縮刷版2012年月下旬号


【2月29日】 そうか最初の1996年も29日があったからこれで5回目となる2月29日の日付の日記。何かまたぞろ地震の警報もあったらしくて放送がどうなるかと一瞬大勢の肝を冷やしたNHKでの「新・八犬伝」の特番は無事、最後まで途切れることなく放送された模様で録画したものを朝に見て、そのオープニングで琵琶みたいなのがジャンと鳴り、ジャズぽいサウンドのリズミカルな音楽が鳴り響く和洋のフュージョンを経て始まった人形劇は、辻村ジュサブロー(現寿三郎)さんの作る独特な質感と表情を持った人形が、動いて綴られる物語が坂本九さんの名調子によって語られ見るほどに引きずり込まれる、35年以上が経った現在ですら。

 ビジュアルが良いしテンポが良いし展開が良い。そりゃあ昔ずっとみていてその後どうなるかってことも知っているし、ノスタルジックな思い入れもあるから良いを連発してるって言われそうだけれども今みると、昨今のスピーディーなテンポと比べて昔のってどこか間延びしてユルさもあってダレるよね、って意見も割とあったりする中で15分くらいの短い番組だったってこともあるのか、あるいは人形劇って表情をそれ自体ではつけられないものを語りと動作によってさも生きているように見せかける作劇上の特性もあったのか、次から次へと展開が起こり語られていくようになっててまるでダレることなく目を耳を引きつけられた。なるほどこれなら当時の誰だって夢中になるはずだ。

 総集編とかもやってたみたいでそこでは坂本九さんが黒子の衣装をかなぐりすてては立ってバラードとそしてロックなテーマソングを歌ってくれて、聞くとそのどちらもすっかりしっかり耳の奥に染みついていてすぐに思い出せて口ずさめる。2年近くにわたって繰り広げられた人形劇で散々聞かされたってこともあるけど、そういう風にテレビラジオから発生して人生に沿って体に染みこんでいった歌ってのがかつてはいっぱいありながら、今はあんまりないのはそれだけテレビラジオが身近に寄り添うメディアではなくなった、ってことなのか、単純に番組の問題か、その両方か。アニメソングが売れるのは作品で引きつける中で主題歌として毎週毎回ちゃんと聞かせるから、ってこともある。オープニングは映像も見ていて楽しいし、ってことはCMも1分半にしてアニメーターを使って作劇させれば見られ印象づけられる? やっぱ長いかそれじゃあ。

 番組に出てきた伏姫と八房が暮らした富山ってのに折角千葉に住んでいるんだから行ってみたいなあと思いつつ、合わせて見た「輪廻のラグランジェ」に登場する鴨川シーワールドものぞいてみたいと思いつつもたぶん暖かくなるまではかないそうもないこの寒さ。まあ年度も変わればいろいろあるだろうから暇もきっとたっぷりできて自在に歩き回れるようになるとは思うけれどもその一方で実入りへの心配もつきまとう。大丈夫なんだろうか大丈夫じゃないんだろうなあ。そんな「輪廻のラグランジェ」はノウムンドゥス財団とやらから日傘くるくるな少女が到来、名をアステリアちゃんという彼女が着ていきなり京乃まどかの胸をむんずと掴んで感触を確かめた姿に、次はムギナミの胸を掴もうとして収まりきらない大きさに、比較してまどかをさらに落ち込ませるのかと思ったけれどもそうとは流れずランちゃんも平たさを絶望させず。

 代わって「わん」という挨拶を嘘だと教えて赤面させていたけど。でもあの「わん」は同じ安房が舞台の八犬伝にあるいはちなんだものかもしれないって想像も浮かんで楽しみが沸いてきた。多分外れているけど。アステリアについてきたメイドが喋って声が男で誰だと調べたら前に捕まり消えたアレイくんだった。そしてその上司らしいヴィラジュリオのところまで乗り込んでいっては良からぬ会話。一方で笑顔を絶やさないモイドもランの兄で王様らしいディセルマインを相手にいろいろと悪巧み。危険なウォクス・アウラならとっとと渡してデ・メトリオともどもお引き取り願えばいいものを、そうはいかない事情がレ・ガリテとデ・メトリオにもあってそれに地球が巻きこまれているという構図なのか。いずれにしても未だ見えない対立の構図。その先に来る展開は。八犬伝との関係は。だからそれはないって。あったりして。わん。

 「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)の報告書から浮かび上がるのは、『パニックと極度の情報錯綜』(報告書)に陥り、『テンパッた』(同)状況となった」云々なんて文言が並んでそれでもって当時の菅首相の責任を真っ向糾弾している紹介記事に、いったい「テンパった」なんて俗語を平気で使ってみせる民間事故調の報告書はやっぱり政府批判の団体によるバイアスのかかった報告書で、それを菅大嫌いなメディアが大活用している憎しみのコングロマリットか、って28日朝に思ったけれども、同日午後に会見して報告書の内容を発表した民間事故調の会見の模様をユーストリームで眺めていたらまるで状況が違ってた。

 別に政府の特定の誰かを糾弾するでもなくってこの国が陥っている無責任の連鎖によって空洞ができてしまっている状況を、観念的に捉えていてそれを改めない限りはまた事故は起こるってな警鐘を鳴らしているって意味で、とっても哲学的で知的で冷静で沈着な報告書だったけれども、それを受けた報道がやっぱり菅憎し民主党憎しに凝り固まっていて、こりゃあやっぱりどうしようもない国、というかメディア状況だと思ったり。事故がどうして起きてしまったかというと、やっぱりあったのは憂いへの備えの至らなさ。それがどうして起こったかってあたりで、原発への反対運動に対してその安全性を確固たるものとして言うがあまりに、安全ではない可能性をまるで言えなくなってしまって科学的に必要なら足し備えていく段取りがとれなくなったって指摘が会見ではなされてた。

 その責任の所在がどこにあったかを考えた時に安全神話を持ち出しそれを金科玉条のものとしてしまった推進側にもあるにはあったけれども、ただひたすらに危険性を訴え相手の安全神話を結果として助長してしまったメディアにもあったんじゃないか、って思えてきた。当時の筆致を考えると、安全性への懸念を示して補修に動こうものならやっぱり危険なんだと騒ぎ立て、身動きをとれなくしただろうメディアが、会見を聞いて思うところがあって自省してくれれば良かったんだけれど、会見場ではそれを分かっている雰囲気を示しながらも出てくる報道はひたすらに犯人探しというか特定個人への糾弾。自省もなければ自重もないそのスタンスが、いずれこの国を滅ぼしてもやっぱり自省も自重もしないで持論ばかりを垂れ流すんだろうなあ。


【2月28日】 そうそうメディア芸術祭でのメディア芸術クリエーター育成事業プレゼンテーションに登場した大山慶さんと四宮義俊さん、トーチカの2人組から支援についてあった言葉で、支給されるお金を自分への報酬にはできないっていった規定がアニメーション作家にとっては結構厄介だってものがあった。基本的に資金はたぶん材料を買ったり道具に支払ったり手助けしてくれた人への報酬に使うものらしいんだけれども個人でアニメーションを作るクリエーターの場合、材料費なんていってもせいぜいが紙と鉛筆と絵の具で誰かの手を借りるなんてことも皆無。それで全部の資金を使うなんて不可能だけれど自分には使えない、ってことになると何ヶ月もかかる作業をまるまる持ち出してやらなきゃいけないってことになる。それでいったい何の支援になるのか、ってことが今回の一件から見えてきた。

 虎が動き回る「水槽の虎」って作品を作っている四宮さんもやっぱり似たような悩みがあって、まあその分を手伝ってくれるアニメーターの人とかスタッフの人への報酬にできたりはしたけれど、新しいマシンを買うようなことには使えなかった模様。大山さんもメーンの絵は描きながらも原画をいろいろな人に描いてもらうことによってその支払いにあてたとか。そんなあたりをうまく分散できて誰もがハッピーになれるような道を模索できればいいんだけれど、個人も可となるとそれをつかんで逃げるなんてことお出きるようになるかならあ、いや国を相手に逃げるのも大変だけれど。トーチカの2人は前は懐中電灯を振りまわして撮ったものを今回は太陽光でやることにしたため、集光に必要な中華鍋風グッズの制作に回したとか。結構な大きさなんだけれどそれくらいないと太陽を集めてカメラに反射させられないみたい。いっそ亀の甲状態にして反射の率を上げれば良いのに。それでも出来上がってきている作品は柔らかい線と模様が昼間に輝きエネルギーの持つ力を感じさせる。完成したら見てみたい。

