縮刷版2011年8月中旬号


【8月20日】 ああそうか、今敏監督の画集のネットでの予約開始は28日からだったか。でも既に買ってあるので争奪戦に参加することはなさそうなんで、こっちに参加しようかと思ったものの、繋がりにくくなってそのうちに完売なんてコノザマを食らう可能性も考え、ショップまで行っちゃった方が速いかもと早起きして原宿まで出むいて、サッカーショップKAMOの店頭でなでしこジャパンことサッカー女子日本代表のオーセンティックジャージーのチャンピオンエンブレム&優勝1回☆マーク入りを予約する。マーキングはもちろん「10 SAWA」だ。

男子の胸に輝くのはいつになるのかチャンピオンエンブレム&チャンピオンスター  昨日のなでしこリーグ選抜との試合で伊の一番にゴールを決めて、チームの立ち上がりの猛攻を支えた近賀ゆかり選手にも心動いたけれど、2002年のワールドカップで始めて日本代表のジャージーを買った時から、マーキングは10番と決めているし何しろあの大会でのMVPが澤穂希選手なんで、あの大会にちなんだジャージーにはやっぱり「10 SAWA」が1番似合うってことで。いや2002年で買ったのは出場しなかった「10 NAKAMURA」なんだけど。だから安かったんだよ2重になったオーセンティックジャージーだったのに。

 こちらは今が旬ってこともあって値段も18000円超とかしてマーキングも含めれば2万円オーバーだけれど、レプリカジャージーしか多分出回ってないかった女子代表のオーセンティックは珍しい上に、きっと来年の1月とか、少なくともロンドン五輪前には切り替わってしまうだろう日本代表のジャージーなだけに、あの感動の大舞台で着られた上にチャンピオンの証までついてるジャージーを入手できるのは今回だけ。日本のサッカー史上に残るだろうモデルはやっぱり手に入れておきたって人が、集中した模様で案の定ネット通販は激コミとなり、やがて売り切れてしまった様子。やっぱり朝から出むいた価値はあったってことで。早起きは何文もの得になる。

 しかしそんな日本のサッカー界の歴史への敬意、あるいはなでしこジャパンの活躍そのものへの深い思い入れから売れただろう今回のなでしこジャージー争奪戦も、メディア的にはフィーバーの1つとして流され煽られ報じられてしまうんだろうなあ。さすがにミーハーでも2万円前後のものなんて軽々しくは買わないって。でもメディアは一押しアイドルにお金をつぎ込むAKB48ファンにも似たシチュエーションで捉えている節があって、アイドル的な関心をそこに状勢させようとしているからどこか落ち着かない。いやまあ自分も買ったけれどねAKB48の日本代表レプリカジャージー。SHINODAで。いやまあなんというか。

 とりわけ醜かったのがスポーツニッポンで、1面がなでしこジャパンなのは良いけれども取り上げられているのが丸山桂里奈選手に川澄奈穂美選手。顔立ちの良さでもって目立つ2人で確かに試合でも活躍はしていたけれど、最初の得点はクロスをピンポイントで合わせた近賀ゆかり選手だった訳で、それなのに1面に持って来ないのはスポニチって新聞が、スポーツ紙を謳いながらもスポーツそのものではなくって周辺の話題を顔立ちなんてスポーツとはまるで無縁の価値観で取り上げ、並べることに執心しているからに他ならない。だったらスポーツ紙の看板なんて下ろしてしまえば良いのに、それが出来なくなってしまっている感性が日本のスポーツ報道をぐちゃぐちゃにして、結果としてスポーツにネガティブな影響を与えてしまっている模様。

 現場の若い記者には意欲はあって、今の妙な価値観によって彩られた紙面がスポーツそのものに興味を持った読者の関心の埒外におかれつつある状況を、困ったもんだと思って見ているんだろうけれど、何とかしたいと思ったところで、この何十年かの積み上げられたミーハー感性に凝り固まった中間層を、突破できないままやる気をスポイルされ、現場に絶望して離れていったりして、そして余計に妙な感性と価値観に支配された、誰も喜ばない紙面が出来上がってくるって寸法。これは別にスポーツ紙だけにあてはまることじゃなくって、一般紙にだって言えることで政治そのものに冠する話題をすっ飛ばし、政治家個人や政局といった、政策とは関係ないところでの話題に終始して読者の呆然を生んでいたりするから何というか。いつか改まると期待してはいたけれど改まるどころか非道くなる一方の状況にこりゃあそろそろと思う気分は秋の空。

 東京中日スポーツも1面は中日ドラゴンズでこれは当然として、サッカー面ではなでしこジャパンを取り上げていてそこでもやっぱり丸山川澄の2人の話題になっていて、オヤジ的感性が透けて見えてげんなりしたけど一方でちゃんとしっかり、なでしこリーグ選抜についても触れられていた。偉いと東チュウ。とりわけ前半と後半の途中まで試合を引っ張り組み立て後半の躍進の原動力になった宮本ともみ選手について、しっかり談話も含めて記事にして取り上げていたのが嬉しかった。本当に本当に凄かったんだから宮本選手。小林弥生選手も同様に凄かったけれどもこの2人は今でも立派になでしこジャパンの中盤として機能し、そして澤穂希選手に集中しがちな期待と重圧を、緩和する役目を果たせるだろー。当人はまだまだ意欲を持っているらしいんでここは是非に。

 原宿を出て表参道まで来て冨田伊織さんの「透明標本」の展覧会を、北青山にあるアンティークショップの片隅で見物。販売中心のイベントで値頃感のある小さいけれどもしっかり透明標本している透明標本がいっぱい並んでた。自慢のマウスだかラットがいい感じの色合い。でもきっと高いんだろうなあ。それから学芸大学前へと回ってユカリアートコンテンポラリー川本史織さんって人の個展を見物、「リアル系アイドル図鑑」って秋葉原とかで活躍する地下アイドル? というか会えるアイドルなんかをいっぱ捉えた作品集を出していたりする人だけれど、本業はアートでこちらはアート作品として男装アイドルユニットの写真とか、踊ってみました芸人の映像なんかを展示してた。

 面白かったのが男装している女性を撮影した写真で、5人が並び脇に1人が離れて立っていたりする構図のその画だけなら、パッと見は男性に見えなくもない女性たちって雰囲気の写真でしかないんだけれども、対面する壁には同じ構図で女性たちが写された写真があって、だったらそれはいわゆる男の娘的な女装写真なのかというと、実はその中身は向かいの男装した女性が、普段はしない女性っぽい格好をしたもので、なるほどだからみんな普通に女性っぽく見える訳だと納得しながらも、それを知らないで見ていた時には、男の娘にしては綺麗だなあ、でも中身は違うんだろうなあという戸惑いが実はあったりした。

 つまるところ人間の目なんてものはいい加減で、絶対的な基準なんてものは実はなくって、先入観に大きく左右されているんだってことを、倒錯の上に転倒を重ねたシリーズから、感じさせようとしていたりするのかもしれない。なるほどだからこの作品たちは、アートとしてギャラリーに展示されているのか。単に男装したり女装に戻して世間を攪乱するユニットを撮った写真を並べるなら、それは相手を紹介する媒介でしかない。そこに男装するという行為が現代において意味するもの、なおかつそれを女装に“戻す”という行為から浮かぶ、人間の視線の揺らぎって奴を浮かび上がらせつつ、見る人の価値観を問うことによってアーティスト自身の意識をそこに込めている。

 ニコニコ動画でいくらでも見られそうな踊ってみました映像を並べ、サイレントで流すのも、踊っている主体の踊りへの賞賛がメーンのネット的世界をいったん自分の手元に引き寄せ、並べ重ね合わせていくことによって浮かぶ、これがどうして人気なのかという不思議さと、けれども場所を気にせずに踊っている行為が持つスタイリッシュさ、美しさを総体として感じさせようとしているってことなのかも。いずれにしても奇妙で楽しく愉快で面白い作品展。秋葉原から遠く離れた場所で繰り広げられる、アンダーグラウンドから切り取られて純粋に行為として、ビジョンとして提示されるあれらの世界の不思議さを、改めて感じつつなぜそれらが人の興味を引くのかを、改めて考えてみる機会にしよう。個人的には男装が女装にした1番左の眼鏡っ娘が好みです。何のこっちゃ。


【8月19日】 1週録画しそこねたかそれとも放送しなかったか、記憶もうっすらとしてしまっているけれどもともあれ合宿編へと突入していた「バカとテストと召還獣」のアニメーション第2期は、明久の女装写真がバラまかれるという危機に立ち上がってどうにかするって話が女子風呂をのぞくとかいった話になっててそして全クラスの男子が一丸となって突入した先にいたのが……ってな落ちはまあしょうがないとしてせめてもうちょっとだけでも秀吉のサービスシーンがあれば暑さに茹だる頭も一気にヒートアップして爆発したかも。それじゃあ拙いか。姫路さんは手作りのお菓子も猛毒なんだなあ。いったい家ではみんなどうしているんだろう。やっぱり誰も猫またぎ?

