縮刷版2012年7月下旬号


【7月31日】 何だ実は男装の美少女じゃないのかとガックシきた人もいれば、紅顔の美少年と荒くれな少年との交流にそこはかとない美学を見出す人もいそうな鹿屋めじろさんの第8回C★NOVELS大賞樹霜作「放課後レクイエム」(中央公論新社)は、真名という「名字」の元に異能の力を持った一族が幾つも世にあって、ずっと続いていきたという架空の歴史を持った日本が舞台の異能伝奇バトル。狭山の方で少年が何か怪我を負って、それがどうやら真名の力によるものらしいと聞いて、そうした真名の力を取り締まる組織が立って調査要員を派遣。そのうちの無名壮源という少年は、地元の高校に入って何か起こっていないかを探ろうとして、そこにかつて自分がその地域に住んでいた時に仲良しだった少年を見つける。

 ところが、今は夢殿という名字を持つ少年は無名のことなど知らないし、かっての円山という名字でもなかったと言って無名を拒絶。それでも興味を持った無名は夢殿がふらついている場面を夜に見て、後をつけて彼が異能の力をつかって誰かと戦っている場面に行き当たる。どうやらネット上で組織されたバトルがあって、真名を持つ者たちがトーナメントのように戦っては夢を叶える勝利をつかもうとしていた。怪我もそうした戦いの中で起こったものと判明し、調査は一件落着かと思ったもののの、無名の相棒が、かつて狭山で起こった「よみがえり事件」に興味を持ってそちらの調査に没入。一方で無名も両腕を火傷して日常生活もままならなくなった夢殿を放っておけないと、彼の家に上がり込んで世話を始め、続いているトーナメントの立会人も務めて近づく決勝のための準備を進める。

 いったい何が夢をかなえてくれるのか。それは誰の力によるものなのか。単純な土地の恩恵ではないと解り、背後にあった誰かの企みが浮かび上がり、それがかつてのよみがえり事件と重なった時、真名の力を持つことの大変さと、それを受け入れ御して生きていく大切さが見えてくる。無名もその真名が示すようにある力を持っていて、その力がクライマックスで発動されて壮絶な事態をぶちこわす。ある意味で「とある魔術のインデックス」の上条当麻に近い存在かなあ、無名。でも「不幸だぁー」とは叫ばず健気に夢殿の面倒を見るところに、ショタなのかBLなのかなスピリッツがあったりするのかも。それがショタであったりBLな読者を引きつけたりするのかな。個人的には強くてそしてツンケンしている火ノ宮明日香ってキャラが気にいったけれども、何と許嫁持ちだった。許さん許嫁。ツンケンしているように見えてその力を、許嫁に言えず隠して悩んでいたりするところが可愛いなあ火ノ宮明日香。なおのこと許さん許嫁。

   いくら目を凝らしても本多・正純の平べったさが解らないのは、それだけうまく隠されているからなのか、あまりに平べったすぎて見ようにも目の端に何もひっかからないのかは謎として、アニメーション「境界線上のホライゾン2」では点蔵と傷ありとが入ったあとの風呂に、武蔵アリアダスト教導院の面々もしっかり使ってゆらしたりゆらしたりゆらしたり。あの鈴さんだって、アデーレが触るとちゃんとひっかかったりするくらいのものがある中で、正純とアデーレだけが平べったさを満天下にさらして、そうした方面の趣味人たちを喜ばせている。自ら削った正純はまだしも、何もしないでそれではアデーレも可愛そうだけれど、こればっかりは仕方がない。いずれ性徴が訪れるのかそれとも一生を平べったく過ごすか。「境界線上のホライゾン」完結の暁にはきっと示されることだろー。

 なんというか、人は信じたいものだけを信じようとするというか、ロンドン五輪の開会式でスタジアムに入ってきた選手団が、そのまま場外へとでていってしまったことを取り上げて、何の差別だと吹き上がったり、実は放射線を嫌って追い出されたんだと妄想したりする見解が大発生。いくらなんでも危険だったら、そもそも入国が果たされないんじゃね? って素朴な疑問も言いたいことを言おうとするためには邪魔と無視される。まさに聞く耳を持たないって奴。そういやあ区役所が自衛隊を追い返したとかいった報道が、謝罪した翌日に再び掲載されたのも、そう思い混んだからって理由が示されていた。最初に拡散した人たちも、それがそうあるのが自然じゃね的流れから真実と思い多いに広めた模様。それで区役所にわんさか苦情が行って大騒ぎになたっけ。

 後で報じた側が「もっと疑おうぜ」って言っていたけど、手前のところの報道を「疑え」って書く間抜けっぷりに自省はなさそう。それともそういう「疑え」という意見すらも疑ってかかれって問いかけか? どっちにしたてみっともない。さて五輪の選手団について真相めいたことがあるとしたら「日本選手団は、入場行進の95番目に登場した」んだけれども、「調整を優先し、参加した選手はわずか四十数人。スタジアムを一周しただけで、旗手を残し、すぐ会場を後にした」(2012年7月28日付け朝日新聞夕刊より)そうな。決して巨大ではないスタジアムのフィールド部分にいっぱいの造形が施されていて、あれだけの選手団がそもそも全員はいるはずがない。

 入ったとしたらそれはドラえもんがスモールライトで照らしたか、小さくなるトンネルを途中で抜けたから。そうでないなら抜けた人たちがいたと考えるのが自然な流れで、実際にそうしたことを伝える報道もあるのにまたぞろ信じたくないことは信じず信じたいことだけを信じる病に冒されている人たちは、大手メディアはなぜこれを報じないのかと言って吹き上がっていたりする。報じてるっての即日で。とはいえそうしたすぐに明らかになることでも、信じたいことしか信じない人たちの圧力の中で拡散され広められ、一方で既存のメディアに対する信頼の低下が本当のことを本当と思わせなくなっている。そして定着するデマゴギー。それを信じる大勢の人たち。信頼への回帰がないと遠からず大変なことになりそうだなあ。

 やあ高見ちゃんだ。あとは夕ちゃんか。「ヤングキングアワーズ」の最新号に「ジオブリーダーズ」の伊藤明弘さんが寄せているグラビアは本編でもいっぱい見せてくれてた高見ちゃんがミニスカートから細い足とそしてその付け根って奴を見せてくれていてなかなの可愛さ。顔立ちも姿態もばっちりで、とても利き手を変えて描かれたらしいものとは思えない。人間ってすごい。目で見て脳を働かせ腕へと伝える回路なり才能は右も左も同様で、それを駆動させればちゃんと働き磨けば磨けるってことなんだろー。ちょいシリアスへと寄っているのはまずはリアルに描くことで“基礎”を固めてそこから速度を高めやがてさらさらと行くようにしているってことなのか。ともあれ復活の日も何か近づいて来ているようであとは養生と研磨を経て今はひとりぼっちの田波くんが、救われる時が来るのを待とう。社長もグラビアバージョンになってたら楽しいかも。


【7月30日】 やあ勝った。素晴らしかったアーチェリー女子。眼鏡っ子に長身と目立ち過ぎる2にの間に1人いたりする3人組はそれだけでもひとつのキャラクターになりそうだけれど、最長身で179センチはあるらしい早川漣さんという人の、あの大事な最後の1射で10点にぶちこんで来た精神力の強さには、やっぱりとっても感動する。聞くと過去にいろいろあった人で、血筋は良くても当人は未だ経験のない代表の座をどうにか勝ち得て、そしてチームを引っ張るリーダーとなり、遠くロンドンの地へと連れて行っては因縁ある韓国に破れはしたものの、ロシアを下して3位に入って女子アーチェリーで初のメダル獲得という偉業を成し遂げたことは、心底よりの賞賛に値する。ただ出るため、ってだけでも悪くないけど出た上で、ってところは凄いなあ。いろいろ言う人もいるだろうけど認められたルールの上で最高以上の活躍を見せたことは、誰もが素直に讃えるべき、だろう。おめでとう。しかしやっぱり大きいなあ。

 やあ勝った。素晴らしかったサッカーの日本男子五輪代表は、モロッコを相手に攻められはしても守備が機能して得点を許さないまま、後半に必殺の永井選手へのパスが通ってそれを永井選手キーパーのツッコミをかわすようにちょこんと蹴り上げたところ、ボールがふわっと浮かんでゴールへと入って1点リード。終盤に迫られたところを権田選手が体を投げ出して防ぎ、続く二の矢もカバーに入った選手が跳ね返して0点で抑えて見事に連勝。そのまま予選通過を勝ち取った。

 スペインはホンジュラス相手に敗れて敗退決定。そう聞くと本当に強かったのって思いたいくもなるけれど、幾度となく日本のゴールに迫ったあの攻撃を見れば決して弱いチームではないと解る。楽して勝とうとしたか焦って得点を許して追いつけなかったか。いずれにしても絶対はないってことがこれで見てた。だからなでしこジャパンも絶対なんて信じないで続く南アフリカ戦を全力で勝って行こう。それで次がフランスだって良いじゃないかサッカーだもの。

 山口県民の気質とかについては幕末の長州藩の志士たちの言動あたりからしか想像するより他になくって、とりあえずは大河ドラマや司馬遼太郎さんの著書あたりから、雁字搦めの状況を打破して何かを変えていこうという意志と、たとえ士族の類ではなくても才能があれば登用して仕事を任せる進取の心を持った人たち、という印象はあったけれどもそれも100年とそれ以上も昔の話で、今は元総理を国に抱える保守王国、ってことだから知事選でも争点は反原発反オスプレイを唱える飯田哲也候補に対して、山本繁太郎候補は原発どんどんオスプレイぶんぶんと唱えるかと思ったらさに非ず。

 どうやら県内に建設中の原発は、工事を中止して様子を見ることになっているようだし、オスプレイについても安全性が確保されるまでは、飛ばさないでねと言っていた様子。それは飯田哲也候補も同様らしくそのあたり、争点に共に違いがなければそれならと保守な地元が推薦する山本繁太郎候補が当選するというのもまあ、自然な流れなんだろう。こっちに入れても。原発は進まずオスプレイは飛ばないんだから。だったら当選した新しい県知事が、豹変して原発の建設にゴーサインを出したりオスプレイの飛行を認めたりしないかどうかってあたりは可能性がないでもないけれど、そこにどういった議論が尽くされるかってところが問題であって、それさえしっかりしていれば何が豹変しようともそれもまた民主主義によって選ばれた首長に与えられた権限の範囲内。そうさせないためにも知事には総理大臣とかとは違って、確かリコールという仕組みもあったりする訳で、単純な善悪の戦いに落とし混んで考えるべきではないんだろう。

 けれども、負けた方に正義を見たがる人たちは対して勝った方を徹底して貶めようとする節もあるだけに、そうした敵対の構図が相手を頑なにしてかえってよくない状況へと道を進めていてしまうかもしれないから要注意。ツイッターのフォローが少ないのに当選したのはインターネットでの投票ができないからだと言ってみたり、奥さんが伏せた夫に変わって選挙戦を戦ったのに勝てたのは組織が強かったからだと言ってみたりするのはやっぱりどこか違う。けどそうは思わず信じて叫ぶ頑なさが、結果的に真っ当さをオミットしているんだということをちょっとはふり返り考えてみよう。

