縮刷版2012年10月中旬号


【10月20日】 なんだって週刊朝日の編集長は大阪市の橋下徹市長に直に謝りにいこうとしているんだって? 早速ツイッターで橋下市長がそんなことを明らかにした上で公開の場でなければ応じられないとかいって完全に相手がひれ伏すと分かっているシチュエーションで、自分の強さを世に喧伝しようとしている雰囲気がありありで、やっぱりそういう人だったんだなあと週刊朝日に書かれていた、そのパーソナリティとの符号ぶりなんかをヒシヒシと感じる。これが例えば記事の内容に関する討論だったら公開の場でやって当然だけれど、何がどうなるか分かっている場、そして相手を慮る心情があれば効果の場で土下座なんかさせないだろう。結局すべてを自分のために使いたいんだろうなあ。

 けどやっぱり嘆かわしいのは堂々の連載を即座に打ち切った週刊朝日の弱腰ぶりか。覚悟もないなら始めるな、終えてすべての責任を取れ、って世間が言うのもよく分かる。そもそもが被差別地域の所在を明らかにしたことを謝っているなら、それは世間に対して謝るべきで、その人間性を糾弾したかった橋下市長に謝る筋合いなんてない。なのに謝りに行くってのは、親会社を”人質”にとらえそのプレッシャーを食らって謝らざるを得なくあんったって状況が見え見えで、そこにや編集権の独立だとかいったお題目何て完璧に吹き飛んで、親会社の走狗としての立場しか見えない。だからとっても対応として拙いんだけれど、それを自覚する余裕すらないなろうなあ。かくして朝日新聞のジャーナリズムや圧力をかけた新聞も、かけられひれ伏す雑誌もともに地に落ち海に沈んだ、と。情けない。ただ森口氏の一件で大間違いを犯した今のメディアにそのミスを糾弾する資格なんてどこにもない。どの面下げてよそさまのミスなんて糾弾できるんだ、できるとしたら厚顔無恥は単なる無知。けど本当に1面コラムで糾弾しているところがあるなよなあ。参ったなあ。参っている場合じゃないんだけれど。

 金曜日の新聞にはだいたいその週末に公開される映画の紹介が大なり小なりのスペースでもって載っているんだけれど、これら普通の新聞のどれを読んでもまるで欠片も紹介されていなかったら、もしかしたら新聞に載せられないくらいに面倒な内容の映画なのかと思った劇場アニメーション映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」を劇場で朝早くから観たら、無茶苦茶面白食ってこれでいったいどうして新聞各紙が紹介してないんだという疑問とともに、面倒なのはもはや映画そのものではなく映画の内容を推し量れない新聞そのものなのではないかといった結論へと思い至ったけれども、果たして真相やいかに。まあだからこそ世間の空気から乖離して続々と背を向けられていたりするんだけれど新聞。仮に未だにサブカル面があったならば確実に紹介してそれも大々的に紹介して十分な内容と広がりと重さをもった映画だったよなあ、まさしく映画といった面もちだったよなあ。

 実をいうなら原作は未読でライトノベルから遠く離れてしまった桜庭一樹さんを追いかけてようとする気分がちょっと届かず、直木賞受賞後の作品をあんまり読んでなかったりするんだけれどもこの作品についていうなら映画になった段階で、もう完璧なまでのエンターテインメント作品として仕上がっていて、江戸の街を舞台に山から下りてきた浜路って名の猟師の少女が、“伏”っていう人に害を成す犬と人間との間に生まれた存在を狩る仕事に就こうとしたものの、最初に出合って助けてもらったのがその“伏”のひとりで、それを知ってか知らずか追いかける羽目となっていく過程で、彼らの寂しさに気づき自分の寂しさにも気づき、近寄りあって重なりあってそして離れていくけど繋がり続けるボーイ・ミーツ・ガールの感動を、与えてなお気持ちいい余韻を残してくれる映画だった。

 こんなにワクワクとして観られてドキドキとして観られてそしてニコニコとして帰れる映画ってそうはないぞ、アニメーション映画に限らず。なのにどうして大手マスメディアはこの存在を伝えようとしないのか? できないんだろうなあ判断が。他の基準がないと、細田守監督ですら宮崎駿監督の後継者という文脈でしたバリューを載せられないのが今のメディアなんだから。でも桜庭一樹さんという直木賞作家の本が原作になっているというだけれで、1つ2つバリューが載っているはずなのに、そういった文脈でも紹介がないのは謎。芥川賞作家の西村賢太さんの「苦役列車」は割と一所懸命に各紙とも取り上げていたのに。それは前田敦子さんという出演者のバリューでもあるのか、でもヒッとしなかったけど、そういうものだよなあ、今の映画が置かれた状況っていうのは。「桐島、部活やめるってよ」だって苦戦するんだから。大変だなあ。

 その点でいうならアニメはまだアニメってジャンルについてるファンがいるから、アニメならだいたい見に行くって感じである程度の土台は稼げそう。でもその上に積み重ねて宮崎駿さんへと至らせるには、やっぱり多くの露出が必要。それを「おおかみこどもの雨と雪」で成し遂げた細田守さんは大層なものだけれど、そんな細田さんの「時をかける少女」の域に近づいているというか、個人的には「おおかみこども」よりも面白いと思った「伏 鉄砲娘の捕物帳」を作ったのは、宮地昌幸さんというこれが劇場初監督。というより普通にシリーズだって「忘年のザムド」くらいしかやってない訳で、それがどうしてこれだけの作品を作れたのか? そこを聞いてみたかったし誰かに聞いて欲しかった。映画というものの心得があったのかなあ、大河内一楼さんの脚本が素晴らしかったのかなあ。ムック本とか出ないだろうなあ、でも文藝春秋の映画なんで出さないとも言えないなあ、やっぱり出ないかなあ、むう。

 ともあれ「伏 鉄砲娘の捕物帳」はまずもってokamaさんが担当しただおるビジュアルデザインが素晴らしくって、実在した江戸って空間を独自のスタイルとカラーで描いてそれでいて江戸らしさって奴を失ってないところがとても良い。絢爛で楽しげで暮らしている人たちの誰もが生き生きとしていて、明日に向かって確実に脚を踏み出している街って印象を感じさせる。ただ1ヶ所、吉原だけは苦役の街としてそこに入った女郎は出るときは身請けされるか死んで亡骸となって捨てられるかといった悲惨さをのぞかせていたりして、決して物語の世界が架空のふわふわとした世界ではない。ちょっとしたシリアスをのぞかせることで作品に重さが出るのだ。

 それにしても、いったいどういう話し合いからああいったカラフルな江戸になったなろう。okamaさんに聞いてみたいところ。それからキャラクターたちもとっても楽しげ。萌えとは遠いデザインだけれど先鋭とも違うしもちろんジブリ系とも違う。それでいて違和感を覚えさせずすんなりと人間だなって思わせる。子供たちに見せて喜ばれそうなデザインだけれどただ話の底辺に流れるテーマが思いの外ヘビーなだけに、子供に見せてすんなり受け入れてもらえるのか、といった部分で親たちは考えを巡らせそう。だって冒頭から1つの死が描かれてそれは猟師と獲物という関係だけれど生きている物を殺して食らい人間は生きている、その事実を見せつける。そして死んだ爺さんを思いなく猟師の浜地の姿がいつか来る離別ってものを感じさせてしんみりさせる。

 祖父がいたなら2人で空けられた鍋も、浜路1人では食べきれないその切なさ。けどそこに江戸から手紙が来て兄がいて、浜路を呼んでいたので勇んでいったところで直面するのが伏なる犬と人間との間に生まれた存在を狩り殺しているという状況。なんで伏が江戸にいて、そしてどうして将軍様は伏たちを狩るのか、そりゃあ人の魂を食らう存在ではあっても、そうしないで生きていた伏もいる。決して悪い存在ってばかりじゃないのに、どうして将軍様はそれほどまでに目の敵にするのか、ってあたりの説明が映画ではやや薄い気がしたけれども、何者かに取り憑かれたその結果、と考えることで納得もできるから良しとしよう。

 狩る者と狩られる者の関係はどこか「ブレードランナー」のデッカードとレプリカントたちを思い浮かばせる光景。諦めつつ嘆きつつ生きていた証を見せつつ、死んでいく伏の心情を思うと相手がたとえそういいった存在でも涙が滲む。さらに優しくて親切で格好良かった相手を、伏だからと狩らなくてはいけなくなった浜地の心情。そのあたりをどう折り合いを付けるのかといった点で、ちゃんと主人公の伏に生きていて良い理由を与え、浜路に彼を好きになって良い理由を与えることで入れられない者どうしの悲劇といった展開を回避し、優しくて嬉しいエンディングへと導いていってくれる。良かったなあ。遠く離れていたって繋がっている。その大切さって奴を冒頭の生死に別れた猟師と山犬との関係から、ずっと底流のように描いて示す。やっぱり宮地監督、巧者だよ。

 そんな浜路を演じる寿美菜子さんは、どこかボーイッシュな鉄砲娘を一所懸命に演じて可愛らしくて凛々しかったし、彼女のことを瓦版に描く冥土を演じた宮本佳那子さんはたくらみと幼さを併せ持った不思議なキャラを、不思議な声で演じてくれた。何より信乃を演じた宮野真守さんが、淡々としつつ内に衝動を秘めた伏のひとりをしっかりと表現。クールさの中に寂しさを秘めた「009 RE:CYBORG」の島村ジョーとはやっぱり違うその演技ぶりに、人気声優の実力の凄みって奴を見た思い、いや聞いた思い。良かった良かった。良かっただけにやっぱり大勢が観て欲しいけれど、これで公開されて口コミも広まって大勢が観てくれるようになるのかな。そうなって欲しいけれどもままらならいのが映画の興行だからなあ、「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」だって話題になりながらも興行的には……。それを繋げるメディアの役割、もっと果たして欲しいなあ。

 そして場所を変えて「マクロスFB7 銀河流魂 オレノウタヲキケ」をみた。「俺の歌を聞け」といった何度聞いたことか。なるほど宣伝なんかには「マクロスF」からの面々も出ているけれども大半は「マクロス7」の総集編でおそらくは間もなく発売になるブルーレイボックスのプロモーション的映像作品といった雰囲気。途中に「マクロス7」とは何か? って解説めいた映像なんかも入ったりしてみればボックスが欲しくなる、かというとこれで十分に見切った気持ちにもなってしまってだったらいいかな、ってなってしまうかもしれないところが悩ましいところ。とはいえあの時代にファイヤーボンバーと熱気バサラの存在感に当てられた人には、それを甦らせてくれる映画でそして作品への愛を再確認させてくれる映画。きっかけとなる可能性もないんじゃなかろーか。

