縮刷版2011年6月中旬号


【7月20日】 久々に「週刊サッカーマガジン」と「週刊サッカーダイジェスト」を駆ってFIFA女子サッカーワールドカップドイツ大会2011にてワールドカップを勝ち取ったなでしこジャパンの記事を読む。まあだいだい聞いた話か。澤穂希選手のあの同点においついたシュートが、宮間あや選手との打ち合わせでニアに蹴るって合意があって飛び込んだって分かったけれど、それを知っててそこに蹴れる宮間選手の技術もすごければ、ピンポイントで合わせてゴールに流し込む澤選手の技術もなかなか。急にボールが来るとあれを普通だったらはじき返してしまうから。後ろから見るとホント、ゴールよりも随分とコーナー寄りに走り込んでいたんだなあ。脱帽。

 そんな記事に掲載されてた集合写真を見てやっぱり選手たちがアディダスの靴ばっかり履いているのに気付く。プーマもいなければナイキもおらずアシックスやミズノといった国産もなくディアドラアンブロヒュンメルカッパパトリックスリーボックといったメーカーもなし。詰まるところは女子代表がアディダスから靴を支給される契約になっているってことで確かえっといつだったっけ、いつ頃かに決まって普段はプーマをハイテル酒井與恵選手とかが、急にアディダスに履き替えて大丈夫なんだろうかって心配した記憶もあったりする。

 いやもちろん貧乏な女子サッカーの人たちに靴が支給されるってことは有り難いことだけれど、魂に匹敵する道具まで柴って良いのかってこと。だって脚だもん。サッカーで1番大事な脚を包むシューズが普段は使ったこのないものになる。バッターが知らないメーカーのバットを支給されて使えって言われて使えるか? ってのと同じように微妙な感覚が違って試合にならないんじゃないか。そう思って見ていたけれども時間も経って選手も慣れたか今大会はとくにそうした靴が理由になっていそうなミスもなく、普段どおりというかそれ以上のパフォーマンスで見事に優勝してのけた。道具の“ハンディ”すら跳ね返すなでしこジャパン。素晴らしい。

 契約の内容とか知らないから本当に試合ではアディダス以外は履いてはいけないのか、それとも自分が契約しているメーカーがあるならそっちを使って良いけどロゴだけ塗ってねってことになっているのか。調べたら韓国も代表でナイキだかとそういう契約があったみたいだけれど、契約先への不義理に等しい墨塗り規約は撤廃されたらしい。本当かな。だとしたら日本だって選手が1番スポンサー契約しやすい靴の部分で、1番目立てる代表においても自由に”自己表現”させてあげることがパフォーマンスの向上にも、そして選手の収入にもつながるんじゃないのかなあ。

そのあたり、誰か聞いてみてくれるメディアがあれば良いけれど、相変わらず親がどうの監督がどうのといったことばかり。サッカーの本質に迫るような報道はまるでなくっていささか食傷気味。あまつさえ便乗の意欲まるだして都知事あたりがどうしてパレードをしなかった、東京にオリンピックを呼ぶのに絶好のPRチャンスだったのにって悔しがり、JOCとかをバカ呼ばわりしていたけれどもバカはどっちだ。帰国してくたくたな上に休みもなくテレビ出演を繰り返して気が付けば水曜。そして土曜日曜あたりには次の試合を控えている。仕事だって持っている選手はいる。すでに大会は終わって日当が出るか定かでない時期に収入を削って対応してくれているだけでもありがたいのに、パレードだなんて出来るのか。やる機会ならまだある。今は何が必要か。それを考えればああいった間抜けな言葉は出てこない。

 そうでなくても雲霞の如くに選手まで女子サッカーなんて見もしなければ聞きもしなかった輩が群がり騒いで喧々囂々。選手たちにも好奇の視線が及んで中にはプライバシーに踏み込もうなんって輩も現れ始めている。パレードを組むよりそこをきっちりマネジメントして9月のロンドン五輪アジア最終予選までサッカーに打ち込める環境を作ってあげるのが先なのに、そうした発想がなかなか見えてこない。唯一、あの中田英寿選手のマネージメントなんかを手がけていることで知られるサニーサイドアップの次原悦子さんが無償でもいいからマネジメントと広報を引き受けます、プロを派遣して対応させますって表明してくれたけれど、そこに対して妙な反発が起こっているから始末に悪い。

 かつて女子選手のマネジメントを依頼されたけれども同時の状況では対応するには難しく、断ったって話が謙遜とか自戒といった意味からではなく、今頃何をといったニュアンスで捉えられて叩かれている。でもサニーサイドアップは決して女子サッカーが盛りあがってきたから急に関わろうとしているんじゃない。2004年のアテネ五輪で盛りあがった女子サッカーへの感心が、あんまり長続きしていなかった状況の中で中田英寿選手が知人らしい会社に仲介して、女子サッカーへの支援を初めて貰った時に仕切り役として関わって、なでしこリーグを2年近くサポートした。最後は企業が業績悪化で撤退して、出せなくなったお金を被ったりもして本当だったらもう懲り懲りといった所に敢えて、手を挙げ出ていこうとしているその態度を、商魂といった言葉だけで切って捨てるのは間違いだ。

 同じ事が起こるかもしれない。今だけ盛りあがっても来年再来年には誰からも見向きもされなくなっているかもしれない。そんな女子サッカーを果たして本気で支援しようと考えている企業が、なでしこリーグをスポンサードしているプレナスなんかの他に果たして本当にあらわれるだろうか。北京五輪の4位で大盛り上がりをしていた時ですら、TASAKIペルーレの移管を引き受ける企業はあらわれず、名門にして強豪のチームは消え去った。そんな価値でしか見られていない女子サッカーへの感心を、今もしめしてくれているってだけで有り難い。

 五輪予選終了まで、ってのはだから最大の試練にして絶対の目標であるロンドン五輪出場を成し遂げるために、一切の雑音を廃して選手に最高の環境を与えるため。そこを超えればブームは続き関心を示す企業も増える。今は実はピークではなく端境期。誰もがいい顔をしながら脚をすくませ様子を見ているなかで、いろいろ言われるリスクを承知で手を挙げ気持ちを示したことに世間の答えがこの程度ってことは、つまりなでしこジャパンなり女子サッカーへの関心もその程度ってこと。本質は何か。必要なことは何か。それを見極めて報じ、適切な支援を行える人たちの登場を願おう。願いたいけどそれを邪魔する勢力がデカ過ぎる。すべては始まったばかり。壁はまだひたすらに高い。負けるな。ひるむな。乗り越えろ。


【7月19日】 藤の木のあれは精霊か妖怪らしい村崎。実体化するのに別に美少女の姿を選んだところが世の女性よりも男性の方が、相手に警戒感を抱かず近寄って来やすいとの判断か。でも実体化したら力が足りずに動けなくなってしまったというあたりが、ちょっぴり抜けてた藤の木の妖怪。挙げ句に相手を食らうどころか仲良くなってしまってそして体力を使い果たして消えていく。人間よりはきっと長生きしたんだろうけれどもやっぱり、ひとつの命が消えてしまうのは何とももの悲しい。人間が妖怪を見てそうなんだから妖怪がすぐに死んでしまう人間を見て思う切なさたるやいかばかりか。そんな気持ちを味わわせてくれた「夏目友人帳・参」。それにしてもよくよく美少女系妖怪に飛びかかられる奴だよなあ、夏目って。

 1日おいて朝刊各紙は一般紙からスポーツ紙からオール女子サッカーなでしこジャパンFIFAワールドカップ制覇の報。過去にこれほどまで女子サッカーがフィーチャーされたのって、2004年のアテネ五輪への出場を決めた翌日くらいだったっけ、その時にデイリースポーツが何を1面に持ってきたかは記憶にないけど、今日ばかりはさすがに阪神タイガースを超えてなでしこジャパンを持ってきた……のかな、未確認。何にせよ目出度いことでこれによって世間がもっと注目して、苦しい台所事情が好転してくれれば嬉しいんだけれど、同じことを2004年に言いながらも、すぐに事態は暗中模索へと戻ってしまったから何というか。

 澤穂希選手もその時のことをくっきりと覚えているだけに、あんまり浮かれずとにかく今を勝ち、そして明日も勝っていくだけだって話してる。なるほど聡明。そして賢明。とはいえ澤選手にそんな自覚をさせてしまうくらいに、世間のなでしこへの関心が山ちょっとあり谷ずっとありだったってことも言える。何しろ自身が所属していた女子サッカーでも名門中の名門だった日テレ・ベレーザが、運営規模の縮小を余儀なくされて、外に出ざるを得なくなったんだから。チームの顔で世界のレジェンドが、ワールドカップのある年にチームを外れるなんてことがあり得るのか。なおかつなでしこジャパンの代表選手が2人とあと1人の計4人が、いっせいに移籍するなんてことがあり得るのか。

 例えるならチャンピオンズリーグを制したバルセロナから、メッシとイニエスタとブジョルが一度に抜けて、バレンシアあたりに移籍するような事態。そんな事がもし起こったら上を下への大騒ぎになっただろうし、それ以前にバルセロナがそんな移籍を認めるはずがない。それくらいのインパクトのある事態が日本の女子サッカーで起こってしまったことに、日本の女子サッカーが置かれている立場ってものの不安定さが見える。たとえ男子は戦力を極力維持しても、女子は戦力でも知名度でも誰より勝る選手ですら出す。それで経営が立ちゆくのだったら、勝てなくても、有名になれなくても仕方がないとあきらめた。あるいは、いくら騒がれても見合った対価を女子サッカーからは得られないと判断した。そういうことだ。

