縮刷版2012年8月上旬号


【8月10日】 相手がクラスでも最強に近い選手で、まだ疲れていない1回戦で当たってはやはり流石の浜口京子選手でも、易々とは勝てなかったとは言えそうだけれどそれでも終盤に片足を持って良いルールが与えられてそこから、ただ押し出せばポイントが入っただろうところを引っ張り込まれ、返される感じで向こうに点が入ってしまったのは、せっぱ詰まった場面での切れって奴にやっぱりどこか欠けているところがあったから、なのかもしれないなあ。そうでなくても後ろ姿の肉付きが、削ぎ落として来た他の選手たちとは違って逆に膨らませているかのよう。切れ味って奴もあんまり見えないところにあのクラスで、世界で戦う難しさって奴があるんだろー。とはいえ、世界選手権とかでもそれなりな成績は残し、何より国内で無敵な以上は代表として堂々、胸を張って良いはずで、落ち込まず立て直し技を磨き自身を取り戻しさせすれば、続く競技でもまだ戦っていけるんじゃなかろーか。諦めないで。

 一方の吉田沙保里選手はまあ、強い強い強すぎる。決勝だけ録画を見たけど相手が警戒してかそれとも攻めさせてカウンターを狙っているのかまるで動こうとしないなかを焦りもしないで前へと出てはポイントを重ねて2対0で勝ちきった。いかにもあっさり勝っているようだけれども手とかを出し合いはたき合うなかで相当なやりとりがあったんだろう。でも傍目に見ると組み合ってすらいない姿はあんまりレスリングっぽくないよなあ。ポイントをとられるとそこから逆転が難しい、2分1セットで2セット先取の試合形態にしてしまったことが組み合い力比べをし、技をかけあうレスリングっぽさを殺いでしまったのかなあ。まあ何せよ時代が変わればスタイルも代わる。いずれ高速タックルをさせないような頭をよせあい肩を組み合う場面から試合を始める、なんてルールが出てくるかも。それでも勝つのが吉田選手なんだけれど。っていうか出るのかリオデジャネイロ五輪。出てもやっぱりあっさり勝ちそう。

 そしてなでしこジャパンことサッカー女子日本代表によるロンドン五輪での決勝戦、アメリカ相手にブラジルとかスウェーデンの時のような下がり気味で中盤を支配されつつ得点を許さない試合運びを見せるのかと思いきや最初っからどちらも前に出てパスを繋ぎ開いて戻して攻め立てるようながっぷり四つの真っ向勝負。そんな中から抜け出したアメリカにサイドから入れられ跳ね返してもそれを拾われ放り込まれて叩き込まれる1点に、さすがはアメリカっておののいたけれどもそこで引かなかったなでしこジャパン。ラインを上げて前に出て、パスを繋いで相手ゴールへと攻めるいつかのこなでしこ流が復活しては相手の猛攻を消して五分の状況へと持っていった。アメリカ相手にそんな試合ができる チームがこの五輪でどれだけあった。つまりはやっぱりなでしこジャパンは世界水準にあるチームで、それをリスペクトしてアメリカも互いの良さを出し合う試合運びを選んだんだろう。1点とっても引きこもらなかったし。

 だからもしもあの2点目の、ミドルをちゃんと抑えていたらあるいはとも思わせた決勝戦。危ないなあと思った瞬間をすかさず決める判断力と、それを許すパワーがアメリカにはあったってことなんだけれど、これまでの戦いで似たようなミドルを打たれても、枠から外れるか弱いかしかなかった試合でちょっと勘が鈍ったか、それとも油断をしていたか。それでも押し込んでから澤穂希先取シュートを放ちそれを懸命に守るディフェンスからこぼれてきたところをまた澤選手が振れ、それがずれて転がったところにしっかりといた大儀見優希選手が叩き込んで1点差に。そしてPK確実かと思われるようなハンドとか、抱え込んでの引きずり倒しとかあってもそれが獲られず得点にならない中を、くさらずに五分の攻め合いを続けながらアメリカに得点されず、最後まで1対2で行ったのもやっぱり凄かった。前だったらあそこで普通なら3点目を獲られているもんなあ。

 お互いがお互いの実力を認め、長所を知ってそれをぶつけあうと良い試合になるんだという見本のような戦いぶり。見た観客はそれが女子サッカーである、ということも忘れて1つの美しいサッカーの試合を見られたって喜んだんじゃなかろうか。あのウェンブリーでもって8万人以上の観客が、それを間近に見て感慨したことが、やがてイングランドの地における女子サッカーへの関心を以前にも増して大きくし、さらに中継を見て触れた世界中の女子がサッカーをやってみたいと、そしてあの檜舞台に立ちたいと思うようになればしめたもの。その結果、日本が以前よりも勝てなくなったとしても広がる光景は素晴らしいものになるだろうし、それ以前に日本はそのさらに先を行く。行ってくれると信じたい。今はただ見当を讃え、そして祝おう、日本のサッカー競技で最初の銀メダルを。

 マクロスだマクロスだマクロスがいっぱいってことで東京は池袋西武で始まった「ザ・マクロス原画展」を見に行ったら入り口に飾ってあった最近のアーティストさんたちによるリスペクト画にあったアルト姫が可愛かった。もうそれで十分だ、ってことはなくって部屋にはいってまず続く、「バトルシティ・メガロード」って前身の企画の設定画なんかからバルキリーみたく飛行機から脚が出てガウォークになってそれがロボットになる変形の原案が前にあってそれが「超時空要塞マクロス」へとつながっていったことが分かって面白かった。アイディアってのは練り上げながら生まれてくるものなんだよなあ。そして並ぶマクロス関係の設定画。細かいけれども巧いそれらは当時のロボットアニメとはやっぱり違った緻密さで、だからこそあの時代にあれだけの人を引きつけたんだと改めて感じた次第。版権イラストはそんなに残ってないんだなあ。

 その後は「マクロスF」関係で本編の原画があり「イツワリノウタヒメ」と「サヨナラノツバサ」の映画2本の原画があって後者にちょろりと女装したアルトくんの絵があってきゅんきゅん。それからポスターとかの版権絵について原画やラフなんかが飾ってあってその細かさ、それでいて崩れていない線の素晴らしさ絵を描く才能の凄さって奴を思い知る。どーやったらあんなに巧く描けるようになるんだろう。買ったカタログを、あるいは原画集を見て描きトレースして間違いを知り改めて描いて描きまくるしかないんだろうか。あと30年若かったらやってかも。当時はそんな原画集も原画の売買もなかったんだよ。「アニメック」とかにのる小さい設定画を写し取る程度。それでも巧い人は巧かったんだよなあ。才能がなかったってことで。

 あと目を見張ったのは幻扱いされている「マクロス2」に関連したパッケージイラストの素晴らしさ。描いたのはもちろん美樹本晴彦さんでそのライン、その表情、その構成ぶりはまさに全盛って奴を感じさせる。「超時空要塞マクロス」で世には出たものの若さもあった美樹本さんが仕事の中でたどり着いた一種の頂点。その作品がマクロスワールドからはオミットされ気味っていうのは何かユニークというか。でも続々とBD化が進むご時世だけにいずれ再発されると信じたい。その時はイラストを冊子にして封入を。まあカタログに掲載されているから見られるんだけれど。そのカタログは「マクロスF」関係がいっぱいでとりわけクラン・クランの絵がいっぱい。小さいのも大きいのも。編集した人の趣味なのか。場内で見ながら聞く音声ガイドのシェリルとランカの声が入ったCDもついているので気にいった人、クラン・クランの大ファンは絶対に買い。沢山あるから売り切れるってことはないかな。

 だいたいが実効支配している場所なんだから、わざわざ行って支配してますよとアピールして、国交に波風を立てて反発をくらって経済貿易文化等々の交流に支障が出て、損害を食らった企業なんかから文句を言われるような事態はやっぱり避けるのが真っ当な頭で考えられる態度ってもの。それを分かってか分からずか、敢えて実効支配している場所に言くのはつまりそうしなくてはいけない事情が当人にあったりする訳で、それは対外的なアピールというよりはむしろ内向きに、そうした事柄を好みそうな先鋭的な層の支持を得て選挙なり政治に利用しようってものだったりする。甚だみっともないことであり、満天下にそうした足場の危うさって奴を示している訳なんだけれども、それに気づかないか気づいてないふりをしているのがどうにもこうにも。って書いてて島根の沖にある島の話か。沖縄の向こうにある島の話か分からなくなって来た。まあ事情は似たようなものってことで。流石に国家代表が行くような間抜けを沖縄の先にある島に対して、していないけどね。それが人智って奴だから。はあ。


【8月9日】 坂本日登美、という名前で強く覚えていた小原日登美選手は、女子レスリングの51キロ級では無敵の強さを誇った選手だったけれども、そうした階級が行われる世界選手権で連覇を重ねていた小原選手も、メディアの場で名前を見るとこはあまりなくって、登場するのは顔立ちの良い山本美優選手であったり、その妹の山本聖子選手であったり、アニマル浜口選手の娘ってバリューも乗っていた浜口京子選手であったり、連勝を重ねて世界に敵なしをだんだんと印象づけていった吉田沙保里選手であったり。

 アテネ五輪から五輪種目になって以降は、そこに49キロ級の伊調千春選手と63キロ級の伊調馨選手の姉妹が加わり北京では浜口吉田伊調伊調といった布陣が確定して、真喜子さんも含めた“坂本姉妹”が割ってはいる隙なんて、まるでなくなっていた。けれども、そこで折れず諦めなかった日登美さん。49キロ級で国内無敵だった伊調千春選手も、彼女と競い合ってきた真喜子さんも退き明いた場所に、妹への配慮もあってずっと遠慮していた日登美さんが、妹の分もと復帰して入り、そして予選を勝利し晴れて初のロンドン五輪へと赴きあまつさえ、伊調千春選手でもとれなかった金メダルを獲得してしまった。おめでとう。そしてよく頑張った。

 もしも坂本姉妹が同じ階級で競い合うことを良しとして、日登美さんが制する形で伊調千春選手と国内予選を競い合っていたら果たして、どんな結果が出たかは今となっては分からないけれども、あるいはという思いを抱きつつそうはしないで長い時間を過ごし、既にもはやと言われる年齢に至ってこうして最高の結果を出したことはやはり凄い。普通なら引退して指導者になっている年齢で且つ、格闘技という若さが勝利に繋がりやすい競技で金メダルを取る実力をこうやって見せるおとで、過去の有耶無耶すらも塗りつぶして至高を世界に証明できたと言えるんじゃなかろーか。