 新しい「イブニング」の「もやしもん」はミス農大の余波で及川葉月の優勝騒ぎが続く傍らで長谷川遥を引っ張り出した後始末。まだ蛍の格好で寒空をマンションへと戻り脱いでくつろいだところに窓から下がってきた美里薫がその格好をばっちりしっかり見てしまったことに何でか真っ赤に怒らずぶら下がったまま諦めてしまうところに碇を見せるなんてやっぱり気があるのか遥は美里に可愛いなあ。一方で日本酒が嫌いだと宣言した西野円にすがるこちらは本当の蛍だったけれども何でと理由を聞いても答えず。樹慶造教授の知り合いでありながら日本酒が嫌いってあたりに何か出自の秘密とかあるのかも、彼女が本当は乱暴な口調だってことも教授は知ってたし。どーゆー関係なんだ。そしてどーゆー感じに絡んでくるんだ。新入生の季節が楽しみ。でもそこまでたどり着くまでにきっと連載あと3年とか。まあ気長に待とう。11巻の限定版はちゃんと買えるかな。

 前号でいい感じに煮えたおしりを大根よりしく串でぶっさされていた「おせん」さんは家庭でのおでんをどう作ればいいのか問題で高級な食材を使って出汁なんてとったって、市販の具材に使われている調味料がしみ出て全部ぶっ飛ばしていくから不必要、ひたすらに似るがよろしい、ただし昆布だけは食感もあるんで入れましょうって話になっててそうだそうだと受けて帰った若い会社員たちに何やら不穏な空気が漂いいか次号。ここからきっと長いんだろうけど季節は春めいておでんのシーズンでもなくなるのに続くのか冬の風物詩。そこんところかみっちり描いてしっかり伝えるきくち正太さんの漫画の良さでもあり難しさでもあるのかな。ようやく出た単行本はもう随分と前に読み終えた骨董屋との対決エピソード。その後の官僚が上司をぶん殴った話も塩糀に異論話も単行本かは年末になるのか年明けか。

 そんなきくち正太さんの自伝なのかフィクションなのか分からないけど割と漫画家の日常めいたところに迫った「俺たちのLASTWALTS1」(日本文芸社、590円)が登場したんで読んだらこれが面白い。もう中堅なんだけれども連載は2誌でそれほど売れまくっている訳ではない漫画家が、仕事を終えて楽しんでいたのが学生時代から親しんでいたエレキギター。とはいえ家では思いっきりは引けない鬱屈を、晴らす機会として漫画家の人たちとのセッションに呼ばれてその技を見せるってのが後半あたりの展開で、そこで繰り出されるギターに関する知識やジャズに関する蘊蓄は、読んで分かるものではないけれども何か音楽にのめりこむ熱さみたいなものは伝わってきて、音楽が出きることへの憧れって奴が沸いてくる。

 前半は学生時代にどんな感じにギターにハマっていったかで、本当だったらオールマン・ブラザーズに憧れグレコのレスポールを買おうとしたのがなぜか届いたのがストラトで、まるで違うサウンドに苦心しながら弾いていってそして入った高校で、その見目とそのギターからジミ・ヘンドリクスと言われ真似をさせられ3年間をそうやって過ごしたことでひとつ、トラウマができてしまったとか。本物のきくち正太さんがジミヘンに似ているのかどうかは知らないけれどもどうなんだろ。んでもって大学にはいってもやっぱりジミヘン扱いされた主人公、それでも漫画家となってギブソンのESを買って今はラリー・カールトンとしゃれ込んでいたりして、そんな姿に大人になってギターを嗜むことのカッコ良さ、ってものが見え隠れ。やってみたいけど我が家にはギターを置くスペースすらない状況ではどうにもこうにも。でもまだチャンスはある。いずれ機会を見て買うぞテレキャスター。


【2月27日】 「浜村渚の計算ノート」が文庫で大ヒット中な青柳碧人さんの新刊「判決はCMのあとで ストロベリー・マーキュリー殺人事件」(角川書店、1600円)が面白すぎた。裁判がテレビショー化した日本での裁判で裁判員たちが判決を下すまでを描たいストーリー。かつては人を裁くことへの良心の呵責から、疑わしきは罰せずに流れて無罪ばかりが出た裁判員裁判が、それではいけないという法務省側の意向もあってテレビショー化された途端に、疑わしきは死刑となる転換に妙なリアリティ。スポンサーの声、目立ちたい気分、誰もが罰を望む中でそれが真実でも無罪を言えば裁判員はどうなるか、被告に生きる社会はあるのか等々疑問が投げかけられ裁判員を惑わせ誘う。

 既にしてワイドショー化された犯罪報道の延長線上として、もう現実のもになりかけている感もあるこの状況。そんな中でもはや正義なんか貫けないのか、といったところで打ち出される一撃がなかなかに痛快で、法廷ミステリとして謎を暴いたその後に、袋小路となってしまいそうな結末の向こう側へと道を開いてくれる。幸福があり寂しさともったいなさもあるけれど、読後感はとっても爽快。これは絶対に映画向きの題材だよなあ。でもって本編は幕を閉じても裁判員裁判は続いていく訳で、次はいったいどんな事件が俎上にあげられるのか? といった興味も津々。裁判員からアイドルになった女性達で結成された「CSB法廷8」とかの活躍なんかも観たいし、30歳過ぎなのにそうは見えない女性裁判官の○○さんのエピソードとかも読んでみたい。映画化するならやっぱり起用はAKB48? 誰が誰を演じることになるのかなあ。ユニットとして独立させたりしてなあ。

 なんだかこんな記事が出ていて驚いた。「昨年9月、体調不良で死亡した女子生徒が登校した時は、教室内に『来た〜!』と叫声が響きわたり、『記録達成のためにネクロマンサーに甦らせてもらったんだよ』と女子生徒は答えた」。そうかそれほどまでして全員での皆勤賞を守りたかったんだなあ、なんて現実にネクロマンサーなんて存在してないし、死んだ人間をゾンビにしたり吸血鬼にしたり悪魔にして生き延びさせるようなこともできません。だから多分こっちが現実。「昨年9月、体調不良で欠席していたはずの女子生徒の席に、クラスメートが『おはよう』『元気になったね』と話しかけ、返事が来たように『そうなんだ〜』と会話が続いた。皮神教諭は『感激しました。いない生徒もいるように振る舞おうとしいたんでしょう』と振り返り、女子生徒を出席扱いにした」。これもこれで怖いなあ。逆「Another」。いずれにしたって同調圧力の行き過ぎで体調を鑑みない不気味さに怖気。それを美談のように仕上げる朝日にも。朝日ってこーゆーの、嫌いだったんじゃなかったのか。新聞全体、劣化してます。もちろん某1紙が突出してるけど。

 「HAND SORP」の不気味さにいったいどんな不気味な人なんだろうという興味もあってのぞいた文化庁だかによるメディア芸術クリエイター育成事業成果プレゼンテーションに登場した大山慶さんがイケメンだった。CALFってインディペンデントアニメーションの作家たちで作るレーベルのマークが入ったフーデッドパーカーなんかを着ていてこれがなかなかの格好良さ。あのワンポイントがいずれ世界の映画祭で嬌声を受けまくるくらいのヒットレーベルになるんじゃないか、ってことは既に和田淳さんが先陣を切って証明しかけているけれど、その後に続くだろう水江未来さんとそして大山慶さん。とりわけ大山さんのは主題があってキャラクターもいてストーリーもありそうって点が動きの変化の面白さ、音楽とのシンクロの楽しさで感じさせる水江さんよりあるいは世間に受け入れられやすいのかもしれない。

 だからこそ気になっていた次回作の「放課後」は何とブルマで制服のスカートから伸びる生脚で眼鏡のポニーテールな女の子が出てくる萌えアニメーションだった、ってことはまるでないけどそんなフェティッシュなビジョンが盛り込まれていて、青春って奴の懊悩を改めて感じさせるような作品になっている。趣旨はあるキャラクターが感じている主観的な世界観って奴を、キャラを切り替えることによって異なる画調で描いて繋いでいくってものでいわゆる動きのメタモルフォーゼとはまた違った、観念のメタモルフォーゼって奴を見せつけてくれて自分の内心を暴かれのぞかれているような気持ちにさせられた。あるいは自分の感じている世界が眼鏡のポニテな委員長だったり女子のブルマだったりするのかな、してるけど、でもそんなビジョンの連綿が興味深い1作。完成が待ち遠しい。

 そんな大山慶さんが話していた興味深いこと。カナダのバンクーバーに1年ほど留学していたけれどもあちらはカナダ国立映画制作庁ってのがあってノーマン・マクラレンの昔からインディペンデント系のアニメーション作家たちを支援して大量の作品を送り出しては歴史に名を刻み、アカデミー賞にだって幾つも輝いていたりするんだけれどそうした国を挙げてのアニメーションへの取り組みが一方にありつつ、街に出てショップに入ってもそこにはまるでそうしたアニメーション作品が並んでおらず、むしろ日本の方が短編アニメーションとかのソフトに巡り会うことが多いとか。国の熱気と民間の冷静。この乖離を考えた時にはたして良いのだろうか、自分としては映画祭にのみ向けて作っている訳ではなくって、やっぱり映画として大勢に観て貰いたいってのがあって、そんなギャップをどう埋めるのかってのがこれからの課題になりそうっていったことを話してた。