 もしもそこで日本テレビが我慢して、ネーミングライツだけでなくって運営もちゃんと自ら維持をして、澤選手や近賀選手大野選手をちゃんと確保していたら、今頃はどの番組にも引っ張りだこでとてつもない視聴率を稼ぎ、とんでもない額のスポンサー料を確保していたに違いない。その意味では軽々な判断だったと言えるけれども、日テレが経営から手を引いた2年前のあの時点で、その後も経営を続けて将来どれくらいのリターンが得られるかを想像した場合、決して明るい未来は描けなかっただろうし、結果も大変だっただろう。それでもネーミングライツを維持したことは評価したいところで、岩清水梓選手というメンバーの活躍もあって、それなりのリターンとなって日テレ・ベレーザというチームに帰ってきている。ギリギリプラスってところ。それ以上は望むには、サッカークラブの運営はリスクが高すぎた。

 今ならと考え企業も殺到しそうな感じもあるけれど、人の関心のすぐさま薄れる可能性を鑑みるなら、やっぱり二の足を踏んでしまいそう。そんな女子サッカーを一時なり支えた今はいずこへのモックとか、現在ただいま支えているプレナスのような企業には、ただひたすらに有り難い存在と頭を垂れて敬意を示しつつ、そうしたすぐさまのリターンを期待せずとも、将来の成長が何かになると考え支援する企業が現れてくれれば、今はそれだけで有り難い。まずは代表選手がアルバイトを休んでいる間にロスした収入を補填するような仕組みなりを作って欲しいもの。そしてチームが継続できるような支援を大きなところが行って欲しいもの。なおかつそれらが4年後も5年後もちゃんと続いていること。最後のは難しいけれどもそれさえあれば日本はもっと強くなる。そして強くあり続けられる。期待したい。願いたい。

 「前略、ミルクハウス」からは遠くへと来てしまったんだなあと思いながら「観用少女」を読んで、これまた違う所へと分け入っているものだと感心した川原由美子さん。いわゆるSFマンガの世界だったけれども、美少女の姿をした愛玩人形の物語っていった、深くてストレートなSFを描いてSFのファン層からも関心を読んでからしばらく。同じ朝日ソノラマ系の刊行物として登場した「ななめの音楽1」(朝日新聞出版)は、雰囲気に静謐さが加わり展開に幻想性が加わって、今までとは違った川原由美子さんの世界を楽しませてくれる。それと同時に今までのSFコミックとはまた違ったビジョンって奴を見せてくれる。

 伊咲こゆるって少女が学校で慕っている光子という先輩。大人びて冷静そうな雰囲気を持った彼女を学校の中で探していたら、どこからかやってきた飛行船が光子先輩を連れてどこかへ飛んでいこうとした。乗り合わせていた女性に聞くとドイツへと向かうとのこと。こゆるは是非にとお願いしていっしょにくっついていくことにして、その場ではいったん引きつつ間をおいて飛行機でドイツへと旅だって光子先輩と合流する。そこにあったのは新旧おりまぜた飛行機たち。光子先輩はそのうちの1機を駆ってレースに臨み、一族が事業として行っている航空機の受注の権利を獲得する指名を与えられていた。そこに割って入った形となったこゆるは、光子先輩が乗る双発の航空機にいっしょに乗ってレースに出場。行く先々でいろいろな人と出会って見聞を広めていく。

 最初にドイツに到着した時に聞いた天使の声やら見た天使の夢やらが、現実と幻想との境目を薄くして、リアルでシリアスなはずの世界観に不思議な空気を漂わせる。なおかつ灯台に暮らす少女が幻想の中でこゆるをさらって監禁したりして、どこまでがリアルでどこまでが繋がった夢の中なのかを、ちょっぴり曖昧にさせるけれども、それを個々が見た夢なり、思いこみなりととらえるならば割にシリアスな世界の中で、物語は進んでそして光子先輩とこゆりは着々とゴールに向かって飛んでいるだけだとも言えそう。もっとも「ななめの音楽」という意味深なタイトルと、光子先輩にまだありそうな秘密がリアルさの奧に、ファンタスティックな可能性を見せ、さらに科学と結びついたSF的な可能性も感じさせる。1ページに横長4段という挑戦的なレイアウトで繰り広げられる萩尾望都さんの幻想性、鳥図明児さんの耽美さ、森博嗣さんの「スカイ・クロラ」的な淡々とした空への憧憬とそして松田未来さんのような航空機へのフェティッシュな思いが重なり合わさった漫画。そのどれかに引っかかるなら読んでみよう。


【7月18日】 いったいあの長いネジはどこのなんだろう。背中のゼンマイを止めておくものだったら、その場でコロリとゼンマイが落ちたって良いのにそんな動きは見えず。頭の中の歯車を止めておくものだったら、外れてあぱらぱーになって不思議はないのにそんな色は見えず。手首を止めておくものか。お腹の中の何かか。分からないけど最後に届けてもらったものをはめ込んだとき、なのはよりいっそう人間らしさを増していると嬉しいかも。っていうか既に人間そっくりなんだけど。はかせ凄すぎ。そんなアニメーション「日常」はエンディングがまた違ってた。週代わりか。あと大福だか売ってるおっさんの髪型があれで意外にモヒカンだった。そして息子がクラスメートのモヒカンだった。なんで和菓子屋でモヒカンだ。ヤギの先輩がいっぱい喋ってた。もうしばらく出ないかな。みよちゃん技すげえ。

 今日という日が記念日になる。女子サッカーにとって。というより日本のサッカーにとって。そして日本という国にとって。ワールドカップという名の付くサッカーの大会が、世界で最も大勢の観客を集めるイベントだということはつとに知られているけれど、女子についても回を重ねて全世界的にプレーヤー層を増やし、厚みを持って来た中で繰り広げられる大会として、すっかり定着して来た昨今。大国がそれなりに充実した戦力を揃えて臨んでくる中にあって、体力的にも財力的にも決して恵まれているとは言えない我らが日本女子代表、いわゆるなでしこジャパンが勝ち進み、勝ち上がった果てに優勝を成し遂げた。これを快挙と言わずして何を言う。これを栄光と言わずして何を言う。日本はこの日を記念日として休日に認め永遠に刻むべきだ。偉業を忘れないために。そして偉業をこれからも続け得るために。

 すごい試合だった。素晴らしい試合だった。最初は圧倒されっぱなし。巨体を戦車のごとくに前進させては長身と速度でもってボールを運んで、強いシュートに結びつける。サイドを軽くえぐられ、中央に送られたボールに突っ込んできたシュートは、完全に入ったと思ったけれども幸いにサイドを抜けて後ろのポールに当たり、ネットの向こう側にひっかかったもの。それが一瞬ゴールインに見えて冷や汗を掻いた。というより絶望感を味わった。ここからひっくり返すのは難しいと。その思いはほどなくして現実のものとなる。後半に入ってインした永里優季選手がディフェンスに囲まれ揉まれ、奪われたボールがそのまま前戦へと送られ、それを受けたモーガン選手が、ディフェンダーを軽くいなして抜けだしシュート。ゴールイン。あとは逃げられるだけだというあきらめが浮かんだ。ところが。

 前戦で混乱したところに突っ込んでいった宮間あや選手が、迫るゴールキーパーの手をかわすように左足のアウトサイドでボールをちょいと引っかけ、ゴールの中へと突き刺した。同点。まさかの同点。たしかに後半から日本代表も攻められるばかりでなく、ボールを持てるようにはなっていたけれど、その一方で最前線でのキープに今ひとつの不安があって、奪われ反撃されるリスクを常に抱えていた。けれども奪った。同点。相手にただ追加点を奪われるよりも安心できる状況に、振り出しに戻ったかのうようなアメリカの猛攻があり、日本の攻撃があってと見応えたっぷりのまま90分間をまず終える。当然にして延長戦。そこであの、ワンバック選手のヘッドが炸裂してまたしてもの絶望感が漂ったかというと、その一方で攻めてもいた日本にも、いずれ得点が生まれる、同点に追いつきさえすればあとはPK戦で追い込めるといった希望が漂っていた。

 その思いはドンピシャリと的中し、宮間あや選手のコーナーキックをニアに入った澤穂希選手が、おそらくは右足のアウトサイドで叩いてゴールに押し込み同点。得意なパターンを最高の場面で決めて見せたそのプレーは、得点王の座を確実にしたとともに大会のMVPを決するに相応しい鮮やかさ。決して若くはない身ながらも、男子と同じ広さのフィールドを男子以上に走り回った挙げ句、しっかりとゴールを決めてみせるところに、澤穂希選手という希代のプレーヤーの凄みが見える。肝心な時に肝心な仕事をする。それが偉人。まさしく偉人だった澤穂希選手。そしてこの日、伝説にもなった。100年後に日本がサッカー大国となった時、この日のあのゴールは永遠に語り継がれるだろう。歴史の転換点として。人間の凄さを示す例として。

 そしてやってきたPK戦。3大会ぶりの優勝であり、お家芸を自認し日本には勝って当たり前な気分でいるアメリカには、どこか最初っから緊張感が漂っていた。一方の日本は、誰もが笑顔でそして前向き。やってやるぞといったエネルギーが画面を通して見えていて、これはあるいはと期待して始まった1人目で、アメリカ代表の蹴ったボールを海掘あゆみ選手が横に飛びながら、残した足に当てて外に掻きだしまずは阻止。次もその次も失敗するなり阻止するなりした一方で、日本は宮間あや選手のゆっくりと近づきちょこんと蹴って放り込む、遠藤保仁さんもびっくりのキックで、軽くゴールインを決めて米国の気分を沸騰させる。

 永里選手は失敗したけど、ほかは続いてそして最後、熊谷紗希選手がしっかりと決めて日本が米国を結果的に下し、ワールドカップというサッカーにとって大きなタイトルをその手中に収めた。女子にとってそれ以上はないという栄冠。並ぶのは五輪の金メダルのみ。もう喜ぶより他にない。讃えるよりほかにない。だから今日という日は記念日になった。永遠に刻まれるべき記念日になった。祝日にしてもいいくらいだ、ってすでに海の日か。海の日ってそれでも年によって曜日の都合で動くんだよなあ、確か。だから海の日とは別になでしこの日ということで。男子がいつかワールドカップで勝った時、6月か7月にもう1つ、祝日が増えればこれはとっても嬉しい限り。いつだろう。いつになるんだろう。

