縮刷版2011年5月上旬号


【5月10日】 はかせはかせはかせはかせなのなのなのなのはかせはかせはかせはかせなのなのなのなの。といった賑やかなテンションを一方に静かな時間もあって夜中にしんみりとした気持ちでいるところに、、するりと入り込んで来ていた「日常」だったけれども最近の放送はずっとハイテンションが続いて、やや夜に神経を興奮させられてしまったって印象。エンディングすらすっ飛ばすくらいの中身の濃さでもってあの時間にやられてしまうと、翌日に響き今週に響いて今月を躓かせそうなんで、作る人はもっと日曜深夜の箸休め的な静けさを、もたらしてくれないものかと依頼。しかしカレーこぼし飯ごうけっ飛ばし魚を逃がして奴らいったいキャンプに名にしに行ったんだ。つか3人だけであの飯ごうの数は多すぎだろ。とか。

 さあ出るぞいよいよ出るぞと言いたいのはやまやまだけれど、2000個の注文ではなく入金がないと商品化されないところが断言に歯止めをかける理由だったりする「キスダムR」のブルーレイディスクボックス、っていうかいつの間に「キスダム」に「R」なんてものがついたんだってことになるけど、それは最初の放送の時にその驚異的な映像でもって世間を震撼させた番組が、そのままのクオリティではとてもじゃないけどDVDには収まりきらないということで販売が延期され、延期され続けて今に至る途中で1度、ケーブルとかCSとかネットなんかで放送されることになってその歳に作られた、映像のブラッシュアップが行われたバージョンを何でも「R」と読んだらしい。「R」って何の略?

 とりあえず申し込んではみたものの、過去にDVD化までされながらも揃えられず幻となっていたものがやっぱり評判だからとBD化への打診を行ったら、案の定に大勢が希望を出して2000個の大台を越えた「true tears」とか「ゼーガペイン」とは違って、過去に超絶的な映像表現とストーリー展開が評判になり過ぎてしまって、DVD化すらされなかった「キスダム」に、いったいどれだけの注文が入るのかがまるで読めず、本当に商品化されるのかがまるで分からないのも実態だけれど、この初パッケージ化という部分を僥倖とみて、どんなアニメ作品でもとりあえず買う人が全世界に2000人はいると思えば成り立つし、そうでなければ無理だといったことになりそう。果たして結果は。それよりいったん中止になってる「こどものじかん」のBDボックス化は? そしてさらに次の題材は? 気になるなあ。お金はないなあ。

 「月刊アニメージュ」の新しい号を買ってレジに出したら800円ですと言われた。800円ってそりゃどこの世界のアニメージュだ、ってこれが今のアニメージュだ。インフレーション効果といったものの存在を強く身に感じる。まさかデュラララの下敷きとイナズマイレブンのポストカードがついているからこの値段って訳じゃなくって、雑誌全体が昨今の風潮の中で値上がりして、それで減った読者の分を埋め合わせしてさらに値上げされるというインフレスパイラルの中にあって、よりセグメント化されやすいアニメ誌なんかにはより顕著に現象が出てしまっている、なんてことだったりするのかな。うーん。でも狙っている子ども層は余計に手出しがしづらくなるぞ。かといって「月刊ニュータイプ」みたいにマニアックな層で固めて部数を維持するって柄でもないしなあ。どうなるんだろうなあ。1000円超える時も遠くないのかなあ。

 30センチもの海老フライを2本とそして一口ヒレカツにホタテのフライを3個づつ載せてライスもたっぷりついたフライ定食が300円で提供される状況が魔王による世界征服の第1歩だとしたら、僕はそんな魔王に征服されても良いんじゃないかと思ったりしたゆうきりんさん「魔王な娘と村人A」(電撃文庫)。個性がぶっ飛びすぎて魔王だったり勇者だったりネクロマンサーだったりといった現実世界ではアレゲな性格を持ってしまった人間が、実は存在する別世界ではとてつもなく強い力を持った存在として認められていて、そこからとてつもない収入も得られるようになっていたりするというのが基本設定。そして、現実世界で勇者も魔王もとりあえず学校なんかに通っては授業を受けたりしているんだけれど、根が個性のカタマリみたいな存在だから一般の人は眼中にない。つまりは村人。そして主人公の正面もそんな村人の1人として、個性派の大暴れを横目に日常を送っていた、はずだった。

 そこにあらわれた1人の少女。自らを魔王と言い、世界征服のためにクラス征服をと委員長に立候補。そして少年は勇者が幼なじみにいて認識されているということもあって、魔王の補佐めいた副委員長となっては、魔王の行動を遠目に見守ることになってそして起こった事件が超ボリュームな上に超低価格のランチサービスの登場。その所業に大勢は喜び感謝の言葉を述べるものの、唯一勇者の少女だけは魔王が少年少女をおいしいランチでメタボにして、成人病にして人類絶滅への道を歩ませようとしているんだと喝破し、魔王もなぜバレたと身を震わせる、んだけれど傍目にはやっぱり良質のサービスに対して我が儘娘が理不尽な追求をしているようにしか見えない。その後も魔王の目的は遠大で、邪悪ながらもその場では親切な振る舞いなってしまうギャップに笑え、魔王や死体がさわれないネクロマンサーにヒントを与える村人Aの少年の不思議な立ち位置に妙なうらやましさを感じていく。学校に魔王や勇者がいるといった、ありがちな設定に見えながらもひねって新味のある設定にして物語を載せる巧みさ。これがベテランって奴か。感心感銘。


【5月9日】 時代なんだろうけれどもしかしやっぱり彼岸へと向かう旅路にしか思えない「週刊プレイボーイ」のリニューアル。今が旬だからってAKB48をフィーチャーするのは分からないでもないけれど、それ一辺倒といった感じが色濃く出ているところがそのファンそれらのファンはかき集められても、そこから時代のスターを送り出して未来のファンを獲得するんだといったマスメディアならではの気概って奴が、どこか後退しているよーな気がしてならない。売れるアイドルに乗っかるのは売れないメディアのやること。売れてるメディアだったらむしろそこから売れるアイドルを作り出すのが本懐じゃあなかったのかなあ。売れるメディアではなくなっていることの現れなのかなあ。

 そして「俺の空」という傑作を生みだし時代を作った漫画も今回のリニューアルですべてデジタルへと追い出された。WEBに掲載されていたってそれは雑誌としての「週刊プレイボーイ」の連載じゃない。それにどこからでもアクセスできるWEBだったら別に「週刊プレイボーイ」のサイトに置いておく必要もない。掲載されている漫画のカラーも含めての雑誌って存在の否定にこれはつながりそう。警察も政治もまとめてぶったたいてた記事もこれで減っていきそう。人気アイドルのグラビアと若い人が読んでためになると上が思っている情報と、ちょっぴりのニュースを載せた毒にも薬にもならない若者向け情報誌。それが新生「週刊プレイボーイ」ってことになるんだろう。いずれAKB48だって衰退する。そんな時にだったら次に乗り換えるだけで生き抜ける? というより次なんている? そう思うと未来が不安。そしてそれは雑誌全体の不安でもある。寒い時代になったなあ。

 デカい人だったなあ、というのは物理的な意味からで、老人と呼べる世代にあってひとつぬきんでた長身を見せて周囲を睥睨していたって記憶が強くある東映の岡田茂さんが86歳にて死去。見るからに活動屋といった雰囲気を持った強面っぷりがどうしても思い浮かぶけれど、当人は東大を出たエリートでそれでいて若くして頭角を現しヤクザをあいてに引かずともに映画を作ったりもしそして「仁義なき戦い」というヒット作でテレビへと娯楽の王様が傾いていった映画の世界で東映を生き延びさせ、一方でテレビにも積極的に進出することで今なお映像の世界で東映をしっかりとしたブランドとして確立させるに至った。そんな映画業界における数々の武勇伝という意味でもデカい人だったなあ。

 翻って見渡すと東宝にはもはや田中友幸さんはおらず松竹からも奥山融さん和由さん父子は放逐されてどハデなラッパを吹くにしても、堅実な対策を作るにしても音頭をとって業界を驚かす人が見あたらなくなってしまった。1990年代にひとり孤軍奮闘してラッパを吹いていた大映の徳間康快さんも既になく、その後を継ぐ形になって大映を取り込んだ角川歴彦さんも積極的に話題をふりまいてはくれているものの、それ事態が時代を揺るがし驚かせるような凄みをあんまり見せてくれていない。角川春樹さんも「男たちの大和」で復活しかかったけれどもその次のジンギスカンがどうだかって映画でちょっと躓き今はどうやら黙考中。なるほど映画が小粒にもなる訳だ。