 なんて朝方まで茹だっていたら突然の雷雨と強風でもって一気に気温が秋たけなわ。それはそれで心安らぐ話ではあるんだけれど、こういう日に限って取材もあればなでしこジャパンとなでしこリーグとの試合もあってなるほど世界って奴はままならない。そんな雨の中を出かけていった自由が丘は無印良品の裏手にあるアンティークショップ「given」には、もう目に入るもののすべてが愛おしくなるような品々で眺めているだけで時間が過ぎていく。なるほどグラスだの食器だの燭台だのといったものも良いけれど、よくよく目を凝らすとステレオ写真の原版があり、古いチョークがあり切手の束がありエアメールの封筒があり壁紙があり蝶の標本がありエッフェル塔の酒瓶がありエッフェル塔の建設当時の置物がありといった具合に、当時の日常を今に持ってきたようなものがあって楽しめる。

 いったい何に使うのか、っていってもチョークで何かを書いたところでそれは現代のチョークと変わらない。むしろ机の上に箱ごとごろんとさせておくことによって生まれる空間の異化、って方が馴染みそう。切手も古いポストカードなんかをかってきてそれに貼って楽に入れればオリジナルのメールが出来上がる。便せんとかでも別に良い。そうやってアレンジしていくことによって自分だけのオリジナルのアンティークが出来上がる。その意味でも「given」では「i」の部分をブランクにして手書きによって入れている、らしい。面白かったのはあとは缶に入ったフィルムのネガか。焼くと風景とかが焼き上がるのかな。映像ではなかったから写真だとは思うけど。ちょっと欲しかった。でも我が家では埋もれて出てこなくなるので遠慮。

 1番気にいったのは箱に入った襟の裏側にいれて形を整える襟芯みたいなので、それは普通はバラで売られていた物なんだろうけれどもそこでは箱も含めて売っている。同じ銘柄ではストッキングも同様に。ただ襟芯についてはパッケージが実に可愛らしいというかまるで萌えっ娘のようなデザインで、お下げ頭でパンツをはいてソックスをはいたその格好とその表情は現代の秋葉原に持ってきたって通用しそう。それが1930年代といわれる時代のフランスの品物のパッケージに描かれていたって事実は何を意味するのか。きっとフランス人も萌えが好きだったんだってことで。そんなはずはないか。ほかにもグラスがあればおちょこの代わりになる陶器もあって1つ1つが時代を感じさせ、そして可能性を感じさせる。生活が立て直されたら行っていろいろと買い集めて、暮らしを飾って楽しみたい。永遠に無理だろうけれど。この円高で10万ドル行かない我が生活では。むう。

 なでしこジャパンに熊野の化粧筆が国民栄誉賞の記念品として贈られたって話になかなか良いセンスって思っていたら世間的には女子を女子扱いするって発想が硬直的だのどうのって意見がモリモリと出て不思議な感じ。それを言うんだったらそもそもの「なでしこジャパン」って名称にも食いつけよ。大和撫子だなんてそれはもうニッポンの女性に極めて単一のイメージを押しつけかねない言葉を頭に冠していたりする訳で、そんな押しつけがましいことをするなと2004年にそれが決まった時に決起し、そして今年のFIFA女子ワールドカップ2011ドイツ開会で日本代表が優勝して連日連夜なでしこなでしこと連呼されている状況に苦言を言い募れよ。でも割に普通にそれはそれって受け入れながらも化粧筆は……って言ってみたりする妙なズレ。まあ今は菅総理が何をしたって異論を言いたいお年頃な人も多かったりするんで、そんな菅のセンスを言い募りたいがために坊主の周りの袈裟の色までをも云々、言ってみたりしているだけなのかも。

 それを使うか否か、ってあたりでもちろん確かに女性だから化粧だから美人であって欲しいから云々って押しつけはあるかもしれないけれども、こうした着想自体はひとつに古来からの伝統でもあって3月3日にお雛飾りを出すのと同じような感覚であってそれなのに自分は武者飾りが好きだから、って出す訳にはいかないように、ある種の儀式としてそこに化粧筆ってものが置かれたんだと考えるなら異論はあるけど納得はできる。それから重要なのは、ここでなでしこジャパンという巨大化してしまった名前を媒介にして熊野筆っていう日本の優れた伝統工芸に脚光が当たって盛りあがるという点だったりする。

 世界的には評価されていながらも肝心の日本で安いアジアの品に押されて廃れ継承すらままならなくなっていたりする工芸に、スポットが当たることによってそういうものがあるんだと誰もが感じ、それなら盛り上げたいと誰もが思って手を出すことによって熊野筆の継承が進むという効果が得られるかもしれない。何と素晴らしい。中田英寿さんが引退後に旅人をやって日本全国を回っているのも、自分という名前を媒介にして日本の伝統工芸にスポットを当てようとする意識のもと。それと似たような役割をなでしこジャパンが果たせたら、これはこれで決して悪いことではないような気がする。頑張った彼女たちにリターンがあるかないか、って意味では悩ましいけどそれはお金とかで解消もされている。副賞ではもう一段階、大きい意味をそこに込め、女子サッカーを盛り上げたその次に、日本の伝統工芸も盛り上げよう、って意識を示してくれたと考えるなら、実に素晴らしいことだと思えなくもない。あれこれ言うより前向きに。ケチはつければ相手がへこんでやがて衰滅を辿るだけだから。

 そんななでしこジャパンが国内にプレーヤーとして凱旋するとあって注目されたなでしこリーグ選抜との試合は、なるほど前半こそ連携があまり整っていない選抜の守備の乱れや攻撃の途切れを縫うようにしてなでしこジャパンが得点を重ねたけれども、その後膠着状態となって選手が替わった後半には、なでしこリーグ選抜が宮本ともみ選手の中盤でのさばきを軸にして両翼が頑張り前へとせり出し1点を確保。さらに小林弥生選手が宮本選手の代わりに入ると今度は圧倒的なテクニックとそして広い視野でもってテンポよくスピード感も伴ってボールが回るようになり、最後に1点を奪って2対3まで追いすがった。一方のなでしこジャパンは後半に入るとまるでゴールに迫れない膠着状態。リーグ選抜の守備が整ったってこともあるけれど、それ以上に引いて守るアジアの各チームを相手に五輪予選を勝ち抜けるのか、って心配も浮かんでしまう。澤穂希選手が故障なり披露んらいで抜けた場合の穴埋めも必要。そこに例えば小林弥生選手が入るとか、宮本ともみ選手が復帰するとかすれば何かドリームがあって良いのになあ。試合を見て佐々木監督が何か考えたか。これからに注目。


【8月18日】 おやまあ何てこった。ミスタージェフ千葉といったらもはやこの人しかいないと思われながらも首にされ、ロシアから中国へと彷徨っていた巻誠一郎選手があろうことか同じカテゴリーのJ2に属する東京ヴェルディに入団したという報に、まだ2試合とも残しているヴェルディとの試合でジェフ千葉のサポーターはいったいどういう顔をすれば良いのか分からないよなんつって。まあブーイングをするべきなんだろうけれども自ら手を挙げて出ていった訳ではないあたりに真正面から避難できない弱みがある。さあどうしよう。ともあれサイドに強力な選手もいたりするチームで活躍できそうな巻選手。そのヘッドが炸裂しまくり勝ち点を稼ぎ幕って気が付くと札幌に大敗して順位を足踏みしているジェフの上に来ている、なんてことも秋にはあったりしそうでああ悩ましい。鞍替えするか、もとよりなでしこは日テレ・ベレーザ押しだった訳だし、うーん。

 タンクトップ率の高かった新宿二丁目での小松左京さんの追悼イベントを見た後で、新宿御苑の駅へと向かう途中に見かけた古本屋で店頭の台にイリナ・イオネスコって娘のエヴァをモデルにした写真を撮って退廃的で耽美な雰囲気を醸しだし、人気を呼びつつ論争を起こした写真家の作品を表紙にした雑誌を見つけてこりゃ何だと手に取ったら、中には欧米を中心にした写真家の作品が大きく掲載されてそれから、写真に関するコラムなんかも載ってる写真誌だった。名を「ZOOM」。そんなのあったんだあと奥付とか見たら昭和61年とかそんな感じで、今から25年も昔にしてはなモダンぶりに1冊2冊、買おうかを他を探したらどれもこれもが素晴らしい。

 写真家のセレクトもコラムの雰囲気も、広告までもが時代の雰囲気を感じさせててこれはこれはと背中を見たら何と創刊号から16号までが揃ってた。ああもうこれは何かの天運と値段を見て1冊500円だから16冊で8000円、あったっけと財布を見ると1000円冊でちょうどぴったり、8000円あってこれは天佑とその場で16冊を抱え上げ、勘定場へと持っていってお金を払って紙袋に入れて貰ってえっちらおっちら地下鉄まで運び、さあ読むかと開いた第16号にさっきまで喋ってた鏡明さんが出ていてひっくり帰る。

 偶然にしては出来過ぎな展開。伴田良輔さん南伸坊さんと「観光」について語っていた対談で、鏡さんのプロフィールに「アメリカの夢の機械」執筆中とあったのは何かの間違いか。それから四半世紀はとうに過ぎても一向に出てこない幻の本。続きが出ない「虚無回廊」にも負けないその引っ張られっぷりに鏡さんこそが小松さんの“後継者”に相応しいのではいだろうか、うんまったく。まだ髪も黒々とフサフサな鏡さんに対して南さんは坊主でおにぎりみたい。まるで変わってないなあ、って最近あんまり見てないけれど。伴田さんはそもそも顔を知らないんでこの時が今どうなっているかは不明。しかしみんな25年経ってもちゃんと第一線にいたりする。強いなあ。今の旬な人って25年後、どーなっているんだろうなあ。

 おっつけいろりと見ていく予定だけれども印象としては後に創刊された写真誌の「deja−vu」に近いって印象。この雑誌で編集長をやっていた飯沢耕太郎さんも評論とか文章を寄せているし、メーンに特集を持ってきて後半に小さい特集やコラムや展覧会の紹介なんかを入れていくパターンもどこか共通点を感じさせる。ただどちらかといてばよりアートに近い写真が多かった「deja−vu」に比べると「ZOOM」の方はファッションとかサロンといった商業に寄った写真も結構あったりして、そーゆー写真の構築的な美しさを楽しみたい人はどこかアートがかった「deja−vu」よりも楽しめたかもしれない。

