縮刷版2011年4月上旬号


【4月10日】 そういや見たんだっけ「Dororonえん魔くん メーラめら」だったか何だったか。絵のテイストのダイナミックプロっぽさ、というか以前の懐かしの「どろろんえん魔くん」らしさに感動しつつ始まってから繰り返しぶち混まれる昭和40年代後半テイストに、だいたいの事象をちょっと遅れてか、あるいはリアルタイムで見てきた世代として楽しんだりもしつつ、今の10代20代から果ては30代あたりも含めて、これをどう楽しむんだろうかといった興味も浮かぶ。出てくるタームのいったいどれだけ分かったかな探しをやって楽しむのかな。それが今の楽しみ方なのかな。

 絵についても駆け足の時の脚がとぐろ巻きになっていたりする絵を、久々にアニメで見たって印象。昔はそんな表現ザラだった。懐かしい。けど良いのかな。良いんだろうな。声についてはえん魔くんを野沢雅子さんと間違えそうになった。山口勝平さんだから前のえん魔くんの野沢さん系女性がやる男の子声から、男性がやるガキんちょ声になってガラリと印象も変わるんだろうなと予想してたら、それが良い方向に裏切られた。だいたい同じ。ほとんど同じ。よく出せるなあ。雪子姫についてはほとんどアンゴルモアちゃんといった感じ。っていうか一心同体? すぐ前日あたりに「フリージング」で暗く叫んでうめく声も耳にしていただけに、その変わりっぷりは凄いけれども、「たんすわらし」みたいな驚きの能登麻美子さんではなかった。でも雪子姫にはぴったり。あとはビジュアルで楽しませて頂ければ。履いてないなら履いてないところを履いてないと分かるように見せて欲しい、とか。何が見えれば良いんだろう。

 あれから1カ月と1日前。普通だったら明日に今日1カ月といった節目の記事を載せるところを何故か、新聞あたりには明日で1カ月といった記事を今日あたりにいっぱい書いているとかどうとか。それはだから今日に統一地方選挙があって、明日の紙面はそれで一杯になるから今日のうちに紹介しきっておきましょうという事情からのものであって、つまりは4月11日という日付の新聞において、最もバリューが高いのは選挙の結果であって、あの未曾有の事態から1カ月ということは、それを上回って大きく紹介され得る事由ではないという判断がそこに働いていると見るべきなんだろう。

 現実、明日で1カ月が今日に乗ることと、今日で1カ月が明日に載ることの間に違いがあるかといえば、情報の深さ広さが1日増して大きく加わるということもなく、世間に伝播する力が強まったり弱まったりするこもない。同等に読まれ知られ広まっていくから別に構わないといった見方もできる。悩ましいのはそうした節目がメインで大きく取り上げられることによって、新たにすべき決意が翌日の、選挙といった騒々しさを持って語られる事由によって押しやられ、意識として後退していってしまうこと。おそらくは11日を選挙で飾ったあとの新聞は12日以降、1カ月より前とそれほど変わらない状況に戻っていき、大きく特集されていたページも減っていくことになる。

 未だ1万人を超える人の行方が判明しておらず、復旧どころか日々の寝食にも困る人たちが大勢いたりする状況は、事態がまだまだ非常時にあることを現してもいるけれども、そうした現地の状況が、こと首都圏において一般紙を標榜するメディアの上では“過去”へとおしやられていきかねないこの状況は、果たして是なのか非なのかといったあたりでいろいろと判断に迷いそう。こちらにはこちらの日常があるんだとう論法もあれば、同じ国としてやはり同様に非日常を感じて考えるべきだという論法も成り立つ。なすべきことはそうしたことをまだ当面、意識させ続けることなんだけれどそうした状況を阻むかのうように原発の問題が立ちふさがって、被災地への共感より先にわが身への不安をかき立てているからなあ。新聞に、とりわけ全国紙というものに何が出来るのか。とっても問われている時期にあると言えそう。

 けどでもそんな中にあってこの事態を政局に、それも極めて偏った感覚から政局に持っていこうとしているメディアもあったりするから何というか参ったというかやれやれというか。つい昨日、福島第一原発の事故に対する初動に遅れがあったことについて「遅れの最大の理由は、12日朝の菅直人首相の視察ではなく、電源喪失だった」と書いた新聞が、今日の主張で「この1カ月間の首相の問題行動は、震災翌日に福島第1原発を視察して『事故対応の初動に遅れが生じた』と野党から批判されたことなど、枚挙にいとまがない」と思いっきりひっくり返ったことを書いているからたまらない。主張ってものが新聞の社論を代表するものだとしたら、立場は未だ首相の行動が原発事故の対応への遅れにつながったという認識を未だに持っているってことであって、前日のはそうした主張に反した、間違った記事だったといったことにある。書いた人はビクビクだ。

 けど。世間はだいたい分かっていて何が原因かということへの認識をだいたい固めていて、主張が持っている危うさってやつにも感づいていたりする。あるいは主張している側もそうだろうなあと感づいた上で、なお政局として首相と党を避難しなくちゃいけない立場から、「野党から批判されたこと」と書くことによってそうした批判はあくまで野党が言ったものですよ、そういうことを言われてしまっている首相はやっぱり駄目ですよといったことを、漂わせようとしつつ自分たちの言ってることではありませんと、保険をかけていたりするのかもしれない。

 でも、野党がそう言い出した大元はそのメディアが最初に視察によって初動が遅れたと書いたことであって、それを受けて質問したことを理由にしたら、やっぱり自分たちの書いたことを理由にしているてことに繋がってしまう。保険にもなんにもなりゃしない。ってことはだからやっぱりそう信じているってことで、でもそうじゃなさそうってことは漂いはじめている訳で、そこに生まれた齟齬を世間がどう判断するかで、メディアの立ち位置にもいろいろと影響が出てきそう、っていうか出まくっているからごらんの有様なんだけど。夏、どうしよう。

 ふらふらと出かけて7人もの人が並んで合同インタビューを受ける取材に潜り込んで録音しようと思ったら、いつも使っているボイスレコーダーがなかったんで、iPadのボイスメモアプリを立ち上げ置いたら、並んでいた人たちにちょっと受けた。珍しがられて手にとられ、話しかけられたんで声も間近で入って記念になった。もしも次に単独で取材する機会があったら、話の接ぎ穂にはなりそう。そうでもしないとマイナーメディアはなかなか関心を持ってもらえないのだ、悲しいけれど。

 驚いたのは7人が横に並んだ真ん中あたりに置いたのに、ちゃんと端から端まで声が拾えていたこと。モノラルではるけれども無指向に周辺の声をちゃんと拾ってくれるみたい。使えると分かったんだでもっと使おう、持ち歩くのがおもいけど、首相のぶら下がりとかでこれを突きつけたらテレビにも映って目立てるなあ、ってそんな華やかな場には絶対に行かないけど。行きたくもないけど。ぶら下がりで直接聞いたところで通り一遍、その揚げ足をとって政局を作る仕事をやるほど落ちぶれちゃいねえぜ、なあ、まったく。でもそれができてのエリート様、なんだよなあ、やっぱり駄目かもしれないなあ、日本、の、メディア。


【4月9日】 シクシクと泣く日。あるいは四苦八苦の日として8月9日とともに苦労する日。かもとか思っていたけどとりあえず何もなく。早朝に目覚めて午前10時より少し前には川崎に行ければ良いかと家を出て、電車に乗り継ぎ到着した元住吉で「はるこん」というSF関係のイベントの日程を調べたらオープニングは午前11時からであったという。早すぎたんで武蔵小杉、略してむさこす(言わないか)のベックス当たりで適当に時間を潰してから、また元住吉まで行っておりて歩いたらブレーメンの音楽隊が積み重なってた。なんで川崎でブレーメン?