 あるいはテレビ局が主導となってしまった映画の世界で亀山千広さんがぶりぶりと言わせているように見えるけれど、テレビをバックに話題は作って見せてもそれが果たして多くを揺るがせているかというとやや疑問。1人の口が発して世間をあっと言わせて興業にまでしてしまうラッパぶりを、もう映画の世界で見せてくれる人はいなくなってしまったのかなあ。そう思うとちょっと寂しい。鈴木敏夫さんも宮崎駿監督やスタジオジブリを離れてはなかなかその技を発揮できていない状況で、独立系のプロデューサーで興業を揺さぶり観客を動員し世間を驚かせるような人が、これから生まれてくるのかそれとも、もう出て来ないのか。そんなことも考えてしまった岡田茂さんの訃報。せめて岡田祐介さんが、最近似てきた風貌と同様に技でも岡田茂さんを嗣いでくれれば、映画も楽しくなるのになあ。ウパ。

 いろいろ書いているけれども実はあんまり読んでなかった土橋真二郎さんの新刊「アトリウムの恋人」(電撃文庫)は川原礫さんの「アクセルワールド」(電撃文庫)にも通じるような現実の東京を舞台にした仮想空間の物語。同級生で学校のアイドル青原遥花からなぜかオンラインゲームについて詳しい人間として相談を受ける前田。彼女がいうには部屋から「東京スフィア」という仮想世界へのチケットが見つかって、それを調べてみたいんだけれどどうすれば良いって聞かれるものの前田はあんまり良く知らないと断り、それでも食い下がってオンラインゲームのサークルを作ってしまった遥花に協力して、いっしょに「東京スフィア」を探して歩くことになる。

 もっとも表面では遥花の冒険にいやいやつきあっているように見える前田たちには実は秘密があった。遥花という少女の真実。そして「東京スフィア」を巡る物語が、前田たちを今一度「東京スフィア」へと向かわせそこで、眠らせていた過去を甦らせて今をつかみ取ろうと動き出す。ぽんと投げ出された物語からかいま見える設定的なパーツをつなぎ合わせて見えてくる世界の像がなかなかに広く、そしてキャラクターたちの関係性が深くてそれらがどうつながり、どこへと向かっていくのだろうかとついつい読んでいってしまう。結果がどうなったのかは読んでのお楽しみ。これから先もありそうでその中で前田は自分の思いを貫きすべてを取り戻せるのか、それとも大きな波に揉まれて敗れ去ってしまうのか。そんなあたりも期待しつつ展開を見守っていこう。これで終わりってのも十分にありかな。

 一方で「ダンタリアンの書架」シリーズを絶賛展開中の三雲岳斗さんがデビューを遂げた電撃文庫で新たなシリーズをスタート。その名も「ストライク・ザ・ブラッド1」(電撃文庫)はとある組織に攻魔師として育てられた少女・雪菜が魔族も暮らす海上の人工島へと乗り込んで監視についたのは、吸血鬼の大元とも言える真祖のひとりと目される少年、暁古城。ところか彼は吸血鬼であることは自認しながらも別に徒党を組むでもなく、普通に学校に通い普通の食事をし、帰って妹の面倒を見るといった具合に普通すぎる日常を送っていた。いったいどうして。それは古城がまだ真祖になって数ヶ月という新米だったから。ってそういうことがあり得るのか? という辺りにひとつの謎も隠されていそうだけれどもそれをさておき物語は、人工島にやって来た謎の宗教者と彼が使役する人工生命の攻撃を、雪菜がしのぎ古城が退ける展開へと向かっていく。

 12の眷属を従え世界すら滅ぼしかねない幻の吸血鬼が少しだけ目覚め、それがこれからの展開でどれだけの存在となっていくのか、それと平行して古城と雪菜の関係はどうなっていってしまうのかといった興味がまずあって、それから雪菜や古城のあずかり知らない場所で彼らが信じる存在が、いろいろと画策している状況が何を目的にしたものかといった興味もあってと、これからもいろいろ楽しませてくれそう。すごい力を持ちながらもそれを振るわずむしろ身の不幸と嘆くあたりは上条当麻に似た雰囲気で、なるほどそう考えると土御門元春もいたり小萌先生もいたりと電撃最大のベストセラーに配置も重なって、面白さを保証する。そしてベテランならではの筆運びの快調ぶり、教師のゴスロリな萌えっ娘ぶりとフックも十分。あとはだから読んで読み嗣いでいった果てに来る、真相とその狙い、そして結末を待つしかなさそうだ。


【5月8日】 今日も今日とて「絵師100人展」を見物に。主催がどうとかすればどうにかなりそうなものだけれどもそういうのって何か面倒なんで使わない、というか使えない小心者なので普通に並んでチケットを買って中に入る。正午でだいたい15分待ちくらい? 日替わりチケットは高野音彦さんで橋本紡さんの「リバーズエンド」のイラストを描いている人だよなあってくらいは知っていたけど、中空を泳ぐ竜やら何やらをモチーフにした幻想性とストーリー性を持った絵で、こういう世界観をしっかりと持った作品を描ける人なんだということを改めて知る。美少女が描かれていればそれでオッケー、って訳じゃない、っていうかそういう人たちではそもそもが絵師として名を挙げ認められるとおろにまではいかず、従って「絵師100人展」にも出て来ないんだけど。

 なるほど美少女がメーンといった絵柄もあるにはあるけれど、それはそれぞれに美少女たちの表情なりしぐさなり服装なりに特徴があってのもの。鈴平ひろさんも西又葵さんもその美少女絵で大勢のファンを持つけれど、画面に大きく描かれた着物だったり巫女服だったりする美少女の顔立ちなりモチーフにはそれぞれに特色が滲み出ていて、背景の富士山なり曼珠沙華といったものと合わさってそれぞれにそれぞれの空気ってものをしっかり出している。だから見た目平たくてもちゃんと支持される。綺羅刷りの大首絵の写楽がそれでちゃんと支持されているように。一方でちゃんと画面の中に奥行きを持って世界というより空間を構築し、見ていて引き込まれるような絵を描く人たちもいて、それもそれで心惹かれる。駅舎を描いたバーニア600さんしかり、秋葉原の歩行者天国でメイド服の子がフィギュアを手にして写真を撮ろうとしている小梅けいとさんの作品しかり。背景が絶妙の構図で、時に魚眼っぽく歪めるようなパースも使ってそこに空間を作り出し、人を置いて時間を流して瞬間を切り出してみせている。

 世界を重ね合わせる手法。そして瞬間を切り出す手法。様式的なオブジェクトを配置してキャラクターと合わせてコンポジションを出す手法。専門家じゃないけれども絵にはいろいろあって、そうしたいろいろが同じ絵師で日本がモチーフの美少女をメーンに描いた同じ題材の絵の中にあるっていうのは何か面白い。あらゆる技法手法につまりは美少女というモチーフ、アニメやゲームや漫画といったものから影響を受けたモチーフが拡散して浸透していっている日本という国の絵画的状況を、うかがわせてくれているなけれどそうした状況がメーンストリームの画壇といったところで果たして、どれだけ認められ感じられているのかというと……。それが交わる必要はないんだけれど、どちらがより知られ、世界から関心を持たれているのかって考えた時に、絵画の、アートの、ポップカルチャーの様々な未来って奴が辿る運命もまた、興味深いことになるんだろうなあ。

 津田雅美さんの現代までほぼほぼ徳川時代が続いてしまっているという主題で描かれた漫画「ちょっと江戸まで」も第5巻まで来て、本来の主役であったはずの山育ちで男っぽいところもあるけど本当は女の子という薔薇(そうび)ちゃんが何だか奧へと引っ込んでしまって、水戸の若様のミッシェルが妙に目立ってきてしまった最近。ついにそのミッシェルの出生にまつわるエピソードが描かれ妙にしんみりとした感じを味わいつつ、それでも折れず曲がらないミッシェルの強さに改めて高貴な存在はそれだけ責任も重ければ自覚も固いのだと知る。最近はそうでない人もいたりするからなあ。けどでもこのままでいけばミッシェルはずっと水戸のまま。でもそれで果たしてあの局は諦めてくれるのか。さらに一波乱あるのか。続きが楽しみ。自社映画化すると誰がミッシェル演じるのかなあ。そりゃ誰にも無理だって。
 やっぱり見ておこうかとシアター1010まで出むいて舞台劇「ココロ」の千秋楽を見る。前は取材だったけれども今回は普通に当日券を買ったら5列眼で舞台中央という席になって人気いったいどんだけだとちょい哀しみを憶えるものの、一方でそんないい席だったらこれは椅子に座っているリンちゃんなり2号機なりのニーソックスらホットパンツを形作って税大量域を含むその部分を、じっくり見られると思ったけれども始まったらストーリーにのめり込んで、双眼鏡で舐めるように絶対領域のニーソックスの際がソックスのゴムできゅっとしぼられやや太ももがはみ出る、そのふくらみを観察するなんてことはできなかった。ちょっと残念。それはそのうち出るかもしれないDVDでじっくり見よう、って遠目からだから見られないけど。しまったなあ。

 でもやっぱりそんなことよりストーリーが、そしてテーマが響いた舞台劇「ココロ」。公演も終わったしぶちまけるんなら研究所が作った美少女型のロボットは話しかければ受け答えもして人間みたいだけれどもそれはやっぱりプログラム、そして過去にそうではなく人間をスキャンして得た情報をココロとして植え込んだロボットもいたけれど、今はそれが使われていないのには事情があったという展開。そしてそんなココロを持ったロボットを作り出しながら、研究所を終われた科学者が戻ってきて、感性したココロシステムを2号機のボディに入れ込み、最初の1号機、すなわちリンを復活させようと企むというのが一方のストーリー。そして500年後というもうひとつの舞台で、目覚めたロボットに対してやって来た兵隊たちが、ココロシステムを探しているんだと告げる。その理由は?