 とはいえ例えばジョエル=ピーター・ウィトキンとかも「ZOOM」には出ていて両性具有とか四肢欠損とかいった見た目に不思議な人たちを捉えた写真が載っている。90年代にぐわっと出てきた人たちを先取的に取り入れたってことでもあるいは歴史に刻まれるべき写真誌なのかな。飯沢さんもここでやったことをあるいは「deja−vu」で大きく広げたりしたのかな。いずれにしてもまるで存在すら知らなかった不明をさておいて、面白い雑誌を手に入れたんでこれからじっくり読んで行こう。1冊500円ってのはどうなんだろう、せどってそれなりにもうけられるくらいに安価な価格なんだろうかそれとも普通にこれぐらいで出回っているんだろうか。そもそも何号まで出てたんだ。まるでネット上に情報がないんだよなあ。だから調べようがないてことで忘れ去れていくなり亡かったものとされていく。インターネット以前の世界って、本当に歴史から欠落していくかもしれないなあ。

 まるで知らないうちにコナミがソーシャルゲームの会社になっていた、って訳ではないけれどもその存在感がコナミって会社の中でどんどんと大きくなっているみたいな状況に、まるでプレーしないけれどもソーシャルゲームってものの位置づけなんかを考えてみたいする真夏。超精緻なグラフィックでもって膨大な世界観の中を何十時間もかけてゴリゴリとプレーしていくゲームこそがゲームの進化系であって、いつかは現実と見まがうばかりの世界の中で体感としてゲームをプレーできる時代になるんだと思ってた大昔、手元の携帯とかスマートフォンの上で平べったい画面を見ながらてこてことゲームをやるなんて逆行も甚だしいって印象があったけれどもそれが今ではゲームの王様。ゲームといったらソーシャルゲーム。クリエーターにとっては何とも複雑な時代がやって来た。

 楽しいのか、って言われて皆さんがどう答えるかは知らないけれど、前にたずねたコナミの担当の人はダイレクトにユーザーの反応が返ってくること、そしてデイリーにそんな反応を確かめられること、出したら終わりじゃなくってずっとずっとお世話をしていけることにはやっぱり作り手として楽しさがあるんだ、ってことを話してた。喜んでもらえてこそゲームクリエーター。ならばその形が現実を凌駕するグラフィックでなくても、十分に感動もやりがいも得られるってことなのかも。いや全員がそうって訳ではないけれど。あるいはそうしたゴリゴリなグラフィックって奴はハリウッドならではの3DCGアニメーション映画と結びついて、方やリニアな映画として、こなたインタラクティブなワールドとしてユーザーの前に提示されるようなメディアミックスが図られ、大資本の元巨大な市場を相手にできるメーカーのみが、プレーヤーとして屹立していけるってことなのかもしれないなあ。未来はどうなる? 見続けよう。ゲームはしないけど。時間がないんだ。眠たくて。


【8月17日】 瀬能千波野が案外に生々しく人間で女性だったんで、ともすれば理不尽過ぎる展開にもあんまり違和感を覚えず、そういう展開があっても不思議ではないと納得できてしまった「神様ドォルズ」。間抜けなのは事情もしらず後から突っ込んできては暴走して、挙げ句におそらくは隻としての資格を失った匡平ってことになるんだけれど、その純粋で気弱な性格が時間をおいてどおまで成長しているか、ってのが現在進行形の物語でのポイントか。やっぱり時々暴走するからなあ。結局は自分の弱さを認められないで外に向かって吐き出しているだけれど。その意味ではヒーローらしくない主人公。代わりを妹の詩緒が担ってはいるけれど、こっちはこっちで粗忽だし。こうみると真っ当なのは阿幾だけか。どうりであの村で浮いたはずだよ。それもこれもみんな田舎が悪いんだ、と。日々乃さんの出番がやや少なかったんで次回はたっぷり。揺れも是非。

 サッポロ一番ったら塩ラーメンだろ白菜椎茸人参とかって季節のお野菜をたっぷりのせつつガジガジかっこむのが味なんだよと思う一方、やっぱり味噌ラーメンだねもやしを入れて肉入れてそこに卵をのせてちょいかき混ぜて、固めた奴を麺ごとすするのがサイコーって意見も一方にあったりする昨今。とはいえしばらく食べてないのはレンジ回りに本が積み上がって自炊が難しくなっていたりするからで、いい加減本を箱に入れてまとめて倉庫に持っていかないと仕事場にしている台所兼玄関からすら追い出されかねない。でも暑いからなあ。もうちょっと涼しくなるまで我慢だ。

 そうそうサッポロ一番が実はサッポロ一番って会社じゃなくってサンヨー食品って会社の商品だって知ったのは、大学生時代にディスカウントショップの食品売り場で働いていたからで、そんな名前の会社があるんだと気づいてからかれこれ四半世紀、今久々にその名前を聞いたと思ったらあのなでしこリーグこと、日本の女子サッカーを応援してくれるって話だった。こりゃあ目出度い、日本もワールドカップで優勝した甲斐があったと万歳したくなたったけれども、その詳報を読むと何かどっか引っかかる。

 東京都は港区にあるサンヨー食品が支援するのは、神戸に本拠地を置くINAC神戸レオネッサ。いわずとしれた澤穂希選手や大野忍選手、海掘あゆみ選手といったサッカー女子日本代表ことなでしこジャパンの主力選手が7人も所属しているチームで、その環境の恵まれっぷりはリーグでも屈指。それしかやっていないサッカー選手が大半で、プロ契約している選手も中にいる。本業を別に持って働いてから午後5時に退社し、それから夜の9時まで練習してそして帰って寝て起きて朝9時から仕事をするといった、なかなかに厳しい環境にある「赤貧なでしこ」のイメージからはちょっと離れた環境にある。

 そうしたチームだからこそ苦境に陥った日テレ・ベレーザから澤選手や大野選手、近賀ゆかり選手も移った訳で、それでいっぱい集まったなでしこジャパンの面々が、活躍して得た認知度を糧にしてさらなる収入を得る、ってのはなるほどプロのスポーツチームを経営するって立場からすれば、とってもとっても正しいことかもしれない。とはいえ一方で今はなでしこジャパンよりさらに裾野の広いなでしこリーグ、そして女子サッカーというものの苦境をなんとかする、というサッカーの世界に喫緊の命題からは、ちょっぴりズレてしまっているようにも映る。

 確かにINACは頑張って女子サッカーのチームを運営する下地をつくった。その“投資”に対してあったリターンだから決して疚しいものではない。とはいえ一将だけが成ったところで万骨が枯れてしまっては、女子サッカーそのものが成り立たない。巨人が強ければ他も潤った時代のプロ野球が、やがて飽きられ地域密着へと移行し、個々に成功するチームも出てきた流れを先取りして、最初から地域密着を謳い頑張ってきたサッカーで、さあこれからと首を持ち上げた女子サッカーが先祖帰りをするようにに、いつかのプロ野球化へと向かうのか。それが長続きするのか。ちょっと考えてしまう。

 だからこそサンヨー食品には、なでしこリーグそのものを支援するようなスタンスを見せて欲しかった。あるいは、地元に近い場所で苦境に喘ぐチームが一息ついて、リーグ全体が底上げにつながるような形の支援をお願いしたかったけれども、そうも簡単にはいかない事情があるんだろうなあ、金額とか手続きで。あと不思議なのは、サンヨー食品がINAC神戸そのものってよりもむしろなでしこジャパン、つまりは代表に入っている選手の支援に厚みを置いていたりすることで、それによって選手がゆとりを持って試合に臨めて、チームが勝つ状況が生まれれば素晴らしいんだけれど、そうした代表選手たちが代表で活躍できるのは、当人たちの絶え間ない努力と精進があることを認めつつ、裏で支えたチームとチームメイトもいたりすることも忘れたくはない。

 なでしこジャパンがワールドカップで優勝した時、これはチーム全体以上に日本の女子サッカー全体が頑張ってきた成果だって言った選手たちの思いも慮れば、そうした特定の選手、それも特定のチームに所属している選手のみが突出してしまう状況にしてしまって良いのか否か。それがプロフェッショナルだという意見も出そうな一方で、まだ早いといった見解も漂いそう。これまでの状況を、せめてこの10年の軌跡を知っていれば諸手をあげて歓迎するのに少し戸惑うこの支援を、何かとてつもなく素晴らしいことのように取り上げ持ち上げるメディアにも、やっぱり問題があるかもしれない。結局のところその時に話題なのが話題であって、それを話題にすれば話題になるという一極集中を煽っているだけだから。そうやって潰されてきた競技にチームに選手たち。自覚を持ったな選手や関係者の少なくない女子サッカーの場合は、そうならないとは思うけれども是非に気分を本職に向けて、目前の試合に勤しんでいって頂ければこれ幸い。

 女子サッカーではもうひとつ、行き先が見えていなかった東京電力女子サッカー部マリーゼことTEPCOマリーゼをどこかJリーグのチームが引き取る可能性が見えてきたとか。有力なのは川崎フロンターれだけれど理由は不明。おそらくはマスコットが方や世界マスコット級チャンピオンに輝いたかどうかしたフロン太くんで、こなたマリちゃんとともにイルカだってことか。結婚だって出来る同族をそれぞれに頂くチームどうしが結婚できない理由はないってことで落ちつけば他に仰ぎ見るのはフロンターレのGKくらいしかいない山根恵里奈選手の長身を、再び見ることができれば実に幸い。試合会場は等々力でも川崎球場でも嬉しいか、って川崎球場ってアメフトのほかに球技って出来たっけ。柏レイソルや鹿島アントラーズも上がっているけど太陽王ではイルカはひからび鹿では突かれちゃう。大宮アルディージャには先にエルフェン狭山の面倒を。良いチームなんだけれど今ひとつ地味なんだ。