 見て思ったこは、最初はこれだったんだなあ、といった感想か。最初ってのは後に「マクロスF」でもって大々的に展開される歌が戦いに勝利するってシリーズでも芯になってるテーマでそれは初代「マクロス」の時代から受け継がれれていたものだけれおど「マクロス7」ではそれがかつてないほどメーターを振り切る形で表現されていたんだってことを思い出させられた。見ればあの当時に抱いた妙な気恥ずかしさにムズムズした気分が甦り、「マクロスF」なんて緩い温いマクロスだったんだなあといった苦笑も浮かぶほど。もしも未だ「マクロスF」しか知らない人が見たらいったいどう思うのかをちょっと聞いてみたい。やっぱり笑うかな。それとも凄かったんだなあと驚き感心するかな。

 「マクロス7」も知っていて「マクロスF」も好きな身が見た映画の感想といえば、最初はそういう時代もあったなという苦笑混じりの気分が漂っているんだけれど、見ているうちにだんだんと歌の力とやらに感化され、バサラが歌うと気も高揚してともに歌いたくなり感涙に至るから不思議というか。つまりは貫き通せば人は必ず心を動かされるのだということをこれほどまでに愚直に表現した作品はなくって、それが最後の場面とかで迫る危機の中で発揮され、そして多くを殺めることなく敵すらも好くって終える展開が歌ってやっぱり凄いなあ、そしてマクロスってやっぱり面白いなあって思わせる。その意味でも見ておくといろいろ語れること請負な「マクロスFB7」。総集編として云々するよりアニマスピリチュアとはこういうものだと感じるアニメ。時間があったらまた行くか? BDとかで家で見てればぜったいに途中で止めるから。


【10月19日】 そうかGoRAの7人いるとかいうライターの1人だったか古橋秀之さんがそんなGoRAが脚本を寄せているアニメーション「K」のノベライズを講談社BOXから刊行。その「K SIDE:BLUE」を読んだらまだ若くて至らないところもいっぱいあるけど才能もありそうな青年が、伝説の剣豪によって鍛えられてその才能を伸ばして日本を守る組織の先鋭へと上り詰める話だった、途中まで。そして明かされるその運命、そして語られるその存在意義。つまるところは世界にとって重要なことのために踏み台となり捨て石となり呼び水となる存在が必要だって話で、それをほのぼのとして前向きな物語の中でやってしまって踏み台を外す古橋秀之さん、やっぱり容赦ないなあ。

 「K」ってアニメ自体はセプター4って何か異能の力をもった集団が方や刀をもって正義をつらぬき、こなた吠舞羅ってスケボーでバットを振ったりいろいろ異能の力を発揮して悪さをしたりする集団があって、そんな狭間で当人はいたって平凡な伊佐那社って少年が、犯罪の首謀者と見なされ追われる途中で猫なのに美少女と出会ったり、刀を振る正義の側にいそうなのに妙に料理がうまかったりする夜刀神狗朗って青年と出合ったりしてさてこれからどうなるか、といった展開。小説版ではそんな中でも刀を持った正義の側にある組織の宗像という長が、片腕の剣豪を表舞台に引っ張り出そうとしてその過程でひとりの青年が弄ばれたといった感じ。当人にそんな意識があったか分からないけれども結果としてそうならそうなんだろう。それが酷いか否か、自分にとってできる最大限のことをしたと見るべきか、分からないけれども何にも役に立たない人生を、考えればあるいはそれもありなのかも。とりあえずイラストではセプター4でも紅一点の淡島世理さんがぱつんぱつんで宜しいよろしい。最後のイラストの下から煽ったとことろも絶品。アニメではどこまで活躍してくれるんだろう。楽しみにして見よう。小説でも主役の巻とか出ないかな。誰が書くんだろうな。

 いよいよもって紙の雑誌もおしまいみたいで、アメリカでは伝統もあれば歴史もあって権威もたっぷりのニュース週刊誌「ニューズウィーク」が電子化されるとか。だから日本もいよいよと言われ始めているけれども、町中に書店があって田舎にだってコンビニがあって雑誌が売っててすぐ買えるのが日本という国。紙の雑誌にだってまだまだ需要があるだろう。対してアメリカは大都市圏にだって書店がなくってニューススタンドで雑誌を売っているのを買うしかなく、あとはだいたい郵送なりで定期購読するのが一般的という広大な国。そこで週刊誌って形態でこれまでずっと発行されていたのがむしろ不思議といったら不思議だったのかも。

 昔だったら1日2日送れて郵便で届いたのを読んだところで、それでも最新の世界事情が分かる雑誌と思われていたんだろうし事実そうだったんだろうけれど、デイリーどころか瞬間に秒単位で最新の情報がネットから送り込まれるこのご時世に、数日といった単位のディレイはもはや去年の話に並ぶくらいの遅れと見なされる。そんなものを有り難がっている時代じゃもはやない、ってことで、それならばと紙を止めて電子にするのもひとつの判断ということになるんだけれど、ここで問題は、すべてが即時性を追求した時に、時間をかけて調査すべき部分が蔑ろにされかねないかもしれない、といった辺りになる。

 他のメディアに勝つには早くしなきゃいけないけれど、それをやったら週刊誌として培った調査の部分が蔑ろにされる。その案配をどこでどう切り分け特徴を出しつつ今の時代に合わせていくかといったところで、きっといろいろな逡巡が行われることになるんだろう。ストーリー性のあるものはそれで週に1回くらいの特集として配信して、デイリーで流せるニュースはアップトゥデートに提供していくといった。それじゃあ新聞あたりがやってるサイトとあんまり変わらなくなるなあ、っていうのはまあ当然で、情報をやりとりするツールの変化とそれを利用する人たちのライフスタイルの変化に合わせて、メディアも変化していかざるを得ないってことで。ウェブのニューズウィークとウェブのニューヨークタイムズに果たしてどんな差異が出て、そしてどちらが生き残るのか。注目したい日本のメディアの未来を推し量る意味でも。

 一方こちらの週刊誌は果たしてこの先がどうなるかといった岐路に。佐野眞一さんによる大阪市の橋下徹市長に関する記事を掲載した「週刊朝日」が木曜日になって謝罪を出して釈明するという事態になって、だったら何でそもそも掲載したんだそれも自身満々にといった評判があちらこちらから雨霰。もちろん、たとえジャーナリズムであっても、間違えないってことはあり得ないということで、間違えてしまった記事とか人を傷つけてしまった記事を掲載した場合にそれを指摘されてご免なさいと謝るのは対応としては最高の部類に入る訳で、その時にはチェックできなかった編集部なり編集長なりが責任をとり、書いた佐野眞一さんにはその辺の折り合いが早い段階で付けられなかったと謝って、これからの連載をどうするか考えれば良い。それがジャーナリズムの真っ当な対応の仕方だ。

 ただ一方で、橋下市長が週刊朝日に抗議するのみならず、その発行元となる朝日新聞出版の親会社にあたる朝日新聞社が発行する朝日新聞の取材を拒否して、対応すべきと迫っていたことが背景にあるから話がややこしい。もしもそうした橋下市長の要望を受け、親会社が子会社のプレッシャーをかけて、それで週刊朝日が謝ったというならこれはジャーナリズムとして最低の部類に入る。だって週刊朝日は週刊朝日として独立して編集を行い言論活動を行っているのだから。それには親会社のみならず発行元の資本だって口を出していい話ではないのだから、建前上は。この一件はだから、週刊朝日が週刊朝日として申し訳ないという態度で臨み、朝日新聞社は一切の関知を示さず親会社であっても編集権は独立したものであるという態度を貫くのが見かけ上は正しい。

 もっとも、というかおそらくやってたんだろうけれども、朝日新聞社が週刊朝日にプレッシャーをかけていたら、それは朝日新聞グループ全体にジャーナリズムとしての公正性、独立性を護持する気概が、もはや完全に失われているってことになる。言葉を強めるならジャーナリズムは死んでしまっていることになる。でもそんな瞭然の事実を事実として表にだしたくないから、朝日新聞社は自らの見解を出さず、あくまでも週刊朝日の問題として収め謝罪させ、そして橋下市長も頭が良いから週刊朝日が謝ったならそれは裏で朝日新聞側のプレッシャーもあったんだという理解を抱きつつ、もう十分と一旦引いて、朝日新聞の取材拒否についてはフェードアウトさせる雰囲気がある。朝日新聞グループ的にも橋下市長的にも一件落着。でもやっぱりそこには公正性を護持したジャーナリズムの不在っていう事実が浮かび上がって絶望へと人を至らしめる。

 もっとも世間はもはや、そうした言い訳を通用させないような認知をメディアに対して持ってしまっていて、この一件を経て話を建前の中に収めずむしろ、メディアグループの資本に媚び、親会社に阿る体質を自明のものと捉えるようになりそう。これはずっと尾を引く問題となってメディアの上にのしかかってくる。それもこれも金科玉条の如くに護持しなくちゃいけなかった編集権の独立を、売り渡してきた歴史がメディアにはあるからで、社物だからといって主催イベントの記事をわりと大きく扱ったり、オーナーが喜びそうな記事を載せて歓心を買おうとしたりと、それこそ本田靖春さんが自叙伝に書いているようなことが1960年代とか70年代から平気で行われてきた。それを1980年代末期に大きく勧めたのが目ん玉なグループでグループ上げてどんちゃん騒ぎを見せた挙げ句に報道の範囲へとそうした情報を流し込んでは公正性をスポイルして来た。

 今はだからそうやって経営が編集なり報道に口を出し、報道なり編集も経営をサポートするのが当たり前って空気になっていたりして、それを平生から見せられ辟易としている読者なり視聴者が、今さら媒体は独立してます編集権があります親会社の意向は関係ありませんと言ったところで通じるはずもない。資本とジャーナリズムは別だと訴えている大谷昭宏さんですら、大阪の読売に東京の経営側の意向がガンガンと入ってそれを受けてパージされた側にいた訳で、心底からそうあって欲しいという願望は脇にやってもはや編集権は資本からの独立を保ち得ないメディアの現状を嘆き、それを改善してこなかったメディアを批判しだからつけこまれたんだと訴える方が、状況を正しく現していた。経営と編集がベッタリとなったパブリシティのカタマリのような既存メディアが、もはや何を言っても通じない。でもそれだと本当に将来、というか既に困っている訳で何とかしたいんだけれどもどうしたら良いのか。どうすれば良いのか。リセット、しかないんだろうなあ、過激に、確実な。