 そこにSF的な未来のビジョンがあって、人類のこの先、テクノロジーのこの先って奴を感じさせてくれる。同時にロボットという存在と人という存在との決定的な差異は何か、あるいは差異なんてあるのかといったこれもSFに主流のテーマが描かれ小説に、漫画に、ゲームに、アニメに描かれさまざまに出されてきた答えとはまた違った、舞台劇「ココロ」ならではの答えを示してくれる。そんな強いテーマ性がありメッセージ性がある上に、舞台ならではのさまざまな仕掛け、そして展開も豊富。暗転して500年ごと現代とが入れ替わる構造、その間を1人の美少女ロボットがつないでいるというシチュエーション。大きく動かない舞台だからこその工夫された演出と展開を堪能できる。

 あとは複線の妙も。少女のロボットが未来で兵隊に提案した指切りを、反転させるかのように現代においてリンが科学者から提案される裏表のシチュエーションとか、見るとなるほどここにこう来たのかって関心させらえる。2号機の喋りのぞんざいで可愛らしくってイマドキな感じも演技者の妙であると同時に脚本の妙。それらをなし得た石沢克宜さんって人の文才、相当なものなんじゃなかろうか。その筆の力と、そしてSF的な主題を描ききってみせる発想力をもってすればこの舞台劇「ココロ」を小説の形にしても、立派に楽しく読めるものになりそうだけれど、決して未だそれほと知られていない舞台を小説にして出そうなんて版元が、やっぱりなかなかないのが昨今なんだよなあ。

 そこはだからSF専門出版社に頑張って欲しいところだけれど、新人賞だって打ち切りになってしまうような出版事情もあるし、またSFではない方面にはなかなか気付かないものなのだ。蛸壺化したクラスター間に滞る交流。蛸壺の中をいかに掘るかが勝負なコンテンツ業界。そこから面白いもの、生まれてくるのかなあ。だからこその舞台劇「ココロ」のこれからに、注目したいしできることがあれば後押ししたい、けど僕に、できることなんて書くことだけ、だから書こう、ここに。舞台劇「ココロ」は絶対に面白いと。でももう終わっちゃったよ。後はだからDVDで。あるいはニコニコ動画で。


【5月7日】 ふと買った高木しげよしさんお「フィルムガール」(花とゆめコミックス)とゆーが面白かった。クールで鳴るモデルの司朗は実は筋金入りのアイドルオタク。かつて引きこもっていた時に見た鳴ちゃんというキッズモデルに憧れ、いっしょに仕事がしたいと一念発起し、ひきこもりから脱して痩せて人気のモデルになったものの、既に鳴ちゃんはそこにいなかった。

 それは鳴ちゃんが自分の地味さ加減に気付いてしまって、嫌になってモデルを辞めていたから。今ではすっかり自分を出すことを怖がるようになって、学校でもいてもいないように思われる地味っぷり。けれどもふとしたきっかけで鳴ちゃんを見つけた司朗が、彼女をモデル世界に引きずり込む。やっぱり地味で引っ込み思案だった鳴ちゃんだったけれど、自分を精一杯に出そうと頑張る姿からのぞくきらめきが、カメラマンたちの心をとらえてだんだんと仕事も増えていく。

 苦労もしつつそれでも自分を外向きにすることにやっとこさ成功し、モデルとして独り立ちを始める鳴ちゃん。そんな一方で、アイドルオタクな自分を見せないよう、クールに徹して無表情を装ってきた司朗はその素姓が露見し岐路に立たされる。そこで問われるのが自分らしく生きる生き方の大切さ。いくらクールを装って、それが人気になっていったとしても、見る人が見ればただの無表情いしかうつらない。周囲を気にしてファッションショーのランウェイにも上がれないでいる立場では未来もない。そんな司朗も鳴ちゃんの頑張り、そして支えで開き直って共に自分を変えていく。全2巻で話数も10話あたりと短いけれども、起伏があってメッセージがある物語。読んで自分を変えよう。まずはダイエットからだな。

 大量の主力選手の移籍で監督も元職という状況から因縁めいたストーリーも作れそうだけれども同じ日本の女子サッカー界を背負って未来に向かって頑張る日テレ・ベレーザとINACレオネッサが、そんな因縁でドロドロとした試合を演じるはずもなく、真正面からぶつかりあってはひたむきな試合を見せてくれると期待してたぶんとっても久々に、女子サッカーのなでしこリーグを見物に行く。J1だったら土曜日にある試合がJ2に落ちて日曜日に開催されるようになったんで、もっぱら去年はジェフユナイテッド市原・千葉の試合を見に行ってたんだよなあ。あるいはジェフ・レディースの試合も。だからベレーザは久しぶり。そしてベレーザではない澤穂希選手を見るのはこれが初めて。そりゃそうだ。誰だってそうかも。

 とわいえ澤選手は澤選手で、中盤にいつつもピンチとなれば下がったり左右に走っては、ボールに詰めてしっかりと防ぐ活躍ぶり。その献身的な姿はほかのすべての選手にも勝ってた。年齢も年齢なのにどーしてそこまで、って思うけれどもそんな姿がきっとチームを、そして日本の女子サッカーを変えていくって分かっているんだろう。いやあ凄かった。それから大野忍選手。やっぱりINACレオネッサに日テレ・ベレーザから移った1人で、いつものフォワードではなくどちらかといえばトップ下あたりに構えては、ボールを運び前戦へと飛び出していく動きがベレーザにプレッシャーを与えていた。凄かったのはそのキープ力で、INACレオネッサが奪った川澄奈穂美選手の2点は、いずれもそんな大野選手のキープから、パスへとつながって生まれたもの。代表でもそんな攻撃が見られると良いなあ。

 近賀ゆかり選手はちょっと細身が増していた感じ。逆に日テレ・ベレーザの選手は遠目にも何だからふっくらした印象? 分からないけどでもどこかコンディションが整っていないような気がした。破壊力抜群だったはずの岩渕真奈選手もサイドでボールを持っても中へと切り込めず囲まれ奪われる繰り返し。そこを突破していく凄さがあったはずなのに、どうにも見ていて歯がゆかった。というか去年もどちらかといえばそんな感じ。期待されながらもなでしこジャパンのトップチームに入れずレギュラーも奪えない理由はそこらへんにあるのかも。全体の攻撃の組み立てもやっぱり今ひとつ。いろいろあって練習量がやっぱり足りてないのかなあ。

 あと不思議だったのは、いつも賑やかだった日テレ・ベレーザの応援団がまるでいなかったこと。いつもながらのコールがない。後半に履いてからのカモンベレーザもない。まったくないのはいったいどういう事情からだったなろう。相手に配慮した? それとも何かの抗議? 事情は分からないけれど、INACだって頑張って声を出していた時に、ホームが応援皆無っていうのはやっぱり奇異。そしてやって来た子どもたちにとっても、気持ちを寄せるところがないのはやっぱり哀しい。ホームなのに子どもたちがアウェーのINACの方へと集まり楽しんでいるってのはなんだかなあ。まあいろいろあったのかもと想像しつつ、それでも女子サッカーはひとつと願ってドイツでのワールドカップでの勝利に今は気持ちを傾けよう。

 1メートルもの巨大な魚を背負った美少女ロボットの物語を読みたくないか? 読みたいんだったら松山剛さんの「雨の日のアイリス」(電撃文庫)を開きたまえ。口絵にて描かれる1メートルもの巨大な魚を背負ってお買い物から帰るアイリスという名の美少女ロボットの姿に、誰もが笑みをこぼすだろう。もっとも。そんな笑みもやがて哀しみに変わる。ロボットの権威として知られる女性科学者の家に、彼女の死んだ妹のような立場で住んで身の回りの世話をしていたアイリスを襲った突然の悲劇。そして得られた新たな境遇の中で、アイリスが道具としてのロボットが辿る過酷な運命を知り、一方で自分が、あるいはロボットが何のために存在しているのかを自問する物語を通して、己の存在する意味というものを改めて深く考えさせられる。