 インディアン、っていうとやっぱり浮かぶのはジェロニモで騎兵隊で幌馬車でトマホークなんだけれどもそうしたアメリカの砂漠や荒野に暮らすネイティブアメリカンとは違った、森に暮らし河川に暮らすインディアンがカナダにはいる。一般にはファーストネイションズって呼ばれるその存在は、元を辿ればアリョーシャン列島を渡ってやって来たインディアンたちが、南へ南へと広がっていった歴史の大元に位置するインディアン中のインディアン。伝わる文化も北米のものとは違って自然に依拠し精霊の言い伝えをよく現したものになっている、って話をファーストネイションズってカナダインディアンのアートやアクセサリーを専門に扱っている人から聞く。トーテムポールって北米にもあるようなイメージだけれど本当はカナダのインディアンのものなんだとか。なるほど丸太は森に生えるもの。北米の大平原にはないもんなあ。今はまだそんなに知られてないけれど、フレデリック・バックって「木を植えた男」のアニメーションを作った人の展覧会にも絵に描かれ紹介されたたカナダインディアンなだけに、これからのファッションやカルチャーのトレンドに入ってくる可能性も少なからずあるんで、ちょっと着目して見ていこう。

 あの「超革命的中学生集団」の主人公の横田順彌さんとそれからアトラス鏡明さんが出てくるイベントに平井和正ファンとして行かずにおられないと出むいた新宿二丁目のイベントスペースは新宿二丁目な感じを漂わせつつもイベント自体は普通に平井和正さんについて……ではなく小松左京さんについての追悼があれこれ。「さよならジュピター」の企画に関わった若手の作家には毎週5万円が振り込まれることになっていてそれを周囲で羨ましいと見ていたら実はその5万円はそのまま映画「さよならジュピター」の資金となって徴収されて後には所得税の支払いが残ったという話や、そんな「さよならジュピター」を横田さんが「宇宙の七人よりは上」といったことが小松さんに伝わり「上」と言っていにも関わらず叱られた話とか、聞いててなるほど僕が映画館でワクワクしながら上映を待った映画の裏にはいろいろあったんだってことが分かって面白かった。僕は「さよならジュピター」を普通に見たのかなあ、それとも試写会に当選して行ったのかなあ。そこはちょっと覚えてない。

 もちろんそんな逸話だけでなくってSF作家としての小松左京さんについての話も語られて、何が好き勝手話に上がったのが「虚無回廊」と「エスパイ」ってあたりに横田さん鏡さんとあと山田正紀さん高橋良平さんといった、下の世代として小松さんとつきあって来た面々が同時代的に増えて得た所感ってのが伺えた。なるほど「エスパイ」か。壮大ではないけれども軽快な上にスリリングでそしてエロティック。エスパーが戦う話って今だとライトノベル的にわんさかあるけどここが嚆矢となっていると考えると小松さんってやっぱり偉大な作家だったって思えてくる。1を知れば10を完璧にこなしてしまうって話もあって「復活の日」を2冊の新書から書いてしまったといった話とか、もうほとんど見えてしまってそれで小説も同じ傾向に止まらず、いろいろと手を出したんだなあってことが伺えた。

 それでも「虚無回廊」ともなるといかな小松さんでも更新される科学的な情報においつけず進化するテクノロジーの向こうを見通せないまま書けずに終わってしまったっていった感じ? そんなテクノロジーのさらに奧の奧を描いてこそ、って気もしないでもないけれどそれをいきなりやってしまうと小説ではなく哲学になってしまう。作家として段取りを踏みつつ限界を、それも作家としてではなく人間としての限界を超えようと逡巡して模索していってぶつかった壁を、超えられないまま筆が止まってしまったってことなのかも。それでも、というかそれだからこそ「虚無回廊」は凄いと山田さんも鏡さんもうなってた。ならばやっぱり読むしかない。読んで果たしてどんな続きを思い浮かぶか。浮かんだら書くか。書ければとっくに小松さんが書いているか。未完をだから享受しよう。そして想像を繰り返しながら未来へと歩を進めよう。


【8月16日】 石岡ショウエイさんの漫画がJコミで見られるって話を書こうとして調べたら、何とあの大野安之さんの大傑作SF漫画にしてパンクでロックでポップで債券あ「That’s! イズミコ」がJコミ上に公開されていたのを発見。いつかどこかが再刊してくれるだろうと願いながらも、全然叶わなかった再会の夢が、Jコミっていうネット上での展開ながらも叶って嬉しさにむせび泣く。読めばわかるそのハイセンスぶり。そしてヒップホップ感。今の漫画にだってここまでの破天荒さはないんだけれど、それが1980年代の初頭に描かれていたってことだけでもう日本の漫画の凄さって奴が分かるだろう。同時に2000年代のサイバーパンクを体現していた大井昌和さんの「女王蟻」も早くもJコミに。単行本がもう出てないってことだとすると勿体ない気もするけれど、それでもやっぱり見て欲しいシリーズ。無料なんだから、見ろ。

 こりゃあ面白いと遡って楽がいったいどういう風にバンドの「チャーリー」を作り上げていったのかを読みたくなって、浅田有皆さんの「ウッドストック」を探したけれども近所の本屋に売ってない。新潮社で「コミックバンチ」から出ていた単行本ってことで、ただでさえ原哲夫さん北条司さんあたりに偏りがちな上に、いったんの雑誌の休館でもってコミックスがゼノンとバンチに分裂してしまったこともあって、書店が在庫をあんまり置かなくなっていた様子。あってもバンチからゼノンへと移った原さん原作の作品か、新生@バンチで始まった「エリア51」あたりの新作ばかりで、古いバックナンバーが見あたらないんでこりゃあどうしたものかととりあえず秋葉原に回って、直前の10巻とそれから1巻2巻を見つけて拾い上げ、いったいあの11巻へと至る過程で楽と四谷との間に何があったんだと確かめたら、四谷があまりにも非道かった。

 そのオタクっぽくって気弱そうな雰囲気とは正反対の、悪辣で陰険なそのやり口。平気で騙し嘘を語り暴力すら辞さない態度は人間の風上にも置けないけれど、でも音楽という舞台で自分を絶対に輝かせたいんだという情熱の深さはある意味で誰よりも1番かもしれず、そんなスタンスがしっかり音楽に現れ凄みとなっていたりするから楽だって簡単には騙されたとは泣き寝入りできない。むしろそこまでやる奴だってことを認めつつ、こと音楽にかけては自分以上にストレートな四谷の心を受け止めて、自分自身の音楽を探究する方向へと向かっていってそしてあの伝説の舞台へと至り、そして11巻のレコーディングへとたどり着いたのかと分かって楽しかった。あっぱり楽は楽。どこまでも純粋音楽バカだった。

 そして読み始めた1巻からの「ウッドストック」は、チャーリーに憧れメジャー寸前のバンドを辞めたベースのサイが、楽の働く運送屋に入って来るなんて超漫画チックな出会いがあったけれども、それが漫画でありまた運命って奴。そこから明らかになっていくチャーリーこと楽の才能、そこに集うドラムにベース、そしてボーカルといった面々の互いをさぐり合い認めあっていく姿が、とっても青春していて成長していて心にグッときた。それもこれも楽の純粋でまっすぐな音楽への意識があったから。なおかつ才能もあれば誰だって惚れるよなあ。でも誰かっていわれればやっぱりドラムの椎奈さんに惚れられるのが嬉しいなあ、美人だし、グラマーだし、パワフルだし。どーしてあれでメジャーにいかなかったんだろう? やっぱり何か秘密があるのか。サイトは違った展開が待っているのか。12巻以降にも楽しみが見えてきた。哀しみにはならないで。

 それにしてもスウは可愛いなあ。空手少女で父親に反発しているけれども、歌声だけはなかなかにパワフル。巧いか下手かは別にしてもやっぱりボーカルってのは声量がないと聞いていてどこか物足りない。和製のファンクだのディーヴァだのと讃えられている女性シンガーがいるけれど、どこかやっぱり声が腹の底から出てないような気がするんだよなあ。アメリカのアレサ・フランクリンとかドナ・サマーとかディオンヌ・ワーウィックとか、やっぱり聞いてて喉の奧のその奧から声が張り出し腹のそこを揺さぶるんだ。そんな歌手は日本にはあんまりいないもんなあ。全盛期の頃の和田アキ子さんなら近いかな。だからもしも「ウッドストック」がアニメになったら、あるいは実写映画になったら誰がスウの声を当てるなり役を演じて歌を歌うか、ちょっと興味。「BECK」みたいに演奏シーンは映像にしないって手もあるのか。それもつまらないよなあ。

 最初は恐ろしそうな顔をしていた雷怒さんとか、どーしてだんだんと優しくイケメンになっていくのか。それもこれもスウに惚れたからなんだろうけど、そのスウって別に楽に惚れてる訳でもKYことサイに惚れてる訳でもないんだよなあ、バンド物っていうと身内のそーした恋愛話が瓦解へとつながるケースもあるんだけれど、そーはいかないところがこの漫画を純粋に音楽だけで楽しめる要素になっていそう。それともやっぱり雷怒とくっつくのか。クレイズのザジが横からさっさらっていくのか。そんなライバルバンドたちも10巻までを読む内にだんだんと分かってきて、相当にチャーリーとそして楽の作る音楽、奏でるギターを気にしていそう。だからこそ11巻でミスターが見つけた、彼らに足りたにものが気になるなあ。何だろう。CDに足りないのはグルーブ感ならライブに足りないものはそんなグルーブ感を作るパッションか。雑誌読むしかないのかなあ。