 そしてライブでの制作状況の解説とそしてライブでの宮野真守さんと斎藤千和さんによるアフレコ付きというゴージャスなイベント上映で見た神山健治監督による待望の「009 RE:CYBORG」は覚えてないけど天使篇の変奏かリスペクトか何かってことになるのかな、人類が今を膿んで未来に再生を託したいと思った時にとるだろう無意識の行為の集合体。それを相手に戦う感じでとても大変だったけれどもそんな中から強い思いが生き残る、っていった可能性を見せてくれたところはどうしようもない閉塞感に陥らずに済んで良かったかも。

 といったのがストーリーに関する印象で、技術に関してはなるほど3DCGでモデリングしたキャラクターたちを2Dのアニメーションっぽく見せて動かしそれでいて違和感を感じさせないようにした頑張りは素晴らしい。歩き方のアニメ的な動きとは違い実写とも違うぎこちなさもそれがそういうものだと思うようになればきっと慣れるし、表情における口元の固さとか目の笑ってなさもハイライトの入れ方とか口元の微妙な動かし方を学んでいけば良くなっていくだろう。今はそれがサイボーグだからといった冗談で通用しそうだけれど、そうでもないアニメを3DCGで作ってずっと同じっていうことはやっぱりあり得ない訳で。

 もっともそうした表情付けだったらサンライズの荻窪スタジオが作った「コイセント」の方がいろいろ豊かな表情を見せてくれていたよなあ、アニメっぽいデフォルメされたキャラをちゃんと動かしそして角度を変える際にはひん曲げ引っ張りその角度で最適の表情を1コマ1コマ作ってた。そうした苦労をいずれ自動化するツールも出るだろうし、009の場合はややシリアスに傾けたことで大袈裟な表情付けはいらなかたから、見て必要にして十分の表情は出せていたんじゃなかろうか。ストーリーの会話劇っぷりには「東のエデン」の劇場版の後編同様に語りたいことはややあるけれどもそれも個性と見積もり今に技術をここまで昇華させ、見たい映像を見せてくれたという意味で評価できる作品。公開されたらまた見に行こう、フランソワーズのすっぽんぽんに近い恰好を再び拝みに。やっぱりお尻とか柔らかいのかなあ、サイボーグだからといって固かったりしないのかなあ。


【10月18日】 PCで見られてスマホでも見られて課金も行えてユーザー数も多い、ってのがだからプラットフォームとしての魅力と映ってあれだけの出版社があれほどまでの作品を提供することを良しとしたんだろうか「ニコニコ静画」の電子出版3万点。その数がどれくらい凄いか実感はないけれども多分部屋に積めば6畳間が埋まってしまって息もできないくらいになるものが、電子の海に漂い欲しい時に釣り出せるんだからおれはとっても便利且つ快適。それだけで1生を終えてもいいくらいなんだけれどさらに積み増されていく予定ってところで聞くほどにげっぷすら出てきてしまう。

 まあでも人によって好みもそれぞれなんで多様性があるってことが何より大事。それをやろうとして届かず妙なものを数あわせに入れて突っ込まれているイージーなヘブンの会社を比較対照にして一気にブレイクしていくんだろう。そんな当たりがやっぱり巧いドワンゴでありニコニコ動画関連サービス。「Q」って名前を新バージョンにつけたのも多分に公開間近の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」とのタイアップ感じを強めて注目度をお互いに高めようって意図がバックにあってのことで、それを「0に毛の生えたような」という言い回しにして好奇心を煽りやるなあといった感心を誘って一気に引きつけるような発表を、そうしたスタンスに鋭敏な一般のユーザー層を集めて行った。

愛し合おう!  もともとがそういう目的だから実質的な変化はマイナーチェンジでしかなくって、ユーザーから文句のあったところを直すといった程度。そこの加えて映画のプロモーション関連コンテンツをぶっこむことによってアクセスが増え評判が高まっていけば互いにハッピーになれてどこも損をしない。この辺りの手法はいったい誰が編み出したんだろう、スタジオジブリとつきあう中で川上量生さんが考え出したのかそれとも夏野剛さんか。まああんまりやりすぎるとあざとさも見えて辟易とさせられるけど、今はそうしたノリに乗りたい若い人の方が多いみたいでグングンと評判も右肩上がり。このビッグウエーブはまだしばらく続くんだろうなあ。

 ソラマチといえば墨田区で下町なんだけれども今や東京の東西合わせても人が集まる屈指の場所となっている訳でそんな人たちを狙っての「マイケル・ジャクソン展」ってのが始まったんでのぞいたらマイケル・ジャクソンが立っていた。蝋人形だけど。そして中の方はどこかで観たことがあるマイケルのステージ衣装の数々と、プライベートの時といってもホワイトハウスを訪ねたとか、マドンナのエスコートをしてアカデミー賞かグラミー賞のステージに立ったとかいった時の衣装が狭い会場ながらもずらりと並んでマイケルファンなら歓喜のひとときを送れそう。

 アクセサリーの類もあってベルトとかあんなにぶっとくて重そうなのに本当に巻いてステージに立ったんだろうか。面白いのはグラ美ティーシューズだっけ、重力に逆らって立ってるように見えるポーズを練習するために、板に出っ張りをつけてそれが靴の裏にひっかかるようにした装置。軽々とやっているようにめいて裏でしっかり苦労と試行錯誤を繰り返していたんだなあ。そんな労が報われるはずだったツアーを前にしての急死はやっぱり惜しまれる。あらためてその偉大さに喝采。その永遠の眠りに合掌。

 やっぱりというかメディア側にとっては息をするよりも当然な、別媒体であり別会社であってそれぞれが独立した編集権のもとに記事を書いているのであちらが何を書こうとこちらとは関係がないといった説明は、一般の人は尻で息をするより意味の通らないことみたいで資本が繋がっているからといって子会社の悪巧みでもって親会社をぶったたいたりしてきたお前ん所の報道姿勢はどうだったとか、出資しているんだから連結対称の会社としてコーポレートガバナンスの範疇でその言動には責任が及ぶmのだといった、こちらもおちらでお説ごもっともといった反論が出てきては立ち往生させてしまう。

 そういった一般の企業におけりコーポレートガバナンスよりももっと深いところで言論の自由なり編集権なりは存在しているんだといった、これもまたメディアの人間にとっては普通に出てくる良いわけもそんなことはない、現実に同じようなグループで同じような論調が隅々にまではびこっているではないかといった例を挙げられうつむくしかない状況に。それが必要ならば護持のために日ごろから注意をしておくべきだったのに、そうせず都合の良いときばかり独立していると言っても通じないのはなるほど自業自得ということだけれど、だからといってはい分かりましたと引けないのもまた建前。むしろこれを好機にしっかりとした独立性を保てる媒体になれば良いんだけれど、無理だろうなあ、それが日本って奴で。

 急に成績を上げ始めた学校に潜入してその秘密を探れって美少女生徒会長から命じられた少年のエスピオナージな物語かと思ったらスケールがデカくなって宇宙規模でのコンタクトがもたらした意識の開放めいた話になって驚いた長月渋一さんの「S.I.A−生徒会秘密情報部−」(電撃文庫)。そもそもが少年が諜報員になる羽目となったのも美少女生徒会長がいる学校を目指した試験で行ったカンニングでその方法がまた常人にはとても理解の及ばないもの。そこでひとつ普通のミステリとかサスペンスじゃない雰囲気が漂った上にその少年が潜入した先で行われていた学力向上のための措置もやっぱり普通ではなく人間が思いを共有できるようにするといったSF的なもの。どうやってそうした技術がもたらされたのか、ってあたりで宇宙規模へと話が及んで謎解きとかいったレベルを超えてセンスオブワンダーな展開へと向かっていく。

 そしてなおかつ学校内で権力をめぐる争いがあってそれにスパイとして送り込まれた少年は巻きこまれ、一方で少年を気に掛けてくれた少女は行方不明となって彼女を捜すドラマがあってそうした果てに大々的な実験が行われようとした時に、少年を送り込んだ学校の方でも動きがあって一件落着へと向かう。最初に少年を送り込んだ学校の美少女生徒会長がヒロインかと思いきや冒頭に出て結末に出るくらいで目立たずそれで表紙なんか張っているのはちょっと大袈裟。あと少年が潜入先で出合った少女との過去が取りなすひとつの縁も出来過ぎと言えば出来過ぎだけれどそうした出合いも含めて裏で動かしている輩がいるとしたら? ってあたりで美少女生徒会長の存在が大きくクローズアップされていくのかな。次の仕事場所での仕事ぶりにちょっと注目。


【10月17日】 どうせ親善試合なんで真剣味がないんで心藻は入らずここんところの週末の早起き続きで眠気も溜まっていたようで、微睡みながらぼんやりと見ていたら1点1点を何か点差が広がっていって、このペースなら6点8点といった中国やらイラクやらを相手にした点差にまで届くかと思ったら、とりあえず4点で抑えて良かったねって言えるかというとやっぱりちょっとねって感じだった、サッカー日本代表対ブラジル代表の親善試合。ネイマール選手ってそれなりに未来を開きそうな選手が点をとったり、カカ選手って最近リーグでは宙ぶらりんなエースがちゃんと点をとっていたりと層の分厚さを見せつけたブラジルに比べて、日本はといえばいつものメンバー。鉄板といえば鉄板だけれど定食とも言えて食べて間違いはなくても驚きはない。

 せっかく呼んだ佐藤寿人選手なんか使われる場所もなく宮市亮選手だってろくな使われ方はせず守備が崩壊しているのにそれを改めるような選手交代も行わずいつものメンバーによるいつもの戦い。かろうじて本田圭祐選手が最前線で体を張ってシュートに結びつけたりしていたけれど、そんな本田選手を3人がケアに行くブラジルもなかなかの目の付け所。それはすなわち人数にミスマッチが起こっているってことだけれど、そこから開いたスペースを使い攻撃があったかとうとどうだったんだろう、半分微睡んでいたんで分からない。

 ともあれそれでこれだけの点差をつけられ負けるというのは、やっぱり定食でも超高級には届かずどこかの場末の食堂か、あるいは学食の安価な定食だったってことなのか、いやいや最近は学食だって豪家で美味だからなあ。つまりは策がないってことだザッケローニ監督には。アジアレベルで勝ってもその先を見させてくれないところはジーコ監督に通じる雰囲気。まあまだ間もあるしこれから育てたり発掘したりしてくれれば良いんだけれど、期待できるかなあ。そんな日本代表に比べてフランス代表は圧的にボールを支配されながらもスペイン相手に最後のインデュアリータイムで速攻のカウンターを決めて同点に。アウェーで最後まであきらめない不屈さはフランスというよりドイツっぽかった。そのドイツが4点差を追いつかれているんだから何というか。お国柄ではもはやサッカーは語れないってことなのか。それにしてもフランス代表のジルー選手、でかかったなあ。アーセナルには良い選手がいっぱいいるなあ。