 オランダでも国によるクリエーターへの支援が一気に締められ大慌てしていると大山さん。そんな姿を横目に見つつ、国が助成して「放課後」のような作品を作らせてくれることは本当にありがたいとは思いつつ、いつまでもそうした助成にだけ頼っていられる環境にはないことも自覚して、自分の技術で稼げるような状況に持っていきたいとも言っていた。それが商業との結託なのか国ではない企業などからの支援の取り付けなのかはわからないけれど、商業に向かうことも視野にいれるのだったらあの作品への向き合い方を、商業のビジュアルで表現できるような作り方ってのも必要になってくるのかも。そうなった時にいったいどんな映像ができてくるのか。有り体の商業作品とは違うけど、インディペンデント系ともちょっと違った不思議テイストが、生まれて来たら面白いかも。

 っていうかそんな商業的でもメジャー中のメジャースタジオ、東映アニメーションが密かに作り上げていた「虹色ほたる〜永遠の夏休み」って映画がこれまた何というかインディペンデント系アニメーションのテイストでもって綴られたアニメーション映画で普通一般のかちっとして輪郭があって可愛らしくてしっかり動くアニメ映画に見慣れた目にはとっても不思議に映りそう。横顔ひとつとってもゆらゆらと線が揺れ動いて波打つ感じなのはなるほどインディペンデント系アニメーションの特質で、それによって心情の揺らぎなんかを感じさせたり止まっていない状況を感じさせるんだけれどテレビアニメではあんまり使われない、っていうかそんなことをやったら作画崩壊だの何だのって言われてしまう。けどそれを堂々と105分の映画でほぼ全編にわたって貫き通している。凄いというか素晴らしいというか。アニメに詳しい人に聞くと画面設計の山下高明さんの味らしく、それに「時をかける少女」のキャッチボールシーンなんかで観られた森久司さんのだらんとしたキャラクターの描線なんかも重なって、独特のテイストを出している。

 ストーリーは川口雅幸さんの小説が原作になっていて、ダムのある田舎にカブトムシを取りに来た少年がダムが出来る直前の谷にある村にやって来てしまうって展開で、そこで出会った少年や少女と自分の時代ではありえなかったような、平凡だけれど楽しい夏休みを過ごすというもの。1977年が舞台となっていることもあってそこで繰り広げられる小学生の日常はそのまま僕の日常でもあって、クーラーもゲームもない中を朝から晩まで走り回って遊び回って夜にはテレビをちょっとだけみて窓からの風に涼みながら眠るという生活ぶりに、そうだったよなあって懐かしさを覚えてしまった。あんな時代もあったんだ。って今もクーラーもなければ暖房もないんだけれど。壊れてて。それで大丈夫なのはあの頃の経験が生かされているからなのかなあ。

 でもって異邦人的な立場なのが自分だけではないと気付いた少年が、いずれ来る別れをどう受け止めるのか、ってあたりをクライマックスにして離別の涙に誘われそして、再び巡り会える時に来る喜びの涙に誘われる。そんなハートに刺さるストーリーがインディペンデント系アニメーションによくある揺れ動く描線とか、リアルなスケッチを何枚も重ねて動かす手法なんかを使って描かれているから余計に懐かしさ、温かさって奴が染みてくる。これが今風のコミカルでかっちりとした描線だったらここまで懐かしめただろうか、泣けただろうか、ってことを考えるけれどもそれは自分の歳だからであって、若い世代とか子供にはやっぱり入りやすいインタフェースが必要かも、って意見があればそれはやっぱり否定しない。大山さんが完全無欠なアート系から商業系を模索するならこちらは商業系からアートをのぞいた感じ。それらがぶつかり合ったところにあるいは、次代の表現なんてものが生まれるのかも。たっぷりの資本と優秀なスタッフで大山さんやインディペンデント系のアニメーション作家たちが、何を作るのかちょっと観たくなって来た。


【2月26日】 発売日は過ぎているから店頭に、並んでいるかと思って言った秋葉原のゲーマーズ本店には影も形も見えず、あるいは品切れになったかと津田沼のゲーマーズに回ったところ、こちらも棚にぽっかりと空間があいて品物が見えなかったので、これは困ったゲーマーズで揃えてボックスをもらおうと思っていただけに買えないのは困ると不安で眠れない夜を過ごしてから、朝になってあるいは発生しているかもと千葉に行く途中に津田沼のゲーマーズに寄ったら、店頭にちゃんと並んでいたんで購入できた「境界線上のホライゾン」のブルーレイ第3巻。そんなに人気なのかそれとも製造を絞っているのか不明ながらもこの経験を2度味わうのはキツいんで次はちゃんと予約をしておこう。

 世界三大カップと讃えられ敬われ、選手たちも出場を喜ぶ「ちばぎんカップ」の日が到来したので、いそいそとフクダ電子アリーナへ。いったい何時以来? もはや昇格が不可能となって以降の試合については確か見に行ってなかったこともあるんで11月のいつかから3カ月くらい経っているかも。その間に監督は代わってメンバーもガラリと入れ替わってまるで違うチームになっていたとかで、どんな戦いを見せるか興味もいっぱいだったけれどもいつかのヨジップ・クゼ監督が就任したばかりのジェフユナイテッド市原・千葉も、この「ちばぎんカップ」でとっても良い動きをして期待したらシーズンインして連戦連敗。だからはっきりいって何の参考にもならないんだけれど、今年ばかりはそうも言ってられないんでどんな感じのゲームをするのか、見たらこれがなかなかだった。

 まずサイドからちゃんとボールを運べてる。この数年はサイドの中盤にボールを入れても囲まれ戻して真ん中って繰り返しから押し込まれる展開が圧倒的だったけれど、今年はサイドにボールが入ると中に1人来て受けてまた前に出したり戻したりとオプションを漬けながらちゃんとボールを前に運んでえぐってクロス、って光景が何度も出現した。去年だったら天然記念物に指定できるくらいの頻度だったプレーが何度も見られた上に、中央でちゃんとボールをうけて両側に裁く動きもあってそこから攻撃って目も何度もあった。センターフォワードに入ったあれは18番の藤田祥史選手が案外にしっかりとボールを収めるポストの動きをしてて、横で米倉恒貴選手が動いてさばいていたりして、良い感じにボールが前で収まるようになってそこからのシュートも幾つか見られた。

 あとは細かいパスの時に精度が悪くて相手に渡してしまうプレーを減らしてパスが通る確立を上げれば、より多くの機会を作ってシュートを増やしそこからゴールへと持っていけそう。残念ながらサイドバックの不用意なパスを奪われシュートされ得点を与えてゲームは負けてしまったけれど、この何年か連覇してもシーズンでは散々だったことを考えると形をしっかり作れて得点機会もちゃんと得て、そして相手に真っ当な得点機会を与えなかったことの方をむしろ喜びたい。これならJ2の守備を相手に翻弄できるかな。固めて来られればセンターから落としてドカンとかできそうだし。柏レイソルの方も動きはできていたけど得点力が。そこはシーズンにはいってしっかりチューニングしてくるだろう。水野晃樹選手が柏のメンバーとしてフクアリ降臨。いっときのふっくらがとれて細面になっていた。やっぱイケメン。その切り裂くドリブルと精度の高いフリーキックとロングスローが炸裂したら……どうしてジェフ千葉にいないんだよう。

 眼鏡委員長でもブーリンでも、それが相手の特徴を確かにとらえたものであってもそう綽名された側にとってはやっぱり気分が良くないもので、何度も重ねて言われれば悪口と聞こえて心に痛みを負うことになる。集団がいっせいにそんな綽名を連呼すればもはや親愛でも批判でもなくただの虐めで、その結果いったい何が起こるのかを想像した時にやっぱり綽名で人を呼ぶのはよくよく注意が必要で、愛称のようなものならまだしも悪口を前提とした綽名をつけるのは絶対に避けるべきだとおそらく、教育の現場では見なしているんじゃなかろーか。にも関わらず教育の再生だの美しい日本語だのと言ってるメディアが相も変わらず率先して、悪口を言うことの自己正当化につとめて悪口に該当することがこんなにもありましたよって表まで作って乗せている。

