縮刷版2012年12月上旬号


【12月10日】 今日も今日とてアーツ千代田3331で開催中の荒木伸吾さんの回顧展へと出むいて、いよいよ最終日となった展示を見物。版権物が多い関係からこの日までの販売となっている4800円の図録を買って会場を後にする。漫画をパネルにしたのは面白いアイディアだったけれど漫画を買っていたのでパス。買って展覧会の一助にしてもらう手もあったかな。会期中に初日と途中を含めて計3日、行ったけれどもいずれの日にも誰か来場者が必ずいたりして、荒木伸吾さんというアニメーターに対する多くの人の想いの強さって奴を目の当たりにした気分。こういうのって現場に足を運ばないと分からないからなあ、やっぱり。

 「巨人の星」に反応する人もあればやっぱり「ベルサイユのバラ」だったり「聖闘士星矢」だったり「リングにかけろ」に反応する人もあったりと様々なのも、それだけ長い時間を活躍して多くの作品を残した荒木伸吾さんという人ならでは。そして他の作品を見てこの作品もそうだったのかと横にスライドしたり過去に遡ったりしてアニメへの見地が広がっていけば面白いんだけれど。好きなのは見てもほかは見ないって人の方が多いだけに、繋がっていって欲しいなあ。というわけで手元に図録は2冊。保存しておいていつか必要な人がいたら見せてあげよう、アニメーターを目指す荒木伸吾さんに続くなんて大望を抱いた人とかに。

 ただでさえ印象が大きく違って長髪巨乳でおどおどとして清楚な感じの栞子さんを短髪で平たく元気な女優さんが演じることになっていて、世間が今なお震撼し続けているフジテレビのドラマ版「ビブリア古書堂の事件手帖」に更なる事件が勃発。栞子さんの妹で姉とは違って本に興味がなかったりする妹が、なぜか弟になっていてジャニーズに所属する若い少年が演じることになったとか。どうしてだ。いや別に妹が弟になって大きく揺らぐ役でもないんだけれども、清楚な姉とは違って割とズバズバと物を言う妹が、弟になっててそして活発な姉の下でいったいどういう役を割り当てられるのか、活発では重なるし内気では男にする意味がない。

 というかただでさえアルバイト店員としてAKIRAさんがいてこれも原作とは違う居候として高橋克実さんもいたりと男所帯のビブリア古書堂に、弟なんて加わったらむさ苦しくなるだけじゃないのか。そんな辺りの改変のされっぷりからもはやこれは「ビブリア古書堂」ではない「ピプルマ吉書堂の事件手帖」という別の作品ではないのか、なんて話も広がっていたりいなかったり。いっそむしろミュージカルにしてAKIRAが踊り剛力彩芽さんが歌う作品にしてしまった方が、見る側も諦観して見られるような気がして来たけど果たして如何に。

 そして浮かんでくる勝手な想像は高橋克実さんという本についての碩学を傍らにおくってことはあるいは栞子さん自身は本については素人で、引き継いだ古書店の店主になって右往左往して古い文庫だからと「たんぽぽ娘」を100円均一に並べたりしたのを見つかって高橋克実さんからドロップキックを浴びコブラツイストを決められ鼻血を出しながら誤る陽気なポン酢だったりする可能性がまずひとつと、それからアルバイトに来る青年がEXILEのAKIRAさんだということで入ってくるなりダンスを披露し狭い古書店の棚を倒して大目玉を食らいつつ踊る古書店員として評判を呼んでそれを見たジャニーズの弟も一緒に踊るようになってここにEXILEとジャニーズJrの一大コラボレーションが成立するという可能性がひとつ。大人数に目も眩みそう。

 いっそそれならミュージカル下手にして剛力さんもAKIRAさんもジェシーも高橋克実さんも歌い踊って古書の楽しさをアピールするような展開にすれば、トレンディドラマの牙城だった月9らしくないと評判になるかも。もちろん「ビブリア古書堂の事件手帖」らしくないと評判にもなるけれど。うーん。あるいはこれは「ビブリア古書堂の事件手帖」という原作がどう改編され、プロダクション間の駆け引きの具にされ蹂躙された挙げ句に、誰も見たことがなく誰も見たいと思えない感じにドラマ化されるかをルポして、テレビ局におけるドラマ作りの現場の傲岸さを示すドラマ「『ビブリア古書堂の事件手帖』の事件手帖」だったりするのかも。それならそれで見たいかというと……見たくないなあ、やっぱり。

 これは面白い。とても面白い浅倉秋成さんという人の「ノワール・レヴナント」(講談社BOX)は600ページで2段組みとかいう体裁の割に読みやすくって、読みたくなってすらすらすらっと最後まで読み切ってしまう、って僕は3日かけたけど、読むのが勿体なくって。箱にも描かれているように登場人物は4人。そして何らかの能力というものを持っている。1人は母子家庭の息子で、人の背中にその人の幸福偏差値を現す数字が見えるという。52とか46とか。30台とかだとよほどの悪い幸福度らしく落ち込んでいたり失敗したりといった結果が待っている。

 逆に70とかだととんでもない幸福度。そしてあろうことかクラスメートの少女の背中に85だなんてあり得ない偏差値を見て興味を抱いて声をかけてその結果、ひとつの事件に巻きこまれて東京ビッグサイトへと向かう。もう1人の男性は何か声が聞こえるらしく、そして行きつけの喫茶店でマスターと、よく来るボブという名の客と話しているうちに、1枚の招待状をもらって赴いた東京ビックサイトで、やっぱり謎めいた事件に巻きこまれる。残るのは女性2人でそのうち1人は何でもこわしてしまえる能力の持ち主。もちろん人も。心に浮かぶ対象物のレバーをぐっと下げるとその下げた度合いによって壊れるとか。ボールペンならインクが出なくなったりバラバラになったり。その力のせいで音楽を止めることになったけれども未だに興味のあったショパンの楽曲が聴けるイベントがあるからと、招待状をもらってビッグサイトへと向かう。

 そして残る1人は本好きの少女で、小学生の時に公園で出合ったサッちゃんという少女から本を読む面白さを教えられ本好きとなって2万円とか買い込んだりすることも。そうやって買った本の隙間にはさまっていた招待状に誘われ本のフェスティバルだと赴いたビッグサイトでやっぱり事件に巻きこまれる。それぞれが別々の招待状を持って集まったビッグサイトでイベントは何も行われておらず、けれども4泊5日のホテル宿泊はちゃんと無事らしくってそこに泊まった4人はいったい何が彼ら彼女たちの身の上に起こったのか、その調査に乗り出す。

 とある日本有数の電子会社が絡んでいるらしいという推測。そこからたどって明らかになるひとつの火事。ぽつりぽつりと現れる情報をたぐりよせ、調べさらに次へとたどって行く中で、それぞれがそれぞれの能力を活かして謎に迫る展開はミステリー的でもありSF的でもあり。なおかつ異能がただ無分別に備わったというよりは、ひとつの目的のために何者かによって与えられたものらしいと見え、だからこそパートパートで絶妙にハマる異能が発揮され物語が進んだ果てに、ではだったらその何者かとは、その狙いはといったものが浮かび上がってきて全体像が見える。それはとてつもない実験。だからどうにかしようとしたけれど、どうにもならなかった無念が託され4人は集った。そして終わったその先で、話しはまた続くのか、幸せになった少女に満足して終わるのか。負けず嫌いという敵の言葉も強く響いてこの後ってものも想像させる。出来れば続いて欲しいかな。


【12月9日】 「見てよ。こんなに大勢の人がいて、ほとんどわたしの方なんて見向きもしなくて、でもそれが気持ち良いの。ひとりで完結したり、誉めあうだけの友達の間だでもなくて」。サークルが集まって開かれる同人誌即売会で、芳しい売れ行きではなかったものの、それでも何冊か売れたサークルの女性がつぶやく。「でも、わたしはここが好き。2200のサークルの中から、たったひとつだけの、わたしの前で止まってくれる誰かがいるの。それは、ここにこなくちゃわからない」。ネット時代、同人誌だって電子書籍にして売ろうと思えば売れる。印刷するコストもかからず何時間も卓に座って来ない買い手を待つ必要もない。けれども。

 「向こう側を見てみたら、わたしよりもぜんぜんすごいひとがいて、でも、そのひとたちも、わたしと同じ体温や生活を持った、ひとりの人間だってってこと、ぜんぶ、この場所にに集まるみんなから教えてもらった」。そこに来なければ分からない。そこに居続けなければ見えてこないことが同人誌即売会にはある、と、沼田友さんというアニメーションで創作系即売会のコミティアに参加し続けている作家が、まさしくそのコミティアを舞台にしたアニメーション「15時30分の拍手喝采」を通して語りかける。始まりは誘われて、一緒に参加してやっぱり売れなかったけれどもめげずに参加し続けて、10年くらいが経って今も女性はそこにいる、ひとりきりで。それでも女性はぶちゃく。「また戻って来ようね」と誰かに、そして自分に向けて。

 これはコミティアではなくコミックマーケットの方の話だけれど、前々から続くひとつの作品とその作者への脅迫が過去に幾つかの同人誌即売会を中止に追い込み、これは同人誌ではなく出版社が正式に行うイベントでのその作品に関連した展示もステージも販売もさせなくして、そしてコミックマーケットという場所でのその作品に関する同人誌の頒布の一切を自粛へと追い込んだ。それが二次創作であってもひとつの表現として、あるいは批評として認められる範疇なり、ファン活動のひとつとして黙認される範疇で行われてきたことが中止に追い込まれることの甚大さはもちろんとして、日本を代表する出版社が商業活動として行っていることが疎外され実害も出ているこの一件を、どうして迅速に取り締まれないのか、といった疑問はあるけれどもこのネット時代、注意すれば身元を明かさずに脅迫を行うこともできなくはない。だから今はひたすらに捜査が及び犯人が検挙されて事態が終息に向かうことを祈るより他にない。

