縮刷版2011年5月中旬号


【5月20日】 日本橋京橋あたりの地理とそれからスイーツについて詳しくなれる小説であると同時に税金がどうやって隠されどうやって暴かれどうやって支払わされるかもよく分かる高殿円さんの小説「トッカン −特別国税徴収官−」(早川書房、1600円)は、ぐー子って逃げの1手から国税局の徴収官になった女性がエリートだったんだけれど訳あって高卒で徴収官になって出世して今は特別徴収官という職務にある鏡って上司の下で、怒鳴られ誹られ虐げられながらも成長していくストーリー。

 そんな一方で、鏡って男の実は真面目で相手に対する思いも人一倍だったりする様が浮かび上がってくる作品として、面白くって楽しくって考えさせられて、ドラマ化されたり映画化されたらきっと「マルサの女」以上に話題になること請負で、主演の鏡は誰が良いんだろうなあ、玉木宏さんでぐー子が綾瀬はるかさんだったらまるでテレビドラマの「鹿男あおによし」だよなあ、なんて考えたけれど、そんな映像化の動きがまだあんまり見えない以上は、もっと売れて賞の候補にもなって、世間にいっぱいアピールが必要だって、思っていたところに待望の第2弾が登場した。

 その名も「トッカン2 鏡特官危機一発! オンナのテイサイを暴け!!」は体裁を取り繕って何かを隠そうとする女性納税者によってハメられた鏡特官のピンチに、役立たずのぐー子が一念発起して走り回るんだけれどやっぱり無能だったりする様をペーソスたっぷに描いた……って違うそんなタイトルじゃなかった。正解はこっち。「トッカン2 稼がない男は精子に劣る」は結婚していたけれども相手が不能でおまけに無能だったことから女性が憤り泣き叫ぶ様をぐー子が見て学ぶという悲哀の物語……でもなかったそんなタイトルでもなかった。でも内容的にはちょっぴりかするかも。

 本当の正解「トッカンVS勤労商工会」(早川書房)は、鏡特官が対応していた食堂の主人が自殺してしまって、残された妻が追い込んだ鏡に責任があると訴え出るという話。本当だったらいらぬ嫌疑を晴らそうと動き回るはずなのに、なぜか前面には立とうとしないで事態は暗澹。ぐー子は別の事案をひとりで片づけ自信を得つつも、鏡が嫌疑をはらそうと動かないことに不安を引きずりながら、鏡の栃木時代の友人たちとも計りながら真実を探り中央区をひた歩く。浮かび上がってきたのは人間の体裁。それが時には人を騙し犯罪にもつながることを、鏡を訴えた未亡人の弁護士は訴えぐー子を追いつめるけれど、そんな体裁が事態の真実を暴き、ぐー子の周辺にいる人々の心を暴いていく様に、この社会で人間がひとり、生きていく大変さ、それでもやっぱり自分を出していくことの大切さってやつを感じさせられる。探ろう、それぞれの生き様を。

 物語の中では鏡特官がやたらと茨城にケチをつけ、茨城産の苺なんて食えるかといったあたりが出てくるけれどもそんなに栃木県民というのは茨城県民を眼の仇にしちているものなのか。ちょっと前にライトノベルで栃木県民VS群馬県民の反目を読んだけれども、それと同様の構図が栃木と茨城の間にもあるのか。だとしたら周りは敵ばかりってことになるんだなあ、栃木県民。関東平野の奥地にありながらなぜか中国の餃子が名物になっていたりするくらいだし、孤高さを旨としているのかなあ。そういえば去年行った時に東武宇都宮とJR宇都宮があんなに離れていると知って驚いた。祭だったのでアーケードくぐって途中まで行って神社に詣でたけれどもJRにまではたどり着けなかった。街の発達や居住にとってあの鉄道具合ってどうなんだ。愛知の岡崎も名鉄東岡崎とJRが離れているけど基本、名鉄が使われているんで気にならないんだけど。

 不便だったら誰かもっと中心地に、鉄道を引き込んで双方が利用しやすくすれば住む人も増えそうな印象。ここは「私には夢がある。いつの日か宇都宮二荒山神社の鳥居の下で、JR宇都宮の駅長と、東武宇都宮の駅長が同じ1つの宇都宮駅完成を祝い、同じテーブルにつくことができるという夢が」なんて演説をして、立候補したい宇都宮市長の評が集まるようなって欲しいもの。そうそう宇都宮では「デジタルまんがまつりinうつのみや」がもうすうぐ開催の予定。1度延期になったけれどもちゃんと、こーやって復活してくるあたりに地元のイベントにかける意気込みってものも伝わってくる。行こうかなあ宇都宮。JRと東武のどっちで行けば良いんだろう?

 あれやこれやと話題になっているアートユニット「Chim↑Pom」だけれど、そんな話題の爆心地、岡本太郎さんの壁画に足してしまった原発爆破の部分を展示する展覧会が清澄白河で始まったんで見物にいったら、とてつもない行列で入れなかったかというとそれほどでもなく、数人が待つ中をなぜか1番に入場料金500円を払って中に張ってまずは岡本太郎の壁画に付け足す映像を見物、そうかそうやって足していたのか。なるほど張り紙等の行為にはなるけれど、太郎の壁画を壊しているでもないその行為をどうやったら“犯罪”にできるのか、というかそれが“犯罪”ならば他のさまざまな行為が犯罪になりかねないという事態を、もっと踏まえて報道する人たちは報道しなくちゃいけないんじゃないのかなあ、それこそお寺にある傘に地蔵を被せたって犯罪になりかねない。目的のために正当化されるんじゃなく状況を鑑み解釈するという余裕、そしてスキマをもっと大事にしないとこの国は、とてつもなく息苦しい国になってしまうぞ。

 でもって岡本太郎「明日への神話」へのプラスアルファ。誰か「やってみた職人」がふと思いついてやってみたってだけだったんならすげえ行為だってみんな面白がったんだろうけれど、それがアート的な活動に社会的な気分も混ぜて展開している「Chim↑Pom」の作品だったってことで、プロのアーティストとして世間を騒がしてまでとか、作品のクオリティがどうとかいった言説が出てきてしまって妙な雰囲気。誰かがやって別に不思議はない行為で、誰も何もやらないよりはやってみたことによってあの壁画が何を目的に作られたかが喧伝され、それに何かが加えられることによって今という時代が浮き彫りにされた訳で、誰かに迷惑がかかったという感じでもなく、そして不愉快に思ったという人もそれほどおらず、全体として面白かったという印象。ならばあとはそれをどう感じたかが分かれ目で、僕はアリだと思ったからそれでオッケー。むしろ「Chim↑Pom」にやられるくらいなら、もっと先にやれよベテランよって気もした。それは「Chim↑Pom」に悪いかな。ヤノベケンジさんがあの防護服を着て壁画前に1日立ち続ける“返歌”とか欲しいなあ。

 あのプラスアルファだけを取り上げられて、お騒がせだと語られるけれども展覧会「REAL TIMES」に行けば例えばいろいろ見えてくるものがある。10人が円陣を組んで、100回気合いを入れるといった映像作品なんか、パッと見で外野が観光気分で来て騒いでいるだけのようにとらえられそうだけれど、福島原発の事故の影響で立ち入りへの遠慮が出てしまって、瓦礫の撤去が遅れてしまった地域へと入って、そこで見捨てられた感を味わっている地元の若い人たちと円陣組んで、自由なことを言いながら気合いを入れていっているところに意味がある。現地の人たちもこうやって頑張っていこうって思っているんだと伝わる空気。組んだ円陣の中央からのぞきこむ顔を撮った映像が、変わって引いた映像になった時、陸地に乗り上げた船がすぐそばにあって、そこで起こった事態の大変さをバッと見せ、それでも強く叫び笑う若い人たちの声が、固まった心を解きほぐしてくれる。

 極めてシリアルに事態をとらえつつ、それを極端なシニカルにはせず、コミカルにもしないけれども決してストイックではないような感じで行為の中に取り込んで、解釈して発信してみせようとしているところがアート。面白かった。ほかにも現地で撮った写真に広島の人が書いた「不撓不屈」の言葉を沿えた作品とか、原発から1・5キロのところに防護服を着た案山子を立てるパフォーマンスとか、大変さを体当たりで体現してみせるような作品は、傍からあれこれ言ってまえるものではない。見てそして感じること。やれるかどうかをわが身に振り替え考えること。そんな思考とを経た上で、それでもつまらないと思えばそのとおりだし、面白いと思えばやっぱりそのとおり。だからまずは行って見よ。そして考えよ。期間は短いけれども行っておくべき展覧会、なのかも。時間を探してまた行こう。エリィさんに逢えるかな。