 どうやら商店街が出来たときにドイツあたりのこぢんまりとまとまった都市なんかをモデルにしたらしくそんな中からブレーメンというものが挙がったとかどうとか。ちなみに側にはオズ通りってのもあるそうな。そっちにはブリキ男とライオンと案山子がいたりするのかな。通り自体はそんなに広くない両脇にびっしりといろいろな商店があって楽しそう。ファストフードはそんなにないけど松屋系の飲食店もあればドラッグストアにスーパーもあって買い物には困らず通りを外れれば住宅街になってて食住近接、住むに暮らすにとっても良さそう。あとは駅のブレーメン通り側にある階段が長すぎるってことか。反対に回ればエスカレーターもあるから良いんだけど。

 とはいえしかしブレーメン。ブレーメンといえばやっぱる思い出すのがヴェルダー・ブレーメンで、そのつながりで商店街ではヴェダーでも応援しているのかなって想像もしたけれど、川崎といったらフロンターレの産地で元住吉といったらお膝元の等々力だってそんなに遠くない場所で、ヴェルダー・ブレーメンを応援できるはずもなし。でもフロンターれが不甲斐なければ元住吉だけ独立してブレーメンを応援するとか言い出したりしたらちょっと愉快。オズ通りでは何を応援するのかな。ドロシーの故郷ってことでカンザスシティ・ロイヤルズかな、それともカンザスシティ・チーフスか。サッカーじゃないじゃん。まあ川崎といったらアメリカンフットボールの“聖地”でもあるんでチーフス押しってことにしておこう。また勝手な。

 開場へと向かう途中でローソンチケットで月末くらいにあるアニメ関係のイベントのチケットを確保したけど始まる時間が午前0時とかってそりゃあ映画のオールナイトかよってな感じ。オールナイトなら途中で寝られるけれど、トークライブだと椅子に座ったまんまでうたた寝もできないんでちょっと行くかを逡巡中。上江洲誠さんや岸誠二監督や山本寛監督といった巨大名前の人たちが現れるんでのぞいて見たい気はマンマンなんだんだけれどもいかんせん歳が。でもって翌日がジェフユナイテッド市原・千葉対FC東京の試合もあるんで帰って眠らず行ってはね回るのもちょっとしんどいんで考えよう。明け方にさっさと帰るというのも手か。うーん。その時はその時ってことで。

 歩いて到着した川崎市の国際交流センターで「はるこん」のオープニングを見てロバート・J・ソウヤーさんをきっと2007年の世界SF大会でも見かけていたかもしれないけれどもまんじりとは2001年4月のSFセミナー特別編でカナダ大使館に来て講演を行い恐竜ケーキをみんなで食べた時以来に見て変わったのか変わってないのか判別つかず。ともあれその間にもいろいろな本を出して「フラッシュフォワード」はテレビドラマにもなってシーズン1だけで終わってしまって大金持ちにはならなかったけれども収益的には悪くなかったとかいった話を聞いてそれからやっぱりドラマなんで科学者が会話するような展開にはいかず誘拐があった魔法の指輪があったりブルーなんとかクラブが出てきたりといった盛り上がり要素てんこ盛りになって当人的にはいろいろだけれど良い経験は出来たとかいった話も聞いて、アメリカンドラマな世界、ハリウッドショウビズな世界のいったんに触れる。でもエンターテインメントで一攫千金が狙える健全性は羨ましい。コスト削減で誰も幸せになれないこの国を、見切る人がいずれわんさか出てくるんだろうなあ。

 自転車では来なかったらしい加藤直之さんの絵を描く姿とか見たり、すでに張ってあった加藤さんの作品で三島浩二さんの「ダイナミックフィギュア」って作品の表紙絵が上巻と下巻で実は微妙に異なっていたりするのを発見したり、ラリィ・ニーヴンとの共著で知ジェリー・パーネルがSFではなくITについての最新動向を綴ったコラムを翻訳して電子出版している林田陽子さんと喋ったりしてあれやこれや。文学フリマの電書部にも出品していたらしい林ださんだけれどパーネルという名前はSF向けにある程度は知られてるといった予測での出典だそうで、それが巧くマッチしたかはわからないけどIT業界の今について知りたくってそして英語とかあんまり詳しくなくって「リングワールド」が心の友な人はのぞいてみると楽しいかも。って実はニーヴン&パーネルの作品、読んでないんだった自分。

 帰りもブレーメン通りを歩いていたら今度は市議選に出馬している候補者たちが通りのあちらこちらでそれこそ大学のサークル勧誘みたいに居並び声をからしてた。27歳の眼鏡男子の候補者は運動員と数珠繋ぎになってムカデ歩き。だったらいっそわっかでくくって電車ごっこめいて走れば子供たちとか大喜びだったのに。あとは民主党やら公明党やら自民党といったビッグネームもあれやこれや。いっそなるほどブレーメン通りらしく楽隊でも組んで全員で練り歩く成り、上に上にと積み重なってヒヒンブーブーワンワンコケコッコーと叫べば世間の注目だってさらに集まったのに、ってそれだと4人までしかできないか。つかブレーメンの音楽隊ってどんな話だったっけ。もう思い出せないよ。

 やれやれだ。ネットが真実一路の場だとか言ってる人たちの多さはそれなりに認め真実一路の場でもあることを理解しつつも一方で、偽物くさい情報が一気にぶわっと広まって収集がつかなくなる可能性だってあるんだってことをやっぱり誰もが心に持って臨まなければ、意識して取捨選択されているマスメディアとは違った意味で無意識のうちにバイアスが働いて取り返しのつかない空気がそこに醸成されてしまうってことだって、起こり得るんだともっと強く任じておかなくっちゃけない感じ。都知事が東電株を持っているって? 違う。持っているのは東京都。そんなもの有価証券報告書をネットであさればすぐに分かる。東電のIRサイトからだって良い。それも操作されているって? 嘘をついたら国が黙っちゃいないって。

 それでもなお都民の貴重な税金が使われてとか憤って話を広める人たちがいる。でもいったいいつから株を持っているのかくらい、これも調べればだいたい分かる。それこそ東電が創業した時から。それ以前から電気事業をやっていた流れ。そこに税金が注ぎ込まれたって話にはならない。あと額面で持ち続けているのか当時の取得金額が簿価として残っているのかは分からないけれど、時価会計にしていなければ去年より株価が下がったところでそれは別に含み損にはならない。だから都民が損をしたってことにもならない。むしこれまで配当を得て貢献してきたってことでもある。そういうことはまるで無視。気づいてないならまだしも、感づいていて知らんぷりならなおのことたちが悪い。

 反意を抱く相手にネガティブな情報が現れたらそれを調べもせずせっせと広めまくる人たち。さらにはそこに乗っかる偉い人。既存のメディアが阿呆だと叫んで新しいメディアの台頭を標榜しながら、間違えると既存のメディアはこうしてますって感じの態度を見せる人をいったいどう扱えば良い? 応援していたのに何だか梯子を外された気分を味わう人もいそう。どっちにしても良い傾向と平行して、良くない傾向が見えて来たのも実際で、それにつけ込み規制だ何だと叫び始めるあっち側もいたりして、結果として首をしめていくことになるのにどうして気づかないんだろう。それとも案外にそれを狙って動いているとか? 陰謀論の奧は深くて底は知れない。やれやれだ。


【4月8日】 もしも「ファイブスター物語」の劇場版アニメーションが、そのまま連続していたとしたら第2作目ではきっとソープの半裸というかほとんど全裸とそれからメガエラがソープにぶわっとめくられてしまう場面も映像化されて、動いて叫んで耳と目を楽しませてくれたに違いないんだろうけれど、人物ドラマでほとんどいけたリブート第1巻とは違ってリブート第2巻は、コーラス3の若き日の躍動もあればフィルモア騎士団のサイレンだかブーレイだかとジュノーンとほかにR.E.Dミラージュやら黒騎士のバッシュやらが入り乱れてのモーターヘッド戦もたっぷりあって、描けばきっと3年5年はかかっていただろうからやっぱり叶わぬ夢だったってことで。第1巻ではほとんど最終兵器だったらモーターヘッドが第2巻ではもうてんこ盛り。主人公も変わって1本の筋が通った物語ってのとは違うってことを、そこで見せつけようとしていたとはなるほど永野護さん、やっぱりただ者ではなかったなだなあ。後付ではないよね。だって最初っからあれだけの年表が作られていたわけだし。

 きっと「重戦機エルガイム」をやっていたころから、あるいはそれ以前の「機動戦士Zガンダム」に関わり始めたあたりからもういろいろときっと構想はあったのかもしれず、リブート第2巻の各話の間に挿入されるスケッチとかインタビューとかを読んでいると「エルガイム」に出てきたガウ・ハ・レッシィが後のミーラジュナイのシャーリィ・ランダースに引き継がれているそうで、あのもさっとしたレッシィの髪型がどーしたらシャーリーのぶほっとした髪型につながるんだ、むしろフル・フラットじゃないのかといった謎はさておき、見るとなるほどしゃりっとした礼服なんかは重なるところがあるかなああ、といった感じ。もっとも途中からレッシィはやさぐれて、そのあとは艶っぽくなってしまってといろいろ変化を見せるんで、どのあたりが引き継がれているかもさらに曖昧になっていく。

 とはいえ「ファイブスター物語」だってキャラの顔が最初と後では結構変わるんで、そうした上っ面ではなく、コンセプトとして受け継いだところがあるってことになるのかも。一方でファンネリア・アムとディジナ・マイスナーは、言われてみればなるほど髪型もカラリとした性格も割と共通。アマンダラ・カマンダラとかああいった総髪で怪しげなキャラクターもログナーやら何やらいっぱい出てきているんでそうしたデザイン的な部分、そして性格的な部分をちりばめ試していった上で、自分なりの作品を作り上げていったんだろうなあ。そして作り上げ過ぎて未だにそこから戻って来られないというか、それっきりになってしまった上に今はすっかり停滞中。続きを、とは思うもののこれだけ数も出そろいっている上に、リブートされて読み返すとまた面白くっていろいろと想像も膨らんでしまうところが情報量というか世界観というか、そんな盛り込まれたものの多さ。これだけで十分って気もしないでもないんでまあここしばらくは、刊行が続くリブートを読み返しインタビューとかで世界観の間を埋めていくことで存分に楽しみを味わおう。