 そんな日登美さんの金メダルを、妹の伊調馨選手が出る試合を見にスタンドにいた伊調千春さんがどう感じたか、ってことも興味はあるけどでも目の前で、実の妹の馨選手が五輪で同階級3連覇というあのアレクサンダー・カレリン選手が前に成し遂げた記録に並んだ姿を見ると全部、吹き飛んでしまっただろうなあ。こちらはカレリン選手の保つ五輪と世界選手権を合わせたタイトル数と、並ぶかどうかと注目されている吉田沙保里選手の偉業と存在感の前にあんまりメディアで取りざたされてはいなかったけれど、北京五輪後に姉が引退してしまってぽっかりとあいた穴をどうやって埋めるか逡巡し、世界選手権にも出ないまま過ごしていた時代がなければあるいは、同じだけの勝利を重ねていたかもしれない馨選手。同じく3連覇を狙う吉田選手より1日早い登場で、先に成し遂げたことによってこれで“同等”の地位には並べたんじゃなかろーか。いや実力は前からずっと“同等”だったんだけれど。

 ともあれ2つの大きなドラマが、どこかで接点を持ち絡み合いながら成し遂げられたロンドン五輪の女子レスリングの2階級。それは翌日も続いて吉田選手の55キロ級3連覇という偉業がかかってくる。日登美さんが五輪にはない51キロ級の代わりに挑戦し続けては吉田選手に跳ね返され続けた階級に、君臨し続けるその吉田選手にとっても日登美選手の金メダル獲得にはさまざまな思いが去来したはず。ここで負けたら31歳でやっとメダルを掴んだ日登美さんに合わせる顔もなくなるというか、むしろ発憤する材料として挑んできっと3連覇を成し遂げてくれるだろうと信じたい。そして浜口京子選手は今回こそはの金を是非。銅を2回連続ってのもあのクラスで凄い記録なんだけれども周囲が金続きになる中で、1人違う色ってのはそろそろやっぱり卒業したいだろうからなあ。頑張って。

 ちょっと前から「銀河鉄道の夜」や「グスコーブドリの伝記」を監督した杉井ギサブローさんを追いかけたドキュメンタリー「アニメ師・杉井ギサブロー」って映画が銀座シネパトスで上映されていて、見れば東映動画に始まって虫プロダクションからグループタックを経て現在へと至る杉井監督のプロフィールを軸にして、日本のアニメ史の一面って奴をくっきりを浮かび上がらせた、意義深い作品だって分かる。ディズニーに追いつけ追い越せみたいなフルアニメーション思考の東映動画から一転、費用と時間を少ないコマ数でカバーしつつ、それでも面白い作品を作り上げる虫プロ的なリミテッドアニメの世界に親しみそれを是とする思考を得つつ、やがてアニメが儲かる物となって来た時代にテレビ局や代理店なんかが作品に口を出すようになった中を、どうやって独特な作品を作っていくかを模索していく杉井監督の軌跡の中に、幾つもの日本のアニメ界が抱える問題点なんかも見えてきた。

 それでなるほど1つのアニメ史なんだけれどそれだけではないのがアニメ史って奴で本家の東映動画だけ追っても、虫プロから別れ育ったサンライズの作り出したロボットアニメの歴史を追っても、東映動画から東京ムービー新社、日本アニメーションなんかを経由した宮崎駿監督、高畑勲監督のスタジオジブリの歴史を追ってもそれぞれにアニメの歴史って奴が描き出せる。けれどもそれらだけではとてつもなく大きな柱が欠けている。竜の子プロダクション。あるいはタツノコプロ。聞けば誰の脳裡にも「マッハGo! Go! Go!」やら「みなしごハッチ」やら「ハクション大魔王」やら「いなかっぺ大将」やら「科学忍者隊ガッチャマン」やら「ヤッターマン」やら「ゴワッパー5」やら「赤い光弾ジリオン」やらといった作品が浮かぶ名門中の名門。その偉績を語らずしてやっぱり日本のアニメ史は語れない。

 松屋銀座で20日まで開かれている「タツノコプロテン」なんかを見ればそんなタツノコプロの偉大さが一目瞭然に分かるから、銀座シネパトスで「アニメ師・杉井ギサブロー」を見るついでに眺めてみるのが絶対正解。入ると現れる「宇宙エース」の諸々はさすがに覚えてないけれど、次の間に控える「科学忍者隊ガッチャマン」に関連したイラストやら設定画やらセル画なんかから放たれる、スタイリッシュでSFチックでモダンな雰囲気は同じ時代のアニメのどこを探しても存在していないものだった。これは多分兄の吉田竜夫さんとともに学び育んだものだと思うけれどもまだ、漫画的だった吉田竜夫さんとは違って久里一平さんの描くアメコミのようなキャラクターの表情なりスタイルなりポージングは、そういったデザインが割に普及した現在でも目を見張る格好良さを放ってる。白鳥のジュンちゃんの短いスカートからちょいのぞく白なんかも。あれ、絶対にわざと描いてるよ。

 そして「タイムボカン」に始まる一連のギャグとバトルが一体となった楽しいアニメのシリーズや、それに連なる「スターザンS」に「ムテキング」に「ウラシマン」といった楽しく面白く格好いい作品群、「宇宙の騎士テッカマン」「破裏拳ポリマー」「ジリオン」といったバトルを楽しめる作品群なんかもあって見ればあのテレビアニメが楽しかった1970年代から1980年代の記憶を、確実に誘ってくれる。遡れば「ハッチ」があり「けろっこデメタン」もあり「樫の木モック」もあってとホームドラマにも匹敵する感動の作品群も多々。と同時に、これらがすべてオリジナルの企画として作られていたという凄さい状況が、どうして成立し得たのか、今の漫画やライトノベルやゲームといった原作を持つアニメが氾濫した時代からふり返って、ちょっと考えて見たくなる。作り手の意識、流し手の矜持、見る側の自在さってのもあったのかなあ。あとはやっぱり夕方の定時に放送されていたって条件か。習慣づけられた視聴はそれがオリジナルか原作物かなんて考えないからねえ。

 そんなタツノコからは押井守さんに真下耕一さんといった人たちが育ち、のちにぴえろが立ち上がったりしてそこで押井さんが一気にスター監督の座を掴んでいったりもした。そんな押井さんプッシュの母胎となったプロダクションI.GはもともとI.Gタツノコといって子会社だった訳でそこの系列に真下さんが作ったビートレインも一時期あった。「輪廻のラグランジェ」とか「機動戦艦ナデシコ」とか「宇宙戦艦ヤマト2199」を作っているジーベックはIGの傘下だったしりてそんな感じにタツノコプロを起点にした広がりはとてつもなく広範囲に及ぶ。

 笹川ひろしさんという個人の系譜をとっても、人脈は果てしなく続いていきそうで、そんな観点でもう1本くらい、日本のアニメ史を語るドキュメンタリーとか作れそうだけれど日本人って、知ってるものにしか興味を持たないんだよなあ、宮崎駿監督とスタジオジブリといった感じの。まあ展覧会を日本テレビが紹介していたりもするし、新しい「ヤッターマン」を放送したのも読売テレビだったし、アニメへの傾倒がなかなかに賢い日テレなり読売テレビがタツノコプロも重要なコンテンツだと意識して、取り込み育んでいくようになればまた新しい時代が開けるかも。持ってるコンテンツはとにかく膨大。それを活かさない手はないんだから。んでフジテレビは。大概の番組を放送していたフジテレビは。そこがなるほど凋落していく要因でもあるのかなあ。

 松屋銀座から山野楽器へと回って海野がしていた「火垂るの墓」と「となりのトトロ」がセットになった地獄ロードショー再現ブルーレイを購入、楽しいアニメが始まると思って入った劇場で「火垂る」の衝撃を味わった人も多いんだろうなあ、僕はその頃あんまり映画を見いてなかったんだ。出て裏に目をやると、ギャラリーオカベってところで立花光朗さんって人の彫刻展がやっていた。船越桂さんとはまた違った上半身の彫刻は、節目がちな細面の少女の周辺に流木とか、並で削られたような木々が張り付けられてなかなかなに幻想的。船越さんの虚構とはまた違った雰囲気が立ち上っている。高くても20万円とかいうのはまだまだ安い部類かな。木彫の美少女が好きな人は一度、是非。


【8月8日】 森晶麿さんで「東京・オブ・ザ・キャット」だったらきっと猫がゾンビとなって人間たちを襲いまくる話かと思ったら普通に人を食ったような猫がいっぱい出てくる話だった。というより食うんだけれど。何だそれ。猫好き総理の命令によって日本中が猫を猫かわいがりしなくちゃいけなくなった日本では、家に猫がいれ路地にも猫があふれてそれらを巡る悲喜こもごもが起こるようになっている。クラノタケヒコという少年は訳あって家出して在不在(いぬい)ハリコという女性が運営する探偵事務所へと転がりこんだものの、そこはなぜか急に「猫トラブル解決堂」へと衣替えして猫にまつわる事件だけを扱うことになった。

 そして早速飛び込んできた、アイドルとして有名な女性からの依頼でクラノは直前にこれも突然に窓から飛び込んできて居座った秋野ヒューリという少女と連れだってアイドルのマンションにいってそこで電子レンジにいれられていた猫をみつけたもののアイドルは不在。その妹という少女が居合わせ事情を聞くもののやっぱり分からなかった事件だけれど、手がかりなんかを探ってひとつの結論を導き出す。それは……といったところであり得るかというと何だけれどもこれだけ猫が溢れた世界、その不気味で不思議な存在の集合体が何かしでかす可能性は低くない。そう考えると起こったおともあるいは本当なのかもしれないなあ。んでテストステロンって猫から摂れるの?

