縮刷版2012年11月中旬号


【11月20日】 ふとテレビを着けたらごりーぱみゅぱみゅが何やら不安そうな顔をして廊下を歩いている映像が。11月6日に行われた日本武道館でのきゃりーぱみゅぱみゅのライブに突然現れて、一緒に「CANDY CANDY」を踊った時の直前の様子らしく背中を押されてライブを乗っ取る覚悟で挑んだものの完全アウェイな状況に、さすがのSMAPメンバーでも臆するところがあったというか、ステージに立つ者として圧倒的に自分たちへと向いてくる観客が余所に向かうことなんてあり得ないと感じているからなのか、ともあれそんな心理も気合いで吹き飛ばして立ったステージで、意外や受けた歓声と歓迎に、落ち着きを取り戻していつもながらのごりーぱみゅぱみゅを見せたところに稲垣吾郎さんってアーティストの覚悟と根性を感じる。強いなあやっぱり。

 アミューズメントマシンショーの開会式に来賓としてよく来ては薄いナイロンの靴下を見せてくれてた亀井静香さんが民主党の誰だっけかと立ち上げた新党の名前が「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」って聞いてまず思った「何だこりゃ」。だってそれって何かに反対するって話ばかりで自分たちはこういう風にしたいんだって前向きで上向きの意志がそこには何にも現れていない。もちろん脱原発だってひとつの施策だけれど無くして収まるものではないから議論されて来た訳で、だからただ言うだけじゃなうって代替エネルギーをどうするか、あるいは生活水準をどう保っていくかといった部分に繋がる意見がないと誰もそれをお題目以上のものとは捉えない。

 反TPPや消費税増税凍結だって同じでそれを言うのは容易いけれど、その先をどうするのか、この人手がおらず内需が滞る中でいったい国内の産業をどう振興して需要を高めていくのか、補助金を出すなら増税に頼らないとしてどこから財源を持ってくるか、それは高齢化社会なりへの対応にも重ねてどのように対応していくか、って対案をはらんだものでなくてはならない。でもそういう言葉って出てきたっけ。出たとしてそれに実効性はあるんだっけ。そんなところからも第三極と呼ばれる人たちの耳障りの良い言葉への信頼も関心も揺らいでしまう。というかそれなりな人たちが集まって、こういう見せかけの看板した並べられないのって何なんだ。そんな人たちが政治家としてずっと仕切っていた訳で、この国が傾くのも分かるような気がして来た。

 しかし「みんなの党」も大概だったけれども今も変わらず「国民の生活が第一」だとかいった陳腐でそこに夢も抱けない党名がわんさか出てきて日本人の日本語能力の退廃ぶりを嘆きたくなる気分。維新だって散々っぱら使い古された言葉でそれを持ってくる人のどこか悦に入った心性を考えると何か気分も重くなる。歴史の転換点をそこに現したいなら別に「新党大化改新」でも良いし「新党壇ノ浦」でも「新党安宅の関」でも「新党稲村ヶ崎」でも「新党桶狭間」でも「新党本能寺」でも「新党中国大返し」でも「新党関ヶ原」でも「新党天王山」でも「新党二百三高地」でも「新党ミッドウェー」でも良いんじゃないか、ってミッドウェーは転換した果てが問題か。「新党天王山」もどっちに傾くかで結果が違うしなあ。でも維新よりは新線だぜ。

 あるいは「今年の漢字」からとれば何か格好いい党名できるんじゃないかとも。去年とか「新党絆」になるし行けそうだなって思って調べたら、「新党毒」とか「新党金」とか「新党偽」とか「新党暑」とか「新党災」とか「新党倒」とか「新党震」とかそんなんばっかりなりそうだった。日本ってそう思うと大変な年をずっと送って来たんだなあ。という訳でここはまるで意味が不明だけれど何かとってもインパクトがありそうな「新党ナンガパルパット」とか「新党ケイオスヘキサ」とか、あるいは何かやってそうな気がする「新党マグロマル」とか「新党新宿コンフィデンシャル」にすれば人も寄って来て何かが動く。訳ないか。人気作品を使って「新党ティロ・フィナーレ」だったらもうわんさかと人が。そして当選したら首をばっくりと。やっぱり不吉だいろいろと。

 まず思うのは「高機動幻想ガンパレードマーチ」で、謎のバケモノたちに襲われ追いつめられた世界でもはや少年少女が銃を手に取り戦うしかなくなったといった設定に、瀬戸際の悲惨さを見たりしていったいどういう救いを、あるいは滅びを用意しているんだろうと思い読んだ涼野遊平さんの「伊月の戦争 〜終わる世界の物語〜」(集英社スーパーダッシュ文庫)だったけれども設定的にはぐっと概念に寄ったSF作品で、人間を追いつめる敵の存在の裏に人間が秘めた戦いへの関心があったりと、そんなメッセージ性も含んでなかなかに読ませる。敵は影獣、といっても姿形のあるバケモノってよりは人間のシルエットのような存在で、それが突然に現れ人間を襲い始めた。折しも世界では軍縮が進んでこれから武器も武力も廃棄縮小が進んでいくと期待されていた時。迫るピンチに人類は武器を手に取り戦いはじめたものの、相手はなかなか殲滅できずむしろ殺した分だけ人類が殺されるという展開になって終わらない。

 日本では自衛隊が最初は戦っていたものの損耗も激しい中で、やがて15歳まで徴兵年齢が引き下げられそれも12歳へと下がっていくという非常事態。15歳になったばかりの天宮伊月という少女とそれから御永祥陽という少年、さらに能登飛鳥という少年に六反田鴻という少女の4人はチームを組む形で影獣と戦っていたものの、相手はまるで退かずそして予想を超えた大発生に4人が対峙して囲まれた挙げ句に何者かに救われる。いったい誰? やがて4人はどこからともなく現れ伊月のような形を借りて話す存在と出合い、影獣の正体が宇宙から来た概念兵器「=(イコール)」だと教えられ、それに対峙できる力を与えられる。以後、4人というか伊月を除く3人は攻撃に防御といった力を得て英雄と呼ばれる2人組みに負けない戦果をあげるようになる。そして計画された影獣の殲滅戦で伊月はミスを犯し人類は再び危機に見舞われる。

 いったい影獣とは何なのか。それは何を目的としているのか。どうして奴らは狙ったように伊月の作戦の裏をいくような行動をとったのか。疑問に当然ある理由が明かされそして期待が裏切られる展開を経て、人類を襲う敵の正体が明らかとなり、その目的が明かとなって人間が、表にはださないものの内に秘めた好戦的な感情が浮かび上がってくる。戦わないで怠惰に終えるなら戦って派手に終えた方が良いかどうなのか。そんな提案も含んで問われる人類の覚悟。それに答えて選んだ道。さらには敵の先鋭とされていた者たちの本当の望みも見えてきて、やっぱり人類は生き延びたいんだという意志を持った存在なのかもと思わせてくれる。概念兵器の設定とそれと戦う力の設定が格好いい。あとやっぱり男の子は女の子のために戦う姿が暑苦しいけど可愛らしい。

 そして「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の2回目、ガキへのムカつきがすでに了解の下に緩和されてその周辺にいて彼を見つめる人たちの情動なんかが割と理解できたし、急転直下が激しかった展開や設定なんかも理解の上で確かめるように見られたんで何が起こってそしてどうなっていこうとしているのかが割と分かってこの作品が持つ真価にちょっとだけ触れられたような気がした。あんまりなムカつきフィールドの分厚さに初見ではそこまでたどり着けなかったからなあ、あるいはそれを一見さんを斬り捨てるフィルターにしてそれを乗り越えられた者が2度目3度目に回ってそこで何か発見できるようにあらかじめチューニングしてあったのか、だとしたら相当にピーキーなメカニックだけれどそれに伴う毀誉褒貶も含めて1つの現象として、濃密さの中に取り込んでいこうとしているのかも。エンターテイメントビジネスとしちゃああんまり上策ではないけれど、ひとつの時代、ひとつのアートを築こうとしているんだとしたらそれもありか。

 ともあれ1度見ればわあい楽しいで2度見に向かう気を御こっせなかった序に破とはまるで違ったアプローチ。そして僕にとってはそれが刺さっているようでこの作品はあと何度か見たいって気がしてる。その意味では3作で最高峰に位置しているかも。ビジュアル面でもソフトなのか案外にアスカとマリの胸が揺れるプラグスーツ姿とか拝みたいしピッタリとした下腹部とかも結構なもの。シンジとカヲルの関係性は慣れないけれども中空のテラスから激しく内にこもって自己正当化するシンジを諌めるでもなく糺すでもなく淡々と事実を語りそこから先へと誘おうとするカヲルの心情めいたものも、滲んで来てシーンとして良かった。あとはできればもうちょっとミサトさんの笑顔とかボディとかを見たいなあ、リツコさんは何か猛々しくって。SOFT VALLETの森岡賢さんみたいだなあと思ったりも。美しかったもんなあ森岡さん。


【11月19日】 まさか勝つとは。いや勝って欲しい気は山々だったけれどもリーグ戦っではジェフユナイテッド市原・千葉より上位にあってそれなりに強い横浜FCを相手に4点も奪って圧勝するとは思わなかったよ。これで次の大分トリニータに勝てれば、あるいは引き分けでも良いのかな、それで待望のJ1に戻れるんだから嬉しいというか喜ばしいというか。本当だったら5位に沈んで手も足も出なかったものがプレーオフ制度の導入で一変してのこの段階、かといって負ければ元も子もないんで次の国立では勝ってそしてJ1への階段を上って欲しいと心から願う。久々に行くか見に試合を。横浜アリーナのANIMAX MUSIXはちょっと遠慮ってことになるかなあ、午後3時に終わってかけつけても大丈夫かなあ。

 どこまでを訓練のままで過ごされるのか、途中からもう実践になっていて、そこで死んだらはいそれまでよになっていないか、復活すると思っていたら帰ってこないで戦死となっていやしないかなんて、そんな不安も抱いて読んでいた鷹見一幸さんの「宇宙軍士官学校 前哨 2」(ハヤカワ文庫JA)だったけれど、地球人を目覚めさせた宇宙からの来訪者たちもそこまで非道なことはしてなったみたいで、宇宙軍士官学校に入ってそこでの厳しいセレクトに残った有坂恵一ら40人が、いよいよ始めた実戦を想定しての訓練は、恵一の戦術ミスもあっていきなり全滅を食らって経験値をリセットされてしまう。