【5月19日】 戦国グッズの話とか書いてたんでついでといっては何だけれども漫画のコーナーで紹介する本として阿部川キネコさんの「放課後関ヶ原」(秋田書店)をピックアップ。あの乙女な漫画の殿堂「月刊プリンセス」において、このように笑劇な作品が連載されていたとはまるで知らなかったよ、あしべゆうほ先生はどう思っていらっしゃるのだろう山田ミネコ先生はもう昔か連載してたのって。ともあれ凄い凄い凄すぎたのでエブリバディ読むようにイエイ。でも登場してくる伊達政宗は暴走族のリーダーってより見栄えが良いだけのオタクでいつも食べてばかりでそっちの方面の知識が一杯。あんまり格好良くはない。

 むしろイケているのは真田幸村。その学校「戦立関ヶ原学園」に転向してきた小松右京ってSF作家にいそうな名前の少年が、登校途中に出合って学校まで引っ張っていってもらった時にも助けてくれたし、少年が校長から甲を被せられてクラス分けを診断されて、本当だったら戦国武将の生まれ変わりだけが入れる学校なのに誰の生まれ変わりかも分からなかった小松右京が、西でも東でもない流浪組に入れられたところを誘っていっしょに遊んでくれようとする。何て親切。でも生まれは外国で両親も兄弟も外国人で家はまるで忍者屋敷で行くと小松右京に忍者を見たことがあるかと訪ね、夢を壊してはいけないと右京が忍者は隠れていて見えないんだというと目を輝かせて大喜びする純粋な一家。その血を受け継ぐ幸村君も純真無垢な忍者ファン。いつか逢えると良いね忍者に。

 とはいえ普段は流浪組の小松右京が出合ったのは西にも東にもいれてもらえない武将の生まれ変わり立ち。本当だったら一方のリーダーであってもおかしくないのに石田三成が嫌われ鬱屈していたし、小早川秀秋にいたっては過去の裏切りが石田三成からも疎まれているという悲惨さ。そんな毒々しいオーラが漂うクラスでもどうにか頑張っていた右京の周囲に上杉謙信が現れ見目麗しく立派な生徒会長然として立ちながらも実は階段の下からまくれあがるスカートをのぞきたがるという助平。生涯不犯なんて立てたから生まれ変わって暴発したみたい。もう1人、松永久秀て助平がいて良いコンビだけれども見た目麗しい謙信と、見た目怪しげな久秀との待遇の差が……。人間やっぱり外見だ。なあ。

 そして毛利元就の3人の息子たち。右京を父親の元就かと最初は思って探しに来た3人のなぜか1番小さい子が長男らしいという生まれ変わりの順序のいたずら。そして更に……というサービスも。それは伊達政宗の正室と側室の争いの中にも現れたサービスだけれどどっち側の表現が良いかというと……どっちも良いかな。ついてても美少女でも美少年のようでついてなくても。というか伊達の側室だなんて普段の戦国テーマな漫画に出てこないようなキャラが出てきては割に歴史をなぞった活躍を見せてくれる物語。本多忠勝の娘で真田幸村の兄の信之に嫁いだ小松姫なんて知らないけれどもそんな歴史のあれやこれやを、実は学べる「放課後関ヶ原」。好評らしく続くみたいなんで読んでみるか。雑誌で読むとやっぱり浮きまくっているんだろうあなあ。

 音羽の高いビルの上から文京区とか豊島区を睥睨しているとやっぱり何かブンゲイで天下を取ったような気分になって来るのかなあ、でもあのビルが出来たのってそう昔でもないんで低いながらも重厚なビルの中で培ったブンゲイへの魂の方がやっぱり大きいってことなのか。とはいえ今はそんな矜持だの魂だので世の中を渡っていけるほど甘くはない出版の世界で、新しい試みをやろうってことで講談社がアンドロイドのスマートフォン向けに創刊した「熱犬通信」ってコンテンツの発表会に行って谷間を見た。谷間が出た。谷間が凄かった。谷間谷間谷間。やあそれしか記憶に残らなかったところを見るとあの、着ぐるみパジャマなグラビアアイドルが胸元のボタンを外したことが正しかったのかどうだったのか、ちょっと迷ってしまうなあ。いや凄かった。谷間谷間谷間。谷間谷間谷間。谷間たーにーまー。いつの宣伝だ。

 それはさておき「熱犬通信」、熱に犬って何だそりゃ、って思っていたらそれは「ホット」な「犬」のことだった。「ホットドッグ」そして「通信=プレス」。つまりは「ホットドッグプレス」というあの1980年代に日本中の男子を引きつけたカルチャー雑誌の名残をそこに再現させようって試みの電子雑誌ってことらしく、アイドルがいればグラビアもあって漫画もあったりするようなコンテンツの集積を、スマートフォンから見られるようになっている。例のビリビリ破くと下からのぞく素肌と下着っていう「妄撮」シリーズもアップ。アップルの基準だと弾かれてしまうらしいエロスにあふれたコンテンツが楽しめるって意味は大きそう。その上にすでに破った写真とも、1度破ればそれで終わりな紙とも違って何度でも敗れる電子の写真集だから好みの破り方に何度も挑めるとかどうとか。デジタル万歳。これがメインって訳ではないけど、これが載ってるって意味合いだけで注目だけは集めそう。そのうち男子版とか作られるんじゃないのかな。イケメンの服を破って素肌に迫るような。司会をしていた吉田アナとかスリムなボディをさらせばファンも急上昇、とか。

 プラットフォームがDOCOMOだけなのかauでもアンドロイドなら大丈夫なのかは知らないけれども今どきキャリアがコンテンツを抱え込む時代でもないんでそのあたり、対応は広がっていくんだろう。でもってアンドロイドというオープンにちかいOSの上で自在に扱えるコンテンツってことで根っこを押さえられているアップルとは違った発展を見せていく可能性もありそう。だってTwitterやらFacebookをするだけだったら別にiPhoneでもiPadでなくても言い訳だし。音楽もいっしょにぶっこんでおけるって意味合いでiTunesからの延長でiPadを使っているけれど、これをまるごとコンバートできてその上にコミュニケーションも楽しめるんならアンドロイドでも良いとか思いはじめている人に、コンテンツの自由度で迫っていけるかどうなのか。とはいえ1週間に1度の更新とかってやっぱり、足が遅いかな、この時代には。様子見。


【5月18日】 やっとこさ見た「BLEACH」は、なるほどやっぱり後から作られた偽物の方が強いみたいで、当人同士が戦った場合はやっぱり偽物が勝つっぽい。阿散井恋次しかり斑目一角しかり朽木ルキアしかり。戦いに徹底してくる偽物に対して、どこか感情が出てしまう本物では及ばないところがある模様。これが綾瀬川弓親のバトルだと、いくら強くなってもそこは第5席。十番隊で副長を張ってる松本乱菊を相手にした戦いでは、その剣の威力をいくら10倍とかに増したところで、やっぱりどこかにマッチアップのズレが出て敗れ去っていった。涅ネムの場合は相手がパワーアップされていたところで、冷静というよりむしろ感情を一切廃した戦いで 、相手を圧倒して退けた。なるほどさすがは人造人間。

 けどしかしソウルソサエティでは、隊長格が続々と偽物にすり替わっていっている模様。ついに浮竹十四郎までもが倒されて、残っているのは総隊長の山本元柳斎重國とそれから卯ノ花烈くらい? でも卯ノ花隊長に従っている虎徹勇音がちょっと怪しげだからなあ。総隊長は中央に居て周辺を信じ切っているから、変わってなくてもあんまり役立たず。それとも実はしっかりすべてを見通し、おかしくなった隊長たちを密かにマークしているのか。いやいやそこは強さこそ美徳な性格で、強い偽物たちの方を本当の隊長と認めてしまっているのか。うーん。分からないけどとりあえず配置が住んだその後で、現世とソウルソサエティとでどんな戦いが始まるのかに注目注目。更木剣八対更木剣八がやっぱり激しくなるんだろうなあ。あとマユリ様対マユリ様。イケズな戦いが繰り広げられるんだろうああ。