 それにしてもの快挙に、歓喜の言説とともにいろいろと、女子サッカーの境遇を嘆く声がわきおこり、どうにかしたいといった意見が飛び交った。結構なこと。素晴らしいこと。でも忘れてはいけない。2004年4月24日。国立競技場に3万人を集めて行われた、アテネ五輪の出場をかけたアジア予選の準決勝で、北朝鮮を敗って出場権を獲得した時、日本中が沸いて女子サッカーへの注目が集まった。レジ打ちをしながらサッカーに勤しんでいる選手もいることが、広く知れ渡ってその境遇への同情が集まった。何とかしてあげてという声も起こった。その結果。何が変わったか。変わらなかった。変わっていたら今もなおそうした声が起こることはない。なでしこリーグの観客が300人程度といった事態も起こらない。

 アテネに続く北京五輪では、何とベスト4入りというこれも日本のサッカー界にとって驚きの結果、男子のメキシコ五輪銀メダルに続く快挙を成し遂げた。なでしこジャパンにも注目が集まったが、何が変わったかというとむしろ悪化した。名門のTASAKIペルーレが休部し、日本代表に関わった選手たちが引退や移籍を余儀なくされた。誰も助けられなかった。救おうとする企業は現れなかった。幸いに神戸にはINACという新しい企業があって、女子サッカーの支援に乗りだしていたから、何人か移籍を果たしたものの、名門チームの消滅は、女子サッカーが1990年代末期と同様に、景気の波に左右されやすい存在であることを浮き彫りにした。現在もまた、不慮の出来事とはいえ東京電力が所有していたTEPCOマリーゼが、消滅の聞きにあって代表級の選手、将来を嘱望された選手たちが行き場に悩んでいる。

 何とかしてあげて、という声を上げることは難しくない。今なら何とかしようという声が、政治を動かし社会を動かすだけの背景を持ち、力を持って響くから。けれども、それとて一過性に過ぎないことは過去の事例から明か。喉元を過ぎれば熱さは薄れて女子サッカーは日常に戻り1日の多くをアルバイトや仕事で埋め尽くし、その明いた時間をサッカーに打ち込む繰り返しが続いていくことになるんだろう。何とかならないのか、という意見には同意したいけれど、現実、女子サッカーを見てお金を払い、あるいはスポンサー企業を知って購買に向かう人の数が、女子サッカーの選手たちの待遇を補えるだけのものにはならないし、多分、今のムーブメントをバックにしても、一部のチームに観客が集まるだけで、全体を運営していくだけの規模にはならないだろう。それが可能なら、女子バレーボールやソフトボールのように、それで“食べて”いける選手が、チームがもっと増えていて不思議ではない。

 1990年代前半の、ややバブルが残った時代にすら追いつかない今の停滞を、ワールドカップの優勝であてっても、すぐにどうにかできるとは思えない。とはいえきっかけには成り得る。何とかしてあげてと叫ぶ人たちが、何とかしようとスタジアムへと足を運び、その面白さを語り、ファンを募ってまた足を運ぶその連続が女子サッカーというものへの認知を増し、お金を出したいという企業なりを増やし、お金を出したいという観客を増やしてチームの運営を充実させ、選手たちの待遇を増していく。その積みかさねだけが、女子サッカーを安定して競技の続けられる、誰にとっても魅力のある競技へと変えて、選手層を厚くし、永遠の強豪を約束する。

 女子サッカーを何とかするのは政府ではない。そんなものだけに頼っていては本当の回復には繋がらない。女子サッカーを何とかするのは、何とかしてあげてと思ったあなたたち自身に他ならない。専用機を派遣してあげてと思うなら、スタジアムへと脚を運ぼう。給料を増やしてあげてと思うなら、試合を見に行ってパンフレットを買いグッズを買ってあげよう。その積みかさねでしか女子サッカーは、真にプロフェッショナルが集うスポーツ競技とはなり得ない。繰り返すな。アテネ後の足踏みを。思い出せ。TASAKIペルーレの悲劇を。与えてくれた感動に、お礼を言いたい気持ちは是非に、スタジアムで爆発させてもらいたい。とか言いつつ、最近あんまり行けてないんだよなあ、J2にジェフユナイテッド市原・千葉が落っこちて、日曜日に試合が増えて女子サッカーの開催と重なってしまうんだ。来年、もしも戻れたらもうちょっと増やして見に行こう。

 総理が北朝鮮とか、ポル・ポト派とかと関わってる“機関紙”とやらに「30年前から」寄稿してるって記事が流布してる。読むとなるほど、昭和58年と59年に寄稿したりインタビューに答えていたって書いてある。ではその後は? 最近も寄稿していたいのか? 書いてない。それってつまり「30年前から」じゃなくって「30年前に」寄稿したり、インタビューに答えていたってことじゃないか。「○○から」と「○○に」じゃあ、まるで意味合いが違うんじゃないか。有名歌手が30年前から暴力団とつきあっていてい、今もそうだったとしたら、歌手生命は大ダメージを受ける。でも、30年前につきあっていたけれど、今は切れているだったら、そういう時代もあったと見過ごせる。

 そんな「に」を「から」にすり替え、今もそうだとネガティブな印象を植え付けようとして、文章を操作しているんだとしたら、果たして公器として正しい振る舞いか。考えるほどに鬱陶しい。それとも今なおつきあっている事実を隠しているのか。記事の精度として最も重要なその部分を、敢えて隠す意味が分からない。ちなみによど号ハイジャック犯による寄稿があったのは昭和63年と後のこと。昭和59年以降に寄稿がなかったとしたら、昔つきあっていた奴がワルに染まったからといって、その責任をとれというもの。そこまで未来を見通して執筆はすべきなのか。とても難しい問題をさらりと提起してしまったその記事が、はたしてどんな影響を世の中にもたらすのか。興味深い。現場まるで無視だけど。そりゃそうだよなあ。後追いしようがないものなあ。


【7月17日】 2年前のワンダーフェスティバルに、何故か出ていてその美しさに仰天して、記事にもしたのが冨田伊織さんって人が作っている「透明標本」。魚介類を特殊な処理で肉から色素を落とし、そして骨とかに色を着けるとあら不思議、透明な中に骨格が幻想的に浮かぶ標本が出来上がるっていった案配が、ホルマリン漬けの標本とかにはない美しさを醸し出して、アートなオブジェとして人気になって、あれよあれよと世の中に広まっていった模様。東急ハンズみたいなところで売られたりもすれば、動物がテーマになった博物館の展示に合わせて販売されたりと、各所でお目にかかる機会も増えて来た。人気声優の池澤春菜さんも、どこかで買った透明標本を持っているといった旨をネットで報告してたりしたっけ。

 池澤さんに限らず何か女性に人気があるようで、いつも出ているデザインフェスタにいくと、透明標本を囲んで女性たちがズラリ。中には朝1番で親子連れで駆けつける人もいて、持ち込まれた中からお気に入りの1品を、探して買って帰っていく姿を前に何度か見かけたっけ。言ってしまえば動物の死骸な訳で、これが骨のみだったら、あるいはホルマリン漬けだったらグロいキモいと避けられそうなものが透明になって、骨格だけになり、色が着けられると途端に人気となっていくこのメソッドを、何かに応用できないものかと考えたけれども、流石に女性に不人気のマッチョなキャラから、筋肉を透明にして骨だけにして色を着けたって、人気が出るとは思えないからなあ。難しい。

 そんな透明標本が今、東京は表参道で初のギャラリーでの個展を開催中。名付けて「新世界『透明標本』展〜不確定要素〜」って展覧会に行くと、やっぱり女性がいっぱいいて、床に置かれた平台の上に複数の透明標本が並べられた、これまでの瓶詰めとはちょっと違った展示を囲んで、座ってながめながら持ち込まれた透明標本を、あれやこれや選んでた。そこまで好きなのか女性は透明標本が。そんな展示の中でひときわ目立っていたのが淡水エイの標本で、団扇のような平べったい骨格が、紫だか青だかの色でもって染められ置かれて不思議な形状をみせていた。タツノオトシゴもあれで可愛さがあるけれど、エイはそのフォルムがどこか幻想的。それが骨格だけになったらなおのこと、不思議さを醸し出して目を引きつける。定番のタツノオトシゴが高額になっている脇で、これからはエイがちょっとブームになるかも。でも幾らくらいなんだろう、エイ。

 そんな冨田伊織さんは、学校を出たあとか在学中からだったか、主に岩手の漁港で漁師さんといっしょに働きながら魚を集めて、透明標本の材料にしていたとか。これが本業になってからも、もっぱら東北の港を回って漁師さんから珍しいのも含めて、いろいろな魚介類を集めていたというから、透明標本になったものにはまだおだやかで平穏だった東北の海でとれたもの、まだ無事だった港で水揚げされたものがいっぱい含まれているっぽい。それは現在において過去を伝える記録でもあって、そうした産地が分かるものなら、見て少しばかり観賞に浸ることもできそう。もはや捕れなくなったものも含まれているのかな。でも願うなら今も前と変わらない、水揚げがあって活気が戻って平穏が続いていって欲しいもの。それが回復の土台なのだから。

 せっかくだからと東京都現代美術館へ行って、フレデリック・バックって一般には「木を植えた男」のアニメーションで知られるアーティストの展覧会を見物。夏の現代美術館といったらスタジオジブリ関連の展示が定番で、それによって子供をわんさか集めて収益を叩き出すってのが過去のパターンだった訳だけれども、今回は新作「コクリコ坂から」の公開が直撃しているのに、それを外していたりするのがちょっと謎。とはいえフレデリック・バックはアニメーションの人として宮崎駿さんや高畑勲さんと知り合いで、そしてジブリもアートなアニメーションを紹介する事業をずっと行っていて、今回もそうしたアニメ人脈とそしてジブリのスタンスから、自社作品ではないフレデリック・バックをフィーチャーして展覧会を開くことになった模様。なんで行くといきなり「コクリコ坂から」のメルの顔が描かれた色紙がもらえた。印刷だろうけれどもちょっと不思議。バックとは作品的に縁遠すぎるのに。でも昨日に映画を見たばかりで、キャラへの気持ちも乗っていただけに内心では何か嬉しさが。色をぬって飾るか。

