縮刷版2011年4月下旬号


【4月30日】 再放送だと安心して見られる「続・夏目友人帳」は、龍の子だっけ辰未だっけが卵から生まれて育っていく話で何と可愛くいじらしいけど、育つとあんなに巨大になってどこかへと飛んでいく、そんな時にいったどんな被害をもたらすのかと思うとうーん、妙な卵は拾わないよーにするに越したことはない。もしもニャン子先生を最初に見ていたらやっぱり困ったことになったなあ。美少女を見せていたら姿形もそーなったってことかと考えるといろいろ疼いてくる所もあるけれど、そんなものを見せる相手は夏目にはいないのであった。レイコが見たら? ひっでえ性格の雛が孵ったかなあ。ガサツで口調も乱暴で。

 いやそれが魅力なんだと、なぜかケーブルテレビのコミュニティチャンネルでやってた映画「ラブコメ」を見ながら考えたり。去年の夏だか秋だかにわずか1週間だけ上映されたとゆー映画だけれど、別にヒットしなくてすぐに打ち切りになったって訳じゃないのはその後に、製作したKDDIから話を聞いて知っていて、何でも元は携帯電話向けのムービー配信ってところから企画がスタートして、映画も作るってことになってそれはだから携帯電話のauを普及させる目的とあと、KDDIグループも出資したジェイコムってケーブルテレビの総元締めな会社の普及とゆー目的のために作ったものだったからとか。

 無理して劇場で公開するよりは、こーやってコミュニティチャンネルで流して見て貰うことでチャンネルの付加価値を高めていくことに重点が置かれた映画。劇場公開された直後にビデオオンデマンドなんかで配信させることが決まってたんで、1週間で上映を引っ込めた、って話してた。その意味でケーブルテレビで流されることにはまるで不思議はないんだけれども、すでに公開から半年以上が経っての放送で、それも番組表に載らないケーブルでの配信だから、最初はいったい何がやっているのかと驚いた。ドラマっぽいけどそうでもなく、かといって映画みたいな重厚さとはちょっと違う。軽くて明るいノリ。なんだろうなあと見ていて番組内に登場したアニメのポスターを見て気が付いた。「ラブコメ」。ああこれか、これが「ラブコメ」だったのか。

 花屋を営む真紀恵は喋りも男っぽくって直情的。それで競り市なんかでもおっさんあいてに堂々渡り合っている。そんな彼女を子供の頃から気になてちた少年がいて、頑張ったんだけれども太っていておとなしめで真紀恵にはかなわず気付いてもらえないまま17年が経って今はアニメの脚本家として仕事をしていたそんなある日、再開してそこから恋が芽ばえるかっていうとやっぱりちょっぴり紆余曲折、アニメ脚本家は相変わらずの気弱さでなかなか突き進めず、かといって真紀恵は相変わらずの性格でそうした機微にはなかなかうといまま、もどかしい関係が続いていくという話。

 そこに絡むのはアニメの声優で妙にどハデな性格をしたおっさんとか、花屋でバイトもしていたりする元はキャバ嬢の北乃きい演じる涼子とかいったキャラクター。その間に生まれるいろいろから刺激されたかどーなのか、やがてもやもはも晴れてそしてアニメの展開どーりのラストシーンへと向かっていくという話はなるほど見ていてさわやかで、かといってチープでもなくすっきりと見られて良い気分で見終えられる。映画館で見たらきっと楽しいその後が待っていただろうなあ。評判が良かった訳だ。とりわけ真紀恵を演じる香里奈さんが抜群に格好いい。それは例えば木村佳乃さんだったり天海裕希さんだったりが演じる男勝りなところを持ったキャラクターに近い雰囲気。その前だと江角マキ子さん? それらを足しても決して負けない存在感で気弱なアニメ脚本家を叱咤し導いていく。

 そして渡部篤郎さん。実直で生真面目な雰囲気の役柄がまっ先に浮かぶ役者が演じる素っ頓狂な声優の演技っぷりがどうにもおかしい。格好も雰囲気もありえないし、そもそもがアフレコの途中で演技が行き過ぎてぶっ倒れるなんていうことを、プロの声優だったらまずやらない。その場で共演している新谷良子さんもありえないという示唆をしつつも、そういうあり得なさが持ち味だという役柄にすることで、映画の持つ空気感をファンタジックに染めて、見ている人たちを夢心地にさせる。巧いねえ。北乃きいさんもそんな渡部さんのテンションにくっつきハイテンション。まあもとからそいういう役者だけれどもいっそう光って輝いてた。「武士道シックスティーン」とか「ラブファイト」とか良い役が多いなあ。でもなかなかヒットしないのはどーしてだ。うーん。

 登場する劇中劇的なアニメもちゃんと作られていて手抜きなし。スタジオはどこなんだろー。GONZO? そんなマークがエンドクレジットに見えたけれども録画してないんで未確認。ともあれアニメ脚本家が香里奈さんみたいな美女でそして野獣っぷりも持った女性といい仲になれるかもしれないとゆー夢を見させてくれる映画であり、モデル出身ってことで演技は二の次的な見られ方をして損な役回りが多そうな香里奈さんが実はとっても演技派でハマれば凄い良い持ち味を出せるんだと教えてくれる映画であり、新谷良子さんが動いている姿を見られる映画ってことでアニメな層にももっと知られて欲しいかも。エンディングに流れるのは例の「lismo」で川口春奈さんが踊っていた時に流れていた曲で、これも良い。どーしても川口さんのダンスが浮かんでしまうけれども映画の後だとむしろ映画の雰囲気を盛り上げてくれる楽曲ってイメージに変わってきた。また見たいなあ。さすがにもう放送はないか。やっぱりDVDを買うかなあ。

 女優ってやっぱりすげえなあ、とか思わせてくれた展覧会を見物。東京都写真美術館で開かれているベッティナ・ランスの写真展は、フランスの女性写真家でもっぱら商業向けに女優なんかを撮っている人なんだけれども、巨大なポートレートでそれもあんまりファッションファッションしたものではなく、かといっていろいろと小細工もしないで生活感をどこかに漂わせた写真を撮っているところが、日本だと誰に近いんだろう、伊島薫さんだともうちょっと世界観を構築するからちょっと違うか、うーん考え中。ともあれ、巨大なパネルにくっきりと写し出された女優たちは、毛穴まで見えそうな解像度で本当だったらそーゆーのを嫌がりそうなセレブなのに、むしろなんだやっぱり人間なんだと思わせつつ、それでも同じ世代同じ性別の人間とは違った輝きって奴が、やっぱりあるんだと感づかせてくれる。

 マドンナを撮ったあれは1990年代半ばだから、まだ30代半ばくらいの彼女なんだけれどもどこかやつれが出ていて大変そう。てっきり今の写真かと思ったら、15年とか前の写真で驚いたけれどもそこから踏ん張ってマドンナは、自らを鍛え上げ、今の方がむしろ若々しさを持ってステージに出ているって感じ。あるいは写真に写った自分を見てこれじゃあなあと思ったのか。シャーロット・ランプリングはさすがにナチスの制帽とか似合う歳でもなくなっていたけれど、佇まいに深さが出て迫力があって叩いて欲しいって思えてきた、いや映画では別に叩いてないけど。ほかにも有名無名の女性たちがずらりと揃って、巨大なパネルで迫る展覧会。胸のふくらみも巨大になってて、ああ触りたいとか持ってもそれは写真だから触ってどうということはなく、触ってもいけないんだけれども見るだけで、人間って生きているんだなあ、女優ってすごい存在なんだなあと思わせてくれる。残り期間もあまりないんでおっぱ……もとい女優好きはぜひに。


【4月29日】 シャーロック・ホームズと海底2万マイルに切り裂きジャックも絡んでてんやわんやといった印象な南房秀久さんの「アリスインゴシックランド」(角川スニーカー文庫)は、まずもって貴族の子弟ながらも警察に入り首都担当からスコットランドヤードに移って意気揚々とする少年の前に血まみれの少女が現れる。近所では娼婦が殺害されるという事件。彼女は目撃者か被害者か。そんな想像からその少女アリスを引き取った少年は、仕事の一環としてベーカー街を訪れそこであの名探偵シャーロック・ホームズの妹と出会う。誰だ妹って。

 超おてんばなその妹、イグレインにつきまとわれて主人公の少年はまずは謎めいた図面によって勝手に軍艦が作られようとしている事件に突っ込み丁々発止の大乱闘。そして逃げ出した海賊がロンドン塔を襲い、やがてとんでもない事件を起こそうとするのを行く先々で防ごうと頑張る。そんな活劇の合間に混じるのが事件の現場で見つかった少女アリスの物語。純粋で純真なその姿にすっかりメロメロな少年の見えないところでアリスは一つの振る舞いを見せる。

 っていったら想像どりの展開なんだけれども一方の活劇と、そんなアリスの行動とがストーリーの上ではあんまり重なっていないところが不思議な印象。あとやっぱり事件の現場に最も違い少女を少しでも疑わないで名刑事然としている少年の態度も謎。いくら身内に似ているからって、ねえ。まだイグレインの方が聡明。そんなこんなで展開にかみあわない部分はあるけれど、それでも楽しい活劇は、貴族然とした少年と、名探偵にして乙女の秘密を駆使してどこかからか拳銃なんかを取り出しぶっ放すイグレインの可愛らしさが、読んでいて気持ちをワクワクとさせてくれる。ここにアリスという存在の悪魔性が加わればさらに奥深くなるか、それともやっぱりかみあわないか。続く2巻が勝負だな。