 さらに起こったより過酷な境遇を経て、アイリスが得た境地、そして読む者たちが得た心理は、連鎖となってこのひとりよがりの世界の中に己を見て周囲を見渡し遠くを見据えて歩き動くための勇気を、力を与えてくれることだろう。かつて虐げられた怪獣たちの哀しみを「怪獣工場ピギャース」という物語の中に描き、差別なき世の幸福を探ろうとした作家が、ライトノベルの本流とも言える電撃文庫でも、弱者への視線を失わず、正義への憧憬を保って描いた可愛くて、それ故に残酷で、だからこそ響いてくる物語。そんな「雨の日のアイリス」を手がかりに、キャラクターを持ち物語りを失わずメッセージを秘めたストーリーをこれからも紡ぎ続ていってもらえれば、ラブでコメディでサキュバスで妹に一辺倒となったライトノベルの世界にも、新たな道がきっとひらかれることだろう。とはいえしかし生魚は背負っちゃ服が生臭くなるような。


【5月6日】 だいたいがひとり者で友人知人も少なく、飲み会といった類に呼ばれることなどほとんど皆無の胡乱な人間にとって、仲間内でわいわいとやって楽しむ焼肉という料理はまったくもって縁遠く、カルビだミノだハツだといった肉やら内臓やらはもちろんユッケだユッケジャンだといった焼肉屋でしか供されない料理など、口にすることなど過去にもなければ現在にもなく、未来においても永劫近くないとすら予想される身の上として、世間でこれだけ多くが焼肉屋なるものへと通いそして、ユッケなるものを食していたということがひとつには驚きの大きな対象となっているというか、そんなにユッケって人気の食べ物だったのか。世間はまだまだ広いなあ。

 そもそもが肉なんて家で焼いて食べるなんてことはまずなかったし、この先収入がジリジリと目減りしていく可能性の高い中で食べる機会はますます減っていきそう。外でも例えば松屋の牛焼定食であったり、ペッパーランチのステーキであったりといったところが口にする肉料理の最大到達点で、それでどうなるとも思えないだけに今のこの世間に広がる不安を、わが身の者として共有するのはちょっと難しそう。それが高いか安いかすら判断できない身の上で、もしも何か書けと言われることがあったらそれは無理だから1度高い焼き肉というやつを、たらふく食べさせてくださいお願いしますと言いたいところではあるけれど、そうしたことを書くこともおそらくは絶無なんでやっぱり肉は遠い彼方の虹の如く。煌めいてそして消えていく。嗚呼。肉食いたい。

 和田かわいいよ和田。ばらのまち福山ミステリー文学新人賞という何とも優美な名前を持っていながら不穏さも合わせ感じさせる新人賞から登場した、一田和樹さんの「檻の中の少女」(原書房)をようやくやっと読み終えたら和田という女性が美人でスレンダーなのに肉感的で口調がぞんざいで頭良さげな上に部屋が汚いといった役所で、もうとてつもない可愛さを感じてしまう。踏まれたいなあ。いや違う、別に和田が主人公ではなかったこの小説は、働き盛りでリストラされて妻も急死してしまった息子が悩んだ果てに自殺。けれども年老いた両親は、息子が登録していた自殺サイトを経由して誰かに殺されたのだと言い張って、主人公でサイバーセキュリティのコンサル君島に調査を依頼する。

 居丈高でわがままなクライアントの父親と、その妻で楚々として理知的な母親の対比の中にちょっとした味を覚えつつ読み進めていくと、やがて調査を進めていった君島の前に、檻から放たれた”少女”の暗い情念といった者が見えてきて、何というか人というのはここまで徹底できるのかといった戦慄を憶える。いやあ凄まじい。何がばらのまちだ、って別に福山の代名詞とは関係ないけど、そんな福山の名前に不穏さを与えるに相応しい小説になっている。著者の出自とそれから主人公の仕事なんかから、当初は最先端のテクノロジーを網羅して描かれる、サイバーセキュリティの攻防戦かと思ったけれど、本編はもっと根源にある、人のさまざまな情念を描いて、それにまきこまれ翻弄されるサイバー探偵を描いた人間くさいストーリーだった。君島これからどするのかねえ。続きもあるみたいだけれども果たしてどんな展開になっていくのか。その際にはもっと和田かわいいよ和田を。結局そこかい。それ重要。

 絵師について考えるならやっぱり“本家”の絵師も見ておくかと東京国立博物館で始まった写楽の展覧会に行ったら女子高生がいっぱいいたけど見るでもなくベンチに座って喋ったり、平成館の1階にあるソファーにすわって休息したりとお疲れモード。ソファーって何しろそんなに座面が高くないから自然、膝がやや上を向く形となってそこに女子高生たちが膝上のスカートで居並ぶと眼に入る光景はとってもフラッシング! もちろん見えはしないけれどもそんな懊悩を喚起させられるシチュエーションはなかなかに心をざわつかせる。あるいは観察し続けていれば時折はといった期待も浮かばないではなかったけれども、そこまでやるといろいろ問題もありそうなんで写楽の展示室へと入って写楽を見物。つまり写楽って第1期だけあれば十分ちゃう? ってふと思う。

 いわゆる綺羅刷りの大首絵。23枚だかが一気に出てそれで世間をあっと言わせたのが歴史として語られているけれど、そりゃあ世間もあっと言うわなってインパクト。画面をいっぱいに埋め尽くすくらいにデカい上に正確な顔がどかんと来られちゃブロマイドもグラビアもなかった時代に役者のファンはこぞって買って部屋に貼るよなあ。けれども2期に入るととたんに全身を描いた細長い絵になって、顔立ちは分かりづらくなった上に色だってきらびやかさから遠ざかり、どこかスケッチめいた雰囲気になって顔が命の役者のファンは、それで良いのかって思いそう。3期ですこし大首が復活するけど絵に迫力が乏しくなっててやや沈滞、そして4期は少なくそのまま名を消し何処かへ。どうしてそうなったんだろうとは思うけれどもあるいは最初の1期だけ誰か別人で後に続いて描けなくなったのか、勘違いした蔦重が妙な方向へと引っ張っていってスランプに陥らせたか、等々いろいろ考えたくなって当然かも。とりあえず阿波のお抱え能役者、斉藤十郎兵衛という人物が写楽だというのが定説になっているけど、それにしてはの変わり様は、やっぱり見ていて不思議に思う。

 長くやっていれば、そりゃあ持ち味って変わるだろうけどこれだけ短期間で変わってしまうのも異常。展示されてた喜多川歌麿なんかはどれをとっても歌麿って感じの華美さ妖艶さでもって女性を描いてた。だからやっぱり写楽っていっぱいいたかただの素人で最初のインパクトだけで売ろうとしたけど続かなかったか、何か曰くがあった人物だったんだろうなあ。描き続けるって意味では「絵師100人展」に出ている大槍葦人さんなんか、その昔にハドソンが主催していたか何かのトレーディングカードのイベントで配られたか売られたかした「北へ…」のカードにサインをしていたような記憶があるんだけれど、それが本当にあったことなのか、記憶のねつ造なのか確かめられないもののともあれそんな当時、まだNOCCHIって名前で活動していた時と、テイストには共通するものがあって安心できる。長く活動してしっかりファンもいる絵師さんの、それがひとつの特徴なのか。ゲームそのものの人気から絵師に波及する人気と、絵師そのものが持つ強さがゲームも引っ張り起こる人気。そんなものがあるのだとしたらそっちからも見ていかないと「絵師100人展」の深さって、分からないかもしれないなあ。8日までやっているんでまた行こう。トレーディングカードにサイン入りも出たことだし。


【5月5日】 ドコモの日でないことは確かだ。明け方にまず「聖痕のクェイサー2」を見たけどサーシャが寝たきりで楽しくない。あと白いの飛びすぎでよく見えない。かといって展開がそれほどなかったんでテレビで見るには少し時間が間延びしてしまったかも。すべてがスルーとなったパッケージではきっといろいろなものが見えるんだろう、ピンクだったりほんおりと赤く染まったりした突端とか。そこまで考え練り上げ絵を描いているっていう監督の、こだわりを心行くまで味わいたかったらパッケージを買って高解像度のテレビモニターで巨大にアップして見て観察したまえよ。僕はそこまででもないか。

 そして「Steins;Gate」のアニメーションはIBN5100がるかくんの神社からラボへと運ばれてきたところにいたMTB乗りの鈴羽ちゃん。その目つきそのものごしの凄みある描写に制作を担当しているホワイトフォックスの作品への入れ込みようってのも伺える。この娘が実は……でそして……なのは原作ゲームのノベライズを読んだ身にはもう見えているんだけれど、それを知ってなお感じさせるものがあるってところにこの作品に描かれた、キャラクターたちのドラマなり設定の深さってものが伺える。見てから読んでも読んでから見てもいいから手にとろう海羽超史郎さん著のノベライズ版「Steins,Gate 円環のウロボロス」(富士見書房)を。ゲームはどのタイミングで何をやれば良いんだろう?

