縮刷版2011年4月中旬号


【4月20日】 知らない展開ってのにももちろんワクワクとするけれど、描かれる絵がまたどこかダークな雰囲気に溢れた画調になっているのも、オリジナルに突入した「BLEACH」への興味をかき立てられる理由の、大きな部分になっていそう。どーやら現世と死神たちのいる世界をつなぐ通路をくぐる途中に仕掛けがしてあって、そこに入って迷うと次に何やらそっくりさんだけれど偽物めいたものが現れる模様。そんな偽物の護廷十三隊たちと、本物との戦いって奴が繰り広げられるだろーシリーズでは、圧倒的な強さを誇った藍染との戦いでは見られなかったつばぜりあいって奴が存分に見られそう。その上に作画もなぜかとてつもなく良く、表情の刹那、動きの瞬間のそれぞれに絶好の絵が挟み込んであるか目が引きつけられる。卯ノ花烈隊長を引っ張っていった虎鉄勇音の表情なんて、可愛いはずなのに妙に空恐ろしかったもんなあ。作画監督の小美野雅彦の趣味かなあ。

 動きだって今のソファから引っ立てられるイカ娘、じゃなかった金元寿子さん演じる緑の髪した死神が、廊下の部分で瞬間いっぱいに描かれていたりするところなんて、手前から奧に急ぎ慌てて引っ張っていかれる感じをよく感じさせた。予告編ですら夜一さんが飛び上がる場面で瞬間、目だけが映ってそれから顔になりバストショットになり全身となって大きく脚を広げたシーンがあってそれだけでご飯3杯はいけそうなダイナミックでエロティックさを持っていたし、そこから反転して向かってくるシーンだってとっても早そうで強そう。そんな絵の積み重ねがあるからどのシーンひとつとっても迫力があってスピードがあって目に刺さる。このクオリティがずっと維持されるのかは分からないけれど、護廷十三隊の隊長クラスの激しいバトルなんかで使われた日にはもう、毎回が映画クラスのクオリティによる戦いの描写を堪能させてもらえそう。DVDだって買っちゃうぞ。期待大。とりあえず半年は続くのかな。3カ月で終わるのかな。

 倒したからといって油断して酒盛りとかしておらず、これからの戦いに必要な武器を故障したままにしておいたりするようなこともない。そんな、穴が1つ開けば空気が抜けて全員が藻屑と消えるような、シビアでシリアスな宇宙を舞台にした、本当のプロフェッショナルたちによる戦いって奴を、ちょっと前に笹本祐一さんの「ミニスカ宇宙海賊」で見せてもらって、莫迦も間抜けもいない戦いって奴が、こんなにスリリングでエキサイティングだと教えてもらったばかりだけれども、それに続いて元長柾木さんまでもが、精緻にして壮大なスペースオペラの分野に参戦。間抜けと自虐的に呼ばれる存在はいても、本当の間抜けなど誰1人いない、天才秀才英才たちの知力気力をかけたぶつかり合いって奴を描いては、読む人たちの手にどっぷりとした汗を握らせる。

 その名も「星海大戦」(星海社FICTION)は、地球から人が宇宙へと出て太陽系全域へと広がったあたりが、とりあえずの舞台。意志の力めいたものから生まれるフィールドめいたもので宇宙船を覆って、すっげえ速度で移動できるようになったブレークスルーが人を宇宙へと押し出したんだけれども、ご多分にもれず徒党を組んでの背比べ。それでも地球の重力に惹かれた者たちめ! といった白いロボット的な方向には向かわず、まあ何とはなしにうまくはやっていたんだけれども、そこに美少女あり。宇宙の彼方より現れた美少女があっちにニッコリ、こっちにパッチリとかしたものだからたまらない。お近づきになりたいと焦った奴らが、つばぜりあいを演じたものが日頃の鬱憤もあって戦争へと発展。そこに「私のために争わないで」と割って入った美少女が、手を振り回して暴れたものだからどっちの勢力にも被害が出た。

 これはたまらないと手を結んで、美少女を取り押さえたのはいいものの、哀れ水星金星に地球火星は人が住めないようになり、木星あたりにひとつと、土星あたりにひとつの勢力圏が生まれそれがまたぞろ諍いを始めるようになったという時代。木星の側に天才艦長が現れ、天才機関長も現れた一方で、土星の方にも天才艦隊司令が現れ、補佐の弟もいたりして、それが宇宙をぶたいに邂逅してぶつかり合うってのが最初の物語。木星の天才艦長は、天才さを自認して世界を引っ張ろうとするものの、天才機関長も自分を天才と思い、割って入ってしっちゃかめっちゃか。とはいえ脚を引っ張る訳でもなく、理性の艦長に野生の機関長といった感じに、角突き合わせながらも実は互いに足りないところを補うペアとなって、絶体絶命の危機をしのぎきる。

 一方で土星の天才は、この硬直した事態をぶちこわし、お見合いに等しい戦争を一気に血みどろの戦闘へと転換させようと企みつつ、偶然を装い木星の戦隊をみつけて襲いかかる。その数相手の7倍。もはや余裕の規模なのに、そこはだから相手も天才が2人もいては互いにギリギリと背伸びし挑んでくる。そして見たとりあえずの終着のその先に、あるのは今ふたたびの邂逅か、それともさらに大きな展開か。故郷・地球がもはや立ち入れる場所ではないという限定があるんだけれど、そこの奪還に向かわず、終焉でつばぜりあいをしているところを見ると、もはや地球は諦めざるを得ないってことなのか。そんな置かれた状勢なんかも気にしつつ、今はヤン・ウェンリーとラインハルト・フォン・ローエングラムの拮抗に劣らず勝るかもしれないぶつかり合いを楽しんで行こう。とりあえずトカチェンコ少将に花束を。美人でスタイルも良かったのになあ……。

 しかし元長柾木さんによるあとがきが、SFというジャンルに対してある種の見解になっているのが興味深い。「今では憶えている人も多くありませんが、かつてSFという物語ジャンルがありました」で始まる1文。それは、SFという恐怖を間に介在して優しく伝えようとしつつもその実、相手を怖がらせて惹かせていただけの是までの状況に、痛烈な批判を加えているっぽい。そして「無数の声なき絶望を踏みにじったうえで営まれた自堕落な宴席が、読者を益することはありえません」と。そして気にせず読んで面白がれと訴える。うーん。SFかどうかを分け隔てする性向でもないんで、何があってどう考え、こう至ったのかは分からないけれど、ただひとつ、言えることがあるとしたら「星海大戦」はSFが好きだった僕が好きなSFだということ。とってもスリリングにエキサイティングなスペースオペラだってこと。負ければ藻屑の刹那の戦いを、天才たちが丁々発止でやってのけるその感じを楽しめる以上、文句もなければ異論もない。夢枕獏さんじゃないけれども「この物語は絶対に面白い」。だから読むしかない。それだけ。

 全能を前に、畏れず媚びもせずにいられる傭兵の方がむしろ浮世離れしているとすら思えた虚淵玄さんの「金の瞳と鉄の剣」(星海社FICTIONS)。剣に生きる傭兵と、それから見かけは頼りないけれどもなかなか凄腕の魔術師のコンビが織りなす冒険物語ってスタイルの本だったら、過去にも割とありそうだけれど、そう見せかけておいてこの物語が突きつけるのは人間という存在のいろいろ。神には至れない人間の限界ってものを竜退治のエピソードから知らしめ、そして閉じこめられた妖精の空間を舞台にしたエピソードから人間の野心って奴のとてつもない重さを示し、錠前を開ける物語から人間の執念の強靱さってものを讃えそして、金を稼ごうとする傭兵や薬物に溺れようと群がる人々の姿を通して、人間の欲望の底知れなさをえぐってみせる。

 読めば浮かび上がってくる人間って存在の面白さ。その狼狽え慌て焦り憤る姿に、全能の存在も興味を示して観察しようと想ったのかも。とはいえそうした人間の範疇から、ひとり傭兵が外れて淡々としているのが不思議なところ。よほど酷い人生を歩んできたのか、それが諦観を越えた虚無につながってしまっているのか。でも金はほしがるし独立も目指してるから強靱なだけか。ぱっと見はバディ物の冒険ファンタジーで、ボーイズラブ風な耽美さも漂わせながら、その実寓意に溢れた現代ファンタジーだったという「金の瞳と鉄の剣」。こんなのも書けるんだ虚淵さん。というか魔法少女物を寓意でえぐるアニメも作っているんだから、そんなに不思議ではないのかな。