 それでも一度味わったあの脚光を忘れがたいと都会に群れ、その気だけは満々なままメディア界隈を歩き回っていたからたまらない。評判は下がり世間ももてあまし気味な中でかつてお笑い文化革命の号令を発したO崎主席はその不評をかわすべく、都会に集まり余ったタレントを地域復興の名目で、地方へと派遣することを決断した。有り難い主席の言葉と若いタレントたちは従い諾々と地域へと出かけていくものの、都会なら先輩芸人たちのフトコロに入っておごってもらったり、仕事を回してもらえたものが地方では、少ない給料だけであとは自前で仕事を開拓しなくてはらなず、かといってO崎主席の威光も薄れがちな地方では仕事は回って来ず、赤貧の中で10数年を喘ぐことになる、これが後にお笑い文化大革命のひとつの暗部、お笑い下放としてお笑いの歴史に刻まれるのであったという。なんてこった。

 V字のレオタードっぽい衣装を着た美少女の表紙に吊られて、九重一木さんの「ワールドエンド・ヴァルキリー 『あなたの世界を守りたい』と彼女は言った」(角川スニーカ文庫)を読む。幻魔はどこにでも現れる、って話? とある貴族の息子がいて、城壁の外で鍛錬とかしていたら何か得体の知れない女の子が降ってきた。連れて帰るとどうやら近隣の娘ではないらしい。それもそのはず、少女は異世界から来てもといた世界では人類を暗い滅ぼす悪の権化と戦うあめに改造されていたものの、敗れ去って人類は滅亡世界も滅亡となる主幹に、通路を通って物語の舞台となる世界にやって来た。そこでもう安心、という訳ではなくやっぱりその世界にも幻魔、ではなく絶対悪がやって来ていてその正体を隠して主人公たちと敵対することになる。

 主人公にもかつて父親や親類達が領地で争ったあげくに自滅し、領民たちを全滅させてしまった過去があって、主人公は名家ながらも領土もなく従者は1人、妹として引き取った少女が1人というこぢんまりどころか名ばかりの貴族。それでも王朝が開かれて以来の名家として潰すに潰せずあとは爵位を返上してもらえればそれで良しという落魄ぶり。主人公もそれで構わないという気分にいながらも王族にあって主人公の少年と幼なじみの王女は認めず見方となって少年をもり立てようと頑張っていた。だからこそ何処からか現れた謎の少女を不審に思い、少年を守ろうと頑張るけれどもそんな観劇を縫って絶対悪は別の貴族に取り入って世界を滅ぼす段取りを着々と進めていた。

 後ろ盾に乏しく力も足りない主人公の少年に、通路を越えてくる途中か何かで装備を壊してフルパワーを発揮できないまま、潔白とか正義を証明できないで追われとらわれる謎の少女の一派に迫る悪の手。王族たちもそれが滅亡に繋がるとはさすがに感じず、とりあえず悪でも力と認め取り入れようと画策して両天秤にかけている状況で、果たして大逆転の道はあるのか、そもそもそんな世界を滅ぼすような絶対悪に対抗できる力がその世界にあるのか、といったところで現れたひとつの希望。そして少女の存在がとりあえずの危機をしのぎ、そして次なる危機へと立ち向かおうとしている、そんな物語が向かうらしいとてつもない展開のさらに果てに来るのはやっぱり滅亡か、それとも絶対悪そのものを全宇宙から払うよーな展開か。気にして読んでいこう。

 泣いた。まじ泣いた。ニコニコミュージカルとは良いながらもミュージカルではないストレートプレイの「舞台劇ココロ」はかのニコニコ動画なんかで有名なトラボルタさんによる鏡音リンを使って作った楽曲「ココロ」をモチーフに、石沢克宜さんさんが脚本を書いて演出した作品な訳だけれどもボーカロイドっていうココロを持たないプログラムが人間らしく歌って驚きを与えた現象からインスパイアされて作ったココロについての楽曲から、さらにインスパイアされて作られた舞台なだけに繰り広げられるロボットとココロについての物語が、SFな人なら常に考えて考えて考え抜いてもなかなか明解な答えを得られない、ココロって何? ロボットにココロって持たせられるの? ってテーマに対するひとつの道って奴を見せてくれている。だからSFの人は観るように。その見解に賛成か反対かなんて関係なく。見ることが経験。そして知識。それがココロに何かを生む。あるいはココロそのものを生む、って言ったら格好良すぎ?

 でも本当にそんな物語。かつて作られたココロをもったロボットがいて、そのあとに作られた人間そっくりに反応するけれどもココロは持たせていないロボットがいて、未来になってロボットたちが大勢いて、それらがココロを求めているって基本設定。そこからはいろいろな考え方が浮かび上がってくる。例えばココロがあれば良いんだという考え方。逆にココロなんてものがあるから苦しむんだという考え方。そしてココロがなければただのコピーに過ぎないという考え方。さらにはコピーであってもその経験は記録となり記憶となってかけがえのないココロとなるんだという考え方。どれも間違いかおしれないけれど、そしてどれも正しいかもしれない。舞台劇「ココロ」を見ると、そんな気持ちが浮かんでくる。

 舞台の中央に座り続けるリンという少女をめぐり、現在と未来とが交錯する展開がとにかく秀逸。もじゃもじゃあたまの科学者とか、その科学者と対立する元科学者とか、どちらも抜群の演技力に存在感。間で揺れる女性科学者も眼鏡っ娘でなかなかの可愛さだし、若い研究者も生真面目さが出ていて感じさせる。罵倒とののしりの言葉が飛ぶんだけれどもそれを嫌悪感なんて抱かせずに聞かせるところが演技力であり声の魅力。そして何よりリンというロボットの少女たち、そう少女たちが繰り出す罵詈雑言がなかなかに可愛くて、ダイアローグの妙とそして演技の巧妙さ、さらにはビジュアルの良さってやつを感じさせてくれる。あのスレンダーで美麗な鏡音リンのビジュアルで繰り出される罵詈雑言と暴力。思い出してまたゾクゾクしてきたぞ。

 そんな役者たちが繰り広げる物語の間には、ココロを持たされたロボットの悲劇が描かれ、ココロを持たせた科学者の懊悩が示され、ココロを忌避した科学者の誠意が繰り出され、そしてココロとは何かと模索するロボットの強くて激しい希求のココロが描かれていて、いろいろと考えさせられる。そして訪れるラストシーン。なるほどそうかやっぱりなあ。記憶とは記録の積みかさねによって生み出された唯一の経験であり、それがすなわちココロなのかもしれないなあ。だから自分が憶えていさえすればいつだって記録は記憶となって甦ってココロを揺らすのだ。誰かに憶えていてもらえさえすれば記録は記憶となって浮かび上がってココロを揺さぶるのだ。憶えていれば。憶えていてもらえすれば。そのために今、自分に何ができるかなあ。ちょっとしんみりしてきた。ともあれ良い舞台。そして奥深いSF。3度目の上演だけれど、再演があるとは限らない今、ひとつの到達点として見ておくにこしたことはない。行こうシアター1010へ。5月8日まで。


【4月28日】 メアリー・ブレアという人がいて、その昔にウォルト・ディズニーで働いていたけれども名前の通りに女性で、今と違って女性で働く人が多かったとは言えない時代、でもってアニメーションという半ば職人の世界にあってこのメアリー・ブレアという人は、かのウォルト・ディズニー御大に認められ、「シンデレラ」とか「不思議の国のアリス」といった作品でコンセプトアート的な仕事をして、広く世に認められたけれども一方で、家庭を持っていて子供もいて、家族との暮らしも大切にして家族の絵もいろいろ描いていたという、そんなメアリー・ブレアという人、そのものについてスポットを当てた展覧会が、銀座三越で始まったというので見物に行く。

 すでに発表会でおおまかな概要は聞いていたけれど、入ると意外に初期のまだアニメーションに携わる前の作品だとか、旦那さんでやっぱりアニメーターだった人の絵とかがあって、前に東京都現代美術館で開かれた、ディズニー時代のメアリー・ブレアにスポットを当てた展覧会とはまた違った雰囲気を醸し出していた。旦那さんが描いたあれは何だったっけ、動物のアニメの動きを教則にまとめた絵は1枚で、いろいろな角度からキャラクターが描かれていて、絵を動かす、それも立体的な奥行きをちゃんと持ったキャラクターを動かすとはどういうことかを教えてくれる。

 つまり、アニメーションって日本だと、2次元の漫画を動かしてみせるってことが今はだいたいの主流になってしまっているけれど、多分本来的には人間が演じる映画ってものを、人間の変わりに絵で描くことから始まっていて、だからこそちゃんとそれらしく、かつアニメーションならではの面白さ大げささももって動かすことが重んじられたのかもしれない。そうした動きをしっかり叩き込まれて育っているから、あるいは今の3DCGの時代になっても、そうした立体物をそれらしく描き、アニメーションらしく動かして世界を驚かせ、楽しませているのかもしれない。調べた訳じゃないけど、そんな想像が膨らんできた。