 ただ哀しいのは、そして腹立たしいのはは、コミックマーケットという場に参加を決めて準備していたサークルが、その成果を見せる場所を奪われてしまったことで、その憤りの矛先は、自粛を求めた側ではなく、ひとえに自粛を求めざるを得なくさせた脅迫者の側へと向けられる。なるほど今回はなくても、来年の夏までに事態が収まれば、また出られるようになるかもしれない。けれどもそれは、この冬とは同じものではない。「人がいつ、いなくなっちゃうかなんてだれにもわからなくで、だから 今しかないんだよね」と沼田友さんの「15時30分の拍手喝采」でサークルの女性はつぶやく。今回が初めての参加だった人もいたかもしれない。今回が最後と決めていたサークルもいたかもしれない。全体ではひとつのカタマリに見えても、それぞれは「体温と生活を持った、ひとりの人間」たち。抱えた個々の事情、そこから滲み出す様々な思いが、この1回の自粛によって踏みにじられる。かけがえのない機会が、この1回の自粛によって奪われる。こんなに辛いことはない。こんなに哀しいことはない。

 「ああ、今日もまたここにもどってこれて良かった」。一期一会。精いっぱいに頑張って、そして即売会に参加して、売れても売れなくてもそこで得られた経験や、誰かとの出合いがひとつひとつ積み重なってなって、思い出は作られ、喜びが育まれる。「次の春も、またその次の春も、ダイスケに、みんなに、そして私に、また同じこの場所で会えますように」と祈るようにつぶやくアニメーションの中の女性の祈りが、現実の世界で切断され蹂躙されているこの状況に、何か思うならば事態の一刻も早い終息を願わないではいられない。果たしてどうなるか。それにしてもこの「15時30分の拍手喝采」、ビジュアルが滅茶苦茶凄いって訳じゃないのに何故か繰り返しみてしまうのは語られている主題の良さとそこで選ばれた前述のセリフの良さがあるからかも。あとアニメ的にもよくみると女性の表情とか目線とかが、セリフや感情に実にマッチして作られている。見ていると本当によく出来ているので最後まで見て、驚いて泣いて笑ってそして、今日ここにいられる喜びを噛みしめつつ、その喜びを奪う事態への哀しみを抱こう。

 ふと気がついたら日本SF大賞が決まっていて月村了衛さんのシリーズ第2作「機龍警察 自爆条項」とそれから宮内悠介さん「盤上の夜」のダブル受賞となっていた。いやあ目出度い月村さん。SF度合いだと第1作の方がインパクト的にあったみたいで第2作の「自爆条項」はもっとサスペンス寄りになっていたような感じだけれど、根底にあるオーバーテクノロジー気味のドラグーンの存在が、全体の流れに影響しているって意味では立派にSF、来るべき未来のビジョンを重厚な筆致の中から見せてくれている。文句なし。「盤上の夜」は面白い作品もあるんだけれどやっぱり四肢の欠損と盤面とのリンクにどれほどの考察がめぐらされているのかが気にかかる。表層としてはユニークだけれど本当はといった悩み。そこがないゾウの話とかはだから面白かったんだ。まあでもこれだけ評判になっているんだからこれも正解ということで。

 気になったのは伊藤計劃さんと円城塔さんの合作というかリレー小説的な「屍者の帝国」が特別賞だったっってこと。何なんだろう特別賞って。作品として至っているなら大賞で良いじゃん。それとも2人の共作だからダメってことなの? でも海外じゃあニーヴンだってクラークだって合作してそれらが何かしら賞に輝くことだってある。珍しい話しじゃない。没後でも受賞できることは伊藤計劃さんが「ハーモニー」によって既に実現している訳で、そんな伊藤さんの冒頭を補筆し円城塔さんが完成させた作品を、1つの小説として横一線に並べ評価し凄いと認めたならばやっぱり大賞を贈るべきだろうし、至っていなかったら何も贈らないのが作品への、そして作者たちへの敬意って気もしないでもない。いったいどういう理由から特別賞なんだろう。それならむしろ評価の基準が小説とは並び得ない評論で、自費出版系ながら今回候補になってた藤元登四郎さんに贈れば良いのになあ。やっぱりよく分からない。

 せっかくだからと六本木ヒルズにある森美術館で開催中の「会田誠展:天才でごめんなさい」を見に。土曜日だってのに午前も早いからなのかあんまり人はいなくて冒頭から最後までじっくりと見られたのは僥倖、とくに18歳未満とあと性的に刺激の強い作品は見たくない人は入らないようにと言われている部屋もたった1人でたっぷり占領、あの有名過ぎる「巨大フジ隊員vsキングギドラ」なんかも近寄って舐めるようにそこんところ(どこんところだ?)を見たり声ちゃんっていう娘さんにボディペインティングを施した写真の作品のしっかり写っているそれを(どれだ?)やっぱり舐めるように見たりして官能を満足させる。美少女の両手両足の先が切断された、「バイオレンスジャック」で言うところのヒトイヌ状態の絵なんかも5枚ほどあってその筆致の巧みさとモチーフのエロくて残酷な様のギャップに人間の心の奥底にある獣性と人間性の両方を刺激されたような気になってしばしその前で佇む。おっぱい綺麗だ。なんだやっぱり目はそこか。そういう表層と裏側の官能、人間の残酷さ、それすらも楽しむ狂気っぷりなんかがぶわっと詰まった部屋。いると帰ってこられなくなるのでそこそこに。

 そうかマグリットっぽく三つ編み少女の頭の後ろの分け目が道につながっている作品は豊田市美術館にあるのか。でもほかのだいたいの傑作群は高橋コレクションが持っていたりしてその先見性の高さって奴を改めて思い知らされる。僕も金さえもっていれば買い占めていたのになあ、でも置く場所がないけれど。「戦争画RITUENS」のシリーズは女子高生たちをモチーフにしたりしてそのビジュアルからプロパガンダ的なメッセージに気付かせつつそいういうシチュエーション全体を考えさせるプロジェクトとしてかつては重みがあったけれど、割と戦争画がタブーではなく東京都近代美術館に飾られるようになっている今だとそれそのものを時代背景も含め捉えて考えられるようになっているんで、パロディにしか見えなくなって根底が通じづらくなっている気も。もう1回りするとあるいはこの国が向かう未来を予言した作品となる可能性もあるけれど、それはそれで来て欲しくない未来だし。アートって難しいなあ、いろいろと。

 女の子たちがミキサーで攪拌されている作品はあんなに大きかったんだ、あと裸の少女がオオサンショウウオと戯れている作品もあんなに大きかったんだ。過去に見たことがあったか思い出せないけれども間近でみる美少女のおっぱいはまた格別、ってやっぱりそこにいくのか。しかしとてつもない巧さ。天才だよなあ。その天才がああいったモチーフに異常性を組み込んだ作品でないと発揮されないこの時代の勿体なさ。松井冬子さんといい奇妙な時代に生きている。同じ部屋には横にあれは100人とかの裸の少女たちが躍動している作品があってばっと見たけど誰も乳首と性器が描かれていないのはそういう場所だからと遠慮したかまだ途中だからと抑えたか。右端にいる最後の1人だけは乳首もあって性器もあるからあるいは何かを狙っているのか。とまあ猥雑さと冗談に満ちた展覧会だけれどパワーは十分。東京都現代美術館ではまずやらないしやれないだろう展覧会。ここまでまとまって見られるのはこれが最後になるかもしれない。また行こう行って18禁の部屋でフジ隊員をガン見しよう。


【12月8日】 「ザ・スニーカー」では2003年ごろからライトノベルのレビューの仕事を始めて途中から一般小説を大きく紹介してそこにライトノベルの似たようなタイプの小説を添えるコラムを2011年2月発売の休刊号まで続けたからかれこれ8年くらいは何か関わっていた感じで、100号ちょっと続いただいたい半分くらいに名前が載っていたりするんだけれど、その割にスニーカー関連の人とそれほど面識がある訳ではないのはもとより書評の仕事なんて作家の人の顔とか知らなくっても関係なしに出来るものだし、ネットが発達した昨今、担当編集の人だって顔を合わせなくてもどうにかなってしまうといったことが理由。だから知っている編集の人は2人くらいかなあ、その人が今も残っているとも限らないし。

 なのでスニーカー文庫の25周年に向けて始まるいろいろなプロジェクトに関する発表会をのぞいたところで、編集の人も作家の人もまるで分からず普通に見て普通に帰るといった具合。そこでどうして「おすすめ文庫王国2013」で角川スニーカー文庫の紹介が少ないんだど問いつめられて困り顔になる心配もなかったけれど、玩具堂さんの「子ひつじは迷わない」を次につづく日常系ミステリの代表格といった具合に載せてあることをどう思っているのか、まるで分からないというのもちょっぴり寂しい話かも。まあ「SFマガジン」で10年とか、その前の「電撃アニメーションマガジン」も含めると15年近くレビューをやってていっぱい取り上げながらもリアクションなんてそれほどなかったし、そういうものだという理解でこれからも勝手に面白いものがあれば並べ世に広めて行こう。それが届いているかってのは不安ではあるけれど。

 そんなイベントでは「問題児たちが異世界から来るそうですよ?」のアニメ化の発表があって、いきなり司会を任された浅沼晋太郎さんを筆頭に野水伊織さんブリドカットセーラ恵美さん中島愛さんの3人が並んでご挨拶、って誰なんだブリドカットセーラ恵美さんって。まるで知らなかったけれどもそれも道理で、この作品が本格的なメーンで絡む始めての作品とか。その割には堂々としてたし喋りもなかなか綺麗だったんで、あるいは期待の星なのかも、名前も含めて、山本スーザン久美子よりもインパクト有るし。お話は問題児たちが異世界に行って暴れるって設定で、スニーカー文庫では6巻まで来た人気作品らしいけれど、SFじゃないからそれほどチェックしてなかったんでアニメ化を機会に読んでみよう。しかし発売から2年立たずにアニメ化とは駆け足のような。満を持してのアニメ化が多かった過去とは大違い。これも現行編集部のフットワークか社内でのネタ探しにメディア部門が邁進している現れか。

 それを言うならやっぱりスニーカー文庫での発売から間もない池端亮さんって人の「あるゾンビ少女の災難」も実写映像とそれからアニメ化が決まったみたいで近作に対するメディアミックスへの熱意ってものが伺える。あと別のレーベルで出していたものをスニーカー文庫で出すとか。むしろ昨今はライトノベルのレーベルから出ていたものを一般文芸に持っていくのが日常なのにその逆をやってライトノベルの読者層にもアプローチしてそっち方面では盛んなメディアミックスに載せるというのも手としてちょっぴり新しいのかも。あの萩原規子さんの「レッドデータガール」がアニメ化されてスニーカー文庫で岸田メルさんのイラストで出るくらいだし。それでどれだけ広がるのか、そこからさらに外へと出ていくこともあり得るのか。逆流するようだけれど結果を伴っている展開に注目。