 そこで目覚めさせられ、全滅の理由を存分に知らされ再起に挑んだ一行が、次に来る困難を乗り越えどうにかミッションを果たした最後に食らったその閃光。実際に負傷者も出るくらいの事態だったけれど、やぱりそこは訓練の範疇だったようで、治療され活かされた一行はそこから常に気を抜かず注意を万全にして敵と戦う戦争のシリアスさシビアさって奴を学ぶ。とにかく厳しい訓練は、そういう意識が欠片でもあったら絶対に隘路に陥るように設計されているんじゃないかと思えるくらいに意地が悪い。もっともそれくらいの意地の悪さを乗り越えなくては生き残れないのが本物の戦場って奴で、そんなマックスの緊張感をずっと維持していなきゃいけない軍人に果たしてなれるのか、これから先の一行が心配になってくる。

 というより、そこまでマックスの緊張感にあふれた状況に地球人類も置かれる羽目になるのか、ってあたりの未だ見えなさが気になって来た第2巻。15歳の少年少女を募り兵士として育て上げ、宇宙へと送り出す役目を背負わされた主人公たち宇宙軍士官学校の面々が、いったい何と戦わされてそれはどこまで地球を、そのバックアップとなっている宇宙人の勢力を脅かしているのか。いずれ明らかにされているだろう宇宙の戦場の構図を見た上で、その先に何が待っていて、それが人類に何をもたらすのか、あるいはもたらなさないのかを気にしたい。楽しみなシリーズ、次はいつ読めるだろうか。

 たぶん12月の頭くらいに出る「おすすめ文庫王国」で、誰が見たって異論反論が出ないはずがないライトノベルの10冊を選んでいたりしたその中に、やぱりこれは入れておくべきじゃないかなって思って選んで入れた山形石雄さんの「六花の勇者」シリーズが、19日に刊行された宝島社の「このライトノベルがすごい2013」でも3位に入っていてくれて僥倖というか、よくもまあこんなに上位に来たものだというか。一般が選ぶランキングではやっぱりそれほど高くはなかったけれど、協力者と呼ばれるライトノベルを比較的読み込んでいて、中高生の月にこれ3冊といった決め買いじゃないところで良作を選べる懐に余裕のあるだろう人たちがベストセラーとは別にやっぱり挙げておくなら、って感じで選んだんだろうなあ。

 それでもここまで上位に来るってことは、「戦う司書」シリーズの頃から圧倒的なスケールと異色の世界観でもって得ていた強い支持が続いていたし、6人いるはずの勇者が7人もいてその偽物を疑心暗鬼の中で暴く一方で迫る魔王の脅威とも戦わなくちゃいけない、スリルと緊迫感にあふれたパズル的要素も盛ったストーリーも優れていたからって言って良いんだろう。発売される第3巻なんてさらに入り組んで魔族の間で騙し合いなんかもあってそれに勇者たちも巻きこまれくんずほぐれつ、だからなあ。大傑作の予感。ちなみに「文庫王国」の10冊では、「このラノ2013」の30位までに入った中から「六花」を含め3冊、入っていたからそんなに無茶苦茶なら選択ではなかったのかもと安心。それでも異論はありそうだけれど、年に1000冊は出るカテゴリーから10冊なんて、好みとか傾向とか分析とか入れて空気感を見せるような感じにしないと、選ぶの無理だってことでご容赦を。

 そんな「このライトノベルがすごい2013」の女性ヒロインに我らが神楽日毬が入ってないのはおかしいとは思うもののまだまだ新人であるのです、その名が満天下に知れ渡るまでにはアイドル活動と政治運動をもっともっとしてからになるのですと理解し来年に期待。あと30位までに「境界線上のホライゾン」からネイト・ミトツダイラしか入ってないけどどうしてアデーレ・バルフェットを入れないんだ、アニメの第1期じゃ1番目立ってじゃないか、なあおい。まあいろいろ思うところもあるけれども一般標準の平均的な意見がランキングという形になって現れているものとと思おう。新約に入っても「とある魔術の禁書目録」は強いってことなのかな、それとも「とある科学の超電磁砲」効果があったりするのかな。

 毎年やってる目利きの3冊では「侵略教師星人ユーマ」のエドワード・スミスさんと「あやしや/いなき」の沖ハサムさんと「覇道鋼鉄テッカイオー」の八針来夏さんをピックアップ。他の目利きの人と今回はまるで被ってなかっただけに果たして自分の目は正しいのかそれとも節穴なのか、分からないのが悩みどころではあるものの、去年に選んだ秀章さんに美奈川護さんに範乃秋晴さん、一昨年の青柳碧人さん樺薫さん浅生楽さんと、毎年誰かを選んできたけど過去に次の作品が出なかったりした人はたぶんいないような気がするんで、今回の皆さんきっと来年も活躍してくれるだろう。「あやしや/いなき」は江戸サイバーパンクといったビジョンを先鋭化させていけばハヤカワ文庫JAからだって行けるんじゃないかな。

 夕方のワイドショーめいたニュース番組でしばらく前にシリアの上の方で取材中に撃たれて亡くなった山本美香さんとコンビを組んでた男性が、現地へと飛んで当時その辺でいっしょに取材していたトルコ人ジャーナリストが釈放されるタイミングであれやこれや聞いて山本さんの死の真相を聞き出そうとする、そんな内容の放送をずいぶんと長い時間をやっていたんだけれどそんな放送を見てもいったい、今のシリアがいったいどうなっているのかってところはまるで伝わって来ず、亡くなった山本さんを悼みその死をふり返って嘆いて共感を誘うような展開に果たして現地でとてつもない状況を伝えようとして撃たれ、亡くなった山本さんは了解を出すんだろうかなんてふと考える。当時からその死をドラマに仕立て上げる報道が続くんじゃないのかなんて懸念を覚えていたのがやっぱりといった感じで今さら驚きも憤りもしないけれど、1人が命を賭しても変わらない日本の報道っぷりにはやっぱり絶望するより他にない。なにしろその意志を継いで現地の続報を大名うべき人間が、足跡を追う“ドラマ”の中心にいるんだから。どうしたものかなあ。


【11月18日】 なんか連日の早起きとなって電車を乗り継ぎ今度は浜松町からモノレールで東京流通センターで開催中の文学フリマへ。最初の青山ブックセンターから秋葉原を経て蒲田で大きくなってそれすらも収容が難しくなってTRCへ。当初はワンフロアだけだったのが2フロアとなってこれで何回目となるんだろうか、創作系同人イベントのコミティアと重なってもなお来場者があって出展者もあるのはそれだけ文学なり評論といった分野に筆を置く人が増え、求める人が増えたって現れか。コミティアには行かなくっても文学フリマには顔を出すって人も割といたりするってことは、それなりに棲み分けも出来ているって現れだろうし。

 さっと見ていたら上智大学「「紀尾井OB会」のブースに大橋崇行さんがいてご挨拶。何かライトノベルに関する小説を書いていていそれが来年2月に出るとかで期待。売ってた同人誌にもライトノベルの現況についてのエッセイがあって結構年輩な人が読者に増えてきたことが、ファンタジー世界を土台にした「ソード・アート・オンライン」なんかが売れていた入りする理由かも、なんて分析もあってそういうこともあるかもといった感想を持つ。じゃあ若い人はどんなライトノベルを読んでいるんだろうというと、これがなかなか想像できないんだよなあ、中学生が1番読んでいるのって何だろう、やっぱり川原礫さんか、それとも別の誰かか。

 ブラックパトスって前に買ったっけどうだったっけって覚えがないんでとりあえず買い、日大の文理あたりが出してた籐真千歳さんへのインタビューが載った冊子を買い、宮内悠介さん絡みのコピー誌とか松山剛さんのコピー誌とかを見たりしつつ場内をめぐる。SF評論系もあったみたいだけれどパスかなあ、自分が関わっているジャンルだと参考に成りすぎて困ることもあるから。これは常連の「HK」って別に変態仮面ではないブースで、ニートが喪主になって大変といった内容のルポを買ってあと早稲田大のジェンダー/フェミニズム研究会が出してた本も買って退散。早大ジェンフェミ研のは男の娘とかアイドルに関する女性視点からの分析があって面白そう。でも字が小さい。小さすぎる。拡大鏡を付けてくれないものかなあ。

 これも一種の「外傷性の絆」と言うのか、例の群馬からはるばる山越え川越え降ってくる候補を、妙に褒め称える人たちがいたりして、その勝たなくても相手の足さえ引っ張れればという心性の、どうしようもないみみっちさを、敗れてもなお潔いとか、難敵に挑むとは立派だとか言ってる辺りに、選挙ってのは何かをして欲しい人を送り出すためのものだという、穏当で順当な思考が根こそぎ封印でもされているような言説振る舞いが見えて辟易させられる。自分たちの信じる正しさの前に、本来の真っ当さはスポイルされてでも当然といった思考は、つまり何かのために犠牲はあって当然といった思考と重なるもので、それは自分たちが敵視している原発再稼働の論理とだいたい同じ。なのに一方を悪と弾劾し他方を正義と讃えるダブルスタンダードを世間が見逃していると思うのか。思っちゃうんだよ「外傷性の絆」に囚われた人たちは。

 その候補者はネットを駆使していて、その立候補地区はネットを使っている人が多いから有利って、そんな思考まで出ていたりして何とお目出度いというか周辺を見てないというか、ネットを繙けばまるで善意の言葉ばかりではなく、むしろ批判的な言葉の方が圧倒的で、スペランカーって頼りなさと嘘臭さを含んだ言葉でもってその存在が語られ、どっちが嘘つきだよって声がわき起こっているのに当事者たちは知らん顔。見たいものしか見ず聞きたいことしか聞かないその頑なさでもって、政治の世界に立ってもらっちゃ正直困るんだけれどそういう目配りってのは応援する側にも、そして立つ側にもたぶんなさそうなところが痛々しい。