 展示は「不思議の国のアリス」とか、あとはディズニーを辞めた後に請け負ったテーマパークのアトラクション、「イッツアスモールワールド」のコンセプトなんかもあって、それらは東京都現代美術館でも見ていたけれど、それ以外でも例えば絵本のイラストとか。ペルメルって煙草の広告とか、アイスクリームやバターの会社の広告なんかも手がけてて、アニメーションの人であってもグラフィックの人であって、絵として見てもインパクトがあり、それでいて可愛らしさもちゃんとある高度に優れた作品になっているところがメアリー・ブレアたる所以か。構成力。そこが、歴史に残るアニメーターたちの列には入っていなくても、メアリー・ブレアがウォルト・ディズニーに重用された理由かも。いくら巧くて凄い絵が描けても、それだけではただの凄い絵。凄い作品凄いグラフィック凄い広告として世に訴え、今に残るには違う才能も必要なのだってことで。

 家族を描いた絵なんかもあって、それぞれに1枚の作品として成立しそうな優れもの。いろいろと旅をして得た感性も加え、絵に立体的なオブジェクトを張り付けて作ったミクストメディアの作品なんかが後年に並んで、モダンな雰囲気を感じさせてさあこれからいよいよファインアートの世界でも名を残しそう、ってなった66歳で死去。とても若いか、といえばちょうと出崎統さんが亡くなったのが67歳でほぼ同じ。積み上げてきた仕事も数あってすでにそれなりの存在感を得てはいたけど、かいま見える新たな分野への意欲ってものが、突然に断たれてしまったことへの残念さはある。あと10年、存命だったらどんな死後をしたかなあ。

 決して広くはない会場に飾られた、それほど多くはない作品から浮かぶ、深くて膨大な想像。アニメーションとは。絵とは、グラフィックとは、家族とは。人生とは。その意味でとても充実した展覧会。アニメに関わる人たちも、グラフィックを志す人たちも、全然関係ないただ美しいものを見たい人も、行くと良いと思うよ。グッズも豊富で絵はがきとか、Tシャツとかあるけれども気になったのはあれはジュースか何かを持った少女のイラストレーションが、立体の小さいぬいぐるみになったキーチェーン。再現度も高くってぶら下げていると楽しそう。すぐにクタったアリエッティの人形よりも、目立つし長持ちしそうだけれども問題は、それが誰かと気づいてもらえないところか。キャラクターパワーってのは、大きいよなあ、それがジブリだと、中身が何であれ、うーん。

 三越を出てテクテクと歩いていたらアップルストアの前に長蛇の列。つまりは「iPad2」を買おうとする人たちで、前のが出てからもう1年が経って多くの人たちが手に持っているはずなのに、そうした人たちも含めて引きつける何かがやっぱりある機会、って印象を抱く、けれども買わないし買えない、金ないし、そもそもiPadあんまり使ってない。重いし、いやそれでもパソコンに比べれば軽いけれども、パソコンを普段から持ち歩いている人間には、使う機会がほとんどなかったりするんだよなあ、音楽を聴くときくらいか、うーん、それだったらiPod touchで十分じゃん、うーん、買わなきゃよかった、けどそれだと今買ってたか、一緒だ。自分のiPadを大工の棟梁に頼んで薄くカンナかけてもらえばiPad2にならないかなあ、ならねえよ。

 近所で万城目学さんの「偉大なる、しゅららぽん」のサイン会が開かれたんで、すでに買ってあった本と整理券を持って見物に行く。すでに整理券は終了になっていた人気ぶり。並んでいた人たちも男性ばかりじゃ全然なくって、妙齢の女性が多くいて、エレベーターから万城目さんが降りてくる姿を見える見えないと小声で騒ぎ、近づいてくるサインの順番に頬を上気させている。そんなに好きなのか。というかそんなに女性のファンがいっぱいいて、好かれているのか万城目さん。それはたぶん、ちょっぴり不思議で、そして誰もが魅力的で、守ってあげたい弱さもあるキャラクターを描いて、伝奇的なんだけれども猟奇的ではなく、グロテスクだったりサスペンスだったりといった普通の人が引きがちな要素をなくして、それでいて読んで楽しめほんわかしてくる物語を、巧みに描いているからなんだろう。そうかそういう分野に勝利の道があったのか。あやかりたい。「プリンセストヨトミ」の映画は万城目さんも面白いものになっているそうなので行こう、絶対。


【4月27日】 やっぱり予想どうりに凄かったアニメーション版「BLEACH」は、瀞霊廷に侵入して捕まった黒崎一護と朽木ルキアを逃がそうと、四楓院夜一が体を張って偽物の朽木白哉や阿散井恋次やらを止めようとしてジャンプしたシーンの、予告編どおりに片目から入って両目にバストショットと、そして大開脚から回転して頭から突っ込んでくる絵がどの1枚を取っても完璧な出来。それが動いて見られるこの奇跡が、あんまり話題になってないとゆーのもちょっと寂しい。どっかでは頭から上を切って動体部分だけを画面に映すレイアウトなんてのも使ってたっけ。コンテ切った人も作画をやった人もきっと凄い名のある人か、これから名が出てくる人なんだろー。要録画。あるいはブルーレイディスクさえも。

 そして地上へと戻ってきた黒崎一護に襲いかかる科学技術局の三下さん(涅マユリ談)。その技で護廷十三隊の面々を断界に閉じこめ、その隙に偽物たちを並べてみせたのは良いけれども、見かけはともかく頭脳はピカイチなマユリたちをいつまでも引きつけておくのは不可能らしく、一同を引き連れ戻ってきては危機にあった一護を助けてみせたけど、どーして戻った先が現世だったのかは謎。マユリをしても尸魂界に乗り込んでいって居座る偽物たちを殲滅するのはかなわなかったとゆーことか。ともあれとりあえず偽物vs本物の構図が出来て、さていったいどんな戦いが繰り広げられることやら。来週からが凄い楽しみ。

 いやいやその前に、現世にやって来てしまった死神たちがとりあえずどんな暮らしをするのかにも注目。恋次や松本乱菊や斑目一角や日番谷冬獅郎はともかく、更木剣八はちょと無理だろう。いやあれで立派に番長キャラとか務まるか。マスコットガールもくっついてるし。問題は狛村左陣かあ。あれもだから着ぐるみとしてアミューズメント施設に。マユリも見かけはあれだけれども、化粧を落として普通の格好をすればなかなかの美形、スーツとか着て一護たちの学校に化学教師として赴任してくる、なんてシチュエーションがあったら萌えるけど。それはさすがに。まあ面倒なのはまとめて浦原喜介ん家に放り込んでおけばいいか。そういや仮面の軍団(ヴァイザード)の連中って、藍染惣介戦以来、本編でもアニメでも出てこないなあ。せめて矢胴丸リサちゃんだけは。見たいな伊勢七緒ちゃんとの邂逅を。

 ふらりと出た秋葉原で発売が再開された「とある魔術の禁書目録」とそれから「とある科学の超電磁砲」で人気のビリビリ御坂美琴と、そのクローンのシスターズをちびキャラにして積み上げる「ミサカ盛り」を2個ばかり買ってあけたらシスターズだった。ってまあそれがメーンで上に美琴が乗り脇に一方通行とラストオーダーが立ち1セットなフィギュアだから、妹が出るのが1番多くなるのが当然だけれど、それが普通だったら雑魚キャラとして敬遠されがちになるところを、このミサカ盛りに限ってはどれだけ積めるかを競う意味からも、そして本家の御坂が短パンなんて色気のないものを履いているのに対して、シスターズたちが縞パンを履いているという事実からも、シスターズが多く出れば出るだけ嬉しいという不思議な捻れ。すでに買った2セットを積み上げこれに追加で買った分を載せればいったいどれだけになるのか、計算しよーとして数学が苦手なことに気づいたけれども、まあそっちは取っておいて、目の前にシスターズを並べて今は楽しもう。もちろん向こう向きに。つまりこっちを向くのは。

 せっかくだからとゲーマーズに入ったらまだ並んでいた限定生産版の文字に「魔法少女まどか☆マギカ」のブルーレイディスクをついつい手に取りレジへと向かってしまう自分の弱さにちょっぴり涙。でもしょうがない、2010年代を通じてそれなりに名前が残るだろうことは確実なアニメを買い逃してしまうのはやっぱり自分としては勿体ない。それなりにってのはつまりすでに2000年代のミレニアムを通じて世に残るオリジナルなアニメとして「灰羽連盟」「ファンタジックチルドレン」「ノエイン」「東京マグニチュード8.0」あたりが挙がってきているから。これにくっつく作品が他にも幾つかでてきたら「まどマギ」もベスト5からはすぐに滑り落ちていってしまいそう。でも一番売れているのは……と考えるとうーん、アニメって難しいなあ商売的に。