 さてフレデリック・バック展は、1階が初期の画家というかイラストレーターとしてフランスの風景なんかを描いていた頃の作品がズラリ。なるほど上手いんだけれどそれだけって感じで、見ていてあれもこれもとやや退屈感が漂うものの、そういったところで培った描画力って奴が、カナダに移住して大きく花を開く。説明によると文通していた女性がいて、彼女から聞いたカナダの話とかに惹かれ船で5週間かけてカナダにわたってそして出会って3日でプロポーズ。結婚してからも絵なんかを描いていたけれど、食べるにはやっぱり仕事が必要とカナダのテレビ局に入って、デザイン面の仕事をやりはじめてから映像への道が花開いた。最初は簡単にお絵描きなんかをしていたのが、やがて紙芝居の1つ1つに仕掛け絵本みたいな細工を施し、撮影して動かしてみせるアニメっぽいものを作り始めた。

 そしていよいよ切り絵めいたものを重ね動かし撮影していくアニメへと進行。そこでカナダに伝わる伝承とか、ネイティブアメリカンな人たちを主題にした作品を撮って絵だけじゃなく主張もこめていった果てに、セル画に色鉛筆で直接絵を描き撮影していいく手法へとたどり着く。微妙なズレを見せつつ動くその絵はなるほど山村浩二さんが手がける作品にも似た動きやトーンを持っていて、アニメーションの人に与えた影響の大きさって奴をかいま見る。そんな模索の果てにたどり着いた「木を植えた男」では、原作が持っていたメッセージ性に動きの幻想性が加わり、誰もが見て感動を覚え木を植えたくなるくらいの情動を与える傑作となってアカデミー賞を獲得した。オスカーだよオスカー。それが展示してあってああこんな大きさなんだと改めて確認。東小金井にあるのを別に持ってきた訳じゃなかった模様。比べるとちょっぴり違うのかな。顔立ちとか素材とか。

 今なお現役らしく、いろいろ作ってはみているフレデリック・バックさん。山村浩二さんがカナダに渡って「マイブリッジの糸」の最終仕上げをしていた時にも会ったそうでそんなバックが果たして「マイブリッジの糸」をどう見なしたかにちょっと興味。アカデミー賞をとってくれるなり、せめてノミネートされると良いんだけれど、アヌシーではディレクションの方に変革が見えて、出品作品にすら入らなかったんだよなー、不思議なことに。ともあれ2階のアニメーションパートについては見るべきものも多かった展覧会。1階も退屈はするかもしれないけれど、シーンをこうとらえこうレイアウトして見せれば広さなり、豊かさが出るんだと学べば背景を描く人にとっては大きな勉強になりそうなんで、行って眺めてメルの色紙をもらって帰って中割をして動かしてみてはいかが。

 ついでに名和晃平さんの展覧会も見物、生な標本とか使うのはどこかデミアン・ハーストっぽくはあるけれどもそうした剥製をぶった切るんじゃなくって、ガラス球をいっぱち張り付けて飾ってみたりするところがオリジナル。透けて見える毛皮とか屈折して映る周囲で観賞している人とかの総体が、そのオブジェクトに対する空間の固定化を、成しているようでちょっと面白かった。ただ剥製が置いてあるだけではでない存在感。それから巨大な発泡スチロールでもって人間を削りだした作品はリアルな彫刻めいた姿とそれからデジタル風に角がついて安いポリゴンめいたデコボコ感が出ている姿が重なったり、向かい合ったりしていて同じ存在ながらも暮らす場所が異なると違う見え方をする可能性って奴を感じさせてくれた、とかいいつつ目は巨大なギリシャ彫刻風美女へとくぎ付け。尻とか胸とかが。巨大で。もう。そりゃ。ねえ。

 もう阿呆かと。戯けかと。とある報道写真のキャプションに、総理大臣へ質問しようとして、手を挙げても使命されなかったってことが堂々と書いてある。それのどこがニュースだ。UPIのヘレン・トーマス記者だったら何十年もホワイトハウスに詰め、そしていち早く情報を配信するという通信社の記者で、その記事が全世界に打電されるという背景もあって、真っ先に指名されることが半ば伝統になっていたけれど、それでも通信社を退社した後はそうした“特権”はなくなって、1人のベテラン記者として後ろの方に座るようになったし、今は発言の責をとって引退している。もし在任期間中に、彼女が指名を受けなかったら、きっとニュースになっただろう。でもそれは、彼女が知る権利の付託を国民から受け、それに常に答えていたからこその話。実際、そういした経験を評価され、常に指名されたし、その責を果たしてきた。だから讃えられた。

 もしも指名されないんだとしたら、それには理由があるからだという自覚に、ジャーナリストが気が付き改め、あるいは突破しようとすればいい。そもそもが記者会見で指名されるされないってことは、ジャーナリズムとは何の関係もない。何を聞きたいか、それが国民にとってどれだけ意義のあることかが重要で、それを果たした結果こそがニュースになり、ジャーナリズムと呼ばれ得る。相手が頑なで質問を受け付けないんだったら、どういう質問をしたかったかを書いて世に広く問えば良い。それが納得できるものなら世間は讃え、受け付けない側の責を問う。とても簡単なことなのに、なぜかしつこく質問されないことを問題にしているから、笑えるというか泣けるというか。なおかつそいうした行為が妙に讃えられる空気がある。不思議というか奇妙というか。そんな不思議さが向かう場所に何があるか。答えは出る。そんなに遠くない未来に。


【7月16日】 生存戦略、したいねえ。でも相手がね。死んで復活したペンギン娘でもいれば嬉しいけれども女王様然として無茶言うからなあ。そんでもってピングドラムとやらを持っているらしい少女を追いかけ総武線から山手線。いったりきたしするうちに相手がトンデモなストーカー娘だとも分かってちょっぴり辟易。いったいどうしてそこまで相手にのめり込む。きっと心にいろいろあるんだろう。ただ熱意が先走っているだけかもしれないけれど。という訳で「輪るピングドラム」はペンギンがとにかくえっちいです。いったいどうしてそこまで股間に潜り込む。それがサービスって奴さ。

 公開の初日の初回を見るのっていつ以来。それともずっと見てたっけ。前作の「借りぐらしのアリエッティ」はいつ見たっけかと、それすらも記憶が虚ろになるなかで、でもせっかく早起きできたんだからと近所のワーナーマイカル市川妙典で宮崎吾朗監督によるスタジオジブリの長編アニメーション映画「コクリコ坂から」を見た。すばらしいじゃないか。ジブリ映画では今は亡き近藤喜文さんが監督をしていた「耳をすませば」的に好きになりそう。つまりは思春期にある少女と少年の出会いと成長のストーリー。ちょっぴりの壁とかあるけれど、挫けさせられることなく嫌な奴らに潰されることなく乗り越えていく爽やかさが、見ていて心を明るくさせるんだ。

 見るまで原作も映画も含めて一切の情報を入れずに行った映画は、舞台が海辺でそして昭和30年代だといった辺りまでの知識をとっかかりに、少女が海岸の山手にある家で畑を掲げよとする朝のシーンからスタート。ガスコンロにマッチで火を着けご飯と炊くとかいった描写も含めて、昭和38年の日本の風景、生活、日常って奴が描き重ねられていって、僕が生まれて育った昭和40年代前半にも残っていたその空気が感じられて、どこか懐かしくなってきた。そういう生活が普通で、とくに苦労していたとも思えないんだけれどもいつしか世間には電化製品が溢れ便利さという生活のもとに余剰が増えて生活の時間を加速させている印象。立ち返ってあの暮らしに戻ってみるのも今のこのご時世、良いんじゃないかって気もしてきた。

 学生たちが文学を語らい科学を探究しつつ学校側の圧力に屈しないで戦おうとする姿も見ていて痛快。過激な昭和40年代半ばの学生運動を経た目にはどこか甘くて青いものに思われるかもしれないけれど、とっても気になる世界、そしてそうあって欲しい世界なんだから、今からだって取り戻せば良いんじゃないか。昭和30年代の風景といったらそうか新海誠さんの「星を追う子ども」も同じくらいの時代を描いてて、あちらは山間部だったけれども、やっぱり平凡な日々が楽しそうに思えた。「コクリコ坂から」は舞台がリアルだし「星を追う子ども」はファンタジーとジャンルも違うけれども、その時代にあった様々な思い、夢を見てそれがかなうと誰もが信じて上を見上げていたあの幸福感がともに思い出さる作品だった。

 消費が経済のシステムに組み入れられ、原始に帰るのは競争力を殺ぐことだって言って反対する人もいる。そう煽って不安にさせるメディアもあったりする。果ては毛沢東の大躍進を持ち出してきて、号令のもとに生産の増加に邁進した挙げ句に多大な犠牲者を出したことを引き合いに、政治の無茶につきあうのはイケナイといって脅してみたりもするけれど、大躍進を経済発展の大推奨と見るなら脱原発はそれとは逆、同じ大号令でもまったく向きの異なるベクトルのものを、並べ立てる無茶にコラムの筆者は気付いていないか、気付いていないふりをしているのか。相手が憎ければ存命な人だって没させる無茶をして平気なところなだけに、言いたいことのために牽強付会をするのは日常茶飯事。けれどもその本質にある違いを見つめ直し、世間が今、何を求めているかを探るならばやっぱり「コクリコ坂から」のような安寧に、目を向けるべきなんじゃなかろーか。まあもっとも、そこを見落とし見逃そうとするから世間に見捨てられているんだけど。