 現状、当選してもその党首の言いなりにしか動けなさそうな候補者を通すくらいだったら、おそらくは総理の座からは外れても、発言力があって連立のキャスティングボートになれるだろう勢力は保つ集団の上に立つ人間に、話して改新してもらいあるいは連立の枠組みで先鋭を引っ込め穏当な政策を実行してもらう方が、よほど死に票にならないって来もあるし、おそらくは政権を取るだろう党から出てくる候補者を支え、その基盤を確立してもらう方がやっぱり票として生きてくる。そういったこの地の現状を踏まえもせずただ足を引っ張るためにやって来る候補を推すほど当地には無能が揃っているとでも思われたのか。だとしたら舐められたものだけれどそういう当地に生まれるだろう思いを、まるで斟酌せず大歓迎されていると思いこんでいるのもやっぱりあれか、「外傷性の絆」にとらわれ見たいものしか見ず聞きたいことしか聞かない結果って奴か。たまらんなあ。

 赤の王をフィーチャーした講談社BOXの本も出たけど本編の方はといえば取り囲んだセプター4の面々ですら欺きシロもクロもスタジアムをどうにか脱出。そしてネコが何か力を持った存在でその記憶をいじくる能力を使いシロがどこかから学園に墜落してくるまでをどうにか甦らせたものの、その前の記憶についてはいよいよこれから明らかにされるって展開が待っていそうでこれで話もぐっと進んでくれると嬉しいんだけれど、最終目的とするポイントが見えないところがちょっと見ていて気になるところか。シロが赤のクランの誰かを殺した本人なのか否か。それが明らかにされたところで世界の命運をかけた赤と青の激突がある訳でもないし、無色が力をふるって何か起こすとも思えないし。そんな見えなさが面白さではあるんだけれど楽しさかというとちょっと違うんだよなあ。とりあえず戦闘シーンはもうちょっといろいろ動いて欲しいもの。でないと淡島世理さんがいつも同じポーズで踊って回るだけだから。それだけ見れば十分って声もあるけれど。確かにあれは良い物だから。

 文学フリマから電車を乗り継ぎ池袋へと出て大勝軒で叉焼麺を食らってそして池袋西武で開催中の「ちばてつや原画展」の2回目を見物、やっぱりジョーが良い、真っ白に燃え尽きて椅子に座るジョーのその絵はだから何度も言うように国宝級であり世界遺産級。漫画の歴史の頂点に位置する1枚をそのまんまの姿で見られる絶好のチャンスであるにも関わらず、ゴッホの糸杉が来ているメトロポリタン美術館展ほどにもお客さんが来ていないのが少し寂しいような気も。もっともいっぱいの人に絵が見られないより目の当たりにじっくり見られる方が良いからこれはこれで嬉しいと思う。版画も販売中で真っ白に燃え尽きたジョーの文字入りとか5枚売れてたし、あとキャンバス風の地が使われたジョーも5枚とか売れていた。すごいなあ。20万円は軽く超す版画セットも3セットとか売れてたし。やっぱりジョーが好きなんだ。そんな中に1枚、女性キャラのがあって当然ながら白木葉子さんなんだけれど横顔のあわい水彩風の絵が本物から実に良く再現されている。本物より綺麗なくらいで値段も4万2000円だから他に比べて格安、ちょっと喉から手が伸びかけているけれど、どうしたものかと悩み中。27日まで考えよう。

 そしてシネリーブル池袋へと回ってこれで4回目となる「伏 鉄砲娘の捕物帳」のトークイベント付き上映を観賞、4回見てもまるで飽きない面白さ、って言えば十分に魅力も伝わると思うし、何よりトークイベントがるとはいっても日曜夕方の時間帯でそして公開から4週間も経っているアニメーション映画が満席になるくらいの賑わいを見せているって事実が、この作品が持つ価値ってやつを現しているんじゃなかろーか。上映前に話していた会話だと出てくるのが別に声優さんではないから帰ろうかなんって話していた娘さんもいたくらいで、つまりそんなただ作品だけを目当てに来ている人がこの時期にいるってこと。純粋に作品の力だと思って誇って良いんじゃなかろーか。それだけに地方での上映がボツボツと終わり始めているのが残念というか、染み始めた賞賛を聞いてこれから見ようとする人に、答えてくれる上映があれば良いんだけれど。東京では角川シネマ新宿が17日から上映しているのかな。まだ見られる。ならば行くしかない、5回目6回目10回目と。

 今回のトークイベントでは始めてokamaさんが出てきてビジュアルについて喋っていたけど驚いたことが1つ。あの極彩色でカラフルな江戸のビジョンはokamaさんの発案ではなかったっ! それこそ「華札」って大判のフルカラーコミックの頃から日本の昔をカラフルに描いて来た漫画家で、あと「創聖のアクエリオン」とか「宇宙ショーへようこそ」といった作品でもポップにキッチュな世界観、って奴をデザインして来た経歴なんかもあるだけに、てっきりそのテイストが爆発してあの江戸になったと思ったらご本人は「モノクロで、西洋な感じ」の江戸をイメージして描いたとか。それはもらった資料がやっぱりいモノクロなイメージだったからで、また原作の桜庭一樹さんも世界観を西洋のゴシックな感じにイメージして書いたらしくそれが乗り移ったかのようなデザインに最初はなっていたのを桜をぶちこみ美術の案を入れこむうちにああいった、絢爛として惑乱とした江戸のビジョンになっていたっという。ちょっとどころじゃなくらい意外だった。

 でも吉原の真ん中におっぱいを作ろうとか考えて止められるような破調のビジュアルイメージは、やっぱりokamaさんあらではでそうした既存のイメージをぶちこわすアイディアをまず出してもらったところから始まってそれを映像の範囲に収めてああなったってことはやっぱり、色彩としての絢爛さとはまた違ったフォルムとしての斬新さに、okamaさんならではのアイディアが存分に活かされているってことは言えそう。それが分かったトークイベントだっただけに出られて良かったしサインもらえて嬉しかった。なにせ「めぐりくるはる」の頃から読んでただけに。あれから何年経ったんだろ。みんな凄くあっていく。桜庭一樹さんも。そんな桜庭さんには宮地昌幸監督から冥土ちゃんと同じ帽子のプレゼント。とっても可愛い帽子。是非に被ってどこかい出て欲しいし、あるいは同じのを作って売って欲しい。被れば作家になれるかな。なれるんあら買って被りたいな。

【11月17日】 朝もはよからヘアーの乱れは整えないで後ろに縛り、午前5時半の船橋駅へと登ったら総武線快速の電車は午前5時50分まで来なかった。早すぎた。まあでも10分早く来る総武線各駅停車で秋葉原から京浜東北線に乗り換えても時間はたいして変わらないと思い、ホームで時間を潰してそしてやって来た電車に乗って行こう行こう桜木町は横浜ブルク13での「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の午前8時の初上映。普通だったらこの時間帯がどこもかしもも最初の封切りになるはずだったのが何を血迷ったのか新宿バルト9が午前0時にボジョレーヌーボーから2日遅れの解禁祭をやったそうで、それで見た人もわんさかと出てあちらこちらに情報が出ているのをなるたけ見ないようにと避けつつも、見えてしまった情報も。

 そんな中から初日にエヴァを見るようなファンは別に誰も知りたいとも思っていない宇多田ヒカルさんのエンディング担当話を、ウエブサイトのトップに持ってくるあたりが、スポーツ新聞というメディアに巣くう記者やデスクの感性と、そうしたスポーツ新聞を主に読む層のバリュー判断の現れなのかも。エヴァを初日に見たがるファンには何の関心も惹起しないのにそんなの。なるほど映画と無関係なタレントを起用して宣伝される映画宣伝が、それでも新聞に掲載されるのはつまりそういう宣伝姿勢をスポーツ新聞やその読者が求めちゃっているからで、本当だったら映画そのものの魅力を伝えたいのにできない映画会社もなかなかに苦しんでいるのかもと想像。そんな中でひとつもメディアを使った宣伝をしてないのに「エヴァQ」は初日から満員大御礼。なんというか。それが宣伝の理想というか。まあエヴァだから出来ることなんだろうけれど。

 そして午前7時には到着した桜木町ですでに開いていた横浜ブルク13へと入って見渡すと発券機がエヴァ仕様。そしてロビーにはグッズ売り場が出来ていたけど1時間も早いだけあってまだ行列はできておらずパンフレットもすんなり買えて劇場にも入れてしばし休憩。500人近い劇場はその時はまだガラガラだったけれども、すでに事前に売り切れになっていたのは知っていたんで埋まるだろうと思って見てたら始まる時には確かにビッチリ埋まってた。すごい集客力。それが午前10時過ぎの段階では、横浜でも午後の中断あたりの回まで売り切れになってたっぽいからなお凄い。まだ評判も立ってない段階にこれだけの関心を集めるとは。逆に評判が立ってからとなったらいったいどうよとも思わないでもないけれど。いやそれは逆の意味で客を引きつけざるを得ないかやっぱり。

 だって違うもん、まるで違うものだもん「新世紀エヴァンゲリオン」と。テレビ版のあのエンディングがあってそして劇場版があってそれを元にしたテレビ版のAirとまごころを君にもあって一段落ついて始まった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」も「序」は第1作目をなぞりそして「破」で新キャラの投入とかあってもだいたい同じ過去をループしてた感があったけれども「Q」で文字通りに急旋回。あるいは急転直下? まるで知らないストーリーとまるで知らない世界がそこにあってその上で、まるで知らないミサトさんやリツコさんや他のNERV指揮所の面々とそうでない禿げとかギャルとかボンデージとか妹とかがいたりして、ここはいったいどこなんだ的驚きを存分に食らわしてくれる。

 対してアスカはまあアスカだしマリはネコみたいだしレイは何番目かかのレイだけれどもレイそのものといった感じのレイ。そして渚カヲルは昔紡いだセリフとややシチュエーションを変えながら呟いては碇シンジくんを横に侍らせ同化させていくけれども、そんなチルドレンたちの割と自分をしっかり持ったというか、持たざるを得ない状況を経てきただけの姿に対してシンジは前よりこれって退化しているんじゃないかって感じのガキっぷり。状況を把握せず把握しようともせず自分の手柄を並べたててはそれが大事と訴え周囲の視線なんか気にしようとしない。まるでガキ。そんなガキに説明して聡そうとしない周囲も悪いっちゃあ悪いんだけれど状況を見ないで突っ走るガキの鬱陶しさの方が勝っていて、もしも街で出合ったらその場でぼっこぼこにしたくなるくらいの気分で終幕までつきあわされるからたまらない。