 そんな防府の50年前と1000年前を舞台にした片渕須直監督による「マイマイ新子と千年の魔法」を劇場で見る。久しぶり。いつぶりなんだろう。DVDがでてからこっち見てはないから多分2年とかそんなもんか。回数でいったら10回目くらい? でも飽きない。ほとんど完璧にセリフも展開も知っているけどそれでも飽きずむしろ目がスクリーンへと釘付けとなり、耳は音声に聞き入ってしまうくらいに隙というものを感じないですむ。そんな映画って意味では「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」と同様。これも10回近く見ていまだに飽きずなおかつ同じ場面で泣くからなあ。「REDLINE」も同様か。そんな映画がのべつまくなし作られていて、それで決してジブリだ細田だといった具合に当たらないこのギャップがどうにもこうにも。何とかしたいんだけれど何ともならないメディア状況。つらいなあ。

 SFだったらもっと根本的にロボットの心の種類について突き詰め、それは実を伴ったものかそれともデータの積み重なりによる反応に過ぎないのか、後者だとしてもそれを人間の心と見分けることが可能なのか、そもそも人間の心とは何なのかといった部分へ踏み込んで、やれチューリングテストだのフォークト=カンプフ調査だのといったものまで持ち出されて、人間とロボットの差異なり同意なりへと話が及ぶものなんだろうけれどもそこは業田良家さん。古今あるSFのロボット物に挑むんではなく、その描ける文脈でもって人間が、ロボットなり何なりといった異質な存在と出合って何を感じどう思い、そしてどう行動するのかってあたりを描き出しては、何であっても愛を失わず愛を抱いて進む大切さって奴を「機械仕掛けの愛」(小学館)という本で描いてくれている。

 冒頭からもう感涙の嵐で、子供として夫婦の間で育てられているロボットが遊園地に連れて行かれたものの、親たちは女の子に飽きてしまっていて、新しい男の子のロボットを家へと引き入れる。もう自分は用済みだと感じたロボットの少女が向かったのは、かつて自分を温かく育ててくれた女性のもと。とはいえその女性からかつて手放されたということは、すなわち女性に本当の子供が出来ていたということで、自分の娘をかいがいしく世話をするその女性を遠目に見て、ロボットの少女は足を止め、逃げたロボットを追いかけてきた会社の人に捕まり連れて行かれようとして、かつて少女のロボットを育てていた女性から呼び止められるものの、自分は違うと微笑みつつ目に涙のようなものを浮かべて去っていく。流れたのは涙ではなくオイル。メモリーも消されてしまった少女のロボットをけれども、今度はかつて少女を持っていた女性が大切に受け取り自分の家へと連れ帰る。

 どうしてかつての家族の記憶をリセットして出荷しないんだろうか、というあたりはそういう記憶を残しておいた方が、人間らしい仕草や表情を見せられるからだという説明もあって、なるほどと理解。ただ自分で誰かに捨てられるかもしれない不安を抱き、かつて面倒を見てくれた女性のところに行くかというところは「心」の問題になるため工学的に正しいのか、SF的に納得させられるのかは難しい。ただ、ロボットだからという設定でドライになりがちな人間関係を見せつつ、これが例えば人間だったとして、かつて里子として育てられながら手放され、それでも里親を思う気持ちのいじらしさと、里子は里子で実子は実子だからだという割り切った考えにかつてはあったものの改めて、手放した里子を見て思いを募らせる女性の情愛の深さというやつが浮かび上がってくると思わせ、再びロボットという事実を重ねることによって誰であれ何であれ、大切にされた思い出、大切にしていたい思いといったものがあるんだと諭される。

 病気がちの母親とその娘を世話していたロボットが、ある日娘を幼稚園の送迎バスの事故で喪い。悲嘆にくれる母親から娘のことを忘れないでねと頼まれ、ロボット自身も自分の行動を責任がないにも関わらず悔いていたところに母親が死去。そして放逐されてスクラップ工場へと回されたロボットは、そこで廃品回収の仕事なんかをしながら朽ちていこうとした中で、自分が母と娘と過ごした思い出を残そうと、回収された家電なんかをリサイクルする部署に回してもらい、そのICにこっそりと思い出の記憶を埋め込んでいくというエピソード。家族を失ったことを悔いるロボットはロボットなのかという懐疑がSFだったら浮かぶだろうけれど、そこは友人でありそれ以上の存在としてのロボットがあって、ぽっかりと抜けた空虚な気持をどうにか埋めようとしてあがき、電子の塊だからこそできる手段で思い出を繋ごうとする健気な物語として、読んで感涙をもたらす。

 放逐されらロボットがスクラップ工場行きになるのは、松山剛さんの「雨の日のアイリス」にもちょい通じる展開。思い出を得たロボットがときどき人間っぽい躊躇いを見せることをユーザーはどう思っているんだろう。そのあたりを詰めればロボットを、より人間に近づけるための手段って奴も見えてくるかもしれないなあ。ほかに死刑囚の神父をしているロボットが、それでも人間の思いに強く共感する話や、劣等ロボットとして失敗するように仕込まれているのは、店長のロボットが優秀なのに人間が腹を立てないためのガス抜きだと知らされ、それでも劣等ロボを貫こうとするロボットの話、王室の戦闘ロボとしてゲリラを倒しながらも、ゲリラ側に連れ去られ洗脳されて王室を全滅させて、道具としてのロボットの身に苦悩し自爆するロボットの話なんかを収録。単純に放たれてくる心あるロボットの優しさや強さ、そんなロボットと人との関係の切なさややるせなさ、ロボットと人とが理解しあった場所に生まれる情感の温かさに泣かされる。こういう話も描ける人だったんだ業田さん。注目作。


【7月29日】 いやあ面白い。そしてとってもじんとくる。エドワード・スミスだなんて名前をしながら実はばりばり日本人らしい作家による「侵略教師星人ユーマ」(メディアワークス文庫)に登場した待望の第2巻。地球に居座り10年あまり、何もしていないように見えて実は着々と地球の破壊を進めていた悪の異星人に立ち向かい、これを撃退して今度は自分が地球を侵略するとは宣言してはみたものの、その侵略はとてつもない地球愛に満ちたものでこの美しい地球、この優しい地球人たちをそのままそっくり残すことが俺の侵略だと言い切るユーマことヴァルトラン星人が、次に進めようとしたその侵略とは、ってのがその内容。

 とはいえもはや敵はおらず誰かが責めてきたって全宇宙がその暴れっぷりを警戒して、寝間着でしか戦っちゃいけないとか制限するくらいのユーマを相手に攻めてくる奴なんかいないのに、いったい何を戦うか、ってところで長く宇宙人が居座っていた島から謎の巨大な卵が見つかったという事態が展開の鍵となる。それが危険なものなのか、それとも大丈夫なものなのか。彼の地球愛とそして嘘をつかない性格を知っている高校生たちが、ユーマの働く学校で教師のユーマに尋ねたところ「大丈夫なわけがあるかああ」と大きな声。大丈夫じゃないんだ。

 でもそれをユーマが知っているなら大丈夫だと安心して、成り行きを見つめる舞衣ら高校生の主人公たち。一方で島には謎の黒ネコが現れあちらこちらを歩き回り、また島で見つかった卵の調査のために、著名な生物学者で、ずっと家を離れていた舞衣の父親が帰ってくる。宇宙人が来たショックとかもあって体を悪くし早くに亡くなった母親のこともあって、家を空けていた父親とどうにもうまくいかない麻衣。あるいは島での卵の調査に借り出され、彼女との連絡がなかなかとれない若い研究員。そんなギクシャクとした関係が語られながら進む物語のクライマックス。

 今度は上にジャージを着込んで少しは耐熱防御を施したユーマと、卵にまつわる何者かとの戦いが始まりそして示される家族の愛! その傍若無人に見えて実は愛情深く、真正面から突破していくユーマの侵略は地球にどうしても耐えない諍いすらも押さえ込もうとしているらしい。どこか熱血教師物に見えながらも、校内なんて有り体な場所におしこめず、宇宙人とか怪獣とかを絡めてスペクタクルを導入し、学校なんて狭い場所ではなく地球という大きなスケールの存在を、さらに大きな宇宙という目線から見て悪いところを指摘し、良いところも示して読む人たちに改めて自分の立ち位置を確かめさせる。これはユニーク。そして感動的。だから面白いんだ「侵略教師星人ユーマ」は。もっと多くの人に読んでもらいたいよなあ。どうやったら広がるかなあ。

かわいいかわいい  起きるとすでに超熱な中を枕元においてあったスポーツドリンクで潤し生き返って「ワンダーフェスティバル」へと向かう。ニューデイズで恒例のばくだんおむすびオムライスを買って貪り食ってこれで1食に軽くなるなあと思いつつ、到着したワンフェス会場でとりあえず駆けつけた水道橋重工のコーナーにはまだ幕がかけられ中身が見えず。聞くと午後1時からだというので近所を回り鎌田さんの「Kamaty Moon」にご挨拶。ご主人が帽子にかざっていたゴーグルがスチームパンク寄りになってて格好良かったし奥さんが首から提げてた携帯型扇風機のケースもどこかレトロフューチャーな感じになってて格好良かった。こだわるなあ。

 TAKORASUさんも元気そうに巨大なオブジェを展示。キャラクターが圧倒的な人気を誇るワンフェスだけれどオリジナルで勝負できる人たちも確実に増えている模様。本当は一般ブースにもそういう人たちがもっと増えて欲しいんだけれど。例えばこの本田浩二商会というところはイラストから抜け出てきたような、とうか元にイラストがあるのかな、そんな雰囲気のユニークでユーモラスな人間と動物の組み合わせなんかをモチーフにしたフィギュアを並べて出していた。そのまま何かの表紙とかに使えそうな雰囲気。周囲をキャラクターたちに囲まれた中でも結構目立ってて、寄ってきて可愛いなあという人たちが多かったところにあるいはキャラクターばかりじゃない、フィギュアの需要なんてものを想定できるのかもしれない。

 同じ事はバスだけをフィギュアにしていた「湖底倶楽部」ってところも同様で、奇譚倶楽部なんかがやってる魚のフィギュアをバスに限定して漂っていたり、ルアーを食おうとしているところなんかをリアルなビヨネット風のフィギュアにして並べてた。リアルだすげえと寄ってくる人もいたりしてやっぱり需要はあるんだと理解。それだけにいつも多くの行列が出来ていた奇譚倶楽部の出展見送りは痛かった。どうしたんだろう。企業ブースで出してと言われたんだろうか。それを今までどおりディーラーでやろうとしてすれ違ったんだろうか。ううん。次は是非に姿を現してピンクのキノコやピンクの魚なんかを出してもらえたら嬉しいかも。

こいつ、動くぞ  そしてクラタス。いよいよクラタス。周辺に人垣ができはじめていた中を開始の50分前に着座してどうにか2列目あたりを確保し待つことしばらく。見渡すともはや後ろの方まで人の波になっていたのはそれだけやっぱりクラタスへの期待が大きかったってことかなあ。これでニコニコ超会議にお目見えしてたらどんな賑わいになっただろう。そして来年のニコニコ超会議で実際に動く場面とか見せたらどんな衝撃が起こるだろう。今回は流石に下半身は固定のまま、上半身だけを動かし腕を動かしカメラを操作するところくらいしか見られなかったけれど、その巨大なオブジェクトが中に乗り込め、動くってだけでもう仰天。これを見た海外の諜報機関とか、日本にすごい兵器が現れたって恐怖心から何かしでかすかもしれない。