 むっくりと起き出して向かうは秋葉原。来るのは2日目で内覧も含めて見るのは3度目となる「絵師100人展」の日替わりチケットを買ってすんなに、中に入るとまあそれなりの人混み。これが無料の原画展なら大混雑していて当たり前かもしれないけれど、1000円を頂いてなおこれだけの混みようならイベントとしては成功の部類に入るんじゃないのかなあ、現代美術の展覧会なんてもっともっと人がいないぞ貸し切りだぞ。公開されたばかりの鬼が神様だとかいうアニメーション映画とどっちが人が入ってる? って比べるのはおよしなさい。ともあれ作品をじっくりと見られる一方で、ちゃんと来ている人たちの何が好きだとかこれが良いとかいった会話も聞けた今日午前。これがあるから展覧会には直接足を運ぶ意味がある。

 いろいろと見てやっぱり気になったのがバーニア600さんって人の描いていた駅舎の風景。調べると南井大介さんの「ピクシーワークス」で表紙を描いている絵師さんで、それは戦闘機を組み立てる少女たちの話だったけれどもこちらは鉄道の駅舎で定期を取り出しながら改札を抜けようかどうかしている2人の制服の少女たちが、下から見上げるような構図で描かれている。その駅舎の空間の把握の仕方も良いし、壁にはりつけられた様々な琺瑯の看板のそれっぽさも良い。細かく見ると1人の女生徒が鞄からウサビッチのマスコットをぶら下げていたりして、否かだけれど今の少女のとある日常を、切り取り活写しつつ空間に収めた絵だと分かってくる。パラパラとめくっても目に留まる絵だけれど、じっくり見るとやっぱりいろいろ発見、あるんだなあ。これもあるから現場通いは止められないのだ。

 全国の萩尾望都ファンよ、そして全世界の阿修羅王ファンよ、渋谷パルコパート1の7階で開催中の「萩尾望都の世界展」へと今すぐにでも駆けつけよ。東京、名古屋と福岡で開かれたような原画の展覧会ではないけれど、まとまった数の複製原画が飾れていてその筆致を目の当たりにして確かめられる上に、展覧会でしか販売されない版画の中に、今展から初登場という「百億の昼と千億の夜」の阿修羅王が描かれた版画を見られる。なるほど「百億の昼と千億の夜」の阿修羅王は、1年ほど前の東京での展覧会にも出ていたけれど、その時は阿修羅王の習作を版画にしたもだった。どちらかといえばスケッチ的な絵で、雰囲気は出ていても漫画で見てその凛々しさ美しさに興奮した阿修羅王とはちょっと違ってた。

 今回は、「百億の昼と千億の夜」のイメージアルバムとして作られたLPレコードのジャケット用として描かれた、阿修羅王が立ち周囲を像が囲んだ帝釈天との対決を写した1枚の絵。漫画にも描かれていた名シーンを、改めて描き色を着けたその絵には、戦闘美少女阿修羅王の凄みがにじみ出る。線もどちらかといえば漫画的な線になっているから漫画で阿修羅王に惚れた人は買わずにはいられない。胸元だってばっちり。そして細くて長い足も。チャリティーということで寄付もできる1枚。12万6000円は高いけれども50枚しか作られず、そして他の同じサイズの物に比べても若干の安め。何より描かれたモチーフが阿修羅王ならもうこれは買うしかない。ってことで買ってしまって後で支払いに四苦八苦。でも仕方がない、萩尾望都さんだから。そして阿修羅王だから。きっと大勢いるだろう同好の士は渋谷パルコに行って見て興奮して買おう。

 チェインさん格好いいチェインさん可愛いチェインさんぐでんぐでん。内藤泰弘さんのシリーズ「血界戦線」第3巻では魔眼じゃなかった神々の義眼を持った弱虫のレオくんが、真っ当な地域から来たおっさんヤクザに財布を巻き上げられて泣いているところを、見捨てたかに見えた空飛ぶ人狼、チェイン・皇さんが実はひっそり現れて、横暴なヤクザを力ではなくって酒によって潰しにかかって見事に撃退、したのはいいけれども敵も去る者、相当な飲み手だったみたいで人狼のチェインさんをげろんげろんなところまで追いつめていたみたい。折角の美女も台無しなシーン。でもその時の格好がすぽぽんに近いところがまた可愛い。あそこまでチェインさんを追いつめた敵に喝采。でもきっともう生きてちゃいないかな。それともヴェデットさん家のペットになっていたりするのかな。

 そんなチェインさん、スレンダーに見えて、あれで結構な谷間の持ち主ってのも良いよなあ、パンツスタイルのスーツの上着を脱いだら凄いんです系。というかスーツの時からスタイル抜群。にょっきりと脚をのぞかせたタイトスカートの美女よりも、実はこうしたルックスの方が最近は美麗に見えたりするんだよなあ。趣味変わったか自分。いくらタイトでもすその広がったスカートよりも、きゅっと細くなっているパンツスタイルの方が実はヒップのラインもくっきりと見えて、そして中に着けてるもののラインも外にのぞきやすいってことにようやく気が付いた。直接は見えないという気のゆるみからなのか、そういうところには案外気を遣わないものなのか、透けさせながら歩いている人も多かったりするからたまらない。

 スティーブンさんは何か寂しそう。心緩そうにも安心できないあの界隈。それならいっそレオくん狙えば楽なのにそうはしないのはスティーブンがそれだけクラウスとライブラの正体に近い場所にいるってことなんだろう。KK姉さんって前にどんな活躍していたいか憶えない。すごいパンチ、ではないただパンチ・改を放つドグ&デルドロのコンビも初登場ながらすごいインパクト。こんな奴らばっかりの中で普通に仕事をしているレオってやっぱり凄いのか。それを言うならザップだってあんまり役だってなさそうだけれど、アリギュラの車からすっ飛ばされてチェインさんにすくい上げられたレオを拾ったネットって、ザップが用意したっていうか作り出したものだからやっぱりそれはそれで役に立ってはいるんだろう。そんな「血界戦線3」の巻末に今を考える漫画も掲載。でも最後まで緊張を保てないところが内藤さん、か。脆弱脆弱脆弱。いやその葛藤がバネとなってもっとすごい漫画を生む。次はだからチェインさんがもっと滅茶苦茶にされる話を。K・K姉さんでもOK。


【5月4日】 だから、言ったではないか、トル・ホグネ・オーロイ選手を働かせないためにはスタジアムの天井を身長よりもひくい2メートルくらいに抑えておけと。とはいえそこはホームのフクダ電子アリーナだけあって、巨大なオーロイ選手がジャンプしても、天井に頭が当たらないよう屋根をすっかり取り払ってあったから、伸び伸びとプレーできたようで途中からの出場ながらもフィードされたボールをコツンと頭で落としたところに深井正樹選手がフリーでいて一閃、ボールはゴールへと突き刺さって我らがジェフユナイテッド市原・千葉が1点を追加し前半のフリーキックからの得点と合わせ2点を奪い愛媛を下してリーグ2位をキープする。1位は栃木、負けないなあ。

 とはいえオーロイ選手が入るまでの試合運びはお世辞にも褒められたものではなくって、サイドから突破しようにもフォローとかなく、かといってテクニックもないからどうしても詰まって戻す繰り返し。中に戻してはたくなり、持ち込むなりしようにも、トラップがあまり足に収まらず慌てている隙に詰められ奪われ反撃される。夜に見たバルセロナのパスワークがあまりに完璧で、ピタリと足元に収めコントロールして見せていたのと比べると、それでも同じサッカー選手かって思えてくる。一緒にするな? でもトラップってドリブルとかシュートといったものより以前の基本じゃん、それがやっぱりできて次のプレイにつながることを、日本はバルサの試合から見るべきだと思うなあ、メッシのすごさなんかじゃなく。

 つまりはやっぱりオーロイ選手頼みのジェフ千葉がカードでオーロイ選手不在の時とか、どう落とさずに戦えるのかをこれからの注目点として見て行こう。あるいはあるいは出場していても働かさせない手段とか、愛媛は蜜柑と蛙で挟んでたっけ、ってそれはないけど。でも一平くんだったらそのジャンプ力でオーロイ選手の上をいってくれるかもなあ、飛んだとたんに肉離れって説もあるけど。そんな一平くんがフクアリに見参、試合前にあちこちにあらわれ盛り上げてくれた。アウェイに乗り込んできて人気のマスコットって珍しいかも。これが人徳、ならぬ蛙徳。でも担架で運ばれない一平くんは一平くんじゃないよなあ、って気も。少しは鍛えてきたのかな。

 ゲームでは遊んでいる時間もなく、持ってはいるけど果たして動くのかが判然としないXbox360対応だったってこともあってスルーしていた「Steins,Gate(シュタインズゲート)」だったけれど、放送が始まったテレビのアニメーション版を見て牧瀬紅莉栖ことクリスティーナ(逆だよ)のツンぶりとか、漆原ルカ子のあれ本当に付いてるの的興味も膨らんで、先が知りたくなって読みはじめたら、これがなかなかに面白くって超絶分厚い小説版を一気に読了。その存在が幻となりかかっていて心を痛めていた海羽超史郎さんが、多分相当に久しぶりに執筆していたことも上乗せになって、物理的な用語も満載の展開を追いかけ理屈をかみしめながら、果たしてそれからどうなって、そしてどうしようもない状況をどうやってどうにかするのかと、ワクワクしながらページをめくり続けて幾時間。