【4月19日】 なんだ織田ノブナガだってしっかり揺れるんだ。なんて真夜中のアニメを身ながら考えたりする普通の日常。「戦国乙姫 桃色パラドックス」ではどうにか居着いた豊臣ヒデヨシが、信長に連れられ明智ミツヒデちゃんも横に従え向かうは今川ヨシモトのところ、っても当然ながらに美少女で、公家らしくおっとりとした衣装をまといながらも性格は「おほほほほ」の高飛車ちゃん。横には徳川イエヤスちゃんを従え応援するかのようい見せてその実、しっかり逃げようとしていたイエヤスちゃんを逃げられないよういしてタコごと吹き飛ばす。実はあれでなかなか腹黒かヨシモトちゃん。そのイエヤスとの関係は「とある魔術の禁書目録」のワシリーサとサーシャとの間に何か似てる。サーシャちゃんといっていたぶるワシリーサ、イエヤスちゃんといって貶めるヨシモト、うんそっくり。

 だから信長の何が揺れていたかはさておいて、そんなヨシモトを相手に天下が奪える甲冑をもらい受けようと挑んだノブナガ一行、とはいえ戦争は駄目だというヒデヨシの震源もあってレクリエーションとやらを戦いの方法として選択。そして参加者が札に書いた戦いを次から次へと繰り広げる中ではやっぱり「いっせーの」がちょっと面白そう、ってなんだこりゃ、トランプをつかったあれなのか。ビーチバレーはやっぱりノブナガが元気一番、さすがは中身がレヴィだけあって体力勝負では誰もかなわないってことで。けれどもそれでも引き分けてしまいそうな中で最後に見せるは喧嘩凧。そして上げられたヒデヨシと家康の運命は、ってそれはすでに説明済み。凧を引っ張るノブナガのショートパンツから見えるお尻がなかなか良かったりした今回。そして影から見守る伊達マサムネ、ってそんな歳なのかマサムネは。桶狭間の時はまだ6歳くらいだったんじゃないのか。それを言い出したら例のBASARAもまとまらないから気にしないってことで。上杉武田が出るのはいつだ。

 いろいろと思い出す。これも「ウルトラヴァイオレット」の取材の時に出崎統さんから出てきた話で、あの「あしたのジョー」について「ちばてつや先生に言われたんですよ。『アニメでみんな知ったんじゃない?』って。僕は原作はすごいと思っていいるんだけれど、ちば先生はジョーが今あるのは『テレビがあったからですよ』って。『ジョーを今の人が読んでいる。声はあおい輝彦で、サンドバッグの歌を口ずさんでいる。だからジョーは今もあるんです』。僕はそんなことないって言いながらも、嬉しかったなあ」。演出家冥利に尽きるとはまさにこのこと。漫画はやっぱりどこまでも止め絵の連続でしかないんだけれど、アニメは逆に普通は動く映像。けれどもそこに止め絵のハーモニー処理なんかを織り交ぜ、緩急をつけ強弱を見せその合間に心情をうかがわせることによって、見ている人をボクシングの試合の中へとのめり込ませ、そして痛みすら感じさせた。

 「僕は本当にジョーの最高の読者だった。だからイメージできた。撃ち合うような実感を、ボクシングをやらなくても感じた。それを表現しようとした。ボクシングをやった後、どう思うかを感じようとしながら作っていた」。漫画をアニメに変える作業で加えたいろいろな演出。それがテレビというメディアにのって広い範囲に伝わり、再放送されることによって広い世代へと伝わって、時代の寵児ではあった原作を永遠のマスターピースへと押し上げた。たぶんそれは「巨人の星」もで、アニメ化が原作の力を増して末永く存在を世に止める力になっていた時代。今はアニメの終了が作品の終了までをも感じさせるようになっている、この差は何なんだろうなあ。番組か商品化の違い? うーん。考えたい。

 もっとも、より時代性が反映される野球漫画ではちょっと21世紀の壁はこえられないまま「巨人の星」は古典化している感じ。ってかV9時代で王長嶋がいた時代ならともかく今の巨人ではねえ、目指す星にならないもんねえ。そんなあたりが難しい。一方でボクシングは今も行われているから「ジョー」のドラマは今なお輝きを放つ。映画にもなる。なってそこで繰り出されるビジュアルは、漫画というよりアニメ的。見て懐かしさを感じ、そしてあおい輝彦の声と尾藤イサオの歌を脳裏に甦らせるのはアニメの効能。それを果たして映画を作っている人たちは自覚していたのか、いたら出崎統さんにも最大限のリスペクトを示しただろうけれども、そうだったんだろうか、ちょっと気になる。けどでも実はまだ見ていないのだ劇場実写の「あしたのジョー。それを言うなら「ウルトラヴァイオレット」だって。うーん。悩ましい。

 他にもいろいろ聞いたっけ。後進のクリエーターについて、あんまり見てない、見ると嫉妬するといいつつ、毎日映画コンクールの審査員か何かをしていて、見たくなくてもいろいろ見て思ったという。例えば「時をかける少女」の細田守監督については「まとまりがよく、伝わりやすい。登場人物が生き生きとしていた」。それからマイケル・アリアス監督の「鉄コン筋クリート」も面白かったといった指摘。だったら今敏監督の「パプリカ」はというと、「作りすぎ。あれだけ大変な思いをするなら、メッセージがもっとあっても良かったかな。お祭りの行進とかあってこれは何? 技術的にはあったけれど、メッセージが弱かった」となかなかに鋭い考察が飛び出した。

 「面白い画面に意味を与えてくれれば見ていける。分からないものが出てくれば離れていく。技術的なものは5分しか持たない」。なるほど。僕が今監督の作品とそれから「パプリカ」を面白いと思っているのは、まさにそうした作りすぎて変幻自在なイメージの惑乱で、まるでドラッグか騙し絵のように引きずり込まれ混乱させられるあの体験こそが、映画という場に相応しいとは思っているんだけれど、そうしたアート的な感覚とは違って多分出崎監督は、物語とそれからメッセージを重んじる監督。その辺りで僕の感想とは少しずれが出てくるのかも。もちろん言わんとしている意味は伝わった。そして出崎監督はやっぱり、物語でありメッセージであり情動をアニメでは描こうと考えていて、それを伝えるためにさまざまな手法を駆使しているんだということが伺えた。そう思ってみればきっと劇常磐「CLANNAD」だって「AIR」だって、そして「ウルトラヴァイオレット」だっていろいろ感じるところがあるはず、なんだけれど「ウルトラヴァイオレット」はまだ買ってないしんだよなあ、どうしようかなあ。


【4月18日】 今日こそはと青物横丁の駅から降りて海側へと向かって歩く途中にあるパン屋さんのショーウインドーをのぞいて、あるなああるあるパンダパンと確認、たぶんパナソニックがまだそこを拠点にしていた時代に、どこかの会社が発売する淀川長治さん解説の洋画DVDか何かの上映会があって行ったのが最初くらいで、その時に認知ししていたかあるいはしばらく経ってコナミが、日産スポーツクラブを買収してそこにあった本社に入れ替わった時に行った時に発見したのか定かではないけれども、バンダイナムコゲームスがそんなパナソニックの上映施設付き台形ビルに入ってから、もう何度も通うようになった青物横丁のパン屋にそれはあった。

 まるっとチョコレートか何かがかけられて白地に黒地を再現したパンダのパン。目はあれはプルーンか何か? 分からないけれどもショーウィンドー越しに見えるその大きさに、何て甘そうとか思いこれは1度は食べてみたいと思いながらも幾年月。もしかしたら10年は経っているかもしれないそれくらいの年月を、ただ眺めるだけに過ごしてきたパンダパンをしかし、上野動物園にパンダがやって来た今春こそは食べて祝うぞと心に密かに決意しつつ買うのは帰りと行きは通り過ぎて、バンダイナムコゲームスの建物に行ったら山水が枯れていた。いや山水は枯れているから詫びで寂びなんだけれどもそこの山水は水があって何となく風光明媚さが強調される施設。なのに水が抜けていたのは電気節約の一環か。他のゲーム機も電気が落とされていたからなあ。

 待つことしばらくして登場したのは鹿男でお茶漬けな玉木宏さん。ムウ? それは知らない。何やらバンダイナムコゲームスが出す謎解きゲームの主人公の声を担当しているそーで、シルクハットにフロックコートで現れては「英国紳士としてはね」と言ったかというとさにあらず、むしろどこかやさぐれた感じの人物として登場しては、ナゾを求めてあっちへこっちへ首を突っ込んでいくんだそーな。本人的な見た目ではあっちのもじゃもじゃ頭の人の方が怪しげではあるけれども、ゲームでは英国紳士を演じる一方で玉木さんは、見た目はダンディー極まりないけど役柄ではちょいワル兄さん。その対比もちょっと面白いかも。ゲームの内容は不明。あっちはほら、多湖先生の頭の体操がぶち込まれていてベストセラーのお墨付きなだけに、こっちがどんなナゾをどうやって作り、繰り出して来ているのか興味のあるところ。3Dかどーかは関係ない、かな。