 マンションのベランダに顔は猫で下はボディコンの女性が鼠をくわえて居座っているから追い出してくれという依頼もあれば、相続した遺書なり遺産の隠し場所をなぜか忘れてしまったのは頭の中の猫にいる猫に鍵を奪われてしまったから取り戻して欲しいという依頼もあってクラノはヒューリも連れて出かけていっては、襲われそうになったり迷いそうになったりしながらともかく事件の謎を解く。猟奇的で伝奇的だけれどうもそういう世界でなら起こり得る事件であってそれをヒントから解き明かすミステリーとも言えそう。だから森晶麿はゾンビが奥の細道するだけじゃなく、黒猫が探偵をするミステリーでアガサクリスティ賞をとった気鋭のミステリー作家なんだってば。

 猫を感じなくする術をかけられうと、手にしたものですら猫を思わなくなるんだから凄いんだけれどその副作用がなかなか大変というエピソードはあんまりクラノもヒューリも活躍しないけれど、代わってハリコさんの因縁なり過去めいたものが語られてこの女性、食わずひたすらソファに横たわって点滴を受けているズボラな虚弱ではないって分かる。そしてクラノ自身もさらにはヒューリもそれぞれに事情があって一気に明らかにされるクライマックス。親は子を愛し少年は美しい女性を愛して猫は飼い主を愛する感情が浮かび上がってくる。ちょっと感動。というかハリコさんはクラノが気になるのかクラノに兄を重ねてもじもじしているだけなのか。そんな引っかかりも含めて今後に話を広げられそうな作品。続くかな。

 そこで何で永井謙佑選手を出さないんだと思ったらもう出ていたという、何だそれ。つまりは音声を着けずに見ていたロンドン五輪のサッカー日本代表対メキシコ代表の試合で、いつもだったらトップに入って縦横無尽に走り回り相手ボールだった間近に迫ってコースを消し、自分の方からだったらスペースに走って受けて叩き込んで相手の守備陣を下げる働きをしているはずの永井選手が、まるでそうした役割を果たしていなかった。あるいは相手が絶妙な試合運びで永井選手が走り込めるスペースを与えず、ボールもさっさと回して追い込まれるような場面を作らなかったってことなんだろう。それが相手のある試合ってものなんだから、日本も相手を見て試合をしなきゃいけなかったのに、できなかったのが1対3からの敗戦、そして3位決定戦回しに至った原因か。

 見ていてなるほどボールのトラップとかに冠しては、同じ日本から行った女子代表のなでしこジャパンの面々よりもあるように見えるし、パスの速度もあってそれで蹴れば途中で奪われるようなことはまずない。ただプレッシャーがかかると慌てているのかそれとも華麗にワンタッチで回す俺カッコイイとなっているのか、出しても届かずあるいは明後日の方向に行って見方に渡らず相手のボールにしてしまうような場面が多々あった、という印象。それとやっぱりその後のブラジルと韓国との準決勝なんかを見ていて思ったけれど、1つのボールに対して何人もが早くに動き出してもらおうとし、そして出した方もすぐに動いて受け取ろうとする繰り返し。だから勢いがある。迫力がある。速さがある。

 対して日本は棒立ちになってもらったら出してそれを受けたらどこかに出して。そこで動き直しが絶妙ならスペインやバルセロナのようなポゼッションも可能なんだけれど、そんなことができるチームでもなく前に前にとじわじわと攻め上がっていくよりむしろ、迫られ戻してビルドアップしている間に、中盤が相手押し込まれるといった感じで攻められない。そうこうしているうちに同点に追いつかれ2点目を決められ、けれども1点とれば追いつける試合で交代したのが清武選手だったとは。走り受け取るプレーの要になっていた選手が消えてはもうおしまい。ぼんやりとしたまま時間は過ぎてそしてだめ押しをとらてジ・エンドとなってしまった。初失点から3失点はやっぱりね、大きいね。

 何もなでしこジャパンのように守備だけがっちりやってカウンターを狙えって訳ではないけど、守備すら満足にできないならやっぱり負けてしまう。あれだけ鉄壁だったはずなのにどうして、ってそれはやっぱりあれかなあ、速さや高さで迫ってくるのは対処できても、圧力でもって迫ってくる相手には麻也あ徳永選手だけでは対処できないってことなのかなあ。まあ仕方がない、ともあれ今でも銀は狙える場所にいて、相手はお隣韓国だ。見ていて相当に洗練されててスピードもパワーもあってなおかつミョンボ兄さんの下に一丸となって戦う魂があるけど、日本だって相手が相手だ、負けてられないと奮起して、遠くウェンブリーの地で因縁の日韓戦でメダルをかけた死闘を繰り広げてくれるだろう。とりあえず、勝て。

 お嬢さまだけれど勝ち気で武術に優れてミニスカートから脚をのぞかせていて髪を上でツインテールにしていたり2つのお団子を作っていたりとどこか似ているところがあって、レイラ・マルカルを「アルカナ・ファミリア」のフェリチータとちょっぴり重ねてしまって見てしまった「コードギアス 亡国のアキト」。声質も勝ち気な割りに端正で冷静でときどき少女っぽいあたりが共通。かたは能登麻美子さんならもっとふんわりとした雰囲気にもできただろうし、こなか坂本真綾さんなら鋭く沈んだ声も出せただろうにだいたい共通のニュアンスに落ちついているってところにあるいはお嬢さまキャラに来ているひとつのトレンドがあるんだろうか。フェリチータは自分の婿を自分で選ぶために戦いレイラ・マルカルも運命を自らつかみ取るために戦う。道を惰性で歩まず自分で切りひらこうとするお姫さま、ってのがそうか流行りなんだなと理解しておこう。

 ってな感じに第1章が幕を明けた「コードギアス 亡国のアキト」はブラックリベリオンがあってルルーシュがゼロとして挑んだ革命が失敗に終わってルルーシュは捕らえられ洗脳され様子を見るために泳がされていたという1年間の間、地下に潜った「黒の騎士団」を日本や世界で追いつめる一方でブリタニアは、欧州での戦線も持っていてそこでE.U.が何かしでかそうとして適わず包囲さっれたところを突っ込み切りひらいたのが日向アキトが属するイレブンたちによる「wZERO」という舞台。とはいえ消耗品扱いの彼らは特攻ならぬ自爆をさせられどんどんと消えていく中で、アキトだけは何かギアスの影響下におかれているような眼差しで戦い圧倒的なパフォーマンスでブリタニアの騎士ですら粉砕してのける。いったい何者だ。そしてその自覚はあるのか。ないからそうかギアスって奴か。

 似ているといったらスザクにルルーシュからかけられた「死ぬな」というギアスか。それがあったからスザクはあらゆる戦場で死ぬことを許されず戦いの中に活路を見出し闘争本能も引っ張り出して獅子奮迅の活躍を見せた。ならばアキトもそうだとしたらいったいあれが。絶対遵守のギアスを持つのはルルーシュなんだけれどでも、最後の方で出てきた和風なサムライ風の男も目にギアスマークを浮かべて上司の騎士団長をクラクラさせていたからなあ。同じギアスってあるんだろうか。そして彼をギアス能力者にしたのは誰なんだ、ってところでC.Cなんかの登場もありスザクみたいなのもチラと移った次回以降に興味は持ち越し。来年春とは襲いけれども最初の「コードギアス 反逆のルルーシュ」から「R2」まで1日1ルルーシュで1年間を堪え忍んだ身だ、半年ちょっとの辛抱くらいは平気さ。すでに本編は結末が見えているこの物語のスピンオフを、本編にどう絡め世界観の中でどんな位置づけの物語に仕立て上げ、脇ではない存在感を醸し出すか。楽しみ。


【8月7日】 2008年の北京五輪で、サッカーの日本女子代表ことなでしこジャパンは史上最高となる4位となって、世間に次こそはメダルという期待を与えた。というか、この大会でのメダルもおおいに期待されてはいたものの、そこはまだ世代交代がようやく進み始めたチームだっただけあって、強さやしたたかさを発揮できないまま準決勝で敗れ、3位決定戦も負けてしまってメダルの栄誉を手放してしまった。それでも史上最高には変わりなく、世間はおおいに盛り上がって女子サッカーに一段のムーブメントが起こって、志望者が増え観客も増えチーム数も増えて一大勢力になっていくのかと思っていたら、直後にTASAKIペルーレという名門中の名門チームが、親会社の経営不振から解散なんていう哀しい出来事に見まわれた。

 いくらサッカーは強くても、親会社の経営は別の話でそれがどういう理由だったとしても、チームを維持できなくなった以上は手放さざるを得ない。それはどこのチームにも起こり得ることで、現に2011年の東日本大震災で経営的に大ダメージを受けた東京電力が、TEPCOマリーゼの活動停止を決めたのもそれはそれで当然だった。ただ、2008年と2011年では女子サッカーを取り巻く状況が大きく違ってた。震災から間もない夏に開かれた女子のワールドカップでは、なでしこジャパンが驚くべきことに優勝を果たして、一気になでしこブームが広がった。女子サッカーというものが持つ存在感がクローズアップされ、価値が見直されて休眠してしまったTEPCOマリーゼにも注目が集まり、ベガルタ仙台が女子チームとして引き取るような形で存続が決まった。

 決して楽な経営をしている訳ではないクラブだけれど、それでもチームというものが存続する意義、東北という場所からスポーツを発信していく意味について理解しつつ、追い風を感じての引き受けだったんじゃなかろーか。けれどもわずか4年前のTASAKIペルーレでは、願っていた存続は果たされずに終わってチームは消滅してしまった。少なくともベガルタ仙台よりは経営に余裕があるだろうヴィッセル神戸が一時は引き受けるって話もあったけれど、それも立ち消えとなってしまった様子。あるいは神戸にはすでにINACレオネッサというチームが立ち上がって活動を始めていたことも、地域に女子サッカーの芽を残し育てたいという人たちの意識を挫いていたのかもしれない。

 これがもしも北京五輪で金メダルを獲得していたら、どこかが手を挙げただろうか。やっぱり挙げなかっただろうか。起こってしまった歴史は変えられないだけに考えても詮無いことだけれど、たったひとつの勝利があるいはひとつの名門チームの運命を変えたかもしれないと考えると、正々堂々だの何だのと横から出して良い口なんてないんだとも思えてくる。先になでしこジャパンが決勝トーナメントで当たる相手を考えて、スウェーデン戦の後半に引き分けを狙いにいったことに様々な批判があがって、女子サッカーをよく知るジャーナリストも絶対付加だと叫んでいたけどあそこで勝って1位で抜けて英国と当たって負けていたら、勝っても米国と当たって敗退していたら明日の女子サッカーの歴史が大きく変わってしまったかもしれない。

 そしてブラジルを見事に破って進んだ準決勝で強豪のフランスを相手に終盤まで2対1で凌ぎきったとき、ロスタイムを潰そうとコーナーキックをちょんとけり出し、見方だけで囲んでキープしようとした行為も、そこで勝利の確率をより高めたいという思いから出たもので、決して非難されるものではない。あそこで普通に蹴ってキーパーにとられ、前へと送られ強力な攻撃陣によって得点を奪われたら、同点に追いつかれたら果たして勝利はどうなったか。それでも勝てというよりは、あそこでキープして勝ちきっておく方が余程確実。そういう計算を働かせることによってつかみ取ったこの勝利、決勝へと進み金なり銀なりのメダルを確実にした行為が、いったいどれだけの女子サッカーの未来を明るくし、あるいはチームを救うのか。そう考えると安易に気軽に卑怯だの何だのとは言ってられない。言っていいはずがない。