 しかしやっぱり格好良いなあ演奏シーン。音楽なんてまるで関わってこなかっただろうスウがボーカルとしてステージの上で片足を曲げてモニタースピーカーの上に載せたりするポーズなんてもろパンクなシンガーって感じ。それを実演してキマる実在のアーティストがいったいどれだけいるかってことなんだけれど浅田あんはそうしたシーンを絵にしてどれもこれもピタッとハマるシーンに仕上げている。写真を見たってそうはならないデフォルメ感に空気感をどーやって作り上げていったんだろう。やっぱり実際に通い見て感じたものを心から手を通して絵にしてっているんだろうか。いつか聞いてみたいもの。でもスウはやっぱり11巻の冒頭で、両足を曲げてジャンプしている格好が1番好きか。スカートの奧とか見えそうだし、でもってそんなシーンが他にもあるんじゃないかと期待したのも一気に揃えて読んだ理由。その答えは? それは読んでのお楽しみ、と。

 NHKスペシャルなんかを見て思う。もしも日本軍が陸軍の言うとおりに南方へとあんまり戦線を延ばさずフィリピンからボルネオからジャワあたりを中心に守備を固め天然資源をえっちらおっちら日本に運んでいたら日本は持ちこたえられたかというとやっぱりサイパンあたりから落とされ日本を空襲されて終わったかもしれないけれどもそれでもミッドウェーなんて作戦がなく空母は健在で飛行機もあれば本土上空の防衛も可能でそれなりに持ちこたえられたかもしれないとはいえ中国であれだけ戦線を拡大していればいずれ疲弊しどこかでインドミャンマーあたりへと戦線を延ばさざるを得なかっただろうからそっちで膠着して疲弊し破綻したって可能性もこれありで、どっちにしたって始めてしまったことが1番の過ちだたってところに落ちつきそう。始めないで立ち直る術ってなかったのかなあ。やっぱりネックは満州か。どうしてこだわったのかなあ。

 中の人から4匹の猫を操る陰陽師的なお祓いをするかと思ったけれどもそこは残酷で鳴る的場静司だけあって、「夏目友人帳・参」での彼はニャンコ先生にも矢を放っては地を流させて怪物を目覚めさせ、そしてあっさりとその矢にお札をつけて突き刺し呪文を唱えて怪物を葬り去る。なんという腕前。その腕ならニャンコ先生だって消滅させられたかどうかって感じだけれどもさすがに大妖怪なだけあって無理かそれとも。矢で刺されても痛みはありながらちゃんとニャンコに戻れるところはやっぱり凄いのかもしれない、あの饅頭面に似合わず。翼の妖怪も出てきたけれどもあんまり活躍しないで柊から「コラ」と怒られ布団の中へ。どうして読んでくれないのかともだえる柊のまるで代わらない表情(面だから代わるはずはないけれど)の裏にあるだろう心理的な葛藤が面白かった。かわいいなあ。いつか顔を見せて欲しいなあ。


【8月15日】 日本の戦後というものが経済や産業の発展にあって、その牽引役として原子力発電があったとしたら、今年はそんな戦後にひとつは未曾有の事故として区切りがつき、そしてもうひとつは正力松太郎という原発を推進した人物が創設した読売グループの戦後を支えた氏家斎一郎さんと、正力松太郎さんの子息の正力亨さんの相次ぐ訃報という形でもって区切りがつけられたという印象。もちろん亨さんは原発そのものには大きく関わっていないけれど、名として強く残る“正力”のひとつの終焉はやっぱりとっても意義深い。そういや日テレに正力なんとかって人がいたりしたけどやっぱり一族なのかな。その割には大きな立場にないよあなあ。もはや読売グループが違うフェーズに入ってそこにいる1人に集約されていたりするってことなのかなあ。ワンマンマン。

 あと言えそうなことは戦後メディアの体制のここに来ての終焉をひとつ象徴しているってことかなあ。これも亨さんが何かメディアグループの上に君臨して差配していたって訳ではないけれど、イケイケドンドンだった戦後のメディアがその圧倒的な伝播力をバックに収益を上げ権威を形作っていたものが、その上にあぐらをかいたようなコンテンツ作りを経て誰からも見向きもされなくなってしまったものの、そのことに気づかないか気づかないふりをして同じような安易なコンテンツづくりに止まり、足りなくなった収益を本来だったら公共に属する伝播力を借りて取り戻そうして呆れられ、飽きられてしまったというのがここ最近。加えてネットという新しい伝達手段の到来が、圧倒的な大手メディアの伝播力を削り殺いでしまっていて、スポンジのように穴があいた土台の上に見えっぱりな楼閣を載っけて体面だけを保っている。

 あとは崩れるばかり、ってのは多分おそらく避けられない状況なんだけれど、そこに対して有効な手だてがあるかというとないのが実状。本来だったら公共性をもっと意識して、公共であることを打ち出しつつそれに対する理解を視聴者にも、スポンサーにも止めて誰もが補い合い、支え合うコンテンツの空間を作り上げていくことが必要なんだけれど、足下まで危機が迫った状況でそんな悠長なことをもはや言ってられないってのが実態。さらに先鋭化して収益をかっぱごうごして足を踏み外し、落っこちていくだけの瀬戸際にあったりするのが悩ましい。もっと早く気づいて道を転換していればなあ、と言ったところで詮無い話。テレビはもはや無理だけれども公共を意識させやすい報道に収益の大半を依拠している新聞なら、まだ理解を求めていけるような気がするかっていうと、そんな範囲を超えてテレビ以上に先鋭化を急ぐところもあるから悩ましい。やっぱりもうダメってことなのか。ニッポンのマスメディア。

 最初は小学館にいたんだっけどうだっけ、その後に河出書房新社から出た本に関わっていたような記憶もあるしジャイブから出た本も担当していたような記憶がある漫画編集者の島田一志さんが今は新潮社が引き継いで編集を始めた「@バンチ」でもって浅田有皆さんって人の音楽漫画「ウッドストック」を担当しているそうでその最新刊となった第11巻を読んだら無茶苦茶面白かった。絵柄がまずはお気に入りで、上条淳士さんのようなスタイリッシュさとは違うし「BECK」のハロルド作石さんや「デトロイト・メタル・シティー」の若杉公徳さんが描く漫画的な絵とも違った劇画っぽくってそれでいて陰影がくっきりと出たスタイリッシュなリアル系の絵でもって、バンドの活動に勤しむ若い人たちを描き出していてドラマを見ているような印象でもって身に迫ってくる。

 あとはやっぱりストーリー。かつてネット上で音楽を披露していて大人気となった楽って少年のところに仲間が集まりライブも行い伝説をつくったバンド「チャーリー」から、その立て役者の1人ともいえるベースのサイが抜けるってことになってさあ大変。裏切られたような気分になった楽だけれどもそこでちゃんと対話し折り合いをつけて最後のレコーディングに望むことになったけれどもそこに入る横やりが、才能への嫉みが少なからずある音楽の世界の難しさを描きつつ、そうまでしてでも頂点を目指したい音楽に携わる人たちの熱情って奴を見せてくれる。何より演奏しているシーンがとっても熱くて格好いい。ベースを弾くサイは重量感がありギターを弾く楽は軽やかでドラムの椎奈はとってもパワフル。そしてボーカルのスウも腹の底からシャウトしている感じが出てる。こんな漫画が載ってた末期の「コミックバンチ」、そして乗り始めた「@バンチ」を読んでみたくなったけれどもそれより先に10巻までの単行本を探さなきゃ。売ってないんだバンチコミック。

 すごいすごいオブ・ザ・デッド。って語尾にこいつをつけると何かとってもやさぐれた雰囲気が漂うんだけれどこいつは違う。「奧ノ細道・オブ・ザ・デッド」。ひとめでその意味性がピンとしてそして面白いに違いないと感じさせるタイトルの本が出ればそりゃあ話題になるのも当然で、ライトノベルに限らない読書会がザワザワといった感じに波打ち始めているのが何とはなしに伝わってくる。なるほど強烈なインパクトを持っている分、とっても出オチに近いタイトルで、奧の細身にいった場所がゾンビに襲われる話でしょ、って想像がすぐに浮かぶけれどもそこから先、どういうキャラで構成になっているかってところで森晶麿さんて作者の人の趣味性が炸裂しているからたまらないオブ・ザ・デッド。

 何しろ俳諧師の松尾芭蕉がイケメンの青年で、付き従う曾良って弟子が女装の似合う美少年。でもって江戸に現れたゾンビたちがどうしてこんなに増えたのか、その理由を探るべく赴いた東北の地域で出会う奴らはすぐにゾンビになったりされたりして、死んだり餌食にされるというスピード感。途中に出会った姉妹なんかはゾンビじゃないけどゾンビに人肉を与える悪行を遂行しようとしては互いに胸を刺して死ぬという悲惨な末路。曾良と出会った少女も曾良を守ろうとしてゾンビにかまれた挙げ句に暴れ出したところを芭蕉によって一撃滅殺。情緒もなにもあったもじゃないけど、そんなバトルの一方では曾良が女装して艶姿を見せたりして、BLっぽい雰囲気を芭蕉との間に醸し出すからたまらない。