 「せめて、原子炉がメルトダウンしている最中に視察を強行するような首相にまともな政治は期待できない、という『事実』だけは書いておきたい」と、まるで意味のないことを書く新聞にまともな報道は期待できるのかどうなのかが問われているのかもしれない、という「懊悩」だけは書いておきたい。だってこの新聞、ちょっと前まで首相が原発を視察しのが原因で対応が遅くなって、水素爆発が起こったなんて書いていたんだぜ。それなのに今度は視察する以前にすでに事態が大きく動いていたって話。だったら責任、首相にないじゃん。首相なんにもしてないじゃん。ようするに早く行こうが遅く行こうが、まず首相に責任ありきって結論から遡って、首相を非難するロジックへと持っていきたいだけ。あるいは行かなかったら行かなかったで対応がなってないと批判するだけ。それで成り立つかっていうと既に見透かされていることは明白なのに、変わらず妙なロジックでもって批判を続けるメディアに果たして明日は来るのか。まさに「懊悩」の昨今、なのであった。

 遥か砧へと出かける用事があったんで、途中で渋谷の東急東横店へと立ち寄って、名古屋でらうま市に出ているヨコイのスパゲッティーでミラカンならぬミラピカだったかピカミラってのを購入、これで2度目。ミラカンで言うカントリー部分の野菜が抜けたミラノ部分のウインナーやらベーコンにピカタが重なって、そこにヨコイのスパゲッティソースがかかった名護屋式あんかけスパは、味もほどよく具もたっぷりでなかなかの美味。本家ヨコイにだってあったか謎なメニューだったけれども、バイキングとかいったフライ系が重たいときに、それでも野菜より動物性タンパク質と思った腹に良さそうなんで、ぜひに用意して置いていただければ名古屋に帰った時に寄って食べてみたいところ。あとは名古屋の武将の顔がかかれた千なりとか、オリエンタルのマースカレーとか見たけど、家で食べられなかったり、これからお出かけだったりするんで遠慮。マースカレーは前に試食を食べたらなるほどマースカレーの味だった、甘いんだけれどピリッと来る。でも我が家はだいたい即席カレーだったかな。たっぷり作れるんだよあのカレー。

 きゃんちを見た。あとMay’n部長も砧で見た。CSのアニメ専門チャンネル、ANIMAXが秋にまたしても横浜アリーナで開催するアニソンのライブイベントの発表会があって、行って出演するアーティストの人たちの顔を拝見、May’nさんはもう何度もこのアニマックス・ミュージックスニ出ていて、そのたびに会見にもちゃんと出てくれていて、自分の思いやアニソンの未来について方ってくれてて、なかなかに良い感じ。これだけの立派さと、そしてしっかりした歌声を持ってしてもなかなか「マクロスF」のシェリルの歌の人ってイメージを完全には抜け出せていないところに、あの作品の強さがあり、またなかなか新規に靡こうとしない昨今の風潮ってものがありそう。悩ましい。KOTOKOさんは去年に続いての出演。そういや話を伺ったんだなあ、憶えてないだろうけど。

 Kalafinaは去年のアニマックス・ミュージックスでは確か「機動戦士ガンダムSEED」から何かを歌ったんだっけそうだったっけ、滅多に見られない3人のKalafinaでない歌声が聞けたイベント。その意味でもやっぱり押さえておきたいかなあ。そしてELISAさん。喋りが愉快過ぎたっけ。ともあれいろいろ登場のアニマックス・ミュージックス開催を前に、アニソンそのものをムーブメントにしようっていうかすでにムーブメントなのを取り入れたっていうか、アニマックスにアニソンの番組が登場。そのメーンのMCがMay’nさんという洒落でもなんでもないシチュエーションで、ネットでの部長トークとは違ったどんな喋りを見せてくれるのかにちょっと注目。そしてコーナーMCにきゃんちこと喜屋武ちあきさんが登場。既にメジャーな雰囲気もあるけどそれでもテレビはそうそう出ない。CSだけでなくBSにも登場するアニマックスをステップにドカンと行ってそして中野腐女シスターズともども大爆発して欲しいもの。期待してます。

 電子機器が使えなくなっても電気機器は使えるんだったら、1960年代あたりまで文明を戻せば旅客機だって空を飛ぶし船だって羅針盤だけでなくレーダーを使って航行できる。車もキャブレターで燃料を空気を混ぜて送り込み、バッテリーからプラグを通して発火させてピストンを回してエンジンを動かし進んでいけるじゃないのって思うけれども、いったん進んでしまった文明を、元の水準に戻すのはちょっと大変ってことなのか。電離層が壊れてしまったらしい事態から約半世紀。平穏を取り戻した世界に暮らす少女が学園に通いながらも学費を稼ごうと夜な夜な身にアーマード・スーツをまとってキャットファイトに挑むっていうのが永福一成さんの「装甲のジェーンドゥ!」(ガガガ文庫)のストーリー。スレンダーで足が長い上に死んだ父親から、発頸の技を受け継いでいた少女が、その力を使って連戦連勝を重ねていたら意地悪されて、そして才能を買われて企業に目を付けられて、いろいろあって収まるところに収まっていく。これから本当の戦いに身を投じるのかそれとも競技の世界で頑張るのか。とっちめた蘭子の反撃もありそうでちょっと続きが見たいかも。

 砧から戻る途中に再び東急東横店に寄って、今度は矢場とんの味噌カツ丼を購入。銀座にも店は出ているけれども早々行けるものでもないんで、これは良い機会と思って食べてみたら美味かった。味噌ダレなんだけれども甘くなく、辛くもなくべっとりもしていなくってカツに馴染んでご飯にも馴染む。そのカツも脂っこくなくさっぱり系だけれどちゃんと食べ応えもある。なるほどこれなら味噌カツっていった何って人でも受け入れるはずだよなあ。八丁味噌をこってりと練ったものをどっぷりとかけて食べるヘビーな味噌カツも決して嫌いじゃないけど、それではやっぱりここまで全国的にはならなかった。地域性と一般性の境界をうまく渡って作りだしていくことが、ローカルをメジャーへと進ませる上できっと必要なんだろう。あんかけスパには何が足りていないんだろう? うーんちょっと不明。やっぱりあの麺の太さかなあ、ほとんどうどんだもんなあ。


【5月17日】 気になる娘が2人。ひとりは窓から入ってきては、焼き立てでメープルシロップがたっぷりとかかったパンケーキをくわえて窓から飛び降り、どこかへと逃げていってしまった多分女の子。兄が死んで今は路上でひとり生きている。誰かに頼ろうとはしない彼女をハインツという初老の男は気になって、パンケーキを用意して待ち続ける。自分よりずっと長く生きていくだろう少女と、自分よりきっと早くいなくなってしまうだろう初老の男との一期はただの一会として過ぎ去っていくのかそれとも、瞬間のつながりを太く濃くしてそれぞれの時間を目一杯に生きようとするのか。

 もうひとりの娘はバーで働いているビビアンという名のバニーガール。1年もその店で働き彼女目当てで通ってくる男もいっぱいいるけれど、そんな男たちの前でビビアンはただの1度も笑顔を見せない。仏頂面。そんなビビアンが笑うときっと可愛いだろうと、男たち4人が次から次へとあの手この手を講じるものの、やっぱり笑おうとしなかったビビアンが、突然に見せた笑顔と、その相手を知って男たちは感涙にむせぶ。これは悲劇かそれとも喜劇か。バッドエンドかハッピーエンドか。捉え方は様々だけれどやっぱり笑う娘はとても可愛い。それがどんな状況であっても笑顔になる瞬間の女性ほど愛おしい存在はない。

 そんな娘たちの姿が描かれた最初は「猫とパンケーキ」という漫画、後のは「仏頂面のバニー」という漫画が載っているのが笠井スイさんという人の短編集「月夜のとらつぐみ」(エンターブレイン、620円)。前に「ジゼル・アラン」という少女の家主の話を描いて楽しげな雰囲気を感じさせてくれた人だったって記憶があるけれど、短編は「仏頂面のバニー」みたいに楽しさの中にいとおしさがあったり「猫とパンケーキ」のように切なさの中に喜びを見つけられるような漫画がいくつか。絵柄にふと重なる部分もあって内田善美さんの漫画なんかをふっと思い出したりもした。表題作とそれから「水面の翡翠」は擬人化された鳥の話でファンタスティック。「遥かファンティエット」も内田さんっぽいかな。あと2篇収録の「Story Teller Story」は嘘をつくこととの幸せと疚しさを同時に味わわせてくれる。しんみりと。しかし切々と。「花の森の魔女さん」。人の噂より自分の感性。優しさを見つけて慈しめ。