 そもそもがロスタイム時点で相手にリードされ、そして時間稼ぎをされてしまった時点で負けなのだ。相手が何かしてくれるなんて考える方が間違いだ。勝つことが最大目的のトーナメント戦にあって、そのために行われるプレーはすべてが正々堂々としたものだ。そういった意識がかつてドーハという場所で、ロスタイムに簡単に相手にボールを渡してしまって得点を許して、アメリカで開かれるワールドカップへの出場を逃した記憶と経験から、とっくに醸成されていてしかるべき国なのに、未だにロスタイムの正々堂々とした時間稼ぎが非難されるのかが解らない。まあそういっているのはごくごく1部なんだけれど、そうした意見が増幅されて拡散されやすい情報環境にあることも、やっぱり問題なんだろうなあ。ああ面倒くさい。いずれにしてもどちらにしてもなでしこジャパンは勝って決勝に駒を進めた。相手はアメリカ。強敵だけれど固い首位で跳ね返し、鋭い攻撃で得点すれば勝てる相手だとワールドカップで、アルベルガ杯で証明している。恐れず堂々と挑み勝ち、日本に金メダルを持ち帰ってくださいお願いします心から。

 ツルツルだったけどペタペタでもあってどっちなんだと思ったらどっちでもなかったニコラス・ベーコン。だからなるほどキヨナリ・ウルキアガの電気あんまを食らってもどうということはなかったんだなあ、ってどんな感触だったんだろうウルキアガの足的に。そんな英国はトランプたちと武蔵アリアダスト教導院の特務や生徒会メンバーとの相対が始まった「境界線上のホライゾン2」はウルキアガは御広敷がぶん殴られて目覚めて結界が融けたこともあってウルキアガが勝ち本多・二代とウォルター・ローリーとの試合はどうなったんだっけ、あとネイト・ミトツダイラとウォルシンガムとの試合も決着がついたか覚えてないけどマルガ・ナルゼとフランシス・ドレイクはドレイクのパワーが勝って吹き飛ばされたマルガの前に立花・ァ が立ってドレイク相手に一戦を交えそうなところで以下次回。金髪巨乳を露わにした傷ありの正体もいよいよ露見しそうな次回から話は大きく展開しそうだけれどその後はバトルに次ぐバトル、そして海戦の果ての海戦だからなあ、ちゃんと描けているかなあ。

 なんか浅草方面でアニメについて教えてくれるイベントがあるってんで昨今の状況を知りたいと出かけていってだいたい分かったけどだいたい見てないなあ。なのはの映画も貧乏神も人類は衰退しましたも。録画はしてあっても見ようという気をドライブさせるだけのきっかけがまだないんだ。これがすげえ話題になって見なきゃと視たら過去の録画分も含めて見返す気になるとか、ふとそのまま放送を見たら良かったんで過去にさかのぼって見直すといったことが、このオリンピックのご時世ではちょっと起こらない。あるいは悪評でもいいから聞こえてくれば良いんだけれどそういう話もなさそうだし。ってことで「ラグランジェ」と「ホライゾン」と「氷菓」と「鬼畜美学」と「戦国コレクション」と「アルカナ・ファミリア」あたりしか見ていないこの夏。「TARI TARI」もちょい止まっているけどこれくらいは見るかなあ。凄いってことらしいしなあ。


【8月6日】 アーチャーというのはそのままアーチェリーの選手ってことで、だったらライダーは乗馬の選手ってことになるんだとすると、ランサーは棒高跳びの選手でアサシンはうーん目的と合致しているって意味ではライフル射撃の選手とでもしておこうか、バーサーカーはだから巨躯を持った柔道の重量級の選手ということで、キャスターは該当するのが運動競技にはいないから承認競技から借りてきてチェスのプレーヤーとすると残るセイバーはやっぱりフェンシングの選手ってことになるのか、そんなサーバントたちを1つのスタジアムに集めて競わせる新しい競技って奴をクールジャパンな東京五輪では是非に実現して欲しいところ。競技名はもちろん「フェイト」だ。ゼロかステイナイトかは知らない。そして優勝者には聖杯が与えられるぞ。メダルじゃないぞ。

 速い速いウサイン・ボルト選手は速すぎてロンドン五輪の100メートル走で明らかに他の選手よりも体1つ分抜け出してゴールインしていてその差を埋めようとしたって生半可な選手では埋められそうもないと世界を納得させてしまった様子。これでしばらくはボルト選手の天下が続きそう。それを嫌気してかボルト選手らのスタート直後に観客席からペットボトルを投げ込んだ人がいたそうだけれどボルトにボトルじゃあちょっとあんまり洒落てない。せめてボルトなら普通に鉄製のボルトとか、あるいはボルトにはまるナットなんかを投げ込む方が洒落もきいてたんじゃないだろうか。ベストは納豆。投げ込んであたっても怪我もしないし。とはいえその香りに感激して倒れる人とか出たりしたら問題か、せっかくの美味も人によっては毒ガスだしなあ。スーパー陸上に来てくれないかなボルト選手。

 すごいなあ室伏広治選手は2000年のシドニー五輪にも代表として出場して4年後のアテネ五輪では金メダルを獲得してさらに4年後の北京五輪にも出場してそれから4年も経った今年のロンドン五輪で銅メダルを獲得してしまった。連続してメダルを獲得するセンスは割りにいたりするけれども、パワーを必要とする投擲競技ですでに30歳になったかどうかの年齢でメダルを取って、それから間に1回を置いて世界の第一線に留まりメダルをとってしまうってのはやっぱり半端じゃなく凄い。アジアの鉄人と呼ばれた父親の室伏重信選手も38歳とか39歳とかで日本新記録を投げてたりする訳でそうした体質もあるいは遺伝だったりするのかも。そしてより研究を進めた室伏広治選手だったら42歳になんなんとする次のリオ五輪でも、世界の第一線で投げていたりするのかも。どんな体をしているんだろ。触ってみたい食べてみたい。

 153人から選べってそりゃあ酷だけれども篠田麻里子さま1本推しな身には実はあんまり関係なかったりするバンダイナムコゲームスのゲームソフト「AKB1/153 恋愛総選挙」。あるいは秋元才加さんをそこに入れたとしても153人もの中から関心もない150人相当を振り落としていくのに何の迷いがあるものか、って言ってはみたもののこれだけ大量にいたりしてそれぞれが独自の映像でもってアピールしてくると、やっぱり心動かされてしまうところもあるんだよなあ、それは恋愛シミュレーションゲームでも同じだけれど人間だってことでさらに感情が傾いてみたり。それで何か本人から見返りがある訳でもないんだけれど、迫られれば応えてしまう、そういう風に出来ているんだ人間の、男子って奴は。AKB48のみならずSKE48にNMB48にHKT48へと広げていったい制作費どれくらいかかっているんだ。それでこの値段で元はとれるのか。CESAの会長に就任してゲーム業界の顔になった鵜之澤伸さんの差配が問われる。

 アニメのサウンドトラックが売れないというか作られなくなっている中、作ってくれなければ作曲を受けないしDVDとかBDのおまけでもそれは音楽としての独立性に棹さすといった旨のことを話して、アニメのサウンドトラックの地位向上と認識強化を啓蒙していたような記憶があった岩崎琢さんの手がけた「ヨルムンガンド」のサウンドトラックが届いたんで聞いたら凄かった。民俗調だったりノイジーだったりといわゆるアニメ的な雰囲気は微塵もなし。何しろ冒頭から叫んでいるのが「PINK」の福岡ユタカさんというからそれはもう言葉じゃない叫びがサウンドにのって広がりそこを東洋でも西洋でもない場所に染め上げる。ラップが使われていたりサリフ・ケイタ風な歌声が重なっていたりとほかもそれぞれに凄い出来。それ1枚で立派にひとつの現代音楽って言えそうななけれどもそれが売れるというと……。勿体ないなあ。どうにかならないものなのかなあ。


【8月5日】 直射日光に焼かれて体力ゲージを相当に消耗していた模様で、それでも日焼け留めを塗っていた関係で焼けても酷く痛むとかはなくってそれで目が冴えることもなく、知らず寝てしまって気がついたらロンドン五輪のサッカー日本代表とエジプト代表との試合が始まっていた様子。そこでしっかと目を開けて見続けられたら良かったんだけれど微睡みの中に沈んでしまい1点とったところまでは覚えていても、その先は見えずどうにかこうにか持ち直した時には試合が終わって何と日本が3対0で圧勝していた。すげえじゃん。これでシドニー大会の決勝トーナメント初戦敗退を超えてここしばらくでは最大の成果、そしてメキシコ五輪の日本代表に追いつきかけるところまで来た。素晴らしい。

 あの時は全盛期にあった小野伸二選手を予選の怪我から来たコンディション不良で欠いたりしつつも中田英寿選手がいたりして、結構な面子が揃っていたけど決勝トーナメント初戦でアメリカ代表に追いつかれて延長戦を戦っても勝ち越せず、PK戦になって中田選手が外してしまって敗退ってことになったんだった。抜けていればシャビ選手とかアルベルダ選手とかがいたスペイン代表と戦っていたことになる訳で、それはちょっと惜しいことをしたけれども負けてしまったものは仕方がない。今回は相手はメキシコでいつかのメキシコ五輪の時に3位決定戦で当たって日本が開催国を下して銅メダルを獲得したという因縁もあって楽しめそう。直前の試合でも勝っているだけに期待は持てるけれども真剣勝負となるとメキシコ、やっぱり強いんだよなあ、小さいのに守備は堅実で攻撃も速くて。さてどうなるか。お楽しみはこれからだ。

 「スペースインベーダー」の1面をクリアしたことが、片手の指で数えられるくらいしかない人間に、シューティングゲームのハイスコアをどこまでも狙ってプレーする、「スコアラー」と呼ばれる人たちの熱意とか、苦労とかをダイレクトに語ることは難しい。ましてやアーケードゲームは、「スペースインベーダー」からやがてとてつもない複雑な動きをしたり、とてつもないボリュームを持ったものへと変化していって、運動神経が鈍い人間には1面クリアなんてとてもおぼつかなくなっていくんだけれど、そうした動きにしっかり食らい付いて、1面クリアどころか全面クリアでハイスコアを狙う人たちもいた訳で、そうした人たちがいったいどんな生活を送り、またどんな才能を持ってゲームに臨んでいたかなんて、はるか外野のそのまた外にいるような人間に、考えつくはずもなかった。