 同じ倉田光吾郎さんが前に作った鉄だけのボトムズは、動くとかいういうことはなくただの鉄のオブジェだっただけに、あれから何年? その間の進歩とそして発展にはただただ驚くばかり。中にOSを組み入れて、操作できるようにしたってことだけでも凄いけれど、それをラジコンの小さなサイズではなく、人が乗れて動ける巨大なもので実現したってところがとにかく凄い。前は夢を形にしていたものが、今は夢を形だけでなく現実に出来るってことで、それだけに夢を形にしたい人、夢がかなった形を求める人のあつまるワンフェスでも、これだけの驚きと喝采をもって迎え入れられたんだろう。本当に半端なかった人の波。それとも美人パイロットを見に来たのかな。必死によじのぼりコックピットに座りそれから頑張って降りてくる姿が可愛かったよ。

 終わってから散策、「BLACK LAGOON」に出てくるターミネーターなメイドのロベルタがメイド姿で銃を掲げている大きな完成塗装済みポリストーンフィギュアが1万円で出ていたので購入して買える。同じニューラインのだとレヴィが銃を手に提げ佇んでいるのを持っていて、こっちのロベルタも再販がされた時に欲しいと思ったけれどもちょっと躊躇していただけに、半額に近い値段で新品が買えたのは嬉しい限り。在庫がなくなればもう絶版、というのは寂しいなあ。そんなに終わってしまったコンテンツでもないのに「BLACK LAGOON」。それもこれも。と言っても詮無いので再開の時を待とう。ひたすら待とう。絶対に再開されると信じて待とう。利き手を変えてまで「ジオブリーダーズ」のイラストに挑戦して完璧に近い絵を仕上げてくる伊藤明弘さんに申し訳が立たないと立ち上がるその時を待とう。いつになるんだ。


【7月28日】 自分の精神が不安定なのを脇において、自分は大丈夫と言い張ってそれでフェリチータを危険に陥れるリベルタの性格付けが、どうにも気に入らなかった「アルカナ・ファミリア」だけれどそれが若いってことだし、フェリチータも相手に嫌気を抱くというより、むしろ親身になっているあたりに許せるところがあるかというと、そんなものはない。フェリチータの関心を向けられているというだけ、で死刑だとルカなら言うだろうなあ、世話係だけあって。そしてダンテ変わりすぎ。昔は毛もあって仮面も被ったりして格好良かったのに、今では禿でおまけに面白くない駄洒落を頻発するおっさんに。それでどうして強いんだ。それが強さという奴か。うーん。でも真似したくない。今回はフェリチータのキックが出なかったのが心残り。来週はだから沢山いっぱいフェリチータのキックを。

 チーム・ゴルディロックスにはあんまり死亡フラグとか立ってほしくないんだけれど、どうにも今風の使われ方だとそういう事態がアオの何かを呼び覚ますって展開も、ありえるんじゃないかと思えてきてちょっと鬱。そうでなくてもナルは奔放に世界を飛び回って何をしたいかまだ解らず、日本軍は現れたシークレットとのコミュニケーションに挑んでそれを成功させ、なおかつハン・ジュノのハッキングの腕前でもって口語での会話まで可能になってしまって、それで明かされるスカブコーラルこそが敵といった概念。とはいえ人類の敵というよりはむしろ宇宙の敵であって、その排除をシークレットがした結果、人類がどうなろうとお構いなしってあたりも見えてそれはやっぱり受け入れがたい人類が、次に見せるのはどんな手か。アオは相変わらず腰が据わらないしエレナ・ピープルズは相変わらず謎だし。とりあえずクオーツ集めてシークレット集めて一網打尽作戦がどうなるか。やっぱり誰か死にそうだよなあ。鬱。

 ぴあで事前にチケットを買ったらB列の5番だなんて場所があてがわれて緊張したけど、別に何か質問はありませんかと指摘されることもなく、じゃあこの問題の答えをお願いしますと「杉井ギサブロー検定」の質問を出されることもなく過ぎた「アニメ師・杉井ギサブロー」の初日初回上映と石岡正人監督による舞台挨拶。作品自体は前に試写でも見ているんで再確認しながら見ていた感じ。そしてやっぱり喋る手塚治虫さんというのは格好いいなあと感心。成し遂げたものの大きさが背後にあるだけに言葉は重たく、けれどもそれを重圧とは感じさせない軽快さもあって、こういう人と関われたクリエーターは幸せだなあと羨ましくなる。そんな人に「ぎっちゃん」と慕われ頼みにされた杉井ギサブロー監督への羨望も募ることなおいっそう。そんな人がどうして世間じゃあ宮崎駿監督よりも押井守監督よりも細田守監督よりも知られてないんだ? メディアの怠慢なんだろうなあ、新しい才能を損得抜きに讃え広めて価値付けすることがとことんできなくなっているから、今のメディアって。

 最新作の「グスコーブドリの伝記」については、ネリの扱いとかラストシーンの輝きとかについて杉井監督が全部ぶちまけていることを確認。なるほどこれでは「グスコーブドリの伝記」と同時期には公開できないわ。とはいえこの「アニメ師・杉井ギサブロー」を見ると、また「グスコーブドリの伝記」を見たくなるという罠も。どういう設定なのか、そしてブドリを貫く喪失感がどう現れているのか、むちむちな作画のおねえさんが両腕を前に回してかぽんかぽんやった仕草は、赤ひげの何かに活かされているのか、光彩とかキラキラしていない目をじっと長く映すことによって得られる効果とはいったい何かを確かめるにはまた、劇場へと行かないといけなさそう。ブドリの母親が冬の戸外へと出ていくシーンで映る影の形なんかも含めて見たいところたくさんあるんだ。まだやっているかなあ。もうちょっとだけやっていて欲しいなあ。

 自分のところの新聞をして「もうひとつの反省は、『疑う』という記者の基本を忘れたことだ。書籍や記事の内容、偉い人の演説、何でも『ほんまかいな』と、一度は首をかしげてみなければならない」と懐疑の対象にしてしまうコラムを載せて、そうした懐疑が起こり得るはずがないという確信が内に抱け外にアピールできるよう、クオリティの向上に務めるべきところを、まるでそうした方面への動きを見せない新聞が、何をいおうともはやそれは事実ではない可能性があるという、どうにも新聞として成立しないんじゃないかと思わせる状況に陥っているにも関わらず、またしてもやらかしてしまって大騒ぎ。というかそれで当然といった空気すら漂い始めているところに、もはや新聞として存在し得ない段階まで、来ていたりするようなしないような。でらやばす。

 なにしろ同じコラムで言っているのが、「確かにデモ参加者には、普通の主婦やサラリーマンら“一般人”も少なくないが、要所に陣取っているのは過激派の活動家や労組員、政党関係者がほとんどだ」という弁。これにもうとてつもない数の反応が立ち上がって、紙袋に入れられ蹴り飛ばされる鼠のような状況に陥っている。17万人は大袈裟にしても10万とか、あるいは5万でもいいけれども、それだけの人が集まっているデモの「ほとんど」が過激派の活動家や労組員、政党関係者だというならその人たちは、想像しなくても仕事を持った人たちで、それがどうやったら「要所」を占められる人数、金曜日の夕方に官邸前に集まれるのだろう。サボっているとか休暇をとているとかいった理由も考えられない訳ではないけれど、それにはちょっと無理がある。だいたいが圧倒的な反応が「そうではない」という状況を、覆せるだけの何かを記事は提示できているのか。いないじゃないか。

 その目で確かに見た、ということかもしれないけれど、大多数が違うという状況をまるで違った光景に見る目は何というか、どこかジャーナリズムとはかけ離れてしまっているように思えなくもない。あるいは内輪からそう聞いたというなら、それこぞ「『疑う』という記者の基本」とやらを発揮し、いろいろとリサーチしてみるべきだろう。それで出た答えがこのコラムなんだとしたら、やっぱり誰もが訝りその真偽に懐疑を抱くだろう。ただでさえ疑われても当然と、開き直っていたりする新聞なだけにそうした思いはより強くなる。いずれにしても真実であっても、そうと信じてもらえない状況を、放置していることがここで大きくのしかかってくる。早急にだからどうにかすべきなんだけれど、そんな動きがあるようにはどうにも見えない。大変だという認識があれば即日どうにかしているだろうし、こんなコラムも載せないだろうから。

 譲ってそう見えた、そう感じたんだというならあるいはそれも論調であって、受け入れたい人は受け入れれば良いし、そうでない人は反発して買わないなり読まなければ良い。それが自由というものだから。問題はむしろそいうしたことよりも、こうした結論を導き出すような体裁にコラムの構成がなっていないことにある。まずは日本代表がスペイン代表に五輪の1次予選で勝利したことを讃えている。果たして味噌っかす扱いされていたかは悩むところだけれど、そう見る向きがあったのも事実。とっても偉いスポーツライターのカネコさんも、試合の前にはそんな感じの言い方をしていたから。ただ、そういう懐疑を跳ね返したことを讃える筆が、どう跳躍すれば官邸前のデモの批判になるのかが解らない。どう読んでも繋がらない。

 コラムは代表の勝利前後にツイッターがパンクしたことを書く。本当に日本の勝利だけが原因かはともかく、いっせいに勝利を祝い書き込みをしただろうことは解る。「別に顔も性格もわからない他人と喜びを分かちあわなくても、とは小欄のつぶやきだが、瞬時の『つぶやき』は、人の心をとらえるものらしい」。まあ繋がらないこともない。ツイッターの持つ魅力をそこはかとなく示しているようにもとれる。そこから「首相官邸前で行われている反原発デモの動員が増えたのも、ツイッターの威力によるところが多いんだとか」と挟まれ事情は一変する。これも無理のあるつなぎだけれど、ツイッターというキーワードでまだ保っている。悩ましいのはその次だ。さっきの文言「確かにデモ参加者には、普通の主婦やサラリーマンら“一般人”も少なくないが、要所に陣取っているのは過激派の活動家や労組員、政党関係者がほとんどだ」へと続くのだ。

 ツイッターで大勢集まった普通の人が大勢やって来た、という流れと、とはいえほとんどはプロだと綴る流れがかみ合わない。、さらに「疑われる方はツイッターに踊らされず、自分の目で確かめることをお勧めしたい」と繋げると、ツイッターは大勢の普通の人たちが声を掛け合い連帯するために有効なツールといいたいのか、普通の人がアジテーションに引っ張られ誘われやすい危険なメディアといいたいのか、まるで解らない。ここで例えばいくらプロが要所を占めていたって、そうした人たちを超える連帯が普通の人にできている、だからツイッターって凄いねとなるなら解る。あるいは、それでも危険があるからと注意を喚起するなら納得はできずとも理解は及ぶ。それが「自分の目で確かめることをお勧めしたい」となっている。まるで意味が通じない。すでにツイッターを通じて何万という人がそこに集まっているのを目の当たりにしている人たちに、自分の目でいったい何を確かめろというのか。目を皿にして探せば危険がいっぱいとでも言いたいのか。ならそう書けばいいのにそうはなっていない。

 支離滅裂。牽強付会とか針小棒大ならまだロジックのエスカレーションで書けるけれども、こういう飛躍は普通では書けない。というか普通じゃない。それが堂々、1面を飾る看板コラムとして掲載されているという状況を、いったいどう考えればいいのだろう。何かをもはや投げ出しているとでもいうのだろうか。そうでなくても注目を集めている最中に、これほどまでの燃料を投下してくるのは、もしかしたら意識的に愚者を演じてアクセスを稼ぎ広告を集めようとしているからなのかもしれない。そうかそうなのか。もっともそれをやっていいのはアフェリブログくらいだ。信頼という基盤、品質という基盤に立つ新聞がやっていいはずがない。それなのにやってしまうのはだからもはや、アフェリブログを目指すという宣言だと、ここは受け取るのが良いのかも。そしてそのうちに2chからネタ拾うなと警告されるんだ。それは大変記事が作れなくなってしまう……。