 会場になった秋葉原から京浜東北線で桜木町へと回って馬車道へ。向かう途中で賑やかなブラスサウンドが聞こえてきたんで近づいたら関内ホール前で東京ブライススタイルがデモンストレーションを行っていた。女性ばかりのブラスバンドでアニメの音楽とかをブラスアレンジして演奏したりして結構気にいっていたグループで、一昨年の関内ホールで開かれたクリスマスコンサートを確か見に行った記憶がある。去年もチケットを買っていたんだけれど別のイベントと重なったんで泣く泣く断念。その後どうなっていたか気になっていたけれど今年もちゃんと続いていたようで23日に関内ホールで開催の予定とか。どうしようかなあ、23日はことごとく人気グループのイベントのチケット確保に失敗しているからなあ、ちょっと考えよう、どうせ1人だし、うん1人だし。クリスマス。

 そして東京藝術大学の馬車道校舎でアニメーションブートキャンプだなんて何やら物騒なタイトルのついた産学協同プロジェクトの成果発表を見物。janicaが仕切る感じで開かれている「若手アニメーター育成事業」がすでに現場に入っている人たちのスキル向上を目指したものなら、こちらはそれ以前のアニメ業界を目指す人たちのスキルアップを狙って開かれているイベントで、去年は別の名前で専門学校生も含めて開かれたそうだけれども、今年は美術系大学の学生に限って募り課題を与えそれを見ながら次の課題を与えてそれをグループで考えてもらうといった形にしたらしい。その課題とはまずは少年が颯爽とあるく感じを描いてもらい、そして本番では風船と普通のボールと重たい球を少年と少女と熊がそれぞれ扱う3カットのアニメーションを作ってもらうもの。簡単そう? だけれどそこにいるのは美大生、アート系のアニメーションは作っても、いわゆる商業アニメーションに進むとは限らない人たちだ。

 もちろん応募要件として商業アニメーションへの進路を希望している人たちってあったけれど、現状の商業アニメーション界での仕事と収入のバランスを考えた時、美大生でも進路に躊躇いがあって不思議はない。けれどもそれはさておき日常的に商業アニメーションを作っている訳ではない美大生に、そうしたものに触れてもらう機会にはなったみたいで、実際の制作現場で得られた何をどう見せれば動いているように、それもちゃんとさまざまな要件を満たした動きになっているかを理解できて、アニメーション作りになおいっそうの興味を抱いたんじゃなかろーか。楽しく動かす。そしてリアリティをもって動かす。ただ観察してそのとおりに動かすんじゃなく、アニメーションならではのプラスアルファ、そして個性というプラスアルファを乗せて、そこに表現する楽しさが、昨今のアニメからは後退気味だからなあ、それやると今だと作画崩壊とか呼ばれちゃうんだ。

 そんな課題に対する講評も、学生には嬉しかっただろうけれど、その後に登壇した大塚康生さんと小田部洋一さんと片渕須直さんによるトークセッションは、なおいっそうの勉強になった筈。なにしろ伝説のアニメーター、大塚康生さんがそこで喋っているんだから。なおかつあの小田部洋一さんが大塚さんの弟子として登壇して喋っているんだから。リアルさよりもリアリティを持って描くこと、そこに自分の楽しみを入れること、とはいえ演出家とはよく話してその必要性を認めてもらうこと、そうやって生まれたフィルムだからこそ面白いものになっているということ。今だってちゃんとやられているか、というとリアルさは追求されても、突拍子もない動きに妙なリアリティを感じさせるようにはなっていない。そうするにはその状況でそれが必然と思わせていく演出の積み重ね画必要だから。宮崎駿さはそれが出来たけれども今は……ってところで現場の問題へと話が向かう。

 横に宮崎駿御大がいて、これはこうじゃないかそうじゃないかと言って描いている人たちはだったらそう描いてみせるといった丁々発止が昨今の、演出家と作画監督はいても原画の人は離れていたり動画の人はもっと離れていたりして、頼まれたことは完璧に上げてもコミュニケーションから新しさが生まれることが少なくなっている。それはいけない上のノウハウを下にも共有してもらおうとして始まったのが「若手アニメーター育成事業」なんだけれど、それも年に4本の映像を今年も含めて3年、やっているくらいで現場に普及している訳ではない。一貫生産のスタジオも各地に生まれてそいういう体制が整いつつはあるけれど、この本数をそれで全部こなすのは無理。今をかつてのような大スタジオ主義への回帰に向かう転換点と見るのか一時的な先祖帰りでコスト削減の前にやっぱり分業へと戻るのか。そんな分水嶺にある業界に大塚さんや小田部さんの指摘は重たく刺さりそう。果たして。

 新聞のそれも一応は全国紙と呼ばれているものの1面下に掲載されているコラムを書く人間が、文筆家として優れていて頭脳明晰で博覧強記だと一般に思われている節がある。実際のところたいていの新聞ではそうした人間が順繰りにコラムを担当しては、切れ味鋭い文章や人情味溢れる文章で多くの溜飲を下げ喝采を浴び涙を誘いつつ紙価を高めているものだけれど、そうした新聞ばかりではないことも現実にはあって、突拍子もない暴論を綴っては世に失笑を買い反感を買って紙価をおおいに下げていたりする。

 それは社員があれやこれや不祥事を起こしたとかいったことよりも実は意味として重大かもしれなくて、もちろん社員の不祥事も認められるおとではないけれど、還元すればそれはあくまで個人の資質の問題に過ぎず、改めさせることによって質は回復され保たれ向上もさせられる。けれども1面コラムの質はすなわち新聞社の質そのもの。それが多くの読者を唖然とさせ呆然とさせる拙劣なものであったりする状況は、罪の重さという点で個人の不祥事などはるかに凌駕する。真っ当な経営ならばそうした社としての不始末を改め言説をせめて失笑を買わないレベルへと引き戻そうとするものだけれど、そうはならずに同じ不始末が繰り返されるのはどういうことか。そういうことなのだろう。

 それはさておき、ここにこうした1面コラムがあったりする。「原発論議もまたぼやけている。各党や候補者の訴えが情緒的に流れすぎているからだ。ならばいっそのこと『脱原発』を唱えている人々は、中央道のトンネル事故で9人もの命が失われているのだから『脱トンネル』も唱えてはどうか」。書き手はきっととても巧いことをいったと思っているのだろうけれど、読み手は果たしてどんな表情を浮かべてコラムを受け止めているのだろう。トンネルは点検すれば事故は防げるし、よしんば事故が起こってもその影響は限定的で後に長く尾を引くということはない。原発はどうか。事故を防ぐ努力はできるけれどもいったん事故が起こった場合に被る影響はトンネル事故の比ではない。それこそ世界が震える事態すら怒り得るし、現に今もこうして多くの人々が今なお固唾を呑んで成り行きを見守っている。

 そんあ具合に社会が、人類が被る被害の大きさ、それを元通りにするコストを考えれば、トンネルと原発を同列に並べるなんて、普通の頭をした人間ならとても出来ないんだけれど、それが堂々と1面のコラムで延べられているところにさて、これは果たして超絶的に凄まじい切れ味を持った画期的にして革命的な文章なのかそれとも……といった感想が誰の頭にも浮かびそう。その結果どうなるか、ってところはだからそういう結果が積み重なって今がある、ということなのだろう。その結果を受け止めるならば取る手段はたったひとつ、なんだけれどもこれに限らず似たようなことが続いては紙面の価値をいろいろと動かしていたりする状況は、もはや一蓮托生で何かを目指している、ってことになりそう。その目指した先にあるものは? 想像すると夜寝られなくなってしまうんでここいらで忘れよう。すぱっと。


【12月7日】 オープニングに流れる「銀色飛行船」はセリフが被さり展開も乗っかって強く前に出てくるようにはなってないけど、響く旋律が知らずこの物語の世界を象徴するものとして心に刻まれていたりするアニメーション版「ねらわれた学園」。だからエンディングにまゆゆこと渡辺麻友さんの昭和歌謡っぽいエンディングテーマが流れた後に、話しが終わらず続く展開に被さるように響いてきたほとんどアカペラの「銀色飛行船」が、いったんの帰結をひっくり返して、より前向きなエンディングをもたらしてくれるシーンに重なって聞こえて来た時に、ここで「ねらわれた学園」という作品がひとつの完結を迎えるんだという気にさせられた。セリフがあり、「銀色飛行船」の最後の一節が流れ、「おしまい」という文字へと続くその流れの完璧さは最近の映画でも屈指。そこを見たいがために何度でも通いたくなる。

 そこに果たして中村亮介監督が、どれくらいの計算をめぐらせているのかは分からないけれど、斉藤先生を演じた木内秀信さんも交えての上映後のトークショーで中村監督は、どのシーンを好きかという質問に自分は演出として間をつくり、音楽やセリフとのタイミングを整えフィルムにすることが仕事で、それがばちっと決まった時にやったなっていった気持ちを感じるんだと話してた。なるほどオープニングでも「銀色飛行船」が流れ終わるのと同時に物語は日常が始まって、ケンジが学校にかけこんできて物語が一気に動き出す。エンディングでは「銀色飛行船」の一節とともにすべてがひとつにまとまって、幸せな結末をそこに描き出す。盛り上がった感情がすっと引っ張られてスクリーンの中へと入り込んでいく感じ。見終わって良かったなあと思い、また見たいなあと思わせるその終わり方を計算の上で作り上げたんだとしたら中村監督、その温厚そうな顔立ちに似合わずとてつもない策士なのかもしれない。