 朝が早いからなのか全体に静かなトーンで喋る玉木さんの声に混じる「MW」的なシリアスさなんかもちょい感じて、なるほど見た目のスリムなダンディーさだけではないものを持っている人かもしれないと理解。それともご機嫌の問題だったのか。そして帰ろうとしてネットで情報なんかを確認していたら、あの「あしたのジョー」で「宝島」で「ガンバの冒険」で「CLANNAD」なアニメーション監督の出崎統さん死去の報が流れてた。えっ、と思いつつも亡くなられた原因に、なるほどそうかもと思ってしまいつつ、でももっと高齢の人で1日何箱でも平気だったりするからやっぱり、人よりけり仕事によりけりなのかもしれない。突然か、と言われれば確かにそうではあるけれども、どうして今というのは重鎮で、すでに多くの仕事を成し遂げて来た人だけに、まだやりたいことがあり、やって欲しかったこともある一方で、存分に楽しませていただいてありがとう御座いましたという思いもあって、残念さと諦観が入り交じった感情にとらわれる。あまりに急逝だった今敏監督とはそこがちょっと、違うところか。

 出崎さんにはあれは2008年か、アニマックスで「ウルトラヴァイオレット」が始まる前にしたインタビューしたことがあって、そこで世間では自殺する人が増えていることに対して、嘆きのような憤りのような感情を語っていたのが印象的だった。どうしてすぐに死んでしまうのか。この世に未練はないのか。そして「執着しようよ。家族でも何でもいい。それで生きられれば。生きてれば必ず何かあるはず。楽しいって思うことがあるはず。それを簡単に捨ててしまうのはいけない」と喋ってた。そりゃあ歳も歳だから自身も時折未来について不安を抱くこともある。だから「俺も時々あるけれど」と言いつつも「今は『ウルトラヴァイオレット』があるから生きていける」と、目の前に来ている仕事に取り組むことで自分の居場所を確かめ、必要を感じて前に向かって歩いていく意志を見せてくれた。

 それが仕事を前にしたリップサービスではないという確信はないけれど、それでも目の前に目標を持ち生きていく必要を口にする出崎監督は、だからあれだけの仕事をこなし、名をなしてもなお美少女ゲームの長編劇場アニメーション化とかキッズアニメの映画化とかの仕事を引き受け、いろいろいわれながらも自分なりの作品を作り上げて来られたんだろう。そんな出崎さんに自分は週末もアニメばっかり見ていると言って言われた言葉。「奥さんつくれよ。彼女でもさ。そっちのほうが面白いぞ」。こればっかりはごめんなさい。まだ守れてないし多分守れそうもない。

 とはいえその言葉に、エンターテインメントとして作品を楽しむのは良いけれど、一方で人間には生きているリアルが厳然として備わっている訳で、そのリアルさについても考えないと、この世界では生きていけないし、生きていたって面白くないぞと思わされたいけないのだと思わされたのも事実。これからもアニメは見続けるけれど、そんな言葉をよすがにリアルから離れず現実から飛ばないで生きて行ければと改めて決意して歩いていたら、青物横丁でパンダパンを買うのを忘れてしまった。おそるべし。今度行くきかいがあったら3つほど買って3回映して強調してみたり、2個並べて画面分割して出崎さんの演出方法に秘められた神髄って奴を探ってみよう。だからそれはスタイルじゃないんだってば。物語を示し心情を現すために不可欠な手法だったんだってば。「CLANNAD」の劇場版を見ればそれが分かる、かもしれない。どっかにあったな。掘ろう。


【4月17日】 顔が横に平たいように、体も横に平たくなっている東洋人が、背丈だけで米軍のジャケットを選ぶとおそらくは、肩幅が足りず窮屈な思いをするだろうという予想もあるにはあったけれど、実際に届いたフライトジャケットのCWU−36Pを羽織ってみると、Lサイズな癖して肩幅はほぼジャスト。やや背中に膨らみが出るけれども、動き易さを考えたら必要なゆとりがあった。これが例えばMサイズなんかを羽織った日には、全身を束縛されているよーな気分に陥ったかも知れない。あんなに横幅は狭いのにどうしてアメリカ人、あるいは西洋人って胸板は分厚く背丈は高くて脚が長いんだろう。両側に樹木が迫っている鬱蒼と茂った森を、下生えの草木なんかを踏みつぶしながら大股で歩かないと生きていけない環境がそうさせたのか。逆に東洋人は、平穏な大地を大手を振って歩けるからあんなに平たくなったのか。人類学って奥が深い。いやそうとは限らないけれど。

 中古だけれどもそんなに着られていないCWU−36Pは、程度も良好で新品みたい。さっそく右の胸には太平洋空軍のパッチを張り、左には空軍と文字で書かれたレザーの横長パッチを取り付け、左肩にはジャケットといっしょに取り寄せた星条旗、そして右肩にはチャリティーとして作られ米軍にも提供されたという「OPERATION TOMODACHI」のパッチを取り付け、これで春先の寒さしのぎは完璧に。前に持ってたMA−1は、本体は無事なんだけれどファスナーの金具がとれて前が締まらずちょっと着られない状況。そこで代わりを探していたときにこの「TOMODACHI」パッチを知って、これ着けたいと思いその台座となるジャケットもついでに買おうと差がして春だから流石にCWU−45Pは暑いだろうと薄手の36Pを探して発見、そして購入といたった次第。まるで額縁を買って中に入れる絵を買うようなものだなあ。相変わらず本末転倒な金遣い。

 当然ならがら燃えにくいアラミド繊維で作られたサープラスな上に、ベロクロのパッチを取り付けるための台座部分が両胸と両肩についていたのが購入の決め手。新品でも出ている36Pがあるけれど、たいていが左胸だけでほかにパッチをつけられるベロクロが張ってないんだよなあ、正式なのはどっちか知らないけれど、やっぱりいろいろ着けられる方が嬉しいってことで、そっちを探してサイズに迷いつつも、Lならでかくてもコートっぽく着れば良いと選んだらさっきのような有様で、まあジャストなサイズで着られたんでそこにパッチを張って完成させて外に出て、いろいろと歩き回ったけれども知っている人はやっぱりまだまだいない。目もくれられない。言っているほど世間は世界には注目してない。そーゆーもんだよ世間って。

 ふらりと出かけた秋葉原にて、泉谷しげるさんが叫ぶあの名曲「サマータイムブルース」を聞く。両脇を固めるは嘉門達夫さんに中村中さんという美男美女、と言っても良いよね見た目なら。いわゆるチャリティーでニコニコ動画が秋葉原に出むいては夕方までかけてチャリティーのミュージックソンを繰り広げていたもので、そんな途中に行ったらちょうど休憩を終えて登壇した泉谷さんが、本日2回目といってあのRCサクセションの名曲にして問題作をがなり立てていた。本歌にだって確か参加していた泉谷さん。まさかその時はこんな事態になるとは予想もしてなかったんだろうけれど、そうなる可能性すら視野に入れつつこの曲を作って、そして東芝EMIなんて東芝の子会社から出そうとして止められたというRCの忌野清志郎さんの時を見る目、時代を刺す完成の鋭さを改めて感じてみたりする。

 凄かったのはでもそれで止めず逃げないでEMIじゃないところから発売したこと。だからこそこうやって堂々と歌われ残ってる。これと比べると……って時代が違うかレコードを出す意味の大きかった時代と、ネットでどれだけアクセスされたかが重要な時代とでは。ただやっぱり歌声の軽やかさと歌われる危うさが、RCの場合の方が何ともマッチしていて笑いながらも共感を誘われたかな。今はやっているあれは直接的過ぎる上に無知でありつづけていたことへの自省がやや足りないっぽい感じがして、讃えるのにちょっぴり身構えてしまうんだ。だからこそ「サマータイムブルース」が入った「COVERS」が今になっても売れたりするんだろう。楽しく聞いて厳しく批判。歌って騒いで矛盾を叩く。そんなアーティスト、いなくなっちゃったなあ、泉谷さんとか嘉門さんとかの世代をのぞいて。

 実物を初めてみた中村中さんは細くてなかなかに麗しさ。その出自はもちろん知っててデビュー当時に話題になったことも覚えているけれど、当時出たシングルの歌声を聞いて別に気にすることでもないと思ったし、メディアで歌っている姿にもとっても惹かれたって記憶している。改めて見た本人も当時のまんま。むしろ奇異さで語られた初期から時間も経って、その本質であるアーティストとしての存在感で、普通に語られるようになった現在なだけあって、女性シンガーソングライターとしてしっかり屹立し、泉谷さんや嘉門さんといったはるか彼方の諸先輩を相手にしても物怖じしないで、話し歌っている姿に才能はやっぱりすべてを超越する。羨ましいなあ。ほかにもアイドル系がいっぱい出てきて賑やかな感じだったUDXでのイベント。普段は見かけないオタ芸を見られて泉谷さん何を思ったか。自分のライブでも取り入れる? 「春夏秋冬」にあわせてPPPTやってみる?