 アッキーナならやっぱり見たい谷間とか腰とかそんなところが、すべて白いトーガに覆われ見られない会見にどんな意味があるんだろうかと、考えてしまったけれどもそれはそれとしてやっぱり見られるアッキーナはアッキーナ、有り難いということでそれを一方におさえつつ、目は新発売される「聖闘士星矢」のアクションフィギュアの新シリーズの発表会を見物に東京国際フォーラムへ。アッキーナなんだから人がいっぱい来ているのかと思ったけれども玩具がメーンだからなのか、時代はちょっぴりアッキーナから次に移っているからなのか、そんなにいないなかを最前列でアテナの姿をしたアッキーナを眺めつつ新しく発売されるだろージェミニのサガのフィギュアが見せる、ギャラクシーエクスプロージョンだったっけ、そんな技をとらせられるフィギュアの新しさに目を見張る。

 海洋堂やらグッドスマイルカンパニーのアクションフィギュアが多彩なアクションを見せられるってことですっかり世に人気な折、その上を行くには単に素体を工夫しただけではいけない。外に聖衣を着せたまんまでアクションさせられなきゃ意味がない、ならばってことで目一杯に突っ込んでいった結果がその形になったんだろう。肘がぐいと曲がる時に、来ている聖衣がひっかかったりするのが多分これまで。けれども新しいものはちゃんとひっかからないようになっているから、曲げたり挙げたりできるようになっている。取り外せばあれは何の形だったっけ、手が三方だか四方に伸びたような形にちゃんとなるからそれだけで飾っても楽しめそう。5000円オーバーと値段も相当するけれど、それだけの価値はあるんじゃないのかなあ。できればシャカとかムウが見たいな。キャンサーのデスマスクは僕の星座だけれどこれはフィギュアとして今ひとつ。だからなあ。様子見。

 そんなシリーズとは別に1万9950円とかいったハイブロウにハイプライスなフィギュアも今回は発表、6分の1のサイズってのは大きめのアクションドールと同じサイズでそれが黄金聖衣をまとって立っていたりする姿の格好良さに目を見張る。おまけにそのクロスが外れてサジタリウスのオブジェの形になったりもするからいろいろ飾って楽しめそう。中が星矢だったりするのは妙だけれどもテレビとかアニメでそーゆー場面ってあったんだっけ。顔はアイオロスにも切り替えられるみたいなんで標準的なものにしようと思えばできるっぽい。しかしこのシリーズでアルデバランとか出たらいったいどれくらいのデカさになるのかなあ。さすがに全黄金聖衣は出てこないか。そういえば前にサジタリウスで10万円のを出すとかいた話もあったけれども、結果的には出なかった。そのプライスに見合ったものが出せなかったんかもしれないけれど、5分の1でも玩具にシフトさせつつオブジェとしても立派な物って意味ならこれでも決行十分そう。問題はやっぱり置く場所か。我が家にはもはやそんな場所など存在しない。残念無念。いやだから買わないけれど。買えないけれど。

 三島由紀夫賞と山本周五郎賞の受賞発表会見をニコニコ動画の中継で見て、登場した三島賞受賞者の今村夏子さんの受賞会見にゲラゲラと笑う。文芸記者ムラの文芸記者的ナアナアをぶちこわす今村夏子さん電話インタビューがとにかく最高。聞いて答えて一言。そして何も内容が伴わず、サービス的な面もない。現場にいて質問する側ならきっと胃が痛くなるかもしれない会見。居なくてよかった。そのぶっちゃけぶりは梅佳代さんの日曜美術館なみに凄かった。でもまるで知らない雰囲気があった記者の人たち。前にとってた太宰賞の発表とか授賞式とかに出てきてたみたいだから、その時に面通しして話をきいていればやあひさしぶりですおめでとうって話も弾みそうだったのに。三島賞にも関わる文芸記者は太宰治賞には関わらないのかうーむ。

 しかしこうやってニコニコ動画で配信すると、新聞テレビメディア的にデカくなりやすい直木芥川と同程度の反響を、あるいは受賞者によってはそれ以上の反響を、ネットを通して得て賞への関心、そして受賞者への興味を喚起しやすいという効果が見えたような気がする。ネットがフラット化する世界。新聞テレビ的序列を破壊し突破し並立にした上で再度ネットからの反響というものによって序列化していく試み。三島賞山本賞は選考委員が出てきて長々と選評を述べるという特質があって、それが書く人読む人への指針なりを与えてくれるんで中継を見る意味がある。する意義もある。なるほど。これで大逆転が起こった暁には、芥川賞直木賞にも何か変化が起こるかな、慎太郎が出てきてボーゲン連発とか。


【5月16日】 まるでラピュタではあったけれども、そーゆービジュアル的ストーリー的な何かより、声の豪華さに仰天した「日常」第7話。土師孝也さんがいたり日高のり子さんがいたり大木民夫さんがいたり大塚芳忠さんがいたりした上に、阪脩さんがいたり銀河万丈さんがいたり皆口裕子さんがいたりともう声優ファンといった枠組みを超え、声のレジェンドたちの勢ぞろいにいったいどんな演技をどうするのか、それでどんな感じを出すのかといったことがいちいち勉強んじゃなかろーか。そんな人たちと果たして同じアフレコ現場にいたかは分からないけれど、もし現場を一緒に出来たら、割と大勢出演しているこれからの声優さんたちにとって、その現場は大いなる財産となって心に一生、刻まれたことだろー。

 たぶんそーやって技術は、あるいは演技に臨む心構えってのは継承されていくものだし、一方でアニメーションとなった作品を見る側にも、そういった演技は耳に響いてそれが当然の基準となって刻まれていくはずなんだけれども、そこに立ちふさがる不況の波。三石琴乃さんが就職関連サイトで嘆いていたように、現場から費用の問題でベテランの演技者が外されてしまって、若い人たちが若い人たちなりに学んだことをぶつけて作品を作る状況が増えている。それでも今はまだ、年輩の人と並んで演技した経験が生かされているけれども、やがてその下の世代、下の世代で番組から流れてきた若い人たちの突出した部分が、より純化された突出となて演技へと跳ね返った結果、出来るものが果たしてどんな感じになっているかを考えた時に、やっぱりいろいろと振り返らなくてはいけないような気もしてくる。

 そうした突出ぶりに慣れ親しんでしまうことで、まるで違和感を憶えないマニアックな層もいるにはいるけどふとそれが、外に出たときにはやっぱりどこか不思議な感じを憶えるもの。あるいは一般性を目指すアニメーション作品において監督の人たちが、声優さんを使わず俳優なりを使うのは、一般性という部分を重んじ突出性を避けたいと考えてしまっている現れなのか。うーん。あるいは作画の部分でも、前は演出家の周辺に大勢のスタッフがいて、いろいろ刺激しあい意見を出し合う中から学びとっていったものが、今は職場もバラバラになってしまった中で、突出した演出を見て格好良いと感じた世代が入っては、そんな格好良さをひとり純化させていった果てに現れる、格好良いんだけれどそれはシーンとしてであって、全体として果たしてどうなの的作画が生まれてしまうことにも通じる問題なのかもしれない。「若手アニメーター育成プロジェクト」はそんな断絶を避け、ひとつ場所で皆が集まり仕事をすることによって生まれる継承を狙ったもの。声優でもそういったことが可能になるのか。なるんだろうなあ「日常」が既にやっている訳だし。だからやっぱり志しなんだろうなあ。

 経験の豊富な声優さんたちが凄いのは、誰もが自分たちのスタイルを確立しているってことで、それは二枚目といった誰に代わっても案外に出来て仕舞えそうなものではなく、この人ならではの声がその役柄に求められるっていったところに現れる。あっと若山弦蔵は別格か、あの声は他にかけがえがない、あと中村正さんも、ってやっぱり相当以上のベテランか。それはそれとして赤塚不二夫さんのアニメに出演した声優さん4人に話をうかがったところによると、例えば「銀河鉄道999」の車掌さんなり「ドラえもん」のスネ夫といった役で知られる肝付兼太さんは、そのどちらもでそれほど声をいじってないし、「おそ松くん」のイヤミでも「怪物くん」のドラキュラでも、ザンスとザマスが違うくらいでやっぱり声は同じ。なのに、画面に映る映像と、セリフの違いがそれぞれの役をしっかり現し、ピッタリ感を憶えさせる。大竹宏さんはニャロメでニコチャン大王の人。言われればなるほどと思うけれども、どちらもそのキャラが前面に出てきてあんまり声が誰だって感じさせない。これもまたピッタリ感。演じるってことは多分そういうことなんだろう。