【7月27日】 長いの盛り上がらないのと文楽のことをあれやこれやいう市長がもっとどうにかしろって言っていたけれども世界に唯一の文化をたかだかひとつの市長がどうにかして良いと思っているところが尊大というか文化への敬意をまるで払っていない様が滲んできて気分が宜しくない。ウィーン市長がオペラは冗長だから2時間以内にして必ず笑いを入れること、なんて言ったらきっとウィーンに世界中から非難の声が集まるだろう。それこそドイツフランスイタリアロシアあたりから軍隊だって派遣あれてオペラを守れと市長への攻撃が始まったりするかも。それくらいの問題なんだと感じていない市長と、そんな市長の言動をいわゆる文化政策の革新ととらえ讃える向きがあるのがどうにもこうにも恐ろしい。

 というのはともあれ文楽を今の人が見たいかというとそれはまた別の話で、今に限らず暫く前から伝統芸能としての文楽を、退屈だと見る向きはあってそれを書いている文化人もいるらしい。まあ仕方がない、時代が変われば感性も変わるものだから。そこで歌舞伎ではスーパー歌舞伎が出たりロック歌舞伎が生まれたりしてカウンターとして働き、落語も新作が生まれてそれを演じる人たちが出てきた。話そのものも現代が入っていたりする。対して文楽は、ってことでここはだからカウンターとしての新しい文楽を創造してみるのも良いかも。宙乗りとか。3人の人形遣いもいっしょに飛ばないとけないのが大変だけれどそれもまた一興。あるいは人形を海洋堂の原型師が担当して萌えフィギュアにしてそれらが48体、舞台上に並んで歌い踊るという。人形遣いはだから144人必要。入るかな。それは冗談としても何か新しい試みがあっても悪くないかも。ネルケさんとかに頼んで漫画やアニメが原作の文楽を作ってもらう、とか。「文楽庭球王子」。行きたいか?

 奇跡じゃない。奇跡なんかであるはずがない。見ていればわかる。テレビでだって現地でだって、見ていればあれが奇跡だなんていった偶然と幸運によって得られた勝利ではなく、堅実な守備と勇気ある攻撃によってつかみとった、必然の勝利だということを理解できる。なるほどスペインの五輪代表は弱くはなかった。ポジションをとりながらパスを繋いで前に行き、そして瞬間の走り込みによってボールを受けてそこに走り込む選手に渡すことで守備をはがしてゴールへと迫る、トップチームともバルセロナとも同じようなプレーを見せていた。けれども肝心なところで守備が足を伸ばし、体を張ってシュートを赦さず、ゴールをさせなかった。そこには一切の奇跡はない。幸運もない。これを奇跡や幸運と呼ぶなら、1対0で終える試合はすべてが奇跡と幸運の賜と呼ばれてしまう。

 そして日本の五輪代表は、ただひたすらに守りきり、逃げ切った訳ではない。前戦からチェイスし隙あらば奪い取ってそして前戦へと送り走る永井選手、清武選手を使って何度もスペインのゴールを脅かした。精度の拙さというよりも相手ゴールキーパーのそれこそ“マイアミの奇跡”で川口選手が見せたセーブに匹敵する守りによって阻まれたものの、それがなければ2点3点はさらに上積みをして、スペイン代表を完膚無きまでにグラスゴーの地に沈められた。そこには一切の逃避はない。後退もない。だから奇跡だの幸運だのとロンドン五輪のサッカー競技、日本代表対スペイン代表の試合を「グラスゴーの奇跡」と呼ぶのは間違っている。

 試合に出ていた吉田麻也選手だってそう言っているのに、日本の一般紙は判を押したように「グラスゴーの奇跡」と呼ぶ。中田選手や前園選手が所属していてサッカーを見知っているはずの事務所の社長ですらそう呼ぶ。何故だ。あれから16年の成長、奇跡を当然に変えた日本のサッカー界の努力を、どうして蔑ろにするのか。キャッチーな言葉ではあるけれど、使うべき時とそうでない時を選ばなければいけないのもまた言葉、そしてプロフェッショナルの言葉使い師たちならばその使い分けはさらに慎重にならなくてはいけないのに、今のメディアは安易へと走り表層の感動にすがろうとする。その結託が成り立っていたうちは良いけれど、情報網が発達して見る目も肥えて、あれを「奇跡」と呼ばない人たちが増え、発信力を持つようになってもなおメディアだけが、変われないまま旧態依然を通す。だからどうなるか。そうなったんだよなあ。困ったこまった。

 困ったといえばそんあ「マイアミの奇跡」の裏側で起こっていた事態を“スクープ”して世に名を高めて今へといたるスポーツライターのトップランナーとしての地位を築いた金子達仁さんの勇み足っぷりにも困ったこまった。スポーツニッポンの2012年7月28日付け、3面で前にあったロンドン五輪のサッカー女子日本代表の試合っぷりについて触れたコラムで、初戦の緊張に焦らず戦ったなでしこや、2点差を追いつこうと走って1点を奪い取ったカナダ、フランス代表を相手に2点を奪われながらもワンバック選手らの活躍で逆転して4点を奪った米国ら、女子のサッカー選手たちを讃えつつ「オトコという精神的に脆弱な生き物にはとうていできない芸当」と書いてしまった。そんなスポニチの1面に載るのは、初戦でそして1点差という緊張に逃げず前向きな姿勢を貫き通して、当然にして必然の勝利を収めた男子代表の記事。言葉は選ばないといけません。

 少年の家にロボットの少女がいて幼なじみの少女も飛び込んできて部活の先輩は生徒会長で美少女で発明好きで姉は天才ロボット科学者という周囲にまたまたハーレム物かよ隙だなあと松智洋さんの「オトメ3原則!」(集英社スーパーダッシュ文庫)を読んだらたぶん間違う。大きく間違う。これはきわめて優れて面白いロボットの魂についての物語。そしてじんわりと泣ける家族というものについての物語。父親も母親も姉すらもロボット工学の世界で著名な家に生まれた息子の元気だけれども父と母は天才ならでの意見の合わわなさからか共に別れて家を出てしまい、姉は母親の方についていって家には元気だけが残された。隣家に暮らす遥も父母がロボットの研究者だったけれども訳あってもうおらず残された遥は元気の家に出入りし兄妹のような感じに育っていた。家ではベタベタ。でも学校ではそうはいかずにツンツンとする遥。事情を知っている元気はそれを受け入れ2人だけの日々を送っていたある日。

 息子の世話をすることを思い出したか父親が、開発したか何かしたロボットを1体送ってきた。それがラブ。最新鋭のロボットのわりには家事もとくいではなさそうだし、会話にも明晰さがない。言うなれば普通のドジっ娘。何かにつけてあたふたしては元気たちを困らせつつ世話を焼かせている。ロボットが世話をやくのが普通なのに逆じゃんか、といったところが実はキー。そういうロボットなんていないはずなのに、ラブはなぜか間違えては覚える人間のような精神構造を持っている。というか精神があるように見える。これはいったい。そんなラブの乱入を元気は受け入れるものの、本来のポジションを奪われ、そしてロボットに対するネガティブな感情を持っている遥にはおちつかない日々が続く。さらに弟のことを溺愛する姉の参入。果たしてラブはどうなるのか。そんな展開から家族というものの暖かさ、ロボットという存在の面白さが浮かび上がってくる。小学生みたいな先生も可愛いよ。


【7月26日】 えっとあれはユリカノなのか違うのか。雰囲気は違っていたけど見た目は一緒でなおかつヴィラジュリオのそばではなくってディセルマインの側にいた。何者だ。そしてかつてまどかが脳内の海岸で出合ったユリカノは恐怖を身に纏ったような姿で現れまどかの首をぎゅうぎゅう。その前にアステリアちゃんからエロい話を散々聞かされ心のたがを吹っ飛ばしていたまどかは、反攻からか覚醒したか前みたいな大爆発を引き起こして群がってきた何かを蹴散らしてしまった。いったい何が起こっている? まあ何かが起こってはいるし、いずれ説明されるだろうって考えられるところが「エウレカセブンAO」とはちょっと違う「輪廻のラグランジェ2」。でもこれほどの対立に巻きこまれ誰もが平和ってありえるのか? レントンとエウレカが飛んだようにまどかとランとムギナミが行ってしまうとかあるのか。気になるなあ。まあまだ始まったばかりだ。じっくり見よう。

 寝苦しいけど寝てしまって実は得点シーンとかよく見てなかったけれども時折目覚めてふと見たら、川澄奈穂美選手が得意のデルピエロゾーン、というかゴールに向かって左側からぶち込んでいた。あれが先取点だったのか。デルピエロゾーンよりもさらにゴールに近い角度のない場所からで、その思い切りの良さもさすがだったけれどその川澄選手にボールをヒールで渡した大野忍選手も凄かった。ライン際にいたはずの川澄選手が沢選手から大野選手にボールが渡ると見えた瞬間に大野選手の後ろに走り込もうとしていたけれど、それをちゃんと捕らえていたのか。普通だったら浮き球のパスをトラップして切り返し自分でシュートしたくなるもの。そうせず川澄選手を見ていたら、そして川澄選手も大野選手からのパスを予感していたのだとしたらこれは完璧以上の完成度。先が楽しみになって来た。

 2点目はどうやら宮間あや選手だったみたいでカナダの巨大なディフェンスと競ってよくぞ頭に当てたもの。そばにいっしょに大儀見優季選手も飛んでいたのかな、それにひっぱられた間にうまく潜り込んだ宮間選手も、そこにピンポイントで放り込んだあれは誰だろう沢選手かな、どちらもなかなかな。これがなでしこジャパンの強さって奴なんだろう。その沢選手もどうやらキレキレだったみたいで、東京スポーツで女子サッカーの解説をすることになったらしい元日テレ・ベレーザで元日本代表の加藤與恵さんが、沢選手の守備からパスからすべてにおけるキレっぷりを讃えている。同年で共に一時期のなでしこジャパンを支え日テレ・ベレーザを支えた盟友でもあるだけに、厳しいことを言って言える加藤さんをしてこうも言わせる凄さ。試合にきっちりピークを合わせて来たプロ意識ともども大きく讃えたい。そしていらないといったメディアはすべて頭を丸めなさい。そりゃほとんど全部か。結局奴らはその瞬間しか見てないんだよなあ。

 たぶん分かってないんだろう。だからああいった物言いになってしまうんだろう。例の区役所に自衛隊員が来たけど追い返されたとかいった記事を出して、間違っていたと謝って、それなのに翌日にそれと同じ話が1面のコラムに堂々書かれてしまって、区役所は大激怒という一件で、小さくそして経緯については触れられていないものの謝罪・訂正が出てそして本日、1面コラムに謝罪・訂正の言葉が載った。けどこれがまた凄まじい。「迷彩服姿の自衛隊員が行う訓練に対して、一部に批判的なムードがあるのは事実だから、区役所の非協力もあり得ると、納得してしまった」といった感じに、ある種の思い込みがあって元記事を信じたと書いてあるけどそうじゃないんだよ、事の本質は。そう大勢に思いこませてしまった元記事が、どうやって作られたかなんだよ。

 1面コラムは続けて「『疑う』という記者の基本を忘れたことだ。書籍や記事の内容、偉い人の演説、何でも『ほんまかいな』と、一度は首をかしげてみなければならない」と書いている。何か他人事のように言っているけど、そこで「疑う」べきだった対象になっているのは、テレビでもなければ持ち込まれたネタでもなく、自分のところで出している新聞。主張から報道からすべてが完璧に行われていると、信じていなければとてもじゃないけれど、依って立てないその題字の下にある自分のところの記事を、疑わなければならないかもしれないという恥辱と屈辱が、コラムの中からはあまり漂ってこない。これからも疑い続けるというのではなく、疑わなくても良いよう徹底的に原因を究明し、間違いがあれば糺すと宣言するのが筋だろう。それなのに。だから分かっていないんだ。誰もがこの一件のとてつもない重さを。