 何度やっても世界線を大きく超えられないという、まるで悪夢を見せられているような畳み掛けるを読んでいて、こいらまでもうどうなってもいいやと思わされ、ただれかかっていたそんな刹那。岡部倫太郎ことオカリンこと鳳凰院凶真が気づいたひとつの壁を突破する方法が、次の別の壁を示してオカリンを懊悩させるその選択を前にして、さて自分だったらどちらを選ぶのかをふと考える。そりゃあもちろんルカが本当は女の子だった世界を選ぶに決まってんじゃん、というのはべつに選択には入っていってなくって、それは個人的な関心事にすぎないから脇に奥とずるものの、とはいえちょっぴり考えるなら、あれは男の子だから良いという心理も働きつつ、かといってそれのみってのも味気ない。

 いっそ元は男の子だったけれどもふとしたはずみで女の子に変ってしまって、それを当人は喜びつつ悩みつつ、誰かに気付かれるんじゃないかと悶悶としていることを、オカリンだけは知って声をかけて安心しろと諭すとも、分かっているぞと脅すともしないで眺めているという倒錯的なシチュエーションなんてのも悪くはないかも、なんて思ったけれどもそれはやっぱり本質ではないのでまたの機会に。そして問題の択一で、どちらをとなった時、自分だったら後者かも、とか迷いそうな場面でオカリンがどちらもだ! と虚勢でもいいから張ってラボメンを鼓舞するのかと思い来や、どちらかしか選べないと思い込んでしまうところはやっぱりただの人間だったんだと、少しだけホッとする。万能で全脳なんて物語の中だけの存在なんだから。

 それでもそこは物語世界で主役を与えられた男の子、降って湧いた天祐をここぞとばかりに利用して、択一の壁をぶち破るのみならず、世界に与えられた壁すらもぶち破って見せるところがなんというか格好よ過ぎるというか。まとっていた鎧をいったんはすべて捨て去り、ぎりぎりまで自分をさらけ出してみせてなお、心に残っていた強い思いを本当の力に変え、新たな、そして本当の鎧として再びみにまとい、立ち上がる姿はやっぱり見ていて惚れ惚れする。ストーリーは全部分かってしまったけれど、そんなオカリンの迷い何度も繰り返し、そして諦めかけてそれでも立ち上がる姿に感嘆し、誰もが幸せになれる道があるのかを確かめるために、これからのアニメを見て行くことになるんだろうなあ。

 それともアニメはアニメで別に向かう? それもまたマルチに広がるゲーム原作であり、可能性は無限というみらいへの希望を描いた物語らしいかも。ゲーム原作でなかったら、SFの小説で賞とか挙げられ大評判になっても不思議はなさそうな奥深さ。多分相当に複雑で難解な作品を読み解き、小説の方に描いて破綻させず、最後まで読ませてしまう作者の海羽超史郎さんお力に改めて敬服。「ラスト・ビジョン」からこっち、しばらく音沙汰が無かったけれど、時系列を錯綜させ、科学的物理的解釈を論じて読者を仰天させたあの才気が、時を経てなお一層の充実を見せているといったところ。この勢いで本格的なSFにもいって欲しいものだけど、ハヤカワあたり、動かないかな、どうなのかな。


【5月3日】 男子っぽいビジュアルと性格を持った女子と、可愛らしくって性格も良さそうでおじさん相手に自分を売ったりしている女子と、美形で女子から大人気なんだけれども実は女装に興味がある男子とが出てくる峰浪りょうさんお「ヒメゴト」って漫画を読んで、なるほど男子っぽい女子が実はそんな自分にどこか収まりの悪さを感じていながら、一緒に進学して彼女を男子っぽいからをまとわりついてくる男子に引っ張られ、前からの自分を崩せずにいる設定なんかに人間、他人に良かれと思ってやるなり自分の思い入れだけをぶつけなりしていても、それが開いてのためになっているとは限らないという現実を、ちょっと感じてコミュニケーションが苦手な身に、なおいっそうにプレッシャーを憶えてみたり。傍若無人になりたいなあ。

 起きて電車に乗ってとりあえず秋葉原で降り、ラジオ会館を見上げてもとくに人工衛星はぶつかっていない様を確認してから、秋葉原UDXのアキバスクエアで今日か始まる「絵師100人展」の概況を確認。漫画にゲームにイラストに活躍する現代のイラストレーターを浮世絵時代の絵師になぞらえ、今から未来に向けて世界に羽ばたく日本のクリエーターという位置づけて紹介してみた展覧会。とりたててキャラクターの絵がある訳でもなく、有名かというとその筋ではといった人が多い展覧会なだけに、どれくらいの人が来るか予想もできず、あるいは「魂ネイション」みたいに長蛇の列が出来てごった返して大変なことになっているか、逆に予想に反して閑散として哀しいことになっているか、確認にいったら午前9時と開場の1時間前で、入場待機列はだいたい200人といったところで、これくらいならまあそんなに大混雑とはならず、それによってイベントの評判が地を這うこともないと安心して、徒歩で「SFセミナー」の会場へと向かって受け付け。

 そして1時間目の上田早夕里さんの話なんかをとりあえず。昨今の震災という事態を受けて、まるで将来を予見していたかのように、地球がぐちゃんぐちゃんになっていく内容が描かれている「華竜の宮」(早川書房)を書いた作家として、この情勢をどう見ているのかが知りたかったけれどももっぱらそちらへとは話は向かわず、むしろ登場しているキャラクターたちが、ひとつの進化の形を示す、その描かれ方がどういうところから生まれてきたのかって話になって、それもそれでなかなかに興味をそそられる。生き物ってのは気持ち悪いものなんだとか。あとは外国だったらこういう小説で主人公は組織の枠組みを前提に正義を考えるところを、日本人だからなのか善でも悪でもない中庸さのなかで自分の考えを貫こうとする感じになったんじゃないかといった話とか。そう思うとこれを翻訳して外国の人に読ませてみたくなって来た。それともすでに翻訳とか始まっているのかな。

 抜け出して実際に絵を見るために「絵師100人展」の場内へ。すでに行列も減って20分くらい入った会場は、あいうえお順に100人の絵師たちの作品が並べられてなかなかに壮観。これが人気の美術館の類だと人垣ができて頭越しにようやく作品がのぞくところなんだけれども、順繰りに入れているからかだいたいの絵の前で立ち止まって間近に寄って、細部までじっくりと見られるようになっていたのが有り難い。図録でもきっと見られるんだろうけれど、それだとやっぱり質感なり雰囲気で差異が出る。ましてやどれもなかなかの大きさで出力されている作品。ポスターサイズのものもあるだけに、見るならやっぱり現地で実物を、見てもらったら良いんじゃないかと思ってみたり。

 それにしてもやっぱり良かったいとうのいぢさんの作品は、サイズも大きいんだけれどもそこにしっかりと男性なのか女性なのか、判然としない美人が描かれ牛若丸だか何かってな和風のテイストを醸し出している。背景も和風の紋様風。それを今の画風の中にしっかりと入れ込んで描けるところに、このアーティストが持つポテンシャルがかいま見える。それから大野哲也さん。獣耳で眼鏡っ娘でニーソックスといった記号をぶちこんだ上に和風のオブジェクトもてんこ盛り、もうこれでもかって作品なんだけれど見ていて不思議とガチャついた感じを受けない。計算されているんだろうなあ。あるいは天然の天才が働いているとか。うたたねひろゆきさん。ベテランの有名人のこれは原画だったみたい。巧い巧い。原画では弘司さんの絵も原画。羽を広げた正面からの美女。散らされる金色は画材がそのままはりついて立体になっていた。誰もが出力を展示する中で、アーティストの筆の技に触れられる貴重な2枚。見落とすな。

 異色だったのが岡崎武士さんと高橋慶太郎さん。「精霊使い」の岡崎さんが寄せたのは何と幽霊画で、ほかが極彩色だったりカラフルだったりする絵が多い中で、黒と白をベースにした美女の幽霊の絵を寄せて、そこだけ空気がピリッとした感じになっていた。浮世絵の幽霊画というよりは、円山応挙とかいったあたりで、グロテスクさではなく見た目普通の人間なんだけれども表情やしぐさの中に情念をこめて、見る人に切なさや寂しさを感じさせるといった作品。あるいは上村松園さんの幽霊画にも近いか。そして高橋慶太郎さん。「ヨルムンガンド」の人なんだけれども制服姿だったりする美少女が、銃器を手に取り刀をもって笑いながら立ち向かう絵は、他にもやっぱりあった日本刀美少女たちとは一線を画し、エキゾチックさが海外で捻られたものをもう1度、日本の本家が描き尚したような倒錯があって面白かった。これぞ本家。そして真打ちといった赴き。凄いなあ。