 なおかつ素晴らしいのは「おくのほそ道」で詠まれる俳句のことごとくが、同じような場所で詠まれるもののそのシチュエーションが違う。いずれも激しい戦闘の後だから、自然の移ろいを詠んだ元の句のような静謐な風景とはまるで違った陰惨で血みどろな風景がその句から浮かんでくる。あとで本物の「おくのほそ道」を読んだ時にいったい僕等の前にはどんな風景がひろがるか。きっとこの「奧ノ細道オブ・ザ・デッド」に引っ張られてしまうんだろうなあ。そんなバトルあり耽美ありの作品を彩る表紙と口絵漫画とイラストは、現代に忍者がいたらってテーマでイラストなんかを描いてデザインフェスタに出していた天辰公瞭さんが担当。耽美で美麗なキャラたちをおぞましいゾンビともども描いてみせてくれる。作品への評判が天辰さんへの評価も招けば一気に超メジャー、そして現代忍者もより広く、って可能性も出てきたぞ。その為にも売れろオブ・ザ・デッド。


【8月14日】 モウモウとたちこめる熱気の中を寝られず起きられないまま時刻も午前の終わりに迫ってきたので起き出して、支度をして電車を乗り継ぎ夏に恒例のコミックマーケットへと向かい、国際展示場駅へと到着して降りてそのまま東館(ひがし・やかた)へと向かう途中の通路でここは熱川バナナワニ園かといった熱気にヤられそうになるものの、我慢して域をつないでどうにか抜けて降りたホールで評論系をさっと見物。吾妻ひでおさんが描く「魔法少女まどか☆マギカ」の団扇にふと目が向くものの絶えて森川嘉一郎さんのところで吾妻ひでおさんが明治大学で開いた展覧会の図録、っていうか設計図みたいなのが記された同人誌を所望する。

 森川さんといえば秋葉原の変遷を辿った著書が有名な人なだけにこの日が秋葉原ラジオ会館の最終日だというのに果たしてコミケの会場になんかいて良いんだろうかと心配したけどすでにテレビには出ているから別にいいのか、いやでもやっぱり最後の最後にそこにいるのが研究者、ってことだからあるいは終わってから駆けつけるのか。聞くもはばかられたんで隣の直言兄弟でフリーペーパーをもらいさっと眺めたら知人のアニメライターさんがいたんでフリペをもらい隣で「超人ロック」のイベントの様子を記した同人誌を買う。小林治さんのブースか。読むとなるほど超人ロックづくしでこりゃあ行きたかったけれども仕方がない。いずれまた開かれる時を待とう。30年後くらいか。

 スライドしてロトさんのところで金田伊功さんとの対談をまとめた同人誌を購入。そうか「動画王」でのインタビューか。そんなムックもあったよなあ。掘ればきっと部屋のどこかにありそうだけれど出てこないからまあいいや。でも知人のアニメ関係者が次々と鬼籍に入っていくなかで、そうした人との接触が多い氷川さんにこうした追憶の本への期待が高まるのも仕方がないけれど、僕みたいに取材で3度4度とすれ違った程度の人間ではなく、深くその人間性にまで関わっていっしょに仕事をしてきた身には追憶は身の一部が削られる思いもしてなかなかに辛そう。ジャーナリストとしての記録の開陳と友人知人としての記憶の封印。両立しないそれらをしなくてはいけない立場に深く敬意。そうはいいつつ次はあの人をと期待してしまう浅ましさ。難しい中を頑張っていって下さいな。

 なんか話が流れてきていた堺三保さんや會川昇さん、佐藤竜雄さんといった「起動戦艦ナデシコ」にかかわっった人たちへのインタビューが掲載された「Config2」というのも購入。むしろメーンは火星で平野啓一郎さないたり東浩紀さんがいたり巽孝之さんとそのゼミ生で出版社員ながら総合格闘家でもある人の対談があったり大森望さんの機構があったりとなかなに豪華。フィクション方面からだけではなくJAXAの人にたずねたりとリアルな方面からも火星へのアプローチがあってなるほどただ単に今様の評論家を集めて人気コンテンツについて語らせるんじゃなく、「火星」ってテーマを選んでそこに関わる諸々を選び出し、関係した人をたずねて語らせることで複眼的に「火星」という存在を浮かび上がらせようとした、極めて総合的で思想的な1冊に仕上がっていた。これは良いものかも。まあ「ユリイカ」的ともいえるけれどもその「ユリイカ」でも最近は単一コンテンツ、あるいは事象に偏りがちで「火星」というちょい大きめの主題はあんまりないから、その意味でも貴重で独特な位置にある。そのアイデアを次に何に向けるのか。期待しつつ見て行こう。

 15分もいたかどうかで東館を離脱して西館(にし・やかた)の企業ブースへと上がってぐるりと見渡してやっぱりあった「TYPE−MOON」のブースで「カーニバル・ファンタズム」っていったオールスターキャストな10周年記念映像作品のブルーレイディスクを購入する。パッケージのシールに「本編DVD」とかかいてあるから一瞬迷ったけれどもDVDじゃなくBDらしい本編は、予告編めいたものを店頭で見た限りにおいては徹底的にアバンギャルドでコミカルでスピーディでダンサブルな1本になっていそう。そんなに「TYPE−MOON」の作品を知っている訳ではないけれど、とりあえず「空の境界」はDVDとBDで持っているし「Fate/StayNight」もDVDでアニメ版を揃えた程度のことは知っている、って結構知ってるな。そんな人間が見て果たして喜べるのか。おら胸がわくわくして来たぞ。

君の目には見えるだろうか、あの屋上のタイムマシンが  色紙とかおまけにもらいつつ降りて電車を乗り継ぎ銀座あたりでちょい休憩してりおりと仕事。とりあえず順番をつけてこれで完成。果たして未来は現れるのか。それから有楽町から山手線で秋葉原へと降り立ち見上げるは秋葉原ラジオ会館。長くそこに君臨しては初期にはオーディオの殿堂として立ちパソコンの殿堂となりやがてフィギュアの殿堂として世界に知れ渡ったビルがいよいよ取り壊しってことで、そのラストを飾るべくかつてのテナントで物品を購入した人に整理券が渡され内部を自由に見学できるようにしたイベントが、この3日間開かれていた。んでもって整理券なんてもらってない身でたずねて大丈夫かと心配したけど、すでに整理券の配布は終わってしまったものの当日入り口で500円で入場券を買えば入れるようになってたみたいで、ちょい待ってお金を払ってさあ入場。エスカレーターで4階へと上がりそこから階段でえっちらおっちらのぼってたどり着いた屋上にタイムマシンは……なかった。

 そりゃあ流石にないよなあ。それとも誰かのDメールのおかけで最初から存在が消されているのか。そういう事態を認識している俺にはきっとリーディングシュタイナーの能力が……って額に汗しつつこめかみを押さえながらうなった偽オカリンがきっと100人以上はいただろう。とうか白衣を着て歩くオカリンたちが何人も。中にはしっかりチューリップみたいな帽子のまゆしいを連れ、そしてあの独特な制服姿の紅莉栖こと助手まで引き連れ歩いているチームも。カメラマンもいたからきっと最後の日を撮影して何かに載せる取材か何かだったんだろうけれど、そうでないチームもいたりして歩くそこかしこで「とぅっとぅるー」「エル・プサイ・コングルゥ」って声が……さすがに恥ずかしくって誰も発していなかった。最後の最後のカウントダウンを「5、4、3、エル、プサイ、コングルゥ!」「とぅっとぅるー!!」でやったら愉快だったけれどもそういうラジオ会館遊びはごく最近の隆盛。長くその変遷を見続けた生粋の秋葉人にはやぱり静かな1本締めでのお見送りとなった模様。まあ当然か。

 取り壊されるってことになるとやっぱり惜しむ気持ちもあるけれど、そこは商業地区の商業ビルであって歴史的にどうのこうのってものではないだけに、時代が変われば器も代わり中身も変わってそして新しい時代を作るのもひとつのサイクルと思って受け入れる。というかこういう時には東京駅前のビルが貴重だ何だといって大声を上げ職務権限まで振りかざして取り壊しに横やりを入れ、計画を変えて前面だけ残させる中途半端をやった名門な家の出の政治家サンは、何にも言わないんだよなあ、言っても自分の点数にならないことはしょせんはやらないってことで。

 木造のアパートとして2度の大震災を乗り越え空襲までくぐり抜けた本郷館ですら取り壊されようとしているこの時に、その政治家サンが何かやったって聞かないし。メディアだって東京駅前の時には散々騒いだのに今回はスルー。つまりはあれも政局。そして政局だけがメディアにとっての重大事だと思ってる。その摩耗した感性、霞ヶ関だけを向いてグルグルと情報を回す愚劣が、今のこの衰退を招いているんだろうけどそれに気づいてるのか気づいてないのか。気づいてたって今さら戻れない道を突き進んだ先にあるものは、ってのももう言い飽きた。あとは野となれ山となれ。その前に未来をつかむための算段を。とりあえず簿記か英検か。


【8月13日】 しまった今日こそルパン三世展に行くべきだったよ「813」。でもどんなストーリーだか思い出せない。813って何だったっけ。10−4−10−10みたなものだったっけ。代わりに入ったのはまずは羽海野チカさんの原画展で会場の西武池袋につくとさすがに長蛇の入場待機列。30分ほど待ってはいると並ぶ原画はどれもフキダシに写植が売ってある原画ばかりで間近によって線の具合とか見ていると目がもう絢爛さにチカチカしてくる、って洒落かい。でも本当に端正な線でこれを引くのって相当に神経を削りそう。おまけにあのストーリーをひねり出すのもキャラクターとはいえ恋や虐めに悩ませなければいけない訳で、それを身に入れて一身不乱に一緒に悩む心に受けるダメージたるや。それを筆に載せて原稿用紙に刻み込んでいく漫画家。やっぱり凄い仕事だなあ。