 もうポン酢かと。事実をそれとして提示するのならまだ良いけれど、だからといって悪口を真正面から大声でぶつけて良いんだってことにはならない。そんな風潮を公器とやらが率先して行って、いったい子供たちにどんな顔を向けられるんだ。教育の再生だなんて同じ口で言えるのか。これが何と言えてしまうんだから参ってしまう訳でいったいどういう思考回路でこの一連の騒動を、流しているのかちょっと知りたくなって来た。大の大人が大声で悪くを言い合う姿を見せて子供たちに恥ずかしくないのか。影響されやすい学校教育の現場で虐めの助長に繋がるかもしれないという自覚はないのか。たぶん恥ずかしくもなければ自覚もないんだろう。あったらとっくに止めている。続報だってやらない。そういう態度はいつか自分たちが虐められた時に誰も助けてくれない自体を呼ぶことになるんだろう。何かを言う権利は見守るけれど滅亡するのはご勝手にとかか言って。はあ。

 和智正喜さんってデビューしてもう23年とか経つ人が富士見ファンタジア文庫で出してきた「消えちゃえばいいのに」が凄まじかった。少年がいきなり美術部の美少女4人から告白されてドギマギしている夜に家にやってきた4人とお泊まり会なんかしたかどうかして明けた街では、人が次々と死んだり殺されるようになっていってそれがどうやら少年と何か関わりと持った人らしい。少年の前に現れた死神を自称する少女によれば紙にかかれたリストに沿って100人が死ぬという、その理由はいったい何か、そして目的は。オカルトじみた設定だけれど終わってみればなるほど案外にあり得るかっていうとそれもまた曖昧模糊とした感じ。清涼院流水さんよりはまだリアルに寄っていたりするのかな。いずれにしても愛されるってことは大変だってことで。

 自衛隊だけが国に奉仕貢献している訳でもあるまいに。良き国民として国に奉仕貢献できるよう、様々な勉学に励み己を高めることこそ本道。自衛隊に行かずとも出きるさそれは。つか何万人とかに及ぶ国立大の新入生を半年も面倒見られるかっての。そんな人的余裕もなければ食わせる飯もねえ。ど素人に半年居座られちゃ自衛隊だって迷惑だろ。せいぜいが3泊4日にしろってんだ。ジュリーがレコード大賞とった時期に小学生だった自分は、ボーイスカウト経由で舞鶴の海上自衛隊の教育隊に3泊4日で体験入隊したけど、子供だったんで合宿みたいなものとして楽しめた。起床から甲板掃除から短艇漕ぎからいろいろやった。帰りに天橋立を見た。

 そんな程度で自衛隊にたいするポジティブな関心を抱かせられるものだけれど、それでも受け入れる側は大変だったろう。怪我させちゃいけないし。それがまだ言えば従う小学生ではなくって分別もあれば文句も出てくる高校卒業生。現場の混乱なんて想像するだけであまりある、費用的にも無理なら国防的にも迷惑だ。実現性も実効性も皆無なそんな暴論を、暴論と承知で諧謔も交えつつ国を思う気持ちの大切さ、っていう真理に迫ろうとするならまだ読み応えもあるけれど、穴だらけの暴論で目配りも皆無なものを、思い込みだけで綴って四方八方に迷惑を及ぼすのはやっぱり拙い。それを直しもせずまるっと載せる媒体も同類ととられて仕方がない。自衛隊にだって呆れられるだろうに。劣化すら通り過ぎた先にあるのって、失墜? 崩壊? 消滅? いずれにしても困ったもので。


【2月25日】 なんであのタイミングで尻まるだし? って誰もが訝ったりした先週から、今週へと移ってなるほどそういう理由があったからなのかと納得……できないなあ、やっぱり、っていうか実際にいるのか裸族、家ではずっと素っ裸で下着もつけないままで過ごす人たちが。そんな家に育ったってやっぱり学校に行くときも旅行の最中も緊張からちゃんと履いてて当然なのに、そうじゃないところに別の何か目的ってのがあったと考えるのが妥当なんじゃないかなあ。そしてそれは少し成功したと。何か当て馬みたいで可愛そうだった。そんな小も妙なスイッチをいれたみあいでりのんはどうして慌てているのか。「あの夏で待ってる」。いよいよ書こうです。レモン先輩はいったい何者。

 「私は君の意見には反対だ。だが、君がそれを主張する権利は、命をかけて守る」って守ってないじゃないか、朝日新聞。例の民主党の偉い人による悪口を、16回も書き連ねた新聞社に対する会見拒否から2晩過ぎて、ようやく持ち出してきた社説が「会見取材拒否―前原さん、それはない」ってタイトルのものなんだけれど、その冒頭、「自分に批判的な一連の記事は『事実に基づかない悪口』『ペンの暴力』であり、『受容の限度を超えた』のだという。この対応に驚くとともに、あきれる」と書くんだったら、どうしてその場でそろって会見をボイコットしなかったのか。他社も含めて会見場に残って諾々と、民主党の偉い人の話を聞いて、結果として閉め出しに“協力”したその身でよくも「命をかけて守る」とか、言えるものだと「この対応に驚くとともに、あきれ」てしまった。

 その言論が言論にほど遠い悪口にしか見えないと感じ、それを主張する権利はあってもそれを同じジャーナリズムとして守る言われはないと考え、何も行動しなかったってんならまだ分かるけど、そうではないと今になって言うからには、例え給料が半分しかない連中でも、志を同じにする者なんだと認めているってことになる。ならばその時にどうして“命”とやらをかけようとしなかったのか。あるいはそれをしようとしたのかどうかを検証しないのか。抗議しました受け入れられませんでした仕方ありませんねで通したんだったら、それは“守る”ことにはまるでならない。現に排除されたのだから。

 つまりはすでに確定してしまった瑕疵をそうと認めず、今になって応援してますと言ってのけるその口調に、誰かの権利を守るのではなく己の権益を守りたいという意識が透けて見える。そして世間もそれを見抜いている、かというとそうでもないのが残念というか、上っ面の威勢の良さに引っ張られる傾向が、やっぱり強まっているなあと感じた次第。そんな社説と、それから叩き出された新聞の1面コラムが、ともに佐藤栄作首相による新聞はダメだテレビなら言い発現を持ち出し、選別はいけないと訴えるけどそこにあったのは見解を乗せて批評するジャーナリズムとしての新聞と、何も乗せずに流布するプラットフォームとしてのテレビとの差異性。そして否定されたジャーナリズムは、会見を拒否して全員が席を立った。NHKの記者だっていなかったんじゃないか、だから無人の会見場でカメラマンが多分回してたカメラに向かって佐藤首相は喋り続けた。

 今回の一件は、本当にジャーナリズムの問題なのか。ジャーナリズムそのものが否定されたのか。表現する自由は誰にだってある。言論の自由はこれを憲法によって補償されているけれどもそんな自由には絶対的に責任が伴う。そのバランスの中でよりよい方向へと世界を導いていくことにジャーナリズムは腐心すべきなのに、原因となっていた事態にはたしてそうした腐心はあったのか。守るべき義務を振り捨て追うべき責任にも背を向けひたすらに暴走していった自由に対して、下された何かなのだとしたらまずはそこで立ち止まって、義務を見つめ直し責任を考え直す必要がある。

 にもかかわらずそうした自省にはむかわず、「報道機関が正確で公正な報道に努め、表現方法にも留意しながら報道の自由の権利を行使すべきであることは言うまでもない」って主張してしまえるんだから、もはや何も言うことはない。言ったところで届かない。そんな主張と、後出しじゃんけんの社説とが、共に口をそろえて会見の拒否は良くないと叫んでも、やっぱり世間の理解は得られないと思うんだけれど。そんな考え自体がもう古いのかなあ。かくして世界には悪口が満ち罵倒が溢れ口先だけの自由が蔓延るという寸法。これじゃ体に良いわけないよ。分かったいるけどやられまくりの日本の明日は。

 割とちゃんと朝に起きられたんで支度をして八王子まで出かけて八王子市夢美術館で「加藤久仁生展」を見る。「つみきのいえ」でアカデミー賞を受賞してからこっち、話題になったのは一瞬でその後に一体何をしているんだろう的興味からも外れてしまって動静が今ひとつつかめていなかったけれど、どうやら雑誌で絵日記めいたものの連載をしたり、習作のようなアニメーションをつくっていたみたいでそれらが並べてあったのが展覧会の目玉であり収穫。もちろん「つみきのいえ」に関しても充実していてスケッチから絵コンテ、動画があって実際の映像も上映されて止まった絵から動く映像へと移っていく様を、素晴らしい展示什器とともに観賞できる。これは見物。いつかの文化庁メディア芸術祭ではやれてなかった展示。それもまた行って見る価値の1つかも。