 1989年に沖縄の西表島の海で、巨大な珊瑚に「KY」と大きな傷が付けられた事態を取り上げ、その珊瑚の写真を載せて傷つけたのは誰だと書いて、続出している自然を蔑ろにする行為への警鐘を鳴らした新聞記事があった。ところがすぐさま、その珊瑚には前には傷はなかったという声が起こり、調べたら傷を付けたのは写真を撮影したカメラマンだと判明して大騒ぎになった。新聞社の写真部長と編集局長は更迭され、さらには社長までもが退任へと追い込まれた。真実を載せて信頼を得るべき新聞が、虚偽を載せればそれはもう新聞として成り立たない。以後は何を載せても疑われることになりかねない。生命線に関わる問題だという認識が強くあって、最高に厳しい対応をして世に禊ぎを問うた。それでも完全には払えず今なおその余韻を引きずっている。虚報を繰り出す新聞だという非難めいた言説が、教科書にも載せられているというから事態は重い。そして激しい。

 その教科書を、全社を挙げて推進した別の新聞社が、今回やらかしたこともまた、珊瑚に傷を自らつけて世に環境保護のマナー低下を喧伝しようとした過去の例に並ぶ出来事かもしれない。ありもしなかった区役所による自衛隊への拒絶を、あったと書いて傷つけられる自衛隊という存在をひねり出した。珊瑚の場合は架空のダイバーへと矛先を向かわせようとして、結局はカメラマン自身がすべての攻めを負うことになったけれど、自衛隊の場合は架空ではなく、実在の区役所を自衛隊への敵として取り上げ、自衛隊を傷付けた存在として世に問うた。結果、区役所には非難の電話が殺到して業務に支障が出たという。たまりかねて即日に抗議して、納得を得られたと思ったら翌日に同じ内容の記事が出てさらに増える非難の電話。架空のダイバーにはなかった実害がそこに生じたという点で、事態は1989年を超えているかもしれない。それくらいの大事。なのに出てきた言葉があれというのは、やっぱり分かってないと言えてしまう。

 それとも分かっているのだろうか。分かっていてこうなのだとした、らそれはなかなかに凄まじいこと。嵐が行き過ぎるのを待って喉元を過ぎ熱さを忘れかけられた頃にまたぞろ、同じような牽強付会や針小棒大を投げかけようと考えているのかもしれない。今までも数多あった似たような事例は、それでどうにかやり過ごしてこられた。けれども今回は周辺への波及が半端なく大きい。最初の報道によって煽られ区役所などに抗議した人たちは、外された梯子に憤ってその憤りを必ずや大本へと向けてくる。抗議するくらいにはあった記事への信頼というものは損なわれ、なおかつ1面コラム自らが「疑え」といってしまっている記事への疑いを永遠に抱いて対峙するようになる。それはもはやジャーナリズムとして死んだも同然。新聞として息をしていないのも同然。とても恐ろしいことなのだけれどそれに気づけばだからやっぱり即行、何らかの対応策を出しているはずで……と堂々巡り。詰まるところはだからやっぱり「死」なんだろう。存在としての。嗚呼。

 せっかくだからと「庵野秀明館長 特撮博物館」をちょっとだけ見物して来たら小学生たちが社会科見学か何かで来ていた。特撮の凄さに触れて僕も私も特撮になるんだと行ってくれれば未来も安泰。そういう出合う機会を与える意味でこういう美術館なり博物館は必要なんだよなあ、テレビがもはや特撮から退きつつある今は。そんな館内は雑然としていた特撮倉庫が何か小ぎれいにされていた。足の踏み場もない、って感じだったけれども棚に整理整頓されて不要なものはどこかにしまわれてしまった感じ。「巨神兵 東京に現る」で吠えてた犬なんて前は棚の下の籠か何かに放り込まれてたもんな。それが袋に詰められ棚に陳列。出世した。ショップでがガチャポンをやって出てなかった巨神兵の立像をゲット。色つきはこれでコンプリート。あとは畜光版か。あんまり欲しくないけど。そして「円谷特撮技術研究所」のVol2を購入、というかTシャツにDVDがついてるような奴。サイズがあるので買う人は注意ね。


【7月25日】 ボックスオフィスの興行成績調査によると、「海猿4」は越せなかったけれどもこの週末に459万ドルとか稼いで、全体で2位の成績を上げた細田守監督の長編アニメーション映画「おおかみこどもの雨と雪」。予告編なんかの段階だと、自分は人間なのか狼なのかを迷い、そうした特質が人間たちから排除され疎外されて、懊悩する子供の視点の話かもとか思っていたけど、実際はそうではなくって大人から見て、子育てってとっても大変なことだって話が映画では綴られている。

 「子どもたちを責めないで」じゃないけれども子供って幼稚で礼儀知らずで気分屋で、忍耐のかけらも人生の深みも持っていなくて、親の心知らず知っても無視してふるまうもの。それを母親としてどう支え、どう守っていくのか腐心し続けなくてはいけないという、そんな10数年を描いた作品として、親の世代の共感を誘って映画館へと呼び寄せ、子は子であれだけ楽しく動き回る子供たちの姿を楽しみ、アニメファンは「時をかける少女」や「サマーウォーズ」といった作品の蓄積から見て置かなくちゃと映画館に足を運ぶ、そうした重なりがこの成績につながっているんだろー。つまりはとてもうまくやったってこと。

 一方で「メリダとおそろしの森」はといえばトータルで185万ドルで5位と大きく出遅れ。アベレージが「おおかみこどもの雨と雪」のほとんど4分の1なのは館数を広げすぎてしまった弊害なのかもしれないけれど、トータルでもまるで及んでいないところにやっぱり何かが間違ってしまっていたんだろう。それは宣伝なのか作品そのものなのかってことだけれども作品については、見れば母親は娘への思いをどう伝え表現するかを改めて考えさせられ、娘は母親のいうことを聞かなくてはいけない苦しみから逃れる方法を模索しつつ、それでも育ててくれた親への感謝って奴を考えられるようになっている。

 なおかつそれらが楽しく面白い展開の中で得られるんだからとっても良い内容。なのに宣伝ではどこかダークファンタジーめいた作品として描かれそこでメリダって少女が凶悪な魔王か何かと戦うようなイメージで語られてしまっている。邦題が「メリダとおそろしの森」ってなった時点でユニークな内容なんかを排除する宣伝方法が採用されたのかなあ、だとしたら残念。本当の面白さが伝わってない。このままでは終わらないと思いたいので次週からの巻き返しに期待、したいけれどもそういう世界じゃないんだよなあ、映画の興行って。

 抗議がすでにあったにも関わらず、その事実無根をネタにして文章を書いてあいての更なる激怒を誘って恥ずかしい思いをしたその矢先、っていうかその直前にも品性がマリアナ海溝の底あたりだったりする言い回しでもって非難するなら真正面からやればいいのにどうしてと、世の文筆家たちの呆然を誘っていたりもしたんだけれど、それから続いて続いてまたしても、みっともよろしくな書きっぷりでもはやこれまで感を強めてくれた某新聞の伝統ある1面コラム。すでに敵となったにもかかわらず、あらゆる観客が総立ちでもって拍手喝采を贈ったイチロー選手の旅立ちは、それ事態が大きなニュースで何と比較できるものでもない。

 けどそのコラムではあろうことか、引退を決めた森喜朗元総理をイチロー選手と並べ立て、「2人の移籍や引退の背景には、ほかにも事情があるのかもしれない。だが『若い人に譲る』という身の処し方は多くの日本人の共感を呼ぶはずである」と讃えている。呼ばないって。誰もそんなこと思わないって。イチロー選手あ辞める訳でも身を退く訳でもないって。それだけでも森元総理へのサービス甚だしいことなのに、コラムでは追い打ちをかけるように「一度引退を表明しながら、政界にしがみついている別の元首相とは違う、と」と続けて、多分、鳩山由起夫元総理の出処進退を論って辞めるといったのに辞めないのはどういう訳だと誹っている。三段跳びとかそんな生やさしいものではない八艘飛びの上の

 イチロー選手の生きる場所を探し求めて最適を決断した行為を枕に、言いたかったのはそれか。誹謗中傷か。何かとっても胸苦しい。これが例えばしがみつく元総理の行為をいなしつつ、イチロー選手の異形と英断を讃え結ぶ展開だったら、まだしもスカッとした気分で読める。そうしたロジックを考えつかないのはつまり、何かにつけて誹謗中傷悪口雑言が目的で、そのために針小棒大も牽強付会も辞さないというスタンスが、先の自衛隊による区庁舎立ち入りの有無を確かめないままの区役所非難へと至り、この鳩山元総理への非難へと続いている。そこを改めない限り、同じようなコラムは続くだろう。その果てに来るものは……ってこれも語り飽きた。明日が見えない。

 いろいろと発表になったみたいな「ドラゴンクエスト] 目覚めし五つの種族」だけれども前のがいきなり携帯型ゲーム機に行ったと思ったら今度はやっぱり等々にWiiへと移りおまけにオンラインゲームだというからファン吃驚。それでもついていくのが古くからのドラクエファンかというとそのあたり、未だ見えないところに今回のタイトルがどこまでいくか、判断しづらい要員になっていたりするんだろう。なるほどドラクエの魅力でもってオンラインゲームの世界へと、ユーザーを導きたいという作り手の意識はわかる。それが未来の主流になっていくなら、あるいは既になっているならそうしない訳には商売的にもクリエイティブ的にもいかない。ただやっぱり繋がなくては行けない、誰かと遊ばなくてはいけなさそうといったオンラインゲームの特質を、試すにはドラクエファンはまだちょっとナイーブなような気がする。

 だったらオンラインゲームのファンが新しい作品が出たとプレーするかというと、それにはまずプラットフォームがWiiという点で敷居になる。「ドリームキャスト」での「ファンタシースターオンライン」でああるまいしWiiでオンラインげーむをやってた人なんていないだろう、っていうかあったっけ。また過去より累々と積み重ねられてきたオンラインゲームの歴史が既にある中で、そこに飛び込んでいった“にわか”なタイトルが、どこまでの有利性を発揮出来るかもちょっとまだ見えない。ただ、オンラインゲームに二の足を踏んでいる人がいることは作り手も先刻承知なようで、そのあたりをクリアできる仕掛けを取り入れている。それがどう働くか。ちょっと気になる。

 キャラクターは自分で作るから全員が「ロト」とかいった有り者のキャラクターになることはないし、誰かと友達にならなければプレーが進められないかっていうと、キャラクターを預けておくことで誰かに勝手に使ってもらえてそれでポイントなんかも溜まっていくシステムが使われているという。自分でそういうキャラを使うこともかのう。誰か見知らぬ人とコミュニケーションとりながらプレーだなんて胸苦しいことをしなくて済む。あと長く長くやっていれば有利ってことでもなく、ちょっとだけ休むとその間に元気玉ってのが蓄積されていろいろと有利になるという。たまには休みそれからプレーする。廃人にならずに済みそう。子供には課金の敷居がありそうだけれどそこは無料タイムを設けることでクリア。その時間に家にいるかどうかが悩みだけれども面白ければいるだろう。そうできれば勝ちだ、「ドラゴンクエスト]」の。


