるって話もあったんで、データも確実に目の前で消去できるアップルストアの方が気持ち的にも安心できるんじゃなかろーか。持ち帰ってセッティングかにやや時間はかかったけれど、万事快調に動いているのでまずは安心。しかしやっぱり石畳に垂直に落とすものじゃあないな。あるいはシリコンで四方を書こうケースならどうだったんだろう。実験……はしません怖いから。

 どこかの戯けが参拝すれば国は栄え民は喜びプライドは保てると訴えつつ、例大祭中の参拝だってあるかもとわめき立てては、それがもたらす弊害なんて旨を張ってはじき返せば良いんだぜ的な頭の悪いことを言っていたのと比べると、とても大人っぽい保守ぶりが光った2013年10月21日付けの読売新聞の社説。対外的な情勢から見送ったのは良い判断とした上で「戦没者の慰霊をどう考えるかは、日本国内にも様々な意見がある。戦争指導者への批判も根強い。だれもが、わだかまりなく戦没者を追悼できる国立施設の建立について議論を深めるべきだ」と訴えている。まさに同感。本当に心底から慰霊したいのならそれが出来て諸外国からいろいろ言われない施設を作れば良いんだけれど、言われたくない勢力から言われること自体が気に入らないと羽を剥く連中にはそうした機微が分からないのか分かるだけの脳が足りてないのか。いずれにしても考えれば分かること。総理だって戯けに煽られ共倒れするより理性に寄り添い本流を目指すだろう。観測気球として打ち上げられ煽り煽った戯けの末路や如何に。想像したくないなあ。


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