 先週はまるで1分も咲いていなかったけれども1週間近く経てばあるいはと朝方に本所吾妻橋から歩いて言問橋へと回って隅田川堤防の桜を見物、まあ6分から8分の咲きってところで満開の圧倒感はなくても目に潤いのピンク色が飛び込んで来る光景は見ていて心が温まる。とはいえ先週はあのまるで極寒の中、つぼみすら見えないような桜の下でビニールシートとかござをひろげて場所をとっていた人が見受けられた隅田川に、平日とはいえ学生あたりがいたっていいし、会社員だっていておかしくないところがまるで誰も場所取りの人がおらず、ましてやすでに宴会を始めている人もなし。それこそ行ったことはないけれども大阪の大蔵省の造幣局にあるらしい通り抜けを歩いて抜ける人たちが如くに、桜の下をぶらついては写真に撮っているくらいで、それはそれでとても清らかで心休まる光景ではあったけれども一方で、無駄な活力を世間にアピールして日本まだまだやる気マンマンと思わせていてたエネルギーって奴が、まるで感じられないのがちょっと意外で、そしてちょっと恐ろしかった。

 宴会の中心地ともいえる上野あたりがどうなっているかは分からないけれどもやっぱりおなじような状況が繰り広げられているとしたら日本人、何て礼儀正しくて優しい国民なんだろうかと思えるかというとそうでもなくって、世間を見渡し突出したことをやらないのが美徳というよりはむしろ処世術と考えるような人が増え、それから面倒なことには関わらないのが生きてて楽ちんと考えるような人がいっぱいに溢れてしまっている状況が、現れたものだと言えないこともなく、そんな空気を読んで右向け右なら右しか向かない人たちが、妙な空気に引っ張って行かれた挙げ句にたどり着く先って奴を想像すると、もうどうしようもなく心がブルブルと震えてきてしまう。もちろん弔意は弔意として示して悪いものじゃないけれど、弔意すらなくただ惰性で従い流れることは不謹慎である以上に不気味。だから騒げというんじゃなく、そうした意識をどこかに引っかけ流石にこれはというときには止まり跳ね返そうとする気持ちを、留め置き続けなくっちゃいかんのかもなあと思わされた次第。週末はだからどこかで花見しながら宴会だ、もちろん1人で。知り合いいないし。

 しかし宴会しようにも麦酒とかまでなくなっているのは困りものか? いやまあ普段からあんまり麦酒は飲まずウイスキーのバーボンをおちょこで1杯2杯ってのが関の山だから困りもしないんだけれど、こうして物資の流通に滞りが見え始めるとやっぱり凄いことだったんだなあという実感もちょっぴりだけれど浮かんでくる。一方で放射線については妙に醒めていて、もう人類これでおしまいだとも東京これで崩壊だともまるで思えず、福島だって数年すればまた普通に戻るんじゃないかとすら思えるのは何だろう、2つの原子爆弾を落とされながらも2つの町が今は普通に都市になってて大勢の人が暮らしている様を、見知っているからっていうのもあるんだろうか。あるいは放射能の雨が降るからと言われて育ったあの当時からすれば、レベルが怯えるほどには達してないと感じているからだったり、あと数分で世界は核戦争に突入するかもって終末時計が4分前から3分前まで来た1980年代を生きてきたからだったりもしそう。

 もちろん福島から離れた場所に住んでいて、まださらに離れた場所に移り住めるだけの蓄えも家もあるってことが安心感に繋がっているのかもしれない。既に禿げているからってのもあるのかな。とはいえ似た世代似た風貌似た境遇にありながら不安に怯え不満を抱き正常化のための政府転覆すら言い出す人もいたりするだけに人それぞれっていえるのかも。メディアが嘘しかいわないってことから生まれる疑心暗鬼については、はんぶんくらいはメディアに身を置いていて、なるほどメディアはこと政局だのといった部分で世間を誘導したいが為のとばしをやることはあっても、こうした一般的なことについては無理に情報を隠蔽して企業とか権力に与して嘘ばっかり言うものではないって感じてて、今の状況を伝える声にそれほどの萎縮も、逆に誇張もないかもなあ、って感じていられることがあるのかも。一時は万事じゃない。そんな相対化を出来る思考をサブカルチャーの人は数々のフィクションから学び見につけてきたはず。なのになあ。まあいいや。自分ひとりでも落ちついて、考えそしてどうやったら実家で暮らしていけるかを算段……ってそうじゃないってば。誰もいなくなった東京で一気にスターダム。その方が夢がある。よなあ。


【4月7日】 春はどうにか開催そのものも行われ、中継だって大丈夫だった甲子園での高校野球だったけど、夏ともなると流石に冷房がガンガンと効いた中で、誰もが一戦に注目して、テレビを着けてそれに見入るといったことがちょっと、臆するような電力状況になるかもしれない。あるいは首都圏では甲子園の中継を見てはいけない令とかが出て、大勢の高校野球ファンを歯噛みさせる事態も起こりかねない今、必要なのはそれでも高校野球の中継を最低限は行えるようにすることで、それにはやっぱり高校野球中継許可証の導入なんかが、推進されるってこともあるいはあったりするのかな。

 例えば喫茶店とか食堂で、冷房効いてます高校野球やってますと看板を掲げ、人を呼び込むところが夏には結構あるけど、そうした店がパブリックビューイング的に正しいかどうかは別にして、やはりどこもかしこも中継されては、電力の需要が逼迫するといった事態を招きかねない。それを予防するために、あらかじめ中継可能な喫茶店なり食堂を決めておくというのがこの制度。希望するところは発電装置を備えた自転車を用意して、それに対応した漕ぎ手を中継時間分、揃えて名簿にして提出するなり、風力発電用の風車を設置して、それをグルグルと回して発電すると申し出る。

 ずらりと太陽電池を備えてもいいけれど、それはちょっぴり設備投資の負担が大きい。やっぱり人気は人力ということで、夏にかけて脚に自信を持った競輪選手や競輪学校の生徒たちが、大量にスカウトされるといった事態が起こるかも。なんてことはさすがにないよなあ。あるいはこれだ。甲子園の1カ所で開催されるから、中継しなくちゃいけないわけで、これを全国で開催すれば、それぞれの球場で生で見られるようになり、わざあざ中継を見なくてもよくなる。人読んでクラウド甲子園。ってそれはもはや甲子園ではないよなあ。まあでもサッカーの高校選手権だって、首都圏で分散開催されている訳だし、時期も時期なんで甲子園、全国に広げていいんじゃない? 神宮甲子園にクリネックス甲子園。もはや戸越銀座が小京都って感じだなあ。

 夏目ココロさんって人の「黒鉄ガール」(講談社)が凄まじく素晴らしいので読むように。なにやら続いていた戦争が終わり、軍需で潤っていた町工場が軒並み干上がり工場の娘や息子たちは進学にも困る暮らし。生成優秀の少年も大学には行けず親の工場を継ぐとかいってる最中にあって、同じ町にあるメーカー子弟は前と変わらない暮らし。自然、両者の間には壁が生まれ対立が生まれ、お互いにいがみあっていた、そんなある日。町に正体不明のロボットが現れ、軍需企業が手がける正義のロボットを壊して消えてしまった。ロボット修理のために工場には仕事が回って町工場組にもちょっぴり潤い。しかしそれには事情があって町工場の娘のよりこを悩ませる。

 よりこのクラスにはメーカーの重役の子息もいて、よりこの一派と離れた場所にいたというか、誰ともあまりつるまないでいた。そんな彼と前日に、閉鎖された動物園の入り口ですれ違い、彼が捨てられていたアルパカを拾う場面に居合わせたよりこは、その流れもあって彼から興味を持たれた様子。あまり接するとメーカーの子弟からは疎まれ、町工場の子弟からも裏切り者とみなされる、そんな間で苦しむよりこを知ってか知らずか、彼はなぜかよりこに興味を持つ。臆しながらも惹かれつつ、よりこは一方で自分の工場を建て直すための策をとろうとする。