 そうそう肝付兼太さん、イヤミの声は実は小林恭治さんに継いで2代目なんだけれどもやっぱり、トニー谷を意識しつつ演じたら、演技を聞いた赤塚不二夫さんはちょっと違うかなって言ってたって、ぴえろの布川ゆうじ社長経由で聞かされたとか。もとtもその当時は、もうちょっと聞いてみようってことも言っていたそうで、結果的には何もなかったので、そんなイヤミの声も受け入れられたんだと思ってるって話してくれた。1990年頃といったらもう相当なベテランになっていたはずの肝付さんでも、あっぱりいろいろ考えて、役に臨んでは迷い探ってそして突破していく。その意気込みってものを現場で学べたとしたら相当に、素晴らしいんだけれども今、肝付さんが出ている現場ってあったっけ。太田さんは舞台に立たれる予定だけれども声の現場ではさて。富田さんは「ラストラムライ」を宛てていたのか。大竹さんは学校で教えているのかな。ともあれまだまだ声にしっかり含みもあって張りもたっぷり。まだまだ現役で聞きたいもの。国の至宝として支えてあげてくださいアニメーターたちも含めて。


【5月16日】 室積水さんの「都立水商」ってのがそういえば前にあったよなあ、と思い出しつつどうして水商売の人が通う学校が出来たんだっけって設定まで思い出せなかったけれど、あちらは水商売の人が学校で学ぶことになったって確か、ストーリーだったのとは逆に菱田愛日さんの「夜のちょうちょと同居計画!」(電撃文庫)は学校に通うことになった高校生たちが、社会的な情勢もあって自分たちでそのまま稼ぐことを義務づけられてそして、囲われた学園都市の中で適正に合致した仕事をあてがわれ、それに勤しむことになるという流れ。学業が学園都市内での収入につなある「ハロー・ジーニアス」(電撃文庫)って本もあったけど、あちらは学業でこちらはそのまま手に職系。だったらいっそ子供は全員、15歳で職業学校にたたき込めば良いじゃん優秀だったら法律行政の職業学校で技能が優れていたらマイスターの所で修行とか。ドイツやフランスってそんなんだったっけ。

 そうはいっても教養は大事ってことで、まずは普通に学びながらも、それを支援できなくなっている国家財政の状況を鑑み、生徒たちが大きな学園都市の中で自給自足できるようにして、自立した経済をそこに成り立たせるために、生徒全員にそれぞれ職業を持たせるというのが「夜のちょうちょと同居計画!」の基本設定。どの職業があてがわれるかは試験だか面接だかを経てのことで、1度そうと決められたら卒業するまぜ絶対に変えられないという決まりの中で、主人公の少年にはキャバクラのボーイという仕事が振られ、そしてクラスメートの中でも1番の美少女で、家もお金持ちという瑠花になぜかキャバクラ嬢という仕事が振られてしまう。

 そりゃどういうことだと思いつつ、少女の方は憤りつついったお店で瑠花が大失敗。プライドが高く勝ち気な瑠花は、迷惑をかけたお客さんに謝れず飛び出し引き戻されつつ、理由があって辞めるに辞められないまま仕事を続けることになる。さらに主人公の少年がもう2人、同じ店でボーイとして付くことになった新入生で新米キャバクラ嬢の少女たちも含めた女の子3人と同居して面倒を見るという事態に。羨ましいかというとそれぞれに個性的な女の子たちの良いところを退きだし、その街で暮らしていけるようにするために頑張る姿はなるほど社会のシミュレーション。それと、ライトノベル的な同居設定とが重なって、ありそうでなかなかない話になっている。綺麗なこと以外は、あれだけむいてないように見えるヒロインがどうして、キャバ嬢なんて仕事を振られたのか、そんな辺りにも理由があってそれが大きな展開に、つながっていったら面白いかも。

 名古屋がそこにあるなら行かねばならぬと、東急東横店で開催中の「名古屋でらうま市」へと出むいてそして、ヨコイがそこに来ているなら食わねばとあんかけスパをテイクアウトで頼んで食べる。前は確かミラカンの1品だけだったけれども今年はピカミラとかいう新メニューが登場。ミラカンのミラノ部分すなわち千切りのウインナソーセージとベーコン部分にピカタを載せたゴージャススパゲッティ。それにあの甘く辛いヨコイのソースがかかったピカミラは麺もソースも具もすべてが完璧で、口中に広がる名古屋にしばしそらを仰いで帰ろう故郷へと思いを漂わせる。箸が転んでも政権非難、雨が降っても原発擁護にいつまでも未来があるとは思えないからなあ。いや、時にはそれも必要だけれど今というタイミング、そしてものの言い方の納得性の足りてなさではやっぱりね、ちょっとね。うーん。暗くなってきた。ひつまぶしと若鯱屋のカレーうどんと矢場とんの味噌カツ丼はまたの機会に、って矢場とんなら銀座に店、あるじゃん。

 そして4年目の「大学読書人大賞」へと出むく。前は上野で読書振興イベントと関連して討論会も開かれていたんだけれども、大学生が主催って色を出すためなのかゴールデンウィーク期間中では学生も大変なのか、去年は明治大学の教室での開催となって今年もそうかと思ったら、震災の影響で授業日程がズレて貸し出しができなくなった模様で場所を飯田橋の研究社へと移して、学生たちによる公開討論会が開かれた。今回のエントリーは6冊。米澤穂信さん「インシテミル」に伊藤計劃さん「虐殺器官」に湊かなえさん「告白」に」マイケル・サンデル「これから『正義』の話をしよう」に伊坂光太郎さん「砂漠」に冲方丁さんの「天地明察」と、最近のベストセラーロングセラーが並んだラインナップはそのまま「本屋大賞」へとシフトさせても間に合いそうだけれど、文庫落ちしてから読む学生が多いって状況が、文庫のエントリーも許している関係上、評判の作品が上に来てしまうことは仕方がない。それでも2冊、ハードカバーが入っているだけ今年は異例か。

 なおかつ受賞もハードカバーの冲方丁さん「天地明察」に決定。本屋大賞に吉川英治文学新人賞といった賞をすでに受賞している本だけれど、発売日というレギュレーションから今回に含まれたという状況。関西大学から来た現代文学研究部の和田さんが、教科書では1行で片づけられそうな人物を取り上げ、その主人公の魅力を語ってみせた着眼点と、それから歴史小説時代小説にありがちな堅苦しさがなくって読んで読みやすいところなんかをアピールして、並み居る強豪をおしのけ見事に大賞の栄誉を勝ち取った。これまでは法政に立教に慶応と東京六大学が占めていた牙城に踏み入ったのみならず、関西からの参加でも初で箱根も大井川も関ヶ原すら超えての受賞は快挙。この勢いでもって来年も、西から中部からの参加が増えてくれれば面白い。京大SF研とか来て語れば良いのに。

 とはいえ、「インシテミル」を推薦していた人とか空気について語りつつ、別に大学読書人大賞に参加しなくても良いんじゃね的空気があったサークルで、頑張り唱え書いて応募し参加し最終討論の場に出てきたことで自ら空気を作ったと、話した裏側いなる大学読書人大賞の位置づけって奴が、透けて見えるような気もしてみたり。そこに来て喋って栄冠を勝ち取ったからといって、将来に何の役にたつとも言えないからなあ、メディアだってあんまり来てなかったし、というかこの4年間を皆勤してるのって僕くらい? まあ最近の若い人たちの動静を知る一方で、そういう方向に向けた発信をするためには必要と思ってのことなんだけれど、1980年代的ゴージャス&スノッブが染みついた頭の人にはあんまり、理解されそうもないからなあ。そういう世代が門を固めた旧態依然メディアで名を売るのは大変。だったらそれこそニコニコ生放送とかで流せばもっと、評判になったのに。ここからスターが出ればさらに有名になって評判を呼んで参加者も増えて厚みが出て面白みを増す、そのための方策が来年、出てきてくれれば楽しいかも。期待してます。


【5月14日】 そりゃあ自分はキャンペーンガール時代にいっぱいまとった衣装を持ち出し登院すればそれはそれでオフィシャルなものとしてハイレグであろーとビキニであろーと立派に仕事着として認められるかもしれないけれどレンホーさん、普通の人いんはそーした似合う夏場の薄着なんてないんだからスーパーだなんて言葉を付けて、よりいっそうのクールビズを推奨したところでなかなかついていけるものじゃない。選ぼうったって選べもしないその果てに、いっそだったら何も着ないのが1番って結論にいたってかくして夏の日本に自由の戦士、ゼンラーマンがあふれ出すなんて事態になったらいったいどうしてくれるんだって今から牽制球を投げておこう。いやそれが女子にも波及するってんならそれはそれで良いんだけれど。この場合は呼び名はやっぱりゼンラーマンレディ? それとも縮めてゼンラーレディ?