 なんで我が家にはあの動く「necomimi」が2つもあるのだろうかとうと買ったからに決まっているんだけれど買ってみせびらかしたらあとはお蔵入りってのも過去に買ったさまざまと同じだよなあ、ファービートかウブラブとか、でもそれで目立つのが人間としての輝きどころなんで仕方がない、自分に自身がないから物に頼って目立つという繰り返し、それが僕の人生だ。ってことできっとこちらも出たら買うんだろうタカラトミーアーツの商談会で見かけた「necomimi mini」はちゃんとニューロウェアという脳波で動く「necomimi」を出した会社がライセンスをして監修にも当たった商品だから真似ではなくってどちらかといえばリサイズ品。脳波で動く仕組みをとっぱらって、サウンドに反応して動くネコミミというギミックを残したのは動きだけ見たい人には正解だけれど、脳波で動くというところに反応した人にはちょっと残念か。まあネコミミが動けばそれで可愛いという人間には十分なんだけれど。値段も半分以下。発売が来春と先だけれども出たらやっぱり買ってみよう。モーターもうちょっと小さくならないかなあ。

 ほかに商談会で目に付いたのは懐かしのスライムの新展開。それだけだとただの粘液なんだけれどもタカラトミーアーツではエイリアンのフィギュアを加えることによってスライム状の粘液に保存されたか囚われたかそれに入って侵略に来るエイリアンといった物語性を加えて楽しめるようにした。カプセルにスライムを放り込んでそこにフィギュアを入れるととても増すいかにも感。引っ張り出してもフィギュアにはまとわりつかないから遊んで安心。それを机にぶちまけエイリアンを上におけば不気味がられること請負だけれどそれってイジメになるのかなあ、貴重なエイリアンがもらえると思えばむしろやって欲しい方に入るのかなあ。そしてLINEってスマホとかの無料通話アプリに出てくるキャラクターのフィギュアにもちょっと注目。すでに評判になっているそうだけれどLINEをやらない人間にはまるで存在が知られていないキャラ。でも売れているってことはつまり知る人ぞ知る場所がちゃんとあって収益に結びつくサイズになっているってことなんだろう。そんなクラスターが関連せずに独立独歩しつつまとまれば市場になる。必要なのはだから探し見つけること。それができる会社ってことなんだろうなあタカラトミーアーツ。

 日本に真正の右翼は私ひとりなのである、ってそれ語尾が違っている。でも合っている。なぜって彼女は神楽日毬ではないから。じゃあ誰だ。神楽凪紗。あの右翼にしてアイドルの神楽日毬の姉にして剣道の達人なんだけれども引っ込み思案で人見知り。だから表に立って何かをすることはなかったけれども日毬にとって一世一代の舞台がインフルエンザによって危険となりそうだったその時に、日毬に負けない美貌でステージに立ちウオークスルーを颯爽でもないけれどしっかり歩き、そして集まったファンに向けて日毬のような演説をしてみせたそ語尾が、本人を目指そうとするあまりにちょっぴり違ってしまったというのが事の真相。至道流星さんの「大日本サムライガール」に登場した待望の第3巻。日毬と千歳に加えて凪紗も加わり事務員に副社長とメンバーもそろったひまりプロダクションにさて、次はいったいどんなピンチがおそいかかるのか。今回は波乱も展開もあったけれども危機感には至らなかったからなあ。日毬に最強のライバル出現。何だろうやっぱり右翼かそれとも左翼か。楽しみだ今冬の第4巻の発売が。

 例のオスプレイの試験飛行に関連して「普天間飛行場配備に抗議する活動家らが周辺で風船やたこ揚げを繰り返している」というおとを挙げて「野田佳彦政権は、速やかに実効ある措置を取るべきだ」と社説に書いている新聞があった。主張はもちろん至極もっともなもので事故を起こす可能性があることをやるのはやっぱり人道的によろしいことではないんだけれど、一方でそれをただ挙げて社説に書いても心理的に平気なんだろうかという気もしないでもなかった。だってこれって騒音が煩いからって線路に石は置くなと言うようなもなんじゃない。いわゆる反対運動としての行動は各地でさまざま起こっているけどそれを取り上げ社説にするはことが日米の問題に関わってくるから。そしてそれが日米の問題になってしまっているところにたこ上げやら風船やらを誘因する理由があってそこを解決するのが先決なんだけれどももはや決定事項として議論をせず、ただ反対運動はいけないことだと断じる論はやっぱりどこか物足りない。言うべきことは言って当然。その中身に含蓄と啓蒙があってこその社説なんだけれどそれがないのが寂しいなあ。まあいつものことか。言いたいことのためにすべてを置き去りにするのは。はあ。

 なんというか凄まじいというか大阪市の橋下徹市長が週刊朝日で自分の家族や出自についての記事が出たからといって何故か朝日新聞と朝日放送の取材を拒否するとか言って話題に。週刊朝日はなるほど朝日新聞と関係はあるけれども発行しているのは朝日新聞出版であって朝日新聞とは別法人だし、朝日放送にいたっては朝日新聞社からも遠く大阪の放送局でテレビ朝日ほどの関係もない。それなのに同じ朝日のグループに属するから拒否するっていうスタンスは、やっぱり大きく間違っているしよしんば同じ法人が出している媒体であっても題字が違ったらそれはそれぞれが別々の編集方針で臨んだ別人格なんだといった認識でいるのがメディア業界的な考え方なんだけれどもそういう主張を橋下市長にぶつけたところで「だって同じ朝日じゃん」と言われれば反論するだけの言葉がメディア業界には実はあんまりなかったりするだよなあ、何せ日刊スポーツですら“系列”だからと朝日の主張にそぐう論旨を展開しているメディアだと思われているくらいだし。困ったことだけれどどうしようもないのが何か悩ましい。果たしてどうなるんだろう。どうにかしないといずれ他のメディアにも及ぶと考え団結して取材ボイコットとかしなくちゃいけないんだけれど、やらないよなあ今のメディアは。早速「朝日」と橋下市長の対立にすり替え見出しで謳う夕刊紙とかもあるくらいだし。困ったなあ。


【10月16日】 えっと何でマミさんの服をまどかが着ているの、って誰もが見て思い驚いた「週刊SPA!」の表紙なんだけれどもその等身にちょっぴり違和感がありながらも胸は平べったくってマミさんのサイズにはとてもじゃないけど及ばない。ってことはだから頭をお菓子の魔女にぱっくんされたマミさんの体にやあやあと言ってまどかが自分の頭を外して載せた訳では決してなくって、まどかがマミさんの衣装を着てみましたって設定なのかもしれないけれど、そういった説明が目次にまるでないから真相は不明。でもやっぱり等身ちょっと高いような。勝手に想像するならそうしたコラボが2013年公開の「新編」につながってマミの立場に置かれたまどかが後進の指導にあたり導く中でほむらと激突するとかどうとか。ああでもまどかは概念になっているのか。概念だからこそどんな恰好だって可能なのか。次はだったらほむほむの衣装を。喜ぶからほむほむ。

 ナベツネこと渡邊恒雄さんによる盟友・氏家齊一郎さんに関する思い出話なんてとてつもない企画が乗っていてそれだけで「文藝春秋」とか「中央公論」の数倍は面白いって思わせるスタジオジブリ発行の「熱風」だけれど、メーンとなっているのは電子出版に関する話でそこに文章を寄せている村瀬拓男さんは、今は弁護士って肩書きになっているけれども昔は新潮社にいて電子出版事業を一手に引き受け切りひらいていたんだってことを思い出す。あれは1996年の2月15日で、神楽坂にある新潮社へといって案内されたプレハブの社屋で「CD−ROM版新潮文庫の100冊」の話なんかを聞いたっけ。16年と8カ月も前のことだ。

 当時から電子出版といったものへの関心はあって、だいたいが据え置き型のパソコンで一部にノートパソコンなんかも出始めたなかで、CD−ROMという音楽も映像もテキストといっしょに収録できる巨大な容量をもったメディアをつかって、何かできないかっていった試行錯誤が行われていた。その代表格が辞書的辞典的なジャンルで小学館からも今は電子出版会社の代表をしている鈴木雄介さんが中心になって辞書のCD−ROMなんかが出たか作られたかしたっけか。こっちは凸版印刷が関連していたような記憶もあるなあ。平凡社の大百科事典のCD−ROM版はまだ出ていなかったっけ。ともあれ飾れば分厚い辞書が1枚の光ディスクにはいって検索も自在ってドリームに目が眩んだ記憶がある。

 「CD−ROM版新潮文庫の100冊」もそういう意味では辞書的な作品だけれどそれぞれが1冊の小説という作品の集合体という意味では、今のネット上に大量の電子書籍がアップされている状況をローカルにスタンドアロンで実現して見せた最初の方の形って言っていえなくもな。当時、それを作るのにいろいろな苦労があっただろう話を多分聞いたんだろうけれど、詳しいことはあんまり覚えていない。ただやっぱり見せ方の上でこちらは大日本印刷と組んで秀英体のデジタル化を行い採用してパソコン上で本を読むときのような綺麗なフォントを再現しようて意識があった。やっぱり人間、読む字ってのはとても重要でとりわけアルファベットのように単純でない様々な字がある日本語は、フォントに工夫がないと目がイライラしてしまう。
>
 そういう紙の活字を長く作ってきた出版社の文化でありこだわりでありノウハウでありユーザーニーズの具現化といったものが、16年くらい経った今いったい、どうなっているんだろうかと考えると世間的にはハードの形が先行していて、その上で何がどういう風に読まれるのか、といった議論がひところより交替してしまったような気がする。あるフォーマットにテキストデータを流し込めばあらゆる端末に対応できますよ、っていうのはなるほど便利ではあるけれど、それを見る人たちの目にどう映るのか、ってことがなおざりにされているのは見る側としてちょっと困る。どうしたものかという気になってくる。

 とはいえ昔はそうしたことを意図せず受け入れ不満足な電子書籍の体裁に苛立ちを覚えていたものが、今はそれが普通と受け入れ何でも読めればオッケーという人が大半なのかもしれない。それは後退かあるいは前進か。いずれにしても変わる時代の中で意識も変化するのをキャッチしつつ、より最適な形は何かってところも追求していく姿勢は忘れて欲しくないというのが心情。でないと村瀬さんや鈴木さんやフォントに凝ったデジタローグの江並直美さん、今も頑張っているボイジャーの萩野正昭さんの20年近く前からの努力がまるで無為になってしまうから。そんな電子出版特有には豊崎由実さんも寄稿していて2LDKの自宅が本でいっぱいになって3LDKの部屋を借りたという話がのっている。そっちも本でいっぱいという始末は我が家の現状を思い出させるけれどもまだ新しく借りるという決断に至らないのは覚悟が足りないからかなあ、書評道で生きるという。まあ食えないしね。ライトノベル専門じゃね。