 そして何度目かの策の時、よりこは彼の仕事に気づいて胸をいためる。このまま続けるべきなのか、それとも。大企業の城下町なんかで起こり得る、メーカーと下請けの人間まで巻きこんだ関係を、戦争後に残された戦闘用ロボットというガジェットを介在させて描いて見せた点も異色なら、そんなロボットにどうして重役の子弟がといった謎も提示して終わる第1巻。続く第2巻ではそうした謎にいったいどんな答えが与えられ、そして世界はどんな様相を示していくのか。何より登場しているアルパカが、いったいタダのアルパカなのか、それとも得体の知れない何か別の生き物なのか、分からないところも興味のポイント。その辺りにも説明を付けてくれると期待して、続きの刊行を今は待とう。

 アニメーション映画の「宇宙ショーへようこそ」公開から1年とまではいかないけれども結構経っての発売に、どれだけの人が興味を持つのか分からないけれどもすくなくとも、舛成孝二さん好きとしてはやっぱり克っておきたいと小野敏洋さんによる漫画版の「宇宙ショーへようこそ」を買って読んだら夏ねえちゃんが平ぺったかった。歳からいったら5年生あたりだから、人によってはもうちょっぴりどころか結構なふくらみ具合になっていたって不思議はないけど、夏ねえちゃんい限ってはもう真っ平ら。巻末あたりでペッポに捕まり薄着にされてもまるで目立たずこれってもしかして夏にいちゃんかもとすら思わせる。いっしょに出てくるマリーがどっかんぼっかんなだけにこの対比は同じ性別として可愛そう。将来への不安も募るけれども人によっては中学に上がって一気にってこともある。今はそうでも明日はという期待を込めつつ目に補正をして見てあげよう。ほうらぷっくり……してこないなあ。

 トップと同じ党にいながら、トップに批判的な勢力に与する人物が、関係筋とやらか聞いた話として、トップの至らなさを現すようなエピソードを語って聞かせた記者から、それを聞いて記者が、新聞ではなく自らのブログに、本当か分からないけれどもありそうな話と書いて、それが一部より喝采を浴び、記者はますます悦に入り、周囲もそれをもてはやすという状況を、咎めずむしろ良しとしているメディアの将来について、ちょっとばかり考えた時に、事態はフクシマ以上にメルトダウンが進んでいるかもしれないと、思えなくもない。けれども、見渡してそう思っている人のあまりいなさそうな事態に、頭をかきむしっていたら毛が抜けてしまった、というのは嘘で、元から毛なんてないんだったという、冴えない落ち。

 それはさておき、まっとうならメディアなら、それは大事と仲介の記者を越え、話したトップに批判的な人物に事情を聞き、その先にある関係筋も探し手当たり、さらには公の会見の場でただし、真偽を確認して、事実なら記事にして世に問い、事実でなければ没にするのが、メディアにとっての筋。そうやって精査された情報が集約されているからこそ、メディアはメディアとして認められ、価値を持つに至るのだけれど、今はそうした価値の上に乗っかって、身をより大きく見せつつ伝聞を、自分の思う方向へと世間を誘導できるものだけ選び、つぶやいてみせてそれで世間が沸き立つ様を、喜び自分の大きさを認め笑むというスパイラルが繰り返される。

 あるいはネット次代に相応の、柔軟で機動的な情報の伝え方なのかもしれないと、そんな味方もやってできないことはない。ただし、それは、かつて築き上げた信頼の上につま先立ちで背伸びしているだけのもので、あまりに繰り返されすぎれば、やがて足場は信頼を失い、崩れ去って、つま先立ちになった者たちは、落下していくことになる。それを、明晰ならば気づいていないはずはないのに、気づかないふりをしているのか、本当に気づいていないのか、分からないのが悩ましい、本当に本当に悩ましい。崩れ去っても構わない、むしろ機動的で情動的で、扇情的な言説を振りまくことで、世に存在感を訴えるという立場へと、転換を決断したのなら、それはそれで構わない。一方で権威を維持し、権力にすがって世に屹立しつつ、一方で扇情を行う中途半端さに、世間は気づき、許さず、見放していくことになるのだろう。早めにだから、言おう、合掌と。


【4月6日】 101年前に隊長だった平子真子たちの再登場に誰だあれといった反応を示したところを見ると、当時からすでに死神だった訳ではなさそうな日番谷冬獅郎さけれど、見かけとは違った年齢であることは死神だったら当然で、それを同じくらいに扱いため口をきく黒崎夏梨のなかなかの剛胆っぷりも見えた「BLEACH」のオリジナルエピソード集。前に空座町にいたということになった冬獅郎が知り合った婆ちゃんの家になついていた霊がホロウ化するのを防ごうとする冬獅郎や夏梨の活躍と交流が描かれていたけれど、そこで果たしてフラグが立ったかどうなのか。下に松本乱菊とかいても彼女は市丸ギンに一途な乙女。隊長と呼ばれ慕われてもいわゆるステディな関係にいるのは見あたらないから、あるいは将来においてそんな展開もあるのかも。そうなると一護をお兄ちゃんと呼ぶことになるのか。またそれはそれで。うーん。

 やっぱり真っ先に浮かぶ関連キーワードが林葉直子さんってあたりに理解の仕方の偏り具合も分かるってものだよなあ、サイ・ババ危篤の報を聞いて。むしろ「理性のゆらぎ」や「アガスティアの葉」といった方面に思考が及ぶのがインテリって奴だけれども、根が俗物で美人に弱い上に将棋にも興味があった人間として、当時はまだ現役の女流棋士でそれなりな強さも誇っていた林葉さんが、突然にサイババに会いに行くと言い残して失そうしてしばらく、現れてそれから豊胸だの突撃だのといった事態を引き起こしてはワイドショーを飾ったことも強く関連キーワードとして印象づけられた理由かも。

 とはいえそれからだって軽く15年以上は経っている訳で、日本では宗教への関心の後退からあんまり注目されなくなったサイ・ババが、その後もインドの地ではしっかりと聖人として名を残し、そして今もしっかり活躍してはその危篤が全世界に報じられるくらいに著名な人物だったってことに改めて気が付いた。果たしてどこまで本格的に聖人として崇められているのか、やっぱり日本と同様にどこか秘密を隠した人物として興味本位に見られているのか、分からないけれどもともあれ立派に第1線に立っていることだけは確実。そしてその生涯がどこに向かうかも見ていながら、ことあればやっぱりそれなりに扱われることになるんだろう。林葉さんのコメントとか、出るのかな。

 インドというかネパールが舞台になった西原理恵子さんの「山ガールできるかな」が「週刊SPA!」の2011年4月12日号に掲載されててネパールのお祭りめがけてインドあたりから大人数のサドゥーがやって来ていたという話に大注目。修験者といった存在らしいけれども僧侶のようなものとは違った、どちらかといえば日本のホームレス的風貌に、宗教的な何かを背景にしたパワフルさを兼ね備えた存在とったところで、その不思議さは「サドゥ 小さなシヴァたち」という写真本にもまとまっているらしいけれど、眺めるとなるほどやっぱりとてつもない。そんな人たちに出合いなおかつホテルに来たサドゥーから他が威嚇されるなかを1人招かれ人形を手渡された西原さんにはやっぱり何かが宿っているのか。珍しかったのか。うーん。

 川の畔では人がいっぱい焼かれていたとかでそのまま川に流された灰が高知の細い川にたまってなかなかかことになっているとかいないとか。見てみたいけれども見るとやっぱりいろいろ考えてしまうんだろうなあ。そんな光景を見ながらタンドリーチキンを囓る高須クリニック高須克也さんはやっぱり大物。そしていっしょにタンドリーチキンを囓る西原さんも同様に大物。そんな境地にいったいどうやったらたどり着けるんだろう。あやかりたい。とはいえ話はまだまだ序盤でカトマンズを舞台に宗教的な動静を探っただけ。本題の山ガール編にはいったいどんな冒険が。そして仰天が。期して待とう次の掲載。野良五体投地と行き倒れの違いがよく分からない。

 このままだときっと夏場は冷房が極力抑制されるなかでサラリーマンにはいつも以上のクールビズスタイルが求められそうな印象。ネクタイは不要とされてしまってその影響でいくつかのネクタイ会社が大打撃を受ける可能性もありそうだけれどそれは不味いと繊維業界を所管する経済産業省が、業界と計ってIT技術なんかを活用して新しいアイテムを開発・提供してく方向で検討を始めたってニュースが妄想のように浮かんできた。それはARすなわち拡張現実を利用したもので、ネクタイ会社はネクタイの替わりにARマーカーがついたバッジやネックレスなかを制作。バッジだったら上までボタンをとめたシャツの首元に飾ると、それをAR対応ソフトが入ったカメラ付きのデバイスで見た時に、画面にしっかりとネクタイが映って見えるという。ネックレスは襟を開いた胸元に下げておけば、これを撮るとシャツを着てネクタイを締めた映像が実物に重なって現れる。