 初音ミクで知られるKEIさんの作品もあって、なるほどKEIさんといったタッチなんだけれども「日本人として生まれ、日本人として」といった感じのタイトルと、トランプの絵札みたいに上と下に伸びたキャラクターの闇と光めいた対比から、この国に根付く善と悪の二元論では割り切れない、混沌とした中に人はどちらにもなるし、どちらでもあるんだといった感じを味わいつつ、そんな自分たちに自信を持って生きていこうって気持ちを抱かされる。そういうテーマだったかはともかく、あの未曾有の事態をくぐり抜けた心には、そんな気持ちがわいてしまう。これからもきっと、ものの見方にそんな影響が出てくるんだろうなあ。ほかにも多数の気になる絵。画集で見返すことも可能だけれどもやっぱり大きい絵でじっくりと見たいもの。8日までだからまた行こう。チケットも絵師が日替わりらしいし。今日は西又葵さんでした。明日は誰だ。

 戻ってSFセミナー。ミリタリーSFはまるで読んでないので話だけ。そうかSF的といより軍隊のエクストラポーション的な小説なのか。それでも女子がつくのは格好いい男が多いから。なるほどその線を狙えば女性ファンがいっぱいの作家になれるのかな。そしてオンラインで始まったSFサイトの紹介。日本SF新人賞とか日本SF評論賞とか小松左京賞といった、SFの新人賞で出てきた人たちが新人賞小松左京賞の停止でさて、どうしようかと考え自分たちのサイトをつくろうと思い立ったらしい。なるほど自助努力。それに日本SF作家クラブという、歴史と伝統を持った団体が協力してくれるんだからSF的には言うことないよなあ。もっともそうしたSFの威光がどこまで響くかが悩ましいところなんだけれど。

 かつて存在した「SFオンライン」は、別に作家クラブとか関係なしに。おもしろいSFをもっと教えたいっていった熱意のもとに、小説だけじゃなくってアニメなんかも含めた広い視野からのSFの紹介があり、さらに小説の掲載なんかもあって、そこから野尻抱介さんの「沈黙のフライバイ」って傑作が生まれ、ライトノベルの人っぽい印象がった野尻さんの存在をSF方面に認めさせた、ってそんな経緯を記憶しているけれども、正しかったっけ。ともあれ当時、世に忘れ去られつつあったSFに、もこんなにすごいものがあると教え知らしめ広めた役割をSFオンラインは果たしてた。では「SFプロローグウェーブ」は? 新鋭たちが居場所を求めて作ったものであり、ここから新しい目が生まれてくる可能性は存分にある。だって認められた人たちが参加しているから。

 ただ、その成り立ち故か、SFというジャンル全体の称揚より先に、今の居場所を確保しようとする新鋭たち、あるいは重鎮も含めたSFの人たちの名前が前面に立ってしまっているようなところが、あるような気がしてしまう。そうした名前を媒介にしたSFへの誘いかけになっているあたりで、名前に依らない極上のエンターテインメントとしてのSF、あるいはSF的なものを求め探し楽しんでいる人たちに、どう映るのかってちょっと気になった。SFマガジンを読み、SFジャパンを読んでいて、NOVAとかアンソロジーも買っているSFに真面目な読者たちは見て楽しいかもしれないけれど、そうしたジャンルの外、すなわちSFジャパンが潰え、新人賞が中止となってしまった業界が、最も探り向かわなければいけない、エンターテインメントという沃野に開いているのか、開いているように見えるのか、といったあたりでいろいろと考えてみたくなる。ただでさえ出版が大変な時代。けれども面白いものは常に求められている時代に、その得意技をどう見せ、どうチューニングしていくかをアピールできる場として、新しいサイトも向かっていけば面白いことになるかも。そのために必要なのは何? 考えたい、って僕が考えることでもないけれど。


【5月2日】 はかせはかせはかせなのなのなの。はかせはかせはかせなのなのなの。という掛け合いだけでも楽しませてくれる「日常」は前回の割と静かめな展開から一転して割と賑やかなギャグの畳みかけがあった回で沈みがちな週明け前の気持ちに活を入れてくれたかそれとも疲弊を増やしたか。祐子と泉先生との絵による掛け合いのセンスずれまくりなビジュアルに目がチカチカして来たけれども、みおが描いたそれなりに格好いいはずの萌えな男子絵もやっぱりちょっぴり腐ってて目がグラグラ。どっちにしたって真っ当さから外れたそんな絵が、試験に出てこれはいったい何しているところ? と問われて答えられる生徒たちの方がやっぱり凄い凄い凄すぎる。麻衣はいったいどんな答えを書いたのかなあ。

 気がユルんだので録画してあった「シュタインズゲート」を4話まで一気に見たら自分が中学二年生っぽく思えてきた。あそこまで自分設定を押し通せる岡部倫太郎に感心。それにつきあう未来ガジェット研究所のラボメンたちも立派だけれど、癖はあっても普通の優秀なハカーなダルに比べると、トゥットゥルーとまるでネッサみたいな喋りをするまゆりは他に企みがありそう。そして冒頭で殺害されていたはずなのに生きてラジオ会館に人工衛星が突き刺さった世界を歩いているクリスティーナならぬ牧瀬紅莉栖にも、過去とかありそうだけれど彼女の場合はむしろスレンダーに見えてちゃんと出ているところは出ているボディスタイルに注目か。逆に巫女服な漆原るかはあんまり出ていなさそうだけれどこの場合、本来出ているべきところが出ていた時に受ける衝撃が激しすぎるんで出ていなくて良かったということで。もっこり。

 時間線が1つズレて始まっている世界か何かが舞台になっているっぽいストーリーの上で、そんな時間軸の秘密を探ってリアルワールドでの探索があり、ネットを通した情報収集があってその向こう側に、妙な陰謀めいたものが浮かんでいったいどこがどうつながっていくんだろうかとハラハラさせる。その点ではネットワールドと陰謀とが重なっていた「serial experiments lain」をふと彷彿とさせるけれども原作がなく、従って帰結も見えなかった「lain」と違って「シュタインズゲート」の場合は原作のゲームがあり、幻のライトノベル作家としてその動静が注目されていた海羽超史郎さんによるノベライズもあるからすぐにでも終わりを確認できる。問題はだからそれを読んでからアニメの進捗を追っていくべきか、それともアニメでハラハラとしてから小説で細部を確認していくべきかって所。るかの描かれ方とか確かめたいところもあるからすぐにでも本に行きそうだけれど、あれ、分厚すぎるんだよなあ、境界線上のホライゾン級、でもってなかなか売ってないんだ。どーするかなあ。

 あの時は家にいてニュースステーションを見ていたら何やらニューヨークの国際貿易センタービルが燃えているという話でそれならNHKだと切り替えた直後に2番手が突っ込むシーンが生中継されていったい何だこりゃと驚きそのままテレビに見入って一晩を過ごした記憶がある2011年9月11日。そして始まったアフガニスタンでの戦争と、それからイラクへの攻撃を経てイラクを支配していたサダム・フセイン大統領は捕まり処刑されたものの一方のトップとも言えそうなアルカイダのオサマ・ビン・ラディンだけは姿こそ見せても消息はつかませないまま幾年月、流れて最近はあんまり動静をきかなくなり、当初噂されていたように持病が悪化し身動きのとれない状況に陥ったのかと思っていたらここに来て突然の殺害報道。リビアでは同じようにカダフィ大佐を殺害しようとしてNATOが空爆を行っても果たせないでいた間隙に、10年の時を超えて甦ってそして消されたビン・ラディンというこの状勢が、世界にとっていったいどんな意味を持つのか、考えるとなかかなに奥深いものがある。

 たぶん血で血を洗うような混乱が世界を包むかもって不安になったけれどもそうした事象は局地的には起こりながらも大国の存在を揺るがすような事態にまではまだ至っていない。とはいえたとえばアフリカで、あるいは旧ソ連の周辺では戦いが起こり大虐殺に近いことも起こって大勢の死ななくて良い人が死んでいる。それが911と直接結びつく訳ではないけれども、911をもたらした世界のきしみの延長でありまた911が何かを加速させたその現れであると言って言えないことでもなく、少しばかりたがが緩んだ世界って奴がこの10年、続いてきたって感じがする。ビン・ラディンの死亡はそんな世界の状況を、大きくさらに突き動かすかというと、これも局地的な報復めいた事態はもたらすかもしれないけれども、むしろやっぱりその存在が10年にわたって保たれてきたという世界の枠組み、すなわちとてつもない大国はあってもその国を護持するまでにはいたらない陰で、いろいろな国なり勢力が国内問題として紛争を起こし国際問題として騒動を起こしては、まとまらない状況の中でジグジグとした騒乱が、続いて多くの人たちを脅かしていくことになるんだろう。終わりはもうない。