 宮崎吾朗監督はパンフレットであきらめちゃだめって言っている。僕は大好きで劇場で5度は見た「ゲド戦記」だけれど、世間的には失敗と言うことになっていて、見ていない人までが世評をバックに宮崎吾朗はダメだと叩いて貶すけれども、そんな逆境にありながら敢えて引きつけ立ち向かい、そしてこの素晴らしい映画を作り上げた吾朗監督。その頑張りを作品から受け止めつつ、この厳しい現実を前にして、例えあきらめそうになっても、いつか出来たことならまた出来る、そう信じて動けば何とかなるかもしれない、って甘いけど甘くなくっちゃ生きていたってつまらないからね。そんな意味でもど見て欲しい映画。「コクリコ坂から」とそして「星を追う子ども」は。

 映画を見ていて登場した企業というか出版社の社長が徳間書店の徳間康快さんっぽかったのが個人的にはツボ。計算高さとは正反対をいき真っ当な見解には真っ当さで返し夢とか希望とかにも理解を示す、その豪快さ豪放さが見ていてとっても心地よかった。徳間さんは実際に逗子開成の理事長と校長を務めて停滞していた学校を建て直した経歴を持っているけど、それは1980年代のことだから映画とは直接関係ない。だからあくまで映画に盛り込まれたフィクションだけれど、そこに徳間さんがいたらそう言い、そうやりそうな話だった。何しろ苦境にあった宮崎駿さんを囲い、映画を作らせスタジオジブリまで作って遇した恩人。特番とかではその業績が無視されがちになるけれど、関わった人たちはちゃんと覚えていて恩にも着ていて、2000年の逝去から10年越しに追憶し、追悼したって感じかな。

 あとキャラクターでは広小路さんって名前の、のっぽで眼鏡の女性画家がとっても可愛らしかった。眼鏡をとるとこれがまた美人なんだよ。あとは眼鏡インテリの生徒会長。格好良くって性格も最高。3人で東京に行ったあとはメーンのカップルを2人にして話をさせる配慮も見せる。たぶんあれは意図的だ。その格好良さに萌え狂う婦女子もたくさんでそう。カップリングとかにもしたりして、受けか攻めか。そこんところは僕にはちょっと分からない。哲学ゴリラも悪くない。左官屋の娘も気っ風が良かった。

 とにかく良いキャラクターばかり。嫌な人が誰もいない。校長ですら悪の格好良さ。そこんところが共感不能なお手伝いさんがいた「アリエッティ」との大きな違いか。あの見せ方はやっぱり今も気に入らない。話も最高。そんな世界をやっぱりきれい事だと言う人がいるだろうけれど、良いじゃないかアニメなんだから。理想を描くメディアなんだから。そこから得た気持ち良さを、現実に返し現実を気持ちよくしようと、誰もが思えば未来は明るい。そう思うために、そう決断するためにまた行こう。何度も行こう。

 せっかくだからと上野に回ってギリシャ彫刻を見物。円盤投げの像ってそうかローマ時代にギリシャの彫刻からコピーされたものなのか。まあそりゃギリシャの時代のものが残ってるってことは滅多にないから。それにローマ時代ったって十分に古いから。その円盤なげのどこに感心したかっていうと爪を曲げて地面の土をつかんでいた足か。あそこまで神経を行き届かせて円盤を遠くまで投げようとする肉体が大理石の彫刻の中にみなぎっていた。尻とかふくらはぎとか固いのに柔らかそう。その表現力が具象彫刻の凄みななよなあ。今あれだけ彫れる人っているのかな。その海洋堂版のフィギュアがあったんで売店で所望。あとガチャガチャにも入ってたんで回したらニケとあとツボが出た。アフロディテの胸像は出ず。出たらいろいろ触ろうと思ったのに、ってフィギュアだぜ。でも。そいういうものだ、2次元愛って。3次元だろ。うーん。難しい。


【7月15日】 ある意味で潔かった雄二とか、素のまんまだったムッツリーニに比べると明久はじたばたとして裏声まで使った挙げ句に何のインパクトも残せず。女装してミスコンテストに出るんだったら何かやっぱり強い信念で勝利をめざすか場をひっくり返すくらいのことはして欲しかった。でもそうした意識もいっさいなく、ひたすらに自分は男だと思い主張してもそうは思われない秀吉の絶対的勝利は揺るがないんだけど。そういうところまで行かなかったのがちょい残念なアニメーション版「バカとテストと召還獣」の第2期。姫路さんの必殺料理はやっぱりすごいらしい。召還獣はやっぱりどこいった。

 朝から「水戸黄門」のドラマ打ち切りで世間はもちきり。あれだけいろいろ言われていたのに一切の前向きなテコ入れを省いて海岸へと突き進むレミングみたいな改変しかしてこなかったら、この結末も仕方がないとはいえ「ウルトラマン」だって40年、「仮面ライダー」だって35年とか続いている中でせっかく生まれたコンテンツを、マンネリだけを理由に潰してしまうのは甚だもったいない。「仮面ライダー」がイケメン起用の戦隊化によて息を吹き返したようなテコ入れが、「水戸黄門」にだって出来たはず。だからTBSは今からだって遅くないから、塩野干支郎次さんに原案・脚本を依頼して、水戸黄門の宇宙刑事化 スーパー戦隊化を進めるべし。もちろんノイシュバンシュタイン桜子ちゃんの出番もしっかり取って。

 それは冗談としても、今のこのキッズアクターのムーブメントを利用して、黄門様を加藤清史郎君で助さんを大橋のぞみちゃん、格さんを芦田愛菜ちゃんにして子供向けに番組を作れば、これから30年を背負ってたつファンを作り出せたんじゃなかろーか。もちろんそんな子役の可愛さに大人だって飛びつく。入浴シーンもばっちり……ってのはちょっと拙いかあれこれ的に。そっちだけは大人に頼もう。由美かおるさんカモン。流行者って意味なら秋元康さんにに頭を下げて「AKB48の水戸黄門」なんて作っても良さげ。もちろんメンバーの全員が水戸光圀で、誰か流行の漫才コンビを助さん格さん役にして啖呵を切って印籠を見せるとメンバー全員がバーンと登場。敵が暴れるといっせいに「やっておしまいなさい」とユニゾンで叫び、最後もユニゾンで高笑い。カッカッカッ。メンバーごとに主題歌CDを作ればいったいどれだけ売れる? やるしかないぞTBS。

 ともあれ萌えアニメ化現代化海外雄飛化女体化メタルヒーロー化ジャニーズ化AKB化お笑い化ハリウッド化全編由美かおる入浴シーン化と、テコ入れの手法はいくらだってありそーな水戸黄門。47都道府県を回る黄門様が、各地で必ず当地のゆるキャラに身をやつして内偵。いざという時にこのお方をどなたと心得るとサポートの助さん格さんが頭をはずしチャックを下げて、中から黄門を取り出すって話だって現地とコラボレーションが出来て毎会視聴率を稼げるぞ。名物だっていっぱい出せば紀行物として見てもらえる。人気番組に倣うんだったら、黄門役を船越英一郎さんにして、最後は断崖で印籠を見せ相手が観念して海に飛び込む展開にすれば誰もが感涙にむせびなける。

  キュアサンシャインを助さんでキュアマリンを格さんにしてキュアブロッサムが現れ堪忍袋の緒が切れましたと敵をボコる「はーとキャッチ水戸黄門」。けれど1番視聴率が良いのはキュアムーンライトの入浴シーンだというお約束。「大将軍に俺はなる」と水戸を飛び出した麦藁の光圀が剣の達人スケ、料理が得意なカク、泥棒をしていたギン、嘘が得意なハチらを仲間に行く先々で大騒動。江戸城に捉えられた兄を救いに向かい服部、柳生、千葉の剣豪たちを相手に大暴れする「ワンピース黄門」。でもやっぱり視聴率は謎の美女ニコの入浴シーンがかっさらう。今はやりのテレビ番組のフォーマット売り(たけし城の海外版みたいな)で「水戸黄門」を韓流化。黄門はヨンさまで格さんはイ・ビョホンだけど助さんは誰だろう。かげろうお銀は少女時代が全員で。逆輸入的人気を獲得しそう。TBSがやらないんだったらうちがやる、って所が出たって不思議じゃない。

 だったらテレビ朝日ならぬ名古屋テレビには、黄門様を若き跡継ぎにして剣の達人、格闘のエキスパートを両脇に揃えて宇宙を旅しながら悪者があれば戦って、最後はロボットを合体させて胸の葵の紋を見せて「天にかわって成敗いたす」と叫ばせるアニメーションを作って欲しいなあ、ってそれどこのダイオージャ。当時は眉をひそめながら見ていたけれどもそれでも面白がって見ていられた。この「最強ロボ ダイオージャ」と「無敵ロボ トライダーG7」は「機動戦士ガンダム」と「戦闘メカザブングル」に挟まれた非富野由悠季アニメーションとして、ガンダムでアニメにハマったマニアには評判が悪かったんだけれど、子供が見て楽しいアニメって意味では最良の出来だった。
BR>  その意味では子ども向けに回帰してと評判もいろいろな「機動戦士ガンダムAGE」だって、子供が楽しむアニメーションとしては最良の出来になる可能性を捨てきれない。むしろ今のクリエーターたちが作る以上は大人だて満足できる内容に仕上がってくるじゃなかろーか。そんな流れで富野さんの呪縛を抜けて、非富野系なスーパーロボット系アニメにスポットが当たってくれるとアニメにも豊穣さが増してくれそう。ちなみに「無敵ロボ トライダーG7」と「最強ロボダイオージャ」「未来ロボ ダルタニアス」と同じ佐々木勝利監督は。調べたら一昨年に亡くなっていた。謹んで合掌。今回の一件でダイオージャにスポットが当たってくれれば手向けになるのに、って思っていたら超合金系でダイオージャの企画が動いている模様。そっちから復活へ期待。