 リアルな目でみればノーネクタイか開襟だけれどAR上ではちゃんとネクタイ姿の紳士たち。これをもって初対面でも一応はドレスコードを果たしているし、ノーネクタイでは入れないレストランでもAR的にネクタイをしていると見なされると、そんな共通認識が生まれればネクタイ会社もARマーカーを変わりに作ってうることで、収益を挙げてこの夏場のノーネクタイ化をしのげるという次第。ってむしろノーネクタイでもオッケーな共通認識を、社会にも飲食店にも醸成させた方が早いんじゃないかって意見もありそうだけれど、それで潤う企業はないから経済産業的には却下という、これが日本的護送船団経済なのであったという。ありえるか。ありえねえな。

 また1本フラグが立って話はちょっぴり進んだという弓弦イヅルさんの「IS」第7巻は学園最強の更識楯無会長の妹さんが出てきては、天才の姉に引け目を感じて落ち込み加減なところを姉に頼まれた朴念仁な一夏の天真爛漫な誘いを意識しすぎた挙げ句にやっぱり他の専用機載りたちと同様な展開へと向かっていくという寸法。一方で篠之乃束はいろいろと悪巧みをして妹の箒をアピールしようとしながらも、強くなっていく一方の一夏の前に計画断念? さらに何かに気づいたみたいで千冬が何か隠しているらしい場所への潜入をおそらく敢行しそう。一方で千冬にそっくりな女性の攻撃はいったん引かれたものの次もありそう。そんなおいしいおかずをばらまきながらもメーンはやっぱり次から次へと出てくる美少女たちとのラブストーリーという、この揺るぎなさがMF文庫Jを一気にライトノベルのトップレーベルへと押し上げ、アニメをブルーレイやDVDが品切れになる人気作品へと至らせたんだろう。すごいなあ。その勢いを「けんぷファー」にも活かして欲しかったような。


【4月5日】 前屈みになる必然性があったかといえば、当人たちにはまるでなかっただろうことは想像に難くないけれど、見ている側にとってその前屈みが正面に生み出す、深くて柔らかそうな谷間にはとてつもない必然性があったはず。その意味において、ハルナのバックで妙な前屈みのダンスを繰り広げるサラスバティとセラフィムのポーズには、大きくて激しくて確乎とした必然性があったと、声を大にして言いたい「これはゾンビですか?」第12話。いきなりのバラバラゾンビ回収話から、切ないユークリウッド・ヘルサイズとの再会へと至った感動の物語から一転して、後日譚となったエピソードではプールで水着でどっかんぼっかんといった期待をするりとかわして、ネットアイドルのトップ争いという修羅場を描いてアイドルに目がない者どもの目をひきつけ、サラスとセラの姿態の眩しさでもって目をつぶす。

 そこに突入して幼いながらも激しい歌声でファンを釘付けにしたハルナ。けれどもやっぱりおいしいところはユーが全部持っていって大団円というこの続きが、果たして描かれることになるのかどうか。思わせぶりな新キャラのすれ違いなんかもあったけれども新キャラが出てきたからといって続きが描かれる保証はないのがアニメーション業界だからなあ。某竹刀とか。まあでもこれだけの出来の良さをこれで終わりにするのは勿体ない話だし、しでにほとんどを語り終えてしまった「I.S」と違って原作も既刊分だけで半分以上も残っている。その上に物語りもさらに一転二転三転の様子。読んでないから知らないけど。でもそんな期待を背負って座が立ち上がらないはずはないと信じて願おう。だったらブルーレイディスクを買え? そう思ってビデオ屋へと向かった手になぜか「プリンセスラヴァー」のブルーレイボックスが握られている可能性を考えるとちょっと、恐くてビデオ屋に行けないのであった。「STAR DRIVER 輝きのタクト」の第3巻もそろそろ発売かあ。金が……。

 なるほど最終エピソードの蟲にかこまれにっこりは除外して、許嫁との丁々発止で大団円を迎えさせたか「レベルE」。もっともあのエピソードをそのままテレビにしたら蟲がわんさかと出てくる描写がまず大勢を引かせ、なおかつそんな蟲たちに懐かれいじられる描写がさらに大勢をひかせかねないんで、これはこれで良い終わり方だったのかも。企画を聞いた時には何で今更って誰もが思っただろうけれど、通して見終わって全体としてどれも高いクオリティになっていて、なおかつ原作の漫画から絵柄や小道具とかがちゃんとバージョンアップされていて、今の目に見てもそれほど違和感がないビジュアルとエピソードに仕上がっていた。RPG的シチュエーションもそれが当時は最先端でも、ぐるりと回って一種の定型となっているから気にならない。そして王子がぎゃふんと言わされるエピソードってのも見ていてとっても良い心地。これもまたシリーズ構成と脚本の妙ってことで。

 訳あってトラボルタP(ってPがつくのかどうかも定かじゃないけど)さんの作詞作曲した「ココロ」とか聞いて、歌詞の内容とかを研究したりしてなるほどロボットという存在のココロの問題について切り込んだ歌だったのかと理解。それを元にした演劇が、「ココロ」ってタイトルで4月29日から北千住で繰り広げられるそうで、内容なんかを見ると歌の世界をさらに広げて、ココロをもったロボットと、ココロによくにた知能を持ったロボットとの対峙なんかが描かれて、人間に心というものの存在について深く強く問いかけるらしい。ディック原作の「ブレードランナー」におけるレプリカントについての問答とか、バリントン・J・ベイリーの「ロボットの魂」なんかで語られる展開なんかを想像させる内容は、SFとしての思弁を観る者にもたらしてくれそう。演出の人もSFに興味があるみたいだし、小説にもしたいと言っていたのでS、F出版の人たちは観るなり書かせるなりしたら良いとミサカはミサカは思ってみたり。

 初音ミクといい鏡音リン・レンといい巡音ルカといい、ボーカロイドというのは不思議な存在で、そのアイディア自体はそれこそ「メガゾーン23」の時代から、というより人造人間が創案された遙か昔からあるからとりたてて珍しいものではないんだけれども、あらためて現実にそれに近い存在が生まれてきた時、向き合う側としていったいそれは心の込められた歌なのか、あるいは心がこめられていると見なされる人間が唄う歌と、それからボーカロイドによって奏でられる歌との間に、いったいどれだけの違いがあるのか、聞く側としていろいろ思考を求められる。否、気にせずそれが除ければ良いものだと認めれば良いだけのことなのかもしれないけれど、現実問題やっぱりどこかたどたどしさが残った歌声を前に、そういうものだからこそ意味があるのだと認め、称揚する態度をとるべきなのか、至っていないけれどもいずれ至れるものだと理解し、後押しするべきなのか、そういう思考そのものが、ボーカロイドというものの特殊性に依拠したもので、はなっから気にしないのが未来的だと考えるべきなのか、いろいろと思考を要求される。

 作っている側にもそんなあたり、いろいろなフェーズがあるみたいで、ロボットらいしから良いと認める人もいれば、自分が歌えないものを唄ってもらっているのだからそれで十分にアーティスティックと認める人もいたりしそう。様々な思惑を抱え様々な関心を誘いながらも、現実として存在してそれなりに脚光を浴びているボーカロイドをフィーチャーし、そんな心なきプログラムが唄う心の在処を問う歌をモチーフにして作られた舞台を、心を持った役者が演じるという幾重もの倒錯から、どんな空気がわき上がるのか。時代の節目にあたるという意味からも、自分のそうした存在への心構えを確かにする意味からも、舞台の「ココロ」は是非に観たいし、SF者ならやっぱり観ておくべきかもしれないとミサカ1万4975号は積極的に舞台の観覧を推奨してみます。

 一方でニコニコ本社は原宿の2階に喫茶店をオープンしてニコニコのスタアな人たちがお茶を入れてくれるサービスなんかを、今月9日から実施とか。まるで知らないんでこれがあの有名なって気分にはならなかったけれど、知ってる人がいけばそれだけ楽しい気分になれるのかも。現場には生中継をできる施設もあって、そこから自分の番組を全国に発信できるとか。ロフトプラスワンとかだと準備もあるし規模も大きくなって気軽に使えないけれど、ここならみんなを前にいろいろ方ってそれが世の中にも広められるって寸法。身軽さ故の広がりって奴はメディアに取って魅力的。だけれどそこに至れないダイナソーメディアの辿る道は……と考えると暗くなってきた。ちなみに中継をやっている人には喫茶店の客からいろいろ差し入れをできる仕組みもあって、お洒落なメニューにそれらが記されてた。いわば気持ちのお捻り。だったら現金の方が? それも野暮。讃えられ認められ喝采されいっぱいアクセスされてこそのニコニコな人。それがネット上だけでなく現場でも味わえるスペースにみんなゴーだ。でも原宿のような場所でそんなベタなビジネスが成立するのかなあ。その意味でもちょっと注目。