 そんな考えを浮かべながらレジに並んでいたら、何やらどやどやと人が入ってきては流れている「大好きだよ」の音楽の下に並べられているCDの前で嬉しそうな顔をしていた中学生っぽい女の子。その名もmomoちゃんは「とらドラ」、ではなかった「もしドラ」こと「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」のアニメーションでエンディングを歌っている人で、札幌市に住んでて今日はたぶんCDのプロモーションもかねて東京に出てきて、いろいろあちこち回ってたってことになるのかな。きっと暑かっただろうなあ今日の東京。もう1人のオープニングの「夢ノート」を歌っているazusaさんもいたのかどーか、多分いたとは思うけれどもそれがそうとは断言できない曖昧さ。とはいえ2人で揃ってキャンペーンしていたその健気さに免じて、買ってあげたいけれど、でも当人の前で買うのはちょっと恥ずかしかったので今度行こう。「大好きだよ」は本当に良い歌です。

 これも優れたミステリーではないかと思った涼原みなとさんの「光の楽園1」(C・NOVELS)。中世の欧州のよーな宗教の僧が主人公となった物語、っていうと思い出すのはウンベルト・エーコの「薔薇の名前」ってことになるのかな、映画は見たけど原作は読んでないからそれとの共通点は分からないけれども、少なくとも中世は中世でも史実に近いところを描きながらも、魔法が存在していた米澤穂信さんの「折れた竜骨」とは対照的に、史実とは無関係のファンタジー世界を舞台にしながらもとりあえず、魔法のようなものは存在せずにすべてが合理的で現実的なシチュエーションの中で事件が起こり、解決される。ただし時代が時代なんて迷信俗説の類はあってそれが多少の影響はする模様。そうした先入観を合理性で排除していく楽しみってのもこの作品にはあったりする。

 とても優秀な学僧だったリュートガルトは、一方で美貌から女性に慕われ自身も女好きが災いして、偉い人の夫人に手を出したのがばれて遠くに追いやられてしまう。辞めさせられなかったのはそれだけ優秀だったから。ほとぼりが醒めるまでという状況で行かされた寺院でももてあまされ、その先にある庵でかつての名僧の弟子だったという老僧を世話しながら、畑仕事に精出す日々が続いていたある時。その町に新しい郡長官がやって来て、リュートガルトを案内役に引っ張り出し、2人の間につながりが生まれる。さらに村で人が死ぬ事件が発生。村人たちは地霊の輪という現象によって殺されたと騒ぐが、リュートガルトも郡長官もその説をとらず、気象などから下降気流によってサークルは生まれただけだって、人が死んだのは殺されたからだという説をとなえて、真犯人の探索に乗り出す。ところが。

 都から新しくやって来た騎士たちによってひっかきまわされた挙げ句にリュートガルトに探索の手が伸びる。その裏には都で起こっていた権力闘争があった。絶体絶命のリュートガルト。けれどもそこに救いの手が伸び、事件も解決へと向かう。その過程ではやはり合理的な謎解きが繰り広げられ、ミステリ好きを大いに納得させる。さらに郡長官につきまとう差別的な視線という社会的なテーマがあり、リュートガルトという美貌の少年をめぐるさまざまな思惑というラブストーリーがあり、父と子の関係とゆー哀愁漂う過去話があって、そして殺人事件の裏側にあったちょっとした誤解から生まれた悲劇といったドラマがあって表面的な謎解きに物語を治めさせない。なおかつこれがより大きな物語の外伝的な存在とゆーから、大きく広がった本編ではいったいどんな物語が繰り広げられるのかが今から楽しみ。とりあえず女性に手を出すなら要注意。リュートガルトほどの美貌でもなきゃ関係ないんだろうけれど。


【4月26日】 ミステリなライトノベルの種になりそーな本を探して見かけた瑞山いつきさんの「エージェント・コード」(一迅社アイリス文庫)を読んだら、スパイでミステリでアクションしていてとっても面白かった。貴族の庶子として生まれながらも正妻がいた貴族には引き取られず、母親といっしょにサーカスで育てられていた少女がいたけれど、母の死で将来は体も売らなきゃいけないかもって追いつめられイタところに、正妻の死去もあって父親が引き取れる状況が生まれ、少女を屋敷に引き取りいっしょに暮らし始める。

 ところが、ライザという名の少女が引き取られた貴族の家は、裏で諜報活動をしていて父も兄もその一味。根が下町育ちな上にやっぱり自分の居場所を探して彷徨い続けた過去があるからなのか、父や兄に近づきたいと諜報部員を志願する。最初は止めさせようとしていた兄たちも折れてとりあえず見習いにして、与えた最初の仕事はサーカス育ちで慣れない彼女に上流階級の言葉とドレスをまとわせて、先輩諜報部員とともにパーティに乗り込ませては、暗躍する秘密結社の陰謀を探るのとゆーものだった。新米だけに最初は自分が目を引きつけ、その隙に先輩が美術館の奧へと忍び込むものだったけれども、ちょっとしたはずみで先輩が動けなくなった代わりを、まだ新人のライザが務める羽目になる。

 そこは度胸で乗り切ったものの、敵もなかなかのものだったらしく、ライザは見つかり追われて窓から飛び降りて逃げようとする。走ってきた自動車のボンネットに飛び乗り、運転手を脅して車を奪おう。そう行動したところ、相手がなぜか怯えもしないでライザに向かってこれはいいネタがやって来たと喜悦する。その男はベストセラー作家のカル。好奇心旺盛な上に次のネタを探していた彼に巻きこまれ、引っ張られライザは供に追われる羽目となる。おまけにただの作家ではなく、妙に事情通だったカルとともに王室を狙う陰謀を暴くことになったライザ。諜報部員として父や兄の役に立ちたいと頑張る健気さの一方で、そんな彼女の思いを越えた策謀が渦巻く中を、カルとともに乗り越えていく。

 カルがライザの立ち居振る舞いや言葉遣いを見て、すぐさま彼女の正体から出自まで言い当ててしまう推理の楽しさがあり、本当は脇だったライザが主役にならざるを得なかった段取りのところにエージェントという仕事の緻密さをうかがわせる雰囲気があり、そしてさまざまな謎を解き明かして真相へと近づいていくスリルもあってと、「エージェント・コード」はライトノベルでそれも女性が対象のレーベルにしては珍しく、ラブだけじゃなくってミステリー的な雰囲気も持った良質な小説になっている。ミステリファンも読んで安心、サスペンスファンならなおのこと。とりあえず首は繋がったみたいだけれどもそんなライザを思っているのかそれとも別の思惑からか、陰で動く兄の不思議さ、そして何でも知ってるカルの奇妙さあたりがどう現れてくるのか。そんな辺りもうかがいながら続くなら読んでいこう。

 もしもレヴィとバラライカとロベルタとエダとシェンホアとソーヤーとヘンゼル&グレーテルの「BLACK LAGOON」ガールズ(?)がキュゥベエと契約して魔法少女になったらいったい世界はどんなに愉快な状態になるんだろうなあ。何しろ悩みとか苦しみとかいったものをすでに捨てて暗闇を見つめて生きる奴らだから契約したってソウルジェムが汚れるなんてことはないか、最初っから汚れきっていてもそれをまるで苦にしない強心臓。でもって銃器の腕前は誰も超一流で、ナイフだって扱え体術だって完璧な面々が立ち上がればどんな魔女だってたちどころに粉砕されてしまいそう。ワルプルギスの夜? そんなもん2秒でこてんぱんだよ。問題はだから魔女にならず相転移が起こらないままエネルギーが放出されないことだけれども、あるいは魔法少女になった段階で彼女たち事態がとてつもないエネルギーとなって屹立しては世界を照らし、あるいは血で染め上げて停滞なんて奴を軽く吹き飛ばしてくれるだろう。そして地球なんて飛び出て宇宙を、さらには別の宇宙をも含めた全存在を彼岸の彼方へと導くんだ。見たいなあ、そんな「魔法少女 ブラクラ☆マギカ」。

 デパートで漫画家の展覧会が開かれるのは当たり前、現代美術館とかでもスタジオジブリの展覧会とか手塚治虫さんの展覧会とかが開かれたりする昨今、サブカルチャーとアートとの垣根は低くなっているというかもはや存在すら怪しくなっているんだけれどもそこは博物の世界だけあって、東京国立博物館ではこれまでアニメだの漫画だのといったものが絡んだ展覧会は開かれて来なかった。そりゃそうだ、アニメも漫画も博物と呼ぶには歴史が浅い。映画だってまだまだ。いずれ200年くらいたったら国立博物館で映画の展覧会が開かれるかもしれないけれど、漫画やアニメはたぶんしばらく金輪際、そこに並べられることはないと思っていたらこれは意外なところから球が飛んできた。ブッダ。仏像と言う文化であり遺産であるそれらと手塚治虫さんの漫画「ブッダ」とを絡めた展覧会東京国立博物館で始まってしまった。