 あるいは作品作りに妥協しない熱情家とか。斉藤先生といえば作品の中で痩身に眼鏡で挑発を上で結んだどこか達観して優しげな先生ってビジュアルで、声もそれにピッタリのさわやかな声になっているけれど、演じた木内秀信さんは当人はいたって頑健で分厚い胸板に丸太ん棒のような腕っ節をしたマッチョなおじさん。茶髪にヒゲに眼鏡といった風貌はとてもじゃないけど斉藤先生とは重ならない。そんな自分のパーソナリティを自覚したのか、あらかじめ台本を読んで作って来た斉藤先生は、多分マッチョで熱血な教師像だったんだろうけれどもそれを聞いて中村監督はちょっと違うと改めさせたとか。なにしろすっかり作り込んできてある役を変えるのってそうは簡単にはいかない。演技プランだってきっちりあっただろうし。だから木内さんは生徒たちとの絡みに入らず午前10時にスタジオ入りしてから午後の9時まで、ひとりで喋らず役の作り直しをしてそして、アフレコに臨んで深夜0時に終えたとか。そこまでするのか声優さん。来て声を出して終わり、って訳にはいかないんだなあ。

 中村監督と言えば「ねらわれた学園 公式ガイドブック」のインタビューを読むと学生の頃はどちらかといえば音楽の方に傾倒していて、それから児童文学研究に勤しんでいてアニメーションの世界に進むようにはまるで見えなかったのが、誘われアニメの世界に進んでそこで演出家を目指すようになったとか。アニメといったら絵が大事ってことになっているんだけれど、高畑勲さんのように絵が描けなくっても演出家として大成した人はいるってことで演出家を目指してマッドハウスに入ってそこで、受注を増やし始めたテレビシリーズなんかを人手不足から若手であるにも関わらずいろいろ手がけて、各話演出から助監督から監督へと向かっていった。絵が描けなくたってアニメの監督はできるんだ、大成できるんだ、なんてふと思ったけれども、読んでいた「ねらわれた学園」のガイドブックには、何と中村監督による絵コンテが載っていて、これがとてつもなく細かくてそして巧い。

 ピアノを弾いていたりナツキが飛び石を飛んでみたりケンジに告白して顔を歪めてみたりといったシーンが、映像としてそうなるようにちゃんと絵コンテに描かれている。いったいどこで覚えたんだこの絵の手法。仕事の傍ら鍛えたのか。それとももともと才能の持ち主だったのか。気になるなあ。そしてその緻密な演出が絵コンテでどこまで指示されているのかにも。出ないかなあ「ねらわれた学園」の絵コンテ集。細田守監督の絵コンテ集なら割と出ているし、「カラフル」を監督した原恵一監督の絵コンテ集も出ているけれど顔とかキャラクターが中心で、レイアウトをびっちり決めて演技を描き込むって感じでは、どちらもなかったように記憶している。逆に今敏監督の絵コンテはそのまま原画になりそうな緻密さ。そうではない、演技の方向性を決めて指示する中村監督の絵コンテは、その出自も含めてやっぱりいろいろ気になる。だから読みたい読んでいろいろ勉強したいけど、どうだろ。

 ハイブロウな文庫読みたちの愛読する「おすすめ文庫王国2013」ってのが発売になっていたけれど、そこにひっそりとライトノベル代表として「パンツブレイカー」の文字を踊らせられたことをもってライトノベル読みたる自分の役割のひとつは果たせたと思いたい。ありえないでしょやっぱりこのタイトル、この内容。それからエスタブリッシュメントな文庫読みたちが愛読する「おすすめ文庫王国2013」に、深見真さんの「僕の学校の暗殺部」とか遠藤浅蜊さんの「魔法少女育成計画」なんて、血まみれで陰惨でバイオレンスに溢れたライトノベルを入れられたことも、やっぱりライトノベル読みとしてひとつの役割を果たしたと思いたい。どちらも続編続刊発売中で一気にブーム化の兆し。スノッブな文庫読みには是非に手に取って欲しいんだけれど、載っているのが冊子の最後の最後だからなあ、まるで気にされないで終わるかなあ、やっぱり。

 だってあれほどまでに注目を集めたはずのメディアワークス文庫から、美奈川護さんの「ドラフィル! 竜ヶ坂商店街オーケストラの英雄」が、書き下ろし文庫を中心にした文庫大賞の8作品ノミネートにはいっているくらいで、他の誰もメディアワークス文庫から作品を挙げている気配がない。僕だったらそれこそ10冊だって埋められそうなところを野崎まどさんのこれは年間のベストにだって入れられる「2」と、あと読んで楽しく為になるエドワード・スミスさんの「侵略教師星人ユーマ」の2冊に抑えて我慢して、他の誰かが綾崎隼さんとか水沢あきとさんとか入間人間さんとか選んで入れてくると思ったら、誰も触らずリストに入れず。ライトノベルのレーベルだと思われて敬遠されたのかなあ。あれだけ「ビブリア古書堂の事件手帖」が売れたとしても。

 でも文庫レーベルでサッカーリーグを作る文庫Bリーグでは、最前線に立つ書店員さんたちが電撃文庫を圧倒的な1位に選ぶことはさすがにしなかったけれど、一方でメディアワークス文庫を13位に入れている。ということはちゃんと認知されているってことでそんな現場の感覚と、本読みたちの感覚のズレが昨今のキャラノベとか呼ばれる作品の読者的な隆盛と、それへのメディア的な言及の少なさってズレを生んでいたりするのかも。それをいうなら電撃文庫がまるで触れられていないってことで、同じ文庫でありながらもまるで違うフェーズがそこにあるんだってことでもあるんだけれど。そんな二重構造の狭間に立つことで、書評家としての活路があるかとうとうーん、どっちつかずなんだよなあ、でもまあそういうものでも自在に扱えるのがインディペンデント書評家の特質。負けずこれからも読んでネットでバンバンと紹介していこう、「パンツブレイカー」を。いやそれはもういいから。

 角川シネマ新宿での「ゴティックメード」が300人座れる大きな劇場から60席弱の小さい劇場へと代わってしまうんでこれはやっぱり大きなスクリーンでもう1度と見に行く。やっぱりいいなあ大きな画面と大音響。その画面の隅々までくっきりと見えるクオリティをパッケージで出すのは難しいってことでブルーレイディスクとかは出ない可能性があたりするとかどうとか。あとはやっぱり鳴り響く大音響。ゴティックメードの起動音とか動いている時の音なんかも含めてなかなか出せそうのないそれを聞けるのはやっぱり劇場しかない。それはまあスクリーンが小さくなっても(といっても家のテレビよりははるかに大きい訳で)楽しめるから来週とかまだやっているなら見に行くか。最初はのんびりと進む展開に間合いを掴み損ねていたけど3度みるとどこに意識を集中していれば良いかも分かって来たし。とりあえずベリンの詩女って役職の割には豊かな表情と時折見せるブラックな言動かな。あれは面白かった。「ファイブスターストーリーズ}でも女性ってただ美人なだけじゃないもんね。それが永野護キャラって訳で。うん。


【12月6日】 目覚めるとカチューシャ祭り。「ガールズ&パンツァー」でもって登場したロシアの戦車を駆るプラウダ学園が雪のシベリアならぬあれはどこだろ、日本のどこかを進撃中に戦意高揚とばかりに歌い始めた「カチューシャ」に、ネットを経て見たロシア方面からあれやこれや賞賛やら非難やらのコメントが舞い込んでひとしきり騒がれた模様。日本ならではの美少女が戦車に乗ってか「カチューシャ」とかって描写を飲み込んでいる人はやりやがったと喝采するし、そうでなくてもこの異常な取り合わせに何だこれはと驚く人も多数。

 一方でロシアの大祖国戦争の苛烈さを真面目に受け止めている人は、それが戦争ではなく一瞬のクラブ活動的に行われ、そこで国家の象徴ともいえる戦車と「カチューシャ」が使われていることに眉を顰めているっぽい。まあそりゃそうかも、アメリカあたりで作られるカートゥーンで日本人をモチーフにした眼鏡っ娘キャラが「同期の桜」とか歌いながら歩兵銃持って後進している姿をよくやったって誉める以前にちょっぴり複雑な気持ちに駆られる人もいそうだから。

 今回の一件がそうした一線を越えて記憶に泥を塗るものなのか、彼らの誇りをよりスタイリッシュに現代的にアレンジして見せて喜ばせているものなのか、見極めないとこれから何か起こった時に対処を間違えてしまいそう。アニメだからって何をやっても良いってもんじゃないんだから。ただ宗教とか絡まない話だしプラウダ学園だて前年は優勝したという設定で、ちゃんとその優秀ぶりを示してる。納得してもらえると思うけれども果たして。いやそれ以前に美少女たちが「ウラー!」と叫んで突撃する姿には歴史認識以前の情動が働くものなのかな。

 嘘か本当か分からないけれどもスポーツ新聞に次のジェフユナイテッド市原・千葉の監督として川崎フロンターレなんかで監督をしていた関塚隆さんの名前が挙がってた。てっきり古巣の鹿島アントラーズに戻るんだと思っていたけど、やっぱり鹿島はブラジル人が監督でないと納得できない体質なのかアントラーズは関塚さんから手を引いて、ジョルジーニョ監督の次をそちらに求めることにした模様。体が空いた関塚監督にはだから利根川を挟んだ千葉に来てもらって、川崎フロンターレの安定的な土台を作った手腕を見せて欲しい気持ちがある。コーチ陣もまとめて来るそうなんで、前にジェフレディースを監督してタフさを植え付け翌年のディビジョン昇格の力になった里内猛さんの“凱旋”もあったりして。

 その一方で、2009年11月8日の等々力競技場での戦いで、ジェフ千葉を破ってJ2に落とした時の川崎を率いていたのが確か関塚監督だったと思い返してそれも因縁と見るべきか、やっぱり全力でご遠慮願うべきなのか、迷う気持ちで今はうらうら。手腕だってロンドン五輪での男子代表を率いた戦いぶりを見れば堅実だけれど驚きはない。だからこそピッタリと思うべきか劇的がなければやめるべきか。いずれにしても決まってからまた考えよう。とりあえずは目先は天皇杯。福島ユナイテッドって強そうだよなあ、JFL昇格を決めたばかりでモチベーションも高そうだし。

 煙草は吸っていた時期があるけれど多分にそれはカッコ付けで、くわえて火を着け吸い込み消してはまた吸ってといった動作の繰り返しによって時間も埋まるといったメリットもあって、だいたい2年くらい続けていたんだっけどうだっけ。でも別に吸わないと我慢できないといった感じにはまるでならず、むしろ吸ってる時に出る煙が目にはいって鬱陶しいといった気さえして、家では吸わなかったし車に乗っていても吸わずにいたし電車ではもちろん吸うことはなかった。