 だから、大塚ギチさんが久々に出した「THE END OF ARCADIA」って小説を読むと、そうかなるほどアーケードゲームのスコアを追い求める人たちが、とりたって特殊って訳ではなくて何であれその道を追い求める人に共通の、ストイックなまでの探求心とそして自分がやりとげたんだという、強烈な自意識を持っているんだなあと見えてくる。それは、駅名を全部覚えるとか円周率をどこまでも唱えるとかいったものと変わらない知的で能動的な行為なんだけれども、どうしても、ゲームでありゲームセンターといったものに対する“悪所”的な偏見が、アーケードゲームのスコアラーを、どこか社会の埒外にいる人たちだと見て、その行為に栄誉を与えて来なかった。当人たちがそれを求めていたかは解らないけれども、すくなくとも見下げられる覚えはないはずで、そうしたスコアラーたちの虚無的な息づかいめいたものが、「THE END OF ARCADIA」からは漂ってきて、その世界への興味を誘う。

 もっとも、そうした息づかいが聞こえていたのも1980年代の末期から90年代初頭にかけてといった感じなのか。いわゆる対戦格闘ゲームが出てくると、ゲームセンターは誰かと戦いひたすらに勝利を重ねることが目的になって、シューティングゲームでひたすらに全面クリアからさらに最大ポイント獲得のための探求をする人が減ってしまった様子。マシン自体も進化の果てにとてもじゃないけどついていけないようなものになって、初心者が減って遊ばれなくなっていく。あとワンコインで最終まで粘られては、オペレーターも商売あがったり。時間に金を使わせられないシューティングは置かれず、売れず、作られなという悪循環。それは20年近く経った今なお続いている感じで、見渡して新作シューティングゲームが大ブレイクしているって話はあんまり聞こえてこない。「斑鳩」とか「オトメディウス」くらい? あと二次創作が盛り上がっているって意味では「東方Project」か。どっちにしたってニッチだよなあ。

 そんな時代を受けてか、あるいは自分たちが大人になってしまって生活に流れてしまって、シューティングゲームのハイスコアにすべてをかけていたあのころから、すっかり遠ざかってしまっていたスコアラー集団。ただの呑み仲間になってしまって、シューティングへの思いを半ば忘れかけていた面々たちが、40歳も過ぎてかつての仲間というか、ある意味でリーダーだった男の訃報をきっかけにして、もう1度あの時代の情熱を取り戻してみるかと思い、行動に移すというのが「THE END OF ARCADIA」って小説のストーリー。言ってしまえば年寄りの冷や水、何を今さらってことになるんだけれど、そろそろ人生の出口が見えて、そこに向かってまっしぐらに進むというか、落ちていくだけあと“解って”しまった時、それでいいのかと楽に流れたくなる気持と、そうはなりたくないという若いままの気持がぶつかり合って鬩ぎ合い、悩みや懊悩って奴を生む。どういようもなくなって鬱々としてしまいどっちも選ばずそこで逃避、って人もいたりする。

 そして、たいていは安楽さを選ぶんだけれど、主人公たちはそうじゃない道を探ろうとする。かつて遊んでハイスコアを叩き出し、脚光を浴びた「ダライアス」というタイトーのシューティングでもう1度、750万点というスコアを出し、そしてネット上に行き交っていた900万点なんてあり得ない点数を出すために、筐体を探し出し部品を変えて遊べるようにする。一方でかつての反射神経と運動神経と体力を取り戻そうと、ランニングをしたりルービックキューブを訓練してその日にそなえる。何というストイック。けれども目的が見えた時に人はこうも強く厳しくなれるのかとも思える。あるいは一時でもそうしたなにかにのめり込み、極めた体験を持つ人は、取り戻しに行こうと行動に移せる強さがあるんだとも。何もなくただダラダラと過ごして来てしまった身には厳しい選択。逆に言うなら今を懸命に打ち込んでおけば、将来にきっと得られるものがあるんだという警句にもなっている。

 再挑戦で使われる「ダライアス」の筐体は、あの津波で海水を被ってしまったもので、運んできて部品を探し出し修理をするかつての仲間には、仙台に子連れの女性が同居人としていたりする。もう1人の仲間も家族がいてそっちにかかりきり。死んだ男をのぞけば、未だ独身で役場につとめながら毎日を淡々と送っていた男の周囲に集まってきた、こうしたリアルな社会と生活を持った人々が再結集した時に、いったいどんな感情が浮かんだのかが気になる。遅れているという感情か。社会から疎外されているという思いか。それでも慕って集まってくる仲間がいるのは嬉しい話。それもやっぱり経験だけが持ち得る幸福って奴なんだろう。挑戦が意外な形で終わった時、主人公が走りながら号泣したのは失った友への思いなのか、沈黙していた長い時間への懺悔なのか、もう未来はないんだという絶望なのか。それをどう感じるかでその後の道も変わってきそう。絶望と思うよりは懺悔と感じ、ならばとそこから改めることによって開ける何かがあると思いたい。直せばまだまだ使えるならば直して遊んで再挑戦。人生はそんなに短くはないなから。

 しかし「ダライアス」って実はあんまり記憶がなくって、見てもとんと思い出せなかったんだけれどそんなにゲームセンターで流行っていたのかな。1986年といったら大学に入って3年生の時で学校の側にあるゲーセンに友人たちと行ったりもしていたけれども、彼らがやっていたのはたいていが麻雀ゲームでシューティングとかは気にもとまらなかった。やっていたのを見かけたのは「ゼビウス」くらいか。場末だったんでそれがようやく回ってきたっていったところか。あと、その頃からビリヤードが流行りはじめてゲーセンよりプールバー、なんて雰囲気もあったっけ。だからやっぱりシューティングゲームは特別な者だったんだなあ、当時から。過去に思いを馳せ今を問い直しつつシューティングというジャンルへの興味も誘う「THE END OF ARCADIA」。売れれば何かが変わるか。変わらないか。

 せっかくだからと「仮面ツータン」ことツタンカーメン展を見ようと上野に行ったら長蛇の列で昨日の今日では体力ゲージも削られるんで、国立西洋美術館へと回ってフェルメールの「真珠の首飾りのおばさん」だか言う絵を見る。マウリッツァの方の美少女とは違うけれども窓からの光の加減って意味ではフェルメールらしさが出ているのはこっちかな。でもそれ1枚だけ。っていうかベルリン美術館展でオランダの画家とか見せられておなあ、レンブラントもそうか。確かに所蔵しているってことは凄いんだけれどそれだけでは。まあプロイセンの王室がそれだけ交流もあったって証明にはなるし、ルーカス・クラナッハの描いた肖像画なんかも見られたんで良しとしよう。マルティン・ルターなんて歴史の教科書に載っている人の肖像画とか、見ているとあの時代にその人がいてそれを描いた画家がいたんだなあ、って歴史が実在となって感じられるんだ。だから美術館通いは辞められない。


【8月4日】 やあ勝った、本当に勝った、ブラジルに勝ってこれで2大会連続の五輪でのベスト4が決まったなでしこジャパンことサッカー女子日本代表チームは毀誉褒貶あった南アフリカ戦での引き分けで、最大の目的にしていてなおかつ絶対をほぼ課せられていた決勝トーナメントの勝利を見事にやってのけた。相当なプレッシャーもあっただろうに選手たちはそうした精神的な重圧をはねのけ、なおかつブラジルの圧倒的なボール支配率からの怒濤の攻撃のことごとくを跳ね返して0点に完封してみせた。何という精神力。そして技術力。囲んで出させず壁を作って通さずセットプレーもゴールキーパーの福元美穂選手がパンチングで逃れ転がったボールも見方が詰めて前にけり出し、相手の蹴り込みを許さない。

 一方で攻撃陣も澤穂希選手のすばやいリスタートから大儀見優季選手がまず1点を決め、そしてカウンター気味に大儀見選手が出したボールを受けた大野忍選手が、1対1から相手ディフェンダーを振って左足でゴールへと叩き込んで追加点を奪取。これで意気消沈しないブラジルの攻撃もやっぱり続いたけれども、あの守備ブロックを崩すのは無理という意識もあってかポゼッションは下がり、そして5年連続最優秀選手というマルタ選手の攻撃もなりを潜めたまま、時間が過ぎて終了となって準々決勝としての試合を突破しベスト4が集う準決勝へと駒を進めた。次は聖地ウェンブリーでのフランス戦。ワールドカップでは敗退したけど決して悪くなかったチームが一層の研鑽を経てやってきた。これは強いけれどもこの守備が、しっかり出来ていれば相手に蹂躙されることはもうないはず。ゴールの精度も上がってくればきっと粉砕、そして決勝へと進んでくれることだろう。

 とはいえやっぱり気になったのが守備から攻撃へと転じた時の渋滞感で、蹴り返してもそのことごとくが相手に渡ってしまう光景が目に付いた。とにかく跳ね返そうって意識を高めそれがブラジルボールになることを覚悟していたのか、それとも蹴りが弱くて見方に通すはずが通らなかったのか、意図があったかどうかは解らないだけに何とも言えないけれどもパスにしてもトラップにしても、相手ほど正確ではなく不用意なプレーでもって相手にボールを渡してしまうケースが多いように見えた。このあたりは2戦目のスウェーデン戦から目に付いたことで、流麗なパス回しからつくるポゼッション、というスタイルはもはやなく、守備を固めることを先決にして攻撃は前に任せるようなスタイルが、強豪相手にちょっと身についてしまった感じ。それも悪くはない、勝つためには仕方がないことだけれどそれでもやっぱり戦ってなんぼのサッカー。ひたむきさは耐えることで見せるほかに、パスでもトラップでもその1つ1つのプレーに心を込めて、球を大事にするような姿でもって見せて欲しいなあ、やっぱり。

晴天の下でもビジョンはくっきり  あのブラックラグーン号の船長のセリフを借りるならば「まったくとんでもねえイベントを開催しちまったなあ。いかれているとしか思えねえぜ。だがおもしれえ。おもしれえってのは大事なことだぜ、『ゲームサマーフェスティバル2012』」ってところか。いや本当、冷房のガンガンと聞いたちょっと暗め店内に灯るモニターの灯りを目にしながら気分をそこへとのめり込ませる精神と技術の戦いに見られがちなアーケードゲーム機の、とりわけ格闘ゲームやシューティングゲームといったものを屋外で、それも炎天下で遊び見せるイベントなんて発想自体がパンクでロックでポップで歌舞伎。阿呆としか思えないけれどもその阿呆さが実にユニークでいったい何事なんだという気持ではるばる成田は滑河駅は側にある下総フレンドリーパークへと出かけていったらやっぱりとってもおもしろかった。