 男子だったらあの栄光のペンデュラムを飾り披露して練り歩き、女子だとそれは双房のビッグマシュマロとなって世界に潤いと涼やかさを与えることになるのかそれとも発憤と発汗を招いて熱さを倍増すだけなのか。やってみないと分からないからやってみようレンホー大臣。時に熱が暴走を巻き起こすかもしれないけれどもその時には、全女子に(時には男子にも)ゼンラーマン相手には必殺の武器、仕置き用暗黒生命体こと「うに」の携行と使用を許可しておけばサクっと仕留められるから大丈夫ってことで。あるいはそれすらも超える強度を鍛錬に寄って得る強者が出るかも知れない。何しろ「退かず、媚びず、自重せず」が大原則のゼンラーマン、その時には仕置き用暗黒生命体に仕置き用双鋏生命体こと「ざりがに」の使用も認めれば、サクッとやったあとにチョキッとやってペンデュラムを永遠に取り去ってしまえるようにすれば大丈夫ってことで。ちょっと痛みが沸いてきた。

 しかしスーパーとは大きく出たものだけれどそうした一時期の拡大もさらなる要求の前に限界が見え、そして一段の拡大を招くというインフレーション理論に従えば(そんな)理論じゃなりません)、やがてスペシャルクールビズからウルトラクールビズ、ギャラクティカクールビズときてユニヴァースクールズとかへと拡大しつつ恒河沙クールビズ阿僧祇クールビズ那由他クールビズ不可思議クールビズときて無量大数クールビズの果てに人類は、衣も肉体もペンデュラムすらもはぎ取って、精神のみで存在する境地に至ったと後の生命体が発掘した旧人類の記録に書かれてあっとかなかったとか。まさかクールビズが人類の超進化を促すとはその時レンホー大臣も気付いていなかったという。それはそれとしてゼンラーマンが拙いんだったらクールビズ用ボディペイントを使って体に描けば良いんじゃないかシャツもネクタイもパンツも靴下も。大丈夫、バレやしないって。

 城平京さんって人の「虚構推理 鋼人七瀬」(講談社ノベルズ)を読んだらすっげえすっげえ面白かった。ベレー帽を被って杖をついて歩く岩永琴子って美少女、どうにも人間離れしていると思ったらどうやら妖怪方面に片足突っ込んでいて、今はそっち方面からの依頼に答える仕事をしている模様。とはいえよくある退魔師とかじゃない。むしろ魔すら脅かす怪異を相手にするという妖怪変化のお姫さま。そして今は恋人という青年の九郎を連れて歩き回っているという。もっとも恋人という九郎も岩永を心底愛しているかというとほとんどが成り行き上でのつき合い。というか彼自身にも秘密があって、それ故に許嫁に逃げられてしまったところを岩永に告白され引きずり込まれたという過去があった。

 そんな2人が挑む事件が「虚構推理 鋼人七瀬」のタイトルにある鋼人七瀬。人気のグラビアアイドルがちょっとしたスキャンダルの果てにしばらく身を隠し、ひとり地方都市にいたところをどうやら事故で落ちてきた鉄骨で頭を潰され死亡。けれども未練や怒りのあったそのアイドルが、夜な夜な現れ手に重たく大きな鋼材を持って歩き回っては、誰かを襲っているという。警察も乗りだしてきたその事件に、本当は交通巡査だから無関係ではあったものの、関わるようになってしまったのが岩永の恋人の元許嫁で今は警察に入った紗季という女性。夜道を歩くうちに鋼人七瀬と対面し、戦っていた岩永と会い、元許嫁の九郎と再会して、そして虚構から生まれた亡霊を鎮めにかかる。

 こう聞くと伝奇めいたストーリーに思われがちだけれども、そこは講談社ノベルズというミステリーが多めのレーベルで、当人もミステリーの賞から出てきたという城平京さん、どうして鋼人七瀬なんてものが生まれたのか、その理由を見つけた上で、鋼人七瀬を弱らせ消してしまうための方法を、論理を重ね言葉を積み上げることによって探っていくという一種のロジックパズルによる戦いが繰り広げられる。加えて、ネット内に流れ蔓延り成長していく言説といったものがあって、それをどう支配しどう誘導していくのかといった、言葉の戦いぶりの要点も楽しめる。キャラクターでも岩永という少女の見た目は美麗だけれども口調は乱暴で猥雑というギャップがとても愉快だし、何かを投げ出しているような九郎という青年の振る舞いも不思議。とりわけ琴子の超然としているようで、妙に九郎に執着しているその言動が面白い。何かに似てるなあと探ったら、上条当麻がロシアで連れてたレッサーに似てるような。あとは鋼人七瀬も巨乳ぶり最高。でもやっぱり論理を重ねる戦いがクール。お試しあれ。


【5月13日】 なんか毎週ちゃんと溜めずに見てしまう「Steins;Gate」はクリスティーナがだんたんと未来ガジェット研究所に馴染んでダレていってるその階下でバイト戦士が何やら感情を不穏にさせているその一方、見た目細っこい寡黙な眼鏡にしてその指は光速で動いて携帯電話に文字を刻むシャイニングフィンガーが現れては核心へと迫る展開の、その手前のまだふんわりとして和やかな空気が漂っている状況が後になってとっても愛おしくなるので今を忘れないで楽しんでおけ、って画面に向かって言ってもし方がないか。やっぱり小説版のような激しい展開から苦難の連続を経てカタルシスへと向かうのかな。漆原るかくんが全然出てこないのは寂しいな。

 いやいやるかは別に髪型をかえて天の妃へと潜入してはそこでいっぱいの悪巧み中、かと思ったら今回は変名でまりやとなったるかではなくって、そのお着きの茉莉花さんが「まつりかほりっく」と銘打ってオープニングから本編から大活躍。まるで抑揚がないお経のような歌声でもって歌われたあのオープニングは夜中に聞くと脳が捻れて虚ろな気分に浸れそう。合間には桐さんが冷静沈着に見えながらも果てしない大ボケをかましてくれて弓弦ちゃん大慌て。だからそうかあのデコ机ができたのかって前回だかに繋がるエピソードをここではめ込むあたりが愉快。しかしこれではいつまで経っても水着回へと行かないぞ。「BLEACH」は京楽春水が気付いたようだけれどもそこを制して偽砕蜂。さてどうなる。

 大きく筋を露呈させて語るとするなら今敏監督の「PERFECT BLUE」は、土台に元アイドルの女優への脱皮という線があって、そこに彼女をアイドルとして慕っていたマニアの暴走が絡み、彼女をアイドルとして育ててきた元アイドルのマネージャのアイドルという存在への強い思い入れがあって、それに逆らい逃げたヒロインへの反駁があって、ヒロインに自らの理想を仮託しつつ、それを自己に投影してしまうといった心理的な流れがあって、事件といったものが発生する。一方で、ヒロインの方は脱皮を狙ったものの居場所を失う不安、要求に応えられるのかという心配があって逡巡している心理があって、その心理を重ねるように、女優に憧れながらも至れない複雑な心理が別の自分を生んでしまう少女の役を女優として演じようとして、さまざまな葛藤を繰り返す。

 揺れる気持ちを誘うように、マネージャとマニアはヒロインをアイドルへと引き戻しにかかるものの、すでに女優への道を歩み始めているヒロインは戻ってこない。振り切って役を完全にこなしてひとつ脱皮した先で、起こった真相を知って更に驚きを経ながらもう1段階の脱皮へと至るという1本の軸を支える枝葉として、女優を目指すヒロインが役を得たドラマの中で人格を乖離させて別の自分になろうとあがく姿を演じさせ、その姿をアイドルから女優になろうとあがくヒロインに重ね合わせて見せることによって観客を、妄想と作品の中での現実を行き来させ、その上で作品の中のヒロインと、何者かになろうとして未だ果たせないでいるような観客自身の心理とも重ねさせることによってこの現代に、どうやって生きていくべきなのかを考えさせる。

 ラストの一言のあれは、未だ虚構に生き続けていることの示唆か、それともプロフェッショナルとして屹立することへの賞賛か。それすらも迷わせるくらいの深さを持って見る人に迫る。そうした何段にも重ねられたレイヤーを、ただ構築的に描くのではなくレイヤーの間で絵をつなぎシチュエーションをつなぎレイアウトをつなぎセリフをつないで今、どこのレイヤーにいるのかを混乱させて戸惑わせ、彷徨わせて同じように戸惑い彷徨うヒロインに自分を同化させる手助けをする。立体的であり網羅的な作品。それが今敏さんが監督し村井さだゆきさんが脚本を書いて作り上げた映画「PERFECT BLUE」な訳だけれどもその奥行き、その広がりがダーレン・アロノフスキー監督による「BLACK SWAN」にはあまり感じられなかった。というか薄すぎる。