 っていうか電車ってあの頃はまだ禁煙車じゃなかったんだっけ、名鉄電車の1985年前後。それより以前は映画館でもみんなすぱすぱやってたんだよなあ、そんな時代の社会がどんな色をしていたのか、今一度見てみたいような、怖いような。話がそれた、煙草はだから習慣として安くてもいっぱい吸わなくちゃいけなってことはなく、高くても外国産の煙草を2日で1箱とか、もっとかけて吸いきるとかいった感じにやっていたからラッキーストライクが最後の方は愛飲の銘柄だった。その前だとピースとかホープとか。マイルドセブンだけはちょっぴりやってすぐやめた。だって別にどうということはないんだもん。

 それを言うならラッキーストライクだって同様だけれどこれは紙が燃える時の感じが割に好きなんだ。ハイライトは? うーん、吸ったことがないってことはないけどでもやっぱり、手を出す銘柄ではなかったかなあ、働く人の濃い煙草、ってイメージで、かろうじてファッションデザイナーの山本耀司さんが愛飲しているってことで興味を抱いたくらいかな、つまりはただのミーハー、だから今は吸わずにいられるし、吸っても吸い続けようとは思わない。煙が嫌いって訳でもない。そんなポジション。

 だから「そよかぜキャットナップ」で田舎の優しい人々によるミステリアスな夏の日々を描いた靖子靖史さんの新刊「ハイライトブルーと少女」(講談社BOX)に出てくる主人公のウミノという青年が、にわかに喫煙者となってコンビニエンスストアでもなく自動販売機からでもなく、昔ながらの街の煙草屋でハイライトばかりを買うようになった理由も何となく分かる。煙草を吸うことが目的じゃないんだ。煙草を買うことが目的なんだ。その目的とは美少女、それも中学生の。このロリコン野郎め、って罵声のひとつでも浴びせてやりたくなるけれど、そんな気持ちも話が進んでいくと薄れていって、この可愛そうな少女を何とかしていあげたいって気持ちの方が強く滲んでくるようになる。

 もっとも毎日その娘が店番している訳ではなくって、たいていは志乃という婆さんが待ち受けていてはウミノから1万円札を受け取り410円のハイライトを渡すと同時に鮮やかにお釣りを揃えて出してみせる。その手並みももちろんひとつの醍醐味だけれど、それよりやっぱり孫娘だ。婆さんとの会話を楽しみつつ、たまにその娘と出会えて会話もできて嬉しい気持ちで会社に行って……。そんな楽しみが突然終わる。いつも開いている店がしまっていた。ずっと。どうしたんだろうか。何かあったんだろうか。しばらくして店が開いていて、そこに婆さんではなく孫娘がいるのを見て、立ち寄ったウミノは志乃さんに何があったかを知り、それ以上に孫娘に驚くべき出来事が起こっていることを知る。

 それは奇蹟。あるいはファンタジー。とはいえ決して喜べることではない。妄執にも似た祖母への慈しみが呼んだ不思議な事態の原因は、このままではいつまでも少女の心に暗闇をもたらし続ける。それはいけない。どうにかしてあげたいとウミノは動き出す。それは傍目には中学生の少女に入れこむ青年の姿にしか見えない。通っている会社でそれを開かせばどう思われるかは瞭然だけれど、それすら気にせず突っ走るウミノにロリコンだなんて単純な罵声は浴びせられない。だからこそ会社の後輩の女性はウミノへの恋情を嫌悪に変えずむしろより強烈にして向け続ける。それを受け入れることになるのか、それとも頑張って10年の後を待ち続けるのか。ウミノのこれからをちょっと知りたいけれどでも、とりあえず少女が救われたことに喝采。それを助けたウミノと仲間たちに謝辞。それでウミノはハイライトを吸い続けたんだろうか。やっぱり目的を終えて数のをやめたんだろうか。やめたら志乃ちゃんが怒りそうだから続けたかも。それもちょっと知りたいかな。


【12月5日】 昔は何度か作ったけれども戦車模型、ゼンマイかあるいはモーターを内臓するタイプの模型で、覆帯ことキャタピラは平たいゴムが輪っかになってて駆動輪にひっかけるだけだった。細かいパーツを張り合わせるようにして覆帯を作り上げ、はめ込んで本物に近い味を出すリアル系の戦車模型にはさすがに手が出ないまま子供時代を卒業した今、もうきっと作ることもないんだろうなと思っていた僕も含めた“卒業生”たちの気持ちが、まさか引き戻されるような事態になるとはほんの数ヶ月前ですら誰も思っていなかっただろうなあ、すでに「ガールズ&パンツァー」という作品がアナウンスされて一部に放送すら始まっていたというのに。

ぱんつぁーほー!  10月の初め頃に開かれた全日本模型ホビーショーでもガンプラなバンダイのブースとかには賑わいがありまたミリタリー系の殿堂ともいえる田宮模型にも注目が集まりながら、そうでない会社のブースに出されていた色鮮やかな戦車のプラモデルに群がりこれは何だと見入る人はそれほどいなかったというかほとんどいなかったというか。だいたいがピンクに塗られていたり金色に輝いていたり新選組みたいなカラーリングになっていたり「バレー部復活!」だなんて文字が入った戦車がいったい戦車の模型なのかと、模型ファンなら思って身を退いてしまったことだろう。あるいは痛車と呼ばれる美少女キャラが描かれた車の延長としてそんな戦車が作られただけとか受け止めやれやれとスルーしたことだろう。

 それがだ。今やそんなど派手な戦車を取り上げた「モデルグラフィックス」が好評完売につき大増刷されるという異常な事態に。出展元となったアニメーション「ガールズ&パンツァー」には大勢のファンがついて毎週の放送なりネット配信を見てはどうだこうだと議論をし、戦車について語りそして戦車の模型への感心をもわもわと育んでいる。これはいったい何なんだ。やはり作品の力ってことになるんだろう。実は環境から見られていないんだけれども町中で女子高生たちが戦車をリアルに操縦している姿を想像するだけで、可愛らしさと真面目さとがいっしょに味わえる希有な作品として激しい興味をそそられる。ただ誰かが乗って動かしているだけじゃない、チームワークがあって始めて戦車は動き戦える。そのことを学べて女子高生たちの可愛らしさも堪能できる作品に、漫然とアニメを見ていた人たちの探求心がむくむくと頭を持ち上げても不思議はない。

 かくして大人気となり今月発売のブルーレイディスクとかもメチャ売れしそうな「ガールズ&パンツァー」。同時に戦車のプラモデルへの興味もかき立て店頭へと向かわせそう。といっても完全無欠な田宮の戦車模型を買ったところでとても作れるはずはないし、色だってピンクならまだしも金色とか難しそう。だんだら模様? そりゃ無理だって。でもそんな無茶を叶えてくれる模型がちゃんとあるところが素晴らしい。イベントに並んでいた時にはまるで誰も目を向けていなかったけれど、今なら大勢が発売日に模型屋に並んでガンプラ発売以来の大行列を作りそう。「ストライクウィッチーズ」も美少女と戦闘機のコラボだったけれども戦闘機が出てくる訳じゃなかったし、その意味では戦車も売れて作品も人気になる、新しいコラボのあり方を示したかも。どうなるかなあ。ちょっと楽しみ。

 そして目覚めると歌舞伎の中村勘三郎さんが死去。肺浮腫で人工肺に頼らなくなったという話が伝わった時点で分かる人には病状も分かってこうなることも予想が付いていたんだろうけれどもそれを広言するのはやっぱり憚られたのか、週刊誌に一部そう書かれたくらいで今朝方に訃報が伝わって改めで大勢がまた急にそんなと思った模様。見てはないけど平成中村座とかコクーン歌舞伎とか、あの古めかしい伝統芸能だった歌舞伎を新しい演劇として活性化させようとして事実成功していたその立て役者。ますますこれからの活躍も期待されていただけに惜しいことこの上ない。食道癌の手術自体は成功しても予後にはいろいろあるってことで、病気ってやっぱり難しい。

 どちらかというと歌舞伎の世界から逸脱してスーパー歌舞伎で一座を打ち立て、世を沸かせた市川猿之介さんとはちょっと違って、勘三郎さんの場合は歌舞伎のど真ん中を歩きながらも左右に広げて来ただけに、その道が途切れてしまうと開けていた道も細くなり、あるいは途切れてしまいかねない。だから誰かが後を思うんだけれど大名跡にしてこれだけの活動力、そして才能を持った人っていないんだよなあ。猿之介さんは歳で後に譲ってそこがスーパー歌舞伎をもり立てるといった空気ではないし、当代の市川海老蔵さんとか市川染五郎さんといった若手のホープも、父親たちとのような本道とそして多方面での活躍ってものは見せられていない。

 今の松本幸四郎は28歳でミュージカル「ラ・マンチャの男」でブロードウェイに立ち、36歳で「黄金の日々」に出演して1年もの長丁場の大河ドラマを引っ張った。同じ年齢を過ぎて息子の染五郎や今の海老蔵に尾上菊之助、尾上松録の誰がいったい「ラ・マンチャ」や「黄金の日々」の当時の市川染五郎、あるいはドラマに映画に大活躍していた中村勘九郎くらいの存在感を見せているんだろう。今もって勘九郎はNHKのドラマ「ばら色の人生」で鷲尾いさ子さん演じるヘンな女の子を世話した、人の良いお兄さんだと信じている人もいっぱいいる。それくらい存在感があった上に歌舞伎でも大成して大俳優となった今この時期に逝ってしまうのはやはり惜しい。けれども仕方がない以上はどうするか。どうなるか。そこを見ていく必要があるんだろうなあ。立ち上がれ当世勘九郎、そして七之助。