 雰囲気はまるでロックフェス、というかそういったものを目指して企画されたものだけあって1番手前に「闘劇」って格闘ゲームの大会を開くステージがあって、そして歩いてたどりついた広いグラウンドにはゲームミュージックを楽しむコーナー、シューティングゲームのすげえプレーを見せるステージ、一般参加も可能で昨今の業務用ゲームの腕前を競い合うステージがあって自由に都合に合わせて観覧可能。音楽ステージの「音劇」にはあの「アイドルマスター」からメインなんだろう3人が現れ歌い踊るステージを最初に繰り広げてくれて、たぶんこれが最大の目的だったプロデューサー陣ことファンたちが、集まりサイリウムを光は太陽光で消し飛ぶけれどもその色を見せながら振って声を上げてステージを盛り上げた。たぶん専門のイベントなんかでは何千人が集まりステージになんか近づけないのにここだとすぐそこに見えるって感じ。そして日光を浴びてその顔立ちもくっきりと見える夏フェスならではの雰囲気は、今日この日にあの場所に行ってなかったら味わえなかった。凄かった。

っていうか自分、「アイドルマスター」っていえば「アイドルマスターXENOGLOSSIA」しか知らない人間なんで天海春香も萩原雪歩も巨大なアイドルってロボットを操り戦う正義の味方としか認識していなかったりして、声も違う人たちだったりして本当の「アイマス」で春香や雪歩や四条貴音がいったいどんな役割を占めているのか解らず眺めながらそれでもまあ、聞いたことがある曲だなあと思いながら眺めていたのだったけれども、ああこういうのも悪いものではないって思えたととろが、特定の目的があって行くんじゃなく、そしてそれが目当ての人たちだけがあつまる場所じゃない、夏フェスならではのおもしろさって奴。格闘ゲームのファンにまで印象が伝わったかというと解らないけれど、見に来ていた成田の人たちにはそうかこういうのもあるんだと何かが伝わったんじゃなかろーか。狭い場所でしっかりファンを獲得して長く稼ぐのも良いけれど、時には外へと広める活動もあれば新陳代謝も行われてなおいっそうのロングヒットも狙える、と良いんだけれどもどうなるか。

 アイマスをざっと眺めてから物販ブースへと回ってえっと「東京ヘッド」の最初の以来だから17年ぶりとかそんなもん? 再刊からですら10数年は経っている大塚ギチさんの新刊「THE END OF ARCADIA」を買ったらサイン入りだった。おまけに本人の会場案内もついてきた。おれは僥倖。つか前に会ったのっていつなんだろう、もしかしたら村上隆さんがパルコで開いた「スーパーフラット展」のレセプションですれ違っていたかどうかしたかくらいかもしれないけれどもともかく久々のご対面。そして本がなかなか売れないからか、企画を持っていっても書籍化されない時代に自分の書きたいものをどうやって世に問うていくかということで、まずは電子書籍として配信し、それから自主流通のレーベル的なものを立ち上げてそこから自費出版的な形で出していくことにしたっていった説明をもらって、あの大塚ギチさんですらそうなのかと、意外に受け止めつつもそういう時代の訪れに、何をすべきかを考え動き始めている人たちが既にいることに、旧態依然としたメディアで腐りつつある身のどうしようもなさを思う。

 そういえばもう5年ほど前に「神様家族」の桑島由一さんが「ノーディスクレコーズ」って自費出版のレーベルを出して面白そうなクリエーターを世に出そうとしていたことを思い出した。自身のほかではあんまり出してもらえそうもない本も出してそれの合本版に解説を頼まれて書いたけれども何をいったい書いたんだっけ、掘れば実物もあるんし「NDL」って書かれたTシャツだって持っているけどそれももう昔の話で、世間というのはやっぱり未だ大きな流通の存在しか目に入らず、小さいところがそれでも面白そうだとやってる何かを見ようとしない。だから情報も流れない。そうだよなあ、「THE END OF ARCADIA」だってそれが書かれているってことを本が出るって知るまでまるで気づかなかったもんなあ、それは当方の不明を恥じるべきだけれどもそうした情報のミスマッチから、みすみす捨てられている傑作問題作があるとしたらもったいない。それを解消するのがSNSなりの役目なんだけれども結局、大きな情報サイトに群がるようにRT合戦して同じところに集約され、それ意外は流されていくだけだからなあ。どうしたものか。せめて自分1人がと頑張ったところでどうにもならない世の中。世間をちょっとは動かせるくらいの有名を得たいものだなあ。

 そんなこんなであちこち歩いてなみえ焼きそばとハノイ風ソーセージを食らい幼女が手押し車に乗ってアイスコーヒーを売りに来る様をながめチキンの串カツを食らいジュースをがばがば飲んでいたら熱中症にもかからず「電車でGO!」の時に一気に表舞台に立って話題になったタイトーのサウンドチームによる「ZUNTATA」のライブを聞いて気がついたら午前9時半の到着から6時間半くらいが経っていた。4500円は高いとおもったけれども“世界初”を体験しできたんだからこれも悪い値段じゃないんじゃね、とか思えた。聞くとネットとかではいろいろ凄い評判ばかりが書かれそれが増幅されてとてつもない場所だったみたいに言われているけど、現地にいる限りはまったりとしてのんびりとしてそして格ゲーの凄みも間近に見られる面白い場所。出ていた人には日光の映り込みとか熱さとか、押し気味のタイムスケジュールとかいろいろ大変なこともあったみたいだけれども絶好の環境ばかりで王様のようにプレーするだけじゃない、どんな環境でもおれは勝つ、みたいなバトルのスピリッツを傍目には感じられてそれもそれで興味深かった。1回目でそれもどうにかこうにか開催にこぎ着けてこれだけの規模を動かすんだから次はさらに楽しくエキサイティングなイベントになると信じよう。来年あったらまた行こう。明日は勘弁。肌が日焼けでもうヒリヒリ。


【8月3日】 終わったんだなあ「レンタルマギカ」。あれだけ幼なじみの眼鏡っ娘話で振っておいて最後はゴージャスな金髪の縦ロール娘と身はともかく心的に合体を果たすとは伊庭いつき、もげおちろ。オビオンという敵のたくらみが魔術世界の解放めいたものだと見えてそれが起これば何が起こるかが示されるなかで、人間もいっぱいいるこの世界でそれは阻止しなければという戦いのクライマックス。これまでいつきに手を差し伸べてきた仲間たちが1人、また1人と過去の思い出なんかを添えて現れ力をふるう展開がまさに最終回って雰囲気を出していた。これをアニメーションで見たかったなあ。またやらないかなあ。途中までそいうやDVD買ってたんだっけ。買いそろえ直そうかなあ。とりあえずオルトヴィーンが最後に消えゆくツェツィーリエから何を言われたのかが気になるけれど、それは個別のエピソードが収録される番外編で明らかになるのかな。待とうまだしばらく続く余韻を。

 なんというかどっちも凄まじい人生を送っていたのだなあ、滝本竜彦さんと海猫沢めろんさん。「僕のエア」って前に単行本で出た滝本さんの本が文庫になって表紙は安倍吉俊さんという昔ながらの組み合わせに復活してさあ、あの爆裂滝本ワールドを堪能するぞ、ってことにはならないのがこの作品。「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」にあった少女を助けてヒーローに、って壮快さもなければ「NHKにようこそ」のようなひきこもりの最底辺から宗教に溺れる少女を助ける身へと転じて活躍する痛快さもなくただひたすらに、壁に向かって言葉を放って戻ってこない返事に沈思するような、鬱々とした世界がそこに開けて読む者を泥と砂の混じったような足場の世界へと引きずり込む。

 そんな内容は読んでいただくとしてやっぱり凄かったのが海猫沢めろんさんによる解説で、それが普通なら作品そのものについて何を言わんとしているか、って内容になるものが海猫沢さんのそれはまるで評伝・滝本竜彦。「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」と「NHKにようこそ」で華々しくデビューを飾って「超人計画」も世に問い順風満帆に見えた滝本さんが一転、書けなくなって懊悩へと向かい始めたあたりで知り合って、そこから決して寄り添う訳ではないけれど、ポイントポイントで様子を見てきただいたい8年とか9年とかいった期間が綴られる、って滝本さんまだデビューして11年くらいだから相当期間、はいずり回って来たってことになるんだなあ。

 結婚したとは何かで読んだけれども離婚をしたとか、その後にゴージャスなマンションの持ち主とつきあっていたとかまた別れていまはセラピーだかヒーリングだかのインストラクターになっているという話はあんまり届いていない、というか普通に作品を介して読んで知っているだけでプライベートがどうとか気にもしていなかったんで、間にこれだけのことがあってそれでなお2010年に「僕のエア」を出し「 ムーの少年」を出してそれが今回の文庫化にもつながっているのはいろいろ思うところもあったんだろうと想像。そしてこれからどうなるのかも想像するしかないんだけれどもきっといずれ書いてくれるだろう、海猫沢めろんさんによればそれはひきこもりという1990ねんだいから20000年代にかけての象徴的な現象の代弁者ではなく、もっと普遍的な人生の悩み、人間としての悩みを描いた作品なんだから。待とう待つしかない。

 という海猫沢めろんさんも相当にいろいろあったみたいでそれは自伝的な作品なんかを読んだりしていると伝わってきたけれど、あの「左巻キ式ラストリゾート」を出して世に出て名を広め、SFを書いたりノベライズをやったりして結構繁盛しているようにみえてデイトレードに失敗したり書けなくなったりしていたみたい。この間に何度かみかけたりはしているんだけれどそういう話をする間柄でもないんで、ぽつぽつとは出ている本とか雑誌での活動なんかを見て普通に活躍しているんだと思っていた。人生っていろいろだ。というか今は「ダ・ヴィンチ」での執筆もあるし雑誌でも他に書いているみたいだし小説だって発注があるみたいで傍目には善哉、実体は不明。はやくだから何か賞をとって名を挙げ名を広め名を定着させてそして、今度は滝本さんを小説の世界へと引っ張ってきて欲しい。みんな読みたいんだよ滝本竜彦さんの新しい小説が。今を切り裂き世界を振るわせる文学が。

 池袋でエヴァの写真展をやっていたんで見に行った。川島海荷さんは綾波レイを頑張っていた、というか何というか。あのプラグスーツってやっぱり誰が来ても相当に野暮ったくなってしまうみたいで着るならやっぱりそれなりに、背丈があって手足が長くて首が細くいけないのかもなあと思ったりした夏の昼下がり。マリのコスプレをしていた人の制服姿はまあ妥当。プラグスーツ姿はやっぱりどこか膨らんでいるっぽいかなあ、キュッと空気を抜いて搾る装置が本当についていたら、相当に気持も良かったか。グッズ類は下のコラボショップに格好良さげなカットソーがあったけれども、ロックTを模している奴で格好良すぎてオタクには厳しいか。あとマリがなかったのが残念。Qの予告ってのもあったけれども劇場で見た奴だ、ワイヤーフレームのピアノが鳴る奴、これのどこがエヴァなんだろう、それともずっとワイヤーフレームで表現されたりするのか。待ち遠しい。