 これも大きく筋を露呈させるので読むには注意が必要と前置きした上で、ナタリー・ポートマン演じるバレーダンサーはテクニックはあるけど気弱でなかなか脱皮できないでいる。そこに降ってきた「白鳥の湖」の主役を探すという話。やりたいと名乗りを挙げるものの清廉な白鳥はできても淫靡さが必要な黒鳥は難しい。でもやりたいからと舞台監督にねじ込み一瞬の終着で役を得るものの、やっぱりあんまり出来がよくない。

 ようやく主役を得られて喜ぶ母親だけれど娘はやっぱり自信がない。不安をかかえながら近づく本番にだんだんと追いつめられていくという、その目に映るさまざまな幻想、そして出来事が「BLACK SWAN」の筋になっているんだけれど、それに絡む「PERFECT BLUE」だったらルミちゃんなりミーマニアの惑乱、劇中劇の「ダブルバインド」で自分を壊してしまうことで一歩脱却する霧越未麻の成長のステップが、「BLACK SWAN」からはごっそりと落ちてしまって、「白鳥の湖」という物語の中で自分を成長させておしまい、といった展開におしこめられている。「ダブルバインド」という劇中劇での未麻が演じた役に起こった変身といった程度の成長。そこにヒロイン自身がプレッシャーから見る幻惑が巻き付いているだけで、人間関係そのものに多層的で網状的な広がりはない。

 自分より成長していく娘への妙な嫉妬、そして手放してしまうことへの恐怖から生まれる母親の惑乱なんてない。あったらそれこそ一緒になってしまうと避けたのかもしれないけれど、その結果があの薄さなのだとしたらどうにもやりきれない。あるいはナタリー・ポートマンが演じるニナ自身の葛藤から成長を描くことに終始したのだとしても、自分自身をの殻をうち破るためにとった手段があまりにも唐突で、なぜそうなったのかといった疑問が浮かんで消えてくれない。激しいプレッシャーから開き直るために必要だったことが、幻想の中にいたライバルを消すことだったのだとしても、それをどうしてあのタイミングでなし得たのか。むしろ現実の中で殴り合い、ののしりあい嘲り合った果てに理解を深め、そして互いに切磋琢磨して乗り越えていく方が、段取りとして綺麗に見える。あり得るように写る。でもそれじゃあスポーツ根性バレエ映画になってしまうか。良いじゃんそれでも。

 とはいえこれは既にして「PERFECT BLUE」という作品を深く知り、そしてそれへのオマージュがふんだんに取り入れられている作品であるらしいという情報を得て「BLACK SWAN」を見た者の感じ方捉え方であって、初めてダーレン・アロノフスキー監督による「BLACK SWAN」を見る人にはナタリー・ポートマンという女優が実に立派にバレエをこなしている様に喜び、いろいろ見せてくれるサービスに喜悦し、初々しくて清純で臆病な1人の女性が大役を前に悩み葛藤し、それが行き過ぎて周囲を巻きこみ時には他人を疑いながらも自分と向き合い、自分自身で殻を破って大きく羽ばたき花開く成長のドラマと見て、「よく頑張った」と感動を覚えるのではないのだろうかそうなのかもね。

 身に大人の女性を宿すために、抑圧していた性への関心を開き自らに求める描写とか、実にエロティックでグッと来た人はきっと大勢いっぱいいそう。できれば「レオン」の頃にやって欲しかったなあ、ってそれでは別の映画になってしまうからさておいて、そうしたひとつひとつのシーンの素晴らしさ、1本の筋としての真っ当さ、それを表現するために舞台をバレエにしたことの妙など、誉められるべき要素は多々ある。だからそう思いそう認めて楽しもうではないか。「BLACK SWAN」は「BLACK SWAN」だと。これが「PERFECT BLUE」へのオマージュだなんて今敏監督にとって迷惑……じゃないダーレン・アロノフスキー監督の才能への無理強いも甚だしいと。うん。


【5月12日】 INACレオネッサでの試合を日曜日に駒沢陸上競技場で見たときに、澤穂希選手の中盤にいながらサイドで相手がフリーでボールを持ちそうになると、駈け寄っていって詰めて時にはタックルをくらわし、ボールを奪って攻撃の芽を摘む動きがとにかく目立った。前だと攻撃の時に中盤から一気に前戦に躍り出るなりしていた澤選手の、その察知能力と俊敏性が守備で存分に活かされたら、もう恐い者はない。たぶんこういうことをドイツの後にまだ中田英寿選手が現役だったら、きっと新監督たちもこういうプレーをさせたかったんだろうけれども、引退して今は旅から旅の放浪息子。残念だけれど澤穂希選手は未だ現役としてしっかりと、その能力を発揮してくれているから何とも心強い。ドイツでのワールドカップでも相当な期待がかかりそう。

 その澤選手が「Number」の2011年5月26日号でインタビューに答えてて、アメリカ出だって活躍できそうなのにどーして日本に戻ってきたのか、って話をしていたのがとっても内容的に興味深かった。曰く「中盤を省略して前戦に大きく蹴ったり、身体能力まかせの1体1の勝負をしてばかり。止めて蹴るって基礎技術ができてない選手が多いから、パスなんて5本とつながらない」。ほとんどキック&ラッシュのサッカーで、中盤が仕事場の澤選手にとってはやってられないって思いもあったんだろう。あとは経営難。女子の人気スポーツナンバー1として君臨しながら、この凋落ぶりこの停滞ぶりは何だろう、やっぱりアメリカっていう場ゆえの現象なんだろうか。

 「私がボランチとして味方のカバーに入ったら、監督に『自分の仕事をしろ!』って怒られるんですから……。複数の選手が連動するプレーや、チーム戦術っていう考え方がアメリカにはないんです」。これはつまりアメリカンフットボールなり、野球といったポジションがしっかり決まった中で、攻守を入れ替えながらそれぞれがポジションでの仕事を最大限に発揮することが求められるアメリカンスポーツの考え方が、サッカーというイングランド発祥のなんでもありのスポーツ、それこそ時間ですら時計ではなく審判の裁量が最大というサッカーとは相容れないってことになるのかも。ポジションの入れ替えについてはバスケットボールなんて、割といろいろ動いて連動していそうだけれど、見ると決行決まった場所にいてそこでちょい動いてみるって感じだからなあ。

 それでいて強いから嫌になっちゃうアメリカのサッカーと澤選手。体力と個人能力にやられてしまって未だ勝てないでいる日本が、あるいはこの1年で大きく成長してみせたか。ワールドカップの晴れ舞台でアメリカを破る快挙を成し遂げるのか。日本で未だ成長衰えない澤選手がいて、ドイツで大活躍している永里優希選手に安藤梢選手がいて、ほかにも海外組に日本のチームの主力選手も入った我らがなでしこジャパンが、いったいどんな戦いぶりをみせてくれるのか。開幕が今から楽しみで仕方がない。あの環境で繰り広げられるサッカーを、ぜひに見に行きたいなあ、それからいつかは日本でも見たいよなあ、ってかどうして日本は男子がだめでも女子のワールドカップで開催の立候補をしないんだ。やって欲しいなあ。

 ずっとレブロン・ジェームスがトップだと思っていたNBAに気が付くとデリック・ローズって選手が台頭してきたってことを「Number」から教えられる。あのシカゴ・ブルズの選手ってことで偉大なMJことマイケル・ジョーダンの系譜に連なる選手ってことになるんだけれど、その身長が191センチとバスケットボール選手にしては小柄だったり、決して優勝争いに加われるようなチーム事情ではなかったりすることから、いくら優れた選手だとはいえNBAを代表するまでにはなってないだろうという心配をよそに、2010年から11年のシーズンでMVPを獲得するくらいの選手になってしまっていた。すげえなあ。どんなプレーをするのか見てないし、最近はテレビでもあんまりNBAをやらないから分からないけれど、この活躍ぶりとその若さから、数年後にはコービー・ブライアントもレブロン・ジェームスも追い抜き世界に名だたる選手になってムーブメントを日本でも……起こらないか今の日本じゃ。あのブームは何だったんだろうなあ。スラムダンクは偉大だなあ。