 昨日の芥川賞と直木賞の選考経過が漏れ出てきて思うところいろいろ。芥川賞ではフーマンチューの呪いか何かが今もあるのか「芥川賞という範疇ではなく、SFとか、そういうような種類のような所で読めば、ものすごくすばらしいことかも知れないけれども、芥川賞ではないかもしれない」なんて意見が出てきて円城塔さんの「これはペンです」の受賞をはばんだ模様。それをいうなら「SMとか、そういうような種類の所で読めば、ものすごく素晴らしい」小説だって取っていたりする訳で、そんなカテゴリーにおしこめ評価するより、カテゴリーが求めている欲求がなぜ求められているのかを俯瞰してとらえ、そこで行われている思弁を普遍のこととして、消化し広めていくくらいのことをしなきゃあブンガクじゃねえじゃんって思えて仕方がない。内へ内へとこもっていたってツマラナイものの再生産しか生まれて来ないぜ。

 直木賞も直木賞で高野和明さんの「ジェノサイド」に対して「ひとつはですね、初出の方ですよね。他作品がまだ判らないという点があって」って言葉があった。どういうことだ。つまりは直木賞の選考作品として入ってこなければその作家の作品は読まないということか。この作家がどういう流れの中で生み出されてきたのか、どういう傾向の作家なのかを知らないで選考にのぞむのって、とっても勇気がいること。もちろん候補になったそれ1作の水準をのみ、判断基準にするなら他の作品を読む必要なんてないんだけれど、それなら「他作品がまだ分からない」なんて言ってはダメだ。初候補で落ちて次の候補が前より落ちるとか言われ落とされるのはなるほどこういう作家への対峙、作品への対峙のダブるスタンダード的姿勢にあるんだってことが薄らわかって来た。そうやって作られ、あるいは見送られる賞に果たして価値は? もちろん「下町ロケット」はとても素晴らしい話なので結果には満足。でも次なる不幸を生まないためにも、そして未来の文学を取りこぼさないためにも、何かが必要ってことは言っておきたい。


【7月14日】 やっぱり白く輝いて、何が何だか分からないけれどもそれが吸われていたりするのは想像できたアニメーション版「魔乳秘剣帖」。乳こそすべてな世界観の中で乳の力をどうにかしている一族がいたりするんだけれどそこから逃げだそうとした少女がひとり。名を乳房、じゃかった千房というあたりからしてもうアレアレあけれどそんな彼女が追ってきた女の乳を切って起こったことがまたすごい。相手は減って自分は膨らむ。どういう仕組みかというとその間に時空を繋ぐ道が出来たとかいった科学的な解釈は無理だけれど、まあそういうものだと思えばそういうものかと納得……していいのかな。ともあれ「聖痕のクェイサー」終了後に現れた乳アニメ。不足する成分を補って余りある乳描写に夏の夜を楽しもう。

 澤穂希選手からゴール前のセンターバックへと戻された横へのパスが、スウェーデンの選手に拾われそのまま撃たれたシュートがゴールイン。キーパーとしては防ぎようのないシュートだったけど、それ以前にどうしてあそこであれほどまでに不用意なパスが出てしまったのか、やはり連戦で疲れが出て判断が鈍っているのかと心配が強く浮かんだFIFA女子ワールドカップ2011ドイツ大会での準決勝、日本代表対スウェーデン代表戦。そこから守備を高め前戦に高さのある選手を廃してたてへの放り込みから日本のディフェンスラインを押し下げ、突破していくフィジカルに強い欧米勢ならではの攻めが始まるのかと思ったら、割と早い時間帯に同点においついたのが良かったか、日本も臆することなく焦りもしないでじっくりと中盤でボールを保持して責め立てる、なでしこらしい戦いぶりが見えてきた。

 その1点目がまた素晴らしく、サイドに出たボールを宮間あや選手がきっちりと中に送るとそこに飛び込んできた川澄奈穂美選手が足で会わせたか、相手ディフェンスに当たってちょっとだけ浮いたところに足がうまく当たったかしてボールはそのままスウェーデンゴールにイン。どうしてあのタイミングでセンタリングがぴたりと見方選手に合うのか。日本のJリーグでだって代表の試合でだって滅多に見られないピンポイントのクロスって奴をあっさりやってのける宮間選手の技術もすごければ、そこに信じて走り込んだ川澄選手もやっぱり素晴らしかった。初めての先発なのにそうやってきっちりと仕事ができる選手が出てくるところが、いまのなでしこジャパンの層の分厚さって奴なんだろー。あれだけ騒がれた岩渕真奈選手なんか出場してないんだから、この試合では。

 そして失点の責を背負い一心不乱に走り回った澤選手がまた素晴らしかった。危険な場所に顔を出しては足を出し、体を投げ出しボールを奪う。そして攻めればゴール前へと駆け上がって2点目をヘッドで叩き込む。この点がなかったら均衡のなかにジリジリとした試合が続いて、そしてフィジカルにものをいわせたスウェーデンの波状攻撃に、押し切られ沈んでいた可能性もあったけれども、澤選手の2点目で相手の気力に疲れが生まれ、そしてやってきた3点目。キーパーが処理をして転がってきたボールを、キーパーの頭上を越えるようにして中断からゴールへとふわりと叩き込む。距離感も速度も完璧無比。普通だったら焦ってふかしてしまいかねないところを、距離感も強さもぴったりと合わせて決めてしまえるところに川澄選手の、持っている力ってものが感じられた。それをあの大舞台で出す強さって奴も含めて。

 そして向かえたタイムアップ。スウェーデンを下して日本の女子のフル代表が初めてFIFAが主催する国際大会で決勝の舞台へと駒を進めた。男子だったら1999年のワールドユースがあったし、2001年のコンフェデレーションズカップでも決勝へと進んだことがあった。あと女子でもU−17のワールドカップで決勝に進んだことがあったっけ。いずれにしてもどの場合も決してフルの代表ではなかった訳で、あらゆる選手たちがそこに集うフル代表、ナショナルチームでの決勝進出はまず素晴らしく、そしてこれに勝ったら初のFIFA主催の国際大会での優勝という栄誉を得るということも、また凄まじく素晴らしい。相手は強敵にして日本には無敗のアメリカ。選手層の厚さもあるし選手個々のスペックの高さもあって容易には勝てそうもないけれど、激しく粉砕されている訳でもない相手。付け入る隙は絶対にあるからあきらめず、ひるまず突き進んでいって欲しい。あのドイツにだって勝ったんだから、きっと勝てるさ、絶対勝つさ。

 面白いったら面白すぎる佐島勤さんの「魔法科高校の劣等生1 入学編<上>」(電撃文庫)は魔法の力で将来が決まる日本にあって優秀さでもって名門校に進学した妹がいて、その名門校に進学はしたけれども2軍的な扱いに止まった兄がいて、妹は兄にメロメロな感じがあってそんな2人がエリートと雑草に別れてしまったものだから、起こるいろいろな悶着。妹の周囲に群がるエリートたちは雑草の兄が鬱陶しくてしょうがなく、ちょっかいもかけるけれども兄はあれで体術の達人でありまた知識だけなら学年1。その才能を活かして雑草を下に見るエリートたちの反発を受け止めはねかえして挫いていく。無才に見えて実ははなたりは「とある魔術の禁書目録」の上条当麻的。なおかつ何か裏もありそうで、そんな無才の真の才能が炸裂する瞬間を楽しみに続きの刊行を待ちたい。ネットで読めば早い? 楽しみはじっくり待つものだ。

 やっとというかようやくというか遅すぎるというか「空飛ぶタイヤ」で授賞していたって全然不思議じゃなかったけれど、企業小説ってことで見送られてしまった印象が強かった池井戸潤さんの直木賞受賞が「下町ロケット」でようやくかなった。結構好きな作家ってことで応援していた身として嬉しい限り。社会があって大勢の人が企業で働いているにもかわらず、そこで起こっていることがどうして文学の賞の対象とならないのか、って不思議さが常にあったけれども、これで人が営む経済が描かれているものならそこに人は描かれているって認識が、広まって企業小説の世界に注目が集まって、豊穣な作品が生まれそして歪んだり、間違ったりしている企業のあり方を、変える一助になっていけば日本のためにも人間のためにも極めて善哉。とにもかくにもおめでとう。

 そんな直木賞の発表会に数人で乗り込み、カメラも引き連れ質問している姿を映させ質問への答えも映して番組のシーンを作るところがいたりしたのが興味深かった。文学賞の芸能化? ブックリポーターの芸能リポーター化? やがて美人ブックリポーターとか突撃ブックリポーターとか出てきて文学賞の会見の最前列を陣取り、マイクを向けて「今のお気持ちは」って聞くよーになるんだ。うーん。ニコニコ動画からも人が来ていて見ている人にひとことって聞いて、池井戸さんはニコニコ答えていたけれど、気むずかしい人だったらいったい何を言ったかな。寄せられた質問として賞金を何につかうのかとも聞いていたけどそれも過去にはあんまりなかったなあ。これも時代か。そしてどうなるのか。


【7月13日】 史場日々乃のスレンダーな腰つきに比しての巨大な張り出しに、誰もが目を奪われるのは当然としても、新しく登場した真・科学部なる組織の部長、空張久羽子もこれでなかなかの豊満さ。燃えてしまった部室で後ろ下から映したシーンなんかではヒップの丸みもしっかり描かれ立体感をついつい確かめてみたうなった。二次元だから無理だけど。そんなナイスバディに加えて眼鏡でデコ。なおかつ性格は強引で傲慢。沢城みゆきさんが当てるそっち系の声もばっちりはまった姿で登場された日には、もう目が奪われて日々乃なんてこぼれおちてしまいそうになってしまったアニメーション版「神様ドォルズ」第2話は、手袋をした胡乱な刑事のそれが娘だと分かって何故にといった懐疑がもんわり。でも自分にとことんこだわる強引さって意味ではあれでそっくりなのかもしれない。レギュラーっぽい活躍を期待。似た系統では「夏目友人帳」の笹田純が第3期ではいまいち出番少ないし。