 途中、立ち直る機会があっても今度は省みず昂揚感を押っ立てて突っ走るこれもやっぱりガキっぷり。その姿にいったい何を仮託させたかったのか庵野秀明総監督は、って思わされるけどひとつにはだから前は引きこもって世の中に出ない自己中心的なオタクどもを狩り、今度は自分の価値観にのみこだわって省みず周囲を見渡さず多様性を許容しない存在を狩ろうとしたのかもって想像も。それはだからこういう映画のこういうキャラクター性を理解しようとしない観客にも向けられたものかもしれないけれど、それでもなあ、「誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します」なんて宣言を前にだしててこれではちょっと気が滅入るなあ。まあでも次があるってことを示した上でのこれだから、救いと開放はそっちに期待するのが正しい態度なのかも。さていよいよ始まる冒険はいったいどんな結末を迎えますことやら。囲まれハーレムな中でついにシンジ君に春が? でも相手は見かけはともかく中身は倍、だしなあ。それもまた導いてくれそうだったりしちゃったり。

 とまあ衝撃もいろいろあった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」だけれど、そんな驚きなんてすでに超えた超絶的な驚きを上映前にもらっていたんで映画は比較的冷静に観られた。じゃあいったい何に驚いたかとうと「HK」に驚いた。なんだそれ。博多の関係者? 違います、HKですそれは網タイツから始まってブーメランパンツへと登りやがてパンティへと至ります、顔面にしっかりと装着された。もう分かるでしょう。変態です。それもただの変態ではありません。変態仮面です。フオオオオオオオオオッ! いやあ興奮した。驚嘆した。まさか実写でこれをやるとはなあ、ということは画面でしっかり「それは私のおいなりさんだ」がアップで映し出されるんだよなあ、期待したいけど問題はそれが“誰”のおいなりさんか、ってところか。実写だし、中身があるんだよなあ、うーん、ってところで漫画の実写となればこの人をおいて他にない小栗旬さんが浮かんだんだけれど、あのイケメンがまさかそんな役なんて、と思ったら何と原作のファンで原作者との対談までしていたよ。これはあるいは。続報を待つ。ひたすらに待つ。

 お陰でユーフォーテーブルの劇場アニメーション映画の情報も吹っ飛んだ中を電車で池袋に出てこっちでは「ちばてつや原画展」を。あのちばてつやさんの原画がわんさかと展示されているという貴重過ぎる展覧会でなおかつその中心が「あしたのジョー」で、さらに誰もが漫画の中での重要な1コマとしてあげるだろうジョーの最後のシーンの原画が展示されているというから凄いというか驚くというか。まさに国宝級。あるいは世界遺産級の原画が警備員を横にも立てず非常ベルに守られもせずにそこにあって、なおかつ間近に見られるのは滅多にないどころか今後ほとんどないかもしれない絶好の機会。萩尾望都さんの原画展でも思ったけれど、機会は逃すと次には来ないのでファンもそうでない人も、行って見ておくのがよろしいかと。ちょうどアーツ千代田3331では荒木伸吾さんの展覧会もあってそこにはアニメーション版の「あしたのジョー」のジョーとか丹下段平の絵も飾ってあるから、歴史に残るアニメのそれと歴史を作った漫画のそれを、同時期に見られる1回きりのチャンスと思い脚をともに伸ばしてみよう。ああ凄かった。

 まず言うなら自分は落ちても構わないから相手を落とすために選挙に出るんだという立候補者にあるまじき意識を満天下で表面してしまえる心性が愚劣で悪辣で、他の選挙に立って政策を訴え、世のため人のためになろうと競い合っている人たちに失礼極まりないどころか、敗れてもそこに住み続け、選挙区を土台とした国民のために資する存在になろうとしている人たちにも劣るのみならずその並びに立てる存在ではあり得ない。というより落ちることすら前提に入れている候補にどうして投票なんて出来るのか。だからそれは覚悟であってぜったいに勝つつもりでいるから応援してくれって後で言われたところで、最初に開いた口から出てきた言葉にどうしても引きずられ、その真剣度への疑いを拭いきれない。拭おうとする気すら起こさせない。

 それからたとえ自分が当選したいからだという理由を前面に掲げたとしても、そこに誰かを落としたいからそこにやって来るんだという行動時代がどうにもこうにも鬱陶しい。相手の悪口をひたすら連ね、相手の至らない部分をあげつって貶めようとする人間が、国政という場に立っていったい真っ当な政治を行えるのか。主張をただとなえ相手を叩き伏せるようなことで内政も回らないし、外交はむしろ逆に閉じてしまいかねない。時に譲り相手も立て自省もしつつ譲れないところは譲れないとする態度のぶつかりあいが、共に栄え富んでいく道を開くのに、自分を正当化しようと相手を見下げる態度では何も動かず何も解決しないって、そういえば「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」でシンジくんが見せてくれたばかりだった。そんな拙劣な言論しか持たない人間を国政に送り込むくらいなら、まだ何か考え政策を回して来た人間を送り出す方が理に適っている。人間として真っ当な分、将来に期待できる。

 そんな立候補者を「刺客」と呼ぶメディアも同様に面倒で鬱陶しい。讃えるにしても茶化すにしても「刺客」なんて品格をおそろしく欠くことばを選挙に持ち出し降ってわいてくる立候補者に与えるのってどうなんだ、だって刺客って「殺し屋」ってことじゃないか、たとえそれがレトリックであっても他人の脚を引っ張りその存在を殺す存在を大っぴらに認め、国政を預ける立候補者に使って平気な心性って何なんだろう、その場の空気をジャスト言い表せれば良いってものじゃないだろう。子供から「刺客って?」って聞かれて「殺し屋だよ」って答えて「殺すの?」って聞き返されて「本当に殺さないけど政治生命を断つ人のことだよ」って答え直していった果てに何か前向きな気分が生まれるのか、何か新しいものを作り出そうとする機運をそこに作り出せるのか。ただの足の引っ張り合い。そういうものだと思わせてどうするんだ。そんな気分。堂々と立って堂々と主張しあい堂々と戦って堂々と勝者が敗者を讃える。そんな風土こそが「美しい日本」だろうになあ。まあそもそもがセレブでテレビ局員ですさまじい給料もらってて空気で当選して流れで降ってくるような候補に投票するなんて気はないし。ずっと雌伏し再起を期して活動して来た自民党の候補だっているし。落下傘だの国替えだの刺客だのといった美しくない連中は、まとめてポイされて欲しいもの。それをするのが日本人の、人間の矜持だってところを見せようぜ。


【11月16日】 日本サッカー協会の会長だった時に川淵三郎さんが当時は不憫だった女子サッカーの底上げを頑張ってやってくれたことには感謝しているけれども今となってはやっぱりいろいろ食い違いも見えているようで、12月25日だなんて全日本女子サッカー選手権大会の決勝が開かれた翌日に女子の日本代表クラスを招いて試合をさせようって話しにどうやら1枚噛んでいる模様。それはサッカーというより東京五輪の招致に向けたイベントみたいで他にも女子レスリングの吉田佐保里選手とかも出るみたいなんだけれど、その2部あたりにチャリティマッチを組んで女子代表クラスを戦わせようって算段で、すでにあちらこちらにレターも出しているっていうから本気みたい。

 仮にも日本サッカー協会の名誉顧問だかにある人間が、日本サッカー界にとってエポックメイキングともいえる皇后杯の下賜を受けての初の大会の翌日に、話題性のある試合を組んで皇后杯を前座なり前夜祭にするなんてことがあるとはとても思えないんだけれど、実際にこうやってあるんだから何というか今の立場でできることをやろうとしてはしゃぎすぎて自分の尻尾を踏んでしまったというか。それののっかる沢穂稀選手も何というかやっぱり足下が見えてない感じがしてどうにもこうにも面倒なんだけれど、せめて出場するなら前日に皇后杯を最高の戦いで終えてその価値を存分にアピールして欲しいもの。しかし前日にそういう大事な試合があって敢えて女子サッカーの試合を組むイベント主催者の下劣っぷりには参るなあ。儲かりゃ何でもやるのかってんだまったくもう。

 「前田敦子はキリストを超えた <宗教>としてのAKB48」って本が、社会学者の濱野智史さんによって書かれて出るとか出ないとかって言われて、キリスト教に対して不遜だとかイエス・キリストを冒涜しているとかいろいろ話題になっているようだけれど、日本って国は、割に宗教の権威に対して鈍いというかあんまり気にしていないというか、大昔に「山口百恵は菩薩である」っていった本も出していたりしたくらい。そんな流れを組みつつキリストを、ひとつの自己犠牲を経て祭り上げられた求心的な存在のシンボルとして準えてみたような印象がある。むしろ天皇陛下であったり天照大神を引き合いに出す方が憚られそうだけれど、アメノウズメだったらその存在を改めて世に問うという意味で受け入れられたかも。いずれにしてもおおらかだ。

 でも、当のキリスト教の人からすればイエス・キリストは天辺に立つ神の子であって、すべての想いの中心に位置する存在、敬い慕い跪いて讃えるべきで、何かと比べるとか準えるとかすらあって欲しくないことで、ましてや貶めるなんてことがあってはならない存在をこうして引き合いに出され、超えたとまで言われてはやっぱりたまらないものがあるんだろう。たとえ迫害を受け最後も磔にされて命を奪われた歴史が過去にあったとしても、そういった受難を経て得た尊敬であり信心を、今さら蔑ろにされてはたまらない。だから怒る。憤る。

 もちろん言論は言論として補償されるべきであるし、ここで繰り広げられている言説が本当にキリストを貶めているものなのか、ってところも鍵になる。あるいは前田敦子さんという存在を持ち上げつつ、それと同時にキリスト教というものがたどってきた歴史なりをふり返り、そうやって培われた権威や敬意を逆説的に浮かび上がらせるような本になっていれば面白いし興味深いんだけれど、昨今の言動とかから想像できるのはAKB48をわしわしと持ち上げつつ、そのムーブメントの核となっていた前田敦子さんの一連の動きを讃えているだけに終わっていそうな予感。アイドルブームの一過性の熱に促されて生まれた書だとしたらやっぱり引き合いに出されたキリスト教もたまらないものがあるだろう。