 改めてながめて「つみきのいえ」は分かりやすさでもって伝わったアニメーションだよなあ、という印象。だって温暖化か何かで上がった水面の上に重ねていった家に暮らす老人が、潜って思い出を振り返るって展開にはノスタルジーを誘う物語があり、温暖化の未来に向けた警鐘なんかもある。そうしあ語りやすい主題がいっぱいあるうえに見て優しい絵柄だからもう響く響く。過去の中で重ね合わせたワイングラスが現代に戻るシーン1つに凝縮された過去と現在の時間が詰まってて、一気に涙腺を刺激する。そりゃあアカデミー賞とるよなあ。考えるとあの水だらけの世界のどこでワインとか作ってるんだ、人類はどうやって命脈を保ってるんだといった社会的リアリティの問題も浮かぶけど、伝わる主題がある以上はそうした設定は関係なし。そこにも分かりやすさがあるんだろう。

 それと比べると習作めいた1分の映像を集めた「情景」は、クロッキー的につづられた変幻する場面を見せるっていうより感じて貰う作品で、何かメッセージを期待していくとするっと肩すかしをくらうかも。とはいえ短編アニメーション的なのはむしろこちらの方で、ドローイング的に置かれた色とか線が重なって、人の動きとか仕草とか表情なんかを見事にそこに現出してみせてなるほど絵を動かして見せるアニメーションとはこういうものかと感じさせる。少女が連れてる黄色いぶったいを少年が横取りしようと赤いバットを振りまわす作品とか、その非道さだけならとても良い話にはなり得ないんだけれど、でも分かるんだ、そういう気持ち。そしてそんな話を絵でもってしっかり、感情とかも含めて見せてくれる。凄いと思った。

 さらに「ポタージュ」という話。からっぽの器をみた少女2人がいろいろ動き回っていく展開から家族との関係が現れ現在の状況が描かれるといった具合に、時空を飛ばして一気につなげるアニメーションならではの時間軸がそこにあって目を引っ張られる。巨大な魚の腹からこぼれおちたこれも大きな魚に向かって、包丁だかをさっと振る少女の毅然とした後ろ姿とか、凛々しくて可愛くって3回くらい見返してしまったよ。水道から流れてきた水が生命のようにそこに置かれ池となったものを親子が海に帰していく話とか、さまざまな朝食が現れ重なり流れ終えて思わず「ごちそうさまでした」と言いたくなる話とか、どれもアニメーションならではの動きの自在さで見せてくれる。全部で5編あってさらに2会場を経て7編になるとかでその時にまたまとめて見たい。それより今の5編をまた見に行くかどうするか。


【2月24日】 昨日の学生CGコンテストの上映会では、やっぱり植草航さんの「やさしいマーチ」が好きな1本で、もちろん相対性理論の「ミス・パラレルワールド」をバックに展開されるバージョンが上映されて、少女の妄想の顕在化していくビジョンと、爆発や跳躍のエフェクトの凄みって奴を、大きなスクリーンに高精細のプロジェクターによって上映された映像によって、存分以上に味わうことができた。こういう機会はもうしばらくなさそうなんで、文化庁メディア芸術祭の会場へと出むいて小さい音に耳を澄ませつつモニターに繰り広げられるその映像を楽しもう。月曜日に新人賞作品の上映会とかあったっけ。ちょっと後で調べよう。

 それから、武豊アニメーションフェスティバル以来となる、ひらのりょうさんの「ホリデイ」も改めて見て、やっぱり深い作品だなって感慨に浸る。水道管から押し出されたサンショウウオだかイモリだかが、女性の胎内にはいり戻されそして女性の体調を崩させ、その果てに引きこもってしまって耳だけにしてしまったのを悔いてイモリは耳の中へと入り込み、付き人らしい裸のエンジェルはさまよいつつ懊悩の中に身を焦がす。それが何かの暗喩なのかどうかは不明ながらも異質なオブジェクトによるシュールな展開は見ていて知らず引きずり込まれる。初見だとおよよって気分に引っかき回されたけれど、2度目なんで割と冷静に展開が終えたってのも大きいかも。

 湖を囲む温泉旅館のような舞台のキッチュさは、植草さんのようなオシャレの対極を行くけどそんな両極端が混在しているところが日本のアニメーションの豊かさなのかも。っていうかこれだけのものを作った人が最近まで学生だった、ってところが仰天。かといってプロになってバリバリ作れる環境がある、って訳でもないからなあ、だから和田淳さんはフランスと組んで作った訳で。そんな和田さんも、少し前まで学生CGコンテストな人だったってことはつまり、今回参加していたすべての人たちに、ベルリンで銀熊をゲットできる才能がある、ってこと。そんな人たちがフランスやカナダやチェコやいろいろと合作して世にでて認められた暁に、日本でも何とかしようってことになるのは遅すぎるとはいえ今がないならそれでも良いか。その前に何とかして欲しいけど。

 去年の秋だかに開かれた第5回全日本アニソングランプリで、1万223組だなんて驚異的な参加者の中から勝ち抜いて、グランプリに輝いた鈴木このみさんがデビューするってんで、アニマックスで開かれた会見へ。受賞の時は14歳だったのが、1歳のって15歳になったけれども、やっぱりまだまだ小さいことには変わりない。それなのにしっかりした受け答えでもって、畑亜貴さんが手がける楽曲を切なく唄ってみせたとか語ってくれた。偉いなあ。ぴよぴよとした元気いっぱいのヒヨコみたいな可愛さだって畑さんも言いつつ、そんなひよこに切なさを融合させるとはまた冒険をしたものだ。「お姫さま扱いしてたら先がつらい」とビシビシ指導したというから、15歳には大変だっただろうけど、それをものともしない勢いで突破して歌うは「黄昏乙女×アムネジア」のオープニング主題歌。あの旨さがいったいどんな歌声となって現れるか。放送が楽しみ。そしてCDの発売も。

 辛いなあ。何かどっかの新聞が民主党の偉い人の会見から閉め出されたって話が、昨日あたりから騒がれているけれど、その理由が16回も悪口を重ねて相手が怒ったからっていうからどうにもこうにも辛過ぎる。これが相手の政治生命に関わるようなスキャンダルなり、政策的な過ちなりと真正面から堂々と、調べ上げた上で報じて向こうの不興を買って追い出されたなら、とっても名誉なことだと言えるけれども、そうではなくって自ら数まで挙げて言っているように、相手の状況をネガティブな綽名に乗せて罵倒して、これは酷いと向こうは抗議したけれど、聞きいれられそうにもないからお引き取り願ったって展開では、ジャーナリズムの歴史において名誉ある会見拒否ってことには、とてもじゃないけどなりそうもない。むしろ歴史になんて刻まれたらお互いの恥を、末代までさらすことになってしまう。勘弁してくれ。

 かつて佐藤栄作総理が退陣の会見の時に、新聞は言ってもないことを書くけどテレビはちゃんと伝えてくれるんだって言って、怒った新聞記者たちが詰め寄っても撤回しなかったことから新聞が会見場から立ち去って、ただ回るテレビカメラに向かって佐藤総理が喋り続けたってことがあった。これなんかは、新聞という旧来からあるマスメディアに代わって、その様子をダイレクトに伝えることも可能なテレビってマスメディアが出てきたことで、それまでは新聞に頼るしかなかった政治家のコミュニケーション手段に、多様性が生まれたっていう、メディア状況の激変を要素に持った、ジャーナリズム史的にとても意味のある事件だった。今ならさしづめネットメディアの台頭が、やっぱり時間を区切られ編集されるテレビ以上に注目されていることに似てる。小沢一郎さんなんかはそんな変化を感じ取って巧みに自分のPR戦略に組み入れている。

 そんな感じに意味を持った会見拒否だったら、やられて本望だったけれども、ただの悪口だからなあ、今回は。とはいえそうはいっても会見拒否は、メディアに与えられた知る権利の代行者という役割を疎外しかねないものであって、それを1社でも加えられることは、他のメディアにとってもあるいは同じ状況が生まれるかもしれないと認識して、それはいけないと諭すのみならず、強行するならそろって退場して矜持を見せて、相手にメディアへの会見拒否という仕儀を撤回させるのが、ご同業にとって行うべきだったって思えなくもない。ところが、その場で抗議はしても、追随して席を立ったメディアはなし。これをメディアの分割統治を目論む敵に利する行為と見て、矛先を向けることもジャーナリズム的には必要なのかもしれないけれど、そうではなくってすでに日頃の振る舞いから、同じジャーナリズムの仲間として見なされておらず、除外されたのも当然と受け止めたんだったとしたら、なおのこと辛い。そんな状況に置かれていたのか。いないのか。考えるほどに頭も痛む。