 何でまた急にと思いそれからテレビ西日本がどうしてこの原作をと思った映画「魔法少女を忘れない」を見に行ってまず思ったこと。しなな泰之さんの原作小説「魔法少女を忘れない」(集英社スーパーダッシュ文庫)の強いファンとして言うなら、原作が持つSF的で硬質な世界背景をまるっきり削ってしまって、生まれながらに理不尽な運命に翻弄される暗喩としての”魔法少女”がたどる運命の切なさを、描くことなくオミットしてしまったストーリー上と設定上の改変は余り納得の行くものではない。ラブコメ全盛のライトノベルにあって萌え要素を満たしつつも世界を描き社会を描き人間を描いてのけたライトノベルとして貴重な1冊が、その全貌を見せることなく映像化されて伝わってしまうことへの残念さにはなかなかのものがある。だから言うなら映画は原作とは別物として認識するべきなんだろう。

 その上で言うなら、幼き頃に戯れても、育つに連れ忘却する存在を観念として現す”魔法少女”への親愛を、高校生たちの青春の日常に描いた映画としてこの実写版「魔法少女を忘れない」にはそれで見るべきところはやはりあると理解する。賑やかに語らいふれ合う若い人たちの姿はどうにも眩しい。青春の映画に妙につきものとなっている虐めはない。暴力もない。優しさの園は心地良い。それだけに忘却という仕打ちから醸し出される無念さ、痛さにも強さが出るって言えるだろう。何より眼鏡っ娘で委員長風キャラでなおかつ水着になってお腹をたっぷり見せる森田涼花さんのビジュアルが、大勢の男子の心をときめかせて話さない。あの海辺のシーンを見るだけでも映画「魔法少女を忘れない」は存分にお釣りが来る。自分的には。もちろんみらいちゃん役の谷内里早さんも父親に似てかどうなのかとてつもない美少女。素晴らしい。目に刺さる。

 そんな面々が演じてのける、青春は過ぎ去って忘却されるものだという当然を当然としないために何かできることはないのか、といった問い示して答えを教える映画があるいは「魔法少女を忘れない」なのだとしたら、その目的のための原作からの逸脱と見てうん、ここは理解を及ぼし森田涼花の水着姿に喝采を贈って映画の公開を讃えるしかなさそうだ。魔法少女がどうして忘却されるのか、その先に来るのは何か、そしてまた現れ得るためには何が必要なのかをあまり示さず惑わせるところもあるけれども、そこは双方の思いが忘却という残酷に買ったのだと理解するしかないのかも。というかあの谷内里早さんが真正面から見据えて「おにいちゃん」と行ってくれるんだから、忘れるはずがないじゃないか。自動的にトミーがお父さんとしてくっついてくることはさておいて、その強烈なインパクトを持った顔立ちを心に刻ませたことによって映画「魔法少女を忘れない」は、何らかの記憶を伴って残されることになるだろう。


【5月1日】 猟奇だけれどもどこか切ない物語、って感じだった牧野修さんによる「大正二十九年の乙女たち」(メディアワークス文庫)は、15年で終わっている大正が29年まで続いている時点でひとつの架空の日本が舞台になった物語ってまず分かる。計算でいうなら昭和15年あたりってことは、正しい歴史だと中国ですでに戦争は始まりそして太平洋戦争へとの突入を翌年に控えて、日本が気分だけなら戦意昂揚のピークにあった時代。それが物語では、まだ文化なんかをすなる余裕があって、女性たちが女性のための美術学校に通って絵なんかを描いていたりする。その意味では女性の参政権が問われ始めた現実では大正末期の雰囲気が、そのまま続いて盛りあがって参政権が本当に認められてしまったって感じ。大正という元号が続いているのがぴったり来る。

 そんな世界のそれも逢坂という場所を舞台にした物語は、4人の少女たちが芸術について学び考えている最中に起こる猟奇な事件が、それもまた芸術のひとつの形を問うて世間に挑戦的な態度を示し、芸術をたしなむ少女たちのみならずすべての芸術活動への敵視となって盛りあがってしまって、芸術に携わる者たちを、肩身の狭い思いの中に入れ込んでいく。本当に芸術は悪なのか、それとも。といった問いはなるほど古くて新しい問題ではあるけれど、それはどんな表現にも、あるいは人間が生きてする行動について言えること。それを狂気の中に凶器として用いれば、経済だって政治だって人に害をなす。一方で情熱と探求の気持ちで取り組めば、芸術は遍く人を導き照らす。

 結局は人に関わる問題を、芸術という表現に偏らせて押し込めてしまい、そして起こった事件の責任を被せるのはなるほど今の、漫画は悪といって糾弾し、排除しようとする風潮とも重なってくる。そして、物語では芸術が排除された果てに来る、どうにもきな臭い雰囲気が、翻ってこの世界から漫画やエンターテインメントといったものが、公序良俗というお題目の下に排除されていった果てに来る、何かを想像させる。なるほど猟奇は猟奇として、そして耽美は耽美として描きながらも、奧に芯棒を通して読ませるところがベテランの牧野修さんといったところか。そして女性が手に銃を取って戦場へと向かうようになった果てに来る世界の姿、日本の様子、そして芸術の未来がいったいどんなものになっているのかを、書いてくれればさらに戦慄も走るんだけれど、そいういうところまでは踏み込まれていない物語。だから想像するしかない。悲惨さの果て、ちゃんとまた芸術が芸術としてひとり立ちし、認められ讃えられている世界がちゃんと訪れていることを。

 福田繁雄さんって実際に見たことがあるかと調べたら、どこかで何度かすれ違っていたことがあったけれども、既に亡くなっていたということは、うっすら知ってはいても2009年とつい最近に亡くなっていたとうことに、改めて思い至って時代もどんどんと過ぎ去っていくものだなあと感慨。そんな福田さんは、日本におけるグラフィックデザインに一時代を築いた人で、亀倉雄策さんを先達として田中一光さん青葉益輝さん粟津潔さんといったお歴々の中にあっても、そのポスター作品そのものよりは、どこか騙し絵的なデザインだったり立体物から来るアーティスティックな感じでもって、強く印象に残っていた。前から見るのと横から見るのとでは違う彫刻とか。

 そんな福田さんの話が、NHK教育の日曜美術館でやっていたんで見たんだけれども、お弟子さんにあたる日比野克彦さんはそれとして、もう1人ゲストとして登場したカメラマンの梅佳代さんがすさまじく強烈でひっくり返る。前に並ぶ千住明さんだの日々野さんだのといったアートや音楽の世界の先達を前に物怖じせず、福田繁雄なんて知らないといい出てきた作品の感想をど正面からいろいろ言ってのける感性には、下心だの腹芸だのといったものはまるでなし。その意味では純粋なんだけれども、あまりに純粋過ぎて見ているこっちがハラハラして来た。まるで子供といったその口振りから、子供に迫ってあっけらかんとした表情なんかをとらえる作品が出てくるんだろうなあ。とてもじゃないけど真似できない。っていうかしたくない。外でのロケならまだしも撮らないスタジオにまでカメラを持ち込んでみせたのには何か理由があったのか。うーん。分からない。とりあえず人間として要注意していきたいもの。作品は? どっちでも。

 アリョーシャもスレンダーだけれども新たに登場したアリョーシャ級の殺し屋も、スレンダーどころかつるぺただったりした近藤るるるさんの「ヤングキングアワーズ」連載中の「アリョーシャ」は、前の号に続いて銭湯を舞台にした戦闘者。すっぽんぽんではいったい襲ってくる敵にどう立ち向かえば良いのかと、シャンプーを飛び散らせて試していたアリョーシャだったけれども、ナイフを使う敵にはやはり素手ではかなわず、手に持ったタオルをペッタンとさせ、そして目の前にある鏡を割って取り出し攻撃へと転じた模様。どこにだって何か武器になるものはあるってことで。とはえい敵もそのまま逃亡、って着替えるの早すぎ? ともあれ現れた新たな敵が別のアリョーシャなのかそれともまったく関係ない殺し屋なのか、分からないけれどもともかく敵も決しておっさんばかりじゃないのが楽しい限り。次はどんな感じで現れるのかな。またつるぺたなところを見せてくれるのかな。上も下も。下って。CIAのエージェントは何か役にたっているのか。

 そして「ツマヌダ格闘街」は王子と空手家鷹羽との戦いに決着が。たった1つの型のそれも基本をまるで厭わず6時間、それこそ擦れた脇腹から血が滲むまで続けられるだけの真っ直ぐさがあって鷹羽は空手を極められたってことなんだろー。その強さ、圧倒的。主人公の八重樫ミツルは一方で、様々な開いての型を見に入れつつかわし返して勝つのがパターン。余りに強烈すぎる鷹羽を相手に、それも卓越した技術と体力の持ち主である王子ですらかなわず倒された相手にどー挑むのか。そこにドラエさんはどんなアドバイスをするのか、なんて辺りをとりあえず楽しみに次号を待とう。ちょっとドラエさんの麗しい姿態を最近拝んでないんで、そんな辺りを特訓の場面なんかで描いてくれたら嬉しいことこの上なし。隣の市から伏してお願いします。


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