【4月4日】 こけら落としの「センチメンタルシティロマンス」を見たのはいったいいつの話だったっけ。その時はまだとなりにあった渋谷シネセゾンも閉まってしまって今は前に閉鎖された劇場が、そのままライブスペースとなった「マウントレーニアホール」だけがあのフロアで営業を続けてる、ってことになるのかどうなのか、確かめた訳ではないけれどもオープン当初はいったいどんな面子がライブをやるんだろうかと、日々見守っていた感があったものが、今では割にビッグネームがコンスタントにライブを開いているところを観ると、それなりに繁盛しているか、あるいは存在感を認められているって言えそう。

 これからの予定だけ見ても今月は末に安倍恭弘さんや佐田玲子with白鳥座がライブをやったり、来月も早々にTMネットワークの宇都宮隆さんや元オフ・コースの鈴木康博さんといったビッグネームのライブが控えている。懐かしのZABADAKがライブをやったり、吉田健、仲井戸麗市・村上秀一というとてつもないメンバーのライブがあったりともう綺羅星の如く。南佳孝さんは何故か無料で回ってきたチケットで名古屋の芸術創造センターで行われたライブをのぞいてから四半世紀くらいか。変わらない声を聞かせてくれそうでちょっと除いてみたい気分。

 そんなビッグメンバーに挟まった5月1日にライブがある「ぷち☆ぱに」ってのはいったい何なんだ、という興味が今はもわもわ。まるでアニメのジャケットみたいな告知が載ってて調べるとまさしくアニメ絡みの音楽イベント。出演も黒崎真音さんにazusaあんに工藤真由&池田彩さん吉岡亜衣加さんmomoさん愛美さん、って言われて分かるほど通ではないけど、漂う空気が前後の宇都宮さん佐田さんとはまるで違ったものになることだけは想像に難くない。あの大人びた雰囲気の箱がいったどんな空気に包まれるのか。のぞいてみたいけれども体力がないので行きません。それを言うなら4月17日に予定されている「ぱすぽ☆」ってのが気になるというか。制服めいたもので揃えた女性ばかりのビジュアルに、いったいこれは何だと調べると旅をテーマにしたガールズロックユニットというものだった。これから来るのかなあ。果てしない興味がわいたけれども調べたらマチネモソワレもともに売り切れ。人気があったんだあ。次があったら頑張ってのぞこう。だから体力が。

 NHK杯で羽生善治名人が3連覇を達成した番組を見合わせてその凄腕っぷりに感嘆した流れで、当該の対局が掲載されている「週刊将棋」をたぶんとてつもなく久々に買って読んだら「ヤンケの香介」が載っていなかった、っていったいいつの話だよ。1990年代とかに割とよく読んでいたころに載ってた漫画でたぶん大正か明治といった辺りを舞台に若い将棋指しが成長していくドラマが描かれていた。今でこそいろいろある将棋漫画だけれど将棋専門誌に連載されているだけあって専門的な上に、それこそ「哲也」みたいな勝負の機微もいっぱいあって楽しめた。毎日コミュニケーションズから分厚い単行本も出てたんだけれど今頃は多分絶版。もう1度機会があったら読みたいなあ。最後どうなったかはっきりと覚えてないんだ実は。

 でもっていろいろ読んでいたら日本将棋連盟が公益社団法人となったのと会わせてタイトルとか持っているトップの女流棋士が正会員になっているってニュースが載っていた。これは実はとてつもなく大きな出来事。なぜって女流棋士っていうカテゴリーはあってもそれはいわゆるプロ棋士のシステムからはまったく外れた資格であって、日本将棋連盟が認めるところの棋士には勘定されていなかった。プロ棋士とはすなわち奨励会の三段リーグを勝ち抜いて四段に昇段した人だけを指すのであって、それ以外はたとえ女流で名人であっても三段リーグ以下にいる奨励会の会員とたぶん同じに、プロというカテゴリーには入らない扱いを受けていた。相撲でいうところの十両以上と幕下以下に似た扱い。あるいは奨励会の会員の方がプロにつながる階段にいるという意味で、扱いは上だったかもしれない。

 だから一連の騒動の時、どうあってもプロとは板子一枚下は地獄といった扱いに、とてもたまらんと一部の女流騎士たちが自分たちの団体を立ち上げて、そこで独自の活動をしていくって宣言をしたんだっけ。切り崩しもあったのか日本将棋連盟に属していた方がいろいろとイベントの紹介もあったのか、残った女流棋士もいたりして謎めく分裂事態が続いていたけれども、その後にいわゆるプロ棋士の壁ってものが、瀬川さんというアマチュアでとてつもない戦績を治めて、奨励会の三段リーグを経ずして年齢の壁も越えて晴れてプロ棋士に認定された事態もあって、崩れかかっていたことも確か。おそらくはそんな流れも汲んで、女流棋士もプロ棋士とは一線を画しながらもそういったカテゴリーとして日本将棋連盟が認めようって流れが、あるいは生まれて今回の正会員認定となったのかもしれない。事情は知らないけれどもともあれ1つの壁が崩れたことは確か。それが単なる囲い込みの慰撫ではなく、ちゃんとその実力も認めての正会員化だと思いたい。とはいえやっぱり1人2人、奨励会の三段リーグに名を連ね、果ては勝ち抜いてプロ棋士となる女流がそろそろ出て欲しいなあ。

 土曜日深夜のはずが地震によって1回飛んだ関係で、空いてる時間にあてはめたっぽく日曜夜に放送された「とある魔術の禁書目録2」の最終回を見て考えたこと。結標淡希はいつもあんな格好をして寒くないんだろうか。さらしというよりほとんど包帯をぐるぐると胸に巻き付けた格好を好んでしているみたいだけれど、あれだったら普通に下着なり水着をつけた方が早いような気がしないでもない。とはいえさらしだったらそのまま見せられるけれど下着や水着は出しているとやっぱりエロいから仕方がないのか。そこでブラトップ、って言えなくもないけれど、あれってあんまり色気がないんだよなあ。あと酔っぱらってはいずり回っていた御坂美鈴さんの91センチというのは果たしてどれくらいなんだろうか。大きいんだろうなあ。娘の美琴もあれだけ大きくなるってことか。いや無理だあれでは。ビリビリビリビリ。

 最終回なんだよなあ「ケロロ軍曹」。長い間やっていたけれども昼間の時間帯が夜におしやられてそして終了へ。その普遍性からいつか「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「ポケットモンスター」の域に達するご長寿定番アニメーションになるだろうしなって欲しいとも願っていた番組だったけれど、どこかで息切れがしてしまったのかそれとも息を切らせてしまったのか、映画が去年の初頭のものでとりあえず終わってしまい、そして1年が経って番組も終了となってしまった。漫画は続いているし「ケロケロエース」だって続いているけれども、アニメのというひとつの看板を欠いてはたして雑誌だけでどこまで引っ張っていけるのか。「コロコロコミック」みたく次から次へと何かを生み出せる媒体だったらいいんだけれど、タイトルロールが漫画だけってのもやっぱり寂しいもの。ここはしばらくの小休止と見て、遠からずの再結集を願いたい。けど。でも。願いたい。願うんだ。願おう。願え。


【4月3日】 天の声というかこれは天の慟哭か、4月とはとても思えない寒空の影響もあって、隅田川沿いの桜はとうてい満開とはいえない状態に、見て浮かれ騒ぐなんてとてもじゃないけど無理という冷え切った空気の中を、歩きながらそれでも少しずつは咲いている桜を見上げて、同じ桜を眺めた去年とは確実に変わってしまっている気分を、それとなく感じているかというと、案外に気分は醒めていて、未だどこか遠い世界で起こったことのひとつとしてしか、まだまだ事態を身に引きつけては、認識できていないでいる。

 計画停電が行われているからといって、昼間は外に出てその影響をとりあえず直接は被っていないし、牛乳や煙草が品切れになったといっても、普段から飲まないし吸わないものが、店頭で途切れても日常に影響はそれほどない。あの1日だけ、見に感じた揺れとそして交通の混乱くらい。これが西へと行けばもっと、日常は変わらないままで続いているのだろう。もちろん、心情としての同情はもちろん皆無ではないし、聞けば泣きたくなるような話が、毎日ようのう伝わってくる。けれども、それはやっぱりどこまでいっても、自分とは薄皮どころか何枚もの壁で遮られた、メディアの向こう側でのできごとで、そこにどれだけ感情を移入しようとしたところで、よって立つ場所のない、どこか偽物のような、浮ついたものが漂ってしまう。

 無情なのか。虚無的なのか。性向としてそういったものもあるかもしれないけれど、人はやっぱり、自分に自分のこととしてふりかかってみないことには、本当に理解できないし、心底からの共感も抱けないものなのかもしれない。そんな本質にたどり着いていない、外側にある口が何かを言えば言うほど、どんどんと本質からずれていってしまうものなのかもしれない。やれることはだから、先走った感情からの同意ではなく、観念としてその事態を理解しようとする冷静さであり、そこから導き出される必要性への沈着な対応だろう。だからたぶん今もそしてこれからも、騒がず踊らず踊らせもしないで粛々と、日常の中で動いていくことになるんだろう。