 問題はそうした言論の自由の範囲を終えて話が広がってしまったことで、こうして引き合いに出されたキリスト教の側の憤りが書いた人のみならず、比較の対象にされた前田敦子さんへと向かいかねないことでそれを当然嫌がるだろう前田さんサイドがどんな反応を見せるのか、ってあたりが今後の展開になって来るんだろう。やっぱり刺激したくないってことで語ってくれるなとプレッシャーをかけるとか、名前というもののブランド価値をたてにいろいろ言ってくるとか。いっそだったらタイトルを買えて「前田敦子はキルスティンを超えた」とかにすれば「スパイダーマン」でふわふわとした存在感を出していたキルスティン・ダントスを前田敦子さんは超えているよねって世間も納得するんじゃなかろーか、って思ったらキルスティン・ダントス、カンヌの主演女優賞をとってたよ。どっちが上だ「苦役列車」の体当たり演技と。

 実は住んでる場所から遠くないところで働いているらしい斎藤環さんが、11月15日の毎日新聞夕刊に「斎藤環の東北」というタイトルのコラムを掲載していてそこで今回は「『嘘つき』がまかりとおる」と題して、東北のとりわけ福島をめぐって取りざたされているような言説への分析と、そして厳しい批判を行っている。なにしろ「この混乱に乗じたとしか思えない虚言者やデマゴーグが、未だにメディアやネット上で力を持っている」とまで書くんだから相当な厳しさ。「それがデマと判明した後も訂正も謝罪もなしに発言を続けているという現実」への憤りなんかも込めつつ、そうした状況が未だ衰えない理由を「この状況は『外傷性の絆』という概念で説明できる」と解説する。

 結びつくデマゴーグとそれにすがる人たちを「それはあたかもカルトの教祖と信者のような関係に近づくだろう」と指摘。「その虚偽が立証されようと、被害者は事実をねじ曲げてでも『嘘つき』の言動を正当化しようとする」とは実に的確で、確かに信じすがる者たちが未だ減らず、むしろ増えてすらいるような状況が、デマゴーグたちになかなか退場を促さない。「デマをデマと認めると、自我が破壊的なダメージをこうむってしまうため、こうした絆を抜け出すことは著しく困難になる」ということも、すがり続ける心理の奥にあったりするのかも。ただ今は、そうした共生関係にあるようでも、やがてすべてが明かとなってデマゴーグがそうだと判明し、信じていた人に対して脱洗脳、脱カルトがたとえ図られることになった時。

 「彼らの孤立と『外傷性の絆』への依存は長期にわたって続くだろう。たとえ依存から脱しても、その後にやってくるのは重いうつ状態や自殺念慮だ」という斎藤環さんの指摘が未来への不安をかきたてる。「『嘘つき』たちが自滅した後、取り残された被害者にも居場所を残しておけるだけの寛容さが必要となるだろう」というのはとても優しい言葉だけれども、信じた者といつまでも信じた者と見なし見下し蔑むこの頑なに不寛容な社会でいったい、どこに居場所を作って上げられるのだろうか。掘り返された過去がすぐさまバラまかれるようなツールもはびこっていたりするだけに、分断され排除されていくプロセスが繰り返されないか、って心配が浮かぶけれども、やらなくちゃいけないんだろうなあ、メディアも率先して、論うことなく。

 しかし「嘘つき」への斎藤さんの憤りとことん辛辣。「かつて同席したことすら恥辱と感じる私の感覚が過敏すぎるのか」と省みてはいるけれど、それとは別に嘘をつきつづける人の心理への洞察には鋭いものがあって、なかなかな退こうとしないその心性を感じさせる。曰く「『嘘つき』のほうも、すでに後に引けなくなっている。彼らにとっては被害者からの支持のみが、唯一の生存基盤だからだ」。生存戦略としての嘘はつまり単なる言い訳であって信念ではないんだけれど、曲がらないはずの信念と違いロジカルに攻めれば変わるはずの言説が揺るがない、ってのはそれだけ生存戦略が難しくなっている昨今の言論空間を示唆しているのか。「被害者の外傷に便乗したという意味で、彼らは精神医学的に最悪の『火事場泥棒』と呼ばれるべきだろう」とまで言われても揺るがないスタンスには食うため以上の何かがあるのか、食うことこそがすべてに優先されるのか。

 なんにせよ「タレントならともかく、学者やジャーナリストなら、一度の『嘘』が致命傷となるはずなのだが、奇妙なことに彼ら『嘘つき』には、今なお一定数の熱心な信者がついている」ということに示唆されているように、信者もいるけどそうした信者をあてこんで、使うメディアなり組織が未だにあるってことが生き延びさせている理由かも。それが正義であるとか虚偽であるとかいったことなんてたいした問題ではなく、どれだけ多くに信じられているかが大事、ってのはこの社会全体にも言えたりすることだよなあ、だからどうしようもなく危ない思想を振りまきながらも、カルト紛いな政党とかに支持があつまりそれを持ち上げるメディアも溢れて世の中をとんでもない方向へと引っ張っていこうとしている。社会全体が「外傷性の絆」によって結ばれたこの国の未来、そしてその先。国全体が「重いうつ状態や自殺念慮」に覆われていったい、どんな社会がそこに繰り広げられるのか。重いなあ。

 しかしいろいろと見えてくる不思議さってのもあるからあるいは踏みとどまれるか。とある政党が立候補するだろう公認候補の人たちに広報費として100万円を出して欲しいと要望。自分が世に出たいんだったら自分でお金を出すのが当然とかいったスタンスは前に供託金も自分で稼いで集めてこいといった話をしたことで分かってはいたけれど、公認して当選すればそれは党にとって貴重な人材となる訳で、そんな人たちに投資するどころか逆に受け取って疲弊させ、当選後にいろいろと活動するだろう歳にいらぬ負担を追わせ兼ねないその態度が果たして真っ当なのかどうなのか。たとえ予定より選挙が早まったとしてもいずれ選挙が行われるだろうことは確実だった訳で、そういう流れを読めもしないでお金を集められなかった執行部が、果たして日本の将来にわたる舵取りを行えるのか、って部分でもいろいろと考えてみたくなる。果てしなく借金して今を取り繕う自転車操業国家、なんてもののビジョンまで見えて来た。面倒なことになって来たなあ。


【11月15日】 リーグ戦という最強のプロチームを決める戦いがある一方で、サッカーには統括する協会が出す最強のサッカーチームを決める大会もずっと行われていて、それが母国イングランドだったらFAカップとして長く受け継がれていて、リーグでは下のディビジョンに属するチームも、頂点に立つプレミアリーグに所属チームも関係なしに戦っては勝敗を競って、そして等しく同じカップを目指す。そりゃあバリューとしてはリーグでの優勝が1番だろうけれど、カップ戦のとりわけ協会が伝統のカップを授けるカップ戦は、価値があってそれ以上に名誉もあるものとして尊敬され尊重されている。たいていは。

 日本だと天皇杯というのが長く行われてきてこれなんか、一時期は日本サッカーリーグが全体に停滞していた時代なんかにはやっぱり価値も名誉も不埋めて日本サッカー界の最高峰にあるカップとして強く意識され、誰もが元旦の国立競技場に立つことを夢みてきた。Jリーグが出来てリーグ優勝こそが至高と見られるようになって、シーズンもオフに迫って開かれる天皇杯には外国人の契約が及んでなくて主力が出なかったり、長いシーズンの終わりに開かれる大会ってことでもクオリティにもいささか鈍化が見られたりして最高峰と言うにはやや口が憚られるところも出てきて、シーズン中に決勝が迎えられるように改善しようといった声も挙がってはいるけれども元旦に決勝というスタイルには代え難い魅力があって改善は進まないまま。それでも長い伝統から培われた栄誉は今も褪せることなく輝いている。

 そんな天皇杯の開かれる元旦に翌日に、そこに出場した選手もおそらくは含まれるだろう日本代表が、U−20のユース代表なりU−23の五輪代表といった下の世代の代表選手たちを迎えて試合をする、なんてことがありえるかというととうてい考えられないって考えるのがごくごく普通のサッカーファンだし古手の人だったら栄誉をかけて精いっぱいに戦った翌日に、試合をさせるのはそれは選手への冒涜でありサッカーへの冒涜でありなにより天皇杯というカップへの冒涜だといってもの申すんじゃなかろうか。あるいはチャリティにこそ本気で臨むとしたら天皇杯は手を抜いたのか、って話しになってやっぱり不興を買う。普通の人でも考えれば連日で真っ当な試合ができるはずがないって分かる。それがいくらチャリティという名分が立っていたとしても、やっぱり宜しくないことだと感じるだろう。なのにだ。

 今年から皇后杯が下賜されて女子サッカー界にとってはとてつもなく重要で価値ある大会となって、是が非でも盛り上げていかなくちゃいけなくなった全日本女子サッカー選手権の決勝が開かれる12月24日のその翌日に、何やら日本代表と下のカテゴリーの代表を戦わせるなんて案が新聞に出て何だこれはとひっくり帰った。連日の試合ってのがまず常識ではあり得ない上に、それが皇后杯の翌日だということが確実に完璧にあり得ない。おそらくは決勝に出てくるだろうチームには大勢の代表なり準代表の選手が含まれている。それが前々日の準決勝を経て1日明けた決勝を戦ってなお翌日にチャリティマッチに臨むなんてことがあっていいのか。体力的にあったとしても皇后杯という今年から始まる大会の価値をこれから作っていこうとしているのに、それに水を浴びせかけるような真似をしていいのか。

 なによりサッカー協会が主催はしていないから、なでしこジャパンという名称が使えないといか書いてある記事の内容が、ますますもってチャリティマッチとやらへの疑義を煽る。サッカーのとりわけ代表が絡む試合に、協会が絡まないなんてあり得ないし、一枚岩でもって野球とは違った運営ぶりを見せているサッカー界がそうした横紙破りを認めるとはちょっと思わない。そもそもが協会は当然のように、皇后杯という貴重なカップを下賜された全日本女子サッカー選手権へと全力をかたむけ、これを成功させようとひた走っているだろう。そんな協会の想いに竿を差し水をぶちまけ、感動のフィナーレを迎えた1年のシーズンのその後に、へとへとになった選手たちを勝手に集めてチャリティマッチとやらを強行するのはいったい誰なんだ。テレビ局か広告代理店か、それとも訳の分からないブローカーか。

 いずれにしても今が女子サッカーの代表の価値を最大限に見ての所業だろうけれど、そんな上澄みをすくって広めて飲ませたところで一過性に終わってしまうのがおち。なおかつサッカーに想いを抱くファンを向こうに回し、そうでない、ただなでしこジャパンが見られるならと前日の皇后杯のことなど知らないで喜ぶファンを騙して開催を強行したところで、後に残るのは不満であり不安であり不審だろう。それでも果たして開かれるのか。24日にすべての日程を終えた選手の“自主性”で参加してもらって試合をするのか。記事になったとはいえ噂の段階のこの試合、果たしてどうなるのか。見守りたい。