 夏の寿司といったら何だろう、って思い浮かぶほどの寿司好きではないけれども夏寿司と続ければそれは作家の人のこと。徳間書店であれこれミステリーっぽいライトノベルっぽい作品を出していたって記憶があって、そのあとどうしたのかと思っていたら講談社BOXからやっぱりライトノベルっぽいけどミステリーでもある作品「アリシアの三姉妹」を出していた。嘘を聞いたら頭痛にさいなまれ、酷い嘘をくらうとその直前の記憶すらとんでしまう少年の真実一朗を主人公にした作品は、名探偵から探偵小説家になってそしてなくなった女性の娘3人が、やっぱり探偵となっていて一朗と出合い、そして起こった難事件を解決するというもの。1人で万能だった母親のアリシアと違って子供は壱は頭脳はあっても体力がなく、弐は体力だけで推理は今ひとつ、そして参は探偵に必須の事件を引き寄せる体質だけを受け継いでいると言った具合にそれぞれ単独では今ひとつ本領をはっきできない。その間をとりもちつつ一朗は、もっぱら弐にくっついてヌルという謎の男が起こす難事件に挑んでいく。

 壱のアームチェアディティクティブに近い名推理ぶりとか、弐の最後はチョーパンかます戦いぶりとか見どころはいろいろあるけれど、でもやっぱり1番は参の壮絶なまでの可愛らしさか。それが例え……であったとしても。っていうかタイトルこれでそもそも良いのか。うーん。あとは嘘を見抜き嘘をつけない一朗の特徴が入り交じって展開にややアクセントを与えるところか。嘘を聞きすぎれば直前の日の記憶を忘れてしまう特徴をいかせば、読者には状況が理解できてても自信は理解できてないシチュエーションを作り上げられそう。続くかな。続いて欲しいな参のためにも。って何だその格好は!


【5月11日】 発売になって評判も聞こえ始めた松山剛さんの「雨の日のアイリス」(電撃文庫)の人気がなかなか高い良いようで、昔っからのファンとしては何だか嬉しいというかようやく世間に届いたというか。電撃大賞でも4次までだったというから最終選考に残るに至らなかったってことになるんだけれど、それでもこの評判の良さというところに5000人とか集まるあの賞の層の分厚さってやつが伺える。そこで頂点に輝いた作品が、だったらとてつもなく素晴らしいかというとしれはまた別の話。賞っていうのはそのときの雰囲気空気選考委員の気分によっても左右されるものだから。

 とはえいやっぱり残るのは作品として完成度の高いものばかり。そこで4次で落ちたということは、最終選考に残れなかったなりにあったんだろう悩ましい部分を考慮しながら、物語が持つポテンシャルをちゃんと見抜いて書き上げさせ、作品へと仕立てていった編集の人たちの慧眼って奴にも恐れ入谷の鬼子母神。このゆとりがあるからこそ電撃文庫ってレーベルが、あるいはメディアワークス文庫も含めたアスキー・メディアワークスの小説部門が、今や主流も主流であるにも関わらず、ライトノベル界隈の萌えやら何やら一辺倒の奔流に完全には巻きこまれないで、常に次を担える人材をかかえ、送り出していける理由にもなっているんだろう。

 未来って奴はちゃんと狙って育てていかなければやって来ない。いきなり現れ未来を作ってそのまま死ぬまで突っ走るような才能なんて100年に1人も現れない。商売だからちゃんと売れる人は売れる人、人気のジャンルは人気のジャンルとして抱え維持しつつ、一方で未来につながる人材を、あるいは作品を揃え集めて世に出して、じわじわと認知を広げていってそして3年、あるいは5年の後に一気に花開かせる。それがおおきな柱となって屋台骨を支え、次の10年20年を支える新しい屋台骨をその下で育てるという連鎖を、最近はコストだの目先の数字を狙って断ち切ろうとする動きがそこかしこで起こっているのが寂しくもあり哀しくもあり。それで瞬間は浮かんでも、未来はないと思うんだけれど、偉い人にとって大事なのは今だけなんだよなあ。それだから偉くなれるんだけど。そういう会社に未来は? 考えると夜寝られなくなっちゃうんで考えない。

 三宅一生さん家のプリーツを丸めて束にしたのに切れ込みを入れて椅子にしたり、醤油の注ぎ口に顔の口を付けたりともういろいろやってみせてくれているデザイナーの佐藤オオキさん率いるnendoってところが、エレコムとコラボレーションして周辺機器を作ったってんでAXISビルへ。六本木にあってオシャレな文房具とか売ってる見せってことで、大昔は割といろいろ見に行ったけれど、部屋にものがあふれ過ぎてお洒落な文具でアクセントとか言ってる余裕もなくなって、すっかり足が遠のいていた場所。行くと変わりなくお洒落な文具とか雑貨とかを売ってる店がまだあった。なるほどそーゆーのに需要はまだあるもんだ。世の中にはそーゆーのを愛で慈しめる暮らしを送れる人たちがまだまだたくさんいるんだ。羨ましいなあ。もうたぶん一生無理だろうなあ。

 んでもって佐藤オオキさんがデザインしたあれやこれやはマウスとかスマートフォン立てとかUSBメモリーとかイヤホンとか。マウスはワイヤレスで丸っこい形に尻尾があってそれを引っこ抜くとパソコン側に着ける受信機になっていたりする。尻尾の形はいろいろで、好みに合わせて選べそう。それからちょっと構築的な形のマウスもあって、手に握るとキリッとしそう。問題はイマドキの家庭でほとんどが大型のノートPCになっていたり、あるいはマッキントッシュのノートだったりする状況で果たしてマウスなんて使われているんだろうか、ってことなんだけれどノートでもマウスがあると便利なことには変わりなく、それほど衰えないで売れているってことらしい。手元のLC575を眠らせてからこっち、マウスなんて触ってないからちょっと感覚がつかめなかった。デスクトップでいろいろ遊べるおおきなパソコンが欲しいなあ、って置く場所無いけど、ぎゃふん。

 面白かったのは眼鏡の形をしたスマートフォン立てで、目の玉の部分に吸盤がついていてそれをスマートフォンの背面にペタリとやってつるを広げて奧とほら、つるが床に接してスマートフォンを支えるスタンドになるって寸法。外せば畳んでポケットへ。出先でiPadとか立ててワイヤレスキーボードで文字とか打つときに使えそう。いっそキーボードも佐藤オオキさんにデザインしてもらえたら格好いいのになりそうだけれど、使い勝手が良くてナンボのキーボードにデザインを入れ込むのって難しそうだしなあ。あと売れ行きの問題もありそう。そんなに数でるものじゃないのにコストはかけられません。クリップ型のUSBメモリにミニカラビナ型のUSBメモリとかは無骨な奴が多い中でスマートに使いこなせそう。蛇口型で水が流れてしたに溜まっている状況を再現したスマートフォン立てだけは使い勝手がどうなのか、判然としなかった。出たら試すか。問題はだからそんなの置く場所がないことだ。ぎゃふん。

 どっかで観たことがあったかもしれないけれども、強い記憶にはなかったりする吉永小百合さん本人を、観られる機会があるってことで長編アニメーション映画「手塚治虫のブッダ −赤い砂漠よ!美しく−」の舞台挨拶を見物に言って、堺雅人さんが演じるチャプラの母親の声と、ナレーションを担当する吉永小百合さんのその変わらぬ美しさ、その優しげな声に目が眩み耳が鳴る。「手塚治虫さんの作品が昔から大好きでした。この作品に関わることができて嬉しく思っています」といった挨拶はまあそれとして、福島県とか宮城県のシネコンでこの舞台挨拶が中継されていることも踏まえて、先だって名取とかを訪問したことを振り返って「信じられないような光景がいまだに残っています。これから私たちがもっともっと長くサポートして行かなくてはならないと強く感じています」と言って、現地で観ている人たちを強く優しく励ました。なるほど映画における国母的存在。見えれば誰もが優しくなれるのです。

 それから「私は子どものころから映画によって励まされ、感動して、生きてきて、今は俳優として仕事をしています。スポーツや音楽とともに、映画でも震災で傷ついた人たちのお心を、少しでも癒すことができたら、元気になっていただくことができたらと、今、切に願っております」とも。それを嗚咽をこらえながら切々と繰り出す声でもって聞かされれば、もう頑張りますとしか思えなくなる。直接の被災者ではないけれど、頑張りたいしそうした声を届けることで、多くに頑張ってもらえればとも思えてくる。この危急の時期に、最適の人が出演していたもの。これもあるはブッダによる導きか。

 あと森下孝三監督あ「作品は、非常に長い間かかって撮ったもので、やっと終わったなという感じだが、第1部ということで、この先どれくらいかかるんだろう」と早くも次への意欲。本当にできるか分からないけど、1部の評判もそう悪くはないみたいだし、ちゃんと続いて入滅まで、描いてくれればさらに多くが手塚治虫のファンになり、ブッダの心に感化され、優しさに溢れた世界がやって来るんじゃなかろうか。期待して待とう。その前に見に行かないと。


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