 もちろん初めての試み。そして次があるかも不明な試みではあるけれども、やる以上は手塚作品に描かれたブッダの姿をひとつの題材にしてそれらに関連する彫刻を並べてみせたり、逆に仏教において重要な彫刻なんかを持ってきて、それと手塚さんの漫画を対比してみせるといった展示から、それぞれが持つ特徴を浮かび上がらせ、それぞれに興味を持たせようとしていた。喧嘩させる訳でもなく、相互に補完し合うような関係にして見せる展覧会。見れば手塚さんがどれだけ緻密に仏教の勉強をして画面に描いて見せたかが分かるだろー。そしてどれだけ必死になって描いていたかも。手塚プロの松谷社長がいうにはこれを描いていたころ、会社を幾つか潰しかけてて精神的に暗かった時代。けれどもブッダを書いて描き継ぐことによって自分の中に苦難を抱き、悟りを開いてそして次の時代へと進んでいった。その頑張りから得られるもの、そして作品そのものから得られることがこの苦難に溢れた時代に何かをもたらす。行って見よ。手塚のブッダの苦難と悟りを。そして感じよ。仏像たちの慈愛を。


【4月25日】 生きた“進撃の巨人”とも甦った“EVA初号機”とも言われる我らがジェフユナイテッド市原・千葉の巨大フォワード、トル・ホグネ・オーロイ選手のあまりの巨大さに対戦するJ2のチームが続々と対策を取り始めた模様。といっても2メートル15センチのオーロイ君を作って高さを実感したはずのFC東京ですら、実際に動くオーロイ選手の前には何もできず粉みじんに踏みつぶされてしまった模様。J1レベルの戦力を持つチームですらそーなんだから、普通にプロビンチャなチームではちょっと対応が難しそう。ではどーするか。

 ってところでそれぞれのチームの特色が出た対応策がこれから見られそうで、その意味でもオーロイ選手の加入は代表にばかり目が向かいがちな日本のサッカー界にとって、J2にだって凄い試合があるんだってことを印象づけて一気に裾野を広げそう。とりあえずは次節の徳島ヴォルテスがどんな対策をとるかが気になるところ。はやりお国柄を現して阿波は鳴門の渦潮ブロックを称してセンターバック2人にボランチ1人を周囲に旋回させてオーロイ選手を渦に巻きこみ、動けないようにするのが良さそうだけれどそこはヴァイキングを祖に持つ国の人間だけあって、荒れた海などなんのその、自ら回転しては3人を蹴散らし突き進んで、軽くゴールを決めてしまうに違いない。

 そんな四国のチームの惜敗に同じ四国から送り込まれてくるのが愛媛FC。フクダ電子アリーナへと乗り込んでは、必殺道後温泉アタックと称して全身に水を浴びてそれを体熱で温め湯気を出してはオーロイ選手を取り囲み、今治のタオルもたっぷりと蒸してその頭に載せて、寒い国から来て暑さに苦手なノルウェー人をくらませようと算段しそう。もっとも寒いからこそ楽しむサウナの経験も豊富なノルウェー人ならではの性向で、囲まれた湯気にここはサウナと思い裸になって大暴れ。その進撃の巨人ぶりに恐れをなして愛媛の選手は近寄れないまま、ヘッドで3発を決めてジェフ千葉がきっと快勝するだろう。もはや止まるところを知らないその勢いを、果たしてだれがどーやって止めるのか。スタジアムに行くのがこんなに楽しいのってオシム時代以来かもなあ。

 とりあえず佐咲紗花さんの現時点での到達点として語られることは間違いないだろう「Zzz」をエンディングに迎えて休日がおわりそしてまた平日の1週間が始まる日常の連続を、より強く感じさせてくれているアニメーション「日常」は「ぱにぽにだっしゅ」のよーな奇天烈にして破天荒なギャグの嵐を避けつつそれでもちょっぴりの非日常的シチュエーションも交えながら、それすらも日常と見せかけるよーな柔らかさでもって全体を包み込んでは、山本寛監督が手がけた「らき☆すた」のごく初期に近いまったりとしてゆったりとした雰囲気を作り出しているって感じ。時折挟まれる団地の様子がだんだんと電気がついたり1つだけ灯ったりしてああ生活感のある描写だなあって感じていたら団地そのものが日常を生活していたとは。驚いた。おまけに声が小原乃梨子さんだった。落ちつくなあ。

 とはいえ時折挟まれるシュールもまた楽しい。スーパーマーケットでどーして雪だるまが売っているか、訳が分からないけれどもどーやらそこでは売っているものらしい。買ってどーするんだカップルとかおばさんとか。いやあれはだから駅前で1000円今日限りと叫んでいる周りでこれいいね安いねどこせ日本製そりゃいいわと喋って喋り続けて離れないチェリーな方々と同じ類なのかもしれないけれども、そうしたシュールさもあのロボ子さんのほんわかとした雰囲気とはかせのやんちゃさに紛れさせ納得させてしまうから不思議というか。猫が喋ったって大丈夫というか。そういやああの猫の中の人、ちゃんと無事だったんだろうか日曜早朝までの阿佐谷で見かけたのを最後に連絡がとれないと日曜夜に山本監督が心配していたけれど。その当人も二日酔いだったけど。

 ともあれそんなまったりとしてつないでいく「日常」を見るとあのチョココロネだけで半分を使い切った「らき☆すた」の第1話ってのは画期的にして革新的な作品だったのかもしれないと今一度。大騒ぎして喧騒の中に巻きこみ一気に引っ張っていくのもありはありだけれどもそれもやり過ぎるとちょっぴり鬱陶しさも芽ばえてくる。例えば昭和なら何でも時代考証無関係に突っ込みのべつまくなし繰り出しては、当時を知っている人間を最初は楽しませつつだだんと辟易させつつあるアニメとか。動きも良いし話も面白いし演技も悪くないだけにそこがどうにも気になって目をそむけてしまうんだ。もとい「らき☆すた」の第1話はだからあれを見つけてあれを書かせてあれを作ってあれを見せたこと、それ1点で僕は山本寛監督の口はともかく腕前は、信じているんだけれどどうにも口が先に立って世界に広がる。とりわけ口が広まりやすい環境なだけにどうにも困ったものだけれどもまあ、作っていさえすればいつか誰もが納得するから作り続けていただきたいところ。作り続けられるようにできることはだから買うことか「フラクタル」。しかし金が。やっぱりそこか。仕事減っちゃったもんなあ。


【4月24日】 阿佐谷の駅前にあるマクドナルドでマックポークとやらをむさぼり食ってから、ロフト阿佐谷に入って明け方までのボンクラなイベントを見物。大久保にあるネイキッドは行ったことがあっても阿佐谷は初めてで、バーカウンターから奥まったスペースは長方形で教室のよう。横に長い新宿歌舞伎町とはちょっとやっぱり雰囲気が違ったけれども、始まればそこはいつもといっしょで、明け方の6時半くらいまでいろいろな話を聞いて楽しむ。本読みってそうやるんだと分かったのが勉強。言われて「はいよ」と削っていき、そして聞かれて書いたセリフの意図を答える脚本家。一言一句を真剣に、それも場面を思い描いて書いていなきゃ出てこない受け答え。プロフェッショナルの神髄を見た。

 朝になったんでJRと地下鉄を乗り継いで家まで帰って、3時間ばかり仮眠してから起き出して、超久々のフクダ電子アリーナへと再開したJリーグの試合を見に行く。ジェフユナイテッド市原・千葉対FC東京戦。人気のチームだけあって開門を早くしたみたいで席がとれるか心配したけど、いつもどおりの時間でまあそれなりの場所に入れた。とはいえ試合が始まるとぎっしりの立ち見で結、果的には1万6000人以上が入った感じ。やっぱりみんな、待ち望んでいたんだなあ、サッカーを、そして日常を。

 なるほど試合というイベントの場かもしれないけれど、そうしたイベントが連続してあることがサッカーをライフスタイルに組み込んでいる人間の日常。その断絶はやっぱり哀しく、そして再開はとっても嬉しい。場内に入ってまだ試合が始まる前、光永亮太さんが歌を歌い始めたあたりで妙にじんわりとしてしまった。そんな光永さんは3曲目に「上を向いて歩こう」を熱唱。試合前にユルネバ歌おうぜ的ムーブメントが上の方で盛りあがって、けれどもそれは試合前はやっぱり相手の応援歌、ちょっとね的気分から取りやめになった経緯があった時に、だったらみんなで歌える歌を提案さいたら良いじゃんと思ったらちゃんとやてくれた。良かった。そして歌った。試合後だったらユルネバ、歌っていっしょに歩いて行こうって、呼びかけるにはやぶさかではないけれど、どちらが勝っても負けても勝敗がついた後ではやっぱり供には歌いづらいから仕方がない。いつか。別の機会で。

 そして登場した選手達は、2メートル4センチもあるオーロイ選手の巨大さが、横に立った深井正樹選手との差でもってくっきりと浮かび上がって、いったいそこはどこのリリパット王国かと瞬間惑う。とはいえ試合が始まってもオーロイ選手にボールは当たるんだけれど、拾って走る選手がおらずむしろ相手がオーロイ選手を支点に奪い攻撃する感じでまとまらず、苦戦とまでは行かないけれども接戦が続く。後半に入るとむしろFC東京の圧力が強まり何度もシュートを打たれて苦しい展開。ここで1点でも放り込まれていたらやばかったけれどもどうにか凌ぎきった後半半ばにもう1つの兵器が投入された。