 すごいのはPSYかマドンナか。「江南スタイル」が全米のチャートで2位とかに入り各国では1位を獲得して、そしてPVに出てくる踊りを全世界のアーティストからマニアから一般人からマーチングバンドから真似して踊ってたいりするくらいに大ヒットしているのを見てあのマドンナがあのマジソン・スクエア・ガーデンで開かれたライブにPSYを呼んでいっしょに「江南スタイル」をうたい踊ったというニュース。今がまさに瞬なものを取り入れてみせて観客を喜ばせるのはとことんのエンターテイナーだし、そうやって紹介されることによってPSYもさらにいっそうのエンターテイナーとして多く広がっていきそう。

 これから来るアーティストの背中を押す役割を、すでに天辺を走る身として果たしたってことになるけれども一方で日本はともかくアジア圏においてすでにそれなりに名のあるマドンナが、ローカルなヒーローを愛でて取り上げたことでマドンナへのシンパシーも急上昇するこになってそれで売り上げも増えていきそう。クリエーティブ的にもビジネス的にも目配りの利いた一見を果たして誰が仕組んだんだろう。ちょっと知りたい。可能なら次はきゃりーぱみゅぱみゅがマドンナのライブに現れいっしょに「CANDY CANDY」を踊るところが見たいかも。あり得るあなあ。マドンナじゃキツいかなあ。でも50歳過ぎてパンツ見せててそれが結構グッと来たからアリか。

 「ヨルムンガンド」効果って奴なんだろうか武器商人とかが出てくる小説が登場。ってもそう分かるのは後半で始めの方は外国で傭兵派遣会社に拾われ訓練を受けてシールズって特殊部隊にだって入れれるくらいの戦闘技術を持った少女が日本に送られごくごく普通の高校で、ごくごく普通の高校生を見守る仕事につくことになって起こる大騒動といった感じに逆位置からの「フルメタルパニック」がそこに繰り広げられる地本草子さんの「黒猫の水曜日」(集英社スーパーダッシュ文庫)。空回りするミリタリ少女の仕草を楽しんでいたらなぜか周辺に得体の知れない奴らが現れガードしている少年がただ狙われているってだけじゃない秘密を持っててそれが要因となって遠くイスタンブールへと飛び火しての一台バトルが繰り広げられる。周囲には凄腕系の傭兵なんかも配置しているさまはなるほど「ヨルムンガンド」。そして敵と味方の混在具合とかボスを愛する少女のボスに絡む少女への憎悪とかも重なって続く展開ではいったいどんなど派手なバトルが見られるか。幼く見えても超絶凄い殺し屋少女とかも出てるしなあ。とりあえず次で判断。


【11月14日】 ネットにそのシンボルマークが出始めてすぐさまコジマだのヤマザキパンだの日輪仮面だのといった反響が満載の「太陽の党」。というか敵対するはずの公明党がすでに太陽をシンボルマークに使っているのに敢えてこれを持ってきてしまう辺りのセンスは何というかよそ様への斟酌とかまるでなく己の目的のために突っ走る心性って奴が垣間見えてどうにもこうにも落ち着かない。そりゃあ「太陽の党」だから太陽がシンボルマークになるのは仕方がないのかもしれないけれど、その党名自体もどこかに立ってる大きな立像と重なるところが多いからなあ。幾重にも他と重なるその中心で上に出るのか下に沈むのか。デザインとしてもコジマにヤマザキパンに日輪仮面を相手に戦い勝てるとも思えないそのシンボルマークを掲げて果たしてどう戦う。日蝕党とか出てきて前面を覆ったりして。

 テレビの洋画劇場とかロードショー番組から解説の人がいなくなって思ったことは、そうした淀川長治さん的だったり水野晴郎さん的な深くて詳しい解説といったものはネットなんかの狭いけれども深い情報を伝えるに相応しくそうしたものを求める人に届きやすいメディアに移行し、存続していくんだろうってことだったけれども現実は、アクセスこそが大事なネットで狭く深くは御法度だった感じで、むしろ今のテレビじゃできない内容を行って多くにアピールするって方向へと行く感じ。「007カジノロワイヤル」のテレビ放送に関連してニコニコが公式裏番組として放送するのは映画コメンテーターと出演声優のバラエティショーで生着替えとかいった文言すら踊るその番宣から察するに、過去の歴史とかその時の経緯といったものとは違った楽しくてそしてちょっぴり物知りになれる情報とかが流される模様。そうしたニーズがあることは認めるけれどそれだけってのもなあ。未来は理想どおりにはならないなあ。

 作画でアニメーションを観る癖がないから例えば小松原一男さんだから凄いとか、金田伊功さんだから激しいといった感じにより分け見ていたってことはなく、かろうじて「機動戦士ガンダム」以降に安彦良和さんとか湖川友謙さんといった名前を脇に富野喜幸監督のアニメを見たりして、それが永野護さんとかに流れていったといった程度だったから、いったい荒木伸吾さんという人のどこがどれだけ凄いのか、その名前の下に語るなんてことは正直あんまりできはしない。ただ、ふり返って思い出せば「ジャングル大帝」は好きだったし「巨人の星」は食らい付くように見ていたし、「あしたのジョー」も記憶に残っているし「キューティーハニー」は夏休み冬休みの楽しみだった。「ベルサイユのばら」は大流行していた作品として印象に少なからず残っていて、そして「聖闘士星矢」は激しいバトルをその耽美で熱いキャラクターたちとともに毎週楽しく見ていた。

 そう思い返してデータをなぞった時、それらに関わっていたクリエーターとして荒木伸吾さんという名前がどうしても浮かんできて、熱くて純粋でエロティックでクールなキャラクターの強くて深い存在感が、その筆先から生まれてきたものだってことが見えてきて、改めて偉大さに感嘆した。そして2011年の10月に7カ月ほど送れる形で東京アニメアワード2011の功労賞が授与された席上に、その荒木伸吾さんが現れトロフィーを受け取り鋭い眼光を周囲に向けていた姿を見て、まだまだ現役との思いを抱いてそれから2カ月後、予期せぬ訃報にどうしてなんだろうという気持ちが浮かんだおとを覚えている。たまたま「聖闘士星矢」の舞台があってそれに絡めて訃報の記事も書いたけれども、他に大きく取り上げられることもなくその偉大な足跡が、メインカルチャーに偏重したメディアの狭間に置き去りにされてしまうのか、なんて残念に思っていたらこの11月15日から、何と荒木伸吾さんの回顧展「瞳と魂」がアーツ千代田3331で開かれる運びとなって早速行ってきた。

 なんと無料。驚いた。もちろん会場は「AKIRA」がまるまる展示してあったギャラリーではなく地下の一室で、それほど大きくもなく展示作品も限られてはいたけれどもその展示してある品々のことごとくが珠玉。「ジャングル大帝」のセル画があったり「あしたのジョー」の原画があったり「ベルサイユのばら」の原画があったり「聖闘士星矢」のラフ画があったりと見れば浮かんでくるそれらのアニメの動きの一瞬、キャラクターの1面を、1枚の絵に描いてあって見ればそこから躍動する動きが、流れるストーリーが浮かび上がってくる。原画や設定画をコピーしてパネルにしたものもあったけれどもそれだって、1枚1枚が渾身の作画だから見れば感じられる筆遣いに息づかい。「キューティーはニー」でハニーが四つん這いになって目をつむった苦悶の表情を浮かべている1枚なんてもう見るだけでエロティックな衝動がわいてくる。こんなシーン、アニメのどこにあったっけ。

 ほかにも「UFOロボグレンダイザー」とか「ユリシーズ」とか「バビル二世」とかさまざまあったけれどもやっぱり目に刺さるのは「星矢」にかんする展示かなあ、これはパネルでなおかつ姫野美智さんの原画だったけれどアテナが瞑目から目を開く(逆だったっけ)シーンの連続とかその秘められたコスモまで感じられるような美しさ。そんなアテナが横を向いたちょっぴりエロスを感じさせるラフ画は「聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜」のポスターになる前のもので分厚い図録にはそれを姫野美智さんが原画にしたものとそしてポスターになったものが掲載されているんで見るとどう変わっていてどうそのままなのかが分かる、元の絵の凄さも含めて。ちなみにそのポスターはパーテション裏に飾ってあるんでその場で見比べてみるのが吉。物販の行列に並んでしまうと見忘れてしまうかもしれないけれども姫野美智さんの心憎い演出を、味わってみましょう絶対に。

 そして電撃大賞の贈賞式へと向かいずらりと並んだ受賞者の人たちのインタビューを赤いダッフルコート姿で聞いていたけど意外にライトノベルを読んでライトノベルを書いたというよりハリー・ポッターからダレンシャンといった西洋のファンタジーだったりスティーブン・キングだったり上橋菜穂子さんだったりアニメの「風の谷のナウシカ」だったり少年マンガだったりサリンジャーだったりとそれぞれに著名でそして古典的な作品を読んでそれを物書きの方へと引っ張っていったってこと。ライトノベルというかいわゆるラノベ的な書きっぷりなり設定なりキャラ作りなりを学び真似ていくスパイラルが起こっているかと思っていたけど、そうではなくってやっぱり物語は物語であり小説は小説として、同じジャンルの純化では進んでいないってことが分かって面白かった。そうしたたコア層により濃いものを送るより広くアピールできそうな作品を選んで来たこともこの電撃大賞とそして新興でもメディアワークス文庫が世に大きく広がった背景にあるのかも、って思ったけれども時間の間はインタビュアーをしていた人の足とか胸とかが気になって仕方がなかったという、そんな午後。あと審査委員として登壇した時雨沢恵一さんが精悍過ぎていた。何やってあんなに細くなったんだろ。


【11月13日】 ふと気がつくとJ2が終わっていて、我らがジェフユナイテッド市原・千葉は5位に終わってこれで3年連続昇格を逃して、もはやJ2定着かなんて思っていたら何と今年は昇格プレーオフなんてものがあって、6位までのチームは戦って戦って勝てばJ1に上がれるんだとか。J2で6位に沈むチームが上がる可能性だって出た訳だけれど、そんなチームがJ1に上がったところでどれだけ勝てるのか、J1に定着できるのかっていうと甚だ疑問。5位だって似たようなもので1年で復帰するとか吹いて4位に沈んで、2年目6位に3年目と5位とあと一歩どころじゃない順位を続けているいるようなチームが、プレーオフを勝ち抜いたところでって気分が今はたっぷりしている。