 さあ海賊の時間だ。ってことで漫画版の「ミニスカ宇宙海賊」ってのが峠比呂さんの作画で出ていたんで買ってよんだらチアキちゃんが茉莉香の中学生時代のパジャマを着せられパッツンパッツンで胸とか臍とかでまくっていた。良い物だった。それから空港に来た悪者をキャプテン・リリカが短いスカートを気にせずハイキックで蹴り倒していたんでいろいろと見えた。割にキュートなのを履いていた。でもカレン・ロウ中尉のにはちょっと及んでいなかったかな。話は基本的に黄金の幽霊船をめぐってグリューエルをそこに連れて行くという話。アニメ版だとヨートフとかとの間にいろいろあってスリリングな展開に驚けたけれどもこちらは割とストレートに進んでく。いずれにしてもグリューエルもグリュンヒルデもなかなかの可愛さ。とはいえ小説版みたく歳に似合わない策謀家って感じはちょっとないかな。


【12月4日】 なんか「クローズアップ現代」で運転者の記者の人が話していたのを聞くと、例の笹子トンネルを走り抜けたスバルのインプレッサWRX Sti仕様車って斜めに崩れ墜ちてきたコンクリートブロックに左側の端を押さえられながらもジリジリと前に前にと動いてようやく抜け出したって感じで崩れ落ちてくるブロックを見た瞬間に加速して、4WDのとてつもないスタートダッシュ力とラリーで鍛えた加速力で一気に走り抜けたって感じではなさそう。とはいえそれならそれで潰されないボディの頑健さと頭を抑えられても前に出ていくトルクの太さがあったと言えてやっぱりスバルのインプレッサは凄いという結論で。2004年に世界ラリー選手権の日本ラウンドを見たときもペタ・ソルベルグが駆ってカッ飛んでたもんなあ、欲しかったなあ。

 さあ海賊の時間だ、ってことで笹本祐一さんの「モーレツ」……じゃなかったこれはテレビアニメの方だった、こっちは「ミニスカ宇宙か遺族9 無法の御免状」(朝日ノベルズ)は海賊稼業に精出して宇宙を行く弁天丸に見知らぬ輸送艦から救助要請。駆けつけると兄か戦闘艦に襲われていたんで助けようとしたものの相手も強大。おまけに平気で輸送艦もろとも撃って来てこりゃあ拙いと逃げ切ったまでは良かったけれど、明くる朝に船長いして女子高生の加藤茉莉香が学校に行くと教頭先生校長先生に引っ張って行かれてそこでとんでもないことが起こっていると教えられる。そりゃまたどうして。って驚いているところに現れたセレニティ星王家の王女様、グリューエルが茉莉香を誘って宇宙へと出てそして一気にセレニティ星系へ。そこでは妹のグリュンヒルデが出迎えてくれたけれどもさらにとんでもないことになっていた、という驚きの展開で幕を明ける。

 過去に黄金の幽霊船の一件でつき合いができたグリューエルとグリュンヒルデが茉莉香と弁天丸に何を仕掛けたかはまあ予想の範囲。そうせざるを得なくなった原因ともいえる一件と、そして海賊船が行方不明となり、別の海賊船でチアキ・クリハラが乗っているバルバルーサ号に何者かが買い取りを打診していたりする一件が絡み合って浮かんできたのは、海賊という存在の意外な重さとそして扱いの面倒くささ。宇宙の海は俺の海だと自己主張して突っ走る奴らなだけに、権謀術数をめぐらせ打算に走りたい勢力にとっては計算できないファクターとして排除したいと考えたって不思議はない。そしてめぐらされるその計画、あるいは利益とはいったい何か。そこまで至って浮かんでくる戦争っていうとてつもないイベントが持つ魔物のような魅力に、なるほどこれは世界から戦争が一向になくならない訳だと思えてくる。ブラックゴーストは何度でも甦る、そこに人間がいる限り、と。

 査問会と賞するセレニティ星王家のパーティーに誘われながらも電子戦の準備があるからと逃げたクーリエのドレス姿が見られなかったのは残念だけれど、代わりにのこのことやって来たチアキ・クリハラがとっつかまって査問会を引きずり回されたのは痛快。アニメじゃないからその姿態がまるまる見られる訳じゃないけれど、その本文とそして1枚のイラストからその有り様を想像してみせるのが小説読みの醍醐味ってものだ。ロングドレスをたなびかせてのケンジョー・クリハラ船長に向けた回し蹴り、どんな感じに足が見えてそしてスカートがひらめいたんだろうなあ。ごくり。茉莉香の赤いキャリアスーツ姿はまあ、似合って無さが最初っから分かるからどっちでも。しかし本当に弁天丸っていろいろなところから注目されているんだなあ、セレニティ星王家からも、そして帝国軍からも。ゴンザエモンいったい何やったんだ?

 新宿に出来た「ロボットレストラン」とやらが大評判でサブカルな人たちが連夜おしかけ美女たちのショーを堪能しているようでそれはそれで興味深いんだけれど一体ロボットが楽しみなのか美女が見たいのか壇蜜さんのTバックが素晴らしいのかその辺りに行く人の側のコンセプト的な揺れが見えて気に掛かる。ロボットが見たいんだったらロボットを見ろと、たとえ目の前に巨乳が来て揺れようともロボットの固い固い胸を見続けよと、そう言いたいんだけれどそういうロボットがいるかは知らない。ただSF特撮者としてはロボットがこれほど流行るんだったら怪獣だってオッケーかもと思えなくもなく、対抗してどこか作れば良いのにと考えて浮かんだのが円谷プロダクション。

 今は移転したものの砧の怪獣倉庫には使われていない怪獣の着ぐるみたちが大切に吊され保管されていた。それを持ち出し美女に着せて接待させればもう誰だって怪獣に釘付け、てそれじゃあ美女意味ないじゃん。まあそこは怪獣は怪獣ファンのためのもの、ってことで。コンセプト的にパクリじゃないかというならここは怪獣を見ながらお客さんが楽しむレストランではなくって、怪獣が楽しむレストランにしたら良いんじゃないか来店してくる人を接待して塩もみしてクリームをまぶしてそして怪獣が最後の部屋でパクリっと。ってそれだと宮沢賢治フォロワーになってしまうか。

 問題はだからその先だ。入ってきた来店者を最後に怪獣がパクリっとやったら固くてまるで歯が立たない。いったい何者だと聞くと来店客は私はロボットです人間はもう地上からいなくなって私たちロボットだけが暮らしているのですと答えて久々の地球を楽しみに来た怪獣は愕然とするという、それもまあ何かSFとかでありそうだなあ、筒井康隆さんとか星新一さんとか。ならばとそこから怪獣がロボットと手を取り合ってどこかに言ってしまった人間を捜して宇宙を旅して見つからず、地球に戻ってきて木陰で嘆息した時にその樹こそが人間の進化した姿だと築いて本当に欲しいものはすぐ側にあるんだと気付くという、これもメーテルリンクにやられてた。創作の道は厳しい。ちなみに怪獣レストランはないけど「大怪獣サロン」というのは実在するみたいなので食べられたい人は行くと宜しいかも。食べられるのか?

 そうか奥田瑛二さんは女房から誕生日にプレイステーションをプレゼントされてそれを遊びすぎていたら仕事に遅刻しそうになったんで、これは拙いと女房の前でごみ箱に叩き込んだのか。それからずっとゲームをやっていなかったのに今回「龍が如く5」に出演することになってそこに映し出される自分そっくりのキャラクターに興味がわいてゲームをやってみたくなったとか。秋葉原であった発表会でそう話していたんだけれど帰りがけにPS3を買って帰るとかめで言っていたくらいだからセガは展示してあった「龍が如く」とのコラボレーション版PS3を奥田さんにプレゼントすれば良かったんじゃないか。でもってやっぱり何十時間もハマってしまって奥さんが構ってくれないと横から取り上げごみ箱に叩き込むという。それくらいに面白いと良いな。たぶん面白いんだろうけれど。


【12月3日】 ライトノベルの表紙を被せたハードボイルドっていうかサスペンスっていうかアクションっていうか何というか、ボーイ・ミーツ・ガールはあっても最初の第1巻でそれはもろくも崩れて少年の心に大穴を明けた深見真さんの「僕の学校の暗殺部2」(ファミ通文庫)は第2巻でも新たに少女が加わるものの、すでに仲間を<いるか人間>なる、邪悪な<いるか>に操られ殺人とかを平気で犯す人間たちの放った<かげもず>なる謎の存在によって全滅させられ、1人生き延びた彼女は心にぽっかりと闇を抱えていて、少年と組んで向かった<いるか人間>抹殺のミッションで固まってしまい動けなくなる。

 楽しかった仲間との日々を思い出しては抱く憤りも、それを解消するに至らないではどこにも持っていけない。というか<いるか人間>を排除するために高校とか大学に作られた暗殺部のメンバーとして仕事をさせることすらおぼつかない。けどすでに経験を持った兵士を使えないからと捨てるより、使えなくなった原因を除外し使えるようにする方が有意義、ってことで治療が施され宣戦復帰した彼女と少年が向かったそこには、謎めく<かげもず>の存在があってその恐るべき正体に誰もが立ちすくんでしまうところを、ひとり生き残った少女だけは治療の成果もあって動き反撃して<かげもず>を抑えそれを操っていた<いるか人間>たちを撃退する。

 知性化して人間を操ることも覚えた<いるか人間>の侵攻に人類は滅ぼされるのかそれとも反撃が始まるのか。そんな大きなビジョンも楽しいし、恋愛とかとは違った殺伐としてグロテスクな世界に生きる少年の虚無が果たして諦めへと流れるのか再起へと屹立するのか、そんな興味も満たしてうれそう。2が出たってことは人気らしいから打ち切られないで3へ4へと続いてファミ通文庫に、あるいはライトノベルにシリアスグロテスクハードコアサスペンスラブストーリーのジャンルを屹立して欲しいもの。続くとしたら何だろうか、「魔法少女育成計画」あたりだろうか。こっちもこっちで殺伐としているもんなあ、魔法で、少女のくせして。

 もう9年とか昔のまだ自民党が小泉純一郎首相の下で大優勢を誇っていて、次代のホープと目されていた安倍晋三さんは幹事長の要職にあって自民党の政策にも多いに関わっていたようで、とある代議士候補の応援に呼ばれて言って喋ったことが「私たちは全部の特殊法人見直しをしました」「道路公団もそうです」「企業の会計を取り入れた独立行政法人というのに変えていったんです」「その結果」「一年間で1兆4千億円もの税金を節約することに成功したんです」といったこと。当時は猪瀬直樹さんを旗頭にかかえて道路公団の民営化が推進されていた時期で、結果日本道路公団は東日本、中日本、西日本の3つのNEXCOに別れてそれぞれに事業を行うようになった。もちろん補修点検とかもその責任において。

 そして起こったNEXCO中日本が管轄する中央道の笹子トンネルの崩落事故。それを受けて早速自民党の安倍総裁は「耐用年数を超えているものは直ちに補強、改修していく必要がある。それこそ国、政府の使命だ。無駄遣いではない」と演説しては事故のあった責任を補修に向かわなかった国すなわち民主党にあるかのような雰囲気を醸し出そうとしていた。そして理解ある自分たちは政権に相応しい党であるとアピールしていた。ちょっと待て。国が手出しできないような民間企業にしたのはどこの誰だ。その結果多大なる節約が出来たと誇らしげに語っていたのは誰なんだ。そういった自身の過去についての自省もなく、記憶すらないように今を取り上げ、まるで火事場泥棒のように事故を利用して自身を正当化しようとするそのスタンスがやはりあんまり信じられない。けど世間はやんやの喝采。さすがは安倍総裁と褒めそやす。そんな国全体がもはやのっぴきならないところまで着ているのかも。真っ当は、どこだ?