 まあそれも仕方がないのかもしれか。美しい日本だの日本人の品格だのと日頃から言い募っている一方で、品格の欠片もない悪口をぶちまけネットのスラングを多用し記事を作っているようでは、同じ仲間と見るのは勘弁してと思うメディアが生まれたって、当然かもしれない。あるいは拒否された理由を鑑みて、振り返ってやっぱり少し品がなかったと身を改めつつ、それでも拒否はいけないと糾弾に歩むんだったら良かったけれど、品のない言葉を1面のトップから堂々掲げて反論をし、さらにページを開いた3面の多くを使ってそんな品のない言葉の意味は何で、何回使ったかと開陳しているから、蛮勇というか何というか。聞くほどに呆然としてくる。

 かてて加えていかにも自分たちが“発明”したような書きぶりになっているけど、その言葉はかれこれ四半世紀も昔に、プロレスラーどうしが口げんかした中で生まれ使われていたりする訳でありまして。そんな、ファンにはもはやおなじみの言葉を後から自分たちの手柄の如く言われて、いったい世間はどう思う? 内容如何に関わらずちょっぴりやっぱり勇み足が過ぎると思って当然かも。コメントをつければ自分たちに見方をするものばかり並べて公平性の維持ってスピリッツはどこ吹く風。それで同じジャーナリズムの仲間として共闘を呼びかけても、ついてくるところはないよなあ、やっぱり。会見拒否は愚か過ぎる選択だけれど、そうされて理由を省みれない態度もやっぱり愚か。ぶつかり合う愚かが共倒れへと向かうのも、案外と遠くないのかもしれないなあ。まあ良いけど。


【2月23日】 誰が誰だか分からないけれども前半も30分過ぎまでパスは繋がらず前に放り込むだけのサッカーは、シリア戦でも見たまんまでこのまま膠着状態が続いて挙げ句に先制され、追いついてようやく引き分けかもって不安も浮かんだけれど、1点が生まれればあとは2点3点を重ねていって4点目までくればもう安心。一時に司令塔を任されていながらサブに回された山村選手も出して調子を見ようとする雰囲気もあったみたいでそのまま勝ちきり夜のシリア戦を待ったら何とバーレーンに負けていた。これで日本が名実ともに首位。そして次にバーレーンに勝つか引き分けでもロンドン五輪出場が決まるところまでたどり着いた。

 だったら前回シリアに引き分けていたら、ってことではやっぱり心残りもあるけどまあ良い、結果が大事。バーレーンは弱い相手ではないけれど、でもきっと勝てるだろう。そして乗り込んだ五輪では、宮市選手に大津選手に香川選手まで加わってチームはより最強になって代わりに予選で頑張った選手が出られなくなって漂う不協和音……っていうのはさすがに勘弁、でも宮市選手はちょっと見たいかも。あとはオーバーエージを使うかどうかか。やっぱりあのキーパー、どこか不安定なんだよなあ、いっそフル代表から退いた楢崎正剛選手を呼んで据え置けば、もう安心でもう万全になるのになあ。まあ可能性があればだけれど。ともあれ残る1戦を是非に、勝って、五輪出場に花を。

 まあそりゃあ間違いは誰にだってあるものだけれど、よりによって1番間違えてはいけない人の名前を間違えてしまってそれが最終版まで誰も気付かず素通りしてしまったのはやっぱりどこかにゆるみというか萎縮が出てしまっていたんだろうなあ。これが通常の記事だったら校閲も入ってしっかり見たんだろうけれど、寄稿されたコラムってことでまさか間違えるとはあり得ないとか想って読まずに通した可能性が案外にあったりなかったり。でもかつてだったらそれすらびっちりと校閲が赤鉛筆手にしっかり見ては直し指摘し返してた。そういう余裕が時間的にも気持ち敵にも資金的にもなくなっているって現れた。出てきた広告費、この10年くらいで軽く半分近くが消えてしまった。それでいて微細なところはともかく主要なところで潰れたところは1つもなし。そのしわ寄せはクオリティに現れそして離反を誘いますます首を絞めるというスパイラル。明日は? 未来は?

 未来ってことで一時もはや未来なんてないかもなんて懸念されてた日本のアニメーション業界が、これではいけないと人材の育成や技術の継承なんかをはかろうと文化庁の支援も受けつつ立ち上げた若手アニメーター育成事業がいよいよ2年目になって、名称も「アニメミライ」となってますますアニメの未来を探ろうとする意識を高めてきた。そうやって出来上がった作品を見せる機会があったんで新宿はバルト9へ、行く途中に丸善へと立ち寄ってアドホックでもって「とある飛空士への追憶」のBDを勝ったら展示してあるそれを渡されたってことは在庫なしか、売れたのか、それとも仕入れてないのか、うーんやっぱりキツいのか。ちなみにおまけのフィルムはシャルルが食堂で正規兵から絡まれるのを傭兵の2にが立ち上がって向き合うシーンだと多分想像。男3人だけれどまあ、ファナについては劇場でもらった分にしっかり映っていたから良しとする。でも長髪バージョン。ピチピチとした単発バージョンが欲しかったなあ。

 そして始まった「アニメミライ」の最初の上映はテレコムアニメーションフィルムによる「BUTA」。去年も「おぢいさんのランプ」で参加して丁寧な作画とそして文明の発展に挫折しそうになって立ち直る青年の姿を描いて涙を誘ったけれど、今年は芸風をまるっと替えてというか、大塚康生さんや宮崎駿さんがいたら作っていそうな動物たちがキャラクターとなった冒険活劇を現代の世に提案して見せた。聞くと大塚さんに出会って惹かれフランスから来ていた研修生の人がキャラとかの原案を出したものを作品化したものだそうで、用心棒のブタが海賊にさらわれた少年を助けたけれど相手も我が儘なガキで困ったけれどやっぱり助けてそして冒険は続くといった展開に、シリーズ化への可能性なんかも伺われた。だって「つづく」って出るんだもん最後に。よく動き楽しめる作品。

 そして続いての上映が絵本を原作にした「しらんぷり」という作品で作ったのはどちらかといったらCGで知られていたりする白組なんだけれどもこれは絵本の絵柄をそのまま動かすような力業をみせてくれてて小学校にあるいじめの問題を扱って賞なんかをとった有名な絵本をその世界観そのビジュアルを損なうことなく映像にしてみせている。技術的にはとても凄いしそれによって描かれるストーリーも凄かった。安易に反抗して逆転とかみんな仲良しとかにはしないで誰もが悩み果ててどうしようもなくなって、そこからだったらどうするんだ、って選択を見る人に考えさせるようになっている。言うか、言わざるか。これを見るとあらゆる特徴的な絵本をもはや自在にアニメ化できるかもって思えてくるなあ。喝采。ひたすらに喝采。

 去年の「たんすわらし」で年間ベスト級の作品を送り出したプロダクションI.Gが今年出してきたのは「わすれなぐも」って作品で、童話みたいな絵柄を動かす力業は今年は白組に譲って普通にアニメらしいアニメってやつを描いてみせた。平安時代に都を襲った巨大な蜘蛛の化け物を陰陽師が退けた伝承を今に伝える古書の封印を破ったらそこから現れたのは……って展開から可愛い幼女と本好きの青年との関係が始まりそれを横で見る古書店の大家の娘がいてといった具合の三角関係が勃発。そして魅入られた青年をめぐる奪還のスペクタクルが繰り広げられるんだけれどその終わりがある意味衝撃的で公序良俗とかモラルとかハッピーエンドといったものをかなぐり捨てたその潔さに、別の意味から喝采を贈りたくなって来た。そりゃあ人間、幼女の方が、ってそういう問題か。そういう問題なのだ。

 最後に控えていたのはアンサースタジオってもともとはディズニー・アニメーション・ジャパンだったスタジオが畳まれ復活してそしてディズニーの「スティッチ」なんかを作っていたりすると言う回る因果は糸車のような会社なんだけれどもそれだけに、童話的で子供が見て喜びそうな「ぷかぷかジュジュ」って話を持ってきた。水の中とかを泳ぐジュゴンと少女とかなかなかな絵柄。現実と幻想とを描き分けてみせているところも工夫があったけれどもしかし、主題として仕事といいつつ日曜日に呼びだされ接待ゴルフにつき合うことになって、約束していた海行をすっぽかす父親の像というのは見ていて強く憤る。もげてしまえとすら想ったけれども娘が赦しているんだから他人が出る幕ではないのだった。子供は優しい。その優しさ子供が大人になって回収を求めてきた時に、父親の心をどう揺さぶるか。それもちょっと楽しい想像。

 そんなこんなでやっぱり力作揃いの今回も、映画館での上映があるんで見に行こう。そこから転戦して品川で開かれていた第17回学生CGコンテストの作品上映会を見物、船外作品の上映には間に合わなかったけれどもそうした選外作品を作ったクリエーターによる作品説明や、入賞者の作品説明なんかが聞けて人それぞれにいろいろ考えて作っているんだと分かって勉強になった。詳細は事後としてとりあえず見て衝撃を受けた1本について書くならやっぱり沼田友さんの「雨ふらば 風ふかば」か。これは傑作だった。もう目に涙が滲む大傑作だった。3Dでモデリングされたキャラも世界もとっても拙く見えて、最初はそれをネタに何かギャグでもかましてくるのかと誘導されるけど、そこから描かれるドラマは本当に切実でシリアス。失う悲しみに想われる喜び。生きていられる幸い。それらが大気となって観る人を包みこんで落涙させる。たまらない気持ちにさせる。