【7月24日】 なんか「梅ちゃん先生」の視聴率が良いそうで、平均で前の作品だった「カーネーション」を超えたとかで、時には22%とかいくそうでそれって今のテレビドラマで最高じゃん。いかなトレンディドラマも叩き出せない数字を獲得しているこの「梅ちゃん先生」が始まった当時は傑作の誉れ高い「カーネーション」にはとうてい及ばないだの見ていてつまらないだのと言われていたことを思い出すに付け、思い入れを得た作品の次ってのは難しいもんだと実感する。あれはアニメーションの「Cosmic Baton Girl コメットさん」が志し半ばで打ち切りになった後、妙に高まっていた評判に後番組となった「ギャラクシーエンジェル」が無茶苦茶言われて提供していたブロッコリーにも批判が山ほど寄せられた。金で時間を買ったとかどうとか。

 けど今じゃあその「ギャラクシーエンジェル」は伝説にアニメとして「アインメスタイル001」に大々的にフィーチャーされていたりする。とりわけ第2期はふわっと始まった第1期と違って最初っからアクセル前回で突っ走っては大勢の脳みそをとろかしこれはいったい何なんだ、って呆然を世の中に与えたことでも話題になった。同じような現象はやがて「探偵オペラ ミルキィホームズ」のテレビ放送でも起こったけれどもそれほど凄まじい作品が、当初はあの感動の「コメットさん」を押しのけるとは何事だって、打ち切りを受けて急遽穴埋めとして引っ張り出されてむしろ被害者な「ギャラクシーエンジェル」へと非難が集中した。つまりはそういうことで、傑作秀作の次だからといって決して凡作ではないということを虚心坦懐にして受け止めるべき。そうそう「美少女戦士セーラームーン」だって「きんぎょ注意報!」の後で、予告を見て何だこの通俗はって最初は思ったんだよなあ。まあそんなもん。

 アメリア・イアハートって飛行機乗りのお姉ちゃんの誕生日だそうでグーグルのトップ画像が飛行機に。そういや最近だっけ、南太平洋の島に不時着したアメリアがしばらく生きていたんじゃないかなんて話もあったりしてまるでリアルロビンソンクルーソー、でも小説のようには行かず亡くなって遺骨や遺品があったとかなかったとか。その偉績については詳しくは知らないけれどもすくなくとも、後に漫画家のふくやまけいいこさんが「ゼリービーンズ」という漫画の中にアメリア・イアハートとう女性を登場させてまだ幼い少女の遺伝子上の母親として、しばらく面倒を見るなかでいろいろと交流していくって話を描いてそれを読んで感動して、ふくやまさんという漫画家ともどもアメリアの名前を覚え、あとがきに確かあった紹介からそういう飛行機乗りがいたと知った。世界でこんなに有名な人だったとはなあ。スパイ疑惑とかもあったみたいだけれどもそれでも40歳とかいった年齢でひとり太平洋を渡るのは大変なこと。敗れたとはいえ挑んだ勇気をたたえつつ、その意志が今に引き継がれて多くの勇気になっていることを願おう。なっているかな。「ゼリービーンズ」ちょっと読み返したくなって来た。

 放送中にだいたい覚えていたキャラクターの名前がすっと浮かばないあたりに歳を感じる「境界線上のホライゾン2」。ハイディってフルネームなんだったっけ、って考えてハイディ・オーゲサワヴァラーだったって浮かんだけれどもその分、声が誰だったかを忘れて調べたら名塚佳織さんだった。優しげだけれどしたたかな感じはエウレカと同じ声の人だとは思えないかな。どうなのかな。そんなハイディのパートナーのシロジロ・ベルトーニが各話で1回の活躍を見せる場面が到来。それは土下座。すべての商取引において最大にして最強の必殺技らしいんだけれどそれをまず、相手が打って来たのを交渉によってはねかえし、最善の取引へと持っていったあたりがさすがだけれどもそのやりとりの、何がどう凄いかをアニメで語るにはあまりに時間が足りない。というわけで詳細は文庫本を読もう。読んでもやっぱり難しいけど。そして本シリーズ最大のヒロインとなる金髪巨乳がその正体を暴露。テンゾーそりゃあ靡きます。

 いきなりって訳ではなくって前々から、獲得するなんて話もあったからそれがいよいよ今日になったんだって感想だったシアトル・マリナーズからニューヨーク・ヤンキースへのイチロー選手のトレード偉績。靴とかリストバンドとか多分マリナーズカラーに合わせて作っているからどうすんだろって思ったら、靴もリストバンドもヤンキースに合わせて黒っぽくなっていた。ちゃんとあらかじめ作ってあったのか、今年はずっとそういう仕様だったのか。まさか昨日の今日で作って来られるほど美津濃もアシックスも余裕のある会社じゃないしなあ。

 とはいえやっぱり長く暮らしたシアトルからの移籍にシアトルのファンもいいろ思うところがあった様子で、イチロー選手が守備についたら周辺の人たちが拍手して迎え、そしてヤンキースで最初の打席に立ったときにはセーフコフィールドの観客達が立ち上がってスタンディングオベーションを送った。これには泣いた。敵となる人間でも長く活躍してくれた選手は素直に讃えるその精神の美しさ。答えてイチロー選手もヘルメットを脱いで1度ならぬ2度くらい、お辞儀をしてみせたのはやっぱり嬉しかったからなんだろう。直後に早速ヒットを打ってそして盗塁してみせるところは超一流選手。その力があればヤンキースでだって大丈夫だろう。つかめチャンピオンズリング。そして再びの1番の座。

 ジャスティ・ウエキ・タイラーが常勝の果てに元帥まであっという間に上り詰めたのは、ただ上司にゴマを擂り続けたからではない。むしろ逆で上司に嫌われながらも必要なことは欠かさずやり抜き、そのことによって相手からの信頼を得たことがひとつと、それからやりぬくために徹底的に考えて、成功するための合理的な方策を考えて着実に実行していったことがひとつ。天才でもなく非才でもなくむしろ凡庸以下の人物ながも、こだわりをもたずその場で考え改めるなら改め、良くても次には何が起こるか分からないと安心しないでひたすらに、前を向いて進んでいった。そこには凝り固まった意識など存在せず、かといって周囲にも流されないで柔軟に、周囲を見て己を見つめて行動していった結果があの立身出世につながった。

 鷹見一幸さんの「宇宙軍士官学校 前哨 1」(ハヤカワ文庫JA)の主人公も見た目はタイラーに似て昼行灯。士官学校を出ている分は優秀だけれどそれでもトップクラスではなく、アジアという辺境でもって治安維持軍の仕事に就こうとしていた有坂恵一だったけれど、なぜか宇宙軍からお呼びがかかった。どうしてだ。とりあえずステーションに赴くと連絡が悪くセキュリティにひっかかってスパイ呼ばわりしてボコスコに。どうにか認めてもらったもののそこで出合ったエリートのパイロットからは、どうにも怪しまれ目の敵にされてしまう。その相手も含めて向かった士官学校で、恵一は宇宙から来てスーパーテクノロジーをもたらした種族が何か企んで結成しようとしている、15歳以下の少年少女を部隊にした集団を指揮する指揮官の候補として養成されることになる。

 周囲はやっぱりエリート揃いでどこか居心地が悪そうだけれどそこはあんまり気にせず柳に風と受け流し、目の前のことに取り組んでいった有坂恵一。何かにこだわらずその場その場で考え訓練ではそれなりな成績を重ね同僚を相手にした模擬戦では連戦連勝。相手がどうでるかを読み自分はどういくかを考え、それらを総合して打つ手がはまった様子でそこから主人公は仲間達の間で参謀扱いされるようになる。印象はちょっとだけ真面目でなおかつ人類の未来についてシリアスなところもある「無責任艦長タイラー」。タイラーと同様に適当に見えて柔軟性のある日本人こそが最高の軍人って感じを与えてくれる。

 問題は、そうやって鍛え抜かれた主人公たちが、15歳以下の幼い少年少女たちを率いて何と戦うのかという点。それはすなわち先進国が後進国を相手に行った植民地からの徴兵に近く、ただひたすらに駒として投入していくだけのものなのか。反重力にロボットと、高いテクノロジーを持った宇宙人たちがそこまでして地球人の生身の人間を集め戦いに投入する意図とは。見えない設定への興味を覚えつつ、柔軟さでもってリーダーにまでなってしまった有坂恵一が、そうした目的を知ってなおどういった行動をとるのか気になって来る。次巻はいつだ。

 すでに名指しされた11の区から抗議なり遺憾の意が出たということはそこに事実は皆無だったと指摘されたに等しいわけで、これはもはや誤報というレベルを超えて捏造であったと世界から言われても仕方がないことなんだけれども、それはともかく見解の相違、感触のすれ違いといったニュアンスで通せるとして、それを話し合って昨日のうちに事を治めておけばこれほどまでに火事は広がらなかったんだろうけれども、そうしたやりとりを知ってか知らずか昨今話題の1面の、伝統ある看板コラムに元の抗議された記事を元に再び非難をしたから11の区としてもたまらない。とりわけ早々と抗議し説明を受けていた豊島区の怒りは凄まじいみたいで「24日付貴紙朝刊コラムにおいて、昨日の記事の訂正はおろか、昨日の記事を前提として、立ち入り拒否をしたとされる区の防災担当職員を誹謗する記事が掲載されました」と再びの抗議を表明。担当者に確認したら「「担当部署が違っていたため、情報が共有化されていなかったと説明されました」となったらしい。

 共有化もなにもその記事が話題になっていてその収拾に動いていたなら上は、そしてその上も含めて善後策の検討に入っていただろう。そんな中で制作途中の新聞を見たらそこに当該のコラムが載っていれば、これはヤバいかもって気づいてとりあえず引っ込めるなりするものだけれどそこにどういった行き違いがあったのか、そもとそも行き違いなんてありえるのか、って辺りから豊島区的にも「全く納得の得られるものではありません」と断じてる。「昨日来、インターネット上でも貴紙誤報記事をめぐって混乱が生じている状況の中で、貴紙の看板コラムで、再び誤った内容を掲載することは、マスメディアとしての自覚に著しく欠けるものと言わざるをえません」とはごもっとも。そうまで言われてしまったメディアはいったい何をしたら良いのか。何をすべきなのか。考えはあるけど果たしてその通りに行くかなあ。何せ……。


【7月23日】 「私にはなお夢がある。それは、ジャパニーズ・アニメーションに深く根ざした夢なのだ。つまり近々、日本の最近の長編アニメーション映画が4作まとめて上映され、「父親は総じて影が薄い」というこれら最近のアニメーションにおける主張が、真実なのだと明らかになる日が来るという夢なのだ。私には夢がある。中央線沿いの雀荘で、「ももへの手紙」のお父さんと「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」のユウタの父親と、「グスコーブドリの伝記」のグスコーナドリと「おおかみこどもの雨と雪」のおおかみおとこが、映画から早々と退場して子供たちの成長を見守らない同類として、同じ全自動雀卓を囲み麻雀に興じる日が来るという夢が」。そしてそんな4人がそろって登場する短編アニメーション映画が作られ、4本の同時上映の後に上映されて多いに笑わせてくれる日が来ることを。夢に見る。夢でしかないよなあ。誰か漫画に描かないかなあ。