 っていうか煙草がコンビニの店頭からまるっと消え去っているのには驚いた。JTが煙草を作れないってことらしいけれども、マイルドセブンとかそのあたりの特定銘柄からどんどんと品切れになている一方で、ラッキーストライクみたいなものはちゃんと残っていたりするから事態は銘柄のすべてが一時期店頭から消え去った、牛乳とかミネラルウォーターとは違ってる。そんなに煙草を吸う人ってマイルドセブンならマイルドセブンでそれも1ミリグラムとかどうとかいった、タールの量にまでこだわって吸い続けるんだろうか。いやまあ自分も吸ってた時期はあったけれども、その間もとりたてて銘柄にはこだわらず、マイルドセブンも試せばピースにホープも試し、最後の方はだいたいラッキーストライスを吸っていた。

 美味いか、って言われるほどに味にこだわりはない。むしろ香りの方でピースなんかは漂う煙の香りが好ましかったし、逆にキャスターとかは苦手だった。コスモスってのもあったなあ、あれは味気なかったっけ。ゴロワーズとかジタンとか、確実に味に違いのあるものも吸ってはみたけどそれもそれで結構楽しかった。煙草が嗜好品というなら酒といっしょでそうした違いをあれこれ試せば良い物が、なぜか特定銘柄だけをずっと吸い続けることになるのが分からない。分からないからこそきっそ飽きたって感覚ですぱっと煙草を止めてしまえて、そして今も年に1本とか2本とか吸ってみて、それで吸い続けることなく止めてしまえるんだろう。煙草はだから味でも香りでもなく習慣。その域にまで行ってしまえばもうなかなか戻れない、ってことで。どうやったらその域にたどり着けるのかは知らないけれど。それもだから習慣なのかなあ。ほかにすることがない状況でくわえつけてすい吐き出すという。うーん。難しい。

 そして戻って隅田川には桜は、桜は、桜は、桜は……。咲いてないこともなかったけれどもほとんど咲いていない状況な上に曇天で気温も低く、たとえ自粛令が出てなくっても花見なんて出来そうもない状況。ここで敢えて花見をするっていうのはつまり花が綺麗だから眺めて愛でるといった本来の意味から逸脱した、一種の修行があるいは運動の類に違いないとすら言えそうで、それで引き合いに出される桜がななかちょっぴり可愛そう。でも言いたい人たちには言いたいこともあるんだろうからその意気って奴を計るってこともあるいは必用なのかもしれないなあ。だってこの寒さだよ。それでも戸外に集まろうってんだよ。すごいなあ。隅田川にもそれでもビニールシートで場所をとって待っている人たちもいたから、今日という日を決行と決めていた人も多かったんだろう。臨機応変ができない日本人らしさと見るか、規則正しく生きる日本人としての美徳とみるか。どっちにしたって花見とは無縁なんで今年も眺めてはい終わり。来週も残っていたならそっちを見よう。

 池袋へと周りハイパーヨーヨーの偉い人たちの実技に見入る若い女性とか見てヨーヨーをもっと巧くなろうと買ったものの部屋が狭くて遊べないと落ち込み秋葉原に回って長蛇の列に募金するのも大変だというか募金だけなら別でもさっさとできるじゃないかと思いつつそうした並ぶことによって募金する気持ちが芽ばえるならそれもありかもと迷ったりしつつ返ってねて起きて「STAR DRIVER 輝きのタクト」を見て眠ろうかと思った。結局やっぱり狭い島での色濃い話に終始させたか。あるいはその島そのものに秘密が隠されてしたのだとしてもそれが世界を滅ぼすかも知れないと分かった時点で国家なり、国家の連合体が大きく動いて何かをするってのが普通の考え方。たとえ島に生まれた者たちだけしか扱えなかったとしても、そこに干渉をして大きくことが動かないようにするのが大人のやり方なんだけれども、見たところは島の人たちの思惑とあとヘッドの思惑に引っ張られ引きずられ最後に大穴まで明けてしまった。世界的なリスクマネジメントとしては大失敗。そもそもリスクマネジメントしてたかすら怪しい。

 だからそうした世界という社会的な基盤とはまるで外れて、一応は世界が関心を持っているとはいっても結局は南の島という限定された世界を舞台に、人類の命運というものを天秤の向こう側においてこちら側で少年たちが、その存在をかけて争うという話にしてしまわないことには成り立ちようがなかったのかもと思えなくもない。だったらいっそすがすがしく、様式としての学園の中で起こる様式としての逃走とそして脱出の物語を美麗な絵とそして幻想的な物語の中に描いてみせた「少女革命ウテナ」のようにしてしまえば良かったんだけれど、あれはああした様式だから成り立った絢爛の世界。ごくごく日常が舞台になっているように見える「輝きのタクト」ではあそこまで様式に走る訳にもいかず、したがって世間って奴との関わりが気になってしまったのかもしれない。現実味って奴を抜かせば形はとても似通っていた訳で、そこで突っ走れるか折り合いを付けるかの差が出て方やカルトとなり、こなた肩すかし感を人によっては覚える話になってしまったのかもしれない。

 それでも個々のエピソードにおけるキャラクターの立ち居振る舞いやとりわけ女性キャラクターを中心にしたビジュアル、戦闘の様式のスタイリッシュさと見るべきところは多々あって、それを愛でるって意味からのパッケージ購入には極めて前向き。世界の構造といった部分で果たして奥深いところがあるのかどうか、って考えると分からないし、むしろそうした点では「フラクタル」の方がいろいろと考え抜かれていて、けれども時間が足らずに上澄みだけを見せてしまって納得を得られなかったって気もしないでもないけれど、「STAR DRIVER 輝きのタクト」の世界もあれで決行いろいろと考えられていて、見えないところで社会とのリアルな関係性も存在していたのかもしれないんで、これからいろいろと出てくるだろう説明なんかにも耳を傾けながら、パッケージを追っていこう。後半のエンディングのノンテロップを目にやきつけるまでは少なくとも。


【4月2日】 ファイルをぎゅっと胸にかき抱いた山田真耶先生の、そのファイルの下にぎゅっと圧迫されて高さこそ半分になりながらも上や横にはみ出たその形状が、なるほどその柔らかさなり弾力性といったものを強く感じさせて終わったアニメーション版「IS」。第1話の冒頭で繰り広げられた謎のISとの戦いを改めて描いてぐるりと1周回した構成は、その戦闘描写の極めてスピーディーでなおかつ正確で迫力たっぷりな描かれ方でぐいっと興味を引っ張りつつ、美少女たちが1人現れ2人増え3人4人5人と並んでいく展開で、あらゆる人の目を釘付けにしてそのままクライマックスまで引っ張っていった。なかなかに巧み。シリーズ構成のこれが妙ってものなのか。

 本編はほとんど使い切ってしまって続編がすぐに登場する可能性はなさそうだけれど、謎は残っているし原作は続いているんで、溜まったらそこでまたといった可能性も考えられそう。その時にはきっと篠ノ之束は単なる天才でも箒の姉でもなしに何かを企む人として登場してくるんだろうなあ。でもやっぱり性格は破天荒のまま。胸もしっかりたっぷりなまま。胸といったら日英中仏独と並んだ5人のIS専用機持ちたちではやっぱり仏のシャルロットが1番だったりするのかなあ、見た目的にはそうだけれどもそんな彼女を最初は彼として、送り込もうとしたなんてちょっと父親、無理が過ぎるぞ。案外にそうした圧迫が反発を招いて量感を増した、とか。筋肉だって縛って鍛えるっていうし、案外と効果があるのかな、ないよなあ。山田先生みたいにやっぱり奔放に振り回しているのが1番の良薬かも。

 雛乾月にそんな不幸な過去があったとは。って第1巻でもその辺はかかれてあったかもしれないけれど、覚えてないから第2巻の「死んだ女は歩かない2」(幻狼ファンタジアノベルズ)でもって再確認、施設に弟といて間宮って男に1人だけ引き取られては虐待と暴力の渦に飲まれて悲惨な境遇にいたところを、施設で知り合った種車子までもが引きずり込まれそうになった折、間宮を指してとともども逃げだしどうにかこうにか場所を見つけたものの、どこに逃げても追いかけてくる間宮に蹂躙されそうになってまた逃走。やがてチェンジリングの力を得て間宮を退けるようになるものの、それでもあきらめの悪い奴からまた逃げ逃げて今はワームの暴走によってゾンビ化したりするかもしれない男たちを隔離した施設で治安部隊の隊長をしていたという、聞くも涙の物語、っても最近はちょっぴりもてあまし気味だったりして、間宮を。