 そして電車を乗り継ぎ下北沢へと向かって相曽晴日さんが何故かどういう経緯からか、ちょっちゃんこと古村比呂といっしょにライブをやるってんで見物に行く。ちょっと前にニューアルバムも出てたんで、それのお披露目かと思ったらさにあらず、どうも息子が同じ学校どうしだった間柄でもって仲良くなっていった中で2人で歌いたいという感情が生まれ、それがライブに結実したみたい。だから歌われるのも相曽さんの持ち歌って訳ではなくって、2人が歌ってみたい歌、ってことになって相曽さんのファンをそれこそデビュー当初からやっている人間には、数々の名曲が聴けない寂しさはちょっぴりとだけあった一方で、あの可憐にして絶妙な歌声が、いったい何を歌うのか、それに古村さんがどう絡んでくるのかという、かつて見たことがないステージが見られたのがとってもとっても嬉しかった。いや良かったよ。本当に本当に良かったよ。

 それこそいきなりウルフルズの「バンザイ!」から始まって、斉藤由貴さんの歌で作った谷山浩子さんも歌ってる「土曜日のタマネギ」と続くその展開。なんだこりゃ? ってタイトルだけ見れば思うけれども、どちらも名曲なだけあって耳に響くし、それが相曽さんの歌であり、古村さんの歳とか無関係な永遠の会話らしさなんかと相まって、とっても良い空気ってやつを感じさせてくれた。その極めつけが「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「夜空ノムコウ」と続くカバーで、最近はこれらが震災からの立ち直りを後押しする歌として、CMなんかで流れていたりして、それにインスパイアされたのかとも思ったけれども当初から2人のライブが持ち上がった時から歌いたい曲に挙がっていたようなことも話されていたんで、その辺りはちょっと曖昧。

 いずれにしても今、聞きたい曲である以上に永遠に聞き続けられるべき曲だけあって、聞いて素晴らしい上に古村さんの優しい声と、そして相曽晴日さんの突き抜ける美声によって奏でられたこれらはどれも、そのままCMにして流したいくらいの完璧さを持っていた。っていうかどうして相曽さん、もっとメジャーにならないのかなあ、この2人でNHKに出て歌えば、とっても注目を集められるのに。あるいは相曽さんのどの曲が何かの主題歌になったって、やっぱり激しい注目を集められるのに。きっと気づいてないんだなあ、今のそうした音楽をピックアップするメディアの人たちは。寂しいなあ。まあ良い、ちゃんと聞きに来る人はいる。それもしっかりいる。さらには応援している業界の人も大勢いるから、そうした人たちを通して、変わらぬ美声を奏で続けることによって永遠に、聞き続けられることだろう。期待。エンディングに「夢で逢えたら」とか懐かしすぎるし素晴らしすぎる。あとオリジナル曲「やさしさのリレー」。これもやっぱり今聞かれるべき曲。「みんなのうた」にならないかなあ。ならないよなあ。なって欲しいなあ。なるべきだよなあ。うんまったく。


【4月16日】 布団巻きを見てちくわみたいだと思うかどうかというと、それが全身を覆ったものならそう思うかもしれないけれども、アニメーション版「電波女と青春男」で玄関口に転がっていたそれからは、にょっきりとのぞいた細い脚があってちくわというよりはむしろ棒付ききりたんぽ、焼いて食べればおいしそう。そしてやがて食事の席についたその布団巻き、食べるという訳でもなしに騒いではひっくり返って、にょっきりのぞいた脚をご開帳、やった見えると思ったらやっぱり見えずの自主規制。きっとDVDではブルーレイではと期待もしたけど、所詮は顔も見えない布団の脚の間など、見て楽しいかというとそれはやっぱり男の子、見ればそれなりにそそられるのだ。

 そして家に誰もいなくなったところで、布団巻きはピザをとっては喰らう、どうやって? 上から放り込んで。でもそれなら頭とかに、もっといろいろくっついても良いはずなんだけれど、それをやってはみっともない。せいぜいチーズがからみつく程度でうまく口に放り込んだ模様。そしてのぞいた顔の美しさたるや! ってことでそんな電波な美少女と、青春ポイントを稼ぎたい少年との、ボーイミーツ電波なコメディが繰り広げられるのであったという。それにしても完璧な映像だよなあ、動きも雰囲気も。シャフトってこんなに完璧な絵柄のアニメも作れたんだ。そして総監督の新房昭之さん。いったい今クールも何本仕事やってんだ。どんな人か見てみたいなあ。あるいは21世紀で最大のクリエーターなのかもしれない。というか既にそうなっているけど。誰か文化庁メディア芸術祭でも東京アニメアワードでも贈呈して公衆の面前に引っ張り出して欲しいもの。それでも来なかったら本物。だね。

 ふらりと立ち寄った秋葉原のラジオ会館にあるコトブキヤの店頭に巨大で金色の呂蒙子明がパッケージに入って立っていたので一瞬目がくらむ。いやもうまっ金々のそのお姿は飾って神様観音様と崇めたくなるくらいの神々しさ。もちろんもーちゃんなんでそこはしっかりいろいろ身に着けてはいるんだけれど、金色なだけあって確かめるべく手に取ったパッケージを傾けて見えたそれはややっぱり金色で、果たしてしっかり見えてそれもなかなかにリアルな造形なところを嬉しがるべきなのか、それともよくあるホワイトブラックピンクレッドetc……ではなくゴールドなことに悲しむべきなのかをちょっと悩む。でも見えてそれがもーちゃんのならやっぱり喜ぶべきなのか。

 発売元のダイキ工業ではちゃんと 色つきの呂蒙子明のフィギュアも出すみたいだけれどこちらはゴールドよりも1万円高。ゴールドだってあれで1万2495円とかする訳で決して安くはないけれど、4分1サイズだからかれこれお60センチ近い巨体のフィギュアがそれだけで買えるってことは意味のあること。抱きしめだってできれば振り回せだって出来る巨大なもーちゃんをひとつ手に置き眺め愛でては慈しみ、やがて剥いて食べるくらいのことをするために、ゴールドを1つ所望しておくってのもありかもしれないとか思ってみたり。でもさすがにデカ過ぎるか。置き場所ないもんなあ。同じスケールで許?とか作ったらいったい高さはどれくらいになるんだろう。2メートルなら50センチ、ってそんなに大きかったっけ許?。

 4月の第1日曜日はその余りの寒さに花見なんてとんでもねーと思い、第2日曜日はゆったりと暖かかったものの桜はようやく8分といったところ。そしてこの1週間でぐんぐんと気温は上がってまるで6月といった陽気にいったいこのまま上昇が続けば5月には40度を超えて6月7月には50度に達し8月は……ってな想像が浮かんで今から汗がにじみ出る。それは大げさとしても去年のような暑さが来れば使用される冷房によって電力需要はパンク必至。それは避けなくてはならないといって自販機を止めるとか、パチンコ屋さんを夜だけにするとかった策も出てくるけれどもそれとは別に、やっぱり冷房の抑制が起こることは確実。ならばと当然のよーにクールビズも行われることになるなるんだろうけれど、ある程度の冷房が前提のクールビズが効果を発揮するような状況ではもはやない。ならば。

 浮かび上がったのが猫ヶ谷方式。それはとある埼玉県だかにある猫ヶ谷市でもって導入された条例らしいんだけれども詳細は「熱いぞ!猫ヶ谷!!」とゆー啓蒙映像を見てもらうことにしよう。そのスタイルで臨めば夏の暑さはもはや無関係、そして急な雨でも衣服を濡らす心配はなく普通のその中を闊歩できる。なぜって水着だから。とりわけ女子だけが水着だから。ちょっとやめてよとゆー声も世代によってはあがりそうだけれども、それが金色であってもときめく男子の目にはたとえ中がどうであろうと水着は水着として映る。そして賛辞をもって受け止められる。逆に男子はその美醜がアグレッシブで外部に与える影響も多いんでアロハシャツにして華美さでアピール。とてもバランスがとれている。この猫ヶ谷市条例を全国区へと広げれば、夏の暑さも吹き飛べば気持ちのモヤモヤも全部吹き飛ぶ。別のモヤモヤが浮かぶかもしれないけれどもそれは青春のモヤモヤ、噛みしめよう。