 せっかくだからと前に取材した近藤智美さんが所属しているアートラボ・トーキョーで始まった「7人展」というのをのぞいてくる。とくに誰という目当てはおらず何となく新しめの人がいるのかなあと見たら意外に面白そうな作家がいてちょっとファンになる。まずは伊藤典子さん。絵本のようなイラストのような雰囲気の少女たちがちょっぴりグロテスクなモチーフなんかも交えて描かれながらメルヘンチックで落ちついていて見ているとドラマを感じて引き込まれる。タカノ綾さんのような少女の血肉があふれ出るような感じではなくもうちょっと幼児的? 作り手の純粋な描きたいっていう意識の産物みたでそれが見る人の感性と重なり合ったところにひとつの世界を作りそう。すでに名のある人みたいだけれどももうちょっと高みに行けるかも。

 それから凄かったのが樋口裕子さんという人で、絵は和風の日本人形市松人形といった風情の少女画なんだけれども着せられた着物が緻密な上に絵の表面に金箔で浮き彫りに近いくらいの立体感で紋様が推してあって散りばめられた絢爛さの中に少女の粛々とした雰囲気が漂っていてジンと来る。なおかつモチーフが赤頭巾だったり人魚姫だったりアリスだったりカエル王子だったりと海外の童話風。洋の要素を和に引き入れて描いてこわさずむしろ調和を作り出すその腕前、着物の布を周囲に張ったり金箔を紋様にして押したりと工芸の要素も含めて作り出す構成の妙など、いろいろと評判を呼びそうな要素がいっぱい。何よりやっぱり巧いのが良い。聞くとイスラエルとかで評判になりつつあるとかで、クリムトなんかが活躍したウイーン分離派のイメージでも重ねていたりするのかな。これもちょっと注目していきたいアーティスト。人魚姫とか本当に綺麗だったなあ。売れていたから人気もあるってことなのかな。


【10月15日】 とても敏感にある意味センシティブに状況を察知して、そこですら十分に遠いと僕なんか思っていた東京の西を離れて遠く広島へと家族ともども移住して、ずっと戻って来ようとしない西島大介さんだけあってその原因となった事態をモデルに何かを描くときに、もっと直接的に事態を捉え非難するような過激で苛烈な漫画になるんじゃないかと思っていたけど、ここに来て出してきた「ヤング・アライブ・イン・ラブ01」(集英社)に描かれたそれはどことなく日常と化してしまった中に茫洋と漂う違和感が、ゆっくりとじんわりと広がっていく様を描いてあった。

 その上に、それがひとつには原子力発電所らしい場所から漏れだした放射能ではあるけれど、もうひとつは何か幽霊の類であって、なるほどどちらも普通の人の目には見えないけれども、感じられる人には感じられるものとして捉えられていて、科学的には存在する放射能は存在するすけど幽霊は存在しないものであるにも関わらず、それらが混在して同じ概念のように捉えられてどっちつかずの状態に置かれ、放射能は霊のようなもので本当はないんだと説得されているか、あるいは放射能は存在していて人に害をなす霊として認識されているんだと諭されているような、曖昧模糊とした今をぼんやりと感じさせる巧みさを見せていてちょっと驚いた。

 そこは東京の端っこのM市で100年前から巨大な“湯沸かし器”が立っていてそれは今は3基もあるんだけれど人はそれが何であるかを気にはとめず生活に必要なものだといった積極的な認識すら抱かず日常のなかに普通に存在するものとして捉えていた。けれどもあると道で出合った美少女(かもしれないけれどもそこは西島大介絵としての美少女)がいきなり少年の頭の上にゲロを吐き、そして近くにそびえる“湯沸かし器”の上部が爆発して少年は何かがヤバいんじゃないかと思うようになる。もっとも周囲にヤバさはまるで感じられず、少女もゲロを吐くけどそれは幽霊のせいだと言うだけで少年が感じているヤバさとは直接の関係はない。怯えた少年はスマートフォンに放射線量を測るアプリをいれてあちらこちらで測定し、自分ひとりがヤバさを感じていたけれども、教師からそのアプリはインチキだと言われ、自分の迷いなのかを思おうとしたけれどもどうしても思い切れなかった。そして“湯沸かし器”は何度目かの、そして最大の爆発をして上部が消える。

 明らかになった危険。身に迫る危機。それらを得てきっとこのあとに何か大騒動が起こるはずなんだけれど、もしかしたらそれすらも日常の中に埋もれて平時へと還元され、何も変わらない日常が続いていくのかもしれない。そんな光景のグロテスクさを描いて警鐘を鳴らすことになるのか、もっと直接的なスペクタクルを描いて「コッペリオン」なみの闘争を描いて具体的な警告を行うのか。そこは本心としての危機感を強く抱きながらも、漫画ではゆっくりとそしてひっそりと問題に気づかせようとしている西島大介のことだから、ストレートな物言いを避けたシニカルさを含んだスタイリッシュな表現で事の次第を描くのかもしれない。そうでないかもしれない。いずれにしても今のこのもやもやとした空気を確実に捉えた漫画。ぼんやりと漂って来る不安の方がむしろ人は恐さを覚えるのかもしれない。たとえ幽霊といった非科学的な物に例えられても、むしろ非科学的な物だからこそ情動を誘って行動へと至らせるのかもしれない。果たして。

 何が「会見場に『嘘発見器』を持ち込んでいたら、最初から最後までピーピー反応してさぞうるさかっただろう」だ。そんなコラムを書いている暇があったら同じ会社の中を歩いて紙面に嘘発見装置をかざしてみろってんだ。そこらじゅうでピーピーピーピーと反応して喧しいことこの上なかっただろう。それほどまでに過去に大変な誤報をやらかし、最近も同じ話題でやっぱり誤報をやってお詫びまで出しているメディアの身内が、他人を嘘つき呼ばわりすることなんざあ100万年早いってんだ。何が「とにかく山中教授の前で土下座して謝ってもらうしかない」だ。その前に読者に向かって間違えてましたと土下座しろってんだまったくもう。

 いやもちろん嘘は嘘として糾弾すべきことではあるんだけれど、それを言っていいのは自らが潔白で潔癖だった人間なり、そうあろうと自省と自重をもった人間だけ。端から身内の間違いを脇においやって、他人の間違いだけを糾弾する、それも罵倒に近い下品極まりない言葉でこき下ろす人間にそれを言う資格はないんだけれど、そういう自覚があるなら当人はそもそもそんなコラムは書かないし、会社も書かせようとはしない。それがこうして書かれ掲載されているということはつまり、会社を挙げて自覚も自重のない現れ。分かってはいたけれどもこうもこうも度重なるともはややっぱりこれまでといった思いも余計に募る。今年は大丈夫でも来年は。風が冷たさを増してきた。

 しかしそもそもがメディアの体たらくが招いたこの事態、最初に読売新聞が森口氏の氏素性を確認してその研究内容も精査していればこれは拙い載せられないとなって取り上げられず話題にもならなかった事態なんだけれどもそれをどういう経緯からか、本当のことだと思いこんだか思わせようとして掲載したのが騒動の始まり。調べれば昨日今日に始まった関係でもなくもう何年も前から森口氏を当時の実状とはかけはなれた肩書きで紙面に登場させていたことも分かって、そのズブズブな関係にいったい何があったのか、興味を抱く人もいっぱい出てきたりしている。そんな新聞の体たらくをだから他のメディアはもっともっと執拗に追う必要がある訳で、ただの虚言癖を持った人間をいつまでも攻め立てている場合じゃないんだけれど、どこかのメディアが銀座にある読売の本社前まで行って出てくる科学部長なり編集局長なりをつるし上げるような事態にはまるでなっていないのが何というか、これが護送船団メディアの実状というか。そうした構図すら世間に認識されているということをもっと、メディアは自覚した方が良いんだけれどなあ。まるで変わらないなあ。

 ようやく読み始めてまだそれほど読んでないけれども長谷敏司さんの「BEATLESS」(角川書店、1800円)は少年がロボットを拾ってそれが美少女で家事もやってくれればモデルとして稼いでもくれてこんなに良いことはない状態が一変して何やら不穏な空気がって感じのところへと到達。もとよりとてつもないパワーを誇る戦闘ロボットらしい美少女なだけに狙われる理由、そしてこれれからの展開の壮絶さなんかも予想できて読むのが苦しいけれども楽しみ。人間そっくりのロボットが普通に街にいたりする情景は人がそれをロボットだと侮り騒ぐ方に転ぶってのがとりあえずの状況みたいだけれど、一部にはそれがロボットであっても人に近い存在なら認め敬おうって思考もあって自分ならどちらだろうかと迷わせる。ロボットの開発に携わる親を持っているからこそ主人公の少年はそんな心理に至ったのか、けれどもロボットをサポートする会社の御曹司はロボットを物としてしか見てないし、なんて違いもあって面白い。さてもいったいどこに帰結するのか。みんな幸せになってくれると嬉しいな。


【10月14日】 午前5時から新宿に行ったのに比べれば楽勝だけれど、考えてみれば午前9時から始まるイベントに参加するのも相当な早起きが必要だったりするものが、「劇場版 魔法少女まどか☆まぎか [後編]永遠の物語」を観るってことになると普通に午前7時にはパッチリ目覚めてしまえるのが人間、なかなかに現金というかそういう風にできているというか。これが午前9時から会議とかそんなんだったら多分絶対に起きられないし、起きようとする気もおこらない。だから人間、やっぱりそういう風に出来ているのです。

 ってことで千葉中央にある京成ローザまで船橋から京成に乗って津田沼で乗り換えドコドコと。8時ちょい過ぎには着いてしまって果たして空いているのかなあと駅から降りて劇場の入り口を観たらもうすでに行列ができていた。それなりな人が集まると観て劇場の方もグッズの販売なんかに人が並んで入場できなくなるのを避けるため、早めに明けたってことなのかな。まあ既にパンフレットに関しては昨日のうちに新宿ピカデリーで「宇宙戦艦ヤマト2199 第三章」を観る前に、バルト9に寄って買ってあったから並ぶ必要はなかったけれど、何かネタに関する露見があるといけないんで見終わるまで封印。入り口で前編と後編を観た人にもらえるフィルムをもらって袋を開けたら白いあいつが写ってた。

 なるほど主役級。そしてこれは舞台挨拶で加藤英美里さんが言っていたことだけれど宇宙規模で世界平和(なんかちょっと倒錯した言葉だなあと今思った)をやろうとしている正義の味方、白い悪魔ならぬ白い天使であるところのインキュベーターが出たってことはつまり当たりと受け止めるべきなんだろうけれど、ネットに続々と上がる報告では眼鏡をかけた美咲ほむらが涙ぐんでいたり、ループの途中でほむらから真相を明かされたまみさんが諦めと絶望から他の魔法少女のソウルジェムを撃つシーンの顔アップとか概念化する直前にまどかとほむらが見かけ裸で抱き合うところとか、そんなシーンもわんさかあって羨望と嫉妬の念もわき上がる。