 それでもプレーオフに臨めばあるいはって期待も浮かぶんだけれど、まずはニッパツでもって日曜日に横浜FCを超えなくちゃいけないし、その上でさらにもう1チームに勝たなきゃいけない。場所は国立だからナビスコカップを買ってる身には優位かも? って気分もしないでもないけれど、そんなジンクスなんて信じられないこの5年ほど。それより以前に最初の横浜CFは、レジェンドなカズこと三浦和良選手もフットサルのワールドカップから戻って花道をJ1でなんて思って来るに違いない。勝てるのか。勝って良いのか。もう1年2年鍛え直して選手層も分厚くして臨む方がチームの10年のために良いような気がしてきたなあ。西野監督しばらくやってくれないかなあ。

 しかしスポーツ新聞もウクライナに負けて上位進出を逃したフットサルのワールドカップに参加していた三浦選手をさしてカズのW杯終わるて話をメーンに持ってくるとは何というか本末転倒というか。これまで出場権を争い戦って出場をしてそして活躍をして決勝トーナメント進出を決めた原動力はフットサルをずっとやって来た選手であり率いた巻頭な訳でそういった人たちをさしおいてのカズ選手の持ち上げは、フットサルのチームに失礼。そしてカズ選手は本来はフィールドでのサッカー選手で未だに現役として2014年のワールドカップを目指していることを広言している。そんな選手をさしてワールドカプは終わったなんて書くのはやっぱり失礼極まりない。

 どちらにも失礼なことを臆面もなく書いて報じられる無神経さってのがドラマ性ばかりを優先してスポーツの本質を蔑ろにする日本のスポーツ新聞あたりの習い性になってしまっているんだろうなあ。そして本質を求める読者の思いと乖離していく、と。もうずっと言われているのに変わらないのは何でだろ。メジャーリーグに行く気満々でいたら親を相手にメジャーはダメですって資料を並べ立てて説得にかかる球団の態度を論理的で正当だって感じに報じるセンスだもんなあ、それはビジネス的って言うんだよ。でも将来の取引先でもあるメジャーの悪口を言ってるんだからあんまりビジネス的でもないのかな。いずれにしても未熟あるいは時代遅れなスポーツ界を取り上げるスポーツメディアの未熟というか時代遅れぶり。それをアイドルのグラビアでカバーしている昨今。未来は?

 そうかiTunes Sotreにソニー・ミュージックエンタテインメントの楽曲がやって来たってことは村下孝蔵さんの楽曲も来てるんだと調べたらやっぱり来ていた名曲の数々「松山行きフェリー」に「ゆうこ」に「初恋」そしてアニメ「めぞん一刻」に使われていた「陽だまり」等々、聞けば染み出る叙情と哀愁、それを美声でもってアコースティックをバックに歌い上げる村下さんの歌は時代を越えて多くの人を動かし続けている。それがネットから買えるんだからもう最高、CDとか持っているのもあるけれどもここで購入してiPad miniにぶち込み「ひらひら花びらの舞う」のところで手をひらひらさせてみたいものだなあ。でもここはギターの名手の腕が冴えるアコースティックライブが入ったアルバムか。

 あれはたぶんNHKのFMか何かでスタジオライブか何かを放送してそこで村下さんがアコースティックギターを使ってベンチャーズの「キャラバン」を一人で演奏していたのを聞いた記憶があってそれはそれは素晴らしいものだった、ドンドコドコドコという音に始まってそして奏でられるあの旋律。どうやって弾いているんだとネットなんかで映像を見たらドンドコはボディを叩いているんじゃなくって弦をたぶんゆるくおさえつつひっかくように叩くように音を出していたみたい。旋律については超絶技巧の連続。それであの曲をやってしまうんだからベンチャーズの人だって驚くし感心するしリスペクトだってするだろう。それだけにやっぱり惜しいとしか言い様がないその急逝。存命なら。なんて思うのは尾崎豊さんも同じか、共に須藤プロデューサーの下で開いた才能。伝えることが同時代を生きたリスナーの務め。

 女性ライターがいて彼氏の銀行員がいて編集部にデスクがいてベテラン記者がいて。色白の穏やかな青年がいて商社に勤める先輩の男がいて合コンしている2人の女声がいて。そして女性ライターの家に宅配便が届いて始まる猟奇なストーリー。石岡琉衣さんの作家デビュー第2作となる「白き隣人」(新潮社、1600円)はとにかく読ませる。読ませ切る。女性ライターは猟奇手前の人を取材してきた経験があって、それに絡んでの嫌がらせかと思う。けれども電話して探っても誰も該当せず調査の壁に行き当たる。誰が荷物を送ってくるのか。その目的は何なのか。一方、色白の青年は合コンで彼に興味を抱いた女性に接触されるものの絵を描きハンバーガーから肉だけ食いコワモテにも動ぜず不思議な言動で相手を退かせる。彼はいったい何者だ。親切なだけの青年ではないのか。

 平行して進む女性ライターと、色白の青年とのストーリーがやがて交錯してそして浮かぶ女性ライターの周辺で起こった猟奇の原因。そして明らかになる不思議な青年の本性。女性ライターが見まわれた喧噪の日々を一気に冷ます戦慄が「白き隣人」という物語の終わりに待っている。怖い。けど読んでしまう。1度読み始めればページを閉じることも本を置くこともかなわないくらいに読ませるこの小説。。女性ライターの仕事ぶりやライターで食べていく大変さなんかリアルだけれど、それ以上に”白き隣人”の心性に興味が及ぶ。づすれば生まれるのか。そうせずとも生まれるのだ。彼らは。ライター仕事をしている人に。そして不倫をしている人に。自分が生きているってことはどういうことか分からない人に。人を殺すってことがどういうことか感じられない人に。「白き隣人」という小説を読ませたい。きっと何かを感じるだろうから。常識のこちらがわにいられる幸せを噛みしめよう。でも知らず踏み終えていることにふと気づいて戦慄しよう。これは優れた人間ドキュメントだ。そして戦慄のホラー&サスペンスだ。


【11月12日】 ガーターベルトの奥とかどうなっているか確かめたいし、サイン入り色紙も小野大輔さん演じた京極のが欲しいんで、もう1回くらい見に行く予定でいる映画「ねらわれた学園」をより詳しく感じるためにやっぱりもう1度読んでおくたかと探して手に取った青い鳥文庫版の眉村卓さんによる「ねらわれた学園」(講談社、620円)を読んで巻末に出てくる関耕二って主人公の少年の父親が、耕二に向かって言った「それは超能力であろうとなんであろうとかまわない。理不尽な力で、一見理屈に合っているようなことを押しつけているものならなんでもいいのだ。それは、いつの時代、どんな場合にでも、長い準備期間をかけてひそかに用意され、一挙にあらわれて、われわれを制圧する。そして、それが組織化されているものであるがゆえに、あと、長く、猛威をふるうのだ」という言葉に打ちのめされる。これは本当に1973年に書かれたものなのか。今まさに起こっていることに警鐘を鳴らした言葉じゃないのか。

 耳障りの良い言葉を面ね甘言を弄して慰撫しつつ、自分たち以外のどこか弱者を敵に見立てててそれらを貶め虐げることで団結し、世に出てさらに分断と排除を繰り返していく所業におそらくは出るだろうと想定される集団に対して、それでも起こらない大いなる反攻の機運。それはだから文字通りに長い準備期間を経て人々を籠絡し、一挙に世に出て制圧しようとしているもので、結果始まった息苦しくも鬱陶しい社会は「長く、猛威をふるう」ことになりそう。そのことに今、このタイミングで気づかせてくれる機会につながるって意味で、アニメ版「ねらわれた学園」が公開されたって意味は多いにありそう。あの意味が分からない映画を観て、これってもしかして原作の続編かもと思った人が原作を手に取り、繰り出される理不尽な正義との戦いと、そこでの勝利の物語から何かを得て、さらに関耕児の父親の油断を諌める言葉から安心を捨てて身構え挑む戦いの果て。理不尽は退けられて自由で住み良い社会が来ると思いたいんだけれどどうもなあ、そうはなりそうもないんだよなあ、朝日新聞出版の社長辞任とかって話も飛び込んで来たしなあ。どうしたものか。どうにもならないのか。

 電撃の20年とかを記念して電撃絡みのアニメーションが上映されるお祭りがあるみたいでそりゃあ是非とも大画面であの「住めば都のコスモス荘 スットコ大戦ドッコイダー」を見たいなあ、あるいは「フタコイオルタナティブ」のハイテンションなやりとりを見たいなあ、と思って上映ラインアップを見たらどっちも入っていなかった。何でだよう。今をときめくユーフォーテーブルが世にその作品力を問うたアニメって意味でも上映する価値があるとは思うんだけれど今となっては知る人ぞ知る作品だからもっと世に知られた作品に傾くのも仕方がないってことなのか。そんな中でも「シスター・プリンセス」と「シスター・プリンセス Repure」が入っていたり「スターシップ・オペレーターズ」と「ブギーポップは笑わない Boogiepop Phantom」が入っているのは嬉しい限り。「スターシップ・オペレーターズ」は今ひとつ出来がアレで評判にならなかったんだけれど川田まみさんの主題歌が格好良かったし、「ブギーポップ」は原作との差異で叩かれたけれど僕にはとっても面白かったし主題歌はスガシカオさんだった。それが思い出されるだけでも貴重な機会、BDボックス化とかの布石になればとも思うけれども、どうだろう。

 すごいなマリアンデール、あんな量の料理をほとんど1人で作りきってしまって、けれどもそれを食らう姫の凄まじさの方が上回っていたみたいで大皿いっぱいに守られたスパゲティが一瞬でどこかへと消える。まるで異次元に吸い込まれたように。そんな不条理を姫の頭に3本出るというアホ毛に託して描いたスラップスティックな「イクシオンサーガDT」だったけれどもそうやってアホ毛が出ていったい何になるのかがほのめかしい留まっていて、爆裂していく笑いを楽しむってよりはどこか見えない不気味さを味わう方へと流れてそれはそれで含蓄はあってもやっぱりちょっとスカッとはしなかったといった印象。河童みたいな暗殺者も強そうな割にただ振りまわされるだけで結局何もできなかったし。寝ている姫なんてひとくちだろ? でもそれすら出来なかったのは何があったからなのか。あとで橋の上で釣り糸誑しながらただ怖かったと言われてもなあ。まあそういうシチュエーションで楽しませるコメディもありってことで、いよいよ次は久々にEDが登場してDTと対決。場所は玉造温泉? ってのは島根県に実際ある温泉か。たまつくれ温泉だったっけ。ともあれいろいろ話しが進みそう。マリアンデールは男湯に入るのか女湯に入るのか。それも問題だ。