 そんな猫ヶ谷市条例をやっぱり国も率先垂範となれば国会には、れんほーさんとかつぢもときよみさんとかみやけゆきこさんとかまるかわたまよさんとかいった、メジャーどころもやっぱりそれなりな格好になって、国会の赤絨毯を闊歩してくれるはず。かつてその写真集を買ったことがあるれんほーさんが今、いったいどれだけの物を持っているのかを見定められる機会の再びの訪れに、ちょっぴり胸もときめいてきた。さてもいったどんな夏が繰り広げられることになるやら。まだ決まった訳じゃないけれど、ここで一気に盛り上げれば日本国民だってその素晴らしさに気づき、導入を働きかけてくれることだろう。だからここはDVDボックスを買って眺めてその有効性って奴を吟味することにしよーではないか。水着が見たいだけだろ? むっちりもりもりどっかんぼよよんを楽しみたいだけだろ? ちがいますってばちがうって。うん。


【4月15日】 新しくノイタミナの枠で始まったアニメーションの「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を見ていつあの白い女の子が「とうまとうま」と言って男の子に抱きつき飯を食わせろと叫び、果ては頭にかじりついてその傷みにひとしきり、のたうちまわった男の子が「不幸だーっ!」と叫んだところに頭ツンツンのグラサンやろうが「にゃー」とか言いながら現れ少年を外に連れだし謎の女や胡乱な男とのバトルに叩き込むかと思ったら普通に日常の話だった。多分秩父の山間部。そしてそこに暮らす高校生たちの物語。そしてちょっぴりファンタジー。あるいはオカルト? まあそんなところ。

   言ってしまえばテーマとしては他にも幾つか類例があって、例えば日日日さんの「ちーちゃんは悠久の向こう」といった作品なんかが、そうした喪失感を引きずり続ける少年に映る幻惑的な世界の現実的な残酷さというものを示して、物語を読む人なり、それが原作になった映画を見る人たちに哀しみを覚えさせ、苛立ちを感じさせ、はい上がる力を与えてみせた。ある瞬間を起点にして、そこから前に進めなくなってしまう気持ちを描きつつ、一方で否応なく進んでいく時間というものを示すことによって人は、決して踏みとどまってはいられないのだということをほのめかした。

 「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」略して「あの花」もだから、始まったところから示唆され、そして明らかにされる事態とそして、そうしたシチュエーションにおかれた主人公の狼狽や懊悩といたものに、強い意外性を感じることはなかった。とはえいそうした瞬間を軸にして、「ちーちゃんは悠久の向こう」ではたった1人だったが故に止まってしまった時間を、略して「あの花」では数人にその瞬間を経験させることによって様々に違った“その後”を描いてみせて、果たして自分だったらどこに収まっているのだろうかと考えさせる。過剰な自意識に流され完璧に止まってしまったか、冷静にくぐり抜けて今も歩み続けているか、怠惰に流れている厳格に律しているか、そして無頼をかこっているか、等々。

 そんな各人各様なその後の時間を、色分けしながら描くことによって人によって違う生き方や考え方なんかをひとまずは見せようとしているんだろう。けれども同時にそうやって、例えば無関心だったり、例えばあばずれていたり、例えば皮肉っぽかったり、例えば快活だったりしても、それぞれにやっぱり何か思いを抱えて生きているってことを伺わせ、人はいろいろな人と出合い関わって生きて、そして別れたりもするし、再会したりもするんだってこを示そうとしているんだろう。欠けてしまったピースは絶対に戻らない。だからといって埋め合わせもできないその空間を、さまざまな角度から描いていこうとした物語。癒しなり浄化なり納得といった言葉の中に収斂させるのかそれとも、新しい道を示すのか。そんな行く末を想像しながら見に行こう。ってかあなる。子供の頃の呼び名とはいえ残酷な名前を付けたものだよなあ。一生引きずらなきゃ良いけど。

 なんかふと見たNHKの「みんなのうた」のキッズなダンスに目を奪われていっぺんにファンになって調べたらどうやら「ピース×ピース」ってグループというかユニットによる「ピースフル!」って曲だった。何が良いってそりゃあ踊っている小学生だか中学生だかの娘さんたちの切れ味あるダンスぶりで、子供とはとても思えないスピードとそしてポーズによって見る目を引きつけついでに一部の発育途上にある子供たちの女性に近づきつつある部分が、目に入ってなかなか感を覚えさせてくれる。とりわけパンツを片方のサスペンダーだけで吊ってる赤いカットソー来た娘さんとか。後半に出てくるホットパンツ姿で脚が妙に長い娘さんとか。もう本当、未来の可能性って奴を強く感じさせてくれる。そう思ったのって多分「SPEED」が出てきた時に最年少ながら踊りも歌も完璧に素晴らしかった島袋寛子を見たとき以来か。つまりはそうなる可能性大ってこと。

 調べるとどーやらユニットの中にはそんな「SPEED」も生んだ沖縄アクターズスクールから出てきた子も含んだ「Dream5」ってグループも混じっているそーで、メーン張って歌っているのがそーだとしたらあるいは赤いカットソーの娘さんとかもそこに入っているのかいないのか。分からないけどとにかく素晴らしいことは間違いなし。見れば元気が出てきて楽しくなる。今のこのとても寂しげで悲しげで、不安げで恐ろしげな空気の中に明るい気分、楽しい気持ち、前向きの意志、そして立ち上がる勇気ってやつをもたらしてくれる。あるいはそんなために急に作られたものかと思ったら、「みんなのうた」の50周年を記念した1曲として4月5月に流される予定だったとか。タイミングを合わせた、っていうとあれほどの事態が起こってしまったことに正当性が生まれてしまうから決してそうではないって断じたいけど、あんな事態が起こってしまった現実を前にしたとき、この曲があるってことは決して悪くはなかった。だから聞こう。見よう。そして踊ろう。叫ぼう。ピース。DVD付きのCDも出るみたいなんで買おう絶対。

 えっと何時以来だかもう覚えてないけど、渋谷公会堂ことC.C.Lemonホールで見たのが晩秋だったとしたら、随分と久々の顔見せになるKalafinaのライブを見物にNHKホールへと行く。ロックの殿堂を既に経てはいても、今度は紅白の舞台でもありホールライブの頂点とも言えるNHKホール。音質の良さでもってあの山下達郎さんが愛着ある中野サンプラザとは別にずっと使っているホールでもあって、そんな場所に未だ紅白にも出ておらず、歌番組でだって見たことがないKalafinaが、やって来て大丈夫かって心配もあったけれどもそこは既にしてJCBホールとかでもしっかり埋めるKalafinaだけあって、キャパシティーをに見合った来場者があった模様。あとはだからその音質に見合った演奏ができるかってところだった訳だけれど、もとより普通のライブハウスやホールでは、その完璧なまでのコーラスワークを聞かせるに足りないと思っていたグループだけあって、むしろ水を得た魚、くぬぎに止まった甲虫の如くにその場に相応しい演奏を、歌声を聞かせてくれた。

 だって隅々まで声が響くんだもん。C.C.Lemonホールがその伝統な割に天井が低くてどこかくぐもってしまった感じになったのと比べると、wakanaさんのハイトーンが抜けるはhikaruさんの甘い声が響き渡るはkeikoさんの低く支える越えが土台を作るわで、もうこれ以上はないってくらいの声。とりわけアカペラに近いピアノ伴奏だけの曲とかで声のノリの良さが出て、これならあるいはアンプラグドなりピアノ伴奏ストリングス程度の編成で、バラード系だけ聞かせるリサイタルを開いたって十分に通用するんじゃないかって思えてきた。年輩のファンにはその方が受けるかも。とはいえそこは激しい曲もあってのKalafinaだけあって、中盤に続いたprogressiveとかkyrieとか音楽とかいったビートに載った曲の時には、ロックサウンドを従え叫び雄叫びが響き渡って、会場ををロックフェスの空気に変えてしまった。そーゆーのもやらないとKalafinaじゃないからなあ。だからホールリサイタルはいつかの機会に。

 見渡してかつてのいわゆるアニソンファンといった人たちの未だいるにはいるけれども、激しく動き手を振る系はもとよりその雰囲気にそぐわないとセーブする動きもあっていてもそれほど目立たず、一方でおそらくは「黒執事」あたりから気になっていただろう女性たちが増えて、耽美で繊細なハーモニーにぐっと耳をそばだて聞き入っていた。この先はだからそうした音楽を、すなわち歌声を聞きたい人たちが増えて、一帯になって盛りあがりたいという人たちとのちょっとしたぶつかりが生まれるかもしれないけれど、それでもその歌われる曲、そして歌声がただ騒ぎたい、暴れたいといった人を寄せ付けず、気持ちがあってもそうさせないで歌に聴き入らせるような力を持っているからいずれ、落ちつくところにおちついて、アニソンでもポップスでもない“Kalafinaというジャンル”を形づくっていくことだろう。その時まで、そしてその後も見守っていこう、リスナーとして。