 でもそういう心理が魔女の道、ここはだからもらったキュゥベえの顔をプリントしてフレームに入れて前に置き、感情なんて野蛮なものが人間を苦しめるんだと悟りに至ることにしよう。でも感情がるから人間は最強な訳で……。難しい存在だなあ、人間って、まったく訳が分からない。そして劇場に入って待っていたら横をマミさんが歩いていった。背丈は1メートルあたかな。つまりは幼女。幼い娘さんが完璧なまでのマミさんコスでもって来場していて前から2列目の席にたぶんお父さんと来て子供用のクッションを自分で取りにいったりして腰掛けて上映を観ていた。首ぱっくんされるシーンとかないから子供でも安心? 考えてみればあの1点くらいしか惨劇ってない訳で、その一瞬で価値観を転倒させ印象をガラリと変えて引きずり込んだ虚淵玄さんの筆に今さらながらに感心。後編はだから子供でも大丈夫。観て分かるかどうかは分からないけど。

 そんなマミさんっ娘にちゃんと舞台上から水橋かおりさんも気づいたみたいで、上映後の舞台挨拶では声をかけて「ティロフィナーレって言って?」って誘っていた。すぐに答えられる演技なれした子供でもなかったんだでちょい固まったところを今日も今日とて千葉まではるばるやって来ていた司会の吉田尚記アナウンサーがだったら終わりにみんなでティロフィナーレってやろうと言って場を取り繕って悠木碧さんの挨拶を終えてから全員で大合唱。いやあ良い朝だった。そんな舞台挨拶では鹿目まどかが魔法少女になるシーンで、願いを言ったときに感情がないはずのキュゥベえがうっとおののくような声音を見せることについていったい、どういうやりとりが音響監督さんとあったのかが聞かれてあそこでウッとやるからカタルシスがあるんだといった指摘があってああいった演技になったとか。矛盾するけど納得できるという差配。そこが瞬時瞬時にできるところが音響監督の凄さだし、声優さんの素晴らしさでもあるんだろう。

 といったシーンも含めた「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語」はテレビシリーズに見入っていた人にはひとつのダイジェストであり、すべてを知ったあとで見て今はズレているまどかとほむらの関係が、過去にどうだったかを認識していることもあってその切なさに涙したりといろいろと感情を刺激されそう。初めて見た人には前編からつながり後編へと入ってさらに明らかになるそうした要素に、まずは愕然としてそして映画を見直すなり、テレビシリーズをパッケージで見直すなりして、細かい部分でどれだけの“意図”がこめられていたかを再確認して楽しめるんじゃなかろーか。その意味では何度も味わえる作品として、2010年代のスタンダードになって行きそう。

 ただカルチャーとなるかというとううん、プラモデルやニュータイプという概念を残した「機動戦士ガンダム」や、青春の葛藤とグッズを残して今も生みだし続けている「新世紀エヴァンゲリオン」の域に入れるかというと不透明。ひとつのフォーマットを崩してみせた技の冴え、そしてイヌカレーを使ってのビジュアルイメージの斬新さ、あとやっぱりSF的な大技の炸裂といった部分で興味を惹いて語り継がれる可能性は高いけれども、文化の域に達するにはやっぱり市場のケタが1つ足りないような感じ。その意味からも作られ2013年に公開される「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新章]叛逆の物語」がどんな展開になるのに興味。魔女を廃する概念となってしまったまどかと、その活動の果てに魔女とならざるを得なくなってしまったほむらが対峙するのか。まどか自身が暴走したのをほむらが諌め糺すのか。興味いっぱい。公開まではだから死ねない。「宇宙戦艦ヤマト2199」の完結もあるし2013年も生きていけそうだなあ。

 だかわいわんっちゃないというか。昨日に堂々と伝統ある1面コラムで他社のやらかした誤報に対してそりゃあ拙いと言いつつ自分のところがしでかした国際級の誤報をさらりと流した上で別の他社がずっと繰り返している主張に対して歴史の権威でもない人のブログを引き合いにして間違っているって言われているだろうと誹り、そうでないなら反撃したらどうだと煽って早速だったら自分たちで調べて誤報なり、捏造なりと指摘しろよ報道機関なんだかと言われていたりもした新聞が、その舌の根も乾かない翌日に誤報へのおわびを載せていたから何というか、ユニークというか。

 もちろん誰にだって間違いはあるからそれを改め訂正することは恥ずかしいけれども仕方がない。問題はそうやって出した訂正が、前日のコラムで枕に振った他者の誤報と同じものだった、ってこと。それについてはコラムが出た瞬間に、お前ん所だって同じ記事を載せているじゃないかっていう突っ込みが、各所から入っていたんだけれどそれが1日経って現実になって改めて、1面のコラムを書く人は自分のところがやっていることをもしかしたら知らないんじゃないかとすら思えてきた。

 だって同じ事をしでかしているって分かっていたら普通は絶対に取り上げられない。あまつさて別の他社の誤報捏造を揶揄するコラムになんて仕立て上げられない。だって自分のところはどうなんだ、って言われるのがオチだし、そもそも誤報捏造の類をしでかしたという意味で同じ身分の人間が、たとえそれが正当であっても他者の誤報捏造を恥ずかしげもなく批判できるはずがない。恥ずかしくなければできるんだけど。ああそういうことか。

 そうえば以前にも前日に東京都の区役所の自衛隊に対する不遜な態度を非難する記事を載せ、それが即日に反論をくらって謝りにいったにも関わらず、その翌日に同じ1面コラムで間違った記事をそのまま鵜呑みにしてやっぱり区役所を誹る文章をかいて区役所たちを激怒させたことがあったっけ。それをまた翌日に謝るようなそうでないような文章を載せてなおいっそうの不興を買ったんだけれどその時に、連絡が行き届いていなかったからおこったことで今後は気を付けますとか言っていたにも関わらず、同じようなことが繰り返されるこの状況はいったい何なのか。まったくわけがわからないよ。さすがに世間もそろそろ気づいてはいるだろうけれど、それが何をもたらすかを考えるとこれまら不穏。2013年という年が迎えられても越せるか否か、って当たりに至ってどうしたものかと考える。考えてどうなるものでもないけれど。やれやれ。


【10月13日】 そして目覚めると日本代表がフランス代表とサッカーをしていたんだけれども、無視して家を出て暗い中を電車に乗って向かうは新宿ピカデリー。いよいよ始まる「宇宙戦艦ヤマト1299 第三章」のイベント上映にかけつけ、限定版のブルーレイディスクを手に入れそして映画を観るのがこの春から続く日課になっていて、前回こそは販売が送れて申込用紙だけもらってすぐその場を離れたけれども、今回はちゃんと売り出されるみたいで午前6時から行列を作り待機。ともすれば眠たくなる頭をさっぱりさせようと、景気付けにジャンクフジヤマの曲をiPadからガン慣らして耳に入れて待つこと1時間。いよいよ売り出されたブルーレイディスクをまずは買い、それから物販の行列に並んで今回の最大のアイテムとなった新見薫のマグカップを買ってひとまず現場を離れる。

 その時はまだ上映が始まっていない段階だったからなのか、あんまり人気がなかった新見薫のマグカップだけれとこれが映画を観たあとだったら、一押しアイテムになることは確実。だってとっても萌えアイテムなんだもん。登場してくるシチュエーションがなかなかな上にそれを使う新見薫が、普段の情報長としてのどこかツンケンとしたところをややおさえ、どこかに可愛らしさを残した仕草に表情なんかを見せてマグカップを口にあてる。そこに描かれているのは本人がマジックで描いたんじゃないかとすら思えるくらいにシンプルな熊。キャラクターの見た目や属性との間に生じるギャップが激しい萌え気分を感じさせて、これさえ手に入れば新見薫も手にはいるような気にさせてくれるのだった。まるでそんなことは現実にはないけれど。あとで舞台挨拶の司会に出てきたアニメライターの小林治さんに言わせればピンクよりは白が良かったそうだけれどもそこはそれ、出ている唯一にして絶対のアイテムとして新見薫ファンなら絶対に買い。そうでなくても全員が買い。それくらいの破壊力を持ったアイテムだ。うんそうだ。

 そんな新見薫もいろいろ登場しては「出雲計画」なる存在をほのめかして、後々いろいろ絡んできそうな予感をさせつつ本編は、いよいよテレビ版では未踏というかまるでやっていないエピソードへと突入。舞台挨拶で出渕裕さんが「なかったんだけれど見たことあるような話にしたい」って言っていたけどまさにその言葉どおりにテレビ版が例えば3クールだったら、あるいは1年だったら挟み込まれていたかもしれないエピソードが繰り出されてはヤマトの前に立ちふさがる。アンドロイドのガミロイドが見る夢だとか、ガミラスの美しい女性パイロットの潔癖さだとか。そんな交流を経て相手にも心があって文明があって人間と同じ存在だと分かってなお戦えるのかそれともだからこそ戦えるのか。ガミラスの女性パイロットが最初に攻撃してきたのはテロンすなわち地球人だと話していたのは情報統制からの勘違いなのかそれとも事実でそれを地球が隠蔽しているのか。デスラーのあの潔癖さを見ると宣戦布告も公明正大に行っていて不思議はない訳でそれを異文化だと握りつぶした地球の政府があったのか。気になるなあ、そういう政治の部分も。

 でも眼前ではそんな美しい女性パイロットを含めて女性キャラクターのオンパレードな第三章。それこそピタピタっとしたスーツのお尻がとても目立ってこれは絶対に大きなスクリーンで見なければって思わされるし事実こうして見に行った訳で。いやあ見上げるお尻の何て丸いことか。あと胸もなかなかにいろいろ見られて素晴らしかった。ブルーレイを買ったからいつだって家で見られるんだけれど巨大な画面で見たいからまた行くか。一方でガミラス側はおっさんばっかりだけれど中身が掘勝之佑さんだとか若本規昭さんだとか重鎮揃いで耳に響く響く。舞台挨拶で出渕裕さんも話していたけどデスラー側がブースに入って録っている姿を見て若いヤマト側の声優さんたちはこれは勝てない、キャリアでも勝てないけれどもアニメの中でも絶対に勝てないって言っているとか。そりゃそうだ。なおかつ実際にこれからデスラー側にはそれこそ万の物量でヤマトを迎え撃つことになるんだとか。勝てるはずがないのにそれを破っていくストーリーをいったいどう考えているのか。何を見せてくれるのか。来年1月の第四章もやっぱり行かねば。朝寒そうだkれど並ばねば。