 岐阜の高山っていったら昔っからの観光地で放っておいてもあちらこちらから人が来て賑わいを見せているけれども流石に岐阜からさらに2時間とか3時間とかだっけ、電車に揺られていくのは遠くてちょっと二の足を踏んでいる人にとって“きっかけ”となるのが「聖地巡礼」という奴なんだろう。岐阜新聞が十六銀行の調査として記事にしたものによるとアニメの「氷菓」が放送された影響で、高山に行こうって人が増えてだいたい21億円とかの経済効果がそこに見込まれるようになったとか。その額が大きいのか小さいのか高山にとって微々たるものなのかは解らないけれども、プラスになっているということだけは確実でそれをアニメがもたらしている、っていうのは流れとはいえやっぱり面白い。というか「氷菓」を見ていてあんまり高山を意識していなかったんだけれど、そんなに高山色出てる? さるぼぼとか映ってる? いやさすがにさるぼぼは、見せると九州で放送できなくなるからなあ、ってそんなことはないけど。なら言わせてみるた千反田えるに「さるぼぼです、気になります」って。

 やあ柔道が滅びたよ。日本の柔道の男子が五輪ではじめて金メダルを1つもとれなかったよ。誰が悪いんだ誰が悪いんでもない講道館による一括支配という状況が競争を生み出さないで、安寧の中に選手たちを浸らせてしまったんだよ。ここはだから100年前に水道橋の講道館をひそかに抜けだし、東京ドームの地下へと道場を移して特訓に次ぐ特訓を重ねてきた暗黒柔道が、今こそ自分たちの出番だと表舞台に現れ、柔い表の講道館の柔道なんか粉砕しては、世界に出ていって、連勝に次ぐ連勝を重ねるしかないんだそうなんだ。って本当にそんな柔道が東京ドームの下にはあるのかというか100年前に東京ドームなんてなかったじゃん。いやいやだったら秩父山中に拠点を移した山岳柔道なり孤島に拠点を持っていった絶海柔道なりがいっせいに姿を現し我こそが本家と行って争えば良いんだ。ならないかなあ。


【8月2日】 ユリカノってもっと凛として美しい感じだったのに、何でか退行してディセルマインを兄のように慕う一方でほんとうの兄のヴィラジュリオをまるで無視してお兄ちゃんとっても可愛そう。そんな不思議なユリカノの真実を突き止めようと、夢の世界で彼女に出合って首とか占められた京乃まどかがランちゃんに頼みムギナミも誘ってディセルマインの母艦へと向かおうとするそのやり口で、密航できるんだったらああもグリューエルがいろいろ細工を仕掛けないって思った「輪廻のラグランジェ2」。地球どころか宇宙の命運をかけて血みどろの争いが始まりかねないところを、そんなまどかのぶち抜けた言動が和らげ愉快な展開になっているのが見ていて楽しい。けど恒星1つぶっ飛ばさなくちゃいけないくらいにせっぱ詰まった状況を、そんなお笑いが解決できるはずもなし。いつか来る激動に衝撃を受けないように今から心構えをしておこう。それともやっぱり突き抜けていくのか、ジャージ部魂という奴で。

 とあるメルマガのコラムについて幾つか浮かんだもやもや。そもそもが「なぜフリージャーナリストは震災後に劣化したのか?」ってタイトルが「自分の知名度を上げるためだけに扇情的な記事」を書いている類に近くって、どこか煽りをくれてやってアクセスを集めてみせようとする気分が見え隠れしないでもないけれども、タイトルで“釣る”のは座っていれば給料がもらえる社員ジャーナリストではなく、結果のみですべてを評価されてしまうフリージャーナリストにとっての必死の作法だから、別に目くじらは立てないし立てる資格も趣味もない。問題はだからそこに認められているテキストの是非で、その点でいうなら知性なり、趣味なりを同じくしたコミュニティでもって結託しては、仕事を回し合い内容を研ぎ澄まし合ってひとつの形を作ってきたジャーナリズムのスタイルが、もはや成立しなくなった状況を指摘した辺りは実に正しい。

 趣味だの教養だのといった幻想に頼らずすがらずある意味騙されもしないでダイレクトに、情報を得て咀嚼する層がツールの発展もあって生まれてきては、そうした層は扇情的な情報を求め、ジャーナリストの側はそうした層が求めたがる扇情的な情報を送りだし、それを受け取ってより扇情的な情報へと傾いていくスパイラルが、出来上がっているっていう分析も外していない。ただ新しいかっていうと既に多く言われ誰もが感じてきたことで、それを「一方で頭が悪く俗悪で単純な構図しか理解できない人はそれ以上にたくさんいる」というあからさまに明かな言葉を使って説明しているところは勇気があるというか、我が身を省みない所業というか。

 俗悪で単純な構図を理解できないのは、個々人の頭の善し悪しというよりはひたすらに俗悪で単純な構図をのみ提示しては、そうした構図しか理解できず複雑な背景も諸々の事情も考えようとしない受け手をはびこらせてきたメディアにおおいに責任もあるはずで、そんなメディアの一翼を少なからず担ってきたらしいメルマガコラムの書き手が、自嘲や自覚を示さないで「俗悪で単純な構図しか理解できない人」を揶揄するのにはちょっぴり躊躇を覚えてしまう。「詮無い」というのは報いられず哀しいという意味合いであって、決して自分もそうかもなあという自覚から出る言葉ではないからなあ。まあ良い、そうした他とは違った一角に自分を置いて俯瞰しつつ語るのもブランディングにおいて大切な戦略で、なおかつブランディングこそがフリーにとっては最も重要なことだから、それに意識を傾けることをやっぱりどうこう言う趣味はないし資格もない。大変だなあとは思うけど。

 といった成功した人へのやっかみと皮肉はそれとして、抱いた幾つかの違和感を拭った後では指摘はおおむね正しくて、今やマスメディアまでもがネットでのダイレクトな反応に敏感になってより阿るおうな形で記事を出し、その下劣さでアクセスは稼ぐものの一方で金看板だった“信頼性”をおおいに損なってはひたすらに自滅への道を歩んでいることは、つい最近も発生した幾つかの事態が如実に証明してしまった。それで悔い改めるかというと反省はせず処分も下さないまま、代わらずページビューがどうのと言ってはアクセス稼ぎに突っ走っているその先に、来るのは信頼を置いても数を尊ぶ風潮。これも過去には信頼がそのまま数につながっていたものが、受け手の劣化で信頼よりも扇情を好む層が増えてしまってそうしたものしか受け入れられない土壌が広まってしまった事情がるけれど、そうした責任を感じて改めるべき岐路で改められずに来てしまった付けが出てしまっている。そして最後の一線すら越えて今あ大手メディアは“信頼”ならない存在として揶揄され弄ばれているという究極の末期。その先は? 存在すら危うくなっている。

 じゃあ代わってネットメディアが信頼を与え、それに読者が応えて金ももらえてより良い信頼の輪を広げ羅得るかっていうとそうはならずむしろマスメディア以上に扇情の先鋭化が進んでいるといった赴き。誰もが信じたいものしか信じず見たいものしか見ないようになってしまったところに、信じたいものみたいものをお届けしてこそ稼げる構図に陥って、そこから外へと出てこず内輪に小さなコミュニティを作って閉じこもっていく。それで多様性の必要な議論ができるのか。多義性をもった状況を解説して理解させ打開策を打ち出せるのか。無理だよなあ。一方では心地良い言葉に阿る多くの人たちがいて、他方に信者の如くに信じたい言葉に群がる少数の人たちの交流泣き群体があってそしてこの国は扇情と信心の両極端に差配され、確実に宜しくない方向へと進んでいく、と。だからどうこう考えている時間なんてないんだけれどもそこで屹立して衆目を集め最善へと導く人なんて、どこにも見あたらないからなあ。結局はだから滅びるしかないのかもなあ。

 とかいっていたら大手メディアがすでに死臭を放っていた事を知って愕然。金メダルの期待に答えられないからと自殺したマラソン選手の円谷幸吉選手をして「この責任感と自尊心の美しさは何なのだろう」と讃え、「国を守るため毅然として死地に赴く特攻隊員と似たものを感じる。自殺と呼べば簡単だが、これは“走れない”ことで国家に迷惑をかけるという武士道の“恥”の概念からの『切腹』と同意である」と書いたコラムを載せて、その死を激しく美化し賞賛する。莫迦じゃねえのか。人がひとり死んでそれを讃えてどうするんだ。ましてや書き手は高校野球の元監督、スポーツという場で健やかに成長していくことを旨とすべき人間が、期待を背負って敗れた者に生きている資格はないと説く。気が違っているんじゃねえのか。負けてもそれは一時、それなり別の何かなりで頑張ることが人生なんだと説くのが普通じゃねえのか。

 さらに続けて「選手よ! 自分のためだけに闘うなかれ!」だの「国家の栄誉と誇りのために闘え!」だの「国に殉ずる覚悟で闘え!」だのと書いてオリンピックの選手を国民の奴隷かなにかのように書く。関係ねえだろ。選手たちは全員が自分の努力と実力によってその地位を得て、その栄誉を勝ち取ったんだ。それに周辺の無関係な人間が感謝しろ、負けるんじゃないなんて言う資格は微塵もない。期待はしても良いけれども背かれたからといって糾弾なんかできるはずがない。したいんだったら自分で努力し自分で勝ち取り自分で勝利をつかめばいい。それが出来ない外野の人間が、なのに「国を代表しているのなら国旗と国歌に真摯に向かえ!」だの「国旗国歌に敬意を示さぬ者は国民でもなく代表でもない!」などと言う。

 国家国旗には個人的には誰もが真摯に向かって欲しいし、敬意も示してほしいけれども、それはマナーの範疇であって、外野がそうすべしと決めつける類のものでもない。国を背負って戦い、負けたら腹を切れといわんばかりの前時代的なコラムを書く方も書く方なら、諌めずに載せる方も載せる方。昨今とりわけ偏見の激しい文章を載せてひんしゅくを買っている中で、似たようなことを繰り返していったい誰が得をする。反響があったと喜び内に向かって成果を強調しようとも、結果は信頼を損ない収益を下げて滅びへの道を歩むだけ。今の快楽に殉じて未来を失うこうした所業を、けれども誰も止めず諌めずむしろ称揚してしまう場所に未来は。そう考えるとまた夜眠れなくなっちゃう。