 ふと気がついたら大野安之さんの傑作漫画「ゆめのかよいじ」が、ネットで絶版漫画を無料公開している「Jコミ」のサイトに登場していて早速ダウンロードしてiPad miniなんかで閲覧、いやあ懐かしい、そしてやっぱり角川版とは違った味がある。Jコミに来ているのは描き直される前の少年画報社版の方で絵柄も昔の「That’s イズミコ」に近ければストーリーも最後の章が削られていなくって、ファンタスティックな結末になっていた角川版によりサイエンティフィックな雰囲気って奴を濃くしている。

 どちらが好きかというとやっぱり昔馴染んだ少年画報社版の方なんだけれどそれをそのまま出さずにどうして角川版では描き直しとカットを行ったのか。あとがきだか解説で大塚英志さんが何か書いていたような記憶があるけど思い出せないけれどもやっぱり時代に合わせたんだったっけ。ちなみに角川版の方はキンドルストアで有料でダウンロードできるんで読み比べてみるとその差異もいっそう際だち、そしてなぜそうしたかという意味も浮かんでくるかもしれない。すでに新潟では公開が始まっている実写映画「ゆめのかよいじ」の東京での公開前に、角川版も含め読んでこの漫画が持つ素晴らしさって奴を噛みしめておくのも良いかも。

 ところで初代ではダウンロード途中にとんだ「That’s イズミコ」がiPad miniではするするとダウンロードできるのはやっぱりメモリ容量の差か何かかな。せっかくだからまとめて6巻落としたんであとで「精霊少年ヒューディー」も落としてまとめて読もう。ほかに何が大野さんだと足りてないんだけ。「Lip☆」とか持っていた記憶はあるんだけれどどういう話か思い出せないし、「超鉄大帝テスラ」とかも見失って久しいんで是非にこの際に復刊を、あるいはJコミ行きを。考えてみれば電子書籍で1番読んでいるのがJコミってのも不思議な話だなあ。あとパピレスのRentaとか。懐かしさと大切さ。そこがやっぱり電子書籍の肝なのかも。

 「イクシオンサーガDT」は主人公一行は寝ぼけて適当なことを叫んでいるだけで解くに進まず。一方でエレクを待つ4人の部下たちの間で誰が右腕なのかを競い合う言い争いがあってそこでそれぞれが主張した中でKTが妄想した自分の姿に胸があって谷間があった。それはあくまで妄想だからなのかと思ったら案外に男装の麗人だという話しもあって、だったら何で普段は男の恰好をしているんだ、そして特命旅団インゴクニートの誰も気付いていないんだといった疑問も浮かぶ。その方が面白いから? まあそうだ。マリアンデールだってついてても膨らんでるそれがいったいどうしてなのか、分かっても分からなくっても面白かったから。まあいつか女装の麗人として登場してくれる時もあるだろうからそれに期待、何だしかし女装の麗人って。


【12月2日】 「X」は「エックス」であってローマ数字の「10」ではないのはすでに「X」として第10巻が出ているからなんだけれど、並べてそれが分かる人なんているのかどうか。もっとも背表紙は似ていようとも表紙はまるで違うから一目瞭然、美しいけどちょっぴり怖い中二病少女のユリカ姫を表紙に戴いた「ミスマルカ興国物語10」から一変、「ミスマルカ興国物語エックス」(角川スニーカー文庫)の表紙は、腹筋も割れた全裸の男。その姿にひょっとして、と思う人もいそうだけれどもちょっと待て、マヒロはこんなに腹筋割れてない、そしてこんなに凛々しくもない。じゃあ誰だ。それは彼だ。ゼンラーマン。同じじゃないか? 違う。ゼンラーマン・Zでありゼンラーマン・スーパー。だから同じじゃないのか? それが違うから帝都は阿鼻叫喚と拍手喝采に包まれ、マヒロとそしてルナスにユリカにシャルロッテの3皇妃たちのご出陣と相成った。つかルナス、甲冑の下はレオタードなのか何かなのか。そこが知りたい。

 「テン」の終わりにゼムンで何かいろいろと企まれているからいよいよマヒロ出動か、って思わせておいて、いきなり搦め手から飛ばしてきた暗器のようなこの1冊。3皇妃たちのあり得ない姿を見せたり皇帝の親ばかぶりを見せたりとギャグにまみれた幕間のようなエピソードだけれど、それでいてグランマーセナル帝国の臣民たちの間に蠢いたり漂ったりする様々な思惑を描いて、それに対処する皇帝の謙虚な姿をしっかり描いて話を1歩、進めてみせるところがさすがは林トモアキといったところ。過去にだってお茶らけていながらそこにシリアスを偲ばせ描いてきただけあって、今回もそうした部分に目配りが利いてる。でもギャグの分量がいささか多めなのがこの「エックス」。あの預言者様も再びの登場で、ミーコを相手にやり合っていた「お・り・が・み」の頃に戻っていろいろ企んでいる様子。その未来を見通す眼に映ったマヒロの未来は。それはいずれこれから描かれていくんだろう。どこに収まるのかなあこの話。そして「レイセン」との繋がりは。楽しみがどんどんと増えていく。

 朝に目がちゃんと覚めたんで京成電車に乗って佐倉まで言ってDIC川村記念美術館へと足を伸ばして「中西夏之 韻 洗濯バサミは攪拌行動を主張する 擦れ違い/遠のく紫 近づく白斑」という展覧会を見る。かつて高松次郎さん赤瀬川源平さんと3人でハイレッドセンターを汲んで東京ミキサー計画だのシェルタープランだのといった、アバンギャルドでフルクサスなな芸術を見せてくれた人でもあるんだけれど、それとは別に絵画的な作品を1950年代からずっと描き続けた人でもあったりして、前に東京都現代美術館で「中西夏之展 白く、強い、目前、へ」って展覧会を見たときも、その静謐さの中に生命感が滲み出してくるような感覚を抱かされて感心した作品が多かっただけに、そんな中西さんの作品がまた、一同に見られるらしい機会があるなら例え木場ではなくって地平の彼方の佐倉であっても、足を運ぶより他にないのである。って船橋からだと電車で30分弱に送迎バスで30分弱と、実は1時間かからなかったりするんだけれど。それだけは便利な田舎暮らし、って田舎じゃないか船橋は。

 到着してまずは所蔵品の展示をあれやこれや。シャガールとかレンブラントとか相変わらず良いのがあるけれども、ちょっと前に東京国立近代美術館で日本の近代美術を見たこともあって、今回は日本画の間にあった橋本関雪の「木蘭」に目を奪われる。いわずとしれた男装の戦士ムーランを描いたもので、何故かディズニーでも映画になって世界中に広まったヒロイン、なはずなんだけれどもやっぱりちょっと受け入れられなかったのか、あんまりグッズでも見ない気が。棒は劇場ではなくどこかへと行く飛行機で見たけれども、これがなかなかの傑作で、さすがはディズニーと感心したこと仕切り。あの映画会社が作るものが、たとえヒロインの見た目はアレでも面白くないはずがないと確信した作品でもあって、それはピクサーではあっても「メリダとおそろしの森」なんかでも証明はされているんじゃなかろーか、なあおい。

 もっともそこは日本人が描くだけあって、特別にアジアを意識したビジュアルにはなっていない橋本関雪の「木蘭」は、凛々しくも美しい女性がそこにいて魂を奪われそうになる。前に立って1時間くらい見ていたかったけれど、それも疲れるので先へとすすんでロスコの部屋へ。作品を単体で展示されることを嫌がったマーク・ロスコの気持ちを汲んだか、赤を基調にした7枚ものロスコーの絵が1つの部屋をぐるりと囲むように置かれた部屋は、ちょっぴり薄暗くって最初はただ赤にしか見えないんだけれど、目が慣れてくるとそれぞれに陰影があって濃淡があってただの平面ではない深みと広がりってものが浮かび上がってくる。ただグリッド状のフォルムを現したいだけなら、定規で線を引いた中と外をポスターカラーで濃淡とか関係なしに塗れば良い。そうじゃなく、絵の具で何度も色を塗り重ねた絵画にはまず目に飛び込んでくる平面のその奥に、あるいは手前に何かあるのかもしれない。それが何か分かれば学者にだってなれるんだけれど。まあとりあえず「宇宙」とでも言っておくか。

 そんなロスコから抱いた思いは、中西夏之さんの展示会場でぐわっと拡張された気分になる。その意味でもDIC川村記念美術館で中西夏之さんの展覧会を見なくてはならないんだと訴えたくなる。まずは砂に何か傷跡のようにT字を連ねた1960年ごろの作品があって、同じモチーフを使いながらも持ちながらもそれぞれに違うパターンから生々流転する世の中ってものが感じられる。飛び出した釘に洗濯ばさみを挟んだ作品も同じ手法がとられながらも何枚かある作品のそれぞれに違いがあって、そこに生まれた濃淡が、ただ形の面白さを見せたいというアイディアだけではない、連なりによって浮かび上がる流れってものを感じさせる。攪拌されて分裂し、集合して離散する。そんな洗濯ばさみをあるいは人になぞらえて、ひとところに止まれない人間の、あるいは世界の流転の様ってものを描こうとしたんだろうか、どうなんだろうか。