 センスがあるのかそれともないのか。石原慎太郎前東京都知事が新しく立ち上げる政党の名前が「太陽の季節」の小説の題名からまんま取ったように「太陽の党」になりそうだってことでそれはまああり得ない訳でもないけれども55年も前のデビュー作を未だに代表作として引きずるってのは作家としてどうなんだいって気分もあるし、芥川賞こそ受賞したもののむしろ石原裕次郎が出演した映画として有名になった題名にこだわり続けるってのも兄貴としてみっともが良いかって話しにもなってちょっと使うに辟易としそう。もうひとつはやっぱり岡本太郎さんが万博に立てた「太陽の塔」との絡みでそれと同じ語感をまんま引きずった党名が世間に苦笑されずに受け入れられるかどうか。情報によれば太陽の塔自体が平べったい天井をぶち破って建てられることを知って、小松左京さんが「太陽の季節」のタイトルを挙げたところ岡本太郎さんがそれだと飛びついたとか。元祖はだから小説なんだけれどそれを逸脱して金字塔となった言葉をルーツが引き取るというのもあんまり格好いい話しじゃない。そもそも羽田孜元総理が「太陽党」ってのを前に作ってたじゃん。そんな使い古された言葉にこだわりしがみつくところに、あの人の心性ってのも見えてしまうなあ。でも世間はそんな心性をナイスを持ち上げるんだ。気持ち悪いなあ。


【11月11日】 えっと淡島世理さんあなたいったい何を飲んでるの。それまでのミニスカに胸元も大きく開けて剣とか振りまわしていたいさましい淡島さんがいきなりフェミニンなスーツ姿で現れてはドライマティーニあんこ入りなんてものをご所望してなおかつ飲み干していたのを見てこの女、やっぱりただ者ではないとおもったアニメ「K」。シロの得体の知れ無さがいよいよ際だってきたようでやっぱり無色の王ってのは何かになれる力があるのかそれを持っているのはネコなのか、なんて懐疑をはさませつつ展開はとりあえずシロの称大佐がしに向かいそう。そこにやってくるセプター4の面々と、クロとのバトルもあったりするけどやっぱり見たいのは淡島世理さんのその剣戟。というか変身バンクな回転ポーズ。それが毎回見られるんだったらブルーレイだって買ってもいいなと思っていたら放送始まったばかりなのにもうBDがそれも2巻そろって出ていたよ、どういうビジネスなんだこれ。短期決戦モデル? それよりやすくした方が良いんじゃね、的な。幾らだったっけ。

メジャーに行って高校卒の選手がすぐに活躍できる訳ではないけれど、それは日本のプロ野球に行って高校卒の選手がすぐに活躍できる訳ではないのと同じ。そこに本質的な差異はなくってたった数年で首になって後はどうなったか消息不明なドラフト選手だってわんさか過去にいたし、今なお現在進行形で高校野球の王子様を大学を経てとってそしてめった打ちの憂き目にあわせ、なおかつそれでも表舞台へと引っ張り出しては恥を掻かせ続けている球団が、メジャーにいっても成功できるとは限りませんよという過去のメジャーに行ってしっぱいした人たちの事例を、並べ立てるその行動はビジネスとしてはともかく、果たしてスポーツとして正しいのかどうかって疑問も立ったけれども、それ以上に薄気味わるかったのが、そうした球団の行為を「理論的交渉術」などといって持ち上げるスポーツ新聞のジャーナリズムとしての腑抜けっぷりが、目にあまってどうにもこうにも腹立たしい。

 誰がどういう理由で失敗したかなんて関係ない、問題はその投手がどれだけの実力があってどういうプロセスなら成功するか、あるいは失敗するかであってそれを「論理的」に説明して、メジャーには行かない方が良いよと説得したということは、その球団はメジャーに行っても「論理的」に成功しない実力しか持たない投手をドラフト1位で指名したってことになる。もしもその投手に本当に実力があるんだとしたら、メジャーだってそれをぶちこわして貶め葬り去るようなことはしないだろうし、本人だって実力を積み上げその上に努力と鍛錬を載せて、他とは違った成功への道を歩むだろう。そうなる可能性を説明するのが「論理的」ってものなんだけれど、この球団は他の誰かが失敗した事例だけを並べ立て、その投手も失敗するかもしれないと言ったことの、いったいどこが「論理的」なのか。スポーツ新聞の言葉の使い方はそもそも間違っているし、そうした交渉を行おうとしている球団もやっぱり間違っている。それはスポーツ人として正義であるかどうか以前の問題だ。

 そしてやっぱり敵となりそうな相手の悪口を並べ立てることで、自分の方へと関心を向けさせようとする行為はやっぱり気持ち悪いしみっともない。それを一般社会でやって果たしてそうした企業は正しい態度と認めてもらえるだろうか。あっちの水はにがいといっってこっちの水は甘いとさそう格差広告、あるいはネガティブキャンペーンを行って潔しと認めてくれる風土にまだ、この国はなってない。あるいはそう思いたい。商品ならまだしも少年少女がいずれはと憧れるプロスポーツの頂点を自認する場で、正々堂々からかけ離れた行為を行ってそれが正当と認められるはずがないし、もしも認められるとしたらよほどこの国は根っこが腐っているってことになる。そしてそれを「論理的」などと褒め称えるメディアの根っこも。どうだろう。メジャーだって良い気持ちはしないだろう。自分のところに来たら選手は潰されると言われたに等しいこの暴論を、受けて誹謗と訴訟でも起こされた日には日本球界、傾きかねない。そこまではせずとも反論の材料には事欠かない訳で、そんな泥仕合を招くような所業に最初に出たという時点で、この球団はもはや何か口を開く資格はなくなった。そう思うけどでも日本のメディアはそれを書くことはないんだろうなあ。

 ジャンバラヤを食べにデザインフェスタへ。まずは記事になった「monjack」の店へと新聞を配達してそれから「Kamaty Moon」へと立ち寄って、噂の木製斧ってのを見せてもらって手にとってふりまわしてヴァンパイアを狩るぞ俺はリンカーンだごっこをしようとしたけど人目もあったので遠慮する。大きさもちょうど良い上に木だから軽くて振りまわすのにはベストだけれどそれやったらやっぱり御用になってしまうから。というか買っても持って帰る途中で御用とかになりそう。なので今回は断念しつつ2月とかにあるワンフェスに出るのを期待して、そっちで買って持ち帰ろう。幕張メッセからならきっと大丈夫、似たような恰好をした人がいっぱいいるから、ってそれは館内のコスプレイヤーだ。まあでもベルセルクの「ドラゴン殺し」よりは安心して持ち帰れるかな、あれってどうやって持って帰っているのかな(宅配だろうなやっぱ)。

サムライロック!  そういえばふり返ってみれば鎌田光司さんがデザインフェスタに出たのって2007年11月が最初らしくってその時に記事にしてからだいたい5年か。当時から凄まじい造形力を発揮していたけれども衰えずむしろ広がるキャラクター世界でもって完全に多くのファンを得たみたいでデザインフェスタでもワンダーフェスティバルでもいつも人だかりができている。monjackもデザインフェスタで数年前からみかけて当時から凄いなあと思っていたらあれよあれよの大人気。もっと以前にザリガニワークスとかパンダーZとか、デザインフェスタでそれなりに名を挙げ世に出ていったクリエーターとかキャラクターもいたりしたけどそうした系譜は未だに続いているし、アイディアも造形の幅も広がっている。けど一方でメディアでそうした事例が取り上げられることはやっぱり少ないのは何などうなあ、足腰が弱ってきているのかなあ。というかデザインフェスタに通い初めて12年とか経っていてもメジャーなメディアで大々的に取り上げられたのってあんまり見てないんで、これは昔からってことなのかも。滅びる訳だよ、メディア。

 サイケなTシャツのOTACCIMANにも寄って眺めてから4階へと上がってアジア村な屋台村でもってジャンバラヤを購入、鶏肉にソーセージに牛串まで載ったゴージャスな品で食べていると野生が爆発しそうになって来た。昼過ぎになると大行列で買えないんだよこれなかなか。ベーコン串にも手を出したかったけれど手元が不如意なんで諦め館内をあれやこれや見て回ってリアルアニマル製作所ってところでネコとか犬とかワニとかいた動物の超リアルなフィギュアを眺めて感心、シュライヒにだって負けてないどころかシュライヒ以上の造形力でもって動物たちの瞬間の動きをフィギュアにしていて面白かった。聞くとワンフェスにも出ていて海洋堂とは違うアプローチかもって海洋堂の人からも言われたとか。それもそれで凄い。値段が張るのは手作りな上に目を塗装にせず象嵌にしているからか。それだからこそのリアルあ。こだわりにはお金がかかるのです。

 あとはやっぱり好例の和装侍系音楽集団MYSTの演奏を聞いてデザインフェスタ気分を満喫。アンプが使えずマイクも使えない中で導入した声を反射させ後ろにもあてて大きく広げる装置の効果もあったけれども今回は、トーク以上に歌声が遠くまで響いて聞き入っている人も多かった。ファンが広がったかな。1月にはまた渋谷でライブもあるみたいなんで是非に行こう。なにより新しいCDも出るというかCDの形にするのかな、それとも音楽配信で行くのかな、いずれにしても楽しみ。印象として客層も変わり出ている人たちも変わっていてもデザインフェスタの挑戦的なスタンスってのは変わらず行けば必ず何か新しい発見があり、頑張っている人たちのエネルギーが感じられるイベント。そして他では買えないものが手に入り、それがいずれどうなるんだろう、なんて想像する楽しみも味わえる。脱サラして挑んでいる人もいるし学生なのに出展してこれから世に出たいという人もいる。そうした人たちを包含してその場に集め表現させる貴重なイベント。続いて欲しいし、それより以前に続くだろうなあ、その限りにおいて、通い続ける。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る