 そのコラムの品性が、上等とは正反対にあることはもはや確定事項で、誰だって見知っていると思ったけれどもそうでもなかったようで、全世界的にメジャーな音楽家の人が、スピーチした言葉の1部を切り取ってその主張に反意を示そうとしたコラムの文章が、真正面から主張への反駁を加えるなり、まあまあと諭すように語るなり、そうはいってもねえと諧謔を交えて受け流すなりしたものだったらまだコラムニストならではの冴えと世の評価も得られただろうけれども、架空の存在としてまず上げた人物のライフスタイルを揶揄し誹るような文章を連ねつつ、それとは限らないけれどもと逃げにならない逃げを売って、当該の世界的に有名な音楽家の名を挙げ、見え見えの同一性を示唆してみせるそのやり口に、世間もいよいよもってその品性のどうしようもないポン酢ぷりってものに気づいた様子。

 以後、掲載されるだろうコラムを眺めていけば、同じような水面下からあらに下の海溝の底へとたどり着いた品性を、連日のように目の当たりにできるだろうけれども、そんな自らを痛めつけるようなことを誰もしたくないだろうから、見向きもされずそのまま忘れ去られていくことになるんだろう。というか、この一件の何が問題かと言えば、その音楽家の主張が少しばかり間違っているんじゃないか、言い過ぎだったんじゃないかと感じている人たちでも、コラムに対していくら何でもその物言いはないだろうといった反響を呼んでいる点。それすらも昨日今日に始まったことではなく、もうずいぶんと前から長くコラムを担当していた人が降りて以降、執筆者が持ち回りになってそこにその媒体が濃さを強める偏狭な視座が乗って来てから、もうずっと罵詈雑言が牽強付会気味に書き連ねられて、かつての筋が通ったコラムを好んでいた人たちを、呆れさせ離れさせてはいた。

 それがこうやって、一部の読者に限らず多くの人にその品性のヘルタースケルターぶりが、認知され語られるようになったことはやっぱり相当の痛撃になるんじゃなかろーか。ましてや当該の音楽家が、その媒体で連載を持っていながらの後ろから撃つ、という行為すらまだ真っ当に見えるくらい、顔を覆面で覆って落とし穴を掘り、底に汚泥を溜め、そこに無理矢理に引きずり込んだ上で、彼方から嘲弄するような態度が、世間一般にどう思われるか。考えるほどに胃が痛くなるけれどももはやそれでどうにかなる以前に、決定的なダメージを受けているのであんまり関係ないのかも。つまるところは。ああ胃が痛い。

 「実はまだ、二階にいるのです」。端的にいったらそんな感じだったような気がしないでもないゆうきまさみさんによる「鉄腕バーディー EVOLUTION」の最終回。クリステラ・レビがクリステラ・レビとして復活してそしてゴメスとバーディーがそろって地球にやってきたっぽい奥の院と対決するストーリーはぶち切れたバーディーが何かしでかしその過程で姿がつとむになたりして中杉さんにバレたりもしつつ一件落着となってそして別次元の中杉さんの記録がそのまま繰り返されることはなかったっぽい展開の中でクリステラ・レビは捕縛され裁判だかに臨む様子。そしてバーディーはといえば「実はまだ、二階にいるのです」。いやさすがに二階じゃなくってつとむの中だけれどもそこでぐうぐうと居眠りをして起きずどこかの星で修理中のつとむの体は戻ってこないという、とてつもないスピードでまとめられてしまっていた。カペラちゃんどこいった。

 ほかにどんなまとめ方があるんだと言われればどうしようもないんだけれども地続きのはずの宇宙と地球との間に、どうして別の世界の中杉さんの言葉が紛れ込んだりしているんだろうか、なんて疑問にすっきりと答えてくれるような展開が、あったら良かったというかもしかしたらあったのか、そのあたりは単行本で読むとしてあとは地球に残されたレビの息子がどんなショックを受けているのかにも興味。だってお母さんがお父さんになっちゃったんだから。その衝撃が自分をして娘から息子へと転じるきっかけになったりしたりして。そして始まる「教祖様は男の娘」。だったら嬉しいんだけれどはたして。なお本当の完結編は「ゲッサン」に描かれるそうでそこではつとむの体がどうなるか、息子がどんな生活を送っているかが記されていたら有り難いけど、ほんとうに乗るのかな。やっぱり「実はまだ、二階にいるのです」だったりするのかな。

 試写イベントで見た時には何かギャグも含めて有り体で通俗的だなあと思ったけれども、これがテレビで見ると意外や楽しく肩肘はらずに見ていられる作品になっていた「アルカナ・ファミリア」。シチリアンマリファが行政から警察から経済から何から何まで仕切っているような雰囲気の港町にあって、タロットに似たカードの力を持った者たちが、お嬢さのフェリチータを守りつつ大活躍するって話。そんな設定から、いわゆる乙女ゲーと呼ばれるものが原作になっているって分かるけれども、ゲームではプレーヤーになってるフェリチータが、アニメだとちゃんとキャラクターとして登場して喋り歩いてくれて、その声が能登麻美子さんで可愛いとか幼いとかお姉さんとかいった声とはまた違った、勝ち気なところもあるお嬢さまって感じの声で、なかなかに聞かせてくれる。なおかつ蹴りが得意ということで、タイトな黒いミニスカートを気にせず足を振りまわし、ローリングソバットまで見せてくれるから、しっかりそれらしき物が目に入ってくる。楽しいなあ。毎週見よう。でもどう見ても黒だよなあ。最新話では白が見えたって言っているけどどうなんだろ。その時は白だったんだろうか。能登さんは白と黒のどちらが好きなんだろうか。


【7月22日】 昨晩の「銀河鉄道の夜」のリバイバル上映では杉井ギサブロー監督によるトークが行われるってんで「おおかみこどもの雨と雪」の上映が終わってすぐさま銀座へと回ってシネパトスでチケットを買って整理券を受け取り、しばらく回って戻ってそして開場を待っていたらそこに現れた杉井ギサブロー監督が、集まってきた人たちからサイン攻めにあっていたので仲間に入って「こんなこともあろうかと」持っていたグスコーブドリのぬいぐるみ(大、3150円)を取り出し、ブドリが来ている服の背中にサインを戴く。何という僥倖。仕事でお目にかかる機会もない訳じゃあないけれどもその時にサインをもらうのは公私混同というのがポリシーなので相手がしましょうかと言って戴いた時しか頂戴しない。代わりにこうしたオープンな場所でまあ迷惑かもしれないけれども頂戴するのが一種当然という訳で晴れて戴いたサイン入りグスコーブドリは生涯の宝としよう。問題は目を離すとどこかに埋もれてしまうことだ。そういう部屋だ。

 そしてトークショーではまず杉井監督が「銀河鉄道の夜」を作っていた頃について話したけれどもそことで面白かったのが、10年ほど放浪をして戻ってきた時に感じたアニメーターたちの気質の変化。それを「プロっぽくなった」と杉井監督は話していて、どういうことかというと前はそれぞれに職人気質があって一方に楽もしたいという人間らしさもあって、そんなアニメーターたちを相手に演出の側としては絵を描いて欲しいとお願いして難しいからやれないといわれれば、簡単にしたり妥協をしたりしてなだめすかしてやってもらった。それが10年ほど経つとなるほど打ち合わせの時には何にもいわずあとでプロデューサーの時に「これは難しい」というのは同様、ただし「難しいからギャラを倍にして欲しい」と交渉するといった話を聞いて杉井監督は「倍はらえばやってくれるんだったらこんなに楽なことはない」と思ったとか。

 タダでもやるのがアニメーション屋の魂だなんて言葉もあるけどそうした魂を駆動させる前に積み上げなくちゃいけない信頼関係だの何だのを考えた時に、とてもじゃないけど商業として作られるアニメーションは回せない。それだけのために30年を業界で気づき上げてきただろう杉井監督ですら、大変さを感じていたんだから余程じゃなくちゃあ動かないはずあったアニメーターが、対価さえしっかりしていればしっかりとした仕事をしてくれる。時にプラスアルファもくれるんだから有り難いって思うのも当然だろー。問題はそうした対価が今もしっかり払われているか、ってあたりでそれが難しいから情熱だの魂だのという言葉が横行して、好きなら耐えろだなんて風潮がまたぞろはびこってくる。そんな風潮をはるか上の世代から、仕事をすれば対価を払い対価がもらえるなら仕事もする、プロフェッショナルな風潮を良しとする声が出てきたってことは意味がある。願うならそうした風潮が蔓延して誰もが上を目指して邁進できる環境へと、向かっていってくれることか。しっかりやれ。

 トークショーでは質疑応答もあって真っ先に、杉井監督の真正面に座っていた人が「『グスコーブドリの伝記』が酷評されていますが……」と真正面から質問をぶつけていたのにちょっとした羨望、僕には臆してとても聞けない。とはいえ杉井監督もそうした評判は先刻承知というか見越して当然作っている訳で、答えにも何が問題となっているかをしっかり認識していることを織り交ぜ、それらについてしっかりとした説明をしてくれた。それは1年前に杉井監督にインタビューした時にあらかじめ聞かされていたことと同じで、だから当時から見越していたんだってことはよく分かる。例えばネリの問題。やっぱりね、あの苛烈な環境下におてい後にホームドラマめいた温かい展開が待っているのは違うんだって考えた。それこそブドリ一家のみならず、あの学校に通っていた仲間たちも含めてみなが倒れてしまった可能性すら示唆して、そうしたものを背負ってブドリは立ち、歩いてたどり着いた場所で考え、行動したんだと言われるとなるほどその間の逡巡、懊悩、そして決断って奴の意味も見えてくる。

 カルボナード火山についての描写は著書「アニメと生命と放浪と」にも書かれてあるように、震災後の状況を鑑みて警報がなり地鳴りがするシーンは遠慮して、それが直接的なスペクタクルを排除し静かで抽象的な終わり方になってしまったということだけれどそれも今にして思えば、宮沢賢治が書いた物語の描写により近くなったってこと。ダイナマイトをいくら爆発させようとも動く火山ではない。その巨大なエネルギーに対抗するためにできること、やれたこと、ってのを描写しようとした時に、ああいった輝きの描写を持ってくるしかなかったんだろー。あれは思うに林トモアキさんの「戦闘城塞マスラオ」の最後で、アンリ・マンユを相手にヒデオが自らをウィル子によって分解させ、エネルギーに変えてぶつけてその輝きで相手を退けたようなもの。ってことはコトリはつまりウィル子なのか。にょほほほほと叫ばずふほーっ男の子としか言わないけれども、胡乱なところはそっくりだ、ってそんな。

 そしてトークショーでは杉井監督がデジタルの導入にそれほど否定はしていないというか、むしろ前向きだったことも明らかに。質問した人の趣旨としては上映環境がフィルムなのか、それともデジタルなのかといったことだったかもしれないけれど、作られる過程が実写もアニメーションもとことん、デジタルになってしまっている以上はそうした過程は過程として、結果として出来上がったものをどうディストリビューションするかということでフィルムなのか、デジタルなのかといった違いになるだけのこと。そしてフィルムはコストの関係から少なくなっていってしまうということ。それがもたらす過去のフィルム作品が上映される機会の減退は、また別の話になってしまう。シネパトスのようなデジタルリマスターされ難い作品をフィルムで上映してくれる環境があればこそ、そうした作品に接する機会も得られるんだけれどその場所が消えてしまうのはだから惜しいなあ。