 夏。お墓を花やリボンで飾る少年が話しかけるのは、死んでしまってそこに埋葬されている少女。もちろん彼には何も見えていないけれど、実はそのお墓には少女の霊がいて、語りかけてくる少年を最初は鬱陶しく想っていた。それが毎日来て話しかけてくる少年にやがて日常になっていくという展開は、少年と幽霊少女とのやがてふっと重なる部分なんかが訪れるような、そんなラブロマンスを想像してみたくなる。けれども違う。そんな安易さに沼田友さんは逃げていかない。生と死は平行線。この厳然たる事実を前にしながら、喪失の深い悲しみ故に、その堺を淡くしていた少年も、だんだんと季節が巡るなかで自分を見つめ直していき、新しい出会いやカウンセリングによる導きなんかもあって、決定的なことに気づき号泣する。

 少女もそんな少年の態度に、自分が失われていたことを改めて知り、想われ続けていることに気付いて泣き叫ぶ。そこにある喪失と再生の物語に、誰もが心を持って行かれる。3DCGの絵はどこまでも拙さを感じさせてしまう類のものかもしれないけれど、繰り広げられる会話がとっても巧みで知らずその世界観へと引っ張り込まれる。ただの馴れ合いに堕しかかっていた少年に新しい出会いが訪れ、空気をザワつかせた先に語られる過去があって想うことの素晴らしさが示され、想われることの嬉しさを感じさせてここに今、生きていることの幸せを理解させる。長くって、それこそアニメミライの1作くらいあるけれど、このスクリプトと演出を借りて、プロのスタジオが作ったらどんな作品になるかと想像したり。ともあれ上映の機会があるなら逃さずにい「雨ふらば 風ふかば」を見ること。そこには紛うことなきアニメの未来があるから。


【2月22日】 びょうびょうと吹く風の中、舞い散る枯葉をバックに髪なびかせて美少女が現れ、荒涼たる大部屋に並べられたかるたを前に腰を下ろし、それを下方から煽るようにみせて追いつめられた心理を見せてから、速度の勝負へとうつり一瞬の煌めきの中にかるたを取っていく姿を描くものだと思ったら、そこは流石に「ちはやふる」だけあって、いくら山内重保さんの絵コンテだからといって、荒涼とした背景もびょうびょうと吹く風もなく、むしろコミカルでギャグたっちな場面もあったりして普通に楽しめた。あるいは綿谷新の大人になってからの始めて見せるかるたのシーンで、速度ではなく静けさ、水の中を泳ぐように奪っていく滑らかさって奴を表現したあたりが山内さんらしい、ってことになるのかな。

 そんな山内絵コンテを受けて演出したのが、「月のワルツ」や「青い文学」での芥川龍之介作品、海外ドラマを日本でアニメ化した「スーパーナチュラル」を手がけたいしづかあつこさんで、こちらも独特なタッチはとくに打ち出さないで、素直にストレートに青春にあってかるたに情熱を傾けながら、勉強だって頑張る少年少女を描いてた。ちはやが素振りをする場面の緊張感はなかなかのもので、それがあったからその集中力を少しでも勉強に向ければ、下から5番になんてならないのにと嘆く机くんの言葉に、顔を覆って滂沱する大江奏ちゃんのおかしさが際だったのかも。そうした作品のテイストが山内さんの絵コンテによるものか、いしづかさんの演出によるものなのかは案外にはっきりしづらいもの。なので制作側には他に大御所も多数参加の「ちはやふる」の絵コンテ集を、是非に出して戴きたいもの。川尻義昭さんの絵コンテなんていったいどんな風になっているんだろう。ほんと見たい。是非見たい。

 来週は鴨川シーワールドでランちゃんがシャチにしがみつくのかそれともムギナミがシャチの上でぶるんぶるんと振るわせるのか。わからないけれどもとりあえず今週はムギナミの悲惨な境遇が明らかになった「輪廻のラグランジェ」。あのジュビジュバだったかビジュアリストだったかが海に流され岸に打ち上げられて弱っていたところに、食べかけの林檎の芯を差しだし食べさせ命を繋いだ恩人なのに、あんな酷い態度をとって寄生虫とまで悪態をつく真意は、本当に心底からの嫌悪なのか、何か狙いがあってのことなのか。あるんだろうなあ、それほど悪い奴ってことでもなさそうだし、っていうか未だ相手の狙いが見えない小さな世界観の中で、鴨川を舞台にしたドンパチだけで終わったら、どこかのタクトが輝いてアプリポワゼったアニメと変わらなくなってしまうんで、そこんとこと宜しく。鴨川シーワールドでは何が出てくるのかなあ。やっぱり一度は行っておくべきかなあ。ジャージ姿で。それは当然。

 「議論が必要です」と言ってる人たちに限って議論する気が最初っからなくって、ただひたすらに確固として頑固な持論を持っていて、それをかざして相手を蹂躙することしか考えていないのではないのかな、なんて思えることが次々と。多分首都圏から沖縄方面へと避難していた親の人たちが、10年以上も恒例として続いている、青森は八戸から運ばれてくる雪で沖縄の子供に遊んでもらうイベントに対して、放射性物質が混じってるんじゃないかと危険を訴え結果的に中止させてしまったとか。まず考えて青森に今降っている雪に福島由来の放射性物質が混じってるってことはあり得ないのは、寒気団が北からやって来て雪もそっちからやって来ていることを考えれば自明。なおかつ計測してもそうした数値は出てこなかったにも関わらず、計測は疑わしいと言って譲らず、中止へと追い込んでそれでいて、中止を判断した方が宜しくないとか言っていたりするから何をか言わんや。

 そうかもしれないと勘ぐること自体が、今まさに青森で雪に降られている大勢の青森県民を愚弄する話で、起こった青森の雪だるまたちが大挙して沖縄へと説教に向かおうとして、鹿児島を過ぎたあたりで暑さに力つきて融けたって不思議はないくらい、青森の人の悲憤を招きそうな話なんだけれども、そうした他者への想像力は見せようとせず、ただひたすらに我が身にとっての危険性を、危険ではないにも関わらず危険かもしれない可能性があるはずだといった、想像すらこえた幻想レベルに近い思いでもって拒絶してみせる。最初っから疑う以上の拒否感を持って臨んでいる人たち対して、なにをどう説得すれば良いのか。にも関わらず今になって議論の必要性を喚起しただけですとか語られても。まったく訳が分からないよ。

 最初っから議論する気も余地もなく、ただ拒絶するだけだった相手にもはや観念して、中止した当局をどうして責められよう。無視すればしたで大騒ぎすることほぼ確実。そんな構図が見えるからこそ、多くの非難が集まっているのに、未だ省みないそのスタンスを、いつまでも受け入れてもらえると思っていたら少し難しいことが起こりそう。本土から来た人だからと、現地で採れたものだけを出されたと無邪気に配慮を喜んでいるようだけれど、そんな現地の人たちは、本土も島も分け隔てなく口にしている。それを間接的に危険だと見なすような行為を目の前でやられて、いつまでも仕方がないと思ってくれているのか。自分たちさえ良ければといった目を向けられかねないこの状況を、それでも言わねばと決然としていたりすれば、ただ孤高に陥るだけなのに。圧倒的多数から乖離して正しいものなんてあり得ないのに。悲しいなあ。

 こっちもやっぱり議論する気なんってさらさらなかった名古屋市の河村たかし市長。南京から来た人を相手に「南京大虐殺はなかった」という持論をぶつけて相手の不興を買ってしまった一件だけれど、その後で「議論しましょうよ」と言ってみたものの、それだったらどうして大虐殺があったか、なかったかをまずは話し合おうと持ち出さなかったのか。自分はないと信じていたって、そうでない意見は世間にいくらだってある訳で、数の多寡も含めて今もって検証されていたしる事案に対して、大上段から「なかった」論を振りかざして挑んだら、相手だって真っ向からぶち当たらざるを得ない。向かうはただひたすらの平行線。そして断絶。そこに相手を理解し自分を理解してもらう外交の機微なんて欠片もない。自分がロサンゼルスに行って相手から真珠湾って卑怯な不意打ちだったんだねって言われてどんな気分がするよ。そんなことに思いも至らないんだろうなあ、あの名古屋弁しか詰まっていない頭は。