 食品の産地偽装というのがあってどこぞで生まれた牛なり何なりを松坂だの神戸だのと偽って出してはそれが露見し客を騙した悪い料理屋だといってメディアから糾弾されて経営に大きな傷跡を残した。建て直しにはだから責任者が辞めたりしたけれどもそれで解決するほど世間は甘くなくってきっと今もって経営にいろいろと支障があったりするんだろう。それでも糾弾に改善と辞任をもって応えるのはまだ良いほうで、これがたとえ偽装があってもそれは厨房が勝手にやったことだと言って責任者はまるで知らん顔をして、株主なり出資者なりに呼びだされて糾弾されてもそれで身を退くとかいったことはしないで料理屋に戻って叱られて居心地が悪かったんで次からは気を付けろといってそのまま居座るという、そんな料理屋があったら果たして未来はどうなるか。どうにもならないだろうなあ。つまりそういうことなんだ。困ったなあ。本当に困った事態だなあ。


【8月1日】 ドジでのろまな貧乏女子大生の田之中花が、あまりに酷い成績をつけたからと文句を言いに行った先は、見た目も頭脳も結構な久藤凪という准教授の研究室。傍目にはとてもダンディと知られるその久藤だったけれども、行くと実はサディスティクな性格で、やってきた花に罵詈雑言を浴びせかけてはテストの点数が低いのも当然と言ってのける。とはいえそこで引き下がっては奨学金を減らされてしまうと抵抗した花に、久藤はお手伝いの仕事を与えるかわりに点数を上げると取引をもちかけ、哀れ花は悪口雑言を浴びながらも、押しつけられた使いっ走りや掃除の仕事をこなしていいた、ある日。

 死んだはずの同級生から葉書が届くと言ってきた青年の怯えを勝手に感じ取って、お節介にも真相究明に乗り出そうとして壁にあたった花の先に、久藤が現れピーター・ブリューゲルの絵画を巨大なモニターで見て「ビューリフォー!」と連発しながら死人からの手紙の謎を解き明かし、歌川国芳の浮世絵を見ながら「ビューリフォー!」と叫んでは、学校内で猫に毒餌が与えられる事件の謎を解き明かしていく。そんな彼に靡くかというと相変わらずの罵詈雑言で親しくなることはない花。それでも自分が抱えている悩みを見透かされ、家族に関わる事件を解決してみせては、彼女にひとつの乗り越えおうとする意識をもたらす。

 タイトルになっている「ビューリフォー!」を久藤に連発される絵画たちは、あくまでも事件の性格を表現するためのひとつのモチーフ。ピカソの「泣く女」を見せては、恋人に振られたと泣き続ける少女と振った青年との間にある事情を勘案してみせ、ラファエルの「家族の肖像」を見せては、事情がある家族関係を探り出して大っぴらにしない形でそれぞれの気持に沿うような解決の道を提示してみせる。絵画の話した提示されることによって状況がつかみやすくなっているけれど、絵画そのものにまつわる謎を美術史家が解き明かすような絵画ミステリーとはちょっと違うからそういう期待は脇へ。むしろ大学生という存在が抱える悩みを、さくっと解決してみせて共感を誘う話といえそう。とはいえ名門女子高に行きたいといったら柔道場の娘なんだから公立で良いと言った主人公の父親、息子もいるのにどうして娘にそんなに厳しかったんだろう。後継ぎはいるんだから箱入りにせずとも勝手に振る舞わせれば良いのに。そんなあたりにちょい、納得しづらいところも。まああんまり気にはならないけれど。

 まさに毀誉褒貶とでも言おうか。あるいは賛否両論とでも。なでしこジャパンこと日本のサッカー女子代表が現在、ロンドンで開かれている五輪のサッカー競技に出場していてその1次リーグ最終戦として南アフリカと対戦。すでに決勝トーナメントへの出場を決めているなでしこジャパンにとって半ば消化試合となってしまったんだけれど、それでも未だ使っていない選手を試したり、ずっと使ってきた選手を休ませたりできるという意味では貴重な1戦。なおかつその勝敗なりが決勝トーナメントの初戦、準々決勝の試合の相手と場所を決めるとあって、采配にもいろいろと思惑がつきまとった模様で、事前にグループ1位となって遠く500キロも離れた場所にいくべきか、それとも2位に留まり同じ場所での対戦を選ぶべきか、その際に相手となるのは1位だったらフランスあたりか、2位ならブラジルか英国か、なんて計算からこれは2位が良いんじゃないの的ニュアンスが漂っていた。

 日刊スポーツなんかはそんなニュアンスにどちらかと言えばネガティブで、なおかつニュース性を煽ろうとしてか大黒柱の沢穂希選手が、第2戦のスウェーデン戦で途中後退させられたことに不満を抱き、なおかつ2位狙いなんて歓迎できない旨を言ったとか示したなんて話を流して佐々木監督との対立を煽っていた。沢選手だってベテランのプロフェッショナルだから、スウェーデン戦での体調が万全ではなくあまり活躍できなかったこを自覚しているだろうし、代わって入った田中明日菜選手の活躍ぶりに安心もしたんじゃなかろーか。あと2位狙いもそういう戦い方があると知って自分を安め、周りを安めつつどうモチベーションを保つかを、腐心していたんじゃなかろーか。けど新聞はそうした配慮や遠望に思いをはせず真っ向から対立しているような構図を作り出した。その方がメディアとして注目を集められるから、なのかは解らないけれども、他紙にはあまりないそうした対立を1紙だけが煽るのはやっぱり何か意図があり、思惑がそこにあるんだろう。あんまり美しくはなさそうな。

 そして試合の方はといえば、安藤梢選手に丸山桂里奈選手に岩渕真奈選手といった出ていなかったか出ても少しの選手が前戦に入ってそして、守備には矢野喬子選手に高瀬愛美選手らを入れて大舞台に慣れさせようともしていたみたいだけれども、それがそのまま引き分け狙いだったかというとどうだろう、安藤選手も岩渕選手もここでアピールできなければ使ってもらえない可能性もある瀬戸際にたって、前半については何かやろうとしていた感じが漂っていたし、丸山選手も長い時間をこれまで出ていなかったにも関わらず、ずっと走って前からチェイスとかしていた。その意味では決して引き分けようとは思っていなかったけれどもどこか、やっぱりかみ合っていなかったのは時間が足りなかったせいなのか、それともそれぞれの資質の問題か。

 前戦での攪乱を見込まれていただろう岩渕選手だけれどもドリブルは続かず、パスは長くてオーバーとなるなどどこかピントが外れてた。安藤選手もトラップを奪われるような場面が多々あって前戦のポストとしてあんまり機能していなかった。丸山選手はスペースを使ってボールを運ぶ機械をあんまり与えられなかった。それは周辺の選手たちに同じ意識がなければ適わないこと。その意味で南アフリカ戦のなでしこジャパンはちぐはぐで、なおかつそのちぐはぐを打開しようとするだけの意志があんまり強くは見えてこなかった。何度もカットされるパス。威力弱いんだからどうにかしなきゃと思って強く出すようなことにはならない。囲まれてもオーバーラップがなく戻すだけの攻撃。対する南アフリカは何度もサイドをかけあがっては連携を取りながらボールを前へと運んでいた。レギュラー組にやれてサブ組にはできないのはなぜなのか。そんなにスキルだって違っていないのに。そこがだから意志の差なんだろう、レギュラー組みとサブ組との。

 そんな戦いぶりを見つつ一方でレギュラー組の休養も必要という思考のところにカナダとスウェーデンの試合の様子が入ってきてこれは2位抜けも可能という判断が立って後半のそれも多分終盤あたりから、引き分けを狙いに言ったんだろう佐々木監督の判断についてジャーナリストの大住良之さんは「引き分け狙い…なでしこ、フェアプレー精神はどこへ」といった記事をかいて厳しい筆でその差配を糾弾している。サブ組の意気軒昂が損なわれたとか、頂点に挑んできた相手に失礼だとか。でも試合を見ている限り、前半から後半も半ばあたりまで、戦おうとしていたなでしこジャパンだったけれどもサブ組のコンディションがレギュラー組に勝ることなく決め手に欠けていたこと、そして南アフリカもサイドを突破し前戦に走り込み中盤からもミドルを放ってとしっかり攻撃を行っていた。決して引きこもりからのカウンター狙いではなかった。そんな前向きな相手にただ引き分け狙いの意識だけであそこまで戦えるとは思えない。頑張ったけれども今ひとつだったんで切り替えた。なんで大住さんが言うほどに、相手をリスペクトしていなかったとは思えない。

 一方のこちらもベテランジャーナリストの後藤健生さんは「なでしこ:面白かったあからさまな『引き分け狙い』」と書いてしっかりとメダルのために行動した佐々木監督を誉めている。周囲の声も多くなるなか選手たちに納得させ、何が最善かを解らせた上でしっかりと引き分けてみせたその采配は、日本サッカーの成熟だと説く。気持的にはゴタケさんの方を指示したいけれどもただ、サブに限らずこの何試合かのなでしこジャパンの試合を見て、前のような球際に厳しく行く勝負への執念、何が何でも奪い運んで得点するんだというひたむきさが、ちょっと薄れているような気がしないでもない。あの負けても挑んでいく凄み、って奴に惹かれファンになった人も多い日本の女子サッカー。その評判を聞き及んでサッカーを始めた女子たちの、希望であり夢でもあるなでしこジャパンが自らその看板を下ろすような真似をして、どうするんだっていった大住さんの憤りはよく解る。相手への敬意はしっかりと。そして勝負はきっちりと。その両方を表現できるにはまだ、やっぱりなでしこジャパンも日本のメディアも、未熟なのかもしれないなあ。

 せっかくだからと桜 稲垣早希さんが登場する、セガのアミューズメント施設での「エヴァンゲリヲン新劇場版・Q」に連動したキャンペーンの発表会を見に秋葉原まで行って、アスカの制服姿をコスプレした稲垣さんを目の当たりにする。こんな可愛い子が散々な目にあう「ロケみつ」ってやっぱり酷い番組だよなあ。でもそれが良いんだよなあ。なんて。キャンペーンではエヴァに絡んだグッズなんかがいろいろもらえるみたいで、ポイントがたまると何とレイちゃんのフィギュアももらえてしまうみたいなんだけれどもそれをアスカに扮した稲垣さんの前で見せてはやっぱり言われる「あんたバカー!」の叫び。だったら作れば良いんだけれども最新作ではアスカ、散々な顔立ちになっているもんなあ。でも活躍はいっぱいるすみたいなんでその辺り稲垣さんも満足そう。映画が始まればレイの眼帯つけた姿でプラグスーツになって登場してくれたりするのかな。そういうメジャーな役はひょいっと現れかっさらっていく「9nine」に持っていかれちゃったりするのかな。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る