 森野樹「転転転校生生生」(講談社BOX)が素晴らしいのでSFマインドがあってライトノベルファンで新人が好きで未来に可能性を求めたい人は絶対に外さず読むように。田畑くんそう少年が高校に行くとなぜか転入生がいっぱいいた。何でも名門校だそうで上の大学にエスカレーターで進めるという噂が立って、いっせいに転入を求めてきたとか。本当はそうではないんだけれども訂正が間に合わず人ばかり詰めかけてきて、一般の生徒が学校に入ろうとするスキマを奪ってしまう。あるいはライバルと思って退けようとする。これでは学校の中に中に入れず約束していた綾小路さんというお嬢さまが転校していく、その送別会ができそうもない。困っていたところに、田畑と仲の良かった内田というなぜか「ガグガギガ」としか喋らない少女と出会い、2人で何かしようと考える。

 喋り方もあって学校でも無視され気味だった内田と、唯一仲良くしていたのが田畑で、そんな2人がどうにかしようと門のところへ向かうと、綾小路さんを乗せた自動車だったら普通に邪魔されず突っ込んでいけるおとが分かった。かといって自動車を持たない田畑が困っていたところ、なぜか内田は仰向けになって腕を上に差しだし「ガガギギゴッゲ(私に乗って)」と言い出した。乗るっていったいどういうこと? そこで判明した内田の正体。そして見える物語が置かれている世界の様有り様。ちょっぴり不思議な近未来の世界で、田畑はひとつの目標を得て、それに向かって進むことを決意する。

 そんな青春の1ページが刻まれ、驚かせつつちょっぴり泣かせる表題作「転転転校生生生」に始まって、田畑と同じ学校に通う少女が、友人で巨体のドス子という少女といっしょになって動いているうちに、彼女の本当の姿を知ったりするエピソード、田畑の知り合いの少年が、謎めいたコーラを巡る騒動に巻きこまれてドタバタとした中を走りまわったりするエピソード、まだ年若い頃の綾小路さんが、流されるだけの運命を振り捨て、自分の思うように生きるんだと覚醒するエピソード、野球部の女子マネージャーが圧倒的なスラッガーになって女子は出られないはずの甲子園出場に挑むエピソードが、連作的につづられる。そのどれにも内田の正体と重なる設定があって、そういう時代ならではのドラマの可能性って奴を見せてくれる。

 人間の中に内田を含めてそういう存在がいて、日常的には普通なんだけれどもそれでもちょっぴり残るぎくしゃくを、親愛や理解で埋め合わせていくって様子がつづられて、誰かと誰かの間の壁なんてものは、それを思う人の心の中にしかない、だから思う人が思いを返れば壁だってなくせるんだといった希望を抱かせる。SF設定の世界で人にそういう存在の可能性やポテンシャルへの思弁をもたらしつつ、友愛や博愛といったものの大切さを考えさせるメッセージ性も持った物語と言えそう。古橋秀之さんが昔に書いた「ある日、爆弾がおちてきて」(電撃文庫)にどこか重なる、ライトノベル的な読みやすさの中に深い設定とドラマを入れて、楽しませて驚かせて泣かせて笑わせる良質のエンターテイメント。ラストの1編で願いに近づこうと必死な田畑の姿に、誰もが目標に向かって頑張ろうと思おうだろう。田畑はちゃんと夢を叶えられたかな。それだけが気になって夜も眠れない。

 「週刊文春」最新号を早読んだら例の号外&訃報がどういう経緯で掲載されたかが書かれてあった。そうだったのかー。例えるならこれってキャサリン・グラハムやアーサー・サルツバーガーが、エスタブリッシュメントならではの多大な人脈から特ダネが入ってきたと言って出したネタについて、編集スタッフや現場の記者の誰ひとりとして本当かどうかを確認できなかった場合、それでもワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズは掲載に踏み切るって話だよなあ。でもたぶんおそらくワシントン・ポストもニューヨークタイムズも、自分たちが真実と確認できない記事はおそらく掲載しない。それが編集権であり、信頼という絶対の財産を守るためにできる最大で最上の手段だから。
BR>  たとえ本当だったとしても、間違っていた時のリスクを考えればちょっと無理。あるいはそこで1回でもクロスチェックの原則を破れば、1回ではすまず特別にならず常態化した果てに、何か真実の報道とは別の意味をもった告知に利用される可能性が生まれてしまう。水際での絶対防衛。1度でもおこった綻びから、何かが侵入して犯し腐らせることを恐れるならば、たとえ健常でも入れず様子を見続ける。それが検疫にとって必須。安全のために絶対。しかしてそうした原則を逸脱したこの一件は、信頼の絶対探求という生命線を、自ら否定してみせたってことになる。

 悩ましいのは、そいうした経緯を含めてオフィシャルには真正面から否定しているってことで、かりにその言説が虚構だとするならば、取り繕って嘘をついては露見し非難されるどこかの電力会社とか、鉄道会社と同じ穴の狢で、批判するなんてことは絶対に出来ない。あるいはそんなオフィシャルの言うとおりだとするなら、ではいったいどういう経緯でそれが真実として展開されたのかが気になってしまう。報道された内容がそもそも真実なんだという主張が出るのももちろん結構。だけれどだったらどうして今にいたるまで追随が起こらないのか。むしろ逆に健康を少しだけとりもどしたといった報もある。いったいどうなってしまうのか。どこまで突っ張る気構えなのか。明日で1週間。

 河童が良かった。もう本当に良かった。眉間によったあのしわは別に不機嫌だからって訳じゃなく、そういう形に固定されているだけってことだから内心はどうなのか分からないけど、でもやっぱり傍目には強気でぞんざいで傍若無人な人間、じゃなかった河童に見えてしまうから小栗旬さんとしてもいろいろやりづらかったし、相手の人も困ったんじゃなかろーか。でもそんな不思議な出会いが醸し出す空気感ってのが、ただよって実写版「荒川アンダー・ザ・ブリッジ」を見て引きつけられる作品にしている。コスプレごっこに見えるけれどもそのなりきりっぷりが半端じゃないから、見ているともうそこは立派に荒川UTBワールド。見上げれば世界にも河童にシスターに星にラストサムライが、溢れてるんじゃないかって思えてくる。あの河川敷の村を見ているだけになおさら響く現実感。そんなワールドに引きずり込んでくれるドラマは月末スタート、そして映画も到来。楽しみだあ。


【7月12日】 案の定というかミス農大を巡る争いに、我らが結城蛍がノミネートされる模様のイブニング連載「もやしもん」最新話。ほとんど態度の改善で落ちついていた武藤葵が、どーしてあそこでミス農大落としの戦いを選んだのかが分かったけれども、なるほど美里薫のえげつなさがそこで炸裂していたとは。瞬間にそこまで考えて実行できる頭の回転の速さはすごいけれど、蛍で果たして最後まで突っ走れるのかといった辺りで、いろいろ問題も生まれてきそう。あるいは実は蛍は本当は……って展開が用意されていたらちょっと愉快。ついているのか、いないのか。真実に向かって連載は進む。だからあんまい休載はしないでね。

 蛍以外だと例の食料自給率の時に出てきた農業経済の小坂さんと、それからレギュラーの及川葉月が候補に挙がってきそう。初期に割と出ていて目立っていた畜産の眼鏡っ娘も。名前ないんだなあ、やっぱり。戦いが進めばフルネームも出てくるか。ラクロス部のおでこちゃんってのも絵が出ているけれど、全話のどこに出てたっけ。ミスといったら筆頭に競うな長谷川遙だけれど、大学院だし候補に入らないのかそれとも武藤の前にやっていたのか、やってないよなあ、それともミスって柄ではないのか。宏岡さんって誰だっけ。亜矢さんか。バーのマスター。チアリーダー。でも長谷川遙くらいに貫禄あるぞ。しかし美女の多い大学だなあ農大って。羨ましいなあ。現実はどうかは知らないけれど。

 骨董の贋作をめぐるエピソードに決着の「おせん 真っ当を受け継ぎ繋ぐ」は、ハタ師の八田が師匠のおかみさんの登場によって陥落。そして、師匠の娘をめぐって争い長く絶縁状態にあった直木賞作家の河村とベンチャー社長の大和田との間も、ぐっと近づいてはみたものの、今度はおせんをめぐってまたしてもつばぜりあい。どっちを選ぶかとなっちゃあ金かそれとも粋か。どっちでもないのを選ぶかなあ、おせんさんの気っ風なら。曲がったことは許せないけど、歪んでしまったものは元に戻して差し上げる。その強さと優しさがたっぷり描かれ読んでて心がスカッとする。良いシリーズだなあ。テレビドラマで見たい……ってそりゃあ禁句だ、「おせん」の場合。

 なぜって前に1度のしくじりがあったから。そもそもが「真っ当を受け継ぎ繋ぐ」なんてタイトルが入ったのも、そのしくじりから1度の休載を経て復活してからのことで、そこに込められた意味合いと、そして連載再開直後のエピソードなんかから鑑みるに、テレビドラマの世界にはびこる真っ当さとは正反対の感性に、とてつもない感情をきくち正太さんは今も抱いているんじゃなかろうか。ドラマ版は見てないけれどもここんところの連載を読めば、おせんさんの役があの女優ではないし、グリコのキャラもあの俳優ではないって分かる。あるいはその通りに演じたとしても、伝え聞く演出に本編への理解のなさが伺える。

 漫画と映像は別のもの、だから後は任せたといっても、作品そのものに流れる本質までもが表現の違いで変わるとは限らない、というか変わったらその作品じゃない。好きだからこそ、愛しているからこそ映像化したいとう思いが膨らむはずなのに、出来上がったものがそうした愛も、深い思いもまるで吹き飛びキャストを見せ、それで誘おうとするスカスカの代物では、作者もひっくり返って寝込むよなあ。いったんそんな出来事があると、実写の映画化も、アニメ化もなさそうな予感。漫画で読んで言葉を身にしみこませ、真っ当さを貫く大切さを知るのが、ここはベストの道なのかも。でもやっぱり見てみたい。動くおせんを。誰がどう演じ何を描けばあの世界が真っ当なドラマに、映画になるのかなあ。