 これはいけない。とてもいけない。まるでいけないんだけれど書いた当人と載せている媒体に、これはいけないんだとう自覚がまるでないのがさらにいけなさと、イケてなさに拍車をかけて絶望しかない未来へと一直線にひた走る。例の読売新聞によるiPS細胞臨床応用の記事は記者がある程度先走った上に、デスクも部長も功名に走って確認を怠り載せてしまって後の祭りとなったことが、事後の検証からほとんど明らかになって来て、こりゃしまったと大反省の弁を繰り返しているんだけれど、そうした読売の不始末に何か同情するかのようにとある新聞が、伝統ある1面コラムでその新聞が去年にやらかした、中国共産党の重鎮の根も葉もない訃報の大号外提供を挙げて「小紙も人ごとではない。昨年も中国の江沢民前国家主席を『死亡』させてしまい、関係者や読者に多大のご迷惑をおかけした」と書いてすぐさま「そのうえで朝日新聞にもぜひ、調査してもらいたいことがある」と他に矛先を振っている。

 そこで繰り広げられる論旨は、朝日新聞の書いた記事があるいは捏造かもしれないとう外部の指摘に反論できるのならしてみろという内容で、それは確かに個別に検証される必要はあることなんだけれど、それを口にして良い人と悪い人がいるなら、過去に失礼極まりない訃報を号外で喧伝した新聞は、やはり言って悪い方に入るんじゃなかろーか。少なくとも「迷惑をおかけした」なんて簡単な言葉でやり過ごして、他に矛先を向けて堂々としていられるような立場にはない。むしろ恥ずかしげにそれをやってしまった背景を検証し、読売の事由から学ぶべきことは学んで自省へと繋げ、メディアの健全化に資するための提言をするのが、真っ当に正しくそして美しい言論機関のあり方だろう。

 だいたいが他社の不始末をそれが事実かどうか自ら調べて訴えもせず、他人の言葉を後押しするようにぶつけるのは言論機関のあり方としてズレている。そんな幾重もの間違いを堂々とやって何の衒いもない伝統ある1面コラムの書き手と、それを掲載する新聞のスタンスを読者は信じていられるのか。またいつか自らが間違えても同じ論理で別の間違いをあげつらい、責任を追及して逃げを図るような態度をみせやしないか。そう思って当然だろう。実際、訃報の号外に限らず最近でも皇室典範の改正を断念と書きつつその可能性があると並べ書く捻れた論旨を繰り広げて平気だったし、しばらく前には区役所が自衛隊の立ち寄りを拒絶したと書いてすべての区役所から抗議をくらった。当の1面コラムはその時に、誤報あるいは捏造をそのまま鵜呑みにして区役所を批判する文章を書き、抗議されて取り繕ったのは良いものの、その上で新聞に書いてあることを信じるなという、言論機関にあるまじき言葉を吐いて爆笑を誘った。

 日本の戦車にウインカーがあるのは憲法が悪いからだと書いたら、世界中の戦車にウインカーがついていると反撃をくらってそのまま沈黙したのはどこの新聞だったか。間違えることは悪いけれども、間違えた理由を探り間違えないようにする努力があればそこに読者は未来を見る。可能性を感じる。それすらもなくただ他社の間違いをあげつらって批判し、「同じ新聞人として売られたケンカはぜひ買ってほしい」と嘯くなら、自らに向けられたこれまでのさまざまな異論に対してどうして反論しようとしないのか。そんな言行不一致をだから世間はすでに見て、それこそ見飽きるくらいに見ていろいろと考えを抱くようになっているのが、今のこうした状況なんだろう。そしてその状況を自覚していないことが、こういった無茶な論旨の開陳へと至ってさらなる離反を招き呆然を誘って、自滅への道をひた走らせる。困ったことだけれどもどうしようもないのもまた現実。だから待つしかない。審判の日を。閻魔様の裁断を。

 夕方に赤坂で南里侑香さんのライブを見せて戴きに赤坂BRITZに言ったらmanzoさんがベースを弾いていた。マラカスじゃなかった。歌も歌っていなかった。「これはゾンビですか」の主題歌とか超カッコイイ曲も作って歌も歌えてマラカス振れる上にベースまで弾いてそれも南里侑香さんのバックで弾いてみせるとはいったいどういう人なんだ。実はとてつもない凄いミュージシャンなのかも。そして日本ブレイク工業は世をしのぶ仮の姿だったのかも。ううん。見たら「セイクリッドセブン」の主題歌の「輝跡 −kiseki−」は作曲がmanzoさんだからそんなところから繋がりが出来てバックに引っ張ったのかその逆か。いずれにしてもミュージシャンとしてのmanzoさんが見られるライブ。次もあるのかな。ツアーとかしてくれるのかな。

 というか南里さん、元がアイドル系でそして声優もこなしてFICTION JUNCTIONで歌姫もやっているくらいで声が良い上に歌も巧いんでライブハウスの大音響の中も声が通ってよく伝わる。よく何言っているのか分からないけどまあ雰囲気で乗れちゃうからいいやって人もいたりするけど南里さんはちょっぴりハイトーンな上に粒立ちがしっかりしていて耳に歌詞がメロディとともにちゃんと突き刺さってくる。凄いなあ。「坂道のアポロン」で歌ったジャズのスタンダードを日本語で歌った時なんて鳥肌立ったよ。そして喋ると天然で黒柳徹子さんみたいにボケをスルーしてほんわか進めるタイプでそれが高じたかやたらと長くなって最終的に3時間弱のどこの山下達郎さんだ的ライブになったけれどもそれもまた良し。あの美声をずっと聞けてそして歌声をたっぷり味わえたライブ。今回がご招待だったけれども次は自分で言ってみよう。下から聞けばさらに良い声が全身に伝わってくるだろうから。でも立ちっぱなしで3時間はちょっと辛いか。考えよう。


【10月12日】 11日の午後の8時にはノーベル賞のサイトにその名前が発表されて、2012年のノーベル文学賞は中国人悪化の莫言さんに与えられることが決まったことが分かったんだけれど、同時刻に新聞社のサイトなんかをざざっと見ても、それがフラッシュ的に入ったりはしてなくってよっぽど真剣に村上春樹さんの受賞を信じて、予定稿を作ってシステムに載っけて、あとはサイト上に送り出すだけになっていたんじゃないのかな、なんて想像も浮かんだりした喧噪の夕べ。朝どころかその数日前から「村上春樹村上春樹」と喧しいくらいに報道があっても、はや獲るのは確定事項とすら思わせる雰囲気が出ていたけれども、そもそも直木賞芥川賞の類と違ってノーベル賞にオープンなノミネートなんてものはなく、ただ雰囲気から誰が区補になっているかを類推して、そろそろじゃないかって噂が広まる中で確定かどうかを待つだけなのが実体だったりする。

 とはいえそうした噂も決してただの噂ではないことは、村上春樹さんと同様に“候補”として挙げられていた莫言さんが、こうして受賞したことでも明かなんだけれども今度はだったら莫言さんと村上春樹さんの、どちらがノーベル文学賞に相応しかったのか、なんて議論を戦わせるのが文学を報じるメディアの責任であるにも関わらず、テレビなんかはまずもって村上春樹さんの“落選”を報じた上で、莫言さんの受賞を伝えるようなフォーマット。いかにも村上さんが獲るに相応しかったような空気をなお引っ張っているところに、中身ではなくただ名前だけを挙げて転がし持ち上げようとするメディアの妙なスタンスって奴を垣間見る。

 むしろこの2人が並んだ場合、莫言さんが獲るのがノーベル文学賞的な空気の中では当然で、中国という場所にあって決して反体制の旗手として祭りあげられてはいないけれど、だからといて権力べったりではなくそのマジックリアリズム的な手法の中に、体制も人民もおしなべて批判してみせる筆の冴えを見せている。もう随分と昔に読んだ「酒国 特捜検事丁鈎児の冒険」 なんて本当に凄まじかったよ右も左もメッタ切り。後にエロティックさで発禁になる本すら書いている人が単なる体制ベッタリの作家であるはずがない。名前が挙がった時にこれはとって当然だと思ったら案の定という流れを、多少なりとも本を読む人だったら感じていたし、実際にそのとおりに莫言さんの受賞を喜んでいるんだけれど、メディアは村上さんが獲って当然、莫言誰って感じの報道をずっとしていて、その間に格差めいたものを醸し出していた。

 結果は見てのとおりということで、慌てて差し替え莫言さんに関する原稿とか用意して載っけたんだろうけれど、それでもやっぱり残る村上春樹贔屓の空気。そんなにみんな村上さんが好きなのか? 「風の歌を聴け」から始まる三部作に「ダンス・ダンス・ダンス」とそれから「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」までは凄まじく素晴らしく虚無を描いて読む人を異世界へと引っ張り込んだ。安倍公房さんほどの難解さはなくそれでいて虚ろな空気の中に幻想を見せて楽しませてくれた。「1Q84」でもそのニュアンスはあるけれどもどこかやっぱりエンターテインメント、長い割に薄くなって虚無の空気が足りてない。そんな作家が獲るべき賞なのか否か。そうした議論がメディアにはほとんど乗らず、ただネームバリューだけでそうじゃなかと報じられる。そこには作品そのものに対する視点がない。

 対して莫言さんは今なお激しく戦っている。そしてこれからさらに激しい戦いに巻きこまれる。そんな作家が獲った賞をさて来年、村上春樹さんがとれるのか。もっと世界には相応しい作家がいるんじゃないのか。トマス・ピンチョンにティム・オブライエンにジョン・バースにジョン・アーヴィングにポール・オースターにリチャード・パワーズに他多数。今の世界の文学を語った上で村上春樹の位置を語る中からノーベル文学賞の行く先を問うような報道があって初めて、世界の文学に人の目も向くんだろうけれどそうした意識なんてまるでないのが今の新聞文化系報道。来年もだからやっぱり“候補”として挙げられているだろう村上春樹さんが獲る獲らないといった喧噪ばかりが紙面を埋め尽くし、対抗に誰がなってそれが世界の文学の上でどういった軌跡をたどってきた人なのかと問う記事は誰も書かずどこにも載らないんだろうなあ。どうでもいいやもう。