【4月14日】 なるほど本名はアレクサンドル=ニコラエビッチ=ヘルっていうのか「聖痕のクェイサー」のヒロイン、ではなくヒーローのサーシャがいよいよもって再登場。したのは良いんだけれども見かけが前とはまるで違った少女顔。そして役回りはほとんどヒロイン。それもそのはず今度の舞台は女子校で、そこにいるらしい何やらを差がして今日も今日とて乳を吸う。だってそれがお仕事だから。とはいえそうした日常の女装だったら前のシリーズでも途中で記憶がぶっとんだ時にしたのかされらえていたけれど、今度はちゃんと意識をしての女装な上に、何やら怪しげな機械でもって電脳空間へと入った時には肉体までもが女性になってもう何というか目のやり場に困るというかまるで困らないというか。じっくりしっかり何度も止めて観察しました吸いません、じゃなかったすいません。

 そんな世界で感じたことは胸って重たいんだなってこと、らしい。いや実際に自分で体感できる訳じゃないから知らないけれども、普段はなにもないところに巨大な西瓜とメロンがぶら下がったとしたら人間、やっぱり動きの感覚がズレて当然だろうなあ。それこそ胸に電話帳でも入れて動けば分かること。それを女性は日常的にやっているってことになるけど、日常的だからこそあんまり気にならないってことでもあるのか、いやあ凄い。そうでもない人がいるにはいるけれどそれはそれで。そして電脳世界で何かを悟ったのかそれをあるがままに受け入れることにしたサーシャちゃん。動きを取り戻しては因縁つけてきた相手を倒して蹴散らし現実世界に戻って今度は立派に吸いました。でも違ってた。いったい何を求めているんだろう。そしてどこに向かうんだろう。前のキャラは出てくるのかな。ずっと女装のままなのかな。ともあれいい番組が始まった。ずっと見よう。パッケージだって……ってそれは流石に考え中。だがしかし。

 やっぱり動力パイプから食べるのが普通なのかなあ、4月22日から東京の秋葉原にある「ガンダムカフェ」がオープンから1年を記念してシャア礼賛の赤い彗星フェアを開催。そこに出されるメニューは当然ながら赤い彗星に関連したもので、例えばシャアのザクをかたどったチキンライスめいたものがあったり、真っ赤なカクテルが出てくるという。あとはズゴックだったっけ。ゲルググやジオングはないのかな。そんなシャアのザクをかたどった「シャアザクライス」はまんまザクの顔。ケチャップライスが立体になってて目の部分は味付けのりか何かで目の部分に丸くあれはケチャップか何かでモノアイが描かれている。そして角は何だろう、ニンジンか。動力パイプはちょっと突き出た口の部分から顔を巻くように置かれている。その材質は……ソーセージ。切られパイプみたいな形で並んでる。

 食べる時には顔を崩したくないと思えばやっぱりそっちから食べるのが簡単そう。でもおいしいものは最後に残したい心理からするなら、やっぱり普通に口の部分からザクザクと食べていって、そして棒倒しのように角を残したあたりくらいでソーセージを口にする、ってのが作法かも。いっそきにせず出た瞬間にスプーンでもってまぜこぜにして、ソーセージライスになぜかノリが混じってそしてニンジンの棒が入っているといった感じにしてしまう人もいたりするかも。

 ほかのメニューではズゴックドリアってのがあるけどこれは楕円のドリア皿に赤いドリアが入っていて、そおに目の部分がおかれさらに端からカニの爪だかでズゴックの手を再現。先に刺さったチーズはジム! ボールじゃないのかとも思うけれどもジャブローではボールはまだないから仕方がない。デザートは「アルテイシアへ」。モチーフは当然にアタッシェケース。開ければ金塊? それはないか。ほかにも赤い彗星Tシャツとか販売予定。ぜひ行こう。店内にはぜひにギレンのあの演説を流して欲しいもの。「ガルマ・ザビは死んだ。なぜだ」。そこで店内の全員が一斉に叫ぶのだ。「坊やだからさ」。嗚呼。

 そりゃあ何かは変わるだろう。例えば災害にまつわる描写がセンシティブになったり、復興をめぐるドラマにシンパシーを覚える人の求めに答える作品が多く出たりはするだろう。小川一水さんの「復活の地」とか、まさにそうした希望に答える作品としてアニメ映画かなりさたりするかもしれない。逆に「日本沈没」のような、たとえ未来に希望は残していても、どこか一抹の寂しさを覚えるシチュエーションを持った物語は作られづらくなるかもしれない。でもそれはいつの時代のいつの事態にも起こったこと。水爆実験があれば「ゴジラ」が作られ、高度成長時代に突入すればサラリーマンは気楽な稼業と茶化し、社長が漫遊する喜劇が作られ、全学連なり全共闘といった運動が起これば、そこに関わる若い人たちの感性なりが彩られた作品なり、すべてをナンセンスと叫ぶ作品なりが作られた。

 バブルへと至れば時代の優雅な気分を現す作品が登場した。ホイチョイムービーとか。でもそれだけ。時代に合わせ時代を映すエンターテインメントの表層は変わっても、その根源となる創作への意欲、創出への意志にいささかの変化はなかったし、揺らぎもなかった。そしてそいうした創作を見る側、受け取る側もやっぱり時代の変化を映し、時代に添い寝した物としてそれらを受け止め楽しんできた。あるいは噛みしめてきた。その関係はたぶんこれまでも、そしてこれからも続くだろう。

 なるほど起こったことはいつも以上に巨大で犠牲者も多大で広がりも大きい。だからといって、あの大戦に勝るかというとそうでもない。そしてあの大戦の前と後で創作者の気構えに、そして受けての気持ちに変化があったかというとそれはない。ないからこそ明治の小説も海外の古典も、それこそ源氏物語からギリシャ悲劇までもが読まれ受け入れられ楽しまれているし、絵画も映画も見られ続けている。今回もたぶんそうだ。生まれる表層に違いはあっても、それは時代の気持ちを映したものに過ぎず、本質のところに変化はない。あるはずがない。それがたとえ創作に先鋭的で、消費に貪欲なオタクであっても変わらない。むしろ創作や消費に貪欲であるからこそ、時代を映すものを真っ先にたしなみ、眺め味わい尽くそうと考えるだろう。それがオタクという生き方だと、僕は考える。

 もしも変わると言うのなら、それはそう言う人の気持ちが変わっただけに過ぎない。不安なり衝撃なりが押し寄せて、怯えるなり驚いてしまった心を正当化するために、すべてが変化しなくてはいけないと考えてしまったからに他ならない。そうあって欲しい、そうあるべきだ、そうでなくてはおかしいと思いたがる自我というフィルターを通して世界を眺めるそのスタンスを、決して貶めるつもりはない。そう思いたくなって当然だし、そうでなくてはあの驚きを心の中で納得させることは難しい。けれどもそれはそれ、個人に内在する心理であって、世間というものは、あるいは創作という行為は前も今も変わらず続き、これからもそのまま続いていく。変化は変化として反映させつつ、本質の部分は揺るぎなく。だから望む。否、望まずともそれは来る。今を現す創作が生まれる時は。未来につながる創作が行われる時は。慌てることも怯えることも狼狽えることもない。ただ感じ、そして受け止めれば良い。今を。そして未来を。


【4月13日】 金曜日ではない。なんか夜中にバスが1時間に1本しかないから田舎だとかいったアニメーションがやっていたけれども、とある漫画というか読んだばかりの西炯子さんの作品集に入っていた田舎は3時間に1本、どころではなく3カ月に1本しかないという状況で、それに比べれば1時間に1本なんて山手線が1分に3本来るような大盤振る舞いかもとか思ったけれども、実際1時間待つとなると結構辛いものがあるからなあ、とくにバスだと待合所がなければ立ちっぱなしになるからなあ、その点でアニメはまだ待合所があって良かった。猿に帽子をとられたけれど。

 そんでもって帽子をとられた弟の変わりに兄が猿を追いかけ森の中へ。そこには美少女がいて山菜を積んでいて少年とぶち当たってパンツを見せてキスまでさせてれくたというか、してしまったというかそんな出合いもあったりして、田舎にもそんな美少女がいるんだ、それも2人もいたりするんだといった喜びに浸って到着したのはとある旅館。そのもう使ってない本館に下宿することになった兄と弟のうちの兄がお風呂に行くとまたしても美少女が掃除をしていて少年の裸をばっちりと見て、そんでもって旅館の女将の姐さんもやっぱりばっちりと見てそれはもう恥ずかしいというか、むしろ見られて嬉しいシチュエーションを通り過ぎ、学校に行ったら先生が眼鏡のクールな美人で、そして森であった美少女が2人とも同じクラスにいたという。

 そんなフラグの前段階を立てまくってアニメはおそらくいろいろな美少女やら美女を相手にいろいろあったりする展開が繰り広げられるだろう「星空へ架かる橋」、って何か分校おかしくないか? そんな気もしないでもないけれどもそれ以上に舞台となってる山比古町の美少女の多さに吃驚。ファッションもこなれていてそこが都会の女学院だと言われたって信じてしまいそう。先生だってオフィス街で働いてるキャリア女性だって言われて不思議はないクールさだったし。いったいどうしてそんなに美少女と美人が? って言われればそれがエンターテインメントだとしか言いようのないこの現実。だいたいがもっと田舎っぽい雛見沢村にだって美少女がわんさかいた訳で、暮らすんだったらむしろそっちの方が良さげな感じもしたけれども掟を破ると遭う目は半端じゃないから、殴られ蹴られてパンツが見える山比古町の方が良いってことに決定。どうやったら行けるんだろう?