 マーク・ミリガン選手。オーストラリア代表でありながら去年の半ば過ぎあたりから妙に姿が見えずいったいどうなんったんだろう、もしかしてジェフ千葉のふがいなさに帰ってしまったのだろうかと心配もしたけれど、裏でいろいろと修行に励んでいた模様。想像するならカンガルーを相手にボクシングをして後背筋を鍛え、樹から落ちたコアラを拾い上げては樹上に放り投げる繰り返しによって下半身と上半身をバランス良く整え、最後は聖地エアーズロックに行ってあの巨大な1枚岩を持ち上げようとするくらいの意気込みを見せた果て、会得したそのパワーでもってミリガン選手は見せてくれた。脅威のロングスローを。

 それはコーナーキックよりも遠いサイドラインから、コーナーキックよりも正確にゴール前へと飛んでいくロングスロー。本田圭佑選手が放つミドルシュートよりもあるいは威力はあって正確でもあるボールはただでさえ巨大なオーロイ選手の頭を正確にとらえ、見事にゴールラインを割ってジェフ千葉に先制点をもたらした。投げて頭で放り込む。そこには一切の脚がない。まさしくノーフットボール。でもアンチじゃない。ルール上には認められているから。とはいえやっぱり不思議な光景。これで良いのかって心配したけど、その後にオーロイ選手がポストとなって柔らかく出したボールを米倉選手が流し込んで2点目を上げ試合を決定。3点目も奪ってFC東京を鎮め、どうにかこうにかJ1の首位へと躍り出た。

 そりゃあサイドから思いっきり崩してそこから上げた矢のようなクロスを、オーロイ選手がぶち込むような展開が良いにこしたことはない。あるいはオーロイ選手が落としたボールを走り込んだ誰かがそのままゴールに叩き込むような、流れの中での連携から生まれた得点の方が世のためチームのためになるのは決まっているけど、それを追求したところで相手だって許してくれるはずもなく、サイドを固められセンターも引かれてはちょっと攻めどころがない。そんな時、長さと高さはとてつもない武器になる。それを嫌がれば今度は足下がおろそかになる。1つしかなくそれが機能しなかった去年の攻め方と違って、幾つもある攻め方を見せてくれそうな今年は、スタジアムで試合を見るのも楽しそう。負け続けた上に不甲斐ない戦いで最後は脚が向かなかった去年だったけど、今年は行くぞ、あれを見に、必殺エアーズロック投げからの電光アイスフォールヘッドを。なんだそりゃ。

 なるほどこれが中間小説誌掲載の一般にも開いた伝奇エンターテインメントといったところか万城目学さんの「偉大なる、しゅららぽん」(集英社)は、京都から奈良を経て大阪へと移った3部作から離れて滋賀県は琵琶湖のほとりを舞台に繰り広げられる奇妙な戦い。何やら不思議な力を使ってのしあがった一族がいて、それが琵琶湖のほとりにあるお城を明治維新後に買い取り地元の名士となり権力者となって1世紀超。すっかり権力者然として振る舞っていたそんな家に、一族に連なる少年が修行もかねて居候をはじめる。本家には高校に進学したばかりの少年がいて主人公の少年といっしょに高校に通い始めるんだけれどそこに事件、クラスメートにその一族とは長く対立する一族の嫡男がいてちょっとした諍いが起こる。

 それだけならまだしも、さらに別の勢力が絡んできてくんずほぐれつ。長いライバルだった両家すらもしのぐ力で迫る敵にもはやこれまでかと思われた時、彼らの力の源となっている存在が動き始める。その存在とは……。といった展開は入り組んでもおらず、また伝奇ノベルズを読み慣れている人にしてみればそれほとぶっ飛んでおらず、何かありそうな不思議な力が露わになって起こる妙なできごとを楽しめ、そんな力に関わる人々の不思議な生態を楽しめるよーになっている。お殿様的な家の子女のぞんざいだけれど責任も強い態度とか、ありそうだもんなあ実際に。惨劇とかもなく読んですっきり笑えてちょっぴり泣けてそして喜べそう。これが人気になればもっと世界も明るくなるんだろうけどなあ。悪意とか殺人とかいじめとか、切実だけれど読んで胸苦しさも憶える小説が多いだけに、こうした本がもっと書かれて欲しいなあ。直木賞取るかな?

 フラクタルにフクキタル。ってのはだからDVDとBDの発売ってことでこれで改めて注目がアップすれば浮かぶ瀬もあるというか、改めてそこに語られていた諸々の意味が追求されることになれば良いんだけれど果たして。とはいえしばらく遠ざかっていた気分が改めて、DVDとBDの発売を記念したイベントを見てちょっと盛りあがってきた。テンション高いネッサのオハヨウの挨拶とかエッチ連発の小娘とかの声の演技とか、ラストシーンのとってもしんみりすつところとか、改めて見るといろいろ感じるところがあるのかも。あと監督がこれに魂込めました、棺桶に入れて持っていくのはこの作品、とまで言ったことをやっぱり重く受け止めなくちゃいけないってこともある。語るならそんな思いの重さをこちらも受け止めないと失礼。ならばやっぱり買って見返すしかないってことで。さあ行こう秋葉原……秋葉原……秋葉原……金が……。


【4月23日】 ふと気がついたら「WIRED」の日本語版の復刊が本決まりになっていた。もう17年とか昔に日本でも創刊されて、デジタルでサイバーなフューチャーのビジョンを見せてくれてたっけって印象があった雑誌で当時、似た雰囲気の雑誌が幾つも創刊された中で唯一長く生き残ったのは、単にデジタルでサイバーな記事を紹介するだけでなくって、まだ見ぬ後の著名人たちによるコラムなんかを載せたり、独自のデジタルガジェットなりテクノワールドの紹介をする記事を載せたりして、読む人の興味を誘ってきたから。その先見性は今も「サイゾー」に受け継がれてたりするんだけれど、最近の「サイゾー」はちょっと「噂の真相」的なメディア批判がお祭り化していて最先端っぽさが隠れているのがやや残念。テレビドラマとかアイドルとか目の付け所は良いんだけれど、どこか牽強付会っぽさも漂ってしまうのだ。とか。

 んな流れを目の当たりにしてきた目が見る新しい「WIRED」が前の「WIRED」と同じかというとうーん、どうなんだろうななあ、どこかSNSがスマートフォンなイマドキっぽさを出そうとしながら声のデカい有名人とそれに群がる一般人を取り持つ雑誌と化して、間にあって埋もれていそうな未来の可能性を持った諸々を放り出して進んではどこかで歩みを止めてしまいそう、ほらちょっと前にあったじゃん、Twitter有名人をここぞとばかりに引っ張り出しては、4号でぶっつぶれた雑誌が、そんな感じ。まあそこは今も多分出ている本家の「WIRED」が持っているっぽい、ポップでアバンギャルドなサイバー風味ってやつをちゃんと引っ張り込んで、それなりなパッケージにまとめてくれると想像。とりあえず創刊号の表紙がロックンローラーな村井純さんではなく、ましてや坂本龍馬の格好をした孫正義さんでもないことだけを祈ろう。

 福島の原発での作業にあの四角い部屋を丸く動き回るロボット掃除機ルンバの親玉が出動しているって話を聞いて、まさか直系100メートルくらいある円盤が、テレビドラマの「V」よろしくひよひよひよと海から飛んできては原発周辺に降り立ちガガガがガッと吸収してそのままひよひよひよと宇宙へ消えていったのか、なんて妄想を浮かべたりした春爛漫。アイロボットは別にルンバばかりを作っている訳じゃなくっていろいろと現場作業のロボットなんかも作っているらしいんだけれど、そういうのって展示会とかで見たことがないからどんな形かあんまり知らない。

 むしろ日本だろロボット立国とか言って、瓦礫のような場所でも動き回って作業するロボットなんかあちらこちらが得意げに、作っていたって記憶があるけどいったいどこで活躍してるんだろう。それこそAIBOとかにカメラ仕込んで原発の中へと立ち入らせ、自在に動き回らせて撮影されればいろいろ撮れるのに。自律して動くロボットとかだってロボコンなんかを通して学生の時からいろいろ作らせ遊ばせているこの風土が、いざって時にまるで活躍してないように見える不幸の源はどこにあるんだろう。本当に作られていないのか。作らせてもらえないのか。原発の事故、なんてあり得ざる事態を想定した開発なんで、有り得ないんだから駄目ってことになるのかもなあ。有事の際の自衛隊の対応が研究されるってだけで言われる国だし。

 真夜中にイベントがあるんでそれまで寝ていようと寝ていたら寝過ぎて夕方になったんで起き出してとりあえず秋葉原へと向かいコトブキヤに入ったらミサカ盛りが復活していた。「とある魔術の禁書目録」からスピンオフしてた「とある科学の超電磁砲」で堂々の主役を張った御坂美琴とそのクローンたち、通称シスターズたちをモチーフにして器械体操のピラミッド状に重ねていけるという嬉しくも恥ずかしいフィギュア。どこが恥ずかしいかといえばそれは短いスカート姿で四つん這いになった姿をシスターズが見せていることで当然のよーに背後からのぞけばそこには縞が、縞が、縞が。