 そして最近ずっとこればっかりって感じの、グレーの地に白っぽいドットや花弁のようなモチーフや紫のポイントなんかを自在に描いていくシリーズなんかは、それぞれが似ていてどれも違ってその間に、洗濯ばさみやT字と同様の流転や変遷の動きなんかを見てしまう。じっと見ているとそれは宇宙から見下ろした大地が季節によって、時間によって変わっていくようなマクロ的な姿でもあり、また拡大された細胞のようなもののなかで、原子が集まり分子が生まれ核となってそして消えていくミクロ的な姿でもある。実に不思議。そんな作品が展示の第2室にはパーティションを外した広々とした空間の、壁に飾られ手前の床にパネルのように立てられ、重なり合って見えたりするからまた面白い。個々の作品が持つ平面からあふれ出る濃淡が、さらに重なり合って生まれるその躍動。華々しくはない静謐な作品なんだけれど、見ているとジワジワと迫ってくる波動に身動きできなくなる。

 ロスコの部屋から階段を上ったそこから目に飛び込んでくるのは、ひたすらな赤なんだけれど、見ているうちにそこに濃淡があり、やがて両側に白い帯が描かれていることに気付くバーネット・ニューマンの「アンナの光」って作品を、直前にも見ることになるDIC川村記念美術館での中西夏之展。間にはフランク・ステラの平面から徐々に立体へと変化してく作品もあって、現代美術の中に流れるシンプルな平面の中に様々な濃淡を描き時間を、空間を、次元を感じさせようとした作品の系譜で重要な作品をまとめて見られる機会はなかなかない。その意味でもやっぱり行くしかないんじゃなかろーか、DIC川村記念美術館へ。来年1月14日くらいまでやっているからまだ1カ月以上はあるけれど、年末年始を挟むとなかなか行けず気がついたら終わってしまったなんよくあること。8日の土曜日には林道郎さんによる講演会もあっていろいろ聞けそうだし、時間を見繕ってまた行きたいけれど、やっぱり1人で行くのは寂しいかなあ、あの綺麗な空間に。いやいや1人だからこそじっくり見られるんだという良いわけも。うーん。悩んだところで行く当てのある誰かなんていないんだけれど。やっぱり1人で行くしかない、か。

 退魔師よりも天狗よりも吸血鬼よりも強いのは修羅だった、という話かもしれない森田季節さんの「魔女の絶対道徳」。咒師(のろんじ)っていう古来よりその地域に起こる怪異から人間を守ってきた一族の血を引き当代となった少年が、最近起こる殺人事件の調査に赴いた山でゾンビだか餓鬼だかに捕まり、両手を縛られ運び込まれた小屋には別の少女がやっぱり捕まり縛られていた。助けなきゃ、って思ったものの彼女は口が悪くておまけにエロエロ。なおかつ天狗の子孫と言って力を振るい、餓鬼どもを倒して少年を下僕のような立場にして連れ帰る。そして戦う2人組の物語に行くかと思ったものの、とりあえず妖しい吸血鬼がいる家へと忍び込んだら、そこで少年は捕まり吸血鬼の少女の彼氏にされようとしてもうモテモテ。やがて始まる天狗と吸血鬼のバトルの果てに本当の犯人が分かりさらに……といったところでまずは幕。またいろいろ起こってそこで恋のバトルに挟まれギュウギュウするのかもっとヤバいことが起こるのか。続くなら読んでみたい。何かというと首をねじ切る修羅ちゃんはまた出てくるのかな。


【12月1日】 何が誤報だ。むしろ誤用だ。「やるべき公共投資をやって…。これは、国債を発行しますが、建設国債、これはできれば日銀に全部買ってもらう、という買いオペをしてもらうことによって、新しいマネーが。いわば強制的に市場に出て行きます。景気には、いい影響がある」ってつまり、建設国債を発行してそれを日銀にまるまる買って貰うってことでしかないんじゃないか。それをいわゆる公開市場操作を表す言葉だと知らず、日銀が国債なんかを買うことをすべてそう言い表すものだと思いこんで「買いオペ」って言葉を使っただけじゃないか。

 だからそうした誤用をすっ飛ばして新聞が、安倍総裁の真意を汲んで日銀による国債引き受けだと書いて報じたのも当然じゃないか。なのにそれは金融界にとってタブーだと批判されると違います、買いオペです日銀がやっていることですと言い抜ける。回りもそうだと支持をする。でも真意は? 発行する建設国債を日銀に全部買って貰うのことが買いオペなのか。そこに突っ込まないでマスコミがー、と憤ったところで分かる人には分かるそのヤバさ。なんだけれど分かる人の声って聞こえてこないんだよネットでは。そうした声ばかりを聞いて育まれた感性が、跋扈し他を染めていく。その未来は。参ったなあ。

 ガラクタを詰め込んだ荷物を実家に送ろうと、ダンボールにまとめて入れてヤマト運輸の配送センターへと持っていったら隣が何やら新装開店の様相、といっても別にパチンコ屋とかコンビニエンスストアではなく群馬から千葉4区に拠点を移して、来る衆議院議員選挙に立候補しようとしている三宅雪子さんの選挙事務所が今日オープンに向けていろいろ準備中だった。前には確かセレモニー関係の事務所が入っていたけどしばらく前に抜けて空き室状態。とはいえ船橋駅から徒歩で5分もかからない至便な場所にあって、隣の隣には宅配ビザ屋があって向かいにはコンビニエンスストアがって2分歩けばイトーヨーカ堂もあってそしてビジネスホテルも近い恵まれた環境にあったりする。

 企業が使うにはそれほど広くはないから空いていた模様。短期決戦の選挙事務所ならこれほど便利な場所もないってことでここを選んだ才覚はなかなか。誰か有力な参謀でもついたかな。まだポスターとか新しいのはないのか国民の生活が第一って書かれたポスターや小沢一郎さんの顔とか貼ってあって谷亮子議員のポスターもあったりと生活的雰囲気がまだ色濃い。とはいえ党はなくなり日本未来の党と合流した訳でいずれそっちのイメージを推しだし小沢ガールズの刺客といった良くも悪くも色濃いレッテルを薄めつつ、脱原発で反TPPで反増税といったニュアンスを訴え自民は嫌だし民主はダメだし維新なんてトンデモといった中道を、引き込んで行くことになるんだろう。路線としてはなかなか抜群。そこにさらなる刺客が来ないことが勝利の条件か。太郎くん案外にひょろりと来たりして。

 12月1日とうのは去年に荒木伸吾さんが亡くなられてちょうど1年という日で、だからという訳でもないけれども外神田のアーツ千代田3331で開催中の「荒木伸吾回顧展『瞳と魂』」を2度目の訪問。同じように考えた人もいたりしたのか土曜日だからなのか、開場時刻の正午を回った段階ですでにそれなりの人が来ていてなかなかの盛況ぶりを見せていた。ずっと昔に荒木さんと親交があったっぽいおばあさんとかおじいさんもいたりして、懐かしいねえこれあったねえとかいった話をしていたのが印象的。近所の人だったのかいっしょに仕事をした人だったんか。いずれにしてもそうした人まで招き寄せる展覧会って、アニメーション関係ってあんまりないだけにその業績と人柄が、業界を超えて広く伝わっていたんだと改めて思った次第。トートバッグと漫画の本を買って退散。やっぱり誕生日らしい星矢とアテナが重なるポスターのラフはやっぱり良いなあ。

 急に冷え込んできた中を返ってテレビでJリーグのディビジョン1最終節。もちろ我らがジェフユナイテッド市原・千葉は出てないけれどもその相手に来年なって、昇格を争うかもしれないチームが決まるんだからこれは見ておかない手はない、って地上波でやっているのはガンバ大阪とジュビロ磐田の試合だけだからそれをずっと見てたんだけれど、勝ってもよその結果次第ではJ2降格が決まってしまうガンバがいきなり先制されるというヤバい展開に心はちょっとドキドキ。だってあのガンバをまたフクダ電子アリーナに迎えて見られるんだから嬉しい一方で、あれでもJ1で首位を争うチームが一時の混乱で弱体していても、J2ではすぐに立て直して昇格争いを繰り広げると考えるとJ2暮らしの長いジェフ千葉にはちょっと荷が重い。

 むしろオーナーのきまぐれで選手がやる気をなくしそうなヴィッセル神戸とか、陥落の衝撃の大きさで立ち直れなさそうなアルビレックス新潟あたりが落ちてきてくれれば与しやすいかもと思っていただけに、ガンバの降格は果たしてどうしたものかと逡巡していたところに同点の報、とはいえ同点ではまだ足りない、勝たなければいけないはずの試合だったのに1点をジュビロに奪われ敗れ去ってそしてガンバ大阪が創設以来のJ2降格という憂き目を食らってしまった。ガンバさんようこそJ2へ。ここは泥沼。1年で抜ければ楽だけれども2年いるともう大変。でもまあ気を取り直せば強いチームだけに選手が大きく抜けなければすぐに浮上できるかなあ。遠藤選手と明神選手と今野選手と加地選手と二川選手と倉田選手、ジェフに来てくれないかなあ。同じJ2なんだし。

 そんなJリーグの1年をふり返って分かったことは、国王こと中島浩司こそが「K」で言うところの王権者であって芝生を象る緑の王権者としてピッチに君臨しては選手たちをクランズマンへと変えてまとめて戦いの場に投入し、幾つもの勝利を得ているのではないかということ。それが証拠に仙台時代にはチームをJ1へと押し挙げ、抜けたらJ2に落ちてしばらく低迷。移ったジェフ千葉はオシム監督の下で急成長を遂げてナビスコカップ2年連続優勝という成果を上げた。けど中島選手が抜けた途端にJ2落ち。そして移ったサンフレッチェ広島は晴れてJ2優勝というこの軌跡を見ればやっぱり中島浩司選手は何かを持っている。それが王の力ということでジェフ千葉は三顧の礼で広島に頼んで中島選手を呼び戻し、甘さが目立つ選手たちをクランズマンとして甦らせた方が良いと思んだけれど、どうよ。


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