 前半は「ハチミツとクローバー」で漫画原稿だけじゃなくって単行本の表紙になったのとかあって、ああそういやあこんな絵あったはぐと山田のツーショットとかあったあったと懐かしむ。竹本とか間山とかよりやっぱりはぐに山田が多いのはビジュアルが先に立ったためか。まあそれも仕方がない。山田のハイキックが1度でも表紙になっていればなあ。アニメ向けに描いたビジュアルも幾つか。そういやDVDって1期は揃えたけれど2期は途中で力つきたんだっけ。BDが出たら買い直すか。それほどまでの作品か。迷うところではあるけれどでも山田の可愛さに免じて揃えたいところ。会場にはあと単行本には入らなかったエピソード、ってのも並んでいたけどこれ、どうして入らなかったんだろう。失恋に悩む山田の迷いが描かれていたから流れにそぐわなかったとか? むしろこれも含めてカラー原稿も全部入れた完全版の刊行を期待だ。

 後半は「3月のライオン」のコーナーでこちらも原稿があればカラーイラストもあったりと絢爛豪華。線がより細かく、時に大胆になっているのは作風もあれば力量の更なる工場もあったってことか。もとより巧みな漫画家ではあったけれどもそれでも成長する。最初がゼロな僕ならもっともっと成長できる、かもしれない、けれどもさて。カラーイラストでは月島みたいな場所に暮らす三姉妹の長姉がどうにも艶めかしくてグラマラスで、これだけの逸材を側に身ながらどうして主人公は真ん中ばかりを気にするんだろう。高校生にとって大人はやっぱり眩しすぎるのか。末妹に向かわないだけましとはいってもやっぱりね、年下に向かうのは男としてね、って僕が言えた義理ではない。

 そんな絵も含めたカラー複製原画が42000円で売っていたけどうーん、流石に買えず。あるいは広告に使われたカラー原稿のオークションが4万円で落札できればそれはそれでお買得、ではあるんだけれど流石にそんな低くはならないか。10万か、20万か、ちょっと気になるそのお値段。そして誰が1番かも。まさか島田八段か。案外に二階堂とモモだったりして。原稿に合わせて品物展示もいつくか。将棋の駒に動物をはりつけ子供に教えやすくした盤の大きな模型とか、ホールにおいて実際に遊びたいところ。それを有名な棋士が遊んで将棋の楽しさを見せるイベントとか、将棋まつりなんかでやったら普及につながりそうだけれど。さすがにこれだけの展示になると、美術展みたくそのままんまが入ったカタログなんてものは出ず、あって「ハチクロ」の画集とかそんなものだったんでグッズ売り場では出費せず。とはいえゴム製のキャラがついたキーホルダーはちょっと欲しかったかも。とにかく人が多かったんで空きそうな平日午前に潜り込んでその際に買うか。

 同じ西武の書店の4階にも飾ってあった漫画の原稿をちょい眺め、ジュンク堂の地下を眺め3階の文芸売り場を眺めそこに大量に並んでいるAKB48関連の写真集を眺めながらそこに真実はあるのかと逡巡。だってねえ、あれはねえ、すごいねえ、すばらしいねえ、日本の加工テクニック。いや本当にそうなのか、誰かが逆フェイクを仕掛けたのかは分からないけれども、どっちにしたって人の体型や顔立ちを、大きな違和感のないまま変化させるなんて芸当をやってしまうんだから素晴らしい。ハリウッドだとこれを動く映像にまでやってしまうからなお凄いんだけれど、ともあれそうした加工されたものを眺めるわれわれにとって彼女たちは実在する三次元なのか、それとも非実在の二次元なのか、その中間に立つ新しい存在なのか、判断にいろいろと迷わされる。

 現実の世界で出会うことなんてまずない人間にとって、メディアを通して見るのが唯一の接触であって、そこでいろいろと加工されたものがで続けている限りは、それが真実であって事実がどうとかは関係ない。もし仮に出合えたとしても一瞬の邂逅にそこまでの違いを感じる時間なんてない訳で、それが加工されていようといなかろうと、実はあんまり関係ないんじゃないかって気がしてる。ただやっぱり長時間出ずっぱりになるドラマや映画のような場面になると、平面を通して植え付けられたその印象とのギャップが少しは生まれてくるもので、あるいはそうしたギャップが数々の映像作品においてCDでの人気を取り込めない原因になっているんだとしたら、これは問題でもあるし、それ以上に微細を見分ける人間の目の凄さって奴を教えられる事態でもある。

 ただそんなに遠くないだろう未来、科学が発達して人間の視界にコンピューターによる情報なり映像なりを重ねて表示するAR(拡張現実)が状態になった時、対象を認識した際に相手が望む補正をかけるような機能も当然つく訳で、それを通して見れば誰だって加工された写真以上の補正って奴を、かけられた状態で目に映る。もはや現実すらそうなってしまった未来に果たして何が真実か、なんてことは関係ないのであってそうした未来を先取りして感じさせたって意味で、今回の一件は歴史に少しばかりは残る事件なのかもしれないなあ。って納得して良いのかよ。騙されてたんだよ俺たちは。まあでも個人的にはAKB48って、個々の誰かではなく集団で歌って踊っているその迫力、そのスピード感が気に入っているんで、個々のトークも演技も顔立ちすらもあんまり気にならないのであった。篠田以外は。

 雑司ヶ谷まで歩いて新宿三丁目へと出て再びの新宿眼科画廊での今敏さん展「千年の土産」。昨日よりも増えた寄せ書きの中に沖浦監督の似顔絵をみつけて映画が完成した旨、報告されてて公開ギリギリまでかかった前作とは違った進捗ぶりに大いなる成長を見る。それとも今敏さんの訃報と裏腹の関係に沖浦さんの作品があったのか。終わった今はだったら再びの再開を夢みさせて欲しいんだけれど果たして。奧で上映されているセミナーが1998年のものだと分かってなるほどあの痩せっぷりとそして眼鏡は近年とは違った姿で当然と納得。僕が最初に見たのもそんな時代だからむしろそっちが懐かしい。グッズではやっぱり画集は売り切れ。買って置いてよかった。せっかくだからとTシャツの黒を購入。来週のタキヤマさんの会見に着ていこう。


【8月12日】 SとかSSには入ってなかったステイル・マグヌスの学園都市での活躍が入った「とある魔術の禁書目録SP」が登場しててこれでパトリシア・バードウェイとその姉のレイヴィニア・バードウェイがマグヌスとか、上条当麻と知り合ったかが分かって新約となった禁書目録の1巻2巻とつながってくる。レイヴィニアはなるほどあれだけの実力の持ち主なのに、当麻の部屋を吹っ飛ばさないのはコタツが気に入っているからなのか、それとも当麻にお姫さまだっこされたことが余程嬉しかったからなのか。あとは初春が相乗以上に頑固者。そのあんまりない超能力を使うでもなく大変なことをやってのける。でも普通はパラシュートごと吹っ飛ばされるよなあ。手にノリでもついていたのか。その辺もう1度読んで確認だ。

 企業ブースを見に行くのも仕事のうちだけれども今日は別に行くところがあって、有明詣では日曜日に繰り延べ。そして出かけた新宿眼科画廊にはすでに幾つか行列が出来ててもらった整理番号は47番で、30分前にしてはまあそれなりに若い番号だって思えるのは始発で行っても相当並ぶコミケの比べれば全然だったから。けどでもいつかは別に普通に行列なんで出来ていなかったことを思い浮かべると、今敏さんというクリエーターへの評価がこの何年かで一気に急激に高まったんだなあといった印象を抱く。2月のシネセゾン渋谷でのオールナイトもほとんど瞬間に売り切れだったしなあ。新作なんて「パプリカ」からもうずっと作ってないのにどーゆー風の周り方? 単に亡くなってその最後の言葉に感動した、ってことだとうーん、だけれどそれで興味を持って作品に向かって仰天した人がいっぱいいたって解釈するなら、それはそれで嬉しい話。ただでもやっぱり亡くなったことが要因、というのは悲しいなあ。

 そして待っているとちょっぴり早めにオープン。でも狭い画廊の販売ブースにみんなが並ぶため、入ってからもしばらく行列が動かない。その間に最初の部屋をぐるりと見渡すとだいたい置いてあったのは前の「十年の土産」で並べられていた品々って感じ。美麗な上に細部まで描き込まれてそれでいて破綻のない構成は今敏監督ってクリエーターの持つ恐るべき美的感覚って奴を世に強く示している。見て学んでも真似の出来ない画力に構成力。だからこそ惜しいなあ。振り返れば「夢みる機械」のパネルが3枚。これも全回出ていたものかな。これが動いて物語りになったらどんなになるんだろうとあのときは想像したっけ。そして出来そうな感じなのに今だ出来ずむしろ出来そうもない雰囲気。別の期待していて会社がなくなりとん挫しかかったように見えた企画がしっかり動いていたのとは対照的な扱いに、何とか出来ないものかと地団駄を踏む。

 3万円近い画集が会場限定で百冊分用意されていたのが開場から1時間とちょっとで売り切れてしまう勢いがあるのなら、それで何とかお金も用意できそうな気すらしたけど3万円が100冊では300万円でこれでは映像の10分すら作れない。お金がかかる映画をあといったい、どれだけあれば作れるのかってことを考えると、やっぱりちゃんとしたファンドを組成し資金を調達する仕組みが求められているような。1口50万円で1000口だったら5億円。それくらいなら出しそうな人もいそうな気がするけれど。全世界で公開されれば10倍くらいになりそうな気もするけれど。でもなあ、会場今敏監督の才気を見るとそれをやってやれるのは今敏監督だけ、って気もしないでもない。誰かが後を引き継いだ作品にいったいどれくらい集まるのか。ジブリが宮崎産でない作品で50億円100億円、集めてしまうんだから可能だろうとは思うけど、それはジブリだからであって ……日テレ印って事で「夢みる機械」もジブリで作りました的スワップをかければあるいはいっぱい人も来たりするのか。うーん。悩ましい。