 積み上げればその縞がピラミッド状になって何ともいえないビジュアルになるんだけれど、それを楽しみたいと思いながらも最初の発売で買えなかった人多数。そして待望の再販となった訳だけれどもすでに前の販売で、2箱を買ってあったりするので積む数にはとりあえず困ってない、というか困っているのは積む場所だけなんだけれども、せっかくの再販を前にしてここであと2箱くらい買っておけば、脅威の4倍盛りってのも可能になったりする訳で少し考えてしまう。前みたく即日完売、といったらそれはそれで無理だけれど、数日間残っているようだとついつい手が伸びてしまいそう。うーん。罪なものを作るぜコトブキヤ。ミサカ盛りを飾っておける部屋に住みたいなあ。

 どんなに注意を払っても、誹謗の言葉はやがて広がり浸して心を染める。限定して用いようとした意図よりはずれて使われ始め、多くの無関係な人たちを貶める。だから使わない。そして触れさせないことが何より今、必要であるにも関わらず新聞が、堂々とこうした言葉を使ってのけた。「極めて不謹慎なジョークではあるが、首相がもはや官邸で『放射能』扱いされていることだけは疑いようがない」。これはなんだ。これがまともな人間の書く言葉か。少なくない子供たちが、そして大人も含めた大勢の人たちが、その身に帯びてもいない放射性物質の存在を指摘され、指弾されて心を痛めている。苦しんでいる。その根っこにあるのが、人を放射能と例え排しようとする心理だ。

 だから言わなくてはならない。訴えなければならない。人は放射能たり得ない。放射能であるはずがない。人が放射能であるという例えそのものを、使うことに心理的な慚愧が伴うくらいに世の中の雰囲気を持っていかなくてはならない。にも関わらず、たとえ断りはあっても堂々と、天下の公器を自称する新聞というメディアでこうした言葉を使って平気な人間がいるというこの事実が、何とも胸苦しい。気持ちが悪い。そもそもが虚偽と論証された言葉をまたしても冒頭に引いて、それを使ったと暗に見なして「歩く風評」と非難しようとした論説。土台からして歪んでいるのにその上に、非道にも近い言葉を乗せてみせるそのスタンスそのものが「書く風評」であるにも関わらず、一方で支持を集めているというこの現実に、いささかの絶望を憶える。本当に、もう長くないのかもしれないなあ。


【4月22日】 年明けまでとか半年後とかならまあ理解も及びそうだけれども、1年というのはさすがに長すぎるかもしれないと思った映画「のぼうの城」の公開延期。というか今年の秋だって、それが1年後とどれほと違うんだろうかといった思いすらあるし、そもそも主題が大群に囲まれ周囲を水でびっしりと囲まれてもなお耐え、反撃して生き延びた人々の活力に溢れた物語。むしろ勇気を惹起する前向きな映画として今まさに公開すべきだって気もしないでもないけれど、世の中っていうのはそうした言葉による意志に対して、それはそれこれはこれといった感じにやんわりと包み込み、じわじわと押しつぶす空気に溢れている。水がいっぱいという光景がそもそも相応しくないという理屈、というか理屈にすらなってない理由を前にして、それでも強い意志を見て欲しいと訴え公開に踏み切りるだけの気概を持ち得なかったんだろう。残念。

 そもそもが映画という限定された空間でもって意志をもってお金を払う人によって見られるメディアであって、それを見たくない人にまで無理に押しつけるようにはならないから、波及を気にする必要はないって気もしないでもないんだけれど、メーンとなるシーンが埼玉県は行田市にある忍城が、石田三成の2万の大群によって囲まれたっぷりの水で攻められているということになっている以上、宣伝なんかでそんなシーンを出さない訳にはいかず、そしてそれがテレビの様な媒体で流しづらい状況があったとしたら、満足な宣伝ができないまま興行として失敗してしまう可能性も考えらなくもない。映画にとってはそれで収益が出せるかどうかが重要。失敗した時の損失もでかくなるならリスクは取れない冒せないってことになる。

 これが今年の秋から一気に来年の秋へと1年の延期することによって、観客の方に渇望感が高まり期待も膨らむ一方で、ポストプロダクションを経て完成度もさらに上がって来るならそれはそれで、興行として大きく上を目指せるといった判断も、あるいはあったのかもしれないなあ。どちらにしても見られないってことで、だったらこの隙に同じ舞台で同じ主人公たちを描いた風野真知雄さんの「水の城」って原作を、映画にして公開してしまえばちょぴり枯渇していた客を先に呼び込めるって可能性もあったりなかったり、ってやっぱり無理か今のこの空気では。甲斐姫は「水の城」の方が活動的で豪傑で積極的、なんだよなあ。こちらもこちらで映像として見たいよなあ。

 寂しいとう気はあまりないけど残念だとう気はする「ぴあ」の休刊。もとより名古屋の頃は「ぴあ」なんてなかったかあってもそんなに気にしてはおらず、むしろ「名古屋プレイガイドジャーナル」という雑誌をメーンに読んで映画とか、展覧会とかイベントなんかの情報をつかんだり、プレゼントに応募して無料のチケットをもらったりしていたっけ。繁華街の錦にあったオフィスをたずねて名前をいって当選したチケットをもらう時にのぞいたオフィスのあの空気。出版社、ってほどでもないけどマスコミ、ってほどでもなかったけれどもそうしたものに触れた気分を味わえた高校時代でありました。

 その「なぷがじゃ」も時代におされて消え、編集長の人が大阪へと移ってそこで「プガジャ」の面倒を見たって話は確か「『プガジャ』の時代」って本に書かれてた。やっぱり情報誌戦争の波のなかで休刊となって幾星霜、勝利したはずの「ぴあ関西版」までもが数年前に休刊になって、時代はネットへと移っていったことを大きく印象づけたっけ。そして波は当然というかむしろ必然として東京にも及んで首都圏での「ぴあ」発刊も終幕へ。ネットを通してあらゆる情報が自在に流通するこの時代に、オンラインショップやオンラインチケットとも連動の難しい紙の媒体にどれだけ意味があるのか、って意見もそりゃああったし結果にもそれが現れたって訳だけれど、一方で紙の媒体には網羅的に情報を掲載して、普段は見向きもしなかったりあまり関心を及ぼしたりしにあ分野なり、アーティストへの関心を惹起する効果ってものがあった。

 そこに強烈な人間による強力なリスペクトとかはあんまり必要ない。絵をおき情報を書いて提示しておくことによって、ふとひっかかった人がそちらに進んで興味を持って、深く進んでいくってことが起こり得た。ネットでこれと同じことができるか、っていうとうーん、サーチエンジンがピンポイントで情報を探すのには適していても、それとはあまり関係ない、けれども興味を誘うような情報を示すのにはまるで適してない。それはデータでは現せないから。だからといって不要ではないところが人間の情動の難しさであり面白さ。ネットが、あるいはテクノロジーがそれを吸収して発現できるようになるまでには、まだ相当の時間がかかるだろう。

 村上隆さんという今でこそ知らない人はいないアーティストの存在にふと気づいたのも確か「ぴあ」だった。読んでいた展覧怪情報に載せられた、キャラクターというものに興味を示したアーティストが何かを展示してみせるという情報に、キャラクター文化というか漫画アニメが好きだった人間として引っかかった。谷中にあるバスハウスへと出かけてそこで巨大なバルーンが風呂場だったギャラリー空間に浮かぶ様を見て、こりゃあなんだと驚き通うようになってそこから、現代アートへの関心をいつになく沸き立たせた。それ以前、「ファルマコン」という展覧会に行ったのも「ぴあ」を読んだからで、そこで草間弥生さんを見てバスキアを知って驚いた。それから20余年。どちらもスーパースターになってしまった。あの頃に大金があったらなあ。それは言うまい。

 そんな情報の誤配、という言葉が正しいのかは分からないけれども、錯綜から誘う興味ってものがあり、そして生まれる関心ってものがあって続く才能ってものもあった、かもしれない。欲しいものだけを欲し、見たいものだけを見ることに適したネットというメディアで、同好の士ばかりの情報を仕入れてそれをぐるぐると回しているだけで果たして、雑誌としての「ぴあ」がもたらしたような関心の拡散は起こるのか。ネットでそうしたものを起こすとしたらいったい何が必要か、って考えると甚だ不安も募るけれどもそうなってしまった以上は仕方がないのでせめて自分が、可能な限り興味の範囲を広げていろいろ紹介していき、そんな胡乱な奴らが他に何人もいたりするような空間をネットにも作り出すことで、ああそういやあそんなものもといった空気を生み出せればこれ幸い。Twitterはそういうのに向くか否か。そんな研究が出てくるかにも興味を向けたい。「ぴあ」よさらば。

 ラスト3話。リアルタイムで追いつつ盛りあがっていたって訳でもないから、何とはなしに状況を知っていて、そしてなるほどそうきたかといった感嘆はあったけれども、驚いたとか泣いたとかいったことにはいたらなかった「魔法少女まどか☆マギカ」は、印象でいうなら「幻魔大戦」で平井和正がシリーズを変えてやろうとしていたことが、形になっていたといったところでもあるし、あとは松本零士さんの「ミライザーバン」でもあり、萩尾望都さんの「銀の三角」であるといった具合に、連環する時間軸の上でブレークスルーを見つけるにはどうするのか、といった辺りでの設定への興味を誘ってくれた。