 学者だったら何をどう言ったところで、それは個人の認識の範疇で、何か言われたらその身をもって反論していけばいいだけなんだけれど、市長という公の身分で言ったら起こるのは、行政に関わり経済にすら及ぶ混乱。結果いったいどれだけの損失が発生するのか。それで保たれるのは市長のプライドと、そしてそうした見解を支持する人のプライドだけ。数字の上ではやっぱりどこかに損が出るけど、そうしたことへの思考はまるでなく、ただ大向こうに響くことを言えば自分が世間に目立つがや、って考えているだけにしか見えないところに頭痛の種がある。浴びた一部からの喝采に気を良くして、引っ込める気分はさらさらなさそうな状況に、暗澹とした将来しか見えないのがどうにもこうにも腹立たしい。日本が戦争に突き進んだ時だって、こんなたわけは居なかったよなあ。それが今では喝采を浴びて悦に入る。とんだ国になってしまったなあ。

 せっかくだからと文化庁メディア芸術祭の会場まで出むいて植草航さんの「やさしいマーチ」を2回転ほど見てから上で行われた4大アニメーションフェスティバルの担当者が来て喋るシンポジウムを見物。残念なことにオタワの人が体調不良とかで参加してなかったけれど、その分アヌシーとザグレブと広島の人が歴史から概要からポリシーまでをがっつり喋ったから内容をよくわかっていなかった学生さんとかには参考になったかも。とりあえず広島についてパノラマってただ見せるだけで参加費用は出さないカテゴリーを作家に屈辱を与えるからと辞めてコンペティションを充実させたって話はクリエータのことを考えているなあと思った。

 あとアニメーションは窓であってそこから文化全般への発展の輪が開いていけばって意見にも。そんな広島国際アニメーションフェスティバルには広島市の人達が毎回入れ替わりで参加して大勢が理解を示すようになってボランティアで手伝ってくれているとか。もしもこれが文化虐殺が続く大阪だったらと思うと広島という都市の素晴らしさも見えてくる。願うならそうした状況への理解が企業にも広がっていって欲しいってことで、和田淳さんにはだから広島にも参加して一般にも広まった知名度をそこで発揮してもらえればって思うけれども、そうせざるを得ないのもメディアの感性が滞っているだけのことだからなあ。もっと敏感に。そして先鋭的に。大勢いるアニメーション作家を続々起用し世に送り出すくらいの積極性を。金にならないからやらない? それじゃあいっしょだ大阪と。


【2月21日】 まだまだ判断に甘さが残る加藤茉莉香を叱咤しつつクルーは海賊営業を果たしたその隙に、乗り込んできた謎の少女の正体は? ってところで「モーレツ宇宙海賊」はお姫さまの登場となって新米ミニスカ海賊の慣らし運転から一気にシリアスな星間をまたいでの大冒険へと突き進んでいくんだけれどもこれって全部で何話の予定だっけ。セレニティ王女をフィーチャーしての「黄金の幽霊船」事件をクリアして残る話数を埋めて1クール、って線もまああるけれどもギルドとのバトルまでいくと流石に収まらないから「コスプレ宇宙海賊」で締めてとりあえず、ってところになるのかな。ともあれ展開の活きが良くなってきたんで見ていて楽しい「モーレツ宇宙海賊」。セレニティちゃんはやく全身見せてちょ。

 44分の「蛍火の杜へ」が6930円ならアニメ文庫の6090円ってそんなに別に高いもんでもないんじゃないかと思えても来た。上映機会だって少なかった訳で見られなかった分の希少性もあるし。問題は「夏目友人帳」と原作もスタッフもほぼ一緒な「蛍火の杜へ」の方が市場性がまだあって、ファン層も限られそうなアニメ文庫の方が苦戦しそうってことか。だったらアニメ文庫はさらに高くなってたって不思議じゃないのか。頑張ったなあアニメ文庫、買ったけどまだ見てないけど。気が付くと「百合星人ナオコサン」には前に電撃の本にふろくでくっついていたらしいアニメも収録されているとか。どんな違いがあるんだろう。そしてどれくらいエロいんだろう。早く見たいけれども「蛍火の杜へ」の方が先かな。映画館で1度見て結構しんみり来た作品だし。

 そして「第15回メディア芸術祭」の内覧会を見物にガラスのカボチャこと国立新美術館へ。休館日なのでロビーにフランス料理の香りは漂っていなかったけれども通常日にいくと不思議な雰囲気をいつも醸し出す美術館。当初は目くらましの感も強かったのが5年経つとそれも馴染んでくるから人間、慣らされやすい生き物だ。通常だったら上のフロアで開かれている展覧会が珍しく1階でもって開かれていて、エスカレーターもエレベーターも使わずにたどり着けるのはひとつの利点。とはいえシンポジウムは上の講堂であるんでいったりきたりは必要そう。なおかつ今年はシンポジウムが平日にあるんだよなあ、どうしてだろう、見に来たい人もいっぱいいるのに。すこし開催が例年より遅くなったことも影響しているのかな。ともあれ22日開幕。みんなで行こう。

 漫画の展示にいつも迷うのがメディ芸の特徴でもあって本来だったら単行本を読んでもらうのが1番の漫画なんだけれどもそれだと展示にならないから、原稿を並べたり大きく引き延ばしておいたりと試行錯誤が繰り返された。とりわけ国立新美術館に会場が移ってから拾いギャラリーにどう展示するか、ってのが課題になっていたけど今回は岩岡ヒサエさんの「土星マンション」では原稿やパネルのほかに土星マンション風の装置をおいてみたり、しりあがり寿さんの「あの日からのマンガ」では掲載された朝日新聞を並べて事故の様子とマンガをシンクロさせ、現地の写真も対面で並べて同時代的に作られた作品であることを指し示した。

 難しさではアニメーションも同様なんだけれども大賞の「魔法少女まどか☆マギカ」では設定画や原画なんかをおきつつフィギュアとしての広がりを見せつつアニメーションのパネルと、イヌカレーによる美術のパネルを並べおいて作品世界が持つ重層性を示してた。まどかの大きなフィギュアも登場。でも個人的にはほむほむの方が。あとマミさんの武器とかほむほむの武器とかが勢ぞろいしてたら完璧だったかも。完全に凶器準備集合罪だな。あるいは内乱予備罪か。「マイブリッジの糸」については前に田中貴金属のギャラリーで見たのとだいたいおなじパートの原画を展示。並べてあるそれらを順にたどっていくことで浮かぶ映像の動きを楽しみ賜え。

 嬉しいのは新人賞を受賞した植草航さんの「やさしいマーチ」が会場にしつらえられた大型のフラットディスプレーでもって高精細に上映されているってことでそれもちゃんと「ミス・パラレルワールド」が鳴っててそのサウンドや歌声とシンクロして動きざわめく映像の楽しさって奴を間近で浴びるように味わえる。あんまり嬉しかったのでそのまま立ち止まったり行ったり来たりして都合5回は観たんじゃなかろーか。でも全然飽きない。むしろどんどんと引きずり込まれていく感じがするのはそれだけ音楽とシンクロしているってことなんだろーなー。スクリーンだと何とはなしに感じられる細かい動きがモニターだとよくわかるのも会場展示の良さか。

 冒頭で小学生っぽい女の子がしゃっくりかなにかしている動きも、中盤で眼鏡の女子高生っぽい娘が煙草を吸って吸い込んでからふはーっとする場面の顔の鼻の穴がしっかり開いている様も、音楽のタイミングにマッチして描かれていて引っ張り込まれる。爆発のエフェクトに疾走のアニメーション、そして変幻自在な化け物どもの映像はもうそれだけで1つの世界。手元に映像があればそこにいる少女の内面と、描かれる外界の喧騒を重ねて関係性に迫れるんだけれどそれはないんでここは何度も会場に通って、モニターを見入って全部を頭に叩き込むしかないのかな。なあにこれを見るために愛知県の武豊まで行った僕だ。国立新美術館に通い詰めるのなんて平気の平左さ。

 バルーンにスマートフォンのギャラクシーをくくりつけて飛ばしてそこに表示されるメッセージを中継しつづけた装置がおいてあって近くにいた人に凍り付かないんですかと聞いたらもちろん凍り付くのでスマートフォンの裏にヒーターをくくりつけた状態で、地上でマイナス40度とか50度の冷凍部屋を使って動くかどうかをずっと実験してたとか。あと光が入って画面が見えなくなるのを避けるため、カメラの方にスマホの画面だけが見えるような遮光マスクをつけて光が入り込まないようにしたんだとか。その成果がはるか上空までいってもくっきり映し出されたスマホの画面。技術は偉大なり。飛ばすだけなら学生だってやれたみたいだけれどもそれを宣伝に使えるクオリティで作り上げるにはやっぱり工夫と準備が必要ってことで。夢はないかな。でも実入りはあった。それがビジネス。


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