 しかし驚いたよなあ、3万円が100冊売り切れ。今日1日は保つかもとは思っていたけど用心を重ねて初日の早い時間に行ったのがまあ良かった。出遅れた人は地団駄踏んだか通販に廻るのか。でもこの評判ぶりを見るとそっちも早く売り切れそう。何か転売する人とか参入して来そうだし。そうさせないためにも希望者には今敏監督とわたしみたいな作文の提出を求めるとか? うーんそれも公平ではないか。難しい。そんな画集の巨大で重たい袋を保って中を見物。大学時代に描いたという絵があった部屋にはマッドハウスの入館章や愛用のメガネなんかが飾られてた。これをかけていたのかあ。そして漫画の原稿の部屋には「セラフィム」とか「OPUS」なんかの原画など。緻密だなあ。

 残りはだいだい前をいっしょ。けど決定的に違うのは奧のカウンターに今敏監督が立っていないことなんだ。ほとんど毎日通って顔を見て、そして品物を買ってもらえる「PERFECTBLUE」のセル画が入ったカット袋を選んでたんだったよなあ。中身を見ないでえいやっと。その姿に苦笑されてたなあ。懐かしい。あの時はまたいつかすぐに逢えるからって、品物にもサインなんかもらわなかったけれどもそれが結局最後ぐらいの体面に。ちょっと心残りだけれど、そこにいた今敏監督を見られたって思い出の方が重要だから別に気にしない。うん気にしない。そういえばあの展覧会で秘蔵の逸品として販売された、セレクトされたセル画のセットを、遠くから来て朝から並んだという人の姿にほだされ今監督が、この人にならと売ったんだった。こういうのだよって見せて貰ったけれど、すでに売り先が決まっているのでじくりとは見なかったんだけど、どんな場面だったんだろうなあ。買った人にはきっと一生の宝となっているんだろうなあ。大切に。永遠に。

 というわけで「マリシャスクレーム」の範乃秋晴さんによる電撃文庫初見参な作品「特異領域の特異点」(電撃文庫)が、どれくら凄くSFだったかも広まってきただろう今日このごろ。唯我独尊な俺様目線の天才科学者候補な大学生(ただしこちらは停学中)って当たりでオカリン岡部倫太郎こと鳳凰院凶真の存在を重ねてしまう人もいそうだけれどもそうしたマッドな天才学生の像って割と普遍的。だからそうした流れの1人と位置づけつつ物語へと目を向ければもう果てしなくとてつもなくユニークで破天荒。世界がひっくりかえって50億人とかが一気に消えてしまって起こった変革の果て、特異点とやらを操作し無尽蔵のエネルギーを引っ張り出せるようになった世界にあって主人公は消えてしまった家族をいつか見つけだすことを目的に、見つけだせると信じて特異点の研究に勤しんでいた。

 そんな特異点の発見に携わった科学者たちの1人が学校にいて、その言説にいろいろと突っ込で手まで上げてしまったがために停学を食らって今はひとり研究中。そんな彼が受け取った謎の暗号には、やはり特異点の研究に携わった科学者が硫黄島で大変な目にあっているから助けてくれというメッセージがこめられていた。さっそく向かって救出した主人公。そして前に殴った科学者のはかりごとが起こす事態に真っ向から挑もうとする。そんな展開の向こう側に見えてくるのは、人の意識の所在。脳を細かく分解したところでそこに意識の記録なんてものはない。けれども集合させたカタマリの脳には記憶がしっかり刻まれている。

 いったい記憶はどこにあるのか。記憶が人格の源なら人間とはいったいどこに存在しているのか。そんな存在の根源へと迫る物語へと発展し、この宇宙の構造そのものに迫る設定が浮かんでくる。驚嘆だけど喝采したい大ボラ吹きがSFの醍醐味だとしたらまさにそんな作品。読み終えてふと空を見上げ彼方にある存在に思いを馳せたくなる。人間とは。世界とは。宇宙とは。読み終えて浮かぶさまざまな想像、そして繰り出されるガジェット群の楽しさをライトノベルの分野で体験できるとは。いつかこの人もあらゆるリミッターを外してSFのレーベルで元よりのキャラクター力と展開力、そして想像力でもって驚嘆の1冊を書いてくれると信じたい。待ってる。


【8月11日】 山藤章二のブラックアングルも看板だけれどそれ以上に目立つ「アエラ」の表紙にも登場とはなでしこジャパンの澤穂希選手の存在感はスポーツのーレベルすら超えまさに国民的となったって完全に言えそう。それはとっても喜ばしいことではあるんだけれど、あまりの多忙がプレーに与える影響と、それから一体とは言ってもやっぱりあるだろう人間関係への影響が、迎えるロンドン五輪に向けた予選の場でどう出るか、気になって気になって仕方が無い。確かに澤選手は別格な上に、それを周囲が認め讃えているけれど、露出も増えれば情報も増えてそこにノイズが発生しやすくなる。本意とは外れたところでそうしたノイズが人心の間に亀裂を作り、広げ全体を引き裂いてしまわないか。そんな心配もただよう。

 「アエラ」ではライターが吉井妙子さんで、最近発売になった「文藝春秋」でもやっぱり澤選手のことを書いていたりと、すっかりメインライターでスポークスマンといったポジション。その力量は過去に日本の女子バレーボール代表を取材して本を書き、女子がメーンのソフトボール代表も取り上げ本にしていたくらい、旬のスポーツに対して積極的に取り組み、選手たちの間に入り込んで心情を探り、代弁して世に出す術に長けている。今また女子サッカーという旬の旬のスポーツにに関してライターとして呼ばれ、日本の主要な雑誌に記事を書くくらい、その名は知れ渡っているし、おそらくは力量も評価されているんだろー。

 だからただセンセーショナルを狙ってひとりを持ち上げようとするあまり、他の誰かを蔑ろにしてしまうようなヘタは打たない、と思いたい。思いたいけれどもそこな10年とか長い間、女子サッカーを見続け痛みも苦しみも共有しながら来たスポーツライターとはちょっと違った立ち位置にいる。一方では主要雑誌として狙う層に向けて物語を提供して行く必要性にも迫られている。そんな筆が、わかりやすさを求める大衆の欲情に沿って流れていってしまったとしたら何が起こるのか。過去にあるいは何か起こっていないかを考え含め、その筆の進む先を見ていかなければいけなさそう。

 決して口でいう程は優しくないロンドン五輪の最終予選でもし万が一、なでしこジャパンが五輪出場を逃してしまった時に、それでも吉井妙子さんには、残暑厳しいスタジアムに来て、頑張るなでしこリーグの選手たちに、声援を送り、その苦境ぶりを今だからこそと記事にして、メジャーな雑誌で掲載をして世になでしこリーグ健在なりってことを訴えて欲しいもの。それをやってくれて始めて、心から吉井さんが女子サッカーを愛しているんだ、決してその時にはやっている場所に突っ込んでは、知名度で持って食い込み情報を欲しいままにした挙句に、廃れればハイサヨウナラな人ではないんだってことを、満天下の人たちに知ってもらえるから。お願いします絶対に。

 旬の人を旬な人が得意な人に取り上げさせて旬っぷりを出すハイクラスな雑誌とは対照的に下流向けを内容で行く「週刊SPA!」はあの東京電力マリーゼが今どーなっているかを取材して記事にして紹介している。東京電力の丸抱えチームだったけれども働いていた原発がああなってしまって会社は大変、選手も大変な状況におかれているってことをリポート。移籍はしても会社に席を残したままの人もいて、風当たりとか身の置き場とかに悩んでいたりするらしく早くどこか手を上げて、チーム全体が真っ当な経営の下で存続できるような未知を探って欲しいものだけれど、いくらこれだけのなでしこリーグブームでもそいういう所は以内のがやっぱりただの流行に過ぎないんだってことを証明してる。そんな時こその協会なんだけれども、何が出来るって訳でもないからなあ。さてもどうなってしまうのか、とくに187センチの山根選手は。

 そんな「週刊SPA!」には我らが山下達郎さんが登場してナインティナインの岡村隆史さんと対談。そんな形式のため音楽に関する突っ込んだ話はされてないけれど、岡村さんも達郎さんも真面目に地道にラジオを探求し続けていることが似通っているって話とかあって、軽佻浮薄の逆を行く生き方は時にぶつかり、時に沈み込むこともあるけれど、必ずや誰かに見て貰っていて、認められもしてずっと息づいていくんだよって教えられた気分。しかしいろんなところに出ているよなあ達郎さん。その勢いで僕のところにも出てくれたらSFの話とかでいっぱりいっぱい記事を書いたのに。ってそれじゃあ新譜の紹介できないじゃん。良いアルバムです。「俺の空」とかとくに魂が叫んでます。日差しを返せ空返せ、って。

 都営地下鉄のはじっこまで乗っていった先で懸案だったあの作品がどうにかしっかりと息を吹き返して完成に向かい進んでいるってことが分かって小躍りする。だって本当に見たかったんだから。いろいろと潰えたり中断したりする企画も少なくない中で、会社は逝っても企画は受け継がれる幸運を得ていたのはひとえに、作り手の思い入れの高さとそいて作ってきたものへの評価があるんだろう。だからこそ作られるものへの期待もかかる。聞くととてもシリアスにリアルな内容がリリカルでマジカルな絵柄で描かれる話になりそうで、一つのシーンの一つの動き、一つの絵に含まれた意味も噛みしめ見ていく時のおとずれをひたすらに待ち望もう。来年の今頃には目に出来ているといいな。


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