 なおかつ題材が魔法少女といったところで、そのジャンルとしての定着ぶりが一種の定番スタイルとなってしまっていたところに、カウンターをぶつけてみせたって意味も乗っていろいろと見どころを示してくれた。詳細がどうつながってどんな結果を招いているのか、といったところはこれからの分析に任せるとして、今は意欲在るオリジナル作品が投げ出されずにすっきりまとまり多くに感動を与えビジネスにも寄与して終わったことを喜びたい。梶浦由記さんがこれと「空の境界」で手の届かない高みに登ってしまうってのも寂しいけれども嬉しいなあ。


【4月21日】 WRC世界ラリー選手権でセバスチャン・ローブとかマーカス・グロンホルムとかと並んで有名なドライバーのペター・ソルベルグが最近あんまり勝てないんで引退して、自転車に転向しては自転車レースの最高峰ともいえるツール・ド・フランスに出場しようと画策しているのをラリーのファンも、自転車レースのファンも反対してノーを叫んでいる状況を歌った歌だときっと思う「つーるぺーたのー」。両脇をとてつもなく巨大なそれらを持った彼女らに挟まれ平べったい胸板の少女が口ずさむ以上、そういう状況を歌ったとしか考えられないんだけれど、僕には、「聖痕のクェイサー2」。問題はどーしてアニメでWRCとツールの話題が出てくるかだなあ。奥深い。

 「祈れ、命に不可能などない」。この言葉がすべてを言い表しているとと思った犬村小六さんの「サクラコ・アトミカ」(星海社FICTIONS)。生きてさえいれば。命さえあれば。必ずは明日は来ると感じさせる。そして未来は開けるのだと知らしめる。強くて激しくて熱くて愛おしい言葉を末尾に据えることで、「サクラコ・アトミカ」の物語は強烈な輝きを放って世界を照らし、生けるものたちすべてを鼓舞して導いていく。すごい小説が出てきたなあ。それが犬村小六さんによって書かれたというのもまた不思議。いやむしろ当然か。

 今は「とある飛空士」のシリーズでリリカルなラブストーリーをメーンに据えた作者って思われがちで、そっちを頼んでみたくなるってのが世間の心情なんだろーけど、敢えて「レヴィアタンの恋人」(ガガガ文庫)に描かれていたような、異形の者たちによる熱い恋を星海社では犬村小六さんに描かせた。そして僕はそちらの方が好きだったりするんだけれど、世間の通念としてはやっぱり「とある飛空士」の人。そんな認識とはまるで逆張りを、平気でやってのける星海社ってところの編集マインドたるや。世間をひっくり返してやろうと企む出版人としての意気って奴が、他の2作も含めて「星海社FICTIONS」には溢れてる。これだよ出版の醍醐味って。電子だ紙だって形じゃない。漫画だ小説だアニメだってメディアでもない。そしてジャンルでも。面白ければすべて良し。そのために突っ走って突っ込んで突き抜けるのだ、ここん家は。

 いきなり繰り出される設定が、この物語世界の凄みをまず示す。「彼女の肉体を構成する全細胞を核分裂物質に置換し、TNT爆薬50万トンに匹敵する原子の矢を敵都市に放ち出す」。そんなことができるのか。できるからこその天才科学者にして天才独裁者は、中心にある都に周縁のとある国から美少女として名の知れたサクラコをさらって、建設中の高い塔に閉じこめては、そんな原子兵器の完成を急がせる。逃げよう死のうったってそうはいかない。見た目は少年ながらも生まれが異常な人物が途中にある棚で待ち受け、飛び降りようとするサクラコを空中で受け止め、抱えて元の場所に戻す繰り返し。いくら泣いても誘惑しても少年は動じない。

 見れば欲情するかひれ伏すかどちらかという究極にして絶世の美少女のサクラコを見ても、いっさいの情動を発しない少年の正体は一種の怪物。ただ殺すために作られた生体兵器。あらゆることを思うだけでかなえてしまう独裁者にこそ叶わないものの、それに迫る力を持って、今までに出合って来た敵をしりぞけ、サクラコを連れ戻しに来た故国の間諜も退けてしまう。かといって非道ではなく、サクラコは守る対象として丁寧に扱い、逃がしはしなくても話し相手にはなる。そんな2人の間が一気に深まる瞬間が来る。それは、サクラコ自身にもあった出生の秘密を少年が知った時だった。

 愛に形はいらないし、思いに距離なんて必要ない。やがて平行しえ描かれるもう1つの事件、身の丈数100メートルに及び紅蓮の炎をまとった巨人が、都市からのあらゆる攻撃を蹴散らして都市へと迫る。すべてを思うがままにできる独裁者を擁しながらも、どうしてそんな危機が? といったところにも、その巨人の正体に関わる秘密があるんだけれど、そうしたドラマがサクラコの運命と重なった時に、愛は形を越え距離も無関係に成就して、そして未来へと向かって足を踏み出す。感動の物語。感涙のエンターテインメント。こんな話を読んでなお、甘いだけのコメディを読んでいられるか? ってそっちはそっちで楽しいんだけれど、一方にはやっぱりこうした骨太で強烈なインパクトとメッセージを持った話もあって欲しいもの。だから期待してます星海社FICTIONSには。

 こちらも巨人の物語。その身の丈は810メートルくらい? 東京スカイツリーが634メートルだからそれよりも東京タワー半分近く分くらい高い巨人が突然東京に現れては上野の山に陣取ったらしい。らしいってどうやらいるらしいことは分かるんだけれど、その姿形を明確に見るには手なり体に不思議な紋章が浮かび上がる必要がある。主人公の壮年もそんな1人として手に○で▽の模様が浮かんで自分はそんな巨大な巨人の操縦者になれるんだ、世界にほかに6体現れた、同様に不思議でよく見えない存在を相手に戦うことができるかと喜んだかというと、当人はどうにも誰かと戦おうといった気力がない。とりあえず乗る。けれども何もしない。それを惰弱なり無責任と見るかは意見が分かれそうだけれども、その少年よりもさらにくっきりと巨人を見られる少女がいて、彼女は巨人を操り世界を救おうと考える。

 他の国でやっぱり体に紋章が浮かんで巨大な存在にアクセスできるようになった人たちがいて、米国では自分の力をおもいっきり使おうとし、ドイツでは国のためにその力を誇ろうとし、中東ではその力ですべてを完璧に守りきろうとする。そしてとある事件をきっっかえに日本の巨人がちょっとだけ動いてしまった時、力がぶつかりあってすべてが破滅しそうになっていう危険性が浮かび上がった、そんな時、主人公の少年の何もしないという意識が力と力がぶつかりあいによる破滅から日本を、そして世界を救う。抑止力、というほどでもないその意識。力を持つ者はその力をふるうのが義務だといわんばかりの風潮に竿を差し、何もしないで何かを成せる可能性といったものについて考えさせる。そしてそれが女性からもてる要因にも。それはさすがにうまくいきすぎな気もするけれど、格好いいばかりがいヒーローではないことにはちょっと、共感できそう。

 ともあれどうしてそんな不思議な存在、通称AAEが現れたのか。そして残る世界に現れたAAEの操縦者たちとの対峙は。世界で最初にAAEに乗り込みその詳細を持ち帰った女性科学者のボリュームたっぷりな姿態のとりわけ胸元とか、伊達ではあるけれどもメガネっ娘っぷりだとか、23歳という年齢とかぞんざいさと強烈さを兼ね備えた性格も気になるけれど、そんな表向きとは違ったところに抱えていそうな謎がいったいどう明かされるのか、そして世界はどうなってしまうのかといったところも楽しみに、これからの展開を読んでいきたい。表紙だけみると巨大な美少女あ現れ暴れる話に見てしまうなあ、朝倉サクヤさんお「物理の先生にあやまれっ!」(集英社スーパーダッシュ文庫)。タイトルも誘導っぽいし。でも中身はハードでメッセージ色もあって奥深そう。何より先生がJカップ。楽しんで読んでそして続きを待とう。

 見てたって記憶はあるけど何で見てたかまでは判然としない「トッポ・ジージョ」が超久々に世に出来るらしいってんでイタリア大使館へ。松方正義公爵の屋敷の後ってこともあって瀟洒な庭のついたホールで始まった「2011年の日本におけるイタリア年」ってイベントに、トッポジージョが親善大使として任命されたとかって話に出現したもので、その巨大な耳をフリフリさせては現れバッハッハーイ、は違うそれはケロヨンだ、っていうかトッポ・ジージョって何か決めの言葉があったっけ、それすらも憶えてないけれど、それでもキャラクターとしてはしっかり憶えられている存在感が、今回の大使任命となったんだろー。ルシウスでも悪くはないけど、時に人前に出られない格好になるからなあ。ともあれトッポ・ジージョ。番組も流れずグッズも出ていない状況から、知名度をバネにどこまで飛んでいけるのか。舞浜の黒い奴を越えられるのか。ちょっと関心。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る