 もとい、杉井監督としては制作の現場でデジタルを使う上で信条にしているのは、デジタルが得意なことをデジタルにはやらせない、といったことでそれは多分、オブジェクトを設計しておいてそれを空間の中で自在に動かし作画が楽をすることなんだろうけれども、そうやって作られたデジタルの映像なんかだいたいがそういうものだという範疇におさまってしまいがち。むしろだからそうではないところでデジタルを使い、アナログでは得られない効果を得ようと考えているっぽい。杉井監督が話していた、原画をデジタル上で柔らかくするのっていうのもそういうことなのかなあ、強烈な原画がまんま絵になれば凄いと思われるだろうけれど、それが突出してしまうのはやっぱり違う。味を残しつつ統一感も出して見た目を整える上でデジタルが持つ力ってのがあるのかも。ちなみに「銀河鉄道の夜」ではあの銀河鉄道を、3Dで作りたかったけど27年前の設備では無理だったとか。そうだよなあ。「グスコーブドリの伝記」ではブドリがイーハトーヴへ向かう電車デジタルなのかな、アナログなのかな。車内がそっくりなんだよこの2作。

 明けて荷物が届く予定なんで出かけもしないで「エウレカセブンAO」を見たけれども、やぱり全体に意味不明というか説明不足な感じが強くあって、なかなか作品に入り込めない。キャラはいっぱいいて展開もダイナミックでアグレッシブなんだけれど、そうしたキャラたちのそれぞれが依って立つ基盤、心情、そして目的めいたものが見えてないんで、いったい何をしていて何のためにしていて、そしてどうなるのかってのが掴みづらい。アオは引っ張り込まれるようにゲネラシオンブル入ったけれど、スカブコーラルを相手に戦う中で何かを見つけるその以前に、戦いに振りまわされて目前に次々を現れる状況に、あるいは驚き、あるいは切れながら場当たりな対応を繰り返す。仲間の1人は現れたエウレカ相手に含むところが大だけれども彼女だって正体不明な上にそれやられちゃあ何者? って気にしかならない。そしてエウレカもお腹の子がアオではない女の子とは。どんな時間軸だ。それともアオのことなのか。男の娘だったのか。違うよなあ。トゥルースも以前としてチートな割りに正体不明。そんなもやもや感だけで引きつけ続ける凄みは、文句ばかり言わせながらも1年引っ張った「交響詩篇エウレカセブン」と同様か。ある意味で釣り師なアニメーション。最後までつき合うよ。


【7月21日】 男ってほんと莫迦ばっかり、っていうのが見終わって真っ先に浮かんだ感想か。細田守監督の最新作「おおかみこどもの雨と雪」の舞台挨拶付きチケットに当選したんで、午前も早い時間から、六本木ヒルズにあるTOHOシネマズへと出むいて入ったスクリーンは、劇場でも最大規模の場所だったけれど上映があるのって舞台挨拶付きの2回だけ。あとはそんなに大きくはないスクリーンへと回されるってところに、封切りのスクリーン数を増やした分、別に浮かぶ勝算への逡巡って奴をそこに見たような感じ。銀座でもマリオンとか東宝会館の大きな小屋は違う作品で、「おおかみこどもの雨と雪」は有楽町の高速道路の脇にあるそれほど大きくない小屋での上映だし。渋いなあ、東宝。まあそれだけ各スクリーンのアベレージはよくなりそうだけれど。

 さて「おおかみこどもの雨と雪」は、従前からの予告編どおりに花という少女が苦学していたところに現れた見ばえの良い兄ちゃんに一目惚れ的接触。そしてつき合うようになって、相手からおおかみおとこなんだと告白され、それでも怯えずついていったら子供が2人も出来ちゃった。早すぎるだろう? あれだけ良い学校に入れたのに勿体ないだろう? というツッコミも浮かぶけれどもまあ、ひとり寂しく生きていた少女にはあって不思議はないこと、頼る相手がいてどうにか暮らしもできそうとなったら、まずは子育てをしてそれから復学、って考えてたのかもしれないけれども、そこで1人目の男の莫迦が炸裂する。おおかみおとこさっさと退場。いったい何がしたくてあんなことを。その思いを花ちゃんは汲んではいたけどでも、やっぱり無謀でそして無茶。油断でもしたのかなあ。野生の勘が鈍っていたのかなあ。

 おかげで子育てに苦労して、田舎に引っ込み今度は生活にも大変な苦労。でも退路を断たれた状態でもはやどこにも行けないと、一念発起して民家を掃除し畑も耕し耕し失敗しても耕していたら、親切で無口な元トラック野郎の老人が現れどうにかこうにか軌道に乗って、そして今度は子育ての方の大変さがのしかかる。なにしろおおかみこどもだ。油断をすると人間から狼に変わってしまう。止めても子供だから言うことをきかない。きいていてもつい出てしまうその苦労は、あるいは泣いたり怒ったりぐずったりする聞き分けのない子供の暗喩ともいえるけれども、それだと周囲に相談できるものがおおかみこどもなんで相談不能。そういう苦労はなるほど境遇の近い女性の人たちとかの共感を誘って、人気の要になっていきそう。巧いなあ。

 どうにかこうにか成長して、姉の雪は人前では自分を明らかにしなくなったけれども今度は弟の雨に心境の変化。周囲に満ちた野生に引っ張られて自分の中のおおかみの部分がどんどんと出てきてしまう。対して姉は人間の男の子と仲良くなって、そのまま人間として生きようとする。それを当然と考える。対立。そして選択。自分だったら? という問いかけはおおかみでないから答えようがないんだけれど、でも、たとえ野生が読んでもそこで苦労して自分を育ててくれた母親の思い、ってやつを汲めばそう軽々とは動けないはずなものが男ってやっぱり莫迦2号。母親を危険な目に合わせてもそれでも行ってしまう姿を母親も認めるしかないよなあ。親離れ子離れを強く考えさせられる映画。そんなあたりでも強い共感を誘うかな。

 ってことで総じて言うなら徹頭徹尾、理に適って情に逆らわないで進んで気持ちよく見られてそして気持ちよく見終えられる映画。巧みに描かれた自然や街並みの光景と、その上で繰り広げられる表情豊かで心も優しい花とおおかみおとこの恋愛と、それから花が田舎にいってから繰り広げられる里の住民たちとの心温まる交流が、人間として生きて暮らしていることの素晴らしさって奴を感じさせてくれる。絵も最高。とりわけ笑顔とか実に明るく描いてあってそれを見るだけで心が楽しくなってくる。最高の笑顔はなかなか来ないおおかみおとこを待っていた花が、喫茶店の前にうつむいたところから顔をあげ、見せた笑顔かなあ。長く待たせてもあの笑顔を見せられたら訳ありの男だってそりゃあ靡くさ。だから見せたんだな、その正体を、おおかみおとこは。

 つまるところ文句の付け所がない映画ってことなんだけれど一方で、強く引きずってまた見たくなる映画かっていうとどうだろう、その笑顔を見たいという気にはなってもそこから何度でもメッセージを得たいかというと、子供もおらず彼氏彼女も持たない人間にはうーん、1度で十分かもしれないという気もしないでもない。例えば「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」だったらあの参道を駆け上っていくシーンの感涙を、また味わいたいまた味わいたいと何度でも劇場に通ってしまうし、「グスコーブドリの伝記」は突き放されたような作品に、自分から迫ってわけいって何かを探って持ち帰る楽しみを味わえる。「おおかみこどもの雨と雪」は見て良い映画だったね、と喜び帰って日常に戻ってそれまで、といったことも可能。その良い映画だとう口コミで、観客は増やすだろうけれどもどこまで強烈に、将来への印象を残せるか。商業なんだからそれが当然とはいえ、作品としてどうかと考えたくもなるのがアニメーションな訳で、そのあたりをいろいろと考えてみたい、とりあえずもう1度見ることが必要か、「おおかみこどもの雨と雪」を。

 銀座へと回り廃館が決まったシネパトスで夜の「銀河鉄道の夜」のトークイベント付きチケットを確保してから近所を探して「メリダとおそろしの森」をやってないか調べたら、マリオンでやっていたけど3Dでなおかつ吹き替えではちょっと見る気が。立体で文字を追いかけるのって至難の業なんだよなあ、なので近所を歩いたけれどもやっておらず調べたら遠く錦糸町のTOHOシネマズで吹き替えな上に2Dという個人的にはベストな組み合わせのちょうど良い時間のがあったんでチケットを確保して向かって座って見渡したら結構な数の家族連れが来ていた。これがピクサーの力か。あるいはディズニーか。それともAKB48か。そうこの「メリダとおそろしの森」ではAKB48の大島優子さんがメリダの声を演じてるってことでそういった方面からのファンもいっぱい呼び込みそう。というかそういう方面にアピールしたくて無理を承知で選んだんじゃないか、なんて声もあったけれども見終わって一言。すいません。完璧でした。大島優子さん。ばっちりです。

 なるほどイントロのナレーションで「ぬの」という言葉がはっきり言い切れてなかった気もしたけれども、本編が始まりメリダというやんちゃなお姫さまの役に入ったらもうこれがどこまでもやんちゃなメリダ。後ろに大島優子さんがいるとかAKB48が見えるとかってことはまったくなしに、勝ち気で乱暴で親の言うことは聞かず我が侭勝手なお姫さま、って奴を楽しく軽やかにあっさりとしっかり演じきっていて、どこの1点も聞き苦しかったりしなかった。誰か指導したのか。それとも相当に訓練したのか。もしかして名義だけ貸して演技は替え玉な人がやっていたのか。そんなことはない。当人がやってこれだけ出せてそして最後まで完璧に演じきったその声を聞くに付け、そして「おおかみこどもの」の宮崎あおいさんほか俳優さん子役さんたちを起用した声を聞くに付け、声優っていったい何だろうって思えてきた。あるいはテレビアニメ声優ってことか。

 それはだからもはやキャラクターボイスってよりはボイスキャラクターであって、それ自身が立って前面に出てファンを引っ張るアイドルみたいなものなんだろう。言うなれば現代のアイドル番組。それで満足できる人はいるんだろうし相当数を確保できるから、アイドルグッズとしてパッケージを売りたいテレビアニメーションとしては成立するけれど、一般層を巻きこんで大きくビジネスをしなくちゃならない劇場長編アニメーション映画の場合には、果たしてどこまでのバリューがあるのか。それ以前にその突出して特化した演技にどこまで一般性があるのか、ってところを考えた時に見えてくる声優とう職種に起こりつつある一種の変質がある。キャラクターの声を声優が演じるんではなくキャラクターである声優そのものが役となる。それが本当に正しいのか否かはだから劇場長編アニメーションで誰が声を演じているか、ってことを見れば瞭然か。つまり……。悲しむべきか専門領域を特化させ真価させた結果か。難しいなあ、どっちも嫌いじゃないだけに。

 そして本編。「ワンマンバンド」で取材したことのあるマーク・アンドリュースの初監督作品だけに、どんな出来かと期待と不安をない交ぜにしながら見たけれどもそこはさすがにストーリーに大枚をかけるピクサーだけあって、冒頭から結末まで完璧な流れの上に乗っかってダレもなく飽きも来ないまま見ていける。それはだから間合いを題字にして背後を自分で想像させる日本のアニメーションとは違う作法だけれと、エンターテインメントとして世界の誰もが楽しめるものにするには必要な作法でもある。マーク・アンドリュース自身にはいろいろな考えも哲学も趣味もあるみたいだけれど、それを抑えつつスコットランドという地域への趣味をぶちこみつつ、母と娘との間に生まれた祖語を回収して明日へとつなげる物語を作り上げてみせてくれた。泣ける話。そして笑える話。こういうのをあっさりと、それも凄まじく素晴らしい3DCGでもて作り上げてくるからピクサーは凄いんだ。どうやったらあんな映像を3DCGで作り出せるんだ。研究なんだろうなあ。そして技術。日本はどんどんと置いて行かれるなあ。


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