 公演では1度も行ったことがないけれど、記者発表会では何度もいって入って地下深いのにそれなりな広さがあって、ステージの間口も広くって、ここでライブとか見たら迫力あるなあって思ってはいたけれど、それが実現することもなしに「ヴェルファーレ」は店仕舞いとなって、建物も消えてしばらく。跡地に何か立つみたいではあったけれどもそこにまさかニコニコ動画のドワンゴが、ライブスポットを作るとは思わなかった。六本木にスポットを持ってしかるべき会社になったんだなあ、ドワンゴ、っていうか既に原宿に本社という名のスポットを持っていたりするんだけれど。そういう意味では時代を着実に切りひらいている会社。あとは先走りすぎてこけないことが大事だけれど。

 だからドワンゴが作るライブスポット「ニコファーレ」が、単なる目立ちたいがためのハコ物だったら拙いかなあって思っていたけど、発表された概要は半端じゃなしにニコニコ流が貫かれていて、まったくもってブレてなかった。スタンディングで300人もはいればいっぱいのスペースだけれど、その四方をLEDで埋め尽くしてはステージのバックからサイドから背後から、あらゆる映像を映しだしてさまざまな演出をできるようになっている。全面だけでなく四方を使えば差異のある映像を映して空間を果てしなくデコレーションできる。その効果は絶大。踊っている人の背後にシンクロした映像を出したりして、普通のライブとは違った効果をそこに現出できる。

 まあそれも工夫の延長ではあるけれど、ニコニコ動画の真骨頂はそうしたリアルなライブだけでなく、ネットを使って全国に配信できるところにある。箱に必須のキャパシティを超えて、大勢に見てもらえるようにすることで、得られる収入の増大という効果がまずひとつあって、それからアクセスしている人のコメントを、ステージにばばっと並べたりして、インタラクティブな雰囲気を出したりできる。さらにネットで見ている人にだけ、見られる映像を、リアルなライブに重ねて見せて新しいビジョンを示したりもできる。リアルな会場でバーチャルを見るのは不可能だけれど、バーチャルな会場でリアルに重ねてだったらバーチャルを見せられる現代。その最先端って奴を見せてくれる。

 ステージ上にいないキャラクターが、ネットを介して見ると踊ってる。ネット上では大喜び。そしてそんな映像がサイドに映し出されることによって、来ている人はリアルな空虚とバーチャルな豊潤を同時に味わい、今という時代のライブエンタテインメントの凄さを味わえる。面白いなあ。とはいえそこまで作り混むとなると事前の準備とか大変そう。メンバーが集まり音だし1発ですべてまかなえるバンドのライブとは違い、バミった位置にキャラを出す準備をしたり、すすみ具合に会わせてどこにどんな映像を出すかっていうプランを練ったり。それだけやってこそ作り上げられるライブは面白いけれども費用もかかる。どうするか。そこでやっぱりネットで大勢がアクセスできることが、意味を持ってくるんだろう。さてどんな新しいエンタテインメントが生まれるか。注目。


【7月11日】 「未来少年コナン」はバンダイビジュアルが最初にDVDを発売した時にタイトルとして選んで、「アルプスの少女ハイジ」といっしょにボックスとして発売したって記憶があって、それを買って2日がかりで全部通して見たってのが、過去にも現在にも、DVDボックスを買ってちゃんと見た唯一の例だったりするかもしれないのは何というか、人間として間違っている気もしないでもないけれど、最近の番組はちゃんとテレビでみていたりするから、買ってもいつでも見られるという気分さえ得られれば、別に構わないって意見も一方にあったりして悩ましい。

 そうは言いつつテレビなり、OVAとして見ていなかった作品のボックスを買っても、見なかったりするからやっぱりちょっと弱腰かも。時間があれば見るんだけどなあ。って時間はいっぱいあるのに見てないから問題なんだけど。そんな「未来少年コナン」が新たにブルーレイボックスとして発売されることになったとかで、当時テレビで見ていた人間として、DVDでも綺麗になりすぎていて違和感ちょっぴりあったかなあ、って気もするけれどもそれでもその時はトリニトロンのテレビだから、今の液晶テレビで見るよりもさらに劣った画質だった訳で、それでも高い画質だったと思ったのがさらにすごい画質なってしまって、モンスリーの顔のしわまで見えてしまったらどーしようかって心配も、浮かんでみたけどそんな歳でもなかったんじゃないかなモンスリー。

 あるいはギガントとかの細かい描き込みとかくっきりと見えて、窓の向こうにいる誰かの顔とか見えたらちょっと吃驚するかも、って描いてないものは見えません。ともあれどんな画質になるのか興味津々。超綺麗って評判だったら買い直すかなあ。実はコナンのDVDボックス、部屋のどこかに埋もれて出てこないんだ。あと当時のDVDプレーヤーと相性が悪かったのか、見ている途中でいろいろとブロックノイズも出たんだっけ。だから真っ当な画質のパッケージが出るなら買って損はない、ってことも言えなくもない、って言うのがつまり買ってしまう言い訳でもあるんだけれど。ややこしい。迷うときは買え、って鉄則にここは従うか。

 日曜日の朝刊には間に合わなかったなでしこジャパンのドイツ戦勝利の記事が休刊日ながらもスポーツ新聞の各紙に登場。とりあえず買ってみたスポーツニッポンでは丸山桂里奈選手の以外というかあまりにもそれっぽい日常の話が載っててやっぱり不思議な人だったんだなあと笑いつつ笑っていて良いのかって気にもなる。だってだよ、2キロの長距離走を走りたくないってゴネたか何かしてジェフレディースのジャンボこと上村崇士監督から20キロもの罰走を命じられちゃったりするんだよ。それで走りまくったお陰で後半から出て延長戦の終わりまでしっかり走れる体力がついたってのは怪我の功名だけれど、それでもやっぱり監督に逆らえるってところがまずは選手として信じられない。

 そもそもが去年の秋にアメリカから戻って加入した時に、ちょっぴりムカついた態度をとったんで監督が雷落としたって話もあるとかどうとか。それですぐに謝ったっていうけどでも、2キロを走らず罰走食らってるんだから本質的には唯我独尊。けどそれでもちゃんと活躍してみせるところに大物っぷりが隠れているんだろう。脱がして見てみたい、その大物を。まあそれをいうならアテネ五輪の時にどこかが出したムックでもってゲン担ぎの品だか愛用品だかを紹介するコーナーで縞の勝負パンツって奴を見せてたくらいだからなあ、丸山桂里奈選手。オンナノコなら秘して語らないそういったものを堂々と見せてしまえる不遜さが、試合でもドイツ相手に臆さず突っ込みゴールを上げる度胸へと繋がっているのかも。

 つか写真で見せるくらいなら今度はゴールをしたらユニフォームはユニフォームでも下を脱ぎ下ろして見せるくらいのことをしてくれたらおじさん大喜びしちゃうんだけど。上を脱ぐとイエローカードってのが確かJリーグの規定にあった気がするけれど、下を脱いだら何になるんだろう? レッドカード? それとも感謝状? それで出てきたものがトランクスとかだったら気持ちも一気にしなびそうだけれど、果たして。

 双子の弟の方が実は優れていたっていうのは双子の兄的に許し難いことではあるけれども、こと小説の中に限っているなら最初はみそっかすだった王子の1人のジャン・アバディーンが実は比類無き潜在能力の持ち主で、けれどもそれを認められないまま神童と呼ばれた兄に引け目を感じて生きてきて、そしてその兄もろとも国が滅びて自分はただの庶民として放り出されて普通に生きていたところを、なぜか竜のお姫さまに声をかけられ竜騎士を養成する学校に以前合格していた兄の身代わりとして潜り込み、そこで才能を開花させて迫る敵と戦っていた時に、実は生きていてなおかつ裏切り者だった兄と再会してそして因縁の戦いが始まるという三上延さんの「偽りのドラグーン」(電撃文庫)が第5巻にて完結。もっと続くと思ったけれどもまあ、この辺りが潮時ってことか。

 神童に見えた兄にはその裏に激しい屈託と劣等感があって、それが呼び水となって悲劇を起こし果ては弟にも刃を向けたといった展開に、神童といえどもプライドを傷つけられるのはたまらないといった感情があるんだと教えられる。これにて完結の物語だけれど、少年は竜のお姫さまと男装の美少女のどっちを選ぶんだ? って部分でとりあえずの結末の後にもきっと悶着がありそう。「IS」みたく組んずほぐれつにはならないけれどもどっちも恐そうなだけにジャンの明日がちょっと心配。

 とはいえそうした両腕を引っ張られてもみくちゃにされるようなシアワセをまるで感じたことのない身にすれば、贅沢この上ない話であってどっちにもいい顔をした挙げ句にどっちからも愛のひじ鉄を食らいやがれとやっかみの心を突きつける。ああそれじゃあ兄のヴィクトルといっしょか。いや己のプライドが傷つけられるのと彼女がいるいないとでは次元が違う。これは起こって良いケースだと全人類が認めてる。ジャンにだから鉄槌を。ドラゴンブレスと銃弾を。

 水薙竜さんの「ウィッチクラフトワークス」の第2巻を読んだら火々里さんの胸が巨大だった。以上。っていうか第1巻が行方不明で多華宮君がどうして彼女に守られていて、そして塔の魔女たちによって狙われているのかが分からないんだけれども、まあそういう設定があると理解した上で同じクラスにいる種々の塔の魔女たちが火々里さんに一蹴されてしまう悲惨さに同情しつつ、そんな火々里さんを巻末で激しく追い込むメデューサはそれならいったいどれだけ強いんだと恐怖。さらにそんなメデューサにため口を利くエヴァーミリオンなる魔女まで出てきてインフレーションしていく展開だけれどやっぱり中心にいるのは多華宮君。妹にまで守られていたことが判明した彼がどーして狙われているのかを、もう1度しっかりつかみ直すためにもどっかで買い直さなくっちゃ、第1巻を。どこに埋もれているのかなあ。


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