 まあ条件反射的に動いてあとで痛い目を見るのが、新聞なり日本のメディアの特性って奴で目の前のスクープに急いで飛びついた挙げ句にガセをつかまされ、大恥をかいてきた歴史の繰り返し。あるいは何か意図的にそっちへと誘導しようとしてガセを書いて、それが出たから軌道が修正されたんだと開き直ってみせるとか。でもなあ、やっぱり例のハーバード大でiPS細胞の臨床応用をやったって日本人研究者の話を真に受けて、1面トップでドカンとやってしまってすぐさまハーバード大からも、日本で所属していたという研究機関からも異論が出てきた一件はちょっと酷すぎる。なるほど似たような例として韓国でES細胞の研究で成果を上げたってっとても偉い先生が発表して、国もメディアも持ち上げたら、実は捏造で世界的に信用を失ったのみならず、研究の進展にも大きな影響を与えた一件があったけれど、国を代表する研究機関で過去に成果も上げてきた研究者が裏でこっそり捏造なんかをしていたことを、国とかメディアが見抜こうったて見抜けるものではない。

 そこに愛国のバイアスが乗っかったものだからもう一直線。それが結果として傷口を広げた訳だけれど、今回の場合は最初の段階でこりゃあちょっと怪しいかもと思うなり、そうでなくてもハーバードに連絡してどうですかと尋ねてみれば、そうですとなりそうではないですといった返事があって、正誤が即座に判明しただろう。そうした基本的な裏取りを怠った初歩的なミス。問題はそれが堂々と1面トップで展開されてしまったことで、書いた記者の功名心のみならず、通したデスクなり局長なり媒体そのものに一発狙ってやろうって意識が蔓延していたことが露呈してしまった。新聞なんてそんなもの、それであとで訂正すれば済むって話になるかというと、速度にネットで劣り迫力でテレビに劣る新聞が他に勝る取り柄は今や信用とそれから多様性くらい。そこを自ら潰すような真似をした以上はや、っぱり報いを受けるんだろうなあ、ってそれだととっくに報いに沈んでいなけりゃいけないメディアがあった。今いったいどうなっているんだろう。

 やあ栗山千明さんだとっても可愛い栗山千明さんだずっとずっとファンだった栗山千明さんに会えるんだったら僕は僕は何だってしますと言っても会える訳ではないだけに、貴重な機会を逃すまいと「このライトノベルがすごい大賞」の発表会をのぞいて栗山千明さんがライトノベル愛を語るのを見物する。やっぱり本気で読んでいるなあこの人。自分の名前が冠された栗山千明賞の2作品だけでなくってそのほかの作品も読んで感想をさらりと述べる。当然に大賞の「ロゥド・オブ・デュラハン」もちゃんと読んでいて自分になぞらえて感想をいって新聞記事とかの掴みにする。美味いなあ。そして頭も良い。そんな人が参加してくれているだけでもっともっと話題になっても良いんだけれどもそこはやっぱり巨大なレーベルが幾つも先行する世界。それでも少しづつ集まるメディアも増えてきた。あと1歩。アニメーション化でもあればなお確実に。来年もまた会えるかな。


【10月11日】 せっかくだからと幕張メッセで開幕した「全日本模型ホビーショー」へと出かけていったら狭かった。いやまあ最近はメッセの第9ホールくらいを使ってこぢんまりと開かれていたけれどもそのホールですらブースでいっぱいにはなってなくって所々に商談ブースも置かれる中で代表的な幾つかのメーカーが軒を並べるといった印象。これだとむしろ春に開かれている静岡でのホビーショーの方が盛況かもしれないって感じで、あるいはいつか統合されて首都圏から模型の商談会がなくなってしまう可能性すら感じてしまった。まあそれも仕方がない話かなあ、街を歩いていても模型の店があってそこでプラモデルを買っている子供って観たことないし。せいぜい作っていても「機動戦士ガンダム」のプラモデル、いわゆる「ガンプラ」って奴だし。

 たとえば昔だったらお小遣いをもらった子供が真っ先にいくのはプラモデルを売ってる店で、そこで高くはないけを楽しめる模型をかって帰って作って遊んで楽しんでいた。ちょとばかり腕が上がってくると塗料を買ってきては色を塗って本物っぽくして遊んでいて、それが高じて模型の道へと進む人もいたし別の美術に目覚めてそっちに流れる人もいた。いずれにしても手を使い何か表現をする入り口になっていたはずなんだけれども今、そういう子供ってどれくらいいるんだろう。ガンプラだって買っているのは割と大きな人たちって感じだし。そうならないようにと生みだしたのが「機動戦士ガンダムAGE」だった訳だけれど、思うような世代に届いたって感じでもないしなあ。「ダンボール戦記」はそれでも頑張っている方か。いずれにしても昔のようなイメージはない。

 模型の文化が廃れたって訳ではなくって例えば年に2回、幕張メッセで開かれているワンダーフェスティバルってイベントに行くとそこには何万人って人が集まってガレージキットを買ったりフィギュアを買ったりして楽しんでいる。ガレージキットなんて本来はマスプロダクツを作っているメーカーでは手の回らないジャンルの品をアマチュアが少量だけ作って売っていたもの。それが今ではマスプロに負けない人気を誇り市場を作り出している訳で、模型文化の裾野の広がりを現している実例だと言えば言えるんだけれど、年に2回しかないワンフェスといつでも買える品が揃うホビーショーでは集まる層も違うし意気込みも違う。一瞬だけ盛り上がる市場であって永続的に模型を楽しみ続ける文化となると、やっぱり一時期ほどには盛り上がっていないんだろうなあ。

 あとワンフェスだと企業が出してはいてもほとんどがフィギュアでこれもいわゆるプラモデルの世界とは少し違ったジャンル。ホビーショーでも以前はそうしたフィギュア系を出している会社があったけれども、玩具として遊ぶ人はいてもホビーとして楽しむ層とは違ってあんまりそぐわなかったのか、最近ではホビーショーでフィギュアはあんまり見かけなくなった、ってグッドスマイルカンパニーらしきときころはいたけれど。だからやっぱり車であったりミリタリーであったりといったプラモデルを、昔のように子供も楽しんでいた文化はやっぱり縮小する方向に行ったりしているのかもしれない。そんな中でいったいどういった層にアピールしていくのか。やっぱりガンプラ一辺倒なのか、それとも従来の方向をより高級化させていくのか。そんな未来を探る動きがほの見えるホビーショーだったかもしれない。

 具体的な品で面白かったのはやっぱりバンダイの「ちきゅう」かなあ、独立行政法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)ってところが持ってる地球深部探査船で普通の船の甲板にヘリポートがあり巨大なタワーが建ちあれやこれやがくっついて、ひとつの基地みたいな雰囲気を醸し出している。バンダイでは前にやっぱりJAMSTECの大深度海洋探査船「しんかい」をプラモデルにして出す英断を下しているけれど、あれはあれでフォルムの格好良さがあった一方でこちらは構造的な面白さがあって作るのがとっても面白そう。バンダイらしく素組みでもちゃんと色分けがされているから見た目も良好。部品点数は多そうだけれど4時間もあれば組み上がるそうでもしかしたら細かいパーツの山ほどありそうなリアルグレードの「機動戦士ガンダムZ」より簡単かも。最近目が悪くなって小さいパーツが見つけられない上に作業する場所もない人間には「Z」はキツい。そんな人には最適……って訳でもないかやっぱり。でも大人の子供心をくするぐプラモデルかも。そんな辺りをついてくるのがやっぱりバンダイだなあ、さすが。

 アニメ作りがテーマとなったライトノベルが幾つか出ている中で電撃文庫から出てきた秋傘水稀さんの「アニメアライブ」はなるほど大学生の主人公が女の子ばかりのアニメーターと声優の卵と作曲者を束ね自主制作アニメを作って頑張るって話でとても熱くて感動した。意外な展開もあってハラハラとしながらも良かったなって印象で読み終えらるのも評判になりそう。これをアニメ化するって話も出てきそうだけれどもむしろ実写化して映画の中でアニメーションを作って上映しつつ、ラストの波乱をライブアクションでやらせればとっても緊張感があってそして感涙できる映像になるんじゃなかろーか。それには相当な演技力が要求されそうだけれど、ヒロインのひとりには。あとドイツから来て日本語の辿々しいアニメーター志望のヒロインを誰にするかも。誰かいるかな。

 ただやっぱり気になったのが、全体にプロのをアニメーターってそんなに食えない職業なのかって思わされる部分で、時給が平均298円で離職率は9割あってまるで食えない職業だけれど、それでも世間にも夢を与えたいという情熱でしがみついているんだといった、どことなく一般に言われているようなイメージが強く打ち出されていて迷った。主人公の大学生の少年自身、アニメーターでは家族を養えないとかアニメーターでは子供を大学に行かせられないとか、そんな主張を浴びてそれでもへこたれないところを見せていて、なるほど発奮の材料としては良いけれど、本当にそれだったらいったい世にこれだけいるアニメーターの人はどうやって家族と暮らしているの? って不思議がわいてくる。だっていっぱいいるじゃんアニメーターで家族持ち。そんな人がちゃんと食ってアニメーションを作っているじゃん。

 だからアニメ作りの方式を単純かし、アニメ業界が置かれている環境を誇張し、ライトノベルらしく戯画化して描いてそうだよねそだよねって共感を誘う作品としては意味があるし、面白かった「アニメアライブ」だけれど、アニメ作りが決して貧乏暇なし金なし希望なしだけれど情熱だけで死屍累々の上に作られているものなんかじゃないってことは、世の中の人に伝えてほしいかも。でないと本当にネガティブな情報のスパイラルにまみれて誰もアニメに関わらなくなるし、そういうものだと思われて余計にひどさが増すだけだから。ところで「アニメアライブ」ってドイツから来たアンネリーゼがヒロインなんだろうか、表紙にもなっているし。その割には声優の観前の方にフラグが立っているような気がするんだが。イラスト担当のわだぺん。さんが描く口絵のアンネリーゼの鉛筆くわえた口がかわいいところを観るとやっぱりヒロインはこっちかな。音楽の娘の影が薄いんで次巻があれば巻き返しを。

 眉村卓さんの懐かしいSFを中村亮介監督がアニメーション映画化した「ねらわれた学園」をみたのです。湘南っぽい近くに海のある暮らしに憧れましたです。誰も海辺を歩いておらず交通渋滞もない自然を主人公やその関係者で独占しているような雰囲気が、喧噪のない自然の豊かなそうした風景に憧れさせただけなのかもしれません。それからウエットスーツの美少女に抱きつく犬が羨ましかったです。尻餅をついた少女の開き気味の脚を割って体に抱きつく犬に何か目的があったのでしょうか。ほかには別の美少女のガーターベルトがエロティックだったです。学校に携帯電話を持ち込むことがいけないことだと禁止されたのですが、チラチラと見えるガーターベルトの方がよほど風紀が惑乱させられるのではないかと思いました。それから渡辺麻友さんは大丈夫でした。むしろそれ以上でした。ところでどんな話なのかについては、いずれ公開されてから語りたいと思います。それまでに語るための言葉をいろいろと考えておきたいと思います。以上。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る