 読んだはずなんだけれどもあんまり内容を覚えてなくって読み返す必要もありそうな「月光」(電撃文庫)を書いた間宮夏生さんが多分同じような世界観らしい設定でもって「恋愛サイケデリック」(電撃文庫)を発表。死にたがりの少年がいて理由は自殺した姉にあるんだけれどそれを抱えて孤高に生きている少年に感心を持ったのがサイケデリコというか彩家亭理子という少女。とにかく強引で空気も読まずにその少年のところに押し掛け逆鱗に触れては首を絞められ留めに入った閻魔様とこ円馬佐那をも蹴散らして、関わるなと言って場を後にするけどそれで諦めるサイケデリコではあり得ない。探り追いつめそしていよいよもってその死にたがりの理由に迫り、解脱への道を強引にひらく。

 サスペンスフルではあるけれども、とくに謎解きを求められることもなくって状況からそういうこともあるのかなあ、と思いながらよんでそうだったこととそして、そうでもなかったことを教えられ、だからそうなってしまったんだといった理解を得られるようなストーリー。それでも幾つか驚きはあって例えば円馬佐那って乱暴そうに見えてイラストの見かけはまるで違った感じの理由が分かったりして、そうなのかそれじゃあそうかもな、って感じに思えるけれども一体学校ではどういう説明がされているのか、理子は果たしてどういう認識をしているのか、なんてことが気に掛かる。それとも「月光」でも似たような展開あったりするのか、まるで違う話なのか。ますます読まなきゃ「月光」。

 えっと。なるほどレベル7だってのはあるいは言い過ぎかもしれないし、よくよく調べればそうでない可能性ってのも残っていない訳じゃないけれども、現時点において調査したところの結果がレベル7の基準に達しているのだったら、それをレベル7だということに一切の間違いはないし、指定する側も躊躇いなんかもってはいけない。それはルールに従っての行動で、もしもルールを破り基準を恣意的にねじ曲げるようなことがあったら、それこそ世界からご都合主義国家と糾弾され避難される。

 確かに印象は悪いかも知れない。レベル7というのが史上最悪のチェルノブイリ事故と同じカテゴリーにあるから、それと似たような状況が起こるかもしれないと世界に思われてしまうかもしれない。だったら説明すれば言い。中身はまるで違うと。あちらは確かに棒高跳びで6メートル以上を飛んでいるかもしれないけれど、それはあるいは20メートルにも達する超人以上の代物で、ようやく世界記録の6メートルに達した今回と同じに語れるはずがない。そう言って影響の小ささを納得してもらうしかない。ルールはルールとして尊び、説明は説明としてしっかり果たす。それこそが世界の認める良識ある国家の振る舞いだ。

 けれどもとある媒体は、基準は基準としてあってそれに従う必要性よりも先に、世界に与える影響の方が大きいからと基準に達していてもそうは言うなと主張する。つまりはルールを破れと声高に公言している訳で、そんな新聞が一方では教育の正常かを訴え倫理の大切さを訴えていたりするのだから、もう訳が分からない。いったい何があったのだろう。どうしてこんなことになってしまったんだろう。理由は簡単。レベル7にしてしまったことが、世界に影響を与えるという理由をもって、現在の政権を批判したかったから。牽強付会。我田引水。なんだかなあ。その結論を良しとする声があったとしても、その論旨の組み立て方を見れば、さすがにこれは無理筋と引いてしまう。けれどもそれを平気でやってしまえるところにきっと、いろいろな問題の根源があったりするんだろう。参ったなあ。

 っていうか凄いなあ、あれだけ面前で罵倒に近い言説を履いてその資質を糾弾してみせた質疑応答が、当該の媒体にたいして紹介されていなから驚愕というか唖然というか。その会見自体も他がそれぞれの面で最初に持ってきて写真も入れたりしている中で、当該の媒体は奧のページに30行に満たない分量で掲載。他に会見要旨や質疑の内容も載るには載っているけれど、そこに面罵に近い質問は、ニュアンスが減殺されて順番も最後の方へと押しやられ、自ら本質の質問ではなかったことを示唆している。そうみると浮かぶのが、一体何のために聞いたんだろうということ。ネットの速報のためなのか。自らのブログのためなのか。いずれにしてもジャーナリズムがやったこととして、あまり前向きなスタンスとは言い難い。

 衆人の利益を代表してその場にいるなら、職責においてその媒体に経緯を説明するのが筋。それがあっての知る権利の代弁者たりえる訳で、それがない以上はつまりはテレビも前にした一種のパフォーマンスに過ぎないと言われても仕方がない。見ていた人の溜飲は下げたかもしれないけれど、それとて一部の人たちに限られる。他にはその言説に忌避感を覚えた人もいるかもしれない。だからこそ言いっぱなしではなく説明を、それも公衆の面前で罵倒したに相応しい理由を含めて、その所属する媒体で行うべきなのに、それをしないのか、あるいはさせなかったのだとしたら前者なら拙く、巧者でもだったらどうして任じているのかを問われる必要が出てくるのだけれど、果たして。


【4月12日】 先週は見逃したけれどもとりあえず見てみた「戦国乙姫〜桃色パラドックス」は、時代はともかく眼鏡っ娘っぷりがとっても良かった明智光秀ちゃんにまず注目。何より量感がある上に押さえ方の甘い織田信長よりも、細身でなおかつしっかり押さえている光秀の方が“揺れる”ように見えたりするからきっとあれで着痩せしているか、強力に押さえてもそれでも押さえきれない弾力が、そこにあったりするんだろう。外せば一気に膨らむという寸法。見たいなあ。まあ信長もあれはあれで眼に良い塩梅。秀吉になる少女が平ぺったいだけに、せめて戦国の世に生きる者たちのその巨大さでもって眼を潤わせて頂ければこれ幸い。しかしどうして男子がいないんだ? そんな辺りも気にはしながらときおり見ていこう。

 つまりだ。1981年2月が誕生日の森麻季アナウンサーと、1988年4月3日に誕生日を迎えたばかりの巨人にドラフト1位で入って今年がルーキーの沢村拓一投手とでは、実質で8学年差があるってことになる。それはすなわち、小学3年生の沢村クンを高校2年の森姉さんがちゅくちゅくしているってこの等しい歳の差で、想像するとこれはこれでとっても艶めかしくショタっぽい風景が広がるけれども流石にそんな趣味を森アナウンサーが持っていたとは思えないから、ここは普通に23歳の大人になった沢村投手に惹かれたといったことなんだろう。というか逆か、30歳の大人の魅力に新入社員がよろめいたという図式。

 つまりはだから、去年にアラサーのど真ん中にあたる大台超えを達成してしまい、もういっかとある程度の諦観を得てしまった姉さま方でも、今年の新入社員に立ち向かっていいのだ、それでよろめく新入社員もいるのだという可能性を見せ、頑張ろうという勇気をあたえた、今の時代にとっても求められた明るいニュースだってことになる。それこそ社会面経済面で報じられても構わないくらいの前向きなニュース。なのに世間であんまり騒がれている感じがいないのは、それだけ世間に明るいニュースを受け止める気分の余裕がないってことなのか。ちょっと悲しいなあ。

 しかし実質8学年上にアタックするという沢村投手のその前向きさもまた凄い。この年齢差を僕の学年に当てはめて考えるなら、大学を卒業した歳にピンクレディーのミーちゃんケイちゃんにアタックして、交際し始めるって状況になる。あるいはかたせ梨乃とのデートが発覚したとかいった状況。こう見ると8歳くらいの歳の差なんてミーちゃんケイちゃんかたせさんが相手だったら関係ない、むしろ嬉しいって気持ちすら浮かぶ訳で、それと同じくらいの気持ちをきっと、森麻季アナの巨大な何かに感じたってことなんだろう。あとはこれが損なわれないで成就して、アラサーには希望を与え23歳のルーキーには憧れのあの女性をどうにかなれる可能性を見せて欲しいもの。応援してます頑張って。つか森麻季アナって何に出てるんだ?