 いやいやそこは間宮だけあって、全身を武器に変え強化しては乾月たちがいる施設に迫ってきて、そこの所長を狙ったデスゲームの最中に紛れ込んでは乾月の腹にぽっかりあいた地獄への入り口に飛び込んで、そしてまだ出てきてさらに怪物化して暴れ回る。しつこい男って嫌いよ、って言ったところで聞く耳持たない間宮を相手にしたバトルと、そして世界を裏から牛耳る女のプレッシャーをかきわけなながらいったいどうやって進んでいくのか。そんな辺りが大きな柱となりながらも、メーンは乾月をはじめパワフルな力を発揮する輝十字や、銃の名手でありまた怪我を他人に移せる力を持った無苦との3人組が、迫る様々な能力者たちを相手にどんなバトルを繰り広げるか、っていった異能バトルの楽しみも味わえそう。

 しかし本当にさまざまあるよなあチェンジリングの能力は。ゾンビを操る力もあれば他人に憑依する力もあり、怪力だけのものもあれば指で示した相手をドロドロの泥水にかえてしまう力もある。それを思えば所長をねらったデスゲームで最初に飛び込んできた、空を飛ぶだけの力ってのはごくごく普通。宅配便とかやれば便利な力だけれど暗殺者にはむかないなあ。ほかにいったいどんな力があるんだろう。それはどういう原理で発動するんだろう。本人の希望とか願望とかはあんまり関係なさそうだけれど、それともやっぱり何かあるのかな、自分お醜悪さを外に見せたくないから憑依するとか、主婦としてお料理するのに便利だから肉を溶かせるとか、いや溶かしたら料理なんかできないから違うか。しかしやっぱりひとり乾月だけが不明な能力。あの腹の中はどうなっているのか。そこに落ちて返ってきた間宮はいったいどうなってしまっているのか。そんな辺りもこれからの興味。だから続刊をよろしく牧野修さん。

 花見のシーズンが来ているらしくって、世間では花見をしたいけれどもしちゃだめっぽい空気が漂う中で、どうしたらいいんだろうって悩んでいたりする模様。僕に限っていうならもうそれこそ22年は花見らしい花見なんてものをしてなかったりするから、やれないからといっても別に影響はないし、やるなといった声を大にして言ってる人が出ている選挙の選挙民でもないから、それにアンチテーゼを唱えるってのもちょっと違いそう。あと、その言説がいろいろと表現に影響を与えかねない状況に対峙したい気持ちはあっても、それと花見はまた別の話だし、花見をやったところでそうした表現規制の問題に影響があるわけでもないんで、敢えて挑むようなことはしたくない。あと、根源の部分で大勢の死を悼みたいって気持ちがある時に、それを理由にいかがなものかといった見解を示すのにも多少の理がある。その理にまでも逆らって気持ちが収まるかというと、やっぱりちょっぴり居心地が……。ってことでプレッシャーめいたものには個人として反発をしつつ、心情として見せた悼む気持ちにも共感しつつ、明日あたりに隅田川の堤防を歩いて花を眺めてこの生を喜び、あの死を悲しもう。混んでるかなあ。


【4月1日】 恩賜上野動物園にやって来ていたパンダがいよいよ公開だという報。見に行きたいけど平日では如何ともし難くいったいどうなっているんだろうと状況なんかを想像する。やっぱり超人気のパンダにどうして自分たちは同じ白黒なのにこうまで人気がないんだろうと、シマウマとマレーばくが拗ねている可能性なんかがまず高そう。あと今回の地震で中国から来たばかりのパンダもそうとうに衝撃を受けたんじゃないかと、地震慣れした向かいの象なんかが声をかけていたわってそうだけれどもそこは中国は四川に発しましては竹林で産湯を漬かったちゃきちゃきの中国っ子。地震なんて超デカいのを経験しているんで東京都内の揺れくらいどうともないと堂々としたものだったという可能性もあったりしそう。

 2頭のはずが3頭いてよくよくみると顔が上戸彩さんの損保ジャパンダでファンはむしろそっちの方に群がってしまい生粋のパンダがどうせ自分たちなんてと拗ねていたというこはあるのかないのか。上野のパンダばかりが注目を集めて自分たちだって昔から顔も体も見せているのにまるで脚光を浴びないと、和歌山にいるパンダたちが船を仕立てて紀州灘から遠州灘を経て東京港までやって来て竹芝に上陸し、浜松町から新橋銀座と来たところでブランドショップにつかまり大量買いしていたら日が暮れたんで船に引き返したということもありそうなのか。今は白と黒だけれどもあと2年くらい経つと大人の毛に生え替わって真っ黒になるからその前に、白と黒のぬいぐるみを売り切らないといけないと原宿にあるキディランドがパンダのぬいぐるみをここぞとばかりに並べているとか。

 全部嘘だけれどもそれでもシマウマとマレーばくが拗ねているってのだけはあるいは本当かもしれない。上野にマレーばくていたっけか。シマウマくらいはいるよなあ。とうか原宿の表通りから今は移転しているキディランドの仮店舗の奧には本当にパンダのぬいぐるみが山積みしてあったのを遠目に見て確認。上に高かった前の店舗に比べると倉庫っぽい店は明るくて天井が高くていかにも原宿のお店って感じで、このままここで営業してたって良いんじゃねって思わないでもないけれど、やっぱり広さ的には前の方があったからアイテムをいっぱい並べたいって考えると戻るしかないんだろうなあ。いつ出来るんだろう。そんな店へと前を歩いてた小学生だか中学生っぽい女子達が小走りで駆け込んでいく姿にファッションだ何だといってもやぱっぱり年相応に玩具やグッズがお気に入りなのだなあと平穏を感じてみたり。

 4月1日だからって嘘じゃない。嘘だといってよ、ジョーと叫んだ人が全世界にいたかどうかまでは知らないけれども「荒川アンダー ザ ブリッジ」は確実に絶対に実写でもってドラマ化されて映画化あれる。気になるのはその特徴的過ぎるキャラクターたちをいったい誰が演じるかってことで、アニメだったらあの絵面に会わせて声をあちらこちらから引っ張って来られるから良いんだけれども、実写だとなかなかそうはいかない。だいたいが河童に星に巨大シスターに鳥頭ビリーだぜ。どうやって実写にするんだ。着ぐるみか。って思ったらあの世界で彼らは誰もが着ぐるみだった。その有り得ないチープさが河川敷って場所とマッチして醸し出される違和感って奴が、むしろ実写だと引き立つんじゃないかって思えなくもない。完璧な河童にリクがそれ着ぐるみじゃんって突っ込んだって面白くないもんなあ。ってことは実写化そのものはアリか。

 なら問題はキャストってことでどんな時もの木村拓哉さんをリクではちょっと待てよな二枚目になってしまって突っ込みはうまくいかなさそう。あとあのニノさんの幻想性、シスターの巨大感じは日本の俳優女優では出せなさそうなんでここは盛大にハリウッドからキャストを呼んでつくれば二重の異化感が得られルンじゃないかと提案。はリクはトム・クルーズで。ニノはナタリー・ポートマンで。村長はジョニー・デップで星はジュード・ロウで。シスターはドルフ・ラングレンでマリアはアミラ・ジョヴォビッチで。シロはジョージ・クルーニーでステラはクロエ・グレース・モーレッツでP子はエマ・ワトソンえラストサムライは真田広之で。ビリーはアル・パチーノ、ジャクリーンはリンジー・ローハンン。これで完璧。全世界で1億ドル興行間違いなし。アマゾネスは188センチのシャラポワ選手でいかがっすか。

 えっとつまり結局はフラクタルシステムは再起動されたってことで、それなら最初っからフリュネにもネッサにもお引き取りを願って僧院にさっさと再起動をしてもらえば誰も死ななかったってことにならないかって思えなくもないけれど、それだとクレインは誰とも出会わず今もずっとひきこもり気味に古い道具を集めて悦に入ってる暗い少年のままで、そのほかの人たちも強いものに挑んでおいつめたってカタルシスもなく怠惰なままで次の1000年を生きてそしてそのまま滅んでいったかもしれないと思うと、ちょっとした刺激をここで加えることによって人々に目的意識を植え付け、次の1000年を再び生きていく活力が芽ばえさせるって意味で、このちょっとした混乱にも意味があったのかもしれない。そこまで考えてフリュネとネッサの逃走をプログラミングしていたとしたらあれでフラクタルシステム、なかなかにしたたかだなあ、って処まで考えて作ってあるのかアニメ「フラクタル」。それとも単純に反乱が失敗したけど1000年後には目的完遂という悠長な話だったのか。まとめて見返し情報を重ねていくしか解釈はできなさそうだなあ。面倒だけどつきあうか。どうしようか。


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