 「現実問題として与野党協議にしても、最大の障害になっているのは首相の存在であり、後手に回った震災対応でも首相の存在自体が、国民の不安材料になっていると思う。一体、なんのために、その地位にしがみついていらっしゃるのか考えを聞かせてほしい」という質問に、やんややんやと喝采が飛ぶ世間が実際に存在しているという状況が、どういっていいのか分からないくらいにこの身をふんわかとした気分にさせる。これが小沢一郎だったら、あるいは鳩山由起夫か岡田克也だったら話が進むのかと言われて、その気がない野党との間に協議なんて進むとはなかなか考えづらいし、そんな野党だって長老に聞いては答えを得られない繰り返し。本当にやりたかったら与党や政府なんて放っておいて、自分たちでやれば良いのにって気もしてしまう。戦後50年をトップに君臨して来た党なんだし、次を狙っている訳だからそれくらいの力はまだあるよね? 口だけで行動しないんだとしたらそれは立派に野党根性。もはや政権奪還なんて有り得ない。

 分からないのが、後手に回った震災対策ってことで、福島第一原発のベントが遅れたのは別に、首相による視察が原因ではないことはすでにいくつかのメディアによって記事にされ、証明されている。そんな質問を放ったメディアのみが、それを未だ指摘し続けているというか、1度は否定しながらも再びそれが原因だと言っている訳で、つまるところ、首相周辺に漂う不安はむしろ当該のメディアから浴びせられているもので、それで首相そのものが不安材料になっていると指摘するのは、自分が不安だ思う貴方が不安だと自分に思われているのは何故と聞いているに等しい。これはちょっと答えづらい。貴方が不安だと思っているからですと答えるより他にない。なのにそれでは答えになってないと言われるから悩ましい。

 何より天皇陛下より任命された内閣総理大臣という地位に、もっと尊敬を払って欲しいという気もしないでもない。もちろん厳しく問うべき時に問うのは構わないけれど、少なくとも地位への敬意といったものを示すことをしないと、世の中の誰もがそうした存在への敬意も尊敬も抱けなくなる。教育の再生を口にする以上は、それなりの地位ある者に対して一定の敬意を払うことはやっぱり必要。それなくしてはまとまるものもまとまらないにも関わらず、そちらはそちら、こちらはこちらとばかりに思うがままの態度で振る舞うところに不思議な空気が立ち上る。事実に基づき糾弾するのがジャーナリズムと信じていた人が、思いの丈をぶつけているように見えなくもないその質問を見て何を思うか。難しい。そしてそれがやんやの喝采を浴びる今の風潮も、同様によく分からない。それで良いのか。良くないと思っているのが大勢なら見捨てられるだけだし、一部の喝采を統べてを見てそちらに突き進んでいけば、やっぱり道を踏み外す。果たして。辛いなあ。


【4月11日】 キャラクターのビジュアル的なニュアンスはカラーリングも含めて「あずまんが大王」で、ボンクラがいてちびっ子の天才がいてってキャラクターの配置的な部分は「ぱにぽに」で、そのアニメーション版の「ぱにぽにだっしゅ」だって多分、大勢が思っているだろうし、実際にそう思われているっぽい意見も多々ある「日常」だけれど、そんな「あずまんが大王」も「ぱにぽにだっしゅ」も、日常にわき上がるシチュエーションのシュールさが滅茶苦茶に面白かったのと同様、「日常」も「日常」なりの日常とシュールさを出していて、とっても楽しめるものになっていたって、これは断言しても良いんじゃないかな。

 漫画の「ぽにぽに」を新房昭之監督がバラして組み合わせて重ねて捻って、シュールさと舞台劇的なメタっぽさを加味してみせた「ぱにぽにだっしゅ」に比べると、おそらくは原作が持つシュールな展開に、それほど手を加えてはなくってそのまま淡々と描写しているって印象。とはいえ、自分としては原作の漫画を読んでないから、「あずまんが大王」のアニメーション版にあった、原作を読んでいて自分の内に刻んでいたあの間合い、あのテンポがアニメになってちょっと違って覚えた違和感は、まだ「日常」には感じてない。今はどちらかと言えば、そんなアニメ版「あずまんが大王」に感じた淡々さがあるかなあといった印象。

 顔に妙なかぶり物をした女とのランニングとか、妙に王子様然とした男とのバトルといった派手な部分もあるにはあるけど、それが爆発して四散することはなく、むしろアクセントとなって丁寧な日常描写の部分を引き立てている。腕からロールケーキが現れるようなシュールさも、それで笑わせようとするよりは、そのシュールさすら組み込んで平穏な日常へと還元していってしまうあの世界の温かさ、緩やかさってものを感じさせてくる。見ていて仰天はせず引きもせず、ゆったりとしてちょっぴりクスリとできる良作、ってことになるのかな。ただカルト的になるとかマスターピース的になるかというと、そのあたりはこれから次第。「けいおん」が何でああも持てはやされたか、今も分からないところがあるんだけれど、ああいったムーブメントを呼ぶかどうか、呼ぶとしたら何が引き金になるのかを、ちょっと見守って行きたい気分。

 いよいよか。もう随分と昔に「True Tears」がブルーレイボックス化されたあたりで次は「キスダム」ですよねと強い声で偉い人に訴たもののうーむと思案され、そして「ゼーガペイン」のブルーレイボックス化が果たされたあたりで次こそは「キスダム」にしましょうよとメーカーの人にいってまだまだ感に溢れた顔を見て、やっぱり無理なのかもなあと諦めかけてから幾年月、ってだいたい1年か、そんな期間をモヤモヤとして過ごしてきたこの春先あたりから、だんだんと噂が聞こえてきた「キスダムR−ENGAGE planet」のパッケージ化が遂に実現……寸前にまでこぎ着ける。長かったなあ。そもそもDVDが出ると言われて、それが中止になってからだいたい何年だ? そこからはい上がった作品なんてまるで聞いたことがない。ってかDVDをすっ飛ばしてブルーレイ化かよ。有り得ないことこの上ない。

 もっとも今はまだ寸前で、決定ではないところがちょっぴり悩ましいところ。ほかにそうしたタイトルでも行われたように、これも2000人から入金が無ければパッケージ化が果たされないって条件がついている。作りの良さで世界に鳴った「True Tears」だったらすぐに行ったし、密かな人気を燃やしていた「ゼーガペイン」も同様に果たされた。「こどものじかん」も果たされかかっていたけれども、震災の影響で今はペンディング状態。そんな間に評判は評判だったけれども、違う意味で評判を呼んだ作品に2000人ものユーザーが現れるのか否か、といった瀬戸際にたぶん今、来ているんじゃなかろーか。

 とはいえ、紅白歌合戦にだって出演した水樹奈々さんがヒロイン役で出演しているアニメーションで、ほかにも売れっ子スフィアの戸松遥さんもいたり、「マクロスF」で大人気の中村悠一さんに遠藤綾さんもいたりと豪華な声優陣、そして作るは「マクロスF」のサテライトって看板を幾つも載っければ、すぐにだって2000が5000から1万といった数だってハーディアンの如くに集まってきそう。というかこのチャンスを逃すと永遠にパッケージ化は有り得ないといった強迫観念にかられたアニメ好きたちが、2000人くらいすぐに集まり申し込むに違いない。もしもそこで申し込まなければ「失格」「失格」「失格」と、3人娘から罵倒され足蹴にしあれて地べたどころか地の底をはいずり回る羽目となる。ならば買うしかない。行くしかない。という訳で5月に向けてお金を貯めよう。「プリンセスラバー」はだから断念。「フラクタル」は……考え中。

 そして1カ月を迎えて世界は落ち着きを取り戻したかに見えても、それはこの周辺のことであって本当の現場は変わらずに苦衷の日々が続いている。そんな思いを噛みしめつつも、1カ月という節目をどう迎えようかと考え池袋にある宮城県のアンテナショップへと出かけて、2時46分を迎えて心で黙祷をしつつレジにならんで「萩の月」とそれから笹蒲鉾を買って帰ってむさぼり食う。牛タンはちょっと高いんでパス。ずんだ餅もまた今度。そうして整理を付けつつ机に向かっていたら、リポート中のテレビの中で揺れが起こりそして周辺もゆらゆらと揺れ。1カ月が経っても世界は変わらず1カ月前が続き、そしてまだまだ続きそうな状況に、人はいったいどこに安らぎと落ち着きを求めたら良いのかって意をさらに強くしてしまったかもしれない。じわじわと効いてくるダメージ。けれどもそれすらも現場に比べればただのそよ風。そう思いここは踏みとどまって今日を送り、明日を迎え明後日へとつなごうと決意する。未来よ。


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